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    <title>落合学（落合道人）</title>
    <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/</link>
    <description>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</description>
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    <itunes:summary>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。 主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。 コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</itunes:summary>
    <itunes:keywords>下落合,目白,上落合,長崎町,佐伯祐三,中村彝,画家,文学,作家,小説家,芸術,椎名町,目白文化村,落合文化村,近衛町,新宿,目白通り,芸術村,中井,西落合,高田馬場,神田川,妙正寺川,大江戸,文化,地域,歴史,落合文士村,アトリエ,アビラ村,山手,下町,江戸前,彫刻,武蔵野,目白崖線,谷戸,近代建築,文化住宅,西洋館,和洋折衷自由宅,アビラ村,古墳,日本橋,東日本橋,芝居</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>落合道人</itunes:author>
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      <title>江戸期からの紙漉きがつづいた落合地域。</title>
      <pubDate>Tue, 06 Oct 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　落合地域へ江戸川沿いから移転してきた工房は、おもに染物業や製氷業だったことは、すでにいくつかの記事に書いてきた。この場合の江戸川は、旧・神田上水の分岐である大洗堰から千代田城の外濠へと流れこむ、舩河原橋までの神田川流域(1966年より神田川)のことで、川の水質や湧水、地下水などが清冽だったことから発達した産業だった。　ところが、落合地域には染物業や製氷業、製薬業などよりもはるか以前、明治期から下流の江戸川沿いから移転してきた紙漉き工房群が存在していた。製紙業、すなわち江戸期..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818D.jpg" alt="&#x7D19;&#x6F09;&#x304D;.jpg" width="600" height="400" border="0" />　落合地域へ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank">江戸川</a>沿いから移転してきた工房は、おもに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515347500.html" target="_blank">染物業</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521376689.html" target="_blank">製氷業</a>だったことは、すでにいくつかの記事に書いてきた。この場合の江戸川は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-09.html" target="_blank">旧・神田上水</a>の分岐である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-01-30.html" target="_blank">大洗堰</a>から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank">千代田城</a>の外濠へと流れこむ、舩河原橋までの神田川流域(1966年より神田川)のことで、川の水質や湧水、地下水などが清冽だったことから発達した産業だった。　ところが、落合地域には染物業や製氷業、製薬業などよりもはるか以前、明治期から下流の江戸川沿いから移転してきた紙漉き工房群が存在していた。製紙業、すなわち江戸期からつづく用語でいえば、和紙を製造する家内制手工業の「紙漉き屋」だ。ご存じかもしれないが、紙漉きも良質な水が不可欠な仕事であり、江戸期から水質に優れた地域で紙漉き業が発達してきた。江戸初期では、和紙製造で有名な田園地帯の浅草が有名だったが、江戸後期になるとより良質な湧水や地下水などを求めて、河川の上流域へと移動している。　江戸初期の紙漉き業について、1944年(昭和19)に冨山房から出版された関義城『江戸東京紙漉史考』では、延宝年間の岩井守義『浅草地名考』などを引用しながら、次のように解説している。　　▼　岩井守義述【浅草地名考】中、浅草名物の項に、「連俳武蔵野、寛文四年印本。浅草木綿、同紙、籠耳、貞享四年印本芥子主人蔵」との記述が有る。／延宝四年新版及び天和三年正月版、竝に貞享年間の【江戸絵図】【江戸大絵図】に拠れば、浅草田原町一丁目に続き南の方に「カミスキ町」なる町名が記載せられてゐるのを見る。／貞享四年に刊行された藤田理兵衛の【江戸鹿子】には、／浅草駒形より西筋、東は駒形、西は寺丁まで、三軒町二丁、田原町三丁、紙すき町、茶や町二丁／と有り、又「すきかゑし紙や」として「浅草門跡前、同所はしば」の二個所を記してゐる。／故に寛文、延宝、貞享年代には、已に浅草名物として、製紙業の存在した事が、此等の記録により證明せられ、且つそれが江戸最初の紙漉場所であつた事も判然するやうである。　　▲　関義城は、「江戸最初の紙漉場所」と書いているが、室町時代にも当然ながら紙の需要はあっただろうから、1400年代に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517240276.html" target="_blank">太田道灌</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521350993.html" target="_blank">江戸城</a>を築造して、国内でも最大規模の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank">城下町</a>となっていた時点で、江戸の街にはすでに紙漉き屋が開業していたと考えたほうが自然だろう。それは、江戸湊に集積された物資のうち、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html" target="_blank">目白(鋼)</a>など金属類の多さから、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank">刀鍛冶</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-26.html" target="_blank">野鍛冶</a>(道具鍛冶)、金工師たちが集合していたと想定されているのと同様だ。ただし、室町期の和紙の名産地が、浅草とその周辺域だったかどうかまではいまだ不明だ。　ちょっと余談だが、葛西で収穫した天然海苔や、品川沖で採れた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank">養殖海苔</a>を乾燥させて和紙のように延ばしたものを、江戸初期からの一般名称として「浅草海苔」と呼んでいる。もちろん、浅草地域で製造される浅草和紙を模した工法をヒントに、海苔を長期保存ができる製品として江戸の海苔屋(おもに品川地域)が発明・販売したからで、現代でも海苔の産地を問わず、紙のように乾燥させた海苔の名称は「浅草海苔」と呼ぶのが正しい。よく「韓国海苔」という呼称を聞くが、正確には韓国産の海苔を「浅草海苔」風にしたバリエーション製品だろう。　さて、江戸川(神田川の一部流域)の周辺にあった紙漉き工房が、よりきれいな水質を求めて上流の高田村や落合村、長崎村へと移転してきたのは、明治期に入りしばらくしてからのことだ。江戸川沿いは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-11.html" target="_blank">桜の名所</a>であり、その水質や湧水、地下水の清冽さから、名物だったうなぎ料理の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-17.html" target="_blank">生け簀</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank">染物業</a>が盛んだったが、水質にことさら敏感な紙漉き工房から郊外への移転がスタートしている。すなわち、のちに染物工房が移転するのと同じ理由で、江戸川沿いの市街地化が進むにつれ徐々に水質の汚濁が進み、明治期には紙漉き用の水としては適さなくなりつつあったからだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E996A2E7BEA9E59F8EE3808CE6B19FE688B8E69DB1E4BAACE7B499E6BC89E58FB2E88083E3808D1944E586A8E5B1B1E688BF.jpg" alt="&#x95A2;&#x7FA9;&#x57CE;&#x300C;&#x6C5F;&#x6238;&#x6771;&#x4EAC;&#x7D19;&#x6F09;&#x53F2;&#x8003;&#x300D;1944&#x51A8;&#x5C71;&#x623F;.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B29EE7A780E3808CE9A2A8E6B581E881B7E4BABAE5B0BDE7B499E6BC89E3808D28E69687E58C96-E5A4A9E4BF9D29.jpg" alt="&#x8C9E;&#x79C0;&#x300C;&#x98A8;&#x6D41;&#x8077;&#x4EBA;&#x5C3D;&#x7D19;&#x6F09;&#x300D;(&#x6587;&#x5316;-&#x5929;&#x4FDD;).jpg" width="255" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E88FB1E5B79DE5B8ABE5AEA3E3808CE881B7E4BABAE5B0BDE580ADE794BBE3808DE586991856.jpg" alt="&#x83F1;&#x5DDD;&#x5E2B;&#x5BA3;&#x300C;&#x8077;&#x4EBA;&#x5C3D;&#x502D;&#x753B;&#x300D;&#x5199;1856.jpg" width="520" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E88FB1E5B79DE5B8ABE5AEA3E3808CE881B7E4BABAE5B0BDE580ADE794BBE3808D2E586991856.jpg" alt="&#x83F1;&#x5DDD;&#x5E2B;&#x5BA3;&#x300C;&#x8077;&#x4EBA;&#x5C3D;&#x502D;&#x753B;&#x300D;2&#x5199;1856.jpg" width="520" height="411" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E58E9FE794BA28E7B499E6BC89E794BA29.jpg" alt="&#x7530;&#x539F;&#x753A;(&#x7D19;&#x6F09;&#x753A;).jpg" width="520" height="421" border="0" />　紙漉き工房が東京郊外へ移転するにつれ、業界全体を束ねる同業組合の必要性が生じてきた。大正時代に入るとその動きが活発化して、1920年(大正9)には東京府産紙同業組合が発足している。その様子を、『江戸東京紙漉史考』に収録された、同組合の「沿革」から引用してみよう。　　▼　東京府産紙同業組合は、東京府北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、及東京市小石川区の四郡壱区内に於ける手漉製紙業者を以て組織し、大正九年十二月二十七日附農商務大臣より設置を認可せらる。現組合員は百十五名にして、大正九年中、其全産額は実に金百弐拾萬円に達し、益々業務の改良発達を企画しつゝあり。(中略)　製品の主要原料は三椏(ミツマタ)を使用し、一般和紙特に江戸川巻紙、同封筒、同辞令用紙等、優良手漉和紙を抄造せり。(カッコ内引用者註)　　▲　この沿革文でもわかるように、組合員は家内制手工業者すなわち手漉きの製紙業者(和紙製造)がメインの組合で、機械化された工場の経営者は含まれていない。また、ほとんどの紙漉き業者が東京郊外の郡部で操業していたが、唯一東京市内の小石川区(現・文京区の一部)のみが残っているのは、江戸期からつづく江戸川(神田川)の地域が含まれているからだ。　では、東京府産紙同業組合に登録された、落合地域の紙漉き工房を見ていこう。もっとも多くの業者が集まっていたのは、下落合でも上落合でもなく、当時は落合村葛ヶ谷と呼ばれ宅地開発の手が及んでいなかった、田園地帯の西落合地域だ。このリストを見ると、同業者同士が同じ番地、あるいは近隣に集まって操業していたのがわかる。これは、同業者が資金を出しあって設置した井戸や湧水口の水を、共同で利用していたからだとみられる。以下、落合村葛ヶ谷で操業していた手漉き製紙業者は、1920年(大正9)の時点で18工房を数えることができる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE688B8E5B79DE5B7BBE7B499.jpeg" alt="&#x6C5F;&#x6238;&#x5DDD;&#x5DFB;&#x7D19;.jpeg" width="520" height="461" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BDA9E794BBE881B7E4BABAE983A8E9A19E1770E6988EE5928C7.jpg" alt="&#x5F69;&#x753B;&#x8077;&#x4EBA;&#x90E8;&#x985E;1770&#x660E;&#x548C;7.jpg" width="520" height="344" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B29DE58E9FE79B8AE8BB92E3808CE5A5B3E5A4A7E5ADA6E5AE9DE7AEB1E3808D1829.jpg" alt="&#x8C9D;&#x539F;&#x76CA;&#x8ED2;&#x300C;&#x5973;&#x5927;&#x5B66;&#x5B9D;&#x7BB1;&#x300D;1829.jpg" width="520" height="726" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B585E88D89E6B5B7E88B94.jpg" alt="&#x6D45;&#x8349;&#x6D77;&#x82D4;.jpg" width="520" height="411" border="0" />　翌1921年(大正10)には2工房ほど増えて、葛ヶ谷(西落合)の紙漉き業者は20工房になっていた。操業していた番地は、特に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-09.html" target="_blank">落合分水</a>や妙正寺川の近くとは限らないので、おそらく井戸水を活用した操業だったろう。なお、★印は1944年(昭和19)現在で操業をつづけている工房だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8919BE383B6E8B0B7E59CB0E59F9F.jpg" alt="&#x845B;&#x30F6;&#x8C37;&#x5730;&#x57DF;.jpg" width="507" height="435" border="0" />　つづいて、下落合(現・中落合／中井含む)は1工房、上落合は3工房の紙漉き業者が営業していた。上落合の番地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-15.html" target="_blank">前田地区</a>の南側に位置する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank">旧・八幡通り</a>沿いだ。けれども、下落合に3315番地は存在しないので誤植だろうが、とりあえずそのまま記載してみる。下落合2306番地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank">目白学園</a>の北東側にあたる番地だ。なお、翌1921年(大正10)になると、上落合には11業者増えて12工房、下落合には1業者増えて4工房の紙漉き業者が操業している。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE59088E4B88BE890BDE59088E59CB0E59F9F.jpg" alt="&#x4E0A;&#x843D;&#x5408;&#x4E0B;&#x843D;&#x5408;&#x5730;&#x57DF;.jpg" width="502" height="217" border="0" />　上記と同様に、★印は1944年(昭和19)の時点で操業をつづけていた業者だ。　また、大正末になると手漉き製紙業者の個人工房ではなく、機械による洋紙・和紙の製紙工場が落合地域にも進出してくる。この傾向は、市街地にあった工場が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>による被害で操業不能となり、郊外へと移転せざるをえなくなったケースも含まれているだろう。近代的な製紙工場は、大正末の時点で下落合に3工場、上落合に1工場、葛ヶ谷(西落合)に2工場が記録されている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818DE6A5AD28E698ADE5928CE5889DE69C9F291.jpg" alt="&#x7D19;&#x6F09;&#x304D;&#x696D;(&#x662D;&#x548C;&#x521D;&#x671F;)1.jpg" width="520" height="362" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818DE6A5AD28E698ADE5928CE5889DE69C9F292.jpg" alt="&#x7D19;&#x6F09;&#x304D;&#x696D;(&#x662D;&#x548C;&#x521D;&#x671F;)2.jpg" width="520" height="338" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818D2.jpg" alt="&#x7D19;&#x6F09;&#x304D;2.jpg" width="520" height="346" border="0" />　紙漉き業者は、東京府産紙同業組合の統計によれば、1922年(大正11)の116工房をピークに漸次減少をつづけている。昭和に入るとわずか48工房に減少し、手漉き和紙の需要が急激に落ちこんでいった様子がうかがえる。1929年(昭和4)になると、産紙同業組合は解散を宣言することになる。
◆写真上：現代でも高級和紙は、手漉きによる個人事業者の工房で製造されている。◆写真中上：上左は、1944年(昭和19)に出版された関義城『江戸東京紙漉史考』(冨山房)。上右は、文政年間ごろに制作の貞秀『風流職人尽／紙漉』。中上・中下は、1856年(安政3)に出版された菱川師宣『職人尽倭画』(写し)の紙漉き。下は、1853年(嘉永6)に作成された尾張屋清七版の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」にみる浅草・田原町(紙漉町)界隈。◆写真中下：上は、明治期の代表的な和紙「江戸川巻紙」のパッケージ。中上は、1770年(明和7)出版の『彩画職人部類』の「紙」。中下は、1829年(文政12)に出版された貝原益軒『女大学宝箱』の「紙すきや」。下は、九州の有明海産の海苔を加工した「浅草海苔」。◆写真下：上・中は、昭和初期の手漉き製紙工房。下は、現代もつづく手漉きによる和紙づくり。<a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818D.jpg" alt="紙漉き.jpg" width="600" height="400" border="0" /></div><div>　落合地域へ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank" rel="noopener">江戸川</a>沿いから移転してきた工房は、おもに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515347500.html" target="_blank" rel="noopener">染物業</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521376689.html" target="_blank" rel="noopener">製氷業</a>だったことは、すでにいくつかの記事に書いてきた。この場合の江戸川は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-09.html" target="_blank" rel="noopener">旧・神田上水</a>の分岐である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-01-30.html" target="_blank" rel="noopener">大洗堰</a>から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">千代田城</a>の外濠へと流れこむ、舩河原橋までの神田川流域(1966年より神田川)のことで、川の水質や湧水、地下水などが清冽だったことから発達した産業だった。<br />　ところが、落合地域には染物業や製氷業、製薬業などよりもはるか以前、明治期から下流の江戸川沿いから移転してきた紙漉き工房群が存在していた。製紙業、すなわち江戸期からつづく用語でいえば、和紙を製造する家内制手工業の「紙漉き屋」だ。ご存じかもしれないが、紙漉きも良質な水が不可欠な仕事であり、江戸期から水質に優れた地域で紙漉き業が発達してきた。江戸初期では、和紙製造で有名な田園地帯の浅草が有名だったが、江戸後期になるとより良質な湧水や地下水などを求めて、河川の上流域へと移動している。<br />　江戸初期の紙漉き業について、1944年(昭和19)に冨山房から出版された関義城『江戸東京紙漉史考』では、延宝年間の岩井守義『浅草地名考』などを引用しながら、次のように解説している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　岩井守義述【浅草地名考】中、浅草名物の項に、「連俳武蔵野、寛文四年印本。浅草木綿、同紙、籠耳、貞享四年印本芥子主人蔵」との記述が有る。／延宝四年新版及び天和三年正月版、竝に貞享年間の【江戸絵図】【江戸大絵図】に拠れば、浅草田原町一丁目に続き南の方に「カミスキ町」なる町名が記載せられてゐるのを見る。／貞享四年に刊行された藤田理兵衛の【江戸鹿子】には、／浅草駒形より西筋、東は駒形、西は寺丁まで、三軒町二丁、田原町三丁、紙すき町、茶や町二丁／と有り、又「すきかゑし紙や」として「浅草門跡前、同所はしば」の二個所を記してゐる。／故に寛文、延宝、貞享年代には、已に浅草名物として、製紙業の存在した事が、此等の記録により證明せられ、且つそれが江戸最初の紙漉場所であつた事も判然するやうである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　関義城は、「江戸最初の紙漉場所」と書いているが、室町時代にも当然ながら紙の需要はあっただろうから、1400年代に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517240276.html" target="_blank" rel="noopener">太田道灌</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521350993.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>を築造して、国内でも最大規模の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">城下町</a>となっていた時点で、江戸の街にはすでに紙漉き屋が開業していたと考えたほうが自然だろう。それは、江戸湊に集積された物資のうち、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">目白(鋼)</a>など金属類の多さから、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank" rel="noopener">刀鍛冶</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-26.html" target="_blank" rel="noopener">野鍛冶</a>(道具鍛冶)、金工師たちが集合していたと想定されているのと同様だ。ただし、室町期の和紙の名産地が、浅草とその周辺域だったかどうかまではいまだ不明だ。<br />　ちょっと余談だが、葛西で収穫した天然海苔や、品川沖で採れた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">養殖海苔</a>を乾燥させて和紙のように延ばしたものを、江戸初期からの一般名称として「浅草海苔」と呼んでいる。もちろん、浅草地域で製造される浅草和紙を模した工法をヒントに、海苔を長期保存ができる製品として江戸の海苔屋(おもに品川地域)が発明・販売したからで、現代でも海苔の産地を問わず、紙のように乾燥させた海苔の名称は「浅草海苔」と呼ぶのが正しい。よく「韓国海苔」という呼称を聞くが、正確には韓国産の海苔を「浅草海苔」風にしたバリエーション製品だろう。<br />　さて、江戸川(神田川の一部流域)の周辺にあった紙漉き工房が、よりきれいな水質を求めて上流の高田村や落合村、長崎村へと移転してきたのは、明治期に入りしばらくしてからのことだ。江戸川沿いは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-11.html" target="_blank" rel="noopener">桜の名所</a>であり、その水質や湧水、地下水の清冽さから、名物だったうなぎ料理の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">生け簀</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">染物業</a>が盛んだったが、水質にことさら敏感な紙漉き工房から郊外への移転がスタートしている。すなわち、のちに染物工房が移転するのと同じ理由で、江戸川沿いの市街地化が進むにつれ徐々に水質の汚濁が進み、明治期には紙漉き用の水としては適さなくなりつつあったからだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E996A2E7BEA9E59F8EE3808CE6B19FE688B8E69DB1E4BAACE7B499E6BC89E58FB2E88083E3808D1944E586A8E5B1B1E688BF.jpg" alt="関義城「江戸東京紙漉史考」1944冨山房.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B29EE7A780E3808CE9A2A8E6B581E881B7E4BABAE5B0BDE7B499E6BC89E3808D28E69687E58C96-E5A4A9E4BF9D29.jpg" alt="貞秀「風流職人尽紙漉」(文化-天保).jpg" width="255" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E88FB1E5B79DE5B8ABE5AEA3E3808CE881B7E4BABAE5B0BDE580ADE794BBE3808DE586991856.jpg" alt="菱川師宣「職人尽倭画」写1856.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E88FB1E5B79DE5B8ABE5AEA3E3808CE881B7E4BABAE5B0BDE580ADE794BBE3808D2E586991856.jpg" alt="菱川師宣「職人尽倭画」2写1856.jpg" width="520" height="411" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E58E9FE794BA28E7B499E6BC89E794BA29.jpg" alt="田原町(紙漉町).jpg" width="520" height="421" border="0" /></div><div>　紙漉き工房が東京郊外へ移転するにつれ、業界全体を束ねる同業組合の必要性が生じてきた。大正時代に入るとその動きが活発化して、1920年(大正9)には東京府産紙同業組合が発足している。その様子を、『江戸東京紙漉史考』に収録された、同組合の「沿革」から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　東京府産紙同業組合は、東京府北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、及東京市小石川区の四郡壱区内に於ける手漉製紙業者を以て組織し、大正九年十二月二十七日附農商務大臣より設置を認可せらる。現組合員は百十五名にして、大正九年中、其全産額は実に金百弐拾萬円に達し、益々業務の改良発達を企画しつゝあり。(中略)　製品の主要原料は三椏(ミツマタ)を使用し、一般和紙特に江戸川巻紙、同封筒、同辞令用紙等、優良手漉和紙を抄造せり。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この沿革文でもわかるように、組合員は家内制手工業者すなわち手漉きの製紙業者(和紙製造)がメインの組合で、機械化された工場の経営者は含まれていない。また、ほとんどの紙漉き業者が東京郊外の郡部で操業していたが、唯一東京市内の小石川区(現・文京区の一部)のみが残っているのは、江戸期からつづく江戸川(神田川)の地域が含まれているからだ。<br />　では、東京府産紙同業組合に登録された、落合地域の紙漉き工房を見ていこう。もっとも多くの業者が集まっていたのは、下落合でも上落合でもなく、当時は落合村葛ヶ谷と呼ばれ宅地開発の手が及んでいなかった、田園地帯の西落合地域だ。このリストを見ると、同業者同士が同じ番地、あるいは近隣に集まって操業していたのがわかる。これは、同業者が資金を出しあって設置した井戸や湧水口の水を、共同で利用していたからだとみられる。以下、落合村葛ヶ谷で操業していた手漉き製紙業者は、1920年(大正9)の時点で18工房を数えることができる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B19FE688B8E5B79DE5B7BBE7B499.jpeg" alt="江戸川巻紙.jpeg" width="520" height="461" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BDA9E794BBE881B7E4BABAE983A8E9A19E1770E6988EE5928C7.jpg" alt="彩画職人部類1770明和7.jpg" width="520" height="344" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B29DE58E9FE79B8AE8BB92E3808CE5A5B3E5A4A7E5ADA6E5AE9DE7AEB1E3808D1829.jpg" alt="貝原益軒「女大学宝箱」1829.jpg" width="520" height="726" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B585E88D89E6B5B7E88B94.jpg" alt="浅草海苔.jpg" width="520" height="411" border="0" /></div><div>　翌1921年(大正10)には2工房ほど増えて、葛ヶ谷(西落合)の紙漉き業者は20工房になっていた。操業していた番地は、特に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-09.html" target="_blank" rel="noopener">落合分水</a>や妙正寺川の近くとは限らないので、おそらく井戸水を活用した操業だったろう。なお、★印は1944年(昭和19)現在で操業をつづけている工房だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8919BE383B6E8B0B7E59CB0E59F9F.jpg" alt="葛ヶ谷地域.jpg" width="507" height="435" border="0" /></div><div>　つづいて、下落合(現・中落合／中井含む)は1工房、上落合は3工房の紙漉き業者が営業していた。上落合の番地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">前田地区</a>の南側に位置する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧・八幡通り</a>沿いだ。けれども、下落合に3315番地は存在しないので誤植だろうが、とりあえずそのまま記載してみる。下落合2306番地は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">目白学園</a>の北東側にあたる番地だ。なお、翌1921年(大正10)になると、上落合には11業者増えて12工房、下落合には1業者増えて4工房の紙漉き業者が操業している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE59088E4B88BE890BDE59088E59CB0E59F9F.jpg" alt="上落合下落合地域.jpg" width="502" height="217" border="0" /></div><div>　上記と同様に、★印は1944年(昭和19)の時点で操業をつづけていた業者だ。<br />　また、大正末になると手漉き製紙業者の個人工房ではなく、機械による洋紙・和紙の製紙工場が落合地域にも進出してくる。この傾向は、市街地にあった工場が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>による被害で操業不能となり、郊外へと移転せざるをえなくなったケースも含まれているだろう。近代的な製紙工場は、大正末の時点で下落合に3工場、上落合に1工場、葛ヶ谷(西落合)に2工場が記録されている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818DE6A5AD28E698ADE5928CE5889DE69C9F291.jpg" alt="紙漉き業(昭和初期)1.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818DE6A5AD28E698ADE5928CE5889DE69C9F292.jpg" alt="紙漉き業(昭和初期)2.jpg" width="520" height="338" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B499E6BC89E3818D2.jpg" alt="紙漉き2.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div>　紙漉き業者は、東京府産紙同業組合の統計によれば、1922年(大正11)の116工房をピークに漸次減少をつづけている。昭和に入るとわずか48工房に減少し、手漉き和紙の需要が急激に落ちこんでいった様子がうかがえる。1929年(昭和4)になると、産紙同業組合は解散を宣言することになる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：現代でも高級和紙は、手漉きによる個人事業者の工房で製造されている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、1944年(昭和19)に出版された関義城『江戸東京紙漉史考』(冨山房)。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、文政年間ごろに制作の貞秀『風流職人尽／紙漉』。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1856年(安政3)に出版された菱川師宣『職人尽倭画』(写し)の紙漉き。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1853年(嘉永6)に作成された尾張屋清七版の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」にみる浅草・田原町(紙漉町)界隈。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、明治期の代表的な和紙「江戸川巻紙」のパッケージ。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1770年(明和7)出版の『彩画職人部類』の「紙」。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1829年(文政12)に出版された貝原益軒『女大学宝箱』の「紙すきや」。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、九州の有明海産の海苔を加工した「浅草海苔」。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中</span>は、昭和初期の手漉き製紙工房。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、現代もつづく手漉きによる和紙づくり。</div></div><a name="more"></a>

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]]></content:encoded>
            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521279304.html</link>
      <title>吉屋信子を「社員」にする原稿依頼テクニック。</title>
      <pubDate>Thu, 01 Oct 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　出版社の同志社(のち婦人生活社)の社主だった原田常治は、編集者時代の面白いエピソードを書き残している。昔もいまも、よく売れるベストセラー作家から原稿をもらうのは、出版社にとっては至難のわざだった。しかも、ふだんから自誌の予算よりも高額な原稿料で書いている作家を、それより安い稿料で口説き落とすのは不可能に近かっただろう。　これは、原田常治が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「婦人倶楽部」編集部でエディターをしていた、1932年(昭和7)に起きた出来事だ。出版予算が限られ、..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB0.jpg" alt="&#x539F;&#x7530;&#x5E38;&#x6CBB;0.jpg" width="600" height="226" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD900.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;0.jpg" width="600" height="226" border="0" />　出版社の同志社(のち婦人生活社)の社主だった原田常治は、編集者時代の面白いエピソードを書き残している。昔もいまも、よく売れるベストセラー作家から原稿をもらうのは、出版社にとっては至難のわざだった。しかも、ふだんから自誌の予算よりも高額な原稿料で書いている作家を、それより安い稿料で口説き落とすのは不可能に近かっただろう。　これは、原田常治が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「婦人倶楽部」編集部でエディターをしていた、1932年(昭和7)に起きた出来事だ。出版予算が限られ、社命で“相場”よりも安い原稿料で書いてくれるよう、口説き落とさなければならなくなったその相手、当時のベストセラー作家とは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-22.html" target="_blank">下落合2108番地</a>に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-17.html" target="_blank">吉屋信子</a>だ。作家と編集者は、もちろん表現する作品のテーマについて合意する作業をともなうが、それにも増して稿料をめぐる交渉は一種の闘いでもあっただろう。エージェントが存在しない日本の作家は、直接本人と交渉することになる。　当時、講談社の「婦人倶楽部」編集部は、主婦之友社が発行するライバル誌「主婦之友」に追いつこうと必死になっていた。「主婦之友」は、既婚女性向けに発行されていた売上げトップを走る雑誌で、1932年(昭和7)になると発行部数は40万部／月をゆうに超えていた。講談社の「婦人倶楽部」編集部では、部員を15～16人に増員して誌面の充実をはかろうとしていたが、「主婦之友」に比べれば編集予算(原稿料)はかなり見劣りするのが現実だった。　原田が配属された「婦人倶楽部」編集部は、20代の彼よりも部員たち全員が年上で、「この人に書いて貰つたらいゝ」という作家には「全部書いて貰いましよう」、依頼してもどうしても書いてくれないむずかしい作家がいれば、「私が行つて書いて貰つて来ます」と宣言した。おそらく、古参の編集員たちは稿料が他誌に比べて安いのを知っていたので、「この大ボラ吹きの若造が」とでも思ったのかもしれない。そんな大風呂敷を拡げたおかげで、原田は会社からの帰宅が毎日午前2～3時になり、何度も徹夜を繰り返す日常があたりまえになってしまった。　当時、ライバル誌だった「主婦之友」には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-16.html" target="_blank">吉屋信子</a>の連載小説が掲載されており、それが評判を呼んで同誌の発行部数はうなぎのぼりだった。吉屋信子は、大正末から「主婦之友」へ寄稿しており、女性向けの連載小説ではほぼ専属作家といってもいい存在だった。昭和初期だけみても、『空の彼方へ』(1927年4月～)や『暴風雨の薔薇』(1930年1月～)がヒットしており、「婦人倶楽部」編集部としてもどうしても執筆してほしい小説家のひとりだった。　けれども、「主婦之友」の原稿料に比べ、原田が勤める「婦人倶楽部」では原稿料が半分以下で、とても引き受けてくれそうもなかった。それまでも3年間にわたり、編集部では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-07.html" target="_blank">吉屋信子</a>へアプローチをつづけてきたが、400字詰め原稿用紙1枚につき15円を支払う「主婦之友」に対し、「婦人倶楽部」の予算では半値以下の7円しか出すことができなかった。そのような状況のなか、入社した当時の若い原田が部員たちを前にしたあいさつ、書いてくれないむずかしい作家がいれば「私が行つて書いて貰つて来ます」を思いだした編集長から、「おまえ、いってこい」と押しつけられてしまった。大言壮語をした手前、原田も「えゝ行つて見ましよう。私が行けば吉屋先生書いてくれますよ」と引き受けたが、焦った彼はいろいろと知恵をしぼりはじめた。　原田常治の“生き方”というのは、「人間というものは、切羽つまつて、ギリギリに追いつめられると、ないと思つた力が出る、ない筈の知恵が出て来るもの」というものだった。何ごとにも背水の陣で立ち向かえば、困難な状況でもなんとか打破できる道が見つかるという考え方だ。そして、それが若干20代の彼の“哲学”であり、断崖絶壁の淵に身を置く“修養”でもあったと、彼はのちにエッセイで述懐している。では、吉屋信子の担当者だった同僚K君とともに下落合を訪ねた様子を、1952年(昭和27)に同志社から出版された原田常治『人生相談』より、少し長いが引用してみよう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BBE3808CE4BABAE7949FE5BAA7E8AB87E3808D1952E5908CE5BF97E7A4BE.jpg" alt="&#x539F;&#x7530;&#x5E38;&#x6CBB;&#x300C;&#x4EBA;&#x751F;&#x5EA7;&#x8AC7;&#x300D;1952&#x540C;&#x5FD7;&#x793E;.jpg" width="255" height="350" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB2.jpg" alt="&#x539F;&#x7530;&#x5E38;&#x6CBB;2.jpg" width="255" height="350" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E3808CE5A5B3E381AEE58F8BE68385E3808D1950E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;&#x300C;&#x5973;&#x306E;&#x53CB;&#x60C5;&#x300D;1950&#x8B1B;&#x8AC7;&#x793E;.jpg" width="255" height="358" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD903.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;3.jpg" width="255" height="358" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E982B8-584de.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;&#x90B8;.jpg" width="520" height="359" border="0" />　　▼　その翌日、雨の中をK君と、下落合の吉屋先生のお宅へ伺いました。そして、S誌(「主婦之友」)の読者数から、その読者の年齢層、地域分布、こちらの読者の年齢層等、こまかく分析してS誌へ載せて八〇点うける小説なら、こちらへ載せれば一〇〇点うける、先生の小説を欲しがつている読者は一体どつちが多いかということを縷々二時間余り説明して、編集者というものは読者の欲している小説はのせなければならない、と同時に、作家も、自分の小説を欲している読者に与えなくてよいのか――と、どうしても「それでは書こう」という返事しか出来ないところへ話を押しつめたのです。先生もよく了解して、十分に書こうという気持は動いたようでした。しかし、最後に、／「私も、あなたのおつしやる通り、書きたいのですが、何としても、こうして、女所帯で一戸を構えている以上、生活費というものが要ります、せめて一枚十円ぐらいの原稿料を頂かなければ、生活が立つて行きません。又、そのくらい出せない雑誌ではないでしよう」／と、まことに御尤もなお言葉です。これには流石の私も、ちよつと返事に詰つてしまつたが、私の頭にキラリとひらめくものがあつたのです。そこで、「今日はこのくらいにして、K君帰ろう」……(カッコ内引用者註)　　▲　原田常治がいとまを告げたので、彼女はやはり講談社では10円／枚の原稿料が無理なので、あきらめたのだと解釈しただろう。吉屋信子は、ていねいに玄関まで送りに出てくれたが、原田は靴をはいてから振り返ると、「今日は先生、これで帰りますが、明後日又お伺いします。その時はウンと云つて下さいますね」と、念を押すようにいった。吉屋信子は、てっきり編集者が原稿依頼を断念して帰るところだと思っていたので、「妙なお顔をされ」たようだ。　ここから、原田常治の「キラリとひらめ」いた工作がはじまった。帰社すると、彼は編集長に吉屋先生は「大丈夫、明後日行けば書きますよ」と報告した。ところが、編集長はまったく信用せず、他の編集部員も彼の報告を「のみ込めない顔」をするばかりだったらしい。だが、原田にはすでに「成算」があり、少しばかり自信さえ湧いてきていた。彼は、吉屋信子が話していた「女所帯で一戸を構えている」というワードに、大きなひっかかりとともにヒラメキを感じていたのだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB1_1210x1244.jpg" alt="&#x539F;&#x7530;&#x5E38;&#x6CBB;1_1210x1244.jpg" width="520" height="534" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD902_1766x2400.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;2_1766x2400.jpg" width="520" height="395" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E381A8E99680E9A6ACE58D83E4BBA3_1040x1196.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;&#x3068;&#x9580;&#x99AC;&#x5343;&#x4EE3;_1040x1196.jpg" width="520" height="598" border="0" />　さっそく、原田は会計部の予算に厳格なM部長のところへいって、下落合の吉屋邸を訪ねた結果、「先生も快く引きうけて、来月号から書いて下さいます」と報告した。原稿料が折りあわず、吉屋信子がどうしても書いてくれないという、以前からの経緯を知っていたM部長は、もちろんサギ師を見るような怪訝な目つきで彼を眺めて、「原稿料はどうしたい」と訊いた。それに対して原田は、原稿料は出さないことに決めたと答えている。以下、前掲書よりつづけて引用してみよう。　　▼　「原稿料はどうしたい」／「えゝ、原稿料はあげないことにしました」／「え？」／「その代り、書いている間、月給を差上げることにしました。月三百円、いゝですね。来月から払つて下さいよ」／これには、Mさんも、何だか訳が分らない顔をしていましたが、少しして、／「三百円というと、一枚いくら位になる？」／「そうですね、四十枚として、七円ちよつと位ですか、別に今までの会計案より上げるというのではありません」／「ウン、そんならいゝだろう」／もう、これでこの話は九分通り成功です。　　▲　そして約束の明後日、下落合の吉屋信子を訪ねた彼は、「婦人倶楽部」に書いてくれている期間は原稿料ではなく、社員と同様に「月給」として月々300円を必ず支払うということで、話がなんとかまとまった。原田常治は、彼女がなによりも生活や収入の安定を求めているのが最優先の課題だと感じとり、吉屋信子は月々40枚書こうが30枚しか書けなかろうが、毎月必ず300円の一定収入があるのを大きな魅力と感じたのだろう。たとえ病気で一時的に書けない月があったとしても、一定の収入が保証されれていれば、安心して生活することができる。　こうして、吉屋信子を講談社の「社員」化することで、雑誌「婦人倶楽部」に連載がスタートしたのは、彼女の初期代表作で超ベストセラーとなる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-08.html" target="_blank">『女の友情』</a>だった。当初、吉屋信子は自身の原稿料を下げたくなかったせいか、月々の連載枚数を30～35枚ほどにセーブしていたようだが、『女の友情』が空前の大ヒットとなるにつれ、「婦人倶楽部」の発行部数は目に見えて急増し、わずか3ヶ月で彼女の月給は500円に引きあげられている。原田常治はあえて書いていないが、講談社の社主だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank">野間清治夫妻</a>が、彼女を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-16.html" target="_blank">目白山(椿山)</a>の自邸に招くようになったころ、吉屋信子の「月給」はさらに上がっていただろう。彼女は、講談社の基礎を築いた作家のひとりとなった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E7B7A8E789A9.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;&#x7DE8;&#x7269;.jpg" width="520" height="447" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E3808CE5A5B3E381AEE58F8BE68385E3808D1948E696B0E6BDAEE7A4BE.jpg" alt="&#x5409;&#x5C4B;&#x4FE1;&#x5B50;&#x300C;&#x5973;&#x306E;&#x53CB;&#x60C5;&#x300D;1948&#x65B0;&#x6F6E;&#x793E;.jpg" width="520" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="&#x8B1B;&#x8AC7;&#x793E;.jpg" width="520" height="370" border="0" />　作家には、いつもの額の原稿料が欲しい要望があり、出版社側にはそんな予算はないという課題があったわけだが、その解決に正面から取り組んでいては10年たっても解決しないだろう。だが、課題や対立のポイントを少しだけずらし、別の角度から提案をすればすんなり解決してしまうことがある。しかも、「成果(成功)」がおよそ見通せるような場合は、ある程度の結果がでた時点で、作家側も出版社側も双方が満足するような修正ができる。これは別に出版の領域に限らず、あらゆる分野にも適用できるテクニックだろうが、原田常治は35歳をすぎたらこんなムチャをしてはダメだと説いている。若い20歳代の彼だからできたことで、「あの子、何考えてるのかしら？」とか「あいつ、何やってんだ？」と見すごしてくれたけれど、これが中年以上の人間が同じことをしたら、文字どおりサギ師のようないかがわしさが残り、かえって信用をなくすだけということだろう。
◆写真上：原田常治(上)と吉屋信子(下)の、瞬間的な表情のマッシュアップ。◆写真中上：上は、1952年(昭和27)出版の原田常治『人生座談』(同志社／左)と、著者の原田常治(右)。中は、1950年(昭和25)出版の吉屋信子『女の友情／童貞』(講談社／左)と、著者の吉屋信子(右)。下は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-21.html" target="_blank">門馬千代</a>と暮らした下落合2108番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-06.html" target="_blank">吉屋信子邸</a>(AI着色)。◆写真中下：上は、打ち合わせ中の原田常治。中は、めずらしく着物姿の吉屋信子。(いずれもAI着色)　下は、昭和初期に下落合の自邸庭で撮影された門馬千代(右)と吉屋信子。◆写真下：上は、下落合の自邸ポーチで編み物をする吉屋信子(AI着色)。中は、1948年(昭和23)出版の吉屋信子『女の友情』(新潮社版)。下は、目白崖線東端の音羽通り沿いにある講談社の現状。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB0.jpg" alt="原田常治0.jpg" width="600" height="226" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD900.jpg" alt="吉屋信子0.jpg" width="600" height="226" border="0" /></div><div>　出版社の同志社(のち婦人生活社)の社主だった原田常治は、編集者時代の面白いエピソードを書き残している。昔もいまも、よく売れるベストセラー作家から原稿をもらうのは、出版社にとっては至難のわざだった。しかも、ふだんから自誌の予算よりも高額な原稿料で書いている作家を、それより安い稿料で口説き落とすのは不可能に近かっただろう。<br />　これは、原田常治が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「婦人倶楽部」編集部でエディターをしていた、1932年(昭和7)に起きた出来事だ。出版予算が限られ、社命で“相場”よりも安い原稿料で書いてくれるよう、口説き落とさなければならなくなったその相手、当時のベストセラー作家とは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-22.html" target="_blank" rel="noopener">下落合2108番地</a>に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>だ。作家と編集者は、もちろん表現する作品のテーマについて合意する作業をともなうが、それにも増して稿料をめぐる交渉は一種の闘いでもあっただろう。エージェントが存在しない日本の作家は、直接本人と交渉することになる。<br />　当時、講談社の「婦人倶楽部」編集部は、主婦之友社が発行するライバル誌「主婦之友」に追いつこうと必死になっていた。「主婦之友」は、既婚女性向けに発行されていた売上げトップを走る雑誌で、1932年(昭和7)になると発行部数は40万部／月をゆうに超えていた。講談社の「婦人倶楽部」編集部では、部員を15～16人に増員して誌面の充実をはかろうとしていたが、「主婦之友」に比べれば編集予算(原稿料)はかなり見劣りするのが現実だった。<br />　原田が配属された「婦人倶楽部」編集部は、20代の彼よりも部員たち全員が年上で、「この人に書いて貰つたらいゝ」という作家には「全部書いて貰いましよう」、依頼してもどうしても書いてくれないむずかしい作家がいれば、「私が行つて書いて貰つて来ます」と宣言した。おそらく、古参の編集員たちは稿料が他誌に比べて安いのを知っていたので、「この大ボラ吹きの若造が」とでも思ったのかもしれない。そんな大風呂敷を拡げたおかげで、原田は会社からの帰宅が毎日午前2～3時になり、何度も徹夜を繰り返す日常があたりまえになってしまった。<br />　当時、ライバル誌だった「主婦之友」には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-16.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>の連載小説が掲載されており、それが評判を呼んで同誌の発行部数はうなぎのぼりだった。吉屋信子は、大正末から「主婦之友」へ寄稿しており、女性向けの連載小説ではほぼ専属作家といってもいい存在だった。昭和初期だけみても、『空の彼方へ』(1927年4月～)や『暴風雨の薔薇』(1930年1月～)がヒットしており、「婦人倶楽部」編集部としてもどうしても執筆してほしい小説家のひとりだった。<br />　けれども、「主婦之友」の原稿料に比べ、原田が勤める「婦人倶楽部」では原稿料が半分以下で、とても引き受けてくれそうもなかった。それまでも3年間にわたり、編集部では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-07.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>へアプローチをつづけてきたが、400字詰め原稿用紙1枚につき15円を支払う「主婦之友」に対し、「婦人倶楽部」の予算では半値以下の7円しか出すことができなかった。そのような状況のなか、入社した当時の若い原田が部員たちを前にしたあいさつ、書いてくれないむずかしい作家がいれば「私が行つて書いて貰つて来ます」を思いだした編集長から、「おまえ、いってこい」と押しつけられてしまった。大言壮語をした手前、原田も「えゝ行つて見ましよう。私が行けば吉屋先生書いてくれますよ」と引き受けたが、焦った彼はいろいろと知恵をしぼりはじめた。<br />　原田常治の“生き方”というのは、「人間というものは、切羽つまつて、ギリギリに追いつめられると、ないと思つた力が出る、ない筈の知恵が出て来るもの」というものだった。何ごとにも背水の陣で立ち向かえば、困難な状況でもなんとか打破できる道が見つかるという考え方だ。そして、それが若干20代の彼の“哲学”であり、断崖絶壁の淵に身を置く“修養”でもあったと、彼はのちにエッセイで述懐している。では、吉屋信子の担当者だった同僚K君とともに下落合を訪ねた様子を、1952年(昭和27)に同志社から出版された原田常治『人生相談』より、少し長いが引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BBE3808CE4BABAE7949FE5BAA7E8AB87E3808D1952E5908CE5BF97E7A4BE.jpg" alt="原田常治「人生座談」1952同志社.jpg" width="255" height="350" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB2.jpg" alt="原田常治2.jpg" width="255" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E3808CE5A5B3E381AEE58F8BE68385E3808D1950E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="吉屋信子「女の友情」1950講談社.jpg" width="255" height="358" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD903.jpg" alt="吉屋信子3.jpg" width="255" height="358" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E982B8-584de.jpg" alt="吉屋信子邸.jpg" width="520" height="359" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　その翌日、雨の中をK君と、下落合の吉屋先生のお宅へ伺いました。そして、S誌(「主婦之友」)の読者数から、その読者の年齢層、地域分布、こちらの読者の年齢層等、こまかく分析してS誌へ載せて八〇点うける小説なら、こちらへ載せれば一〇〇点うける、先生の小説を欲しがつている読者は一体どつちが多いかということを縷々二時間余り説明して、編集者というものは読者の欲している小説はのせなければならない、と同時に、作家も、自分の小説を欲している読者に与えなくてよいのか――と、どうしても「それでは書こう」という返事しか出来ないところへ話を押しつめたのです。先生もよく了解して、十分に書こうという気持は動いたようでした。しかし、最後に、／「私も、あなたのおつしやる通り、書きたいのですが、何としても、こうして、女所帯で一戸を構えている以上、生活費というものが要ります、せめて一枚十円ぐらいの原稿料を頂かなければ、生活が立つて行きません。又、そのくらい出せない雑誌ではないでしよう」／と、まことに御尤もなお言葉です。これには流石の私も、ちよつと返事に詰つてしまつたが、私の頭にキラリとひらめくものがあつたのです。そこで、「今日はこのくらいにして、K君帰ろう」……(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　原田常治がいとまを告げたので、彼女はやはり講談社では10円／枚の原稿料が無理なので、あきらめたのだと解釈しただろう。吉屋信子は、ていねいに玄関まで送りに出てくれたが、原田は靴をはいてから振り返ると、「今日は先生、これで帰りますが、明後日又お伺いします。その時はウンと云つて下さいますね」と、念を押すようにいった。吉屋信子は、てっきり編集者が原稿依頼を断念して帰るところだと思っていたので、「妙なお顔をされ」たようだ。<br />　ここから、原田常治の「キラリとひらめ」いた工作がはじまった。帰社すると、彼は編集長に吉屋先生は「大丈夫、明後日行けば書きますよ」と報告した。ところが、編集長はまったく信用せず、他の編集部員も彼の報告を「のみ込めない顔」をするばかりだったらしい。だが、原田にはすでに「成算」があり、少しばかり自信さえ湧いてきていた。彼は、吉屋信子が話していた「女所帯で一戸を構えている」というワードに、大きなひっかかりとともにヒラメキを感じていたのだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE794B0E5B8B8E6B2BB1_1210x1244.jpg" alt="原田常治1_1210x1244.jpg" width="520" height="534" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD902_1766x2400.jpg" alt="吉屋信子2_1766x2400.jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E381A8E99680E9A6ACE58D83E4BBA3_1040x1196.jpg" alt="吉屋信子と門馬千代_1040x1196.jpg" width="520" height="598" border="0" /></div><div>　さっそく、原田は会計部の予算に厳格なM部長のところへいって、下落合の吉屋邸を訪ねた結果、「先生も快く引きうけて、来月号から書いて下さいます」と報告した。原稿料が折りあわず、吉屋信子がどうしても書いてくれないという、以前からの経緯を知っていたM部長は、もちろんサギ師を見るような怪訝な目つきで彼を眺めて、「原稿料はどうしたい」と訊いた。それに対して原田は、原稿料は出さないことに決めたと答えている。以下、前掲書よりつづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「原稿料はどうしたい」／「えゝ、原稿料はあげないことにしました」／「え？」／「その代り、書いている間、月給を差上げることにしました。月三百円、いゝですね。来月から払つて下さいよ」／これには、Mさんも、何だか訳が分らない顔をしていましたが、少しして、／「三百円というと、一枚いくら位になる？」／「そうですね、四十枚として、七円ちよつと位ですか、別に今までの会計案より上げるというのではありません」／「ウン、そんならいゝだろう」／もう、これでこの話は九分通り成功です。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　そして約束の明後日、下落合の吉屋信子を訪ねた彼は、「婦人倶楽部」に書いてくれている期間は原稿料ではなく、社員と同様に「月給」として月々300円を必ず支払うということで、話がなんとかまとまった。原田常治は、彼女がなによりも生活や収入の安定を求めているのが最優先の課題だと感じとり、吉屋信子は月々40枚書こうが30枚しか書けなかろうが、毎月必ず300円の一定収入があるのを大きな魅力と感じたのだろう。たとえ病気で一時的に書けない月があったとしても、一定の収入が保証されれていれば、安心して生活することができる。<br />　こうして、吉屋信子を講談社の「社員」化することで、雑誌「婦人倶楽部」に連載がスタートしたのは、彼女の初期代表作で超ベストセラーとなる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-08.html" target="_blank" rel="noopener">『女の友情』</a>だった。当初、吉屋信子は自身の原稿料を下げたくなかったせいか、月々の連載枚数を30～35枚ほどにセーブしていたようだが、『女の友情』が空前の大ヒットとなるにつれ、「婦人倶楽部」の発行部数は目に見えて急増し、わずか3ヶ月で彼女の月給は500円に引きあげられている。原田常治はあえて書いていないが、講談社の社主だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank" rel="noopener">野間清治夫妻</a>が、彼女を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-16.html" target="_blank" rel="noopener">目白山(椿山)</a>の自邸に招くようになったころ、吉屋信子の「月給」はさらに上がっていただろう。彼女は、講談社の基礎を築いた作家のひとりとなった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E7B7A8E789A9.jpg" alt="吉屋信子編物.jpg" width="520" height="447" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E5B18BE4BFA1E5AD90E3808CE5A5B3E381AEE58F8BE68385E3808D1948E696B0E6BDAEE7A4BE.jpg" alt="吉屋信子「女の友情」1948新潮社.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="講談社.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div>　作家には、いつもの額の原稿料が欲しい要望があり、出版社側にはそんな予算はないという課題があったわけだが、その解決に正面から取り組んでいては10年たっても解決しないだろう。だが、課題や対立のポイントを少しだけずらし、別の角度から提案をすればすんなり解決してしまうことがある。しかも、「成果(成功)」がおよそ見通せるような場合は、ある程度の結果がでた時点で、作家側も出版社側も双方が満足するような修正ができる。これは別に出版の領域に限らず、あらゆる分野にも適用できるテクニックだろうが、原田常治は35歳をすぎたらこんなムチャをしてはダメだと説いている。若い20歳代の彼だからできたことで、「あの子、何考えてるのかしら？」とか「あいつ、何やってんだ？」と見すごしてくれたけれど、これが中年以上の人間が同じことをしたら、文字どおりサギ師のようないかがわしさが残り、かえって信用をなくすだけということだろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：原田常治(上)と吉屋信子(下)の、瞬間的な表情のマッシュアップ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1952年(昭和27)出版の原田常治『人生座談』(同志社／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、著者の原田常治(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1950年(昭和25)出版の吉屋信子『女の友情／童貞』(講談社／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、著者の吉屋信子(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">門馬千代</a>と暮らした下落合2108番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-03-06.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子邸</a>(AI着色)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、打ち合わせ中の原田常治。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、めずらしく着物姿の吉屋信子。(いずれもAI着色)　<span style="color: #3366ff;">下</span>は、昭和初期に下落合の自邸庭で撮影された門馬千代(右)と吉屋信子。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、下落合の自邸ポーチで編み物をする吉屋信子(AI着色)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1948年(昭和23)出版の吉屋信子『女の友情』(新潮社版)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、目白崖線東端の音羽通り沿いにある講談社の現状。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520000564.html</link>
      <title>昭和初期の台所を映した『台所の改善』1932年。</title>
