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<title>落合学（落合道人）</title>
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<description>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</description>
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<title>JAZZ喫茶＝「不良のたまり場」なのはいつまで？</title>
<description>　以前、喫茶店が不良のたまり場だったなんて、わたしの世代では知らないという記事を書いたことがある。では、JAZZ喫茶が不良のたまり場と呼ばれなくなったのは、はたしていつごろからだろうか？ わたしは、以前にもチラッと触れたが、本格的なモダンJAZZを伝えた、1961年(昭和36)のArt Blakey &amp;amp; the Jazz Messengersの来日以降ではないかと考えていた。　ところが、ちょっと面白い文章を見つけたのでご紹介してみたい。それは、目白台にある日本女子大学..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-04-10T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9AB98E6A0A1E6ADA3E99680.jpg" alt="目白高校正門.jpg" width="600" height="466" border="0" /></div><div>　以前、喫茶店が不良のたまり場だったなんて、わたしの世代では知らないという<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">記事</a>を書いたことがある。では、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-26.html" target="_blank" rel="noopener">JAZZ喫茶</a>が不良のたまり場と呼ばれなくなったのは、はたしていつごろからだろうか？ わたしは、以前にもチラッと触れたが、本格的なモダンJAZZを伝えた、1961年(昭和36)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517209727.html" target="_blank" rel="noopener">Art Blakey &amp; the Jazz Messengers</a>の来日以降ではないかと考えていた。<br />　ところが、ちょっと面白い文章を見つけたのでご紹介してみたい。それは、目白台にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-14.html" target="_blank" rel="noopener">日本女子大学</a>のキャンパス内にあった目白高校(1960年に西生田にある日本女子大学付属高等学校へ統合)の、PTA会長だった佐久洋という人が書いた文章だ。目白高校とは、この界隈ではあまり聞きなれない学校名だが、1901年(明治34)に成瀬仁蔵が設立した、日本女子大学校付属高等女学校に由来する目白台の伝統のある女子高等学校が出発点だ。<br />　だが、1948年(昭和23)の学制改革により川崎市多摩区西生田へ、付属中学校とともに付属高等学校も移転した。ところが、西生田の校舎では教室数や施設が十分足りてないことと、都心部に住む生徒たちの通学の便宜を考えたものか、日本女子大学キャンパス内にも高等部が残されている。この高等学校を、西生田の日本女子大学付属高等学校と区別するために、「目白高校」と称していたようだ。目白台と西生田に並立する高校は、途中で目白校が閉校しかかったこともあったが復活し、目白台キャンパスに1960年(昭和35)まで開校していた。目白高校の名称は、10年ほどしか使われなかったので、地元で印象が薄いのも当然だった。<br />　当時の校長は、目白高校と日本女子大付属高等学校ともに、戦前に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-17.html" target="_blank" rel="noopener">高良とみ</a>と親しく下落合に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">上代タノ</a>だった。陸軍にタテつき、敗戦まで勤労動員先の工場で、「敵性言語」とされた英語を教えつづけていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-04.html" target="_blank" rel="noopener">上代タノ</a>だが、戦後は日本女子大の学長にも就任していた。<br />　では、1960年(昭和35)に出版された『目白高校十年の歩み』(日本女子大学付属高等学校PTA)に収録の、元・PTA会長だった佐久洋『思いつくまゝ』より、少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　打ち眺めたところ何の目的で学校へ行って居るのか、学校時代に何を獲得しようとするのか、勉強らしいものは殆んどしないようだし、集って話すことは映画かジャズ喫茶は未だいいとして、ボーイフレンドか彼氏の話が多いようである。特に中学高校とも女子大の付属を出て女子大に進んだ人は男女共学の時代を経ないで思春期に入るためか男性への関心が特に強いのではないかと思う。こういう大学時代を過した人達は今後何年か何十年か経って集った時に一体何を共通の話題として持ち得るのだろうか。思えば気の毒なものと考えられる。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　なんとなく当時の女学生が読んでも、「大きなお世話よ」とでもいいそうな文面だが、わたしの学生時代にも「いまどきの学生は……」という声が周囲からよく聞こえたので、上の世代から見れば若い生徒や学生たちは、いつの時代でも心もとなく頼りなげに映るのだろう。ところで、著者は大学へ入学してからが「思春期」だと考えているようだが、いまも昔も中学生になるころから、女子も男子ももう立派な思春期だったのではないだろうか。<br />　ここで留意したいのは、女学生たちのことではなく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-26.html" target="_blank" rel="noopener">JAZZ喫茶</a>が映画と同列に挙げられている点だ。1960年(昭和35)現在、映画館を「不良のたまり場」と考える大人は、おそらくごく少数派になっていただろう。同様に、JAZZ喫茶もようやく戦前のダンス音楽や、戦後すぐのころ男女が密着して踊るBGMとは、まったく別の音楽だと認識されはじめていたのではないか。<br />　1940年代からはじまるBe-Bop革命、すなわちBGMやダンス音楽とは一線を画し、音楽好きが鑑賞する曲として大きく進化したモダンJAZZが、ようやく日本に伝わりはじめた時期と一致しているのだろう。それは、JAZZ喫茶のレコード棚でも、また会話の少ない店内のリクエストでも顕著になりつつある時代であり、「不良」たちは名曲喫茶と同様、静かに曲へ耳を傾ける鑑賞音楽に用はないので、自然と足が遠のいていった……そんな情景を思い浮かべてしまうのだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A0A1E8888E.jpg" alt="校舎.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E68E88E6A5AD196001.jpg" alt="授業196001.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE4BBA3E382BFE3838E.jpg" alt="上代タノ.jpg" width="255" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E68890E780ACE4BB81E894B5.jpg" alt="成瀬仁蔵.jpg" width="255" height="375" border="0" /></div><div>　そして、『目白高校十年の歩み』が出版された翌年、Jazz Messengersの来日公演で、蕎麦屋の出前持ちの兄(あん)ちゃんまでが、「Moanin’」のメロディラインを口ずさむ時代になると、JAZZ喫茶の意味あいや位置づけが根本的に変わってしまったのだとみられる。そんな狭間の時代に書かれたのが、目白高校のPTA会長だった方の「映画かジャズ喫茶は未だいいとして」という、暗に双方のスペースに通う女学生はまだマシだと許容する表現になったのだろう。<br />　この文章が書かれてから10年後、映画館に通う女子高生はあたりまえとなり、JAZZ喫茶に通う彼女たちは読書をしながら、なにやら難しいことを考えていそうな“哲学少女”あるいは“文学少女”のように見られていく。Cecil Taylorを聴きながら、高橋和巳とか安部公房、ときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-04.html" target="_blank" rel="noopener">ボーヴォワール</a>などの本を読んでいる彼女たちに、街の「不良」など寄りつくはずもなく、「わたしは慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい」(高野悦子／1969年)などといわれたりすると、「あ、そうっすか」とそそくさ退散するお兄ちゃんたちも多かったのではないか。<br />　校長の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-07.html" target="_blank" rel="noopener">上代タノ</a>は、『目白高校十年の歩み』の「刊行によせて」で、目白高校と日本女子大付属高等学校について、次のように記している。