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    <title>落合学（落合道人）</title>
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    <description>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</description>
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    <itunes:summary>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。 主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。 コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</itunes:summary>
    <itunes:keywords>下落合,目白,上落合,長崎町,佐伯祐三,中村彝,画家,文学,作家,小説家,芸術,椎名町,目白文化村,落合文化村,近衛町,新宿,目白通り,芸術村,中井,西落合,高田馬場,神田川,妙正寺川,大江戸,文化,地域,歴史,落合文士村,アトリエ,アビラ村,山手,下町,江戸前,彫刻,武蔵野,目白崖線,谷戸,近代建築,文化住宅,西洋館,和洋折衷自由宅,アビラ村,古墳,日本橋,東日本橋,芝居</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>落合道人</itunes:author>
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      <title>十三間通りで消えてしまった門前商店街。(下)</title>
      <pubDate>Fri, 12 Jun 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　前回の記事につづき、今回も野本アルバムより1960年代の下落合風景をご紹介したい。前回は、薬王院の門前に展開していた、空襲から北側がかろうじて焼け残った昭和初期からの商店街写真が中心だったが、今回は商店街を離れ懐かしい下落合の街角をご紹介したい。　まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、雑司ヶ谷道(新井薬師道)＝鎌倉支道を歩いて氷川明神社へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の写真⑧から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A7E6B0B7E5B79DE7A4BEE58F82E8A9A319611115.jpg" alt="&#x2467;&#x6C37;&#x5DDD;&#x793E;&#x53C2;&#x8A63;19611115.jpg" width="600" height="407" border="0" />　前回の記事につづき、今回も<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520727292.html" target="_blank">野本アルバム</a>より1960年代の下落合風景をご紹介したい。前回は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-20.html" target="_blank">薬王院</a>の門前に展開していた、空襲から北側がかろうじて焼け残った昭和初期からの商店街写真が中心だったが、今回は商店街を離れ懐かしい下落合の街角をご紹介したい。　まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank">雑司ヶ谷道(新井薬師道)</a>＝鎌倉支道を歩いて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-15.html" target="_blank">氷川明神社</a>へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の写真⑧から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ、1970年代の半ばには、いまだ正面に見えている板塀の家(島田邸)は建っていたが、ほどなく解体され駐車場になった。薬王院の山門横で、写真の左奥には何度かセメントで塗りなおされている同寺の石塀が見えている。現在は、正面の家の右手(東側)に建っていた住宅(佐藤邸)も解体され、駐車場の面積が拡がっている。ちなみに島田邸の板塀には、またもや「下落合医院」の看板が見えている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E58F82E98193E5898D1963.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x53C2;&#x9053;&#x524D;1963.jpg" width="520" height="441" border="0" />　写真の右下には、土ぼこりをかぶった大谷石の築垣が見えているが、この基礎部分の大谷石は現在もそのまま残っており、上には別の石材で敷地と道路の境界垣が築かれている。少し前までは、みごとな大輪の菊栽培が印象的だった小井邸で、その手前右手には菓子も販売していたヤマザキパン「ちえこ」だった。わたしの学生時代から、小井邸の向かいには理髪店とキッチン「タカハシ」が開店していて、その南の角地には高田タバコ店が営業していたが、現在はすべて閉店してしまった。薬王院の参道と山門は、写真左手の枠外に見えているはずだ。この道を右折して東へまっすぐ進めば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-03.html" target="_blank">七曲坂</a>の坂下をへて氷川明神社の境内北側へと抜けられる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A8E6B0B7E5B79DE7A4BEE4B883E4BA94E4B88919611115.jpg" alt="&#x2468;&#x6C37;&#x5DDD;&#x793E;&#x4E03;&#x4E94;&#x4E09;19611115.jpg" width="520" height="760" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A9E6B0B7E5B79DE7A4BEE4B883E4BA94E4B88919631115.jpg" alt="&#x2469;&#x6C37;&#x5DDD;&#x793E;&#x4E03;&#x4E94;&#x4E09;19631115.jpg" width="520" height="354" border="0" />　冒頭写真の11月15日の日付からおわかりだと思うが、オシャレなおそろいのベレー帽をかぶって氷川明神社へ参詣するのは、七五三を祝うためだった。写真⑨では、拝殿横で撮影された千歳飴の袋をもつ母子3人がとらえられている。現在は、写真左手の位置にカンザクラ(寒桜)が大きく育ち、落葉している時期でなければこの位置から拝殿を見とおすことはむずかしい。また、十三間通り(新目白通り)が貫通する前なので、撮影者の背後は現在のようにすぐ南側の階段(きざはし)と鳥居ではなく、南側の濃い樹林が境内をとり囲んでいたはずだ。　翌々1963年(昭和38)11月15日に、氷川社で撮影された七五三の写真⑩も残されている。現在は、おそらく位置を変え柵が設置されて保存されている狛犬だが、当時は台座(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank">富士山の溶岩石</a>だろうか)が、かなり高さのあったことがわかる。奥の着物女性の前では、「一袋五十円」で千歳飴が売られている(いや授与されている)。また、現在は拝殿・本殿の横(北側)に舞殿(神楽殿)が建設されて、写真のように見通しがきかない。写真には、七曲坂の下に建っていた家々がとらえられており、そこに右から左へ「神輿蔵」と書かれた文字が見えていて、わたしにとってはめずらしい風景だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E5B79DE7A4BE1963.jpg" alt="&#x6C37;&#x5DDD;&#x793E;1963.jpg" width="520" height="408" border="0" />　ここで、氷川明神とその周辺をめぐる戦前の風景を、杉森一雄『落合昔語り』(2006年)より引きつづき引用してみよう。文中には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-06.html" target="_blank">竹田助雄</a>が書いた『落合小景』からの引用も含まれている。　　▼　落合の郷土史家竹田助雄氏の『落合小景』という文の中に、次のような一節がある。//【高田馬場駅を降りて……父と私は人通りの少ない曲りくねった砂利道を、連れ立って歩いた。／途中に薄気味わるい変電所があり、その前の橋を渡ると川がU字形に彎曲しているところがあった。U字型の此方(こっち)は路肩が崩れ落ち、道路の下をえぐるように渦を巻いて激しく流れていた。(中略)　そこから杉木立の生い茂るお宮の前を通り、すこし行くと道は狭くなり、人通りは全く絶えて、絶えたところの森の中に茅葺家が数軒見えた。またすこし行くと鄙びた通りには、八百屋、魚屋、肉屋が一軒ずつあった。】//　これは昭和六年の話である。竹田氏も解説しておられるが、この道筋は、高田馬場駅前交番の脇を入り、田島橋を渡って神田川に沿った道路(今より川がはるかに曲がりくねり、道も曲がりくねっていた)を進み、西武線の踏切を渡って氷川神社の脇から薬王院へ、さらにその門前から南に直角に曲がり、また西に向かって下落合駅に出たものだ。八百屋、魚屋、肉屋の通りは、放射七号線(新目白通り)の開通で店も通りもすべてなくなった。　　▲　昭和初期、早稲田通りに面した栄通りの入口には交番があり、「薄気味わるい変電所」はもちろん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-24.html" target="_blank">目白変電所</a>のことだ。興味深いのは、道路が崩れそうな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank">旧・神田上水</a>の渦巻きだろう。江戸期に釈敬順が『十方庵遊歴雑記』に記した、旧・神田上水の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-09.html" target="_blank">田島橋</a>付近で見られた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-23.html" target="_blank">「犀が淵」</a>と同様の急流による渦巻きが、昭和初期にもその近辺で発生していたようだ。ちなみに1931年(昭和6)当時は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-23.html" target="_blank">下落合駅</a>が前年7月に氷川社前から西(現在地)へ移転したばかりのころだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AAE4B88BE890BDE59088E9A7851962E698A5.jpg" alt="&#x246A;&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x99C5;1962&#x6625;.jpg" width="520" height="514" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E9A7851963.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x99C5;1963.jpg" width="520" height="431" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ABE4B8ADE4BA95E9A7851962E698A5.jpg" alt="&#x246B;&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;1962&#x6625;.jpg" width="520" height="514" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851963.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;1963.jpg" width="520" height="388" border="0" />　1962年(昭和37)の春に撮影された、その下落合駅の写真⑪も残されている。家族の背後に写る切符切りの駅員がいる改札の向こうには、当時の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-12.html" target="_blank">西武新宿線</a>の電車が停車しているのが見える。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-09.html" target="_blank">古い写真類</a>ではお馴染みの、柵沿いに設置された公衆電話ボックスも見えている。この駅舎は、わたしが落合地域を散策しはじめた1970年代半ばも変わらない風情だった。　写真⑫は、同時期に隣りの中井駅のホームで撮影されたものだ。ホームの南東側から、北西を向いてシャッターが切られており、ホームベンチの形状や、線路の北側に近接するアパートらしい家々の様子が懐かしい。また、鉄道広告の「宮田家具」も今日では見かけない看板だ。1962年(昭和37)の当時、宮田家具の総本店は中野にあり、中井駅の周辺にも支店を展開していたものだろうか。「横丁で地理的不便の為め！／都内随一の安売り／宮田家具」は、時代を感じさせるキャッチフレーズだ。不便な場所に開店しているから安くするよ……というのは、配達が前提の家具店にはそぐわないコピーだろう。「都内随一」は、現代なら広告コードにひっかかる禁止表現だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ACE890BDE59B9BE5B08FE5B9BCE7A89AE59C92E9818BE58B95E4BC9A196210.jpg" alt="&#x246C;&#x843D;&#x56DB;&#x5C0F;&#x5E7C;&#x7A1A;&#x5712;&#x904B;&#x52D5;&#x4F1A;196210.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ADE890BDE59B9BE5B08FE9818BE58B95E4BC9A1963E698A5.jpg" alt="&#x246D;&#x843D;&#x56DB;&#x5C0F;&#x904B;&#x52D5;&#x4F1A;1963&#x6625;.jpg" width="520" height="697" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AEE890BDE59B9BE5B08FE5BEA1E79599E5B1B11964E698A5.jpg" alt="&#x246E;&#x843D;&#x56DB;&#x5C0F;&#x5FA1;&#x7559;&#x5C71;1964&#x6625;.jpg" width="520" height="457" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B08FE5ADA6E6A0A11963.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x7B2C;&#x56DB;&#x5C0F;&#x5B66;&#x6821;1963.jpg" width="520" height="451" border="0" />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-23.html" target="_blank">落合第四小学校</a>で開かれる運動会の写真は、ほぼ毎年撮影されている。写真⑬は1962年(昭和37)10月に撮影された秋の運動会、写真⑭は1963年(昭和38)撮影の春の運動会、写真⑮は1964年(昭和39)に撮影された春の運動会の画面だ。わたしが下落合を歩きはじめたころ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-08.html" target="_blank">落合第四小学校</a>の校舎は鉄筋コンクリート仕様(つまり現在の姿)になっており、写真に写る下見板張りの木造2階建て校舎は存在しなかった。同小学校は、二度にわたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank">山手大空襲</a>からも焼け残り、写真にとらえられている校舎は1932年(昭和7)からつづいている建築だ。　写真⑮のPTAフォークダンスには、背景に樹木が鬱蒼と繁る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank">御留山</a>の濃い緑が見えている。この時期、御留山はいまだ公園化されておらず、敷地は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-26.html" target="_blank">東邦生命</a>(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-09.html" target="_blank">第一徴兵保険</a>)のち大蔵省が所有して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519493509.html" target="_blank">公務員宿舎「落合住宅」</a>の建設予定地になったままだった。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-11.html" target="_blank">竹田助雄</a>が前年(1962年)の夏、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank">落合新聞</a>の一面トップに「落合の秘境」と書いて報じていた時代とそのままシンクロする、リアルタイムの情景だ。木々は手入れがなされておらず、伸び放題だった様子が見てとれる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AFE6B0B7E5B79DE7A4BEE7A5ADE7A4BC196409.jpg" alt="&#x246F;&#x6C37;&#x5DDD;&#x793E;&#x796D;&#x793C;196409.jpg" width="520" height="761" border="0" />　最後の写真⑯は、しばらく考えてみてからわかった。右手に見えているのは、下落合駅前に建っていた「三楽ホテル」の一部であり、2階窓の手すりは赤いベンガラで塗られていただろう。画面の右上隅には、大きなシュロ(棕櫚)の葉の一部が見えている。現在、このシュロは伐られイチョウの大木のみが残されている。左手には、氷川明神の神輿か太鼓山車(曵太鼓)が見えており、三楽ホテルの前には宮元睦会によるお神酒所が設置されているのだろう。この<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-23.html" target="_blank">正円形にカーブ</a>する道を奥へ進むと、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-04-26.html" target="_blank">関東バス</a>が通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-02-08.html" target="_blank">聖母坂通り(補助45号線)</a>へと抜けられる、大正期まで小名「摺鉢山」と呼ばれたエリアだ。撮影者の左には宮沢製作所があり、下落合駅を利用するとき溶接の火花をよく目にした。左手には妙正寺川が流れ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-17.html" target="_blank">西ノ橋</a>をわたれば目の前が下落合駅だ。　下の子がカブスカウトに加入し活動していたため、三楽ホテルにはずいぶんお世話になっている。ホテルの前には、「〇〇学校修学旅行御一行様」というような、黒い板に白文字の手書きプレートが頻繁に立てられていたけれど、「宿泊は新宿のホテルだってよ！」と喜び勇んでやってくる修学旅行生たちには、ちょっとかわいそうな気がしていたのも正直なところだ。生徒たちは、きっと新宿駅西口あたりのパークハイアットやキンプトン、ハイアットリージェンシー、京王プラザのようなホテルをひそかにイメージしながら、ウキウキとやってきたのではないだろうか……。(汗)<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839BE38386E383ABE4B889E6A5BD1963.jpg" alt="&#x30DB;&#x30C6;&#x30EB;&#x4E09;&#x697D;1963.jpg" width="520" height="414" border="0" />　ほかにも、野本様より貴重なアルバム4冊もお預かりしているので、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-09.html" target="_blank">十三間通り(新目白通り)工事</a>が行われる以前、薬王院門前の商店街や氷川明神社の周辺に展開していた下落合の風景を、再びご紹介したいと考えている。また、わたしが写っていても不思議ではない、なんと夏の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank">大磯</a>で撮られた同時代の写真もあるので楽しみだ。貴重なアルバムをありがとうございました。＞野本直揮様　　　　        　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;了&gt;
◆写真：文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。★おまけ　1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として保存が決定する6年前の御留山の鳥瞰写真と、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank">竹田助雄</a>が「落合の秘境」として報じた落合新聞の1962年(昭和37)7月12日号。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E79599E5B1B11963.jpg" alt="&#x5FA1;&#x7559;&#x5C71;1963.jpg" width="600" height="458" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19320712.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x65B0;&#x805E;19320712.jpg" width="600" height="789" border="0" /><a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A7E6B0B7E5B79DE7A4BEE58F82E8A9A319611115.jpg" alt="⑧氷川社参詣19611115.jpg" width="600" height="407" border="0" /></div><div>　前回の記事につづき、今回も<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520727292.html" target="_blank" rel="noopener">野本アルバム</a>より1960年代の下落合風景をご紹介したい。前回は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-20.html" target="_blank" rel="noopener">薬王院</a>の門前に展開していた、空襲から北側がかろうじて焼け残った昭和初期からの商店街写真が中心だったが、今回は商店街を離れ懐かしい下落合の街角をご紹介したい。<br />　まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷道(新井薬師道)</a>＝鎌倉支道を歩いて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-15.html" target="_blank" rel="noopener">氷川明神社</a>へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の<span style="color: #ff0000;">写真⑧</span>から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ、1970年代の半ばには、いまだ正面に見えている板塀の家(島田邸)は建っていたが、ほどなく解体され駐車場になった。薬王院の山門横で、写真の左奥には何度かセメントで塗りなおされている同寺の石塀が見えている。現在は、正面の家の右手(東側)に建っていた住宅(佐藤邸)も解体され、駐車場の面積が拡がっている。ちなみに島田邸の板塀には、またもや「下落合医院」の看板が見えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E58F82E98193E5898D1963.jpg" alt="薬王院参道前1963.jpg" width="520" height="441" border="0" /></div><div>　写真の右下には、土ぼこりをかぶった大谷石の築垣が見えているが、この基礎部分の大谷石は現在もそのまま残っており、上には別の石材で敷地と道路の境界垣が築かれている。少し前までは、みごとな大輪の菊栽培が印象的だった小井邸で、その手前右手には菓子も販売していたヤマザキパン「ちえこ」だった。わたしの学生時代から、小井邸の向かいには理髪店とキッチン「タカハシ」が開店していて、その南の角地には高田タバコ店が営業していたが、現在はすべて閉店してしまった。薬王院の参道と山門は、写真左手の枠外に見えているはずだ。この道を右折して東へまっすぐ進めば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-03.html" target="_blank" rel="noopener">七曲坂</a>の坂下をへて氷川明神社の境内北側へと抜けられる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A8E6B0B7E5B79DE7A4BEE4B883E4BA94E4B88919611115.jpg" alt="⑨氷川社七五三19611115.jpg" width="520" height="760" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A9E6B0B7E5B79DE7A4BEE4B883E4BA94E4B88919631115.jpg" alt="⑩氷川社七五三19631115.jpg" width="520" height="354" border="0" /></div><div>　冒頭写真の11月15日の日付からおわかりだと思うが、オシャレなおそろいのベレー帽をかぶって氷川明神社へ参詣するのは、七五三を祝うためだった。<span style="color: #ff0000;">写真⑨</span>では、拝殿横で撮影された千歳飴の袋をもつ母子3人がとらえられている。現在は、写真左手の位置にカンザクラ(寒桜)が大きく育ち、落葉している時期でなければこの位置から拝殿を見とおすことはむずかしい。また、十三間通り(新目白通り)が貫通する前なので、撮影者の背後は現在のようにすぐ南側の階段(きざはし)と鳥居ではなく、南側の濃い樹林が境内をとり囲んでいたはずだ。<br />　翌々1963年(昭和38)11月15日に、氷川社で撮影された七五三の<span style="color: #ff0000;">写真⑩</span>も残されている。現在は、おそらく位置を変え柵が設置されて保存されている狛犬だが、当時は台座(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank" rel="noopener">富士山の溶岩石</a>だろうか)が、かなり高さのあったことがわかる。奥の着物女性の前では、「一袋五十円」で千歳飴が売られている(いや授与されている)。また、現在は拝殿・本殿の横(北側)に舞殿(神楽殿)が建設されて、写真のように見通しがきかない。写真には、七曲坂の下に建っていた家々がとらえられており、そこに右から左へ「神輿蔵」と書かれた文字が見えていて、わたしにとってはめずらしい風景だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E5B79DE7A4BE1963.jpg" alt="氷川社1963.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div>　ここで、氷川明神とその周辺をめぐる戦前の風景を、杉森一雄『落合昔語り』(2006年)より引きつづき引用してみよう。文中には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-06.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>が書いた『落合小景』からの引用も含まれている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　落合の郷土史家竹田助雄氏の『落合小景』という文の中に、次のような一節がある。//【高田馬場駅を降りて……父と私は人通りの少ない曲りくねった砂利道を、連れ立って歩いた。／途中に薄気味わるい変電所があり、その前の橋を渡ると川がU字形に彎曲しているところがあった。U字型の此方(こっち)は路肩が崩れ落ち、道路の下をえぐるように渦を巻いて激しく流れていた。(中略)　そこから杉木立の生い茂るお宮の前を通り、すこし行くと道は狭くなり、人通りは全く絶えて、絶えたところの森の中に茅葺家が数軒見えた。またすこし行くと鄙びた通りには、八百屋、魚屋、肉屋が一軒ずつあった。】//　これは昭和六年の話である。竹田氏も解説しておられるが、この道筋は、高田馬場駅前交番の脇を入り、田島橋を渡って神田川に沿った道路(今より川がはるかに曲がりくねり、道も曲がりくねっていた)を進み、西武線の踏切を渡って氷川神社の脇から薬王院へ、さらにその門前から南に直角に曲がり、また西に向かって下落合駅に出たものだ。八百屋、魚屋、肉屋の通りは、放射七号線(新目白通り)の開通で店も通りもすべてなくなった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　昭和初期、早稲田通りに面した栄通りの入口には交番があり、「薄気味わるい変電所」はもちろん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-24.html" target="_blank" rel="noopener">目白変電所</a>のことだ。興味深いのは、道路が崩れそうな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">旧・神田上水</a>の渦巻きだろう。江戸期に釈敬順が『十方庵遊歴雑記』に記した、旧・神田上水の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">田島橋</a>付近で見られた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-23.html" target="_blank" rel="noopener">「犀が淵」</a>と同様の急流による渦巻きが、昭和初期にもその近辺で発生していたようだ。ちなみに1931年(昭和6)当時は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-23.html" target="_blank" rel="noopener">下落合駅</a>が前年7月に氷川社前から西(現在地)へ移転したばかりのころだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AAE4B88BE890BDE59088E9A7851962E698A5.jpg" alt="⑪下落合駅1962春.jpg" width="520" height="514" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E9A7851963.jpg" alt="下落合駅1963.jpg" width="520" height="431" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ABE4B8ADE4BA95E9A7851962E698A5.jpg" alt="⑫中井駅1962春.jpg" width="520" height="514" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851963.jpg" alt="中井駅1963.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div>　1962年(昭和37)の春に撮影された、その下落合駅の<span style="color: #ff0000;">写真⑪</span>も残されている。家族の背後に写る切符切りの駅員がいる改札の向こうには、当時の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-12.html" target="_blank" rel="noopener">西武新宿線</a>の電車が停車しているのが見える。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">古い写真類</a>ではお馴染みの、柵沿いに設置された公衆電話ボックスも見えている。この駅舎は、わたしが落合地域を散策しはじめた1970年代半ばも変わらない風情だった。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑫</span>は、同時期に隣りの中井駅のホームで撮影されたものだ。ホームの南東側から、北西を向いてシャッターが切られており、ホームベンチの形状や、線路の北側に近接するアパートらしい家々の様子が懐かしい。また、鉄道広告の「宮田家具」も今日では見かけない看板だ。1962年(昭和37)の当時、宮田家具の総本店は中野にあり、中井駅の周辺にも支店を展開していたものだろうか。「横丁で地理的不便の為め！／都内随一の安売り／宮田家具」は、時代を感じさせるキャッチフレーズだ。不便な場所に開店しているから安くするよ……というのは、配達が前提の家具店にはそぐわないコピーだろう。「都内随一」は、現代なら広告コードにひっかかる禁止表現だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ACE890BDE59B9BE5B08FE5B9BCE7A89AE59C92E9818BE58B95E4BC9A196210.jpg" alt="⑬落四小幼稚園運動会196210.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ADE890BDE59B9BE5B08FE9818BE58B95E4BC9A1963E698A5.jpg" alt="⑭落四小運動会1963春.jpg" width="520" height="697" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AEE890BDE59B9BE5B08FE5BEA1E79599E5B1B11964E698A5.jpg" alt="⑮落四小御留山1964春.jpg" width="520" height="457" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B08FE5ADA6E6A0A11963.jpg" alt="落合第四小学校1963.jpg" width="520" height="451" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>で開かれる運動会の写真は、ほぼ毎年撮影されている。<span style="color: #ff0000;">写真⑬</span>は1962年(昭和37)10月に撮影された秋の運動会、<span style="color: #ff0000;">写真⑭</span>は1963年(昭和38)撮影の春の運動会、<span style="color: #ff0000;">写真⑮</span>は1964年(昭和39)に撮影された春の運動会の画面だ。わたしが下落合を歩きはじめたころ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の校舎は鉄筋コンクリート仕様(つまり現在の姿)になっており、写真に写る下見板張りの木造2階建て校舎は存在しなかった。同小学校は、二度にわたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank" rel="noopener">山手大空襲</a>からも焼け残り、写真にとらえられている校舎は1932年(昭和7)からつづいている建築だ。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑮</span>のPTAフォークダンスには、背景に樹木が鬱蒼と繁る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">御留山</a>の濃い緑が見えている。この時期、御留山はいまだ公園化されておらず、敷地は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">東邦生命</a>(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-09.html" target="_blank" rel="noopener">第一徴兵保険</a>)のち大蔵省が所有して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519493509.html" target="_blank" rel="noopener">公務員宿舎「落合住宅」</a>の建設予定地になったままだった。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-11.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>が前年(1962年)の夏、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">落合新聞</a>の一面トップに「落合の秘境」と書いて報じていた時代とそのままシンクロする、リアルタイムの情景だ。木々は手入れがなされておらず、伸び放題だった様子が見てとれる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AFE6B0B7E5B79DE7A4BEE7A5ADE7A4BC196409.jpg" alt="⑯氷川社祭礼196409.jpg" width="520" height="761" border="0" /></div><div>　最後の<span style="color: #ff0000;">写真⑯</span>は、しばらく考えてみてからわかった。右手に見えているのは、下落合駅前に建っていた「三楽ホテル」の一部であり、2階窓の手すりは赤いベンガラで塗られていただろう。画面の右上隅には、大きなシュロ(棕櫚)の葉の一部が見えている。現在、このシュロは伐られイチョウの大木のみが残されている。左手には、氷川明神の神輿か太鼓山車(曵太鼓)が見えており、三楽ホテルの前には宮元睦会によるお神酒所が設置されているのだろう。この<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">正円形にカーブ</a>する道を奥へ進むと、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-04-26.html" target="_blank" rel="noopener">関東バス</a>が通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-02-08.html" target="_blank" rel="noopener">聖母坂通り(補助45号線)</a>へと抜けられる、大正期まで小名「摺鉢山」と呼ばれたエリアだ。撮影者の左には宮沢製作所があり、下落合駅を利用するとき溶接の火花をよく目にした。左手には妙正寺川が流れ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-17.html" target="_blank" rel="noopener">西ノ橋</a>をわたれば目の前が下落合駅だ。<br />　下の子がカブスカウトに加入し活動していたため、三楽ホテルにはずいぶんお世話になっている。ホテルの前には、「〇〇学校修学旅行御一行様」というような、黒い板に白文字の手書きプレートが頻繁に立てられていたけれど、「宿泊は新宿のホテルだってよ！」と喜び勇んでやってくる修学旅行生たちには、ちょっとかわいそうな気がしていたのも正直なところだ。生徒たちは、きっと新宿駅西口あたりのパークハイアットやキンプトン、ハイアットリージェンシー、京王プラザのようなホテルをひそかにイメージしながら、ウキウキとやってきたのではないだろうか……。(汗)</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839BE38386E383ABE4B889E6A5BD1963.jpg" alt="ホテル三楽1963.jpg" width="520" height="414" border="0" /></div><div>　ほかにも、野本様より貴重なアルバム4冊もお預かりしているので、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通り(新目白通り)工事</a>が行われる以前、薬王院門前の商店街や氷川明神社の周辺に展開していた下落合の風景を、再びご紹介したいと考えている。また、わたしが写っていても不思議ではない、なんと夏の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>で撮られた同時代の写真もあるので楽しみだ。貴重なアルバムをありがとうございました。＞野本直揮様<br />　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;了&gt;</span></div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真</span>：文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として保存が決定する6年前の御留山の鳥瞰写真と、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>が「落合の秘境」として報じた落合新聞の1962年(昭和37)7月12日号。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E79599E5B1B11963.jpg" alt="御留山1963.jpg" width="600" height="458" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19320712.jpg" alt="落合新聞19320712.jpg" width="600" height="789" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520727292.html</link>
      <title>十三間通りで消えてしまった門前商店街。(上)</title>
      <pubDate>Tue, 09 Jun 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　先日、大正時代に出版された『日本霊異記』(日本古典全集刊行会)をお借りした野本直揮様より、1960年代の下落合風景が写るアルバムを見せていただいた。さっそく、当時の風景をご紹介したいが、わたしがもっとも興味を惹かれたのは、十三間通りの工事で全的に消えてしまった薬王院の門前町とでもいうべき商店街がとらえられている写真だ。　わたしが初めて下落合(現・中落合／中井含む)に足を踏み入れた高校時代、1970年代半ばにはすでに十三間通り(新目白通り)は貫通しており、そこにあった風景(地..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A0E697A5E59091E381BCE381A3E38193196112.jpg" alt="&#x2460;&#x65E5;&#x5411;&#x307C;&#x3063;&#x3053;196112.jpg" width="600" height="393" border="0" />　先日、大正時代に出版された『日本霊異記』(日本古典全集刊行会)をお借りした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520666422.html" target="_blank">野本直揮様</a>より、1960年代の下落合風景が写るアルバムを見せていただいた。さっそく、当時の風景をご紹介したいが、わたしがもっとも興味を惹かれたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank">十三間通りの工事</a>で全的に消えてしまった薬王院の門前町とでもいうべき商店街がとらえられている写真だ。　わたしが初めて下落合(現・中落合／中井含む)に足を踏み入れた高校時代、1970年代半ばにはすでに十三間通り(新目白通り)は貫通しており、そこにあった風景(地形や街並み、道筋など)はすべて消滅していた。したがって地図類や空中写真などでしか、それらをうかがい知ることができず、具体的な風景として脳裏には浮かんでこなかった。かろうじて、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank">竹田助雄</a>が消滅前の1960年代に撮影した、工事前後の<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>界隈や下落合駅近くの住宅街の写真は数葉見たことがあるが、さらに東寄りの町並みは空中写真を眺めながら想像するしかなかった。　ところが、野本直揮様のアルバム(以下 野本アルバム)には、十三間通りで消滅してしまった街並みや家々、あるいは後世に建て替えられ姿を変えてしまった街角の風景が随所にとらえられている。中には、いまだ1970年代から1980年代まで残っていた、わたしにも懐かしい街角も見えている。このように、まとまったアルバムというかたちで当時の貴重な街並みの風景が保存されているのは、目白通りで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-21.html" target="_blank">ダット乗合自動車</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-02.html" target="_blank">バスガール</a>をされていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-04.html" target="_blank">上原とし様</a>のお嬢様である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-12.html" target="_blank">小川薫様</a>が保存されてきた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-04.html" target="_blank">アルバム</a>以来のことだ。　では、アルバムに貼付された写真から具体的に見ていこう。まず、野本様の実家は十三間通りの工事で立ち退きを迫られる以前、「野本糸綿店」を営んでいた。薬王院の門前町とでもいうべき商店街は、西武線が敷設された1927年(昭和2)ごろから形成されはじめていたようだ。当時の様子を、2006年(平成18)に発行された小冊子、杉森一雄『落合昔語り』(非売品)から引用してみよう。　　▼　私が落合に来たころ、このへんはまだまわりの人口も少なくて、あたりは田んぼや空き地ばかりでした。その結果、友達も少なく、先輩もほとんどいない状況でした。／しかしそのうちに、少しずつ家も増えていきました。私の家のある薬王院のあたりを昔は下落合の本村(ほんむら)といっていました。(中略)　村というぐらいですから、当時はまだ何軒かかやぶき屋根の農家も残っていました。(中略)　本村は曲がりなりにもこのあたりの中心地ですから、氷川神社から高田馬場(田島橋)の方向に向かう道筋や、薬王院前の我が家からの前から西坂に向かう道には小さい店が何軒か並んで、いわば商店通りになっていました。／商店通りといっても、今のまち中の商店街などとはおよそ比較にもならない侘しいもので、昔の田舎の村役場前あたりに、小さな店が十何軒か並んでいる様子でも思い浮かべてみれば実物に近いといえるでしょう。小さな土間店に、家族が寝起きするための数畳の部屋がついた程度の、ほんとにちっぽけなお店がほとんどでした。　　▲　著者は、高田馬場駅の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520047259.html" target="_blank">東側駅前</a>(現・駅前広場)にあたる諏訪町から、下落合(字)<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-08.html" target="_blank">本村</a>875番地へ転居してきており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-03.html" target="_blank">茅葺き屋根の農家</a>がぽつぽつ残る家並みに、子どもながらさびしい思いをしたようだ。昭和10年代の空中写真でも、いまだ空き地の多い商店街の様子が見てとれる。同小冊子には、昭和初期の薬王院門前にあった商店街を再現する店舗図版が掲載されている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BAE698ADE5928CE5889DE69C9FE59BB3E78988.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x9580;&#x524D;&#x753A;&#x662D;&#x548C;&#x521D;&#x671F;&#x56F3;&#x7248;.jpg" width="520" height="384" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1936.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x9580;&#x524D;&#x753A;1936.jpg" width="520" height="388" border="0" />　そしてもうひとつ、わたしが薬王院門前の商店街に惹かれていたのは、下落合の目白通り沿いや上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank">旧・八幡通沿い</a>とは異なり、三間通りの北側がほとんど空襲の被害を受けておらず、昭和初期に形成された商店街の風情がそのまま戦後まで継承されていた点だ。他の幹線道路沿いや鉄道沿いの商店街は、激しい空襲にみまわれほぼ焦土と化しているが、薬王院門前の商店街北側は、上空から観察した限りでは奇跡的に被害を受けていない。　したがって、十三間通りの工事で消滅する以前、アルバムにとらえられている1960年代の商店街や家々は、戦後に形成された同時代の商店街の姿ではなく、昭和初期(戦前)に形成された下落合の商店街の面影を、色濃く残している風景の片鱗ということになる。すなわち、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank">「下落合風景」シリーズ</a>の制作であちこち歩きまわる<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank">佐伯祐三</a>も、いつもの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-13.html" target="_blank">『散歩道』</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-10.html" target="_blank">『墓のある風景』</a>の丘上から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-09.html" target="_blank">久七坂</a>を下り、この形成されはじめていた門前商店街の様子を眺めていた可能性が高いのだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1938.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x9580;&#x524D;&#x753A;1938.jpg" width="520" height="453" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1944.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x9580;&#x524D;&#x753A;1944.jpg" width="520" height="410" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1947.jpg" alt="&#x85AC;&#x738B;&#x9662;&#x9580;&#x524D;&#x753A;1947.jpg" width="520" height="406" border="0" />　まず、冒頭の写真①から見ていこう。薬王院門前にあたる、東西につづく商店街を西から東を向き、1961年(昭和36)12月に撮影されたものだ。三間道路沿いで割烹着姿の女性ふたりが立ち話をしており、小さな子どもがふたり遊んでいる店舗が「野本糸綿店」(下落合2丁目875番地)の店先だ。小さな子どもの左側が、野本アルバムをお貸しいただいた野本直揮様ご本人だ。タイトルは「日向ぼっこ」とあるので、初冬のよく晴れた午前中の情景だろう。野本糸綿店の左(西)隣りは「橋本ブリキ(板金)店」、右(東)隣りは1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」では「香蘭」となっているが中華料理の店舗だったようだ。その先が茂手木邸で、「上敷・ゴザ」の看板が見えているのが「中村畳店」、その先が恵比寿屋(下記の酒屋と同一？)、杉森瓦店とつづいている。　正面に見えているのは、「各種瓦販売工事請負／杉森瓦店」の大看板だが、戦前から戦後にかけ、この位置には消防分署と火の見櫓が設置されていた。1960年(昭和35)の「全住宅案内帳」には、写真の奥を南北に横切る薬王院山門前からの道路沿いに、「下落合消防署寮」(下落合2丁目876番地)が採取されている。そして杉森瓦店の大看板のある位置は、すでに同店の敷地となっており、消防署寮と杉森瓦店の間は山崎邸と記録されている。　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-27.html" target="_blank">「カルピス」</a>の看板を背に、男女ふたりの人物が下落合駅方面へ歩いているが、カルピスを販売していたのは「伊藤酒店恵比寿屋」(少し前まで営業をつづけていた)、その向こうに見えている2階家が郷田邸(手前)と鈴木邸(奥)だ。ふたりの人物が歩く角地には、角にあたる敷地が蛭川邸、「調剤／クスリ」という看板が出ているのが「林薬局」(少し前まで開店していた)、その手前の西隣りが岡邸および羽島邸、さらに西隣りが有馬洋服店という並びで家並みがつづいていた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A1E38193E381A9E38282E381AEE697A519620505.jpg" alt="&#x2461;&#x3053;&#x3069;&#x3082;&#x306E;&#x65E5;19620505.jpg" width="520" height="361" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A2E5BA97E5898DE9809AE3828A1962E5A48F.jpg" alt="&#x2462;&#x5E97;&#x524D;&#x901A;&#x308A;1962&#x590F;.jpg" width="520" height="751" border="0" />　写真②は、翌1962年(昭和37)5月5日の子どもの日に店の前で撮影されたもので、昭和初期の店舗の様子がわかって興味深い。看板にもチラリと見えているように、寝具の布団づくりや布団の打ちなおしなどをメインに手がける店舗だったそうだ。写真③は、今度は店前から西を向いて撮影された記念写真だが、当時のトラックや<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-28.html" target="_blank">ミゼット</a>らしい小型三輪自動車が停車している。トラックの停まっているいる向こう側あたりが「ツバメドライクリーニング」工場(やはり少し前まで営業をつづけていた)あたり、その先に見えているのが「崎京商事KK」、さらにその西隣りは「富田電気製作所KK」だろうか。ちなみに、手前の三輪車に乗っているのが野本直揮様だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A3E5BA97E5898D196301.jpg" alt="&#x2463;&#x5E97;&#x524D;196301.jpg" width="520" height="701" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A4E5BA97E5898D19640101.jpg" alt="&#x2464;&#x5E97;&#x524D;19640101.jpg" width="520" height="352" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A5E5BA97E5898D19640416.jpg" alt="&#x2465;&#x5E97;&#x524D;19640416.jpg" width="520" height="697" border="0" />　写真④は、翌1963年(昭和38)の正月に店前で撮影された記念写真。再び、西側から東を向いてシャッターが切られている。時代はどんどんめぐり、高度経済成長時代を迎え、街角の風景から敗戦後の痕跡が急速に払拭されていく。写真⑤は、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)1月1日の元旦に店前で撮影された、一家勢揃いの記念写真。写真⑥も、同年の新学期がスタートしたばかりの4月16日に、店前で撮影された兄弟ふたりの記念写真だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E58CBBE999A2E58685E7A791E5B08FE58590E7A791E5A496E7A7911960.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x533B;&#x9662;&#x5185;&#x79D1;&#x5C0F;&#x5150;&#x79D1;&#x5916;&#x79D1;1960.jpg" width="520" height="363" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E58CBBE999A21963.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x533B;&#x9662;1963.jpg" width="520" height="427" border="0" />　ここで、「野本糸綿店」と中華料理「香蘭」の前にある、いつも記念写真にはその一部が写りこんでいる電柱の看板、「下落合医院」が気になってくる。数枚の写真から看板を子細に観察すると、「内科・小児科／外科・レントゲン／下落合医院／此の先氷川様／西武線踏切際」と書かれている。年代とともに、看板の文字が濃くなったり薄くなったりしているので、何度も塗り直されているのだろう。氷川明神の大鳥居前から、西武新宿線に向かって道なりに歩いた先にある踏み切りは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-12.html" target="_blank">西武高田馬場駅</a>から数えて現在は3つめとなっている「馬5」踏み切りだ。先述の「全住宅案内帳」(1960年)を参照すると、下落合1丁目85番地に下落合医院を見つけることができる。　当時の医院は、あまり専門領域には分かれず、内科でも外科でもなんでも診てくれていた憶えがある。わたしが子ども時代にかかっていた中村先生(中村医院)も、内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科など、どんな患者でも診察して器用に治療していた印象がある。下落合医院も、そんな街中の医者だったのではないだろうか。同医院は十三間通りの工事で全敷地がひっかかり、移転先は不明だ。いまは歩道橋が架かる、ちょうど南東側階段の下あたりが下落合医院の敷地だった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A6E5A5B3E5AD90E381B5E3819FE3828A196404.jpg" alt="&#x2466;&#x5973;&#x5B50;&#x3075;&#x305F;&#x308A;196404.jpg" width="520" height="672" border="0" />　写真⑦は、やはり野本糸綿店前で野本様(右)と、近くの消防署寮に住む親友を撮影した落合第四幼稚園へ通う記念写真だ。店前から西を向いて撮影しており、ちょうど通りかかった女性が運転する1960年代の、フェンダーミラーが懐かしい自家用車もとらえられている。　1964年(昭和39)4月の撮影で、工事の騒音が街のあちこちで響く、東京五輪を半年後に控えた時期だ。多くの家庭では家電の「三種の神器」(TV・冷蔵庫・洗濯機)が普及し、余裕のある家庭では写真に見えるような自家用車の購入がブームになっていた。風景を観察すると、ややカーブ気味な道路の正面奥にとらえられている町工場のような建物は、富田電気製作所KKあるいは(有)食品落合営業所あたりの建屋だろうか。人物の影が西へ伸びているので、これも春の午前中の撮影だろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE5AEB6E591A8E8BEBAE4BD8FE5AE85E6988EE7B4B0E59BB31960.jpg" alt="&#x91CE;&#x672C;&#x5BB6;&#x5468;&#x8FBA;&#x4F4F;&#x5B85;&#x660E;&#x7D30;&#x56F3;1960.jpg" width="600" height="469" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE7B3B8E7B6BFE5BA971963-00f63.jpg" alt="&#x91CE;&#x672C;&#x7CF8;&#x7DBF;&#x5E97;1963.jpg" width="600" height="436" border="0" />　今回は、戦災をまぬがれ昭和初期に形成された商店街の雰囲気が残る、薬王院門前の東西通りにあった野本糸綿店と、その周辺に拡がる貴重な街角風景をご紹介してきたが、アルバムには十三間通りに削られる以前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510478773.html" target="_blank">氷川明神社</a>の境内をはじめ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510206351.html" target="_blank">落合第四小学校</a>の校庭、三楽ホテル、下落合駅、中井駅などの姿がとらえられている。それら貴重な風景は、次回の記事でご紹介したい。　　　　　　　　　　　　　　　　     　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;つづく&gt;
◆写真：空中写真や図版以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。★おまけ　1963年(昭和38)の空中写真を西寄り別角度から。店舗や家々が少し立体的に見えるだろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE7B3B8E7B6BFE5BA971963B.jpg" alt="&#x91CE;&#x672C;&#x7CF8;&#x7DBF;&#x5E97;1963B.jpg" width="600" height="439" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A0E697A5E59091E381BCE381A3E38193196112.jpg" alt="①日向ぼっこ196112.jpg" width="600" height="393" border="0" /></div><div>　先日、大正時代に出版された『日本霊異記』(日本古典全集刊行会)をお借りした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520666422.html" target="_blank" rel="noopener">野本直揮様</a>より、1960年代の下落合風景が写るアルバムを見せていただいた。さっそく、当時の風景をご紹介したいが、わたしがもっとも興味を惹かれたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通りの工事</a>で全的に消えてしまった薬王院の門前町とでもいうべき商店街がとらえられている写真だ。<br />　わたしが初めて下落合(現・中落合／中井含む)に足を踏み入れた高校時代、1970年代半ばにはすでに十三間通り(新目白通り)は貫通しており、そこにあった風景(地形や街並み、道筋など)はすべて消滅していた。したがって地図類や空中写真などでしか、それらをうかがい知ることができず、具体的な風景として脳裏には浮かんでこなかった。かろうじて、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>が消滅前の1960年代に撮影した、工事前後の<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>界隈や下落合駅近くの住宅街の写真は数葉見たことがあるが、さらに東寄りの町並みは空中写真を眺めながら想像するしかなかった。<br />　ところが、野本直揮様のアルバム(以下 野本アルバム)には、十三間通りで消滅してしまった街並みや家々、あるいは後世に建て替えられ姿を変えてしまった街角の風景が随所にとらえられている。中には、いまだ1970年代から1980年代まで残っていた、わたしにも懐かしい街角も見えている。このように、まとまったアルバムというかたちで当時の貴重な街並みの風景が保存されているのは、目白通りで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-21.html" target="_blank" rel="noopener">ダット乗合自動車</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">バスガール</a>をされていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-04.html" target="_blank" rel="noopener">上原とし様</a>のお嬢様である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">小川薫様</a>が保存されてきた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-04.html" target="_blank" rel="noopener">アルバム</a>以来のことだ。<br />　では、アルバムに貼付された写真から具体的に見ていこう。まず、野本様の実家は十三間通りの工事で立ち退きを迫られる以前、「野本糸綿店」を営んでいた。薬王院の門前町とでもいうべき商店街は、西武線が敷設された1927年(昭和2)ごろから形成されはじめていたようだ。当時の様子を、2006年(平成18)に発行された小冊子、杉森一雄『落合昔語り』(非売品)から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私が落合に来たころ、このへんはまだまわりの人口も少なくて、あたりは田んぼや空き地ばかりでした。その結果、友達も少なく、先輩もほとんどいない状況でした。／しかしそのうちに、少しずつ家も増えていきました。私の家のある薬王院のあたりを昔は下落合の本村(ほんむら)といっていました。(中略)　村というぐらいですから、当時はまだ何軒かかやぶき屋根の農家も残っていました。(中略)　本村は曲がりなりにもこのあたりの中心地ですから、氷川神社から高田馬場(田島橋)の方向に向かう道筋や、薬王院前の我が家からの前から西坂に向かう道には小さい店が何軒か並んで、いわば商店通りになっていました。／商店通りといっても、今のまち中の商店街などとはおよそ比較にもならない侘しいもので、昔の田舎の村役場前あたりに、小さな店が十何軒か並んでいる様子でも思い浮かべてみれば実物に近いといえるでしょう。小さな土間店に、家族が寝起きするための数畳の部屋がついた程度の、ほんとにちっぽけなお店がほとんどでした。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　著者は、高田馬場駅の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520047259.html" target="_blank" rel="noopener">東側駅前</a>(現・駅前広場)にあたる諏訪町から、下落合(字)<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-08.html" target="_blank" rel="noopener">本村</a>875番地へ転居してきており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-03.html" target="_blank" rel="noopener">茅葺き屋根の農家</a>がぽつぽつ残る家並みに、子どもながらさびしい思いをしたようだ。昭和10年代の空中写真でも、いまだ空き地の多い商店街の様子が見てとれる。同小冊子には、昭和初期の薬王院門前にあった商店街を再現する店舗図版が掲載されている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BAE698ADE5928CE5889DE69C9FE59BB3E78988.jpg" alt="薬王院門前町昭和初期図版.jpg" width="520" height="384" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1936.jpg" alt="薬王院門前町1936.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div>　そしてもうひとつ、わたしが薬王院門前の商店街に惹かれていたのは、下落合の目白通り沿いや上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧・八幡通沿い</a>とは異なり、三間通りの北側がほとんど空襲の被害を受けておらず、昭和初期に形成された商店街の風情がそのまま戦後まで継承されていた点だ。他の幹線道路沿いや鉄道沿いの商店街は、激しい空襲にみまわれほぼ焦土と化しているが、薬王院門前の商店街北側は、上空から観察した限りでは奇跡的に被害を受けていない。<br />　したがって、十三間通りの工事で消滅する以前、アルバムにとらえられている1960年代の商店街や家々は、戦後に形成された同時代の商店街の姿ではなく、昭和初期(戦前)に形成された下落合の商店街の面影を、色濃く残している風景の片鱗ということになる。すなわち、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank" rel="noopener">「下落合風景」シリーズ</a>の制作であちこち歩きまわる<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>も、いつもの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-13.html" target="_blank" rel="noopener">『散歩道』</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">『墓のある風景』</a>の丘上から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-09.html" target="_blank" rel="noopener">久七坂</a>を下り、この形成されはじめていた門前商店街の様子を眺めていた可能性が高いのだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1938.jpg" alt="薬王院門前町1938.jpg" width="520" height="453" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1944.jpg" alt="薬王院門前町1944.jpg" width="520" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E99680E5898DE794BA1947.jpg" alt="薬王院門前町1947.jpg" width="520" height="406" border="0" /></div><div>　まず、冒頭の<span style="color: #ff0000;">写真①</span>から見ていこう。薬王院門前にあたる、東西につづく商店街を西から東を向き、1961年(昭和36)12月に撮影されたものだ。三間道路沿いで割烹着姿の女性ふたりが立ち話をしており、小さな子どもがふたり遊んでいる店舗が「野本糸綿店」(下落合2丁目875番地)の店先だ。小さな子どもの左側が、野本アルバムをお貸しいただいた野本直揮様ご本人だ。タイトルは「日向ぼっこ」とあるので、初冬のよく晴れた午前中の情景だろう。野本糸綿店の左(西)隣りは「橋本ブリキ(板金)店」、右(東)隣りは1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」では「香蘭」となっているが中華料理の店舗だったようだ。その先が茂手木邸で、「上敷・ゴザ」の看板が見えているのが「中村畳店」、その先が恵比寿屋(下記の酒屋と同一？)、杉森瓦店とつづいている。<br />　正面に見えているのは、「各種瓦販売工事請負／杉森瓦店」の大看板だが、戦前から戦後にかけ、この位置には消防分署と火の見櫓が設置されていた。1960年(昭和35)の「全住宅案内帳」には、写真の奥を南北に横切る薬王院山門前からの道路沿いに、「下落合消防署寮」(下落合2丁目876番地)が採取されている。そして杉森瓦店の大看板のある位置は、すでに同店の敷地となっており、消防署寮と杉森瓦店の間は山崎邸と記録されている。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-27.html" target="_blank" rel="noopener">「カルピス」</a>の看板を背に、男女ふたりの人物が下落合駅方面へ歩いているが、カルピスを販売していたのは「伊藤酒店恵比寿屋」(少し前まで営業をつづけていた)、その向こうに見えている2階家が郷田邸(手前)と鈴木邸(奥)だ。ふたりの人物が歩く角地には、角にあたる敷地が蛭川邸、「調剤／クスリ」という看板が出ているのが「林薬局」(少し前まで開店していた)、その手前の西隣りが岡邸および羽島邸、さらに西隣りが有馬洋服店という並びで家並みがつづいていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A1E38193E381A9E38282E381AEE697A519620505.jpg" alt="②こどもの日19620505.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A2E5BA97E5898DE9809AE3828A1962E5A48F.jpg" alt="③店前通り1962夏.jpg" width="520" height="751" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真②</span>は、翌1962年(昭和37)5月5日の子どもの日に店の前で撮影されたもので、昭和初期の店舗の様子がわかって興味深い。看板にもチラリと見えているように、寝具の布団づくりや布団の打ちなおしなどをメインに手がける店舗だったそうだ。<span style="color: #ff0000;">写真③</span>は、今度は店前から西を向いて撮影された記念写真だが、当時のトラックや<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">ミゼット</a>らしい小型三輪自動車が停車している。トラックの停まっているいる向こう側あたりが「ツバメドライクリーニング」工場(やはり少し前まで営業をつづけていた)あたり、その先に見えているのが「崎京商事KK」、さらにその西隣りは「富田電気製作所KK」だろうか。ちなみに、手前の三輪車に乗っているのが野本直揮様だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A3E5BA97E5898D196301.jpg" alt="④店前196301.jpg" width="520" height="701" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A4E5BA97E5898D19640101.jpg" alt="⑤店前19640101.jpg" width="520" height="352" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A5E5BA97E5898D19640416.jpg" alt="⑥店前19640416.jpg" width="520" height="697" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真④</span>は、翌1963年(昭和38)の正月に店前で撮影された記念写真。再び、西側から東を向いてシャッターが切られている。時代はどんどんめぐり、高度経済成長時代を迎え、街角の風景から敗戦後の痕跡が急速に払拭されていく。<span style="color: #ff0000;">写真⑤</span>は、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)1月1日の元旦に店前で撮影された、一家勢揃いの記念写真。<span style="color: #ff0000;">写真⑥</span>も、同年の新学期がスタートしたばかりの4月16日に、店前で撮影された兄弟ふたりの記念写真だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E58CBBE999A2E58685E7A791E5B08FE58590E7A791E5A496E7A7911960.jpg" alt="下落合医院内科小児科外科1960.jpg" width="520" height="363" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E58CBBE999A21963.jpg" alt="下落合医院1963.jpg" width="520" height="427" border="0" /></div><div>　ここで、「野本糸綿店」と中華料理「香蘭」の前にある、いつも記念写真にはその一部が写りこんでいる電柱の看板、「下落合医院」が気になってくる。数枚の写真から看板を子細に観察すると、「内科・小児科／外科・レントゲン／下落合医院／此の先氷川様／西武線踏切際」と書かれている。年代とともに、看板の文字が濃くなったり薄くなったりしているので、何度も塗り直されているのだろう。氷川明神の大鳥居前から、西武新宿線に向かって道なりに歩いた先にある踏み切りは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-12.html" target="_blank" rel="noopener">西武高田馬場駅</a>から数えて現在は3つめとなっている「馬5」踏み切りだ。先述の「全住宅案内帳」(1960年)を参照すると、下落合1丁目85番地に下落合医院を見つけることができる。<br />　当時の医院は、あまり専門領域には分かれず、内科でも外科でもなんでも診てくれていた憶えがある。わたしが子ども時代にかかっていた中村先生(中村医院)も、内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科など、どんな患者でも診察して器用に治療していた印象がある。下落合医院も、そんな街中の医者だったのではないだろうか。同医院は十三間通りの工事で全敷地がひっかかり、移転先は不明だ。いまは歩道橋が架かる、ちょうど南東側階段の下あたりが下落合医院の敷地だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A6E5A5B3E5AD90E381B5E3819FE3828A196404.jpg" alt="⑦女子ふたり196404.jpg" width="520" height="672" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑦</span>は、やはり野本糸綿店前で野本様(右)と、近くの消防署寮に住む親友を撮影した落合第四幼稚園へ通う記念写真だ。店前から西を向いて撮影しており、ちょうど通りかかった女性が運転する1960年代の、フェンダーミラーが懐かしい自家用車もとらえられている。</div><div>　1964年(昭和39)4月の撮影で、工事の騒音が街のあちこちで響く、東京五輪を半年後に控えた時期だ。多くの家庭では家電の「三種の神器」(TV・冷蔵庫・洗濯機)が普及し、余裕のある家庭では写真に見えるような自家用車の購入がブームになっていた。風景を観察すると、ややカーブ気味な道路の正面奥にとらえられている町工場のような建物は、富田電気製作所KKあるいは(有)食品落合営業所あたりの建屋だろうか。人物の影が西へ伸びているので、これも春の午前中の撮影だろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE5AEB6E591A8E8BEBAE4BD8FE5AE85E6988EE7B4B0E59BB31960.jpg" alt="野本家周辺住宅明細図1960.jpg" width="600" height="469" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE7B3B8E7B6BFE5BA971963-00f63.jpg" alt="野本糸綿店1963.jpg" width="600" height="436" border="0" /></div><div>　今回は、戦災をまぬがれ昭和初期に形成された商店街の雰囲気が残る、薬王院門前の東西通りにあった野本糸綿店と、その周辺に拡がる貴重な街角風景をご紹介してきたが、アルバムには十三間通りに削られる以前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510478773.html" target="_blank" rel="noopener">氷川明神社</a>の境内をはじめ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510206351.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の校庭、三楽ホテル、下落合駅、中井駅などの姿がとらえられている。それら貴重な風景は、次回の記事でご紹介したい。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　&nbsp; &nbsp; &nbsp;　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;つづく&gt;</span></div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真</span>：空中写真や図版以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　1963年(昭和38)の空中写真を西寄り別角度から。店舗や家々が少し立体的に見えるだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE7B3B8E7B6BFE5BA971963B.jpg" alt="野本糸綿店1963B.jpg" width="600" height="439" border="0" /></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html</link>