      <pubDate>Mon, 28 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　昭和初期に、さまざまな家庭の台所(だいどこ)の風景をとらえた、1932年(昭和7)に文部省が監修し制作した『台所の改善』という映画がある。文化村らしいモダンなキッチンから、昔ながらの竈(かまど)に薪をくべてご飯を炊く台所(東京方言の女性言葉では「おだいどこ」)まで、当時の全国各地で見られた炊事の現場が記録されていて面白い。　撮影された台所には、薩長政府が採用し教育過程に取り入れていた、中国や朝鮮半島の儒教(外国)思想＝「修身(道徳)」が広まっていた時代なので(ちなみに江戸東..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D911.jpg" alt="&#x6587;&#x5316;&#x6751;1.jpg" width="600" height="417" border="0" />　昭和初期に、さまざまな家庭の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-10.html" target="_blank">台所(だいどこ)</a>の風景をとらえた、1932年(昭和7)に文部省が監修し制作した<a href="https://www.youtube.com/watch?v=sIWbqG2jipY" target="_blank">『台所の改善』</a>という映画がある。文化村らしいモダンなキッチンから、昔ながらの竈(かまど)に薪をくべてご飯を炊く台所(東京方言の女性言葉では「おだいどこ」)まで、当時の全国各地で見られた炊事の現場が記録されていて面白い。　撮影された台所には、薩長政府が採用し教育過程に取り入れていた、中国や朝鮮半島の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank">儒教(外国)思想</a>＝「修身(道徳)」が広まっていた時代なので(ちなみに江戸東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank">城下町</a>では根づかなかった)、「男子厨房に入らず」を奨励していたせいか男子はほとんど画面に登場していない。そもそも同映画自体が、薩長流れの文部省による教育映画なので、女子は家にいて子どもを産み育て男子の世話をするという、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank">「女修身」</a>そのものを表現しているともいえる。　そのような「修身」に代々違和感を感じていた、この江戸東京地方の人々の事例としては、日本橋の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-03-03.html" target="_blank">小林信彦</a>や深川の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-05.html" target="_blank">川田順造</a>、正月になると女子は街中へ遊びにでるのがこの街の習いなのを知っていて、たまに威張っている父親のもとから娘を正月遊びに逃がしてくれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-31.html" target="_blank">麻布育ち</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-11.html" target="_blank">向田邦子</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank">母親</a>、正月料理は男の仕事だった落合町葛ヶ谷(西落合)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-21.html" target="_blank">郊外事例</a>などなど、折々の記事で少しずつご紹介してきた。この地方へ、よその地方(というか外国そのもの)の社会思想を根づかせようとしても、古くからの社会観や地方・地域文化とからみあった生活観は、100年や200年ではおよそ変わらない。むしろ、史実に沿っていえば江戸後期の小旗本や御家人など、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-19.html" target="_blank">武家の世界</a>でさえそうであったように、街中で主流の風俗や習慣、はては<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank">言語</a>にいたるまでが彼らを徐々に侵食して飲みこみ、生活観や生活規範を染めあげていった。　そんな地元の眼差しで『台所の改善』を観ると、いろいろ不自然に感じることも多い。だが、当時の台所事情やその構造、設備、備品類などが詳しくわかって興味深い。もっとも印象的なのは、農家だろうか暗い台所の壁を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank">打(ぶ)ちこわし</a>ている場面だ。流し台の前の土壁をハンマーでたたいて大穴を開け、そこに横すべりする板窓(換気窓)を取りつけているシーンだ。明るい家庭は明るい台所から、明るい家庭は清潔で衛生的な台所から、明朗な家庭は整理整頓された台所から……というのが、この映画に通底するテーマ性のようだ。　まず、文化村らしい住宅の台所で、なぜか日本髪をていねいに結った着物姿の女性が、子どもたちに与えるミルクを温めている。その背後には、電気レンジやガス炊飯器が見えていて、窓外には木立が見える郊外の文化住宅という設定のようだ。でも、このような洋風生活を送る家庭なら、とうに洋髪に洋服だろうと思うのだが、不自然な日本髪の女性がいかにも子役らしいこまっちゃくれた子どもたちにミルクを注ぐ。そのテーブルの上には、ガストースター(パン焼き機)が載っている。再び台所が映り、流しに目をやるとタイルと金属(ブリキかスズ？)を貼った製品のようで、流しの下には米櫃や調理器具を入れておく収納がついている。また、流し横には電気温水器の設置されているのが見える。電気レンジやガストースター、電気温水器はいずれも高価な製品だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689801.jpg" alt="&#x660E;&#x308B;&#x3044;&#x53F0;&#x6240;1.jpg" width="520" height="404" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689802.jpg" alt="&#x660E;&#x308B;&#x3044;&#x53F0;&#x6240;2.jpg" width="520" height="388" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D912.jpg" alt="&#x6587;&#x5316;&#x6751;2.jpg" width="520" height="376" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D913.jpg" alt="&#x6587;&#x5316;&#x6751;3.jpg" width="520" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B880E888ACE5AEB6E5BAAD1.jpg" alt="&#x4E00;&#x822C;&#x5BB6;&#x5EAD;1.jpg" width="520" height="361" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B880E888ACE5AEB6E5BAAD3.jpg" alt="&#x4E00;&#x822C;&#x5BB6;&#x5EAD;3.jpg" width="520" height="386" border="0" />　次に、当時の一般家庭と思われる台所の情景が登場する。いかにも役者やモデルではなく、ふつうの主婦が台所に立って炊事をしている情景が記録されている。ガス炊飯器でご飯を炊き、ガスコンロでおかずを調理している。井戸水の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-07-20.html" target="_blank">ポンプアップ</a>ではなく、台所に水道は引かれているようだが、水にこだわりがあるのか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513796674.html" target="_blank">お茶を淹れる</a>ときは井戸から汲み置いた美味しい湧水を用いてるらしい。おそらく、郊外に近い立地の家庭なのだろう。流しは石材の花崗岩製のようだが、当時はブリキなどを貼った金属製のものよりも安価だったと思われる。いまでは価値が逆転し、花崗岩製のオシャレな流しのほうがステンレス製のものより高価だろう。　当時の一般家庭には、高価な換気扇など手軽に設置できない時代だから、炊事設備から立ちのぼる煙抜きや換気には、煙突や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-04.html" target="_blank">臭突</a>が不可欠だったろう。ちなみに、わたしが子供のころには、臭突はトイレの換気＝臭い抜き用に設置している家庭がほとんどだった。また、水切りも今日のような製品が少なかったため、竹製のザルや金網カゴで代用するか、あるいは洗い終えた食器を置く流しの横へ、水気が下へ落ちる簀の子(すのこ)を敷いたり、流しへ水滴が流れるよう傾斜のある金属の天板がついた、台所用の収納棚などが普及していたようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197.jpg" alt="&#x6D41;&#x3057;.jpg" width="520" height="382" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197E58F8EE7B48D2.jpg" alt="&#x6D41;&#x3057;&#x53CE;&#x7D0D;2.jpg" width="520" height="386" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E887ADE7AA81.jpg" alt="&#x81ED;&#x7A81;.jpg" width="520" height="384" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689803.jpg" alt="&#x660E;&#x308B;&#x3044;&#x53F0;&#x6240;3.jpg" width="520" height="385" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197E58F8EE7B48D1.jpg" alt="&#x6D41;&#x3057;&#x53CE;&#x7D0D;1.jpg" width="520" height="382" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B4E58887E3828A.jpg" alt="&#x6C34;&#x5207;&#x308A;.jpg" width="520" height="366" border="0" />　つづいて、明るく清潔な台所に加え、炊事場の整理整頓と炊事の効率化がうたわれている。調理器具や食器類が雑然と置かれた状態から、DIYで棚を作りつけたり食器棚を購入したりして、効率的で使いやすい台所にしようと提案している。調理器具や食器類を、整理整頓して衛生的に管理しようという趣旨には賛同するが、ここで個人の趣味にまで踏みこむ、食器の種類や揃え方まで国家が勧奨するのは大きなお世話だと感じる。和食が好きで、小鉢に楽しく美しく盛りつけたい多彩な料理を作ったとして、1枚の洋皿にみんな盛りつけてハイおしまいでは、いかにも個々人の食事の楽しみ方や趣向(ないしは嗜好)を無視した提案だろう。映画では、いろいろな形状の和食器を棄てて洋食器を揃えれば、洗い皿の数が減って効率化できるといいたいようだ。　さらに、和食器を使って配膳した料理と、洋食器を使って配膳した料理の対比映像まで見せているけれど、焼き魚と煮物(サトイモなど野菜の煮っころがし？)を、洋食器の平皿へいっしょに並べて盛りつけてしまうのは、いくらなんでもありえないだろう。焼き魚を食べてるうちに、煮物の煮汁が魚のほうへ流れてきそうで、ちゃんと料理別に食器は分けるべきでしょ。そういう味わいの楽しみや、器(うつわ)も含めた料理の視覚的な楽しみを(すなわち個人の趣味嗜好を)台無しにする、平皿を中心とした洋食器一辺倒のお薦めと妙ちくりんな効率化は、まったく納得できない。洗う皿の数が4～5枚増えたって、楽しく美しく食卓を囲めれば別にいいじゃん……と思ってしまうのだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FB0E68980E6B7B7E6B28C.jpg" alt="&#x53F0;&#x6240;&#x6DF7;&#x6C8C;.jpg" width="520" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FB0E68980E695B4E9A093.jpg" alt="&#x53F0;&#x6240;&#x6574;&#x9813;.jpg" width="520" height="388" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B883E5B7BEE5B9B2E38197.jpg" alt="&#x5E03;&#x5DFE;&#x5E72;&#x3057;.jpg" width="520" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E5928C.jpg" alt="&#x98DF;&#x5668;&#x548C;.jpg" width="520" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E6B48B.jpg" alt="&#x98DF;&#x5668;&#x6D0B;.jpg" width="520" height="388" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9858DE886B3E5928C-35a27.jpg" alt="&#x914D;&#x81B3;&#x548C;.jpg" width="520" height="377" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9858DE886B3E6B48B-c650a.jpg" alt="&#x914D;&#x81B3;&#x6D0B;.jpg" width="520" height="359" border="0" />　日本の台所と対比させるためか、欧米の台所も登場している。どこかの国の、大使館員の家庭を取材したもののようだが、整然としたキッチンで主婦が皿をふいて戸棚に収めるシーンが紹介されている。そこに、和食と洋食では主食はもちろん、料理自体や食文化が大きく異なるのだから、それにあわせて台所の設備や食器がちがうのは当然でしょ……というような大前提の視点は、いともたやすく捨象されてしまっている。これも、薩長政府以来の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518674667.html" target="_blank">欧米かぶれ</a>の残滓がつづいていたものだろうか、まことに困った政府による欧米の文化や習慣の押しつけだ。　そのほか、主食であるご飯を炊くための、昭和初期の竈(かまど)からガス炊飯器、電気炊飯器などが紹介されているのも面白い。当時は都市ガスが普及しつつある時代なので、台所の主力設備としてガスコンロも大きくクローズアップされている。映画に登場しているガスコンロは、わたしが子どものころまで見かけたタイプのもので、ガス栓をひねりマッチを擦って近づけ点火するものだ。ヘタをすると、ガスが出すぎてやや爆発気味の点火となり、指先が熱かった記憶がある。当時のガスストーブもマッチで火を点ける仕様で、生活にマッチは欠かせなかった。　また、台所の創意工夫については、配達された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-20.html" target="_blank">ヱビスビール</a>の木箱を工作して、食器収納棚をつくるという映像もあった。木箱の蓋を四角くくり抜き、その板を素材に、縦にした木箱の内側に棚をつくりつけて食器を収納するというものだ。くり抜いた蓋には目の細かな網を張り、虫が中へ入らないように工夫して扉にする。当時は、酒屋へヱビスビール(壜ビール)をダース注文すると、木箱ごと配達されていた。もちろん、木箱と空き壜は酒屋へ返すリターナブルの仕組みだったろうが、木箱を買うか譲り受けるかしてこしらえたものだろう。でも、まるで岡持ちのような外観で、合理主義者だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-01-26.html" target="_blank">金山らく夫人</a>には受けるかもしれないが、一般家庭ではいかがなものだろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ACA7E7B1B3E58FB0E689801.jpg" alt="&#x6B27;&#x7C73;&#x53F0;&#x6240;1.jpg" width="520" height="387" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ACA7E7B1B3E58FB0E689802.jpg" alt="&#x6B27;&#x7C73;&#x53F0;&#x6240;2.jpg" width="520" height="386" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88.jpg" alt="&#x7AC8;.jpg" width="520" height="383" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88E382ACE382B9.jpg" alt="&#x7AC8;&#x30AC;&#x30B9;.jpg" width="520" height="380" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88E99BBBE6B097.jpg" alt="&#x7AC8;&#x96FB;&#x6C17;.jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E6A39AE382A8E38393E382B9E38393E383BCE383AB.jpg" alt="&#x98DF;&#x5668;&#x68DA;&#x30A8;&#x30D3;&#x30B9;&#x30D3;&#x30FC;&#x30EB;.jpg" width="520" height="389" border="0" />　「台所改善講」という講(組合)があったのを、この映画で初めて知った。台所を大がかりに改善する資金を少しずつ積み立てたり、工務店がなく大工がいない農村などでは同講が組合化されて存在し、先述の台所の土壁に穴を開けて窓を設置するような大がかりな工事や、排水溝あるいは汚水槽を設置するなど、一家庭だけでは対応しきれない資金や工事を改善講中のメンバーが集まり、協力しあって作業を行うという仕組みだったようだ。映画の製作意図やテーマ性はさておいて、1932年(昭和7)当時の台所の様子や設備を知るには、きわめて貴重な映像資料といえるだろう。
◆写真上：洋風の住宅で、なぜか和装の主婦が子どもたちの食事を用意している。このシーンだけわざとらしい表情や動作がつづくので、演じているのは役者だろう。◆写真中上：上は、農家の台所の土壁を打(ぶ)ちこわして窓を設置する様子。中は、文化住宅のシーンでわざとらしい子役の前にはガストースターが置かれ、台所の流しの左上には電気湯沸かし器が見える。下は、一般家庭の台所風景でガスを燃料にした調理器具が並ぶ。だが水にこだわりがあるのか、お茶を淹れるときは汲み置きの湧水のようだ。◆写真中中：上は、花崗岩製とブリキなど金属板を貼った流し。中は、煙抜きのために設置された台所の煙突や臭突。下は、流しで洗った食器を置く水切り台。金属の水切りに下部が簀の子仕様のものや、流しに向けて傾斜のついた水切り台がめずらしい。映像を観察すると氷を入れて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521376689.html" target="_blank">食物を保存</a>しておく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-01.html" target="_blank">初期型冷蔵庫</a>を備えた流し台もあったことがわかる。◆写真中下：上は、調理器具が雑然と置かれた台所と整理整頓された台所×2葉の比較。中は、いろいろな形状の和食器と単純な平皿のみの洋食器との比較。下は、和食器と洋食器を用いた配膳の比較だが、どう見ても和食器を用いたほうが調和がとれて料理が美味しそうに見える。◆写真下：上は、欧米の台所×2葉で上段の映像の奥には当時は非常に高価だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-08-18.html" target="_blank">電気冷蔵庫</a>が見えている。中は、江戸期と変わらない昔ながらの竈(かまど)によるご飯炊き、ガス炊飯器(瓦斯竈)、そして電気炊飯器(電熱竈)。下は、ヱビスビールの空き木箱を利用した食器棚の工作例。★おまけ　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-08.html" target="_blank">林芙美子・手塚緑敏邸</a>の台所にある、花崗岩の流し台と下にしつらえられた収納庫(米櫃)。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E982B8E6B581E38197.JPG" alt="&#x6797;&#x90B8;&#x6D41;&#x3057;.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E982B8E7B1B3E6AB83.JPG" alt="&#x6797;&#x90B8;&#x7C73;&#x6AC3;.JPG" width="520" height="390" border="0" /><a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D911.jpg" alt="文化村1.jpg" width="600" height="417" border="0" /></div><div>　昭和初期に、さまざまな家庭の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">台所(だいどこ)</a>の風景をとらえた、1932年(昭和7)に文部省が監修し制作した<a href="https://www.youtube.com/watch?v=sIWbqG2jipY" target="_blank" rel="noopener">『台所の改善』</a>という映画がある。文化村らしいモダンなキッチンから、昔ながらの竈(かまど)に薪をくべてご飯を炊く台所(東京方言の女性言葉では「おだいどこ」)まで、当時の全国各地で見られた炊事の現場が記録されていて面白い。<br />　撮影された台所には、薩長政府が採用し教育過程に取り入れていた、中国や朝鮮半島の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank" rel="noopener">儒教(外国)思想</a>＝「修身(道徳)」が広まっていた時代なので(ちなみに江戸東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">城下町</a>では根づかなかった)、「男子厨房に入らず」を奨励していたせいか男子はほとんど画面に登場していない。そもそも同映画自体が、薩長流れの文部省による教育映画なので、女子は家にいて子どもを産み育て男子の世話をするという、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">「女修身」</a>そのものを表現しているともいえる。<br />　そのような「修身」に代々違和感を感じていた、この江戸東京地方の人々の事例としては、日本橋の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-03-03.html" target="_blank" rel="noopener">小林信彦</a>や深川の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-05.html" target="_blank" rel="noopener">川田順造</a>、正月になると女子は街中へ遊びにでるのがこの街の習いなのを知っていて、たまに威張っている父親のもとから娘を正月遊びに逃がしてくれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-31.html" target="_blank" rel="noopener">麻布育ち</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-11.html" target="_blank" rel="noopener">向田邦子</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank" rel="noopener">母親</a>、正月料理は男の仕事だった落合町葛ヶ谷(西落合)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">郊外事例</a>などなど、折々の記事で少しずつご紹介してきた。この地方へ、よその地方(というか外国そのもの)の社会思想を根づかせようとしても、古くからの社会観や地方・地域文化とからみあった生活観は、100年や200年ではおよそ変わらない。むしろ、史実に沿っていえば江戸後期の小旗本や御家人など、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-19.html" target="_blank" rel="noopener">武家の世界</a>でさえそうであったように、街中で主流の風俗や習慣、はては<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">言語</a>にいたるまでが彼らを徐々に侵食して飲みこみ、生活観や生活規範を染めあげていった。<br />　そんな地元の眼差しで『台所の改善』を観ると、いろいろ不自然に感じることも多い。だが、当時の台所事情やその構造、設備、備品類などが詳しくわかって興味深い。もっとも印象的なのは、農家だろうか暗い台所の壁を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">打(ぶ)ちこわし</a>ている場面だ。流し台の前の土壁をハンマーでたたいて大穴を開け、そこに横すべりする板窓(換気窓)を取りつけているシーンだ。明るい家庭は明るい台所から、明るい家庭は清潔で衛生的な台所から、明朗な家庭は整理整頓された台所から……というのが、この映画に通底するテーマ性のようだ。<br />　まず、文化村らしい住宅の台所で、なぜか日本髪をていねいに結った着物姿の女性が、子どもたちに与えるミルクを温めている。その背後には、電気レンジやガス炊飯器が見えていて、窓外には木立が見える郊外の文化住宅という設定のようだ。でも、このような洋風生活を送る家庭なら、とうに洋髪に洋服だろうと思うのだが、不自然な日本髪の女性がいかにも子役らしいこまっちゃくれた子どもたちにミルクを注ぐ。そのテーブルの上には、ガストースター(パン焼き機)が載っている。再び台所が映り、流しに目をやるとタイルと金属(ブリキかスズ？)を貼った製品のようで、流しの下には米櫃や調理器具を入れておく収納がついている。また、流し横には電気温水器の設置されているのが見える。電気レンジやガストースター、電気温水器はいずれも高価な製品だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689801.jpg" alt="明るい台所1.jpg" width="520" height="404" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689802.jpg" alt="明るい台所2.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D912.jpg" alt="文化村2.jpg" width="520" height="376" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E58C96E69D913.jpg" alt="文化村3.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B880E888ACE5AEB6E5BAAD1.jpg" alt="一般家庭1.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B880E888ACE5AEB6E5BAAD3.jpg" alt="一般家庭3.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div>　次に、当時の一般家庭と思われる台所の情景が登場する。いかにも役者やモデルではなく、ふつうの主婦が台所に立って炊事をしている情景が記録されている。ガス炊飯器でご飯を炊き、ガスコンロでおかずを調理している。井戸水の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-07-20.html" target="_blank" rel="noopener">ポンプアップ</a>ではなく、台所に水道は引かれているようだが、水にこだわりがあるのか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513796674.html" target="_blank" rel="noopener">お茶を淹れる</a>ときは井戸から汲み置いた美味しい湧水を用いてるらしい。おそらく、郊外に近い立地の家庭なのだろう。流しは石材の花崗岩製のようだが、当時はブリキなどを貼った金属製のものよりも安価だったと思われる。いまでは価値が逆転し、花崗岩製のオシャレな流しのほうがステンレス製のものより高価だろう。<br />　当時の一般家庭には、高価な換気扇など手軽に設置できない時代だから、炊事設備から立ちのぼる煙抜きや換気には、煙突や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-04.html" target="_blank" rel="noopener">臭突</a>が不可欠だったろう。ちなみに、わたしが子供のころには、臭突はトイレの換気＝臭い抜き用に設置している家庭がほとんどだった。また、水切りも今日のような製品が少なかったため、竹製のザルや金網カゴで代用するか、あるいは洗い終えた食器を置く流しの横へ、水気が下へ落ちる簀の子(すのこ)を敷いたり、流しへ水滴が流れるよう傾斜のある金属の天板がついた、台所用の収納棚などが普及していたようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197.jpg" alt="流し.jpg" width="520" height="382" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197E58F8EE7B48D2.jpg" alt="流し収納2.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E887ADE7AA81.jpg" alt="臭突.jpg" width="520" height="384" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE3828BE38184E58FB0E689803.jpg" alt="明るい台所3.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B581E38197E58F8EE7B48D1.jpg" alt="流し収納1.jpg" width="520" height="382" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B4E58887E3828A.jpg" alt="水切り.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div>　つづいて、明るく清潔な台所に加え、炊事場の整理整頓と炊事の効率化がうたわれている。調理器具や食器類が雑然と置かれた状態から、DIYで棚を作りつけたり食器棚を購入したりして、効率的で使いやすい台所にしようと提案している。調理器具や食器類を、整理整頓して衛生的に管理しようという趣旨には賛同するが、ここで個人の趣味にまで踏みこむ、食器の種類や揃え方まで国家が勧奨するのは大きなお世話だと感じる。和食が好きで、小鉢に楽しく美しく盛りつけたい多彩な料理を作ったとして、1枚の洋皿にみんな盛りつけてハイおしまいでは、いかにも個々人の食事の楽しみ方や趣向(ないしは嗜好)を無視した提案だろう。映画では、いろいろな形状の和食器を棄てて洋食器を揃えれば、洗い皿の数が減って効率化できるといいたいようだ。<br />　さらに、和食器を使って配膳した料理と、洋食器を使って配膳した料理の対比映像まで見せているけれど、焼き魚と煮物(サトイモなど野菜の煮っころがし？)を、洋食器の平皿へいっしょに並べて盛りつけてしまうのは、いくらなんでもありえないだろう。焼き魚を食べてるうちに、煮物の煮汁が魚のほうへ流れてきそうで、ちゃんと料理別に食器は分けるべきでしょ。そういう味わいの楽しみや、器(うつわ)も含めた料理の視覚的な楽しみを(すなわち個人の趣味嗜好を)台無しにする、平皿を中心とした洋食器一辺倒のお薦めと妙ちくりんな効率化は、まったく納得できない。洗う皿の数が4～5枚増えたって、楽しく美しく食卓を囲めれば別にいいじゃん……と思ってしまうのだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FB0E68980E6B7B7E6B28C.jpg" alt="台所混沌.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FB0E68980E695B4E9A093.jpg" alt="台所整頓.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B883E5B7BEE5B9B2E38197.jpg" alt="布巾干し.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E5928C.jpg" alt="食器和.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E6B48B.jpg" alt="食器洋.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9858DE886B3E5928C-35a27.jpg" alt="配膳和.jpg" width="520" height="377" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9858DE886B3E6B48B-c650a.jpg" alt="配膳洋.jpg" width="520" height="359" border="0" /></div><div>　日本の台所と対比させるためか、欧米の台所も登場している。どこかの国の、大使館員の家庭を取材したもののようだが、整然としたキッチンで主婦が皿をふいて戸棚に収めるシーンが紹介されている。そこに、和食と洋食では主食はもちろん、料理自体や食文化が大きく異なるのだから、それにあわせて台所の設備や食器がちがうのは当然でしょ……というような大前提の視点は、いともたやすく捨象されてしまっている。これも、薩長政府以来の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518674667.html" target="_blank" rel="noopener">欧米かぶれ</a>の残滓がつづいていたものだろうか、まことに困った政府による欧米の文化や習慣の押しつけだ。<br />　そのほか、主食であるご飯を炊くための、昭和初期の竈(かまど)からガス炊飯器、電気炊飯器などが紹介されているのも面白い。当時は都市ガスが普及しつつある時代なので、台所の主力設備としてガスコンロも大きくクローズアップされている。映画に登場しているガスコンロは、わたしが子どものころまで見かけたタイプのもので、ガス栓をひねりマッチを擦って近づけ点火するものだ。ヘタをすると、ガスが出すぎてやや爆発気味の点火となり、指先が熱かった記憶がある。当時のガスストーブもマッチで火を点ける仕様で、生活にマッチは欠かせなかった。<br />　また、台所の創意工夫については、配達された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-20.html" target="_blank" rel="noopener">ヱビスビール</a>の木箱を工作して、食器収納棚をつくるという映像もあった。木箱の蓋を四角くくり抜き、その板を素材に、縦にした木箱の内側に棚をつくりつけて食器を収納するというものだ。くり抜いた蓋には目の細かな網を張り、虫が中へ入らないように工夫して扉にする。当時は、酒屋へヱビスビール(壜ビール)をダース注文すると、木箱ごと配達されていた。もちろん、木箱と空き壜は酒屋へ返すリターナブルの仕組みだったろうが、木箱を買うか譲り受けるかしてこしらえたものだろう。でも、まるで岡持ちのような外観で、合理主義者だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">金山らく夫人</a>には受けるかもしれないが、一般家庭ではいかがなものだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ACA7E7B1B3E58FB0E689801.jpg" alt="欧米台所1.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ACA7E7B1B3E58FB0E689802.jpg" alt="欧米台所2.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88.jpg" alt="竈.jpg" width="520" height="383" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88E382ACE382B9.jpg" alt="竈ガス.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AB88E99BBBE6B097.jpg" alt="竈電気.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A39FE599A8E6A39AE382A8E38393E382B9E38393E383BCE383AB.jpg" alt="食器棚エビスビール.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div>　「台所改善講」という講(組合)があったのを、この映画で初めて知った。台所を大がかりに改善する資金を少しずつ積み立てたり、工務店がなく大工がいない農村などでは同講が組合化されて存在し、先述の台所の土壁に穴を開けて窓を設置するような大がかりな工事や、排水溝あるいは汚水槽を設置するなど、一家庭だけでは対応しきれない資金や工事を改善講中のメンバーが集まり、協力しあって作業を行うという仕組みだったようだ。映画の製作意図やテーマ性はさておいて、1932年(昭和7)当時の台所の様子や設備を知るには、きわめて貴重な映像資料といえるだろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：洋風の住宅で、なぜか和装の主婦が子どもたちの食事を用意している。このシーンだけわざとらしい表情や動作がつづくので、演じているのは役者だろう。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、農家の台所の土壁を打(ぶ)ちこわして窓を設置する様子。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、文化住宅のシーンでわざとらしい子役の前にはガストースターが置かれ、台所の流しの左上には電気湯沸かし器が見える。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、一般家庭の台所風景でガスを燃料にした調理器具が並ぶ。だが水にこだわりがあるのか、お茶を淹れるときは汲み置きの湧水のようだ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中中</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、花崗岩製とブリキなど金属板を貼った流し。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、煙抜きのために設置された台所の煙突や臭突。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、流しで洗った食器を置く水切り台。金属の水切りに下部が簀の子仕様のものや、流しに向けて傾斜のついた水切り台がめずらしい。映像を観察すると氷を入れて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521376689.html" target="_blank" rel="noopener">食物を保存</a>しておく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-01.html" target="_blank" rel="noopener">初期型冷蔵庫</a>を備えた流し台もあったことがわかる。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、調理器具が雑然と置かれた台所と整理整頓された台所×2葉の比較。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、いろいろな形状の和食器と単純な平皿のみの洋食器との比較。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、和食器と洋食器を用いた配膳の比較だが、どう見ても和食器を用いたほうが調和がとれて料理が美味しそうに見える。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、欧米の台所×2葉で上段の映像の奥には当時は非常に高価だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-08-18.html" target="_blank" rel="noopener">電気冷蔵庫</a>が見えている。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、江戸期と変わらない昔ながらの竈(かまど)によるご飯炊き、ガス炊飯器(瓦斯竈)、そして電気炊飯器(電熱竈)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、ヱビスビールの空き木箱を利用した食器棚の工作例。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-08.html" target="_blank" rel="noopener">林芙美子・手塚緑敏邸</a>の台所にある、花崗岩の流し台と下にしつらえられた収納庫(米櫃)。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E982B8E6B581E38197.JPG" alt="林邸流し.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E982B8E7B1B3E6AB83.JPG" alt="林邸米櫃.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる映像</category>
      <author>落合道人</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,tsune-atelier/520000564</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521108230.html</link>
      <title>上落合の卓袱台でグルグルまわる徳永直。</title>
      <pubDate>Fri, 25 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　1935年(昭和10)7月、東京美術学校の彫刻科に在学中だった彫刻家(の卵)が、上落合のアトリエで徳永直の胸像に取り組んでいた。徳永直に上落合のアトリエまで実際にきてもらい、3日＋1日かけて胸像を仕上げている。徳永直は、毎日午後2時から午後4時ぐらいまでの2時間、モデル台がないため卓袱台(ちゃぶだい)の上に胡坐をかいてモデルをつとめた。　1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がその..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE383ADE38383E382ABE383BCE3839EE383AAE382A2E3808D1974.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x30ED;&#x30C3;&#x30AB;&#x30FC;&#x30DE;&#x30EA;&#x30A2;&#x300D;1974.jpg" width="600" height="600" border="0" />　1935年(昭和10)7月、東京美術学校の彫刻科に在学中だった彫刻家(の卵)が、上落合のアトリエで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-17.html" target="_blank">徳永直</a>の胸像に取り組んでいた。徳永直に上落合のアトリエまで実際にきてもらい、3日＋1日かけて胸像を仕上げている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank">徳永直</a>は、毎日午後2時から午後4時ぐらいまでの2時間、モデル台がないため卓袱台(ちゃぶだい)の上に胡坐をかいてモデルをつとめた。　1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がそのまま身体を回転させていた。粘土による肉づけを終えるころ、詩人の「O氏」が来訪してふたりを前に、創作方法などのおしゃべりが止まらない。よほどヒマだったのか、彫刻家も「天馬空を翔けるが如く彼饒舌(しゃべ)る」と記している。彼が帰るころには、天窓がないアトリエは薄暗くなり制作中止となった。　2日目は、駆けだしの彫刻家へ、徳永直は茶菓として饅頭を買ってきてくれた。ところが創作をはじめようとしたら、漫画家の「K夫妻」が茶菓をもって訪ねてきた。つづいて、画家の「S、W、K各氏」の3人、翻訳家の「M氏」、おまけに隣家の「N夫人」までがやってきた。当時、上落合はヒマ人ばかりだったのだろうか。こんな喧噪で仕事ができるのかと思うが、おしゃべりは来客同士にまかせて作業を進めていたらしい。おまけに、近所で野球チームを結成しようということになり、客たちの相談がまとまったところで、この日の作業を終えたようだ。　夜になると、筋向いに住んでいる差配のジイさんがやってきて、家賃を滞納するなら「立退いて貰ふ」といってきた。上落合の借家に南京虫が出たので、彫刻家は家賃の支払いをしぶっていたらしい。「南京虫は、こちらで退治するから」、早々立ち退いてくれという。この差配のジイさんは耳が遠く、ほぼ筆談なのだが2時間ぐらい退去するしないで押し問答をつづけ、ジイさんは「貴殿も人は好いようだが時代が違ふ」といった。なぜか、徳永直がモデルに通ってきているのを知っており、「わしは、これで徳永さんのものは好んで読んでゐます」などという話になり、彫刻家が造りかけの胸像を見せると、話がウヤムヤになってジイさんは引きあげていった。　3日目は、農民出身の詩人「D氏」がやってきて、卓袱台の上にいる徳永直に話しかけるので、頭部がたびたび動いて仕事がしづらかった。モデル最後の日なので、徳永直には卓袱台の上でグルグルまわってもらって制作を急いだが、ついに完成の域には達しなかった。これから旅行に出るという徳永直に、モデルの続行は不可能だった。　そこへ、翻訳家の「M氏」が来訪して、日本のプロレタリア美術について議論となる。翻訳家は、「これまでのものは一般に、田舎臭い気がする」といい、美術領域でも資本主義発達史的な検討が必要で、新興美術を含めての検討が不可欠のように思うといった。美術分野に、社会科学の講座派と労農派の発達史論争がどうかかわりがあるのか不明だが、ふたりとも話好きだったらしく議論は長めにつづいた。夜になって、「同僚」(おそらく東京美術学校彫塑科の同級生)の「S、M」の2名がやってきて、造りかけの徳永直像について「親切な批判」を受けた。　こうたびたび来訪者があっては仕事が片づくはずもなく、彫刻家は徳永直が旅行から帰るころを見はからって、もう一度だけモデルになってくれと依頼する手紙を書いている。徳永はそれに快く応じたようで、「徳永氏に深く労を謝して」とこのエッセイを終えている。同文が掲載されたのは、1935年(昭和10)にナウカ社刊行の「文学評論」9月号で、『胸像制作週間』と題した日記風のエッセイを書いたのは「佐田四郎」だった。もちろん、上落合の佐田四郎などという彫刻家は聞きおぼえはないが、彼は戦後に造形・立体美術の表現者として活躍する入江比呂(入江弘)のことだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E794B0E59B9BE9838EE3808CE5BEB3E6B0B8E79BB4E6B08FE5838FE3808D1935.jpg" alt="&#x4F50;&#x7530;&#x56DB;&#x90CE;&#x300C;&#x5FB3;&#x6C38;&#x76F4;&#x6C0F;&#x50CF;&#x300D;1935.jpg" width="255" height="363" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;.jpg" width="255" height="363" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E794B0E59B9BE9838EE3808CE5B08FE69E97E5A49AE5969CE4BA8CE383ACE383AAE383BCE38395E5838FE3808D1935.jpg" alt="&#x4F50;&#x7530;&#x56DB;&#x90CE;&#x300C;&#x5C0F;&#x6797;&#x591A;&#x559C;&#x4E8C;&#x30EC;&#x30EA;&#x30FC;&#x30D5;&#x50CF;&#x300D;1935.jpg" width="255" height="322" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E69CACE59490E8B2B4E3808CE5B08FE69E97E5A49AE5969CE4BA8CE381AEE5838FE3808D1933.jpg" alt="&#x5CA1;&#x672C;&#x5510;&#x8CB4;&#x300C;&#x5C0F;&#x6797;&#x591A;&#x559C;&#x4E8C;&#x306E;&#x50CF;&#x300D;1933.jpg" width="255" height="322" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE5A496E69DA5E88085E3808D1958.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x5916;&#x6765;&#x8005;&#x300D;1958.jpg" width="520" height="878" border="0" />　佐田四郎こと入江比呂は当時、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank">ゴーリキー</a>像や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-18.html" target="_blank">秋田雨雀</a>像、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-02.html" target="_blank">小林多喜二</a>レリーフ像などを制作していた。ナウカ社では、同レリーフ像を1円30銭で頒布しており、書斎における<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-22.html" target="_blank">小林多喜二</a>の写真をモデルにしたもので、「ナウカ社の『多喜二全集』と共に、これを座右に飾つて、故人の文学的業績を偲んで下さい」と広告している。レリーフを見ると、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-02.html" target="_blank">岡本唐貴</a>が描いた素描の小林多喜二にも酷似しているので、彼もまた写真からスケッチしているのではないか。　その<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-06-30.html" target="_blank">岡本唐貴</a>だが、プロレタリア美術運動が政府に圧殺されていった戦前・戦中の期間を通じて精力的に制作していたが、佐田四郎こと入江比呂は同じ期間にほとんど仕事をしていない。それは、作家とちがって美術家は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank">特高</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank">憲兵隊</a>から激しく弾圧はされても、強いて「転向」は迫られず挫折感をともなわなかったという事情があるからだろうという見方がある。このテーマについて、1981年(昭和56)に入江比呂作品集刊行会から出版された『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』に収録の、門田秀雄『美術前衛の闘いとリアリズム絵画の運命』から少し引用してみよう。　　▼　しかし一方で、プロレタリア美術運動の解体を岡本唐貴らリーダーと全くちがう受けとめ方をした美術作家(たち)もいたのである。例えばそれは、プロレタリア美術展の頂点といわれる1930年の第3回展&lt;プロレタリア美術大展覧会&gt;にはじめて美校在学中に出品した彫刻家・入江比呂であった。「PP(日本プロレタリア美術家同盟)はもっていた唯物弁証法的創作方法と共に崩壊した。支柱を無くした私は敗戦までほとんど内発的な仕事をしていない」(1976年、個展案内状)。／これに反して、岡本唐貴は戦中期におそらく、全生涯を通じてすら、最も豊饒であり、二人の戦争期の過ごし方は際立った対照を見せている。この差異はまた、戦後において、岡本唐貴の緩慢に風解してゆくリアリズムと入江比呂の立体作家としての群を抜くラディカルな軌跡との――前衛としての蘇生との――鋭い対照となって再び歴史のなかにあらわれる。(&lt; &gt;引用者註)　　▲　興味深いのは、当局の徹底した弾圧があったにもかかわらず、ほとんど「挫折感」を見せずポジティブに制作を継続していた岡本唐貴が、敗戦とともに表現の「自由」が保障されたとたん、作品の精彩を徐々になくしていったのとは反対に、美術運動の徹底した挫折感を味わった(とみられる)入江比呂は、敗戦まで制作意欲をまったく喪失していたにもかかわらず、戦後を迎えるとのびのびとした創作意欲が回復し、造形・立体美術家としてフロントに踊りでてきたということだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE78E89E9818AE381B3E3808D1970.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x7389;&#x904A;&#x3073;&#x300D;1970.jpg" width="520" height="536" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE381B2E38282E3808D1971.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x3072;&#x3082;&#x300D;1971.jpg" width="520" height="945" border="0" />　カントではないけれど、空気抵抗があるからハトは速く翔ぶことができないが、空気抵抗さえなくしてしまえばもっと速く翔べると考えるハトがいるとすれば、たちまち墜落して二度と翔べなくなってしまうだろうという逸話が思い浮かぶ。現実に当局の激しい抑圧や弾圧があったせいで、岡本唐貴は生きいきとした表現をつづけられたのかもしれず、そのタガが外れた戦後は精彩さを欠き、表現を前進させることが困難になっていった……というような経緯だろうか。　ちょっと恥ずかしい余談だけれど、上記の「翔べないハト」の逸話を、わたしは以前にどこかでサルトルが引用していると書いた憶えがある。これは明らかにわたしの拙い誤記憶で、カントの『純粋理性批判』が正しい引用元だ。サルトルが『自由への道』など著作のどこかで再引用していたのを、誤って記憶していたのかもしれない。改めて、ここで訂正させていただきたい。　その岡本唐貴自身も、『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』(1981年)の出版にあわせ、入江作品に対する『まづしい感想』という一文を寄せている。同文より、少しだけ引用してみよう。　　▼　しかし社会主義レアリズムにおける政治の優位性というドグマに進路を歪められた。それがこの道の破産の主な条件であった。いまにおいてもこのことにかわりはない。／ところで戦後においてはダダはシュールに吸収された。このことは本来従兄弟関係の様なもので、定着しようと思えばシュールになるのが自然である。戦後にはシュールとアブストレーという大筋の多数な分岐が花と咲いている。ネオ・ダダもその一つであろう。／入江君の仕事が立体造型により、社会主義レアリズムからダダめいたものに移行しながら、実はシュールめいたものにも見えるのは、社会主義レアリズムの本質的死めつと無関係ではないのだと思う。これは一種の批判的レアリズムの現代風な表現行為なのだとも考えられる。／製作年代を追って内容と形式を検討してゆけば更に面白いものがあると思うが、いまそのヨユウはない。／君はぼくの逆の道を歩んでいるようだな。　　▲　入江比呂が、インパクトのある作品を堰を切ったように生みだす戦後の姿を、どこか羨んでいる感触が行間から滲むような文章だ。岡本は同文で、入江の作品を「シュール」や「ダダ」と同列へ収斂しようとするが、入江自身はもちろん、彼が属していた「前衛美術会」はダダもシュルレアリズムも超克する地平に立とうとする、現実社会の変革をめざす表現者集団ではなかったろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE8B2B4E7A8AEE980A3E7B590E3808D1977.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x8CB4;&#x7A2E;&#x9023;&#x7D50;&#x300D;1977.jpg" width="520" height="831" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE9A39FE79BAEE4BABAE3808D1979.jpg" alt="&#x5165;&#x6C5F;&#x6BD4;&#x5442;&#x300C;&#x98DF;&#x76EE;&#x4EBA;&#x300D;1979.jpg" width="520" height="612" border="0" />　当時の入江比呂のアトリエは、上落合2丁目619番地の吉岡方にあった。この「吉岡」という人物は不明だが、専属の差配がいるので付近の地主が敷地内に建てた貸家だろうか。位置的には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-10.html" target="_blank">なめくじ横丁</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-09.html" target="_blank">上落合銀座通り</a>をはさんだ南東側ということになる。戦後は、しばらく練馬区下石神井2丁目1657番地にいたが、鎌倉は佐助稲荷の裏側(西側)にあたる笛田にアトリエをかまえていた。
◆写真上：入江比呂の代表作のひとつ、1974年(昭和49)制作の『ロッカーマリア』(部分)。◆写真中上：上左は、1935年(昭和10)に上落合で制作された佐田四郎(入江比呂)『徳永直氏像』。上右は、戦後の鎌倉の笛田アトリエ時代に撮影された入江比呂。中左は、1935年(昭和10)ごろ制作された同『小林多喜二レリーフ像』。中右は、1933年(昭和8)制作の岡本唐貴『小林多喜二の像』。下は、1958年(昭和33)に制作された入江比呂『外来者』。◆写真中下：上は、1970年(昭和45)に制作された入江比呂『玉遊び』。下は、1971年(昭和46)に制作された同『ひも』。いずれも『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』より。◆写真下：上は、1977年(昭和52)制作の入江比呂『貴種連結』。下は、1979年(昭和54)制作の『食目人』。作品は屋外に置かれることが多く、展示中に風雨にさらされて経年変化が激しいものもある。工場の廃材や廃棄された大量消費材などを、アッサンブラージュという手法で寄せ集め、白セメントなども使用しているためクラックや腐食が起きやすいが、風化にまかせるという肯定的な発想も含まれている。大量生産・大量消費社会から出るゴミや廃材をあえて使う、フランスのヌーヴォーレアリズムや米国のジャンク・アートなど、当時は「反芸術運動」の主流となっていた。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE383ADE38383E382ABE383BCE3839EE383AAE382A2E3808D1974.jpg" alt="入江比呂「ロッカーマリア」1974.jpg" width="600" height="600" border="0" /></div><div>　1935年(昭和10)7月、東京美術学校の彫刻科に在学中だった彫刻家(の卵)が、上落合のアトリエで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-17.html" target="_blank" rel="noopener">徳永直</a>の胸像に取り組んでいた。徳永直に上落合のアトリエまで実際にきてもらい、3日＋1日かけて胸像を仕上げている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">徳永直</a>は、毎日午後2時から午後4時ぐらいまでの2時間、モデル台がないため卓袱台(ちゃぶだい)の上に胡坐をかいてモデルをつとめた。<br />　1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がそのまま身体を回転させていた。粘土による肉づけを終えるころ、詩人の「O氏」が来訪してふたりを前に、創作方法などのおしゃべりが止まらない。よほどヒマだったのか、彫刻家も「天馬空を翔けるが如く彼饒舌(しゃべ)る」と記している。彼が帰るころには、天窓がないアトリエは薄暗くなり制作中止となった。<br />　2日目は、駆けだしの彫刻家へ、徳永直は茶菓として饅頭を買ってきてくれた。ところが創作をはじめようとしたら、漫画家の「K夫妻」が茶菓をもって訪ねてきた。つづいて、画家の「S、W、K各氏」の3人、翻訳家の「M氏」、おまけに隣家の「N夫人」までがやってきた。当時、上落合はヒマ人ばかりだったのだろうか。こんな喧噪で仕事ができるのかと思うが、おしゃべりは来客同士にまかせて作業を進めていたらしい。おまけに、近所で野球チームを結成しようということになり、客たちの相談がまとまったところで、この日の作業を終えたようだ。<br />　夜になると、筋向いに住んでいる差配のジイさんがやってきて、家賃を滞納するなら「立退いて貰ふ」といってきた。上落合の借家に南京虫が出たので、彫刻家は家賃の支払いをしぶっていたらしい。「南京虫は、こちらで退治するから」、早々立ち退いてくれという。この差配のジイさんは耳が遠く、ほぼ筆談なのだが2時間ぐらい退去するしないで押し問答をつづけ、ジイさんは「貴殿も人は好いようだが時代が違ふ」といった。なぜか、徳永直がモデルに通ってきているのを知っており、「わしは、これで徳永さんのものは好んで読んでゐます」などという話になり、彫刻家が造りかけの胸像を見せると、話がウヤムヤになってジイさんは引きあげていった。<br />　3日目は、農民出身の詩人「D氏」がやってきて、卓袱台の上にいる徳永直に話しかけるので、頭部がたびたび動いて仕事がしづらかった。モデル最後の日なので、徳永直には卓袱台の上でグルグルまわってもらって制作を急いだが、ついに完成の域には達しなかった。これから旅行に出るという徳永直に、モデルの続行は不可能だった。<br />　そこへ、翻訳家の「M氏」が来訪して、日本のプロレタリア美術について議論となる。翻訳家は、「これまでのものは一般に、田舎臭い気がする」といい、美術領域でも資本主義発達史的な検討が必要で、新興美術を含めての検討が不可欠のように思うといった。美術分野に、社会科学の講座派と労農派の発達史論争がどうかかわりがあるのか不明だが、ふたりとも話好きだったらしく議論は長めにつづいた。夜になって、「同僚」(おそらく東京美術学校彫塑科の同級生)の「S、M」の2名がやってきて、造りかけの徳永直像について「親切な批判」を受けた。<br />　こうたびたび来訪者があっては仕事が片づくはずもなく、彫刻家は徳永直が旅行から帰るころを見はからって、もう一度だけモデルになってくれと依頼する手紙を書いている。徳永はそれに快く応じたようで、「徳永氏に深く労を謝して」とこのエッセイを終えている。同文が掲載されたのは、1935年(昭和10)にナウカ社刊行の「文学評論」9月号で、『胸像制作週間』と題した日記風のエッセイを書いたのは「佐田四郎」だった。もちろん、上落合の佐田四郎などという彫刻家は聞きおぼえはないが、彼は戦後に造形・立体美術の表現者として活躍する入江比呂(入江弘)のことだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E794B0E59B9BE9838EE3808CE5BEB3E6B0B8E79BB4E6B08FE5838FE3808D1935.jpg" alt="佐田四郎「徳永直氏像」1935.jpg" width="255" height="363" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182.jpg" alt="入江比呂.jpg" width="255" height="363" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E794B0E59B9BE9838EE3808CE5B08FE69E97E5A49AE5969CE4BA8CE383ACE383AAE383BCE38395E5838FE3808D1935.jpg" alt="佐田四郎「小林多喜二レリーフ像」1935.jpg" width="255" height="322" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E69CACE59490E8B2B4E3808CE5B08FE69E97E5A49AE5969CE4BA8CE381AEE5838FE3808D1933.jpg" alt="岡本唐貴「小林多喜二の像」1933.jpg" width="255" height="322" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE5A496E69DA5E88085E3808D1958.jpg" alt="入江比呂「外来者」1958.jpg" width="520" height="878" border="0" /></div><div>　佐田四郎こと入江比呂は当時、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-25.html" target="_blank" rel="noopener">ゴーリキー</a>像や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-18.html" target="_blank" rel="noopener">秋田雨雀</a>像、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">小林多喜二</a>レリーフ像などを制作していた。ナウカ社では、同レリーフ像を1円30銭で頒布しており、書斎における<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-11-22.html" target="_blank" rel="noopener">小林多喜二</a>の写真をモデルにしたもので、「ナウカ社の『多喜二全集』と共に、これを座右に飾つて、故人の文学的業績を偲んで下さい」と広告している。レリーフを見ると、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-02.html" target="_blank" rel="noopener">岡本唐貴</a>が描いた素描の小林多喜二にも酷似しているので、彼もまた写真からスケッチしているのではないか。<br />　その<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">岡本唐貴</a>だが、プロレタリア美術運動が政府に圧殺されていった戦前・戦中の期間を通じて精力的に制作していたが、佐田四郎こと入江比呂は同じ期間にほとんど仕事をしていない。それは、作家とちがって美術家は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank" rel="noopener">特高</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank" rel="noopener">憲兵隊</a>から激しく弾圧はされても、強いて「転向」は迫られず挫折感をともなわなかったという事情があるからだろうという見方がある。このテーマについて、1981年(昭和56)に入江比呂作品集刊行会から出版された『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』に収録の、門田秀雄『美術前衛の闘いとリアリズム絵画の運命』から少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　しかし一方で、プロレタリア美術運動の解体を岡本唐貴らリーダーと全くちがう受けとめ方をした美術作家(たち)もいたのである。例えばそれは、プロレタリア美術展の頂点といわれる1930年の第3回展&lt;プロレタリア美術大展覧会&gt;にはじめて美校在学中に出品した彫刻家・入江比呂であった。「PP(日本プロレタリア美術家同盟)はもっていた唯物弁証法的創作方法と共に崩壊した。支柱を無くした私は敗戦までほとんど内発的な仕事をしていない」(1976年、個展案内状)。／これに反して、岡本唐貴は戦中期におそらく、全生涯を通じてすら、最も豊饒であり、二人の戦争期の過ごし方は際立った対照を見せている。この差異はまた、戦後において、岡本唐貴の緩慢に風解してゆくリアリズムと入江比呂の立体作家としての群を抜くラディカルな軌跡との――前衛としての蘇生との――鋭い対照となって再び歴史のなかにあらわれる。(&lt; &gt;引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　興味深いのは、当局の徹底した弾圧があったにもかかわらず、ほとんど「挫折感」を見せずポジティブに制作を継続していた岡本唐貴が、敗戦とともに表現の「自由」が保障されたとたん、作品の精彩を徐々になくしていったのとは反対に、美術運動の徹底した挫折感を味わった(とみられる)入江比呂は、敗戦まで制作意欲をまったく喪失していたにもかかわらず、戦後を迎えるとのびのびとした創作意欲が回復し、造形・立体美術家としてフロントに踊りでてきたということだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE78E89E9818AE381B3E3808D1970.jpg" alt="入江比呂「玉遊び」1970.jpg" width="520" height="536" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE381B2E38282E3808D1971.jpg" alt="入江比呂「ひも」1971.jpg" width="520" height="945" border="0" /></div><div>　カントではないけれど、空気抵抗があるからハトは速く翔ぶことができないが、空気抵抗さえなくしてしまえばもっと速く翔べると考えるハトがいるとすれば、たちまち墜落して二度と翔べなくなってしまうだろうという逸話が思い浮かぶ。現実に当局の激しい抑圧や弾圧があったせいで、岡本唐貴は生きいきとした表現をつづけられたのかもしれず、そのタガが外れた戦後は精彩さを欠き、表現を前進させることが困難になっていった……というような経緯だろうか。<br />　ちょっと恥ずかしい余談だけれど、上記の「翔べないハト」の逸話を、わたしは以前にどこかでサルトルが引用していると書いた憶えがある。これは明らかにわたしの拙い誤記憶で、カントの『純粋理性批判』が正しい引用元だ。サルトルが『自由への道』など著作のどこかで再引用していたのを、誤って記憶していたのかもしれない。改めて、ここで訂正させていただきたい。<br />　その岡本唐貴自身も、『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』(1981年)の出版にあわせ、入江作品に対する『まづしい感想』という一文を寄せている。同文より、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　しかし社会主義レアリズムにおける政治の優位性というドグマに進路を歪められた。それがこの道の破産の主な条件であった。いまにおいてもこのことにかわりはない。／ところで戦後においてはダダはシュールに吸収された。このことは本来従兄弟関係の様なもので、定着しようと思えばシュールになるのが自然である。戦後にはシュールとアブストレーという大筋の多数な分岐が花と咲いている。ネオ・ダダもその一つであろう。／入江君の仕事が立体造型により、社会主義レアリズムからダダめいたものに移行しながら、実はシュールめいたものにも見えるのは、社会主義レアリズムの本質的死めつと無関係ではないのだと思う。これは一種の批判的レアリズムの現代風な表現行為なのだとも考えられる。／製作年代を追って内容と形式を検討してゆけば更に面白いものがあると思うが、いまそのヨユウはない。／君はぼくの逆の道を歩んでいるようだな。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　入江比呂が、インパクトのある作品を堰を切ったように生みだす戦後の姿を、どこか羨んでいる感触が行間から滲むような文章だ。岡本は同文で、入江の作品を「シュール」や「ダダ」と同列へ収斂しようとするが、入江自身はもちろん、彼が属していた「前衛美術会」はダダもシュルレアリズムも超克する地平に立とうとする、現実社会の変革をめざす表現者集団ではなかったろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE8B2B4E7A8AEE980A3E7B590E3808D1977.jpg" alt="入江比呂「貴種連結」1977.jpg" width="520" height="831" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585A5E6B19FE6AF94E59182E3808CE9A39FE79BAEE4BABAE3808D1979.jpg" alt="入江比呂「食目人」1979.jpg" width="520" height="612" border="0" /></div><div>　当時の入江比呂のアトリエは、上落合2丁目619番地の吉岡方にあった。この「吉岡」という人物は不明だが、専属の差配がいるので付近の地主が敷地内に建てた貸家だろうか。位置的には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-10.html" target="_blank" rel="noopener">なめくじ横丁</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-09.html" target="_blank" rel="noopener">上落合銀座通り</a>をはさんだ南東側ということになる。戦後は、しばらく練馬区下石神井2丁目1657番地にいたが、鎌倉は佐助稲荷の裏側(西側)にあたる笛田にアトリエをかまえていた。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：入江比呂の代表作のひとつ、1974年(昭和49)制作の『ロッカーマリア』(部分)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、1935年(昭和10)に上落合で制作された佐田四郎(入江比呂)『徳永直氏像』。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、戦後の鎌倉の笛田アトリエ時代に撮影された入江比呂。<span style="color: #3366ff;">中左</span>は、1935年(昭和10)ごろ制作された同『小林多喜二レリーフ像』。<span style="color: #3366ff;">中右</span>は、1933年(昭和8)制作の岡本唐貴『小林多喜二の像』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1958年(昭和33)に制作された入江比呂『外来者』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1970年(昭和45)に制作された入江比呂『玉遊び』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1971年(昭和46)に制作された同『ひも』。いずれも『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』より。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1977年(昭和52)制作の入江比呂『貴種連結』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1979年(昭和54)制作の『食目人』。作品は屋外に置かれることが多く、展示中に風雨にさらされて経年変化が激しいものもある。工場の廃材や廃棄された大量消費材などを、アッサンブラージュという手法で寄せ集め、白セメントなども使用しているためクラックや腐食が起きやすいが、風化にまかせるという肯定的な発想も含まれている。大量生産・大量消費社会から出るゴミや廃材をあえて使う、フランスのヌーヴォーレアリズムや米国のジャンク・アートなど、当時は「反芸術運動」の主流となっていた。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <title>下落合を描いた画家たち・銭痩鉄。(続)</title>
      <pubDate>Tue, 22 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　戦前、日本に滞在した中国の文人に、江蘇省無錫出身で上海に住んでいた南画家で書家、篆刻(てんこく)家の銭痩鉄(本名：銭厓)がいる。書画や篆刻を学んだあと、上海美術専科学校の画師(教師)に就任。1923年(大正12)の春に橋本関雪の招きで初来日し、関東大震災後の同年秋まで滞在している。この間、銀座の松屋デパートで個展を開いている。　翌1924年(大正13)には、銭痩鉄や橋本関雪を含む日中の画家7人が合同で画会「解衣社」を結成し、日本で第1回展覧会を開催した。また、関東大震災の救..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE890BDE59088E5B1B1E88D98E3808D194708.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x300C;&#x843D;&#x5408;&#x5C71;&#x8358;&#x300D;194708.jpg" width="600" height="525" border="0" />　戦前、日本に滞在した中国の文人に、江蘇省無錫出身で上海に住んでいた南画家で書家、篆刻(てんこく)家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-09-26.html" target="_blank">銭痩鉄</a>(本名：銭厓)がいる。書画や篆刻を学んだあと、上海美術専科学校の画師(教師)に就任。1923年(大正12)の春に橋本関雪の招きで初来日し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>後の同年秋まで滞在している。この間、銀座の松屋デパートで個展を開いている。　翌1924年(大正13)には、銭痩鉄や橋本関雪を含む日中の画家7人が合同で画会「解衣社」を結成し、日本で第1回展覧会を開催した。また、関東大震災の救援活動として「日中文化展覧会」に参加し、売り上げを救援金として寄付している。昭和に入ると、書画・篆刻に凝っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-18.html" target="_blank">会津八一</a>と知りあい、互いの文人気質にことさら親しみをおぼえたのか、以後、篆刻に関しては作品を評価しあう仲になった。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-22.html" target="_blank">谷崎潤一郎</a>ら文学者とも親しくなり、東京・大阪の松坂屋デパートなど、各地で日本画家とのコラボ展覧会を開いている。　1931年(昭和6)には、上海美術公司出版の雑誌「美術生活」の主任編集員となったが、1935年(昭和10)に家族をともなって再来日し、会津八一の支援で新潟で個展を開催するなど、精力的な創作活動をつづけている。また、三省堂の客員顧問や編集委員をつとめ、同社の書雑誌「書苑」を創刊している。だが、1937年(昭和12)に日中戦争がはじまると、同年8月7日に「中国のスパイ」として<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank">特高</a>に逮捕され、1941年(昭和16)5月15日までの3年半、中野にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-31.html" target="_blank">豊多摩刑務所</a>に投獄された。出獄後、銭痩鉄は家族が待つ上海へ帰国している。　東京における銭痩鉄の住所で、よく知られているのは「豊島区巣鴨1丁目3277番地」だが、これは明らかにおかしい。巣鴨1丁目には当時、このような3000番台の多数ケタ番地は存在しないし、そもそも巣鴨7丁目でさえ1700番台までの番地しかない。昭和10年代の豊島区で、3277番地が存在するのは西巣鴨1丁目であり、上記の住所は「豊島区西巣鴨1丁目3277番地」が正しいのだろう。現在の住所でいうと、池袋サンシャインシティ(当時は巣鴨刑務所)のすぐ東側、都電荒川線沿いにあたる東池袋4丁目36～37番地界隈だ。　もうひとつ知られている“住所”は、「中野区新井町336番地」だが、これはいわずと知れた数多くの思想犯を収容する、悪名高い豊多摩刑務所(のち中野刑務所)だ。銭痩鉄は、獄中からの手紙の差出人に、同住所と名前だけを記載している。「中国のスパイ」としての容疑は、中華民国の革命家で親日家だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-26.html" target="_blank">郭沫若</a>を、日本から中国へ脱出させたために<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519392169.html" target="_blank">「治安維持法違反」</a>に問われたとされるが、これは当時の駐日中国大使からの資金提供による依頼だった。彼は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank">孫文</a>による三民主義を支持しており、共産主義とは無縁のはずだったが、駒込警察署の特高取調室でひどい仕打ちを受けた彼は、ついにキレて取り調べの特高刑事を殴ってしまう。　戦後、事件の担当検事だった望月武夫が、「中国のスパイ」は特高のデッチ上げ事件だったことを暴露しているので、彼の証言が事実なのだろう。したがって、望月検事は銭痩鉄をおもに特高刑事への暴行傷害罪で起訴している。以下、1965年(昭和40)に法曹会から刊行された「法曹」1月号収録の長めのエッセイ、望月武夫『銭痩鉄氏のことども』から少しだけ引用してみよう。　　▼　銭厓氏は紙片に(特高刑事への)暴行の理由として「自分は篆刻の名家として万人の尊敬を受けているに拘らず、某警部は自分に対し跪拝せよと命じた、自分はこの屈辱に堪えるより寧ろ彼を殺して自らも死のうと思った」と書いて差出した。斯様な事故のため事後の取調べは検事が直接当ることとなり私がその事案の主任を命ぜられた。私は約二〇日位連日駒込警察署に通い通訳を通じて銭氏の取調べを行った、(中略)　彼は孫文の三民主義を信奉するもので共産主義者ではない、篆刻においては東洋の三鉄と称せられるものの一人であり、橋本関雪画伯に招かれて両三度来日し、秩父宮の印章も彼の篆刻にかかるものであるとのことであった、(中略)　以上、銭痩鉄こと銭厓氏の事件で、伝えられているように所謂スパイ事件でも又逃走のため警察官に暴行を加えたものでもない、(カッコ内引用者註)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;.jpg" width="520" height="467" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE99BB2E99680E5B3B0E3808D.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x300C;&#x96F2;&#x9580;&#x5CF0;&#x300D;.jpg" width="520" height="568" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE69E9CE79B86E3808D.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x300C;&#x679C;&#x76C6;&#x300D;.jpg" width="520" height="517" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE7899BE79FB3E3808D19570628.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x300C;&#x725B;&#x77F3;&#x300D;19570628.jpg" width="520" height="333" border="0" />　担当検事がここまでいうからには、その取り調べは堂々としたものだったのだろう。供述のウラ取りでも矛盾は見いだせなかったようで、望月検事は彼を供述どおりの内容で起訴している。また、望月武夫は戦後、日本橋三越で開かれた銭痩鉄作品展にも足を運んでいる。　豊多摩刑務所へ収監された銭痩鉄は、監房内で篆刻の仕事をしたいと希望して、特別に許可されている。これには、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-13.html" target="_blank">会津八一</a>や橋本関雪、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-26.html" target="_blank">谷崎潤一郎</a>たちからの強力なバックアップがあったのだろう。房内に彫刻刀を持ちこむなど、通常では考えられないことだった。　銭痩鉄は、獄中で制作した篆刻を世話になった知人たちに贈っている。会津八一のもとにも、かなりの篆刻が保存されていたが、お互い篆刻を制作すると批評しあっていたようだ。<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-07.html" target="_blank">文化村秋艸堂</a>(下落合1321番地)を訪ねた大鹿卓が、それらの作品を鑑賞している。1948年(昭和23)刊行の「桃源」11月号(吉昌社)収録の、大鹿卓『銭痩鉄氏のこと』から引用してみよう。　　▼　帰りの途々私は黄包車にゆられながら、下落合の会津先生の秋草堂を思ひ出してゐた。いつの頃であつたか私は嘗つてその二階の書斎で、先生自身常用の夥しい刻印をとり出して印譜を作られるのに、松下英磨君とともに同座したことがあつた。手鈐(しゅけん)されたのちこれは山田寒山、これは銭痩鉄と筆をとつて記入されるのを見てゐると、銭さんの刻は実に数十顥に及んでゐた。私はそのとき初めて銭痩鉄の名を知り、併せて支那近代の巨匠呉昌碩の遺髪をつぐ篆刻家であることを知つた。私はもとよりその道に暗く審美眼も持ち合わせてゐないのだが、どことなくその作品に雅趣があり気魄があつて力量のなみなみでないことが頷かれた。これらは銭さんが事に累され獄中に在つたとき特に許されて刀を振つたもので、当時会津先生は一箇の刻が出来るごとに一々その批評を書き送つて、これを鼓舞鞭撻したのだといふ。　　▲　会津八一は、獄中の銭痩鉄を励ましつづけたのかもしれないが、おそらく篆刻の腕や技量は銭痩鉄のほうが上だったのではないだろうか。銭痩鉄は、篆刻の本場で「東洋三鉄」と呼ばれるほどの腕を磨いている。また、彼が獄中にあった3年半、会津八一はあらゆる伝手(つて)やコネを使って早期釈放の運動をしている。駒込警察の特高刑事への重大な暴行傷害だったにもかかわらず、3年半の服役で済んだのは会津をはじめ、さまざまな方面からの釈放運動があったことをうかがわせる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99C9EE59D82E7A78BE889B8E5A082194301.jpg" alt="&#x971E;&#x5742;&#x79CB;&#x8278;&#x5802;194301.jpg" width="520" height="367" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE7B485E6A285E3808D.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x300C;&#x7D05;&#x6885;&#x300D;.jpg" width="520" height="770" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E9898428E7AF86E588BB29.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;(&#x7BC6;&#x523B;).jpg" width="520" height="377" border="0" />　豊多摩刑務所からの釈放後だろうか、銭痩鉄は会津八一を中国に招待している。1963年(昭和38)に会津八一先生伝刊行会から出版された、吉池進『会津八一伝』から少し引用してみよう。　　▼　「会津先生と銭痩鉄」の対談が残されているが、その中で銭痩鉄は、平和が恢復して世の中が落着いたなら一度是非先生を中国の古美術旅行に招待し、その折は遠く西陲甘粛省の敦煌莫高窟(とんこう・ばっこうくつ)の古蹟へ案内したいといっているが、その後中国の状勢も一変し、先生身辺の事情も許さず遂に実現を見ずにしまった。先生の中国美術行脚の旅は幾度か計画されたが中止されてしまったのは残念なことであった。大正末年の朝鮮旅行の計画など料治熊太と同行の予定で準備もすっかり出来上ったのに出発の前の日に中止してしまった。　　▲　会津八一の旅行計画に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-07.html" target="_blank">西落合1丁目31番地</a>に住んでいた版画家で古美術研究家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-29.html" target="_blank">料治熊太</a>が、一枚嚙んでいたのが面白い。銭痩鉄の中国招聘と古美術旅行が実現していたら、おそらく会津と連れ立って<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-13.html" target="_blank">料治熊太</a>も同行したのではないだろうか。　戦後1947年(昭和22)に、銭痩鉄は三度目の来日をはたしている。中華民国の代表団のひとりとして、東京・元麻布にあった同大使館につとめているが、同年秋に会津八一のいる新潟をわざわざ訪ねている。そして、ふたりで酒を酌み交わしながら、「亡国」の憂き目をみた会津八一は、銭痩鉄へ次のように語っている。『会津八一日記』(中央公論社／1969)より、少しだけ引用してみよう。　　▼　中国と日本には長い間にはいろいろの事があって、一度ならず戦いもした。しかし東洋に軒を並べている以上、日本として昔からどこの国より親しい関係で切っても切れぬものは中国だということを忘れてはならない。これは日本人ばかりでなく、あちらでもやはりそんな風に、よくあとさきの事を考えて物をして貰いたいものだ。私は先年、一盃を銭君に勧めながら、これを繰返し繰返し主張して別れた。(昭和二十二年十二月一日記)　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E383BBE7AF86E588BBE4BD9CE59381.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x30FB;&#x7BC6;&#x523B;&#x4F5C;&#x54C1;.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E383BBE7AF86E588BBE58DB0.jpg" alt="&#x92AD;&#x75E9;&#x9244;&#x30FB;&#x7BC6;&#x523B;&#x5370;.jpg" width="520" height="396" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AF86E588BB0.jpg" alt="&#x7BC6;&#x523B;0.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AF86E588BB1.jpg" alt="&#x7BC6;&#x523B;1.jpg" width="520" height="365" border="0" />　わたしの手もとに、中国へ旅行した友人からいただいた篆刻がある。大理石に彫られた、おそらく上海で制作されたものだと思うが、わたしの名前が刻まれている。わたしは書画を嗜まないので、篆刻などいただいてもブタに真珠なのだが、できるだけ手紙などには使うようにしてきた。少し前から、名前でなく改めて「落合道人」と刻みなおしてもらおうかと、少なからず悩んでいる。