『目白高校十年の歩み』より、再び引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　付属高等女学校が、新制度によって高等学校と中学校とに分れる当時、本学園の種々の事情によって、付属高等学校は目白と西生田に教室が分れましたが、本学園における一貫教育の一段階としては同じ場であり、目白校、西生田校と各々の特色を活かしながらも、教育・指導の内容においては、一つの付属高等学校であった訳です。／其の後、本学園が年をおうて整備され、西生田校舎に付属高等学校の全生徒を受入れる施設が整うて昭和三十五年度からはこゝに全生徒が集合することになりました。従って十年にわたって続いてきた目白校も、西生田校と合流し名実ともに、一つの付属高等学校として、その在るべき姿に成長して、今後永くその役割を果たすことになりました。学園のために慶賀すべきことゝ存じます。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　さて、10年間しか目白台の日本女子大キャンパス内に存在しなかった目白高校だが、大学と同一キャンパスのうえにいくつかの施設を供用していたため、西生田キャンパスとはまたちがった独特な雰囲気が形成されていたらしく、都心部から個性的な生徒たちが入学してきているようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B5E383BCE382AFE383ABE6B4BBE58B95E7BE8EE8A193E983A8.jpg" alt="サークル活動美術部.jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BBAEE8A385E8A18CE58897195610.jpg" alt="仮装行列195610.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9AB98E6A0A1E382ADE383A3E383B3E38391E382B9.jpg" alt="目白高校キャンパス.jpg" width="522" height="394" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9AB98E6A0A1E58D81E5B9B4E381AEE6ADA9E381BFE8A1A8E7B499.jpg" alt="目白高校十年の歩み表紙.jpg" width="255" height="359" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9AB98E6A0A1E58D81E5B9B4E381AEE6ADA9E381BFE5A5A5E4BB98.jpg" alt="目白高校十年の歩み奥付.jpg" width="255" height="359" border="0" /></div><div>　1948年(昭和25)4月に入学した、元・華族で帝展のち光風会の洋画家・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-11.html" target="_blank" rel="noopener">大河内信敬</a>の娘、大河内桃子もそのひとりだった。もちろん、下谷育ちで谷中っ子の女優・河内桃子のことだ。当時としては170cmと長身の彼女は、目白高校の生徒たちの間でもかなり目立つ存在だったようだ。彼女が在学中、目白高校のみ単独で行われていた演劇コンクールについて、当時の教師が印象に残るシーンを記録している。同書に収録の、山中ミツという人の書いた『思い出』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　目白校単独の催しであった演劇コンクール等も思い出深いものです。今は付属中学に勤務されている宮島直子さんの演ぜられた「寺子屋」の松王丸、伊吹山ますみさんの「修善寺物語」の夜叉王、立石美智子さんの「ベニスの商人」のシヤィロック(ママ)等、数え上げれば限りなくその名演技が思い出されてまいります。それに二回生の方達の「元禄花見踊」のきれいであったこと。鶴見幸恵さん、穂積寿美子さん、それに今テレビ、新劇に活躍されている河内(大河内)桃子さん達の舞姿のあでやかさ。何といっても眼に訴える劇や踊りの印象はいつまでたっても消えないものですね。そしてこの印象と共に、お一人お一人が、いつまでもなつかしく思い出されてくるのはたのしいものです。／外を通る自動車の警笛に悩まされた騒がしい建物、何の設備もないうす暗い教室、先生兼小使いさん兼給仕さんであった多忙な毎日、でも私共はとても楽しく過しました。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　大河内桃子は、1950年(昭和25)に目白高校を卒業すると、しばらくOL生活を送っていたが、1953年(昭和28)に東宝ニューフェイス6期生として東宝に入社した。ヒロインとして最初に抜擢されたのが、1954年(昭和29)公開の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">『ゴジラ』</a>だったのには、同窓生たちもビックリしたのではないか。文中に「自動車の警笛に悩まされた」とあるが、目白高校の校舎は日本女子大キャンパスの北側、不忍通り(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">清戸坂</a>／清土坂)に面していたので、クルマや工事の騒音が直接響いたのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8AC9BE5A082.jpg" alt="講堂.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9AB98E6A0A1E58D92E6A5ADE5908DE7B0BF1950.jpg" alt="目白高校卒業名簿1950.jpg" width="520" height="398" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B2B3E58685E6A183E5AD90EFBC8BE382B4E382B8E383A91954.jpg" alt="河内桃子＋ゴジラ1954.jpg" width="520" height="625" border="0" /></div><div>　『元禄花見踊』は、明治期に入ってリニューアルされた新富座お披露目の舞台で演じられた舞踊だが、下谷区の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">上野山</a>に集う多彩な花見客たちが長唄を背に踊る華やかな出し物だ。演劇コンクールでこの演目を提案したのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">東京芸大</a>も近い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515949866.html" target="_blank" rel="noopener">谷中</a>育ちだった大河内桃子ではなかったろうか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：中等部と高等部が西生田へ移転前に撮影された、日本女子大学の正門プレート。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、目白高校の校舎と生徒たち。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1960年(昭和35)1月の閉校3か月前に撮影された目白高校の授業風景。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1960年(昭和35)当時に校長だった上代タノ(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、日本女子大学校付属高等女学校の創立者・成瀬仁蔵(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、目白高校の美術部の活動風景。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1956年(昭和31)10月撮影の目白高校仮装行列。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、日本女子大キャンパス内にあった目白高校の校舎位置。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1960年(昭和35)出版の『目白高校十年の歩み』の表紙(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-26.html" target="_blank" rel="noopener">日本女子大学</a>と目白高校が共用した成瀬記念講堂。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1950年(昭和25)3月の卒業生名簿で大河内桃子のネームが見える。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">男女共学</a>ではなかったため「男性への関心が特に強い」のだろうが、ボーイフレンドはもう少し選んだほうがいいかもしれない大河内桃子。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1964年(昭和39)に撮影された、自分が破壊したジオラマを竹ぼうきで掃除するゴジラ(3代目)。同年に公開の『モスラ対ゴジラ』で使用された、人気の高いいわゆる「モスゴジ」の着ぐるみ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382B4E382B8E383A9E381AEE68E83E999A41964.jpg" alt="ゴジラの掃除1964.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>新高湯の煙突から撮影した1953年の六天坂。</title>