      <title>柴崎古墳(仮)＝将門塚から出土していた石室。</title>
      <pubDate>Sat, 06 Jun 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　1923年(大正12)11月29日、大手町にあった前方後円墳の柴崎古墳(仮)＝将門塚が、大蔵省のバラック2棟を建てるために破壊された。鳥居龍蔵の考古学グループが視察調査をしてから、およそ2ヶ月後のことだ。その様子を観察していた人物に、大蔵省建築局にいた大熊喜邦と考古学者の小此木忠七、そして下落合のタタラ遺跡である中井遺跡の西南端を、大正期に下落合1923番地に住む栗原家の協力で発掘した、武蔵野文化協会の考古学者・小松真一の3人がいた。　鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19A1968.jpg" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x9996;&#x585A;1968.jpg" width="600" height="522" border="0" />　1923年(大正12)11月29日、大手町にあった前方後円墳の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-09.html" target="_blank">柴崎古墳(仮)</a>＝将門塚が、大蔵省のバラック2棟を建てるために破壊された。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank">鳥居龍蔵</a>の考古学グループが視察調査をしてから、およそ2ヶ月後のことだ。その様子を観察していた人物に、大蔵省建築局にいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-11.html" target="_blank">大熊喜邦</a>と考古学者の小此木忠七、そして下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-27.html" target="_blank">タタラ遺跡</a>である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519845173.html" target="_blank">中井遺跡</a>の西南端を、大正期に下落合1923番地に住む栗原家の協力で発掘した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank">武蔵野文化協会</a>の考古学者・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519856064.html" target="_blank">小松真一</a>の3人がいた。　鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け跡から出現した築土の形状から、墳丘が全長約30mほどの、古代の柴崎村の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-12-06.html" target="_blank">江戸岬</a>に築造された海を眺める小型の前方後円墳だと想定している。江戸幕府の以前、もともと将門塚の位置には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-15.html" target="_blank">神田明神</a>が建立(730年)されており、境内には広い御手洗池(古蓮池)が湧水をたたえていた。つまり、平将門が出現して死亡するはるか以前から、神田明神は同塚に創建されていたことになる。将門塚が、江戸初期に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank">千代田城</a>の建設で障害になると、神田明神は一時的に神田山(駿河台の位置)へ遷座したが、同塚はそのまま残された。そして、江戸湾を埋め立てるために神田山が崩されはじめると、外神田の現在地へと再遷座している。　少し余談気味になるが、神田明神が将門塚の位置にあった室町期、江戸に城を築いた太田道灌も江戸城鎮守として神田明神を崇敬したと伝えられている。また、道灌は1478年(文明10)に河越(川越)から山王社を勧請し、江戸城の鎮護社としている。現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-21.html" target="_blank">日枝権現(山王権現)</a>で、のちに徳川家の産土神となり、幕末まで大江戸を二分する天下祭りの西の拠点となった。　将門塚の破壊工事現場に立ちあった3人のうち、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-29.html" target="_blank">大熊喜邦</a>は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-30.html" target="_blank">帝国議会議事堂</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517714879.html" target="_blank">国会議事堂</a>)の建設事業を継続するために、上落合469番地(のち470番地)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-11.html" target="_blank">吉武東里邸</a>で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-07.html" target="_blank">設計業務</a>に多忙をきわめていたのだろう、ふたりの考古学者が参加する前日に上落合へ引きあげている。したがって<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank">大熊喜邦</a>は、古墳が崩される様子を記録に残しているとは考えにくいが、考古学者の小此木忠七と小松真一は破壊の様子を記録しているとみられる。そのうち、小松真一の調査記録を見つけたのでご紹介したい。掲載されていたのは、1927年(昭和2)に武蔵野文化協会が発刊していた歴史の専門誌「武蔵野」1月号(雄山閣)で、小松真一は『大蔵省将門塚内に在つた石室』という、8ページにわたる詳しい記録を寄せている。　それによれば、11月30日に大蔵省の臨時となるバラック省庁舎2棟を、将門塚および御手洗池(古蓮池)跡に建てるため、3間(5.5m)ほどの高さがあった墳丘(後円部)と、前方部とみられる「封土」を崩している際、江戸期のものとみられる茶碗の欠片や瓦が見つかっている。(もっとも前方部は早くから変形されていたようだ)　これは、江戸初期に神田山へ遷座した当初の神田明神の名残りだろう。ところが、つづけて墳丘を崩していくと碑の建っている後円部、すなわち「記念碑から見て先づ南に当る所」から石室が出現した。これは、前方部が東南東に向いているので、通常の後円部にみられる羨門・羨道の位置より、南側へ角度的にややズレた位置から出土したことになりそうだ。出土したのは、人体が収まるほどの長方形をした石室だった。　この石室は、古墳の羨道や玄室とは明らかに異なっており、長さが6尺3寸(約191cm)で幅が奥で2尺8寸7分(約87cm)、入口で2尺9寸(約88cm)、高さが5尺2寸(約158cm)というものだった。底には、一面に平石が敷きつめられており、天井に組まれた石材はひとつが長さ3寸5分(約10.6cm)、幅が1尺2寸(約36cm)、厚みが3～4寸(約9～10cm)というものだった。石材の多くが、江戸時代に多用された相州真鶴産の小松石だったが、それがすべてではなかった。小松石で組まれた石室の中に、より脆弱な質の石材も混在して構築されていた。　その様子を、小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』から引用してみよう。　　▼　敷石の入口に向ふ最南端の石は巾一寸四分(4.2cm)、深さ三分(9.1cm)の溝が附けられてる。石室は形は保つてゐるけれども完全ではない。敷石のうち入口から二番目の石は無かつたし、又、奥壁の一部は失はれ、天井石は奥二枚のみ存し、左壁も右壁も石が見えない部分がある。要するに元、一度は少く共露いた形跡が有る。それは此構造物が完形でない事も其証拠であるが、尚、盛土の土が内部に這入り、又瓦の破片やら新らしい時代の陶器、茶碗欠け等が混じつてゐたのでも解る。又、石材のうちにザクザクした脆い石質のものも混用されてゐる。(カッコ内引用者註)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE794B0E6988EE7A59EE5A283E5868528E5A4A7E6898BE794BA291992E7A59EE794B0E6988EE7A59EE58FB2E88083.jpg" alt="&#x795E;&#x7530;&#x660E;&#x795E;&#x5883;&#x5185;(&#x5927;&#x624B;&#x753A;)1992&#x795E;&#x7530;&#x660E;&#x795E;&#x53F2;&#x8003;.jpg" width="520" height="345" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E5A19AE38390E383A9E38383E382AF1935E6ADA6E894B5E9878EE58FA2E69BB828E6ADA6E894B5E9878EE4BC9A29.jpg" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x585A;&#x30D0;&#x30E9;&#x30C3;&#x30AF;1935&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x53E2;&#x66F8;(&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x4F1A;).jpg" width="520" height="395" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B3E996A2E69DB1E5A4A7E99C87E781BD1.jpg" alt="&#x67F4;&#x5D0E;&#x53E4;&#x58B3;&#x95A2;&#x6771;&#x5927;&#x9707;&#x707D;1.jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B3E996A2E69DB1E5A4A7E99C87E781BD2.jpg" alt="&#x67F4;&#x5D0E;&#x53E4;&#x58B3;&#x95A2;&#x6771;&#x5927;&#x9707;&#x707D;2.jpg" width="520" height="382" border="0" />　文中にある「ザクザクした脆い石質のもの」は、南関東に展開する古墳の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-11.html" target="_blank">玄室に多用</a>された、小松石よりも加工が容易な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-05.html" target="_blank">房州石</a>ではなかっただろうか。　すなわち、このような想定が成り立つだろうか。まず、この位置にいまだ神田明神の社殿があった江戸初期の以前に、墳丘が崩れて古墳本来の羨道や玄室が露出したか、あるいは古墳をあばく盗掘の被害に遭い、しばらくは荒廃にまかせるばかりだった。江戸幕府が成立し、神田明神が新たな石材(小松石)を用いて、江戸初期に石室を修復した。徳川家康の先祖である徳阿弥(世良田親氏→松平親氏)が、還俗していずれ「徳川」の姓を名乗れという神託を受けた氏子という関係もあり、当然ながら徳川幕府も修復資金を拠出しているのだろう。　その際、以前より露出していた玄室や羨道の石材(房州石)も使えるものはそのまま活用して石室を再構築した。だが、ほどなく同社は遷座することになり社殿は解体され、神田山に建設された新たな社殿へと移った。石室の中から見つかった、比較的新しい茶碗や瓦のカケラは、そのときにでた旧・社殿に関連した廃棄物ではないか。いっしょに調査した小此木忠七によれば、瓦の欠片は寛永年間ごろ、すなわち江戸初期のものと考察されている。　文中の、入口の石に刻まれた「巾一寸四分、深さ三分の溝」は不明だが、神主が祭祀後に榊(さかき)を奉納した溝だろうか。大正期は、古墳時代の前方後円墳(当時は瓢箪型墳墓と呼ばれた)などという概念は一般的ではないので、塚状のものから武器(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-19.html" target="_blank">鉄剣・鉄刀</a>)や鎧兜、宝飾類(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-15.html" target="_blank">勾玉</a>・管玉・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-12.html" target="_blank">宝珠</a>)などの副葬品が見つかると、大昔の墳墓ぐらいの認識はあったかもしれないが、それが1500年前なのか1700年前のものかまでは、人文科学の未発達な当時はわからなかった。小松真一も、「上代の塚墓の盛土を利用してこれに寄生して石室をつくつた事を想像出来ない事はなからう」と想定している。また、その際には新たな付会や説話が多く創られ、語り継がれていくことにも触れている。つまり、柴崎古墳(仮)にまつわる「将門伝説」がそれだ。　また、そのように墳丘が崩され、単なる小さな塚状のたたずまいになってしまった古墳の実例として、浅茅ヶ原の妙亀堂(台東区橋場1丁目の現・妙亀塚公園内古墳跡)、荒川沿いにある渋江村西光寺の清重塚(葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡)、墳丘を農地にすっかり削られた川妻村の薬師堂(茨城県五霞町川妻の穴薬師古墳)の3例を紹介している。最後の穴薬師古墳は、著者の小松真一が関東大震災の前年、1922年(大正11)に現地調査をしたばかりであり、すでに副葬品は盗掘に遭って存在しなかったと「人類学雑誌」に報告している。　なお、穴薬師古墳の「薬師」は同古墳の玄室から薬師如来像が出土したことにちなんでおり、いずれかの時代に古墳があばかれ、そこへ新たに薬師如来像を安置した事蹟によるものだ。穴薬師古墳から東へ180mほどの近くにある、畑地に囲まれわずかな塚丘が残る雷電社も、穴薬師古墳によく似た風情なので同様に古墳だったのではなかろうか。古墳の羨道や玄室が見つかると、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-01.html" target="_blank">阿弥陀仏</a>や稲荷社・稲荷の祠を建立して奉った事蹟によく似ている。ちなみに、薬師古墳や薬師塚古墳あるいは雷電塚古墳や雷電山古墳は、稲荷塚古墳や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank">稲荷山古墳</a>と同じく全国各地に展開している。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FB3E5AEA4E5AE9FE6B8ACE59BB3.jpg" alt="&#x77F3;&#x5BA4;&#x5B9F;&#x6E2C;&#x56F3;.jpg" width="520" height="765" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FB3E5AEA4E58685E983A8.jpg" alt="&#x77F3;&#x5BA4;&#x5185;&#x90E8;.jpg" width="520" height="790" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E894B5E9878E192701E6ADA6E894B5E9878EE69687E58C96E58D94E4BC9AE99B84E5B1B1E996A3.jpg" alt="&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;192701&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x6587;&#x5316;&#x5354;&#x4F1A;&#x96C4;&#x5C71;&#x95A3;.jpg" width="245" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE794B0E6988EE7A59EE58FB2E880831992E5908CE5888AE8A18CE4BC9A.jpg" alt="&#x795E;&#x7530;&#x660E;&#x795E;&#x53F2;&#x8003;1992&#x540C;&#x520A;&#x884C;&#x4F1A;.jpg" width="265" height="370" border="0" />　さて、『大蔵省将門塚内に在つた石室』の末尾には、お決まりのように<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-30.html" target="_blank">「将門伝説」</a>にまつわる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank">タタリ譚</a>が付記されている。1926年(大正15)12月13日発行の、都新聞の記事からの引用だ。　　▼　大蔵省の式内政務次官が将門塚の祟りでアキレス腱を断つたといふ因縁めいた話は、元来同次官と新聞記者との冗談から花が咲いた噂であるが、これが一度新聞に伝へられると、噂は噂に止まらず省内お役人連の中にはいろいろと気に病む人が少くない。そこへ持つて来て黒田主税局長が最近何うした原因か、矢張アキレス腱の付近に炎症を起してビツコを引き出したのでその噂はいよいよ大仰になり「然う云へば今年の夏、荒川事務次官がアキレス腱を断つたのも将門塚の祟りであらうし、強てコヂつければ故早速(整爾)蔵相の逝去も禁足の禁を破つたのが病勢増進の原因だから、これまた将門塚の祟りかも知れぬ」と昨今気の病み方が一層ひどくなつた。(カッコ内引用者註)　　▲　将門のタタリが、情けないアキレス腱の故障では、あまりにも矮小でケチすぎやしないだろうか。デスクワークばかりで、単に官吏たちが運動不足だっただけだろう。将門のタタリは、史的な経緯を考えても、菅公の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-15.html" target="_blank">雷禍</a>以上でなければ割にあわない。　そもそも、将門は出雲のオオクニヌシ(オオナムチ)とともに、神田明神社が主柱と奉る江戸東京の総鎮守だ。冒頭の将門塚で遊ぶ子どもたちが象徴的なように、この街で、この地域で生まれ育った人間にとっては、1300年の歴史をもつ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-05.html" target="_blank">ゲニウスロキ(地霊)</a>であり地主神＝守護神そのものだ。タタリがあるとすれば、この街この地域に仇なし敵対する人間たちにほかならない。　たとえば、当時の大蔵省をめぐる新聞記事には、「執念深き亡霊の祟り」などという表現がある。この街に暮らしつづけている住民が、なんで守護神の「祟り」を警戒しなければならないのだろうか？　たとえば、大阪の「住吉さん(すみよっさん)」の3神に対し、「祟り」があるので注意が必要などと書いたら「このドアホが！」、太宰府の菅公天神に対し「祟り」があるから警戒せよなどと発言したら「このバカちんが！」と張り倒されるのがオチだろう。どこの地方・地域でもいい、自身が初詣でなどで贔屓にしている社に向かって、「祟りがあるから気をつけろ」などといったら、どういう反応になるか愚かな記者は気づかなかったらしい。江戸東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-05.html" target="_blank">氏子連</a>150万人(1960年当時)は、怒らないとでも思ったのだろうか？　1874年(明治7)に、薩長政府(教部省)の圧力に負けた神田明神の神主が、氏子連には黙って主柱から将門を外し、代わりにスクナビコナを勧請した。この神主は氏子連より即日、神田明神から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-01-17.html" target="_blank">追放</a>されている。以来、うちの親父の世代まで復帰運動はつづき、実に110年ぶりの1984年(昭和59)に、将門は神田明神の主柱に復活した。　氏子の数も増えつづけ、20世紀末を迎えるころには300万人に倍増し(特に戦後は氏子町の一部である大手町や丸の内の関係筋から企業繫栄・起業成就・商売繁盛の祈念が多そうだが)、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-16.html" target="_blank">神田祭</a>は昔と変わらず<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank">(城)下町</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-16.html" target="_blank">15区</a>でいえば神田区・日本橋区・京橋区の一部・本所区の一部・深川区の一部・麹町区の一部、その他の地域も含め108町(1960年代の東京オリンピックを意識した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-19.html" target="_blank">町名統合・変更</a>で108町に減ったが実際は150町以上)の町内からは、神輿150基と山車50基が陸路あるいは神田川の水路を経由して、神田明神へ集合する日本最大の祭りとなっている。明治以来、神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)は大手町に立ち寄り、薩長政府の弾圧や嫌がらせにもめげず、将門塚(元・神田明神の建立位置)の前で、必ず神輿への将門渡御の神事を行ってきた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E5A19AE58FA4E5A2B328E6988EE6B2BBE5889DE5B9B429.jpg" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x585A;&#x53E4;&#x58B3;(&#x660E;&#x6CBB;&#x521D;&#x5E74;).jpg" width="520" height="660" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19AE58FA4E5A2B3.JPG" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x9996;&#x585A;&#x53E4;&#x58B3;.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19A.jpg" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x9996;&#x585A;.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E6B8A1E5BEA128E6988EE6B2BBE69C9F29.jpg" alt="&#x5C06;&#x9580;&#x6E21;&#x5FA1;(&#x660E;&#x6CBB;&#x671F;).jpg" width="520" height="356" border="0" />　この街の守護神である将門にタタリがあるとすれば、アキレス腱を痛めたり関係者に障りがでたりとか、そんなチャチなバチでは収まらないだろう。万が一にもタタリがあったとすれば、薩長政府が築いたものを根底から破壊することにちがいない。神田明神の主柱外しから、わずか71年後の1945年(昭和20)、薩長政府由来の短命な大日本帝国は膨大な犠牲者を生みながら滅亡している。
◆写真上：古代の神田明神跡＝将門塚で遊ぶ子どもたちで、1968年(昭和43)撮影の江戸東京らしい風景。「祟りが怖い」とは、どこの地方・地域に住んでいる人間の感覚だろう？◆写真中上：上は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)に掲載の大蔵省内にあった将門塚と御手洗池(古蓮池)。中上は、1935年(昭和10)刊行の『武蔵野叢書』(武蔵野会)に掲載された関東大震災直後の大蔵省によるバラック省庁舎の計画図。中下は、鳥居龍蔵チームが北東側から震災直後に撮影した将門塚で、小型の前方後円墳だった様子がよくわかる。下は、南東側の前方部から同チームが撮影した将門塚。◆写真中下：上は、小松真一が作図した将門塚出土の石室計測図。中は、小松真一が撮影した石室の内部。下左は、1927年(昭和2)に刊行された「武蔵野」1月号(武蔵野文化協会)。下右は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)。◆写真下：上は、明治初年に描かれた将門塚で、御手洗池(古蓮池)に張りだした北東側の藤棚あたりからの眺めだと思われる。後円部の残滓は、3間(5.5m)ほどの高さだった。中上は、2011年(平成23)4月に撮影した将門塚の記念碑。中下は、現在の将門塚のモニュメント。下は、明治末か大正初期に撮影された神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)への将門渡御の光景で、背後に見えている墳丘が柴崎古墳(後円部)。本神輿が2基あるうち、1基は出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)の神輿。★おまけ1　小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』に引用されている、上から下へ台東区橋場1丁目の妙亀塚公園内古墳跡と葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡、小松自身が調査した茨城県五霞町川妻にある穴薬師古墳の、羨門から見た玄室(玄門)と玄室内部の石組み(一部修復)。同墳は、薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank">「官令達 </a><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank">乙部第百廿号」</a>により墳丘が崩されたとみられ、ほぼ玄室部のみしか残っていない。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A699E4BA80E5A19AE58FA4E5A2B3.jpg" alt="&#x5999;&#x4E80;&#x585A;&#x53E4;&#x58B3;.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A5BFE58589E5AFBAE6B885E9878DE5A19A.jpg" alt="&#x897F;&#x5149;&#x5BFA;&#x6E05;&#x91CD;&#x585A;.jpg" width="520" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE5B8ABE5A19AE58FA4E5A2B31.jpg" alt="&#x85AC;&#x5E2B;&#x585A;&#x53E4;&#x58B3;1.jpg" width="520" height="730" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE5B8ABE5A19AE58FA4E5A2B32.jpg" alt="&#x85AC;&#x5E2B;&#x585A;&#x53E4;&#x58B3;2.jpg" width="520" height="351" border="0" />★おまけ2破壊される直前、1935年(昭和10)11月29日に小松真一によって撮影された柴崎古墳&lt;将門塚古墳&gt;(仮)の姿。いまだかろうじて、小型の前方後円墳のフォルムをとどめていた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B319351129.jpg" alt="&#x67F4;&#x5D0E;&#x53E4;&#x58B3;19351129.jpg" width="600" height="341" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19A1968.jpg" alt="将門首塚1968.jpg" width="600" height="522" border="0" /></div><div>　1923年(大正12)11月29日、大手町にあった前方後円墳の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">柴崎古墳(仮)</a>＝将門塚が、大蔵省のバラック2棟を建てるために破壊された。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>の考古学グループが視察調査をしてから、およそ2ヶ月後のことだ。その様子を観察していた人物に、大蔵省建築局にいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-11.html" target="_blank" rel="noopener">大熊喜邦</a>と考古学者の小此木忠七、そして下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-27.html" target="_blank" rel="noopener">タタラ遺跡</a>である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519845173.html" target="_blank" rel="noopener">中井遺跡</a>の西南端を、大正期に下落合1923番地に住む栗原家の協力で発掘した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵野文化協会</a>の考古学者・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519856064.html" target="_blank" rel="noopener">小松真一</a>の3人がいた。<br />　鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け跡から出現した築土の形状から、墳丘が全長約30mほどの、古代の柴崎村の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">江戸岬</a>に築造された海を眺める小型の前方後円墳だと想定している。江戸幕府の以前、もともと将門塚の位置には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-15.html" target="_blank" rel="noopener">神田明神</a>が建立(730年)されており、境内には広い御手洗池(古蓮池)が湧水をたたえていた。つまり、平将門が出現して死亡するはるか以前から、神田明神は同塚に創建されていたことになる。将門塚が、江戸初期に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">千代田城</a>の建設で障害になると、神田明神は一時的に神田山(駿河台の位置)へ遷座したが、同塚はそのまま残された。そして、江戸湾を埋め立てるために神田山が崩されはじめると、外神田の現在地へと再遷座している。<br />　少し余談気味になるが、神田明神が将門塚の位置にあった室町期、江戸に城を築いた太田道灌も江戸城鎮守として神田明神を崇敬したと伝えられている。また、道灌は1478年(文明10)に河越(川越)から山王社を勧請し、江戸城の鎮護社としている。現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-21.html" target="_blank" rel="noopener">日枝権現(山王権現)</a>で、のちに徳川家の産土神となり、幕末まで大江戸を二分する天下祭りの西の拠点となった。</div><div>　将門塚の破壊工事現場に立ちあった3人のうち、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-29.html" target="_blank" rel="noopener">大熊喜邦</a>は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-30.html" target="_blank" rel="noopener">帝国議会議事堂</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517714879.html" target="_blank" rel="noopener">国会議事堂</a>)の建設事業を継続するために、上落合469番地(のち470番地)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-11.html" target="_blank" rel="noopener">吉武東里邸</a>で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">設計業務</a>に多忙をきわめていたのだろう、ふたりの考古学者が参加する前日に上落合へ引きあげている。したがって<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank" rel="noopener">大熊喜邦</a>は、古墳が崩される様子を記録に残しているとは考えにくいが、考古学者の小此木忠七と小松真一は破壊の様子を記録しているとみられる。そのうち、小松真一の調査記録を見つけたのでご紹介したい。掲載されていたのは、1927年(昭和2)に武蔵野文化協会が発刊していた歴史の専門誌「武蔵野」1月号(雄山閣)で、小松真一は『大蔵省将門塚内に在つた石室』という、8ページにわたる詳しい記録を寄せている。<br />　それによれば、11月30日に大蔵省の臨時となるバラック省庁舎2棟を、将門塚および御手洗池(古蓮池)跡に建てるため、3間(5.5m)ほどの高さがあった墳丘(後円部)と、前方部とみられる「封土」を崩している際、江戸期のものとみられる茶碗の欠片や瓦が見つかっている。(もっとも前方部は早くから変形されていたようだ)　これは、江戸初期に神田山へ遷座した当初の神田明神の名残りだろう。ところが、つづけて墳丘を崩していくと碑の建っている後円部、すなわち「記念碑から見て先づ南に当る所」から石室が出現した。これは、前方部が東南東に向いているので、通常の後円部にみられる羨門・羨道の位置より、南側へ角度的にややズレた位置から出土したことになりそうだ。出土したのは、人体が収まるほどの長方形をした石室だった。<br />　この石室は、古墳の羨道や玄室とは明らかに異なっており、長さが6尺3寸(約191cm)で幅が奥で2尺8寸7分(約87cm)、入口で2尺9寸(約88cm)、高さが5尺2寸(約158cm)というものだった。底には、一面に平石が敷きつめられており、天井に組まれた石材はひとつが長さ3寸5分(約10.6cm)、幅が1尺2寸(約36cm)、厚みが3～4寸(約9～10cm)というものだった。石材の多くが、江戸時代に多用された相州真鶴産の小松石だったが、それがすべてではなかった。小松石で組まれた石室の中に、より脆弱な質の石材も混在して構築されていた。<br />　その様子を、小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　敷石の入口に向ふ最南端の石は巾一寸四分(4.2cm)、深さ三分(9.1cm)の溝が附けられてる。石室は形は保つてゐるけれども完全ではない。敷石のうち入口から二番目の石は無かつたし、又、奥壁の一部は失はれ、天井石は奥二枚のみ存し、左壁も右壁も石が見えない部分がある。要するに元、一度は少く共露いた形跡が有る。それは此構造物が完形でない事も其証拠であるが、尚、盛土の土が内部に這入り、又瓦の破片やら新らしい時代の陶器、茶碗欠け等が混じつてゐたのでも解る。又、石材のうちにザクザクした脆い石質のものも混用されてゐる。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE794B0E6988EE7A59EE5A283E5868528E5A4A7E6898BE794BA291992E7A59EE794B0E6988EE7A59EE58FB2E88083.jpg" alt="神田明神境内(大手町)1992神田明神史考.jpg" width="520" height="345" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E5A19AE38390E383A9E38383E382AF1935E6ADA6E894B5E9878EE58FA2E69BB828E6ADA6E894B5E9878EE4BC9A29.jpg" alt="将門塚バラック1935武蔵野叢書(武蔵野会).jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B3E996A2E69DB1E5A4A7E99C87E781BD1.jpg" alt="柴崎古墳関東大震災1.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B3E996A2E69DB1E5A4A7E99C87E781BD2.jpg" alt="柴崎古墳関東大震災2.jpg" width="520" height="382" border="0" /></div><div>　文中にある「ザクザクした脆い石質のもの」は、南関東に展開する古墳の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-11.html" target="_blank" rel="noopener">玄室に多用</a>された、小松石よりも加工が容易な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-05.html" target="_blank" rel="noopener">房州石</a>ではなかっただろうか。<br />　すなわち、このような想定が成り立つだろうか。まず、この位置にいまだ神田明神の社殿があった江戸初期の以前に、墳丘が崩れて古墳本来の羨道や玄室が露出したか、あるいは古墳をあばく盗掘の被害に遭い、しばらくは荒廃にまかせるばかりだった。江戸幕府が成立し、神田明神が新たな石材(小松石)を用いて、江戸初期に石室を修復した。徳川家康の先祖である徳阿弥(世良田親氏→松平親氏)が、還俗していずれ「徳川」の姓を名乗れという神託を受けた氏子という関係もあり、当然ながら徳川幕府も修復資金を拠出しているのだろう。</div><div>　その際、以前より露出していた玄室や羨道の石材(房州石)も使えるものはそのまま活用して石室を再構築した。だが、ほどなく同社は遷座することになり社殿は解体され、神田山に建設された新たな社殿へと移った。石室の中から見つかった、比較的新しい茶碗や瓦のカケラは、そのときにでた旧・社殿に関連した廃棄物ではないか。いっしょに調査した小此木忠七によれば、瓦の欠片は寛永年間ごろ、すなわち江戸初期のものと考察されている。<br />　文中の、入口の石に刻まれた「巾一寸四分、深さ三分の溝」は不明だが、神主が祭祀後に榊(さかき)を奉納した溝だろうか。大正期は、古墳時代の前方後円墳(当時は瓢箪型墳墓と呼ばれた)などという概念は一般的ではないので、塚状のものから武器(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">鉄剣・鉄刀</a>)や鎧兜、宝飾類(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">勾玉</a>・管玉・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">宝珠</a>)などの副葬品が見つかると、大昔の墳墓ぐらいの認識はあったかもしれないが、それが1500年前なのか1700年前のものかまでは、人文科学の未発達な当時はわからなかった。小松真一も、「上代の塚墓の盛土を利用してこれに寄生して石室をつくつた事を想像出来ない事はなからう」と想定している。また、その際には新たな付会や説話が多く創られ、語り継がれていくことにも触れている。つまり、柴崎古墳(仮)にまつわる「将門伝説」がそれだ。<br />　また、そのように墳丘が崩され、単なる小さな塚状のたたずまいになってしまった古墳の実例として、浅茅ヶ原の妙亀堂(台東区橋場1丁目の現・妙亀塚公園内古墳跡)、荒川沿いにある渋江村西光寺の清重塚(葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡)、墳丘を農地にすっかり削られた川妻村の薬師堂(茨城県五霞町川妻の穴薬師古墳)の3例を紹介している。最後の穴薬師古墳は、著者の小松真一が関東大震災の前年、1922年(大正11)に現地調査をしたばかりであり、すでに副葬品は盗掘に遭って存在しなかったと「人類学雑誌」に報告している。<br />　なお、穴薬師古墳の「薬師」は同古墳の玄室から薬師如来像が出土したことにちなんでおり、いずれかの時代に古墳があばかれ、そこへ新たに薬師如来像を安置した事蹟によるものだ。穴薬師古墳から東へ180mほどの近くにある、畑地に囲まれわずかな塚丘が残る雷電社も、穴薬師古墳によく似た風情なので同様に古墳だったのではなかろうか。古墳の羨道や玄室が見つかると、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-01.html" target="_blank" rel="noopener">阿弥陀仏</a>や稲荷社・稲荷の祠を建立して奉った事蹟によく似ている。ちなみに、薬師古墳や薬師塚古墳あるいは雷電塚古墳や雷電山古墳は、稲荷塚古墳や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">稲荷山古墳</a>と同じく全国各地に展開している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FB3E5AEA4E5AE9FE6B8ACE59BB3.jpg" alt="石室実測図.jpg" width="520" height="765" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FB3E5AEA4E58685E983A8.jpg" alt="石室内部.jpg" width="520" height="790" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E894B5E9878E192701E6ADA6E894B5E9878EE69687E58C96E58D94E4BC9AE99B84E5B1B1E996A3.jpg" alt="武蔵野192701武蔵野文化協会雄山閣.jpg" width="245" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE794B0E6988EE7A59EE58FB2E880831992E5908CE5888AE8A18CE4BC9A.jpg" alt="神田明神史考1992同刊行会.jpg" width="265" height="370" border="0" /></div><div>　さて、『大蔵省将門塚内に在つた石室』の末尾には、お決まりのように<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-30.html" target="_blank" rel="noopener">「将門伝説」</a>にまつわる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank" rel="noopener">タタリ譚</a>が付記されている。1926年(大正15)12月13日発行の、都新聞の記事からの引用だ。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　大蔵省の式内政務次官が将門塚の祟りでアキレス腱を断つたといふ因縁めいた話は、元来同次官と新聞記者との冗談から花が咲いた噂であるが、これが一度新聞に伝へられると、噂は噂に止まらず省内お役人連の中にはいろいろと気に病む人が少くない。そこへ持つて来て黒田主税局長が最近何うした原因か、矢張アキレス腱の付近に炎症を起してビツコを引き出したのでその噂はいよいよ大仰になり「然う云へば今年の夏、荒川事務次官がアキレス腱を断つたのも将門塚の祟りであらうし、強てコヂつければ故早速(整爾)蔵相の逝去も禁足の禁を破つたのが病勢増進の原因だから、これまた将門塚の祟りかも知れぬ」と昨今気の病み方が一層ひどくなつた。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　将門のタタリが、情けないアキレス腱の故障では、あまりにも矮小でケチすぎやしないだろうか。デスクワークばかりで、単に官吏たちが運動不足だっただけだろう。将門のタタリは、史的な経緯を考えても、菅公の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">雷禍</a>以上でなければ割にあわない。<br />　そもそも、将門は出雲のオオクニヌシ(オオナムチ)とともに、神田明神社が主柱と奉る江戸東京の総鎮守だ。冒頭の将門塚で遊ぶ子どもたちが象徴的なように、この街で、この地域で生まれ育った人間にとっては、1300年の歴史をもつ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-05.html" target="_blank" rel="noopener">ゲニウスロキ(地霊)</a>であり地主神＝守護神そのものだ。タタリがあるとすれば、この街この地域に仇なし敵対する人間たちにほかならない。<br />　たとえば、当時の大蔵省をめぐる新聞記事には、「執念深き亡霊の祟り」などという表現がある。この街に暮らしつづけている住民が、なんで守護神の「祟り」を警戒しなければならないのだろうか？　たとえば、大阪の「住吉さん(すみよっさん)」の3神に対し、「祟り」があるので注意が必要などと書いたら「このドアホが！」、太宰府の菅公天神に対し「祟り」があるから警戒せよなどと発言したら「このバカちんが！」と張り倒されるのがオチだろう。どこの地方・地域でもいい、自身が初詣でなどで贔屓にしている社に向かって、「祟りがあるから気をつけろ」などといったら、どういう反応になるか愚かな記者は気づかなかったらしい。江戸東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-05.html" target="_blank" rel="noopener">氏子連</a>150万人(1960年当時)は、怒らないとでも思ったのだろうか？<br />　1874年(明治7)に、薩長政府(教部省)の圧力に負けた神田明神の神主が、氏子連には黙って主柱から将門を外し、代わりにスクナビコナを勧請した。この神主は氏子連より即日、神田明神から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-01-17.html" target="_blank" rel="noopener">追放</a>されている。以来、うちの親父の世代まで復帰運動はつづき、実に110年ぶりの1984年(昭和59)に、将門は神田明神の主柱に復活した。<br />　氏子の数も増えつづけ、20世紀末を迎えるころには300万人に倍増し(特に戦後は氏子町の一部である大手町や丸の内の関係筋から企業繫栄・起業成就・商売繁盛の祈念が多そうだが)、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-16.html" target="_blank" rel="noopener">神田祭</a>は昔と変わらず<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-16.html" target="_blank" rel="noopener">15区</a>でいえば神田区・日本橋区・京橋区の一部・本所区の一部・深川区の一部・麹町区の一部、その他の地域も含め108町(1960年代の東京オリンピックを意識した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-19.html" target="_blank" rel="noopener">町名統合・変更</a>で108町に減ったが実際は150町以上)の町内からは、神輿150基と山車50基が陸路あるいは神田川の水路を経由して、神田明神へ集合する日本最大の祭りとなっている。明治以来、神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)は大手町に立ち寄り、薩長政府の弾圧や嫌がらせにもめげず、将門塚(元・神田明神の建立位置)の前で、必ず神輿への将門渡御の神事を行ってきた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E5A19AE58FA4E5A2B328E6988EE6B2BBE5889DE5B9B429.jpg" alt="将門塚古墳(明治初年).jpg" width="520" height="660" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19AE58FA4E5A2B3.JPG" alt="将門首塚古墳.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E9A696E5A19A.jpg" alt="将門首塚.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B086E99680E6B8A1E5BEA128E6988EE6B2BBE69C9F29.jpg" alt="将門渡御(明治期).jpg" width="520" height="356" border="0" /></div><div>　この街の守護神である将門にタタリがあるとすれば、アキレス腱を痛めたり関係者に障りがでたりとか、そんなチャチなバチでは収まらないだろう。万が一にもタタリがあったとすれば、薩長政府が築いたものを根底から破壊することにちがいない。神田明神の主柱外しから、わずか71年後の1945年(昭和20)、薩長政府由来の短命な大日本帝国は膨大な犠牲者を生みながら滅亡している。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：古代の神田明神跡＝将門塚で遊ぶ子どもたちで、1968年(昭和43)撮影の江戸東京らしい風景。「祟りが怖い」とは、どこの地方・地域に住んでいる人間の感覚だろう？<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)に掲載の大蔵省内にあった将門塚と御手洗池(古蓮池)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1935年(昭和10)刊行の『武蔵野叢書』(武蔵野会)に掲載された関東大震災直後の大蔵省によるバラック省庁舎の計画図。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、鳥居龍蔵チームが北東側から震災直後に撮影した将門塚で、小型の前方後円墳だった様子がよくわかる。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、南東側の前方部から同チームが撮影した将門塚。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、小松真一が作図した将門塚出土の石室計測図。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、小松真一が撮影した石室の内部。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、1927年(昭和2)に刊行された「武蔵野」1月号(武蔵野文化協会)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、明治初年に描かれた将門塚で、御手洗池(古蓮池)に張りだした北東側の藤棚あたりからの眺めだと思われる。後円部の残滓は、3間(5.5m)ほどの高さだった。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、2011年(平成23)4月に撮影した将門塚の記念碑。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、現在の将門塚のモニュメント。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、明治末か大正初期に撮影された神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)への将門渡御の光景で、背後に見えている墳丘が柴崎古墳(後円部)。本神輿が2基あるうち、1基は出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)の神輿。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』に引用されている、上から下へ台東区橋場1丁目の妙亀塚公園内古墳跡と葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡、小松自身が調査した茨城県五霞町川妻にある穴薬師古墳の、羨門から見た玄室(玄門)と玄室内部の石組み(一部修復)。同墳は、薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">「官令達 </a><span><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">乙部第百廿号」</a>により墳丘が崩されたとみられ、ほぼ玄室部のみしか残っていない。</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A699E4BA80E5A19AE58FA4E5A2B3.jpg" alt="妙亀塚古墳.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A5BFE58589E5AFBAE6B885E9878DE5A19A.jpg" alt="西光寺清重塚.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE5B8ABE5A19AE58FA4E5A2B31.jpg" alt="薬師塚古墳1.jpg" width="520" height="730" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE5B8ABE5A19AE58FA4E5A2B32.jpg" alt="薬師塚古墳2.jpg" width="520" height="351" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>破壊される直前、1935年(昭和10)11月29日に小松真一によって撮影された柴崎古墳&lt;将門塚古墳&gt;(仮)の姿。いまだかろうじて、小型の前方後円墳のフォルムをとどめていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69FB4E5B48EE58FA4E5A2B319351129.jpg" alt="柴崎古墳19351129.jpg" width="600" height="341" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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      <title>2,600万人のご訪問感謝！＋下落合の緑視率。</title>
      <pubDate>Wed, 03 Jun 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　この5月で、拙サイトへのご訪問者がのべ2,600万人を超えた。2024年の12月31日で25,049,507PVを記録したのは2025年1月2日にご報告していたが、2025年1月にSeesaaブログへの移行以来、あまりアクセスカウンターには注意を払ってこなかった。Seesaaブログのデフォルトカウンターは月次のもので、以前のssブログのように累積PVが表示されない。　改めて移行時期からの月次訪問者数を合計したところ、のべ969,564人(2025年＝727,874PV／20..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B791E8A696E78E87E8AABFE69FBB201703.jpg" alt="&#x7DD1;&#x8996;&#x7387;&#x8ABF;&#x67FB;201703.jpg" width="600" height="409" border="0" />　この5月で、拙サイトへのご訪問者がのべ2,600万人を超えた。2024年の12月31日で25,049,507PVを記録したのは2025年1月2日に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2025-01-02.html?1780291277" target="_blank">ご報告</a>していたが、2025年1月にSeesaaブログへの移行以来、あまりアクセスカウンターには注意を払ってこなかった。Seesaaブログのデフォルトカウンターは月次のもので、以前のssブログのように累積PVが表示されない。　改めて移行時期からの月次訪問者数を合計したところ、のべ969,564人(2025年＝727,874PV／2026年5月末＝241,690PV)となり、合計すると26,019,071人と少し前にのべ2,600万人を超えていた。ただし、2024年の大晦日から1月のブログ移行までの期間は、ssブログのカウンターを記録していなかったので、実際はもう少し(10,000人ほど)多いのだろう。　ということで、今後とも拙ブログをどうぞよろしくお願いします。＞ご訪問くださるみなさま。　　★　自治体の報告書や建設用語として、緑視率(緑被率)という用語がある。また、街の風景を3次元的にとらえ、目で見た緑(樹木や草地)の割合を測るのが緑視率であり、たとえば空中写真のように平面上で緑地の割合を算出するのを緑被率とする見方もある。　『都市づくり用語辞典』(アーバン・ルネッサンス社／1987年)で「緑視率」を調べると、「緑被率が平面的な緑の量を把握する尺度であるのに対して、立体的な尺度として用いるもので、視野の範囲の中で植木等緑の占める面積の割合をいう」と解説されている。この緑視率の手法を用いて、新宿区は過去に区内各街の調査を行っている。緑視率調査は、1990年代からはじまっているようで、報告書の名称は変化しているが、現在でも同調査はつづけられているようだ。　それらの報告書には、落合地域を調査したものも含まれているので、ためしに古いレポートを入手して読んでみた。特に、落合地域は章立てが「目白文化村」となっており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank">下落合</a>(現・中落合／中井含む)の中域部(現・中落合)における緑視率が調査されていると思ったからだ。<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>の界隈は、わたしの学生時代から下落合の東部に比べ、緑が急減していた地域なので(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank">十三間通り</a>貫通の影響が大きかったのだろう)、その緑視率に興味があった。　報告書は、1991年(平成3)に新宿区がまとめた『新宿区みどりの実態調査報告書』というもので、その資料編に区内の代表的な街並みの写真と、緑視率の解説が添えられている。だが、落合地域の代表的な街として写された「目白文化村」章だが、どこにも目白文化村の写真など掲載されていなかった。撮影されていたのは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-08.html" target="_blank">七曲坂</a>の中腹に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516974783.html" target="_blank">オバケ坂</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank">バッケ坂</a>)から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank">野鳥の森公園</a>への下り口、そしてオバケ坂の上にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-03-07.html" target="_blank">九条武子邸</a>跡の前の道の3ヶ所で、下落合東部の風景ばかりだった。写真にプリントされた日付によれば、3枚とも1990年(平成2)9月29日に撮影されており、カメラマンは下落合東部の半径70mほどの風景を撮影したにすぎない。　これで落合地域の緑視率を換算されては、ちょっとかなわないなあ……という印象だ。あるいは、何らかの意図があり落合地域で緑視率の高い街角を、恣意的に選んで撮影しているのだろうか。上記の撮影場所は、第一文化村に接した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank">箱根土地本社</a>ビルの跡地から、東へなんと700m以上も離れている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-11-03.html" target="_blank">勝巳商店地所部</a>が、1940年(昭和15)に販売をスタートした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-05-31.html" target="_blank">「目白文化村」</a>よりも、はるかに場ちがいで筋ちがいな地域といってもいいだろう。　なお、緑視率はそこが雑木林であろうが、庭の植樹であろうが緑が見えれば比率は向上するので、緑の質はあまり問題にされない。たとえば武蔵野の森や雑木林の名残りでも、マンションの周辺に植えられた申しわけ程度の植樹でも、“緑”には変わりないので、周囲から土が失われコンクリートのビルだらけになっても、緑視率が向上する、あるいは緑視率が変わらないこともありえるわけだ。つまり、その緑がどのようなもので、周辺の住環境(コミュニティ)にもたらす効果は？……というような、緑の質とその存在の意味あいはあまり問われないことになる。　では、「目白文化村」とされてしまった下落合東部の写真とともに、『新宿区みどりの実態調査報告書』(1991年)の解説を引用してみよう。まずは、写真①の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-04.html" target="_blank">九条武子邸</a>跡の道筋の解説から。　　▼　(3)目白文化村　この地区は、1戸あたりの住宅規模が比較的大きく、庭園木、生垣などが残され、坂道がつづいた所もあり、緑視効果の高い緑が多い。しかし、地域の緑の核となっている大規模な個人住宅の緑地は、都市化の進行により減少し失われつつあることから、適切な保全対策が必要である。また、道路巾が狭くブロック塀、板塀も多いため、今ある樹林を残しながら接道部植栽の改良を図ることが好ましい。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E692AEE5BDB1E3839DE382A4E383B3E383883E3818BE68980.jpg" alt="&#x64AE;&#x5F71;&#x30DD;&#x30A4;&#x30F3;&#x30C8;3&#x304B;&#x6240;.jpg" width="520" height="389" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D82E4B88A19900929.jpg" alt="&#x30AA;&#x30D0;&#x30B1;&#x5742;&#x4E0A;19900929.jpg" width="520" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D82E4B88A.jpg" alt="&#x30AA;&#x30D0;&#x30B1;&#x5742;&#x4E0A;.jpg" width="520" height="390" border="0" />　そして、写真①に添えられたキャプションには、「緑視率30％」と記載されている。書かれていることは事実で、もっともな内容なのだが、それが行政に認識され実際に推進されているかいないかが、報告書から35年後の今日的に問われる課題だろう。ちなみに、1990年(平成2)9月末に撮影された写真の下には、現在の同所の写真を対比的に載せている。(以下同)　次は、「目白文化村」にある坂道の写真が2枚掲載されている。まず、1枚目の写真②だが、撮影されているのは下落合東部のオバケ坂の下り口だ。この坂道は当時、歩行者専用の細い道だったが、現在は坂の東側が開発されバイクが往来できるようになり、また坂の上部にある施設にはクルマが出入りできる環境になっている。では、同写真に添えられた解説文を引用してみよう。　　▼　ブロック塀、フェンスがありながらも庭園木、空地内の緑地が多いことから緑視率は高い。街並が古く個々の樹木が大きく生長していることから、安定した緑量を感じる。今後は、現在の緑をうまく活用しながら、接道面のブロックの生垣化、野鳥誘致のための実のなる木の植栽、石積みではツタの組み合せ、空地の公園化などを推進することにより、さらに良好な緑を形成することができる。　　▲　オバケ坂(バッケ坂)は、わたしの学生時代には両側からクマザサが生い茂り、土の路面が50cmほどしか見えず、まるで低山のハイキングコースを歩いているかのような雰囲気の崖地に通う急坂だった。土面が濡れると滑るため、大正時代のように雨の日には通行を避けていた坂道だ。西側に面した林の中には、鈴木邸(本家)の廃屋が残されたままになっており、周囲の樹林におおわれた風情とあいまって、バッケ坂がいつの間にやら<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-22.html" target="_blank">「オバケ坂」</a>へと転化した典型的な事例だろう。ちなみに、鈴木家では同坂のことを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-27.html" target="_blank">「うちの坂」</a>と呼んでいた。　写真②では、「緑視率55％」となっているが、現在では同坂の東側に繁っていた樹林がすべて伐採されているため、同じカメラで同じ画角の写真であれば、緑視率は50％を大きく割りこんでいるのではないかと思われる。また、坂の西側が野鳥の森公園となって樹林が保存されたが、同公園の南側にあった畑地を含む大樹(特に区保護樹となっていた大ケヤキの何本か)は、すべて開発業者によって伐採されている。伐採前に新宿区のみどりの公園課へ問い合わせをしたが、野鳥の森公園を拡張する予定はまったくないとの回答だった。　さて、最後の写真③だが、上掲のオバケ坂の1本東側に通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-26.html" target="_blank">七曲坂</a>をとらえたものだ。右手には、1917年(大正6)に建設された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-22.html" target="_blank">大島久直邸</a>のコンクリート擁壁がそのまま残る、坂道を半分ほど下りた位置から南を向いて撮影している。同写真に添えられた、解説文を引用してみよう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D8219900929.jpg" alt="&#x30AA;&#x30D0;&#x30B1;&#x5742;19900929.jpg" width="520" height="359" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D822025.jpg" alt="&#x30AA;&#x30D0;&#x30B1;&#x5742;2025.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B883E69BB2E59D8219900929.jpg" alt="&#x4E03;&#x66F2;&#x5742;19900929.jpg" width="520" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B883E69BB2E59D82.jpg" alt="&#x4E03;&#x66F2;&#x5742;.jpg" width="520" height="390" border="0" />　　▼　住宅地内の樹林、生垣、擁壁の緑があり、さらにカーブした坂道が緑を豊富にみせている。坂道やカーブは、単調な緑視にアクセントとなるばかりでなく、緑視効果を高める機能もある。しかし、坂道はコンクリート擁壁などが増えると人工的な景観が強くなることから、ツル植物を利用したり勾配をゆるくしたり、樹林の場合は保全することが重要である。樹林に隣接する板塀、鉄条網などによる道路との分断は避け、できる限り公開性の高い生垣や立入りの検討を推進すべきである。　　▲　わたしも学生時代から歩きなれた坂道だが、3枚の写真では唯一、1990年(平成2年)当時と現在とで、ほとんど風情が変わっていない光景だ。写真③の判定は、「緑視率63％」となっている。ただし、坂下と坂上ではわたしの学生時代に比べ、緑視率が大きく低下しており、特に鎌倉支道とみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank">雑司ヶ谷道</a>(新井薬師道)が通い、江戸期に造られた石仏の地蔵が保存されている坂下の緑が、大きく減少している印象が強い。　解説文は、まさにいずれもおっしゃるとおりで、「推進すべきである」テーマばかりなのだが、それを具体的な計画のもとで、どのように実現していくのかが問われている。行政は「評論家」ではなく、上記の意思を手がける実働部隊なのだから、その姿勢を顕著に見せてほしいのだ。新宿区は2009年(平成21)に「新宿区みどりの基本計画」(改訂)として、落合地域へ全的に緑の“網がけ”をし「樹林地保護強化地域」に指定しているが、この数年間はまったく逆の現象が落合地域でつづいている。区が指定した「保護樹」までが、容易に伐採されているのが現状だ。　緑の急減は、集合住宅の建設にともなうケースが圧倒的に多いが、東京23区では総務省の統計調査(2023年)によれば、646,800戸の空き家(集合住宅含む)がカウントされている。このうち、マンションの空き室戸数はさだかでないが、東京都住宅政策本部の調査(2025年)によれば、新宿区にの北側に隣接する豊島区のマンション空き家(室)率が13.9％、南側に隣接する港区の同空き家(室)率が13.7％と高い数値になっている。これはマンションに50戸あれば、そのうち7戸が、100戸あれば14戸が無住物件という驚くべき数値だ。おそらく、隣接する新宿区も大差ない数値になるのだろうが、これらのマンションが人口の減少とともに廃墟化していくのは目に見えている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A81979-17011.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x6771;&#x90E8;1979.jpg" width="520" height="351" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A81992.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x6771;&#x90E8;1992.jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A82019-e7c38.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x6771;&#x90E8;2019.jpg" width="520" height="405" border="0" />　自治体によるワンルームマンションの規制条例はめずらしくなくなったが、緑を根こそぎ伐採して新たなマンションをこれ以上建設するのを、どうにか条例で規制できないものだろうか。将来、あちこちが“虫食い”のようになった廃墟だらけの東京の街を、子どもたちは見たくないだろう。