◆写真上：1948年(昭和23)8月に制作された、銭痩鉄の南画『落合山荘』。下落合1296番地の霞坂にあった、会津八一の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-10-10.html" target="_blank">秋艸堂</a>を描いている。◆写真中上：上は、若き日の銭痩鉄(銭厓)。中上は、銭痩鉄『雲門峰』(制作年不詳／以下同)。中下は、同『果盆』。下は、1957年(昭和32)6月に制作された同『牛石』。◆写真中下：上は、霞坂沿いにあった会津八一の秋艸堂。トンビを着てステッキをもっている手前の人物が、会津八一本人。中は、銭痩鉄『紅梅』。下は、上海のアトリエで篆刻を制作する銭痩鉄。戦前は、日本で「中国のスパイ」のデッチ上げ事件で逮捕されたが、戦後1960年代には中国で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank">文化大革命</a>の影響から右派＝「日本のスパイ」のレッテルを貼られて弾圧された。◆写真下：上は、日本の書画家・小川観斎が使用した銭痩鉄の篆刻。中上は、同じく銭痩鉄の篆刻作品。中下・下は、わたしの手もとにある友人からいただいた篆刻で彫刻は龍の透かし彫り。★おまけ　2016年(平成28)に、戦災から焼け残った雑司ヶ谷鬼子母神(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-12.html" target="_blank">しきもじん</a>)の堂が、国の重要文化財(建第2646号)に指定された。境内には、それを記念して石碑が建立されたが、外国人観光客向けに記載された英文表記には、もちろん鬼子母神は「Kishimojin」と表記されている。　豊島区や東京メトロが、地元の読みである<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514484179.html" target="_blank">「きしもじん」</a>としているように、また都バス停留所の韓国語(ハングル)が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank">「키시모진(きしもじん)」</a>と正しく表記しているように、東京のバスや都電は「きし【ぼ】じん」などという、おかしな得体のしれない訛った呼称や表記をただちにやめてもらいたい。地元である江戸東京の、とてつもない恥さらし以外のなにものでもないからだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9ACBCE5AD90E6AF8DE7A59EE79FB3E7A291.jpg" alt="&#x9B3C;&#x5B50;&#x6BCD;&#x795E;&#x77F3;&#x7891;.jpg" width="520" height="693" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9ACBCE5AD90E6AF8DE7A59EE79FB3E7A29128E68BA1E5A4A729.jpg" alt="&#x9B3C;&#x5B50;&#x6BCD;&#x795E;&#x77F3;&#x7891;(&#x62E1;&#x5927;).jpg" width="520" height="336" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE890BDE59088E5B1B1E88D98E3808D194708.jpg" alt="銭痩鉄「落合山荘」194708.jpg" width="600" height="525" border="0" /></div><div>　戦前、日本に滞在した中国の文人に、江蘇省無錫出身で上海に住んでいた南画家で書家、篆刻(てんこく)家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">銭痩鉄</a>(本名：銭厓)がいる。書画や篆刻を学んだあと、上海美術専科学校の画師(教師)に就任。1923年(大正12)の春に橋本関雪の招きで初来日し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>後の同年秋まで滞在している。この間、銀座の松屋デパートで個展を開いている。<br />　翌1924年(大正13)には、銭痩鉄や橋本関雪を含む日中の画家7人が合同で画会「解衣社」を結成し、日本で第1回展覧会を開催した。また、関東大震災の救援活動として「日中文化展覧会」に参加し、売り上げを救援金として寄付している。昭和に入ると、書画・篆刻に凝っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">会津八一</a>と知りあい、互いの文人気質にことさら親しみをおぼえたのか、以後、篆刻に関しては作品を評価しあう仲になった。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-22.html" target="_blank" rel="noopener">谷崎潤一郎</a>ら文学者とも親しくなり、東京・大阪の松坂屋デパートなど、各地で日本画家とのコラボ展覧会を開いている。<br />　1931年(昭和6)には、上海美術公司出版の雑誌「美術生活」の主任編集員となったが、1935年(昭和10)に家族をともなって再来日し、会津八一の支援で新潟で個展を開催するなど、精力的な創作活動をつづけている。また、三省堂の客員顧問や編集委員をつとめ、同社の書雑誌「書苑」を創刊している。だが、1937年(昭和12)に日中戦争がはじまると、同年8月7日に「中国のスパイ」として<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank" rel="noopener">特高</a>に逮捕され、1941年(昭和16)5月15日までの3年半、中野にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-31.html" target="_blank" rel="noopener">豊多摩刑務所</a>に投獄された。出獄後、銭痩鉄は家族が待つ上海へ帰国している。<br />　東京における銭痩鉄の住所で、よく知られているのは「豊島区巣鴨1丁目3277番地」だが、これは明らかにおかしい。巣鴨1丁目には当時、このような3000番台の多数ケタ番地は存在しないし、そもそも巣鴨7丁目でさえ1700番台までの番地しかない。昭和10年代の豊島区で、3277番地が存在するのは西巣鴨1丁目であり、上記の住所は「豊島区西巣鴨1丁目3277番地」が正しいのだろう。現在の住所でいうと、池袋サンシャインシティ(当時は巣鴨刑務所)のすぐ東側、都電荒川線沿いにあたる東池袋4丁目36～37番地界隈だ。<br />　もうひとつ知られている“住所”は、「中野区新井町336番地」だが、これはいわずと知れた数多くの思想犯を収容する、悪名高い豊多摩刑務所(のち中野刑務所)だ。銭痩鉄は、獄中からの手紙の差出人に、同住所と名前だけを記載している。「中国のスパイ」としての容疑は、中華民国の革命家で親日家だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">郭沫若</a>を、日本から中国へ脱出させたために<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519392169.html" target="_blank" rel="noopener">「治安維持法違反」</a>に問われたとされるが、これは当時の駐日中国大使からの資金提供による依頼だった。彼は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">孫文</a>による三民主義を支持しており、共産主義とは無縁のはずだったが、駒込警察署の特高取調室でひどい仕打ちを受けた彼は、ついにキレて取り調べの特高刑事を殴ってしまう。<br />　戦後、事件の担当検事だった望月武夫が、「中国のスパイ」は特高のデッチ上げ事件だったことを暴露しているので、彼の証言が事実なのだろう。したがって、望月検事は銭痩鉄をおもに特高刑事への暴行傷害罪で起訴している。以下、1965年(昭和40)に法曹会から刊行された「法曹」1月号収録の長めのエッセイ、望月武夫『銭痩鉄氏のことども』から少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　銭厓氏は紙片に(特高刑事への)暴行の理由として「自分は篆刻の名家として万人の尊敬を受けているに拘らず、某警部は自分に対し跪拝せよと命じた、自分はこの屈辱に堪えるより寧ろ彼を殺して自らも死のうと思った」と書いて差出した。斯様な事故のため事後の取調べは検事が直接当ることとなり私がその事案の主任を命ぜられた。私は約二〇日位連日駒込警察署に通い通訳を通じて銭氏の取調べを行った、(中略)　彼は孫文の三民主義を信奉するもので共産主義者ではない、篆刻においては東洋の三鉄と称せられるものの一人であり、橋本関雪画伯に招かれて両三度来日し、秩父宮の印章も彼の篆刻にかかるものであるとのことであった、(中略)　以上、銭痩鉄こと銭厓氏の事件で、伝えられているように所謂スパイ事件でも又逃走のため警察官に暴行を加えたものでもない、(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984.jpg" alt="銭痩鉄.jpg" width="520" height="467" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE99BB2E99680E5B3B0E3808D.jpg" alt="銭痩鉄「雲門峰」.jpg" width="520" height="568" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE69E9CE79B86E3808D.jpg" alt="銭痩鉄「果盆」.jpg" width="520" height="517" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE7899BE79FB3E3808D19570628.jpg" alt="銭痩鉄「牛石」19570628.jpg" width="520" height="333" border="0" /></div><div>　担当検事がここまでいうからには、その取り調べは堂々としたものだったのだろう。供述のウラ取りでも矛盾は見いだせなかったようで、望月検事は彼を供述どおりの内容で起訴している。また、望月武夫は戦後、日本橋三越で開かれた銭痩鉄作品展にも足を運んでいる。<br />　豊多摩刑務所へ収監された銭痩鉄は、監房内で篆刻の仕事をしたいと希望して、特別に許可されている。これには、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-13.html" target="_blank" rel="noopener">会津八一</a>や橋本関雪、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">谷崎潤一郎</a>たちからの強力なバックアップがあったのだろう。房内に彫刻刀を持ちこむなど、通常では考えられないことだった。<br />　銭痩鉄は、獄中で制作した篆刻を世話になった知人たちに贈っている。会津八一のもとにも、かなりの篆刻が保存されていたが、お互い篆刻を制作すると批評しあっていたようだ。<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-07.html" target="_blank" rel="noopener">文化村秋艸堂</a>(下落合1321番地)を訪ねた大鹿卓が、それらの作品を鑑賞している。1948年(昭和23)刊行の「桃源」11月号(吉昌社)収録の、大鹿卓『銭痩鉄氏のこと』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　帰りの途々私は黄包車にゆられながら、下落合の会津先生の秋草堂を思ひ出してゐた。いつの頃であつたか私は嘗つてその二階の書斎で、先生自身常用の夥しい刻印をとり出して印譜を作られるのに、松下英磨君とともに同座したことがあつた。手鈐(しゅけん)されたのちこれは山田寒山、これは銭痩鉄と筆をとつて記入されるのを見てゐると、銭さんの刻は実に数十顥に及んでゐた。私はそのとき初めて銭痩鉄の名を知り、併せて支那近代の巨匠呉昌碩の遺髪をつぐ篆刻家であることを知つた。私はもとよりその道に暗く審美眼も持ち合わせてゐないのだが、どことなくその作品に雅趣があり気魄があつて力量のなみなみでないことが頷かれた。これらは銭さんが事に累され獄中に在つたとき特に許されて刀を振つたもので、当時会津先生は一箇の刻が出来るごとに一々その批評を書き送つて、これを鼓舞鞭撻したのだといふ。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　会津八一は、獄中の銭痩鉄を励ましつづけたのかもしれないが、おそらく篆刻の腕や技量は銭痩鉄のほうが上だったのではないだろうか。銭痩鉄は、篆刻の本場で「東洋三鉄」と呼ばれるほどの腕を磨いている。また、彼が獄中にあった3年半、会津八一はあらゆる伝手(つて)やコネを使って早期釈放の運動をしている。駒込警察の特高刑事への重大な暴行傷害だったにもかかわらず、3年半の服役で済んだのは会津をはじめ、さまざまな方面からの釈放運動があったことをうかがわせる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99C9EE59D82E7A78BE889B8E5A082194301.jpg" alt="霞坂秋艸堂194301.jpg" width="520" height="367" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E3808CE7B485E6A285E3808D.jpg" alt="銭痩鉄「紅梅」.jpg" width="520" height="770" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E9898428E7AF86E588BB29.jpg" alt="銭痩鉄(篆刻).jpg" width="520" height="377" border="0" /></div><div>　豊多摩刑務所からの釈放後だろうか、銭痩鉄は会津八一を中国に招待している。1963年(昭和38)に会津八一先生伝刊行会から出版された、吉池進『会津八一伝』から少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「会津先生と銭痩鉄」の対談が残されているが、その中で銭痩鉄は、平和が恢復して世の中が落着いたなら一度是非先生を中国の古美術旅行に招待し、その折は遠く西陲甘粛省の敦煌莫高窟(とんこう・ばっこうくつ)の古蹟へ案内したいといっているが、その後中国の状勢も一変し、先生身辺の事情も許さず遂に実現を見ずにしまった。先生の中国美術行脚の旅は幾度か計画されたが中止されてしまったのは残念なことであった。大正末年の朝鮮旅行の計画など料治熊太と同行の予定で準備もすっかり出来上ったのに出発の前の日に中止してしまった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　会津八一の旅行計画に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">西落合1丁目31番地</a>に住んでいた版画家で古美術研究家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">料治熊太</a>が、一枚嚙んでいたのが面白い。銭痩鉄の中国招聘と古美術旅行が実現していたら、おそらく会津と連れ立って<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-13.html" target="_blank" rel="noopener">料治熊太</a>も同行したのではないだろうか。<br />　戦後1947年(昭和22)に、銭痩鉄は三度目の来日をはたしている。中華民国の代表団のひとりとして、東京・元麻布にあった同大使館につとめているが、同年秋に会津八一のいる新潟をわざわざ訪ねている。そして、ふたりで酒を酌み交わしながら、「亡国」の憂き目をみた会津八一は、銭痩鉄へ次のように語っている。『会津八一日記』(中央公論社／1969)より、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　中国と日本には長い間にはいろいろの事があって、一度ならず戦いもした。しかし東洋に軒を並べている以上、日本として昔からどこの国より親しい関係で切っても切れぬものは中国だということを忘れてはならない。これは日本人ばかりでなく、あちらでもやはりそんな風に、よくあとさきの事を考えて物をして貰いたいものだ。私は先年、一盃を銭君に勧めながら、これを繰返し繰返し主張して別れた。(昭和二十二年十二月一日記)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E383BBE7AF86E588BBE4BD9CE59381.jpg" alt="銭痩鉄・篆刻作品.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98AADE797A9E98984E383BBE7AF86E588BBE58DB0.jpg" alt="銭痩鉄・篆刻印.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AF86E588BB0.jpg" alt="篆刻0.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AF86E588BB1.jpg" alt="篆刻1.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div>　わたしの手もとに、中国へ旅行した友人からいただいた篆刻がある。大理石に彫られた、おそらく上海で制作されたものだと思うが、わたしの名前が刻まれている。わたしは書画を嗜まないので、篆刻などいただいてもブタに真珠なのだが、できるだけ手紙などには使うようにしてきた。少し前から、名前でなく改めて「落合道人」と刻みなおしてもらおうかと、少なからず悩んでいる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1948年(昭和23)8月に制作された、銭痩鉄の南画『落合山荘』。下落合1296番地の霞坂にあった、会津八一の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">秋艸堂</a>を描いている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、若き日の銭痩鉄(銭厓)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、銭痩鉄『雲門峰』(制作年不詳／以下同)。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同『果盆』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1957年(昭和32)6月に制作された同『牛石』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、霞坂沿いにあった会津八一の秋艸堂。トンビを着てステッキをもっている手前の人物が、会津八一本人。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、銭痩鉄『紅梅』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、上海のアトリエで篆刻を制作する銭痩鉄。戦前は、日本で「中国のスパイ」のデッチ上げ事件で逮捕されたが、戦後1960年代には中国で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">文化大革命</a>の影響から右派＝「日本のスパイ」のレッテルを貼られて弾圧された。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、日本の書画家・小川観斎が使用した銭痩鉄の篆刻。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同じく銭痩鉄の篆刻作品。<span style="color: #3366ff;">中下</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、わたしの手もとにある友人からいただいた篆刻で彫刻は龍の透かし彫り。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　2016年(平成28)に、戦災から焼け残った雑司ヶ谷鬼子母神(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">しきもじん</a>)の堂が、国の重要文化財(建第2646号)に指定された。境内には、それを記念して石碑が建立されたが、外国人観光客向けに記載された英文表記には、もちろん鬼子母神は「Kishimojin」と表記されている。<br />　豊島区や東京メトロが、地元の読みである<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514484179.html" target="_blank" rel="noopener">「きしもじん」</a>としているように、また都バス停留所の韓国語(ハングル)が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank" rel="noopener">「키시모진(きしもじん)」</a>と正しく表記しているように、東京のバスや都電は「きし【ぼ】じん」などという、おかしな得体のしれない訛った呼称や表記をただちにやめてもらいたい。地元である江戸東京の、とてつもない恥さらし以外のなにものでもないからだ。<br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9ACBCE5AD90E6AF8DE7A59EE79FB3E7A291.jpg" alt="鬼子母神石碑.jpg" width="520" height="693" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9ACBCE5AD90E6AF8DE7A59EE79FB3E7A29128E68BA1E5A4A729.jpg" alt="鬼子母神石碑(拡大).jpg" width="520" height="336" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521160154.html</link>
      <title>大型古墳らしい丘陵は墓地にしてしまえ。</title>
      <pubDate>Sat, 19 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　「大塚」と「丸山」、あるいは「摺鉢山」と「丸山」という地名(字名や小名)が近接しているような場所には、必ず大型古墳らしいフォルムがあるというのは、別に東京の芝丸山古墳や上野公園の摺鉢山古墳のケースに限らない。全国的にも同様の事例が多々見られ、このあたりでは落合地域でも、また東側の小石川地域でも見ることができる。　これらの地名(字名・小名)が近接している場合、戦前の空中写真などでいくつか複数の大型古墳らしいフォルムが残されているか、あるいはそれらの「山」を眺める別々のエリア、..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB01.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;1.JPG" width="600" height="450" border="0" />　「大塚」と「丸山」、あるいは「摺鉢山」と「丸山」という地名(字名や小名)が近接しているような場所には、必ず大型古墳らしいフォルムがあるというのは、別に東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-15.html" target="_blank">芝丸山古墳</a>や上野公園の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-05.html" target="_blank">摺鉢山古墳</a>のケースに限らない。全国的にも同様の事例が多々見られ、このあたりでは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-07.html" target="_blank">落合地域</a>でも、また東側の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-29.html" target="_blank">小石川地域</a>でも見ることができる。　これらの地名(字名・小名)が近接している場合、戦前の空中写真などでいくつか複数の大型古墳らしいフォルムが残されているか、あるいはそれらの「山」を眺める別々のエリア、つまり異なる地域(村落など)から角度を変えて見える風景により、同一の「山」を別の名称で読んでいる可能性のふたつが考えられるだろうか。また、それぞれの字名や小名が一定の距離を保っている場合は、別々の「山」を指している可能性が高いのではないかとみられる。　特に落合地域は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-23.html" target="_blank">「大塚」</a><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-23.html" target="_blank">「摺鉢山」</a><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-28.html" target="_blank">「丸山」</a>と古くからの字名や小名には、古墳地名が3つも重なって明治以降も伝えられており、それぞれある程度の距離をあけて名づけられている。ただし、現代まで伝わる上落合の「大塚」は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank">落合富士</a>にされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-20.html" target="_blank">大塚浅間古墳</a>に起因するとされているが、全国的にみて「大塚」と名乗る古墳にしてはあまりにスケールが小さすぎる。上落合に隣接して、東中野側にも地つづきで残る「大塚」の字名は、このような直径が数十メートルの円墳(後円部？)を対象に付与された字名とは思えない。江戸期以前、昔日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank">平川</a>(現・神田川の旧流)沿いや井草流(現・妙正寺川)に展開していた風景が気になるところだ。　おそらく、江戸期以前から地元で連綿とつづく地名だと思われるが、まるで半円を描くように盛り土がなされている丘なので「丸山」、ときに山頂が平面で摺り鉢を伏せたような形状なので「摺鉢山」または「鉢山」、「あの山は死者が眠る大昔の墳墓だ」というような伝承が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-14.html" target="_blank">「屍家(しんや・しいや)」</a>伝説や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank">呪い</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank">祟り</a>などの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-01-29.html" target="_blank">禁忌伝説</a>をともなって後世まで伝わり、そのケタ外れなサイズから「大塚」などの呼称が付与され、開墾の手が加えられなかったとみられる。　落合地域の東側に展開する小石川地域にも、「大塚」「丸山」の地名がそろって残っており、おまけに丸山町の南側にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520450964.html" target="_blank">バッケ(崖地)</a>には、ごていねいに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank">簸川明神(氷川明神)社</a>が鎮座しているのも、落合地域の風情と近似している。ただし、稲荷社が建立され、江戸期には「大塚」と呼称されていた塚は、落合地域の落合富士にされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-02.html" target="_blank">大塚浅間古墳</a>と同様に、あまりにもサイズが小さすぎると感じる。世田谷区にある帆立貝式古墳(前方後円墳)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-25.html" target="_blank">野毛大塚古墳</a>は、周濠(壕)域まで含めるとゆうに100m超クラスのサイズをしている。　全国に展開する古墳名「大塚古墳」は、およそ20基以上を数えるけれど、その多くが50～150mサイズが多い。だが、落合地域や小石川地域の「大塚」と名づけられた古墳は、あまりにサイズが地名にそぐわないほど小型なのだ。この疑問はかなり以前からあり、上落合の地形に刻まれた巨大な正円形のフォルムを例に、以前にも何度か記事にしていた。JR山手線・大塚駅の名の由来となる、大塚仲町にあった稲荷社をともなう「大塚」も、直径が数十メートルでは地名にまったくふさわしくない規模なのだ。ちなみに、山手線の大塚駅は本来の地名である大塚とは関係ない巣鴨町に設置されており、大塚仲町より北西へ1kmほど離れている。　かつて羨道や玄室(キツネの巣穴解釈)が見つかったらしく、稲荷社が奉られていた「大塚」は直径が数十メートルの円墳(後円部？)状で、落合地域の大塚浅間古墳と同じぐらいのサイズだったらしい。昭和初期の宅地開発で破壊され、大塚稲荷社は白山の個人宅へ遷座している。この小サイズの古墳が「大塚」と規定されたのは江戸期からのようで、近藤義休が寛政年間にまとめた『新編江戸志』によれば、同塚は本来「鶏声塚」と呼ばれていたらしい。当時は土井家の屋敷内にあった小塚で、塚から金鶏を掘りだしたといういわれから、そう名づけられたという。この伝説は、島根の松江市にある大庭鶏塚古墳(約50m四方の方墳)に伝わるいわれとそっくりなのが驚きだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE794BAE4B8B8E5B1B1E794BA1925.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x753A;&#x4E38;&#x5C71;&#x753A;1925.jpg" width="520" height="374" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA1_1936.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x4E38;&#x5C71;&#x753A;1_1936.jpg" width="520" height="437" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA2_1936.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x4E38;&#x5C71;&#x753A;2_1936.jpg" width="520" height="399" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA4_1947.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x4E38;&#x5C71;&#x753A;4_1947.jpg" width="520" height="415" border="0" />　また、同書では室町期に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-27.html" target="_blank">太田道灌</a>が築いた「七塚」のひとつで、従来より「大塚」と呼ばれていたという伝説も紹介されている。太田道灌が、古墳時代の墳墓を築くはずもなく、時代を1000年前後たがえた後世の付会だろう。しかも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html" target="_blank">平将門</a>にからんだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-01.html" target="_blank">「七星塚」</a>(千葉市)の古墳伝説と、室町期の太田道灌の伝承とも習合させた、おそらく室町期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank">江戸城</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521350993.html" target="_blank">城下町</a>あたりで語られていた都市伝説ではないだろうか。ほかにも、小さなサイズの「大塚」には別の物語も付随している。1973年(昭和48)に三交社から出版された、江幡潤『文京の散歩道』から少しだけ引用してみよう。　　▼　「土人の説には小日向の台、森川鉾太郎屋敷内に塚あり高さ五尺、塚の上に榎の大樹の朽木五尺許残り是大塚なりと。塚の脇に稲荷あり。大塚稲荷と云ふ」／この森川鉾太郎の屋敷跡は嘉永五壬子(一八五二)年新刻、近吾堂板上水北小日向小石川辺絵図でみると貞静学園北裏に相当し明治四二年本郷より移転して来た日本女学校(後に静修女学校・帝国女子専門学校三者合併して今日の相模女子大となる)の校地となっている。／この校地内に指摘される稲荷社が実存していたが拡張整地などにより塚もくづされ稲荷社も日本女学校にゆかりある平山家(白山五-六-一二)に移されているが、大塚という地名発祥のより所としての手がかりの一つであろう。　　▲　著者は、小日向の旗本・森川鉾太郎屋敷(600石／900坪)の庭先にあった「大塚」を、大塚地名の「手がかり」と記しているが、森川屋敷はちょうど小日向地域と大塚地域の境界線上にあり、その庭先にあった小塚が北側に拡がる広大な大塚エリアの地名の由来になったとは、どう考えても間尺にあわない。小日向の「大塚」は、おそらくまったく別の小型の古墳(あるいは陪墳)で、小日向崖線沿いに築かれていた数多くの古墳のひとつなのではないか。白山にあった平山家の跡地は現在、京華中学･高等学校のキャンパスになっている。　かなり広範囲の地名である「大塚」を考慮するなら、それなりのサイズをした大型古墳を想定しなければ理屈にあわない。そんな思いで、戦前の空中写真や地図類を眺めていたら、丸山町の西側、大塚坂下町から大塚上町にかけて、大きな鍵穴型のフォルムがあるのに気づいた。江戸期には、権現山と呼ばれていた丘があったエリアだ。しかも、その南西側に隣接する丘上には、江戸期から音羽の護国寺が建立され広い墓地が展開している。　このような偶然はそうそうないだろうと、古い文献を当たっていくと興味深い経緯や事実が判明した。1681年(天和元)に建立された桂昌院ゆかりの護国寺は、音羽谷の突きあたりの“丘陵地”に築かれているが、境内のかたちをみるとまさに正円形をしている。そして、この正円フォルムの南西側にあった、あたかも陪墳のような小塚の上には、江戸期に富士山の溶岩を盛った<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank">富士講</a>による「音羽富士」が築かれていた。護国寺の境内自体も、空中写真で見ると大きな円墳(後円部？)のように見えるが、問題は護国寺の境内全体が北東側に背負っていた権現山のほうだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB02.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;2.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB03.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;3.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB04.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;4.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E8819EE99B86E68890E6988EE6B2BBE7B7A8E5B9B4E58FB2E7B7A8E7BA82E4BC9A5E5B7BB1935E8B2A1E694BFE7B58CE6B888E5ADA6E4BC9A.jpg" alt="&#x65B0;&#x805E;&#x96C6;&#x6210;&#x660E;&#x6CBB;&#x7DE8;&#x5E74;&#x53F2;&#x7DE8;&#x7E82;&#x4F1A;5&#x5DFB;1935&#x8CA1;&#x653F;&#x7D4C;&#x6E08;&#x5B66;&#x4F1A;.jpg" width="520" height="244" border="0" />　薩長政府は、1883年(明治16)に火災(？)に遭って伽藍を焼失し、本堂の再建に苦慮する護国寺に対して、再建しないなら廃寺にすると脅していた。だが、もし北東側に位置する広大な権現山と、西側の墓地に接する敷地(約3,300平方メートル)を政府に差し出すなら、伽藍の再建費用を提供してもいいよ……と、アメとムチのひどい取引きを提案している。権現山には、もともと江戸初期から東照権現の社と途中から護持院の堂が建てられていて、山には常緑の老木やナラやクヌギなどの落葉樹が繁り、山とその周辺域あわせ約8万平方メートル余の、武蔵野原生林のような風情を残していた。薩長政府は接収した権現山を東京市に移譲して、東京市が宮内省に献納するという体裁をとり、また護国寺の西側は「陸軍省埋葬御用地」として取りあげている。　ちなみに、当時の地元で流れていたウワサに、護国寺の「怪火」というのがあった。当時の新聞記事にも、明らかに不自然な「怪火」という表現が用いられている。火の気のまったくないところから出火し、本堂などの伽藍を全焼していることから、当初より放火ではないかという疑いが地元では強かったのだ。これも、幕末の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520927981.html" target="_blank">益満休之助</a>と似たような、薩長政府による自作自演の火付けではないかと、当時の市民たちは真っ先に疑っただろう。だが、コトが宮内省と皇族に関するテーマになるにつれ、不審火の疑いは沈黙させられていったのだろう。　さて、読まれている方はもうお気づきだろう。権現山の丘陵を開拓・整地し、皇族関係専用の墓地としたのが豊島岡墓地だ。戦前の空中写真を観察すると、崩した土砂は後円部が北側へ拡げられ、前方部が南側に突きだすように均されたように見える。同様に、丘陵の頂部を均された護国寺の境内を含めると、この位置には大型古墳が2基、双子のように並んで築造されていたように見える。北東側の権現山は、前方部が東南東を向いていたのが判然としているが、護国寺の境内を後円部とするなら、前方部の方角はもはや不明だ。江戸初期から大規模な開発が行われ、その後の市街地化も早かったために、その痕跡が消滅してしまったのだろう。　ここで、改めて面白いことに気づく。地図や空中写真を仔細に観察しながら、いかにも古墳らしいフォルムを発見すると、その上部あるいはその近くには必ず墓地(墓域)が設定されている確率が非常に高いのだ。それは、人間の墓の場合もあれば、馬や牛など<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-02.html" target="_blank">家畜の墓</a>のケースもある。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-11.html" target="_blank">古墳の墳丘地形</a>が、そもそも寺院の建設には向いていて、そのせいでたまたま墓地(墓域)が多いのかとも思えるが、寺とは直接関係のない村落の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520093552.html" target="_blank">私設墓地</a>や、明治以降に建設された公設墓地にも、そのような傾向が顕著だ。いつか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-04-14.html" target="_blank">青山墓地</a>に隣接した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-15.html" target="_blank">巨大な鍵穴型</a>の地形や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank">上大崎</a>の寺町(の墓域)となっていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-21.html" target="_blank">大きな正方形(方墳型)</a>の地形について記事にしたことがあった。江戸期あるいは明治期ぐらいまで、古墳を抱える周辺の村落には、上述したような禁忌伝承が語り継がれていた可能性が高いように思えるのだ。それは、怪異・怪奇譚やタタリ譚をともなう<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-03.html" target="_blank">禁足地</a>だったり、死者が眠る屍家伝説ではなかったろうか。　豊島岡墓地を発掘した。めずらしい調査報告書がある。2000年(平成12)に学生社から出版された宮内庁書陵部陵墓課・編『陵墓関係論文集』第4巻収録の、徳田誠志「豊島岡墓地内埋蔵文化財調査」だ。この調査では、残念ながら江戸期の遺物しか出土していないが、トレンチの場所が古墳とみられる位置からズレていたせいだろうか。これだけの規模の古墳であれば、よほど開発時に念を入れて除去しないかぎり、円筒埴輪などの欠片がどこかに眠っていそうなものなのだが。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB05.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;5.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB06.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;6.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB07.JPG" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x5CA1;&#x5893;&#x5730;7.JPG" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8ADB7E59BBDE5AFBAE4B88DE88081E99680.JPG" alt="&#x8B77;&#x56FD;&#x5BFA;&#x4E0D;&#x8001;&#x9580;.JPG" width="520" height="390" border="0" />　東京郊外の多磨町にある公設の多摩霊園にも、戦前の空中写真には巨大な鍵穴型の地形がとらえられている。多磨町の場合は、地元でも昔から大型古墳ではないかと疑われてきた東京でもめずらしいケースだ。陪墳をともなうとみられる多磨町の事例だが、それはまた、別の物語……。
◆写真上：豊島岡墓地の、“後円部”から“前方部”にかけての急激な傾斜による落ちこみ。大型古墳だったとすれば、前方部のほうが激しく削られているだろうか。◆写真中上：上は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる大塚町と丸山町の地形。中上は、1936年(昭和11)撮影の護国寺と豊島岡墓地。中下は、同年撮影の別角度からの空中写真。下は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された護国寺と豊島岡墓地。◆写真中下：上・中上・中下は、順番に豊島岡墓地の“後円部”とみられる一帯から“前方部”にかけての現状。撮影場所は正円形の護国寺北東側の崖地で、手前は豊島岡墓地に対して深くえぐれた地形をしている。下は、1883年(明治16)8月8日に発行された朝野新聞の護国寺記事。いまだ明確に、護国寺の焼失が「怪火」(不審火)なのをそのまま報道している。◆写真下：上は、“前方部”を崩して拡げられたとみられる豊島岡墓地の南東側。中上は、東側の“前方部”の地形がそのまま残る現状。中下は、“前方部”の斜面下にある明治末に遷座した吹上稲荷社。下は、正円形の境内および墓域が気になる護国寺の不老門から下の仁王門の眺め。★おまけ　昭和初期に撮影された宅地開発で移設された大塚稲荷社と、開発で破壊されつつある大塚古墳。「大塚」の字名が生じるには、同古墳の規模があまりに小さいのは落合地域の事例と同様だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE7A8B2E88DB728E7A7BBE8BBA2E5898D29.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x7A32;&#x8377;(&#x79FB;&#x8EE2;&#x524D;).jpg" width="520" height="369" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE7A8B2E88DB7E7A0B4E5A38A28E698ADE5928CE5889DE69C9F29.jpg" alt="&#x5927;&#x585A;&#x7A32;&#x8377;&#x7834;&#x58CA;(&#x662D;&#x548C;&#x521D;&#x671F;).jpg" width="520" height="391" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB01.JPG" alt="豊島岡墓地1.JPG" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　「大塚」と「丸山」、あるいは「摺鉢山」と「丸山」という地名(字名や小名)が近接しているような場所には、必ず大型古墳らしいフォルムがあるというのは、別に東京の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">芝丸山古墳</a>や上野公園の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">摺鉢山古墳</a>のケースに限らない。全国的にも同様の事例が多々見られ、このあたりでは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">落合地域</a>でも、また東側の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-29.html" target="_blank" rel="noopener">小石川地域</a>でも見ることができる。<br />　これらの地名(字名・小名)が近接している場合、戦前の空中写真などでいくつか複数の大型古墳らしいフォルムが残されているか、あるいはそれらの「山」を眺める別々のエリア、つまり異なる地域(村落など)から角度を変えて見える風景により、同一の「山」を別の名称で読んでいる可能性のふたつが考えられるだろうか。また、それぞれの字名や小名が一定の距離を保っている場合は、別々の「山」を指している可能性が高いのではないかとみられる。<br />　特に落合地域は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-23.html" target="_blank" rel="noopener">「大塚」</a><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">「摺鉢山」</a><a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-28.html" target="_blank" rel="noopener">「丸山」</a>と古くからの字名や小名には、古墳地名が3つも重なって明治以降も伝えられており、それぞれある程度の距離をあけて名づけられている。ただし、現代まで伝わる上落合の「大塚」は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank" rel="noopener">落合富士</a>にされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-20.html" target="_blank" rel="noopener">大塚浅間古墳</a>に起因するとされているが、全国的にみて「大塚」と名乗る古墳にしてはあまりにスケールが小さすぎる。上落合に隣接して、東中野側にも地つづきで残る「大塚」の字名は、このような直径が数十メートルの円墳(後円部？)を対象に付与された字名とは思えない。江戸期以前、昔日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank" rel="noopener">平川</a>(現・神田川の旧流)沿いや井草流(現・妙正寺川)に展開していた風景が気になるところだ。<br />　おそらく、江戸期以前から地元で連綿とつづく地名だと思われるが、まるで半円を描くように盛り土がなされている丘なので「丸山」、ときに山頂が平面で摺り鉢を伏せたような形状なので「摺鉢山」または「鉢山」、「あの山は死者が眠る大昔の墳墓だ」というような伝承が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">「屍家(しんや・しいや)」</a>伝説や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">呪い</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank" rel="noopener">祟り</a>などの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-01-29.html" target="_blank" rel="noopener">禁忌伝説</a>をともなって後世まで伝わり、そのケタ外れなサイズから「大塚」などの呼称が付与され、開墾の手が加えられなかったとみられる。<br />　落合地域の東側に展開する小石川地域にも、「大塚」「丸山」の地名がそろって残っており、おまけに丸山町の南側にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520450964.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ(崖地)</a>には、ごていねいに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">簸川明神(氷川明神)社</a>が鎮座しているのも、落合地域の風情と近似している。ただし、稲荷社が建立され、江戸期には「大塚」と呼称されていた塚は、落合地域の落合富士にされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">大塚浅間古墳</a>と同様に、あまりにもサイズが小さすぎると感じる。世田谷区にある帆立貝式古墳(前方後円墳)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-25.html" target="_blank" rel="noopener">野毛大塚古墳</a>は、周濠(壕)域まで含めるとゆうに100m超クラスのサイズをしている。<br />　全国に展開する古墳名「大塚古墳」は、およそ20基以上を数えるけれど、その多くが50～150mサイズが多い。だが、落合地域や小石川地域の「大塚」と名づけられた古墳は、あまりにサイズが地名にそぐわないほど小型なのだ。この疑問はかなり以前からあり、上落合の地形に刻まれた巨大な正円形のフォルムを例に、以前にも何度か記事にしていた。JR山手線・大塚駅の名の由来となる、大塚仲町にあった稲荷社をともなう「大塚」も、直径が数十メートルでは地名にまったくふさわしくない規模なのだ。ちなみに、山手線の大塚駅は本来の地名である大塚とは関係ない巣鴨町に設置されており、大塚仲町より北西へ1kmほど離れている。<br />　かつて羨道や玄室(キツネの巣穴解釈)が見つかったらしく、稲荷社が奉られていた「大塚」は直径が数十メートルの円墳(後円部？)状で、落合地域の大塚浅間古墳と同じぐらいのサイズだったらしい。昭和初期の宅地開発で破壊され、大塚稲荷社は白山の個人宅へ遷座している。この小サイズの古墳が「大塚」と規定されたのは江戸期からのようで、近藤義休が寛政年間にまとめた『新編江戸志』によれば、同塚は本来「鶏声塚」と呼ばれていたらしい。当時は土井家の屋敷内にあった小塚で、塚から金鶏を掘りだしたといういわれから、そう名づけられたという。この伝説は、島根の松江市にある大庭鶏塚古墳(約50m四方の方墳)に伝わるいわれとそっくりなのが驚きだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE794BAE4B8B8E5B1B1E794BA1925.jpg" alt="大塚町丸山町1925.jpg" width="520" height="374" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA1_1936.jpg" alt="大塚丸山町1_1936.jpg" width="520" height="437" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA2_1936.jpg" alt="大塚丸山町2_1936.jpg" width="520" height="399" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE4B8B8E5B1B1E794BA4_1947.jpg" alt="大塚丸山町4_1947.jpg" width="520" height="415" border="0" /></div><div>　また、同書では室町期に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">太田道灌</a>が築いた「七塚」のひとつで、従来より「大塚」と呼ばれていたという伝説も紹介されている。太田道灌が、古墳時代の墳墓を築くはずもなく、時代を1000年前後たがえた後世の付会だろう。しかも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html" target="_blank" rel="noopener">平将門</a>にからんだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-01.html" target="_blank" rel="noopener">「七星塚」</a>(千葉市)の古墳伝説と、室町期の太田道灌の伝承とも習合させた、おそらく室町期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521350993.html" target="_blank" rel="noopener">城下町</a>あたりで語られていた都市伝説ではないだろうか。ほかにも、小さなサイズの「大塚」には別の物語も付随している。1973年(昭和48)に三交社から出版された、江幡潤『文京の散歩道』から少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「土人の説には小日向の台、森川鉾太郎屋敷内に塚あり高さ五尺、塚の上に榎の大樹の朽木五尺許残り是大塚なりと。塚の脇に稲荷あり。大塚稲荷と云ふ」／この森川鉾太郎の屋敷跡は嘉永五壬子(一八五二)年新刻、近吾堂板上水北小日向小石川辺絵図でみると貞静学園北裏に相当し明治四二年本郷より移転して来た日本女学校(後に静修女学校・帝国女子専門学校三者合併して今日の相模女子大となる)の校地となっている。／この校地内に指摘される稲荷社が実存していたが拡張整地などにより塚もくづされ稲荷社も日本女学校にゆかりある平山家(白山五-六-一二)に移されているが、大塚という地名発祥のより所としての手がかりの一つであろう。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　著者は、小日向の旗本・森川鉾太郎屋敷(600石／900坪)の庭先にあった「大塚」を、大塚地名の「手がかり」と記しているが、森川屋敷はちょうど小日向地域と大塚地域の境界線上にあり、その庭先にあった小塚が北側に拡がる広大な大塚エリアの地名の由来になったとは、どう考えても間尺にあわない。小日向の「大塚」は、おそらくまったく別の小型の古墳(あるいは陪墳)で、小日向崖線沿いに築かれていた数多くの古墳のひとつなのではないか。白山にあった平山家の跡地は現在、京華中学･高等学校のキャンパスになっている。<br />　かなり広範囲の地名である「大塚」を考慮するなら、それなりのサイズをした大型古墳を想定しなければ理屈にあわない。そんな思いで、戦前の空中写真や地図類を眺めていたら、丸山町の西側、大塚坂下町から大塚上町にかけて、大きな鍵穴型のフォルムがあるのに気づいた。江戸期には、権現山と呼ばれていた丘があったエリアだ。しかも、その南西側に隣接する丘上には、江戸期から音羽の護国寺が建立され広い墓地が展開している。<br />　このような偶然はそうそうないだろうと、古い文献を当たっていくと興味深い経緯や事実が判明した。1681年(天和元)に建立された桂昌院ゆかりの護国寺は、音羽谷の突きあたりの“丘陵地”に築かれているが、境内のかたちをみるとまさに正円形をしている。そして、この正円フォルムの南西側にあった、あたかも陪墳のような小塚の上には、江戸期に富士山の溶岩を盛った<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank" rel="noopener">富士講</a>による「音羽富士」が築かれていた。護国寺の境内自体も、空中写真で見ると大きな円墳(後円部？)のように見えるが、問題は護国寺の境内全体が北東側に背負っていた権現山のほうだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB02.JPG" alt="豊島岡墓地2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB03.JPG" alt="豊島岡墓地3.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB04.JPG" alt="豊島岡墓地4.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E8819EE99B86E68890E6988EE6B2BBE7B7A8E5B9B4E58FB2E7B7A8E7BA82E4BC9A5E5B7BB1935E8B2A1E694BFE7B58CE6B888E5ADA6E4BC9A.jpg" alt="新聞集成明治編年史編纂会5巻1935財政経済学会.jpg" width="520" height="244" border="0" /></div><div>　薩長政府は、1883年(明治16)に火災(？)に遭って伽藍を焼失し、本堂の再建に苦慮する護国寺に対して、再建しないなら廃寺にすると脅していた。だが、もし北東側に位置する広大な権現山と、西側の墓地に接する敷地(約3,300平方メートル)を政府に差し出すなら、伽藍の再建費用を提供してもいいよ……と、アメとムチのひどい取引きを提案している。権現山には、もともと江戸初期から東照権現の社と途中から護持院の堂が建てられていて、山には常緑の老木やナラやクヌギなどの落葉樹が繁り、山とその周辺域あわせ約8万平方メートル余の、武蔵野原生林のような風情を残していた。薩長政府は接収した権現山を東京市に移譲して、東京市が宮内省に献納するという体裁をとり、また護国寺の西側は「陸軍省埋葬御用地」として取りあげている。<br />　ちなみに、当時の地元で流れていたウワサに、護国寺の「怪火」というのがあった。当時の新聞記事にも、明らかに不自然な「怪火」という表現が用いられている。火の気のまったくないところから出火し、本堂などの伽藍を全焼していることから、当初より放火ではないかという疑いが地元では強かったのだ。これも、幕末の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520927981.html" target="_blank" rel="noopener">益満休之助</a>と似たような、薩長政府による自作自演の火付けではないかと、当時の市民たちは真っ先に疑っただろう。だが、コトが宮内省と皇族に関するテーマになるにつれ、不審火の疑いは沈黙させられていったのだろう。<br />　さて、読まれている方はもうお気づきだろう。権現山の丘陵を開拓・整地し、皇族関係専用の墓地としたのが豊島岡墓地だ。戦前の空中写真を観察すると、崩した土砂は後円部が北側へ拡げられ、前方部が南側に突きだすように均されたように見える。同様に、丘陵の頂部を均された護国寺の境内を含めると、この位置には大型古墳が2基、双子のように並んで築造されていたように見える。北東側の権現山は、前方部が東南東を向いていたのが判然としているが、護国寺の境内を後円部とするなら、前方部の方角はもはや不明だ。江戸初期から大規模な開発が行われ、その後の市街地化も早かったために、その痕跡が消滅してしまったのだろう。<br />　ここで、改めて面白いことに気づく。地図や空中写真を仔細に観察しながら、いかにも古墳らしいフォルムを発見すると、その上部あるいはその近くには必ず墓地(墓域)が設定されている確率が非常に高いのだ。それは、人間の墓の場合もあれば、馬や牛など<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-02.html" target="_blank" rel="noopener">家畜の墓</a>のケースもある。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-11.html" target="_blank" rel="noopener">古墳の墳丘地形</a>が、そもそも寺院の建設には向いていて、そのせいでたまたま墓地(墓域)が多いのかとも思えるが、寺とは直接関係のない村落の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520093552.html" target="_blank" rel="noopener">私設墓地</a>や、明治以降に建設された公設墓地にも、そのような傾向が顕著だ。いつか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-04-14.html" target="_blank" rel="noopener">青山墓地</a>に隣接した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">巨大な鍵穴型</a>の地形や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">上大崎</a>の寺町(の墓域)となっていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-21.html" target="_blank" rel="noopener">大きな正方形(方墳型)</a>の地形について記事にしたことがあった。江戸期あるいは明治期ぐらいまで、古墳を抱える周辺の村落には、上述したような禁忌伝承が語り継がれていた可能性が高いように思えるのだ。それは、怪異・怪奇譚やタタリ譚をともなう<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">禁足地</a>だったり、死者が眠る屍家伝説ではなかったろうか。<br />　豊島岡墓地を発掘した。めずらしい調査報告書がある。2000年(平成12)に学生社から出版された宮内庁書陵部陵墓課・編『陵墓関係論文集』第4巻収録の、徳田誠志「豊島岡墓地内埋蔵文化財調査」だ。この調査では、残念ながら江戸期の遺物しか出土していないが、トレンチの場所が古墳とみられる位置からズレていたせいだろうか。これだけの規模の古墳であれば、よほど開発時に念を入れて除去しないかぎり、円筒埴輪などの欠片がどこかに眠っていそうなものなのだが。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB05.JPG" alt="豊島岡墓地5.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB06.JPG" alt="豊島岡墓地6.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E5B2A1E5A293E59CB07.JPG" alt="豊島岡墓地7.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8ADB7E59BBDE5AFBAE4B88DE88081E99680.JPG" alt="護国寺不老門.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　東京郊外の多磨町にある公設の多摩霊園にも、戦前の空中写真には巨大な鍵穴型の地形がとらえられている。多磨町の場合は、地元でも昔から大型古墳ではないかと疑われてきた東京でもめずらしいケースだ。陪墳をともなうとみられる多磨町の事例だが、それはまた、別の物語……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：豊島岡墓地の、“後円部”から“前方部”にかけての急激な傾斜による落ちこみ。大型古墳だったとすれば、前方部のほうが激しく削られているだろうか。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる大塚町と丸山町の地形。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1936年(昭和11)撮影の護国寺と豊島岡墓地。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同年撮影の別角度からの空中写真。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、戦後の1947年(昭和22)に撮影された護国寺と豊島岡墓地。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、順番に豊島岡墓地の“後円部”とみられる一帯から“前方部”にかけての現状。撮影場所は正円形の護国寺北東側の崖地で、手前は豊島岡墓地に対して深くえぐれた地形をしている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1883年(明治16)8月8日に発行された朝野新聞の護国寺記事。いまだ明確に、護国寺の焼失が「怪火」(不審火)なのをそのまま報道している。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、“前方部”を崩して拡げられたとみられる豊島岡墓地の南東側。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、東側の“前方部”の地形がそのまま残る現状。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、“前方部”の斜面下にある明治末に遷座した吹上稲荷社。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、正円形の境内および墓域が気になる護国寺の不老門から下の仁王門の眺め。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　昭和初期に撮影された宅地開発で移設された大塚稲荷社と、開発で破壊されつつある大塚古墳。「大塚」の字名が生じるには、同古墳の規模があまりに小さいのは落合地域の事例と同様だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE7A8B2E88DB728E7A7BBE8BBA2E5898D29.jpg" alt="大塚稲荷(移転前).jpg" width="520" height="369" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5A19AE7A8B2E88DB7E7A0B4E5A38A28E698ADE5928CE5889DE69C9F29.jpg" alt="大塚稲荷破壊(昭和初期).jpg" width="520" height="391" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521050258.html</link>
      <title>有島武郎をトランプで占う桜井八重子(納秀子)。</title>
      <pubDate>Wed, 16 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　少し前の記事で、成瀨無極が京都帝大の講師時代に、桜井八重子と有島武郎が1921年(大正10)4月21日に「宇治の会」で邂逅した様子を小説『塔』に書いたと、『古いアルバムを開いて』(「洛味」55号／1956年)の成瀨本人の記述から引用していた。ところが、『塔』が書かれたのは1913年(大正2)10月であり、同作が収録された短編集『極光』が春陽堂から出版されたのは1914年(大正3)なので、成瀨はなにか大きな思いちがいをしているとも書いていた。　1921年(大正10)4月21日..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90E38396E383ADE3839EE382A4E38389.jpg" alt="&#x685C;&#x4E95;&#x516B;&#x91CD;&#x5B50;&#x30D6;&#x30ED;&#x30DE;&#x30A4;&#x30C9;.jpg" width="600" height="471" border="0" />　少し前の記事で、成瀨無極が京都帝大の講師時代に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521000382.html" target="_blank">桜井八重子</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-22.html" target="_blank">有島武郎</a>が1921年(大正10)4月21日に「宇治の会」で邂逅した様子を小説『塔』に書いたと、『古いアルバムを開いて』(「洛味」55号／1956年)の成瀨本人の記述から引用していた。ところが、『塔』が書かれたのは1913年(大正2)10月であり、同作が収録された短編集『極光』が春陽堂から出版されたのは1914年(大正3)なので、成瀨はなにか大きな思いちがいをしているとも書いていた。　1921年(大正10)4月21日の「宇治の会」について、成瀨無極が記録しているのは戦後すぐのころ、1947年(昭和22)に北隆館から出版された『面影草』だ。成瀨無極は有島武郎に招かれ、奈良の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-12.html" target="_blank">新薬師寺</a>から足をのばして春日野の地獄谷の石窟仏などを見学したあと、京都へともどり宇治の旅館「花屋敷」に宿泊している。そこで有島武郎の旧友と合流したあと、偶然、同宿に泊まりあわせていた桜井八重子をまじえての懇談会となり、それが夜明けまでつづいた。成瀨は酒を飲んだかもしれないが、桜井八重子は酒を飲まず、有島武郎も酒は苦手だったようなので、いわゆる宴会のようにはならなかったらしい。同書より、ふたりの面白いエピソードを引用してみよう。　　▼　花屋敷では有島氏の旧友と、その夜偶然泊り合はせた女優桜井八重子と私と四人が膝を交へて雑談した。そのとき八重子は骨牌(トランプ)の占ひをした。有島氏の札にはダイヤとハアトが多く出た。ダイヤは財宝を、ハアトは恋愛を意味する。「あなたは物質に恵まれ、多くの女性に愛されてゐられます。現在も年上の一女性に烈しい恋をされておいでなさいます。」 さう彼女はきつぱり言つた。有島氏はただ微笑してゐたが、私の胸には一々思ひあたる事があつた。　　▲　桜井八重子は遊びか、半ば冗談でトランプ占いをしたのかもしれないが、成瀨も書いているように、親しい友人同士でしか知らない事実を彼女がいい当てたのに驚いたのだろう。ただし、「文学女優」と呼ばれた桜井八重子は、まさか宇治で本人に出会うなどとは思ってもいなかったかもしれないが、有島武郎の作品は「白樺」時代から目を通していたにちがいない。　その後、有島武郎はトランプ占いの的中に驚いたのか、歌(短歌)詠みをメインテーマに桜井八重子と文通(約80通)がはじまる。この文通は、唐澤秀子(桜井八重子)が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520863836.html" target="_blank">納三治</a>と結婚し、下落合の納秀子になったあとまでつづけられたようだ。また、有島武郎が当時つきあっていた「婦人公論」の記者・波多野秋子も彼女の作歌に惹かれ、会ってみたいと有島に依頼している。したがって、桜井八重子と波多野秋子は有島に紹介され、どこかで顔をあわせているのかもしれない。もちろん、有島武郎は小説などの散文表現がメインで、歌詠みに関しては“素人”だった。　有島武郎は、唐澤秀子への手紙で「男に取つて女の人のよさは、その人が恋人でない限り、母にも姉にも友達にもなつてくれられることです」(1922年春)と書き送っているので、そもそも最初から彼女は波多野秋子のような恋愛対象ではなかったようだ。そして、ここでも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-10.html" target="_blank">竹久夢二</a>が死去する寸前まで納秀子(唐澤秀子)へ甘えつづけたのと同様に、有島武郎もまた「母にも姉にも」「なつてくれられる」などと、歳がいもなく彼女に甘えている様子が伝わってくる。この手紙が交わされていた1922年(大正11)の時点で、桜井八重子(唐澤秀子)は27歳、有島武郎は44歳と17歳も年下の存在だった。ちなみに、竹久夢二にとっても、桜井八重子は11歳ほど年の離れた女性だった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FADE6AD8CE4BC9AE3808CE5ACB0E58590E3808D1918E9A083.jpg" alt="&#x77ED;&#x6B4C;&#x4F1A;&#x300C;&#x5B30;&#x5150;&#x300D;1918&#x9803;.jpg" width="520" height="350" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B3B6E6ADA6E9838E1923.jpg" alt="&#x6709;&#x5CF6;&#x6B66;&#x90CE;1923.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90-1ee2f.jpg" alt="&#x685C;&#x4E95;&#x516B;&#x91CD;&#x5B50;.jpg" width="255" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99DA2E5BDB1E88D891947.jpg" alt="&#x9762;&#x5F71;&#x8349;1947.jpg" width="520" height="788" border="0" />　前回の記事でも触れたが、芝愛宕町育ちの彼女は、どこか<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521078205.html" target="_blank">江戸東京の町娘</a>らしい性格だったらしく、明朗で行動的でしっかりした気風(きっぷ)の中にも、いたずら好きでおきゃんな側面が顔をのぞかせる、どこかヘゲモニーを発揮しやすい、この街に古くから多い「姉さん」タイプの女性ではなかったろうか。だから、竹久夢二や有島武郎からみれば歳の差など関係なく、「そんなことしちゃダメでしょ」「そんな考えじゃいけませんったら」とか、どこか母や姉のように自身の言動を叱咤・激励してくれる(甘えられる)、自身本来のニュートラルな精神状態にもどしてくれる(気づかせてくれる)規範的な存在として、彼女を位置づけてやしなかったろうか。　こういうタイプの女性に注意されたり、なにかを指摘されたりすると、たとえかなり年下であっても反発や反感などはほとんど生まれず、逆にうれしく、あるいはありがたく感じたりする男は、この地方にけっこう多いのではないだろうか。また、人間関係の構築や経営のマネジメントがうまく、一族のCEOになる女性が多いのもまた江戸東京地方の特徴のひとつだろう。　次々と短歌を詠み歌集を出版する桜井八重子を、有島武郎は手紙で「短歌製造会社」と呼び、彼女が代表取締役社長で自分は同社の「監査役」を自任している。彼女が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-13.html" target="_blank">納三治</a>と、結婚を前提に付きあいはじめたあとの手紙にも、「監査役の報告」(有島武郎の感想)が掲載されていて面白い。また、有島の恋人である波多野秋子が、彼女の作品が大好きで一度会いたいといっていることも伝えている。1922年(大正11)3月の有島武郎からの手紙を、1962年(昭和37)に刊行された短歌雑誌「原始林」5月号収録の、中山周三『有島武郎の歌(5)』から少しだけ引用してみよう。　　▼　歌はといへばあなたの多産を羨ましくさへ思ひます。納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方に数へられたものだと記憶しますが、あなたの眼と心とには何もかも恋の姿で立現はれると思ふとあなたの持つ世界がまた羨まれます。短歌製造会社監査役の報告によれば、／手を胸に。しづやかに人の泣くらむ。あるかなく。恋死なば。いとつよきジン。千筋なす。うつくしう。野に咲ける。さりげなく。など胸に沁みました。其中最初の分は感銘に少し曇りが起るようですけれども。／緋だりをの。われをのみ。／などの歌は監査役には空虚にひびきます。／沢山恋歌を読むと私も作りたいような気分は出ますが歌にはなりません。唯の言葉にさへもなりません。　　▲　唐沢秀子は、いずれかの歌集1冊でも有島武郎へ贈ったものだろうか。おかしいのは、当時は恋人時代だったと思われる唐澤秀子と納三治だが、「納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方へ数へられた」のには、つい噴きだしてしまった。納三治は、ニューヨークのコーネル大学機械科卒業だから、おそらく短歌や文学とはずいぶん遠いところにいた理系の人物なので、彼女の位置づけとしては「かなり下の方に数へ」ていたのだろう。w　このころ、唐澤秀子にあてた短歌や日記につづっていた作品には、次のようなものがある。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE5A78BE69E97196205.jpg" alt="&#x539F;&#x59CB;&#x6797;196205.jpg" width="255" height="373" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE5A78BE69E97196206.jpg" alt="&#x539F;&#x59CB;&#x6797;196206.jpg" width="255" height="373" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FADE6AD8CE8A3BDE980A0E4BC9AE7A4BEE79BA3E69FBBE5BDB9.jpg" alt="&#x77ED;&#x6B4C;&#x88FD;&#x9020;&#x4F1A;&#x793E;&#x76E3;&#x67FB;&#x5F79;.jpg" width="520" height="472" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B3B6E6ADA6E9838E28E7949FE5898DE69C80E5BE8C29.jpg" alt="&#x6709;&#x5CF6;&#x6B66;&#x90CE;(&#x751F;&#x524D;&#x6700;&#x5F8C;).jpg" width="255" height="390" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B3A2E5A49AE9878EE7A78BE5AD90.jpg" alt="&#x6CE2;&#x591A;&#x91CE;&#x79CB;&#x5B50;.jpg" width="255" height="390" border="0" />　　▼(唐澤秀子あて)　松を吹く風の行衛を追ひ居れば われとしもなき我れに遇ひぬ　砂に居て佐渡を見ゐれば涙しぬ かそけくなげく我れにやは似る　佐渡ケ島暗き波路の末にしも 顔打そむけひとりあるかな　信濃尻の湖の水底ににじみ入る 雲の行手に物をこそ思へ　信濃路は悲しかりけり真夏にも 妄執のごと雪の残れば　人なみの寄せては返す東京の ちまたに立てば物のさびしき　おぼつかな幾年経なばおほらかに 悔いなき我れを尋ねあつべき(有島武郎日記)　佐渡が島二重に煙り細々と 大梅雨空の下にあるかな　さみだれの淡き晴れ間の夕空を さながらひたす信濃川の水　砂に生ふるくみにかくれてさみだれの 越後の海を飽かず見しかな　大空は今さみだれて信濃川 静かに水のふくらみ流る　ガンジスの大川隅にうつしたる 影かもこれや古沼の蓮　信濃路を今朝越え来れば時雨して はるけき目路の峰はもみじぬ　　▲　有島武郎が唐澤秀子あてに送った歌は、素人のわたしが見ても叙事的で底の浅い、単なる風景描写の表現が多く、つい立ちどまって味わうような深みのある心情(心境)歌はかなり少ない。散文的な頭の発想から、どうしても叙事的にとらえてしまう情景描写が増えてしまうのだろう。このころの有島武郎は、東京の生活で強い孤独を強く感じていたらしく、彼女あての手紙には「歌は下手でもこの頃この心持が段々きびしくなって行くやうです」と書き添えていた。　1923年(大正12)3月、「おぼつかな幾年経なば～」の歌が唐澤秀子に送られたころ、有島武郎は麹町区下六番町にあった大邸宅を処分し、ふつうの一般市民としての生活を送ろうとしていたようだが、すでに生きていく気力を失いはじめていた。人妻だった波多野秋子の夫に恋愛がバレて、脅迫されたのも追いつめられた要因だろう。同年6月9日、軽井沢の別荘「浄月荘」でふたりは心中している。有島武郎は遺詠として、10首の歌を短冊につづり自宅の書斎に残していた。　　▼(遺詠歌)　世の常のわが恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき　幾年の命を人は遂げんとや 思ひ入りたるよろこびも見で　修禅する人の如くに世にそむき 静かに恋の門にのぞまむ　道はなし世に道は無し心して 荒野の土に汝が足を置け　さかしらに世に立てりける我かこれ 神に似るまで愚かしき今　生れ来る人は待たすなわがうけし 悲しき性とうれはしき道　雲に入るみさごの如き一筋の 恋とし知れば心は足りぬ　蝉一つ樹をば離れて地に落ちぬ 風なき秋の静かなるかな　明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出づらむあぢさゐの花　命絶つ笞しあらば手に取りて 世の見る前に我を打たまし　　▲　有島武郎と波多野秋子の情死を知った唐澤秀子(納秀子)は、おそらく驚愕しただろう。つい死の直前まで、彼女に「短歌製造会社監査役」として、有島は作品の率直な感想や意見を寄せていたからだ。2年前、彼女が占ったカードには、スペードやババはめくられていなかったはずだった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE697A5E697A5E696B0E8819E19230708.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x65E5;&#x65E5;&#x65B0;&#x805E;19230708.jpg" width="520" height="972" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E794B0E98193E4B880E3808CE88AB1E38196E3818FE38289E3808D1933E7A781E7AB8BE58590E7ABA5E8A19BE7949FE7A094E7A9B6E68980.jpg" alt="&#x5CA1;&#x7530;&#x9053;&#x4E00;&#x300C;&#x82B1;&#x3056;&#x304F;&#x3089;&#x300D;1933&#x79C1;&#x7ACB;&#x5150;&#x7AE5;&#x885B;&#x751F;&#x7814;&#x7A76;&#x6240;.jpg" width="520" height="381" border="0" />　有島武郎から唐澤秀子(納秀子)あての書簡が公開されたのは、もっとも早い時期では1924年(大正13)に叢文閣から出版された『有島武郎全集』第10巻があり、それに目を通した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-06.html" target="_blank">納三治</a>は、「おれ、プライオリティとしては、かなり下の方だったのかぁ」と、思わず苦笑していたにちがいない。