<description>　1953年(昭和28)に撮影された、とてもめずらしい写真を見つけた。同年の六天坂が通う下落合の南斜面をとらえたものだが、カメラマンは下落合3丁目1689番地で営業していた銭湯「新高湯」(現・ゆ～ザ中井)の煙突に登り、北北東を向いて撮影しているとみられる。　この写真を撮ったカメラマンが、意図的に煙突へ登って六天坂方面を撮影したのか、新高湯の関係者がなにかの用事で煙突に登った際、ついでに撮影したのかは不明だが、上落合で火の見櫓に登って上落合521番地の公楽キネマ方面を撮影した、..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E381AEE59D82E981931953.jpg" alt="下落合の坂道1953.jpg" width="600" height="572" border="0" /></div><div>　1953年(昭和28)に撮影された、とてもめずらしい写真を見つけた。同年の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-18.html" target="_blank" rel="noopener">六天坂</a>が通う下落合の南斜面をとらえたものだが、カメラマンは下落合3丁目1689番地で営業していた銭湯「新高湯」(現・ゆ～ザ中井)の煙突に登り、北北東を向いて撮影しているとみられる。<br />　この写真を撮ったカメラマンが、意図的に煙突へ登って六天坂方面を撮影したのか、新高湯の関係者がなにかの用事で煙突に登った際、ついでに撮影したのかは不明だが、上落合で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-28.html" target="_blank" rel="noopener">火の見櫓</a>に登って上落合521番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-02.html?1770105269" target="_blank" rel="noopener">公楽キネマ</a>方面を撮影した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">守谷源次郎</a>のケース以来のめずらしい画面だ。銭湯の煙突はともかく、落合地域に建っていた火の見櫓から撮影した戦前戦後の写真は、ほかにもかなりあったのではないかと考えている。<br />　銭湯「新高湯」は大正時代から営業しており、経営者は時期ごとに変遷しているのかもしれないが、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」では「草津温泉」のネームで収録されている。以前、東京郊外に「伊香保温泉」(根津)や「有馬温泉」(向島)、「志保ノ湯温泉」(根津)、「草津温泉」(駒込)など有名な温泉地の名称をつけ、養生や保養目的の「郊外温泉」として営業していた銭湯たちを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-14.html" target="_blank" rel="noopener">ご紹介</a>したことがあった。ただし、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-13.html" target="_blank" rel="noopener">目黒雅叙園</a>は実際に温泉水を運んできて沸かしていたようなので、文字どおり郊外温泉と名のっても不自然ではないかもしれない。<br />　同記事では、駒込で営業していた「草津温泉」をご紹介したが、下落合(現・中落合／中井含む)の「草津温泉」も同様のコンセプトで開業したのだろう。だが、大正の中期以降になると東京郊外だった地域にも住宅街が押しよせ、特に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>以降は住宅が稠密な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-16.html" target="_blank" rel="noopener">東京15区</a>エリアから、郊外地域への転居が急増し、保養を目的とする“東京郊外の温泉”というコンセプトも崩れて、時代とともに街中で営業する一般の銭湯へと衣替えしていったものと思われる。<br />　大正期に営業していた「草津温泉」の煙突を、キャンバスに取り入れて描いた画家がいる。<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank" rel="noopener">連作『下落合風景』</a>を制作していた<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>だ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516373631.html" target="_blank" rel="noopener">鉄道連隊</a>による西武線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-05-26.html" target="_blank" rel="noopener">線路敷設</a>がすでに終わり、中井駅の設置が決まった開業直前、開発の真っ最中だった駅北側の情景を描いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-05-25.html" target="_blank" rel="noopener">『下落合風景』</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">『目白の風景』</a>の2作だ。大谷石が集積された、住宅地や商店街が予定されている造成地の遠景には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">中ノ道</a>(下の道：現・中井通り)沿いの白煙が立ちのぼる「草津温泉」の煙突がとらえられている。歩いている人物が、インバネスないしは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-10.html" target="_blank" rel="noopener">トンビ</a>を着ていることから、1926年(大正15)の暮れごろか翌年の冬にかけて描かれたものだろう。<br />　佐伯祐三が2作を描いた中井駅が存在しない当時、下落合の西部から鉄道を利用する場合の最寄駅は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519465287.html" target="_blank" rel="noopener">東中野駅</a>だった。画面に描かれている、道路を歩く人物たちが鉄道駅へ向かっているとすれば、画面右手を流れる妙正寺川に架かる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">寺斉橋</a>を渡り、上落合を縦断して南へ直線距離で950m弱のところにある、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519465287.html" target="_blank" rel="noopener">東中野駅</a>(旧・柏木駅の位置)をめざしていたはずだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E9AB98E6B9AF1975.jpg" alt="新高湯1975.jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE4B88BE890BDE59088E9A2A8E699AFE3808D.jpg" alt="佐伯祐三「下落合風景」.jpg" width="520" height="440" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE79BAEE799BDE381AEE9A2A8E699AFE3808D-9bf41.jpg" alt="佐伯祐三「目白の風景」.jpg" width="520" height="428" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E381AEE59D82E981931953E3838DE383BCE383A0.jpg" alt="下落合の坂道1953ネーム.jpg" width="520" height="495" border="0" /></div><div>　さて、冒頭写真にとらえられた風景について具体的に見てみよう。六天坂の坂上には、日傘をさした女性とみられる人物がとらえられている。したがって、季節は1953年(昭和28)の夏か、それに近い季節だとみられる。六天坂は、坂の下部がやや東へ屈曲しており、写真の坂下にはいまだ畑地が残っているのがめずらしい。六天坂の由来については、たとえば1971年(昭和46)に新人物往来社から出版された、石川悌二『東京の坂道－生きている江戸の坂道－』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">六天坂(ろくてんざか)</span><br />　上落合と中落合の境通りから、妙正寺川北岸中落合一丁目六と一二の間を北上する小坂で、坂上は環状六号線道路へ出る。このあたりも二た昔ほど前までは雑木山で、坂上に一本杉の古木があり、樹下に第六天の小祠が建っていたのが坂の名になったという。