◆写真上：2017年(平成29)3月現在の、新宿区で行われた緑視率調査の図版(「新宿区緑視率調査結果報告書2017」より)。落合地域の東部に比べ、西部の緑視率の低いのが歴然としている。この傾向は、わたしの学生時代に感じた街の風情から変わらない。◆写真中上：上は、『新宿区みどりの実態調査報告書1991』掲載の「目白文化村」写真の撮影位置。中・下は、オバケ坂上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-11.html" target="_blank">九条武子邸</a>跡前で撮影された写真①と現状。◆写真中下：上・中上は、オバケ坂の下り口で1990年(平成2)9月に撮影された写真②とその現状。中下・下は、東へ100mほど離れた七曲坂で撮影された写真③とその現状。いずれも「目白文化村」ではなく、鎌倉時代からつづく下落合(字)<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-08.html?1780277547" target="_blank">本村</a>(ほんむら)のエリアだ。◆写真下：上から下へ、わたしの学生時代と重なる1979年(昭和54)に撮影された下落合東部の空中写真、1992年(平成4)撮影の空中写真、2019年(平成31)に撮影された空中写真。あえて統計データを参照するまでもなく、樹木伐採による緑視率(緑被率)の減少は目に見えて明らかだ。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B791E8A696E78E87E8AABFE69FBB201703.jpg" alt="緑視率調査201703.jpg" width="600" height="409" border="0" /></div><div><div>　この5月で、拙サイトへのご訪問者がのべ2,600万人を超えた。2024年の12月31日で25,049,507PVを記録したのは2025年1月2日に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2025-01-02.html?1780291277" target="_blank" rel="noopener">ご報告</a>していたが、2025年1月にSeesaaブログへの移行以来、あまりアクセスカウンターには注意を払ってこなかった。Seesaaブログのデフォルトカウンターは月次のもので、以前のssブログのように累積PVが表示されない。<br />　改めて移行時期からの月次訪問者数を合計したところ、のべ969,564人(2025年＝727,874PV／2026年5月末＝241,690PV)となり、合計すると26,019,071人と少し前にのべ2,600万人を超えていた。ただし、2024年の大晦日から1月のブログ移行までの期間は、ssブログのカウンターを記録していなかったので、実際はもう少し(10,000人ほど)多いのだろう。<br />　ということで、今後とも拙ブログをどうぞよろしくお願いします。＞ご訪問くださるみなさま。</div><div><span style="color: #008000;">　　★</span></div></div><div>　自治体の報告書や建設用語として、緑視率(緑被率)という用語がある。また、街の風景を3次元的にとらえ、目で見た緑(樹木や草地)の割合を測るのが緑視率であり、たとえば空中写真のように平面上で緑地の割合を算出するのを緑被率とする見方もある。<br />　『都市づくり用語辞典』(アーバン・ルネッサンス社／1987年)で「緑視率」を調べると、「緑被率が平面的な緑の量を把握する尺度であるのに対して、立体的な尺度として用いるもので、視野の範囲の中で植木等緑の占める面積の割合をいう」と解説されている。この緑視率の手法を用いて、新宿区は過去に区内各街の調査を行っている。緑視率調査は、1990年代からはじまっているようで、報告書の名称は変化しているが、現在でも同調査はつづけられているようだ。<br />　それらの報告書には、落合地域を調査したものも含まれているので、ためしに古いレポートを入手して読んでみた。特に、落合地域は章立てが「目白文化村」となっており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">下落合</a>(現・中落合／中井含む)の中域部(現・中落合)における緑視率が調査されていると思ったからだ。<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>の界隈は、わたしの学生時代から下落合の東部に比べ、緑が急減していた地域なので(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通り</a>貫通の影響が大きかったのだろう)、その緑視率に興味があった。<br />　報告書は、1991年(平成3)に新宿区がまとめた『新宿区みどりの実態調査報告書』というもので、その資料編に区内の代表的な街並みの写真と、緑視率の解説が添えられている。だが、落合地域の代表的な街として写された「目白文化村」章だが、どこにも目白文化村の写真など掲載されていなかった。撮影されていたのは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">七曲坂</a>の中腹に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516974783.html" target="_blank" rel="noopener">オバケ坂</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ坂</a>)から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">野鳥の森公園</a>への下り口、そしてオバケ坂の上にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">九条武子邸</a>跡の前の道の3ヶ所で、下落合東部の風景ばかりだった。写真にプリントされた日付によれば、3枚とも1990年(平成2)9月29日に撮影されており、カメラマンは下落合東部の半径70mほどの風景を撮影したにすぎない。<br />　これで落合地域の緑視率を換算されては、ちょっとかなわないなあ……という印象だ。あるいは、何らかの意図があり落合地域で緑視率の高い街角を、恣意的に選んで撮影しているのだろうか。上記の撮影場所は、第一文化村に接した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地本社</a>ビルの跡地から、東へなんと700m以上も離れている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-11-03.html" target="_blank" rel="noopener">勝巳商店地所部</a>が、1940年(昭和15)に販売をスタートした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">「目白文化村」</a>よりも、はるかに場ちがいで筋ちがいな地域といってもいいだろう。<br />　なお、緑視率はそこが雑木林であろうが、庭の植樹であろうが緑が見えれば比率は向上するので、緑の質はあまり問題にされない。たとえば武蔵野の森や雑木林の名残りでも、マンションの周辺に植えられた申しわけ程度の植樹でも、“緑”には変わりないので、周囲から土が失われコンクリートのビルだらけになっても、緑視率が向上する、あるいは緑視率が変わらないこともありえるわけだ。つまり、その緑がどのようなもので、周辺の住環境(コミュニティ)にもたらす効果は？……というような、緑の質とその存在の意味あいはあまり問われないことになる。<br />　では、「目白文化村」とされてしまった下落合東部の写真とともに、『新宿区みどりの実態調査報告書』(1991年)の解説を引用してみよう。まずは、写真<span style="color: #ff0000;">①</span>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-04.html" target="_blank" rel="noopener">九条武子邸</a>跡の道筋の解説から。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">(3)目白文化村</span><br />　この地区は、1戸あたりの住宅規模が比較的大きく、庭園木、生垣などが残され、坂道がつづいた所もあり、緑視効果の高い緑が多い。しかし、地域の緑の核となっている大規模な個人住宅の緑地は、都市化の進行により減少し失われつつあることから、適切な保全対策が必要である。また、道路巾が狭くブロック塀、板塀も多いため、今ある樹林を残しながら接道部植栽の改良を図ることが好ましい。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E692AEE5BDB1E3839DE382A4E383B3E383883E3818BE68980.jpg" alt="撮影ポイント3か所.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D82E4B88A19900929.jpg" alt="オバケ坂上19900929.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D82E4B88A.jpg" alt="オバケ坂上.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　そして、写真<span style="color: #ff0000;">①</span>に添えられたキャプションには、「緑視率30％」と記載されている。書かれていることは事実で、もっともな内容なのだが、それが行政に認識され実際に推進されているかいないかが、報告書から35年後の今日的に問われる課題だろう。ちなみに、1990年(平成2)9月末に撮影された写真の下には、現在の同所の写真を対比的に載せている。(以下同)<br />　次は、「目白文化村」にある坂道の写真が2枚掲載されている。まず、1枚目の写真<span style="color: #ff0000;">②</span>だが、撮影されているのは下落合東部のオバケ坂の下り口だ。この坂道は当時、歩行者専用の細い道だったが、現在は坂の東側が開発されバイクが往来できるようになり、また坂の上部にある施設にはクルマが出入りできる環境になっている。では、同写真に添えられた解説文を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　ブロック塀、フェンスがありながらも庭園木、空地内の緑地が多いことから緑視率は高い。街並が古く個々の樹木が大きく生長していることから、安定した緑量を感じる。今後は、現在の緑をうまく活用しながら、接道面のブロックの生垣化、野鳥誘致のための実のなる木の植栽、石積みではツタの組み合せ、空地の公園化などを推進することにより、さらに良好な緑を形成することができる。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　オバケ坂(バッケ坂)は、わたしの学生時代には両側からクマザサが生い茂り、土の路面が50cmほどしか見えず、まるで低山のハイキングコースを歩いているかのような雰囲気の崖地に通う急坂だった。土面が濡れると滑るため、大正時代のように雨の日には通行を避けていた坂道だ。西側に面した林の中には、鈴木邸(本家)の廃屋が残されたままになっており、周囲の樹林におおわれた風情とあいまって、バッケ坂がいつの間にやら<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-22.html" target="_blank" rel="noopener">「オバケ坂」</a>へと転化した典型的な事例だろう。ちなみに、鈴木家では同坂のことを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">「うちの坂」</a>と呼んでいた。<br />　写真<span style="color: #ff0000;">②</span>では、「緑視率55％」となっているが、現在では同坂の東側に繁っていた樹林がすべて伐採されているため、同じカメラで同じ画角の写真であれば、緑視率は50％を大きく割りこんでいるのではないかと思われる。また、坂の西側が野鳥の森公園となって樹林が保存されたが、同公園の南側にあった畑地を含む大樹(特に区保護樹となっていた大ケヤキの何本か)は、すべて開発業者によって伐採されている。伐採前に新宿区のみどりの公園課へ問い合わせをしたが、野鳥の森公園を拡張する予定はまったくないとの回答だった。<br />　さて、最後の写真<span style="color: #ff0000;">③</span>だが、上掲のオバケ坂の1本東側に通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-26.html" target="_blank" rel="noopener">七曲坂</a>をとらえたものだ。右手には、1917年(大正6)に建設された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-22.html" target="_blank" rel="noopener">大島久直邸</a>のコンクリート擁壁がそのまま残る、坂道を半分ほど下りた位置から南を向いて撮影している。同写真に添えられた、解説文を引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D8219900929.jpg" alt="オバケ坂19900929.jpg" width="520" height="359" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE38390E382B1E59D822025.jpg" alt="オバケ坂2025.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B883E69BB2E59D8219900929.jpg" alt="七曲坂19900929.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B883E69BB2E59D82.jpg" alt="七曲坂.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　住宅地内の樹林、生垣、擁壁の緑があり、さらにカーブした坂道が緑を豊富にみせている。坂道やカーブは、単調な緑視にアクセントとなるばかりでなく、緑視効果を高める機能もある。しかし、坂道はコンクリート擁壁などが増えると人工的な景観が強くなることから、ツル植物を利用したり勾配をゆるくしたり、樹林の場合は保全することが重要である。樹林に隣接する板塀、鉄条網などによる道路との分断は避け、できる限り公開性の高い生垣や立入りの検討を推進すべきである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　わたしも学生時代から歩きなれた坂道だが、3枚の写真では唯一、1990年(平成2年)当時と現在とで、ほとんど風情が変わっていない光景だ。写真<span style="color: #ff0000;">③</span>の判定は、「緑視率63％」となっている。ただし、坂下と坂上ではわたしの学生時代に比べ、緑視率が大きく低下しており、特に鎌倉支道とみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷道</a>(新井薬師道)が通い、江戸期に造られた石仏の地蔵が保存されている坂下の緑が、大きく減少している印象が強い。<br />　解説文は、まさにいずれもおっしゃるとおりで、「推進すべきである」テーマばかりなのだが、それを具体的な計画のもとで、どのように実現していくのかが問われている。行政は「評論家」ではなく、上記の意思を手がける実働部隊なのだから、その姿勢を顕著に見せてほしいのだ。新宿区は2009年(平成21)に「新宿区みどりの基本計画」(改訂)として、落合地域へ全的に緑の“網がけ”をし「樹林地保護強化地域」に指定しているが、この数年間はまったく逆の現象が落合地域でつづいている。区が指定した「保護樹」までが、容易に伐採されているのが現状だ。<br />　緑の急減は、集合住宅の建設にともなうケースが圧倒的に多いが、東京23区では総務省の統計調査(2023年)によれば、646,800戸の空き家(集合住宅含む)がカウントされている。このうち、マンションの空き室戸数はさだかでないが、東京都住宅政策本部の調査(2025年)によれば、新宿区にの北側に隣接する豊島区のマンション空き家(室)率が13.9％、南側に隣接する港区の同空き家(室)率が13.7％と高い数値になっている。これはマンションに50戸あれば、そのうち7戸が、100戸あれば14戸が無住物件という驚くべき数値だ。おそらく、隣接する新宿区も大差ない数値になるのだろうが、これらのマンションが人口の減少とともに廃墟化していくのは目に見えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A81979-17011.jpg" alt="下落合東部1979.jpg" width="520" height="351" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A81992.jpg" alt="下落合東部1992.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A82019-e7c38.jpg" alt="下落合東部2019.jpg" width="520" height="405" border="0" /></div><div>　自治体によるワンルームマンションの規制条例はめずらしくなくなったが、緑を根こそぎ伐採して新たなマンションをこれ以上建設するのを、どうにか条例で規制できないものだろうか。将来、あちこちが“虫食い”のようになった廃墟だらけの東京の街を、子どもたちは見たくないだろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：2017年(平成29)3月現在の、新宿区で行われた緑視率調査の図版(「新宿区緑視率調査結果報告書2017」より)。落合地域の東部に比べ、西部の緑視率の低いのが歴然としている。この傾向は、わたしの学生時代に感じた街の風情から変わらない。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、『新宿区みどりの実態調査報告書1991』掲載の「目白文化村」写真の撮影位置。<span style="color: #3366ff;">中</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、オバケ坂上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-11.html" target="_blank" rel="noopener">九条武子邸</a>跡前で撮影された写真<span style="color: #ff0000;">①</span>と現状。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、オバケ坂の下り口で1990年(平成2)9月に撮影された写真<span style="color: #ff0000;">②</span>とその現状。<span style="color: #3366ff;">中下</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、東へ100mほど離れた七曲坂で撮影された写真<span style="color: #ff0000;">③</span>とその現状。いずれも「目白文化村」ではなく、鎌倉時代からつづく下落合(字)<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-08.html?1780277547" target="_blank" rel="noopener">本村</a>(ほんむら)のエリアだ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>から<span style="color: #3366ff;">下</span>へ、わたしの学生時代と重なる1979年(昭和54)に撮影された下落合東部の空中写真、1992年(平成4)撮影の空中写真、2019年(平成31)に撮影された空中写真。あえて統計データを参照するまでもなく、樹木伐採による緑視率(緑被率)の減少は目に見えて明らかだ。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520666422.html</link>
      <title>怪談本のハシリだった『日本国現報善悪霊異記』。</title>
      <pubDate>Sun, 31 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　そろそろ暑くなりかけなので、毎年恒例となった2026年最初の怪談記事を。藤原時代の初期に書かれた怪談本に、『日本国現報善悪霊異記』(略して『日本霊異記』)というのがある。上・中・下巻に分かれており、当時の怪異話や妖怪譚が収録されている。だが、当時の怪異現象はすべて外来宗教の仏教的解釈に結びつけられ、「因果応報」「悪因悪果」「自業自得」など、宗教オルグの法話として扱われている“仏教説話集”なのが味気ない。　不思議で奇妙な現象を、そのまま不可解で未知な体験としては受けとめず、す..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5ADA6E7BF92E999A2E698ADE5928CE5AFAE1994.jpg" alt="&#x5B66;&#x7FD2;&#x9662;&#x662D;&#x548C;&#x5BEE;1994.jpg" width="600" height="408" border="0" />　そろそろ暑くなりかけなので、毎年恒例となった2026年最初の怪談記事を。藤原時代の初期に書かれた怪談本に、『日本国現報善悪霊異記』(略して『日本霊異記』)というのがある。上・中・下巻に分かれており、当時の怪異話や妖怪譚が収録されている。だが、当時の怪異現象はすべて外来宗教の仏教的解釈に結びつけられ、「因果応報」「悪因悪果」「自業自得」など、宗教オルグの法話として扱われている“仏教説話集”なのが味気ない。　不思議で奇妙な現象を、そのまま不可解で未知な体験としては受けとめず、すべて信心の不足に帰するつまらなさは、発光する浮遊物を見たら、なんでもかんでも「燐」か「プラズマ」現象にしてしまう、不思議さや未知の現象をそのまま受けとれない科学者(科学教の信者)と、1枚のコインの裏表のような同レベルのつまらなさだろう。『日本霊異記』は、そのまま読めば面白くない。けれども、記録されているさまざまな怪異現象や妖怪たちは、昔日の人々がなにを怪しみ、なにに恐怖していたのかを知るうえでは、民俗学的に貴重な資料といえるだろう。宗教臭さを度外視して読めば、1200年前にささやかれていた「ほんとにあった怖い話」になるようだ。　薬師寺の景戒(きょうかい／けいかい)が集めた怪異譚は、当然ながら寺に集まる人々にも法話あるいは説教として語られ、それを聞いた当時の人々は恐怖とともに、ふだんの行いを省みて信心や念仏、写経こそが救われる道と考えたのかもしれない。本を書く僧は説話もうまいという、なにやら、わたしが子ども時代に景戒がいた当の薬師寺で聞いた、高田好胤(こういん)のような人物像を想像してしまった。おそらく当時の景戒は、自身を律しながらマジメに仏教思想と、それにもとづく道徳観を広めようとしていたもので、今日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-22.html" target="_blank">堕落して腐敗</a>し仏や檀家を打ち捨てて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-14.html" target="_blank">「敵前逃亡」</a>するような不マジメな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-01.html" target="_blank">坊主たち</a>とは、かなり異質な存在だったのかもしれない。　ただし、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-23.html" target="_blank">仏教</a>の故郷であるシャカ王国(北インド)から直接入ってきたわけではなく、中国や朝鮮半島を経由して輸入された仏教なので、儒教などの影響をモロにかぶった教義(差別思想)となっており、さまざまな人や動物に対する差別や蔑視は強烈だ。女性は、夫と子どもに文句もいわず尽くして一生をすごし(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank">女修身</a>)、生涯にわたり家庭で「貞節」に黙々と生きなければならないし、親や年長者にはそれが「毒親」でどんなに悪くてくだらない年長者であろうと忠孝を尽くさなねばならないし、特に人間の側から見て「醜い」動物、たとえば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-10.html" target="_blank">ヘビ</a>や「ずるがしこい」<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-04.html" target="_blank">キツネ</a>(どこが？)などは徹底して忌避される。悪いことをすると、輪廻転生で「畜生道」に落ちて醜い動物たちになってしまうなど、わが家の周辺に出没する美しい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank">アオダイショウ</a>やユーモラスで大人しい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-09.html" target="_blank">タヌキ</a>、あるいはうちの凶暴な肉食獣(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515721725.html" target="_blank">ネコ</a>)が聞いたら、「バカいってんじゃないわよ、噛んじゃうからね！ 噛むわよ！」と激怒しそうなことが書かれている。　「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」の五戒にもかかわらず、仏教の信者たちは平気でヘビを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank">打(ぶ)ち殺し</a>てるし、坊主が魚を食べようとして村人に「不殺生」戒違反を疑われると、8尾の魚が急に法華経8巻の巻物に変わって無事に寺へとどけられるし、それを見て坊主は「不殺生」違反や「不妄語(嘘つき)」を反省するのかと思いきや、これも仏のご加護と魚を美味しく食べてるし、もうすでに1200年も前から堕落し放題じゃん！……というありさまなのだ。　そんな『日本霊異記』の貴重本を、下落合にお住いの野本直揮様よりお借りしてきた。1925年(大正14)に編纂された「日本古典全集」の第1回配本の、第1巻が『日本霊異記』だったのだ。原本は、江戸期に狩谷棭齊(えきさい)がまとめたもので、校訂を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-14.html" target="_blank">与謝野寛(鉄幹)</a>・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-13.html" target="_blank">与謝野晶子</a>、そして正宗敦夫が担当している。正宗敦夫は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-14.html" target="_blank">正宗白鳥</a>の実弟で国文学者だ。もちろん原典は漢文なので、それを読み下しやすいようレ点や返り点、簡単な送りカナをふっている。　この「日本古典全集」は、日本古典全集刊行会が出版したものだが編集部は下落合の北側、長崎村前高松162番地(のち長崎町長崎東3丁目／現・豊島区高松2丁目)の、長島豊太郎邸内に設置されていた。1925年(大正14)に第1回配本となった第1巻『日本霊異記』を皮切りに、1944年(昭和19)の校訂・万里集九による第266巻『新韻集』まで、実に20年間も出版しつづけた全266巻の稀有かつ壮大な全集本だ。昭和期に入ってブームになる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-04.html" target="_blank">全集本</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-15.html" target="_blank">円本全集</a>のいわば先駆けのようなシリーズ本だった。当初は非売品で、刊行会に登録されている会員のみに配本されていたようだが、昭和初期の全集ブームのときは、途中から書店に卸して一般に販売されているのかもしれない。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E8A1A8E7B499.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x8868;&#x7D19;.jpg" width="255" height="354" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B86E8A1A8E7B499.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x53E4;&#x5178;&#x5168;&#x96C6;&#x8868;&#x7D19;.jpg" width="255" height="354" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B86E7ACAC1E5B7BBE4B8ADE68989.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x53E4;&#x5178;&#x5168;&#x96C6;&#x7B2C;1&#x5DFB;&#x4E2D;&#x6249;.jpg" width="265" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E5A5A5E4BB98.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x5965;&#x4ED8;.jpg" width="245" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E5B48EE794BAE5898DE9AB98E69DBE162.jpg" alt="&#x9577;&#x5D0E;&#x753A;&#x524D;&#x9AD8;&#x677E;162.jpg" width="520" height="408" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B861925EFBD9E1944.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x53E4;&#x5178;&#x5168;&#x96C6;1925&#xFF5E;1944.jpg" width="520" height="495" border="0" />　さて、『日本霊異記』の怪談を少しだけ紹介してみよう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-08.html" target="_blank">小泉八雲</a>が採集した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-03.html" target="_blank">「雪女」</a>にどこか似たような話だけれど、キツネが美しい女子に化けて嫁になり、子どもを産んで仲睦まじく暮らしていたが、家の飼いイヌだけはどうしても懐かず吠えてばかりいた。そんなある日、妻はイヌに襲われてキツネの正体を現し、子どもを残したままどこへともなく消えていった。「雪女」は、これで二度と妻には逢えなくなるのだが、夫が「いつでもおいで」とキツネにいうと、ときどき妻の姿に化けては訪ねてきた。ある日、おめかししてやってきた妻は、家をでると二度ともどってくることはなかった……という、狐狸妖怪譚にしてはちょっと切なさが漂う展開だ。　日本古典全集版の『日本霊異記』だと、すべての記述が漢文体でわずらわしいので、ここは岩波書店の新日本古典文学大系シリーズの第30巻、『日本霊異記』から引用してみよう。　　▼　すなはち家に将(ゐ)て、交通(とつ)ぎて相住む。此頃懐妊みて一の男子を生む。時に其の家の犬も十二月の十五日に子を生む。彼の犬の子、家室(妻)に向ふごとに期剋(いのご)ひ睚眥(にら)み嘷吠(ほ)ゆ。家室(妻)脅え惶(おそ)り、家長(夫)に告げて言はく「此の犬を打ち殺せ」といふ。患へ告ぐといへどもなほ殺さず。二月三月の頃に、年米を設けて春(つ)く。時に其の家室(妻)、稲春女等に間食を充てむとして碓屋(からうすや)に入る。すなはち彼の犬の子、家室(妻)を咋(く)はむとして追ひ吠ゆ。すなはち驚き譟(さわ)ぎ恐ぢ、野干(きつね)に成り、籬(まがき)の上に登りて居る。家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生むが故に、吾れは汝を忘れじ。毎に来りて相寝よ」といふ。故に夫の語に随ひて来て寝き。故に名づけて支都禰(きつね)と為ふなり。(カッコ内引用者註)　　▲　キツネの妻との間に生まれた子どもも、「岐都禰(きつね)」と名づけられて(まんまじゃんw)成長し、足は鳥が飛ぶように速く力も強かったという。　怪異譚の中には、薬師寺にいた行基に関連するものも含まれている。大坂(大阪)難波に赴き、集会の会場で人々に法話を説いていたところ、会場で大声をあげて泣いている子どもがいた。河内からやってきた母親に背負われたその子は、10歳を越えているのに歩きもしなければ言葉もしゃべらず、泣き叫んではおっぱいを欲しがるだけだった。その泣き声で、行基の法話がとぎれがちになり、人々は法話がほとんど聞こえなかった。すると、行基は母親に「その子を川へ投げて打(ぶ)っ殺せ」と命じた。以下、岩波書店版の『日本霊異記』からつづけて引用してみよう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E383BBE4B8ADE383BB33E8A9B1.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x30FB;&#x4E2D;&#x30FB;33&#x8A71;.jpg" width="520" height="356" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A5BFE69D91E69983E3808CE89B87E5A5B3E3808D1968E69DB1E698A0.jpg" alt="&#x897F;&#x6751;&#x6643;&#x300C;&#x86C7;&#x5973;&#x300D;1968&#x6771;&#x6620;.jpg" width="520" height="280" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E5B48EE5B882E58589E6BA90E5AFBAE794A3E5A5B3E5B9BDE99C8A.jpg" alt="&#x9577;&#x5D0E;&#x5E02;&#x5149;&#x6E90;&#x5BFA;&#x7523;&#x5973;&#x5E7D;&#x970A;.jpg" width="520" height="357" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E7B7A8E697A5E69CACE58FA4E585B8E69687E5ADA6E585A8E99B86E3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D1995E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="&#x65B0;&#x7DE8;&#x65E5;&#x672C;&#x53E4;&#x5178;&#x6587;&#x5B66;&#x5168;&#x96C6;&#x300C;&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x300D;1995&#x5C0F;&#x5B66;&#x9928;.jpg" width="255" height="358" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A8981996E5B2A9E6B3A2E69BB8E5BA97.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;1996&#x5CA9;&#x6CE2;&#x66F8;&#x5E97;.jpg" width="255" height="358" border="0" />　　▼　其の児哭(な)き譴(せ)めて法を聞かしめず。其の子年十余歳に至りて其脚歩まず。哭き譴めて乳を飲み、物を噉(く)ふこと間無し。大徳(行基)告げて曰はく「咄(や)、彼の嬢人、其の汝が子を持ち出でて淵に捨てよ」とのたまふ。衆人聞きて、当頭(つつめ)きて曰はく「慈有る聖人、何の因縁を以ちてか是の告有る」といふ。嬢子を慈(いつくし)ぶるに依りて、棄てずしてなほ抱き、持ちて法を説きたまふを聞く。明日にまた来る。子を携きて法を聞く。子なほ囂(かまびす)しく哭き、聴く衆囂に障へられて法を聞くこと得ず。大徳(行基)嘖(せ)めて言はく「其の子を淵に投(なげす)てよ」とのたまふ。爾(そ)の母怪ぶれども思ひ忍ぶること得ず、浮き淵に擲(なげす)つ。児また水の上に浮出でて足を踏み手を攢(も)み目を大く膽睴(みは)りて、慷慨(ねた)みて曰はく「惻(ねた)きかな。今三年徴り食はむをや」といふ。母怪びてまた会に入り法を聞く。大徳(行基)問ひて言はく「子を擲捨てたりや」とのたまふ。時に母答へて具(つぶさ)に上の事を陳ぶ。(カッコ内引用者註)　　▲　「不殺生」は、五戒の1番目にくる最重要なテーマじゃなかったんですか？……という疑問もわくが、この子どもには恨みがこもった前世の因縁が取り憑いており(いま風の怪談でいえば前世の怨霊が憑依しており)、母親を窮地に追いこみ破滅させようとしていたことになっている。だから、行基の説法をことさら泣きわめき邪魔しようとしたのだという。　でも、「親の因果が子に報い～」と、江戸期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-26.html" target="_blank">見世物小屋</a>ではないけれど、坊主にいわれたからといって、母親が実子を早々に川へ投げこんで殺すのは、あまりに早計で短慮だし、仏力で除霊しようとするのが「そもそも筋じゃね？」と、つい思ってしまう結末だ。川に投げこまれて殺された子の責任は、いったい誰がどのように負わなければならないのだろうか。これもいま風にいえば、母親は殺人罪であり、行基は立派な殺人教唆の罪に問われる案件だろう。いくら発育が遅いからといって、今日的に解釈すれば障碍者かもしれない子どもを、「前世からの因縁」という理由づけで「不殺生」戒のはずの坊主が「殺せ」というのは、「どーかしてんじゃね？」という怪談だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/ichidaE3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D2013E383A1E38387E382A3E382A2F.jpg" alt="ichida&#x300C;&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x300D;2013&#x30E1;&#x30C7;&#x30A3;&#x30A2;F.jpg" width="245" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B4E69CA8E38197E38192E3828BE3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D2015E8A792E5B79DE69BB8E5BA97.jpg" alt="&#x6C34;&#x6728;&#x3057;&#x3052;&#x308B;&#x300C;&#x65E5;&#x672C;&#x970A;&#x7570;&#x8A18;&#x300D;2015&#x89D2;&#x5DDD;&#x66F8;&#x5E97;.jpg" width="265" height="375" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE6B389E5B7ABE5A5B3.jpg" alt="&#x539F;&#x6CC9;&#x5DEB;&#x5973;.jpg" width="520" height="382" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3818AE58C96E38191.jpg" alt="&#x304A;&#x5316;&#x3051;.jpg" width="520" height="390" border="0" />　ほかにも、舌だけ腐敗しないで法華経を唱える坊主の野ざらし髑髏とか、「かぐや姫」と同様にある美しい娘のもとへ求婚者が殺到し、いちばんカネめのものを持参した男と結婚させたら、実は男は鬼で、首と指だけ残して娘をぜんぶ食われたとか、ふだんの食事で肉魚を食い8両で仕入れた綿を10両で売り、米を貸して返してもらうとき少しばかり利息をとったせいで(商業で生活していくためには、仕事に対する当然の報酬だと思うが)、畜生道に落とされヘビ→赤イヌ→ネコに転生するハメになったオヤジの話とか、こんな怪談ばかりを収集していた景戒のほうがよほど怪しい人物に見えてくる。人々が殺しあう戦争でこの世がイヤになり「私は貝になりたい」と輪廻を望んだ床屋の清水豊松は、「それが仏罰じゃ」などと決めつけられかねない雰囲気が漂っているようだ。
◆写真上：怪しい映画やドラマには、相変わらず下落合の街角風景が登場している。◆写真中上：上は、1925年(大正14)に出版された日本古典全集の第1巻『日本霊異記』のカバー(左)と表紙(右)。中上は、同書の中扉(左)と奥付(右)。中下は、日本古典全集の同全集刊行会編集室が置かれていた長崎村前高松162番地(現・高松2丁目)の長島豊太郎邸。下は、1925年(大正14)の第1巻から1944年(昭和19)の第266巻までつづいた日本古典全集。◆写真中下：上は、『日本霊異記』の中巻33話めに登場する娘を鬼に食われた話。中上は、1968年(昭和43)に上映された『蛇女』(東映)のワンシーン。中下は、長崎市の光源寺に奉納されている「産女(うぶめ)」の幽霊彫刻。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-31.html" target="_blank">井上哲学堂</a>の哲理門にいる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-29.html" target="_blank">幽霊姉さん</a>よりもかなりおっかない。下は、1995年(平成7)に出版された新編日本古典文学全集『日本霊異記』(小学館／左)と、1996年(平成8)出版の新日本古典文学大系『日本霊異記』(岩波書店／右)。◆写真下：上は、ともにマンガ版で2013年(平成25)出版のichida『日本霊異記』(メディアファクトリー／左)と、2015年(平成26)出版の水木しげる『日本霊異記』(角川書店／右)。中は、お化けよりも怖い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-02.html" target="_blank">原泉</a>演じる巫女。下は、1200年をへた現代でも妖(あやかし)は出現しつづけているらしい。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5ADA6E7BF92E999A2E698ADE5928CE5AFAE1994.jpg" alt="学習院昭和寮1994.jpg" width="600" height="408" border="0" /></div><div>　そろそろ暑くなりかけなので、毎年恒例となった2026年最初の怪談記事を。藤原時代の初期に書かれた怪談本に、『日本国現報善悪霊異記』(略して『日本霊異記』)というのがある。上・中・下巻に分かれており、当時の怪異話や妖怪譚が収録されている。だが、当時の怪異現象はすべて外来宗教の仏教的解釈に結びつけられ、「因果応報」「悪因悪果」「自業自得」など、宗教オルグの法話として扱われている“仏教説話集”なのが味気ない。<br />　不思議で奇妙な現象を、そのまま不可解で未知な体験としては受けとめず、すべて信心の不足に帰するつまらなさは、発光する浮遊物を見たら、なんでもかんでも「燐」か「プラズマ」現象にしてしまう、不思議さや未知の現象をそのまま受けとれない科学者(科学教の信者)と、1枚のコインの裏表のような同レベルのつまらなさだろう。『日本霊異記』は、そのまま読めば面白くない。けれども、記録されているさまざまな怪異現象や妖怪たちは、昔日の人々がなにを怪しみ、なにに恐怖していたのかを知るうえでは、民俗学的に貴重な資料といえるだろう。宗教臭さを度外視して読めば、1200年前にささやかれていた「ほんとにあった怖い話」になるようだ。<br />　薬師寺の景戒(きょうかい／けいかい)が集めた怪異譚は、当然ながら寺に集まる人々にも法話あるいは説教として語られ、それを聞いた当時の人々は恐怖とともに、ふだんの行いを省みて信心や念仏、写経こそが救われる道と考えたのかもしれない。本を書く僧は説話もうまいという、なにやら、わたしが子ども時代に景戒がいた当の薬師寺で聞いた、高田好胤(こういん)のような人物像を想像してしまった。おそらく当時の景戒は、自身を律しながらマジメに仏教思想と、それにもとづく道徳観を広めようとしていたもので、今日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">堕落して腐敗</a>し仏や檀家を打ち捨てて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-14.html" target="_blank" rel="noopener">「敵前逃亡」</a>するような不マジメな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-01.html" target="_blank" rel="noopener">坊主たち</a>とは、かなり異質な存在だったのかもしれない。<br />　ただし、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-23.html" target="_blank" rel="noopener">仏教</a>の故郷であるシャカ王国(北インド)から直接入ってきたわけではなく、中国や朝鮮半島を経由して輸入された仏教なので、儒教などの影響をモロにかぶった教義(差別思想)となっており、さまざまな人や動物に対する差別や蔑視は強烈だ。女性は、夫と子どもに文句もいわず尽くして一生をすごし(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">女修身</a>)、生涯にわたり家庭で「貞節」に黙々と生きなければならないし、親や年長者にはそれが「毒親」でどんなに悪くてくだらない年長者であろうと忠孝を尽くさなねばならないし、特に人間の側から見て「醜い」動物、たとえば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-10.html" target="_blank" rel="noopener">ヘビ</a>や「ずるがしこい」<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-04.html" target="_blank" rel="noopener">キツネ</a>(どこが？)などは徹底して忌避される。悪いことをすると、輪廻転生で「畜生道」に落ちて醜い動物たちになってしまうなど、わが家の周辺に出没する美しい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">アオダイショウ</a>やユーモラスで大人しい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-09.html" target="_blank" rel="noopener">タヌキ</a>、あるいはうちの凶暴な肉食獣(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515721725.html" target="_blank" rel="noopener">ネコ</a>)が聞いたら、「バカいってんじゃないわよ、噛んじゃうからね！ 噛むわよ！」と激怒しそうなことが書かれている。<br />　「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒」の五戒にもかかわらず、仏教の信者たちは平気でヘビを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">打(ぶ)ち殺し</a>てるし、坊主が魚を食べようとして村人に「不殺生」戒違反を疑われると、8尾の魚が急に法華経8巻の巻物に変わって無事に寺へとどけられるし、それを見て坊主は「不殺生」違反や「不妄語(嘘つき)」を反省するのかと思いきや、これも仏のご加護と魚を美味しく食べてるし、もうすでに1200年も前から堕落し放題じゃん！……というありさまなのだ。<br />　そんな『日本霊異記』の貴重本を、下落合にお住いの野本直揮様よりお借りしてきた。1925年(大正14)に編纂された「日本古典全集」の第1回配本の、第1巻が『日本霊異記』だったのだ。原本は、江戸期に狩谷棭齊(えきさい)がまとめたもので、校訂を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">与謝野寛(鉄幹)</a>・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-13.html" target="_blank" rel="noopener">与謝野晶子</a>、そして正宗敦夫が担当している。正宗敦夫は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-14.html" target="_blank" rel="noopener">正宗白鳥</a>の実弟で国文学者だ。もちろん原典は漢文なので、それを読み下しやすいようレ点や返り点、簡単な送りカナをふっている。<br />　この「日本古典全集」は、日本古典全集刊行会が出版したものだが編集部は下落合の北側、長崎村前高松162番地(のち長崎町長崎東3丁目／現・豊島区高松2丁目)の、長島豊太郎邸内に設置されていた。1925年(大正14)に第1回配本となった第1巻『日本霊異記』を皮切りに、1944年(昭和19)の校訂・万里集九による第266巻『新韻集』まで、実に20年間も出版しつづけた全266巻の稀有かつ壮大な全集本だ。昭和期に入ってブームになる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-04.html" target="_blank" rel="noopener">全集本</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">円本全集</a>のいわば先駆けのようなシリーズ本だった。当初は非売品で、刊行会に登録されている会員のみに配本されていたようだが、昭和初期の全集ブームのときは、途中から書店に卸して一般に販売されているのかもしれない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E8A1A8E7B499.jpg" alt="日本霊異記表紙.jpg" width="255" height="354" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B86E8A1A8E7B499.jpg" alt="日本古典全集表紙.jpg" width="255" height="354" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B86E7ACAC1E5B7BBE4B8ADE68989.jpg" alt="日本古典全集第1巻中扉.jpg" width="265" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E5A5A5E4BB98.jpg" alt="日本霊異記奥付.jpg" width="245" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E5B48EE794BAE5898DE9AB98E69DBE162.jpg" alt="長崎町前高松162.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE58FA4E585B8E585A8E99B861925EFBD9E1944.jpg" alt="日本古典全集1925～1944.jpg" width="520" height="495" border="0" /></div><div>　さて、『日本霊異記』の怪談を少しだけ紹介してみよう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-08.html" target="_blank" rel="noopener">小泉八雲</a>が採集した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-03.html" target="_blank" rel="noopener">「雪女」</a>にどこか似たような話だけれど、キツネが美しい女子に化けて嫁になり、子どもを産んで仲睦まじく暮らしていたが、家の飼いイヌだけはどうしても懐かず吠えてばかりいた。そんなある日、妻はイヌに襲われてキツネの正体を現し、子どもを残したままどこへともなく消えていった。「雪女」は、これで二度と妻には逢えなくなるのだが、夫が「いつでもおいで」とキツネにいうと、ときどき妻の姿に化けては訪ねてきた。ある日、おめかししてやってきた妻は、家をでると二度ともどってくることはなかった……という、狐狸妖怪譚にしてはちょっと切なさが漂う展開だ。<br />　日本古典全集版の『日本霊異記』だと、すべての記述が漢文体でわずらわしいので、ここは岩波書店の新日本古典文学大系シリーズの第30巻、『日本霊異記』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　すなはち家に将(ゐ)て、交通(とつ)ぎて相住む。此頃懐妊みて一の男子を生む。時に其の家の犬も十二月の十五日に子を生む。彼の犬の子、家室(妻)に向ふごとに期剋(いのご)ひ睚眥(にら)み嘷吠(ほ)ゆ。家室(妻)脅え惶(おそ)り、家長(夫)に告げて言はく「此の犬を打ち殺せ」といふ。患へ告ぐといへどもなほ殺さず。二月三月の頃に、年米を設けて春(つ)く。時に其の家室(妻)、稲春女等に間食を充てむとして碓屋(からうすや)に入る。すなはち彼の犬の子、家室(妻)を咋(く)はむとして追ひ吠ゆ。すなはち驚き譟(さわ)ぎ恐ぢ、野干(きつね)に成り、籬(まがき)の上に登りて居る。家長見て言はく、「汝と我との中に子を相生むが故に、吾れは汝を忘れじ。毎に来りて相寝よ」といふ。故に夫の語に随ひて来て寝き。故に名づけて支都禰(きつね)と為ふなり。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　キツネの妻との間に生まれた子どもも、「岐都禰(きつね)」と名づけられて(まんまじゃんw)成長し、足は鳥が飛ぶように速く力も強かったという。<br />　怪異譚の中には、薬師寺にいた行基に関連するものも含まれている。大坂(大阪)難波に赴き、集会の会場で人々に法話を説いていたところ、会場で大声をあげて泣いている子どもがいた。河内からやってきた母親に背負われたその子は、10歳を越えているのに歩きもしなければ言葉もしゃべらず、泣き叫んではおっぱいを欲しがるだけだった。その泣き声で、行基の法話がとぎれがちになり、人々は法話がほとんど聞こえなかった。すると、行基は母親に「その子を川へ投げて打(ぶ)っ殺せ」と命じた。以下、岩波書店版の『日本霊異記』からつづけて引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E383BBE4B8ADE383BB33E8A9B1.jpg" alt="日本霊異記・中・33話.jpg" width="520" height="356" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A5BFE69D91E69983E3808CE89B87E5A5B3E3808D1968E69DB1E698A0.jpg" alt="西村晃「蛇女」1968東映.jpg" width="520" height="280" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E5B48EE5B882E58589E6BA90E5AFBAE794A3E5A5B3E5B9BDE99C8A.jpg" alt="長崎市光源寺産女幽霊.jpg" width="520" height="357" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E7B7A8E697A5E69CACE58FA4E585B8E69687E5ADA6E585A8E99B86E3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D1995E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="新編日本古典文学全集「日本霊異記」1995小学館.jpg" width="255" height="358" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE99C8AE795B0E8A8981996E5B2A9E6B3A2E69BB8E5BA97.jpg" alt="日本霊異記1996岩波書店.jpg" width="255" height="358" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　其の児哭(な)き譴(せ)めて法を聞かしめず。其の子年十余歳に至りて其脚歩まず。哭き譴めて乳を飲み、物を噉(く)ふこと間無し。大徳(行基)告げて曰はく「咄(や)、彼の嬢人、其の汝が子を持ち出でて淵に捨てよ」とのたまふ。衆人聞きて、当頭(つつめ)きて曰はく「慈有る聖人、何の因縁を以ちてか是の告有る」といふ。嬢子を慈(いつくし)ぶるに依りて、棄てずしてなほ抱き、持ちて法を説きたまふを聞く。明日にまた来る。子を携きて法を聞く。子なほ囂(かまびす)しく哭き、聴く衆囂に障へられて法を聞くこと得ず。大徳(行基)嘖(せ)めて言はく「其の子を淵に投(なげす)てよ」とのたまふ。爾(そ)の母怪ぶれども思ひ忍ぶること得ず、浮き淵に擲(なげす)つ。児また水の上に浮出でて足を踏み手を攢(も)み目を大く膽睴(みは)りて、慷慨(ねた)みて曰はく「惻(ねた)きかな。今三年徴り食はむをや」といふ。母怪びてまた会に入り法を聞く。大徳(行基)問ひて言はく「子を擲捨てたりや」とのたまふ。時に母答へて具(つぶさ)に上の事を陳ぶ。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　「不殺生」は、五戒の1番目にくる最重要なテーマじゃなかったんですか？……という疑問もわくが、この子どもには恨みがこもった前世の因縁が取り憑いており(いま風の怪談でいえば前世の怨霊が憑依しており)、母親を窮地に追いこみ破滅させようとしていたことになっている。だから、行基の説法をことさら泣きわめき邪魔しようとしたのだという。<br />　でも、「親の因果が子に報い～」と、江戸期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">見世物小屋</a>ではないけれど、坊主にいわれたからといって、母親が実子を早々に川へ投げこんで殺すのは、あまりに早計で短慮だし、仏力で除霊しようとするのが「そもそも筋じゃね？」と、つい思ってしまう結末だ。川に投げこまれて殺された子の責任は、いったい誰がどのように負わなければならないのだろうか。これもいま風にいえば、母親は殺人罪であり、行基は立派な殺人教唆の罪に問われる案件だろう。いくら発育が遅いからといって、今日的に解釈すれば障碍者かもしれない子どもを、「前世からの因縁」という理由づけで「不殺生」戒のはずの坊主が「殺せ」というのは、「どーかしてんじゃね？」という怪談だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/ichidaE3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D2013E383A1E38387E382A3E382A2F.jpg" alt="ichida「日本霊異記」2013メディアF.jpg" width="245" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B4E69CA8E38197E38192E3828BE3808CE697A5E69CACE99C8AE795B0E8A898E3808D2015E8A792E5B79DE69BB8E5BA97.jpg" alt="水木しげる「日本霊異記」2015角川書店.jpg" width="265" height="375" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE6B389E5B7ABE5A5B3.jpg" alt="原泉巫女.jpg" width="520" height="382" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3818AE58C96E38191.jpg" alt="お化け.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　ほかにも、舌だけ腐敗しないで法華経を唱える坊主の野ざらし髑髏とか、「かぐや姫」と同様にある美しい娘のもとへ求婚者が殺到し、いちばんカネめのものを持参した男と結婚させたら、実は男は鬼で、首と指だけ残して娘をぜんぶ食われたとか、ふだんの食事で肉魚を食い8両で仕入れた綿を10両で売り、米を貸して返してもらうとき少しばかり利息をとったせいで(商業で生活していくためには、仕事に対する当然の報酬だと思うが)、畜生道に落とされヘビ→赤イヌ→ネコに転生するハメになったオヤジの話とか、こんな怪談ばかりを収集していた景戒のほうがよほど怪しい人物に見えてくる。人々が殺しあう戦争でこの世がイヤになり「私は貝になりたい」と輪廻を望んだ床屋の清水豊松は、「それが仏罰じゃ」などと決めつけられかねない雰囲気が漂っているようだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：怪しい映画やドラマには、相変わらず下落合の街角風景が登場している。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)に出版された日本古典全集の第1巻『日本霊異記』のカバー(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と表紙(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同書の中扉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、日本古典全集の同全集刊行会編集室が置かれていた長崎村前高松162番地(現・高松2丁目)の長島豊太郎邸。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1925年(大正14)の第1巻から1944年(昭和19)の第266巻までつづいた日本古典全集。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、『日本霊異記』の中巻33話めに登場する娘を鬼に食われた話。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1968年(昭和43)に上映された『蛇女』(東映)のワンシーン。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、長崎市の光源寺に奉納されている「産女(うぶめ)」の幽霊彫刻。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">井上哲学堂</a>の哲理門にいる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-29.html" target="_blank" rel="noopener">幽霊姉さん</a>よりもかなりおっかない。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1995年(平成7)に出版された新編日本古典文学全集『日本霊異記』(小学館／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1996年(平成8)出版の新日本古典文学大系『日本霊異記』(岩波書店／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、ともにマンガ版で2013年(平成25)出版のichida『日本霊異記』(メディアファクトリー／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、2015年(平成26)出版の水木しげる『日本霊異記』(角川書店／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、お化けよりも怖い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-02.html" target="_blank" rel="noopener">原泉</a>演じる巫女。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1200年をへた現代でも妖(あやかし)は出現しつづけているらしい。</div></div><a name="more"></a>

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]]></content:encoded>
            <category>気になる本</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520405707.html</link>
      <title>近衛町通り沿いで暮らした溝口健二。</title>
      <pubDate>Thu, 28 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　以前、大泉黒石の記事に登場した監督・溝口健二の『血と霊』(1923年)をご紹介したことがある。その一連の記事の中で、大泉黒石が娘を連れて近所を散歩をする際に、「彫刻家、画家、映画の監督さんの家」(大泉淵の記憶)に立ち寄ったという証言から、日活向島撮影所の脚本部時代からの知りあい、すなわち『血と霊』を共作した溝口健二も含まれているのではないかと書いた。事実、昭和初期に溝口健二は京都から下落合へ転居してきている。　溝口健二が下落合へ引っ越してきたのは、1936年(昭和11)10..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE79BA3E79DA3.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x76E3;&#x7763;.jpg" width="600" height="456" border="0" />　以前、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-04.html" target="_blank">大泉黒石</a>の記事に登場した監督・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-03.html" target="_blank">溝口健二</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-10.html" target="_blank">『血と霊』</a>(1923年)をご紹介したことがある。その一連の記事の中で、大泉黒石が娘を連れて近所を散歩をする際に、「彫刻家、画家、映画の監督さんの家」(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-30.html" target="_blank">大泉淵</a>の記憶)に立ち寄ったという証言から、日活向島撮影所の脚本部時代からの知りあい、すなわち『血と霊』を共作した溝口健二も含まれているのではないかと書いた。事実、昭和初期に溝口健二は京都から下落合へ転居してきている。　溝口健二が下落合へ引っ越してきたのは、1936年(昭和11)10月初旬あたりとみられる。同月発行の「キネマ週報(The movie weekly)」10月23日号(キネマ週報社)によれば、淀橋区下落合1丁目421番地(現・下落合3丁目)の新居に移ったと告知されている。この住所は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank">近衛町</a>のすぐ北側にあたる区画で、少し前にご紹介した大正初期のミニ文化村<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank">「愛隣園」</a>や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-09-21.html" target="_blank">舟橋家</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-08.html" target="_blank">宅地開発地</a>の近衛町通りをはさんだ東側にあたる。美術の領域にからめて書くと、日本画家で洋画家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank">夏目利政アトリエ</a>から、近衛町通りをはさみ2軒東隣りの敷地だ。　溝口健二は、1898年(明治31)に本郷区の湯島新花町で生まれたが、幼少のころ父親が事業に失敗し転居先の浅草で育った時期が長かったせいか、友人知人たちには浅草っ子と称していたようだ。日活に入社し、本所の向島撮影所に勤務するが、25歳のときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>で向島の撮影所が閉鎖されると、京都の大将軍撮影所へ転勤になっている。京都では、第一映画社で仕事をつづけていたが、同社の解散でおよそ13年ぶりに東京へもどっている。　溝口健二については、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-03.html" target="_blank">大泉黒石</a>に関する記事のほか、拙サイトにはけっこう登場していたことに改めて気づく。雑司谷旭出43番地(現・目白4丁目)に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-05-12.html" target="_blank">入江たか子</a>に関連し、溝口監督の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-21.html" target="_blank">『瀧の白糸』</a>(1933年)をご紹介していた。また、大阪朝日新聞社の依頼で飛行機に乗り、大阪各地を撮影した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-02.html" target="_blank">『朝日は輝く』</a>(1929年)、散歩で訪れる近くの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-27.html" target="_blank">雑司ヶ谷鬼子母神</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank">きしもじん</a>)が舞台の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-14.html" target="_blank">『残菊物語』</a>(1939年)、戦中戦後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-10.html" target="_blank">郊外生活</a>についての記事や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-20.html" target="_blank">大岡昇平</a>原作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-12.html" target="_blank">『武蔵野夫人』</a>(1951年)などだ。さらに、1933年(昭和8)12月以降に上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-18.html" target="_blank">公楽キネマ</a>で上映された(とみられる)、溝口作品(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-05.html" target="_blank">『瀧の白糸』</a>)なども記載していた。　さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をひっくり返して、めざす下落合1丁目421番地を探したのだが、「火保図」自体が見あたらない。山手線のすぐ西側に接した、この下落合一帯の「火保図」は「豊島區No.76」となるはずだが見つからないのだ。念のため、「火保図」に詳しい友人に訊いてみたところ、そもそも「欠番かも」(爆！)ということだった。「火保図」は、たまに区と区の境界あたりの住宅地については出版していないことがあり、たとえ「豊島區No.76」が見つかったとしても、豊島区側にあたる旧・(字)金久保沢の住宅街は描かれていても、淀橋区側の下落合は記載されておらず、空白のままの可能性が高いとのことだった。戦前の住宅街を網羅していると考えていた「火保図」にも、印刷漏れがゴッソリとあったわけだ。　具体的な住所でいうと、下落合1丁目418番地にあたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517646011.html" target="_blank">下落合三丁目駐在所</a>(旧・丸山派出所／下落合一丁目駐在所)から、同450番地の住宅＝「下落合事情明細図」でいうと山本邸(現・清水歯科ビル)まで、東へ三角形に張りだした下落合側の「火保図」が欠落していることになる。おそらく、火災保険特殊地図プロジェクトの調査員は、まちがいなく同エリアの住宅を採取して歩いていると思われるが、それを地図として作成・編集する過程で、なにかの手違いから漏れてしまったのではないか。したがって、1938年(昭和13)現在の住民名は調べようがなかった。　ちなみに、「下落合事情明細図」では同所に「竹岡陽一」邸と記載されている。竹岡陽一は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-04.html" target="_blank">『落合町誌』</a>(落合町誌刊行会)によれば、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank">林泉園</a>に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank">松永安左衛門邸</a>をはじめ、社宅が広く展開していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-02.html" target="_blank">東邦電力</a>の常務取締役だ。1936年(昭和11)に撮影された空中写真をはじめ、戦前・戦中の米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-06.html" target="_blank">偵察機F13</a>による偵察写真を含めて観察すると、敷地内には2棟の住宅が東西に並んで建っているように見える。竹岡家では東邦電力を退職後、生活の足しになるよう敷地内に貸家を建てていた可能性がある。その貸家を、1936年(昭和11)10月より溝口健二が借りて住んでいたものだろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B81926.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x90B8;1926.jpg" width="520" height="396" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B81936.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x90B8;1936.jpg" width="520" height="428" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B8E8B7A1.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x90B8;&#x8DE1;.jpg" width="520" height="382" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE383BBE5A48FE5B79DE99D99E6B19FE383BBE897A4E58E9FE7BEA9E6B19FE3808CE381B5E3828BE38195E381A8E3808D1930.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x30FB;&#x590F;&#x5DDD;&#x9759;&#x6C5F;&#x30FB;&#x85E4;&#x539F;&#x7FA9;&#x6C5F;&#x300C;&#x3075;&#x308B;&#x3055;&#x3068;&#x300D;1930.jpg" width="520" height="413" border="0" />　下落合時代の当時、溝口健二の様子を伝えるインタビュー記録が残されている。1970年(昭和45)にダヴィッド社から出版された、岸松雄の『人物・日本映画史』第1巻から引用してみよう。　　▼　昭和十一年九月、第一映画社は「浪華悲歌」「祇園の姉妹」をおきみやげにして解散、永田雅一は新興キネマ京都撮影所長になり、溝口健二もそのあとにしたがい新興キネマの東京撮影所にはいった。と同時に、京都住まいをやめて東京下落合に移転した。溝口の東京生活がふたたびはじまる。(中略)　東京に久しぶりに帰って来た溝口健二が何を撮るかは相当に話題となった。明治物をやりたくないかと聞かれればいろいろおもしろい明治物の材料はあるが、前とは社会情勢が少し変わって来ているし、検閲も厄介だ。だいいち、考証にあまり努力するのは、それにとらわれて、かんじんの筋をおろそかにしてしまう、と溝口は過去の明治物の未熟さを反省していた。　　▲　東京での映画製作には、かなり慎重になっていた様子がうかがえる。あるいは、ようやく東京にもどれたので、しばらくは充電(休養)のつもりでいたものだろうか。　この時期、文中にもあるが京都の第一映画で製作した、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』が1936年(昭和11)に公開されている。それ以前の数年間、第一映画では年に2本あるいは4本と、彼は旺盛な製作意欲を見せていた。たとえば、前年の1935年(昭和10)に公開された作品には『折鶴お千』『マリヤのお雪』『お嬢お吉』『虞美人草』の4本が、前々年の1934年(昭和9)には『愛憎峠』『神風連』の2本が公開されている。ところが、東京へもどった年に新興キネマで製作したのは、『愛怨峡』の1本のみだった。彼の言葉にもあるが、戦時体制になり「社会情勢」が変わって、「検閲も厄介」になりつつあるのが影響していたのかもしれない。　さて、もうひとつ、下落合の溝口健二には厄介な課題がある。彼の一般的な年譜では、1936年(昭和11)に下落合1丁目421番地に転居してきて、翌1937年(昭和12)には目白通りのすぐ北側にあたる、長崎南町(番地は不明／のち椎名町)に転居となっている。　ところが、「文芸年鑑」(作品社)の溝口健二の項目には、1936年(昭和11)から1940年(昭和15)まで、自宅は下落合のままになっている。1937年(昭和12)の長崎南町への「転居」は、大泉(練馬)にあった撮影所に通うのに便利だからと説明されている記述も見かけるが、長崎南町の家は家族が住む自宅とは別に、仕事部屋として借りていたのではないか。そして、下落合(あるいは長崎南町)に住んだあと、1940年(昭和15)には京橋区新富町2丁目21番地へ転居している。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE697A5E69CACE6A98BE3808D1929.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x65E5;&#x672C;&#x6A4B;&#x300D;1929.jpg" width="520" height="342" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E794B0E69982E5BDA6E383BBE6A285E69D91E89389E5AD90E383BBE5A48FE5B79DE99D99E6B19F1929.jpg" alt="&#x5CA1;&#x7530;&#x6642;&#x5F66;&#x30FB;&#x6885;&#x6751;&#x84C9;&#x5B50;&#x30FB;&#x590F;&#x5DDD;&#x9759;&#x6C5F;1929.jpg" width="520" height="352" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE381A8E794B0E4B8ADE7B5B9E4BBA3E3808CE6B5AAE88AB1E5A5B3E3808D1940.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x3068;&#x7530;&#x4E2D;&#x7D79;&#x4EE3;&#x300C;&#x6D6A;&#x82B1;&#x5973;&#x300D;1940.jpg" width="520" height="381" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE6AE8BE88F8AE789A9E8AA9EE3808DE38387E382B8E382BFE383ABE383AAE3839EE382B9E382BFE383BCE789881939.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x6B8B;&#x83CA;&#x7269;&#x8A9E;&#x300D;&#x30C7;&#x30B8;&#x30BF;&#x30EB;&#x30EA;&#x30DE;&#x30B9;&#x30BF;&#x30FC;&#x7248;1939.jpg" width="255" height="361" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE6ADA6E894B5E9878EE5A4ABE4BABAE3808D1951.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x592B;&#x4EBA;&#x300D;1951.jpg" width="255" height="361" border="0" />　溝口健二の性格については、さまざまな証言が残されている。たとえば、1958年(昭和33)に津村秀夫が書いた『溝口健二というおのこ』(実業之日本社)をはじめ、1964年(昭和39)に出版された依田義賢の『溝口健二の人と芸術』(芸術社)、1976年(昭和51)に新藤兼人が撮影したドキュメンタリーを本にまとめた『ある映画監督』(岩波書店)などに詳しい。特に新藤兼人のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯』では、溝口映画にもっとも多く出演した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank">田中絹代</a>の証言など、生前の溝口健二を知る人々の肉声も含まれていてたいへん貴重だ。　上記の証言類を踏まえ、1984年(昭和59)に文藝春秋から出版されたのが戸板康二『泣きどころ人物誌』だった。著者は、かつて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-02.html" target="_blank">黒澤明</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-09.html" target="_blank">小津安二郎</a>とは面識があったが、溝口健二にはついに会えずじまいだったと残念がっている。同書より、溝口の性格について少し引用してみよう。　　▼　津村(秀夫)も依田(義賢)も新藤(兼人)も、溝口を深く敬愛していて、そのあたたかい心持があるために、場合によってかなりズケズケ辛辣に記述してあっても、読んでいてすこしも不快でない。／溝口は、この本以外の文献もふくめて、数えきれぬほどの伝説を持ち、「ちょっといい話」が、星の数のようにある。(中略) 溝口は完全主義者で、ひとつの作品を作ろうとする時になると、まるで常人ではなくなったらしい。無茶苦茶なことをいい出して、スタッフを泣かせた。／すぐれた芸術家にありがちの、天才と紙一重の狂気もあった。津村(秀夫)の本には、「悪口雑言のかずかず」「サディスト」という章が設けられている。／そういう人物にも、また純情があった。じつはそれが私にとっては救いともいいたいので、溝口には恋人という関係にははいらなかったが、死ぬまでひたすら思慕していた女性がいた。それが、田中絹代であった。(カッコ内引用者註)　　▲　溝口健二＋田中絹代のコンビは、1940年(昭和15)の『浪花女』にはじまり、戦後の『武蔵野夫人』(1951年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『祇園囃子』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)など円熟期の代表作へとつづいていく。　田中絹代でちょっとだけ余談だが、「カマトト」という言葉は彼女の質問に由来するという伝説がある。彼女が「かまぼこって、おトト(魚)なの？」と誰かに訊いたため、誰でも知っていることを改めて訊きなおすのを「カマトト」といいはじめた……という語源譚だ。確かに、田中絹代ならなんとなく口にしそうな質問だ。「おトト」は魚(肴)の幼児語で、江戸期の安永年間ごろから盛んにつかわれていたようだが、古い東京方言で「おトト」というと魚とは別に酒の幼児語でもある。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E894B5E9878EE5A4ABE4BABA1951.jpg" alt="&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x592B;&#x4EBA;1951.jpg" width="520" height="346" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE8A5BFE9B6B4E4B880E4BBA3E5A5B3E3808D1952.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x897F;&#x9DB4;&#x4E00;&#x4EE3;&#x5973;&#x300D;1952.jpg" width="520" height="621" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE99BA8E69C88E789A9E8AA9EE3808D1953.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x96E8;&#x6708;&#x7269;&#x8A9E;&#x300D;1953.jpg" width="520" height="364" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE5B1B1E6A492E5A4A7E5A4ABE3808D1954.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x5C71;&#x6912;&#x5927;&#x592B;&#x300D;1954.jpg" width="520" height="346" border="0" />　戦後の代表作『西鶴一代女』(1952年)には、笹屋の番頭・文吉に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-23.html" target="_blank">大泉黒石</a>の息子・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-08.html" target="_blank">大泉滉</a>が出演している。同作品がヴェネツィア国際映画祭で「国際賞」を受賞したとき、映画スタッフたちは全員が狂喜したと思われるが、溝口健二にかかわった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank">大泉黒石</a>と大泉滉も親子で喜んだのだろう。