◆写真上：駆け出しの帝劇時代、頒布されたらしい桜井八重子のブロマイド(部分／AI精細処理)。◆写真中上：上は、1918年(大正7)ごろ撮影の短歌会「嬰児」の同人メンバーで右上が桜井八重子。中は、1923年(大正12)に撮影された有島武郎(左)と、女優時代の桜井八重子(右)。下は、1947年(昭和22)に出版された成瀨無極『面影草』(北隆館)の邂逅シーン。◆写真中下：上は、中山周三『有島武郎の歌』が連載された1962年(昭和37)発行の短歌誌「原始林」5月号(左)と6月号(右)。中は、1922年(大正11)7月4日に唐澤秀子あて「短歌製造会社監査役」に就任した有島武郎の手紙。下は、生前最後の写真とされる1923年(大正12)撮影の有島武郎(左)と、唐澤秀子と面識があったかもしれない情死相手の波多野秋子(右)。◆写真下：上は、有島武郎と波多野秋子の心中事件を報道する1923年(大正12)7月8日発刊の東京日日新聞。下は、1933年(昭和8)に私立児童衛生研究所から出版された岡田道一『花ざくら』。冒頭には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-13.html" target="_blank">与謝野晶子</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-23.html" target="_blank">宮崎白蓮</a>、そして桜井八重子(納秀子)の序詠歌が寄せられている。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90E38396E383ADE3839EE382A4E38389.jpg" alt="桜井八重子ブロマイド.jpg" width="600" height="471" border="0" /></div><div>　少し前の記事で、成瀨無極が京都帝大の講師時代に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521000382.html" target="_blank" rel="noopener">桜井八重子</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">有島武郎</a>が1921年(大正10)4月21日に「宇治の会」で邂逅した様子を小説『塔』に書いたと、『古いアルバムを開いて』(「洛味」55号／1956年)の成瀨本人の記述から引用していた。ところが、『塔』が書かれたのは1913年(大正2)10月であり、同作が収録された短編集『極光』が春陽堂から出版されたのは1914年(大正3)なので、成瀨はなにか大きな思いちがいをしているとも書いていた。<br />　1921年(大正10)4月21日の「宇治の会」について、成瀨無極が記録しているのは戦後すぐのころ、1947年(昭和22)に北隆館から出版された『面影草』だ。成瀨無極は有島武郎に招かれ、奈良の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">新薬師寺</a>から足をのばして春日野の地獄谷の石窟仏などを見学したあと、京都へともどり宇治の旅館「花屋敷」に宿泊している。そこで有島武郎の旧友と合流したあと、偶然、同宿に泊まりあわせていた桜井八重子をまじえての懇談会となり、それが夜明けまでつづいた。成瀨は酒を飲んだかもしれないが、桜井八重子は酒を飲まず、有島武郎も酒は苦手だったようなので、いわゆる宴会のようにはならなかったらしい。同書より、ふたりの面白いエピソードを引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　花屋敷では有島氏の旧友と、その夜偶然泊り合はせた女優桜井八重子と私と四人が膝を交へて雑談した。そのとき八重子は骨牌(トランプ)の占ひをした。有島氏の札にはダイヤとハアトが多く出た。ダイヤは財宝を、ハアトは恋愛を意味する。「あなたは物質に恵まれ、多くの女性に愛されてゐられます。現在も年上の一女性に烈しい恋をされておいでなさいます。」 さう彼女はきつぱり言つた。有島氏はただ微笑してゐたが、私の胸には一々思ひあたる事があつた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　桜井八重子は遊びか、半ば冗談でトランプ占いをしたのかもしれないが、成瀨も書いているように、親しい友人同士でしか知らない事実を彼女がいい当てたのに驚いたのだろう。ただし、「文学女優」と呼ばれた桜井八重子は、まさか宇治で本人に出会うなどとは思ってもいなかったかもしれないが、有島武郎の作品は「白樺」時代から目を通していたにちがいない。<br />　その後、有島武郎はトランプ占いの的中に驚いたのか、歌(短歌)詠みをメインテーマに桜井八重子と文通(約80通)がはじまる。この文通は、唐澤秀子(桜井八重子)が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520863836.html" target="_blank" rel="noopener">納三治</a>と結婚し、下落合の納秀子になったあとまでつづけられたようだ。また、有島武郎が当時つきあっていた「婦人公論」の記者・波多野秋子も彼女の作歌に惹かれ、会ってみたいと有島に依頼している。したがって、桜井八重子と波多野秋子は有島に紹介され、どこかで顔をあわせているのかもしれない。もちろん、有島武郎は小説などの散文表現がメインで、歌詠みに関しては“素人”だった。<br />　有島武郎は、唐澤秀子への手紙で「男に取つて女の人のよさは、その人が恋人でない限り、母にも姉にも友達にもなつてくれられることです」(1922年春)と書き送っているので、そもそも最初から彼女は波多野秋子のような恋愛対象ではなかったようだ。そして、ここでも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">竹久夢二</a>が死去する寸前まで納秀子(唐澤秀子)へ甘えつづけたのと同様に、有島武郎もまた「母にも姉にも」「なつてくれられる」などと、歳がいもなく彼女に甘えている様子が伝わってくる。この手紙が交わされていた1922年(大正11)の時点で、桜井八重子(唐澤秀子)は27歳、有島武郎は44歳と17歳も年下の存在だった。ちなみに、竹久夢二にとっても、桜井八重子は11歳ほど年の離れた女性だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FADE6AD8CE4BC9AE3808CE5ACB0E58590E3808D1918E9A083.jpg" alt="短歌会「嬰児」1918頃.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B3B6E6ADA6E9838E1923.jpg" alt="有島武郎1923.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90-1ee2f.jpg" alt="桜井八重子.jpg" width="255" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99DA2E5BDB1E88D891947.jpg" alt="面影草1947.jpg" width="520" height="788" border="0" /></div><div>　前回の記事でも触れたが、芝愛宕町育ちの彼女は、どこか<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521078205.html" target="_blank" rel="noopener">江戸東京の町娘</a>らしい性格だったらしく、明朗で行動的でしっかりした気風(きっぷ)の中にも、いたずら好きでおきゃんな側面が顔をのぞかせる、どこかヘゲモニーを発揮しやすい、この街に古くから多い「姉さん」タイプの女性ではなかったろうか。だから、竹久夢二や有島武郎からみれば歳の差など関係なく、「そんなことしちゃダメでしょ」「そんな考えじゃいけませんったら」とか、どこか母や姉のように自身の言動を叱咤・激励してくれる(甘えられる)、自身本来のニュートラルな精神状態にもどしてくれる(気づかせてくれる)規範的な存在として、彼女を位置づけてやしなかったろうか。<br />　こういうタイプの女性に注意されたり、なにかを指摘されたりすると、たとえかなり年下であっても反発や反感などはほとんど生まれず、逆にうれしく、あるいはありがたく感じたりする男は、この地方にけっこう多いのではないだろうか。また、人間関係の構築や経営のマネジメントがうまく、一族のCEOになる女性が多いのもまた江戸東京地方の特徴のひとつだろう。<br />　次々と短歌を詠み歌集を出版する桜井八重子を、有島武郎は手紙で「短歌製造会社」と呼び、彼女が代表取締役社長で自分は同社の「監査役」を自任している。彼女が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">納三治</a>と、結婚を前提に付きあいはじめたあとの手紙にも、「監査役の報告」(有島武郎の感想)が掲載されていて面白い。また、有島の恋人である波多野秋子が、彼女の作品が大好きで一度会いたいといっていることも伝えている。1922年(大正11)3月の有島武郎からの手紙を、1962年(昭和37)に刊行された短歌雑誌「原始林」5月号収録の、中山周三『有島武郎の歌(5)』から少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　歌はといへばあなたの多産を羨ましくさへ思ひます。納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方に数へられたものだと記憶しますが、あなたの眼と心とには何もかも恋の姿で立現はれると思ふとあなたの持つ世界がまた羨まれます。短歌製造会社監査役の報告によれば、／手を胸に。しづやかに人の泣くらむ。あるかなく。恋死なば。いとつよきジン。千筋なす。うつくしう。野に咲ける。さりげなく。など胸に沁みました。其中最初の分は感銘に少し曇りが起るようですけれども。／緋だりをの。われをのみ。／などの歌は監査役には空虚にひびきます。／沢山恋歌を読むと私も作りたいような気分は出ますが歌にはなりません。唯の言葉にさへもなりません。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　唐沢秀子は、いずれかの歌集1冊でも有島武郎へ贈ったものだろうか。おかしいのは、当時は恋人時代だったと思われる唐澤秀子と納三治だが、「納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方へ数へられた」のには、つい噴きだしてしまった。納三治は、ニューヨークのコーネル大学機械科卒業だから、おそらく短歌や文学とはずいぶん遠いところにいた理系の人物なので、彼女の位置づけとしては「かなり下の方に数へ」ていたのだろう。w<br />　このころ、唐澤秀子にあてた短歌や日記につづっていた作品には、次のようなものがある。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE5A78BE69E97196205.jpg" alt="原始林196205.jpg" width="255" height="373" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58E9FE5A78BE69E97196206.jpg" alt="原始林196206.jpg" width="255" height="373" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FADE6AD8CE8A3BDE980A0E4BC9AE7A4BEE79BA3E69FBBE5BDB9.jpg" alt="短歌製造会社監査役.jpg" width="520" height="472" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B3B6E6ADA6E9838E28E7949FE5898DE69C80E5BE8C29.jpg" alt="有島武郎(生前最後).jpg" width="255" height="390" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B3A2E5A49AE9878EE7A78BE5AD90.jpg" alt="波多野秋子.jpg" width="255" height="390" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">(唐澤秀子あて)</span><br />　松を吹く風の行衛を追ひ居れば われとしもなき我れに遇ひぬ<br />　砂に居て佐渡を見ゐれば涙しぬ かそけくなげく我れにやは似る<br />　佐渡ケ島暗き波路の末にしも 顔打そむけひとりあるかな<br />　信濃尻の湖の水底ににじみ入る 雲の行手に物をこそ思へ<br />　信濃路は悲しかりけり真夏にも 妄執のごと雪の残れば<br />　人なみの寄せては返す東京の ちまたに立てば物のさびしき<br />　おぼつかな幾年経なばおほらかに 悔いなき我れを尋ねあつべき<br /><span style="color: #333399;">(有島武郎日記)</span><br />　佐渡が島二重に煙り細々と 大梅雨空の下にあるかな<br />　さみだれの淡き晴れ間の夕空を さながらひたす信濃川の水<br />　砂に生ふるくみにかくれてさみだれの 越後の海を飽かず見しかな<br />　大空は今さみだれて信濃川 静かに水のふくらみ流る<br />　ガンジスの大川隅にうつしたる 影かもこれや古沼の蓮<br />　信濃路を今朝越え来れば時雨して はるけき目路の峰はもみじぬ<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　有島武郎が唐澤秀子あてに送った歌は、素人のわたしが見ても叙事的で底の浅い、単なる風景描写の表現が多く、つい立ちどまって味わうような深みのある心情(心境)歌はかなり少ない。散文的な頭の発想から、どうしても叙事的にとらえてしまう情景描写が増えてしまうのだろう。このころの有島武郎は、東京の生活で強い孤独を強く感じていたらしく、彼女あての手紙には「歌は下手でもこの頃この心持が段々きびしくなって行くやうです」と書き添えていた。<br />　1923年(大正12)3月、「おぼつかな幾年経なば～」の歌が唐澤秀子に送られたころ、有島武郎は麹町区下六番町にあった大邸宅を処分し、ふつうの一般市民としての生活を送ろうとしていたようだが、すでに生きていく気力を失いはじめていた。人妻だった波多野秋子の夫に恋愛がバレて、脅迫されたのも追いつめられた要因だろう。同年6月9日、軽井沢の別荘「浄月荘」でふたりは心中している。有島武郎は遺詠として、10首の歌を短冊につづり自宅の書斎に残していた。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">(遺詠歌)</span><br />　世の常のわが恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき<br />　幾年の命を人は遂げんとや 思ひ入りたるよろこびも見で<br />　修禅する人の如くに世にそむき 静かに恋の門にのぞまむ<br />　道はなし世に道は無し心して 荒野の土に汝が足を置け<br />　さかしらに世に立てりける我かこれ 神に似るまで愚かしき今<br />　生れ来る人は待たすなわがうけし 悲しき性とうれはしき道<br />　雲に入るみさごの如き一筋の 恋とし知れば心は足りぬ<br />　蝉一つ樹をば離れて地に落ちぬ 風なき秋の静かなるかな<br />　明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出づらむあぢさゐの花<br />　命絶つ笞しあらば手に取りて 世の見る前に我を打たまし<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　有島武郎と波多野秋子の情死を知った唐澤秀子(納秀子)は、おそらく驚愕しただろう。つい死の直前まで、彼女に「短歌製造会社監査役」として、有島は作品の率直な感想や意見を寄せていたからだ。2年前、彼女が占ったカードには、スペードやババはめくられていなかったはずだった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE697A5E697A5E696B0E8819E19230708.jpg" alt="東京日日新聞19230708.jpg" width="520" height="972" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A1E794B0E98193E4B880E3808CE88AB1E38196E3818FE38289E3808D1933E7A781E7AB8BE58590E7ABA5E8A19BE7949FE7A094E7A9B6E68980.jpg" alt="岡田道一「花ざくら」1933私立児童衛生研究所.jpg" width="520" height="381" border="0" /></div><div>　有島武郎から唐澤秀子(納秀子)あての書簡が公開されたのは、もっとも早い時期では1924年(大正13)に叢文閣から出版された『有島武郎全集』第10巻があり、それに目を通した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-06.html" target="_blank" rel="noopener">納三治</a>は、「おれ、プライオリティとしては、かなり下の方だったのかぁ」と、思わず苦笑していたにちがいない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：駆け出しの帝劇時代、頒布されたらしい桜井八重子のブロマイド(部分／AI精細処理)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1918年(大正7)ごろ撮影の短歌会「嬰児」の同人メンバーで右上が桜井八重子。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1923年(大正12)に撮影された有島武郎(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、女優時代の桜井八重子(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1947年(昭和22)に出版された成瀨無極『面影草』(北隆館)の邂逅シーン。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、中山周三『有島武郎の歌』が連載された1962年(昭和37)発行の短歌誌「原始林」5月号(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と6月号(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1922年(大正11)7月4日に唐澤秀子あて「短歌製造会社監査役」に就任した有島武郎の手紙。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、生前最後の写真とされる1923年(大正12)撮影の有島武郎(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、唐澤秀子と面識があったかもしれない情死相手の波多野秋子(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、有島武郎と波多野秋子の心中事件を報道する1923年(大正12)7月8日発刊の東京日日新聞。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1933年(昭和8)に私立児童衛生研究所から出版された岡田道一『花ざくら』。冒頭には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-13.html" target="_blank" rel="noopener">与謝野晶子</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-23.html" target="_blank" rel="noopener">宮崎白蓮</a>、そして桜井八重子(納秀子)の序詠歌が寄せられている。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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      <title>新潮社と平凡社の社長邸に縁ある吉田慶子。</title>
      <pubDate>Sun, 13 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　下落合(現・中落合／中井含む)に住んでいた、面白い随筆を残している女性がいる。俳句雑誌「暖流」の同人で、俳人および随筆家の吉田慶子だ。娘時代に、たまたま自宅があったごく近く、あるいは引っ越した先の隣りの家に、のちの大手出版社となる社長たちが偶然住んでいた。当時は、そんなに大きな出版社になるなど思いもよらなかったようだ。　まず、牛込矢来町3番地中ノ丸(現・新宿区矢来町3番地)に、吉田桂子の叔母夫婦が住んでいた。当時、自宅から歩いて5分ほどのこの家に、彼女は毎日入りびたっていた..</description>
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<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE85E8B7A1.jpg" alt="&#x7B2C;&#x4E8C;&#x5E9C;&#x55B6;&#x4F4F;&#x5B85;&#x8DE1;.jpg" width="600" height="428" border="0" />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-19.html" target="_blank">下落合(現・中落合／中井含む)</a>に住んでいた、面白い随筆を残している女性がいる。俳句雑誌「暖流」の同人で、俳人および随筆家の吉田慶子だ。娘時代に、たまたま自宅があったごく近く、あるいは引っ越した先の隣りの家に、のちの大手出版社となる社長たちが偶然住んでいた。当時は、そんなに大きな出版社になるなど思いもよらなかったようだ。　まず、牛込矢来町3番地中ノ丸(現・新宿区矢来町3番地)に、吉田桂子の叔母夫婦が住んでいた。当時、自宅から歩いて5分ほどのこの家に、彼女は毎日入りびたっていた。自宅にいるよりも、子どもがいなかった叔母夫婦の家にいるほうが、なにかとかわいがられたので居心地がよかったらしい。この叔母の家の前隣りに、大きめな門構えの住宅があり、門を入ると左側には印刷の町工場が建っていた。この家のオジサンは出版の仕事をしていて、身長が低く丸顔で、いつも羽織袴の姿で来客を愛想よく玄関まで送りに出てきた。　対照的にオバサンは、オジサンよりもはるかに背が高く、「馬のように長い顔をして」いた。この小さな出版社の子どもたちは、女子も男子もみんなオバサンに似ていた。その家の女の子に誘われ、彼女は二度ほど遊びにいっている。家に入ると、子ども心にも地味で優しい雰囲気のオバサンが、普段着をキチンと着てお菓子を出してくれた。この出版社は新潮社といい、小柄で丸顔のオジサンが初代社長の佐藤義亮だと知ったのは、かなりたってからのことだった。　吉田慶子は戦後、近くへ用事にきたついでに故郷の矢来町3番地中ノ丸界隈を、久しぶりに散策している。すると、新潮社の前で立ちどまったまま茫然としてしまった。佐藤家のあった敷地に、新潮社の大きなビルディングが建ち、横丁の隣りにあった祖父の家や、隣家の「オサムちゃん」の家が跡形もなくなり、新潮社の巨大な倉庫ビルになっていた。　彼女は、女学校の2年生(13～14歳ごろ)まで矢来町ですごしていたが、やがて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-28.html" target="_blank">東京府住宅協会</a>が下落合の目白通り沿いに建設した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank">落合第二府営住宅</a>へと転居してくる。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>が起きる以前、1919年(大正8)ごろのことだ。当時の様子を、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号収録の、吉田慶子の随筆『新潮社と平凡社』から引用してみよう。　　▼　東京府豊多摩郡落合村下落合の畠の中に建った百軒余りの府営住宅の一つに住むことになった。裏の家に入居した落合小学校の教員の家族と親しくなり、留守勝の父と病身の母のいる私達子供はどれ程世話になったことか。その一家は四年ばかりで中井の落合第二小学校長になって、学校の側に越してしまった。／そのあとに元学校の教員で今神田の方で出版業をしているという人が越して来た。夫婦で話し合う時は相当地方訛りのある言葉を使っていた。数えの十七歳位の長女は、まるで名画からぬけ出したような美人で、年の大分離れた弟妹の世話をよくしていた。　　▲　おそらく彼女の一家は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-05-16.html" target="_blank">落合第二府営住宅</a>が竣工した直後に入居しているのだろう。いまだに、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>も第三府営住宅も、目白通りから南へ200mほど入った第四府営住宅も存在せず、一面が田畑や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank">箱根土地</a>による郊外遊園地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-08.html" target="_blank">「不動園」</a>だった時代だ。　「裏の家」に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-06.html" target="_blank">落合(第一)尋常小学校</a>教員の家は、おそらく駒村という苗字だったろう。以前にも書いたが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520272210.html" target="_blank">落合第二尋常小学校</a>の設立準備は1921年(大正10)以前からスタートしており、建設場所まで予定されていながら東京府からストップがかかって、より広い敷地を選び直している最中だった。1923年(大正12)には、具体的な創立の趣意書までが落合村から東京府に提出されている。その際、予定されている校長の名前も記載されていただろう。妙正寺川をはさんで、中井駅の南に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank">落合第二尋常小学校</a>(現・落合第五小学校)が開校するのは1925年(大正14)になってからで、2年も前に「裏の家」から転居していった教師は、同小学校の初代校長・駒村徳寿だろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69A96E6B581197610.jpg" alt="&#x6696;&#x6D41;197610.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69A96E6B581197105.jpg" alt="&#x6696;&#x6D41;197105.jpg" width="255" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE851926.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x7B2C;&#x4E8C;&#x5E9C;&#x55B6;&#x4F4F;&#x5B85;1926.jpg" width="520" height="404" border="0" />　このあと、震災直前に駒村家が転居した空き家へ引っ越してきたのが、神田神保町で出版業を営んでいる、ふだんの生活では秋田弁だったらしい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517818245.html" target="_blank">下中彌三郎</a>だ。だが、下中家の2階には小説家志望の若い男たちが働かずにブラブラたむろしており、以前の駒村家とは異なり、彼女の家では下中家の評判はあまりよろしくなかったらしい。『新潮社と平凡社』から、つづけて引用しよう。　　▼　此の朴訥な堅実な一家に不似合な、何とも自堕落な感じの若者が数名何時も二階の六畳の間にたむろしていた。昼日中和服着流しの男が、何んとも得体の知れぬ女と肩寄せ合って家の前をブラブラ行ったり来たりしている。真面目人間の私の両親にとっては不愉快極り無い事であったらしい。これが作家の卵らしいと聞いて、父母は小説家たらんと志していた私からペンも原稿用紙も取り上げてしまった。(中略)　其のあとに子無しの叔母夫婦が、下中氏より権利を譲り受けて越して来た。／つまり叔母は新潮社の前から(尤も其の頃は横寺町に移っていたが)平凡社主の家にと越して来たのである。　　▲　吉田慶子は、隣家の「何とも自堕落な感じの若者」たちのせいで、とんだとばっちりを受けたことになる。文筆家を志望していたのに両親から禁じられてしまったが、のちに俳人あるいは随筆家になっているので、当初の夢は半ばかなっているのだろう。　落合府営住宅は、台所(8畳大)や浴室(3畳大)、納戸、トイレ×2などを除き6～7室の大きな家が多く、文学志望の若い子たちを下宿がわりに置いてやることができたのだろう。2階の6畳間を若者たちに占領されたとしても、ほかに2階には8畳サイズの客間があり、1階には8畳の居間、6畳の食堂兼茶の間、4.5畳の隠居部屋、同じ広さの予備室、3畳の女中部屋などがあり、スペース的にはかなり余裕のある生活だったと思われる。ただし、「名画からぬけ出したような美人」の娘をもつ親の身としては、多少心配だったかもしれないが。　下中彌三郎は、1924年(大正13)ごろまで下落合1515番地、すなわち落合第二府営住宅10号に住んでおり、そのあとに入居したのが横寺町から転居してきた叔母夫婦ということになると、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、子どもがいない叔母夫婦の姓はおそらく「早川」だろう。この早川邸を「裏の家」と書く、女学生だった吉田慶子の自宅は、二間道路に面している同番地の東隣り、落合第二府営住宅5号の須崎邸(下落合1515番地)か、あるいは二間道路をはさんだ繁華な目白通り寄りに建つ、同府営住宅9号の若林邸(同1518番地)のどちらかとみられる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E897A4E7BEA9E4BAAE.jpg" alt="&#x4F50;&#x85E4;&#x7FA9;&#x4EAE;.jpg" width="255" height="340" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE4B8ADE5BD8CE4B889E9838E.jpg" alt="&#x4E0B;&#x4E2D;&#x5F4C;&#x4E09;&#x90CE;.jpg" width="255" height="340" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A088E5B48EE982B81924.jpg" alt="&#x9808;&#x5D0E;&#x90B8;1924.jpg" width="520" height="417" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE851936.jpg" alt="&#x843D;&#x5408;&#x7B2C;&#x4E8C;&#x5E9C;&#x55B6;&#x4F4F;&#x5B85;1936.jpg" width="520" height="404" border="0" />　もし、彼女の自宅が同府営住宅5号の須崎邸だとすれば、当時の彼女の家を実際に目にすることができる。1924年(大正13)に東京シネマ商会が製作した社会教育映画<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank">『街(ちまた)の子』</a>には、5号の須崎邸がとらえられている。ちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514535639.html" target="_blank">「むさしや」</a>の前でロケが行われたシーンのうち、二間道路のいちばん奥に建つ2階建ての和館が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513461998.html" target="_blank">須崎邸</a>だ。同邸の西隣り、画面では上林邸(4号)と大江邸(3号)が建ち並んで見えないが、須崎邸の左隣りが下中彌三郎一家が住んでいた10号の2階建て住宅だ。しかも、同映画は1924年(大正13)と同時代の製作なので、ご当人たちが住んでいたリアルタイムの情景ということになる。ただし、江戸期から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-20.html" target="_blank">椎名町</a>と呼ばれて賑やかだった目白通り側を「表」とするなら、若林邸(9号)が著者の家ということになるのだが。　さて、彼女にはもうひとつ面白い逸話がある。矢来町時代に、祖父の隣家に住んでいた「オサムちゃん」だ。彼女は子ども時代に、オサムちゃんとはキャッチボールをして遊んだ仲だった。1971年(昭和46)発行の「暖流」5月号に収録された、吉田慶子『はたちの頃』より引用してみよう。　　▼　やはりその頃の或る日、私は牛込矢来町の祖父の家を尋ねた(ママ)。すると隣の滝沢家から突然「アッハハハハ」と、とてつもない大きな笑い声がした。それは驚くべし、同じ調子で止め度もなく続くのである。私は吃驚して、祖父に訊くと、「次男坊のオサムが築地小劇場に入ったそうだよ。毎日アレだ。」と苦い顔をした。祖父の家も滝沢家も、まあ大邸宅の方だった。その庭の片隅、つまり祖父の家寄りに小さな家が建っていて、これが子供部屋になっていた。オサムちゃんは小学校の頃から、そこで勉強していた。ずうっと年のかけ離れたお兄さんがいて、一風変った若者が出入して一寸した梁山泊だった。兎に角、或る時は怒号だったり、囁きだったり、泣き声だったり、それが遠慮もなく、あたりへ響き渡るのである。今日の滝沢修の土台はその時に出来たのであろう。個人的には子供時代に何度かキャッチボールをした位の間柄なのに、今でもテレビに滝沢修の顔が写ると、私は、「アッ、オサムちゃんだ！！」と、なつかしくて声を上げるのである。　　▲　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517488345.html" target="_blank">滝沢修</a>は、築地小劇場から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank">村山知義</a>らが結成した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-09.html" target="_blank">東京左翼劇場</a>、つづいて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517583814.html" target="_blank">新協劇団</a>に参加している。その後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-30.html" target="_blank">劇団民藝</a>を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-04.html" target="_blank">宇野重吉</a>らと結成し、のちに舞台で大ヒットする『炎の人』のゴッホ役だが、大向こうから「オサムちゃん！！」の声がかかったら、どんな顔をしただろうか。w<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B896E7958CE5B9B3E5928CE382A2E38394E383BCE383ABE4B883E4BABAE5A794E593A1E4BC9AE4B88BE4B8ADE5BD8CE4B889E9838EE383BBE4B88AE4BBA3E382BFE3838E.jpg" alt="&#x4E16;&#x754C;&#x5E73;&#x548C;&#x30A2;&#x30D4;&#x30FC;&#x30EB;&#x4E03;&#x4EBA;&#x59D4;&#x54E1;&#x4F1A;&#x4E0B;&#x4E2D;&#x5F4C;&#x4E09;&#x90CE;&#x30FB;&#x4E0A;&#x4EE3;&#x30BF;&#x30CE;.jpg" width="520" height="334" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BB9DE6B2A2E4BFAEE382B4E38383E3839B.jpg" alt="&#x6EDD;&#x6CA2;&#x4FEE;&#x30B4;&#x30C3;&#x30DB;.jpg" width="520" height="467" border="0" />　最後に、俳人で随筆家だった吉田桂子の詠草を、いくつか選んでご紹介しておきたい。　　枯れしもの惜しみおく庭春立ちぬ　(1959年4月)　　金借りに来しオーバーの豪華さよ　(1970年2月)　　農婦来て冷夏の愚痴も置いてゆく　(1980年10月)　　若き娘等は聞えぬという鉦叩&lt;カネタタキ&gt;　(1982年12月)　　初詣氏子九人の祠まで　(1991年3月)　俳句ではなく、やや斜に構えた川柳を詠んでもうまそうな風刺の眼差しが楽しい彼女の作品だ。
◆写真上：第二府営住宅の吉田慶子の自邸や、下中彌三郎邸があったあたりの現状。正面に見える中落合社宅の棟の敷地あたりが、第二府営住宅10号跡界隈。◆写真中上：上は、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号(左)と、1971年(昭和46)刊行の「暖流」5月号(右)。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる10号界隈。吉田慶子の自宅は、若林邸(9号)か須崎邸(5号)と思われる。◆写真中下：上は、矢来町にある新潮社の創業者・佐藤義亮(左)と、神田にある平凡社の創業者・下中彌三郎(右)。中は、『街の子』(1924年)にとらえられた落合第二府営住宅の5号邸・須崎邸。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる第二府営住宅10号界隈。◆写真下：上は、下中彌三郎の呼びかけで1955年(昭和30)に結成された「世界平和アピール七人委員会」の会合。中央左側の白髪が下中彌三郎で、右側が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-04.html" target="_blank">日本女子大</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-07.html" target="_blank">上代タノ</a>。また、下中彌三郎の左側が京大の湯川秀樹で上代タノの右側が日本YMCAの植村環だが、日本婦人団体連合会の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-31.html" target="_blank">平塚らいてう</a>は欠席している。下は、大ヒットした民藝の舞台『炎の人』でゴッホ役を演じた滝沢修。★おまけ　わたしは、舞台『炎の人－ゴッホ小傳－』を1980年代末に観ているが、映画好きには1966年(昭和41)に公開された監督・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank">山本薩夫</a>の『白い巨塔』(大映)に出演した、医療過誤裁判で浪速大学の外科教授・財前五郎(田宮二郎)を激しく弾劾するが、結局は無罪を主張して浪速大学にたっぷりと恩を売り、ひそかにポスト人事の「植民地」化をたくらむ、東都大学の船尾教授が印象的だろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BB9DE6B2A2E4BFAE-36a7b.jpg" alt="&#x6EDD;&#x6CA2;&#x4FEE;.jpg" width="520" height="368" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE85E8B7A1.jpg" alt="第二府営住宅跡.jpg" width="600" height="428" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-19.html" target="_blank" rel="noopener">下落合(現・中落合／中井含む)</a>に住んでいた、面白い随筆を残している女性がいる。俳句雑誌「暖流」の同人で、俳人および随筆家の吉田慶子だ。娘時代に、たまたま自宅があったごく近く、あるいは引っ越した先の隣りの家に、のちの大手出版社となる社長たちが偶然住んでいた。当時は、そんなに大きな出版社になるなど思いもよらなかったようだ。<br />　まず、牛込矢来町3番地中ノ丸(現・新宿区矢来町3番地)に、吉田桂子の叔母夫婦が住んでいた。当時、自宅から歩いて5分ほどのこの家に、彼女は毎日入りびたっていた。自宅にいるよりも、子どもがいなかった叔母夫婦の家にいるほうが、なにかとかわいがられたので居心地がよかったらしい。この叔母の家の前隣りに、大きめな門構えの住宅があり、門を入ると左側には印刷の町工場が建っていた。この家のオジサンは出版の仕事をしていて、身長が低く丸顔で、いつも羽織袴の姿で来客を愛想よく玄関まで送りに出てきた。<br />　対照的にオバサンは、オジサンよりもはるかに背が高く、「馬のように長い顔をして」いた。この小さな出版社の子どもたちは、女子も男子もみんなオバサンに似ていた。その家の女の子に誘われ、彼女は二度ほど遊びにいっている。家に入ると、子ども心にも地味で優しい雰囲気のオバサンが、普段着をキチンと着てお菓子を出してくれた。この出版社は新潮社といい、小柄で丸顔のオジサンが初代社長の佐藤義亮だと知ったのは、かなりたってからのことだった。<br />　吉田慶子は戦後、近くへ用事にきたついでに故郷の矢来町3番地中ノ丸界隈を、久しぶりに散策している。すると、新潮社の前で立ちどまったまま茫然としてしまった。佐藤家のあった敷地に、新潮社の大きなビルディングが建ち、横丁の隣りにあった祖父の家や、隣家の「オサムちゃん」の家が跡形もなくなり、新潮社の巨大な倉庫ビルになっていた。<br />　彼女は、女学校の2年生(13～14歳ごろ)まで矢来町ですごしていたが、やがて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-28.html" target="_blank" rel="noopener">東京府住宅協会</a>が下落合の目白通り沿いに建設した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二府営住宅</a>へと転居してくる。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>が起きる以前、1919年(大正8)ごろのことだ。当時の様子を、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号収録の、吉田慶子の随筆『新潮社と平凡社』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　東京府豊多摩郡落合村下落合の畠の中に建った百軒余りの府営住宅の一つに住むことになった。裏の家に入居した落合小学校の教員の家族と親しくなり、留守勝の父と病身の母のいる私達子供はどれ程世話になったことか。その一家は四年ばかりで中井の落合第二小学校長になって、学校の側に越してしまった。／そのあとに元学校の教員で今神田の方で出版業をしているという人が越して来た。夫婦で話し合う時は相当地方訛りのある言葉を使っていた。数えの十七歳位の長女は、まるで名画からぬけ出したような美人で、年の大分離れた弟妹の世話をよくしていた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　おそらく彼女の一家は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-05-16.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二府営住宅</a>が竣工した直後に入居しているのだろう。いまだに、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>も第三府営住宅も、目白通りから南へ200mほど入った第四府営住宅も存在せず、一面が田畑や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地</a>による郊外遊園地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">「不動園」</a>だった時代だ。<br />　「裏の家」に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">落合(第一)尋常小学校</a>教員の家は、おそらく駒村という苗字だったろう。以前にも書いたが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520272210.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二尋常小学校</a>の設立準備は1921年(大正10)以前からスタートしており、建設場所まで予定されていながら東京府からストップがかかって、より広い敷地を選び直している最中だった。1923年(大正12)には、具体的な創立の趣意書までが落合村から東京府に提出されている。その際、予定されている校長の名前も記載されていただろう。妙正寺川をはさんで、中井駅の南に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二尋常小学校</a>(現・落合第五小学校)が開校するのは1925年(大正14)になってからで、2年も前に「裏の家」から転居していった教師は、同小学校の初代校長・駒村徳寿だろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69A96E6B581197610.jpg" alt="暖流197610.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69A96E6B581197105.jpg" alt="暖流197105.jpg" width="255" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE851926.jpg" alt="落合第二府営住宅1926.jpg" width="520" height="404" border="0" /></div><div>　このあと、震災直前に駒村家が転居した空き家へ引っ越してきたのが、神田神保町で出版業を営んでいる、ふだんの生活では秋田弁だったらしい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517818245.html" target="_blank" rel="noopener">下中彌三郎</a>だ。だが、下中家の2階には小説家志望の若い男たちが働かずにブラブラたむろしており、以前の駒村家とは異なり、彼女の家では下中家の評判はあまりよろしくなかったらしい。『新潮社と平凡社』から、つづけて引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　此の朴訥な堅実な一家に不似合な、何とも自堕落な感じの若者が数名何時も二階の六畳の間にたむろしていた。昼日中和服着流しの男が、何んとも得体の知れぬ女と肩寄せ合って家の前をブラブラ行ったり来たりしている。真面目人間の私の両親にとっては不愉快極り無い事であったらしい。これが作家の卵らしいと聞いて、父母は小説家たらんと志していた私からペンも原稿用紙も取り上げてしまった。(中略)　其のあとに子無しの叔母夫婦が、下中氏より権利を譲り受けて越して来た。／つまり叔母は新潮社の前から(尤も其の頃は横寺町に移っていたが)平凡社主の家にと越して来たのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　吉田慶子は、隣家の「何とも自堕落な感じの若者」たちのせいで、とんだとばっちりを受けたことになる。文筆家を志望していたのに両親から禁じられてしまったが、のちに俳人あるいは随筆家になっているので、当初の夢は半ばかなっているのだろう。<br />　落合府営住宅は、台所(8畳大)や浴室(3畳大)、納戸、トイレ×2などを除き6～7室の大きな家が多く、文学志望の若い子たちを下宿がわりに置いてやることができたのだろう。2階の6畳間を若者たちに占領されたとしても、ほかに2階には8畳サイズの客間があり、1階には8畳の居間、6畳の食堂兼茶の間、4.5畳の隠居部屋、同じ広さの予備室、3畳の女中部屋などがあり、スペース的にはかなり余裕のある生活だったと思われる。ただし、「名画からぬけ出したような美人」の娘をもつ親の身としては、多少心配だったかもしれないが。<br />　下中彌三郎は、1924年(大正13)ごろまで下落合1515番地、すなわち落合第二府営住宅10号に住んでおり、そのあとに入居したのが横寺町から転居してきた叔母夫婦ということになると、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、子どもがいない叔母夫婦の姓はおそらく「早川」だろう。この早川邸を「裏の家」と書く、女学生だった吉田慶子の自宅は、二間道路に面している同番地の東隣り、落合第二府営住宅5号の須崎邸(下落合1515番地)か、あるいは二間道路をはさんだ繁華な目白通り寄りに建つ、同府営住宅9号の若林邸(同1518番地)のどちらかとみられる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E897A4E7BEA9E4BAAE.jpg" alt="佐藤義亮.jpg" width="255" height="340" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE4B8ADE5BD8CE4B889E9838E.jpg" alt="下中彌三郎.jpg" width="255" height="340" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A088E5B48EE982B81924.jpg" alt="須崎邸1924.jpg" width="520" height="417" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5BA9CE596B6E4BD8FE5AE851936.jpg" alt="落合第二府営住宅1936.jpg" width="520" height="404" border="0" /></div><div>　もし、彼女の自宅が同府営住宅5号の須崎邸だとすれば、当時の彼女の家を実際に目にすることができる。1924年(大正13)に東京シネマ商会が製作した社会教育映画<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank" rel="noopener">『街(ちまた)の子』</a>には、5号の須崎邸がとらえられている。ちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514535639.html" target="_blank" rel="noopener">「むさしや」</a>の前でロケが行われたシーンのうち、二間道路のいちばん奥に建つ2階建ての和館が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513461998.html" target="_blank" rel="noopener">須崎邸</a>だ。同邸の西隣り、画面では上林邸(4号)と大江邸(3号)が建ち並んで見えないが、須崎邸の左隣りが下中彌三郎一家が住んでいた10号の2階建て住宅だ。しかも、同映画は1924年(大正13)と同時代の製作なので、ご当人たちが住んでいたリアルタイムの情景ということになる。ただし、江戸期から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">椎名町</a>と呼ばれて賑やかだった目白通り側を「表」とするなら、若林邸(9号)が著者の家ということになるのだが。<br />　さて、彼女にはもうひとつ面白い逸話がある。矢来町時代に、祖父の隣家に住んでいた「オサムちゃん」だ。彼女は子ども時代に、オサムちゃんとはキャッチボールをして遊んだ仲だった。1971年(昭和46)発行の「暖流」5月号に収録された、吉田慶子『はたちの頃』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　やはりその頃の或る日、私は牛込矢来町の祖父の家を尋ねた(ママ)。すると隣の滝沢家から突然「アッハハハハ」と、とてつもない大きな笑い声がした。それは驚くべし、同じ調子で止め度もなく続くのである。私は吃驚して、祖父に訊くと、「次男坊のオサムが築地小劇場に入ったそうだよ。毎日アレだ。」と苦い顔をした。祖父の家も滝沢家も、まあ大邸宅の方だった。その庭の片隅、つまり祖父の家寄りに小さな家が建っていて、これが子供部屋になっていた。オサムちゃんは小学校の頃から、そこで勉強していた。ずうっと年のかけ離れたお兄さんがいて、一風変った若者が出入して一寸した梁山泊だった。兎に角、或る時は怒号だったり、囁きだったり、泣き声だったり、それが遠慮もなく、あたりへ響き渡るのである。今日の滝沢修の土台はその時に出来たのであろう。個人的には子供時代に何度かキャッチボールをした位の間柄なのに、今でもテレビに滝沢修の顔が写ると、私は、「アッ、オサムちゃんだ！！」と、なつかしくて声を上げるのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517488345.html" target="_blank" rel="noopener">滝沢修</a>は、築地小劇場から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義</a>らが結成した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">東京左翼劇場</a>、つづいて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517583814.html" target="_blank" rel="noopener">新協劇団</a>に参加している。その後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">劇団民藝</a>を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">宇野重吉</a>らと結成し、のちに舞台で大ヒットする『炎の人』のゴッホ役だが、大向こうから「オサムちゃん！！」の声がかかったら、どんな顔をしただろうか。w</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B896E7958CE5B9B3E5928CE382A2E38394E383BCE383ABE4B883E4BABAE5A794E593A1E4BC9AE4B88BE4B8ADE5BD8CE4B889E9838EE383BBE4B88AE4BBA3E382BFE3838E.jpg" alt="世界平和アピール七人委員会下中彌三郎・上代タノ.jpg" width="520" height="334" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BB9DE6B2A2E4BFAEE382B4E38383E3839B.jpg" alt="滝沢修ゴッホ.jpg" width="520" height="467" border="0" /></div><div>　最後に、俳人で随筆家だった吉田桂子の詠草を、いくつか選んでご紹介しておきたい。<br />　　枯れしもの惜しみおく庭春立ちぬ　(1959年4月)<br />　　金借りに来しオーバーの豪華さよ　(1970年2月)<br />　　農婦来て冷夏の愚痴も置いてゆく　(1980年10月)<br />　　若き娘等は聞えぬという鉦叩&lt;カネタタキ&gt;　(1982年12月)<br />　　初詣氏子九人の祠まで　(1991年3月)<br />　俳句ではなく、やや斜に構えた川柳を詠んでもうまそうな風刺の眼差しが楽しい彼女の作品だ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：第二府営住宅の吉田慶子の自邸や、下中彌三郎邸があったあたりの現状。正面に見える中落合社宅の棟の敷地あたりが、第二府営住宅10号跡界隈。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1971年(昭和46)刊行の「暖流」5月号(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる10号界隈。吉田慶子の自宅は、若林邸(9号)か須崎邸(5号)と思われる。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、矢来町にある新潮社の創業者・佐藤義亮(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、神田にある平凡社の創業者・下中彌三郎(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、『街の子』(1924年)にとらえられた落合第二府営住宅の5号邸・須崎邸。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる第二府営住宅10号界隈。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、下中彌三郎の呼びかけで1955年(昭和30)に結成された「世界平和アピール七人委員会」の会合。中央左側の白髪が下中彌三郎で、右側が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-04.html" target="_blank" rel="noopener">日本女子大</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-07.html" target="_blank" rel="noopener">上代タノ</a>。また、下中彌三郎の左側が京大の湯川秀樹で上代タノの右側が日本YMCAの植村環だが、日本婦人団体連合会の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-31.html" target="_blank" rel="noopener">平塚らいてう</a>は欠席している。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、大ヒットした民藝の舞台『炎の人』でゴッホ役を演じた滝沢修。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　わたしは、舞台『炎の人－ゴッホ小傳－』を1980年代末に観ているが、映画好きには1966年(昭和41)に公開された監督・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank" rel="noopener">山本薩夫</a>の『白い巨塔』(大映)に出演した、医療過誤裁判で浪速大学の外科教授・財前五郎(田宮二郎)を激しく弾劾するが、結局は無罪を主張して浪速大学にたっぷりと恩を売り、ひそかにポスト人事の「植民地」化をたくらむ、東都大学の船尾教授が印象的だろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BB9DE6B2A2E4BFAE-36a7b.jpg" alt="滝沢修.jpg" width="520" height="368" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521350993.html</link>
      <title>昔習った「日本史」の知識が追いつかない。(下)</title>
      <pubDate>Thu, 10 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　前回記事につづき、諸科学の成果による日本史の激変はまだまだある。わたしの世代では、日本列島の「弥生化」はイネの栽培とともに九州から西日本へ徐々に拡がり、やがて中部から関東、東北地方へと浸透していったと習っていた。ところが、弥生期を象徴する環濠(環柵)集落＝ムラの形成は、青森や秋田など東北地方がもっとも早かったことがわかってきた。　そのメルクマールが前回写真を掲載した、山形県遊佐町の三崎山遺跡(縄文後期)から発見された青銅製の刀剣だろう。青銅器時代＝弥生時代といわれていたのが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4AAE794B0E98193E7818CE3808CE6B19FE688B8E59F8EE3808D.jpg" alt="&#x592A;&#x7530;&#x9053;&#x704C;&#x300C;&#x6C5F;&#x6238;&#x57CE;&#x300D;.jpg" width="600" height="431" border="0" />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521344495.html" target="_blank">前回記事</a>につづき、諸科学の成果による日本史の激変はまだまだある。わたしの世代では、日本列島の「弥生化」はイネの栽培とともに九州から西日本へ徐々に拡がり、やがて中部から関東、東北地方へと浸透していったと習っていた。ところが、弥生期を象徴する環濠(環柵)集落＝ムラの形成は、青森や秋田など東北地方がもっとも早かったことがわかってきた。　そのメルクマールが前回写真を掲載した、山形県遊佐町の三崎山遺跡(縄文後期)から発見された青銅製の刀剣だろう。青銅器時代＝弥生時代といわれていたのが、「無土器」「打製石器」が指標となっていた旧石器時代と同様に、「イネ」「青銅器」＝弥生時代が崩れた瞬間だった。　また、前世紀末の発掘成果だが、弥生前期でもっとも豪華な墳墓が北海道にあったというのも衝撃だった。つまり、弥生文化＝「弥生化」は西日本→東日本ではないということだ。これは、古墳時代以降へつづく東西の“家畜”の拡がりについてもいえる。西日本の「牛」文化に対して東日本は「馬」文化なのも、近年の成果をベースにしている日本史の側面だ。飼育する家畜により道具や武器＝刀剣の“湾刀化”が進み、東北で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank">「日本刀」</a>が誕生した経緯はすでに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509710849.html" target="_blank">記事</a>にしていた。　北海道の釧路市街にある、幣前(ヌサマエ)橋のたもとで前世紀末に見つかった弥生期の共同墓地は、弥生時代の研究者におそらく最大の衝撃を与えただろう。その墓のひとつ89号墳には、わずか9歳ほどで死んだ男の子が埋葬されていたのだが、その副葬品が「ハンパない」ものだったのだ。同時期の日本列島の墳墓では、もっとも豪華な副葬品で彩られていた。琥珀(こはく)のビーズをはじめ、貝殻のビーズ、ベンケイガイやイノシシの牙でつくったペンダント類、各種土器、管玉など、日本各地から集めた素材でこしらえたアクセサリー類で埋まっていた。　上記の幣前橋遺跡に限らず、同じ弥生前期の北海道では豪華な副葬品をともなう墳墓が数多く発見されている。白老(シラオイ)町アヨロ遺跡(墳墓60基)では、出雲地方で産出する碧玉の管玉や、青灰色の磨製斧、琥珀製のビーズ(ペンダント)、色とりどりのアクセサリーや石鏃、磨きあげられたナイフや石銛など、従来の弥生墳墓では考えられなかった豪華絢爛な副葬品が、被葬者の人骨とともに見つかっている。弥生前期にみられる北海道の弥生遺跡について、2007年(平成19)に小学館から出版された松木武彦『日本の歴史／列島創世記』より、少しだけ引用してみよう。　　▼　意外に思われるかもしれないが、弥生時代の前半にあたるこの時期で、もっとも華々しい副葬品をもつ墓がたくさん現れる地域は、北海道をおいてほかにない。副葬品の量やバラエティについていえば、後で詳しく述べる西日本弥生文化の代表・北部九州の社会を優にしのぐほどである。　　▲　上記の発見は、弥生文化は「西日本→東日本」というこれまでの定説を、根底からくつがえすことになった。わたしが住む関東地方の遺跡、すなわち「弥生」時代という名称の発端となった本郷区(現・文京区)向ヶ丘の弥生町の遺跡をはじめ、ちょうど中間点となる関東の弥生遺跡群は、東北日本と西日本の双方からの影響を受けたシンクレティズム遺構が多いとみられる。　もう一度書くが旧石器時代はともかく、10000年前の縄文期からつづく全国各地の豊饒な日本の歴史を、近畿地方のみに視座をすえ他の地域や住民たちを「まつろわぬもの」や「夷(えびす)」、「蝦夷(えみし／えぞ)」、「土蜘蛛(つちぐも)」、「大蜘蛛」、北の一部は「粛慎(みしはせ)」、はては「国栖(くず)」などと称して蔑視し、文化的にも多彩で奥深く長大な自国の歴史に、泥を塗りつづける薩長政府の皇国史観は、わたしにとっては全的に廃棄したいテーマだ。それは、先述した魏国(中国)が抱く「中華思想」を無批判にサルマネしたミニ「近畿版」にすぎない。　また、東日本の縄文のついた弥生式土器(宮ノ台式土器など)は知られていたが、西日本でも明らかに縄文文化への回帰(ルネサンス)とみられる、あえて縄文を復活させた弥生式土器が多数発掘されている。弥生期の近畿地方の人々は、先祖から受け継がれた自分たちのアイデンティティを改めて確認したかったものか、盛んに縄文のついた弥生式土器を焼いている。すなわち、昔日の教科書にも見られた「弥生人」が渡来し、「縄文人」を圧倒しつつ弥生時代を創造したのではなく、日本列島にいた多くの住民たちが弥生文化を受け入れたが、先祖から受け継がれた文化をどこかに宿していたたため、縄文ルネサンス現象が全国の東西各地で起きているということのようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58C97E6B5B7E98193E987A7E8B7AFE5B9A3E8889E28E381ACE38195E381BEE3818429E6A98BE981BAE8B7A1.jpg" alt="&#x5317;&#x6D77;&#x9053;&#x91E7;&#x8DEF;&#x5E63;&#x821E;(&#x306C;&#x3055;&#x307E;&#x3044;)&#x6A4B;&#x907A;&#x8DE1;.jpg" width="520" height="317" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B884E69687E381AEE381A4E38184E3819FE5BCA5E7949FE5BC8FE59C9FE599A828E58D97E996A2E69DB1EFBC8FE58D83E89189E79C8CE5AEAEE3838EE58FB0E981BAE8B7A129.jpg" alt="&#x7E04;&#x6587;&#x306E;&#x3064;&#x3044;&#x305F;&#x5F25;&#x751F;&#x5F0F;&#x571F;&#x5668;(&#x5357;&#x95A2;&#x6771;&#xFF0F;&#x5343;&#x8449;&#x770C;&#x5BAE;&#x30CE;&#x53F0;&#x907A;&#x8DE1;).jpg" width="520" height="520" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BCA5E7949FE69982E4BBA3E381AEE7B884E69687E59C9FE599A8.jpg" alt="&#x5F25;&#x751F;&#x6642;&#x4EE3;&#x306E;&#x7E04;&#x6587;&#x571F;&#x5668;.jpg" width="520" height="536" border="0" />　拙ブログでは、関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-03-19.html" target="_blank">古墳</a>あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-10.html" target="_blank">古墳時代</a>について、また奈良～鎌倉期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-30.html" target="_blank">エピソード</a>についてはつれづれ記事にしているので、ここは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-08.html" target="_blank">鎌倉</a>時代直後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-28.html" target="_blank">武家社会</a>にまで時代をグッと下げて書いてみよう。バズワードでいえば、いわゆる「サムライ」の世界だ　古い書籍や資料などには、北関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-14.html" target="_blank">足利氏</a>や新田・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html" target="_blank">世良田氏(のち徳川氏)</a>によって関東の中心地だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-08-19.html" target="_blank">鎌倉幕府</a>が滅亡したあと、足利氏が関東ではなく京の室町に幕府を開いたため、関東は再び静寂な武蔵野の風情や原野にもどったかのように、従来の「日本史」では語られてきた。たとえば、2008年(平成20)に未来社から刊行された宮本常一『私の日本地図⑩武蔵野・青梅』(執筆時点は1970年ごろ)には、関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520690261.html" target="_blank">鎌倉街道</a>や鎌倉支道について次のような記述が見えている。　　▼　この道すじ(鎌倉街道沿い)には中山道や東海道とはちがった文化が存在していたことが推定せられる。しかし、それがどのようなものであるかということについての解明はまだなされていない。／関東平野の人びとが鎌倉との縁がきれて、南北の道を歩くことが少なくなってもそこに何かが残り、また醸成されていったはずである。(カッコ内引用者註)　　▲　鎌倉幕府の滅亡後、関東をタテヨコに結ぶ各鎌倉街道は「歩くことが少なくな」るどころか、むしろ鎌倉期以上に人々の往来が激しくなることを、当時の宮本常一は知るよしもなかった。1970年以降まで語られることが少なかった、あるいは薩長政府によって消去され「なかったこと」にされていた、鎌倉幕府の崩壊からしばらくして日本を二分する、関東と近畿の30年戦争「亨徳の乱」がほどなく勃発していた。そして、それにともない江戸や川越、小田原、岩槻などの大規模な城下町が形成され、軍事・物流・商業ルートとしての街道筋の重要性は急速に増していく。　よく、「戦国時代」の幕開けは京で起きた応仁・文明の乱などといわれてきたが、これも近畿地方を視座の中心にすえた皇国史観の一例だろう。応仁・文明の乱は、亨徳の乱への対応に関する室町幕府内の対立から派生した局地戦にすぎない。戦国時代のはじまりは、明らかに「下剋上」あるいは「上剋下」をともなう関東の亨徳の乱からスタートしている。　家臣が主君を裏切って権力を奪取する「下剋上」はもちろん、力をつけて主君の勢力を上まわるようになった家臣を、事前に謀殺する「上剋下」が亨徳の乱では続出している。連戦連勝で無敗のまま大規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank">江戸城</a>を建設した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-11-12.html" target="_blank">太田道灌</a>は、川越城を本拠としていた主君の関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の勢力をしのぐようになり、「下剋上」を怖れられて暗殺されている。亨徳の乱は、関東地方はおろか駿河の今川氏や甲斐の武田氏、伊豆の伊勢氏(後北条氏)、越後・越中の長尾氏、さらには東北勢の各国まで巻きこんだ東日本全域の大規模な戦乱であり、戦闘の範囲や規模も局地戦の応仁・文明の乱とはケタちがいだった。　足利幕府は、もちろん出自の北関東ではなく京の室町にあったのだが、関東の足利氏の拠点は「鎌倉公方」という形式のもと鎌倉にあった。だが、鎌倉公方は関東全域さらには東北などの武家社会全体の統率者であり、鎌倉公方＝室町時代の「鎌倉幕府」と位置づけたほうが理解が早いだろうか。すなわち、京にあった足利氏の室町幕府と、同族の足利氏による「鎌倉幕府」との分割支配体制＝東西対立が、亨徳の乱という大規模な東西30年戦争の本質だろう。2017年(平成29)に講談社から出版の峰岸純夫『亨徳の乱－中世東国の「三十年戦争」』より、少し長いが引用してみよう。　　▼　◎戦国時代は応仁・文明の乱より十三年早く、関東から始まった／◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである／この内乱(関東の大乱)は、単に関東における古河公方(元・鎌倉公方)と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府＝足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに一九六〇年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「十五世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。／(足利)成氏は(室町)幕府方と交戦する二十八年間に、享徳以降、康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と、六度も改元されたにもかかわらず、中央政権への抵抗という意味で享徳年号を連続して使用しつづけた。(カッコ内引用者註)　　▲　つまり、東日本の古河公方(元・鎌倉公方)側は、京の幕府による改元を拒否して30年近くも「享徳」年号を使いつづけ、東日本は一種の独立国のような体をなしていた。換言すれば、古河(鎌倉)公方側へ味方した関東の領主や一揆(武士団)たちは、書状(手紙)のタイムスタンプに「享徳〇〇年」を記しつづけている。これまで見つかっている書状の中で、もっとも新しいタイムスタンプのものは享徳27年4月7日の「安保氏康文書」だが、さらに後年のものもあるかもしれない。ちなみに、「一揆」というワード本来の意味は、同じ目的をもって行動する団体あるいは組織のことで、享徳の乱で頻出する「一揆」は関東のサムライ集団のことだ。　享徳年間は、西日本では1452～1455年の3年間(享徳3年から康正元年)にすぎないが、関東の鎌倉公方(古河公方)側では実に1478年(享徳27)まで、そのまま享徳元号を使いつづけたことが確認されている。1478年の西日本では、すでに「文明10年」となっていた。京にある室町幕府の動揺とともに、大規模な畿内と関東(＋東北)地方との東西30年戦争は、朝廷のある京を視座の中心にすえる皇国史観がベースの薩長政府にすれば、元号の二重化も含め日本史上でも「なかったこと」あるいは小さな「内乱」程度にまで、あくまでも矮小化しておきたかった史実のひとつなのだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B0E5B2B8E7B494E5A4ABE3808CE4BAABE5BEB3E381AEE4B9B1E3808D2017E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="&#x5CF0;&#x5CB8;&#x7D14;&#x592B;&#x300C;&#x4EAB;&#x5FB3;&#x306E;&#x4E71;&#x300D;2017&#x8B1B;&#x8AC7;&#x793E;.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E794B0E982A6E6988EE3808CE4BAABE5BEB3E381AEE4B9B1E381A8E5A4AAE794B0E98193E7818CE3808D2015E59089E5B79DE5BC98E69687E9A4A8.jpg" alt="&#x5C71;&#x7530;&#x90A6;&#x660E;&#x300C;&#x4EAB;&#x5FB3;&#x306E;&#x4E71;&#x3068;&#x592A;&#x7530;&#x9053;&#x704C;&#x300D;2015&#x5409;&#x5DDD;&#x5F18;&#x6587;&#x9928;.jpg" width="255" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E897A4E4B880E7BE8EE3808CE5A4AAE794B0E98193E7818CE381A8E6ADA6E894B5E383BBE79BB8E6A8A1E3808D2023E68892E58589E7A5A5E587BAE78988.jpg" alt="&#x4F50;&#x85E4;&#x4E00;&#x7F8E;&#x300C;&#x592A;&#x7530;&#x9053;&#x704C;&#x3068;&#x6B66;&#x8535;&#x30FB;&#x76F8;&#x6A21;&#x300D;2023&#x6212;&#x5149;&#x7965;&#x51FA;&#x7248;.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8919BE59F8EE6988EE5BDA6E3808CE6B1BAE688A6E3808D2008E9A2A8E697A9E69BB8E69E97.jpg" alt="&#x845B;&#x57CE;&#x660E;&#x5F66;&#x300C;&#x6C7A;&#x6226;&#x300D;2008&#x98A8;&#x65E9;&#x66F8;&#x6797;.jpg" width="255" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEAEE69CACE5B8B8E4B880E3808CE7A781E381AEE697A5E69CACE59CB0E59BB310E6ADA6E894B5E9878EE383BBE99D92E6A2852008E69CAAE69DA5E7A4BE.jpg" alt="&#x5BAE;&#x672C;&#x5E38;&#x4E00;&#x300C;&#x79C1;&#x306E;&#x65E5;&#x672C;&#x5730;&#x56F3;10&#x6B66;&#x8535;&#x91CE;&#x30FB;&#x9752;&#x6885;2008&#x672A;&#x6765;&#x793E;.jpg" width="255" height="363" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B9B3E4BA95E4B88AE7B78FE3808CE585B5E8BEB2E58886E99BA2E381AFE38182E381A3E3819FE381AEE3818BE3808D2017E5B9B3E587A1E7A4BE.jpg" alt="&#x5E73;&#x4E95;&#x4E0A;&#x7DCF;&#x300C;&#x5175;&#x8FB2;&#x5206;&#x96E2;&#x306F;&#x3042;&#x3063;&#x305F;&#x306E;&#x304B;&#x300D;2017&#x5E73;&#x51E1;&#x793E;.jpg" width="255" height="363" border="0" />　享徳の乱の全貌がほぼ明らかになったのは、京や関東のさまざまな文献や資料を掘り下げ組み合わせていった1960～70年代ごろのことで、それまでの日本史の教科書ではあくまでも近畿視点のみで応仁・文明の乱が「戦国時代」の幕開けと教えられてきた。最近の教科書では、ようやく同乱は関東の享徳の乱が派生して起きた、一内乱という記述がされてきている。　さて、最後に江戸時代にあったとされた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-26.html" target="_blank">「士農工商」</a>という身分制度については、すでに2008年(平成20)に小学館から刊行された平川新『日本の歴史・第12巻－江戸時代／十九世紀－開国への道』とともに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514326837.html" target="_blank">記事</a>にしているが、江戸期の行政史料にも司法史料にもどこにも存在していない「士農工商」が、あたかも厳しい身分制度として存在していたかのように表現してきたのは、またしても薩長政府による「日本史」だ。最近の教科書における「士農工商」の記述について、2017年(平成29)に平凡社から出版された平井上総『兵農分離はあったのか』から、少しだけ引用しよう。　　▼　ところが現在では、士農工商という概念の使用には、慎重な姿勢を示す研究者が多い。高校の日本史教科書でも、たとえば、山川出版社の『詳説日本史B』の二〇一一年版を見ると、支配身分としての武士と被支配身分としての百姓・職人・町人を説明したのちに、こうした社会秩序を士農工商と「呼ぶこともある」と説明しており、士農工商が幕府の作った制度であったとは記していないのである。日本史教科書の記述の変化を取り扱った書籍が最近出版されているが、そこでも変化の一つとして、士農工商という言葉が取り上げられている[高橋ら二〇一六]。　　▲　すなわち、そのような身分制度が江戸期に規定されていたわけではなく、今日ではそう「呼ぶこともある」だけという表現に変化してきているのがわかる。そう呼んでいたのは、中国や朝鮮半島の儒教思想(修身)をベースにした「修身書」だったのは、以前にも記したとおりだ。それを、薩長政府の「日本史」では、あたかも江戸幕府が「士農工商」という身分制度を規定し、厳しく適用していたかのように歪曲して記述している。「士農工商」は、紀元前の中国春秋戦国時代から存在するワードであり、儒教書あるいは中国史書に登場するそれを、封建制をことさら強調するためか、あたかも江戸幕府が身分制度として取り入れていたかのように捏造していたわけだ。　また、明治以降につかわれる江戸期は「鎖国」時代という言葉もかなり微妙だ。江戸幕府の抱え刀工だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank">越前康継一派</a>は、アジア諸国や中国などから輸入した、イギリスの東インド会社が製造する“南蛮鉄”(インド産の鉄鉱石由来の鋼)を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-12.html" target="_blank">和鉄</a>(日本産の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html">目白</a>)に混合させ、江戸期が終わる幕末まで盛んに鍛刀している。初代・康継から南蛮鉄の混合が見られるので、慶長の江戸初期から幕末まで一貫している。ヨーロッパ各国の文化や製品は、ネザーランド(オランダ)を通じて常に国内へもたらされており、中国や朝鮮、アジア諸国との貿易や交流も盛んに行われている。　「鎖国」というのは、対外的な国交や貿易をほぼ完全にシャットアウトすることで、近現代でいえばチベットやアルバニア、ポル・ポトが率いたクメール・ルージュの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank">カンボジア</a>などがとった政策のことだ。日本では公式のものだけでも、長崎口(出島＝対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank">ヨーロッパ</a>／中国)や対馬口(対・朝鮮半島)、薩摩口(対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank">琉球列島</a>／東南アジア)、松前口(対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516237412.html" target="_blank">アイヌ民族</a>／沿海州=ロシア)と、実質的に4か所もの貿易港を備えた政治体制を「鎖国」とは呼べないだろう。　江戸時代を、ことさら閉鎖的で封建的な時代だったと規定したいがため、その「厳しさ」のみを強調し、実態としての町村自治を前提とした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank">“触書政治”</a>などにはいっさい触れず、薩長政府がこしらえた明治以降のイメージが先行しているのだろう。だが、日常生活における風俗や思想・表現の取り締まりは、全国的に網羅された警察組織がいきわたる明治期のほうがよほど厳格でシビアだった。政府や地方施策への不満がもとで、農民も含めた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-04.html" target="_blank">庶民(百姓)の一揆</a>が急増するのは、江戸期よりも明治期のほうの発生件数が多かったことは、ずいぶん以前の記事にも書いていた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEA4E794BAE4B8ADE69C9FE6B19FE688B8.jpg" alt="&#x5BA4;&#x753A;&#x4E2D;&#x671F;&#x6C5F;&#x6238;.jpg" width="520" height="542" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99D99E58B9DE5AFBAE5A4AAE794B0E98193E7818CE5838F.jpg" alt="&#x9759;&#x52DD;&#x5BFA;&#x592A;&#x7530;&#x9053;&#x704C;&#x50CF;.jpg" width="520" height="341" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A9E6B3A2E8AC9BE5BAA7E697A5E69CACE6ADB4E58FB214E8BF91E4B8965E383BB2015.jpg" alt="&#x5CA9;&#x6CE2;&#x8B1B;&#x5EA7;&#x65E5;&#x672C;&#x6B74;&#x53F2;14&#x8FD1;&#x4E16;5&#x30FB;2015.jpg" width="255" height="354" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB212E5B08FE5ADA6E9A4A82008.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x6B74;&#x53F2;12&#x5C0F;&#x5B66;&#x9928;2008.jpg" width="255" height="354" border="0" />　江戸幕府が外交や貿易を制限したのは、キリスト教布教による国内の不安定化を避けるためと、なによりもそのあとにつづく欧州各国による軍隊派遣のリスクを避けるためで、「鎖国」ではなく選択的外交・交易と呼ぶべきだろう。ネザーランド(オランダ)のみがキリスト教の布教は行わないと誓約したため、幕府は国交・貿易を許可している。「鎖国」という規定も、江戸時代をことさら閉鎖的だったとイメージさせるために、薩長政府が多用した用語だ。しかも幕末には「開国」しており、それを時代に逆行した「鎖国」へもどそうとしたのは、明治政府の主体となる薩長を中心とした、「攘夷」思想であったことも忘れてはならない史実だろう。　こうして、前世紀末から今世紀にかけ新たな発見や研究成果が続々とつづいているにもかかわらず、そしてこれらの史実や成果物が次々と公開・報道されているにもかかわらず、縄文時代は旧石器時代のような原始時代、弥生時代は西から東へ、平安時代の貴族文化が日本文化の基礎、鎌倉幕府の滅亡後の関東以北は文化の遅れた原野、徳川家が関東へもどるまで江戸は草茫々の原っぱ、江戸幕府は「士農工商」のガチガチな身分社会……等々、10000年余におよぶ自国の文化史や技術史も含めた豊饒な歴史を、意図的におとしめ卑しめて泥を塗りつづける、薩長政府がこしらえた「自虐」的な「日本史」をいまだに信じる人がいる。これらの人々は、「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」や「七五三は日本古来の伝統」と同様、ガリレオがいくら「それでも地球は回転している」といっても理解せず、なにをいってもムダな史実や諸科学を認めない宗教者たちなのだろうか。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;了&gt;