土人の伝えによると、その第六天の仏像は行人僧が坂側に住みついて祀ったというが、その後の所在は明らかでない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この著者は、現地をまったく歩かずに書いているのだろう。「土人」は江戸時代の用語で、地元住民(その土地の人)という意味だ。六天坂は、当時の地名でいえば「上落合と中落合の境通り」(通りの南北とも旧・下落合)＝現・中井通りから北上する坂道だ。また、「小坂」ではなく傾斜がかなりきつい、丘上へと長めにつづくたいそうな坂道だ。いわずもがなだが、六天坂は宅地造成とともに大正前期に敷設された新しい坂道であって、江戸期の「坂上に一本杉の古木」は「丘上に……」が正しい記述だろう。そして、「所在は明らかでない」はずの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">第六天</a>は、現地を歩いてさえいれば坂の下部西側で、すぐに小祠を発見できていたはずだ。<br />　1953年(昭和28)の写真にもどろう。坂上に写っている、三角の切妻が見えている西洋館は、もちろん現存する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-22.html" target="_blank" rel="noopener">中谷邸</a>だ。その右手(東側)の並びには、空襲で蔵を残して大きな母家が全焼してしまい、1946年(昭和21)の財産税法の施行で広大な敷地から、一般の住宅サイズになってしまった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519750490.html" target="_blank" rel="noopener">津軽義孝邸</a>(元・伯爵)が見えている。以下、1960年(昭和35)に住宅協会が、戦後初めて網羅的に作成した「東京都全住宅案内帳」をもとに、家々の特定を試みてみる。(別掲写真)</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D8219450402.jpg" alt="六天坂19450402.jpg" width="520" height="520" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D821957.jpg" alt="六天坂1957.jpg" width="520" height="559" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D821963.jpg" alt="六天坂1963.jpg" width="520" height="598" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D821975.jpg" alt="六天坂1975.jpg" width="520" height="669" border="0" /></div><div>　写真には大正期、ひな壇状に造成された敷地に建つ住宅群がよくとらえられている。住宅を囲む濃い屋敷林や生け垣が残り、この丘から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-23.html" target="_blank" rel="noopener">西坂</a>が通う丘上あたりまでが、通称「翠ヶ丘」と呼ばれていた風情がよくわかる眺めだ。ただし、六天坂が通う丘の南斜面は空襲でかなり罹災しており、戦後に住民の入れ替わりが多かったと思われるので、写真撮影から7年の間に変わってしまった邸もあるかもしれない。特に、写真にとらえられた畑地や空き地とみられるスペースは、1960年(昭和35)になるとすべて住宅が建ち並んでおり、また古い住宅が建て替えられ形状も変わっている可能性もあるため、どこまで正確な特定ができているのかは不明だ。<br />　「全住宅案内帳」を見ると、いまだ外国人の邸宅も目立っている。GHQに接収された大きめな屋敷を、そのまま米軍関係者が借りていたか、改めて購入したものだろうか。六天坂沿いには見られないが、ひとつ東側の見晴坂沿いには、戦後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512040396.html" target="_blank" rel="noopener">アマリリスジャム</a>で成功をおさめる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-18.html" target="_blank" rel="noopener">相馬正胤邸</a>の南側(下落合3丁目1799番地界隈)に、F.A.ジョルダン邸とディバティ邸が、相馬邸の斜向かい(北西側)にはミッチェル・タクラン邸というネームが採取されている。<br />　冒頭の写真は、中ノ道(現・中井通り)への出口の少し上、ちょうど第六天の小祠のあるカーブの少し下で切れてしまっているが、坂下の商店街まで撮影していたら、より貴重でかけがえのない記録写真となっていただろう。六天坂の出口、通りの北側には1960年(昭和35)当時の記録にしたがえば、坂下から西へ「木村電機商会」や「大正堂」(文房具店)、「呉服柏屋」、「洋服下平」、「クリーニング丸善」などが営業しており、現在も営業をつづける店舗も多い。<br />　また、手前煙突のある銭湯「新高湯」(現・ゆ～ザ中井)の西並びには、「さかえ屋」(業種不明)や「八百松」、「八百屋大山」、「佐藤電気商会」、「オリオン靴店」、「白雪」(飲み屋だろうか)、「喫茶店かど」、「タバコ遠藤」などが軒を並べて営業していた。通り沿いには同業種の店舗も多いが、それでも十分に営業をつづけられる繁華な商店街が、1970年代ごろまでつづいていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D82E7ACACE585ADE5A4A9.JPG" alt="六天坂第六天.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D821.jpg" alt="六天坂1.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D822.jpg" alt="六天坂2.jpg" width="520" height="720" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D823.JPG" alt="六天坂3.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　もうひとつ残念なのは、坂の左手(西側)の谷間がとらえられていない点だ。この谷間の崖地には、大正末から昭和初期にかけ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">月見岡八幡社</a>の宮司・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank" rel="noopener">守谷源次郎</a>が、東京帝大の教授・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>を招聘し、古墳時代末期とみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">横穴古墳群</a>を発見した地点でもあるからだ。六天坂と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-06.html" target="_blank" rel="noopener">振り子坂</a>にはさまれた、開発前の緑深い谷間の風景は、いまだ空中写真以外では見たことがない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1953年(昭和28)の夏ごろに、銭湯「新高湯」の煙突から撮影された六天坂。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1975年(昭和50)の空中写真にみる新高湯と煙突。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1926年(大正15)の冬に描かれたとみられる佐伯祐三の『下落合風景』と『目白の風景』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」を参考にした六天坂沿いの邸宅群。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>から<span style="color: #3366ff;">下</span>へ、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-09.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>から撮影された空中写真にみる六天坂、戦後の1957年(昭和32)の空中写真にみる六天坂、1963年(昭和38)に撮影された六天坂、そして1975年(昭和50)に撮影された六天坂。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、六天坂の下部にある第六天小祠(左手)の下から撮影した六天坂の入口あたり。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、傾斜のきつい六天坂の現状。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、六天坂の中腹から新宿方面を遠望した風景。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1927年(昭和2)6月17日から30日まで、上野の日本美術協会の展示会場を借りて開かれた1930年協会の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-12.html" target="_blank" rel="noopener">第2回展</a>には、手前の六天坂と、建設から3年ほどが経過した中谷邸を描いたとみられる、佐伯祐三の見たことのない<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-04-11.html" target="_blank" rel="noopener">作品画面</a>が展示されているように見える。