◆写真上：映画のセットでなにかを熟考する、「サディスト」で「完全主義者」の溝口健二。 ◆写真中上：上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる竹岡陽一邸。中上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる竹岡邸。敷地内には2軒の住宅が確認でき、いずれかを溝口家が借りていたとみられる。中下は、溝口健二邸跡の現状(左角マンション)。下は、1930年(昭和5)製作の『ふるさと』(日活)で左から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank">夏川静江</a>、溝口健二、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-08.html" target="_blank">藤原義江</a>。◆写真中下：上・中上は、1929年(昭和4)に製作された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-13.html" target="_blank">泉鏡花</a>が原作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-21.html" target="_blank">『日本橋』</a>(日活)。出演者は右から左へ岡田時彦、梅村蓉子、夏川静江。中下は、1940年(昭和15)に『浪花女』(特作プロ)を撮影中のスナップで溝口健二と田中絹代(右)。下は、近年にデジタルリマスタリングがほどこされて画質が格段に向上しBDやDVDで発売された、1939年(昭和14)に製作された『残菊物語』(松竹／左)と、戦後の1951年(昭和26)に製作された『武蔵野夫人』(東宝／右)。◆写真下：上は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-31.html" target="_blank">小金井</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-01.html" target="_blank">ハケ</a>を舞台にした『武蔵野夫人』(1951年)のシーンで右から左へ田中絹代、轟夕起子、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519966205.html" target="_blank">山村聰</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-05.html" target="_blank">森雅之</a>。中上は、1952年(昭和27)製作の『西鶴一代女』(新東宝)のシーンで中央が田中絹代。中下は、1953年(昭和28)に製作された『雨月物語』(大映)で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-08-22.html" target="_blank">森雅之</a>と田中絹代。下は、1954年(昭和29)に製作された『山椒大夫』(大映)で右からふたりめが田中絹代。★おまけ　『西鶴一代女』(新東宝／1952年)のポスターと、同作に笹屋の番頭として出演していた大泉滉。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE8A5BFE9B6B4E4B880E4BBA3E5A5B3E3808D.jpg" alt="&#x6E9D;&#x53E3;&#x5065;&#x4E8C;&#x300C;&#x897F;&#x9DB4;&#x4E00;&#x4EE3;&#x5973;&#x300D;.jpg" width="520" height="749" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E6B389E69983.jpg" alt="&#x5927;&#x6CC9;&#x6643;.jpg" width="520" height="416" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE79BA3E79DA3.jpg" alt="溝口健二監督.jpg" width="600" height="456" border="0" /></div><div>　以前、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-04.html" target="_blank" rel="noopener">大泉黒石</a>の記事に登場した監督・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-03.html" target="_blank" rel="noopener">溝口健二</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-10.html" target="_blank" rel="noopener">『血と霊』</a>(1923年)をご紹介したことがある。その一連の記事の中で、大泉黒石が娘を連れて近所を散歩をする際に、「彫刻家、画家、映画の監督さんの家」(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-30.html" target="_blank" rel="noopener">大泉淵</a>の記憶)に立ち寄ったという証言から、日活向島撮影所の脚本部時代からの知りあい、すなわち『血と霊』を共作した溝口健二も含まれているのではないかと書いた。事実、昭和初期に溝口健二は京都から下落合へ転居してきている。<br />　溝口健二が下落合へ引っ越してきたのは、1936年(昭和11)10月初旬あたりとみられる。同月発行の「キネマ週報(The movie weekly)」10月23日号(キネマ週報社)によれば、淀橋区下落合1丁目421番地(現・下落合3丁目)の新居に移ったと告知されている。この住所は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>のすぐ北側にあたる区画で、少し前にご紹介した大正初期のミニ文化村<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank" rel="noopener">「愛隣園」</a>や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-09-21.html" target="_blank" rel="noopener">舟橋家</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">宅地開発地</a>の近衛町通りをはさんだ東側にあたる。美術の領域にからめて書くと、日本画家で洋画家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank" rel="noopener">夏目利政アトリエ</a>から、近衛町通りをはさみ2軒東隣りの敷地だ。<br />　溝口健二は、1898年(明治31)に本郷区の湯島新花町で生まれたが、幼少のころ父親が事業に失敗し転居先の浅草で育った時期が長かったせいか、友人知人たちには浅草っ子と称していたようだ。日活に入社し、本所の向島撮影所に勤務するが、25歳のときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>で向島の撮影所が閉鎖されると、京都の大将軍撮影所へ転勤になっている。京都では、第一映画社で仕事をつづけていたが、同社の解散でおよそ13年ぶりに東京へもどっている。<br />　溝口健二については、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-03.html" target="_blank" rel="noopener">大泉黒石</a>に関する記事のほか、拙サイトにはけっこう登場していたことに改めて気づく。雑司谷旭出43番地(現・目白4丁目)に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-05-12.html" target="_blank" rel="noopener">入江たか子</a>に関連し、溝口監督の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-21.html" target="_blank" rel="noopener">『瀧の白糸』</a>(1933年)をご紹介していた。また、大阪朝日新聞社の依頼で飛行機に乗り、大阪各地を撮影した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-02.html" target="_blank" rel="noopener">『朝日は輝く』</a>(1929年)、散歩で訪れる近くの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷鬼子母神</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank" rel="noopener">きしもじん</a>)が舞台の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-14.html" target="_blank" rel="noopener">『残菊物語』</a>(1939年)、戦中戦後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-10.html" target="_blank" rel="noopener">郊外生活</a>についての記事や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">大岡昇平</a>原作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-12.html" target="_blank" rel="noopener">『武蔵野夫人』</a>(1951年)などだ。さらに、1933年(昭和8)12月以降に上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-18.html" target="_blank" rel="noopener">公楽キネマ</a>で上映された(とみられる)、溝口作品(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">『瀧の白糸』</a>)なども記載していた。<br />　さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をひっくり返して、めざす下落合1丁目421番地を探したのだが、「火保図」自体が見あたらない。山手線のすぐ西側に接した、この下落合一帯の「火保図」は「豊島區No.76」となるはずだが見つからないのだ。念のため、「火保図」に詳しい友人に訊いてみたところ、そもそも「欠番かも」(爆！)ということだった。「火保図」は、たまに区と区の境界あたりの住宅地については出版していないことがあり、たとえ「豊島區No.76」が見つかったとしても、豊島区側にあたる旧・(字)金久保沢の住宅街は描かれていても、淀橋区側の下落合は記載されておらず、空白のままの可能性が高いとのことだった。戦前の住宅街を網羅していると考えていた「火保図」にも、印刷漏れがゴッソリとあったわけだ。<br />　具体的な住所でいうと、下落合1丁目418番地にあたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517646011.html" target="_blank" rel="noopener">下落合三丁目駐在所</a>(旧・丸山派出所／下落合一丁目駐在所)から、同450番地の住宅＝「下落合事情明細図」でいうと山本邸(現・清水歯科ビル)まで、東へ三角形に張りだした下落合側の「火保図」が欠落していることになる。おそらく、火災保険特殊地図プロジェクトの調査員は、まちがいなく同エリアの住宅を採取して歩いていると思われるが、それを地図として作成・編集する過程で、なにかの手違いから漏れてしまったのではないか。したがって、1938年(昭和13)現在の住民名は調べようがなかった。<br />　ちなみに、「下落合事情明細図」では同所に「竹岡陽一」邸と記載されている。竹岡陽一は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">『落合町誌』</a>(落合町誌刊行会)によれば、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank" rel="noopener">林泉園</a>に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank" rel="noopener">松永安左衛門邸</a>をはじめ、社宅が広く展開していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">東邦電力</a>の常務取締役だ。1936年(昭和11)に撮影された空中写真をはじめ、戦前・戦中の米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>による偵察写真を含めて観察すると、敷地内には2棟の住宅が東西に並んで建っているように見える。竹岡家では東邦電力を退職後、生活の足しになるよう敷地内に貸家を建てていた可能性がある。その貸家を、1936年(昭和11)10月より溝口健二が借りて住んでいたものだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B81926.jpg" alt="溝口健二邸1926.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B81936.jpg" alt="溝口健二邸1936.jpg" width="520" height="428" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE982B8E8B7A1.jpg" alt="溝口健二邸跡.jpg" width="520" height="382" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE383BBE5A48FE5B79DE99D99E6B19FE383BBE897A4E58E9FE7BEA9E6B19FE3808CE381B5E3828BE38195E381A8E3808D1930.jpg" alt="溝口健二・夏川静江・藤原義江「ふるさと」1930.jpg" width="520" height="413" border="0" /></div><div>　下落合時代の当時、溝口健二の様子を伝えるインタビュー記録が残されている。1970年(昭和45)にダヴィッド社から出版された、岸松雄の『人物・日本映画史』第1巻から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　昭和十一年九月、第一映画社は「浪華悲歌」「祇園の姉妹」をおきみやげにして解散、永田雅一は新興キネマ京都撮影所長になり、溝口健二もそのあとにしたがい新興キネマの東京撮影所にはいった。と同時に、京都住まいをやめて東京下落合に移転した。溝口の東京生活がふたたびはじまる。(中略)　東京に久しぶりに帰って来た溝口健二が何を撮るかは相当に話題となった。明治物をやりたくないかと聞かれればいろいろおもしろい明治物の材料はあるが、前とは社会情勢が少し変わって来ているし、検閲も厄介だ。だいいち、考証にあまり努力するのは、それにとらわれて、かんじんの筋をおろそかにしてしまう、と溝口は過去の明治物の未熟さを反省していた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　東京での映画製作には、かなり慎重になっていた様子がうかがえる。あるいは、ようやく東京にもどれたので、しばらくは充電(休養)のつもりでいたものだろうか。<br />　この時期、文中にもあるが京都の第一映画で製作した、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』が1936年(昭和11)に公開されている。それ以前の数年間、第一映画では年に2本あるいは4本と、彼は旺盛な製作意欲を見せていた。たとえば、前年の1935年(昭和10)に公開された作品には『折鶴お千』『マリヤのお雪』『お嬢お吉』『虞美人草』の4本が、前々年の1934年(昭和9)には『愛憎峠』『神風連』の2本が公開されている。ところが、東京へもどった年に新興キネマで製作したのは、『愛怨峡』の1本のみだった。彼の言葉にもあるが、戦時体制になり「社会情勢」が変わって、「検閲も厄介」になりつつあるのが影響していたのかもしれない。<br />　さて、もうひとつ、下落合の溝口健二には厄介な課題がある。彼の一般的な年譜では、1936年(昭和11)に下落合1丁目421番地に転居してきて、翌1937年(昭和12)には目白通りのすぐ北側にあたる、長崎南町(番地は不明／のち椎名町)に転居となっている。<br />　ところが、「文芸年鑑」(作品社)の溝口健二の項目には、1936年(昭和11)から1940年(昭和15)まで、自宅は下落合のままになっている。1937年(昭和12)の長崎南町への「転居」は、大泉(練馬)にあった撮影所に通うのに便利だからと説明されている記述も見かけるが、長崎南町の家は家族が住む自宅とは別に、仕事部屋として借りていたのではないか。そして、下落合(あるいは長崎南町)に住んだあと、1940年(昭和15)には京橋区新富町2丁目21番地へ転居している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE697A5E69CACE6A98BE3808D1929.jpg" alt="溝口健二「日本橋」1929.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E794B0E69982E5BDA6E383BBE6A285E69D91E89389E5AD90E383BBE5A48FE5B79DE99D99E6B19F1929.jpg" alt="岡田時彦・梅村蓉子・夏川静江1929.jpg" width="520" height="352" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE381A8E794B0E4B8ADE7B5B9E4BBA3E3808CE6B5AAE88AB1E5A5B3E3808D1940.jpg" alt="溝口健二と田中絹代「浪花女」1940.jpg" width="520" height="381" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE6AE8BE88F8AE789A9E8AA9EE3808DE38387E382B8E382BFE383ABE383AAE3839EE382B9E382BFE383BCE789881939.jpg" alt="溝口健二「残菊物語」デジタルリマスター版1939.jpg" width="255" height="361" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE6ADA6E894B5E9878EE5A4ABE4BABAE3808D1951.jpg" alt="溝口健二「武蔵野夫人」1951.jpg" width="255" height="361" border="0" /></div><div>　溝口健二の性格については、さまざまな証言が残されている。たとえば、1958年(昭和33)に津村秀夫が書いた『溝口健二というおのこ』(実業之日本社)をはじめ、1964年(昭和39)に出版された依田義賢の『溝口健二の人と芸術』(芸術社)、1976年(昭和51)に新藤兼人が撮影したドキュメンタリーを本にまとめた『ある映画監督』(岩波書店)などに詳しい。特に新藤兼人のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯』では、溝口映画にもっとも多く出演した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank" rel="noopener">田中絹代</a>の証言など、生前の溝口健二を知る人々の肉声も含まれていてたいへん貴重だ。<br />　上記の証言類を踏まえ、1984年(昭和59)に文藝春秋から出版されたのが戸板康二『泣きどころ人物誌』だった。著者は、かつて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-02.html" target="_blank" rel="noopener">黒澤明</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-09.html" target="_blank" rel="noopener">小津安二郎</a>とは面識があったが、溝口健二にはついに会えずじまいだったと残念がっている。同書より、溝口の性格について少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　津村(秀夫)も依田(義賢)も新藤(兼人)も、溝口を深く敬愛していて、そのあたたかい心持があるために、場合によってかなりズケズケ辛辣に記述してあっても、読んでいてすこしも不快でない。／溝口は、この本以外の文献もふくめて、数えきれぬほどの伝説を持ち、「ちょっといい話」が、星の数のようにある。(中略) 溝口は完全主義者で、ひとつの作品を作ろうとする時になると、まるで常人ではなくなったらしい。無茶苦茶なことをいい出して、スタッフを泣かせた。／すぐれた芸術家にありがちの、天才と紙一重の狂気もあった。津村(秀夫)の本には、「悪口雑言のかずかず」「サディスト」という章が設けられている。／そういう人物にも、また純情があった。じつはそれが私にとっては救いともいいたいので、溝口には恋人という関係にははいらなかったが、死ぬまでひたすら思慕していた女性がいた。それが、田中絹代であった。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　溝口健二＋田中絹代のコンビは、1940年(昭和15)の『浪花女』にはじまり、戦後の『武蔵野夫人』(1951年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『祇園囃子』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)など円熟期の代表作へとつづいていく。<br />　田中絹代でちょっとだけ余談だが、「カマトト」という言葉は彼女の質問に由来するという伝説がある。彼女が「かまぼこって、おトト(魚)なの？」と誰かに訊いたため、誰でも知っていることを改めて訊きなおすのを「カマトト」といいはじめた……という語源譚だ。確かに、田中絹代ならなんとなく口にしそうな質問だ。「おトト」は魚(肴)の幼児語で、江戸期の安永年間ごろから盛んにつかわれていたようだが、古い東京方言で「おトト」というと魚とは別に酒の幼児語でもある。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E894B5E9878EE5A4ABE4BABA1951.jpg" alt="武蔵野夫人1951.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE8A5BFE9B6B4E4B880E4BBA3E5A5B3E3808D1952.jpg" alt="溝口健二「西鶴一代女」1952.jpg" width="520" height="621" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE99BA8E69C88E789A9E8AA9EE3808D1953.jpg" alt="溝口健二「雨月物語」1953.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE5B1B1E6A492E5A4A7E5A4ABE3808D1954.jpg" alt="溝口健二「山椒大夫」1954.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div>　戦後の代表作『西鶴一代女』(1952年)には、笹屋の番頭・文吉に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-23.html" target="_blank" rel="noopener">大泉黒石</a>の息子・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-08.html" target="_blank" rel="noopener">大泉滉</a>が出演している。同作品がヴェネツィア国際映画祭で「国際賞」を受賞したとき、映画スタッフたちは全員が狂喜したと思われるが、溝口健二にかかわった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank" rel="noopener">大泉黒石</a>と大泉滉も親子で喜んだのだろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：映画のセットでなにかを熟考する、「サディスト」で「完全主義者」の溝口健二。 <br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる竹岡陽一邸。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる竹岡邸。敷地内には2軒の住宅が確認でき、いずれかを溝口家が借りていたとみられる。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、溝口健二邸跡の現状(左角マンション)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1930年(昭和5)製作の『ふるさと』(日活)で左から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank" rel="noopener">夏川静江</a>、溝口健二、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">藤原義江</a>。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1929年(昭和4)に製作された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">泉鏡花</a>が原作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-21.html" target="_blank" rel="noopener">『日本橋』</a>(日活)。出演者は右から左へ岡田時彦、梅村蓉子、夏川静江。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1940年(昭和15)に『浪花女』(特作プロ)を撮影中のスナップで溝口健二と田中絹代(右)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、近年にデジタルリマスタリングがほどこされて画質が格段に向上しBDやDVDで発売された、1939年(昭和14)に製作された『残菊物語』(松竹／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、戦後の1951年(昭和26)に製作された『武蔵野夫人』(東宝／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">小金井</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-01.html" target="_blank" rel="noopener">ハケ</a>を舞台にした『武蔵野夫人』(1951年)のシーンで右から左へ田中絹代、轟夕起子、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519966205.html" target="_blank" rel="noopener">山村聰</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-05.html" target="_blank" rel="noopener">森雅之</a>。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1952年(昭和27)製作の『西鶴一代女』(新東宝)のシーンで中央が田中絹代。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1953年(昭和28)に製作された『雨月物語』(大映)で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">森雅之</a>と田中絹代。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1954年(昭和29)に製作された『山椒大夫』(大映)で右からふたりめが田中絹代。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　『西鶴一代女』(新東宝／1952年)のポスターと、同作に笹屋の番頭として出演していた大泉滉。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA9DE58FA3E581A5E4BA8CE3808CE8A5BFE9B6B4E4B880E4BBA3E5A5B3E3808D.jpg" alt="溝口健二「西鶴一代女」.jpg" width="520" height="749" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E6B389E69983.jpg" alt="大泉晃.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <title>中井駅前に立つ出征将校(士官)はどこの誰？</title>
      <pubDate>Mon, 25 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　落合地域の地元資料や、新宿区の現代史資料で、戦時中の地域の様子を紹介するのによく引用される写真がある。菅野廉一という方が撮影した、「出征兵士」を送る冒頭の写真だ。太平洋戦争の開始後1942年(昭和17)に撮影されたもので、場所は西武線・中井駅前の広場だ。きょうは、この写真にとらえられた人物ついて少しこだわり、やや強引ながら掘り下げてみたい。　この写真には、引用資料に「出征兵士を送る……」というキャプションが添えられていることが多いけれど、写っている台の上に立つ人物は、明らか..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB21942.jpg" alt="&#x51FA;&#x5F81;&#x5175;&#x58EB;&#x4FDD;&#x5742;&#x5609;&#x9332;1942.jpg" width="600" height="426" border="0" />　落合地域の地元資料や、新宿区の現代史資料で、戦時中の地域の様子を紹介するのによく引用される写真がある。菅野廉一という方が撮影した、「出征兵士」を送る冒頭の写真だ。太平洋戦争の開始後1942年(昭和17)に撮影されたもので、場所は西武線・中井駅前の広場だ。きょうは、この写真にとらえられた人物ついて少しこだわり、やや強引ながら掘り下げてみたい。　この写真には、引用資料に「出征兵士を送る……」というキャプションが添えられていることが多いけれど、写っている台の上に立つ人物は、明らかに兵士ではなく陸軍の「将校(士官)」だ。よく人物を観察すると、両手には白手袋をはめており、右腰の拳銃は丸い水筒のような装備に隠れて見えないが、左腰に吊るされた短剣が確認できる。すなわち、この人物は少なくとも大学卒業か、あるいはそれに準じる学歴の持ち主であり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-04.html" target="_blank">赤紙(召集令状)</a>を受けとったときは少なくとも尉官(少尉か？)、あるいは除隊後の予備役召集であればそれ以上の階級士官として、入隊が予定されていたとみられる。だから、出征の際にも将校の軍服を着用しているのだろう。　次に、出征旗やのぼりなどに混じって、出征士官の名前が読みとれる。氏名が書かれたのぼりには、「出征／保坂嘉録君」と書かれている。おそらく、下落合(現・中落合／中井含む)の西部か、上落合の西部に居住していた人物と思われるが、残念ながら大正末から1960年代にかけて作成された、苗字が掲載されている住宅明細図類に、「保坂」という姓の家は発見できなかった。昭和10年代ともなると、中井駅の周辺にはアパートが数多く建てられているので、そのような集合住宅で暮らしていた人物かもしれないし、借家住まいだと名前が採取されない可能性が高い。　ちなみに、中井駅前のどこの場所で撮影されたものか厳密に見ていこう。太陽光は、左手の上方から射しており、見えている鉄製の支柱は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-15.html" target="_blank">東京電燈谷村線</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html" target="_blank">高圧線鉄塔</a>の下部だ。戦後の写真になるが、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前の踏み切り写真には、焼けずに残ったこの高圧線鉄塔がとらえられている。したがって、冒頭の写真で出征を見送る壮行会が開かれているのは、踏み切りを南へわたり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-27.html" target="_blank">寺斉橋</a>の手前、中井駅の小さな駅前広場から路上にかけてであるのがわかる。高圧線鉄塔の角度から、将校が台の上に立っているのは、中井駅前の広場へ少し入ったあたりだろうか。中井駅舎は、写真の左手枠外ということになる。　さて、以上のようなことを踏まえ、名前としてはめずらしい保坂「嘉録」(かろくorよしろく？)について考えてみる。保坂という苗字は、この地方でいうと山梨県の甲府周辺に多い苗字だ。この人物は、地元で中学校を終えると、大学予科あるいは専門学校へ入学するために、東京へやってきたものだろうか。学生時代の住まいと、同じ地域に住んでいるとはまったく限らないが、他の地方から就学のために東京へ転居してきた人物が、卒業後も学生時代から住んでいた馴染みのある街に、そのまま住みつづけるという可能性はありえるだろう。　次に人物のデータベースを調べていくと、たったひとりだが「保坂嘉録」という名前がひっかかる。姓はともかく、名前のほうはめずらしい表記……というか、そもそも非常にまれな名前だろう。広告分野の方であれば、この名前に聞き憶えがあるのかもしれない。敗戦後のまもない時期、1946年(昭和21)10月に銀座で小森源四郎らとともに、広告代理店「南北社」を起ち上げた創業者のひとりだ。創業とともに、保坂嘉録は常務取締役に就任している。　保阪嘉録について、もう少し詳しく調べていくと、1912年(大正元)に山梨県甲府市で、保坂荒吉の長男として生まれている。戦後の「紳士録」によれば、1930年(昭和5)に早稲田大学付属専門部に入学し、3年後の1933年(昭和8)に卒業している。この「専門部」というのがわかりにくいが、戦前の多くの私立大学には特化した技術や技能、知識を教授する専門部という教育機関が存在していた。当時、専門学校の人気が高かったため、経営の安定化をめざして各大学では付属の専門部を設置している。大学予科が2年で本科が3年の5年間だったのに対し、専門部は3年で卒業できた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851954E9A083.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;1954&#x9803;.jpg" width="520" height="317" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB21942E68BA1E5A4A7.jpg" alt="&#x51FA;&#x5F81;&#x5175;&#x58EB;&#x4FDD;&#x5742;&#x5609;&#x9332;1942&#x62E1;&#x5927;.jpg" width="520" height="428" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE8A68BE98081E3828AE4B8ADE4BA95E59586E5BA97E8A1971941.jpg" alt="&#x51FA;&#x5F81;&#x5175;&#x58EB;&#x898B;&#x9001;&#x308A;&#x4E2D;&#x4E95;&#x5546;&#x5E97;&#x8857;1941.jpg" width="520" height="371" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4B880E3838EE59D82E4B88B1942.jpg" alt="&#x51FA;&#x5F81;&#x5175;&#x58EB;&#x4E00;&#x30CE;&#x5742;&#x4E0B;1942.jpg" width="520" height="387" border="0" />　ちなみに早稲田大学の専門部には、工学・商学・デザインなどの専門学科があり、今日の専門学校と同じように、すぐにも企業で戦力になるよう実務的・実践的な内容の授業が行われていた。大学で学問を修めるというよりは、今日のいわばビジネススクールのような存在だった。保坂嘉録は1933年(昭和8)に修了しているので、そのとき彼はまだ21歳だったろう。　早稲田の専門部を卒業すると、彼は(株)華北交通に就職している。華北交通は、中国で陸上輸送(鉄道・バス・トラックなど)をメインの事業にすえた満鉄の系列運輸会社で、本社は北京の東長安街にあり、東京事務所は赤坂区葵町2番地(現・港区虎ノ門)の満鉄東京支社ビル内に置かれていた。彼が本社か東京事務所の、どちらに勤務していたのかは不明だが、少なくとも30歳になった1942年(昭和17)には、最寄りの駅が中井駅の下落合あるいは上落合に居住していたのだろう。年齢から推察すると、結婚後の家族もいっしょに暮らしていたのではないか。早大で専門部の学科が商業だったとすれば、彼は陸軍の主計少尉(経理担当)として召集されたものだろうか。　もし、冒頭写真ののぼりに書かれた「出征／保坂嘉録君」と、戦後に上記の南北社を設立し常務取締役、すなわち実働部隊のトップに就任していた保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は召集でどこに派遣されたのかは不明だが、運よく戦死をせずに3年後には1945年(昭和20)8月15日のポツダム宣言受諾(無条件降伏)の日を迎えることができ、無事に復員できたことになる。会社の設立時期やその準備期間を考慮すれば、復員時期はかなり早かったのではないか。彼の出征先はもともと勤務先だった中国か、あるいは軍務が国内だったのかもしれない。　戦後、南北社は媒体広告を中心に、順調に売り上げを伸ばしていき、中堅の広告代理店としては電博(でんぱく)に負けない仕事をしてきている。1951年(昭和26)に日本電報通信社(のち電通)から出版された『広告五十年史』収録の、「自由競争時代の再現」から少し引用してみよう。　　▼　(昭和)廿一年十二月に、全国の新聞を会員とする『日本新聞協会』は、新に広告代理業者十六を指定代理業者として承認し、これ等十六の代理業者が、俗に第二組合といわれる『全国新聞広告同業組合』を組織した。かく別個の同業組合が成立した理由は、戦後の企業の自由の風潮や俗に第一組合といわれる『日本新聞広告同業組合』の組合員になる適格条件の過酷であつた点等によるもので、結成当時の顔触れは次の通りであつた。／東京――三和広告社、中央広告株式会社、第一広告社、協同広告株式会社、広生社、東成社、三正堂、南北社、三栄広告社、八昭堂／大阪――(以下略)　(カッコ内引用者註)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BABBE5B883E4B880E980A3E99A8AE585A5E99A8AE5BC8F.jpg" alt="&#x9EBB;&#x5E03;&#x4E00;&#x9023;&#x968A;&#x5165;&#x968A;&#x5F0F;.jpg" width="520" height="322" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A785E5898DE58D83E4BABAE9879D.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;&#x524D;&#x5343;&#x4EBA;&#x91DD;.jpg" width="520" height="339" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE59088E3818BE38289E4B8ADE4BA95E9A78528E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="&#x4E0A;&#x843D;&#x5408;&#x304B;&#x3089;&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;(&#x6557;&#x6226;&#x76F4;&#x5F8C;).jpg" width="520" height="520" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A78528E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;(&#x6557;&#x6226;&#x76F4;&#x5F8C;).jpg" width="520" height="288" border="0" />　南北社が創業してから、わずか2ヶ月後の広告業界の様子だが、すでに電通や博報堂による業界の寡占が「第一組合」の結成とともに進められていた様子が見える。これに抗して結成されたのが、南北社も参画する「第二組合」こと「全国新聞広告同業組合」だった。　保阪嘉録の南北社は、新聞や雑誌の媒体広告、あるいはラジオやのちにTVのCM制作で急成長していった。クライアントは自動車産業が多かったらしく、トヨタやホンダ、日野自動車などの広告制作が中心だったらしい。1963年(昭和38)6月になると、保坂嘉録は南北社での常務取締役のまま、銀座8丁目の東京PRサービスの取締役にも就任している。同社は、おもにTVのCMを手がける専門会社で、TBSや日本テレビ、読売テレビ、RKB毎日などがおもなクライアントだった。1970年(昭和45)ごろ、彼は60歳を目前に同社の代表取締役に就任している。住まいも、戦後に住んでいた練馬区から田無市へ転居しているようだ。　さて、冒頭の写真にもどろう。中井駅前で、彼は台の上に直立不動で立ち、背中には明日の生命をも知れない緊張感が漂う情景なのだが、わずか2年半後に周囲の風景自体が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank">二度にわたる大空襲</a>で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-10.html" target="_blank">消滅</a>することになるなど、まだ誰も予測できなかったころだろう。けれども、太平洋戦争に突入する以前、出征兵士の壮行会でよく見られた「おめでたく」「晴れがましい」笑顔が、この写真ではただのひとりの表情からもうかがえない。それだけ状況は深刻であり、30歳を超えた人物にまで赤紙がとどくようになった状況を、誰もが緊迫感とともに受けとめていたのかもしれない。このあと、「保坂嘉録君」は万歳三唱に送られながら中井駅の改札を通過した。　この写真は、たとえば1992年(平成4)に新宿区から出版された『語りつぐ平和への願い―新宿区平和都市宣言5周年記念誌―』にも掲載されている。同時に、菅野廉一という方によって戦時中に記録された、落合地域の貴重な写真類も掲っているので併せてご紹介しておきたい。これまで拙記事に登場した写真も多いが、改めて掲載させていただければと思う。　ただし、その中の1点、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank">落合第二尋常小学校</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-19.html" target="_blank">落合第五小学校</a>の位置)の焼け跡にたたずむ巡査をとらえた写真があるが、これは戦争とは直接関係がないと思われる。背後に写る家々が、空襲の被害をまったく受けていないことから、1944年(昭和19)5月23日に同校の炊爨室(給食室)からの出火で、校舎の3分の2を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-29.html" target="_blank">焼失した大火</a>の焼け跡に立つ巡査の姿をとらえたものだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A699E6ADA3E5AFBAE5B79D28E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="&#x5999;&#x6B63;&#x5BFA;&#x5DDD;(&#x6557;&#x6226;&#x76F4;&#x5F8C;).jpg" width="520" height="337" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851948.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x99C5;1948.jpg" width="520" height="348" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E58C97E7A4BEE99B91E8AA8CE5BA83E5918A1957.jpg" alt="&#x5357;&#x5317;&#x793E;&#x96D1;&#x8A8C;&#x5E83;&#x544A;1957.jpg" width="520" height="777" border="0" />　中井駅前の出征写真の人物は、当然ながら遠からずの戦死を強く覚悟していただろう。戦争の激化で、とても生きては帰れそうにないので、残された家族のゆくすえを親戚に頼んでいったかもしれない。この出征士官と、戦後の保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は1960年代にトヨペット・クラウンやホンダN360のCMを制作しながら、いったいどのような感慨を抱いていたのだろうか。
◆写真上：1942年(昭和17)に中井駅前で撮影された、「保坂嘉録君」の出征見送りの壮行会。◆写真中上：上は、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前と出征見送りの位置。中上は、冒頭写真の拡大。中下は、1941年(昭和16)に中井駅近くの商店街で撮影された出征兵士の見送り。右手に「少年倶楽部」の垂れ幕がある書店は、中井駅のすぐ北側にあった文楽堂書店だろうか。下は、1942年(昭和17)に一ノ坂下で撮影された出征兵士の見送り。『語りつぐ平和への願い』(新宿区)では、上掲2枚の出征写真のキャプションが逆になっている。◆写真中下：上は、麻布一連隊(第一師団歩兵第一連隊)へ入営直前の兵士と家族の様子。中上は、中井駅前で行われた「武運長久」を願う千人針。中下は、焦土の上落合側から中井駅方面を撮影した敗戦直後の様子。下は、敗戦直後に撮影された掘立て小屋状の中井駅。◆写真下：上は、敗戦から間もない時期に撮影された妙正寺川沿いの工事風景。中は、1948年(昭和23)に撮影された中井駅。下は、1957年(昭和32)に広告専門誌へ出稿した南北社の媒体広告。★おまけ1　戦災写真ではなく、1944年(昭和19)5月23日の炊爨室(すいさんしつ)からの失火で校舎の大半を焼失した、落合第二尋常高等小学校の焼け跡に立つ夏服姿の巡査をとらえた情景だと思われる。東京電燈谷村線の高圧線鉄塔の真下には西武線が、家々が並ぶ手前には妙正寺川が流れている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5B08BE5B8B8E5B08FE5ADA6E6A0A11944.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x7B2C;&#x4E8C;&#x5C0B;&#x5E38;&#x5C0F;&#x5B66;&#x6821;1944.jpg" width="520" height="370" border="0" />★おまけ2　冒頭写真をAIで着色してみた。文字の認識はいい加減だが、情景的にはリアルになったろうか。つい84年ほど前、日本が激しい戦争をしていたころ鉄道駅周辺で見られていた日常的な風景だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB2194228AI29.jpg" alt="&#x51FA;&#x5F81;&#x5175;&#x58EB;&#x4FDD;&#x5742;&#x5609;&#x9332;1942(AI).jpg" width="520" height="369" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB21942.jpg" alt="出征兵士保坂嘉録1942.jpg" width="600" height="426" border="0" /></div><div>　落合地域の地元資料や、新宿区の現代史資料で、戦時中の地域の様子を紹介するのによく引用される写真がある。菅野廉一という方が撮影した、「出征兵士」を送る冒頭の写真だ。太平洋戦争の開始後1942年(昭和17)に撮影されたもので、場所は西武線・中井駅前の広場だ。きょうは、この写真にとらえられた人物ついて少しこだわり、やや強引ながら掘り下げてみたい。<br />　この写真には、引用資料に「出征兵士を送る……」というキャプションが添えられていることが多いけれど、写っている台の上に立つ人物は、明らかに兵士ではなく陸軍の「将校(士官)」だ。よく人物を観察すると、両手には白手袋をはめており、右腰の拳銃は丸い水筒のような装備に隠れて見えないが、左腰に吊るされた短剣が確認できる。すなわち、この人物は少なくとも大学卒業か、あるいはそれに準じる学歴の持ち主であり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-04.html" target="_blank" rel="noopener">赤紙(召集令状)</a>を受けとったときは少なくとも尉官(少尉か？)、あるいは除隊後の予備役召集であればそれ以上の階級士官として、入隊が予定されていたとみられる。だから、出征の際にも将校の軍服を着用しているのだろう。<br />　次に、出征旗やのぼりなどに混じって、出征士官の名前が読みとれる。氏名が書かれたのぼりには、「出征／保坂嘉録君」と書かれている。おそらく、下落合(現・中落合／中井含む)の西部か、上落合の西部に居住していた人物と思われるが、残念ながら大正末から1960年代にかけて作成された、苗字が掲載されている住宅明細図類に、「保坂」という姓の家は発見できなかった。昭和10年代ともなると、中井駅の周辺にはアパートが数多く建てられているので、そのような集合住宅で暮らしていた人物かもしれないし、借家住まいだと名前が採取されない可能性が高い。<br />　ちなみに、中井駅前のどこの場所で撮影されたものか厳密に見ていこう。太陽光は、左手の上方から射しており、見えている鉄製の支柱は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">東京電燈谷村線</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">高圧線鉄塔</a>の下部だ。戦後の写真になるが、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前の踏み切り写真には、焼けずに残ったこの高圧線鉄塔がとらえられている。したがって、冒頭の写真で出征を見送る壮行会が開かれているのは、踏み切りを南へわたり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">寺斉橋</a>の手前、中井駅の小さな駅前広場から路上にかけてであるのがわかる。高圧線鉄塔の角度から、将校が台の上に立っているのは、中井駅前の広場へ少し入ったあたりだろうか。中井駅舎は、写真の左手枠外ということになる。<br />　さて、以上のようなことを踏まえ、名前としてはめずらしい保坂「嘉録」(かろくorよしろく？)について考えてみる。保坂という苗字は、この地方でいうと山梨県の甲府周辺に多い苗字だ。この人物は、地元で中学校を終えると、大学予科あるいは専門学校へ入学するために、東京へやってきたものだろうか。学生時代の住まいと、同じ地域に住んでいるとはまったく限らないが、他の地方から就学のために東京へ転居してきた人物が、卒業後も学生時代から住んでいた馴染みのある街に、そのまま住みつづけるという可能性はありえるだろう。<br />　次に人物のデータベースを調べていくと、たったひとりだが「保坂嘉録」という名前がひっかかる。姓はともかく、名前のほうはめずらしい表記……というか、そもそも非常にまれな名前だろう。広告分野の方であれば、この名前に聞き憶えがあるのかもしれない。敗戦後のまもない時期、1946年(昭和21)10月に銀座で小森源四郎らとともに、広告代理店「南北社」を起ち上げた創業者のひとりだ。創業とともに、保坂嘉録は常務取締役に就任している。<br />　保阪嘉録について、もう少し詳しく調べていくと、1912年(大正元)に山梨県甲府市で、保坂荒吉の長男として生まれている。戦後の「紳士録」によれば、1930年(昭和5)に早稲田大学付属専門部に入学し、3年後の1933年(昭和8)に卒業している。この「専門部」というのがわかりにくいが、戦前の多くの私立大学には特化した技術や技能、知識を教授する専門部という教育機関が存在していた。当時、専門学校の人気が高かったため、経営の安定化をめざして各大学では付属の専門部を設置している。大学予科が2年で本科が3年の5年間だったのに対し、専門部は3年で卒業できた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851954E9A083.jpg" alt="中井駅1954頃.jpg" width="520" height="317" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB21942E68BA1E5A4A7.jpg" alt="出征兵士保坂嘉録1942拡大.jpg" width="520" height="428" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE8A68BE98081E3828AE4B8ADE4BA95E59586E5BA97E8A1971941.jpg" alt="出征兵士見送り中井商店街1941.jpg" width="520" height="371" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4B880E3838EE59D82E4B88B1942.jpg" alt="出征兵士一ノ坂下1942.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div>　ちなみに早稲田大学の専門部には、工学・商学・デザインなどの専門学科があり、今日の専門学校と同じように、すぐにも企業で戦力になるよう実務的・実践的な内容の授業が行われていた。大学で学問を修めるというよりは、今日のいわばビジネススクールのような存在だった。保坂嘉録は1933年(昭和8)に修了しているので、そのとき彼はまだ21歳だったろう。<br />　早稲田の専門部を卒業すると、彼は(株)華北交通に就職している。華北交通は、中国で陸上輸送(鉄道・バス・トラックなど)をメインの事業にすえた満鉄の系列運輸会社で、本社は北京の東長安街にあり、東京事務所は赤坂区葵町2番地(現・港区虎ノ門)の満鉄東京支社ビル内に置かれていた。彼が本社か東京事務所の、どちらに勤務していたのかは不明だが、少なくとも30歳になった1942年(昭和17)には、最寄りの駅が中井駅の下落合あるいは上落合に居住していたのだろう。年齢から推察すると、結婚後の家族もいっしょに暮らしていたのではないか。早大で専門部の学科が商業だったとすれば、彼は陸軍の主計少尉(経理担当)として召集されたものだろうか。<br />　もし、冒頭写真ののぼりに書かれた「出征／保坂嘉録君」と、戦後に上記の南北社を設立し常務取締役、すなわち実働部隊のトップに就任していた保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は召集でどこに派遣されたのかは不明だが、運よく戦死をせずに3年後には1945年(昭和20)8月15日のポツダム宣言受諾(無条件降伏)の日を迎えることができ、無事に復員できたことになる。会社の設立時期やその準備期間を考慮すれば、復員時期はかなり早かったのではないか。彼の出征先はもともと勤務先だった中国か、あるいは軍務が国内だったのかもしれない。<br />　戦後、南北社は媒体広告を中心に、順調に売り上げを伸ばしていき、中堅の広告代理店としては電博(でんぱく)に負けない仕事をしてきている。1951年(昭和26)に日本電報通信社(のち電通)から出版された『広告五十年史』収録の、「自由競争時代の再現」から少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(昭和)廿一年十二月に、全国の新聞を会員とする『日本新聞協会』は、新に広告代理業者十六を指定代理業者として承認し、これ等十六の代理業者が、俗に第二組合といわれる『全国新聞広告同業組合』を組織した。かく別個の同業組合が成立した理由は、戦後の企業の自由の風潮や俗に第一組合といわれる『日本新聞広告同業組合』の組合員になる適格条件の過酷であつた点等によるもので、結成当時の顔触れは次の通りであつた。／東京――三和広告社、中央広告株式会社、第一広告社、協同広告株式会社、広生社、東成社、三正堂、<span style="color: #333399;">南北社</span>、三栄広告社、八昭堂／大阪――(以下略)　(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BABBE5B883E4B880E980A3E99A8AE585A5E99A8AE5BC8F.jpg" alt="麻布一連隊入隊式.jpg" width="520" height="322" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A785E5898DE58D83E4BABAE9879D.jpg" alt="中井駅前千人針.jpg" width="520" height="339" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE59088E3818BE38289E4B8ADE4BA95E9A78528E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="上落合から中井駅(敗戦直後).jpg" width="520" height="520" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A78528E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="中井駅(敗戦直後).jpg" width="520" height="288" border="0" /></div><div>　南北社が創業してから、わずか2ヶ月後の広告業界の様子だが、すでに電通や博報堂による業界の寡占が「第一組合」の結成とともに進められていた様子が見える。これに抗して結成されたのが、南北社も参画する「第二組合」こと「全国新聞広告同業組合」だった。<br />　保阪嘉録の南北社は、新聞や雑誌の媒体広告、あるいはラジオやのちにTVのCM制作で急成長していった。クライアントは自動車産業が多かったらしく、トヨタやホンダ、日野自動車などの広告制作が中心だったらしい。1963年(昭和38)6月になると、保坂嘉録は南北社での常務取締役のまま、銀座8丁目の東京PRサービスの取締役にも就任している。同社は、おもにTVのCMを手がける専門会社で、TBSや日本テレビ、読売テレビ、RKB毎日などがおもなクライアントだった。1970年(昭和45)ごろ、彼は60歳を目前に同社の代表取締役に就任している。住まいも、戦後に住んでいた練馬区から田無市へ転居しているようだ。<br />　さて、冒頭の写真にもどろう。中井駅前で、彼は台の上に直立不動で立ち、背中には明日の生命をも知れない緊張感が漂う情景なのだが、わずか2年半後に周囲の風景自体が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank" rel="noopener">二度にわたる大空襲</a>で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-10.html" target="_blank" rel="noopener">消滅</a>することになるなど、まだ誰も予測できなかったころだろう。けれども、太平洋戦争に突入する以前、出征兵士の壮行会でよく見られた「おめでたく」「晴れがましい」笑顔が、この写真ではただのひとりの表情からもうかがえない。それだけ状況は深刻であり、30歳を超えた人物にまで赤紙がとどくようになった状況を、誰もが緊迫感とともに受けとめていたのかもしれない。このあと、「保坂嘉録君」は万歳三唱に送られながら中井駅の改札を通過した。<br />　この写真は、たとえば1992年(平成4)に新宿区から出版された『語りつぐ平和への願い―新宿区平和都市宣言5周年記念誌―』にも掲載されている。同時に、菅野廉一という方によって戦時中に記録された、落合地域の貴重な写真類も掲っているので併せてご紹介しておきたい。これまで拙記事に登場した写真も多いが、改めて掲載させていただければと思う。<br />　ただし、その中の1点、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二尋常小学校</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">落合第五小学校</a>の位置)の焼け跡にたたずむ巡査をとらえた写真があるが、これは戦争とは直接関係がないと思われる。背後に写る家々が、空襲の被害をまったく受けていないことから、1944年(昭和19)5月23日に同校の炊爨室(給食室)からの出火で、校舎の3分の2を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">焼失した大火</a>の焼け跡に立つ巡査の姿をとらえたものだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A699E6ADA3E5AFBAE5B79D28E69597E688A6E79BB4E5BE8C29.jpg" alt="妙正寺川(敗戦直後).jpg" width="520" height="337" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E9A7851948.jpg" alt="中井駅1948.jpg" width="520" height="348" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E58C97E7A4BEE99B91E8AA8CE5BA83E5918A1957.jpg" alt="南北社雑誌広告1957.jpg" width="520" height="777" border="0" /></div><div>　中井駅前の出征写真の人物は、当然ながら遠からずの戦死を強く覚悟していただろう。戦争の激化で、とても生きては帰れそうにないので、残された家族のゆくすえを親戚に頼んでいったかもしれない。この出征士官と、戦後の保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は1960年代にトヨペット・クラウンやホンダN360のCMを制作しながら、いったいどのような感慨を抱いていたのだろうか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1942年(昭和17)に中井駅前で撮影された、「保坂嘉録君」の出征見送りの壮行会。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前と出征見送りの位置。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、冒頭写真の拡大。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1941年(昭和16)に中井駅近くの商店街で撮影された出征兵士の見送り。右手に「少年倶楽部」の垂れ幕がある書店は、中井駅のすぐ北側にあった文楽堂書店だろうか。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1942年(昭和17)に一ノ坂下で撮影された出征兵士の見送り。『語りつぐ平和への願い』(新宿区)では、上掲2枚の出征写真のキャプションが逆になっている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、麻布一連隊(第一師団歩兵第一連隊)へ入営直前の兵士と家族の様子。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、中井駅前で行われた「武運長久」を願う千人針。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、焦土の上落合側から中井駅方面を撮影した敗戦直後の様子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、敗戦直後に撮影された掘立て小屋状の中井駅。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、敗戦から間もない時期に撮影された妙正寺川沿いの工事風景。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1948年(昭和23)に撮影された中井駅。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1957年(昭和32)に広告専門誌へ出稿した南北社の媒体広告。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　戦災写真ではなく、1944年(昭和19)5月23日の炊爨室(すいさんしつ)からの失火で校舎の大半を焼失した、落合第二尋常高等小学校の焼け跡に立つ夏服姿の巡査をとらえた情景だと思われる。東京電燈谷村線の高圧線鉄塔の真下には西武線が、家々が並ぶ手前には妙正寺川が流れている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5B08BE5B8B8E5B08FE5ADA6E6A0A11944.jpg" alt="落合第二尋常小学校1944.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>　冒頭写真をAIで着色してみた。文字の認識はいい加減だが、情景的にはリアルになったろうか。つい84年ほど前、日本が激しい戦争をしていたころ鉄道駅周辺で見られていた日常的な風景だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE5BE81E585B5E5A3ABE4BF9DE59D82E59889E98CB2194228AI29.jpg" alt="出征兵士保坂嘉録1942(AI).jpg" width="520" height="369" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520599331.html</link>
      <title>拡大しつづける写生・撮影禁止の風景。</title>
      <pubDate>Fri, 22 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　1931年(昭和6)の「満洲事変」以降、日中戦争が激しくなるにつれ、日本国内には風景の写生禁止・撮影禁止の場所が急増していく。特に港湾や海岸線は、海軍の艦艇が往来したり新造艦の公試運転が行われるため、特に厳しい監視の目が注がれていた。　東京の周辺でいうと、海軍工廠があった横須賀市街を走る横須賀線は、港湾や工廠のガントリークレーンのある側の窓は、すべてブラインドを下すよう命令されていたのを、三浦半島へのハイキングの際など親たちからよく聞かされた。特に、建造中の艦艇や、海軍へ引..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A8AAE9A088E8B380E382ACE383B3E38388E383AAE383BCE382AFE383ACE383BCE383B31970.JPG" alt="&#x6A2A;&#x9808;&#x8CC0;&#x30AC;&#x30F3;&#x30C8;&#x30EA;&#x30FC;&#x30AF;&#x30EC;&#x30FC;&#x30F3;1970.JPG" width="600" height="406" border="0" />　1931年(昭和6)の「満洲事変」以降、日中戦争が激しくなるにつれ、日本国内には風景の写生禁止・撮影禁止の場所が急増していく。特に港湾や海岸線は、海軍の艦艇が往来したり新造艦の公試運転が行われるため、特に厳しい監視の目が注がれていた。　東京の周辺でいうと、海軍工廠があった横須賀市街を走る横須賀線は、港湾や工廠のガントリークレーンのある側の窓は、すべてブラインドを下すよう命令されていたのを、三浦半島へのハイキングの際など親たちからよく聞かされた。特に、建造中の艦艇や、海軍へ引きわたされる前後の公試運転中の新造艦が停泊したりしていると、警官や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-10.html" target="_blank">憲兵隊</a>が付近の家々や山々までを監視してまわっていた。写生や撮影が見つかると、即座に検挙されることになる。　アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直／2016年)の中で、太平洋戦争末期に「北條すず」が瀬戸内海を写生していると、憲兵がやってきて「間諜(スパイ)」行為だとして叱責・罵倒するシーンがあるけれど、描いていたスケッチブックだけ没収して、あとは自宅へ“連行”してそのまま“釈放”することなどありえない。特に「すず」は、レイテ沖海戦やエンガノ岬沖海戦で傷つき、ほうほうの体でようやく帰還してきた聯合艦隊の残存部隊(原作では航空戦艦「日向」と重巡「利根」)を写生しており、即座に憲兵隊本部へ連行されただろう。これは「要塞地帯法」の第7条違反、または「軍港要港規則」の第19条違反にあたり、その物証とともに現行犯である「北條すず」が逮捕・拘留され、起訴されないのはアニメ(ファンタジー)の世界だからだ。　昭和10年代の画家たちは、この要塞地法や軍港要港規則などで、たまにヒドイめに遭っている。別に、写生が禁止されていない場所で風景画を描いていても、間諜(スパイ)の嫌疑をかけられて連行されることもめずらしくなかった。特に海が見わたせる付近では軍港や、必要に応じて艦船が出入りする要港でなくても、うっかり沖に目を向けて写生したりしていると、地元の巡査や在郷軍人会の役員に見とがめられ、事実としてプロの画家であることが証明されるか、誰かを保証人に立てて「無実」が証明されるまで、連行・拘留されることも少なくなかった。　以下、1935年(昭和10)現在の要塞地法と、港湾に関する軍港要港規則を引用してみよう。　　▼　要塞地帯法／第七条 何人ト雖モ要塞司令官ノ許可ヲ得ルニアラザレバ要塞地帯内水陸形状ヲ測量撮影模写録取シ又ハ要塞地帯内ヲ航空スルコトヲ得ズ　軍港要港規則／第十九条　鎮守府司令官ノ許可ヲ得ズシテ軍港要港内ヲ航空シ又ハ同境域内水陸ノ形状ヲ測量、撮影、模写、録取シ若シクハ地理案内等ノ図書ヲ発行スルコトヲ禁ズ　　▲　上記の2法ばかりでなく、朝鮮半島や中国では「関東洲防禦営造物地帯令」の第4条、台湾では1919年(大正8)まで「台湾国防用防禦営造物区域取締規則」(のち国内「要塞地法」を適用)によって、軍の施設や艦船が停泊・航行する港や海域は、すべて「測量、撮影、模写、録取」が禁止された。ただし、今日のように正確な位置座標を規定できるGPSなどない時代なので、上記法の適用は大雑把なエリアとなり、それが戦争の激化とともに曖昧化し拡大されていった。　1930年代になると、個人で携帯できるコンパクトなカメラを所有する市民が急増し、あらゆる場所での写真撮影が可能になったため、特に海浜地帯に軍港や造船所などを抱える軍部や自治体では、撮影禁止区域の監視に頭を痛めていたようだ。そのために、憲兵隊と協議してパトロールを強化したり、監視する警官の人数を増やしたりしている。また、軍港や要塞を抱える地元では、「不審人物」を見かけたらただちに官憲へ通報するよう、住民たちへの通達も繰り返し頻繁に行われていた。画家が写生していて連行されたのは、この仕組みによるケースがほとんどだった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38193E381AEE4B896E7958CE381AEE78987E99A85E381AB.jpg" alt="&#x3053;&#x306E;&#x4E16;&#x754C;&#x306E;&#x7247;&#x9685;&#x306B;.jpg" width="520" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BCB8E98081E889A6E3818AE3818AE38199E381BF.JPG" alt="&#x8F38;&#x9001;&#x8266;&#x304A;&#x304A;&#x3059;&#x307F;.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B885E6B0B4E4B985E3808CE58699E79C9FE8AAADE69CACE3808D1935.jpg" alt="&#x6E05;&#x6C34;&#x4E45;&#x300C;&#x5199;&#x771F;&#x8AAD;&#x672C;&#x300D;1935.jpg" width="255" height="386" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE587BAE78988E983A81935E5A5A5E4BB98.jpg" alt="&#x5EB7;&#x696D;&#x793E;&#x51FA;&#x7248;&#x90E8;1935&#x5965;&#x4ED8;.jpg" width="255" height="386" border="0" />　戦前の上落合に、個人用のカメラなど撮影機材一式を販売する、康業社という会社が営業していた。写真を趣味とする、個人のアマチュアカメラマンを顧客に、カメラやフィルムなどを販売していたが、同社には出版部も付属していて、初心者向けの「写真入門」「カメラ入門」のような書籍類も刊行している。西武線・下落合駅から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank">旧・八幡通り</a>沿いの商店街を少し西へ入った、上落合1丁目263番地で営業しており、写真誌などへ媒体広告も出稿している。　同社の出版物に、T.P.S.(東京写真研究会＝Tokyo Photographic Society)に所属する清水久が執筆し、1935年(昭和10)に出版された『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』という書籍がある。カメラの機能説明にはじまり、さまざまな写真の撮影方法、フィルムの種類と特徴、風景・静物から動体(人間や乗り物など)までの撮影テクニック、現像方法と焼き付け・印画の手順、おまけに写真の修正技術など、カメラの初心者に向けて懇切ていねいに解説をほどこした写真の入門書だ。その中で、特に「注意すべき撮影禁止区域」という項目が1章が設けられ、20ページにわたり撮影が禁止されている地域が、概略地図入りで紹介されている。同書より、少しだけ引用してみよう。　　▼　撮影の為に旅行したり、旅行のついでに撮影したりすることは、写真家に与へられた最大のたのしみであるが、何処へ行つても自由に写すといふことは出来ない。旅行した地方によつては、撮影を禁止されてゐる場所がある。(中略)　ことに国法によつて禁止されてゐる要塞地帯などは、いくら写真機が自分のものであるからと云つても、一定の手続を経ないと、思はぬところで、国法を犯すことになる。要塞地帯には陸軍管轄の要塞地帯と海軍管轄の軍港や要港地域がある。これに関する規則や地域はときどき変更になり、その度毎に官報に発表されるが、うつかりしてゐるとそれに気付かないことがあるから、若し不安の場合には、その地の官庁に問合せるとよい。　　▲　上記のように、1935年(昭和10)の段階では規制がそれほどでもなく、いまだ過剰な取り締まりや太平洋戦争中のようなヒステリックな監視・拘束・検挙の仕組みができていなかったせいか、写真に撮りたい場所やスケジュールを詳しく書いた「撮影願」を、地元の陸海軍の司令官あてに提出すれば、撮影に差し障りのない時期を選んで許可が下りていた。　これは、おそらく画家も同様で、港を見下ろすような丘上で風景画の制作をしたい場合は、地元の要塞地帯司令部か鎮守府の司令官あてに「模写(写生)願」を提出し、「作業許可証」を得てから予定のスケジュールでその場所を訪れ制作していたとみられる。また、「作業不可」の回答が寄せられることも多く、特に米英との対立が深まり、太平洋戦争が近づくにつれて「作業許可証」を得ることは、よほど軍部にコネがあるか軍の親密な協力者でないかぎり困難になっていった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE58699E79C9FE983A8E5AA92E4BD93E5BA83E5918A1935.jpg" alt="&#x5EB7;&#x696D;&#x793E;&#x5199;&#x771F;&#x90E8;&#x5A92;&#x4F53;&#x5E83;&#x544A;1935.jpg" width="520" height="800" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE8B7A1.jpg" alt="&#x5EB7;&#x696D;&#x793E;&#x8DE1;.jpg" width="520" height="358" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A681E5A19EE59CB0E5B8AFE585A8E59BBDE58886E5B883E59BB31935.jpg" alt="&#x8981;&#x585E;&#x5730;&#x5E2F;&#x5168;&#x56FD;&#x5206;&#x5E03;&#x56F3;1935.jpg" width="520" height="343" border="0" />　たとえば、先述した横須賀の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-11.html" target="_blank">海軍工廠</a>のケースでいうと、1944年(昭和19)10月に大和型戦艦の3番艦(110号艦)で、航空母艦に改装された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-10.html" target="_blank">「信濃」</a>がドッグ内注水で進水し(実際には事故で一時中断)、翌11月にかけて館山沖や千葉沖を中心に公試運転が行われているが、このとき横須賀線ばかりでなく、三浦半島や房総半島で海が見下ろせる建物の窓はすべてふさがれ、見晴らしのいい場所にはすべて憲兵や警察官が配置されるなど、空前の防諜・監視体制が敷かれたことは、いまでも語り草になっている。このような時期に、三浦半島や房総半島の山々で写生や撮影はおろか、ハイキングをしていただけでも即座に検束・拘留されただろう。　『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(1935年)には、当時、地元の市町村役場や警察署、憲兵隊へいけば、撮影禁止場所の具体的なエリアを記載した地図(図面)を閲覧できたようで、それを参照しながら現地の撮影場所を決定したほうがいいとしている。どのような観光地においても、近くに陸海軍の施設があれば、気軽にカメラのシャッターを押して写真など撮れなかった。特に、東京湾岸は横浜市の本牧より北側を除き、ほとんどすべてが撮影禁止の「東京湾要塞地帯」であり、三浦半島のすべてと房総半島の西側は、全地域が撮影禁止となっていた。それでも、航行する船舶の写真を撮影したければ、先の「撮影願」を東京湾要塞司令部または横須賀鎮守府の司令官あてに提出し、「作業許可証」が下りるのを待たねばならなかった。　1935年(昭和10年)の当時は、いまだ私的な写真撮影に軍部はいくらか鷹揚だったようで、「作業許可証」が下りる確率はそれほど低くはなかったらしい。同書より、つづけて引用してみよう。　　▼　左図(東京湾要塞地帯)の中で網目の区域は海軍の管轄に属する部分であるから、願書は横須賀鎮守府司令長官へ、その他は東京湾要塞司令官へ提出すればよい。(中略) 一部分の撮影が解除されてゐるところもあるからその区域は、東京湾要塞司令部、横須賀鎮守府、その他その区域の市町村役場、警察署、憲兵隊に備へ付けの図面について見られるとよい。(カッコ内引用者註)　　▲　上記の中で、「一部分の撮影が解除されてゐるところ」とあるのは、市街地化が進む横浜市の金沢区などのことで、戦前に撮影された地図製作用の写真にも、観光地化がいちじるしかった鎌倉市街地や三浦半島部は存在しないが、大船や横浜市金沢区の市街地域は撮影され残されている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE6B9BEE8A681E5A19EE59CB0E5B8AFE59BB3.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x6E7E;&#x8981;&#x585E;&#x5730;&#x5E2F;&#x56F3;.jpg" width="520" height="750" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E692AEE5BDB1E9A198E6A798E5BC8F.jpg" alt="&#x64AE;&#x5F71;&#x9858;&#x69D8;&#x5F0F;.jpg" width="520" height="798" border="0" />　このほか、撮影禁止場所としては日光や京都の寺社および庭園、各地の帝国大学構内などが挙げられている。観光地の寺社が撮影禁止なのは、もちろん記念の観光絵はがきの販売に影響するからだが、帝大のキャンパス内が撮影禁止というのは、どのような理由によるものなのだろうか。