◆写真上：太田道灌が1457年(長禄元)に築いた、約600年にものぼる日本最古クラスの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-08-28.html" target="_blank">江戸城</a>の様子も明らかになりつつある。江戸城が、これまで想定された以上に大規模なことも判明してきた。また、形成された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank">(城)下町</a>も、国内の一大拠点になりうるほど都市化が進んでいたこともわかりつつある。イラストの河川は、現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank">神田川</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-12-15.html" target="_blank">日本橋川</a>あたりを流れ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank">江戸湾</a>に注ぐ小石川(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank">平川</a>)で両岸には城下町が、城郭の南側には漁師町や物流拠点の湊(江戸港)が拓かれた。中世1400年代の城下町では、国内で最大クラスだったとみられる江戸の街だ。◆写真中上：上は、北海道釧路市の幣舞(ヌサマエ)橋で発見された弥生時代前期の共同墓地・89号墳。9歳前後の男の子を葬った墳墓で、同時期の国内墳墓ではもっとも豪華な副葬品が出土している。同墳のほか、同時代では北海道の弥生文化がもっとも進み豊饒だったことが明らかになった。中は、南関東から出土する縄文の入った弥生式土器(千葉県宮ノ台遺跡出土)。下は、近畿地方から出土する縄文ルネサンスの弥生式土器における地域別縄文特性。◆写真中下：上左は、2017年に出版された峰岸純夫『享徳の乱』(講談社)。上右は、2015年に出版された山田邦明『享徳の乱と太田道灌』(吉川弘文館)。中左は、2023年に出版された佐藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(戒光祥出版)。中右は、2008年に出版された葛城明彦『決戦』(風早書林)。室町中・後期にかけ、足利氏の幕府(京)とその故地である関東の足利氏との東西30年戦争の全貌を描く書籍類だ。下左は、2008年に出版された宮本常一『私の日本地図10／武蔵野・青梅』(未来社)。下右は、2017年に出版された平井上総『兵農分離はあったのか』(平凡社)。◆写真下：上は、室町中期を想定した江戸地域で、すでに神田や日本橋地域の一部が形成されつつあるのがわかる。中は、北区赤羽の静勝寺に残る太田道灌像。下左は、2015年出版の第5次『岩波講座日本歴史14／近世5』(岩波書店)。下右は、2008年に出版された『日本の歴史12』(小学館)。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4AAE794B0E98193E7818CE3808CE6B19FE688B8E59F8EE3808D.jpg" alt="太田道灌「江戸城」.jpg" width="600" height="431" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521344495.html" target="_blank" rel="noopener">前回記事</a>につづき、諸科学の成果による日本史の激変はまだまだある。わたしの世代では、日本列島の「弥生化」はイネの栽培とともに九州から西日本へ徐々に拡がり、やがて中部から関東、東北地方へと浸透していったと習っていた。ところが、弥生期を象徴する環濠(環柵)集落＝ムラの形成は、青森や秋田など東北地方がもっとも早かったことがわかってきた。<br />　そのメルクマールが前回写真を掲載した、山形県遊佐町の三崎山遺跡(縄文後期)から発見された青銅製の刀剣だろう。青銅器時代＝弥生時代といわれていたのが、「無土器」「打製石器」が指標となっていた旧石器時代と同様に、「イネ」「青銅器」＝弥生時代が崩れた瞬間だった。</div><div>　また、前世紀末の発掘成果だが、弥生前期でもっとも豪華な墳墓が北海道にあったというのも衝撃だった。つまり、弥生文化＝「弥生化」は西日本→東日本ではないということだ。これは、古墳時代以降へつづく東西の“家畜”の拡がりについてもいえる。西日本の「牛」文化に対して東日本は「馬」文化なのも、近年の成果をベースにしている日本史の側面だ。飼育する家畜により道具や武器＝刀剣の“湾刀化”が進み、東北で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank" rel="noopener">「日本刀」</a>が誕生した経緯はすでに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509710849.html" target="_blank" rel="noopener">記事</a>にしていた。<br />　北海道の釧路市街にある、幣前(ヌサマエ)橋のたもとで前世紀末に見つかった弥生期の共同墓地は、弥生時代の研究者におそらく最大の衝撃を与えただろう。その墓のひとつ89号墳には、わずか9歳ほどで死んだ男の子が埋葬されていたのだが、その副葬品が「ハンパない」ものだったのだ。同時期の日本列島の墳墓では、もっとも豪華な副葬品で彩られていた。琥珀(こはく)のビーズをはじめ、貝殻のビーズ、ベンケイガイやイノシシの牙でつくったペンダント類、各種土器、管玉など、日本各地から集めた素材でこしらえたアクセサリー類で埋まっていた。<br />　上記の幣前橋遺跡に限らず、同じ弥生前期の北海道では豪華な副葬品をともなう墳墓が数多く発見されている。白老(シラオイ)町アヨロ遺跡(墳墓60基)では、出雲地方で産出する碧玉の管玉や、青灰色の磨製斧、琥珀製のビーズ(ペンダント)、色とりどりのアクセサリーや石鏃、磨きあげられたナイフや石銛など、従来の弥生墳墓では考えられなかった豪華絢爛な副葬品が、被葬者の人骨とともに見つかっている。弥生前期にみられる北海道の弥生遺跡について、2007年(平成19)に小学館から出版された松木武彦『日本の歴史／列島創世記』より、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　意外に思われるかもしれないが、弥生時代の前半にあたるこの時期で、もっとも華々しい副葬品をもつ墓がたくさん現れる地域は、北海道をおいてほかにない。副葬品の量やバラエティについていえば、後で詳しく述べる西日本弥生文化の代表・北部九州の社会を優にしのぐほどである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の発見は、弥生文化は「西日本→東日本」というこれまでの定説を、根底からくつがえすことになった。わたしが住む関東地方の遺跡、すなわち「弥生」時代という名称の発端となった本郷区(現・文京区)向ヶ丘の弥生町の遺跡をはじめ、ちょうど中間点となる関東の弥生遺跡群は、東北日本と西日本の双方からの影響を受けたシンクレティズム遺構が多いとみられる。<br />　もう一度書くが旧石器時代はともかく、10000年前の縄文期からつづく全国各地の豊饒な日本の歴史を、近畿地方のみに視座をすえ他の地域や住民たちを「まつろわぬもの」や「夷(えびす)」、「蝦夷(えみし／えぞ)」、「土蜘蛛(つちぐも)」、「大蜘蛛」、北の一部は「粛慎(みしはせ)」、はては「国栖(くず)」などと称して蔑視し、文化的にも多彩で奥深く長大な自国の歴史に、泥を塗りつづける薩長政府の皇国史観は、わたしにとっては全的に廃棄したいテーマだ。それは、先述した魏国(中国)が抱く「中華思想」を無批判にサルマネしたミニ「近畿版」にすぎない。<br />　また、東日本の縄文のついた弥生式土器(宮ノ台式土器など)は知られていたが、西日本でも明らかに縄文文化への回帰(ルネサンス)とみられる、あえて縄文を復活させた弥生式土器が多数発掘されている。弥生期の近畿地方の人々は、先祖から受け継がれた自分たちのアイデンティティを改めて確認したかったものか、盛んに縄文のついた弥生式土器を焼いている。すなわち、昔日の教科書にも見られた「弥生人」が渡来し、「縄文人」を圧倒しつつ弥生時代を創造したのではなく、日本列島にいた多くの住民たちが弥生文化を受け入れたが、先祖から受け継がれた文化をどこかに宿していたたため、縄文ルネサンス現象が全国の東西各地で起きているということのようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58C97E6B5B7E98193E987A7E8B7AFE5B9A3E8889E28E381ACE38195E381BEE3818429E6A98BE981BAE8B7A1.jpg" alt="北海道釧路幣舞(ぬさまい)橋遺跡.jpg" width="520" height="317" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B884E69687E381AEE381A4E38184E3819FE5BCA5E7949FE5BC8FE59C9FE599A828E58D97E996A2E69DB1EFBC8FE58D83E89189E79C8CE5AEAEE3838EE58FB0E981BAE8B7A129.jpg" alt="縄文のついた弥生式土器(南関東／千葉県宮ノ台遺跡).jpg" width="520" height="520" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BCA5E7949FE69982E4BBA3E381AEE7B884E69687E59C9FE599A8.jpg" alt="弥生時代の縄文土器.jpg" width="520" height="536" border="0" /></div><div>　拙ブログでは、関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-03-19.html" target="_blank" rel="noopener">古墳</a>あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">古墳時代</a>について、また奈良～鎌倉期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-30.html" target="_blank" rel="noopener">エピソード</a>についてはつれづれ記事にしているので、ここは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-08.html" target="_blank" rel="noopener">鎌倉</a>時代直後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-28.html" target="_blank" rel="noopener">武家社会</a>にまで時代をグッと下げて書いてみよう。バズワードでいえば、いわゆる「サムライ」の世界だ<br />　古い書籍や資料などには、北関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">足利氏</a>や新田・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html" target="_blank" rel="noopener">世良田氏(のち徳川氏)</a>によって関東の中心地だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">鎌倉幕府</a>が滅亡したあと、足利氏が関東ではなく京の室町に幕府を開いたため、関東は再び静寂な武蔵野の風情や原野にもどったかのように、従来の「日本史」では語られてきた。たとえば、2008年(平成20)に未来社から刊行された宮本常一『私の日本地図⑩武蔵野・青梅』(執筆時点は1970年ごろ)には、関東の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520690261.html" target="_blank" rel="noopener">鎌倉街道</a>や鎌倉支道について次のような記述が見えている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　この道すじ(鎌倉街道沿い)には中山道や東海道とはちがった文化が存在していたことが推定せられる。しかし、それがどのようなものであるかということについての解明はまだなされていない。／関東平野の人びとが鎌倉との縁がきれて、南北の道を歩くことが少なくなってもそこに何かが残り、また醸成されていったはずである。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　鎌倉幕府の滅亡後、関東をタテヨコに結ぶ各鎌倉街道は「歩くことが少なくな」るどころか、むしろ鎌倉期以上に人々の往来が激しくなることを、当時の宮本常一は知るよしもなかった。1970年以降まで語られることが少なかった、あるいは薩長政府によって消去され「なかったこと」にされていた、鎌倉幕府の崩壊からしばらくして日本を二分する、関東と近畿の30年戦争「亨徳の乱」がほどなく勃発していた。そして、それにともない江戸や川越、小田原、岩槻などの大規模な城下町が形成され、軍事・物流・商業ルートとしての街道筋の重要性は急速に増していく。<br />　よく、「戦国時代」の幕開けは京で起きた応仁・文明の乱などといわれてきたが、これも近畿地方を視座の中心にすえた皇国史観の一例だろう。応仁・文明の乱は、亨徳の乱への対応に関する室町幕府内の対立から派生した局地戦にすぎない。戦国時代のはじまりは、明らかに「下剋上」あるいは「上剋下」をともなう関東の亨徳の乱からスタートしている。<br />　家臣が主君を裏切って権力を奪取する「下剋上」はもちろん、力をつけて主君の勢力を上まわるようになった家臣を、事前に謀殺する「上剋下」が亨徳の乱では続出している。連戦連勝で無敗のまま大規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>を建設した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">太田道灌</a>は、川越城を本拠としていた主君の関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の勢力をしのぐようになり、「下剋上」を怖れられて暗殺されている。亨徳の乱は、関東地方はおろか駿河の今川氏や甲斐の武田氏、伊豆の伊勢氏(後北条氏)、越後・越中の長尾氏、さらには東北勢の各国まで巻きこんだ東日本全域の大規模な戦乱であり、戦闘の範囲や規模も局地戦の応仁・文明の乱とはケタちがいだった。<br />　足利幕府は、もちろん出自の北関東ではなく京の室町にあったのだが、関東の足利氏の拠点は「鎌倉公方」という形式のもと鎌倉にあった。だが、鎌倉公方は関東全域さらには東北などの武家社会全体の統率者であり、鎌倉公方＝室町時代の「鎌倉幕府」と位置づけたほうが理解が早いだろうか。すなわち、京にあった足利氏の室町幕府と、同族の足利氏による「鎌倉幕府」との分割支配体制＝東西対立が、亨徳の乱という大規模な東西30年戦争の本質だろう。2017年(平成29)に講談社から出版の峰岸純夫『亨徳の乱－中世東国の「三十年戦争」』より、少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">◎戦国時代は応仁・文明の乱より十三年早く、関東から始まった／◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである</span>／この内乱(関東の大乱)は、単に関東における古河公方(元・鎌倉公方)と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府＝足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに一九六〇年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「十五世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。／(足利)成氏は(室町)幕府方と交戦する二十八年間に、享徳以降、康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と、六度も改元されたにもかかわらず、中央政権への抵抗という意味で享徳年号を連続して使用しつづけた。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　つまり、東日本の古河公方(元・鎌倉公方)側は、京の幕府による改元を拒否して30年近くも「享徳」年号を使いつづけ、東日本は一種の独立国のような体をなしていた。換言すれば、古河(鎌倉)公方側へ味方した関東の領主や一揆(武士団)たちは、書状(手紙)のタイムスタンプに「享徳〇〇年」を記しつづけている。これまで見つかっている書状の中で、もっとも新しいタイムスタンプのものは享徳27年4月7日の「安保氏康文書」だが、さらに後年のものもあるかもしれない。ちなみに、「一揆」というワード本来の意味は、同じ目的をもって行動する団体あるいは組織のことで、享徳の乱で頻出する「一揆」は関東のサムライ集団のことだ。<br />　享徳年間は、西日本では1452～1455年の3年間(享徳3年から康正元年)にすぎないが、関東の鎌倉公方(古河公方)側では実に1478年(享徳27)まで、そのまま享徳元号を使いつづけたことが確認されている。1478年の西日本では、すでに「文明10年」となっていた。京にある室町幕府の動揺とともに、大規模な畿内と関東(＋東北)地方との東西30年戦争は、朝廷のある京を視座の中心にすえる皇国史観がベースの薩長政府にすれば、元号の二重化も含め日本史上でも「なかったこと」あるいは小さな「内乱」程度にまで、あくまでも矮小化しておきたかった史実のひとつなのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B3B0E5B2B8E7B494E5A4ABE3808CE4BAABE5BEB3E381AEE4B9B1E3808D2017E8AC9BE8AB87E7A4BE.jpg" alt="峰岸純夫「享徳の乱」2017講談社.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E794B0E982A6E6988EE3808CE4BAABE5BEB3E381AEE4B9B1E381A8E5A4AAE794B0E98193E7818CE3808D2015E59089E5B79DE5BC98E69687E9A4A8.jpg" alt="山田邦明「享徳の乱と太田道灌」2015吉川弘文館.jpg" width="255" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E897A4E4B880E7BE8EE3808CE5A4AAE794B0E98193E7818CE381A8E6ADA6E894B5E383BBE79BB8E6A8A1E3808D2023E68892E58589E7A5A5E587BAE78988.jpg" alt="佐藤一美「太田道灌と武蔵・相模」2023戒光祥出版.jpg" width="255" height="365" border="0" />&nbsp;<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8919BE59F8EE6988EE5BDA6E3808CE6B1BAE688A6E3808D2008E9A2A8E697A9E69BB8E69E97.jpg" alt="葛城明彦「決戦」2008風早書林.jpg" width="255" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEAEE69CACE5B8B8E4B880E3808CE7A781E381AEE697A5E69CACE59CB0E59BB310E6ADA6E894B5E9878EE383BBE99D92E6A2852008E69CAAE69DA5E7A4BE.jpg" alt="宮本常一「私の日本地図10武蔵野・青梅2008未来社.jpg" width="255" height="363" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B9B3E4BA95E4B88AE7B78FE3808CE585B5E8BEB2E58886E99BA2E381AFE38182E381A3E3819FE381AEE3818BE3808D2017E5B9B3E587A1E7A4BE.jpg" alt="平井上総「兵農分離はあったのか」2017平凡社.jpg" width="255" height="363" border="0" /></div><div>　享徳の乱の全貌がほぼ明らかになったのは、京や関東のさまざまな文献や資料を掘り下げ組み合わせていった1960～70年代ごろのことで、それまでの日本史の教科書ではあくまでも近畿視点のみで応仁・文明の乱が「戦国時代」の幕開けと教えられてきた。最近の教科書では、ようやく同乱は関東の享徳の乱が派生して起きた、一内乱という記述がされてきている。<br />　さて、最後に江戸時代にあったとされた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-26.html" target="_blank" rel="noopener">「士農工商」</a>という身分制度については、すでに2008年(平成20)に小学館から刊行された平川新『日本の歴史・第12巻－江戸時代／十九世紀－開国への道』とともに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514326837.html" target="_blank" rel="noopener">記事</a>にしているが、江戸期の行政史料にも司法史料にもどこにも存在していない「士農工商」が、あたかも厳しい身分制度として存在していたかのように表現してきたのは、またしても薩長政府による「日本史」だ。最近の教科書における「士農工商」の記述について、2017年(平成29)に平凡社から出版された平井上総『兵農分離はあったのか』から、少しだけ引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　ところが現在では、士農工商という概念の使用には、慎重な姿勢を示す研究者が多い。高校の日本史教科書でも、たとえば、山川出版社の『詳説日本史B』の二〇一一年版を見ると、支配身分としての武士と被支配身分としての百姓・職人・町人を説明したのちに、こうした社会秩序を士農工商と「呼ぶこともある」と説明しており、士農工商が幕府の作った制度であったとは記していないのである。日本史教科書の記述の変化を取り扱った書籍が最近出版されているが、そこでも変化の一つとして、士農工商という言葉が取り上げられている[高橋ら二〇一六]。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　すなわち、そのような身分制度が江戸期に規定されていたわけではなく、今日ではそう「呼ぶこともある」だけという表現に変化してきているのがわかる。そう呼んでいたのは、中国や朝鮮半島の儒教思想(修身)をベースにした「修身書」だったのは、以前にも記したとおりだ。それを、薩長政府の「日本史」では、あたかも江戸幕府が「士農工商」という身分制度を規定し、厳しく適用していたかのように歪曲して記述している。「士農工商」は、紀元前の中国春秋戦国時代から存在するワードであり、儒教書あるいは中国史書に登場するそれを、封建制をことさら強調するためか、あたかも江戸幕府が身分制度として取り入れていたかのように捏造していたわけだ。<br />　また、明治以降につかわれる江戸期は「鎖国」時代という言葉もかなり微妙だ。江戸幕府の抱え刀工だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518411227.html" target="_blank" rel="noopener">越前康継一派</a>は、アジア諸国や中国などから輸入した、イギリスの東インド会社が製造する“南蛮鉄”(インド産の鉄鉱石由来の鋼)を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-12.html" target="_blank" rel="noopener">和鉄</a>(日本産の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html">目白</a>)に混合させ、江戸期が終わる幕末まで盛んに鍛刀している。初代・康継から南蛮鉄の混合が見られるので、慶長の江戸初期から幕末まで一貫している。ヨーロッパ各国の文化や製品は、ネザーランド(オランダ)を通じて常に国内へもたらされており、中国や朝鮮、アジア諸国との貿易や交流も盛んに行われている。<br />　「鎖国」というのは、対外的な国交や貿易をほぼ完全にシャットアウトすることで、近現代でいえばチベットやアルバニア、ポル・ポトが率いたクメール・ルージュの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">カンボジア</a>などがとった政策のことだ。日本では公式のものだけでも、長崎口(出島＝対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">ヨーロッパ</a>／中国)や対馬口(対・朝鮮半島)、薩摩口(対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank" rel="noopener">琉球列島</a>／東南アジア)、松前口(対・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516237412.html" target="_blank" rel="noopener">アイヌ民族</a>／沿海州=ロシア)と、実質的に4か所もの貿易港を備えた政治体制を「鎖国」とは呼べないだろう。</div><div>　江戸時代を、ことさら閉鎖的で封建的な時代だったと規定したいがため、その「厳しさ」のみを強調し、実態としての町村自治を前提とした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519802301.html" target="_blank" rel="noopener">“触書政治”</a>などにはいっさい触れず、薩長政府がこしらえた明治以降のイメージが先行しているのだろう。だが、日常生活における風俗や思想・表現の取り締まりは、全国的に網羅された警察組織がいきわたる明治期のほうがよほど厳格でシビアだった。政府や地方施策への不満がもとで、農民も含めた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-04.html" target="_blank" rel="noopener">庶民(百姓)の一揆</a>が急増するのは、江戸期よりも明治期のほうの発生件数が多かったことは、ずいぶん以前の記事にも書いていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEA4E794BAE4B8ADE69C9FE6B19FE688B8.jpg" alt="室町中期江戸.jpg" width="520" height="542" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99D99E58B9DE5AFBAE5A4AAE794B0E98193E7818CE5838F.jpg" alt="静勝寺太田道灌像.jpg" width="520" height="341" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2A9E6B3A2E8AC9BE5BAA7E697A5E69CACE6ADB4E58FB214E8BF91E4B8965E383BB2015.jpg" alt="岩波講座日本歴史14近世5・2015.jpg" width="255" height="354" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB212E5B08FE5ADA6E9A4A82008.jpg" alt="日本の歴史12小学館2008.jpg" width="255" height="354" border="0" /></div><div>　江戸幕府が外交や貿易を制限したのは、キリスト教布教による国内の不安定化を避けるためと、なによりもそのあとにつづく欧州各国による軍隊派遣のリスクを避けるためで、「鎖国」ではなく選択的外交・交易と呼ぶべきだろう。ネザーランド(オランダ)のみがキリスト教の布教は行わないと誓約したため、幕府は国交・貿易を許可している。「鎖国」という規定も、江戸時代をことさら閉鎖的だったとイメージさせるために、薩長政府が多用した用語だ。しかも幕末には「開国」しており、それを時代に逆行した「鎖国」へもどそうとしたのは、明治政府の主体となる薩長を中心とした、「攘夷」思想であったことも忘れてはならない史実だろう。</div><div>　こうして、前世紀末から今世紀にかけ新たな発見や研究成果が続々とつづいているにもかかわらず、そしてこれらの史実や成果物が次々と公開・報道されているにもかかわらず、縄文時代は旧石器時代のような原始時代、弥生時代は西から東へ、平安時代の貴族文化が日本文化の基礎、鎌倉幕府の滅亡後の関東以北は文化の遅れた原野、徳川家が関東へもどるまで江戸は草茫々の原っぱ、江戸幕府は「士農工商」のガチガチな身分社会……等々、10000年余におよぶ自国の文化史や技術史も含めた豊饒な歴史を、意図的におとしめ卑しめて泥を塗りつづける、薩長政府がこしらえた「自虐」的な「日本史」をいまだに信じる人がいる。これらの人々は、「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」や「七五三は日本古来の伝統」と同様、ガリレオがいくら「それでも地球は回転している」といっても理解せず、なにをいってもムダな史実や諸科学を認めない宗教者たちなのだろうか。</div><div>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;了&gt;</span></div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：太田道灌が1457年(長禄元)に築いた、約600年にものぼる日本最古クラスの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-08-28.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>の様子も明らかになりつつある。江戸城が、これまで想定された以上に大規模なことも判明してきた。また、形成された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町</a>も、国内の一大拠点になりうるほど都市化が進んでいたこともわかりつつある。イラストの河川は、現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">日本橋川</a>あたりを流れ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">江戸湾</a>に注ぐ小石川(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank" rel="noopener">平川</a>)で両岸には城下町が、城郭の南側には漁師町や物流拠点の湊(江戸港)が拓かれた。中世1400年代の城下町では、国内で最大クラスだったとみられる江戸の街だ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、北海道釧路市の幣舞(ヌサマエ)橋で発見された弥生時代前期の共同墓地・89号墳。9歳前後の男の子を葬った墳墓で、同時期の国内墳墓ではもっとも豪華な副葬品が出土している。同墳のほか、同時代では北海道の弥生文化がもっとも進み豊饒だったことが明らかになった。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、南関東から出土する縄文の入った弥生式土器(千葉県宮ノ台遺跡出土)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、近畿地方から出土する縄文ルネサンスの弥生式土器における地域別縄文特性。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、2017年に出版された峰岸純夫『享徳の乱』(講談社)。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、2015年に出版された山田邦明『享徳の乱と太田道灌』(吉川弘文館)。<span style="color: #3366ff;">中左</span>は、2023年に出版された佐藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(戒光祥出版)。<span style="color: #3366ff;">中右</span>は、2008年に出版された葛城明彦『決戦』(風早書林)。室町中・後期にかけ、足利氏の幕府(京)とその故地である関東の足利氏との東西30年戦争の全貌を描く書籍類だ。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、2008年に出版された宮本常一『私の日本地図10／武蔵野・青梅』(未来社)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、2017年に出版された平井上総『兵農分離はあったのか』(平凡社)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、室町中期を想定した江戸地域で、すでに神田や日本橋地域の一部が形成されつつあるのがわかる。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、北区赤羽の静勝寺に残る太田道灌像。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、2015年出版の第5次『岩波講座日本歴史14／近世5』(岩波書店)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、2008年に出版された『日本の歴史12』(小学館)。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる本</category>
      <author>落合道人</author>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521344495.html</link>
      <title>昔習った「日本史」の知識が追いつかない。(上)</title>
      <pubDate>Mon, 07 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　今回は、夏休みの宿題＝「自由研究」めいたテーマで、やや長めの連載記事を書いてみたい。　わたしが高校生まで習っていた「日本史」と、21世紀の今日、認識されている「日本史」とはずいぶん異なることに愕然とすることがある。拙ブログでも、東京や関東を中心によく取りあげる大・中型古墳(跡)の被葬者だが、地域あるいは地方によっては首長の3～5割が女性だと聞いたら、昔の「日本史」を習ったわたしなら「ご冗談でしょ」と笑ってしまっただろう。　だが、直刀や刀剣、湾刀など当時の古墳刀の武器類が、副..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3BEE3828AE6AB9B.jpg" alt="&#x98FE;&#x308A;&#x6ADB;.jpg" width="600" height="579" border="0" />　今回は、夏休みの宿題＝「自由研究」めいたテーマで、やや長めの連載記事を書いてみたい。　わたしが高校生まで習っていた「日本史」と、21世紀の今日、認識されている「日本史」とはずいぶん異なることに愕然とすることがある。拙ブログでも、東京や関東を中心によく取りあげる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-08.html" target="_blank">大・中型古墳</a>(跡)の被葬者だが、地域あるいは地方によっては首長の3～5割が女性だと聞いたら、昔の「日本史」を習ったわたしなら「ご冗談でしょ」と笑ってしまっただろう。　だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-14.html" target="_blank">直刀</a>や刀剣、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509710849.html" target="_blank">湾刀</a>など当時の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-19.html" target="_blank">古墳刀</a>の武器類が、副葬品として埋葬されていた古墳の主の多くが、女性だった例が多々存在していることがわかってきた。戦前なら、いや戦後でさえも遺伝子学がそれほど発達していない時代であれば、武器類が副葬品として埋葬されていれば「武人」「男王」ないしは地方・地域を統治した「(男性)首長」の墳墓として、なんの疑問も抱かれずに規定されていた。特に戦前は、薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-09.html" target="_blank">儒教思想</a>にもとづくフィルターおよび<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank">皇国史観</a>のもと、武器とともに埋葬された首長・王は、即座に例外なく「男」と規定されてきた。女性が権力を掌握することに「ありうべからざること」という“アレルギー”をもつ、中国や朝鮮半島の儒教思想(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank">修身</a>)にとことん忠実な薩長政府は、戦前に発見された古墳の被葬者を、副葬品に武器類が存在したというだけの根拠で、ほぼすべてのジェンダーを「男」と断定している。　しかし、史的事実はまったくちがっていたのだ。これまで発見された古墳のうち、残された骨の欠片などからDNAを採取して性別を調べてみれば、かなりの確率で副葬品に刀剣などの武器類をともなう被葬者でも、女性だったケースが少なくない。日本の古墳のうち、3～5割の被葬者が女性だとすれば、そこに副葬品として添えられた武器は、なんらかの儀礼用か祭祀用として用いられたものだと想定されがちだが、この想定もすぐにひっくり返されている。前世紀末から今世紀にかけ、考古学上で発見された発掘の成果や新たな事実は、戦前まではあたりまえだった男王＝ジェンダー・ハイアラーキー(性差的階級支配)が崩壊する過程でもあったのだ。　大正の一時期、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank">五ノ坂</a>をのぼる丘上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-15.html" target="_blank">アビラ村</a>に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512884280.html" target="_blank">高群逸枝</a>は、古代における男女のジェンダーロール(役割分担)を、おそらく弥生後期の巫女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank">卑弥呼</a>のイメージが強かったせいか、「ヒメ」＝巫術祭祀(象徴統治)で「ヒコ」＝審神者(さにわ／実務政治)という「ヒメ・ヒコ論」＝男女共同統治論(二重王権論)を展開した。だが、卑弥呼がいた邪馬壱国(邪馬台国)ではたまたまそうだったのかもしれないが、他のクニグニには前線で武装して闘った女性首長(女王)も確実にいたらしい。まるで、アニメのヒロインに登場する女性戦士のような姿だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank">大型古墳</a>の被葬者だった女性で、刀剣など武器類が副葬品として埋葬されている場合は、その可能性が少なからずあるようだ。すぐにも九州から侵略してくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-26.html" target="_blank">「神武」</a>を迎撃した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518274147.html" target="_blank">紀国</a>の女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank">ナグサトベ</a>や、古志(越)の女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-15.html" target="_blank">ヌナカワ</a>を想像してしまうのは、わたしだけではないだろう。　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-09.html" target="_blank">大規模な古墳</a>の女性被葬者について、2000年(平成12)に小学館から出版された『古代史の論点②女と男、家と村』収録の、菱田(藤村)淳子『男女の分業の起源』から、少しだけ引用してみよう。　　▼　こうした性別の分かる被葬者の例を集めた先駆的研究が今井堯の「古墳時代前期における女性の地位」である。また、近年の例を精力的に集積し、副葬品にみられる性差の問題を明らかにしたのが、川西宏幸・辻村純代「古墳時代の巫女」、轟次雄「刀子と鉄鏃の副葬関係」、清家章「副葬品と被葬者の性別」などである。／これらの研究から現在確実に言えることは、大規模な古墳であっても女性の被葬者には甲冑と鉄鏃は伴わないという事実である。しかし、それ以外の武器、農工具、あるいは石製品などの装身具については、確実に被葬者の性別を判断する手がかりとはならないことが明らかになった。特に刀などは全く性別判断の基準にはならない。／また、鉄鏃についても北郷泰道は「武装した女性たち」という刺激的なタイトルで、宮崎県の地下式横穴墓で確実に女性人骨に鉄鏃が伴う例を示し、実践的戦闘要員としての女性の存在を示唆している。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839BE382BEE7B584.jpg" alt="&#x30DB;&#x30BE;&#x7D44;.jpg" width="520" height="602" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B5A4E6BC86E5A197E3828AE382B1E383A4E382ADE69CA8E6A480.jpg" alt="&#x8D64;&#x6F06;&#x5857;&#x308A;&#x30B1;&#x30E4;&#x30AD;&#x6728;&#x6900;.jpg" width="520" height="422" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99D92E98A85E8A3BDE79FADE58880E7B884E69687E5BE8CE69C9F.jpg" alt="&#x9752;&#x9285;&#x88FD;&#x77ED;&#x5200;&#x7E04;&#x6587;&#x5F8C;&#x671F;.jpg" width="520" height="339" border="0" />　ちょうど卑弥呼がいた弥生後期の事例だが、九州の長崎県平戸島にある根獅子遺跡から、戦闘がもとで死亡した女性首長の遺骨が見つかっている。つまり、戦闘の最前線で指揮をとって戦い、剣が頭部に刺さって負傷した女性が、クニ元の首長古墳へ葬られた事例だ。　しかも、戦闘の最前線から帰還した彼女(女性首長＝姫？)は、遺骨の様子から10日以上はなんとか生存していたとみられている。なにやら、アニメに登場しがちな最前線で剣をふるう美少女戦士を想起してしまうのだが、まぎれもなく弥生後期ないしは古墳初期に起きていた史的事実だ。彼女の墳墓の周囲には、石棺が5基、土壙墓が9基ほど彼女に寄り添うように陪葬されているが、これら14体の墳墓は女王(姫？)だった彼女といっしょに戦った配下の兄弟や戦士、陪臣たちなのだろう。彼らは同時期に埋葬されたとは限らず、のちに老齢化で死去してからも、生命をかけて仕えた彼女の傍らに埋葬されたがった元・戦士たちもいたにちがいない。　先土器時代や打製石器時代などと呼ばれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-16.html" target="_blank">旧石器時代</a>だが、日本から次々と初期の土器片や磨製石器が見つかり、現在ではそうは呼べなくなってしまったことは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-27.html" target="_blank">以前の記事</a>にも書いた。英国でもそのようなケースが見つかったものか、いまでは日英考古学の共同研究テーマとなっている。その次の時代、縄文時代については前世紀末から今世紀にかけて、ショッキングな発見が連続して起きているので、強烈な印象を抱かれた方も多いのではないだろうか。わたしが学校で習った縄文時代とは、まったく異なるコペルニクス的な転換となった。　イネやオオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなど畑での栽培を前提とする穀類、ヤマイモやムカゴ、クリ、クルミ、エゴマ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517691254.html" target="_blank">ドングリ</a>、ゴボウ、カンピョウ、各種豆類などの栽培品や採集品、カキやハマグリ、スズキ、ブリ、ウイナメ、アジ、イワシなど加工した魚介類を保存しておく、高床式倉庫までが建設されていることが明らかになった。わたしの世代では、ネズミなどの害獣や穀物を喰い荒らす害虫などを防ぐ高床式倉庫は、弥生時代からと教わっていた。　しかも、高床式倉庫などの建築工法は現代の住宅における大工の技術と同様、「貫穴」(ぬきあな)や「桟穴」(えつりあな)、「渡腮仕口」(わたりあごしぐち)など、複雑なホゾ組が用いられていることも驚きだった。わたしの世代では、金具などをいっさい使わないで建てられたホゾ組による建築は、前世紀末まで斑鳩(いかるが)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-01.html" target="_blank">法隆寺</a>が嚆矢などと教わっていた。そういえば日本に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515721725.html" target="_blank">イエネコ</a>が登場したのは、平安京にいた貴族が中国からわざわざ輸入したのが最初などという「史実」も教えられた。では、縄文遺跡のあちこちから見つかる、イエネコの骨はいったいなんなのだろうか？<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E4BBA3E58FB2E381AEE8AB96E782B92E5A5B3E381A8E794B72000E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="&#x53E4;&#x4EE3;&#x53F2;&#x306E;&#x8AD6;&#x70B9;2&#x5973;&#x3068;&#x7537;2000&#x5C0F;&#x5B66;&#x9928;.jpg" width="255" height="355" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E4BBA3E58FB2E38292E381B2E38289E3818FE285A1E383BBE58FA4E4BBA3E4BABAE381AEE4B880E7949F2023E5B2A9E6B3A2E69BB8E5BA97.jpg" alt="&#x53E4;&#x4EE3;&#x53F2;&#x3092;&#x3072;&#x3089;&#x304F;&#x2161;&#x30FB;&#x53E4;&#x4EE3;&#x4EBA;&#x306E;&#x4E00;&#x751F;2023&#x5CA9;&#x6CE2;&#x66F8;&#x5E97;.jpg" width="255" height="355" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB21E58897E5B3B6E589B5E4B896E8A8982007E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x6B74;&#x53F2;1&#x5217;&#x5CF6;&#x5275;&#x4E16;&#x8A18;2007&#x5C0F;&#x5B66;&#x9928;.jpg" width="255" height="350" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB22E383BBE697A5E69CACE381AEE58E9FE5838F2008E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x6B74;&#x53F2;2&#x30FB;&#x65E5;&#x672C;&#x306E;&#x539F;&#x50CF;2008&#x5C0F;&#x5B66;&#x9928;.jpg" width="255" height="350" border="0" />　ついでに、富山県桜町の縄文遺跡や北海道の垣ノ島縄文遺跡からは、さまざまな漆塗りの製品が出土している。ケヤキ製の朱塗り椀(わん)や、女性が髪を飾る朱漆塗りの櫛(くし／冒頭写真)など、およそ中世以降の遺跡(江戸期の大名屋敷遺跡)と見まごう漆器製品が出土している。　いまだにクイズ番組などでは、現代考古学の科学的・実証的な成果にもとづく日本史ではなく、薩長政府がこしらえた近畿地方を中心とする上記のような、ホゾ組の最初＝法隆寺、イエネコの歴史＝平安貴族の中国からの輸入、畳(たたみ)＝平安時代の貴族屋敷で用いられた敷き物が嚆矢……を「正解」とするなど、皇国史観をベースに近畿地方へすべてを集約したエセ「日本史」による、日本の技術・文化の矮小化・短絡化が平然と行われている。先の漆器類についていえば、わたしの時代には正倉院の収蔵漆器や、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)あたりが最古などと教えられていた。けれども、実際の日本の技術史あるいは文化史における漆の食器や装飾品への活用は、それよりも9000年ほど古かったわけだ。　このような、薩長政府による“しがらみ”で、現代の科学や歴史学の成果を信じたくない人々が、いまだに大勢いるということなのだろうか？　この課題について、2023年に岩波書店から出版された3人の歴史学者による編著『シリーズ古代史をひらくⅡ／古代人の一生』より引用してみよう。　　▼　「この国古来の伝統」という言葉によって語られる言説の中には、歴史学の観点から即座に否定されるようなものも多々みられる。ファクトチェックを受けるまでもないような説であっても(たとえば上記のような立証された明確な事例)、それに学問的な反論をすることは非常な労力を要し、研究者としてはそれを無視せざるを得ない場合もある。「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」といった言説に対し、夫婦同姓は明治以降の欧米の影響を受けた制度であり、(中略)　……などの事実を提示しても、その訴求力はどの程度あるだろうか。(カッコ内引用者註)　　▲　歴史学者たちが嘆息する、薩長政府が推進した「伝統的」制度という虚偽や、多彩な史観の矮小化や視野狭窄化の課題、日本の古代史を破壊し「なかったこと」にする、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank">明治政府の官令達</a>などによるさまざまな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520831708.html" target="_blank">マッチポンプ施策</a>は、とりあえず置くにしても、自国の歴史を近畿地方(特にナラと京)というごく狭い地域に集約し、先述のような10000年にものぼる自国の高度な技術や文化の“深み”のある長大な歴史を「皇民化」以前の原始時代として、「自虐」的にたかだか2000年ほどの歴史に短絡化し、どこまでもおとしめ卑しめる薩長政府がこしらえた皇国史観は、先端の科学成果の積みあげで21世紀にはぜひとも止揚したい。それは使者を送った女王の名に、ことさら卑賎な「卑弥呼」などという漢字を当てる魏(中華思想)と同じ視座だからだ。　余談だが、ネットを見てたらハレ着で社(やしろ)などへ七五三(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-07.html" target="_blank">ひちごさん</a>)詣りするのは「日本古来からの伝統」なのだそうだ。これって、この地元では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank">「ざんす言葉は山手言葉」</a>と同様に笑止千万なフェイク「伝統」だ。日本橋駿河町の呉服店・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank">三井越後屋</a>(現・三越)が企画・宣伝し、便乗して同平松町の白木屋(現・COREDO日本橋)や神田の伊勢丹波屋(現・伊勢丹)が、大江戸(おえど)の街へ広めたイベントが全国に根づいたということだろう。江戸の慣習を「日本古来」と呼ぶのは勝手だが、三越が江戸市民へ向けたSP戦略はおよそ大成功だったことになる。　もうひとつ余談気味になるけれど、先年、大阪の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)の外周域から、5世紀後半から6世紀初めぐらいにかけて造られた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank">ヨコハケメ</a>(横刷毛目)の入る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank">円筒埴輪</a>が発掘されたことは記事にしていた。それ以前、1960年代だったか台風の影響で土砂崩れを起こした大山古墳(大仙陵古墳)から見つかった、女性埴輪(宮内庁書陵部蔵)の頭部(巫女)の写真を入手した。5世紀中葉あたりに、もっとも製造された人物埴輪だとみられるが、同時に墳丘の崩落から男性埴輪の脚部、馬、犬などの埴輪の一部も見つかっていたはずだ。　ヨコハケメ入り円筒埴輪とあわせ、大山古墳(大仙陵古墳)が4世紀から5世紀の初期にかけて生存した(とされる？)、「仁徳天皇陵」などでないのは自明のことだろう。しかし、いまだに薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-03-18.html" target="_blank">史観の呪縛</a>がとけない人々は、同墳を平然と「仁徳天皇陵」などと規定しつづけている。それは、もはや21世紀の科学でも歴史学でもなく、薩長政府がこしらえた空想を信じる宗教にちがいない。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59091E9878EE794B0E58FA4E5A2B328E7868AE69CACE79C8CE5AE87E59C9FE5B8822986m.jpg" alt="&#x5411;&#x91CE;&#x7530;&#x53E4;&#x58B3;(&#x718A;&#x672C;&#x770C;&#x5B87;&#x571F;&#x5E02;)86m.jpg" width="520" height="425" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A0BAE5B882E9B3A5E381AEE5B1B1E58FA4E5A2B3200m.jpg" alt="&#x583A;&#x5E02;&#x9CE5;&#x306E;&#x5C71;&#x53E4;&#x58B3;200m.jpg" width="520" height="369" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5B1B1E58FA4E5A2B3E383BBE5A5B3E680A7E59FB4E8BCAA28E5B7ABE5A5B329.jpg" alt="&#x5927;&#x5C71;&#x53E4;&#x58B3;&#x30FB;&#x5973;&#x6027;&#x57F4;&#x8F2A;(&#x5DEB;&#x5973;).jpg" width="520" height="520" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5B1B1E58FA4E5A2B3E383BBE383A8E382B3E3838FE382B1E383A1E58686E7AD92E59FB4E8BCAA.jpg" alt="&#x5927;&#x5C71;&#x53E4;&#x58B3;&#x30FB;&#x30E8;&#x30B3;&#x30CF;&#x30B1;&#x30E1;&#x5186;&#x7B52;&#x57F4;&#x8F2A;.jpg" width="520" height="384" border="0" />　日本の歴史を、いかに狭隘な視野で限定的に見せられ、きわめて偏向した視座から学ばされていたのかを痛感する、前世紀末から今世紀にかけての諸科学による発見・成果は、まだまだ数えきれないほど存在している。時代は飛びとびになるが、次回は縄文時代の次の弥生時代を見てみよう。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;つづく&gt;
◆写真上：石川県三方町にある縄文時代の鳥浜遺跡から発掘された、全体が朱の漆塗りでつくられた女性の髪を飾る櫛。まるで、江戸期の遺構から見つかる漆製品のようだ。◆写真中上：上は、富山県小矢部市の桜町にある縄文遺跡から出土した、穀物・栽培樹木・加工品などを保存する多彩なホゾ組による4000年前(縄文後期)の高床式倉庫。中は、同時期にケヤキの木をくり抜いて製造した朱漆塗りの椀。同遺跡からは、竹を精巧に編んだザル、植物繊維でこしらえた限りなく畳に近似した敷き物、ツルを編んでこしらえたカゴなども見つかっている。いわずもがなだが、畳のルーツは奈良・平安貴族の屋敷で用いられた“敷き物”などではなく、現時点では4000年前の縄文時代からだ。(下写真／桜町遺跡)　下は、山形県にある縄文時代の三崎山遺跡から出土した内反りの短刀(青銅製)。沿海州からの輸入品とみられ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-15.html" target="_blank">「日本刀」</a>とは呼べないが、東北地方の各地が後世に日本刀を産みだす発祥地となるのを予感させる縄文期の刀剣だ。いまだ鍛刀技術が未熟で、まっすぐな短刀に鍛えるはずが刀工の意図に反し、焼き入れの際に内側へ反ってしまった典型例だと思われる。これは、後世の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html" target="_blank">目白(鋼)</a>による日本刀の短刀でも見られる現象だ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AF8CE5B1B1E79C8CE5B08FE79FA2E983A8E5B882E6A19CE794BAE981BAE8B7A1E3808CE795B3E3808D.jpg" alt="&#x5BCC;&#x5C71;&#x770C;&#x5C0F;&#x77E2;&#x90E8;&#x5E02;&#x685C;&#x753A;&#x907A;&#x8DE1;&#x300C;&#x7573;&#x300D;.jpg" width="520" height="408" border="0" />◆写真中下：上左は、2000年出版の『古代史の論点2／女と男、家と村』(小学館)。上右は、2023年に出版された『シリーズ古代史をひらくⅡ／古代人の一生―老若男女の暮らしと生業―』(岩波書店)。下左は、2007年出版の『日本の歴史1／列島創世記』(小学館)。下右は、2008年に出版された『日本の歴史2／新視点古代史・日本の原像』(小学館)。21世紀になるとともに各社から「日本史」のシリーズ本が出版されたが、現代の発見や成果はさらに進んでいる。◆写真下：上は、熊本県宇土市に築かれた中規模の前方後円墳の遺構地形(墳長86m)と、刀4振り・剣・4振りなどの武器類とともに埋葬されていた女性首長(30～40歳で死去した女王？)の想像図。中上は、奈良県川西町にある大規模な前方後円墳・鳥の山古墳(墳長200m)で、武器類などとともに装飾品が数多く見つかったため被葬者は女性(女王ないしは姫？)の可能性が高いとされている。中下は、大山古墳(大仙陵古墳)から台風による墳丘の土砂崩落で見つかった女性埴輪(巫女)の頭部。下は、大山古墳(大仙陵古墳)の外周域の試掘から先年見つかったヨコハケメの入る円筒埴輪。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A3BEE3828AE6AB9B.jpg" alt="飾り櫛.jpg" width="600" height="579" border="0" /></div><div>　今回は、夏休みの宿題＝「自由研究」めいたテーマで、やや長めの連載記事を書いてみたい。<br />　わたしが高校生まで習っていた「日本史」と、21世紀の今日、認識されている「日本史」とはずいぶん異なることに愕然とすることがある。拙ブログでも、東京や関東を中心によく取りあげる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-08.html" target="_blank" rel="noopener">大・中型古墳</a>(跡)の被葬者だが、地域あるいは地方によっては首長の3～5割が女性だと聞いたら、昔の「日本史」を習ったわたしなら「ご冗談でしょ」と笑ってしまっただろう。<br />　だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">直刀</a>や刀剣、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509710849.html" target="_blank" rel="noopener">湾刀</a>など当時の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">古墳刀</a>の武器類が、副葬品として埋葬されていた古墳の主の多くが、女性だった例が多々存在していることがわかってきた。戦前なら、いや戦後でさえも遺伝子学がそれほど発達していない時代であれば、武器類が副葬品として埋葬されていれば「武人」「男王」ないしは地方・地域を統治した「(男性)首長」の墳墓として、なんの疑問も抱かれずに規定されていた。特に戦前は、薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">儒教思想</a>にもとづくフィルターおよび<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">皇国史観</a>のもと、武器とともに埋葬された首長・王は、即座に例外なく「男」と規定されてきた。女性が権力を掌握することに「ありうべからざること」という“アレルギー”をもつ、中国や朝鮮半島の儒教思想(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">修身</a>)にとことん忠実な薩長政府は、戦前に発見された古墳の被葬者を、副葬品に武器類が存在したというだけの根拠で、ほぼすべてのジェンダーを「男」と断定している。<br />　しかし、史的事実はまったくちがっていたのだ。これまで発見された古墳のうち、残された骨の欠片などからDNAを採取して性別を調べてみれば、かなりの確率で副葬品に刀剣などの武器類をともなう被葬者でも、女性だったケースが少なくない。日本の古墳のうち、3～5割の被葬者が女性だとすれば、そこに副葬品として添えられた武器は、なんらかの儀礼用か祭祀用として用いられたものだと想定されがちだが、この想定もすぐにひっくり返されている。前世紀末から今世紀にかけ、考古学上で発見された発掘の成果や新たな事実は、戦前まではあたりまえだった男王＝ジェンダー・ハイアラーキー(性差的階級支配)が崩壊する過程でもあったのだ。<br />　大正の一時期、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">五ノ坂</a>をのぼる丘上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村</a>に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512884280.html" target="_blank" rel="noopener">高群逸枝</a>は、古代における男女のジェンダーロール(役割分担)を、おそらく弥生後期の巫女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank" rel="noopener">卑弥呼</a>のイメージが強かったせいか、「ヒメ」＝巫術祭祀(象徴統治)で「ヒコ」＝審神者(さにわ／実務政治)という「ヒメ・ヒコ論」＝男女共同統治論(二重王権論)を展開した。だが、卑弥呼がいた邪馬壱国(邪馬台国)ではたまたまそうだったのかもしれないが、他のクニグニには前線で武装して闘った女性首長(女王)も確実にいたらしい。まるで、アニメのヒロインに登場する女性戦士のような姿だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">大型古墳</a>の被葬者だった女性で、刀剣など武器類が副葬品として埋葬されている場合は、その可能性が少なからずあるようだ。すぐにも九州から侵略してくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">「神武」</a>を迎撃した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518274147.html" target="_blank" rel="noopener">紀国</a>の女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">ナグサトベ</a>や、古志(越)の女王・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">ヌナカワ</a>を想像してしまうのは、わたしだけではないだろう。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-09.html" target="_blank" rel="noopener">大規模な古墳</a>の女性被葬者について、2000年(平成12)に小学館から出版された『古代史の論点②女と男、家と村』収録の、菱田(藤村)淳子『男女の分業の起源』から、少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　こうした性別の分かる被葬者の例を集めた先駆的研究が今井堯の「古墳時代前期における女性の地位」である。また、近年の例を精力的に集積し、副葬品にみられる性差の問題を明らかにしたのが、川西宏幸・辻村純代「古墳時代の巫女」、轟次雄「刀子と鉄鏃の副葬関係」、清家章「副葬品と被葬者の性別」などである。／これらの研究から現在確実に言えることは、大規模な古墳であっても女性の被葬者には甲冑と鉄鏃は伴わないという事実である。しかし、それ以外の武器、農工具、あるいは石製品などの装身具については、確実に被葬者の性別を判断する手がかりとはならないことが明らかになった。特に刀などは全く性別判断の基準にはならない。／また、鉄鏃についても北郷泰道は「武装した女性たち」という刺激的なタイトルで、宮崎県の地下式横穴墓で確実に女性人骨に鉄鏃が伴う例を示し、実践的戦闘要員としての女性の存在を示唆している。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839BE382BEE7B584.jpg" alt="ホゾ組.jpg" width="520" height="602" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B5A4E6BC86E5A197E3828AE382B1E383A4E382ADE69CA8E6A480.jpg" alt="赤漆塗りケヤキ木椀.jpg" width="520" height="422" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99D92E98A85E8A3BDE79FADE58880E7B884E69687E5BE8CE69C9F.jpg" alt="青銅製短刀縄文後期.jpg" width="520" height="339" border="0" /></div><div>　ちょうど卑弥呼がいた弥生後期の事例だが、九州の長崎県平戸島にある根獅子遺跡から、戦闘がもとで死亡した女性首長の遺骨が見つかっている。つまり、戦闘の最前線で指揮をとって戦い、剣が頭部に刺さって負傷した女性が、クニ元の首長古墳へ葬られた事例だ。<br />　しかも、戦闘の最前線から帰還した彼女(女性首長＝姫？)は、遺骨の様子から10日以上はなんとか生存していたとみられている。なにやら、アニメに登場しがちな最前線で剣をふるう美少女戦士を想起してしまうのだが、まぎれもなく弥生後期ないしは古墳初期に起きていた史的事実だ。彼女の墳墓の周囲には、石棺が5基、土壙墓が9基ほど彼女に寄り添うように陪葬されているが、これら14体の墳墓は女王(姫？)だった彼女といっしょに戦った配下の兄弟や戦士、陪臣たちなのだろう。彼らは同時期に埋葬されたとは限らず、のちに老齢化で死去してからも、生命をかけて仕えた彼女の傍らに埋葬されたがった元・戦士たちもいたにちがいない。<br />　先土器時代や打製石器時代などと呼ばれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">旧石器時代</a>だが、日本から次々と初期の土器片や磨製石器が見つかり、現在ではそうは呼べなくなってしまったことは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">以前の記事</a>にも書いた。英国でもそのようなケースが見つかったものか、いまでは日英考古学の共同研究テーマとなっている。その次の時代、縄文時代については前世紀末から今世紀にかけて、ショッキングな発見が連続して起きているので、強烈な印象を抱かれた方も多いのではないだろうか。わたしが学校で習った縄文時代とは、まったく異なるコペルニクス的な転換となった。