遠景なので細かいところまでは不明だが、画面を再現すると以下のような風景になるだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/1930E5B9B4E58D94E4BC9AE7ACAC2E59B9EE5B195192706.jpg" alt="1930年協会第2回展192706.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E585ADE5A4A9E59D82E4B8ADE8B0B7E982B8.jpg" alt="六天坂中谷邸.jpg" width="255" height="212" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE3808CE585ADE5A4A9E59D82E3808D.jpg" alt="佐伯「六天坂」.jpg" width="255" height="212" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>目白の山村聰と二二六事件の林少尉は隣り同士。</title>
<description>　ずいぶん以前に、下山事件から4年半後の1954年(昭和29)に公開された『黒い潮』(監督：山村聰／日活)や、ヘラブナ釣りの太公望としてご紹介していた山村聰だが、彼が目白駅のごく近くに住んでいたと知って驚いた。その隣家は、二二六事件の蹶起将校で麻布一連隊の機関銃隊に所属し、将校連では最年少の21歳で処刑された林八郎少尉の実家だ。　なぜ、拙ブログに下落合を舞台にしたTVドラマ『さよなら・今日は』(NTV／1973～74年)をはじめ、山村聰関連の記事が何度も登場するのかといえば、..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-04-04T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E89FB9E5B7A5E888B91953.jpg" alt="蟹工船1953.jpg" width="600" height="463" border="0" /></div><div>　ずいぶん以前に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-02-21.html" target="_blank" rel="noopener">下山事件</a>から4年半後の1954年(昭和29)に公開された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-09-24.html" target="_blank" rel="noopener">『黒い潮』</a>(監督：山村聰／日活)や、ヘラブナ釣りの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-05.html" target="_blank" rel="noopener">太公望</a>としてご紹介していた山村聰だが、彼が目白駅のごく近くに住んでいたと知って驚いた。その隣家は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-03.html" target="_blank" rel="noopener">二二六事件</a>の蹶起将校で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">麻布一連隊</a>の機関銃隊に所属し、将校連では最年少の21歳で処刑された林八郎少尉の実家だ。<br />　なぜ、拙ブログに下落合を舞台にしたTVドラマ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-03.html" target="_blank" rel="noopener">『さよなら・今日は』</a>(NTV／1973～74年)をはじめ、山村聰関連の記事が何度も登場するのかといえば、わたしがこの知的で孤独を好み、少々ヘソ曲がりで偏屈な俳優が好きだからだろう。原体験は、おそらく小学生のときに初めて観るのを許されたTVドラマ『ただいま11人』(TBS／1964～67年)の後半シリーズに、そもそもベースがあるのではないかと思う。ただし、いまから考えると、そのひとつ前に放映していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509355016.html" target="_blank" rel="noopener">向田邦子</a>が脚本を書き、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">森繁久彌</a>が主演していた『七人の孫』を観られなかったのは残念だ。もっとも、小学生の低学年では、観ていたとしても記憶に残らなかっただろうが。<br />　下落合を舞台にした先のドラマでは、共演した山村聰と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">森繁久彌</a>の脚本にはないアドリブ海軍芝居が傑作だった。1970年(昭和45)に米国映画『トラ・トラ・トラ！』(20世紀フォックス)で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516826922.html" target="_blank" rel="noopener">山本五十六</a>役を演じた山村と、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-09.html" target="_blank" rel="noopener">向田邦子</a>も脚本を書いていたドラマ『だいこんの花』(NET／1970～77年)で、巡洋艦「日高」(重巡か軽巡かは不明)の退役艦長役だった森繁との、真珠湾攻撃をめぐる空母と戦艦の漫才のようなやり取りは、高校生だったわたしにも爆笑シーンだった。もちろん、おかしなことをいうボケ役は森繁久彌で、突っこみ役が山村聰だった。<br />　山村聰の本名は古賀寛定といい、下落合のすぐ北側の目白駅まで徒歩3分(直線距離で230m)、豊島区目白町3丁目3570番地(現・目白3丁目)に住んでいた。ここから<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">一高</a>、あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-17.html" target="_blank" rel="noopener">東京帝大</a>へ通っていたのだろう。父親は漢学者だったというが、詳しいことは資料にも書かれていないし、本人も書籍やインタビューなどで家族のことはほとんど語ってはいない。山手線の線路に近かった目白町3丁目の同エリアは、1945年(昭和20)4月13日夜半の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-23.html" target="_blank" rel="noopener">第1次山手空襲</a>で全焼しているので、戦後すぐに麻布富士見町へ転居したのかもしれない。<br />　現在の街並みでいうと、目白駅前から山手線の線路沿いを池袋方面へ歩き、MKジム手前の道を西へ左折して最初の十字路の北西角、現在のマンション「ベルクールグラン」とその西隣りの半分ぐらいまでの敷地が、1945年(昭和20)4月までの古賀邸跡だ。<br />　この事実を知ったのは、1938年(昭和13)に東京府立第四中学校(＝府立四中／現・都立戸山高等学校)を卒業した宮島貞弘という人が、1988年(昭和63)に出版された『府立四中・都立戸山高百年史』(百周年記念事業実行委員会)へ、戦前の自宅周辺に住んでいた人々について寄稿していたからだ。同書に収録された、宮島貞弘『目白駅付近の四中生』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私は四中生の頃、目白駅近くの目白三丁目(ママ：目白町3丁目)に住んでいた。現在の目白駅は他の国鉄駅と違い昔のおもかげがまだ残っている。／私の家の前に住む古賀氏は漢学者とかで、長兄は東大生、次男は慶應の医学生で、次男とは街角でよく話をした。長兄がその後性格俳優となった山村聰である。その隣の林家は固く門を閉ざして近所の人とは余り交際がなかった。この林家の長男、次男が共に四中の先輩で、次男の八郎氏は陸軍に入り、二・二六事件の叛乱将校となった。処刑の日の夕刻ひつぎがひっそりともどって来た。法律の禁ずる所とかで葬儀は一切行われなかったが、何とも言えない妙な気分であった。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この文章から、宮島貞弘という人が住んでいたのは古賀邸の二間道路をはさんで南側、目白町3丁目3553番地の家だったことがわかる。ちょうど彼が府立四中を卒業した年、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると文章に書かれたとおり、宮島邸の向かいの目白町3丁目3570番には古賀邸が、その西隣りの同番地には林邸を見いだすことができる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE794BA3E4B881E79BAE.jpeg" alt="目白町3丁目.jpeg" width="520" height="474" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E8B380E982B8E8B7A1-ee3ed.jpg" alt="古賀邸跡.jpg" width="520" height="381" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BE11E4BABA.jpg" alt="ただいま11人.jpg" width="520" height="417" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E38184E6BDAE1954.jpg" alt="黒い潮1954.