◆写真上：1970年(昭和45)に横須賀へ遊びにいったときにわたしが撮影した、横須賀海軍工廠時代から艦船建造に使われていた巨大なガントリークレーン。子どもとはいえ、戦時中なら即座に検挙・拘束されてカメラとフィルムは没収されていただろう。◆写真中上：上は、アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直／2016年)の1シーンで、呉沖の航空戦艦「日向」と重巡「利根」を写生する「北條すず」。中は、横須賀港に接岸する海上自衛隊輸送艦「おおすみ」。いまは平和な時代なので、港内をいくら撮影しても警官や憲兵が飛んでくることなどありえない。下は、1935年(昭和10)に出版された清水久『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(康業社出版部)の中扉(左)と奥付(右)。◆写真中下：上は、康業社写真部が雑誌などに出稿していた媒体広告。中は、上落合1丁目263番地にあった康業社跡(正面の茶色いマンション)。下は、『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』に掲載の要塞地帯全国分布図で、左上は植民地だった朝鮮半島と台湾の地図。このあと、瀬戸内海の呉海軍工廠・鎮守府や柱島泊地の周辺など要塞地帯は拡大しつづける。◆写真下：上は、同書に掲載された東京湾要塞地帯図。グレーの網がけは横須賀鎮守府が、点線の内側は東京湾要塞司令部が撮影禁止に指定しているエリア。ほかにも同書には、全国に分布する撮影禁止の要塞地帯概略図が掲載されている。下は、陸海軍あてに提出する「撮影願」様式。★おまけ　戦後の1947年(昭和22)に撮影された横須賀軍港で、右手に空母「信濃」を建造した巨大なドックが見えている(上写真)。1944年(昭和19)11月19日に米軍の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-12.html" target="_blank">偵察機F13</a>が撮影した、上写真のドック内で建造中の巨大な空母「信濃」をとらえた空中写真も米国で公開されている(下写真×2葉)。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A8AAE9A088E8B380E6B8AF1947.jpg" alt="&#x6A2A;&#x9808;&#x8CC0;&#x6E2F;1947.jpg" width="520" height="415" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BFA1E6BF8319441119-ade79.jpg" alt="&#x4FE1;&#x6FC3;19441119.jpg" width="520" height="400" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BFA1E6BF831944.jpg" alt="&#x4FE1;&#x6FC3;1944.jpg" width="520" height="419" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A8AAE9A088E8B380E382ACE383B3E38388E383AAE383BCE382AFE383ACE383BCE383B31970.JPG" alt="横須賀ガントリークレーン1970.JPG" width="600" height="406" border="0" /></div><div>　1931年(昭和6)の「満洲事変」以降、日中戦争が激しくなるにつれ、日本国内には風景の写生禁止・撮影禁止の場所が急増していく。特に港湾や海岸線は、海軍の艦艇が往来したり新造艦の公試運転が行われるため、特に厳しい監視の目が注がれていた。<br />　東京の周辺でいうと、海軍工廠があった横須賀市街を走る横須賀線は、港湾や工廠のガントリークレーンのある側の窓は、すべてブラインドを下すよう命令されていたのを、三浦半島へのハイキングの際など親たちからよく聞かされた。特に、建造中の艦艇や、海軍へ引きわたされる前後の公試運転中の新造艦が停泊したりしていると、警官や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-10.html" target="_blank" rel="noopener">憲兵隊</a>が付近の家々や山々までを監視してまわっていた。写生や撮影が見つかると、即座に検挙されることになる。<br />　アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直／2016年)の中で、太平洋戦争末期に「北條すず」が瀬戸内海を写生していると、憲兵がやってきて「間諜(スパイ)」行為だとして叱責・罵倒するシーンがあるけれど、描いていたスケッチブックだけ没収して、あとは自宅へ“連行”してそのまま“釈放”することなどありえない。特に「すず」は、レイテ沖海戦やエンガノ岬沖海戦で傷つき、ほうほうの体でようやく帰還してきた聯合艦隊の残存部隊(原作では航空戦艦「日向」と重巡「利根」)を写生しており、即座に憲兵隊本部へ連行されただろう。これは「要塞地帯法」の第7条違反、または「軍港要港規則」の第19条違反にあたり、その物証とともに現行犯である「北條すず」が逮捕・拘留され、起訴されないのはアニメ(ファンタジー)の世界だからだ。<br />　昭和10年代の画家たちは、この要塞地法や軍港要港規則などで、たまにヒドイめに遭っている。別に、写生が禁止されていない場所で風景画を描いていても、間諜(スパイ)の嫌疑をかけられて連行されることもめずらしくなかった。特に海が見わたせる付近では軍港や、必要に応じて艦船が出入りする要港でなくても、うっかり沖に目を向けて写生したりしていると、地元の巡査や在郷軍人会の役員に見とがめられ、事実としてプロの画家であることが証明されるか、誰かを保証人に立てて「無実」が証明されるまで、連行・拘留されることも少なくなかった。<br />　以下、1935年(昭和10)現在の要塞地法と、港湾に関する軍港要港規則を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">要塞地帯法</span>／第七条 何人ト雖モ要塞司令官ノ許可ヲ得ルニアラザレバ要塞地帯内水陸形状ヲ測量撮影模写録取シ又ハ要塞地帯内ヲ航空スルコトヲ得ズ<br />　<span style="color: #333399;">軍港要港規則</span>／第十九条　鎮守府司令官ノ許可ヲ得ズシテ軍港要港内ヲ航空シ又ハ同境域内水陸ノ形状ヲ測量、撮影、模写、録取シ若シクハ地理案内等ノ図書ヲ発行スルコトヲ禁ズ<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の2法ばかりでなく、朝鮮半島や中国では「関東洲防禦営造物地帯令」の第4条、台湾では1919年(大正8)まで「台湾国防用防禦営造物区域取締規則」(のち国内「要塞地法」を適用)によって、軍の施設や艦船が停泊・航行する港や海域は、すべて「測量、撮影、模写、録取」が禁止された。ただし、今日のように正確な位置座標を規定できるGPSなどない時代なので、上記法の適用は大雑把なエリアとなり、それが戦争の激化とともに曖昧化し拡大されていった。<br />　1930年代になると、個人で携帯できるコンパクトなカメラを所有する市民が急増し、あらゆる場所での写真撮影が可能になったため、特に海浜地帯に軍港や造船所などを抱える軍部や自治体では、撮影禁止区域の監視に頭を痛めていたようだ。そのために、憲兵隊と協議してパトロールを強化したり、監視する警官の人数を増やしたりしている。また、軍港や要塞を抱える地元では、「不審人物」を見かけたらただちに官憲へ通報するよう、住民たちへの通達も繰り返し頻繁に行われていた。画家が写生していて連行されたのは、この仕組みによるケースがほとんどだった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38193E381AEE4B896E7958CE381AEE78987E99A85E381AB.jpg" alt="この世界の片隅に.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BCB8E98081E889A6E3818AE3818AE38199E381BF.JPG" alt="輸送艦おおすみ.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B885E6B0B4E4B985E3808CE58699E79C9FE8AAADE69CACE3808D1935.jpg" alt="清水久「写真読本」1935.jpg" width="255" height="386" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE587BAE78988E983A81935E5A5A5E4BB98.jpg" alt="康業社出版部1935奥付.jpg" width="255" height="386" border="0" /></div><div>　戦前の上落合に、個人用のカメラなど撮影機材一式を販売する、康業社という会社が営業していた。写真を趣味とする、個人のアマチュアカメラマンを顧客に、カメラやフィルムなどを販売していたが、同社には出版部も付属していて、初心者向けの「写真入門」「カメラ入門」のような書籍類も刊行している。西武線・下落合駅から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧・八幡通り</a>沿いの商店街を少し西へ入った、上落合1丁目263番地で営業しており、写真誌などへ媒体広告も出稿している。<br />　同社の出版物に、T.P.S.(東京写真研究会＝Tokyo Photographic Society)に所属する清水久が執筆し、1935年(昭和10)に出版された『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』という書籍がある。カメラの機能説明にはじまり、さまざまな写真の撮影方法、フィルムの種類と特徴、風景・静物から動体(人間や乗り物など)までの撮影テクニック、現像方法と焼き付け・印画の手順、おまけに写真の修正技術など、カメラの初心者に向けて懇切ていねいに解説をほどこした写真の入門書だ。その中で、特に「注意すべき撮影禁止区域」という項目が1章が設けられ、20ページにわたり撮影が禁止されている地域が、概略地図入りで紹介されている。同書より、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　撮影の為に旅行したり、旅行のついでに撮影したりすることは、写真家に与へられた最大のたのしみであるが、何処へ行つても自由に写すといふことは出来ない。旅行した地方によつては、撮影を禁止されてゐる場所がある。(中略)　ことに国法によつて禁止されてゐる要塞地帯などは、いくら写真機が自分のものであるからと云つても、一定の手続を経ないと、思はぬところで、国法を犯すことになる。要塞地帯には陸軍管轄の要塞地帯と海軍管轄の軍港や要港地域がある。これに関する規則や地域はときどき変更になり、その度毎に官報に発表されるが、うつかりしてゐるとそれに気付かないことがあるから、若し不安の場合には、その地の官庁に問合せるとよい。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記のように、1935年(昭和10)の段階では規制がそれほどでもなく、いまだ過剰な取り締まりや太平洋戦争中のようなヒステリックな監視・拘束・検挙の仕組みができていなかったせいか、写真に撮りたい場所やスケジュールを詳しく書いた「撮影願」を、地元の陸海軍の司令官あてに提出すれば、撮影に差し障りのない時期を選んで許可が下りていた。<br />　これは、おそらく画家も同様で、港を見下ろすような丘上で風景画の制作をしたい場合は、地元の要塞地帯司令部か鎮守府の司令官あてに「模写(写生)願」を提出し、「作業許可証」を得てから予定のスケジュールでその場所を訪れ制作していたとみられる。また、「作業不可」の回答が寄せられることも多く、特に米英との対立が深まり、太平洋戦争が近づくにつれて「作業許可証」を得ることは、よほど軍部にコネがあるか軍の親密な協力者でないかぎり困難になっていった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE58699E79C9FE983A8E5AA92E4BD93E5BA83E5918A1935.jpg" alt="康業社写真部媒体広告1935.jpg" width="520" height="800" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BAB7E6A5ADE7A4BEE8B7A1.jpg" alt="康業社跡.jpg" width="520" height="358" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A681E5A19EE59CB0E5B8AFE585A8E59BBDE58886E5B883E59BB31935.jpg" alt="要塞地帯全国分布図1935.jpg" width="520" height="343" border="0" /></div><div>　たとえば、先述した横須賀の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-11.html" target="_blank" rel="noopener">海軍工廠</a>のケースでいうと、1944年(昭和19)10月に大和型戦艦の3番艦(110号艦)で、航空母艦に改装された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">「信濃」</a>がドッグ内注水で進水し(実際には事故で一時中断)、翌11月にかけて館山沖や千葉沖を中心に公試運転が行われているが、このとき横須賀線ばかりでなく、三浦半島や房総半島で海が見下ろせる建物の窓はすべてふさがれ、見晴らしのいい場所にはすべて憲兵や警察官が配置されるなど、空前の防諜・監視体制が敷かれたことは、いまでも語り草になっている。このような時期に、三浦半島や房総半島の山々で写生や撮影はおろか、ハイキングをしていただけでも即座に検束・拘留されただろう。<br />　『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(1935年)には、当時、地元の市町村役場や警察署、憲兵隊へいけば、撮影禁止場所の具体的なエリアを記載した地図(図面)を閲覧できたようで、それを参照しながら現地の撮影場所を決定したほうがいいとしている。どのような観光地においても、近くに陸海軍の施設があれば、気軽にカメラのシャッターを押して写真など撮れなかった。特に、東京湾岸は横浜市の本牧より北側を除き、ほとんどすべてが撮影禁止の「東京湾要塞地帯」であり、三浦半島のすべてと房総半島の西側は、全地域が撮影禁止となっていた。それでも、航行する船舶の写真を撮影したければ、先の「撮影願」を東京湾要塞司令部または横須賀鎮守府の司令官あてに提出し、「作業許可証」が下りるのを待たねばならなかった。<br />　1935年(昭和10年)の当時は、いまだ私的な写真撮影に軍部はいくらか鷹揚だったようで、「作業許可証」が下りる確率はそれほど低くはなかったらしい。同書より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　左図(東京湾要塞地帯)の中で網目の区域は海軍の管轄に属する部分であるから、願書は横須賀鎮守府司令長官へ、その他は東京湾要塞司令官へ提出すればよい。(中略) 一部分の撮影が解除されてゐるところもあるからその区域は、東京湾要塞司令部、横須賀鎮守府、その他その区域の市町村役場、警察署、憲兵隊に備へ付けの図面について見られるとよい。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の中で、「一部分の撮影が解除されてゐるところ」とあるのは、市街地化が進む横浜市の金沢区などのことで、戦前に撮影された地図製作用の写真にも、観光地化がいちじるしかった鎌倉市街地や三浦半島部は存在しないが、大船や横浜市金沢区の市街地域は撮影され残されている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE6B9BEE8A681E5A19EE59CB0E5B8AFE59BB3.jpg" alt="東京湾要塞地帯図.jpg" width="520" height="750" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E692AEE5BDB1E9A198E6A798E5BC8F.jpg" alt="撮影願様式.jpg" width="520" height="798" border="0" /></div><div>　このほか、撮影禁止場所としては日光や京都の寺社および庭園、各地の帝国大学構内などが挙げられている。観光地の寺社が撮影禁止なのは、もちろん記念の観光絵はがきの販売に影響するからだが、帝大のキャンパス内が撮影禁止というのは、どのような理由によるものなのだろうか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1970年(昭和45)に横須賀へ遊びにいったときにわたしが撮影した、横須賀海軍工廠時代から艦船建造に使われていた巨大なガントリークレーン。子どもとはいえ、戦時中なら即座に検挙・拘束されてカメラとフィルムは没収されていただろう。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直／2016年)の1シーンで、呉沖の航空戦艦「日向」と重巡「利根」を写生する「北條すず」。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、横須賀港に接岸する海上自衛隊輸送艦「おおすみ」。いまは平和な時代なので、港内をいくら撮影しても警官や憲兵が飛んでくることなどありえない。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1935年(昭和10)に出版された清水久『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(康業社出版部)の中扉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、康業社写真部が雑誌などに出稿していた媒体広告。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、上落合1丁目263番地にあった康業社跡(正面の茶色いマンション)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』に掲載の要塞地帯全国分布図で、左上は植民地だった朝鮮半島と台湾の地図。このあと、瀬戸内海の呉海軍工廠・鎮守府や柱島泊地の周辺など要塞地帯は拡大しつづける。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、同書に掲載された東京湾要塞地帯図。グレーの網がけは横須賀鎮守府が、点線の内側は東京湾要塞司令部が撮影禁止に指定しているエリア。ほかにも同書には、全国に分布する撮影禁止の要塞地帯概略図が掲載されている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、陸海軍あてに提出する「撮影願」様式。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　戦後の1947年(昭和22)に撮影された横須賀軍港で、右手に空母「信濃」を建造した巨大なドックが見えている(上写真)。1944年(昭和19)11月19日に米軍の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>が撮影した、上写真のドック内で建造中の巨大な空母「信濃」をとらえた空中写真も米国で公開されている(下写真×2葉)。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A8AAE9A088E8B380E6B8AF1947.jpg" alt="横須賀港1947.jpg" width="520" height="415" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BFA1E6BF8319441119-ade79.jpg" alt="信濃19441119.jpg" width="520" height="400" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BFA1E6BF831944.jpg" alt="信濃1944.jpg" width="520" height="419" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520296965.html</link>
      <title>馴染みがないけれど漢学者たちの下落合。</title>
      <pubDate>Tue, 19 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　学生時代の帰り道、真っ暗な薬王院の旧墓地手前のバッケ階段を一気に駆けあがり(当時は若かったのだ)、荒くなった息づかいを整えられるのが、旧墓地に面して建つ1軒の2階家だった。たいてい灯りが点いていて、街灯がひとつしかない墓地横の道でホッとする瞬間だった。　邸前の道は、ずっと長い間舗装されておらず、この道を少し西へ歩けばすぐに久七坂筋の道路に出られた。おそらく、佐伯祐三の散歩道と重なるコースだろう。久七坂筋の道を北上し、曾宮一念アトリエ跡の諏訪谷に面した駐車場から、里見勝蔵アト..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A293E381AEE38182E3828BE9A2A8E699AF28E983A8E5888629.jpg" alt="&#x5893;&#x306E;&#x3042;&#x308B;&#x98A8;&#x666F;(&#x90E8;&#x5206;).jpg" width="600" height="475" border="0" />　学生時代の帰り道、真っ暗な薬王院の旧墓地手前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-24.html" target="_blank">バッケ階段</a>を一気に駆けあがり(当時は若かったのだ)、荒くなった息づかいを整えられるのが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-10.html" target="_blank">旧墓地</a>に面して建つ1軒の2階家だった。たいてい灯りが点いていて、街灯がひとつしかない墓地横の道でホッとする瞬間だった。　邸前の道は、ずっと長い間舗装されておらず、この道を少し西へ歩けばすぐに久七坂筋の道路に出られた。おそらく、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank">佐伯祐三</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-13.html" target="_blank">散歩道</a>と重なるコースだろう。久七坂筋の道を北上し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank">曾宮一念アトリエ</a>跡の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-02.html" target="_blank">諏訪谷</a>に面した駐車場から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank">里見勝蔵アトリエ</a>跡の前を西進して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-19.html" target="_blank">聖母坂</a>へと抜けると、わずかだが目白通りへの近道になった。当時は、空襲で焼けなかった久七坂筋の大正・昭和初期住宅がそのまま建っており、佐伯の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-04.html" target="_blank">『セメントの坪(ヘイ)』</a>が住宅街の中であるにもかかわらず、既視感からすぐに特定できたゆえんだ。1980年(昭和55)前後のことだ。　その薬王院の旧墓地前の2階家が、会津白虎隊の隊士・飯沼貞吉の弟である飯沼関弥が、1921年(大正10)に小石川区の第六天町から転居してきた家だと知ったのは、つい先ごろのことだ。第六天町の、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-29.html" target="_blank">徳川慶喜邸</a>の西隣りが<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-11.html" target="_blank">松平容保・容大邸</a>なので、おそらく明治期よりその近くに住むか、邸内の家令として勤務していたのだろう。飯沼関弥の息子が、のちに内務官僚から各県知事を歴任することになる飯沼一省だった。彼は、小日向の崖線下に建っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-12-07.html" target="_blank">黒田小学校</a>を卒業している。同小学校については、以前に拙記事でも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank">ご紹介</a>していた。　ちょっと横道にそれるけれど、飯沼関弥の証言によれば、明治以降の警察組織を牛耳っていたのは、官僚から巡査まで薩摩藩の出身者たちだったが、会津出身者も積極的に採用していたという。それは、薩摩閥と長州閥が近い将来対立して国内が内乱状態になる可能性があり、それを見越して長州に恨み骨髄の旧・会津藩士を優先的に採用していたらしい。　さて、飯沼家が第六天町から下落合へ転居してきた、1921年(大正10)ごろの様子から見てみよう。転居当時、飯沼一省は静岡県に勤務しており、同家には両親の飯沼関弥夫妻が住んでいたが、翌1922年(大正11)には出向を終えた飯沼一省がもどって、再び自宅に隣接して住むようになったようだ。1975年(昭和50)に報公会から出版された、飯沼一省『担江独語』から引用してみよう。　　▼　わたくしが今の下落合に引越して来たのは、大正十一年十月十一日であった。当時はまだ東京府豊多摩郡落合村大字下落合というのであった。まだ未開地の状態で、つつじ畑と住宅とが入り交じっていた。水道もなければ、ガスもない。水は井戸を掘った。暖房用としては、石油ストーヴを使ったり、練炭ストーヴを使ったりした。炬燵は能率的でないといってつくらなかった。　　▲　当時は、下落合811番地の邸周囲には住宅がまばらであり、また飯沼邸の東側一帯が薬王院の墓地(江戸期の墓石を含む旧墓地)なので、暖房器具にこだわっているのは、丘上で冷たい北風が容赦なく吹きつけたのだろう。飯沼一省は、その後さまざまな暖房器具を試しているが、危うく一酸化炭素中毒で気を失う事故が起きて以来、炬燵は忌避していたらしい。　墓地に隣接した飯沼邸だったが、大正の当時は夜は暗く静寂で多少気味が悪かったのかもしれないが、のちのち緑と静けさに囲まれた自邸が、たいへん気に入っていたようだ。確かに、クルマの騒音も近所の雑音も聞こえにくく、ましてや突然自宅の前に背の高いマンションやビルが建つ可能性など皆無なため、戦後は安心して暮らせていたのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。　　▼　江戸名所図会には、氷川神社と薬王院というお寺が記載されている。その薬王院の墓地の西隣にわたくしの家が建っている。当初はあまりさびし過ぎるなどという意見もあったが、しかし墓地は静寂そのものであり、お寺の境内にはうっそうたる巨木の群生がある。東京では特に貴重な緑と静けさとが確保されている。細い道路のおかげで、用のない車は入ってこない。ために空気は常に清々しく、お寺の森には四時小鳥の囀りの断ゆることがない。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE5A293E381AEE38182E3828BE9A2A8E699AFE3808D1926.jpg" alt="&#x4F50;&#x4F2F;&#x7950;&#x4E09;&#x300C;&#x5893;&#x306E;&#x3042;&#x308B;&#x98A8;&#x666F;&#x300D;1926.jpg" width="520" height="432" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E982B8.jpg" alt="&#x98EF;&#x6CBC;&#x4E00;&#x7701;&#x90B8;.jpg" width="520" height="428" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E982B8E8B7A1.jpg" alt="&#x98EF;&#x6CBC;&#x4E00;&#x7701;&#x90B8;&#x8DE1;.jpg" width="520" height="293" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5B08FE5ADA6E6A0A1.jpg" alt="&#x9ED2;&#x7530;&#x5C0F;&#x5B66;&#x6821;.jpg" width="520" height="365" border="0" />　確かに、樹木が繁る寺社の境内や濃い緑を残した公園が近くにあると、それだけで酸素を盛んに吐きだす樹林のせいか空気の質や匂いがちがうし、夏などは気温も少なからず低くなるのは、わたしもさんざん経験ずみだ。小鳥たちが集まるのも、生活ではうれしい色どりだ。わたしは、飯沼邸の周辺ではよく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-08.html" target="_blank">オナガ</a>の群が飛ぶのを見ている。　飯沼一省の同書で、わたしがめずらしく感じたのは、下落合に住んだ漢学者たちがまとめて紹介されている箇所だ。わたしは、「漢学」などとはほとんど関わりなく生きてきた下世話な人間なので、高名な漢学者(漢史・漢文学・論語・儒教思想などの研究者)たちが、明治末ごろから下落合に集まりはじめていたことなど知らなかった。または、中国や朝鮮由来の封建主義そのままの「明治の精神」＝儒教思想や修身などには、ことさら反感をおぼえるので近寄らなかったというのが正確な表現だろうか。いや、漢語に堪能で中国史や中国文学・思想にやたら詳しい、研究者も舌を巻く下落合にいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank">大泉黒石</a>はよく知っているが、ここでいう漢学者とはいわゆる民間の研究者ではなく、ダシャレではないが官学の漢学に近い位置にいた学者たちのことだ。　『担江独語』より、下落合に住んでいた漢学者たちの住まいについて、少し引用してみよう。　　▼　この下落合には、どういうものか著名な漢学者が、何人か住んでおられた。わたくしが第一高等学校時代に教えを受けた安井小太郎先生、島田鈞一先生のお宅は、南へ坂を下りて下落合駅に近いところにあった。おそらく安井先生が先きに家を建てられ、静かな郊外地だからといって島田先生にすすめられたものでもあろうか。明治末期のことである。山手線も当時はまだ電化されず、蒸気機関車が走っていた頃である。高田馬場から大塚か巣鴨へ出て、そこから人力車か円太郎馬車でも利用されて本郷の一高へ通われたものであろう。　　▲　ちなみに、山手線は1909年(明治42)から品川－赤羽間の電化が完了しているので、ふたりの第一高等学校教授だった漢学者は、それ以前の早い時期から下落合に住んでいたのだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E3808CE68B85E6B19FE78BACE8AA9EE3808D1975E5A0B1E585ACE4BC9A.jpg" alt="&#x98EF;&#x6CBC;&#x4E00;&#x7701;&#x300C;&#x62C5;&#x6C5F;&#x72EC;&#x8A9E;&#x300D;1975&#x5831;&#x516C;&#x4F1A;.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81.jpg" alt="&#x98EF;&#x6CBC;&#x4E00;&#x7701;.jpg" width="255" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E383B6E59F8EE381A8E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81.jpg" alt="&#x9DB4;&#x30F6;&#x57CE;&#x3068;&#x98EF;&#x6CBC;&#x4E00;&#x7701;.jpg" width="520" height="437" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E982B81989.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x90B8;1989.jpg" width="520" height="688" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE89E4BA95E5B08FE5A4AAE9838EE982B8.jpg" alt="&#x5B89;&#x4E95;&#x5C0F;&#x592A;&#x90CE;&#x90B8;.jpg" width="520" height="423" border="0" />　上記、西坂の下に住んでいた下落合858番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-03.html" target="_blank">安井小太郎</a>については、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり」の安井息軒とともに、以前の記事でご紹介していた。薬王院横の飯沼邸から、南西に直線距離でちょうど210mほどのところに安井邸が位置していた。安井邸は、1931年(昭和6)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-06-09.html" target="_blank">聖母坂</a>(のち補助45号線)の敷設で転居を余儀なくされていると思われる。現在は、聖母坂通りと<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank">十三間通り</a>(新目白通り)がクロスする交差点の下になっている。　下落合835番地の島田鈞一邸は、久七坂を下って<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank">雑司ヶ谷道</a>を東へ左折した2軒目にあり、飯沼邸から直線距離で125mほどのところにあった。現在の地勢でいうと、久七坂側から見て<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-05-02.html" target="_blank">下落合弁天社</a>手前の斜面にある敷地だった。ここの崖地から、1964年(昭和39)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2004-11-29-1.html" target="_blank">下落合横穴古墳群</a>が、早稲田大学<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2004-12-24.html" target="_blank">考古学研究室</a>の手で発掘されている。　また、飯沼邸の北側にも、高名な漢学者が住んでいた。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank">曾宮一念アトリエ</a>の東側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-08.html" target="_blank">浅川秀次邸</a>の斜向かいにあたる下落合596番地には、飯沼家と同じ会津出身の漢学者・南摩綱紀(羽峰)が住んでいた。飯沼邸から、北へ直線距離で240mほどのところだ。南摩綱紀は、明治期には東京帝国大学や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京高等師範学校(のち東京教育大学／現・筑波大学)の教授を歴任している。彼は下落合の自宅を「環碧楼」と名づけ、周辺の風光明媚な様子を漢文に残している。『担江独語』より、下落合の南摩綱紀について引用してみよう。　　▼　先生には「環碧楼遺稿」という詩文集があり、その中の環碧楼雑詩の序には、次のように述べられている。／「余、小楼を東京望嶽街に作り、読書の処と為す。地勢塏爽、林樹鬱茂、深山の趣あり。云々」 先生はこの緑樹の鬱蒼たる高台の上を、富士山と相対して俯仰し、逍遥せられたものであろう。事実、わたくしがここに茅屋を建てた頃は、二階の窓から富士はもとより、秩父連山から丹沢、箱根の山々まで、手にとるように見ることができた。西風の強い冬の日などは、南アルプスの悪沢岳かと思われる雪を冠った三角形の山の姿さえ見ることができたものである。今はスモッグと林立するコンクリートの高層建築物のために、それもかなわぬことになってしまった。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE89E4BA95E5B08FE5A4AAE9838E.jpg" alt="&#x5B89;&#x4E95;&#x5C0F;&#x592A;&#x90CE;.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B6E794B0E9889EE4B880.jpg" alt="&#x5CF6;&#x7530;&#x921E;&#x4E00;.jpg" width="255" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B6E794B0E9889EE4B880E982B8.jpg" alt="&#x5CF6;&#x7530;&#x921E;&#x4E00;&#x90B8;.jpg" width="520" height="419" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E691A9E7B6B1E7B480E982B8.jpg" alt="&#x5357;&#x6469;&#x7DB1;&#x7D00;&#x90B8;.jpg" width="520" height="372" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E691A9E7B6B1E7B480.jpg" alt="&#x5357;&#x6469;&#x7DB1;&#x7D00;.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E792B0E7A2A7E6A5BCE99B91E8A8981912M450328E7A781E5AEB6E7898829.jpg" alt="&#x74B0;&#x78A7;&#x697C;&#x96D1;&#x8A18;1912M4503(&#x79C1;&#x5BB6;&#x7248;).jpg" width="255" height="380" border="0" />　南摩綱紀の原文(漢文)では、このあと目白崖線の随所に見られる湧水池(小池)や、川筋に見られる豊富な魚影などにも触れているので、下落合を中心にあちこち散策して余生をすごしたのだろう。現在は空気もかなり澄み、富士山や秩父連山から大山・丹沢方面までが望める日はそうめずらしくないが、飯沼一省が『担江独語』を書いた1975年(昭和50)は、汚染がピークの時代だった。
◆写真上：1926年(大正15)9月22日(小雨)に佐伯祐三が薬王院墓地と下落合811番地界隈を描いた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-10.html" target="_blank">『墓のある風景』</a>(拡大)の飯沼邸とみられる屋根の庇。◆写真中上：上は、佐伯祐三『墓のある風景』。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる飯沼一省邸。中下は、小石川の第六天町から下落合811番地へ転居してきた飯沼邸跡。下は、第六天町時代に通っていた小日向水道町86番地の黒田小学校。◆写真中下：上は、1975年(昭和50)に報公会から出版された飯沼一省『担江独語』(左)と著者の飯沼一省(右)。中上は、飯沼家の精神的な拠りどころだったとみられる会津若松城(鶴ヶ城)の天守と飯沼一省。中下は、1989年(昭和64)の正月に撮影されたわたしにもおなじみの飯沼邸。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合858番地の安井小太郎邸。◆写真下：上は、漢学者で教育者の安井小太郎(左)と島田鈞一(右)。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合835番地の島田鈞一邸。中下は、同じく下落合596番地の南摩綱紀邸。下は、南摩綱紀(左)と1912年(明治45)に書かれた『環碧楼雑記』(私家版)の序(右)。<a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A293E381AEE38182E3828BE9A2A8E699AF28E983A8E5888629.jpg" alt="墓のある風景(部分).jpg" width="600" height="475" border="0" /></div><div>　学生時代の帰り道、真っ暗な薬王院の旧墓地手前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-24.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ階段</a>を一気に駆けあがり(当時は若かったのだ)、荒くなった息づかいを整えられるのが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧墓地</a>に面して建つ1軒の2階家だった。たいてい灯りが点いていて、街灯がひとつしかない墓地横の道でホッとする瞬間だった。<br />　邸前の道は、ずっと長い間舗装されておらず、この道を少し西へ歩けばすぐに久七坂筋の道路に出られた。おそらく、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-13.html" target="_blank" rel="noopener">散歩道</a>と重なるコースだろう。久七坂筋の道を北上し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念アトリエ</a>跡の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">諏訪谷</a>に面した駐車場から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">里見勝蔵アトリエ</a>跡の前を西進して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-19.html" target="_blank" rel="noopener">聖母坂</a>へと抜けると、わずかだが目白通りへの近道になった。当時は、空襲で焼けなかった久七坂筋の大正・昭和初期住宅がそのまま建っており、佐伯の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-04.html" target="_blank" rel="noopener">『セメントの坪(ヘイ)』</a>が住宅街の中であるにもかかわらず、既視感からすぐに特定できたゆえんだ。1980年(昭和55)前後のことだ。<br />　その薬王院の旧墓地前の2階家が、会津白虎隊の隊士・飯沼貞吉の弟である飯沼関弥が、1921年(大正10)に小石川区の第六天町から転居してきた家だと知ったのは、つい先ごろのことだ。第六天町の、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">徳川慶喜邸</a>の西隣りが<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-11.html" target="_blank" rel="noopener">松平容保・容大邸</a>なので、おそらく明治期よりその近くに住むか、邸内の家令として勤務していたのだろう。飯沼関弥の息子が、のちに内務官僚から各県知事を歴任することになる飯沼一省だった。彼は、小日向の崖線下に建っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-12-07.html" target="_blank" rel="noopener">黒田小学校</a>を卒業している。同小学校については、以前に拙記事でも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">ご紹介</a>していた。<br />　ちょっと横道にそれるけれど、飯沼関弥の証言によれば、明治以降の警察組織を牛耳っていたのは、官僚から巡査まで薩摩藩の出身者たちだったが、会津出身者も積極的に採用していたという。それは、薩摩閥と長州閥が近い将来対立して国内が内乱状態になる可能性があり、それを見越して長州に恨み骨髄の旧・会津藩士を優先的に採用していたらしい。<br />　さて、飯沼家が第六天町から下落合へ転居してきた、1921年(大正10)ごろの様子から見てみよう。転居当時、飯沼一省は静岡県に勤務しており、同家には両親の飯沼関弥夫妻が住んでいたが、翌1922年(大正11)には出向を終えた飯沼一省がもどって、再び自宅に隣接して住むようになったようだ。1975年(昭和50)に報公会から出版された、飯沼一省『担江独語』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　わたくしが今の下落合に引越して来たのは、大正十一年十月十一日であった。当時はまだ東京府豊多摩郡落合村大字下落合というのであった。まだ未開地の状態で、つつじ畑と住宅とが入り交じっていた。水道もなければ、ガスもない。水は井戸を掘った。暖房用としては、石油ストーヴを使ったり、練炭ストーヴを使ったりした。炬燵は能率的でないといってつくらなかった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　当時は、下落合811番地の邸周囲には住宅がまばらであり、また飯沼邸の東側一帯が薬王院の墓地(江戸期の墓石を含む旧墓地)なので、暖房器具にこだわっているのは、丘上で冷たい北風が容赦なく吹きつけたのだろう。飯沼一省は、その後さまざまな暖房器具を試しているが、危うく一酸化炭素中毒で気を失う事故が起きて以来、炬燵は忌避していたらしい。<br />　墓地に隣接した飯沼邸だったが、大正の当時は夜は暗く静寂で多少気味が悪かったのかもしれないが、のちのち緑と静けさに囲まれた自邸が、たいへん気に入っていたようだ。確かに、クルマの騒音も近所の雑音も聞こえにくく、ましてや突然自宅の前に背の高いマンションやビルが建つ可能性など皆無なため、戦後は安心して暮らせていたのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　江戸名所図会には、氷川神社と薬王院というお寺が記載されている。その薬王院の墓地の西隣にわたくしの家が建っている。当初はあまりさびし過ぎるなどという意見もあったが、しかし墓地は静寂そのものであり、お寺の境内にはうっそうたる巨木の群生がある。東京では特に貴重な緑と静けさとが確保されている。細い道路のおかげで、用のない車は入ってこない。ために空気は常に清々しく、お寺の森には四時小鳥の囀りの断ゆることがない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE5A293E381AEE38182E3828BE9A2A8E699AFE3808D1926.jpg" alt="佐伯祐三「墓のある風景」1926.jpg" width="520" height="432" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E982B8.jpg" alt="飯沼一省邸.jpg" width="520" height="428" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E982B8E8B7A1.jpg" alt="飯沼一省邸跡.jpg" width="520" height="293" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5B08FE5ADA6E6A0A1.jpg" alt="黒田小学校.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div>　確かに、樹木が繁る寺社の境内や濃い緑を残した公園が近くにあると、それだけで酸素を盛んに吐きだす樹林のせいか空気の質や匂いがちがうし、夏などは気温も少なからず低くなるのは、わたしもさんざん経験ずみだ。小鳥たちが集まるのも、生活ではうれしい色どりだ。わたしは、飯沼邸の周辺ではよく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">オナガ</a>の群が飛ぶのを見ている。<br />　飯沼一省の同書で、わたしがめずらしく感じたのは、下落合に住んだ漢学者たちがまとめて紹介されている箇所だ。わたしは、「漢学」などとはほとんど関わりなく生きてきた下世話な人間なので、高名な漢学者(漢史・漢文学・論語・儒教思想などの研究者)たちが、明治末ごろから下落合に集まりはじめていたことなど知らなかった。または、中国や朝鮮由来の封建主義そのままの「明治の精神」＝儒教思想や修身などには、ことさら反感をおぼえるので近寄らなかったというのが正確な表現だろうか。いや、漢語に堪能で中国史や中国文学・思想にやたら詳しい、研究者も舌を巻く下落合にいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank" rel="noopener">大泉黒石</a>はよく知っているが、ここでいう漢学者とはいわゆる民間の研究者ではなく、ダシャレではないが官学の漢学に近い位置にいた学者たちのことだ。<br />　『担江独語』より、下落合に住んでいた漢学者たちの住まいについて、少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　この下落合には、どういうものか著名な漢学者が、何人か住んでおられた。わたくしが第一高等学校時代に教えを受けた安井小太郎先生、島田鈞一先生のお宅は、南へ坂を下りて下落合駅に近いところにあった。おそらく安井先生が先きに家を建てられ、静かな郊外地だからといって島田先生にすすめられたものでもあろうか。明治末期のことである。山手線も当時はまだ電化されず、蒸気機関車が走っていた頃である。高田馬場から大塚か巣鴨へ出て、そこから人力車か円太郎馬車でも利用されて本郷の一高へ通われたものであろう。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　ちなみに、山手線は1909年(明治42)から品川－赤羽間の電化が完了しているので、ふたりの第一高等学校教授だった漢学者は、それ以前の早い時期から下落合に住んでいたのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81E3808CE68B85E6B19FE78BACE8AA9EE3808D1975E5A0B1E585ACE4BC9A.jpg" alt="飯沼一省「担江独語」1975報公会.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81.jpg" alt="飯沼一省.jpg" width="255" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E383B6E59F8EE381A8E9A3AFE6B2BCE4B880E79C81.jpg" alt="鶴ヶ城と飯沼一省.jpg" width="520" height="437" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E982B81989.jpg" alt="下落合邸1989.jpg" width="520" height="688" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE89E4BA95E5B08FE5A4AAE9838EE982B8.jpg" alt="安井小太郎邸.jpg" width="520" height="423" border="0" /></div><div>　上記、西坂の下に住んでいた下落合858番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-03.html" target="_blank" rel="noopener">安井小太郎</a>については、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり」の安井息軒とともに、以前の記事でご紹介していた。薬王院横の飯沼邸から、南西に直線距離でちょうど210mほどのところに安井邸が位置していた。安井邸は、1931年(昭和6)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-06-09.html" target="_blank" rel="noopener">聖母坂</a>(のち補助45号線)の敷設で転居を余儀なくされていると思われる。現在は、聖母坂通りと<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通り</a>(新目白通り)がクロスする交差点の下になっている。<br />　下落合835番地の島田鈞一邸は、久七坂を下って<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷道</a>を東へ左折した2軒目にあり、飯沼邸から直線距離で125mほどのところにあった。現在の地勢でいうと、久七坂側から見て<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-05-02.html" target="_blank" rel="noopener">下落合弁天社</a>手前の斜面にある敷地だった。ここの崖地から、1964年(昭和39)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2004-11-29-1.html" target="_blank" rel="noopener">下落合横穴古墳群</a>が、早稲田大学<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2004-12-24.html" target="_blank" rel="noopener">考古学研究室</a>の手で発掘されている。<br />　また、飯沼邸の北側にも、高名な漢学者が住んでいた。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念アトリエ</a>の東側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">浅川秀次邸</a>の斜向かいにあたる下落合596番地には、飯沼家と同じ会津出身の漢学者・南摩綱紀(羽峰)が住んでいた。飯沼邸から、北へ直線距離で240mほどのところだ。南摩綱紀は、明治期には東京帝国大学や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京高等師範学校(のち東京教育大学／現・筑波大学)の教授を歴任している。彼は下落合の自宅を「環碧楼」と名づけ、周辺の風光明媚な様子を漢文に残している。『担江独語』より、下落合の南摩綱紀について引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　先生には「環碧楼遺稿」という詩文集があり、その中の環碧楼雑詩の序には、次のように述べられている。／「余、小楼を東京望嶽街に作り、読書の処と為す。地勢塏爽、林樹鬱茂、深山の趣あり。云々」 先生はこの緑樹の鬱蒼たる高台の上を、富士山と相対して俯仰し、逍遥せられたものであろう。事実、わたくしがここに茅屋を建てた頃は、二階の窓から富士はもとより、秩父連山から丹沢、箱根の山々まで、手にとるように見ることができた。西風の強い冬の日などは、南アルプスの悪沢岳かと思われる雪を冠った三角形の山の姿さえ見ることができたものである。今はスモッグと林立するコンクリートの高層建築物のために、それもかなわぬことになってしまった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE89E4BA95E5B08FE5A4AAE9838E.jpg" alt="安井小太郎.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B6E794B0E9889EE4B880.jpg" alt="島田鈞一.jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B6E794B0E9889EE4B880E982B8.jpg" alt="島田鈞一邸.jpg" width="520" height="419" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E691A9E7B6B1E7B480E982B8.jpg" alt="南摩綱紀邸.jpg" width="520" height="372" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E691A9E7B6B1E7B480.jpg" alt="南摩綱紀.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E792B0E7A2A7E6A5BCE99B91E8A8981912M450328E7A781E5AEB6E7898829.jpg" alt="環碧楼雑記1912M4503(私家版).jpg" width="255" height="380" border="0" /></div><div>　南摩綱紀の原文(漢文)では、このあと目白崖線の随所に見られる湧水池(小池)や、川筋に見られる豊富な魚影などにも触れているので、下落合を中心にあちこち散策して余生をすごしたのだろう。現在は空気もかなり澄み、富士山や秩父連山から大山・丹沢方面までが望める日はそうめずらしくないが、飯沼一省が『担江独語』を書いた1975年(昭和50)は、汚染がピークの時代だった。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1926年(大正15)9月22日(小雨)に佐伯祐三が薬王院墓地と下落合811番地界隈を描いた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">『墓のある風景』</a>(拡大)の飯沼邸とみられる屋根の庇。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、佐伯祐三『墓のある風景』。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる飯沼一省邸。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、小石川の第六天町から下落合811番地へ転居してきた飯沼邸跡。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、第六天町時代に通っていた小日向水道町86番地の黒田小学校。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1975年(昭和50)に報公会から出版された飯沼一省『担江独語』(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と著者の飯沼一省(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、飯沼家の精神的な拠りどころだったとみられる会津若松城(鶴ヶ城)の天守と飯沼一省。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1989年(昭和64)の正月に撮影されたわたしにもおなじみの飯沼邸。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合858番地の安井小太郎邸。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、漢学者で教育者の安井小太郎(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と島田鈞一(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合835番地の島田鈞一邸。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同じく下落合596番地の南摩綱紀邸。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、南摩綱紀(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と1912年(明治45)に書かれた『環碧楼雑記』(私家版)の序(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520333228.html</link>
      <title>淀橋小学校「同級生」の小島善太郎と曾宮一念。</title>
      <pubDate>Sat, 16 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　小島善太郎と曾宮一念が隣りあわせに座る、めずらしい写真が残されている。1934年(昭和9)に美術発行所が刊行する「美術」6月号へ掲載された、独立美術協会の独立展へ応募してきた画家たちの鑑査をするふたりの姿だ。(冒頭写真)　当時、下落合623番地の曾宮一念は健康上の不安を抱えつつ、鈴木保徳や伊藤廉、里見勝蔵らの強い勧誘で、あまり積極的ではなかったようだが、わずか2年間だけ独立美術協会へ参画していた。3年前の1931年(昭和6)には、小出楢重が死去したため二科会の正会員になった..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB526E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838E193406.jpg" alt="&#x66FE;&#x5BAE;&#x4E00;&#x5FF5;&amp;&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;193406.jpg" width="600" height="472" border="0" />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-17.html" target="_blank">小島善太郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21.html" target="_blank">曾宮一念</a>が隣りあわせに座る、めずらしい写真が残されている。1934年(昭和9)に美術発行所が刊行する「美術」6月号へ掲載された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-29.html" target="_blank">独立美術協会</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-16.html" target="_blank">独立展</a>へ応募してきた画家たちの鑑査をするふたりの姿だ。(冒頭写真)　当時、下落合623番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank">曾宮一念</a>は健康上の不安を抱えつつ、鈴木保徳や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21-1.html" target="_blank">伊藤廉</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank">里見勝蔵</a>らの強い勧誘で、あまり積極的ではなかったようだが、わずか2年間だけ独立美術協会へ参画していた。3年前の1931年(昭和6)には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-31.html" target="_blank">小出楢重</a>が死去したため二科会の正会員になったばかりだった。独立美術協会への参加とともに二科会を退会したが、1937年(昭和12)には同協会内の内紛に嫌気がさして脱退している。同年には、下落合3丁目1447番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-03.html" target="_blank">宮田重雄</a>の誘いで国画会へ加入するが、カリエスが重症となり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-02-04.html" target="_blank">富士見高原療養所</a>へ入院している。　したがって、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-20.html" target="_blank">小島善太郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-03.html" target="_blank">曾宮一念</a>が同じ画会で会員同士だったのは、わずか2年余の間だけだった。だが、このふたり、実は同じ小学校に通っており、まったく同学年だったことはあまり知られていない事実だ。東京日日新聞の記者だった父親が死去したため、曾宮一念は1905年(明治38)に大久保百人町へ転居してきており、淀橋町柏木131～132番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-15.html" target="_blank">淀橋尋常高等小学校</a>の高等科へ編入している。1903年(明治36)の台風による竜巻で、淀橋小学校の新校舎が全壊したため、当時は淀橋町町役場の物置が教室がわりに使われていた。　1903年(明治36)9月23日、東京地方を襲った台風は渋谷地域で竜巻を発生させ、淀橋小学校を直撃して新校舎の倒壊により、児童6名が死亡し多くの負傷者をだす大惨事となった。竜巻はそのまま北へ進み、荒川手前の高島平あたりで消滅している。事故直後の9月27日、倒壊した新校舎の現地調査が行われたが、設計図と実際に建てられていた校舎の仕様とは異なっており、木組みの一部にはホゾ組や釘を使わず針金で縛っただけの箇所もあり、明らかに欠陥建築だったことが露見している。自然災害に加え、人災だった可能性が高いことが判明した。ちなみに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-06.html" target="_blank">落合尋常高等小学校</a>へもこの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-08.html" target="_blank">竜巻は襲来</a>したが、急遽、授業をとりやめ生徒たちを早退させていたため、校舎が倒壊したにもかかわらず被害者はでなかった。　小島善太郎は、この台風による竜巻を経験しており、たまたま旧校舎にいたため無傷で助かり、校舎の下敷きになって助けだされた妹の手を引きながら、暴風雨のなかを自宅へ逃げ帰っている。このあと、小島善太郎は父親を手伝うために徐々に小学校へはいかなくなり、1904年(明治37)の秋になると、彼は浅草の醬油屋へ丁稚奉公にだされたため、淀橋小学校には通えなくなった。曾宮一念が、なかなか復興しない校舎ではなく役場の物置教室へ編入してきたのは、小島善太郎が退学した1年後であり、本来なら同級生になるはずのふたりだった。　曾宮一念は、わざわざ小島善太郎へ手紙を書き、淀橋小学校時代のことを確認している。1974年(昭和49)に出版された曾宮一念『みどりからかぜへ』(求龍堂)より、少し長いが引用してみよう。　　▼　小島の『若き日の自画像』は最初の数ページを読むと、彼の家がわかって、おやと思った。／この文には、明治三十八、九年に彼の家の近くに私も住んでいたこと、同級生であったことを記そうと思う。(中略)　最後の小学校であったこの学校(淀橋尋常高等小学校)の気風は素朴で、楽しく半年を過し、中学(早稲田中学校)へ入った。二、三年前の旋風で校舎が倒れて、生徒に死者が出たことを当時私は知っていた。高等三、四年の教室は役場の物置を借りて二十人ほどがいた。床は波を打って歪み、ガラス窓も曲っていた。／私の家は大久保駅の近くで、家の前から浄水場へ通ずる線(引込線路)が分れていた。その上を歩いて浄水場に入る手前に、小島の家のあったこと、も少しさきを読むと豪雨の日に旋風が浄水場の水を巻き上げ、それを滝のように校舎に落して倒壊させた描写があったので、いよいよ小島とは同じ小学校にいたと気づいた。年から考えると同級の筈である。しかし、彼は前記の物置教室にはいなかった。浅草の醤油屋に奉公して荷車を曳きながらスケッチをしていたからであろう。／私はここまで読んで彼に手紙をかいた。すると返事によって彼の退校後に私が在学した不思議な同級の縁であることがわかった。(カッコ内引用者註)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5A49AE691A9E983A1E6B780E6A98BE794BAE5B882E8A197E59BB31911.jpg" alt="&#x8C4A;&#x591A;&#x6469;&#x90E1;&#x6DC0;&#x6A4B;&#x753A;&#x5E02;&#x8857;&#x56F3;1911.jpg" width="520" height="460" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B780E6A98BE5B08FE5ADA6E6A0A1E696B0E6A0A1E8888E1909.jpg" alt="&#x6DC0;&#x6A4B;&#x5C0F;&#x5B66;&#x6821;&#x65B0;&#x6821;&#x820E;1909.jpg" width="520" height="342" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE688B8E5B1B1E383B6E58E9FE9A2A8E699AFE3808D1911.jpg" alt="&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;&#x300C;&#x6238;&#x5C71;&#x30F6;&#x539F;&#x98A8;&#x666F;&#x300D;1911.jpg" width="520" height="425" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E78BACE7AB8BE7BE8EE8A193E58D94E4BC9AE5BAA7E8AB87E4BC9A.jpg" alt="&#x72EC;&#x7ACB;&#x7F8E;&#x8853;&#x5354;&#x4F1A;&#x5EA7;&#x8AC7;&#x4F1A;.jpg" width="520" height="204" border="0" />　竜巻で校舎が倒壊した淀橋小学校だが、曾宮一念が編入してきた2年後の1905年(明治38)でも、いまだ校舎復興のめどはまったく立っていなかった。　しかも、淀橋町は急激な人口増加に悩んでおり、役場の物置をはじめ各所に設けられた臨時の仮教室で二部制の授業を実施している。校舎再建にまで、予算がまわらないのが実情だった。翌1906年(明治39)10月になって、ようやく淀橋町は校舎再建の申請書を、東京府知事だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-07.html" target="_blank">千家尊福</a>へ提出している。だが、年代からも想定できるように、日本は日露戦争により財政へ壊滅的なダメージを受けており、淀橋町はもちろん東京府の財政も極度にひっ迫していた。この申請書により、淀橋町は学校基金として東京府から1万5,000円の融資を受け、ようやく再建事業をスタートさせるが、戦争で財政基盤が混乱していたため工事は遅れに遅れた。　当初、再建した新校舎での授業スタートを1907年(明治40)4月15日としたが、資金も人手もまったく足りず、工事は途中で何度か挫折して、結局、工費は3万1,336円にまでふくらんだ。422坪の新校舎が竣工したのは、実に校舎倒壊から5年以上がすぎた、1908年(明治41)12月15日のことだった。曾宮一念は1906年(明治39)に同小学校を卒業しているので、もちろんこの新校舎のことは知らない。小島善太郎もまた、奉公先から逃げもどり大久保の陸軍大将・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-27.html" target="_blank">中村覚邸</a>の書生になるまでは、母校の新校舎の様子は知らなかったのではないか。　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-02.html" target="_blank">曾宮一念</a>は、のちに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-25.html" target="_blank">小島善太郎</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-29.html" target="_blank">『若き日の自画像』</a>と、下落合622番地にアトリエをかまえた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-27.html" target="_blank">蕗谷虹児</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-10.html" target="_blank">『花嫁人形』</a>とを比較しながら論じている。蕗谷虹児は、曾宮アトリエの北西裏、海軍大将・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516826922.html" target="_blank">谷口尚真邸</a>の北隣りに住んでいたので、なんとなく親しみを感じていたのだろう。いずれも悲惨な青春群像なのだが、曾宮一念『みどりからかぜへ』からつづけて引用してみよう。　　▼　著者&lt;小島善太郎&gt;は独立美術&lt;協会&gt;の会員で、私も同じ会に二年加わっていたので、展覧会や集会で何回か会っていた。この人が武蔵野の古い農家を改造してアトリエにしたことや、何十年ぶりかで実兄に巡り遇った話が、新聞紙上に紹介されたのは戦後間もない頃であった。どことなく武蔵野らしい雰囲気を感じたが、それ以外、この人の生い立ちは全く知らなかった。／実はこの本を読んだのは五年前で、当時前後して読んだ『花嫁人形』(蕗谷虹児著)の二冊とも大いに感激し、読後感を記したが、これは後に&lt;戦災で&gt;焼失した。／小島と蕗谷は二人とも画家であるが、全く別々の仕事をしている。しかし、私は二冊の内容がまるで読者の私を鞭うつなどという生やさしさではなく、残酷な悪夢にうなされ続けるような苦しさで読み了った。／小島は健康な画風の油絵画家だし、蕗谷は艶やかな美人画家だから、とても二人が幼児から弟妹とともに嘗めた残酷物語は想像できなかったのである。(&lt; &gt;内引用者註)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE98A80E69D8F28E59B9BE8B0B7E38388E383B3E3838DE383AB29E3808D1911.jpg" alt="&#x66FE;&#x5BAE;&#x4E00;&#x5FF5;&#x300C;&#x9280;&#x674F;(&#x56DB;&#x8C37;&#x30C8;&#x30F3;&#x30CD;&#x30EB;)&#x300D;1911.jpg" width="520" height="744" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE59B9BE38384E8B0B7E8A68BE99984E3808D1916.jpg" alt="&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;&#x300C;&#x56DB;&#x30C4;&#x8C37;&#x898B;&#x9644;&#x300D;1916.jpg" width="520" height="443" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE5B7A5E983A8E5ADA6E6A0A1E3808D1911.jpg" alt="&#x66FE;&#x5BAE;&#x4E00;&#x5FF5;&#x300C;&#x5DE5;&#x90E8;&#x5B66;&#x6821;&#x300D;1911.jpg" width="520" height="380" border="0" />　わたしも、蕗谷虹児の『花嫁人形』は既読だが、どこかタイトルから想像するほのぼのとしたような物語とは無縁な、非常にシビアで無情・無惨な現実世界に引きずりこまれるような感覚をおぼえた。それは、奉公先で妹が男にだまされ殺害されてしまう、小島善太郎の『若き日の自画像』と同質の残酷な世界だ。また、曾宮一念が描いた風景画のモチーフが大久保や戸山ヶ原、淀橋、中野と同時代的に重なっていたことも、淀橋尋常高等小学校の「同級生」だったこととからめ、小島善太郎へ親しみをおぼえるようになった要因なのだろう。　文中の、小島が「古い農家を改造してアトリエ」にしていた家とは、南多摩郡加住村(現・八王子市丹木町)にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-20.html" target="_blank">アトリエ</a>のことだろう。ちょうど『若き日の自画像』が出版された1969年(昭和44)、曾宮一念は小島の八王子アトリエを訪ねている。「見舞い」と書いているが、小島善太郎が神経痛で臥せっていたのを見舞ったようだ。そのとき、彼の署名が入った『若き日の自画像』をプレゼントされている。帰りは、「娘さんの車で駅に送られた」と書いているが、この「娘さん」とは、日野市百草776番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-14.html" target="_blank">「百草画荘」</a>でお会いした小島敦子様のことだろうか。　少し余談めくが、曾宮一念が二科会を退会して独立美術協会に参加することになったとき、1934年(昭和9)に刊行された「美術」5月号(美術発行所)には、二科会を退会して独立美術協会へ移る際の「うわさの正誤」という文章が掲載されている。画家が、属していた画会から別の画会へと移る際、美術界ではさまざまなウワサがささやかれていたようだ。曾宮一念の二科脱退は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-14.html" target="_blank">藤田嗣治</a>が二科会へ加入したからというようなウワサが流れていた。曾宮は、自分が二科に退会を伝えたのが先で、藤田嗣治の加入はあとでしょ……と時系列を正している。そして、身体の具合がよくないので、二科会にいても正会員としての勤めが果たせず、このままだと単なる出品者になってしまうので、重荷を下して息がつける気のおけない画会に鞍替えしたのだと書いている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE699A9E7A78B28E688B8E5B1B1E383B6E58E9FE3808D291915.jpg" alt="&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;&#x300C;&#x6669;&#x79CB;(&#x6238;&#x5C71;&#x30F6;&#x539F;&#x300D;)1915.jpg" width="520" height="428" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE4B88BE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D1920E9A083.jpg" alt="&#x66FE;&#x5BAE;&#x4E00;&#x5FF5;&#x300C;&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x98A8;&#x666F;&#x300D;1920&#x9803;.jpg" width="520" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE88BA5E3818DE697A5E381AEE887AAE794BBE5838FE3808D1978E99BAAE88FAFE7A4BE.jpg" alt="&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;&#x300C;&#x82E5;&#x304D;&#x65E5;&#x306E;&#x81EA;&#x753B;&#x50CF;&#x300D;1978&#x96EA;&#x83EF;&#x793E;.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E89597E8B0B7E899B9E58590E3808CE88AB1E5AB81E4BABAE5BDA2E3808D1967E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="&#x8557;&#x8C37;&#x8679;&#x5150;&#x300C;&#x82B1;&#x5AC1;&#x4EBA;&#x5F62;&#x300D;1967&#x8B1B;&#x8AC7;&#x793E;.jpg" width="255" height="360" border="0" />　同じく、春陽会から独立美術協会へ参加した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-14.html" target="_blank">小林和作</a>は、春陽会に不平があったからだというウワサに対し、「全然嘘」と書いている。独立へは創立時から誘われており、数年間考えたすえマンネリ化した画風を打開するために、いまもっとも活動的な独立へ参画して自身の転機にしようとしたのだとしている。画会を移るたびに、画家たちはさまざまなウワサ話に悩まされていたようだ。