<br />　イネやオオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなど畑での栽培を前提とする穀類、ヤマイモやムカゴ、クリ、クルミ、エゴマ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517691254.html" target="_blank" rel="noopener">ドングリ</a>、ゴボウ、カンピョウ、各種豆類などの栽培品や採集品、カキやハマグリ、スズキ、ブリ、ウイナメ、アジ、イワシなど加工した魚介類を保存しておく、高床式倉庫までが建設されていることが明らかになった。わたしの世代では、ネズミなどの害獣や穀物を喰い荒らす害虫などを防ぐ高床式倉庫は、弥生時代からと教わっていた。<br />　しかも、高床式倉庫などの建築工法は現代の住宅における大工の技術と同様、「貫穴」(ぬきあな)や「桟穴」(えつりあな)、「渡腮仕口」(わたりあごしぐち)など、複雑なホゾ組が用いられていることも驚きだった。わたしの世代では、金具などをいっさい使わないで建てられたホゾ組による建築は、前世紀末まで斑鳩(いかるが)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-01.html" target="_blank" rel="noopener">法隆寺</a>が嚆矢などと教わっていた。そういえば日本に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515721725.html" target="_blank" rel="noopener">イエネコ</a>が登場したのは、平安京にいた貴族が中国からわざわざ輸入したのが最初などという「史実」も教えられた。では、縄文遺跡のあちこちから見つかる、イエネコの骨はいったいなんなのだろうか？</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E4BBA3E58FB2E381AEE8AB96E782B92E5A5B3E381A8E794B72000E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="古代史の論点2女と男2000小学館.jpg" width="255" height="355" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E4BBA3E58FB2E38292E381B2E38289E3818FE285A1E383BBE58FA4E4BBA3E4BABAE381AEE4B880E7949F2023E5B2A9E6B3A2E69BB8E5BA97.jpg" alt="古代史をひらくⅡ・古代人の一生2023岩波書店.jpg" width="255" height="355" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB21E58897E5B3B6E589B5E4B896E8A8982007E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="日本の歴史1列島創世記2007小学館.jpg" width="255" height="350" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE6ADB4E58FB22E383BBE697A5E69CACE381AEE58E9FE5838F2008E5B08FE5ADA6E9A4A8.jpg" alt="日本の歴史2・日本の原像2008小学館.jpg" width="255" height="350" border="0" /></div><div>　ついでに、富山県桜町の縄文遺跡や北海道の垣ノ島縄文遺跡からは、さまざまな漆塗りの製品が出土している。ケヤキ製の朱塗り椀(わん)や、女性が髪を飾る朱漆塗りの櫛(くし／冒頭写真)など、およそ中世以降の遺跡(江戸期の大名屋敷遺跡)と見まごう漆器製品が出土している。<br />　いまだにクイズ番組などでは、現代考古学の科学的・実証的な成果にもとづく日本史ではなく、薩長政府がこしらえた近畿地方を中心とする上記のような、ホゾ組の最初＝法隆寺、イエネコの歴史＝平安貴族の中国からの輸入、畳(たたみ)＝平安時代の貴族屋敷で用いられた敷き物が嚆矢……を「正解」とするなど、皇国史観をベースに近畿地方へすべてを集約したエセ「日本史」による、日本の技術・文化の矮小化・短絡化が平然と行われている。先の漆器類についていえば、わたしの時代には正倉院の収蔵漆器や、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)あたりが最古などと教えられていた。けれども、実際の日本の技術史あるいは文化史における漆の食器や装飾品への活用は、それよりも9000年ほど古かったわけだ。<br />　このような、薩長政府による“しがらみ”で、現代の科学や歴史学の成果を信じたくない人々が、いまだに大勢いるということなのだろうか？　この課題について、2023年に岩波書店から出版された3人の歴史学者による編著『シリーズ古代史をひらくⅡ／古代人の一生』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「この国古来の伝統」という言葉によって語られる言説の中には、歴史学の観点から即座に否定されるようなものも多々みられる。ファクトチェックを受けるまでもないような説であっても(たとえば上記のような立証された明確な事例)、それに学問的な反論をすることは非常な労力を要し、研究者としてはそれを無視せざるを得ない場合もある。「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」といった言説に対し、夫婦同姓は明治以降の欧米の影響を受けた制度であり、(中略)　……などの事実を提示しても、その訴求力はどの程度あるだろうか。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　歴史学者たちが嘆息する、薩長政府が推進した「伝統的」制度という虚偽や、多彩な史観の矮小化や視野狭窄化の課題、日本の古代史を破壊し「なかったこと」にする、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">明治政府の官令達</a>などによるさまざまな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520831708.html" target="_blank" rel="noopener">マッチポンプ施策</a>は、とりあえず置くにしても、自国の歴史を近畿地方(特にナラと京)というごく狭い地域に集約し、先述のような10000年にものぼる自国の高度な技術や文化の“深み”のある長大な歴史を「皇民化」以前の原始時代として、「自虐」的にたかだか2000年ほどの歴史に短絡化し、どこまでもおとしめ卑しめる薩長政府がこしらえた皇国史観は、先端の科学成果の積みあげで21世紀にはぜひとも止揚したい。それは使者を送った女王の名に、ことさら卑賎な「卑弥呼」などという漢字を当てる魏(中華思想)と同じ視座だからだ。</div><div>　余談だが、ネットを見てたらハレ着で社(やしろ)などへ七五三(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">ひちごさん</a>)詣りするのは「日本古来からの伝統」なのだそうだ。これって、この地元では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">「ざんす言葉は山手言葉」</a>と同様に笑止千万なフェイク「伝統」だ。日本橋駿河町の呉服店・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">三井越後屋</a>(現・三越)が企画・宣伝し、便乗して同平松町の白木屋(現・COREDO日本橋)や神田の伊勢丹波屋(現・伊勢丹)が、大江戸(おえど)の街へ広めたイベントが全国に根づいたということだろう。江戸の慣習を「日本古来」と呼ぶのは勝手だが、三越が江戸市民へ向けたSP戦略はおよそ大成功だったことになる。<br />　もうひとつ余談気味になるけれど、先年、大阪の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)の外周域から、5世紀後半から6世紀初めぐらいにかけて造られた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank" rel="noopener">ヨコハケメ</a>(横刷毛目)の入る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">円筒埴輪</a>が発掘されたことは記事にしていた。それ以前、1960年代だったか台風の影響で土砂崩れを起こした大山古墳(大仙陵古墳)から見つかった、女性埴輪(宮内庁書陵部蔵)の頭部(巫女)の写真を入手した。5世紀中葉あたりに、もっとも製造された人物埴輪だとみられるが、同時に墳丘の崩落から男性埴輪の脚部、馬、犬などの埴輪の一部も見つかっていたはずだ。<br />　ヨコハケメ入り円筒埴輪とあわせ、大山古墳(大仙陵古墳)が4世紀から5世紀の初期にかけて生存した(とされる？)、「仁徳天皇陵」などでないのは自明のことだろう。しかし、いまだに薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-03-18.html" target="_blank" rel="noopener">史観の呪縛</a>がとけない人々は、同墳を平然と「仁徳天皇陵」などと規定しつづけている。それは、もはや21世紀の科学でも歴史学でもなく、薩長政府がこしらえた空想を信じる宗教にちがいない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59091E9878EE794B0E58FA4E5A2B328E7868AE69CACE79C8CE5AE87E59C9FE5B8822986m.jpg" alt="向野田古墳(熊本県宇土市)86m.jpg" width="520" height="425" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A0BAE5B882E9B3A5E381AEE5B1B1E58FA4E5A2B3200m.jpg" alt="堺市鳥の山古墳200m.jpg" width="520" height="369" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5B1B1E58FA4E5A2B3E383BBE5A5B3E680A7E59FB4E8BCAA28E5B7ABE5A5B329.jpg" alt="大山古墳・女性埴輪(巫女).jpg" width="520" height="520" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E5B1B1E58FA4E5A2B3E383BBE383A8E382B3E3838FE382B1E383A1E58686E7AD92E59FB4E8BCAA.jpg" alt="大山古墳・ヨコハケメ円筒埴輪.jpg" width="520" height="384" border="0" /></div><div>　日本の歴史を、いかに狭隘な視野で限定的に見せられ、きわめて偏向した視座から学ばされていたのかを痛感する、前世紀末から今世紀にかけての諸科学による発見・成果は、まだまだ数えきれないほど存在している。時代は飛びとびになるが、次回は縄文時代の次の弥生時代を見てみよう。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;つづく&gt;</span></div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：石川県三方町にある縄文時代の鳥浜遺跡から発掘された、全体が朱の漆塗りでつくられた女性の髪を飾る櫛。まるで、江戸期の遺構から見つかる漆製品のようだ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、富山県小矢部市の桜町にある縄文遺跡から出土した、穀物・栽培樹木・加工品などを保存する多彩なホゾ組による4000年前(縄文後期)の高床式倉庫。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、同時期にケヤキの木をくり抜いて製造した朱漆塗りの椀。同遺跡からは、竹を精巧に編んだザル、植物繊維でこしらえた限りなく畳に近似した敷き物、ツルを編んでこしらえたカゴなども見つかっている。いわずもがなだが、畳のルーツは奈良・平安貴族の屋敷で用いられた“敷き物”などではなく、現時点では4000年前の縄文時代からだ。(下写真／桜町遺跡)　<span style="color: #3366ff;">下</span>は、山形県にある縄文時代の三崎山遺跡から出土した内反りの短刀(青銅製)。沿海州からの輸入品とみられ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">「日本刀」</a>とは呼べないが、東北地方の各地が後世に日本刀を産みだす発祥地となるのを予感させる縄文期の刀剣だ。いまだ鍛刀技術が未熟で、まっすぐな短刀に鍛えるはずが刀工の意図に反し、焼き入れの際に内側へ反ってしまった典型例だと思われる。これは、後世の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">目白(鋼)</a>による日本刀の短刀でも見られる現象だ。<br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AF8CE5B1B1E79C8CE5B08FE79FA2E983A8E5B882E6A19CE794BAE981BAE8B7A1E3808CE795B3E3808D.jpg" alt="富山県小矢部市桜町遺跡「畳」.jpg" width="520" height="408" border="0" /><br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、2000年出版の『古代史の論点2／女と男、家と村』(小学館)。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、2023年に出版された『シリーズ古代史をひらくⅡ／古代人の一生―老若男女の暮らしと生業―』(岩波書店)。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、2007年出版の『日本の歴史1／列島創世記』(小学館)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、2008年に出版された『日本の歴史2／新視点古代史・日本の原像』(小学館)。21世紀になるとともに各社から「日本史」のシリーズ本が出版されたが、現代の発見や成果はさらに進んでいる。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、熊本県宇土市に築かれた中規模の前方後円墳の遺構地形(墳長86m)と、刀4振り・剣・4振りなどの武器類とともに埋葬されていた女性首長(30～40歳で死去した女王？)の想像図。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、奈良県川西町にある大規模な前方後円墳・鳥の山古墳(墳長200m)で、武器類などとともに装飾品が数多く見つかったため被葬者は女性(女王ないしは姫？)の可能性が高いとされている。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、大山古墳(大仙陵古墳)から台風による墳丘の土砂崩落で見つかった女性埴輪(巫女)の頭部。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、大山古墳(大仙陵古墳)の外周域の試掘から先年見つかったヨコハケメの入る円筒埴輪。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる本</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520983461.html</link>
      <title>東京美術学校短歌部の山田新一と蓄音器部。</title>
      <pubDate>Fri, 04 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　東京美術学校短歌部について、入部していた佐伯祐三と山田新一の作品を記事にしたが、今回はその後も短歌部への寄稿や短歌会に参加していた山田新一の作品と、1920年(大正9)に創設されたレコードコンサートを催す蓄音器部についてご紹介したい。特に蓄音器部については、リクエストも可能な名曲喫茶のハシリのような雰囲気が漂っている。　まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの山田新一作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838DE382B3E381A8E89384E99FB3E6A99F.jpg" alt="&#x30CD;&#x30B3;&#x3068;&#x84C4;&#x97F3;&#x6A5F;.jpg" width="600" height="484" border="0" />　東京美術学校<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520977542.html" target="_blank">短歌部</a>について、入部していた<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank">佐伯祐三</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-01-22.html" target="_blank">山田新一</a>の作品を記事にしたが、今回はその後も短歌部への寄稿や短歌会に参加していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-20.html" target="_blank">山田新一</a>の作品と、1920年(大正9)に創設されたレコードコンサートを催す蓄音器部についてご紹介したい。特に蓄音器部については、リクエストも可能な名曲喫茶のハシリのような雰囲気が漂っている。　まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515624903.html" target="_blank">山田新一</a>作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよう。まず、同年5月8日に開催された第1回短歌会に、佐伯祐三は欠席しているが山田新一は参加しており、他の部員と同様に1首の歌を詠んでいる。「東京美術学校校友会月報」6月号に収録された1首とは、以下の作品だ。　　▼　第一回短歌会／◇心燃えず心落ちゐず今日も亦 空しく寝れて雨の音きく　　▲　なにやら、淡々と変わりばえのしない日々に飽きあきし、どこか虚無的な雰囲気さえ漂う歌だ。親しい友人がそれほどできず、佐伯のように恋人も現れず、孤独感にさいなまれていた時期なのかもしれない。酒の量も増えたらしく、山田新一はたびたび痛飲していたらしい。　同年6月5日に開かれた第2回短歌会では、女子か男子かは不明だが気になる人物が出現しているようだ。作品が掲載された、「東京美術学校校友会月報」7月号より引用してみよう。　　▼　第二回短歌会／◇酔ひ伏せばうつゝの如き耳に来て さゝやける声をいまだ忘れず　　▲　どこかの飲み屋か<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-01.html" target="_blank">喫茶店</a>(当時は酒を置くのが普通だった)で、酔いつぶれたときにでも声をかけられた経験があるのだろうか、それを思いだしながらやはり酒を飲んでいるような情景が浮かぶ。「さゝやける声」は、店の子かママでまちがいなく女子ではないか。「市電なくなっちゃうわよ」と優しくささやかれたか、「もう閉店なんだけど」と耳打ちされたかは不明だが。　ところが、翌月の「東京美術学校校友会月報」8月号では、『ほのほ』と題した激情の恋歌となって結晶している。だが、山田新一の思いが通じず一方通行的な恋愛のようで、「涙」にくれて「泣く」ばかりの片思いだったらしい。同号に掲載された、炎に燃えている3首を引用してみよう。　　▼『ほのほ』　◇燃え残るほのほのごとく喘ぐこころ 心のかぎりみづからぞなく　◇無益なる涙なりとは知りつゝも ひたにそゝげり君が心に　◇にほひなき造花のごとしきみがこころ そのつめたさに涙あたへむ　　▲　山田新一以外の誰かには、キラキラした眼差しで活きいきとしたバラのそよぎのような表情やしぐさを見せるのに、彼の前にきたとたん能面のように表情がなくなり、彼がいくら芸術を熱く語っても<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-29.html" target="_blank">「あっそ」</a>と気のない返事しかせず、冷たくあしらうようなリボンの似合う不愛想な女子が、どうやらひとり彼の周囲に出現していたようだ。相手は、上野桜木町か谷中あたりの令嬢か、あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-24.html" target="_blank">宮崎モデル紹介所</a>から派遣されてきた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-29.html" target="_blank">モデル</a>のひとりだろうか。　それから2ヶ月のブランク(リカバリー期間)をへて、どうやら山田新一は「造花」のように無表情で「つめた」い彼女をあきらめ、再び内向する歌へと回帰している。10月に開かれた第三回短歌会に出席した山田新一の1首を、「東京美術学校校友会月報」11月号より引用してみよう。　　▼　第三回短歌会／◇いと小さく胸に巣食へる悲しみの 何時去りゆかむ時のあらなく　　▲　……と、またしても前田夕暮のような以前の作風にひとまわりして回帰しているようだ。　さて、東京美術学校の文芸部で定期的に開かれていた、レコードコンサートについて見ていこう。まずは、レコードコンサートの様子を、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」6月号より見てみよう。同年5月29日に開かれたレコードコンサートは、文芸部の第2回総会に付随した催しだったようだが、当日は文芸部以外の学生たちが会場へ数多く参集していた。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A8E383ABE3839EE383B3.jpg" alt="&#x30A8;&#x30EB;&#x30DE;&#x30F3;.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838FE382A4E38395E382A7E38383E38384.jpg" alt="&#x30CF;&#x30A4;&#x30D5;&#x30A7;&#x30C3;&#x30C4;.jpg" width="255" height="365" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AFE383A9E382A4E382B9E383A9E383BC.jpg" alt="&#x30AF;&#x30E9;&#x30A4;&#x30B9;&#x30E9;&#x30FC;.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E383ABE383BCE38393E383B3E382B7E383A5E382BFE382A4E383B3.jpg" alt="&#x30EB;&#x30FC;&#x30D3;&#x30F3;&#x30B7;&#x30E5;&#x30BF;&#x30A4;&#x30F3;.jpg" width="255" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/A.E382AFE383ABE38381.jpg" alt="A.&#x30AF;&#x30EB;&#x30C1;.jpg" width="255" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839FE3838FE382A4E383ADE383AF.jpg" alt="&#x30DF;&#x30CF;&#x30A4;&#x30ED;&#x30EF;.jpg" width="255" height="375" border="0" /> 　　▼　五月二十九日文芸部総会開会に先立つて、午後零時半より第一講義室で本部主催のレコードコンサートを開催しました。何分(なにぶん)新着荷の珍らしいレード(ママ：レコード)の上に斯界の権威である各種音楽家の吹込になるレコードの事とて、会場に入れきない(ママ：入りきれない)程集まられた皆さんからは一つ一つ終るごとに、非常な喝采を得まして、一同大満足でありました。そして予定の時間より早く終つた為めに、皆さんから盛んに追加の声がかゝり、希望に依つて数種を追加した事も、此の日の盛会を語る立証かと思ひます。(中略)　コンサート終了後直(ただち)に美術学校倶楽部階上に於て文芸部第二回総会を開きました。(カッコ内引用者註)　　▲　このとき、流されていたレコードとは誰の演奏だったのだろうか。大正前期から中期にかけて、日本にSPレコードが入ってきていた音楽家には、ウクライナ出身の世界的なヴァイオリニストの<a href="https://www.youtube.com/watch?v=eFtNt0d7KHo" target="_blank">M.エルマン</a>がいただろう。ヴァイオリンではY.ハイフェッツと覇を競うような位置にいた音楽家で、その甘美な演奏は日本で圧倒的な人気を博していた。東京美術学校でレコードコンサートが開かれた翌年、1921年(大正10)にエルマンは来日している。　また、リトアニア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=oFCbl4NdEJc&amp;list=RDEMbzM0x2nwjsWzSUUWlkb8ng&amp;start_radio=1" target="_blank">Y.ハイフェッツ</a>。エルマンに比べると地味な演奏だが、確実な技術に裏打ちされた演奏は「ヴァイオリンの王」とか「20世紀最大のヴァイオリニスト」と称された。ハイフェッツのクールな演奏が、当時の日本人には完璧と聴こえながらも冷たく感じたものか、エルマンの人気には及ばなかったようだ。ハイフェッツは、1923年(大正12)に来日している。　そして、レコードのベストセラーだったもうひとりのヴァイオリニストに、オーストリア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=jniNETA36Us&amp;list=RDEMthHS6yUM4TeTK7_rOL4Rzg&amp;start_radio=1" target="_blank">F.クライスラー</a>がいる。クライスラーは作曲家でもあり、日本では作品とともに有名だった。大正時代が舞台の映画などのBGMに、ヴァイオリンソナタやコンチェルトがよく流れるが、クライスラーの曲であることが多い。クライスラーも1923年(大正12)に来日している。　ピアニストでは、ポーランド出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=h_vZtpjNKVE&amp;list=RDEMW32tfn6DCDa4W38j-Cyx7w&amp;start_radio=1" target="_blank">A.ルービンシュタイン</a>が、日本でもっとも多くのレコード売り上げを記録していただろう。1919年(大正8)の若いときから、しばしば日本を訪れて各地で演奏会を開いており、1935年(昭和10)には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-06.html" target="_blank">新交響楽団</a>との共演も実現している。戦前戦後を通じて、日本でのルービンシュタインの人気は圧倒的だった。古くからの日本におけるショパン人気は、彼によって育まれたといっても決して大げさではない。戦後もその人気は衰えず、1966年(昭和41)6月にザ・ビートルズが来日して日本武道館で演奏した1週間後、ルービンシュタインが来日して武道館コンサートが開かれたが、まったくビートルズに劣らないほどの大人気だった。母親のレコード棚には、W.ギーゼキングとともにルービンシュタインの作品が並んでいたし、しかも彼はわたしの学生時代まで現役で、新譜・旧譜がリリースされると聴いていた。　また、レコードで人気だった歌手にイタリア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=NQrKODrK7x4" target="_blank">A.クルチ</a>がいる。彼女はもはや伝説的なソプラノで、当時はもっとも偉大な歌手といわれていた。彼女と人気を二分していたのが、明治末に来日したロシア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=dT84V2ntFKs" target="_blank">M.ミハイロワ</a>(ソプラノ)で、日本でのレコードの売り上げ枚数ではクルチを凌駕していたのではないだろうか。そのほか、明治末から大正前期にかけ、さまざまな音楽家が日本を訪れており、蓄音器の普及ともあいまってSPレコードのリリースも急増していた時期だった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A11915.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x7F8E;&#x8853;&#x5B66;&#x6821;1915.jpg" width="520" height="420" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A1E881B7E593A1E98CB21922.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x7F8E;&#x8853;&#x5B66;&#x6821;&#x8077;&#x54E1;&#x9332;1922.jpg" width="520" height="435" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B5E383BCE382AFE383ABE6B4BBE58B951933.jpg" alt="&#x30B5;&#x30FC;&#x30AF;&#x30EB;&#x6D3B;&#x52D5;1933.jpg" width="520" height="370" border="0" />　では、大正前期に普及していた蓄音器には、どのような機種があったのだろうか。蓄音器というと、大きなラッパ(アサガオ)状のスピーカーがついた形状を想像しがちだが、大正期には昭和期のレコード再生機に近いかたち、すなわち戦後の「コンパクトレコードプレーヤー」あるいは「ステレオ」の原型のようなボックス型製品も発売されていた。もちろん、ラッパのついたニッポノホンの製品も人気だったが、すでに時代遅れのデザインになっていただろう。また、ビクターなどの高価な海外製品よりも、モモタロー蓄音器やユニック、ホノラ、グランドニッポノラなど、大正時代は技術が海外製品になんとか追いついた、国産の蓄音器が普及した時期でもある。　東京美術学校で導入していた蓄音器が、どのメーカーのものだったかは不明だが、音が一方向へ極端に偏ってしまうラッパ型の蓄音器ではなく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-19.html" target="_blank">ステレオサウンド</a>式にいえば音の定位や指向性があまり気にならない、音が前へ前へと拡散する最新式の蓄音器ではなかったろうか。だからこそ、大勢の学生たちが集まっても、鑑賞に耐えうる音を響かせることができたのではないか。蓄音器部(のちレコード部)の創設について、再び「東京美術学校校友会月報」6月号より引用してみよう。　　▼　森田(亀之助)、田辺(孝次)先生始め二十数名の会員出席、音楽部からは松田、松本両君出席の上、本部と音楽部との関係に就て協議し、同本部に蓄音器部を新設して新に、／足立、筒井両君を委員に撰定しました。会費を新らためて(ママ：改めて)／一学期 一円五十銭にして、／それを学期始めに会計の御世話に依つて授業料、校友会費と一緒に取り立てゝもらふ事にしました。(中略) 全くこの一日はレコードに人気が集中したと言つてもいゝでせう。それがあらぬが(ママ)来月第二回のレコードコンサート開催の議がもちあがつて、直に可決しました。(カッコ内引用者註)　　▲　ここで気づくのは、校友会費やサークルの活動費まで授業料と同様に、学校当局の会計部門がまとめて徴収している点だ。校友会やサークル活動への参加は個人の自由だし勝手なので、校友会やサークル活動ごとの徴収・会計とする戦後の運営常識からすると、かなりの違和感をおぼえる。しかも、活動費が1円50銭／学期とは、現在の貨幣価値に換算すれば5,000円×3学期＝年間15,000円前後となり、おカネに余裕のある学生でなければサークル活動には参加できなかったろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838BE38383E3839DE3838EE3839BE383B335E58FB728E5BE8CE69C9FE59E8B29.jpg" alt="&#x30CB;&#x30C3;&#x30DD;&#x30CE;&#x30DB;&#x30F3;35&#x53F7;(&#x5F8C;&#x671F;&#x578B;).jpg" width="520" height="517" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E383A2E383A2E382BFE383ADE383BCE89384E99FB3E599A8.jpg" alt="&#x30E2;&#x30E2;&#x30BF;&#x30ED;&#x30FC;&#x84C4;&#x97F3;&#x5668;.jpg" width="520" height="503" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B0E383A9E383B3E38389E3838BE38383E3839DE3838EE383A9.jpg" alt="&#x30B0;&#x30E9;&#x30F3;&#x30C9;&#x30CB;&#x30C3;&#x30DD;&#x30CE;&#x30E9;.jpg" width="520" height="472" border="0" />　東京美術学校のサークル活動は増えつづけ、1933年(昭和8)の時点では28部を数えるまでになっていた。ただし、野球部や相撲部、蹴球(サッカー)部、バスケットボール部、バレーボール部などかなり激しいスポーツの倶楽部も設置されていた。これは音楽学校でもまったく同様だと思うが、微妙な指先の作業・動作が必要な芸術分野では、手や指を痛めるようなスポーツは厳禁のはずだが、当時は規制が緩かったものだろうか。先年、知人の娘が喫茶店でバイトをしていて、手の指に調理で火傷をしたのだが、高名な音楽学校に通う器楽奏者としては、そもそも学生失格だろう。
◆写真上：ネコのいる家の蓄音器で、もう相性が最悪の組み合わせだったろう。◆写真中上：上は、大正前期には日本ですでに有名だったヴァイオリニストのエルマン(左)とハイフェッツ(右)。中は、同様にヴァイオリニストのクライスラー(左)とピアニストのルービンシュタイン(右)。下は、時代を代表する歌姫でソプラノのクルチ(左)とミハイロワ(右)。◆写真中下：上は、1915年(大正4)に撮影された東京美術学校。中は、1922年(大正11)の職員録にみる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank">森田亀之助</a>と田辺孝次。ふたりとも助教授で文芸部の顧問をつとめ、森田は西洋絵画史と英語を、田辺は美術史を教えていた。下は、1933年(昭和8)の時点における東京美術学校のサークル活動。「蓄音器部」は時代おくれと感じたのか、「レコード部」に改称されている。◆写真下：上は、明治期から大正期にかけて普及したニッポノホンの35号後期モデル。中は、ラッパ(アサガオ)が取れたモモタロー蓄音器。下は、戦後のステレオを思わせるグランドニッポノラ。★おまけ　蓄音器つながりの余談で、若いころに欲しかったマッキントッシュのアンプ群。特にパワーアンプのMcIntosh 275は垂涎のマトだったが、高価で手に入らなかった。同パワーアンプと同社製か、上杉研究所のプリアンプをつないで、クラシックでもJAZZでも聴くのが夢だった時代がある。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839EE38383E382ADE383B3E38388E38383E382B7E383A5E382B7E382B9E38386E383A0.jpg" alt="&#x30DE;&#x30C3;&#x30AD;&#x30F3;&#x30C8;&#x30C3;&#x30B7;&#x30E5;&#x30B7;&#x30B9;&#x30C6;&#x30E0;.jpg" width="520" height="422" border="0" /><a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838DE382B3E381A8E89384E99FB3E6A99F.jpg" alt="ネコと蓄音機.jpg" width="600" height="484" border="0" /></div><div>　東京美術学校<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520977542.html" target="_blank" rel="noopener">短歌部</a>について、入部していた<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>の作品を記事にしたが、今回はその後も短歌部への寄稿や短歌会に参加していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-20.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>の作品と、1920年(大正9)に創設されたレコードコンサートを催す蓄音器部についてご紹介したい。特に蓄音器部については、リクエストも可能な名曲喫茶のハシリのような雰囲気が漂っている。<br />　まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515624903.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよう。まず、同年5月8日に開催された第1回短歌会に、佐伯祐三は欠席しているが山田新一は参加しており、他の部員と同様に1首の歌を詠んでいる。「東京美術学校校友会月報」6月号に収録された1首とは、以下の作品だ。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">第一回短歌会</span>／◇心燃えず心落ちゐず今日も亦 空しく寝れて雨の音きく<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　なにやら、淡々と変わりばえのしない日々に飽きあきし、どこか虚無的な雰囲気さえ漂う歌だ。親しい友人がそれほどできず、佐伯のように恋人も現れず、孤独感にさいなまれていた時期なのかもしれない。酒の量も増えたらしく、山田新一はたびたび痛飲していたらしい。<br />　同年6月5日に開かれた第2回短歌会では、女子か男子かは不明だが気になる人物が出現しているようだ。作品が掲載された、「東京美術学校校友会月報」7月号より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">第二回短歌会</span>／◇酔ひ伏せばうつゝの如き耳に来て さゝやける声をいまだ忘れず<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　どこかの飲み屋か<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">喫茶店</a>(当時は酒を置くのが普通だった)で、酔いつぶれたときにでも声をかけられた経験があるのだろうか、それを思いだしながらやはり酒を飲んでいるような情景が浮かぶ。「さゝやける声」は、店の子かママでまちがいなく女子ではないか。「市電なくなっちゃうわよ」と優しくささやかれたか、「もう閉店なんだけど」と耳打ちされたかは不明だが。<br />　ところが、翌月の「東京美術学校校友会月報」8月号では、『ほのほ』と題した激情の恋歌となって結晶している。だが、山田新一の思いが通じず一方通行的な恋愛のようで、「涙」にくれて「泣く」ばかりの片思いだったらしい。同号に掲載された、炎に燃えている3首を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">『ほのほ』</span><br />　◇燃え残るほのほのごとく喘ぐこころ 心のかぎりみづからぞなく<br />　◇無益なる涙なりとは知りつゝも ひたにそゝげり君が心に<br />　◇にほひなき造花のごとしきみがこころ そのつめたさに涙あたへむ<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　山田新一以外の誰かには、キラキラした眼差しで活きいきとしたバラのそよぎのような表情やしぐさを見せるのに、彼の前にきたとたん能面のように表情がなくなり、彼がいくら芸術を熱く語っても<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-29.html" target="_blank" rel="noopener">「あっそ」</a>と気のない返事しかせず、冷たくあしらうようなリボンの似合う不愛想な女子が、どうやらひとり彼の周囲に出現していたようだ。相手は、上野桜木町か谷中あたりの令嬢か、あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-24.html" target="_blank" rel="noopener">宮崎モデル紹介所</a>から派遣されてきた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">モデル</a>のひとりだろうか。<br />　それから2ヶ月のブランク(リカバリー期間)をへて、どうやら山田新一は「造花」のように無表情で「つめた」い彼女をあきらめ、再び内向する歌へと回帰している。10月に開かれた第三回短歌会に出席した山田新一の1首を、「東京美術学校校友会月報」11月号より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">第三回短歌会</span>／◇いと小さく胸に巣食へる悲しみの 何時去りゆかむ時のあらなく<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　……と、またしても前田夕暮のような以前の作風にひとまわりして回帰しているようだ。<br />　さて、東京美術学校の文芸部で定期的に開かれていた、レコードコンサートについて見ていこう。まずは、レコードコンサートの様子を、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」6月号より見てみよう。同年5月29日に開かれたレコードコンサートは、文芸部の第2回総会に付随した催しだったようだが、当日は文芸部以外の学生たちが会場へ数多く参集していた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A8E383ABE3839EE383B3.jpg" alt="エルマン.jpg" width="255" height="365" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838FE382A4E38395E382A7E38383E38384.jpg" alt="ハイフェッツ.jpg" width="255" height="365" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AFE383A9E382A4E382B9E383A9E383BC.jpg" alt="クライスラー.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E383ABE383BCE38393E383B3E382B7E383A5E382BFE382A4E383B3.jpg" alt="ルービンシュタイン.jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/A.E382AFE383ABE38381.jpg" alt="A.クルチ.jpg" width="255" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839FE3838FE382A4E383ADE383AF.jpg" alt="ミハイロワ.jpg" width="255" height="375" border="0" />&nbsp;</div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　五月二十九日文芸部総会開会に先立つて、午後零時半より第一講義室で本部主催のレコードコンサートを開催しました。何分(なにぶん)新着荷の珍らしいレード(ママ：レコード)の上に斯界の権威である各種音楽家の吹込になるレコードの事とて、会場に入れきない(ママ：入りきれない)程集まられた皆さんからは一つ一つ終るごとに、非常な喝采を得まして、一同大満足でありました。そして予定の時間より早く終つた為めに、皆さんから盛んに追加の声がかゝり、希望に依つて数種を追加した事も、此の日の盛会を語る立証かと思ひます。(中略)　コンサート終了後直(ただち)に美術学校倶楽部階上に於て文芸部第二回総会を開きました。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　このとき、流されていたレコードとは誰の演奏だったのだろうか。大正前期から中期にかけて、日本にSPレコードが入ってきていた音楽家には、ウクライナ出身の世界的なヴァイオリニストの<a href="https://www.youtube.com/watch?v=eFtNt0d7KHo" target="_blank" rel="noopener">M.エルマン</a>がいただろう。ヴァイオリンではY.ハイフェッツと覇を競うような位置にいた音楽家で、その甘美な演奏は日本で圧倒的な人気を博していた。東京美術学校でレコードコンサートが開かれた翌年、1921年(大正10)にエルマンは来日している。<br />　また、リトアニア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=oFCbl4NdEJc&amp;list=RDEMbzM0x2nwjsWzSUUWlkb8ng&amp;start_radio=1" target="_blank" rel="noopener">Y.ハイフェッツ</a>。エルマンに比べると地味な演奏だが、確実な技術に裏打ちされた演奏は「ヴァイオリンの王」とか「20世紀最大のヴァイオリニスト」と称された。ハイフェッツのクールな演奏が、当時の日本人には完璧と聴こえながらも冷たく感じたものか、エルマンの人気には及ばなかったようだ。ハイフェッツは、1923年(大正12)に来日している。<br />　そして、レコードのベストセラーだったもうひとりのヴァイオリニストに、オーストリア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=jniNETA36Us&amp;list=RDEMthHS6yUM4TeTK7_rOL4Rzg&amp;start_radio=1" target="_blank" rel="noopener">F.クライスラー</a>がいる。クライスラーは作曲家でもあり、日本では作品とともに有名だった。大正時代が舞台の映画などのBGMに、ヴァイオリンソナタやコンチェルトがよく流れるが、クライスラーの曲であることが多い。クライスラーも1923年(大正12)に来日している。<br />　ピアニストでは、ポーランド出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=h_vZtpjNKVE&amp;list=RDEMW32tfn6DCDa4W38j-Cyx7w&amp;start_radio=1" target="_blank" rel="noopener">A.ルービンシュタイン</a>が、日本でもっとも多くのレコード売り上げを記録していただろう。1919年(大正8)の若いときから、しばしば日本を訪れて各地で演奏会を開いており、1935年(昭和10)には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-06.html" target="_blank" rel="noopener">新交響楽団</a>との共演も実現している。戦前戦後を通じて、日本でのルービンシュタインの人気は圧倒的だった。古くからの日本におけるショパン人気は、彼によって育まれたといっても決して大げさではない。戦後もその人気は衰えず、1966年(昭和41)6月にザ・ビートルズが来日して日本武道館で演奏した1週間後、ルービンシュタインが来日して武道館コンサートが開かれたが、まったくビートルズに劣らないほどの大人気だった。母親のレコード棚には、W.ギーゼキングとともにルービンシュタインの作品が並んでいたし、しかも彼はわたしの学生時代まで現役で、新譜・旧譜がリリースされると聴いていた。<br />　また、レコードで人気だった歌手にイタリア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=NQrKODrK7x4" target="_blank" rel="noopener">A.クルチ</a>がいる。彼女はもはや伝説的なソプラノで、当時はもっとも偉大な歌手といわれていた。彼女と人気を二分していたのが、明治末に来日したロシア出身の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=dT84V2ntFKs" target="_blank" rel="noopener">M.ミハイロワ</a>(ソプラノ)で、日本でのレコードの売り上げ枚数ではクルチを凌駕していたのではないだろうか。そのほか、明治末から大正前期にかけ、さまざまな音楽家が日本を訪れており、蓄音器の普及ともあいまってSPレコードのリリースも急増していた時期だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A11915.jpg" alt="東京美術学校1915.jpg" width="520" height="420" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A1E881B7E593A1E98CB21922.jpg" alt="東京美術学校職員録1922.jpg" width="520" height="435" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B5E383BCE382AFE383ABE6B4BBE58B951933.jpg" alt="サークル活動1933.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div>　では、大正前期に普及していた蓄音器には、どのような機種があったのだろうか。蓄音器というと、大きなラッパ(アサガオ)状のスピーカーがついた形状を想像しがちだが、大正期には昭和期のレコード再生機に近いかたち、すなわち戦後の「コンパクトレコードプレーヤー」あるいは「ステレオ」の原型のようなボックス型製品も発売されていた。もちろん、ラッパのついたニッポノホンの製品も人気だったが、すでに時代遅れのデザインになっていただろう。また、ビクターなどの高価な海外製品よりも、モモタロー蓄音器やユニック、ホノラ、グランドニッポノラなど、大正時代は技術が海外製品になんとか追いついた、国産の蓄音器が普及した時期でもある。<br />　東京美術学校で導入していた蓄音器が、どのメーカーのものだったかは不明だが、音が一方向へ極端に偏ってしまうラッパ型の蓄音器ではなく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">ステレオサウンド</a>式にいえば音の定位や指向性があまり気にならない、音が前へ前へと拡散する最新式の蓄音器ではなかったろうか。だからこそ、大勢の学生たちが集まっても、鑑賞に耐えうる音を響かせることができたのではないか。蓄音器部(のちレコード部)の創設について、再び「東京美術学校校友会月報」6月号より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　森田(亀之助)、田辺(孝次)先生始め二十数名の会員出席、音楽部からは松田、松本両君出席の上、本部と音楽部との関係に就て協議し、同本部に蓄音器部を新設して新に、／足立、筒井両君を委員に撰定しました。会費を新らためて(ママ：改めて)／一学期 一円五十銭にして、／それを学期始めに会計の御世話に依つて授業料、校友会費と一緒に取り立てゝもらふ事にしました。(中略) 全くこの一日はレコードに人気が集中したと言つてもいゝでせう。それがあらぬが(ママ)来月第二回のレコードコンサート開催の議がもちあがつて、直に可決しました。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　ここで気づくのは、校友会費やサークルの活動費まで授業料と同様に、学校当局の会計部門がまとめて徴収している点だ。校友会やサークル活動への参加は個人の自由だし勝手なので、校友会やサークル活動ごとの徴収・会計とする戦後の運営常識からすると、かなりの違和感をおぼえる。しかも、活動費が1円50銭／学期とは、現在の貨幣価値に換算すれば5,000円×3学期＝年間15,000円前後となり、おカネに余裕のある学生でなければサークル活動には参加できなかったろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3838BE38383E3839DE3838EE3839BE383B335E58FB728E5BE8CE69C9FE59E8B29.jpg" alt="ニッポノホン35号(後期型).jpg" width="520" height="517" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E383A2E383A2E382BFE383ADE383BCE89384E99FB3E599A8.jpg" alt="モモタロー蓄音器.jpg" width="520" height="503" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B0E383A9E383B3E38389E3838BE38383E3839DE3838EE383A9.jpg" alt="グランドニッポノラ.jpg" width="520" height="472" border="0" /></div><div>　東京美術学校のサークル活動は増えつづけ、1933年(昭和8)の時点では28部を数えるまでになっていた。ただし、野球部や相撲部、蹴球(サッカー)部、バスケットボール部、バレーボール部などかなり激しいスポーツの倶楽部も設置されていた。これは音楽学校でもまったく同様だと思うが、微妙な指先の作業・動作が必要な芸術分野では、手や指を痛めるようなスポーツは厳禁のはずだが、当時は規制が緩かったものだろうか。先年、知人の娘が喫茶店でバイトをしていて、手の指に調理で火傷をしたのだが、高名な音楽学校に通う器楽奏者としては、そもそも学生失格だろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：ネコのいる家の蓄音器で、もう相性が最悪の組み合わせだったろう。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、大正前期には日本ですでに有名だったヴァイオリニストのエルマン(<span style="color: #3366ff;">左</span>)とハイフェッツ(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、同様にヴァイオリニストのクライスラー(<span style="color: #3366ff;">左</span>)とピアニストのルービンシュタイン(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、時代を代表する歌姫でソプラノのクルチ(<span style="color: #3366ff;">左</span>)とミハイロワ(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1915年(大正4)に撮影された東京美術学校。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1922年(大正11)の職員録にみる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>と田辺孝次。ふたりとも助教授で文芸部の顧問をつとめ、森田は西洋絵画史と英語を、田辺は美術史を教えていた。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1933年(昭和8)の時点における東京美術学校のサークル活動。「蓄音器部」は時代おくれと感じたのか、「レコード部」に改称されている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、明治期から大正期にかけて普及したニッポノホンの35号後期モデル。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、ラッパ(アサガオ)が取れたモモタロー蓄音器。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、戦後のステレオを思わせるグランドニッポノラ。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　蓄音器つながりの余談で、若いころに欲しかったマッキントッシュのアンプ群。特にパワーアンプのMcIntosh 275は垂涎のマトだったが、高価で手に入らなかった。同パワーアンプと同社製か、上杉研究所のプリアンプをつないで、クラシックでもJAZZでも聴くのが夢だった時代がある。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839EE38383E382ADE383B3E38388E38383E382B7E383A5E382B7E382B9E38386E383A0.jpg" alt="マッキントッシュシステム.jpg" width="520" height="422" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <title>大震災から復興する落合地域の企業・店舗。</title>
      <pubDate>Tue, 01 Sep 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　1923年(大正12)9月1日の関東大震災から丸1年、1924年(大正13)の秋に営業や操業が復興した企業を調べてリスト化し、『東京・横浜職業別復興調査録』という報告書が同年の暮れに出版されている。横浜市を除き、東京府商工課が調査の主体として実施されており、調査結果を出版したのは日本橋区通2丁目11番地(現・日本橋2丁目)にあった東京商工通信社だった。　ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(＝同業組合)に依頼..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59CB0E99C87E79BB4E5BE8CE98A80E5BAA7E9809AE3828A.jpg" alt="&#x5730;&#x9707;&#x76F4;&#x5F8C;&#x9280;&#x5EA7;&#x901A;&#x308A;.jpg" width="600" height="363" border="0" />　1923年(大正12)9月1日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank">関東大震災</a>から丸1年、1924年(大正13)の秋に営業や操業が復興した企業を調べてリスト化し、『東京・横浜職業別復興調査録』という報告書が同年の暮れに出版されている。横浜市を除き、東京府商工課が調査の主体として実施されており、調査結果を出版したのは日本橋区通2丁目11番地(現・日本橋2丁目)にあった東京商工通信社だった。　ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(＝同業組合)に依頼して、各地の詳しい調査を代行してもらっている。したがって、組合に加入していない商工の小企業・店舗は調査対象から外れてしまうため、そこには少なからず誤差が生じ正確さを欠くことは、同書のはじめにも注記されている。だが、おおよその復興の様子やその傾向はつかめるとして、調査書の出版に踏みきったらしい。　大震災から1年めでは、焦土化した東京市街地の復興はまだまだ途上だったが、震動だけで済み大火災をまぬがれた東京の郊外域では、徐々に商工業者の営業や操業が復活していた。ただし、東京の中心部が大きなダメージを受けているため需要回復が遅く、1年たっても商業活動や生産活動はかなり限定的なものだったろう。山手線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank">目白駅</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-25.html" target="_blank">高田馬場駅</a>のすぐ外側に位置する落合地域も、揺れは激しかったが大火にみまわれなかったため、深刻な被害を受けていない。だが、製造現場の機械類はかなりのダメージを受けたのではないだろうか。　2011年(平成23)3月11日の東日本大震災のとき、東京では震度5+の地域が多かったが、大きな揺れによって精密機器が損傷し、そのままでは使用できなくなった製造現場が数多く発生していた。揺れによるミリ単位の曲りや、小さなシャフトの狂いでも、使用できなくなる機械類を抱えた製造現場は、関東大震災の当時も数多く存在していただろう。しかも、物流や交通が途絶しているので修理には時間がかかった。外観は震災に耐えていても、企業や工場の内部では設備に大きなダメージを受けていた可能性が高い。そのような外観からは把握できない、生産現場における震災被害からの実質的な回復を含めた、東京府による「復興調査」だったとみられる。　では、震災直後にはどのような商工業の復興が早かったのか、同調査書の冒頭から引用しよう。　　▼　先づ震災前と比較して組合員数の増加が著しいものを見れば、第一種の如く東京売薬組合を初(ママ)めとして合計十五組合である。而して組合名の示すが如く、此の中に属するものは大体に於て、特に震災後の需要激増に刺戟されたものが多い。即ち建築材料の西洋家具、畳、壁材料、交通運輸のための自転車、諸届出に要する印判、其他売薬、蓄音機、書籍、靴、莫大小、薪炭、料理飲食等几べて災後直接市民の生活に最も必要を痛感された衣食住に関する部分である。そして此等の商工業者中焼失又は破壊された者は比較的多数に上るが、一方新規開業も亦著しく多数である。然も震災前に対する生産及販売歩合を見ると、建築材料に関するものは殆んど悉く災前以上に達しているが其他売薬、自転車は六乃至六割五分を示して居るに過ぎない。　　▲　東京市の中心部が破壊されているので、震災後にもっとも復興が早く、また需要も多かったのが建築資材なのは当然だが、特に「西洋家具」の目立つのが興味深い。江戸期あるいは明治期からつづく古い住宅街が焼けてしまい、この際、新しい洋風の住宅やオフィスビルなど燃えにくい構造の建物を建てようとする動きが活発化していたとみられる。　また、「交通運輸のための自転車」というのも特徴的だ。道路の亀裂や段差、法面崩落、車道橋の崩壊、ガソリン不足などでクルマやトラックが使用できなくなり、市内の物流が自転車や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-20.html" target="_blank">リヤカー</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-03.html" target="_blank">大八車</a>などの人力に頼らざるをえなくなった様子が透けて見える。売薬の製造企業や商業の復興が早いのも、病院や医院が壊滅するか、あるいは震災の負傷者であふれているため、外来の患者にまで手がまわらなくなりセルフケアがあたりまえになった状況がうかがえる。　大火災に追われ、着のみ着のままで避難した人々が多かったため、「莫大小(メリヤス)」などの布地や「靴」の需要がハネ上がったのもわかるが、「蓄音機」の製造メーカーや「書籍」出版社の復興が早かったのは、震災で精神的に追いつめられた人々の間で、癒しや気晴らし、娯楽などへのニーズが強かったのではないか。また、現代の生活では姿を消してしまったが、役所への届け出や申請書には必ず<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-21.html" target="_blank">印鑑が必要</a>だったため、自宅や会社とともに焼けてしまった各種印鑑の需要が急に伸び、家内制手工業の分野では印鑑製造・販売が目立って伸びているのがわかる。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE381AEE683A8E78AB6.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x6A4B;&#x306E;&#x60E8;&#x72B6;.jpg" width="520" height="366" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE4B889E8B68AE585A8E784BC28E4B889E59BB2E7A8B2E88DB7E981BFE99BA329.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x6A4B;&#x4E09;&#x8D8A;&#x5168;&#x713C;(&#x4E09;&#x56F2;&#x7A32;&#x8377;&#x907F;&#x96E3;).jpg" width="520" height="408" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE799BDE69CA8E5B18B.jpg" alt="&#x65E5;&#x672C;&#x6A4B;&#x767D;&#x6728;&#x5C4B;.jpg" width="520" height="662" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BBB6E784BCE381A7E585A8E6BB8528E697A5E69CACE6A98BE4BABAE5BDA2E794BA29.jpg" alt="&#x5EF6;&#x713C;&#x3067;&#x5168;&#x6EC5;(&#x65E5;&#x672C;&#x6A4B;&#x4EBA;&#x5F62;&#x753A;).jpg" width="520" height="536" border="0" />　では、『東京・横浜職業別復興調査録』に収録されている、地域別の営業・操業を再開している商工リストから、落合地域の企業や商店について見ていこう。まず、「鋳物業及鋳物材料商」では、下落合28番地の東洋金属が操業を再開している。さまざまな機械の部品や、生活用具に必要な鋳物材の需要はかなり高かったのだろう。同工場は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank">雑司ヶ谷道</a>(新井薬師道)の南側、山手線の線路際で操業していた。また、「建築材」の各種石材やセメント、砂利、材木などを販売していた下落合637番地の高田商店も、震災需要が急増していた商店だ。同店は目白通り沿いの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-15.html" target="_blank">木村横丁</a>、現在でいえば聖母坂の入口あたりで営業していた店舗だ。　「歯磨、石鹸、化粧品商」では、下落合9番地の愛久洗料製造工場が操業を再開している。洗料とは、おそらく洗濯用の石鹸のことだろう。その隣りの下落合8番地で営業していた、「馬力(荷馬車)運搬業」の石屋義行という人物も営業を再開している。市街地の道路が寸断されていたせいもあるが、クルマはガソリンが流通しないと役に立たないため、再び馬車による物資の輸送が復活していた。ただし、馬の飼料(穀物など)がないと営業できないため、「馬糧商」や「馬具及蹄鉄商」も同時に復活してリストに多くの名前を連ねている。いずれの事業所とも、現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank">十三間通り沿い</a>にある下落合クリニックあるいは新宿清掃事務所のあたりで営業していた。　「荷造材料商(縄莚叺)」の縄や莚(むしろ)、叺(かます)は物流に欠かせない材料だ。今日でいう梱包材のことで、荷を効率的に運搬するには必須の製品だった。下落合48番地の川瀬梅吉という人が、それらの素材を扱う商店を経営していた。現在の、錦松梅工場の道路を隔てた西隣りあたりで営業している。下落合906番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-23.html" target="_blank">アポロ鉄工場</a>も、大きな被害を受けずに操業を再開している。同工場の再開が早いのは、製品に「喞筒及消防機械」を製造していたからだ。東京の市街地では、消防署や付属する消防設備がほぼ壊滅していたため、消防喞筒(ポンプ)や消火栓など新たな発注が相次いでいたのではないか。片山廣斗が開発したミニ文化村<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank">「愛隣園」</a>では防災設備が充実していたが、彼の工場が消防・防災機器を製造していたからだろう。　さまざまな機械製造には欠かせない、ボールベアリングや鋼材の製造・販売も早くから復興している。下落合184番地の山本螺旋の伸銅工場も、操業をリスタートしている。同社は大正末に下落合45番地へ移転し、本社機能とより大規模な工場を建設していると思われるが、震災後の需要急増で経営が拡大しているのだろう。医療分野で使用する「衛生材料」の需要も、震災後は急増している。市街地の病院や物流倉庫が焼けてしまったため、増産に次ぐ増産だったのではないか。衛生綿を製造していた下落合35番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-10-10.html" target="_blank">指田製綿工場</a>や、包帯を製造していた下落合20番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-13.html" target="_blank">石倉商店工場</a>も、設備に大きな損害はなかったのか操業を再開している。　震災後は、食糧の流通も大きな課題となっており、特に主食の米穀は最優先のテーマだった。政府や東京府、東京市も食料品の安定した供給を最大の課題としており、ことに「米穀商」の復興が重視されている。落合地域では、被害があまりなかった下落合1528番地の小野田八重次郎が経営していた小野田米穀店が営業していた。この住所は、現在の目白通りに面した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-06-18.html" target="_blank">小野田製油所</a>と同じ番地だ。同米店は、店舗を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank">目白学園</a>近くに移転して、つい最近まで営業していた。また、「土木建築工事」の領域では、大正期の早くから営業していた下落合768番地(のち765番地)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-22.html" target="_blank">服部政吉</a>が経営する、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-06.html" target="_blank">服部建築土木</a>が事業を再開している。今世紀に入り、緑深い自宅兼事務所と屋敷林が、保存を求める<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-18.html" target="_blank">タヌキの森</a>として知られた敷地だ。　金属の「銅鉄商」としては、震災で市街地にあった本社機能が喪失してしまったため、下落合にあった企業経営者の自宅が臨時の本社となっているケースが多い。以前にも書いたが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank">東邦電力</a>の丸ノ内にあった本社が震災で破壊されたため、その経営者である下落合367番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-02.html" target="_blank">松永安左衛門邸</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank">臨時本社</a>となっていた経緯と同様だ。下落合不動谷1226番地の三宅於利蔵邸(鉄鋼問屋)と、同番地の水橋義之助邸(野田屋)も臨時の本社となっていた。ただし、日本橋小伝馬町2丁目3番地にあった水橋の野田屋は、すでに社屋を建設して営業を再開していたようだ。この2邸とも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-23.html" target="_blank">西坂</a>を上がる途中の左手と丘上の左手にあった。さらに、「織物業」の東亜製綿工業も下落合761番地で営業を再開している。この地番は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-18.html" target="_blank">七曲坂</a>を上がった丘上の左手敷地、ちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-01.html" target="_blank">清水厚邸</a>のあたりなので、役員邸に本社機能を移転していたとみられる。　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank">目白文化村</a>を開発中だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank">箱根土地</a>と、同ビル内にあった強羅土地も早々に事業を継続している。目白文化村に目立った被害はなく、また<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-11-18.html" target="_blank">箱根土地本社ビル</a>もそれほどダメージを受けていない。また、「化学工業」の分野では、下落合224番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-04.html" target="_blank">池田化学工業</a>が操業を再開している。池田化学工業は、のちに下落合71番地と表記されることが多いが、224番地も同じ敷地内の番地だ。下落合482番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-25.html" target="_blank">佐藤化学研究所</a>も、下落合(現・中落合／中井含む)の東部住宅街の中に位置しており、被害はほとんどなかったのか、震災後も事業をすぐに継続できているようだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8A1E59BBDE6A98BE5BBB6E784BC.jpg" alt="&#x4E21;&#x56FD;&#x6A4B;&#x5EF6;&#x713C;.jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E590BEE5A6BBE6A98BE5B4A9E890BD.jpg" alt="&#x543E;&#x59BB;&#x6A4B;&#x5D29;&#x843D;.jpg" width="520" height="393" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E981BFE99BA3E880855E4B887E4BABAE4B88AE9878EE585ACE59C92.jpg" alt="&#x907F;&#x96E3;&#x8005;5&#x4E07;&#x4EBA;&#x4E0A;&#x91CE;&#x516C;&#x5712;.jpg" width="520" height="395" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE383BBE6A8AAE6B59CE881B7E6A5ADE588A5E5BEA9E88888E8AABFE69FBBE98CB21924.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x30FB;&#x6A2A;&#x6D5C;&#x8077;&#x696D;&#x5225;&#x5FA9;&#x8208;&#x8ABF;&#x67FB;&#x9332;1924.jpg" width="250" height="404" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE383BBE6A8AAE6B59CE881B7E6A5ADE588A5E5BEA9E88888E8AABFE69FBBE98CB21924E5A5A5E4BB98.jpg" alt="&#x6771;&#x4EAC;&#x30FB;&#x6A2A;&#x6D5C;&#x8077;&#x696D;&#x5225;&#x5FA9;&#x8208;&#x8ABF;&#x67FB;&#x9332;1924&#x5965;&#x4ED8;.jpg" width="260" height="404" border="0" />　住宅建材でもうひとつ、瓦やスレート、トタンなど屋根の建築材を手がける「瓦業及屋根工事」の領域では、下落合559番地で小日向健司という人物が経営していた小日向商店が営業をリスタートさせている。瓦やスレートなどの建材が、ようやく市場に出まわりはじめたのだろう。小日向商店は、目白通りに面した現在のちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510894660.html" target="_blank">目白病院</a>の敷地にあった。「玩具業」では、八島嘉一という人が浅草区柳原町で経営していた玩具店の工場が、下落合632番地で操業を再開している。おそらく家内制手工業のような工場で、消しゴムやゴムまり、ゴム人形など子供用品を製造していた。ちょうど、銭湯<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-03.html" target="_blank">「福の湯」</a>の南側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank">森田亀之助邸</a>の北側にあたる敷地だ。柳原町は壊滅しているため、同工場は郊外に移転して臨時に建てられた施設なのだろう。　「洋酒商」では、下落合10番地の甲斐産商店<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-24.html" target="_blank">大黒葡萄酒工場</a>が健在だったが、東京府に運び入れる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519830212.html" target="_blank">鉄道貨物</a>は建築材および衣食住が最優先されたため、嗜好品である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-16.html" target="_blank">葡萄酒(ワイン)樽</a>の優先順位はそれほど高くなかったのではないか。「毛織物」分野では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-05.html" target="_blank">曙毛織物工業</a>が雑司ヶ谷949番地(のち953番地)で操業を再開しているが、本社機能は下落合506番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520863836.html" target="_blank">納三治邸</a>となっている。ちょうど、能舞台があった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-20.html" target="_blank">観世喜之邸</a>の西隣りにあたる敷地で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521000382.html" target="_blank">下落合666番地</a>に新邸を建設する以前、1924年(大正13)の時点での納三治邸は同所にあったとみられる。「電燈電力業」の領域では、下落合508番地にあった東京電燈下落合派出所が営業を再開している。目白通りに面した敷地で、目白平和幼稚園の2軒東隣りの敷地だ。　「材木商」では、目白通り沿いの下落合484番地にあった松尾材木店が営業を継続している。松尾恒八という人が経営しており、そのご子孫である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-20.html" target="_blank">松尾徳三様</a>には、下落合の貴重な資料収集でずいぶんお世話になった。松尾様は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank">竹田助雄</a>たちとともに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank">御留山</a>の保存および<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-26.html" target="_blank">公園化</a>に尽力された方だ。もう1軒、上落合162番地にあった福室清という人物が経営する伏見屋材木店も、ほとんど被害がなかったのかそのまま営業をつづけているようだ。上落合の南辺を通る、現在の早稲田通り沿いにあり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-13.html" target="_blank">都バス小滝橋車庫</a>の西隣りにあたる敷地だ。　「紡績業」では、下落合229番地(のち67番地)にあった市村(中村の誤記？)紡績という会社が営業していた。同工場も、市街地から移転してきた工場かもしれない。大正末になると、中村紡績工業という株式組織の大きめな工場になっているようだ。現在の神田川沿い、ICBF東京中央チャーチがあるあたりの敷地だ。「自動車業」の分野では、下落合568番地の小泉自動車商会が営業をしていた。現在は新宿下落合四郵便局が建っている、東寄りの敷地にあった。もうひとつ、小兒牛乳自動車部という会社が営業していたようだが、下落合とあるだけで番地が収録されていない。この会社も、市街地が壊滅したため臨時に近郊へ事業部を移転したものだろうか。　「醤油及味噌商」では、松原繁雄という人物が経営していた、上落合231番地の松原商会という会社ないしは店舗が記載されている。扱っていた製品が、醤油なのか味噌なのかは不明だが、現在は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank">落合水再生センター</a>の下になってしまった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank">旧・八幡通り</a>に面した会社だった。また、下落合1480番地の福室米蔵という個人名しか記載されていないが、こちらは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-03.html" target="_blank">福室醤油醸造所</a>のことだ。場所は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-27.html" target="_blank">八島さんの前通り</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-21.html" target="_blank">星野通り</a>)から北の目白通りへと抜けた左手にあった。　「写真器械及材料商」では、もちろん落合町葛ヶ谷660番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-18.html" target="_blank">菊地東陽</a>が創立した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-01.html" target="_blank">オリエンタル写真工業</a>が収録されている。精密機器を生産する工場なので、震災では少なからず被害を受け部品調達も困難だったと思うのだが、1年後には操業をなんとか再開していた。最後に「製粉業」では、下落合501番地の佐久間増太郎という個人名が収録されている。これは、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に掲載された、同番地の佐久間製粉所のことだ。扱っていたのは小麦粉か蕎麦粉かは不明だが、目白平和幼稚園の東隣りに位置するかなり大きな製粉工場だった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E6B5B7E98193E7B79AE381AEE981BFE99BA3E88085.jpg" alt="&#x6771;&#x6D77;&#x9053;&#x7DDA;&#x306E;&#x907F;&#x96E3;&#x8005;.jpg" width="520" height="416" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A6ACE585A5E5B79DE98984E6A98BE5B4A9E890BD.jpg" alt="&#x99AC;&#x5165;&#x5DDD;&#x9244;&#x6A4B;&#x5D29;&#x843D;.jpg" width="520" height="320" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B9B3E5A19AE79BB8E6A8A1E7B4A1E7B8BEE5B7A5E5A0B4E58092E5A38A28E5A5B3E5B7A5E6ADBBE88085144E4BABA29.jpg" alt="&#x5E73;&#x585A;&#x76F8;&#x6A21;&#x7D21;&#x7E3E;&#x5DE5;&#x5834;&#x5012;&#x58CA;(&#x5973;&#x5DE5;&#x6B7B;&#x8005;144&#x4EBA;).jpg" width="520" height="379" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E7A3AFE5B9B3E5A19AE99693E58897E8BB8AE8BBA2E8A68674E58FB7E58897E8BB8A.jpg" alt="&#x5927;&#x78EF;&#x5E73;&#x585A;&#x9593;&#x5217;&#x8ECA;&#x8EE2;&#x8986;74&#x53F7;&#x5217;&#x8ECA;.jpg" width="520" height="472" border="0" />　こうして震災から1年目、落合地域で営業や操業を再開していた企業や工場、店舗などを見てくると、ほとんどが下落合での事業だったことに気づく。当時の上落合は、田畑が随所に残り地主による耕地整理が進んでいる最中で、多くの企業や工場が進出する前の時代であり、葛ヶ谷(西落合)にいたってはほとんどが田畑のままの田園地帯だった。けれども、落合地域の牧歌的な風景は関東大震災までで、大震災後は市街地からの住民が大挙して押し寄せる新興住宅地となっていく。