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　山村聰は、一高時代から東京湾でのハゼ釣りが趣味だったというから、戦後の本格的な釣りへの傾倒は目白時代から芽生えていたのだろう。独特な性格から友人が少なく、孤独を好む古賀寛定(山村聰)にはピッタリな趣味だったのではないか。戦後、数少ない友人の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">森雅之</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-02.html" target="_blank" rel="noopener">山田典吾</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513432604.html" target="_blank" rel="noopener">夏川静江</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-29.html" target="_blank" rel="noopener">三國連太郎</a>らとともに「現代ぷろだくしょん」を設立し、原作が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">小林多喜二</a>の『蟹工船』(1953年)は戦後最初の代表作となった。余談だけれど、1982年(昭和57)ごろだったか、当時は新宿御苑の近くにあった現代ぷろだくしょんにお邪魔し、山田典吾・火砂子夫妻にお会いしたことがあった。どういうめぐりあわせか、現在の同社は中井駅近くの上落合にある。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-28.html" target="_blank" rel="noopener">有島生馬</a>の息子だった、森雅之の“殿様釣り”は以前にご紹介していたが、山村聰の釣りにまつわる相模湾でのエピソードは多い。夏の稲村ヶ崎で釣りをし、陽光を浴びすぎて日射病(当時は「熱中症」とはいわない)になってしまった逸話も残っている。1980年(昭和55)に河出書房新社から出版された『自然読本・魚』収録の、山村聰『思い出の釣り－稲村ヶ崎の夏－』から引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　突然。凄まじい発熱である。顔から肩、腕、股、ふくらはぎ、足の甲など、夏の直射に曝された部分が無惨に腫れ上り、搏動性の疼きが、とめどなく全身をつらぬいた。どう姿勢をかえてみても、我慢のしようがなく、痛みは募るばかりである。夜中に医者の来診を乞い、全身、繃帯で簀巻にされたが、猛烈な全身の火傷であった。火によるものと全く同じである。赤黒く腫れ上り、方々崩れて血膿を出した。／真黒に肌を焼くのは、毎年のことである。湯がしみて風呂へ入れないぐらいは、いつものことであったが、日焼けがここまで行き届くとは信じがたいことであった。オリーヴ油の効果であったにちがいない。何のことはない、油をくれながら、天日の下で、体をステーキしてしまったのである。翌日の仕事は、それこそ、地獄の責苦であった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　当時はサンオイルなど発売されておらず、オリーヴオイルで代用していたのがわかる。これはわたしも何度か憶えがあって、子供のころ時間を忘れて6～7時間も海やプールで遊び、帰宅してから痛くて湯船につかれないのはもちろん、夕食を食べたあと嘔吐して高熱をだしたことは一度や二度ではない。でも、不思議なことに身体が徐々に順応してくるのか、同じことをしても平気になっていった憶えもある。わたしが遊んでいたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">稲村ヶ崎</a>から16～17kmほど西の海岸線だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E381AEE99FB31954.jpg" alt="山の音1954.jpg" width="520" height="338" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE381AEE38184E381A1E381B0E38293E995B7E38184E697A51967.jpg" alt="日本のいちばん長い日1967.jpg" width="520" height="343" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E69CACE4BA94E58D81E585AD1970.jpg" alt="山本五十六1970.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E69D91E881B0E38398E383A9E38396E3838AE987A3E3828A.jpg" alt="山村聰ヘラブナ釣り.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div>　さて、これまで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-26.html" target="_blank" rel="noopener">二二六事件</a>については<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-21.html" target="_blank" rel="noopener">岡田首相</a>が避難してきた下落合3丁目1146番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">佐々木久二邸</a>や、上落合1丁目512番に実家のあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-22.html" target="_blank" rel="noopener">竹嶌継夫中尉</a>、同じく下落合1丁目299番地に実家(本籍地)があった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-09.html" target="_blank" rel="noopener">田中彌大尉</a>などをご紹介してきた。ここにもうひとり、ごく近くの目白町3丁目3570番地には、林八郎少尉の自宅があった。蹶起した現役の青年将校15名のうち、3名の自宅や実家、あるいは元・実家(本籍地)のある地域へ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-22.html" target="_blank" rel="noopener">岡田啓介</a>は避難してきたことになる。もちろん当時、そんなことは知るよしもなかっただろう。<br />　青年将校たちの中では最年少だった林八郎は、二二六事件の当時は21歳だった。前年の1935年(昭和10)に、陸軍士官学校を卒業(第47期)したばかりで、事件当時は第一師団歩兵第一連隊の機関銃隊に勤務していた。父親は、上海事変で戦死した林大八少将だ。また、兄は一高生時代に「青年共産同盟」に関係して、一高を退学処分になっていた。そして、林八郎は兄から財閥や軍閥が跋扈し、戦争を起こすことで肥えふとり国民の貧富の差がますます開きつつある、大日本帝国の本質的な矛盾をさんざん聞かされて育ったとみられる。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-25.html" target="_blank" rel="noopener">北一輝</a>の思想は常に更新されており、大正中期に書かれた『日本改造法案大綱』はもはや古く、二二六事件が起きた当時の思想は、彼なりに理想社会をめざす社会科学的な方法論として、マルクス主義を意識したものになっていたと思われる。ただし北一輝の場合は、いつ起きるかわからない民衆(プロレタリアート)による蜂起の夢想ではなく、あらかじめ武装した軍隊をフロントにすえた蹶起(クーデタ)を想定する、より現実的で具体的な方法論だったとみられる。<br />　二二六事件で林八郎少尉は、同じ麻布一連隊機関銃隊の栗原安秀中尉とともに首相官邸を襲撃している。蹶起が失敗したあと、のちに林少尉は獄中でいくつかのメモを綴っている。その中には、陸軍の皇道派とみられた責任のがれの将軍たちに対し、「腰抜けなり。とても自ら進んで難局に立たんとする者などなし。(中略) 中央部に蟠居する幕僚は自家中心権力至上主義の権化なり」と批判した。また、日本の将来については、「結末は吾人等を踏台に躁繭(そうけん)して幕僚ファッショ時代を現出するなるべし」と、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">日本型ファシズム</a>＝軍国主義化を正確に予見している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E794B0E585B8E590BE.jpg" alt="山田典吾.