◆写真上：1934年(昭和9)6月に撮影された、座談会での小島善太郎(右)と曾宮一念。◆写真中上：上は、1911年(明治44)作成の「豊多摩郡淀橋町市街図」にみる柏木131～132番地の淀橋尋常高等小学校。中上は、1909年(明治42)に撮影された5年がかりで竣工した淀橋尋常高等小学校の新校舎。中下は、1911年(明治44)に制作された小島善太郎『戸山ヶ原風景』。下は、1934年(昭和9)6月に行われた独立美術協会の応募作鑑査の座談会で、右から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-19.html" target="_blank">林重義</a>、岩佐新、小島、曾宮、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-31.html" target="_blank">清水登之</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-25.html" target="_blank">伊藤廉</a>のメンバーたち。◆写真中下：上は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『銀杏(四谷トンネル)』。中は、1916年(大正5)に中央線の曾宮の上掲作と同じトンネルを描いた小島善太郎『四ツ谷見附』。下は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『工部学校』。◆写真下：上は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』。中は、1920年(大正9)ごろ制作された曾宮一念<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21.html" target="_blank">『下落合風景』</a>。下は、1978年(昭和53)に出版された小島善太郎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-27.html" target="_blank">『若き日の自画像』</a>(雪華社／左)と、1967年(昭和42)に出版された蕗谷虹児<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-05.html" target="_blank">『花嫁人形』</a>(講談社／右)。★おまけ1　1931年(昭和6)制作の曾宮一念『荒園』(提供：<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-27.html" target="_blank">江崎晴城様</a>)には、左手につづく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank">浅川秀次邸</a>の塀の向こうに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-03-17.html" target="_blank">諏訪谷</a>に面した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank">大六天</a>裏の細い消防団倉庫が、当時も建っていたように描かれている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE88D92E59C92E3808DE6B0B4E5BDA91931.jpg" alt="&#x66FE;&#x5BAE;&#x4E00;&#x5FF5;&#x300C;&#x8352;&#x5712;&#x300D;&#x6C34;&#x5F69;1931.jpg" width="520" height="613" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E5A4A7E585ADE5A4A9.jpg" alt="&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x5927;&#x516D;&#x5929;.jpg" width="520" height="391" border="0" />★おまけ2　小島敦子様よりいただいた、小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会／1981年)に書かれた著者の署名。曾宮一念が贈呈された『若き日の自画像』も、同様のサイン入りだったのだろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE382B5E382A4E383B3.jpg" alt="&#x5C0F;&#x5CF6;&#x5584;&#x592A;&#x90CE;&#x30B5;&#x30A4;&#x30F3;.jpg" width="520" height="322" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB526E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838E193406.jpg" alt="曾宮一念&amp;小島善太郎193406.jpg" width="600" height="472" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-17.html" target="_blank" rel="noopener">小島善太郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>が隣りあわせに座る、めずらしい写真が残されている。1934年(昭和9)に美術発行所が刊行する「美術」6月号へ掲載された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-29.html" target="_blank" rel="noopener">独立美術協会</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-16.html" target="_blank" rel="noopener">独立展</a>へ応募してきた画家たちの鑑査をするふたりの姿だ。(冒頭写真)<br />　当時、下落合623番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>は健康上の不安を抱えつつ、鈴木保徳や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21-1.html" target="_blank" rel="noopener">伊藤廉</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">里見勝蔵</a>らの強い勧誘で、あまり積極的ではなかったようだが、わずか2年間だけ独立美術協会へ参画していた。3年前の1931年(昭和6)には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-31.html" target="_blank" rel="noopener">小出楢重</a>が死去したため二科会の正会員になったばかりだった。独立美術協会への参加とともに二科会を退会したが、1937年(昭和12)には同協会内の内紛に嫌気がさして脱退している。同年には、下落合3丁目1447番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-03.html" target="_blank" rel="noopener">宮田重雄</a>の誘いで国画会へ加入するが、カリエスが重症となり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-02-04.html" target="_blank" rel="noopener">富士見高原療養所</a>へ入院している。<br />　したがって、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">小島善太郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>が同じ画会で会員同士だったのは、わずか2年余の間だけだった。だが、このふたり、実は同じ小学校に通っており、まったく同学年だったことはあまり知られていない事実だ。東京日日新聞の記者だった父親が死去したため、曾宮一念は1905年(明治38)に大久保百人町へ転居してきており、淀橋町柏木131～132番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">淀橋尋常高等小学校</a>の高等科へ編入している。1903年(明治36)の台風による竜巻で、淀橋小学校の新校舎が全壊したため、当時は淀橋町町役場の物置が教室がわりに使われていた。<br />　1903年(明治36)9月23日、東京地方を襲った台風は渋谷地域で竜巻を発生させ、淀橋小学校を直撃して新校舎の倒壊により、児童6名が死亡し多くの負傷者をだす大惨事となった。竜巻はそのまま北へ進み、荒川手前の高島平あたりで消滅している。事故直後の9月27日、倒壊した新校舎の現地調査が行われたが、設計図と実際に建てられていた校舎の仕様とは異なっており、木組みの一部にはホゾ組や釘を使わず針金で縛っただけの箇所もあり、明らかに欠陥建築だったことが露見している。自然災害に加え、人災だった可能性が高いことが判明した。ちなみに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">落合尋常高等小学校</a>へもこの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">竜巻は襲来</a>したが、急遽、授業をとりやめ生徒たちを早退させていたため、校舎が倒壊したにもかかわらず被害者はでなかった。<br />　小島善太郎は、この台風による竜巻を経験しており、たまたま旧校舎にいたため無傷で助かり、校舎の下敷きになって助けだされた妹の手を引きながら、暴風雨のなかを自宅へ逃げ帰っている。このあと、小島善太郎は父親を手伝うために徐々に小学校へはいかなくなり、1904年(明治37)の秋になると、彼は浅草の醬油屋へ丁稚奉公にだされたため、淀橋小学校には通えなくなった。曾宮一念が、なかなか復興しない校舎ではなく役場の物置教室へ編入してきたのは、小島善太郎が退学した1年後であり、本来なら同級生になるはずのふたりだった。<br />　曾宮一念は、わざわざ小島善太郎へ手紙を書き、淀橋小学校時代のことを確認している。1974年(昭和49)に出版された曾宮一念『みどりからかぜへ』(求龍堂)より、少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　小島の『若き日の自画像』は最初の数ページを読むと、彼の家がわかって、おやと思った。／この文には、明治三十八、九年に彼の家の近くに私も住んでいたこと、同級生であったことを記そうと思う。(中略)　最後の小学校であったこの学校(淀橋尋常高等小学校)の気風は素朴で、楽しく半年を過し、中学(早稲田中学校)へ入った。二、三年前の旋風で校舎が倒れて、生徒に死者が出たことを当時私は知っていた。高等三、四年の教室は役場の物置を借りて二十人ほどがいた。床は波を打って歪み、ガラス窓も曲っていた。／私の家は大久保駅の近くで、家の前から浄水場へ通ずる線(引込線路)が分れていた。その上を歩いて浄水場に入る手前に、小島の家のあったこと、も少しさきを読むと豪雨の日に旋風が浄水場の水を巻き上げ、それを滝のように校舎に落して倒壊させた描写があったので、いよいよ小島とは同じ小学校にいたと気づいた。年から考えると同級の筈である。しかし、彼は前記の物置教室にはいなかった。浅草の醤油屋に奉公して荷車を曳きながらスケッチをしていたからであろう。／私はここまで読んで彼に手紙をかいた。すると返事によって彼の退校後に私が在学した不思議な同級の縁であることがわかった。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5A49AE691A9E983A1E6B780E6A98BE794BAE5B882E8A197E59BB31911.jpg" alt="豊多摩郡淀橋町市街図1911.jpg" width="520" height="460" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B780E6A98BE5B08FE5ADA6E6A0A1E696B0E6A0A1E8888E1909.jpg" alt="淀橋小学校新校舎1909.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE688B8E5B1B1E383B6E58E9FE9A2A8E699AFE3808D1911.jpg" alt="小島善太郎「戸山ヶ原風景」1911.jpg" width="520" height="425" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E78BACE7AB8BE7BE8EE8A193E58D94E4BC9AE5BAA7E8AB87E4BC9A.jpg" alt="独立美術協会座談会.jpg" width="520" height="204" border="0" /></div><div>　竜巻で校舎が倒壊した淀橋小学校だが、曾宮一念が編入してきた2年後の1905年(明治38)でも、いまだ校舎復興のめどはまったく立っていなかった。<br />　しかも、淀橋町は急激な人口増加に悩んでおり、役場の物置をはじめ各所に設けられた臨時の仮教室で二部制の授業を実施している。校舎再建にまで、予算がまわらないのが実情だった。翌1906年(明治39)10月になって、ようやく淀橋町は校舎再建の申請書を、東京府知事だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">千家尊福</a>へ提出している。だが、年代からも想定できるように、日本は日露戦争により財政へ壊滅的なダメージを受けており、淀橋町はもちろん東京府の財政も極度にひっ迫していた。この申請書により、淀橋町は学校基金として東京府から1万5,000円の融資を受け、ようやく再建事業をスタートさせるが、戦争で財政基盤が混乱していたため工事は遅れに遅れた。<br />　当初、再建した新校舎での授業スタートを1907年(明治40)4月15日としたが、資金も人手もまったく足りず、工事は途中で何度か挫折して、結局、工費は3万1,336円にまでふくらんだ。422坪の新校舎が竣工したのは、実に校舎倒壊から5年以上がすぎた、1908年(明治41)12月15日のことだった。曾宮一念は1906年(明治39)に同小学校を卒業しているので、もちろんこの新校舎のことは知らない。小島善太郎もまた、奉公先から逃げもどり大久保の陸軍大将・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-27.html" target="_blank" rel="noopener">中村覚邸</a>の書生になるまでは、母校の新校舎の様子は知らなかったのではないか。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>は、のちに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-25.html" target="_blank" rel="noopener">小島善太郎</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-29.html" target="_blank" rel="noopener">『若き日の自画像』</a>と、下落合622番地にアトリエをかまえた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">蕗谷虹児</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">『花嫁人形』</a>とを比較しながら論じている。蕗谷虹児は、曾宮アトリエの北西裏、海軍大将・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516826922.html" target="_blank" rel="noopener">谷口尚真邸</a>の北隣りに住んでいたので、なんとなく親しみを感じていたのだろう。いずれも悲惨な青春群像なのだが、曾宮一念『みどりからかぜへ』からつづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　著者&lt;小島善太郎&gt;は独立美術&lt;協会&gt;の会員で、私も同じ会に二年加わっていたので、展覧会や集会で何回か会っていた。この人が武蔵野の古い農家を改造してアトリエにしたことや、何十年ぶりかで実兄に巡り遇った話が、新聞紙上に紹介されたのは戦後間もない頃であった。どことなく武蔵野らしい雰囲気を感じたが、それ以外、この人の生い立ちは全く知らなかった。／実はこの本を読んだのは五年前で、当時前後して読んだ『花嫁人形』(蕗谷虹児著)の二冊とも大いに感激し、読後感を記したが、これは後に&lt;戦災で&gt;焼失した。／小島と蕗谷は二人とも画家であるが、全く別々の仕事をしている。しかし、私は二冊の内容がまるで読者の私を鞭うつなどという生やさしさではなく、残酷な悪夢にうなされ続けるような苦しさで読み了った。／小島は健康な画風の油絵画家だし、蕗谷は艶やかな美人画家だから、とても二人が幼児から弟妹とともに嘗めた残酷物語は想像できなかったのである。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE98A80E69D8F28E59B9BE8B0B7E38388E383B3E3838DE383AB29E3808D1911.jpg" alt="曾宮一念「銀杏(四谷トンネル)」1911.jpg" width="520" height="744" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE59B9BE38384E8B0B7E8A68BE99984E3808D1916.jpg" alt="小島善太郎「四ツ谷見附」1916.jpg" width="520" height="443" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE5B7A5E983A8E5ADA6E6A0A1E3808D1911.jpg" alt="曾宮一念「工部学校」1911.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div>　わたしも、蕗谷虹児の『花嫁人形』は既読だが、どこかタイトルから想像するほのぼのとしたような物語とは無縁な、非常にシビアで無情・無惨な現実世界に引きずりこまれるような感覚をおぼえた。それは、奉公先で妹が男にだまされ殺害されてしまう、小島善太郎の『若き日の自画像』と同質の残酷な世界だ。また、曾宮一念が描いた風景画のモチーフが大久保や戸山ヶ原、淀橋、中野と同時代的に重なっていたことも、淀橋尋常高等小学校の「同級生」だったこととからめ、小島善太郎へ親しみをおぼえるようになった要因なのだろう。<br />　文中の、小島が「古い農家を改造してアトリエ」にしていた家とは、南多摩郡加住村(現・八王子市丹木町)にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-20.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ</a>のことだろう。ちょうど『若き日の自画像』が出版された1969年(昭和44)、曾宮一念は小島の八王子アトリエを訪ねている。「見舞い」と書いているが、小島善太郎が神経痛で臥せっていたのを見舞ったようだ。そのとき、彼の署名が入った『若き日の自画像』をプレゼントされている。帰りは、「娘さんの車で駅に送られた」と書いているが、この「娘さん」とは、日野市百草776番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-14.html" target="_blank" rel="noopener">「百草画荘」</a>でお会いした小島敦子様のことだろうか。<br />　少し余談めくが、曾宮一念が二科会を退会して独立美術協会に参加することになったとき、1934年(昭和9)に刊行された「美術」5月号(美術発行所)には、二科会を退会して独立美術協会へ移る際の「うわさの正誤」という文章が掲載されている。画家が、属していた画会から別の画会へと移る際、美術界ではさまざまなウワサがささやかれていたようだ。曾宮一念の二科脱退は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-14.html" target="_blank" rel="noopener">藤田嗣治</a>が二科会へ加入したからというようなウワサが流れていた。曾宮は、自分が二科に退会を伝えたのが先で、藤田嗣治の加入はあとでしょ……と時系列を正している。そして、身体の具合がよくないので、二科会にいても正会員としての勤めが果たせず、このままだと単なる出品者になってしまうので、重荷を下して息がつける気のおけない画会に鞍替えしたのだと書いている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE699A9E7A78B28E688B8E5B1B1E383B6E58E9FE3808D291915.jpg" alt="小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg" width="520" height="428" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE4B88BE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D1920E9A083.jpg" alt="曾宮一念「下落合風景」1920頃.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE3808CE88BA5E3818DE697A5E381AEE887AAE794BBE5838FE3808D1978E99BAAE88FAFE7A4BE.jpg" alt="小島善太郎「若き日の自画像」1978雪華社.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E89597E8B0B7E899B9E58590E3808CE88AB1E5AB81E4BABAE5BDA2E3808D1967E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社.jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div>　同じく、春陽会から独立美術協会へ参加した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-14.html" target="_blank" rel="noopener">小林和作</a>は、春陽会に不平があったからだというウワサに対し、「全然嘘」と書いている。独立へは創立時から誘われており、数年間考えたすえマンネリ化した画風を打開するために、いまもっとも活動的な独立へ参画して自身の転機にしようとしたのだとしている。画会を移るたびに、画家たちはさまざまなウワサ話に悩まされていたようだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1934年(昭和9)6月に撮影された、座談会での小島善太郎(右)と曾宮一念。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1911年(明治44)作成の「豊多摩郡淀橋町市街図」にみる柏木131～132番地の淀橋尋常高等小学校。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1909年(明治42)に撮影された5年がかりで竣工した淀橋尋常高等小学校の新校舎。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1911年(明治44)に制作された小島善太郎『戸山ヶ原風景』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1934年(昭和9)6月に行われた独立美術協会の応募作鑑査の座談会で、右から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">林重義</a>、岩佐新、小島、曾宮、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-31.html" target="_blank" rel="noopener">清水登之</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">伊藤廉</a>のメンバーたち。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『銀杏(四谷トンネル)』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1916年(大正5)に中央線の曾宮の上掲作と同じトンネルを描いた小島善太郎『四ツ谷見附』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『工部学校』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1920年(大正9)ごろ制作された曾宮一念<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21.html" target="_blank" rel="noopener">『下落合風景』</a>。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1978年(昭和53)に出版された小島善太郎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-27.html" target="_blank" rel="noopener">『若き日の自画像』</a>(雪華社／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1967年(昭和42)に出版された蕗谷虹児<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-05.html" target="_blank" rel="noopener">『花嫁人形』</a>(講談社／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　1931年(昭和6)制作の曾宮一念『荒園』(提供：<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">江崎晴城様</a>)には、左手につづく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">浅川秀次邸</a>の塀の向こうに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">諏訪谷</a>に面した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">大六天</a>裏の細い消防団倉庫が、当時も建っていたように描かれている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE88D92E59C92E3808DE6B0B4E5BDA91931.jpg" alt="曾宮一念「荒園」水彩1931.jpg" width="520" height="613" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E5A4A7E585ADE5A4A9.jpg" alt="下落合大六天.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>　小島敦子様よりいただいた、小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会／1981年)に書かれた著者の署名。曾宮一念が贈呈された『若き日の自画像』も、同様のサイン入りだったのだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE5B3B6E59684E5A4AAE9838EE382B5E382A4E383B3.jpg" alt="小島善太郎サイン.jpg" width="520" height="322" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519856064.html</link>
      <title>中井遺跡をもう少し深掘りしてみよう。</title>
      <pubDate>Wed, 13 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　戦争末期の1943年(昭和18)ごろ、改正道路(山手通り)の工事中に多量の鉄滓(スラグ＝鐵液・金糞)が出土した「中井遺跡」について、もう少し深掘りして書いてみたいと思う。戦時中の工事の際に出土した遺物とは別に、武相考古会に所属していた小松真一という民間(のち東京帝大助手)の考古学者が、1924年(大正13)に近接する宅地造成地を発掘調査している。　小松真一という人は、もともと理系の出身(理学士)だったが趣味で好きな考古学を勉強し、頻繁に調査活動も行っていたらしい。武相考古会..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A1E8B7A1.JPG" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x907A;&#x8DE1;&#x8DE1;.JPG" width="600" height="450" border="0" />　戦争末期の1943年(昭和18)ごろ、改正道路(山手通り)の工事中に多量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-15.html" target="_blank">鉄滓</a>(スラグ＝鐵液・金糞)が出土した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519845173.html" target="_blank">「中井遺跡」</a>について、もう少し深掘りして書いてみたいと思う。戦時中の工事の際に出土した遺物とは別に、武相考古会に所属していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-02-17.html" target="_blank">小松真一</a>という民間(のち東京帝大助手)の考古学者が、1924年(大正13)に近接する宅地造成地を発掘調査している。　小松真一という人は、もともと理系の出身(理学士)だったが趣味で好きな考古学を勉強し、頻繁に調査活動も行っていたらしい。武相考古会へ参加してからは、東京帝大の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank">鳥居龍蔵</a>教授の助手をつとめるようになり、全国各地の発掘調査に参加している。武相考古会は、1922年(大正11)に早大文学部史学科出身の石野瑛が結成した、専門家から“日曜発掘”を趣味とする考古学ファンたちまでが参加する、おもに古代史をテーマにした団体だった。なぜ素人も参加していたのかといえば、考古学には発掘など多くの“人手”が不可欠だったからだろう。もっとも石野瑛は、今日では武相中学校・高等学校の創立者としてのほうが有名だろうか？　いわずもがなだが、小松真一は『虜人日記』を執筆した、日本橋出身の科学者で実業家とは同名異人だ。　小松真一は、武相考古会へ参加してから2年後、1924年(大正13)に下落合へ調査にやってきて、栗原萬造邸の北側斜面に造成された、ひな壇状の宅地を発掘している。この栗原邸は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、場所的にみても下落合1923番地の栗原角右衛門邸のことだと思われ、栗原萬造はおそらく子息か姻戚筋の人物だろう。小松真一は同地での調査報告を、さっそく東京人類学会が刊行していた「人類学雑誌」第39巻に発表している。1924年(大正13)の第7～第9号に発表した、小松真一の論文『金滓を出だす竪穴遺跡』から引用してみよう。　　▼　大正十三年一月五日友人宮坂春三、榊原幸雄両氏と共に実見せる東京府下豊多摩郡落合村大字下落合小字小上、栗原萬造氏所有同氏宅後方の丘陵に断面を現はせる竪穴遺跡の二ヶ所を在するを観、其後発掘を試みたる結果を録記せんとす。地点は下落合台地の南方、丘陵の縁端に当り、こゝより望むに東西に走れる谷間を距てゝ上落合の丘陵に対し、この谷間に妙正寺川なる細流東流す。此川は東中野淀橋方面より流れ来れる旧神田上水と合し遂に小石川関口大瀧に出づ。(一萬分一地形図東京近傍十六号新井参照)　この地もと畑地又嘗ては山林なりし由なるも今ま&lt;ママ：は&gt;文化住宅地と成りて、丘陵端より中腹に掛けたる傾斜地を階段状に数段に水平に切り取り工事を施せり。記せんとする竪穴遺跡はこの工事によりその正しく東西に切り取られし垂直断面によりて現出せられしものに外ならず。(&lt;　&gt;内引用者註)　　▲　なお、文中では「豊多摩郡落合村」としているが、1924年(大正13)2月には町制が敷かれているので、同年夏からスタートした現地の本格的な発掘調査も含め、「人類学雑誌」へ調査報告の連載を執筆していたときは、「豊多摩郡落合町」が正確な表現となっていた。　栗原邸の北側を、ひな壇状に宅地造成したその断面から、竪穴式の建築物跡が出土している。のち山手通りの工事の際、多量の鉄滓(スラグ)が出土するエリアの西南端に位置する地点だ。畑地だったとみられる黒土の下、赤土の層に2棟の竪穴が確認でき、遺物が数多く発見された現場西寄りの竪穴を「A号」と呼称している。また、もう1棟(B号)については宅地の造成工事であらかた削りとられ破壊されており、遺物はあまり出土しなかったようだ。　発掘現場からは、時代の異なる多数の遺物が出土しており、同地がそれぞれ時代ごとに人が住みつづけてきた重層遺跡(複合遺跡)だったことが指摘されている。今日的にいえば、縄文時代から弥生時代、古墳時代をへて中世・近世にいたるまでの土器や陶器類が確認されている。そして、A号竪穴と同一面から出土した土師器(当時の用語は「埴部土器」)や須恵器(当時の用語は「祝部陶器」)は、今日でいう古墳時代の後期あるいは末期の遺物らしいことが推察できる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/1E383BB10000E59CB0E5BDA2E59BB31918.jpg" alt="1&#x30FB;10000&#x5730;&#x5F62;&#x56F3;1918.jpg" width="520" height="412" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11926.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x907A;&#x8DE1;1926.jpg" width="520" height="468" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11932E9A083B.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x907A;&#x8DE1;1932&#x9803;B.jpg" width="520" height="510" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11936B.jpg" alt="&#x4E2D;&#x4E95;&#x907A;&#x8DE1;1936B.jpg" width="520" height="400" border="0" />　1月の現場視察では、A号竪穴の観察できる範囲内から、早くも鉄滓(金糞)を1片と木炭片を採取している。さらに、少し掘り進んだところに土師器片に加え、以下のような鉄滓が出土している。　　▼　(一～三の土師器関連報告は略) 四、鉄滓塊　長さ二.二寸－八寸に至る滓塊五、西端より六尺の個所にて穴の下底に接して発見。此他に長一.一寸、巾.八五寸、厚.二五寸の鉄塊に断面楕円形(長径三分)の棒状のもの(但折れて長さ三分現存)附着し一見鉄釘頭の如くなるもの一個あり。／五、木炭塊　数片となる。東端より四尺、底より五寸に発見。　　▲　文中の断面が楕円形をした「棒状のもの」は、タタラで鉧(けら)を精錬したあと、運搬用に細分化された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-27.html" target="_blank">鋼(目白)</a>ではなかったろうか？　これら遺物の下からは、縄文式や弥生式の土器類などが出土している。ひょっとすると、これら縄文土器の下からは、さらに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-01-01.html" target="_blank">旧石器</a>も見つかっていたのではないかと思われるのだが、当時の考古学の進捗水準では気づかれずに放置されてしまったのかもしれない。中井遺跡から西へ700m余の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank">落合遺跡</a>では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-11.html" target="_blank">中井御霊社</a>の西側バッケ(崖地)から、また東へ1,800mほどの学習院大キャンパスの南斜面から、さらに東南東へ2,800mほどの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-16.html" target="_blank">早大安倍球場跡</a>からも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-27.html" target="_blank">旧石器</a>が多数出土している。　A号竪穴は、同報告書で一部が平面図化されて掲載されているが、おそらく建物全体跡の3分の1から4分の1が、宅地造成で崩されずに残っていたようだ。計測によると、北面の壁の長さは16尺3寸(約5.0m)、破壊から残った東側の残存壁面は8尺6寸(約2.6m)、同様に西側の壁面は4尺(約1.2m)ほどだった。小松真一は、この建物が住居だったのか、あるいは今日でいうタタラ炉を構えた「高殿」のような施設だったのかは、同報告書で規定していない。　ただし、A号竪穴の北面中央に、「二尺巾奥行一尺五寸を有する窪凹部存するを見る」と記録している。幅が60cm強、奥行きが45cm強の凹状窪みを確認している。おそらく、小松真一は住居跡から鉄滓(スラグ)が出土するケースがほとんどないことから、これが住宅の竈(かまど)跡ではなく、鍛冶の溶炉跡の可能性があるとみて、建物自体の規定を避けたのだろう。ただし、夏からスタートした本格的な発掘調査では、なんらかの鍛冶職の作業小屋ではなかったかと推測している。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE69DBEE79C9FE4B880E58692E9A0AD.jpg" alt="&#x5C0F;&#x677E;&#x771F;&#x4E00;&#x5192;&#x982D;.jpg" width="520" height="364" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/AE58FB7E7ABAAE7A9B4E7B8A6E696ADE99DA2.jpg" alt="A&#x53F7;&#x7AEA;&#x7A74;&#x7E26;&#x65AD;&#x9762;.jpg" width="520" height="345" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3811.jpg" alt="&#x571F;&#x5668;&#x51FA;&#x571F;&#x72B6;&#x6CC1;1.jpg" width="520" height="513" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3812.jpg" alt="&#x571F;&#x5668;&#x51FA;&#x571F;&#x72B6;&#x6CC1;2.jpg" width="520" height="624" border="0" />　つづいて、同年7月実施の発掘調査でも、土師器とともに鉄滓(金糞)が多数出土している。夏の発掘では、「金滓は穴の前方に諸所数個宛小群をなして発見せらる」と書いている。「穴」とは、先述した60cm×45cm強の凹状窪みのことだ、「小群をなして」いることから、溶炉の湯口から流れでた銑鉄(不純鉄＝鉄滓)が固まり、周辺に散乱していた光景を想起させる。報告書には羽口の発見は書かれていないが、自然風を利用した野ダタラではなく、竪穴(高殿か)の中でタタラ製鉄を行っていたのだから、鞴(ふいご)は確実に使用していただろう。　夏の発掘におけるタタラに関連した報告文を、『金滓を出だす竪穴遺跡』から引用してみよう。　　▼　(一～四の土師器・須恵器関連報告は略) 五、鉄滓塊　長さ三.五寸－一.三寸に至るもの合計一四個。／六、木炭塊、焼けたる木質　木炭塊、細枝の焼けたるもの一。木質の焼けたるもの(長さ二.四寸)一。焼けたる竹小片(径約三分、長さ一.五寸)一。　　▲　このときの調査でも、A号竪穴の下から土師器・須恵器に加え、弥生式土器や縄文式土器が発見されている。これにより、A号竪穴は縄文時代さらには弥生時代の集落上へ、古墳期に入り改めて建設されたものだろうと想定している。つづけて、同報告書より引用してみよう。　　▼　要之如上の竪穴(A号)は原形、方形若くは長方形を呈し北壁に火炉のための特殊の設備を有したる等進歩したる型式を取れるものなるのみならず鉄滓を比較的多量に出し祝部片(須恵器片)あり、多量の埴部土器(土師器)を存す。斯くの如き埴部は言ふを俟たず古墳中よりも往々出土するものにして盖し同時代の民衆により営まれたる居住関係の遺跡に外ならざる可く恐らく上部に簡単なる屋蓋を有し、稍東に寄り南面し後方北口に火炉設けられ、鍛冶の営まれたる事あるを推測して盖し誤なからむ。／この前面更に恐らく三分の二を存したる可きも、如何なる遺物の存在したるや、地主栗原氏に質すも今にして何等知るものなきを遺憾とすべし。(カッコ内引用者註)　　▲　夏の調査で、小松真一は明らかに鍛冶職の作業場ではないかと推定している様子がうかがえる。ただし、この鍛冶が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516237412.html" target="_blank">大鍛冶</a>(タタラ製鉄民)のものか<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-31.html" target="_blank">小鍛冶</a>(武器・道具鍛冶)のものかは、あえて特定していない。それを判断するには、竪穴A号ひとつではあまりにサンプル数が少なすぎるからだろう。この調査から19年後、改正道路(山手通り)の工事で多量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-07.html" target="_blank">スラグ</a>(鉄滓・金糞・鐵液)が出土したことを知ったあとは、おそらく大鍛冶のタタラ遺跡だったと規定していたのではないか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3813.jpg" alt="&#x571F;&#x5668;&#x51FA;&#x571F;&#x72B6;&#x6CC1;3.jpg" width="520" height="389" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3814.jpg" alt="&#x571F;&#x5668;&#x51FA;&#x571F;&#x72B6;&#x6CC1;4.jpg" width="520" height="388" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/AE7ABAAE7A9B4E5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="A&#x7AEA;&#x7A74;&#x5E73;&#x9762;&#x56F3;.jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B889E8B0B7E981BAE8B7A128E5BEB3E5B3B6291924-25.jpg" alt="&#x4E09;&#x8C37;&#x907A;&#x8DE1;(&#x5FB3;&#x5CF6;)1924-25.jpg" width="520" height="356" border="0" />　栗原邸北側の同家地所へ、ひな壇状に造成された住宅地だが、A号竪穴が見つかったのは山手通り工事の際に出土した遺跡に、もっとも近い南西端に位置する敷地ではないか。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、栗原邸と同じ下落合1923番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-06.html" target="_blank">矢田坂</a>沿いに建っていた小林邸あるいは本田邸、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、下落合4丁目1925番地になっていた藤吉邸と宮崎邸あたりだったのではないかとにらんでいる。なお、同じく下落合小上で見つかった弥生遺跡と、上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank">月見岡八幡社</a>に近接する崖地で確認された弥生遺跡を、昭和初期に発掘した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank">武蔵野文化協会</a>の星野又三の調査報告書も、いつか機会があればご紹介したい。
◆写真上：斜面ごと掘削され、山手通りで消えてしまったタタラ遺跡とみられる中井遺跡の現状。◆写真中上：上は、小松真一の報告書にも登場する1/10,000地形図「新井」にみる下落合1923番地界隈。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる栗原邸と北側地所。中下は、1932年(昭和7)ごろの空中写真にみる栗原邸周辺。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸周辺で、改正道路(山手通り)工事はいまだはじまっていない。◆写真中下：上は、1924年(大正13)刊行の「人類学雑誌」7月号に掲載の小松真一『金滓を出だす竪穴遺跡』冒頭。中上は、発見された竪穴A号の縦断面写真。中下・下は、土師器や須恵器などの出土状況。なお、キャプションでは「土器」としか説明されていない。◆写真下：上・中上は、A号竪穴から出土した土師器や須恵器などA号竪穴と土器類の写真。中下は、1924年(大正13)夏の発掘調査で作成されたA号竪穴の平面図(残存部)と鉄滓など遺物の出土状況。下は、1924～25年(大正13～14)にかけ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-09.html" target="_blank">鳥居龍蔵</a>と小松真一の主導で行われた徳島県の三谷遺跡発掘調査の様子。手前の帽子姿が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-22.html" target="_blank">鳥居龍蔵</a>だが、奥のジャケット姿が小松真一だろうか※。※その後、知人からのご教示でジャケット姿は「森」という人物であることが判明した。★おまけ　大正末に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-02.html" target="_blank">武蔵野文化協会</a>の星野又三が、下落合小上で発掘調査した弥生式土器片(1)(3)(4)(5)(6)。1927年(昭和2)に武蔵野文化協会から刊行された機関誌「武蔵野」2月号に掲載された。なお(2)のみ、井荻村上荻窪ホムラ&lt;本村&gt;(現・杉並区上荻2～3丁目)で発掘された弥生式土器片。下の写真は、古墳期以降のタタラ遺跡ではセットになって見つかることが多い、国分寺崖線のバッケ(崖地)下、武蔵国分寺遺跡から出土した溶炉に付随する鞴(ふいご)の羽口と鉄滓(鐵棭・金糞)。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BCA5E7949FE5BC8FE59C9FE599A8E7898728E4B88BE890BDE59088E5B08FE4B88A29.jpg" alt="&#x5F25;&#x751F;&#x5F0F;&#x571F;&#x5668;&#x7247;(&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x5C0F;&#x4E0A;).jpg" width="520" height="405" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99EB4E7BEBDE58FA3EFBC86E98984E6BB93.jpg" alt="&#x97B4;&#x7FBD;&#x53E3;&#xFF06;&#x9244;&#x6ED3;.jpg" width="520" height="190" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A1E8B7A1.JPG" alt="中井遺跡跡.JPG" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　戦争末期の1943年(昭和18)ごろ、改正道路(山手通り)の工事中に多量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">鉄滓</a>(スラグ＝鐵液・金糞)が出土した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519845173.html" target="_blank" rel="noopener">「中井遺跡」</a>について、もう少し深掘りして書いてみたいと思う。戦時中の工事の際に出土した遺物とは別に、武相考古会に所属していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">小松真一</a>という民間(のち東京帝大助手)の考古学者が、1924年(大正13)に近接する宅地造成地を発掘調査している。<br />　小松真一という人は、もともと理系の出身(理学士)だったが趣味で好きな考古学を勉強し、頻繁に調査活動も行っていたらしい。武相考古会へ参加してからは、東京帝大の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>教授の助手をつとめるようになり、全国各地の発掘調査に参加している。武相考古会は、1922年(大正11)に早大文学部史学科出身の石野瑛が結成した、専門家から“日曜発掘”を趣味とする考古学ファンたちまでが参加する、おもに古代史をテーマにした団体だった。なぜ素人も参加していたのかといえば、考古学には発掘など多くの“人手”が不可欠だったからだろう。もっとも石野瑛は、今日では武相中学校・高等学校の創立者としてのほうが有名だろうか？　いわずもがなだが、小松真一は『虜人日記』を執筆した、日本橋出身の科学者で実業家とは同名異人だ。<br />　小松真一は、武相考古会へ参加してから2年後、1924年(大正13)に下落合へ調査にやってきて、栗原萬造邸の北側斜面に造成された、ひな壇状の宅地を発掘している。この栗原邸は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、場所的にみても下落合1923番地の栗原角右衛門邸のことだと思われ、栗原萬造はおそらく子息か姻戚筋の人物だろう。小松真一は同地での調査報告を、さっそく東京人類学会が刊行していた「人類学雑誌」第39巻に発表している。1924年(大正13)の第7～第9号に発表した、小松真一の論文『金滓を出だす竪穴遺跡』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　大正十三年一月五日友人宮坂春三、榊原幸雄両氏と共に実見せる東京府下豊多摩郡落合村大字下落合小字小上、栗原萬造氏所有同氏宅後方の丘陵に断面を現はせる竪穴遺跡の二ヶ所を在するを観、其後発掘を試みたる結果を録記せんとす。地点は下落合台地の南方、丘陵の縁端に当り、こゝより望むに東西に走れる谷間を距てゝ上落合の丘陵に対し、この谷間に妙正寺川なる細流東流す。此川は東中野淀橋方面より流れ来れる旧神田上水と合し遂に小石川関口大瀧に出づ。(一萬分一地形図東京近傍十六号新井参照)　この地もと畑地又嘗ては山林なりし由なるも今ま&lt;ママ：は&gt;文化住宅地と成りて、丘陵端より中腹に掛けたる傾斜地を階段状に数段に水平に切り取り工事を施せり。記せんとする竪穴遺跡はこの工事によりその正しく東西に切り取られし垂直断面によりて現出せられしものに外ならず。(&lt;　&gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　なお、文中では「豊多摩郡落合村」としているが、1924年(大正13)2月には町制が敷かれているので、同年夏からスタートした現地の本格的な発掘調査も含め、「人類学雑誌」へ調査報告の連載を執筆していたときは、「豊多摩郡落合町」が正確な表現となっていた。<br />　栗原邸の北側を、ひな壇状に宅地造成したその断面から、竪穴式の建築物跡が出土している。のち山手通りの工事の際、多量の鉄滓(スラグ)が出土するエリアの西南端に位置する地点だ。畑地だったとみられる黒土の下、赤土の層に2棟の竪穴が確認でき、遺物が数多く発見された現場西寄りの竪穴を「A号」と呼称している。また、もう1棟(B号)については宅地の造成工事であらかた削りとられ破壊されており、遺物はあまり出土しなかったようだ。<br />　発掘現場からは、時代の異なる多数の遺物が出土しており、同地がそれぞれ時代ごとに人が住みつづけてきた重層遺跡(複合遺跡)だったことが指摘されている。今日的にいえば、縄文時代から弥生時代、古墳時代をへて中世・近世にいたるまでの土器や陶器類が確認されている。そして、A号竪穴と同一面から出土した土師器(当時の用語は「埴部土器」)や須恵器(当時の用語は「祝部陶器」)は、今日でいう古墳時代の後期あるいは末期の遺物らしいことが推察できる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/1E383BB10000E59CB0E5BDA2E59BB31918.jpg" alt="1・10000地形図1918.jpg" width="520" height="412" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11926.jpg" alt="中井遺跡1926.jpg" width="520" height="468" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11932E9A083B.jpg" alt="中井遺跡1932頃B.jpg" width="520" height="510" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11936B.jpg" alt="中井遺跡1936B.jpg" width="520" height="400" border="0" /></div><div>　1月の現場視察では、A号竪穴の観察できる範囲内から、早くも鉄滓(金糞)を1片と木炭片を採取している。さらに、少し掘り進んだところに土師器片に加え、以下のような鉄滓が出土している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(一～三の土師器関連報告は略) 四、鉄滓塊　長さ二.二寸－八寸に至る滓塊五、西端より六尺の個所にて穴の下底に接して発見。此他に長一.一寸、巾.八五寸、厚.二五寸の鉄塊に断面楕円形(長径三分)の棒状のもの(但折れて長さ三分現存)附着し一見鉄釘頭の如くなるもの一個あり。／五、木炭塊　数片となる。東端より四尺、底より五寸に発見。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　文中の断面が楕円形をした「棒状のもの」は、タタラで鉧(けら)を精錬したあと、運搬用に細分化された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-27.html" target="_blank" rel="noopener">鋼(目白)</a>ではなかったろうか？　これら遺物の下からは、縄文式や弥生式の土器類などが出土している。ひょっとすると、これら縄文土器の下からは、さらに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">旧石器</a>も見つかっていたのではないかと思われるのだが、当時の考古学の進捗水準では気づかれずに放置されてしまったのかもしれない。中井遺跡から西へ700m余の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank" rel="noopener">落合遺跡</a>では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-11.html" target="_blank" rel="noopener">中井御霊社</a>の西側バッケ(崖地)から、また東へ1,800mほどの学習院大キャンパスの南斜面から、さらに東南東へ2,800mほどの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">早大安倍球場跡</a>からも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">旧石器</a>が多数出土している。<br />　A号竪穴は、同報告書で一部が平面図化されて掲載されているが、おそらく建物全体跡の3分の1から4分の1が、宅地造成で崩されずに残っていたようだ。計測によると、北面の壁の長さは16尺3寸(約5.0m)、破壊から残った東側の残存壁面は8尺6寸(約2.6m)、同様に西側の壁面は4尺(約1.2m)ほどだった。小松真一は、この建物が住居だったのか、あるいは今日でいうタタラ炉を構えた「高殿」のような施設だったのかは、同報告書で規定していない。<br />　ただし、A号竪穴の北面中央に、「二尺巾奥行一尺五寸を有する窪凹部存するを見る」と記録している。幅が60cm強、奥行きが45cm強の凹状窪みを確認している。おそらく、小松真一は住居跡から鉄滓(スラグ)が出土するケースがほとんどないことから、これが住宅の竈(かまど)跡ではなく、鍛冶の溶炉跡の可能性があるとみて、建物自体の規定を避けたのだろう。ただし、夏からスタートした本格的な発掘調査では、なんらかの鍛冶職の作業小屋ではなかったかと推測している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B08FE69DBEE79C9FE4B880E58692E9A0AD.jpg" alt="小松真一冒頭.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/AE58FB7E7ABAAE7A9B4E7B8A6E696ADE99DA2.jpg" alt="A号竪穴縦断面.jpg" width="520" height="345" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3811.jpg" alt="土器出土状況1.jpg" width="520" height="513" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3812.jpg" alt="土器出土状況2.jpg" width="520" height="624" border="0" /></div><div>　つづいて、同年7月実施の発掘調査でも、土師器とともに鉄滓(金糞)が多数出土している。夏の発掘では、「金滓は穴の前方に諸所数個宛小群をなして発見せらる」と書いている。「穴」とは、先述した60cm×45cm強の凹状窪みのことだ、「小群をなして」いることから、溶炉の湯口から流れでた銑鉄(不純鉄＝鉄滓)が固まり、周辺に散乱していた光景を想起させる。報告書には羽口の発見は書かれていないが、自然風を利用した野ダタラではなく、竪穴(高殿か)の中でタタラ製鉄を行っていたのだから、鞴(ふいご)は確実に使用していただろう。<br />　夏の発掘におけるタタラに関連した報告文を、『金滓を出だす竪穴遺跡』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(一～四の土師器・須恵器関連報告は略) 五、鉄滓塊　長さ三.五寸－一.三寸に至るもの合計一四個。／六、木炭塊、焼けたる木質　木炭塊、細枝の焼けたるもの一。木質の焼けたるもの(長さ二.四寸)一。焼けたる竹小片(径約三分、長さ一.五寸)一。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　このときの調査でも、A号竪穴の下から土師器・須恵器に加え、弥生式土器や縄文式土器が発見されている。これにより、A号竪穴は縄文時代さらには弥生時代の集落上へ、古墳期に入り改めて建設されたものだろうと想定している。つづけて、同報告書より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　要之如上の竪穴(A号)は原形、方形若くは長方形を呈し北壁に火炉のための特殊の設備を有したる等進歩したる型式を取れるものなるのみならず鉄滓を比較的多量に出し祝部片(須恵器片)あり、多量の埴部土器(土師器)を存す。斯くの如き埴部は言ふを俟たず古墳中よりも往々出土するものにして盖し同時代の民衆により営まれたる居住関係の遺跡に外ならざる可く恐らく上部に簡単なる屋蓋を有し、稍東に寄り南面し後方北口に火炉設けられ、鍛冶の営まれたる事あるを推測して盖し誤なからむ。／この前面更に恐らく三分の二を存したる可きも、如何なる遺物の存在したるや、地主栗原氏に質すも今にして何等知るものなきを遺憾とすべし。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　夏の調査で、小松真一は明らかに鍛冶職の作業場ではないかと推定している様子がうかがえる。ただし、この鍛冶が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516237412.html" target="_blank" rel="noopener">大鍛冶</a>(タタラ製鉄民)のものか<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-31.html" target="_blank" rel="noopener">小鍛冶</a>(武器・道具鍛冶)のものかは、あえて特定していない。それを判断するには、竪穴A号ひとつではあまりにサンプル数が少なすぎるからだろう。この調査から19年後、改正道路(山手通り)の工事で多量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-07.html" target="_blank" rel="noopener">スラグ</a>(鉄滓・金糞・鐵液)が出土したことを知ったあとは、おそらく大鍛冶のタタラ遺跡だったと規定していたのではないか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3813.jpg" alt="土器出土状況3.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59C9FE599A8E587BAE59C9FE78AB6E6B3814.jpg" alt="土器出土状況4.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/AE7ABAAE7A9B4E5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="A竪穴平面図.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B889E8B0B7E981BAE8B7A128E5BEB3E5B3B6291924-25.jpg" alt="三谷遺跡(徳島)1924-25.jpg" width="520" height="356" border="0" /></div><div>　栗原邸北側の同家地所へ、ひな壇状に造成された住宅地だが、A号竪穴が見つかったのは山手通り工事の際に出土した遺跡に、もっとも近い南西端に位置する敷地ではないか。1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、栗原邸と同じ下落合1923番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">矢田坂</a>沿いに建っていた小林邸あるいは本田邸、1938年(昭和13)に作成された「火保図」では、下落合4丁目1925番地になっていた藤吉邸と宮崎邸あたりだったのではないかとにらんでいる。なお、同じく下落合小上で見つかった弥生遺跡と、上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">月見岡八幡社</a>に近接する崖地で確認された弥生遺跡を、昭和初期に発掘した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵野文化協会</a>の星野又三の調査報告書も、いつか機会があればご紹介したい。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：斜面ごと掘削され、山手通りで消えてしまったタタラ遺跡とみられる中井遺跡の現状。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、小松真一の報告書にも登場する1/10,000地形図「新井」にみる下落合1923番地界隈。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる栗原邸と北側地所。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1932年(昭和7)ごろの空中写真にみる栗原邸周辺。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸周辺で、改正道路(山手通り)工事はいまだはじまっていない。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1924年(大正13)刊行の「人類学雑誌」7月号に掲載の小松真一『金滓を出だす竪穴遺跡』冒頭。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、発見された竪穴A号の縦断面写真。<span style="color: #3366ff;">中下</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、土師器や須恵器などの出土状況。なお、キャプションでは「土器」としか説明されていない。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、A号竪穴から出土した土師器や須恵器などA号竪穴と土器類の写真。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1924年(大正13)夏の発掘調査で作成されたA号竪穴の平面図(残存部)と鉄滓など遺物の出土状況。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1924～25年(大正13～14)にかけ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>と小松真一の主導で行われた徳島県の三谷遺跡発掘調査の様子。手前の帽子姿が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>だが、奥のジャケット姿が小松真一だろうか<span style="color: #ff0000;">※</span>。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">※</span>その後、知人からのご教示でジャケット姿は「森」という人物であることが判明した。</span><br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　大正末に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵野文化協会</a>の星野又三が、下落合小上で発掘調査した弥生式土器片(1)(3)(4)(5)(6)。1927年(昭和2)に武蔵野文化協会から刊行された機関誌「武蔵野」2月号に掲載された。なお(2)のみ、井荻村上荻窪ホムラ&lt;本村&gt;(現・杉並区上荻2～3丁目)で発掘された弥生式土器片。下の写真は、古墳期以降のタタラ遺跡ではセットになって見つかることが多い、国分寺崖線のバッケ(崖地)下、武蔵国分寺遺跡から出土した溶炉に付随する鞴(ふいご)の羽口と鉄滓(鐵棭・金糞)。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BCA5E7949FE5BC8FE59C9FE599A8E7898728E4B88BE890BDE59088E5B08FE4B88A29.jpg" alt="弥生式土器片(下落合小上).jpg" width="520" height="405" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99EB4E7BEBDE58FA3EFBC86E98984E6BB93.jpg" alt="鞴羽口＆鉄滓.jpg" width="520" height="190" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <title>落合地域になじみ深い「輝く明治の女性たち」。</title>
      <pubDate>Sun, 10 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description> 　わたしはうっかり知らなかったが、1992年(平成4)に笹本恒子が撮影した写真をベースに、NHK出版から刊行された『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』という写真集がある。笹本恒子といえば、日本初の女性報道カメラマンで同書を出版した当時はすでに78歳だったが、現役で仕事をつづけていた。つい最近、2022年に107歳で死去している。　この写真集には、明治生まれで当時も現役で働きつづける女性たちを撮影し、近況を取材しているのだけれど、落合地域に居住していた、または..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACB9E69CACE68192E5AD90E3808CE8BC9DE3818FE6988EE6B2BBE381AEE5A5B3E680A7E3819FE381A1E3808D1992.jpg" alt="&#x7B39;&#x672C;&#x6052;&#x5B50;&#x300C;&#x8F1D;&#x304F;&#x660E;&#x6CBB;&#x306E;&#x5973;&#x6027;&#x305F;&#x3061;&#x300D;1992.jpg" width="300" height="423" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACB9E69CACE68192E5AD90.jpg" alt="&#x7B39;&#x672C;&#x6052;&#x5B50;.jpg" width="300" height="423" border="0" />　わたしはうっかり知らなかったが、1992年(平成4)に笹本恒子が撮影した写真をベースに、NHK出版から刊行された『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』という写真集がある。笹本恒子といえば、日本初の女性報道カメラマンで同書を出版した当時はすでに78歳だったが、現役で仕事をつづけていた。つい最近、2022年に107歳で死去している。　この写真集には、明治生まれで当時も現役で働きつづける女性たちを撮影し、近況を取材しているのだけれど、落合地域に居住していた、または落合地域になじみ深い、さらには拙サイトでも何度か繰り返し登場している女性たちが掲載されていて興味深い。彼女たちのプロフィールを見ると、確固たる思想や信念をもった人物ばかりで、その変わらない強い意志こそが、長く現役で活躍できるエネルギー源となっていたのだと思わずにはいられない。　まず、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-24.html" target="_blank">宮崎モデル紹介所</a>に所属し、画家のモデルをつとめていた時代に上落合、つづいて下落合に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-05.html" target="_blank">霧島のぶ子</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-23.html" target="_blank">淡谷のり子</a>)からご紹介したい。彼女が落合地域に住んだのは、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエをかまえていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-17.html" target="_blank">田口省吾</a>の専属モデルのようになっていたからであり、また落合地域は画家が多く住んでいたため営業的にも有利だろうと、彼女なりのマーケティング感覚があったからではないだろうか。彼女が歌手になる以前の仕事なので、残念ながら上落合と下落合ともに住所は判明していない。　1992年(平成4)の時点で、淡谷のり子は85歳だった。同書より、少しだけ引用してみよう。　　▼　テレビではズバリとものをいわれるので、とても怖い方だと思いました、というと、「いいえー、とんでもない。私はどなたにでもやさしい人間です。だけどね、今の世の中、おかしなことばかりで、怒らずにいられますか」。幾分東北なまりの残るその口調に親しみをおぼえる。戦争中、もんぺを穿かず、軍歌をうたうことを拒否した反骨精神は今も健在だ。　　▲　淡谷のり子は、時局歌や軍歌は拒否して唄わず、特高へ引っぱられての始末書は数十センチの厚さになり、憲兵隊へ拘束されての始末書は50通ほどというから、よほど強固な意志で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-15.html" target="_blank">抵抗</a>をつづけたのだろう。米英軍の捕虜たちを前に、ドレス姿で「Torna a Surriento」を唄って拍手喝采をあび、陸軍の将校から斬り殺されそうになっても平然と唄いつづけた。　つづいて、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank">御留山</a>(下落合378番地)に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512040396.html" target="_blank">相馬孟胤</a>の子息、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-02-25.html" target="_blank">相馬恵胤</a>の連れ合いだった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-04.html" target="_blank">相馬雪香</a>だ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-15.html" target="_blank">尾崎咢堂(行雄)</a>の三女だった雪香は、下落合1147番地(現・中落合1丁目)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-05-14.html" target="_blank">佐々木久二</a>と結婚し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-12.html" target="_blank">白百合幼稚園</a>を経営していた長女・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510089620.html" target="_blank">清香</a>とともに下落合にいた。戦後、尾崎行雄記念財団の副会長や、日本退職女教師連合会会長、日本動物福祉協会理事などを歴任していたが、インタビュー時は難民を助ける会の会長だった。同書より引用してみよう。　　▼　「PKOの問題も、日本が国連の指揮下で行動するのは当然ですね。だけど、多くの外国人たちは前の戦争で日本軍にひどい仕打ちを受けたので、日本人を恐れています。そのことを国民に知らせてからでなくてはダメです。野党も一緒に考えるべきです」ときっぱりいう。「日本人は視点が悪い。もっと広く世界を見る目を養わなくては。変だなと思ったら、目をそらさないで現実を知る努力をすべきです。世界に通用する道義的な人間にならなくては、日本はとり残される」と。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B7A1E8B0B7E381AEE3828AE5AD901.jpg" alt="&#x6DE1;&#x8C37;&#x306E;&#x308A;&#x5B50;1.jpg" width="520" height="417" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B7A1E8B0B7E381AEE3828AE5AD902.jpg" alt="&#x6DE1;&#x8C37;&#x306E;&#x308A;&#x5B50;2.jpg" width="520" height="397" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BB8E9A6ACE99BAAE9A699.jpg" alt="&#x76F8;&#x99AC;&#x96EA;&#x9999;.jpg" width="520" height="415" border="0" />　おとめ坂上の下落合1丁目310番地(現・下落合2丁目)に住んだ、アルピニストで料理研究家だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-22.html" target="_blank">黒田初子</a>も登場している。撮影や取材は、料理講習会「紫水会」が開かれていた自邸で行われており、部屋の窓から見える屋敷林に囲まれた濃い緑の庭先が印象的だ。料理教室の生徒たちから、米寿(88歳)のお祝いパーティを開いてもらったばかりで、さすがにアルプス登山はやめていたようだがスキーや水泳はつづけていた。同書より、つづけて引用してみよう。　　▼　幼い頃から、登山の話を聞かされて、魅力を感じていたという従兄の正夫氏と結婚。新婚旅行は伊豆の天城山だった。銘仙の着物の裾をはしょって山に入っていく若い男女は、駆け落ちではないかと村人に怪しまれたと黒田さんはクックッと笑う。料理を教える合間に、正夫氏と一緒に国内外の山々の登攀に成功。大正15年春の富士山頂からのスキーは新記録と騒がれた。十余年前、正夫氏は死去。登山はやめたが、スキーは今も続け、冬が待ち遠しいという。　　▲　戦時中、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に住む、文学座の脚本家・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-06.html" target="_blank">森本薫</a>のもとへ通いつづけた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-14.html" target="_blank">杉村春子</a>も登場している。もちろん、森本が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-18.html" target="_blank">『女の一生』</a>を執筆していたからだ。彼女は、1992年(平成4)現在で83歳になっていた。　笹本恒子が訪れたのは、もちろん四谷にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-30.html" target="_blank">文学座アトリエ</a>の裏に建っていた杉村春子の自邸だ。当初は、邸内が散らかっているからと庭先の花壇で撮影をはじめたようだが、そのあとなんとか一室に入れてもらい、飼い犬とともに日常的な姿を撮影している。同書より引用してみよう。　　▼　「芝居の前は稽古、稽古で忙しくて。今回も台詞が多くて大変だったんですよ。始まると、芝居のことで頭はいっぱい。ようやく明日が最終日。2日だけ休んで、こんどは旅回りでしょ。40日位帰ってこないことになるし、それで今日急にお電話して、来ていただいたのよ」。ハードなスケジュールを、むしろ楽しそうに弾んだ声で語る。部屋は散らかっているからと、庭先で。／庭いっぱい、身の丈より高い薄紫の花が生い茂り、足もとには赤、白のサルビアや水引草も可憐な姿を見せている。　　▲　室内で撮影された杉村春子の背後には、膨大な数の大小さまざまな人形が、飾り棚に詰めこまれているのが見える。各地を巡業公演するかたわら、人形を集めてまわるのが趣味だったのだろうか。連れ合いに確認してみたが、人形の趣味までは知らないとのことだった。その人形たちが並ぶ飾り棚の横に、誰かの肖像画が飾られているのが見えている。杉村本人か、あるいはゆかりの人物の肖像画なのか、遠くてぼやけ気味な写りなので判然としない。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD901.jpg" alt="&#x9ED2;&#x7530;&#x521D;&#x5B50;1.jpg" width="520" height="391" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD902.jpg" alt="&#x9ED2;&#x7530;&#x521D;&#x5B50;2.jpg" width="520" height="402" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD90E982B81992.jpg" alt="&#x9ED2;&#x7530;&#x521D;&#x5B50;&#x90B8;1992.jpg" width="520" height="405" border="0" />　戸塚町上戸塚593番地(現・高田馬場3丁目)に住み、しょっちゅう上落合503番地つづいて同549番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-01.html" target="_blank">壺井栄</a>や、上落合740番地つづいて目白町3丁目3570番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-11.html" target="_blank">宮本百合子</a>、上落合186番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-28.html" target="_blank">村山籌子</a>、上落合48番地から同481番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-02.html" target="_blank">原泉子</a>、ときに下落合2108番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-17.html" target="_blank">吉屋信子</a>や、早稲田通りをはさんで戸塚町上戸塚866番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-31.html" target="_blank">藤川栄子</a>を訪ねていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank">佐多稲子</a>(当時は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-28.html" target="_blank">窪川稲子</a>)も、同写真集には登場している。　このとき、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-05.html" target="_blank">佐多稲子</a>は88歳だったが、特別パッケージのロング「HOPE」(？)らしいタバコとソフトケースに入れた100円ライターを片手に、執筆に忙しい毎日を送っていた。佐多稲子は、もともと缶「PEACE」のファンだったと思うのだが、戦後にようやくPEACEな時代が実現されたので、次はHOPEに変えたのだろうか。w　このときは病院で長時間待たされて、約束の時間にすっかり遅れてしまったようだ。笹本恒子が佐多稲子を初めて撮影したのは、1940年(昭和15)というから、実に50年を超えるつきあいということになる。つづけて引用してみよう。　　▼　カメラを手に、初めて佐多さんを訪問したのは、駆け出しの間もない昭和15年の夏だった。きちんと深く合わせた襟元と白地のひとえものが、とても清楚に見えた。あれから半世紀が過ぎた。／約束の時刻にお宅を訪れたが、ご不在で、先約者がビデオカメラをセットして待ち構えていた。佐多さんは、病院通いとのことだった。／「ごめんなさいね、こんなにお待たせして」。ビデオの撮影がすむと、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくださる。長時間病院で待たされ、帰宅するやカメラとマイクの攻撃を受けたのに、疲れた気配も見せない。　　▲　次も、オシャレ雑誌「スタイル」の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank">AD</a>をつとめ、下落合の各所に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-13.html" target="_blank">松井直樹</a>や、佐多稲子と同様ときどき<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-12.html" target="_blank">吉屋信子</a>を訪ねていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-24.html" target="_blank">宇野千代</a>も収録されている。彼女は、笹本恒子の撮影助手を見ると「あなたはきれいね」といい、助手が宇野千代を褒めると、「昔はべっぴんだったのよ。今はもう、ヘチャクチャでダメね」と笑った。このとき、95歳だった宇野千代の好物はホウレンソウとメザシで、TVの『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』を観るのが好きだと答えている。　　▼　米寿祝いのパーティに、派手な大振袖姿で現れ、参会者を驚かせた宇野さん。白寿祝いには、武道館を借り切って、ゴンドラで空中から舞い降りる、と宣言したという。この日の服装は、納戸色の地に白い波頭の小紋。帯も同じ模様の色変わりと、渋い。もちろん、自身のデザイン。　　▲　だが、宇野千代は撮影から4年後、白寿を目前に98歳で他界している。　余談だけれど、佐多稲子や宇野千代の着物姿を見て改めて気づくのだが、ほんとうに着物をきちんときれいに着こなしている。それにつけ、半襟をこれ見よがしに見せたいのか、最近の襟うしろを抜いた若い子の着こなしが、とてもダラシなく見えてしかたがない。芸者や銀座のクラブママなど“玄人”じゃあるまいし、着物はちゃんと美しく着こなしてほしいものだ。　上掲の女性たちのほか、婦人洋画家協会の打ち合わせで下落合を訪れていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519922273.html" target="_blank">深沢紅子</a>(当時89歳)や、拙ブログで何度か登場している<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-02.html" target="_blank">望月百合子</a>(当時92歳)など計45人の明治女性が、カメラの前で微笑んでいる。『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』は、もちろん新刊では入手できないが、興味のある方は図書館か古書店で手にとってご覧いただければと思う。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69D89E69D91E698A5E5AD90.jpg" alt="&#x6749;&#x6751;&#x6625;&#x5B50;.jpg" width="520" height="377" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;.jpg" width="520" height="514" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE87E9878EE58D83E4BBA3.jpg" alt="&#x5B87;&#x91CE;&#x5343;&#x4EE3;.jpg" width="520" height="416" border="0" />　一時期、下落合のすぐ南にあたる戸塚町<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-06-24.html" target="_blank">上戸塚397番地</a>(現・高田馬場3丁目)に、夫の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-03.html" target="_blank">三岸好太郎</a>とともに住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-02.html" target="_blank">三岸節子</a>も、制作中の元気な姿を見せている。また、彼女は同書へ序文も寄せている。1992年(平成4)1月の時点で、三岸節子は87歳になっていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank">大磯</a>の山々に多く自生する、薄桃色のヤマザクラが満開だった庭を歩きながらのインタビューで、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-05.html" target="_blank">大磯のアトリエ</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-31.html" target="_blank">上鷺宮のアトリエ</a>の双方で制作中の姿が紹介されている。こちらでご紹介できないのが残念だ。