◆写真上：大震災の直後に撮影された、余震がつづく銀座通りのめずらしい写真。人々はいまだ茫然自失の状態だが、このあと大火が襲い銀座の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-10.html" target="_blank">街は全滅</a>する。◆写真中上：上は、魚河岸(市場)から写した日本橋の惨状。中上は、全焼した日本橋三越。屋上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank">三圍稲荷</a>は店員たちが運びだして無事だったが、店内の商品はすべて灰になった。中下は、倒壊直後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank">日本橋白木屋</a>。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」の立て看板も空しく、生き埋めになった人たちは迫る大火で焼死した。下は、延焼で全滅した日本橋人形町。◆写真中下：上は、炎上したが崩落はまぬがれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519230779.html" target="_blank">大橋(両国橋)</a>。中上は、揺れで崩落した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-29.html" target="_blank">大川橋(吾妻橋)</a>。中下は、5万人の避難者が押しかけた上野公園の森。下は、1924年(大正13)出版の『東京・横浜職業別復興調査録』(東京商工通信社)の中扉(左)と奥付(右)。◆写真下：上は、東海道線の線路づたいに避難する罹災者たち。中上は、崩落した馬入川(相模川)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-07.html" target="_blank">東海道線鉄橋</a>。茅ヶ崎側からの撮影で、遠景に見えている山影は大磯の高麗山。中下は、崩壊した平塚の相模紡績工場で女工144人が圧死した。下は、地面の隆起により平塚－大磯間で脱線転覆した東海道線74号列車。背後に見えているのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-24.html" target="_blank">千畳敷山(湘南平)</a>へとつづく高麗山。★おまけ　竹は地面に根を張るので、竹藪に避難すると揺れが小さいという迷信から竹林で野宿する人々。下は、松並木のある東海道(国道1号線)へ倒れかかった松の巨木。樹木に限らず、建物などが倒壊したため道路が封鎖・寸断され、自動車が通行できずに人力による輸送が中心となった。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ABB9E897AAE981BFE99BA3.jpg" alt="&#x7AF9;&#x85EA;&#x907F;&#x96E3;.jpg" width="520" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E6B5B7E9819328E4B880E59BBD29E69DBEE4B8A6E69CA8E58092E69CA8.jpg" alt="&#x6771;&#x6D77;&#x9053;(&#x4E00;&#x56FD;)&#x677E;&#x4E26;&#x6728;&#x5012;&#x6728;.jpg" width="520" height="378" border="0" /><a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59CB0E99C87E79BB4E5BE8CE98A80E5BAA7E9809AE3828A.jpg" alt="地震直後銀座通り.jpg" width="600" height="363" border="0" /></div><div>　1923年(大正12)9月1日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>から丸1年、1924年(大正13)の秋に営業や操業が復興した企業を調べてリスト化し、『東京・横浜職業別復興調査録』という報告書が同年の暮れに出版されている。横浜市を除き、東京府商工課が調査の主体として実施されており、調査結果を出版したのは日本橋区通2丁目11番地(現・日本橋2丁目)にあった東京商工通信社だった。<br />　ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(＝同業組合)に依頼して、各地の詳しい調査を代行してもらっている。したがって、組合に加入していない商工の小企業・店舗は調査対象から外れてしまうため、そこには少なからず誤差が生じ正確さを欠くことは、同書のはじめにも注記されている。だが、おおよその復興の様子やその傾向はつかめるとして、調査書の出版に踏みきったらしい。<br />　大震災から1年めでは、焦土化した東京市街地の復興はまだまだ途上だったが、震動だけで済み大火災をまぬがれた東京の郊外域では、徐々に商工業者の営業や操業が復活していた。ただし、東京の中心部が大きなダメージを受けているため需要回復が遅く、1年たっても商業活動や生産活動はかなり限定的なものだったろう。山手線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">目白駅</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-25.html" target="_blank" rel="noopener">高田馬場駅</a>のすぐ外側に位置する落合地域も、揺れは激しかったが大火にみまわれなかったため、深刻な被害を受けていない。だが、製造現場の機械類はかなりのダメージを受けたのではないだろうか。<br />　2011年(平成23)3月11日の東日本大震災のとき、東京では震度5+の地域が多かったが、大きな揺れによって精密機器が損傷し、そのままでは使用できなくなった製造現場が数多く発生していた。揺れによるミリ単位の曲りや、小さなシャフトの狂いでも、使用できなくなる機械類を抱えた製造現場は、関東大震災の当時も数多く存在していただろう。しかも、物流や交通が途絶しているので修理には時間がかかった。外観は震災に耐えていても、企業や工場の内部では設備に大きなダメージを受けていた可能性が高い。そのような外観からは把握できない、生産現場における震災被害からの実質的な回復を含めた、東京府による「復興調査」だったとみられる。<br />　では、震災直後にはどのような商工業の復興が早かったのか、同調査書の冒頭から引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　先づ震災前と比較して組合員数の増加が著しいものを見れば、第一種の如く東京売薬組合を初(ママ)めとして合計十五組合である。而して組合名の示すが如く、此の中に属するものは大体に於て、特に震災後の需要激増に刺戟されたものが多い。即ち建築材料の西洋家具、畳、壁材料、交通運輸のための自転車、諸届出に要する印判、其他売薬、蓄音機、書籍、靴、莫大小、薪炭、料理飲食等几べて災後直接市民の生活に最も必要を痛感された衣食住に関する部分である。そして此等の商工業者中焼失又は破壊された者は比較的多数に上るが、一方新規開業も亦著しく多数である。然も震災前に対する生産及販売歩合を見ると、建築材料に関するものは殆んど悉く災前以上に達しているが其他売薬、自転車は六乃至六割五分を示して居るに過ぎない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　東京市の中心部が破壊されているので、震災後にもっとも復興が早く、また需要も多かったのが建築資材なのは当然だが、特に「西洋家具」の目立つのが興味深い。江戸期あるいは明治期からつづく古い住宅街が焼けてしまい、この際、新しい洋風の住宅やオフィスビルなど燃えにくい構造の建物を建てようとする動きが活発化していたとみられる。<br />　また、「交通運輸のための自転車」というのも特徴的だ。道路の亀裂や段差、法面崩落、車道橋の崩壊、ガソリン不足などでクルマやトラックが使用できなくなり、市内の物流が自転車や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">リヤカー</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">大八車</a>などの人力に頼らざるをえなくなった様子が透けて見える。売薬の製造企業や商業の復興が早いのも、病院や医院が壊滅するか、あるいは震災の負傷者であふれているため、外来の患者にまで手がまわらなくなりセルフケアがあたりまえになった状況がうかがえる。<br />　大火災に追われ、着のみ着のままで避難した人々が多かったため、「莫大小(メリヤス)」などの布地や「靴」の需要がハネ上がったのもわかるが、「蓄音機」の製造メーカーや「書籍」出版社の復興が早かったのは、震災で精神的に追いつめられた人々の間で、癒しや気晴らし、娯楽などへのニーズが強かったのではないか。また、現代の生活では姿を消してしまったが、役所への届け出や申請書には必ず<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-21.html" target="_blank" rel="noopener">印鑑が必要</a>だったため、自宅や会社とともに焼けてしまった各種印鑑の需要が急に伸び、家内制手工業の分野では印鑑製造・販売が目立って伸びているのがわかる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE381AEE683A8E78AB6.jpg" alt="日本橋の惨状.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE4B889E8B68AE585A8E784BC28E4B889E59BB2E7A8B2E88DB7E981BFE99BA329.jpg" alt="日本橋三越全焼(三囲稲荷避難).jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE799BDE69CA8E5B18B.jpg" alt="日本橋白木屋.jpg" width="520" height="662" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BBB6E784BCE381A7E585A8E6BB8528E697A5E69CACE6A98BE4BABAE5BDA2E794BA29.jpg" alt="延焼で全滅(日本橋人形町).jpg" width="520" height="536" border="0" /></div><div>　では、『東京・横浜職業別復興調査録』に収録されている、地域別の営業・操業を再開している商工リストから、落合地域の企業や商店について見ていこう。まず、「鋳物業及鋳物材料商」では、下落合28番地の東洋金属が操業を再開している。さまざまな機械の部品や、生活用具に必要な鋳物材の需要はかなり高かったのだろう。同工場は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷道</a>(新井薬師道)の南側、山手線の線路際で操業していた。また、「建築材」の各種石材やセメント、砂利、材木などを販売していた下落合637番地の高田商店も、震災需要が急増していた商店だ。同店は目白通り沿いの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-15.html" target="_blank" rel="noopener">木村横丁</a>、現在でいえば聖母坂の入口あたりで営業していた店舗だ。<br />　「歯磨、石鹸、化粧品商」では、下落合9番地の愛久洗料製造工場が操業を再開している。洗料とは、おそらく洗濯用の石鹸のことだろう。その隣りの下落合8番地で営業していた、「馬力(荷馬車)運搬業」の石屋義行という人物も営業を再開している。市街地の道路が寸断されていたせいもあるが、クルマはガソリンが流通しないと役に立たないため、再び馬車による物資の輸送が復活していた。ただし、馬の飼料(穀物など)がないと営業できないため、「馬糧商」や「馬具及蹄鉄商」も同時に復活してリストに多くの名前を連ねている。いずれの事業所とも、現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通り沿い</a>にある下落合クリニックあるいは新宿清掃事務所のあたりで営業していた。<br />　「荷造材料商(縄莚叺)」の縄や莚(むしろ)、叺(かます)は物流に欠かせない材料だ。今日でいう梱包材のことで、荷を効率的に運搬するには必須の製品だった。下落合48番地の川瀬梅吉という人が、それらの素材を扱う商店を経営していた。現在の、錦松梅工場の道路を隔てた西隣りあたりで営業している。下落合906番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-23.html" target="_blank" rel="noopener">アポロ鉄工場</a>も、大きな被害を受けずに操業を再開している。同工場の再開が早いのは、製品に「喞筒及消防機械」を製造していたからだ。東京の市街地では、消防署や付属する消防設備がほぼ壊滅していたため、消防喞筒(ポンプ)や消火栓など新たな発注が相次いでいたのではないか。片山廣斗が開発したミニ文化村<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank" rel="noopener">「愛隣園」</a>では防災設備が充実していたが、彼の工場が消防・防災機器を製造していたからだろう。<br />　さまざまな機械製造には欠かせない、ボールベアリングや鋼材の製造・販売も早くから復興している。下落合184番地の山本螺旋の伸銅工場も、操業をリスタートしている。同社は大正末に下落合45番地へ移転し、本社機能とより大規模な工場を建設していると思われるが、震災後の需要急増で経営が拡大しているのだろう。医療分野で使用する「衛生材料」の需要も、震災後は急増している。市街地の病院や物流倉庫が焼けてしまったため、増産に次ぐ増産だったのではないか。衛生綿を製造していた下落合35番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">指田製綿工場</a>や、包帯を製造していた下落合20番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-13.html" target="_blank" rel="noopener">石倉商店工場</a>も、設備に大きな損害はなかったのか操業を再開している。<br />　震災後は、食糧の流通も大きな課題となっており、特に主食の米穀は最優先のテーマだった。政府や東京府、東京市も食料品の安定した供給を最大の課題としており、ことに「米穀商」の復興が重視されている。落合地域では、被害があまりなかった下落合1528番地の小野田八重次郎が経営していた小野田米穀店が営業していた。この住所は、現在の目白通りに面した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-06-18.html" target="_blank" rel="noopener">小野田製油所</a>と同じ番地だ。同米店は、店舗を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">目白学園</a>近くに移転して、つい最近まで営業していた。また、「土木建築工事」の領域では、大正期の早くから営業していた下落合768番地(のち765番地)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-22.html" target="_blank" rel="noopener">服部政吉</a>が経営する、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-06.html" target="_blank" rel="noopener">服部建築土木</a>が事業を再開している。今世紀に入り、緑深い自宅兼事務所と屋敷林が、保存を求める<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-18.html" target="_blank" rel="noopener">タヌキの森</a>として知られた敷地だ。<br />　金属の「銅鉄商」としては、震災で市街地にあった本社機能が喪失してしまったため、下落合にあった企業経営者の自宅が臨時の本社となっているケースが多い。以前にも書いたが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank" rel="noopener">東邦電力</a>の丸ノ内にあった本社が震災で破壊されたため、その経営者である下落合367番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-02.html" target="_blank" rel="noopener">松永安左衛門邸</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html" target="_blank" rel="noopener">臨時本社</a>となっていた経緯と同様だ。下落合不動谷1226番地の三宅於利蔵邸(鉄鋼問屋)と、同番地の水橋義之助邸(野田屋)も臨時の本社となっていた。ただし、日本橋小伝馬町2丁目3番地にあった水橋の野田屋は、すでに社屋を建設して営業を再開していたようだ。この2邸とも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-23.html" target="_blank" rel="noopener">西坂</a>を上がる途中の左手と丘上の左手にあった。さらに、「織物業」の東亜製綿工業も下落合761番地で営業を再開している。この地番は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">七曲坂</a>を上がった丘上の左手敷地、ちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-01.html" target="_blank" rel="noopener">清水厚邸</a>のあたりなので、役員邸に本社機能を移転していたとみられる。<br />　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>を開発中だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地</a>と、同ビル内にあった強羅土地も早々に事業を継続している。目白文化村に目立った被害はなく、また<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-11-18.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地本社ビル</a>もそれほどダメージを受けていない。また、「化学工業」の分野では、下落合224番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">池田化学工業</a>が操業を再開している。池田化学工業は、のちに下落合71番地と表記されることが多いが、224番地も同じ敷地内の番地だ。下落合482番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-25.html" target="_blank" rel="noopener">佐藤化学研究所</a>も、下落合(現・中落合／中井含む)の東部住宅街の中に位置しており、被害はほとんどなかったのか、震災後も事業をすぐに継続できているようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8A1E59BBDE6A98BE5BBB6E784BC.jpg" alt="両国橋延焼.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E590BEE5A6BBE6A98BE5B4A9E890BD.jpg" alt="吾妻橋崩落.jpg" width="520" height="393" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E981BFE99BA3E880855E4B887E4BABAE4B88AE9878EE585ACE59C92.jpg" alt="避難者5万人上野公園.jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE383BBE6A8AAE6B59CE881B7E6A5ADE588A5E5BEA9E88888E8AABFE69FBBE98CB21924.jpg" alt="東京・横浜職業別復興調査録1924.jpg" width="250" height="404" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE383BBE6A8AAE6B59CE881B7E6A5ADE588A5E5BEA9E88888E8AABFE69FBBE98CB21924E5A5A5E4BB98.jpg" alt="東京・横浜職業別復興調査録1924奥付.jpg" width="260" height="404" border="0" /></div><div>　住宅建材でもうひとつ、瓦やスレート、トタンなど屋根の建築材を手がける「瓦業及屋根工事」の領域では、下落合559番地で小日向健司という人物が経営していた小日向商店が営業をリスタートさせている。瓦やスレートなどの建材が、ようやく市場に出まわりはじめたのだろう。小日向商店は、目白通りに面した現在のちょうど<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510894660.html" target="_blank" rel="noopener">目白病院</a>の敷地にあった。「玩具業」では、八島嘉一という人が浅草区柳原町で経営していた玩具店の工場が、下落合632番地で操業を再開している。おそらく家内制手工業のような工場で、消しゴムやゴムまり、ゴム人形など子供用品を製造していた。ちょうど、銭湯<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-03.html" target="_blank" rel="noopener">「福の湯」</a>の南側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助邸</a>の北側にあたる敷地だ。柳原町は壊滅しているため、同工場は郊外に移転して臨時に建てられた施設なのだろう。<br />　「洋酒商」では、下落合10番地の甲斐産商店<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-24.html" target="_blank" rel="noopener">大黒葡萄酒工場</a>が健在だったが、東京府に運び入れる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519830212.html" target="_blank" rel="noopener">鉄道貨物</a>は建築材および衣食住が最優先されたため、嗜好品である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">葡萄酒(ワイン)樽</a>の優先順位はそれほど高くなかったのではないか。「毛織物」分野では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-05.html" target="_blank" rel="noopener">曙毛織物工業</a>が雑司ヶ谷949番地(のち953番地)で操業を再開しているが、本社機能は下落合506番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520863836.html" target="_blank" rel="noopener">納三治邸</a>となっている。ちょうど、能舞台があった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">観世喜之邸</a>の西隣りにあたる敷地で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521000382.html" target="_blank" rel="noopener">下落合666番地</a>に新邸を建設する以前、1924年(大正13)の時点での納三治邸は同所にあったとみられる。「電燈電力業」の領域では、下落合508番地にあった東京電燈下落合派出所が営業を再開している。目白通りに面した敷地で、目白平和幼稚園の2軒東隣りの敷地だ。<br />　「材木商」では、目白通り沿いの下落合484番地にあった松尾材木店が営業を継続している。松尾恒八という人が経営しており、そのご子孫である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">松尾徳三様</a>には、下落合の貴重な資料収集でずいぶんお世話になった。松尾様は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>たちとともに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">御留山</a>の保存および<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">公園化</a>に尽力された方だ。もう1軒、上落合162番地にあった福室清という人物が経営する伏見屋材木店も、ほとんど被害がなかったのかそのまま営業をつづけているようだ。上落合の南辺を通る、現在の早稲田通り沿いにあり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">都バス小滝橋車庫</a>の西隣りにあたる敷地だ。<br />　「紡績業」では、下落合229番地(のち67番地)にあった市村(中村の誤記？)紡績という会社が営業していた。同工場も、市街地から移転してきた工場かもしれない。大正末になると、中村紡績工業という株式組織の大きめな工場になっているようだ。現在の神田川沿い、ICBF東京中央チャーチがあるあたりの敷地だ。「自動車業」の分野では、下落合568番地の小泉自動車商会が営業をしていた。現在は新宿下落合四郵便局が建っている、東寄りの敷地にあった。もうひとつ、小兒牛乳自動車部という会社が営業していたようだが、下落合とあるだけで番地が収録されていない。この会社も、市街地が壊滅したため臨時に近郊へ事業部を移転したものだろうか。<br />　「醤油及味噌商」では、松原繁雄という人物が経営していた、上落合231番地の松原商会という会社ないしは店舗が記載されている。扱っていた製品が、醤油なのか味噌なのかは不明だが、現在は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank" rel="noopener">落合水再生センター</a>の下になってしまった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧・八幡通り</a>に面した会社だった。また、下落合1480番地の福室米蔵という個人名しか記載されていないが、こちらは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">福室醤油醸造所</a>のことだ。場所は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">八島さんの前通り</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-21.html" target="_blank" rel="noopener">星野通り</a>)から北の目白通りへと抜けた左手にあった。<br />　「写真器械及材料商」では、もちろん落合町葛ヶ谷660番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">菊地東陽</a>が創立した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-01.html" target="_blank" rel="noopener">オリエンタル写真工業</a>が収録されている。精密機器を生産する工場なので、震災では少なからず被害を受け部品調達も困難だったと思うのだが、1年後には操業をなんとか再開していた。最後に「製粉業」では、下落合501番地の佐久間増太郎という個人名が収録されている。これは、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に掲載された、同番地の佐久間製粉所のことだ。扱っていたのは小麦粉か蕎麦粉かは不明だが、目白平和幼稚園の東隣りに位置するかなり大きな製粉工場だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E6B5B7E98193E7B79AE381AEE981BFE99BA3E88085.jpg" alt="東海道線の避難者.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A6ACE585A5E5B79DE98984E6A98BE5B4A9E890BD.jpg" alt="馬入川鉄橋崩落.jpg" width="520" height="320" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B9B3E5A19AE79BB8E6A8A1E7B4A1E7B8BEE5B7A5E5A0B4E58092E5A38A28E5A5B3E5B7A5E6ADBBE88085144E4BABA29.jpg" alt="平塚相模紡績工場倒壊(女工死者144人).jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E7A3AFE5B9B3E5A19AE99693E58897E8BB8AE8BBA2E8A68674E58FB7E58897E8BB8A.jpg" alt="大磯平塚間列車転覆74号列車.jpg" width="520" height="472" border="0" /></div><div>　こうして震災から1年目、落合地域で営業や操業を再開していた企業や工場、店舗などを見てくると、ほとんどが下落合での事業だったことに気づく。当時の上落合は、田畑が随所に残り地主による耕地整理が進んでいる最中で、多くの企業や工場が進出する前の時代であり、葛ヶ谷(西落合)にいたってはほとんどが田畑のままの田園地帯だった。けれども、落合地域の牧歌的な風景は関東大震災までで、大震災後は市街地からの住民が大挙して押し寄せる新興住宅地となっていく。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：大震災の直後に撮影された、余震がつづく銀座通りのめずらしい写真。人々はいまだ茫然自失の状態だが、このあと大火が襲い銀座の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-10.html" target="_blank" rel="noopener">街は全滅</a>する。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、魚河岸(市場)から写した日本橋の惨状。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、全焼した日本橋三越。屋上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">三圍稲荷</a>は店員たちが運びだして無事だったが、店内の商品はすべて灰になった。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、倒壊直後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">日本橋白木屋</a>。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」の立て看板も空しく、生き埋めになった人たちは迫る大火で焼死した。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、延焼で全滅した日本橋人形町。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、炎上したが崩落はまぬがれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519230779.html" target="_blank" rel="noopener">大橋(両国橋)</a>。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、揺れで崩落した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">大川橋(吾妻橋)</a>。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、5万人の避難者が押しかけた上野公園の森。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1924年(大正13)出版の『東京・横浜職業別復興調査録』(東京商工通信社)の中扉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、東海道線の線路づたいに避難する罹災者たち。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、崩落した馬入川(相模川)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-07.html" target="_blank" rel="noopener">東海道線鉄橋</a>。茅ヶ崎側からの撮影で、遠景に見えている山影は大磯の高麗山。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、崩壊した平塚の相模紡績工場で女工144人が圧死した。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、地面の隆起により平塚－大磯間で脱線転覆した東海道線74号列車。背後に見えているのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-24.html" target="_blank" rel="noopener">千畳敷山(湘南平)</a>へとつづく高麗山。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　竹は地面に根を張るので、竹藪に避難すると揺れが小さいという迷信から竹林で野宿する人々。下は、松並木のある東海道(国道1号線)へ倒れかかった松の巨木。樹木に限らず、建物などが倒壊したため道路が封鎖・寸断され、自動車が通行できずに人力による輸送が中心となった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ABB9E897AAE981BFE99BA3.jpg" alt="竹藪避難.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E6B5B7E9819328E4B880E59BBD29E69DBEE4B8A6E69CA8E58092E69CA8.jpg" alt="東海道(一国)松並木倒木.jpg" width="520" height="378" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520511286.html</link>
      <title>佐多稲子と藤川栄子が親友になったころ。</title>
      <pubDate>Sat, 29 Aug 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　下落合(現・中落合／中井含む)東部の南隣り、戸塚町上戸塚(現・高田馬場3～4丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)と藤川栄子は、ある日、道を歩いていてお互いに「どっかで会ったような……？」と感じたのが、のちに親友になるきっかけだった。　そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、『戸塚から落合へ』に記述されている。当時、窪川稲子(佐多稲子)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901962.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;1962.jpg" width="600" height="469" border="0" />　下落合(現・中落合／中井含む)東部の南隣り、戸塚町上戸塚(現・高田馬場3～4丁目)に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank">窪川稲子</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-04-04.html" target="_blank">佐多稲子</a>)と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-31.html" target="_blank">藤川栄子</a>は、ある日、道を歩いていてお互いに「どっかで会ったような……？」と感じたのが、のちに親友になるきっかけだった。　そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank">『戸塚から落合へ』</a>に記述されている。当時、窪川稲子(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-13.html" target="_blank">佐多稲子</a>)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番地)に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-19.html" target="_blank">藤川栄子</a>は大正期から上戸塚866番地(のち戸塚3丁目866番地)に住んでいて、ふたりの住いは早稲田通りをはさみ斜向かいで250mほどしか離れていないところにあった。　ある日、夫の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-02.html" target="_blank">窪川鶴次郎</a>が借りていた「勉強部屋」がある道筋を歩いていると、門の前で3歳ぐらいの女の子と遊ぶ女性がいた。瘦せていて背が高く、背中で十文字に紐のかかるスカートをはいたその女性に、「何だか見覚えがある」と感じた窪川稲子だが、このときは思いだせなかった。その人も、窪川稲子に面識があるのかジッと見つめ返してきた。　数日後、ハタと気がついた。「主婦の友」のグラビアに、窪川稲子と娘の写真が載ったとき、いっしょに藤川栄子と娘の写真も掲載されていたのだ。門の前を通るとき表札を見ると、やはり「藤川」と書かれていた。当時は、「まだ勇造氏がゐられた筈」とあるので、ふたりの最初の出会いは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-09-27.html" target="_blank">藤川勇造</a>が1935年(昭和10)に死去する、少し前の時期だったことがわかる。　藤川勇造が死去してから、ふたりは急速に親しくなって窪川稲子は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-31.html" target="_blank">藤川栄子のアトリエ</a>へ、藤川は窪川稲子の自宅へ頻繁に往来するようになる。このあと、窪川稲子のもとを訪ねる上落合に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank">壺井栄</a>も、同じ香川出身の藤川栄子と急速に親しくなっている。しかも、結婚前の藤川栄子の旧姓は坪井栄(えい)であり、「つぼいさかえ」とも読めるので、のちに壺井栄と坪井栄とが混線する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-19.html" target="_blank">おかしなエピソード</a>まで発生している。　1940年(昭和15)ごろから、藤川栄子と窪川稲子に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-09.html" target="_blank">壺井栄</a>が加わって、日ごろのストレスを発散させるためか早稲田通りを闊歩する、3人の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-13.html" target="_blank">「歩きませう散歩」</a>がスタートしている。もちろん、この3人の背後には半分嫌がらせをかねた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank">特高</a>の尾行がついていただろう。画家の藤川栄子が文学者たちと親しくなったのは、自身が奈良女子高等師範学校の文科を卒業したあと、早稲田大学文学部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-12.html" target="_blank">聴講生</a>を修了し、文学をめざしていた時期があったからだ。　このころの、「いやになつて、寝てばかり」(『戸塚から落合へ』)というふたりの思いは共通しており、日本が対米英との戦争に向けてまっしぐらに進むなか、自由な表現ができなくなり社会の隅々にまで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-12-20.html" target="_blank">日本型ファシズム</a>、すなわち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-26.html" target="_blank">軍国主義</a>がいきわたろうとしている状況を憂い、思わずため息まじりに嘆いた言葉だったのだろう。不用意に「戦争反対」などと発言しようものなら、すぐにも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519392169.html" target="_blank">特高</a>か<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-27.html" target="_blank">憲兵隊</a>に検挙され、殺されかねない時代をすでに迎えていた。　窪川稲子の自宅の裏には、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いか妙正寺川沿いに展開する、染物の工房に勤めていた染物職人の家があった。非常に仲睦まじい夫婦で、娘がふたりいる4人家族だった。いい年をした、そんな職人の家にも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-13.html" target="_blank">赤紙</a>(召集令状)がとどくほど、中国での戦争は戦死者が急増して泥沼化し、出口がまったく見えない状況を迎えていた。1949年(昭和24)に新日本文学会(のち講談社／筑摩書房)から出版された、佐多稲子『私の東京地図』より引用してみよう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD902BE581A5E980A01930.jpg" alt="&#x7AAA;&#x5DDD;&#x7A32;&#x5B50;+&#x5065;&#x9020;1930.jpg" width="520" height="707" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD9028E698ADE5928CE5889DE69C9F29.jpg" alt="&#x85E4;&#x5DDD;&#x6804;&#x5B50;(&#x662D;&#x548C;&#x521D;&#x671F;).jpg" width="520" height="544" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90E383BBE69B9CE5AD901935E9A083.jpg" alt="&#x85E4;&#x5DDD;&#x6804;&#x5B50;&#x30FB;&#x66DC;&#x5B50;1935&#x9803;.jpg" width="520" height="466" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90.jpg" alt="&#x7AAA;&#x5DDD;&#x7A32;&#x5B50;.jpg" width="520" height="746" border="0" />　　▼　私の家の出口の左手に、女の子二人と夫婦で睦まじく暮らしてゐた染物職人も、優形の身体で出征していつた。家内で睦ましいといふことが、排他的にさへなつてゐた夫婦だつたが、主人は似合はぬ洋服に襷をかけて出立するとき、どうぞ、あとをお頼み申します、と私の前でまで、しんからさう言つておじぎをした。夫の出征したあとは、細君は腕がよかつたので仕立ものを大きな呉服屋から引受けてそれで生計もちやんと立ててゐたが、ある朝まだ小暗いうちに、まるで気の狂つたやうに我が子を折かんするのが聞こえてきた。八歳ぐらゐだつた下の子がおびえておろおろと謝りながら、打たれて泣いてゐる。朝の空気がただならぬものになつて、近所からなだめに出た。　　▲　ある日突然、仲睦まじかった家庭の幸福が一瞬のうちに壊され、鬱積してたまりにたまった母親の怒りやストレスが、ふたりの娘に向けられて爆発した瞬間だったのだろう。その怒りは、現代の視点から見れば、本来なら戦争をつづける政府に対して向けられるべきものだったのだろうが、この若い母親は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank">皇国史観</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510397042.html" target="_blank">軍国主義</a>による教育で、そのような思考回路が曇らされてかたちをなさず、かわいがっていた娘たちへ激しい暴力をふるう自分自身の感情を理解も整理もできずに、もてあましてさえいたのかもしれない。このような光景は、当時は表面化しなかっただけで、夫が戦場にもっていかれた各地の家庭で見られた現象ではなかったろうか。　早稲田通りのあちこちで、高田馬場駅へ向けた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520526153.html" target="_blank">出征兵士</a>を見送る行列の光景が繰り返されるようになっていた。街中には、「♪徐州～徐州と人馬は進む～」という『麦と兵隊』(作詞：藤田まさと／1938年)が繰り返し流れていたということなので、1939年(昭和14)ごろの情景だろう。窪川稲子(佐多稲子)は、家の2階で徹夜の書きものをしながら、母親が狂ったように折檻し、娘たちが泣き叫ぶ声を聞いていた。同書より、つづけて引用してみよう。　　▼　私は胸を突かれたやうになつて、徹夜の机の前でじいつとしてゐた。残された妻の、ときに猛るのが分かるおもひがする。ねえ、お父ちゃん、と夫を呼ぶとき嬉しさうだつた声のその妻の苛ら立つた叱り方は、何か本能的な苦痛を現わしてゐた。数ケ月経つたある夜、外出しようとした私は通りへ出るとき郵便配達夫の赤い自転車とすれちがつた。私の家ではないかと振り返るとそれはひとつ手前の織物職人の家の前へ停まつた。それは主人の戦死の知らせであつた。　　▲<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90E3808CE5ADA3E7AF80E381AEE99A8FE7AD86E3808D1941.jpg" alt="&#x7AAA;&#x5DDD;&#x7A32;&#x5B50;&#x300C;&#x5B63;&#x7BC0;&#x306E;&#x968F;&#x7B46;&#x300D;1941.jpg" width="245" height="371" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90E3808CE7A781E381AEE69DB1E4BAACE59CB0E59BB3E3808D1949E7AD91E691A9E69BB8E688BF.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;&#x300C;&#x79C1;&#x306E;&#x6771;&#x4EAC;&#x5730;&#x56F3;&#x300D;1949&#x7B51;&#x6469;&#x66F8;&#x623F;.jpg" width="265" height="371" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A9A6E4BABAE6B091E4B8BBE382AFE383A9E38396E6BA96E58299E4BC9A1946.jpg" alt="&#x5A66;&#x4EBA;&#x6C11;&#x4E3B;&#x30AF;&#x30E9;&#x30D6;&#x6E96;&#x5099;&#x4F1A;1946.jpg" width="520" height="574" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90EFBC8BE5A3BAE4BA95E6A0841946.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;&#xFF0B;&#x58FA;&#x4E95;&#x6804;1946.jpg" width="520" height="581" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901955.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;1955.jpg" width="520" height="603" border="0" />　そのころ、娘をもつ藤川栄子もイラ立つ毎日を送っていた。それは、近しい者への怒りというかたちでは表れず、内へ内へとこもる怒りだったようだ。もちろん、自分の友人知人が戦死したり戦傷で入院したりしており、その感情が戦争をやめようとしない政府や社会に対してのものであることを、彼女は十分に理解していたのだろう。　その怒りを抑えるために、藤川栄子は「いやになつて、寝てばかり」いたのかもしれないし、また娘を連れて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-28.html" target="_blank">戸山ヶ原</a>をあてもなく歩きまわったり、窪川稲子や壺井栄とともに早稲田通りから落合地域への、「歩きませう散歩」をつづけていたのかもしれない。藤川栄子は画家なので、この時期のことはほとんど文章に残してはいないが、作品の制作意欲も極端に落ちこんで、満足なタブローを仕上げられないでいたようだ。唯一、1938年(昭和13)の「文藝」11月号に収録された「葉書随筆」に日記という形式で、ある日の日常を報告している。同日記より、引用してみよう。　　▼　某月某日／早朝に起きる、学校にゆく子供と朝食をとるために。相変らず目ざめ際の気持の悪いこと、愉快なことは少しもない。(中略)　午後、子供と戸山の原を太陽を浴びて歩いた。散歩しながら殊にはつきりと生々と馬や木の生活を感じた。どの木もそれぞれの根を張つて自分の仕事をしてゐる。八月以来怠けきつてゐる自分の仕事について考へる。仕事をしないと病的な癇癪が始まつて仕方がない。夜おそく就寝、疲れて。　　▲　世間に公表される原稿なので、「数えきれない犠牲者を生む戦争をつづけてるから、朝の寝ざめが悪いし気分もすぐれないのよ！」などと書けば、すぐにも特高が踏みこんできて検挙されるので、表現に細心の注意を払いながら婉曲な表現でしか書けないことも、彼女の激しくストレートな性格からすれば怒りやストレスを蓄積させる要因だったろう。　藤川栄子と窪川稲子がふだんから贔屓にしていた、高田馬場駅近くの早稲田通り沿いで開業する、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-28.html" target="_blank">椿堂文房具店</a>の肥った後妻が死んでしばらくすると、窪川稲子はただならぬ大きなラジオの音声に起こされた。佐多稲子『私の東京地図』(1949年)より、再び引用してみよう。　　▼　朝の早い豆腐やで、いつもラヂオは体操からはじまつた。それは私の寝てゐる二階へまつすぐ聞えた。私は、いつにないラヂオの改まつた放送にすぐ目を覚ました。それは十二月八日の朝であつた。私と吉之助は黙つて顔を見合せるふうにして、軍艦マーチに昂奮する外の気配に身をひそめた。その外の昂奮は奇妙なものだつた。中国の戦争やノモンハンの戦ひで疲れた神経が、はけ口を見つけたやうに、軍艦マーチに煽られてゐた。　　▲　文中で「吉之助」と書かれているのは、もちろん当時の夫だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-17.html" target="_blank">窪川鶴次郎</a>のことだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901957E696B0E5AEBFE58CBAE69F8FE69CA84-971E887AAE5AE85.jpg" alt="&#x4F50;&#x591A;&#x7A32;&#x5B50;1957&#x65B0;&#x5BBF;&#x533A;&#x67CF;&#x6728;4-971&#x81EA;&#x5B85;.jpg" width="520" height="724" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90EFBC8BE5A3BAE4BA95E6A0841961E9AB98E69DBEE5B882E7BE8EE8A193E9A4A8.jpg" alt="&#x85E4;&#x5DDD;&#x6804;&#x5B50;&#xFF0B;&#x58FA;&#x4E95;&#x6804;1961&#x9AD8;&#x677E;&#x5E02;&#x7F8E;&#x8853;&#x9928;.jpg" width="520" height="403" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90EFBC8BE69B9CE5AD90195409.jpg" alt="&#x85E4;&#x5DDD;&#x6804;&#x5B50;&#xFF0B;&#x66DC;&#x5B50;195409.jpg" width="520" height="555" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38395E383A9E383AFE383BCE382B7E383A7E38383E38397E3839EE382B9E38380.jpg" alt="&#x30D5;&#x30E9;&#x30EF;&#x30FC;&#x30B7;&#x30E7;&#x30C3;&#x30D7;&#x30DE;&#x30B9;&#x30C0;.jpg" width="520" height="362" border="0" />　窪川稲子(佐多稲子)が住む家のごく近く、このラジオをかけていた豆腐屋は早稲田通りに面した店舗ではなく、通りを北に入る露地裏で営業していた店だろう。窪川稲子や藤川栄子、ときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-11.html" target="_blank">目白町3丁目3570番地</a>からやってくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-03.html" target="_blank">中條百合子</a>が気に入り好んで花を買っていた、戸塚4丁目591番地の増田屋花店(現存)の裏あたりで開業していた、住宅街の中のこじんまりした豆腐屋ではないか。
◆写真上：カメラマンを意識したのか、1962年(昭和37)撮影のテレ笑いをする佐多稲子。◆写真中上：上は、1930年(昭和5)に自宅で撮影された窪川稲子(佐多稲子)と長男・健造。中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された藤川栄子。中下は、夫の死後の1935年(昭和10)以降に撮影された藤川栄子と娘の曜子。下は、昭和初期に撮影された窪川稲子。◆写真中下：上左は、1941年(昭和16)出版の窪川稲子『季節の随筆』(万里閣)。上右は、1949年(昭和24)に出版された佐多稲子『私の東京地図』(筑摩書房版)。中上は、戦後に起ち上げた婦人民主クラブ準備会の記念写真。後列右からふたりめに藤川栄子が、前列右から3人めに佐多稲子、4人めに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-26.html" target="_blank">宮本百合子</a>が写る。中下は、1946年(昭和21)撮影の壺井栄と佐多稲子。う～～ん、壺井栄はやはり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-01.html" target="_blank">大仏さん</a>に見える。下は、1955年(昭和30)撮影の佐多稲子。◆写真下：上は、1957年(昭和32)に新宿区柏木4丁目971番地(現・北新宿3丁目)の自宅で撮影された佐多稲子。手もとには、愛飲の缶PEACEが見えている。中上は、1961年(昭和36)4月に香川県の高松市立美術館で開かれた藤川勇造遺作展の会場で撮影された、高松と小豆島で同郷の藤川栄子と壺井栄。中下は、1954年(昭和29)9月に藤川アトリエで撮影された藤川栄子と画家をめざす娘の曜子。下は、1921年(大正10)創業の現存する老舗の増田屋花店(現・フラワーショップ マスダ)。★おまけ　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-14.html" target="_blank">濱田煕</a>が、1995年(平成7)に描いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-18.html" target="_blank">『昔の町並み』</a>から、藤川栄子と窪川稲子(佐多稲子)が住んでいた家の表通り(早稲田通り)に並ぶ商店街の様子で、1938年(昭和13)ごろを想定している。これらの商店街や藤川栄子のアトリエ、窪川稲子が住んだ家は空襲ですべて焼けている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90E8A1A8E9809AE3828A.jpg" alt="&#x7AAA;&#x5DDD;&#x7A32;&#x5B50;&#x8868;&#x901A;&#x308A;.jpg" width="520" height="359" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90E8A1A8E9809AE3828A.jpg" alt="&#x85E4;&#x5DDD;&#x6804;&#x5B50;&#x8868;&#x901A;&#x308A;.jpg" width="520" height="360" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901962.jpg" alt="佐多稲子1962.jpg" width="600" height="469" border="0" /></div><div>　下落合(現・中落合／中井含む)東部の南隣り、戸塚町上戸塚(現・高田馬場3～4丁目)に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank" rel="noopener">窪川稲子</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-04-04.html" target="_blank" rel="noopener">佐多稲子</a>)と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-31.html" target="_blank" rel="noopener">藤川栄子</a>は、ある日、道を歩いていてお互いに「どっかで会ったような……？」と感じたのが、のちに親友になるきっかけだった。<br />　そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-26.html" target="_blank" rel="noopener">『戸塚から落合へ』</a>に記述されている。当時、窪川稲子(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-13.html" target="_blank" rel="noopener">佐多稲子</a>)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番地)に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-19.html" target="_blank" rel="noopener">藤川栄子</a>は大正期から上戸塚866番地(のち戸塚3丁目866番地)に住んでいて、ふたりの住いは早稲田通りをはさみ斜向かいで250mほどしか離れていないところにあった。<br />　ある日、夫の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-02.html" target="_blank" rel="noopener">窪川鶴次郎</a>が借りていた「勉強部屋」がある道筋を歩いていると、門の前で3歳ぐらいの女の子と遊ぶ女性がいた。瘦せていて背が高く、背中で十文字に紐のかかるスカートをはいたその女性に、「何だか見覚えがある」と感じた窪川稲子だが、このときは思いだせなかった。その人も、窪川稲子に面識があるのかジッと見つめ返してきた。<br />　数日後、ハタと気がついた。「主婦の友」のグラビアに、窪川稲子と娘の写真が載ったとき、いっしょに藤川栄子と娘の写真も掲載されていたのだ。門の前を通るとき表札を見ると、やはり「藤川」と書かれていた。当時は、「まだ勇造氏がゐられた筈」とあるので、ふたりの最初の出会いは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">藤川勇造</a>が1935年(昭和10)に死去する、少し前の時期だったことがわかる。<br />　藤川勇造が死去してから、ふたりは急速に親しくなって窪川稲子は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">藤川栄子のアトリエ</a>へ、藤川は窪川稲子の自宅へ頻繁に往来するようになる。このあと、窪川稲子のもとを訪ねる上落合に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">壺井栄</a>も、同じ香川出身の藤川栄子と急速に親しくなっている。しかも、結婚前の藤川栄子の旧姓は坪井栄(えい)であり、「つぼいさかえ」とも読めるので、のちに壺井栄と坪井栄とが混線する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-19.html" target="_blank" rel="noopener">おかしなエピソード</a>まで発生している。<br />　1940年(昭和15)ごろから、藤川栄子と窪川稲子に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">壺井栄</a>が加わって、日ごろのストレスを発散させるためか早稲田通りを闊歩する、3人の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-02-13.html" target="_blank" rel="noopener">「歩きませう散歩」</a>がスタートしている。もちろん、この3人の背後には半分嫌がらせをかねた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank" rel="noopener">特高</a>の尾行がついていただろう。画家の藤川栄子が文学者たちと親しくなったのは、自身が奈良女子高等師範学校の文科を卒業したあと、早稲田大学文学部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">聴講生</a>を修了し、文学をめざしていた時期があったからだ。<br />　このころの、「いやになつて、寝てばかり」(『戸塚から落合へ』)というふたりの思いは共通しており、日本が対米英との戦争に向けてまっしぐらに進むなか、自由な表現ができなくなり社会の隅々にまで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-12-20.html" target="_blank" rel="noopener">日本型ファシズム</a>、すなわち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">軍国主義</a>がいきわたろうとしている状況を憂い、思わずため息まじりに嘆いた言葉だったのだろう。不用意に「戦争反対」などと発言しようものなら、すぐにも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519392169.html" target="_blank" rel="noopener">特高</a>か<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">憲兵隊</a>に検挙され、殺されかねない時代をすでに迎えていた。<br />　窪川稲子の自宅の裏には、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いか妙正寺川沿いに展開する、染物の工房に勤めていた染物職人の家があった。非常に仲睦まじい夫婦で、娘がふたりいる4人家族だった。いい年をした、そんな職人の家にも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-13.html" target="_blank" rel="noopener">赤紙</a>(召集令状)がとどくほど、中国での戦争は戦死者が急増して泥沼化し、出口がまったく見えない状況を迎えていた。1949年(昭和24)に新日本文学会(のち講談社／筑摩書房)から出版された、佐多稲子『私の東京地図』より引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD902BE581A5E980A01930.jpg" alt="窪川稲子+健造1930.jpg" width="520" height="707" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD9028E698ADE5928CE5889DE69C9F29.jpg" alt="藤川栄子(昭和初期).jpg" width="520" height="544" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90E383BBE69B9CE5AD901935E9A083.jpg" alt="藤川栄子・曜子1935頃.jpg" width="520" height="466" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90.jpg" alt="窪川稲子.jpg" width="520" height="746" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私の家の出口の左手に、女の子二人と夫婦で睦まじく暮らしてゐた染物職人も、優形の身体で出征していつた。家内で睦ましいといふことが、排他的にさへなつてゐた夫婦だつたが、主人は似合はぬ洋服に襷をかけて出立するとき、どうぞ、あとをお頼み申します、と私の前でまで、しんからさう言つておじぎをした。夫の出征したあとは、細君は腕がよかつたので仕立ものを大きな呉服屋から引受けてそれで生計もちやんと立ててゐたが、ある朝まだ小暗いうちに、まるで気の狂つたやうに我が子を折かんするのが聞こえてきた。八歳ぐらゐだつた下の子がおびえておろおろと謝りながら、打たれて泣いてゐる。朝の空気がただならぬものになつて、近所からなだめに出た。<br />　<span style="color: #008000;">　▲</span><br />　ある日突然、仲睦まじかった家庭の幸福が一瞬のうちに壊され、鬱積してたまりにたまった母親の怒りやストレスが、ふたりの娘に向けられて爆発した瞬間だったのだろう。その怒りは、現代の視点から見れば、本来なら戦争をつづける政府に対して向けられるべきものだったのだろうが、この若い母親は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">皇国史観</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510397042.html" target="_blank" rel="noopener">軍国主義</a>による教育で、そのような思考回路が曇らされてかたちをなさず、かわいがっていた娘たちへ激しい暴力をふるう自分自身の感情を理解も整理もできずに、もてあましてさえいたのかもしれない。このような光景は、当時は表面化しなかっただけで、夫が戦場にもっていかれた各地の家庭で見られた現象ではなかったろうか。<br />　早稲田通りのあちこちで、高田馬場駅へ向けた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520526153.html" target="_blank" rel="noopener">出征兵士</a>を見送る行列の光景が繰り返されるようになっていた。街中には、「♪徐州～徐州と人馬は進む～」という『麦と兵隊』(作詞：藤田まさと／1938年)が繰り返し流れていたということなので、1939年(昭和14)ごろの情景だろう。窪川稲子(佐多稲子)は、家の2階で徹夜の書きものをしながら、母親が狂ったように折檻し、娘たちが泣き叫ぶ声を聞いていた。同書より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私は胸を突かれたやうになつて、徹夜の机の前でじいつとしてゐた。残された妻の、ときに猛るのが分かるおもひがする。ねえ、お父ちゃん、と夫を呼ぶとき嬉しさうだつた声のその妻の苛ら立つた叱り方は、何か本能的な苦痛を現わしてゐた。数ケ月経つたある夜、外出しようとした私は通りへ出るとき郵便配達夫の赤い自転車とすれちがつた。私の家ではないかと振り返るとそれはひとつ手前の織物職人の家の前へ停まつた。それは主人の戦死の知らせであつた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90E3808CE5ADA3E7AF80E381AEE99A8FE7AD86E3808D1941.jpg" alt="窪川稲子「季節の随筆」1941.jpg" width="245" height="371" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90E3808CE7A781E381AEE69DB1E4BAACE59CB0E59BB3E3808D1949E7AD91E691A9E69BB8E688BF.jpg" alt="佐多稲子「私の東京地図」1949筑摩書房.jpg" width="265" height="371" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A9A6E4BABAE6B091E4B8BBE382AFE383A9E38396E6BA96E58299E4BC9A1946.jpg" alt="婦人民主クラブ準備会1946.jpg" width="520" height="574" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD90EFBC8BE5A3BAE4BA95E6A0841946.jpg" alt="佐多稲子＋壺井栄1946.jpg" width="520" height="581" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901955.jpg" alt="佐多稲子1955.jpg" width="520" height="603" border="0" /></div><div>　そのころ、娘をもつ藤川栄子もイラ立つ毎日を送っていた。それは、近しい者への怒りというかたちでは表れず、内へ内へとこもる怒りだったようだ。もちろん、自分の友人知人が戦死したり戦傷で入院したりしており、その感情が戦争をやめようとしない政府や社会に対してのものであることを、彼女は十分に理解していたのだろう。<br />　その怒りを抑えるために、藤川栄子は「いやになつて、寝てばかり」いたのかもしれないし、また娘を連れて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-28.html" target="_blank" rel="noopener">戸山ヶ原</a>をあてもなく歩きまわったり、窪川稲子や壺井栄とともに早稲田通りから落合地域への、「歩きませう散歩」をつづけていたのかもしれない。藤川栄子は画家なので、この時期のことはほとんど文章に残してはいないが、作品の制作意欲も極端に落ちこんで、満足なタブローを仕上げられないでいたようだ。唯一、1938年(昭和13)の「文藝」11月号に収録された「葉書随筆」に日記という形式で、ある日の日常を報告している。同日記より、引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">某月某日</span>／早朝に起きる、学校にゆく子供と朝食をとるために。相変らず目ざめ際の気持の悪いこと、愉快なことは少しもない。(中略)　午後、子供と戸山の原を太陽を浴びて歩いた。散歩しながら殊にはつきりと生々と馬や木の生活を感じた。どの木もそれぞれの根を張つて自分の仕事をしてゐる。八月以来怠けきつてゐる自分の仕事について考へる。仕事をしないと病的な癇癪が始まつて仕方がない。夜おそく就寝、疲れて。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　世間に公表される原稿なので、「数えきれない犠牲者を生む戦争をつづけてるから、朝の寝ざめが悪いし気分もすぐれないのよ！」などと書けば、すぐにも特高が踏みこんできて検挙されるので、表現に細心の注意を払いながら婉曲な表現でしか書けないことも、彼女の激しくストレートな性格からすれば怒りやストレスを蓄積させる要因だったろう。<br />　藤川栄子と窪川稲子がふだんから贔屓にしていた、高田馬場駅近くの早稲田通り沿いで開業する、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-28.html" target="_blank" rel="noopener">椿堂文房具店</a>の肥った後妻が死んでしばらくすると、窪川稲子はただならぬ大きなラジオの音声に起こされた。佐多稲子『私の東京地図』(1949年)より、再び引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　朝の早い豆腐やで、いつもラヂオは体操からはじまつた。それは私の寝てゐる二階へまつすぐ聞えた。私は、いつにないラヂオの改まつた放送にすぐ目を覚ました。それは十二月八日の朝であつた。私と吉之助は黙つて顔を見合せるふうにして、軍艦マーチに昂奮する外の気配に身をひそめた。その外の昂奮は奇妙なものだつた。中国の戦争やノモンハンの戦ひで疲れた神経が、はけ口を見つけたやうに、軍艦マーチに煽られてゐた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　文中で「吉之助」と書かれているのは、もちろん当時の夫だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-17.html" target="_blank" rel="noopener">窪川鶴次郎</a>のことだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E5A49AE7A8B2E5AD901957E696B0E5AEBFE58CBAE69F8FE69CA84-971E887AAE5AE85.jpg" alt="佐多稲子1957新宿区柏木4-971自宅.jpg" width="520" height="724" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90EFBC8BE5A3BAE4BA95E6A0841961E9AB98E69DBEE5B882E7BE8EE8A193E9A4A8.jpg" alt="藤川栄子＋壺井栄1961高松市美術館.jpg" width="520" height="403" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90EFBC8BE69B9CE5AD90195409.jpg" alt="藤川栄子＋曜子195409.jpg" width="520" height="555" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38395E383A9E383AFE383BCE382B7E383A7E38383E38397E3839EE382B9E38380.jpg" alt="フラワーショップマスダ.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div>　窪川稲子(佐多稲子)が住む家のごく近く、このラジオをかけていた豆腐屋は早稲田通りに面した店舗ではなく、通りを北に入る露地裏で営業していた店だろう。窪川稲子や藤川栄子、ときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-11.html" target="_blank" rel="noopener">目白町3丁目3570番地</a>からやってくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-03.html" target="_blank" rel="noopener">中條百合子</a>が気に入り好んで花を買っていた、戸塚4丁目591番地の増田屋花店(現存)の裏あたりで開業していた、住宅街の中のこじんまりした豆腐屋ではないか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：カメラマンを意識したのか、1962年(昭和37)撮影のテレ笑いをする佐多稲子。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1930年(昭和5)に自宅で撮影された窪川稲子(佐多稲子)と長男・健造。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1935年(昭和10)ごろに撮影された藤川栄子。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、夫の死後の1935年(昭和10)以降に撮影された藤川栄子と娘の曜子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、昭和初期に撮影された窪川稲子。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、1941年(昭和16)出版の窪川稲子『季節の随筆』(万里閣)。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、1949年(昭和24)に出版された佐多稲子『私の東京地図』(筑摩書房版)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、戦後に起ち上げた婦人民主クラブ準備会の記念写真。後列右からふたりめに藤川栄子が、前列右から3人めに佐多稲子、4人めに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">宮本百合子</a>が写る。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1946年(昭和21)撮影の壺井栄と佐多稲子。う～～ん、壺井栄はやはり<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-01.html" target="_blank" rel="noopener">大仏さん</a>に見える。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1955年(昭和30)撮影の佐多稲子。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1957年(昭和32)に新宿区柏木4丁目971番地(現・北新宿3丁目)の自宅で撮影された佐多稲子。手もとには、愛飲の缶PEACEが見えている。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1961年(昭和36)4月に香川県の高松市立美術館で開かれた藤川勇造遺作展の会場で撮影された、高松と小豆島で同郷の藤川栄子と壺井栄。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1954年(昭和29)9月に藤川アトリエで撮影された藤川栄子と画家をめざす娘の曜子。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1921年(大正10)創業の現存する老舗の増田屋花店(現・フラワーショップ マスダ)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-14.html" target="_blank" rel="noopener">濱田煕</a>が、1995年(平成7)に描いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-18.html" target="_blank" rel="noopener">『昔の町並み』</a>から、藤川栄子と窪川稲子(佐多稲子)が住んでいた家の表通り(早稲田通り)に並ぶ商店街の様子で、1938年(昭和13)ごろを想定している。これらの商店街や藤川栄子のアトリエ、窪川稲子が住んだ家は空襲ですべて焼けている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7AAAAE5B79DE7A8B2E5AD90E8A1A8E9809AE3828A.jpg" alt="窪川稲子表通り.jpg" width="520" height="359" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E897A4E5B79DE6A084E5AD90E8A1A8E9809AE3828A.jpg" alt="藤川栄子表通り.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