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A3AEE99B85E4B98B.jpg" alt="森雅之.jpg" width="255" height="380" border="0" /><br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38388E383A8E382BFE382AFE383A9E382A6E383B3CM1978.jpg" alt="トヨタクラウンCM1978.jpg" width="520" height="376" border="0" /><br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E585ABE9838EE5B091E5B089.jpg" alt="林八郎少尉.jpg" width="255" height="350" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A097E58E9FE5AE89E7A780E4B8ADE5B089.jpg" alt="栗原安秀中尉.jpg" width="255" height="350" border="0" /></div><div>　山村聰が、目白(学生時代)の思い出を書いた文章をわたしは知らないが、もしあるとすれば映画作品についてのインタビュー時にでも、記者の質問に答えて話しているのかもしれない。1973年(昭和48)秋からスタートした下落合が舞台の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-09.html" target="_blank" rel="noopener">『さよなら・今日は』</a>の台本を受けとった山村聰は、「なんだ、住んでた家のすぐ近くの話じゃないか」と、遠くを見る目を細めただろうか。ひょっとすると、馬ばかり彫って有名な近所の彫刻家・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank" rel="noopener">三井高義</a>のことも、知っていたのかもしれない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1953年(昭和28)に公開された、製作・山田典吾で監督・山村聰の『蟹工船』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる古賀邸や林邸とその周辺。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、古賀邸跡の現状(道路右手)。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、TBSドラマ『ただいま11人』(1964～67年)の広報スチール。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1954年(昭和29)制作の『黒い潮』(監督・山村聰／日活)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1954年(昭和29)制作の『山の音』(監督・成瀬巳喜男／東宝)で共演は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">原節子</a>。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1967年(昭和42)に制作された『日本のいちばん長い日』(監督・岡本喜八／東宝)で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-08-30.html" target="_blank" rel="noopener">米内光政</a>役の山村聰と共演の三船敏郎。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1970年(昭和45)制作の米国映画『トラ・トラ・トラ！』(日本側監督・舛田利雄＆深作欣二／20世紀フォックス)では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">山本五十六</a>の役で共演は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">芥川比呂志</a>。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、茨城県の水郷地域でひとりヘラブナ釣りをしていた山村聰。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1951年(昭和26)に映画制作会社「現代ぷろだくしょん」を設立した仲間の山田典吾(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と森雅之(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1978年(昭和53)放映のTOYOTAクラウンのCMで共演は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">吉永小百合</a>。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、二二六事件でともに首相官邸を襲撃した林八郎少尉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と栗原安秀中尉(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。</div></div><a name="more"></a>

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<title>近衛町や目白文化村に先立つミニ文化村「愛隣園」。</title>
<description>　大正の初期、下落合ではミニ文化村づくりとでもいうべきブームがあったようだ。火付け役は、長年暮らした米国から帰国して、下落合906番地(のち909番地)でアポロ鉄工場を経営する片山廣斗と、片山の開発思想から影響を受けた下落合604番地の浅川清造だ。それぞれ、片山家は下落合の東部に「愛隣園」を、浅川家は諏訪谷近くでミニ文化村を経営している。　最初、「愛隣園」という名称に気づいたとき、近衛篤麿邸(のち近衛町)の近くなのでキリスト教の関連施設か、近衛邸の北側にあった「萬鳥園」と同様..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-04-01T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9200.jpg" alt="愛隣園00.jpg" width="600" height="468" border="0" /></div><div>　大正の初期、下落合ではミニ文化村づくりとでもいうべきブームがあったようだ。火付け役は、長年暮らした米国から帰国して、下落合906番地(のち909番地)でアポロ鉄工場を経営する片山廣斗と、片山の開発思想から影響を受けた下落合604番地の浅川清造だ。それぞれ、片山家は下落合の東部に「愛隣園」を、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">浅川家</a>は諏訪谷近くでミニ文化村を経営している。<br />　最初、「愛隣園」という名称に気づいたとき、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">近衛篤麿邸</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>)の近くなのでキリスト教の関連施設か、近衛邸の北側にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-18.html" target="_blank" rel="noopener">「萬鳥園」</a>と同様に動物の品種繁殖研究所か、はたまた孤児院か非行少年少女の更生施設かなにかかと思ってしまった。w　ところが、米国帰りで独自な郊外住宅の設計思想をもつ片山廣斗という人物が、1915～1916年(大正4～5)に開発した、下落合の小規模な住宅地＝ミニ文化村(小田園都市)のネームだった。<br />　1916年(大正5)といえば、すでに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">熊岡美彦</a>のアトリエは目白駅前の丘上にあったかもしれないが、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/tsune.html" target="_blank" rel="noopener">中村彝</a>がアトリエを建ててようやく転居してきたころだ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">近衛篤麿</a>が死去したあとも屋敷はそのまま建っており、同年暮れには<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-07.html" target="_blank" rel="noopener">竹久夢二</a>が下落合370番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ</a>から、高田村雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)へ転居している。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">御留山</a>では、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-04.html" target="_blank" rel="noopener">相馬家</a>が新築の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">屋敷</a>へ転居してきて2年めを迎えた時期だ。そんな時代に、現在の近衛町の北側に隣接した下落合922～930番地界隈では、1,660坪の敷地に小規模ながらモダンな文化住宅街が竣工していた。