◆写真上：1992年(平成4)刊行の笹本恒子『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』(NHK出版／左)と、女性の報道カメラマン第1号だった著者(右)。◆写真中上：上・中は、自邸でくつろぐ死去するまで唄いつづけた淡谷のり子。下は、尾崎行雄記念館に架けられた小磯良平『尾崎行雄肖像』の前の相馬雪香。◆写真中下：上・中は、下落合の自邸内で開いていた料理教室や自室で撮影された黒田初子。下は、同書と同じ1992年(平成4)撮影の屋敷林が繁る黒田初子邸。◆写真下：上は、文学座裏の自邸で撮られた人形に囲まれる杉村春子。中は、タバコとライター片手に執筆中の佐多稲子。下は、脇指か短刀の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank">透かし鍔</a>(赤坂派？)を文鎮に筆をとる宇野千代。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACB9E69CACE68192E5AD90E3808CE8BC9DE3818FE6988EE6B2BBE381AEE5A5B3E680A7E3819FE381A1E3808D1992.jpg" alt="笹本恒子「輝く明治の女性たち」1992.jpg" width="300" height="423" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACB9E69CACE68192E5AD90.jpg" alt="笹本恒子.jpg" width="300" height="423" border="0" /></div><div>　わたしはうっかり知らなかったが、1992年(平成4)に笹本恒子が撮影した写真をベースに、NHK出版から刊行された『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』という写真集がある。笹本恒子といえば、日本初の女性報道カメラマンで同書を出版した当時はすでに78歳だったが、現役で仕事をつづけていた。つい最近、2022年に107歳で死去している。<br />　この写真集には、明治生まれで当時も現役で働きつづける女性たちを撮影し、近況を取材しているのだけれど、落合地域に居住していた、または落合地域になじみ深い、さらには拙サイトでも何度か繰り返し登場している女性たちが掲載されていて興味深い。彼女たちのプロフィールを見ると、確固たる思想や信念をもった人物ばかりで、その変わらない強い意志こそが、長く現役で活躍できるエネルギー源となっていたのだと思わずにはいられない。<br />　まず、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-24.html" target="_blank" rel="noopener">宮崎モデル紹介所</a>に所属し、画家のモデルをつとめていた時代に上落合、つづいて下落合に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-05.html" target="_blank" rel="noopener">霧島のぶ子</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-23.html" target="_blank" rel="noopener">淡谷のり子</a>)からご紹介したい。彼女が落合地域に住んだのは、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエをかまえていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">田口省吾</a>の専属モデルのようになっていたからであり、また落合地域は画家が多く住んでいたため営業的にも有利だろうと、彼女なりのマーケティング感覚があったからではないだろうか。彼女が歌手になる以前の仕事なので、残念ながら上落合と下落合ともに住所は判明していない。<br />　1992年(平成4)の時点で、淡谷のり子は85歳だった。同書より、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　テレビではズバリとものをいわれるので、とても怖い方だと思いました、というと、「いいえー、とんでもない。私はどなたにでもやさしい人間です。だけどね、今の世の中、おかしなことばかりで、怒らずにいられますか」。幾分東北なまりの残るその口調に親しみをおぼえる。戦争中、もんぺを穿かず、軍歌をうたうことを拒否した反骨精神は今も健在だ。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　淡谷のり子は、時局歌や軍歌は拒否して唄わず、特高へ引っぱられての始末書は数十センチの厚さになり、憲兵隊へ拘束されての始末書は50通ほどというから、よほど強固な意志で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-15.html" target="_blank" rel="noopener">抵抗</a>をつづけたのだろう。米英軍の捕虜たちを前に、ドレス姿で「Torna a Surriento」を唄って拍手喝采をあび、陸軍の将校から斬り殺されそうになっても平然と唄いつづけた。<br />　つづいて、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">御留山</a>(下落合378番地)に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512040396.html" target="_blank" rel="noopener">相馬孟胤</a>の子息、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-02-25.html" target="_blank" rel="noopener">相馬恵胤</a>の連れ合いだった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-04.html" target="_blank" rel="noopener">相馬雪香</a>だ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">尾崎咢堂(行雄)</a>の三女だった雪香は、下落合1147番地(現・中落合1丁目)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-05-14.html" target="_blank" rel="noopener">佐々木久二</a>と結婚し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-12.html" target="_blank" rel="noopener">白百合幼稚園</a>を経営していた長女・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510089620.html" target="_blank" rel="noopener">清香</a>とともに下落合にいた。戦後、尾崎行雄記念財団の副会長や、日本退職女教師連合会会長、日本動物福祉協会理事などを歴任していたが、インタビュー時は難民を助ける会の会長だった。同書より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「PKOの問題も、日本が国連の指揮下で行動するのは当然ですね。だけど、多くの外国人たちは前の戦争で日本軍にひどい仕打ちを受けたので、日本人を恐れています。そのことを国民に知らせてからでなくてはダメです。野党も一緒に考えるべきです」ときっぱりいう。「日本人は視点が悪い。もっと広く世界を見る目を養わなくては。変だなと思ったら、目をそらさないで現実を知る努力をすべきです。世界に通用する道義的な人間にならなくては、日本はとり残される」と。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B7A1E8B0B7E381AEE3828AE5AD901.jpg" alt="淡谷のり子1.jpg" width="520" height="417" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B7A1E8B0B7E381AEE3828AE5AD902.jpg" alt="淡谷のり子2.jpg" width="520" height="397" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BB8E9A6ACE99BAAE9A699.jpg" alt="相馬雪香.jpg" width="520" height="415" border="0" /></div><div>　おとめ坂上の下落合1丁目310番地(現・下落合2丁目)に住んだ、アルピニストで料理研究家だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-22.html" target="_blank" rel="noopener">黒田初子</a>も登場している。撮影や取材は、料理講習会「紫水会」が開かれていた自邸で行われており、部屋の窓から見える屋敷林に囲まれた濃い緑の庭先が印象的だ。料理教室の生徒たちから、米寿(88歳)のお祝いパーティを開いてもらったばかりで、さすがにアルプス登山はやめていたようだがスキーや水泳はつづけていた。同書より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　幼い頃から、登山の話を聞かされて、魅力を感じていたという従兄の正夫氏と結婚。新婚旅行は伊豆の天城山だった。銘仙の着物の裾をはしょって山に入っていく若い男女は、駆け落ちではないかと村人に怪しまれたと黒田さんはクックッと笑う。料理を教える合間に、正夫氏と一緒に国内外の山々の登攀に成功。大正15年春の富士山頂からのスキーは新記録と騒がれた。十余年前、正夫氏は死去。登山はやめたが、スキーは今も続け、冬が待ち遠しいという。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　戦時中、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に住む、文学座の脚本家・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-06.html" target="_blank" rel="noopener">森本薫</a>のもとへ通いつづけた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">杉村春子</a>も登場している。もちろん、森本が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-18.html" target="_blank" rel="noopener">『女の一生』</a>を執筆していたからだ。彼女は、1992年(平成4)現在で83歳になっていた。<br />　笹本恒子が訪れたのは、もちろん四谷にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">文学座アトリエ</a>の裏に建っていた杉村春子の自邸だ。当初は、邸内が散らかっているからと庭先の花壇で撮影をはじめたようだが、そのあとなんとか一室に入れてもらい、飼い犬とともに日常的な姿を撮影している。同書より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「芝居の前は稽古、稽古で忙しくて。今回も台詞が多くて大変だったんですよ。始まると、芝居のことで頭はいっぱい。ようやく明日が最終日。2日だけ休んで、こんどは旅回りでしょ。40日位帰ってこないことになるし、それで今日急にお電話して、来ていただいたのよ」。ハードなスケジュールを、むしろ楽しそうに弾んだ声で語る。部屋は散らかっているからと、庭先で。／庭いっぱい、身の丈より高い薄紫の花が生い茂り、足もとには赤、白のサルビアや水引草も可憐な姿を見せている。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　室内で撮影された杉村春子の背後には、膨大な数の大小さまざまな人形が、飾り棚に詰めこまれているのが見える。各地を巡業公演するかたわら、人形を集めてまわるのが趣味だったのだろうか。連れ合いに確認してみたが、人形の趣味までは知らないとのことだった。その人形たちが並ぶ飾り棚の横に、誰かの肖像画が飾られているのが見えている。杉村本人か、あるいはゆかりの人物の肖像画なのか、遠くてぼやけ気味な写りなので判然としない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD901.jpg" alt="黒田初子1.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD902.jpg" alt="黒田初子2.jpg" width="520" height="402" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E794B0E5889DE5AD90E982B81992.jpg" alt="黒田初子邸1992.jpg" width="520" height="405" border="0" /></div><div>　戸塚町上戸塚593番地(現・高田馬場3丁目)に住み、しょっちゅう上落合503番地つづいて同549番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-01.html" target="_blank" rel="noopener">壺井栄</a>や、上落合740番地つづいて目白町3丁目3570番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-11.html" target="_blank" rel="noopener">宮本百合子</a>、上落合186番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-28.html" target="_blank" rel="noopener">村山籌子</a>、上落合48番地から同481番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-02.html" target="_blank" rel="noopener">原泉子</a>、ときに下落合2108番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>や、早稲田通りをはさんで戸塚町上戸塚866番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">藤川栄子</a>を訪ねていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank" rel="noopener">佐多稲子</a>(当時は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-28.html" target="_blank" rel="noopener">窪川稲子</a>)も、同写真集には登場している。<br />　このとき、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">佐多稲子</a>は88歳だったが、特別パッケージのロング「HOPE」(？)らしいタバコとソフトケースに入れた100円ライターを片手に、執筆に忙しい毎日を送っていた。佐多稲子は、もともと缶「PEACE」のファンだったと思うのだが、戦後にようやくPEACEな時代が実現されたので、次はHOPEに変えたのだろうか。w　このときは病院で長時間待たされて、約束の時間にすっかり遅れてしまったようだ。笹本恒子が佐多稲子を初めて撮影したのは、1940年(昭和15)というから、実に50年を超えるつきあいということになる。つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　カメラを手に、初めて佐多さんを訪問したのは、駆け出しの間もない昭和15年の夏だった。きちんと深く合わせた襟元と白地のひとえものが、とても清楚に見えた。あれから半世紀が過ぎた。／約束の時刻にお宅を訪れたが、ご不在で、先約者がビデオカメラをセットして待ち構えていた。佐多さんは、病院通いとのことだった。／「ごめんなさいね、こんなにお待たせして」。ビデオの撮影がすむと、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくださる。長時間病院で待たされ、帰宅するやカメラとマイクの攻撃を受けたのに、疲れた気配も見せない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　次も、オシャレ雑誌「スタイル」の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank" rel="noopener">AD</a>をつとめ、下落合の各所に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-13.html" target="_blank" rel="noopener">松井直樹</a>や、佐多稲子と同様ときどき<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-12.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>を訪ねていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-24.html" target="_blank" rel="noopener">宇野千代</a>も収録されている。彼女は、笹本恒子の撮影助手を見ると「あなたはきれいね」といい、助手が宇野千代を褒めると、「昔はべっぴんだったのよ。今はもう、ヘチャクチャでダメね」と笑った。このとき、95歳だった宇野千代の好物はホウレンソウとメザシで、TVの『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』を観るのが好きだと答えている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　米寿祝いのパーティに、派手な大振袖姿で現れ、参会者を驚かせた宇野さん。白寿祝いには、武道館を借り切って、ゴンドラで空中から舞い降りる、と宣言したという。この日の服装は、納戸色の地に白い波頭の小紋。帯も同じ模様の色変わりと、渋い。もちろん、自身のデザイン。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　だが、宇野千代は撮影から4年後、白寿を目前に98歳で他界している。<br />　余談だけれど、佐多稲子や宇野千代の着物姿を見て改めて気づくのだが、ほんとうに着物をきちんときれいに着こなしている。それにつけ、半襟をこれ見よがしに見せたいのか、最近の襟うしろを抜いた若い子の着こなしが、とてもダラシなく見えてしかたがない。芸者や銀座のクラブママなど“玄人”じゃあるまいし、着物はちゃんと美しく着こなしてほしいものだ。<br />　上掲の女性たちのほか、婦人洋画家協会の打ち合わせで下落合を訪れていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519922273.html" target="_blank" rel="noopener">深沢紅子</a>(当時89歳)や、拙ブログで何度か登場している<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-02.html" target="_blank" rel="noopener">望月百合子</a>(当時92歳)など計45人の明治女性が、カメラの前で微笑んでいる。『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』は、もちろん新刊では入手できないが、興味のある方は図書館か古書店で手にとってご覧いただければと思う。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69D89E69D91E698A5E5AD90.jpg" alt="杉村春子.jpg" width="520" height="377" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90.jpg" alt="佐多稲子.jpg" width="520" height="514" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AE87E9878EE58D83E4BBA3.jpg" alt="宇野千代.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div><div>　一時期、下落合のすぐ南にあたる戸塚町<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-06-24.html" target="_blank" rel="noopener">上戸塚397番地</a>(現・高田馬場3丁目)に、夫の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-03.html" target="_blank" rel="noopener">三岸好太郎</a>とともに住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-02.html" target="_blank" rel="noopener">三岸節子</a>も、制作中の元気な姿を見せている。また、彼女は同書へ序文も寄せている。1992年(平成4)1月の時点で、三岸節子は87歳になっていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>の山々に多く自生する、薄桃色のヤマザクラが満開だった庭を歩きながらのインタビューで、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-05.html" target="_blank" rel="noopener">大磯のアトリエ</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">上鷺宮のアトリエ</a>の双方で制作中の姿が紹介されている。こちらでご紹介できないのが残念だ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1992年(平成4)刊行の笹本恒子『輝く明治の女たち－“いま”に生きる45人の肖像－』(NHK出版／左)と、女性の報道カメラマン第1号だった著者(右)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中</span>は、自邸でくつろぐ死去するまで唄いつづけた淡谷のり子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、尾崎行雄記念館に架けられた小磯良平『尾崎行雄肖像』の前の相馬雪香。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中</span>は、下落合の自邸内で開いていた料理教室や自室で撮影された黒田初子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同書と同じ1992年(平成4)撮影の屋敷林が繁る黒田初子邸。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、文学座裏の自邸で撮られた人形に囲まれる杉村春子。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、タバコとライター片手に執筆中の佐多稲子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、脇指か短刀の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank" rel="noopener">透かし鍔</a>(赤坂派？)を文鎮に筆をとる宇野千代。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519959213.html</link>
      <title>新跨線橋で作品が展示された「目白駅画廊」。</title>
      <pubDate>Thu, 07 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　目白駅の構内から、ポスターや看板など広告類がいっさい消えたことがあった。1962年(昭和37)3月にスタートした「花いっぱい運動」の流れから、目白駅のホームや駅周辺に多彩な花々が植えられ、ほぼ同時に「目白駅美化同好会」が発足している。　目白駅美化同好会の大もとになる母体は、目白・下落合地域に住んでいた人々により、1946年(昭和21)11月に結成された目白文化協会だろう。同協会の会長も、また目白駅美化同好会の会長も目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む徳川義親だった。..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E794BBE5BB8A1972.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;&#x753B;&#x5ECA;1972.jpg" width="600" height="405" border="0" />　目白駅の構内から、ポスターや看板など広告類がいっさい消えたことがあった。1962年(昭和37)3月にスタートした「花いっぱい運動」の流れから、目白駅のホームや駅周辺に多彩な花々が植えられ、ほぼ同時に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-07.html" target="_blank">「目白駅美化同好会」</a>が発足している。　目白駅美化同好会の大もとになる母体は、目白・下落合地域に住んでいた人々により、1946年(昭和21)11月に結成された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-13.html" target="_blank">目白文化協会</a>だろう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-09.html" target="_blank">同協会</a>の会長も、また目白駅美化同好会の会長も目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-29.html" target="_blank">徳川義親</a>だった。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank">目白駅</a>は、1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックにあわせ、大規模な改装工事を行っているが、当時の駅長・松谷正博は目白駅美化同好会からの要請をうけ、改装工事を契機に駅の構内から広告類をいっさい排除している。今日の株式会社化したJR東日本では考えられないことだが、当時は運輸省の外郭公共団体だった日本国有鉄道(国鉄)だからできたことだろう。　駅改築と東京五輪の年に書かれた、目白駅美化同好会の声明には以下のように書かれている。　　▼　目白駅は私たちの玄関口です。またお互いのなつかしいこころの故郷でもあります。(中略) みんなでここに花壇をつくり、壁には美術作品をかざって、朝夕の私たちはもちろんのこと、ここを訪れる方々にも、美しい雰囲気と、憩いのひとときをわかちあいたいものと話がもち上がりました。(中略) お互いの暮らしの中にも、しあわせの種子をまくために、格別のご支援とご協力をお願い申し上げます。／昭和三十九年四月　　▲　この動きは、下落合で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-14.html" target="_blank">「落合新聞」</a>を刊行していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank">竹田助雄</a>も以前から注目しており、1963年(昭和38)7月12日に発行された同紙のコラム欄「翠ヶ丘」でも、駅舎とともに大改装を終えたばかりの、幅の広い新跨線橋の写真とともに紹介されている。同日の落合新聞より引用してみよう。　　▼　「目白駅美化同好会」を結成し、美化運動が盛り上っている。(中略) 目白界隈の婦人会、町会ことごとくが音頭とり。新しく延長されたホームには花壇を設け、通路には画廊をつくる、ところどころに花立も備える。目白駅は明治十八年三月二十六日開業で山手線でも最も古い方、むかしから文化駅としての名が通ってきた。松谷正博駅長さんは「ポスターを貼れば収入にはなるが、それよりも文化駅にふさわしい雰囲気を作りたい」と大変うれしそう。また同好会でも「ここを訪れる一人でも多くの方が同志になりお互の暮しの中に美しい種子をまこう」と訴えている。花は目白町三丁目大和種苗の石田一平さん、画は下落合二丁目西原比呂志画伯がそれぞれ世話役。　　▲　このあと、目白駅美化同好会の運動は実をむすび、目白駅や国鉄側の協力で同好会側が提案していた計画がほぼそのまま実現している。1963年(昭和38)の夏には延長されたホームに、レンガで造られた花壇が設置され、同年10月11日からは新築の跨線橋に絵画5点がさっそく展示されている。最初の目白駅画廊展に出品された絵画は、根岸情治『黒い壷の幻影』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-01.html" target="_blank">吉田遠志</a>『くらげ』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-01-16.html" target="_blank">西原比呂志</a>『浜』、西原比呂志『浅間山』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-30.html" target="_blank">吉田ふじを</a>『花』の5点で目白文化協会のメンバー画家が中心のようだ。目白駅画廊の作品架け替えは、当初1ヶ月のサイクルを予定していた。　だが、1ヶ月ごとに全作品を架け替えるとなると画家の制作負荷も、また目白駅や同好会の仕事の手間もかかるので、当面は上記5点の展示のままとし、画家から展示協力の申し出があった時点で、追加展示あるいは架け替えを行なうことにしたようだ。目白駅画廊のオープンから1ヶ月、1963年(昭和38)11月からは上記5点に加え、長谷川路可(るか)『女の顔』が加わっている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B7A8E7B79AE6A98B28E5A4A7E694B9E8A385E5BE8C29196307.jpg" alt="&#x8DE8;&#x7DDA;&#x6A4B;(&#x5927;&#x6539;&#x88C5;&#x5F8C;)196307.jpg" width="520" height="355" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19630712.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x65B0;&#x805E;19630712.jpg" width="520" height="305" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E3839BE383BCE383A0E88AB1E5A387.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;&#x30DB;&#x30FC;&#x30E0;&#x82B1;&#x58C7;.jpg" width="520" height="363" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E5B9B4E4BBA31.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1970&#x5E74;&#x4EE3;1.jpg" width="520" height="344" border="0" />　さらに、翌1964年(昭和39)2月3日からは3点が追加され、展示作品は全部で9点となった。新たに追加された作品は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank">大久保作次郎</a>『谷間』、長谷川路可『半島』、足立真一郎『槍ケ岳』の3点だった。ところが、不特定多数の人々がいき交う駅には、善男善女ばかりでなくドロボーもやってくる。しかも、乗客がいなくなり駅員も当直室へ引きあげてしまった深夜、当時のセキュリティが甘く無防備に近かった目白駅は、ドロボーの格好の標的となったのだろう。当時の様子を、1972年(昭和47)に鉄道図書刊行会から出版された、高取武『花の改札掛』より引用してみよう。　　▼　こうして新設通路に、目白在住の有名画家の美術作品が画廊として生まれた。立ち停まり、一枚一枚眺める人々の顔が、日々増えてきた矢先、思いがけないことが起きた。画廊に展示中の一枚が盗難にかかったのである。二ヵ月一回交換の作品は、この事件以来目白付近の大学・美術学校生徒の作品中心で、時おり有名大家のものが混じって展示されている。このほか小学校のものは一ヵ月交換である。／改札口からホーム階段まで、画廊のある駅は全国でもめずらしい。今でも駅長が交代のたびに、広告業者が「もう駅長が代ったのだから方針を変えて下さいよ」といってくるそうだ。有料広告何でもという国鉄方針の中で、一服の清涼剤であろう。　　▲　1970年代に入ってからの、目白駅画廊の様子を伝えている。1964年(昭和39)の画廊がスタートした時点では、プロの画家以外の作品は展示されていなかったが、この事件をきっかけに盗まれそうもない近隣の学生や生徒の作品を、順次展示するようになった。　盗難事件が発生したのは、目白駅画廊がスタートしてからわずか半年後の1964年(昭和39)4月29日だった。この時点で、展示作品は上記9点から8点になっている。なお、展示から外された1点が、どの作品かは不明だ。盗まれたのは西原比呂志の『浜』(油彩8号)で、警察の捜査によれば同日の深夜から、始発前の翌早朝にかけてということだった。落合新聞の1964年(昭和39)6月23日号によると、西原比呂志が取材に応じ「空白のままでは不調和だし、駅長も心配しているだろうから」と、『浜』が架けられていたあとに、新作の『夏の高原』を目白駅に持ちこんでいる。したがって、同年6月の段階で展示作品は再び8点にもどっていたようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785-0e135.JPG" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;.JPG" width="520" height="381" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E5B9B4E4BBA32.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1970&#x5E74;&#x4EE3;2.jpg" width="520" height="708" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851979-49119.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1979.jpg" width="520" height="305" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851979E9A785E5898D.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1979&#x99C5;&#x524D;.jpg" width="520" height="354" border="0" />　盗難当時の様子を、1964年(昭和39)5月20日発刊の落合新聞より引用してみよう。　　▼　目白駅渡線橋の絵画一転盗まる／西原比呂志画伯の「浜」　目白駅を美化するため人々の善意によって展示されている油絵八点の中、四月二十九日夜西原比呂志画伯の油絵「浜」八号大一点が盗まれた。終電から初電までの深夜と推定されている。　　▲　その後、発見されたという報道はないので、現在でも行方不明のままなのだろう。　西原比呂志の『浜』は、どのような作品だったのだろうか。目白駅画廊に展示当初、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank">竹田助雄</a>がモノクロ写真で撮影した画像が残っている。落合新聞に掲載された写真は、かなり印刷精度が粗いためボンヤリとしかわからないが、大きな岬の見える浜辺の人物たちが描かれているように見える。左手の上部に輪のついた塔状のものは、海水浴シーズンになると上部に傘を張って日除けにし、監視員が双眼鏡で海面を見つめる水難監視タワーだろうか。　このあと1964年(昭和39)7月からは、ねぎしじょうじ(根岸情治)『林檎は悲し』と長谷川路可の『夕なぎ』の2点が追加展示されているが、代わりに引きあげられた作品があったのかどうかは不明だ。翌1965年(昭和40)3月、目白駅は開設80周年を迎えているが、目白駅美化同好会による記念植樹や記念パーティなどの計画が進んでいる。　けれども、目白駅画廊についての報道はなくなり、どのような作品が展示されていたのかは、先の『林檎は悲し』と『夕なぎ』の追加展示以来わからないままだ。このころから、駅の跨線橋には盗まれそうもない、近接した学校の学生や生徒たちの作品が増えていったものだろう。ただし、1972年(昭和47)に目白駅の改札から高取武が撮影した写真には、立派な額縁にセットされたプロの画家の作品とみられる絵画が、改札口も近い跨線橋への入口左手に2点ほど架けられているのが見える。また、1974年(昭和49)3月12日の朝日新聞には、「地元在住の画家や子どもたちの作品で大はやりの国電目白駅」という記事が、また翌1975年(昭和50)1月18日の日本経済新聞には、「ギャラリー目白駅／跨線橋の壁に大家から小学生の作品飾る」という記事が見えている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E9A083.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1970&#x9803;.jpg" width="520" height="362" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851981A.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1981A.jpg" width="520" height="517" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851981B.jpg" alt="&#x76EE;&#x767D;&#x99C5;1981B.jpg" width="520" height="696" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19640623.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x65B0;&#x805E;19640623.jpg" width="520" height="466" border="0" />　なお、1965年(昭和40)の目白駅の開設80周年事業では、東京オリンピックで使用された、競技場の旗竿が贈られたため掲揚台を建てる計画と、駅舎やその周辺を撮影した古写真を収集して掲載する、80周年記念アルバムづくりが計画されていた。この記念アルバムづくりが実現していたとすれば、ぜひ拝見してみたいものだが、かつてそのような写真集は一度も見たことがない。
◆写真上：1972年(昭和47)撮影の目白駅画廊で、プロ画家とみられる作品が2点見えている。◆写真中上：上は、1963年(昭和38)7月に竹田助雄が撮影した幅が広い新設の跨線橋。中上は、同年7月12日の目白駅美化同好会の結成と目白駅画廊の設置計画などを伝える落合新聞。中下は、目白駅の延長プラットホームに設置されたレンガ造りの花壇に水をやる川村学園の女生徒たち。下は、1970年代に撮影された目白駅前の様子。◆写真中下：上は、1960年代末か1970年代初めごろに撮影された目白駅前の様子。中上は、1970年代に撮影された目白駅のプラットホーム。中下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅舎。下は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅前を歩く人々。◆写真下：上は、1970年代に撮影された目白駅前。中上は、1981年(昭和56)撮影の目白駅前にあった歩道橋をわたる川村学園の生徒たち。中下は、同年に撮影された目白駅前。下は、行方不明となった同作の画像を載せて情報を呼びかける1964年(昭和39)6月23日発行の落合新聞。★おまけ　南長崎のアパートに下宿していた学生時代、このタイル張りの富士銀行が見えてくると目白駅が近いと感じられた。でも山手線には乗らず、登下校は経費節減のため歩いたことのほうが多い。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AF8CE5A3ABE98A80E8A18CE79BAEE799BDE694AFE5BA97.jpg" alt="&#x5BCC;&#x58EB;&#x9280;&#x884C;&#x76EE;&#x767D;&#x652F;&#x5E97;.jpg" width="520" height="408" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E794BBE5BB8A1972.jpg" alt="目白駅画廊1972.jpg" width="600" height="405" border="0" /></div><div>　目白駅の構内から、ポスターや看板など広告類がいっさい消えたことがあった。1962年(昭和37)3月にスタートした「花いっぱい運動」の流れから、目白駅のホームや駅周辺に多彩な花々が植えられ、ほぼ同時に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-07.html" target="_blank" rel="noopener">「目白駅美化同好会」</a>が発足している。<br />　目白駅美化同好会の大もとになる母体は、目白・下落合地域に住んでいた人々により、1946年(昭和21)11月に結成された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-13.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化協会</a>だろう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-09.html" target="_blank" rel="noopener">同協会</a>の会長も、また目白駅美化同好会の会長も目白町4丁目41番地(現・目白3丁目)に住む<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">徳川義親</a>だった。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">目白駅</a>は、1964年(昭和39)に開催された東京オリンピックにあわせ、大規模な改装工事を行っているが、当時の駅長・松谷正博は目白駅美化同好会からの要請をうけ、改装工事を契機に駅の構内から広告類をいっさい排除している。今日の株式会社化したJR東日本では考えられないことだが、当時は運輸省の外郭公共団体だった日本国有鉄道(国鉄)だからできたことだろう。<br />　駅改築と東京五輪の年に書かれた、目白駅美化同好会の声明には以下のように書かれている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　目白駅は私たちの玄関口です。またお互いのなつかしいこころの故郷でもあります。(中略) みんなでここに花壇をつくり、壁には美術作品をかざって、朝夕の私たちはもちろんのこと、ここを訪れる方々にも、美しい雰囲気と、憩いのひとときをわかちあいたいものと話がもち上がりました。(中略) お互いの暮らしの中にも、しあわせの種子をまくために、格別のご支援とご協力をお願い申し上げます。／昭和三十九年四月<br />　<span style="color: #008000;">　▲</span><br />　この動きは、下落合で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">「落合新聞」</a>を刊行していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>も以前から注目しており、1963年(昭和38)7月12日に発行された同紙のコラム欄「翠ヶ丘」でも、駅舎とともに大改装を終えたばかりの、幅の広い新跨線橋の写真とともに紹介されている。同日の落合新聞より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「目白駅美化同好会」を結成し、美化運動が盛り上っている。(中略) 目白界隈の婦人会、町会ことごとくが音頭とり。新しく延長されたホームには花壇を設け、通路には画廊をつくる、ところどころに花立も備える。目白駅は明治十八年三月二十六日開業で山手線でも最も古い方、むかしから文化駅としての名が通ってきた。松谷正博駅長さんは「ポスターを貼れば収入にはなるが、それよりも文化駅にふさわしい雰囲気を作りたい」と大変うれしそう。また同好会でも「ここを訪れる一人でも多くの方が同志になりお互の暮しの中に美しい種子をまこう」と訴えている。花は目白町三丁目大和種苗の石田一平さん、画は下落合二丁目西原比呂志画伯がそれぞれ世話役。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　このあと、目白駅美化同好会の運動は実をむすび、目白駅や国鉄側の協力で同好会側が提案していた計画がほぼそのまま実現している。1963年(昭和38)の夏には延長されたホームに、レンガで造られた花壇が設置され、同年10月11日からは新築の跨線橋に絵画5点がさっそく展示されている。最初の目白駅画廊展に出品された絵画は、根岸情治『黒い壷の幻影』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-01.html" target="_blank" rel="noopener">吉田遠志</a>『くらげ』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">西原比呂志</a>『浜』、西原比呂志『浅間山』、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-30.html" target="_blank" rel="noopener">吉田ふじを</a>『花』の5点で目白文化協会のメンバー画家が中心のようだ。目白駅画廊の作品架け替えは、当初1ヶ月のサイクルを予定していた。<br />　だが、1ヶ月ごとに全作品を架け替えるとなると画家の制作負荷も、また目白駅や同好会の仕事の手間もかかるので、当面は上記5点の展示のままとし、画家から展示協力の申し出があった時点で、追加展示あるいは架け替えを行なうことにしたようだ。目白駅画廊のオープンから1ヶ月、1963年(昭和38)11月からは上記5点に加え、長谷川路可(るか)『女の顔』が加わっている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B7A8E7B79AE6A98B28E5A4A7E694B9E8A385E5BE8C29196307.jpg" alt="跨線橋(大改装後)196307.jpg" width="520" height="355" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19630712.jpg" alt="落合新聞19630712.jpg" width="520" height="305" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E3839BE383BCE383A0E88AB1E5A387.jpg" alt="目白駅ホーム花壇.jpg" width="520" height="363" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E5B9B4E4BBA31.jpg" alt="目白駅1970年代1.jpg" width="520" height="344" border="0" /></div><div>　さらに、翌1964年(昭和39)2月3日からは3点が追加され、展示作品は全部で9点となった。新たに追加された作品は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>『谷間』、長谷川路可『半島』、足立真一郎『槍ケ岳』の3点だった。ところが、不特定多数の人々がいき交う駅には、善男善女ばかりでなくドロボーもやってくる。しかも、乗客がいなくなり駅員も当直室へ引きあげてしまった深夜、当時のセキュリティが甘く無防備に近かった目白駅は、ドロボーの格好の標的となったのだろう。当時の様子を、1972年(昭和47)に鉄道図書刊行会から出版された、高取武『花の改札掛』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　こうして新設通路に、目白在住の有名画家の美術作品が画廊として生まれた。立ち停まり、一枚一枚眺める人々の顔が、日々増えてきた矢先、思いがけないことが起きた。画廊に展示中の一枚が盗難にかかったのである。二ヵ月一回交換の作品は、この事件以来目白付近の大学・美術学校生徒の作品中心で、時おり有名大家のものが混じって展示されている。このほか小学校のものは一ヵ月交換である。／改札口からホーム階段まで、画廊のある駅は全国でもめずらしい。今でも駅長が交代のたびに、広告業者が「もう駅長が代ったのだから方針を変えて下さいよ」といってくるそうだ。有料広告何でもという国鉄方針の中で、一服の清涼剤であろう。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　1970年代に入ってからの、目白駅画廊の様子を伝えている。1964年(昭和39)の画廊がスタートした時点では、プロの画家以外の作品は展示されていなかったが、この事件をきっかけに盗まれそうもない近隣の学生や生徒の作品を、順次展示するようになった。</div><div>　盗難事件が発生したのは、目白駅画廊がスタートしてからわずか半年後の1964年(昭和39)4月29日だった。この時点で、展示作品は上記9点から8点になっている。なお、展示から外された1点が、どの作品かは不明だ。盗まれたのは西原比呂志の『浜』(油彩8号)で、警察の捜査によれば同日の深夜から、始発前の翌早朝にかけてということだった。落合新聞の1964年(昭和39)6月23日号によると、西原比呂志が取材に応じ「空白のままでは不調和だし、駅長も心配しているだろうから」と、『浜』が架けられていたあとに、新作の『夏の高原』を目白駅に持ちこんでいる。したがって、同年6月の段階で展示作品は再び8点にもどっていたようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785-0e135.JPG" alt="目白駅.JPG" width="520" height="381" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E5B9B4E4BBA32.jpg" alt="目白駅1970年代2.jpg" width="520" height="708" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851979-49119.jpg" alt="目白駅1979.jpg" width="520" height="305" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851979E9A785E5898D.jpg" alt="目白駅1979駅前.jpg" width="520" height="354" border="0" /></div><div>　盗難当時の様子を、1964年(昭和39)5月20日発刊の落合新聞より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">目白駅渡線橋の絵画一転盗まる／西原比呂志画伯の「浜」</span><br />　目白駅を美化するため人々の善意によって展示されている油絵八点の中、四月二十九日夜西原比呂志画伯の油絵「浜」八号大一点が盗まれた。終電から初電までの深夜と推定されている。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　その後、発見されたという報道はないので、現在でも行方不明のままなのだろう。<br />　西原比呂志の『浜』は、どのような作品だったのだろうか。目白駅画廊に展示当初、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>がモノクロ写真で撮影した画像が残っている。落合新聞に掲載された写真は、かなり印刷精度が粗いためボンヤリとしかわからないが、大きな岬の見える浜辺の人物たちが描かれているように見える。左手の上部に輪のついた塔状のものは、海水浴シーズンになると上部に傘を張って日除けにし、監視員が双眼鏡で海面を見つめる水難監視タワーだろうか。<br />　このあと1964年(昭和39)7月からは、ねぎしじょうじ(根岸情治)『林檎は悲し』と長谷川路可の『夕なぎ』の2点が追加展示されているが、代わりに引きあげられた作品があったのかどうかは不明だ。翌1965年(昭和40)3月、目白駅は開設80周年を迎えているが、目白駅美化同好会による記念植樹や記念パーティなどの計画が進んでいる。<br />　けれども、目白駅画廊についての報道はなくなり、どのような作品が展示されていたのかは、先の『林檎は悲し』と『夕なぎ』の追加展示以来わからないままだ。このころから、駅の跨線橋には盗まれそうもない、近接した学校の学生や生徒たちの作品が増えていったものだろう。ただし、1972年(昭和47)に目白駅の改札から高取武が撮影した写真には、立派な額縁にセットされたプロの画家の作品とみられる絵画が、改札口も近い跨線橋への入口左手に2点ほど架けられているのが見える。また、1974年(昭和49)3月12日の朝日新聞には、「地元在住の画家や子どもたちの作品で大はやりの国電目白駅」という記事が、また翌1975年(昭和50)1月18日の日本経済新聞には、「ギャラリー目白駅／跨線橋の壁に大家から小学生の作品飾る」という記事が見えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851970E9A083.jpg" alt="目白駅1970頃.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851981A.jpg" alt="目白駅1981A.jpg" width="520" height="517" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A7851981B.jpg" alt="目白駅1981B.jpg" width="520" height="696" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E696B0E8819E19640623.jpg" alt="落合新聞19640623.jpg" width="520" height="466" border="0" /></div><div>　なお、1965年(昭和40)の目白駅の開設80周年事業では、東京オリンピックで使用された、競技場の旗竿が贈られたため掲揚台を建てる計画と、駅舎やその周辺を撮影した古写真を収集して掲載する、80周年記念アルバムづくりが計画されていた。この記念アルバムづくりが実現していたとすれば、ぜひ拝見してみたいものだが、かつてそのような写真集は一度も見たことがない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1972年(昭和47)撮影の目白駅画廊で、プロ画家とみられる作品が2点見えている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1963年(昭和38)7月に竹田助雄が撮影した幅が広い新設の跨線橋。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同年7月12日の目白駅美化同好会の結成と目白駅画廊の設置計画などを伝える落合新聞。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、目白駅の延長プラットホームに設置されたレンガ造りの花壇に水をやる川村学園の女生徒たち。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1970年代に撮影された目白駅前の様子。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1960年代末か1970年代初めごろに撮影された目白駅前の様子。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1970年代に撮影された目白駅のプラットホーム。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅舎。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1979年(昭和54)に撮影された目白駅前を歩く人々。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1970年代に撮影された目白駅前。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1981年(昭和56)撮影の目白駅前にあった歩道橋をわたる川村学園の生徒たち。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同年に撮影された目白駅前。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、行方不明となった同作の画像を載せて情報を呼びかける1964年(昭和39)6月23日発行の落合新聞。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　南長崎のアパートに下宿していた学生時代、このタイル張りの富士銀行が見えてくると目白駅が近いと感じられた。でも山手線には乗らず、登下校は経費節減のため歩いたことのほうが多い。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AF8CE5A3ABE98A80E8A18CE79BAEE799BDE694AFE5BA97.jpg" alt="富士銀行目白支店.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <title>陽明文庫に残された近衛篤麿邸の設計図。</title>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　落合村下落合丸山417番地へ、1901年(明治34)の暮れに竣工した近衛篤麿邸は、残された写真類から純粋な和館だと考えていた。ところが、陽明文庫に残された平面図や側面図を見ると、玄関を入って左手(南側)の応接棟のみ、西洋館だったことがわかる。また、近衛篤麿とその家族たちは、翌1902年(明治35)1月25日に転居してきていることも判明した。　同文庫に保存されている屋敷の配置図や設計図から、現在も近衛町通りに残されている馬車廻し(車廻し)の一部は、大小ふたつあった馬車廻しのう..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BF9CE68EA5E5AEA4.jpg" alt="&#x5FDC;&#x63A5;&#x5BA4;.jpg" width="600" height="402" border="0" />　落合村下落合丸山417番地へ、1901年(明治34)の暮れに竣工した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank">近衛篤麿</a>邸は、残された写真類から純粋な和館だと考えていた。ところが、陽明文庫に残された平面図や側面図を見ると、玄関を入って左手(南側)の応接棟のみ、西洋館だったことがわかる。また、近衛篤麿とその家族たちは、翌1902年(明治35)1月25日に転居してきていることも判明した。　同文庫に保存されている屋敷の配置図や設計図から、現在も近衛町通りに残されている馬車廻し(車廻し)の一部は、大小ふたつあった馬車廻しのうち、東側にあった大規模な植えこみのほんの一部であったこともわかる。玄関の車寄せのすぐ前に位置していた小規模な馬車廻しは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-07-29.html" target="_blank">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank">三宅勘一</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank">近衛町</a>の開発で消滅している。　また、目白通りから現在の近衛町通りを南下すると、近衛篤麿邸の正門前にたどり着くのではなく、塀に阻まれて直進できなかった様子も判明した。突き当りの塀を左折(東折)したところに門衛のいる大きな東門(正門)があり、そこから邸内へ入ることができた。後世に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank">近衛町</a>へ建設される、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-06.html" target="_blank">島津良蔵アトリエ</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank">三井高義アトリエ</a>)あたりが、ちょうど東門があった位置であり、その先の東側は崖地になっていた。門を入ると、片側に家令住宅が並ぶアプローチは南西に向かい、玄関前の小規模な馬車廻しをグルリとまわると、正面玄関の車寄せにたどり着けた。ちなみに、現・近衛町通りを突きあたって、塀を右折(西折)すると小さな裏門が設置されていた。　陽明文庫に残されている屋敷の配置図や平面図など(1902年2月現在の作図)は、すべて上下が逆さまで上が南になるように描かれており見づらいが、棟の構成や部屋の配置がおおよそわかって興味深い。かなり規模の大きな屋敷だが、地図などで塗りつぶされていた屋敷のかたちがすべて建築物だったわけではなく、広い中庭の存在していたことがわかる。中庭には、東西南北沿いに廊下(くれ縁＝内縁だろうか)が張りめぐらされ、どの棟へ向かうにも中庭に面した廊下を通ることになる。主要な棟はおよそ4つに分かれており、4棟とも2階建てだった。　独立した建物としては、母家の南側に拡がる庭園の、さらに南側のかなり離れた雑木林のなかには、2階建ての大きな蔵が2棟建てられていた。これは、母家で万が一の火災が起きた場合でも、蔵への延焼を防ぐためだと思われる。その蔵の北東側、見晴らしのいい南東側に向いた丘上には、おそらく数寄屋(茶室)とみられる建物がしつらえられている。以前の記事で、高田村高田稲荷938番地で操業していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-06.html" target="_blank">薗部染工場</a>の写真をご紹介していたが、山手線越しに写る近衛邸の四阿のような丘上の建物は、位置からしてこの数寄屋ではないだろう。建築当初の配置図には掲載されていない、のちに追加で建てられた四阿のような建物ではないか。　そして、もうひとつの独立した建物は、訪問客が玄関を入ってすぐに通される、また母屋からも渡り廊下づたいに入れる応接棟の1階建て西洋館だ。(冒頭側面図)　この小さな西洋館のみ、側面図と平面図の双方が残されており、屋根はスレート葺きで下見板張りの外壁だった仕様がうかがえる。建物の東側と北側にそれぞれドアがあり、玄関側と母屋側とでつながっていた。来客が応接棟へ通されると、家令がそれを居間にいる近衛家の誰かに報告しにいき、居間から直接北側のドアを通じて応接棟へわたれるような設計になっていた。　庭園で目につくのは、南側の庭に設置された大燈籠だ。この大燈籠を、わたしはおそらく目にしたことがある。1903年(明治36)5月3日に撮影された、病気から恢復した近衛篤麿とその家族たちを撮影した記念写真だ。病気平癒の記念写真は、南の庭園に面した居間の縁側で撮影されたとみられ、当時、下落合に住んでいた近衛一家の全員が画面に収まっている。縁側の奥、家族たちの背後にはガラスをはめた障子が立てられており、そのガラスの一面に南側の庭園が反射で映りこんでいるのだ。その写真の左端、学習院初等科の制服を着た<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-19.html" target="_blank">近衛文麿</a>の背後には、巨大な燈籠が映りこんでいる。その並びには、棕櫚らしい大樹や雑木林が見えているが、芝庭のすぐ先は特に手を入れたようには見えず、武蔵野の植生らしい雑木林が拡がっていたようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8E9858DE7BDAEE59BB3190202_1.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;&#x914D;&#x7F6E;&#x56F3;190202_1.jpg" width="520" height="469" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8E9858DE7BDAEE59BB3190202_2.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;&#x914D;&#x7F6E;&#x56F3;190202_2.jpg" width="520" height="466" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B81E99A8EE5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;1&#x968E;&#x5E73;&#x9762;&#x56F3;.jpg" width="520" height="407" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B82E99A8EE5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;2&#x968E;&#x5E73;&#x9762;&#x56F3;.jpg" width="520" height="369" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE982B8E8A5BFE6B48BE9A4A828E5BF9CE68EA5E5AEA429.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x90B8;&#x897F;&#x6D0B;&#x9928;(&#x5FDC;&#x63A5;&#x5BA4;).jpg" width="520" height="344" border="0" />　庭園自体も、一面に芝が植えられた和風とも洋風ともつかない曖昧な風情をしており、その様子は近衛篤麿の死去後、1911年(明治44)の春に撮影された家族写真で見ることができる。なお、この写真にとらえられた家族たちの背後に写る建物が、居間から寝室へと通じる母家の棟で、上記の病気平癒の記念写真と同じガラス障子がとらえられている。1903年(明治36)5月の家族写真から、わずか8ヶ月後の1904年(明治37)1月に近衛篤麿は死去している。　もう1枚、1903年(明治36)5月3日に撮影された、近衛篤麿が写る病気平癒の記念写真が残されている。同じカメラマンが撮影したと思われるが、今度は玄関先での記念写真だろうか。近衛一家が前面に座り、背後や両端には、家令や乳母、女中頭とみられる人々がとらえられている。写っているのは、近衛家のおもだった家令や使用人の一部で、近衛家の家族と直接言葉を交わせる人々のみで、屋敷内に暮していた全員ではないだろう。ちなみに、大勢いた女中たちは「上女中」「中女中」「下女中」に分類され、「上女中」のみが家族の近くで世話をしていた。　さて、陽明文庫に残された近衛篤麿邸の図面類や、下落合への詳細な転居時期などを調べていたら興味深いことに気づいた。それは、1924年(大正13)に近衛霞山会によって編集・出版された、『近衛霞山公』(非売品)という近衛篤麿の伝記と年譜を参照していたときだ。下落合の近衛篤麿邸の竣工が、1901年(明治34)の暮れ近くであり、近衛一家が麹町にあった旧邸から下落合の新邸へ転居してきたのが、翌1902年(明治35)1月25日と規定できたのは、同書の詳細な年譜からだ。この転居の日が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-23.html" target="_blank">東京同文書院</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-26.html" target="_blank">目白中学校</a>を併設)の開校式(1月19日)が行われた1週間後であることも判明した。以下、『近衛霞山公』年譜に記された1902年(明治35)1月項目より引用してみよう。　　▼　一月九日国民同盟会ハ時局ニ関スル痛切ナル意見書ヲ小村外務大臣ニ呈ス／一月十九日東京同文書院開校式ヲ行フ／一月二十五日府下下落合ノ新邸ニ移ル／一月国民同盟会ハ上海ノ米人協会及紐育ノ亜細亜協会ト提携シテ満洲問題ヲ解決センコトヲ約ス／清国改革事宜数篇ヲ其国当路ニ贈リテ参考ニ資ス／日英同盟ニ関シ清国大官ノ謝電ヲ領ス　　▲　この非売品だった『近衛霞山公』は、1924年(大正13)6月に近衛霞山会から出版されたものだが、同書の奥付を見て思わず「えっ？」と目をみはってしまった。編輯兼発行者は近衛霞山会となっているが、その次に「代表者／神谷卓男」と印刷されている。　下落合1328番地に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-21.html" target="_blank">神谷卓男</a>のネームは、おそらく<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>の紹介記事でもっとも多く登場している人物のひとりだろう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-16.html" target="_blank">河野伝</a>が設計し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank">第一文化村</a>に早くから建てられていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-11.html" target="_blank">神谷邸</a>に関しては、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank">箱根土地</a>が制作した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-04.html" target="_blank">絵葉書</a>類にも必ず登場している、目白文化村を代表し象徴するような邸宅だった。その主人である神谷卓男が、生前の近衛篤麿と近しく交流しており、しかも近衛霞山会の代表だったとは、うかつにもこれまでまったく気づかなかったしだいだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E695B0E5AF84E5B18B28E88CB6E5AEA429.jpg" alt="&#x6570;&#x5BC4;&#x5C4B;(&#x8336;&#x5BA4;).jpg" width="520" height="421" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE982B8E695B7E59CB0E59B9BE998BF.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x90B8;&#x6577;&#x5730;&#x56DB;&#x963F;.jpg" width="520" height="419" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E78788E7B1A0.jpg" alt="&#x5927;&#x71C8;&#x7C60;.jpg" width="520" height="654" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE8A898E5BFB5E58699E79C9F19030503.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x8A18;&#x5FF5;&#x5199;&#x771F;19030503.jpg" width="520" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E5BAADE78788E7B1A0.jpg" alt="&#x5357;&#x5EAD;&#x71C8;&#x7C60;.jpg" width="520" height="422" border="0" />　神谷卓男は、1929年(昭和4)10月に死去しているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-04.html" target="_blank">落合町誌刊行会</a>)の「人物事業編」には掲載されておらず、またその遺族についても掲載されていなかったため、いままでうっかり気づかなかったのだろう。改めて、当時の興信録や紳士録などを参照すると、神谷卓男は京都府宮津出身で同志社を卒業すると米国へ留学し、帰国後は日本新聞の記者となって、衆議院議員(国民党)にも当選していることがわかった。以下、1928年(昭和3)に万朝報から出版された『新日本史』の別篇より、その人物像を少し引用してみよう。　　▼　天橋義塾京都中学校等に学び同中学校三年級の時同志社に入り明治二十五年之を卒業す 二十七年米国に遊び「スタンフオード」「コロンビヤ」両大学に修め三十三年帰朝して日本新聞記者となり専ら故羯南陸実の指導を受け又先輩神鞭謝海に知遇せらる 次いで近衛篤麿公の秘書となり又対露同志会の為めに尽瘁す 三十八年渡韓して宋秉畯等と一進会を設立し次いで韓廷に聘せられ特別任用に依つて朝鮮総督府官吏となり地方長官に歴任す 後ち之を辞して名古屋市高級助役となり大正四年衆議院議員に挙げられ国民党に属す 九年実業界に投じ東邦電力株式会社の取締役に挙げられる 後ち病を獲て之を退き今閑地に静養しつゝあり　　▲　1920年(大正9)に衆議院議員を辞職し実業界へ転じたのは、大正初期に(立憲)国民党の議員として党内で普通選挙の実施を主張したため、同党の党議方針に反するとして同僚の議員4名とともに除名されたからだ。第一文化村に、早くから邸宅を建てて住んだのは、東邦電力の取締役を辞任して間もない時期だったことがわかる。　上記の履歴から、近衛篤麿と知己を得たのは日本新聞の記者時代で、おそらく近衛に勧誘され晩年を通じての秘書だったこともわかる。したがって、近衛篤麿に関する晩年の事蹟、特にタイムスタンプに関しては、秘書だった神谷卓男が編纂した資料類が正確なのだろう。　さて、箱根土地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515159421.html" target="_blank">堤康次郎</a>は目白文化村の造成で、なぜ近衛霞山会の代表をつとめる神谷卓男邸のことを引き立て、あるいは際立たせるような扱いをしたのだろうか。そこには、下落合の東部に展開していた近衛家の敷地の開発が、当然意識されていたにちがいない。神谷卓男を通じて、近衛家との太いパイプづくりを考えていたのではないか。旧・近衛篤麿邸の敷地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-14.html" target="_blank">近衛文麿</a>の同窓だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-10.html" target="_blank">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank">三宅勘一</a>に先を越されたが、近衛家の土地はいまだ下落合の東部にはかなり残されていた。堤康次郎は、そこへ以前から目をつけていた可能性が高そうだ。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank">近衛新町</a>が販売されたとき、神谷卓男は東邦電力の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank">松永安左衛門</a>へ買収の橋わたしをしているのではないか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8190305.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;190305.jpg" width="520" height="427" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B81911E698A5.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x7BE4;&#x9EBF;&#x90B8;1911&#x6625;.jpg" width="520" height="346" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE794BA1944EFBC8BE8BF91E8A19BE982B81918.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x753A;1944&#xFF0B;&#x8FD1;&#x885B;&#x90B8;1918.jpg" width="520" height="425" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE99C9EE5B1B1E4BC9AE7A59EE8B0B7E58D93E794B71924.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x971E;&#x5C71;&#x4F1A;&#x795E;&#x8C37;&#x5353;&#x7537;1924.jpg" width="250" height="405" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE8B0B7E58D93E794B7E6B08FE982B8EFBC8FE99680E58F8AE78E84E996A2.jpg" alt="&#x795E;&#x8C37;&#x5353;&#x7537;&#x6C0F;&#x90B8;&#xFF0F;&#x9580;&#x53CA;&#x7384;&#x95A2;.jpg" width="260" height="405" border="0" />　近衛篤麿邸が解体され、1922年(大正11)4月より東京地住宅による近衛町の販売がはじまるが、家族を転居させるため、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-10.html" target="_blank">近衛文麿</a>が目白中学校の南側、すなわち下落合432～456番地へ建設して、1929年(昭和4)までのわずか7年間しか存在しなかった、暫定的な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank">幻の近衛文麿邸</a>に関する敷地の建物配置や図面類も入手できた。史的資料類では、なにか大きな勘ちがいがからんでいるとみられる同邸は、昭和期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-22.html" target="_blank">近衛新邸</a>と同様に清水組が設計・施工しており、1922年(大正11)の秋には居住できるほど建設が進んでいたとみられる。その詳細は、また機会があれば、別の物語……。