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      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519779337.html</link>
      <title>鶴田吾郎と大久保作次郎の実用図画教授法。</title>
      <pubDate>Wed, 26 Aug 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　戦前、高等女学校で行われていた美術授業では、美育振興会による『女子実用図画』という教科書が使われていた。教科書なので、一般の図書館などには収蔵されていないが、教育関連の資料室や古書店ではときどき見かける赤い表紙の美術教本シリーズだ。　教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB1935E7BE8EE882B2E68CAFE88888E4BC9A.jpg" alt="&#x5973;&#x5B50;&#x5B9F;&#x7528;&#x56F3;&#x753B;1935&#x7F8E;&#x80B2;&#x632F;&#x8208;&#x4F1A;.jpg" width="520" height="390" border="0" />　戦前、高等女学校で行われていた美術授業では、美育振興会による『女子実用図画』という教科書が使われていた。教科書なので、一般の図書館などには収蔵されていないが、教育関連の資料室や古書店ではときどき見かける赤い表紙の美術教本シリーズだ。　教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術授業では女子と男子の教育内容が大きく異なっていた。もちろん、素描(デッサン)からはじまり「人物画」や「風景画」、「静物画」などの絵画の基本的実習を含むのは共通しているが、描く対象＝モチーフ選びも異なれば、グラフィックデザインやパターンデザインでは男女で大きく異なっている。　おしなべて、男子は科学的・技術的な図画を多く取り入れ、将来的な夢を描きやすい、また将来に就くであろう職業を想起させるような内容だったのに対し、女子の美術教育は家庭に入って主婦業にいそしむ、「良妻賢母」をイメージさせるコンテンツが多かった。中国や朝鮮半島の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank">儒教思想</a>を踏襲した、薩長政府由来の教部省(のち文部省)による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank">「女修身」</a>が、わずか80年ほど前までそのまま活きていたが、美術面においても家庭内を「豊か」にし「明るく」する、生活的で実用的なグラフィックやパターンなど裁縫・服飾のデザインが重視されている。　いつの時代の教科書にも、それを教えるにあたっての教科書にそのまま沿った、教師用の授業参考書＝“虎の巻”とでもいうべき本が用意されている。『女子実用図画』の教科書にも、同じ美育振興会が編集し1934年(昭和9)に出版された、『女子実用図画教授備考』(晩成処)という“虎の巻”が用意されていた。それだけなら、取り立ててめずらしいことではないのだけれど、この“虎の巻”には、落合地域やその周辺域にアトリエをかまえていた画家たちが、それぞれ図画の課題やテーマ別に、具体的な教授内容を執筆しているのがめずらしい。　たとえば、下落合(現・中落合／中井含む)西部にあたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518374786.html" target="_blank">アビラ村(芸術村)</a>にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-15.html" target="_blank">金山平三アトリエ</a>(アビラ村24号)の、西隣り(下落合2080番地)にアトリエをかまえるはずだった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-30.html" target="_blank">南薫三</a>をはじめ、下落合804番地に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank">夏目利政</a>に依頼してアトリエを建てて住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-02.html" target="_blank">鶴田吾郎</a>、目白通りの北側の下落合540番地にアトリエをかまえていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank">大久保作次郎</a>、上落合425番地に住んだ日本画家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2025-01-05.html" target="_blank">小泉勝爾</a>など、当時の文展・帝展画家を中心に同書は執筆されている。　そのほか、拙ブログにはときどき登場する画家として、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-06.html" target="_blank">山本鼎</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-17.html" target="_blank">伊原宇三郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-23.html" target="_blank">清水良雄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-12.html" target="_blank">中澤弘光</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518374786.html" target="_blank">結城素明</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank">山村耕花</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank">杉浦非水</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-01-26.html" target="_blank">小柴錦侍</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-30.html" target="_blank">白川一郎</a>など「教授」陣の名前がみえるが、帝国美術院(帝展)以外の美術団体に所属していた画家たちのネームがないのは、芸術といえども国家(文部省)が管理・採用する国定教科書だからだろう。　これら教授陣のなかから、きょうは下落合に住んでいた洋画家の鶴田吾郎と大久保作次郎のふたりの教授法を取りあげてみたい。鶴田吾郎は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-22.html" target="_blank">下落合623番地</a>に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank">アトリエ</a>を建てた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank">曾宮一念</a>とともに、1921年(大正10)から3年弱の間、画塾<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-30.html" target="_blank">「どんたくの会」</a>(第1次)を開いて近所の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-04-03.html" target="_blank">住民や学生たち</a>に教えていたし、大久保作次郎もまたアトリエで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-28.html" target="_blank">画塾</a>を開き、近所だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-21.html" target="_blank">牧野虎雄</a>らも巻きこみながら、大勢の生徒たちに教えていた。　まず、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-07.html" target="_blank">鶴田吾郎</a>は教科書『女子実用図画』に、富士登山口の吉田で飼われていた登山用馬を描いて掲載している。図画のテーマは「獣類画」だが、ウマやウシ、ヒツジ、イヌなど学校の近くで都合よく見つかるとは限らないから、家から連れてきたウサギやネコでもいいとしている。でも、ウサギやネコの場合は写生している間、ジッと動かずに黙って静止しているわけもないので、「針金製の籠にでも入れてモデルにするがよい」と注釈を入れている。それでもダメな場合は、いっそのこと「止むを得ず剥製標本にしてもよい」と書いているが、学校に都合よく動物の標本もない場合は、自分(鶴田吾郎)が制作した富士登山用の『馬』の画面を手本画にしてもよいとしている。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB3.jpg" alt="&#x5973;&#x5B50;&#x5B9F;&#x7528;&#x56F3;&#x753B;3.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE5ADA6E5AE9FE794A8E59BB3E794BB1935E7BE8EE882B2E68CAFE88888E4BC9A.jpg" alt="&#x4E2D;&#x5B66;&#x5B9F;&#x7528;&#x56F3;&#x753B;1935&#x7F8E;&#x80B2;&#x632F;&#x8208;&#x4F1A;.jpg" width="255" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB3E68989.jpg" alt="&#x5973;&#x5B50;&#x5B9F;&#x7528;&#x56F3;&#x753B;3&#x6249;.jpg" width="520" height="438" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BC8AE58E9FE5AE87E4B889E9838EE3808CE99D99E789A9E3808D.jpg" alt="&#x4F0A;&#x539F;&#x5B87;&#x4E09;&#x90CE;&#x300C;&#x9759;&#x7269;&#x300D;.jpg" width="520" height="365" border="0" />　「獣類を鉛筆にて正確に描く練習を行はしめる」という、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-17.html" target="_blank">鶴田吾郎</a>が引き受けた教授テーマには、写生に際しての注意点として、教師向けに次に挙げる5つの課題を記述している。　　▼　一、手本に就きその構図・表現を十分説明してこれが画趣を知らしむると共に、之れが鑑賞を行ひ、然る後臨画又は写生にとりかゝらしむべきである。／二、獣類の如きものは其の形の正不正は何人にも容易に看取出来るものであるから、各部の比例大さに就いては十分留意せしめなければならぬ。／三、常に大体を重んじて部分に捉はれず、要点を掴んで左程でもない部分は省略するやう心掛けしむべきである。／四、出来るだけ写実を重んじて、絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい。／五、背景や地面の如き部分は成る可く手を省いて、只馬を立体的に実在感を出す程度に止めしむるがよい。　　▲　さすが官展の画家らしく、あくまでもモチーフの写実を重視し、「絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい」などと書いているが、1935年(昭和10)前後の当時でさえ、他の美術集団の画家たちから見れば、自由に描ける「絵の面白さ」を子どもたちに教えないで、いったい美術のなんの魅力を授業で教えるんだよ？……と、批判を浴びそうな「注意点」だ。　一方、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-03.html" target="_blank">大久保作次郎</a>は、『女子実用図画教授備考』には二度登場しており、「本と本立」および「人形」の写生を担当している。ともに静物であり、生徒たちがデッサン力や色彩感覚を身につけるための授業用に書かれたものだろう。このうち、「本と本立との形の変化を知らしめ、鉛筆彩色画の練習を行はしめる」の教授法を見てみよう。　用意するのは本立てと書籍なのだが、大久保作次郎の指定する本がやたら細かくて具体的だ。本は、サイズの小さいものから大きいものへ順番に立てかけ、最後に本を1冊寄りかからせるとしている。これら本立てに並べる本は、手前から黄色い背表紙の『立志伝』、次は赤い背表紙の『和英新辞典』、3冊目は緑色の背表紙の『万葉集』とし、最後の斜めに寄りかからせる本は青色の本(おそらく辞書か何か)と規定している。このモチーフを、4Bのやわらかい鉛筆で正確に形や陰影をなぞり、鉛筆の線を消さないていどに水彩で淡い彩色をほどこすとしている。　また、描く絵のめざす方向性として、「全体に落ち着いた変化のある構図で、その表現はリアリスチツクで、しつかりとして派手で元気相な感じを与へる」ような作品が望ましいとしている。全体に落ち着いた構図や画面でありながら、派手で元気そうな感じを与える表現というのは、なかなか難しい教育要領だけれど、現場の美術教師たちも少なからず悩んだのではないだろうか。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838E1928.jpg" alt="&#x9DB4;&#x7530;&#x543E;&#x90CE;1928.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838E1932.jpg" alt="&#x5927;&#x4E45;&#x4FDD;&#x4F5C;&#x6B21;&#x90CE;1932.jpg" width="255" height="370" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838EE291A0.jpg" alt="&#x9DB4;&#x7530;&#x543E;&#x90CE;&#x2460;.jpg" width="520" height="362" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838EE291A1.jpg" alt="&#x9DB4;&#x7530;&#x543E;&#x90CE;&#x2461;.jpg" width="520" height="346" border="0" />　さて、実際の写生に関する留意点としては、先の本立てに並べたかなり具体的なモチーフ類の指示は、とりあえずどこかに棚あげされ、生徒が持参した適当な本を2冊を重ねて写生する、本立てが存在しない構図になっている。以下、『女子実用図画教授備考』から引用してみよう。　　▼　一、生徒各自に書籍を持参せしめてモデルとせしめる。／二、本は二冊位を適当に重ねて主体とし、若しそれだけで単調ならば鉛筆、ペン軸、洋紙切(洋バサミのこと)の類を配せしむるもよい。／三、本は紙面に大きく図取り、その形の透視を誤らないやうにせはめなければならぬ。殊に背文字或は表紙面にある模様文字の類は透視の関係を兎角失念して描き易いものである。／四、鉛筆にて十分正確丁寧に写生せしめ、彩色は単にその気持を現はすに止まる程度に施さしむるがよい。／五、机面及びバツクは強て描かしめず、図画に勝れた特殊の生徒或は早く描き上げた者などに簡単に色を使用せしめてもよい。(カッコ内引用者註)　　▲　文中に、「透視」というワードがいくつか出てくるが、これは美術における「透視図法」の意味で、立体物を平面に写す際の、視覚的な「遠近感」(パースペクティブ)を正確にということだ。なお、大久保作次郎が最初に細かく規定し例示したモチーフ「本と本立」は、「相当の技術と可成りの時間とを要する」ので、それを手本として描いてもよいとしている。　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-29.html" target="_blank">大久保作次郎</a>はデッサンに加え、同書では「人形」をモチーフにした水彩画も担当している。「女児が愛玩する人形を描かしめて、人形の顔面、頭髪、手足、着物などの水彩画による描写練習を行はしめる」としているが、女学校とはいえ校内には人形など置いてないのが通常なので、女生徒たちに自宅から持ってくるよう指導している。　その場合、日本人形と西洋人形のどちらでもよいとしているが、複雑な細工や作りの人形、あるいは凝った衣装を着た人形を持参した場合を考慮してか、「余り細かい部分に拘泥して全体の色調を誤らないやうに」と注意書きを添えている。だが、なかには人形などキライな女生徒もいたと思われるので、その場合はクラスメイトが持参した人形を仲よくいっしょに描いたものだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A0.jpg" alt="&#x5927;&#x4E45;&#x4FDD;&#x4F5C;&#x6B21;&#x90CE;&#x2460;.jpg" width="520" height="349" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A1.jpg" alt="&#x5927;&#x4E45;&#x4FDD;&#x4F5C;&#x6B21;&#x90CE;&#x2461;.jpg" width="520" height="360" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A2.jpg" alt="&#x5927;&#x4E45;&#x4FDD;&#x4F5C;&#x6B21;&#x90CE;&#x2462;.jpg" width="520" height="371" border="0" />　けれども、女学校の生徒たちが人形で遊んでいた時期は、おそらく10年ほど前のことなので、自宅から持参する人形はかなりボロボロでくたびれていただろう。中には女子たちの念がこもりすぎて、夜になると廊下を走りまわるとか、目が動いて首の角度が変わるとか、見るからに気味の悪い、いわく付きの人形を持ってきてしまった場合を考慮してか、それをいかにも写実的に描いてしまうとあとで怪異が起こりそうなので、注釈に「生徒の嗜好技術の如何によつては甚しい陰影を施さない」と、人形の状況によってはリアルに描かず簡易で平面的に描いてもよいとしている。w
◆写真上：1935年(昭和10)出版の『女子実用図画』(美育振興会)で、学年ごとに用いる教科書が異なっていたのか第1巻から第4巻までの分冊構成となっている。◆写真中上：上は、『女子実用図画』第3巻の表紙(左)と、同じく1935年(昭和10)に刊行された男子用の教科書『中学実用図画』(美育振興会／右)。中は、『女子実用図画』第3巻の中扉。下は、同教科書に掲載されている伊原宇三郎の『静物』作品例。◆写真中下：上は、1928年(昭和3)撮影の鶴田吾郎(左)と、1932年(昭和7)撮影の大久保作次郎(右)。中・下は、鶴田吾郎による獣類写生の「牛」と「兎」の作画例。◆写真下：上・中は、大久保作次郎による「本と本立」作画例。下は、同じく「人形」作画例。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE381AFE3818CE3818DE8A1A8.jpg" alt="&#x6709;&#x5CA1;&#x4E00;&#x90CE;&#x306F;&#x304C;&#x304D;&#x8868;.jpg" width="520" height="338" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE381AFE3818CE3818DE8A38F.jpg" alt="&#x6709;&#x5CA1;&#x4E00;&#x90CE;&#x306F;&#x304C;&#x304D;&#x88CF;.jpg" width="520" height="336" border="0" /><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB1935E7BE8EE882B2E68CAFE88888E4BC9A.jpg" alt="女子実用図画1935美育振興会.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　戦前、高等女学校で行われていた美術授業では、美育振興会による『女子実用図画』という教科書が使われていた。教科書なので、一般の図書館などには収蔵されていないが、教育関連の資料室や古書店ではときどき見かける赤い表紙の美術教本シリーズだ。<br />　教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術授業では女子と男子の教育内容が大きく異なっていた。もちろん、素描(デッサン)からはじまり「人物画」や「風景画」、「静物画」などの絵画の基本的実習を含むのは共通しているが、描く対象＝モチーフ選びも異なれば、グラフィックデザインやパターンデザインでは男女で大きく異なっている。<br />　おしなべて、男子は科学的・技術的な図画を多く取り入れ、将来的な夢を描きやすい、また将来に就くであろう職業を想起させるような内容だったのに対し、女子の美術教育は家庭に入って主婦業にいそしむ、「良妻賢母」をイメージさせるコンテンツが多かった。中国や朝鮮半島の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-24.html" target="_blank" rel="noopener">儒教思想</a>を踏襲した、薩長政府由来の教部省(のち文部省)による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">「女修身」</a>が、わずか80年ほど前までそのまま活きていたが、美術面においても家庭内を「豊か」にし「明るく」する、生活的で実用的なグラフィックやパターンなど裁縫・服飾のデザインが重視されている。<br />　いつの時代の教科書にも、それを教えるにあたっての教科書にそのまま沿った、教師用の授業参考書＝“虎の巻”とでもいうべき本が用意されている。『女子実用図画』の教科書にも、同じ美育振興会が編集し1934年(昭和9)に出版された、『女子実用図画教授備考』(晩成処)という“虎の巻”が用意されていた。それだけなら、取り立ててめずらしいことではないのだけれど、この“虎の巻”には、落合地域やその周辺域にアトリエをかまえていた画家たちが、それぞれ図画の課題やテーマ別に、具体的な教授内容を執筆しているのがめずらしい。<br />　たとえば、下落合(現・中落合／中井含む)西部にあたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518374786.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村(芸術村)</a>にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三アトリエ</a>(アビラ村24号)の、西隣り(下落合2080番地)にアトリエをかまえるはずだった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-30.html" target="_blank" rel="noopener">南薫三</a>をはじめ、下落合804番地に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank" rel="noopener">夏目利政</a>に依頼してアトリエを建てて住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">鶴田吾郎</a>、目白通りの北側の下落合540番地にアトリエをかまえていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>、上落合425番地に住んだ日本画家の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2025-01-05.html" target="_blank" rel="noopener">小泉勝爾</a>など、当時の文展・帝展画家を中心に同書は執筆されている。<br />　そのほか、拙ブログにはときどき登場する画家として、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-06.html" target="_blank" rel="noopener">山本鼎</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-17.html" target="_blank" rel="noopener">伊原宇三郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-23.html" target="_blank" rel="noopener">清水良雄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">中澤弘光</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518374786.html" target="_blank" rel="noopener">結城素明</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-25.html" target="_blank" rel="noopener">山村耕花</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank" rel="noopener">杉浦非水</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">小柴錦侍</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-30.html" target="_blank" rel="noopener">白川一郎</a>など「教授」陣の名前がみえるが、帝国美術院(帝展)以外の美術団体に所属していた画家たちのネームがないのは、芸術といえども国家(文部省)が管理・採用する国定教科書だからだろう。<br />　これら教授陣のなかから、きょうは下落合に住んでいた洋画家の鶴田吾郎と大久保作次郎のふたりの教授法を取りあげてみたい。鶴田吾郎は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-22.html" target="_blank" rel="noopener">下落合623番地</a>に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ</a>を建てた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>とともに、1921年(大正10)から3年弱の間、画塾<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-30.html" target="_blank" rel="noopener">「どんたくの会」</a>(第1次)を開いて近所の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-04-03.html" target="_blank" rel="noopener">住民や学生たち</a>に教えていたし、大久保作次郎もまたアトリエで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-28.html" target="_blank" rel="noopener">画塾</a>を開き、近所だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-21.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄</a>らも巻きこみながら、大勢の生徒たちに教えていた。<br />　まず、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-07.html" target="_blank" rel="noopener">鶴田吾郎</a>は教科書『女子実用図画』に、富士登山口の吉田で飼われていた登山用馬を描いて掲載している。図画のテーマは「獣類画」だが、ウマやウシ、ヒツジ、イヌなど学校の近くで都合よく見つかるとは限らないから、家から連れてきたウサギやネコでもいいとしている。でも、ウサギやネコの場合は写生している間、ジッと動かずに黙って静止しているわけもないので、「針金製の籠にでも入れてモデルにするがよい」と注釈を入れている。それでもダメな場合は、いっそのこと「止むを得ず剥製標本にしてもよい」と書いているが、学校に都合よく動物の標本もない場合は、自分(鶴田吾郎)が制作した富士登山用の『馬』の画面を手本画にしてもよいとしている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB3.jpg" alt="女子実用図画3.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE5ADA6E5AE9FE794A8E59BB3E794BB1935E7BE8EE882B2E68CAFE88888E4BC9A.jpg" alt="中学実用図画1935美育振興会.jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E5AD90E5AE9FE794A8E59BB3E794BB3E68989.jpg" alt="女子実用図画3扉.jpg" width="520" height="438" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BC8AE58E9FE5AE87E4B889E9838EE3808CE99D99E789A9E3808D.jpg" alt="伊原宇三郎「静物」.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div>　「獣類を鉛筆にて正確に描く練習を行はしめる」という、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-17.html" target="_blank" rel="noopener">鶴田吾郎</a>が引き受けた教授テーマには、写生に際しての注意点として、教師向けに次に挙げる5つの課題を記述している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;"><strong>一、</strong></span>手本に就きその構図・表現を十分説明してこれが画趣を知らしむると共に、之れが鑑賞を行ひ、然る後臨画又は写生にとりかゝらしむべきである。／<span style="color: #333399;"><strong>二、</strong></span>獣類の如きものは其の形の正不正は何人にも容易に看取出来るものであるから、各部の比例大さに就いては十分留意せしめなければならぬ。／<strong><span style="color: #333399;">三、</span></strong>常に大体を重んじて部分に捉はれず、要点を掴んで左程でもない部分は省略するやう心掛けしむべきである。／<span style="color: #333399;"><strong>四、</strong></span>出来るだけ写実を重んじて、絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい。／<strong><span style="color: #333399;">五、</span></strong>背景や地面の如き部分は成る可く手を省いて、只馬を立体的に実在感を出す程度に止めしむるがよい。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　さすが官展の画家らしく、あくまでもモチーフの写実を重視し、「絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい」などと書いているが、1935年(昭和10)前後の当時でさえ、他の美術集団の画家たちから見れば、自由に描ける「絵の面白さ」を子どもたちに教えないで、いったい美術のなんの魅力を授業で教えるんだよ？……と、批判を浴びそうな「注意点」だ。<br />　一方、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-03.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>は、『女子実用図画教授備考』には二度登場しており、「本と本立」および「人形」の写生を担当している。ともに静物であり、生徒たちがデッサン力や色彩感覚を身につけるための授業用に書かれたものだろう。このうち、「本と本立との形の変化を知らしめ、鉛筆彩色画の練習を行はしめる」の教授法を見てみよう。<br />　用意するのは本立てと書籍なのだが、大久保作次郎の指定する本がやたら細かくて具体的だ。本は、サイズの小さいものから大きいものへ順番に立てかけ、最後に本を1冊寄りかからせるとしている。これら本立てに並べる本は、手前から黄色い背表紙の『立志伝』、次は赤い背表紙の『和英新辞典』、3冊目は緑色の背表紙の『万葉集』とし、最後の斜めに寄りかからせる本は青色の本(おそらく辞書か何か)と規定している。このモチーフを、4Bのやわらかい鉛筆で正確に形や陰影をなぞり、鉛筆の線を消さないていどに水彩で淡い彩色をほどこすとしている。<br />　また、描く絵のめざす方向性として、「全体に落ち着いた変化のある構図で、その表現はリアリスチツクで、しつかりとして派手で元気相な感じを与へる」ような作品が望ましいとしている。全体に落ち着いた構図や画面でありながら、派手で元気そうな感じを与える表現というのは、なかなか難しい教育要領だけれど、現場の美術教師たちも少なからず悩んだのではないだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838E1928.jpg" alt="鶴田吾郎1928.jpg" width="255" height="370" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838E1932.jpg" alt="大久保作次郎1932.jpg" width="255" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838EE291A0.jpg" alt="鶴田吾郎①.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E794B0E590BEE9838EE291A1.jpg" alt="鶴田吾郎②.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div>　さて、実際の写生に関する留意点としては、先の本立てに並べたかなり具体的なモチーフ類の指示は、とりあえずどこかに棚あげされ、生徒が持参した適当な本を2冊を重ねて写生する、本立てが存在しない構図になっている。以下、『女子実用図画教授備考』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;"><strong>一、</strong></span>生徒各自に書籍を持参せしめてモデルとせしめる。／<strong><span style="color: #333399;">二、</span></strong>本は二冊位を適当に重ねて主体とし、若しそれだけで単調ならば鉛筆、ペン軸、洋紙切(洋バサミのこと)の類を配せしむるもよい。／<span style="color: #333399;"><strong>三、</strong></span>本は紙面に大きく図取り、その形の透視を誤らないやうにせはめなければならぬ。殊に背文字或は表紙面にある模様文字の類は透視の関係を兎角失念して描き易いものである。／<strong><span style="color: #333399;">四、</span></strong>鉛筆にて十分正確丁寧に写生せしめ、彩色は単にその気持を現はすに止まる程度に施さしむるがよい。／<span style="color: #333399;"><strong>五、</strong></span>机面及びバツクは強て描かしめず、図画に勝れた特殊の生徒或は早く描き上げた者などに簡単に色を使用せしめてもよい。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　文中に、「透視」というワードがいくつか出てくるが、これは美術における「透視図法」の意味で、立体物を平面に写す際の、視覚的な「遠近感」(パースペクティブ)を正確にということだ。なお、大久保作次郎が最初に細かく規定し例示したモチーフ「本と本立」は、「相当の技術と可成りの時間とを要する」ので、それを手本として描いてもよいとしている。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-29.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>はデッサンに加え、同書では「人形」をモチーフにした水彩画も担当している。「女児が愛玩する人形を描かしめて、人形の顔面、頭髪、手足、着物などの水彩画による描写練習を行はしめる」としているが、女学校とはいえ校内には人形など置いてないのが通常なので、女生徒たちに自宅から持ってくるよう指導している。<br />　その場合、日本人形と西洋人形のどちらでもよいとしているが、複雑な細工や作りの人形、あるいは凝った衣装を着た人形を持参した場合を考慮してか、「余り細かい部分に拘泥して全体の色調を誤らないやうに」と注意書きを添えている。だが、なかには人形などキライな女生徒もいたと思われるので、その場合はクラスメイトが持参した人形を仲よくいっしょに描いたものだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A0.jpg" alt="大久保作次郎①.jpg" width="520" height="349" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A1.jpg" alt="大久保作次郎②.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE291A2.jpg" alt="大久保作次郎③.jpg" width="520" height="371" border="0" /></div><div>　けれども、女学校の生徒たちが人形で遊んでいた時期は、おそらく10年ほど前のことなので、自宅から持参する人形はかなりボロボロでくたびれていただろう。中には女子たちの念がこもりすぎて、夜になると廊下を走りまわるとか、目が動いて首の角度が変わるとか、見るからに気味の悪い、いわく付きの人形を持ってきてしまった場合を考慮してか、それをいかにも写実的に描いてしまうとあとで怪異が起こりそうなので、注釈に「生徒の嗜好技術の如何によつては甚しい陰影を施さない」と、人形の状況によってはリアルに描かず簡易で平面的に描いてもよいとしている。w</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1935年(昭和10)出版の『女子実用図画』(美育振興会)で、学年ごとに用いる教科書が異なっていたのか第1巻から第4巻までの分冊構成となっている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、『女子実用図画』第3巻の表紙(左)と、同じく1935年(昭和10)に刊行された男子用の教科書『中学実用図画』(美育振興会／右)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、『女子実用図画』第3巻の中扉。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同教科書に掲載されている伊原宇三郎の『静物』作品例。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1928年(昭和3)撮影の鶴田吾郎(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1932年(昭和7)撮影の大久保作次郎(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、鶴田吾郎による獣類写生の「牛」と「兎」の作画例。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>・<span style="color: #3366ff;">中</span>は、大久保作次郎による「本と本立」作画例。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同じく「人形」作画例。<br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE381AFE3818CE3818DE8A1A8.jpg" alt="有岡一郎はがき表.jpg" width="520" height="338" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE381AFE3818CE3818DE8A38F.jpg" alt="有岡一郎はがき裏.jpg" width="520" height="336" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になる下落合</category>
      <author>落合道人</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521376689.html</link>
      <title>良質な氷を提供する氷室(ひむろ)ニーズの高まり。</title>
      <pubDate>Sun, 23 Aug 2026 00:00:00 +0900</pubDate>
            <description>　落合地域は、目白崖線沿いに入りこむ谷戸地形のバッケ(崖地)から湧く泉や、関東ローム下を流れる地下水の水質が優れていたせいか、大正期から製氷工場や製氷工房が多く、また季節を問わず氷を販売する氷屋(氷室)があちこちに開店していた。拙ブログでは、豊菱製氷会社や山手製氷会社などいくつかの大規模工場をご紹介しているが、隣接する高田地域(現・目白地域)にも、1925年(大正14)現在で飲食の氷店(冷蔵・冷房用の業務氷は除く)だけで5店舗が開業していた。氷のニーズを考えれば、飲食以外の氷..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3818BE3818DE6B0B7.jpg" alt="&#x304B;&#x304D;&#x6C37;.jpg" width="600" height="463" border="0" />　落合地域は、目白崖線沿いに入りこむ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-06.html" target="_blank">谷戸</a>地形の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520450964.html" target="_blank">バッケ(崖地)</a>から湧く泉や、関東ローム下を流れる地下水の水質が優れていたせいか、大正期から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-28.html" target="_blank">製氷工場</a>や製氷工房が多く、また季節を問わず氷を販売する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-01.html" target="_blank">氷屋(氷室)</a>があちこちに開店していた。拙ブログでは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-23.html" target="_blank">豊菱製氷会社</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-13.html" target="_blank">山手製氷会社</a>などいくつかの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-26.html" target="_blank">大規模工場</a>をご紹介しているが、隣接する高田地域(現・目白地域)にも、1925年(大正14)現在で飲食の氷店(冷蔵・冷房用の業務氷は除く)だけで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-18.html" target="_blank">5店舗</a>が開業していた。氷のニーズを考えれば、飲食以外の氷店(肉・魚屋など生鮮品の冷蔵用や室内の冷房用の氷柱など)のほうが、むしろ戦前までは需要が多かったのではないかと思われる。　昭和期に入ると、生鮮食品を保存する冷蔵庫に用いる氷や、冷房用の氷柱などの需要はピークを迎える。電気冷蔵庫はいまだ高価であり、ブロック氷を用いた冷蔵庫が急速に普及していったからだ。そこで用いられた氷は、製氷工場や製氷工房で製造された人造氷を、おもに街中にあった小売の氷屋(氷室)が一般に販売していた。もちろん店頭販売ではなく、契約した家庭や店舗に氷を定期的に(夏季の家庭には通常朝夕の2回)配達するのが業務の中心だった。　戦前は、氷を莚(むしろ)でくるみ、家庭の前で契約しているサイズにノコギリで切ってから配達していた。戦後は、小型トラック仕様の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520800871.html" target="_blank">ミゼット</a>などに氷の塊を積んで配達しており、子どものころは夏場など魚屋の前でノコギリを使う氷屋をよく見かけていた。現在は冷凍車で運ぶのがあたりまえになり、冷凍車両から店舗やホテルなどの冷凍庫へと直接納品しているのだろう。戦後、氷を入れる仕様の冷蔵庫が急減し、氷店(氷室)の存在が危うくなったけれど、飲食店やホテル、セレモニーホールなどでの需要が増えたため、現在では勢いを取りもどしつつあるらしい。かき氷ブームも、追い風となっているのだろう。また戦前とは異なり、氷室(ひむろ)では氷のほかにドライアイスを扱う店舗が増え、食材の宅配などでも需要が増えているようだ。　以前の記事で、目白2丁目の明治通り沿いにある同志舎外口製氷所本店(外口氷室＝地元の通称は「雑司ヶ谷の外口さん」)をご紹介していたが、2018年(平成30)に豊島区立郷土資料館から発行された研究紀要「生活と文化」28号には、同氷室のレポートが証言類も含めてより詳しく掲載されている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された「町工場の履歴書」展図録によれば、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520549487.html" target="_blank">近衛邸</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank">相馬邸</a>、高田町(のち目白町)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-27.html" target="_blank">戸田邸</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-29.html" target="_blank">尾張徳川邸</a>などへ、いつも多量の氷をとどけていたあの同志舎製氷所の氷室(ひむろ)だ。それらの氷は、冷蔵庫や冷房用の氷柱に使われたり、飲食の際に用いられたのだろう。　「生活と文化」28号によれば、大正期から昭和初期にかけ氷冷蔵庫を備えた家は、「おカネ持ち」のイメージがあったという。わたしの子どものころは高度経済成長期で、電気冷蔵庫ではなく戦前からの氷冷蔵庫のままの家は、「三種の神器」まであと一歩というような感覚だった。氷冷蔵庫が残っていたお宅は、電気冷蔵庫が買えないというよりも、ほかに欲しい家電やクルマなどを優先させたお宅で、電気冷蔵庫があとまわしになっているという印象だった。氷冷蔵庫の外箱は木製で、内部は冷温が保たれるよう、一面にブリキの貼られている製品が多かった。　当時は、少しでも新鮮な食材を手に入れるため、「主婦」が毎夕買い物に出かけるのが食生活の習慣となっており、自宅にあるのが氷冷蔵庫だろうが電気冷蔵庫だろうが、あまり不便さを感じなかったせいもあるのだろう。でも、大正期から昭和初期にかけ、電気冷蔵庫を備えていたお宅は超「おカネ持ち」か、どうしても仕事の設備として投資しなければならない対象だったのだろう。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E586B7E894B5E5BAAB.jpg" alt="&#x6C37;&#x51B7;&#x8535;&#x5EAB;.jpg" width="520" height="621" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE383B3E382B6E383ADE38383E382AF.jpg" alt="&#x30AA;&#x30F3;&#x30B6;&#x30ED;&#x30C3;&#x30AF;.jpg" width="520" height="380" border="0" />　氷冷蔵庫は、ご存じの方も多いと思うが、上段に大きな氷塊を収納するボックスがあり、下段のより大きなボックスへ傷みやすい食材を入れて保存していた。冷気は下段へと下がるので、その冷たい空気でさまざまな食品を冷やしていたわけだ。厳密にいえば、生鮮食品を長く保存するための「冷蔵」ではなく、できるだけ腐敗を遅らせる短時間の一時的「冷蔵」にすぎなかった。電気冷蔵庫のように、電気代を気にする必要はなかったが、夏場は上段ボックスへ朝夕の二度の氷の入れ替えがあり、氷代の出費がけっこうたいへんだったろう。その氷塊を、毎日欠かさずに家庭へとどけていたのが、外口氷室のような街の氷屋さんだった。　「生活と文化」28号収録の、三村宜敬「豊島区の氷販売業忘備録」より引用してみよう。　　▼　それまでは、(外口)万吉さんがリヤカーに載せた百三十六キロの氷三本を(外口)文祥さんら兄妹が押して販売を手伝っていたという。最盛期は、午前と午後の二回リヤカーで顧客のもとに販売していた。／顧客には氷券を購入してもらい、買った家には氷を販売していた。文祥さん曰く「氷屋はどの家でも裏から入れた」というから、配達のスピードが肝心だった事がわかる。特に氷券は四月頃から売って歩く、(ママ：。)　気温が上がるに従って需要が増加していくためである。しかし、昭和三十六年頃から電気冷蔵庫の普及や製氷機が販売されてきたことから、顧客から「電気にしちゃった」といって注文を受けられないことが増えてきた。(カッコ内引用者註)　　▲　かつて、豊島区の全体では40軒以上の氷屋があったが、現在はたった4軒に減ってしまったという。その原因は、上記のように1960年代から急速に普及しはじめた電気冷蔵庫のせいだが、それでも氷の需要はなくならなかった。現在は、天然水や良質な水で造った丸氷や角氷、打(ぶ)っかき氷、ドライアイスなどの販売がメインだという。特に昨今のかき氷(フラッペ)ブームは、街中の氷室にとっては需要の追い風となっているのだろう。また、生協をはじめ増えつづける宅配の食材・食品・調理品の団体・企業では、ドライアイスの需要が伸びていそうなのは想像にかたくない。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38396E383ADE38383E382AFE6B0B7.jpg" alt="&#x30D6;&#x30ED;&#x30C3;&#x30AF;&#x6C37;.jpg" width="520" height="355" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5908CE5BF97E4BC9AE5A496E58FA3E6B0B7E5AEA4.jpg" alt="&#x540C;&#x5FD7;&#x4F1A;&#x5916;&#x53E3;&#x6C37;&#x5BA4;.jpg" width="520" height="362" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A496E58FA3E6B0B7E5AEA41947.jpg" alt="&#x5916;&#x53E3;&#x6C37;&#x5BA4;1947.jpg" width="520" height="465" border="0" />　外口氷室の先代となる女将は、埼玉県の飯能で生まれて育ち、1939年(昭和14)6月1日に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518390342.html" target="_blank">武蔵野鉄道</a>(現・西武池袋線)に乗って、東京市内の雑司ヶ谷の外山氷室まで嫁いできた。その当時、彼女は花嫁衣裳のまま武蔵野鉄道に揺られてきたという。夫を早くに亡くした彼女は、戦後、息子夫婦とともに氷室を守りつづけてきた。結婚記念日である6月1日は、現在では「氷の日」となっており、よほど氷に縁のある人生だったのだろう。　外口氷室は、1945年(昭和20)5月25日夜半の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520909839.html" target="_blank">第2次山手空襲</a>で全焼している。同店の証言によれば、「大正製薬のところに飛行機が落ち」て、延焼が目白2丁目まで徐々に拡がってきたためだという。より正確にいうなら、B29が日本の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-11-09.html" target="_blank">戦闘機</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-11.html" target="_blank">体当たり攻撃</a>で撃墜されたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-08.html" target="_blank">大正製薬</a>の道路をはさんだ北隣りの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-27.html" target="_blank">国産電機</a>で、拙ブログにも何度か登場いただいた下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-20.html" target="_blank">松尾徳三様</a>が、勤労動員で勤務する航空機用のマグネット工場だった。　外口氷室は、空襲で店舗が全焼したにもかかわらず、戦後すぐに営業を再開できている。空襲をまぬがれた住宅地からは、氷のニーズが多かったという。同紀要より、つづけて引用してみよう。　　▼　一年の疎開の後に現在の目白の地に戻った際には、空襲にあっていなかった鬼子母神周辺の地域の住民から氷の需要があったことと、要町の製氷工場が空襲の被害にあっていなかったために、すぐに氷屋を再開することができたのである。当初は畳一畳分の冷蔵庫を作り製氷所から馬が引く荷車で氷を運んでもらった。バラックの店舗の裏には畑を作り、氷の配達の帰りに用意していた木箱に道に落ちている馬糞を拾い、肥料としていたという。肥料が良いためか、たくさんの野菜ができて近所の人にも大変喜ばれたという。／戦後は、駅のキヨスクの売店、西武デパート、東京丸物(現PARCO)、三越などへ氷を配達していた。　　▲　戦後すぐ1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、確かに雑司ヶ谷にある鬼子母神(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank">きしもじん</a>)の周辺は空襲の被害を受けておらず、南西側の住宅街からは氷の注文が多かったのだろう。空襲で焼けだされたあと、「一年の疎開」先は親戚が住んでいた千葉県の幕張だったそうだ。<img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E382A4E382B9E3839CE383BCE383AB.jpg" alt="&#x30A2;&#x30A4;&#x30B9;&#x30DC;&#x30FC;&#x30EB;.jpg" width="520" height="366" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E382A2E383BCE38388.jpg" alt="&#x6C37;&#x30A2;&#x30FC;&#x30C8;.jpg" width="520" height="390" border="0" /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E58CBAE7A094E7A9B6E7B480E8A681E3808CE7949FE6B4BBE381A8E69687E58C96E3808D28E58FB72018.jpg" alt="&#x8C4A;&#x5CF6;&#x533A;&#x7814;&#x7A76;&#x7D00;&#x8981;&#x300C;&#x751F;&#x6D3B;&#x3068;&#x6587;&#x5316;&#x300D;28&#x53F7;2018.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A68FE5B3B6E5B18B28E5B7A3E9B4A829.jpg" alt="&#x798F;&#x5CF6;&#x5C4B;(&#x5DE3;&#x9D28;).jpg" width="255" height="360" border="0" />　かつて、豊島区に40軒以上もの氷屋があったころは競合が激しく、顧客をめぐって熾烈な値引き競争も行われていたようだが、現在は同業者が結束して<a href="https://tokyo-ice-academy.com/" target="_blank">東京アイスアカデミー</a>の研究会を設立し、ブランド氷「氷屋純氷」を起ち上げて共存共栄の環境を構築している。特に、消費者の品質がいい氷へのニーズは高く、店舗や家庭を問わず「純氷」によるかき氷人気はウナギのぼりのようだ。
◆写真上：近年の都内では、天然水や良質な水による空前のかき氷ブームとなっている。◆写真中上：上は、わたしの子どものころには現役で見かけた氷冷蔵庫。下は、レストランやバーなど飲食業には欠かせないアイスピックでつくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank">打(ぶ)っかき氷</a>。◆写真中下：上は、氷屋さんではデフォルトの角氷。中は、目白2丁目で営業をつづける外口氷室。下は、敗戦直後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる雑司ヶ谷界隈。◆写真下：上は、人気のアイスボールでウィスキーなどのオンザロックには最適だ。中は、結婚披露宴やイベント会場などで見かける氷アート。下左は、2018年(平成30)発行の研究紀要「生活と文化」(豊島区立郷土資料館)。下右は、1861年(文久元)の江戸期に創業の巣鴨「福島屋」のかき氷。<a></a>

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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3818BE3818DE6B0B7.jpg" alt="かき氷.jpg" width="600" height="463" border="0" /></div><div>　落合地域は、目白崖線沿いに入りこむ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-06.html" target="_blank" rel="noopener">谷戸</a>地形の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520450964.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ(崖地)</a>から湧く泉や、関東ローム下を流れる地下水の水質が優れていたせいか、大正期から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-28.html" target="_blank" rel="noopener">製氷工場</a>や製氷工房が多く、また季節を問わず氷を販売する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-01.html" target="_blank" rel="noopener">氷屋(氷室)</a>があちこちに開店していた。拙ブログでは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-23.html" target="_blank" rel="noopener">豊菱製氷会社</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">山手製氷会社</a>などいくつかの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-26.html" target="_blank" rel="noopener">大規模工場</a>をご紹介しているが、隣接する高田地域(現・目白地域)にも、1925年(大正14)現在で飲食の氷店(冷蔵・冷房用の業務氷は除く)だけで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-18.html" target="_blank" rel="noopener">5店舗</a>が開業していた。氷のニーズを考えれば、飲食以外の氷店(肉・魚屋など生鮮品の冷蔵用や室内の冷房用の氷柱など)のほうが、むしろ戦前までは需要が多かったのではないかと思われる。<br />　昭和期に入ると、生鮮食品を保存する冷蔵庫に用いる氷や、冷房用の氷柱などの需要はピークを迎える。電気冷蔵庫はいまだ高価であり、ブロック氷を用いた冷蔵庫が急速に普及していったからだ。そこで用いられた氷は、製氷工場や製氷工房で製造された人造氷を、おもに街中にあった小売の氷屋(氷室)が一般に販売していた。もちろん店頭販売ではなく、契約した家庭や店舗に氷を定期的に(夏季の家庭には通常朝夕の2回)配達するのが業務の中心だった。<br />　戦前は、氷を莚(むしろ)でくるみ、家庭の前で契約しているサイズにノコギリで切ってから配達していた。戦後は、小型トラック仕様の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520800871.html" target="_blank" rel="noopener">ミゼット</a>などに氷の塊を積んで配達しており、子どものころは夏場など魚屋の前でノコギリを使う氷屋をよく見かけていた。現在は冷凍車で運ぶのがあたりまえになり、冷凍車両から店舗やホテルなどの冷凍庫へと直接納品しているのだろう。戦後、氷を入れる仕様の冷蔵庫が急減し、氷店(氷室)の存在が危うくなったけれど、飲食店やホテル、セレモニーホールなどでの需要が増えたため、現在では勢いを取りもどしつつあるらしい。かき氷ブームも、追い風となっているのだろう。また戦前とは異なり、氷室(ひむろ)では氷のほかにドライアイスを扱う店舗が増え、食材の宅配などでも需要が増えているようだ。<br />　以前の記事で、目白2丁目の明治通り沿いにある同志舎外口製氷所本店(外口氷室＝地元の通称は「雑司ヶ谷の外口さん」)をご紹介していたが、2018年(平成30)に豊島区立郷土資料館から発行された研究紀要「生活と文化」28号には、同氷室のレポートが証言類も含めてより詳しく掲載されている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された「町工場の履歴書」展図録によれば、下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520549487.html" target="_blank" rel="noopener">近衛邸</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">相馬邸</a>、高田町(のち目白町)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-27.html" target="_blank" rel="noopener">戸田邸</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">尾張徳川邸</a>などへ、いつも多量の氷をとどけていたあの同志舎製氷所の氷室(ひむろ)だ。それらの氷は、冷蔵庫や冷房用の氷柱に使われたり、飲食の際に用いられたのだろう。<br />　「生活と文化」28号によれば、大正期から昭和初期にかけ氷冷蔵庫を備えた家は、「おカネ持ち」のイメージがあったという。わたしの子どものころは高度経済成長期で、電気冷蔵庫ではなく戦前からの氷冷蔵庫のままの家は、「三種の神器」まであと一歩というような感覚だった。氷冷蔵庫が残っていたお宅は、電気冷蔵庫が買えないというよりも、ほかに欲しい家電やクルマなどを優先させたお宅で、電気冷蔵庫があとまわしになっているという印象だった。氷冷蔵庫の外箱は木製で、内部は冷温が保たれるよう、一面にブリキの貼られている製品が多かった。<br />　当時は、少しでも新鮮な食材を手に入れるため、「主婦」が毎夕買い物に出かけるのが食生活の習慣となっており、自宅にあるのが氷冷蔵庫だろうが電気冷蔵庫だろうが、あまり不便さを感じなかったせいもあるのだろう。でも、大正期から昭和初期にかけ、電気冷蔵庫を備えていたお宅は超「おカネ持ち」か、どうしても仕事の設備として投資しなければならない対象だったのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E586B7E894B5E5BAAB.jpg" alt="氷冷蔵庫.jpg" width="520" height="621" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382AAE383B3E382B6E383ADE38383E382AF.jpg" alt="オンザロック.jpg" width="520" height="380" border="0" /></div><div>　氷冷蔵庫は、ご存じの方も多いと思うが、上段に大きな氷塊を収納するボックスがあり、下段のより大きなボックスへ傷みやすい食材を入れて保存していた。冷気は下段へと下がるので、その冷たい空気でさまざまな食品を冷やしていたわけだ。厳密にいえば、生鮮食品を長く保存するための「冷蔵」ではなく、できるだけ腐敗を遅らせる短時間の一時的「冷蔵」にすぎなかった。電気冷蔵庫のように、電気代を気にする必要はなかったが、夏場は上段ボックスへ朝夕の二度の氷の入れ替えがあり、氷代の出費がけっこうたいへんだったろう。その氷塊を、毎日欠かさずに家庭へとどけていたのが、外口氷室のような街の氷屋さんだった。<br />　「生活と文化」28号収録の、三村宜敬「豊島区の氷販売業忘備録」より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　それまでは、(外口)万吉さんがリヤカーに載せた百三十六キロの氷三本を(外口)文祥さんら兄妹が押して販売を手伝っていたという。最盛期は、午前と午後の二回リヤカーで顧客のもとに販売していた。／顧客には氷券を購入してもらい、買った家には氷を販売していた。文祥さん曰く「氷屋はどの家でも裏から入れた」というから、配達のスピードが肝心だった事がわかる。特に氷券は四月頃から売って歩く、(ママ：。)　気温が上がるに従って需要が増加していくためである。しかし、昭和三十六年頃から電気冷蔵庫の普及や製氷機が販売されてきたことから、顧客から「電気にしちゃった」といって注文を受けられないことが増えてきた。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　かつて、豊島区の全体では40軒以上の氷屋があったが、現在はたった4軒に減ってしまったという。その原因は、上記のように1960年代から急速に普及しはじめた電気冷蔵庫のせいだが、それでも氷の需要はなくならなかった。現在は、天然水や良質な水で造った丸氷や角氷、打(ぶ)っかき氷、ドライアイスなどの販売がメインだという。特に昨今のかき氷(フラッペ)ブームは、街中の氷室にとっては需要の追い風となっているのだろう。また、生協をはじめ増えつづける宅配の食材・食品・調理品の団体・企業では、ドライアイスの需要が伸びていそうなのは想像にかたくない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38396E383ADE38383E382AFE6B0B7.jpg" alt="ブロック氷.jpg" width="520" height="355" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5908CE5BF97E4BC9AE5A496E58FA3E6B0B7E5AEA4.jpg" alt="同志会外口氷室.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A496E58FA3E6B0B7E5AEA41947.jpg" alt="外口氷室1947.jpg" width="520" height="465" border="0" /></div><div>　外口氷室の先代となる女将は、埼玉県の飯能で生まれて育ち、1939年(昭和14)6月1日に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518390342.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵野鉄道</a>(現・西武池袋線)に乗って、東京市内の雑司ヶ谷の外山氷室まで嫁いできた。その当時、彼女は花嫁衣裳のまま武蔵野鉄道に揺られてきたという。夫を早くに亡くした彼女は、戦後、息子夫婦とともに氷室を守りつづけてきた。結婚記念日である6月1日は、現在では「氷の日」となっており、よほど氷に縁のある人生だったのだろう。<br />　外口氷室は、1945年(昭和20)5月25日夜半の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520909839.html" target="_blank" rel="noopener">第2次山手空襲</a>で全焼している。同店の証言によれば、「大正製薬のところに飛行機が落ち」て、延焼が目白2丁目まで徐々に拡がってきたためだという。より正確にいうなら、B29が日本の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-11-09.html" target="_blank" rel="noopener">戦闘機</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-11.html" target="_blank" rel="noopener">体当たり攻撃</a>で撃墜されたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-08.html" target="_blank" rel="noopener">大正製薬</a>の道路をはさんだ北隣りの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">国産電機</a>で、拙ブログにも何度か登場いただいた下落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">松尾徳三様</a>が、勤労動員で勤務する航空機用のマグネット工場だった。<br />　外口氷室は、空襲で店舗が全焼したにもかかわらず、戦後すぐに営業を再開できている。空襲をまぬがれた住宅地からは、氷のニーズが多かったという。同紀要より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　一年の疎開の後に現在の目白の地に戻った際には、空襲にあっていなかった鬼子母神周辺の地域の住民から氷の需要があったことと、要町の製氷工場が空襲の被害にあっていなかったために、すぐに氷屋を再開することができたのである。当初は畳一畳分の冷蔵庫を作り製氷所から馬が引く荷車で氷を運んでもらった。バラックの店舗の裏には畑を作り、氷の配達の帰りに用意していた木箱に道に落ちている馬糞を拾い、肥料としていたという。肥料が良いためか、たくさんの野菜ができて近所の人にも大変喜ばれたという。／戦後は、駅のキヨスクの売店、西武デパート、東京丸物(現PARCO)、三越などへ氷を配達していた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　戦後すぐ1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、確かに雑司ヶ谷にある鬼子母神(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518749087.html" target="_blank" rel="noopener">きしもじん</a>)の周辺は空襲の被害を受けておらず、南西側の住宅街からは氷の注文が多かったのだろう。空襲で焼けだされたあと、「一年の疎開」先は親戚が住んでいた千葉県の幕張だったそうだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E382A4E382B9E3839CE383BCE383AB.jpg" alt="アイスボール.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E382A2E383BCE38388.jpg" alt="氷アート.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE5B3B6E58CBAE7A094E7A9B6E7B480E8A681E3808CE7949FE6B4BBE381A8E69687E58C96E3808D28E58FB72018.jpg" alt="豊島区研究紀要「生活と文化」28号2018.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A68FE5B3B6E5B18B28E5B7A3E9B4A829.jpg" alt="福島屋(巣鴨).jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div>　かつて、豊島区に40軒以上もの氷屋があったころは競合が激しく、顧客をめぐって熾烈な値引き競争も行われていたようだが、現在は同業者が結束して<a href="https://tokyo-ice-academy.com/" target="_blank" rel="noopener">東京アイスアカデミー</a>の研究会を設立し、ブランド氷「氷屋純氷」を起ち上げて共存共栄の環境を構築している。特に、消費者の品質がいい氷へのニーズは高く、店舗や家庭を問わず「純氷」によるかき氷人気はウナギのぼりのようだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：近年の都内では、天然水や良質な水による空前のかき氷ブームとなっている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、わたしの子どものころには現役で見かけた氷冷蔵庫。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、レストランやバーなど飲食業には欠かせないアイスピックでつくる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">打(ぶ)っかき氷</a>。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、氷屋さんではデフォルトの角氷。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、目白2丁目で営業をつづける外口氷室。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、敗戦直後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる雑司ヶ谷界隈。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、人気のアイスボールでウィスキーなどのオンザロックには最適だ。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、結婚披露宴やイベント会場などで見かける氷アート。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、2018年(平成30)発行の研究紀要「生活と文化」(豊島区立郷土資料館)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、1861年(文久元)の江戸期に創業の巣鴨「福島屋」のかき氷。</div></div><a name="more"></a>

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            <category>気になるエトセトラ</category>
      <author>落合道人</author>
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