◆写真上：近衛篤麿邸では唯一の西洋館で、玄関の南側に建てられていた応接棟側面図。◆写真中上：上は、1902年(明治35)2月現在で作成された近衛篤麿邸および南側の建物等配置図で、南北が上下逆になっている(以下同)。中上は、同年の別バージョン配置図に玄関までの訪問経路を加えたもの。中中は、広い吹き抜けの中庭が目立つ同邸の1階平面図。中下は、同邸の2階平面図。下は、西洋建築だった応接棟の側面図と平面図。◆写真中下：上は、南側の丘上に建てられていた数寄屋(茶室)と思われる建物の平面図。中上は、大正初期に撮影された近衛邸の丘に写る四阿らしい建築だが、位置的にみて上記の数寄屋ではないと思われる。中中は、大燈籠のある南庭と記念写真が撮影された母家の縁側部の拡大図面。中下は、1903年(明治36)5月3日に撮影された病気から恢復した近衛篤麿と家族たちの記念写真。右から左へ、近衛忠麿(幼児／のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-28-1.html" target="_blank">水谷川忠麿</a>)と近衛貞子、近衛篤麿、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-30.html" target="_blank">近衛秀麿</a>、近衛光子、近衛直麿、近衛武子、近衛文麿の順。下は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/511367073.html" target="_blank">近衛文麿</a>が座る背後のガラスに映る大燈籠。◆写真下：上は、1903年(明治36)5月3日に撮影された近衛一家とおもな使用人たちとの記念写真。中上は、近衛篤麿の死後1911年(明治44)の春に撮影された近衛一家。背後に写るガラス障子の縁側が、8年前に近衛篤麿の病気平癒の記念写真を撮影した位置。中下は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図と、陰影が克明な1944年(昭和19)に米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-09.html" target="_blank">偵察機F13</a>が撮影した空中写真の近衛町とを重ね合わせたもの。下は、1924年(大正13)に出版された近衛霞山会『近衛霞山公』(非売品／左)奥付と、近衛霞山会の代表だった第一文化村の神谷卓男邸(箱根土地絵はがき／右)。★おまけ　上の2図は、近衛篤麿邸の東門(正門)およびエントランスの小車廻しと玄関部(応接棟)の拡大図面。下の写真は、1916年(大正5)に撮影された暁星中学3年生の近衛直麿のスナップで玄関先か。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E99680E5B496E59CB0.jpg" alt="&#x6771;&#x9580;&#x5D16;&#x5730;.jpg" width="520" height="415" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A6ACE8BB8AE5BBBBE38197E6B48BE9A4A8.jpg" alt="&#x99AC;&#x8ECA;&#x5EFB;&#x3057;&#x6D0B;&#x9928;.jpg" width="520" height="417" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BB4E9BABF1916E69A81E6989FE4B8ADE5ADA6E69982E4BBA3.jpg" alt="&#x8FD1;&#x885B;&#x76F4;&#x9EBF;1916&#x6681;&#x661F;&#x4E2D;&#x5B66;&#x6642;&#x4EE3;.jpg" width="520" height="695" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BF9CE68EA5E5AEA4.jpg" alt="応接室.jpg" width="600" height="402" border="0" /></div><div>　落合村下落合丸山417番地へ、1901年(明治34)の暮れに竣工した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">近衛篤麿</a>邸は、残された写真類から純粋な和館だと考えていた。ところが、陽明文庫に残された平面図や側面図を見ると、玄関を入って左手(南側)の応接棟のみ、西洋館だったことがわかる。また、近衛篤麿とその家族たちは、翌1902年(明治35)1月25日に転居してきていることも判明した。<br />　同文庫に保存されている屋敷の配置図や設計図から、現在も近衛町通りに残されている馬車廻し(車廻し)の一部は、大小ふたつあった馬車廻しのうち、東側にあった大規模な植えこみのほんの一部であったこともわかる。玄関の車寄せのすぐ前に位置していた小規模な馬車廻しは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">三宅勘一</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>の開発で消滅している。<br />　また、目白通りから現在の近衛町通りを南下すると、近衛篤麿邸の正門前にたどり着くのではなく、塀に阻まれて直進できなかった様子も判明した。突き当りの塀を左折(東折)したところに門衛のいる大きな東門(正門)があり、そこから邸内へ入ることができた。後世に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>へ建設される、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">島津良蔵アトリエ</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank" rel="noopener">三井高義アトリエ</a>)あたりが、ちょうど東門があった位置であり、その先の東側は崖地になっていた。門を入ると、片側に家令住宅が並ぶアプローチは南西に向かい、玄関前の小規模な馬車廻しをグルリとまわると、正面玄関の車寄せにたどり着けた。ちなみに、現・近衛町通りを突きあたって、塀を右折(西折)すると小さな裏門が設置されていた。<br />　陽明文庫に残されている屋敷の配置図や平面図など(1902年2月現在の作図)は、すべて上下が逆さまで上が南になるように描かれており見づらいが、棟の構成や部屋の配置がおおよそわかって興味深い。かなり規模の大きな屋敷だが、地図などで塗りつぶされていた屋敷のかたちがすべて建築物だったわけではなく、広い中庭の存在していたことがわかる。中庭には、東西南北沿いに廊下(くれ縁＝内縁だろうか)が張りめぐらされ、どの棟へ向かうにも中庭に面した廊下を通ることになる。主要な棟はおよそ4つに分かれており、4棟とも2階建てだった。<br />　独立した建物としては、母家の南側に拡がる庭園の、さらに南側のかなり離れた雑木林のなかには、2階建ての大きな蔵が2棟建てられていた。これは、母家で万が一の火災が起きた場合でも、蔵への延焼を防ぐためだと思われる。その蔵の北東側、見晴らしのいい南東側に向いた丘上には、おそらく数寄屋(茶室)とみられる建物がしつらえられている。以前の記事で、高田村高田稲荷938番地で操業していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-06.html" target="_blank" rel="noopener">薗部染工場</a>の写真をご紹介していたが、山手線越しに写る近衛邸の四阿のような丘上の建物は、位置からしてこの数寄屋ではないだろう。建築当初の配置図には掲載されていない、のちに追加で建てられた四阿のような建物ではないか。<br />　そして、もうひとつの独立した建物は、訪問客が玄関を入ってすぐに通される、また母屋からも渡り廊下づたいに入れる応接棟の1階建て西洋館だ。(冒頭側面図)　この小さな西洋館のみ、側面図と平面図の双方が残されており、屋根はスレート葺きで下見板張りの外壁だった仕様がうかがえる。建物の東側と北側にそれぞれドアがあり、玄関側と母屋側とでつながっていた。来客が応接棟へ通されると、家令がそれを居間にいる近衛家の誰かに報告しにいき、居間から直接北側のドアを通じて応接棟へわたれるような設計になっていた。<br />　庭園で目につくのは、南側の庭に設置された大燈籠だ。この大燈籠を、わたしはおそらく目にしたことがある。1903年(明治36)5月3日に撮影された、病気から恢復した近衛篤麿とその家族たちを撮影した記念写真だ。病気平癒の記念写真は、南の庭園に面した居間の縁側で撮影されたとみられ、当時、下落合に住んでいた近衛一家の全員が画面に収まっている。縁側の奥、家族たちの背後にはガラスをはめた障子が立てられており、そのガラスの一面に南側の庭園が反射で映りこんでいるのだ。その写真の左端、学習院初等科の制服を着た<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>の背後には、巨大な燈籠が映りこんでいる。その並びには、棕櫚らしい大樹や雑木林が見えているが、芝庭のすぐ先は特に手を入れたようには見えず、武蔵野の植生らしい雑木林が拡がっていたようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8E9858DE7BDAEE59BB3190202_1.jpg" alt="近衛篤麿邸配置図190202_1.jpg" width="520" height="469" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8E9858DE7BDAEE59BB3190202_2.jpg" alt="近衛篤麿邸配置図190202_2.jpg" width="520" height="466" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B81E99A8EE5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="近衛篤麿邸1階平面図.jpg" width="520" height="407" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B82E99A8EE5B9B3E99DA2E59BB3.jpg" alt="近衛篤麿邸2階平面図.jpg" width="520" height="369" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE982B8E8A5BFE6B48BE9A4A828E5BF9CE68EA5E5AEA429.jpg" alt="近衛邸西洋館(応接室).jpg" width="520" height="344" border="0" /></div><div>　庭園自体も、一面に芝が植えられた和風とも洋風ともつかない曖昧な風情をしており、その様子は近衛篤麿の死去後、1911年(明治44)の春に撮影された家族写真で見ることができる。なお、この写真にとらえられた家族たちの背後に写る建物が、居間から寝室へと通じる母家の棟で、上記の病気平癒の記念写真と同じガラス障子がとらえられている。1903年(明治36)5月の家族写真から、わずか8ヶ月後の1904年(明治37)1月に近衛篤麿は死去している。<br />　もう1枚、1903年(明治36)5月3日に撮影された、近衛篤麿が写る病気平癒の記念写真が残されている。同じカメラマンが撮影したと思われるが、今度は玄関先での記念写真だろうか。近衛一家が前面に座り、背後や両端には、家令や乳母、女中頭とみられる人々がとらえられている。写っているのは、近衛家のおもだった家令や使用人の一部で、近衛家の家族と直接言葉を交わせる人々のみで、屋敷内に暮していた全員ではないだろう。ちなみに、大勢いた女中たちは「上女中」「中女中」「下女中」に分類され、「上女中」のみが家族の近くで世話をしていた。<br />　さて、陽明文庫に残された近衛篤麿邸の図面類や、下落合への詳細な転居時期などを調べていたら興味深いことに気づいた。それは、1924年(大正13)に近衛霞山会によって編集・出版された、『近衛霞山公』(非売品)という近衛篤麿の伝記と年譜を参照していたときだ。下落合の近衛篤麿邸の竣工が、1901年(明治34)の暮れ近くであり、近衛一家が麹町にあった旧邸から下落合の新邸へ転居してきたのが、翌1902年(明治35)1月25日と規定できたのは、同書の詳細な年譜からだ。この転居の日が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-23.html" target="_blank" rel="noopener">東京同文書院</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-26.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>を併設)の開校式(1月19日)が行われた1週間後であることも判明した。以下、『近衛霞山公』年譜に記された1902年(明治35)1月項目より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　一月九日国民同盟会ハ時局ニ関スル痛切ナル意見書ヲ小村外務大臣ニ呈ス／一月十九日東京同文書院開校式ヲ行フ／<span style="color: #333399;">一月二十五日府下下落合ノ新邸ニ移ル</span>／一月国民同盟会ハ上海ノ米人協会及紐育ノ亜細亜協会ト提携シテ満洲問題ヲ解決センコトヲ約ス／清国改革事宜数篇ヲ其国当路ニ贈リテ参考ニ資ス／日英同盟ニ関シ清国大官ノ謝電ヲ領ス<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この非売品だった『近衛霞山公』は、1924年(大正13)6月に近衛霞山会から出版されたものだが、同書の奥付を見て思わず「えっ？」と目をみはってしまった。編輯兼発行者は近衛霞山会となっているが、その次に「代表者／神谷卓男」と印刷されている。<br />　下落合1328番地に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-21.html" target="_blank" rel="noopener">神谷卓男</a>のネームは、おそらく<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>の紹介記事でもっとも多く登場している人物のひとりだろう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-16.html" target="_blank" rel="noopener">河野伝</a>が設計し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank" rel="noopener">第一文化村</a>に早くから建てられていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-11.html" target="_blank" rel="noopener">神谷邸</a>に関しては、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地</a>が制作した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-04.html" target="_blank" rel="noopener">絵葉書</a>類にも必ず登場している、目白文化村を代表し象徴するような邸宅だった。その主人である神谷卓男が、生前の近衛篤麿と近しく交流しており、しかも近衛霞山会の代表だったとは、うかつにもこれまでまったく気づかなかったしだいだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E695B0E5AF84E5B18B28E88CB6E5AEA429.jpg" alt="数寄屋(茶室).jpg" width="520" height="421" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE982B8E695B7E59CB0E59B9BE998BF.jpg" alt="近衛邸敷地四阿.jpg" width="520" height="419" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E78788E7B1A0.jpg" alt="大燈籠.jpg" width="520" height="654" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE8A898E5BFB5E58699E79C9F19030503.jpg" alt="近衛篤麿記念写真19030503.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D97E5BAADE78788E7B1A0.jpg" alt="南庭燈籠.jpg" width="520" height="422" border="0" /></div><div>　神谷卓男は、1929年(昭和4)10月に死去しているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">落合町誌刊行会</a>)の「人物事業編」には掲載されておらず、またその遺族についても掲載されていなかったため、いままでうっかり気づかなかったのだろう。改めて、当時の興信録や紳士録などを参照すると、神谷卓男は京都府宮津出身で同志社を卒業すると米国へ留学し、帰国後は日本新聞の記者となって、衆議院議員(国民党)にも当選していることがわかった。以下、1928年(昭和3)に万朝報から出版された『新日本史』の別篇より、その人物像を少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　天橋義塾京都中学校等に学び同中学校三年級の時同志社に入り明治二十五年之を卒業す 二十七年米国に遊び「スタンフオード」「コロンビヤ」両大学に修め三十三年帰朝して日本新聞記者となり専ら故羯南陸実の指導を受け又先輩神鞭謝海に知遇せらる <span style="color: #333399;">次いで近衛篤麿公の秘書となり</span>又対露同志会の為めに尽瘁す 三十八年渡韓して宋秉畯等と一進会を設立し次いで韓廷に聘せられ特別任用に依つて朝鮮総督府官吏となり地方長官に歴任す 後ち之を辞して名古屋市高級助役となり大正四年衆議院議員に挙げられ国民党に属す 九年実業界に投じ東邦電力株式会社の取締役に挙げられる 後ち病を獲て之を退き今閑地に静養しつゝあり<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　1920年(大正9)に衆議院議員を辞職し実業界へ転じたのは、大正初期に(立憲)国民党の議員として党内で普通選挙の実施を主張したため、同党の党議方針に反するとして同僚の議員4名とともに除名されたからだ。第一文化村に、早くから邸宅を建てて住んだのは、東邦電力の取締役を辞任して間もない時期だったことがわかる。<br />　上記の履歴から、近衛篤麿と知己を得たのは日本新聞の記者時代で、おそらく近衛に勧誘され晩年を通じての秘書だったこともわかる。したがって、近衛篤麿に関する晩年の事蹟、特にタイムスタンプに関しては、秘書だった神谷卓男が編纂した資料類が正確なのだろう。<br />　さて、箱根土地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515159421.html" target="_blank" rel="noopener">堤康次郎</a>は目白文化村の造成で、なぜ近衛霞山会の代表をつとめる神谷卓男邸のことを引き立て、あるいは際立たせるような扱いをしたのだろうか。そこには、下落合の東部に展開していた近衛家の敷地の開発が、当然意識されていたにちがいない。神谷卓男を通じて、近衛家との太いパイプづくりを考えていたのではないか。旧・近衛篤麿邸の敷地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>の同窓だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">三宅勘一</a>に先を越されたが、近衛家の土地はいまだ下落合の東部にはかなり残されていた。堤康次郎は、そこへ以前から目をつけていた可能性が高そうだ。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank" rel="noopener">近衛新町</a>が販売されたとき、神谷卓男は東邦電力の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank" rel="noopener">松永安左衛門</a>へ買収の橋わたしをしているのではないか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B8190305.jpg" alt="近衛篤麿邸190305.jpg" width="520" height="427" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE7AFA4E9BABFE982B81911E698A5.jpg" alt="近衛篤麿邸1911春.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE794BA1944EFBC8BE8BF91E8A19BE982B81918.jpg" alt="近衛町1944＋近衛邸1918.jpg" width="520" height="425" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE99C9EE5B1B1E4BC9AE7A59EE8B0B7E58D93E794B71924.jpg" alt="近衛霞山会神谷卓男1924.jpg" width="250" height="405" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A59EE8B0B7E58D93E794B7E6B08FE982B8EFBC8FE99680E58F8AE78E84E996A2.jpg" alt="神谷卓男氏邸／門及玄関.jpg" width="260" height="405" border="0" /></div><div>　近衛篤麿邸が解体され、1922年(大正11)4月より東京地住宅による近衛町の販売がはじまるが、家族を転居させるため、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-10.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>が目白中学校の南側、すなわち下落合432～456番地へ建設して、1929年(昭和4)までのわずか7年間しか存在しなかった、暫定的な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">幻の近衛文麿邸</a>に関する敷地の建物配置や図面類も入手できた。史的資料類では、なにか大きな勘ちがいがからんでいるとみられる同邸は、昭和期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">近衛新邸</a>と同様に清水組が設計・施工しており、1922年(大正11)の秋には居住できるほど建設が進んでいたとみられる。その詳細は、また機会があれば、別の物語……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：近衛篤麿邸では唯一の西洋館で、玄関の南側に建てられていた応接棟側面図。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1902年(明治35)2月現在で作成された近衛篤麿邸および南側の建物等配置図で、南北が上下逆になっている(以下同)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同年の別バージョン配置図に玄関までの訪問経路を加えたもの。<span style="color: #3366ff;">中中</span>は、広い吹き抜けの中庭が目立つ同邸の1階平面図。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同邸の2階平面図。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、西洋建築だった応接棟の側面図と平面図。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、南側の丘上に建てられていた数寄屋(茶室)と思われる建物の平面図。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、大正初期に撮影された近衛邸の丘に写る四阿らしい建築だが、位置的にみて上記の数寄屋ではないと思われる。<span style="color: #3366ff;">中中</span>は、大燈籠のある南庭と記念写真が撮影された母家の縁側部の拡大図面。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1903年(明治36)5月3日に撮影された病気から恢復した近衛篤麿と家族たちの記念写真。右から左へ、近衛忠麿(幼児／のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-28-1.html" target="_blank" rel="noopener">水谷川忠麿</a>)と近衛貞子、近衛篤麿、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛秀麿</a>、近衛光子、近衛直麿、近衛武子、近衛文麿の順。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/511367073.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>が座る背後のガラスに映る大燈籠。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1903年(明治36)5月3日に撮影された近衛一家とおもな使用人たちとの記念写真。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、近衛篤麿の死後1911年(明治44)の春に撮影された近衛一家。背後に写るガラス障子の縁側が、8年前に近衛篤麿の病気平癒の記念写真を撮影した位置。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図と、陰影が克明な1944年(昭和19)に米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-09.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>が撮影した空中写真の近衛町とを重ね合わせたもの。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1924年(大正13)に出版された近衛霞山会『近衛霞山公』(非売品／<span style="color: #3366ff;">左</span>)奥付と、近衛霞山会の代表だった第一文化村の神谷卓男邸(箱根土地絵はがき／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　上の2図は、近衛篤麿邸の東門(正門)およびエントランスの小車廻しと玄関部(応接棟)の拡大図面。下の写真は、1916年(大正5)に撮影された暁星中学3年生の近衛直麿のスナップで玄関先か。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E99680E5B496E59CB0.jpg" alt="東門崖地.jpg" width="520" height="415" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A6ACE8BB8AE5BBBBE38197E6B48BE9A4A8.jpg" alt="馬車廻し洋館.jpg" width="520" height="417" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BB4E9BABF1916E69A81E6989FE4B8ADE5ADA6E69982E4BBA3.jpg" alt="近衛直麿1916暁星中学時代.jpg" width="520" height="695" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519910492.html</link>
      <title>下落合を描いた画家たち・江藤純平。(2)</title>
      <pubDate>Fri, 01 May 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　昨年の暮れから、悩ましい画面をにらみつづけている。東京美術学校で佐伯祐三の同級生だった、江藤純平が描く『落合風景』だ。(冒頭写真)　下落合のどこを描いたのか、描かれた地形と宅地造成の様子、そして住宅のモチーフや彼の人間関係からピンときてすぐにわかったが、この作品が描かれたとされている年代と1年半ほど合わないのだ。　同作は1923年(大正12)に描かれたとされているが、どう考えても少し年代が早すぎる。描かれた風景から、翌1924年(大正13)の暮れあたり、あるいは1925年(..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E3808CE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D1923.jpg" alt="&#x6C5F;&#x85E4;&#x7D14;&#x5E73;&#x300C;&#x843D;&#x5408;&#x98A8;&#x666F;&#x300D;1923.jpg" width="600" height="466" border="0" />　昨年の暮れから、悩ましい画面をにらみつづけている。東京美術学校で<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank">佐伯祐三</a>の同級生だった、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-20.html" target="_blank">江藤純平</a>が描く『落合風景』だ。(冒頭写真)　下落合のどこを描いたのか、描かれた地形と宅地造成の様子、そして住宅のモチーフや彼の人間関係からピンときてすぐにわかったが、この作品が描かれたとされている年代と1年半ほど合わないのだ。　同作は1923年(大正12)に描かれたとされているが、どう考えても少し年代が早すぎる。描かれた風景から、翌1924年(大正13)の暮れあたり、あるいは1925年(大正14)の初春にかけてといわれれば、ストンと腑に落ちる下落合に見られた南斜面の光景だ。1923年(大正12)という年紀は、キャンバスの裏にでも記載されていたものだろうか？　結論からいえば、1923年(大正12)の時点に下落合(現・中落合／中井含む)の西部で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank">三宅勘一</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank">画家たち</a>による、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-10.html" target="_blank">アビラ村(芸術村)</a>の開発はスタートしたばかりであり、画面右手に見えるひな壇状の大谷石による擁壁が構築されていたかどうかは不明だ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-17.html" target="_blank">金山平三</a>は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-23.html" target="_blank">らく夫人</a>の貯金をつかい同年初めごろに入手した(不動産取得税に関する同年2月6日の金山ハガキが現存)、下落合2080番地のアトリエ建設予定地(150坪)の石垣が崩れていないかを確認しているので、少なくとも1923年(大正13)9月の時点では、大谷石の擁壁はあったとみられる。だが、もちろん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-02.html" target="_blank">金山平三アトリエ</a>はいまだ存在しない。　ただし、画面の左手枠外には、1922年(大正11)に建設された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-31.html" target="_blank">島津源吉邸</a>の大きな洋館和館を併せた屋敷がすでに建っていたはずで、その敷地内である庭先の植木などが手入れされていた様子が見てとれる。このアビラ村の南斜面について、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-07.html" target="_blank">金山平三</a>本人や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-31.html" target="_blank">らく夫人</a>に取材した書籍がある。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。　　▼　このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。／アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ：蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。／一方丘の上は一面の麦畑で、空気も澄み、遠く西空には富士の秀嶺が雲上手に取り得る如く聳えて見えた。西武電車は未だ通らず、一々徒歩で省線東中野駅まで歩かねばならなかったが、それだけ静寂清澄な好住宅地であった。(カッコ内引用者註)　　▲　金山平三は、1923年(大正12)の初めごろアトリエ用地を購入していたが、その両隣りの敷地は上記にも登場している<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-17.html" target="_blank">満谷国四郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-30.html" target="_blank">南薫造</a>が購入しており、隣人同士になるはずだった。また、新海竹太郎と息子の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-11.html" target="_blank">新海覚雄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-07.html" target="_blank">永地秀太</a>はその後もアトリエに住みつづけているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-21.html" target="_blank">落合地域</a>やその周辺の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-05.html" target="_blank">風景画</a>を多く描いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-12.html" target="_blank">三宅克己</a>が、下落合へ転居してくることはついぞなかった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E68F8FE794BBE3839DE382A4E383B3E383881935E9A083.jpg" alt="&#x6C5F;&#x85E4;&#x7D14;&#x5E73;&#x63CF;&#x753B;&#x30DD;&#x30A4;&#x30F3;&#x30C8;1935&#x9803;.jpg" width="520" height="411" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A81947.jpg" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;1947.jpg" width="520" height="482" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A81948.jpg" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x5E73;&#x4E09;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;1948.jpg" width="520" height="389" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A8201211.JPG" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x5E73;&#x4E09;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;201211.JPG" width="520" height="390" border="0" />　さて、冒頭の『落合風景』を制作した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-05.html" target="_blank">江藤純平</a>だが、東京美術学校を卒業すると同級生だった石川吉次郎、佐々木慶太郎、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-05.html" target="_blank">深沢省三</a>、藤彦衛、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515624903.html" target="_blank">山田新一</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-02.html" target="_blank">佐伯祐三</a>らとともに画会<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-16.html" target="_blank">「薔薇門社」</a>を結成し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-20.html" target="_blank">神田文房堂</a>で展覧会を開いている。佐伯祐三は、1921年(大正10)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-06.html" target="_blank">下落合661番地</a>へアトリエを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-11.html" target="_blank">建設</a>したあと、関東大震災の直後からフランスに向けて旅立った。一方、江藤純平は1924年(大正13)、下落合1599番地に建設が進んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank">落合第三府営住宅</a>の24号邸が竣工するとともに、同年か少しあとに下落合へ転居してきている。換言すれば、江藤純平が『落合風景』を描いたのが、規定されているとおり1923年(大正12)だとすれば、彼は下落合にアトリエをかまえない時期に、わざわざ同地へやってきて同作を描いていることになってしまう。　つまり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-24.html" target="_blank">金山平三アトリエ</a>の竣工時期ともからめ、江藤純平の『落合風景』はもう少し時期があとではないかと推定してしまうゆえんだ。江藤純平は、落合第三府営住宅24号に1927年(昭和2)まで住んだあと、同じく下落合584番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-05.html" target="_blank">二瓶等アトリエ</a>へと転居している。中国に滞在中の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-30.html" target="_blank">二瓶等</a>が不在のため、茅ヶ崎の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-14.html" target="_blank">萬鉄五郎</a>が借りる予定になっていたが、萬が急死したせいで江藤純平が借りたと思われる。彼はここに4年間住んだあと、1931年(昭和6)から武蔵野町吉祥寺野田南1835番地の１へと転居している。ちなみに、江藤純平が転居後の空いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-21.html" target="_blank">二瓶等</a>のアトリエは、1932年(昭和7)ごろより手島貢が借りてアトリエにしていた。　改めて、江藤純平の『落合風景』を細かく観察してみよう。2012年(平成24)以前の下落合風景をある程度ご存じの方なら、制作年の課題はとりあえず別にしても、画面を観たとたんに「たぶんあそこだ」と、すぐに見当をつけられたのではないだろうか。太陽の光は画家の左手背後あたりから射しており、その方角が南またはそれに近い方角だとすると、ここに見えている斜面は目白崖線がつづく下落合の南斜面ということになる。そして、手前には谷間が見えており、画家がイーゼルを立てている位置もまた、手前の丘の北向き斜面であることがわかる。　下落合の南斜面を眺めると、ひな壇状の擁壁が見えており宅地造成は終わっているようだが、建てられている住宅はかなり少ない。大正後期ともなれば、このような風景は下落合東部にはすでに見られず、この情景は必然的に下落合の中部または西部だろうと想定できる。そしてなによりも、画面中央からやや右上に描かれている赤い屋根の西洋館の存在だ。大正期の建築で主棟が東西を向き、二重の切妻をもつ赤い屋根の西洋館は、戦前の空中写真、また下落合西部は空襲をまぬがれている住宅街が多いので、戦後の空中写真を参照すると、丘上のこのような位置にはたった1軒しか見つけることができない。アビラ村にいち早く建設された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-22.html" target="_blank">金山平三</a>アトリエだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACAC1E59B9EE7ACACE4B880E7BE8EE8A193E5B1951929.jpg" alt="&#x7B2C;1&#x56DE;&#x7B2C;&#x4E00;&#x7F8E;&#x8853;&#x5C55;1929.jpg" width="520" height="519" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACACE4B880E7BE8EE8A193E58D94E4BC9AE5B1951932.jpg" alt="&#x7B2C;&#x4E00;&#x7F8E;&#x8853;&#x5354;&#x4F1A;&#x5C55;1932.jpg" width="520" height="385" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A392E78CBFE5BAA71930E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A8.jpg" alt="&#x68D2;&#x733F;&#x5EA7;1930&#x91D1;&#x5C71;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;.jpg" width="520" height="361" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E68F8FE794BBE3839DE382A4E383B3E383881936.jpg" alt="&#x6C5F;&#x85E4;&#x7D14;&#x5E73;&#x63CF;&#x753B;&#x30DD;&#x30A4;&#x30F3;&#x30C8;1936.jpg" width="520" height="564" border="0" />　手前の谷底には、当時は蛇行する小川のような<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-17.html" target="_blank">妙正寺川</a>が流れており、その両岸には水田が拡がっていた。ただし、樹木が落葉しているようなので、冬に近い季節に描かれているとみられ、田に水は引かれてなかったろう。手前に見えている藁葺きの小屋は、近くの農民の農具小屋だろうか。金山アトリエの左手、丘上まで樹木の繁っているのが三ノ坂であり、そのさらに左手に見えるひな壇状に整地された敷地が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-30.html" target="_blank">島津源吉邸</a>の広い庭先となる。アビラ村を開発していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank">東京土地住宅</a>が、1925年(大正14)に経営破綻を起こしたあと、その計画を受け継ぐように島津家がこの斜面を利用して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-20.html" target="_blank">「阿比良村」</a>計画を推進しており、その分譲地割図が現存している。　金山アトリエの右手には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank">蘭塔坂(二ノ坂)</a>が通っており、坂の西側には住宅が建ちはじめている様子が見てとれる。また、金山アトリエの北東側には、1931年(昭和6)になると小石川区水道端から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-02.html" target="_blank">大日本獅子吼会</a>が移転してきて、本堂の大屋根が建てられることになるが、同寺の建設予定地は雑木林が拡がっているだけだ。そして、画家がイーゼルを立てている手前の北向き斜面は、もちろん上落合の崖地(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-17.html" target="_blank">バッケ</a>)上だ。金山アトリエや三ノ坂の見え方から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-13.html" target="_blank">最勝寺</a>墓地の西側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-14.html" target="_blank">美仲橋</a>の道筋にあたる丘の急斜面から、北北東の方角を向いて制作している。　画面の中にポイントとして描かれている、金山アトリエについて前掲書より引用してみよう。　　▼　建坪延べ五十余坪のアトリエ付二階建で、総額一万四千円を費して大正十三年九月着工、翌十四年春竣工、四月に引き移ることが出来た。一万といえば当時としては大金であるが、平三はそれを彼の絵の深い理解者である四人の篤志家によって調達することが出来た。　　▲　この文章にあるとおり、金山平三アトリエは1925年(大正14)の3月末ごろに竣工している。あるいは、描かれているのが庭木も塀もまだ設置されていない建設工事中としても、冬枯れからして前年1924年(大正13)の暮れぐらいだろうか。だとすれば、江藤純平が下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513436670.html" target="_blank">落合府営住宅</a>へ転居してきた時期と、そのまま一致することになる。　帝展の画家である江藤純平は、大先輩の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-29.html" target="_blank">金山平三</a>とは親しく、金山アトリエで毎年開催される各種パーティには必ず出席していた。したがって、彼が金山平三のいる蘭塔坂(二ノ坂)上の金山アトリエを描いたとしても、なんら不自然さを感じない。また、彼は同じく帝展画家の先輩で、下落合734番地に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-06.html" target="_blank">片多徳郎</a>とも親しく、1929年(昭和4)には第一美術協会を結成している。江藤純平は、彼と同級生の画家たちよりも、むしろ美校の先輩画家たちと親しくしていたようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A81963.jpg" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;1963.jpg" width="520" height="391" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A82.JPG" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x5E73;&#x4E09;&#x30A2;&#x30C8;&#x30EA;&#x30A8;2.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B31984.jpg" alt="&#x6C5F;&#x85E4;&#x7D14;&#x5E73;1984.jpg" width="255" height="390" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E699A9E5B9B4_color.jpg" alt="&#x91D1;&#x5C71;&#x5E73;&#x4E09;&#x6669;&#x5E74;_color.jpg" width="255" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E9A2A8E699AFE694B9E9A18C.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x98A8;&#x666F;&#x6539;&#x984C;.jpg" width="520" height="404" border="0" />　江藤純平と、彼が下落合に住んだ時期の人間関係などを考慮すると、『落合風景』に描かれた赤い屋根の西洋館は、当時の付近に展開していた風景や地形ともども、金山平三アトリエ以外に考えづらい。1923年(大正12)とされる同作だが、1年半～2年ほどあとの作品ではないか。画家が立って遠望しているのは、美仲橋をわたり南の丘を上った上落合800番地界隈の急斜面だと思われる。
◆写真上：1923年(大正12)の制作とされる、江藤純平『落合風景』だが疑問が残る。◆写真中上：上は、1935年(昭和10)ごろ撮影の空中写真にみる描画ポイント。中上は、戦後1947年(昭和22)撮影の描画ポイント。中下は、1948年(昭和23)撮影の金山アトリエとその周辺。下は、2012年(平成24)11月に撮影した解体寸前の金山アトリエ。◆写真中下：上は、1929年(昭和4)に撮影された第1回第一美術展の記念写真で江藤純平とともに和服姿の片多徳郎が写る。中上は、1932年(昭和7)に撮影された第一美術協会展会場の江藤純平。中下は、1930年(昭和5)に金山平三アトリエで開かれた第5回「棒猿(ボーザール)座」パーティ記念写真の江藤純平。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-04.html" target="_blank">金山平三</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519787673.html" target="_blank">大久保作次郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-27.html" target="_blank">柚木久太</a>など画家たちに混じり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-04.html" target="_blank">大佛次郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-21.html" target="_blank">水谷八重子</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-03.html" target="_blank">花柳章太郎</a>、岸輝子らの顔が見える。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる下落合西部のアビラ村(芸術村)の金山アトリエと描画ポイント。◆写真下：上は、金山平三が死去する前年の1963年(昭和38)に撮影された金山アトリエ。中上は、北東側から眺めた金山アトリエ。中下は、1984年(昭和59)に撮影された晩年の江藤純平(左)と、モチーフとなる風景を探す金山平三(AI着色／右)。下は、『落合風景』にとらえられたもの。<a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E3808CE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D1923.jpg" alt="江藤純平「落合風景」1923.jpg" width="600" height="466" border="0" /></div><div>　昨年の暮れから、悩ましい画面をにらみつづけている。東京美術学校で<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>の同級生だった、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-20.html" target="_blank" rel="noopener">江藤純平</a>が描く『落合風景』だ。(冒頭写真)　下落合のどこを描いたのか、描かれた地形と宅地造成の様子、そして住宅のモチーフや彼の人間関係からピンときてすぐにわかったが、この作品が描かれたとされている年代と1年半ほど合わないのだ。<br />　同作は1923年(大正12)に描かれたとされているが、どう考えても少し年代が早すぎる。描かれた風景から、翌1924年(大正13)の暮れあたり、あるいは1925年(大正14)の初春にかけてといわれれば、ストンと腑に落ちる下落合に見られた南斜面の光景だ。1923年(大正12)という年紀は、キャンバスの裏にでも記載されていたものだろうか？<br />　結論からいえば、1923年(大正12)の時点に下落合(現・中落合／中井含む)の西部で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">三宅勘一</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">画家たち</a>による、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村(芸術村)</a>の開発はスタートしたばかりであり、画面右手に見えるひな壇状の大谷石による擁壁が構築されていたかどうかは不明だ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-23.html" target="_blank" rel="noopener">らく夫人</a>の貯金をつかい同年初めごろに入手した(不動産取得税に関する同年2月6日の金山ハガキが現存)、下落合2080番地のアトリエ建設予定地(150坪)の石垣が崩れていないかを確認しているので、少なくとも1923年(大正13)9月の時点では、大谷石の擁壁はあったとみられる。だが、もちろん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三アトリエ</a>はいまだ存在しない。<br />　ただし、画面の左手枠外には、1922年(大正11)に建設された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-31.html" target="_blank" rel="noopener">島津源吉邸</a>の大きな洋館和館を併せた屋敷がすでに建っていたはずで、その敷地内である庭先の植木などが手入れされていた様子が見てとれる。このアビラ村の南斜面について、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-07.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>本人や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-31.html" target="_blank" rel="noopener">らく夫人</a>に取材した書籍がある。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　このアヴィラ村だが、高い丘は南面して日当りがよく、下は全く樹海を見るようで環境が至極よろしかった。左様なわけで、おのずから芸術家憧憬の地となり、分譲の話が伝えられると先を争って買い求めた。ここにアトリエを建てたものに、先生(金山平三)や永地秀太、彫刻の新海竹太郎らがあり、土地を求めたのみの人に満谷(国四郎)、南(薫造)、三宅克己らがあった。／アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ：蘭塔坂)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。／一方丘の上は一面の麦畑で、空気も澄み、遠く西空には富士の秀嶺が雲上手に取り得る如く聳えて見えた。西武電車は未だ通らず、一々徒歩で省線東中野駅まで歩かねばならなかったが、それだけ静寂清澄な好住宅地であった。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　金山平三は、1923年(大正12)の初めごろアトリエ用地を購入していたが、その両隣りの敷地は上記にも登場している<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">満谷国四郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-30.html" target="_blank" rel="noopener">南薫造</a>が購入しており、隣人同士になるはずだった。また、新海竹太郎と息子の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-11.html" target="_blank" rel="noopener">新海覚雄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-07.html" target="_blank" rel="noopener">永地秀太</a>はその後もアトリエに住みつづけているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-21.html" target="_blank" rel="noopener">落合地域</a>やその周辺の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-05.html" target="_blank" rel="noopener">風景画</a>を多く描いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">三宅克己</a>が、下落合へ転居してくることはついぞなかった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E68F8FE794BBE3839DE382A4E383B3E383881935E9A083.jpg" alt="江藤純平描画ポイント1935頃.jpg" width="520" height="411" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A81947.jpg" alt="金山アトリエ1947.jpg" width="520" height="482" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A81948.jpg" alt="金山平三アトリエ1948.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A8201211.JPG" alt="金山平三アトリエ201211.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　さて、冒頭の『落合風景』を制作した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-05.html" target="_blank" rel="noopener">江藤純平</a>だが、東京美術学校を卒業すると同級生だった石川吉次郎、佐々木慶太郎、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-05.html" target="_blank" rel="noopener">深沢省三</a>、藤彦衛、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515624903.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-02.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>らとともに画会<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-16.html" target="_blank" rel="noopener">「薔薇門社」</a>を結成し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">神田文房堂</a>で展覧会を開いている。佐伯祐三は、1921年(大正10)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-06.html" target="_blank" rel="noopener">下落合661番地</a>へアトリエを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-11.html" target="_blank" rel="noopener">建設</a>したあと、関東大震災の直後からフランスに向けて旅立った。一方、江藤純平は1924年(大正13)、下落合1599番地に建設が進んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">落合第三府営住宅</a>の24号邸が竣工するとともに、同年か少しあとに下落合へ転居してきている。換言すれば、江藤純平が『落合風景』を描いたのが、規定されているとおり1923年(大正12)だとすれば、彼は下落合にアトリエをかまえない時期に、わざわざ同地へやってきて同作を描いていることになってしまう。<br />　つまり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-24.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三アトリエ</a>の竣工時期ともからめ、江藤純平の『落合風景』はもう少し時期があとではないかと推定してしまうゆえんだ。江藤純平は、落合第三府営住宅24号に1927年(昭和2)まで住んだあと、同じく下落合584番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">二瓶等アトリエ</a>へと転居している。中国に滞在中の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-30.html" target="_blank" rel="noopener">二瓶等</a>が不在のため、茅ヶ崎の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">萬鉄五郎</a>が借りる予定になっていたが、萬が急死したせいで江藤純平が借りたと思われる。彼はここに4年間住んだあと、1931年(昭和6)から武蔵野町吉祥寺野田南1835番地の１へと転居している。ちなみに、江藤純平が転居後の空いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-21.html" target="_blank" rel="noopener">二瓶等</a>のアトリエは、1932年(昭和7)ごろより手島貢が借りてアトリエにしていた。<br />　改めて、江藤純平の『落合風景』を細かく観察してみよう。2012年(平成24)以前の下落合風景をある程度ご存じの方なら、制作年の課題はとりあえず別にしても、画面を観たとたんに「たぶんあそこだ」と、すぐに見当をつけられたのではないだろうか。太陽の光は画家の左手背後あたりから射しており、その方角が南またはそれに近い方角だとすると、ここに見えている斜面は目白崖線がつづく下落合の南斜面ということになる。そして、手前には谷間が見えており、画家がイーゼルを立てている位置もまた、手前の丘の北向き斜面であることがわかる。<br />　下落合の南斜面を眺めると、ひな壇状の擁壁が見えており宅地造成は終わっているようだが、建てられている住宅はかなり少ない。大正後期ともなれば、このような風景は下落合東部にはすでに見られず、この情景は必然的に下落合の中部または西部だろうと想定できる。そしてなによりも、画面中央からやや右上に描かれている赤い屋根の西洋館の存在だ。大正期の建築で主棟が東西を向き、二重の切妻をもつ赤い屋根の西洋館は、戦前の空中写真、また下落合西部は空襲をまぬがれている住宅街が多いので、戦後の空中写真を参照すると、丘上のこのような位置にはたった1軒しか見つけることができない。アビラ村にいち早く建設された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-22.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>アトリエだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACAC1E59B9EE7ACACE4B880E7BE8EE8A193E5B1951929.jpg" alt="第1回第一美術展1929.jpg" width="520" height="519" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACACE4B880E7BE8EE8A193E58D94E4BC9AE5B1951932.jpg" alt="第一美術協会展1932.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A392E78CBFE5BAA71930E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A8.jpg" alt="棒猿座1930金山アトリエ.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B3E68F8FE794BBE3839DE382A4E383B3E383881936.jpg" alt="江藤純平描画ポイント1936.jpg" width="520" height="564" border="0" /></div><div>　手前の谷底には、当時は蛇行する小川のような<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-17.html" target="_blank" rel="noopener">妙正寺川</a>が流れており、その両岸には水田が拡がっていた。ただし、樹木が落葉しているようなので、冬に近い季節に描かれているとみられ、田に水は引かれてなかったろう。手前に見えている藁葺きの小屋は、近くの農民の農具小屋だろうか。金山アトリエの左手、丘上まで樹木の繁っているのが三ノ坂であり、そのさらに左手に見えるひな壇状に整地された敷地が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-30.html" target="_blank" rel="noopener">島津源吉邸</a>の広い庭先となる。アビラ村を開発していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>が、1925年(大正14)に経営破綻を起こしたあと、その計画を受け継ぐように島津家がこの斜面を利用して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">「阿比良村」</a>計画を推進しており、その分譲地割図が現存している。<br />　金山アトリエの右手には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">蘭塔坂(二ノ坂)</a>が通っており、坂の西側には住宅が建ちはじめている様子が見てとれる。また、金山アトリエの北東側には、1931年(昭和6)になると小石川区水道端から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">大日本獅子吼会</a>が移転してきて、本堂の大屋根が建てられることになるが、同寺の建設予定地は雑木林が拡がっているだけだ。そして、画家がイーゼルを立てている手前の北向き斜面は、もちろん上落合の崖地(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-17.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ</a>)上だ。金山アトリエや三ノ坂の見え方から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-13.html" target="_blank" rel="noopener">最勝寺</a>墓地の西側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-14.html" target="_blank" rel="noopener">美仲橋</a>の道筋にあたる丘の急斜面から、北北東の方角を向いて制作している。<br />　画面の中にポイントとして描かれている、金山アトリエについて前掲書より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　建坪延べ五十余坪のアトリエ付二階建で、総額一万四千円を費して大正十三年九月着工、翌十四年春竣工、四月に引き移ることが出来た。一万といえば当時としては大金であるが、平三はそれを彼の絵の深い理解者である四人の篤志家によって調達することが出来た。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この文章にあるとおり、金山平三アトリエは1925年(大正14)の3月末ごろに竣工している。あるいは、描かれているのが庭木も塀もまだ設置されていない建設工事中としても、冬枯れからして前年1924年(大正13)の暮れぐらいだろうか。だとすれば、江藤純平が下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513436670.html" target="_blank" rel="noopener">落合府営住宅</a>へ転居してきた時期と、そのまま一致することになる。<br />　帝展の画家である江藤純平は、大先輩の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-29.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>とは親しく、金山アトリエで毎年開催される各種パーティには必ず出席していた。したがって、彼が金山平三のいる蘭塔坂(二ノ坂)上の金山アトリエを描いたとしても、なんら不自然さを感じない。また、彼は同じく帝展画家の先輩で、下落合734番地に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-06.html" target="_blank" rel="noopener">片多徳郎</a>とも親しく、1929年(昭和4)には第一美術協会を結成している。江藤純平は、彼と同級生の画家たちよりも、むしろ美校の先輩画家たちと親しくしていたようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E382A2E38388E383AAE382A81963.jpg" alt="金山アトリエ1963.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E382A2E38388E383AAE382A82.JPG" alt="金山平三アトリエ2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE897A4E7B494E5B9B31984.jpg" alt="江藤純平1984.jpg" width="255" height="390" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98791E5B1B1E5B9B3E4B889E699A9E5B9B4_color.jpg" alt="金山平三晩年_color.jpg" width="255" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E9A2A8E699AFE694B9E9A18C.jpg" alt="落合風景改題.jpg" width="520" height="404" border="0" /></div><div>　江藤純平と、彼が下落合に住んだ時期の人間関係などを考慮すると、『落合風景』に描かれた赤い屋根の西洋館は、当時の付近に展開していた風景や地形ともども、金山平三アトリエ以外に考えづらい。1923年(大正12)とされる同作だが、1年半～2年ほどあとの作品ではないか。画家が立って遠望しているのは、美仲橋をわたり南の丘を上った上落合800番地界隈の急斜面だと思われる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1923年(大正12)の制作とされる、江藤純平『落合風景』だが疑問が残る。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1935年(昭和10)ごろ撮影の空中写真にみる描画ポイント。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、戦後1947年(昭和22)撮影の描画ポイント。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1948年(昭和23)撮影の金山アトリエとその周辺。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、2012年(平成24)11月に撮影した解体寸前の金山アトリエ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1929年(昭和4)に撮影された第1回第一美術展の記念写真で江藤純平とともに和服姿の片多徳郎が写る。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1932年(昭和7)に撮影された第一美術協会展会場の江藤純平。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1930年(昭和5)に金山平三アトリエで開かれた第5回「棒猿(ボーザール)座」パーティ記念写真の江藤純平。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-04.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519787673.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">柚木久太</a>など画家たちに混じり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-04.html" target="_blank" rel="noopener">大佛次郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-21.html" target="_blank" rel="noopener">水谷八重子</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-03.html" target="_blank" rel="noopener">花柳章太郎</a>、岸輝子らの顔が見える。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる下落合西部のアビラ村(芸術村)の金山アトリエと描画ポイント。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、金山平三が死去する前年の1963年(昭和38)に撮影された金山アトリエ。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、北東側から眺めた金山アトリエ。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1984年(昭和59)に撮影された晩年の江藤純平(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、モチーフとなる風景を探す金山平三(AI着色／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、『落合風景』にとらえられたもの。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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