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">目白駅</a>(地上駅)から、西へ「二三丁」(約200～300m)と山手線に近く、「近衛公爵家前」すなわち近衛篤麿邸の北側敷地に、十数軒の住宅を建設して分譲販売ではなく、賃貸住宅として入居者を募集していた。掘削した井戸から、地下水をポンプで汲みあげ圧力をかけて各戸に供給する、のちの<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>と同様の上水道施設を備えていた。しかも、汲みあげポンプはバックアップ用に2台すえられており、1台が故障しても断水しない仕組みとなっていた。同ポンプは圧力が自在に変更でき、万が一の火災のときには消火栓からの水圧をポンプ車並みに変更することができた。また、住宅の周囲には開渠だが、下水の側溝も設置されている。<br />　「愛隣園」という名称は、片山の開発思想に共鳴した男爵・阪谷芳郎が命名したもので、住宅に囲まれた中央スペースには緑を植えて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">遊園地</a>(小公園)とし、四阿(あずまや)が建てられている。「愛隣園」園主の片山廣斗自身の証言を、1916年(大正5)に建築工芸協会から刊行された「建築工芸叢誌」第2期19号収録の、『中流人士の郊外住宅』から少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　それに東京附近には、好適の場所が見当らない。然し所々を捜して見て、漸うと今の場所を選定したのである。両側は近衛公爵家の地所であるから、此処ならば、野心家の所有地とは異つて、他日に至り、彼是れと圧迫を受けるやうな処もあるまいと思つて、乃で此の土地を選んだのである。／さて、斯る地所を選定して、此の区域内に何軒かの住宅を造るとした処で、若し之れを居住者、或は其他の人が、各自思ひ思ひに勝手な建築をしたならば、必らず統一を欠くに違ひないから、それでは甚だ面白くない。第一自分の志に背く。乃で此処を統一ある住宅地とすべく、独力を以て経営する事とした。故に、上水及び下水の設備も、空気の流通や、日当り等の工合も、都合よくする事が出来て、或る程度までは、殆んど自分の意の如くに、居住者に必要なる設備をすることが出来たのである。／郊外生活の利益は、土地が閑静で、且つ空気も不潔でなくして、衛生的であると云ふ所にあるが、然るに動(どう)もすれば、飲料水の不良、或は欠乏、下水の不完全等の為めに、却て非衛生となると云ふ傾がある。乃で自分は、此の住宅を設計するに当つて、水道の設備及び下水の疏通に最も意を注いで、此の二つに最も重きを置いたのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　文中に「両側は近衛公爵家の地所」とあるが、正確にいうなら「愛隣園」の南側全体が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>開発前の近衛篤麿邸(当時は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿邸</a>)で、北面の西側が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-23.html" target="_blank" rel="noopener">東京同文書院</a>＝<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-01.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>の校庭(近衛家敷地)だった。だが、「愛隣園」北面の東側は近衛家よりほぼ同時期に分譲購入していた、下落合435番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-09-21.html" target="_blank" rel="noopener">舟橋了介・さわ子夫妻</a>による住宅開発地だったはずだ。2年ほどのち、舟橋家の開発地である下落合436番地に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ</a>を建てて住んだのが日本画・洋画の双方をこなす<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank" rel="noopener">夏目利政</a>だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C921918.jpg" alt="愛隣園1918.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C921936.jpg" alt="愛隣園1936.jpg" width="529" height="416" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9201.jpg" alt="愛隣園01.jpg" width="520" height="698" border="0" /></div><div>　片山廣斗という人は、旧・神田上水の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-21.html" target="_blank" rel="noopener">分水流</a>沿いで大きなアポロ鉄工場を経営し、自宅も工場敷地内(下落合906番地)にあったとみられるので、経済的にはかなり余裕があったのだろう。したがって、「愛隣園」の賃貸住宅で特に儲けようとしていたようには見えず、自身の趣味や理想を反映した住宅地を郊外に建設してみたいという、海外への留学組にありがちな実証実験的な発想だったようだ。おそらく、「愛隣園」の住宅群が住民で埋まった時点で、投資に見あう採算点は何年後になるか？……というような計算は、度外視していたのではないか。<br />　住宅と住宅の間を、最低でも5間(約9.1m)ほど空けて建設し、小規模な住宅地に似あわず二間道路を計3本も敷設している。道路は土面の道ではなく、年に二度の春秋に多摩川の砂利を運んで簡易舗装を実施し、泥でぬかるんだ道になるのを防いでいる。住宅のデザインも、借り主の好みに応じて洋館と和館のいずれかが選べ、小型の5室住宅から大規模な9室住宅までさまざまだった。住宅の間は、屋敷林を植えてプライバシーを保護し、道路に接する側は生け垣か板塀で囲んでいる。建設の際は、個々の住宅が同じデザインにならないよう工夫したという。<br />　給水ポンプを冗長化して断水をなくした点も、当時としては画期的な仕組みだったろう。貯水用の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509878987.html" target="_blank" rel="noopener">水道タンク</a>も2基設置され、片方が故障しても水道が止まることはなかった。また、家々の間には消火栓が設置され、火災が起きたときはそこから「四十磅」(40ポンド)の圧力で消火水が供給されるようになっていた。水道の利用時は、亜鉛引きの直径約6.1cm水道管に「二十五磅」(25ポンド)の水圧で各戸に配水し、約6cmの支管で台所や浴室へ給水している。<br />　また、電気は椎名町から近衛邸へ延びていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-08.html" target="_blank" rel="noopener">近衛線</a>ではなく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">目白変電所</a>からの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">東京電燈谷村線</a>で引かれている。これは、旧・神田上水沿いに建つアポロ鉄工場も同様だったとみられるので、おそらく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-11-28.html" target="_blank" rel="noopener">氷川線あるいは七曲線</a>の延長だったのだろう。電気のメーターは各戸に設置されたが、1燈につき1ヶ月2キロまでの電気利用は無料とし、それ以上使用した場合は1キロにつき9銭を徴収している。大家族でないかぎり、大量に使用することはありえないので、電気がとても廉価で利用できたとみられる。「愛隣園」が、ほとんど片山の趣味といわれるゆえんだろう。また、都市ガスが引かれてないため、電気レンジや電気コンロの利用に配慮したのかもしれない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E3839DE383ADE98984E5B7A5E5A0B4906.jpg" alt="アポロ鉄工場906.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9202.jpg" alt="愛隣園02.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9203.jpg" alt="愛隣園03.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9204.jpg" alt="愛隣園04.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div>　下水の処理にもかなり気をつかったようで、『中流人士の郊外住宅』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　西洋の文明国では、市中の道路にはアスハルトを敷いたり何かして綺麗でもあり、殊に馬車道は市から掃除を為し、泥を洗流して常に清潔にするし、歩道は其処の家々で掃除をする習慣になつて居る。それだからいつも清潔であるが、日本では東京市中でも日本橋通りや本郷の大学前等の如き、或る一部分を除くの外は依然たる昔風の道路で、場所に依つては、随分甚だしく不潔である。乃で此の区域内は、道路や下水を出来得る丈け清潔にしたいと考へて、頗る注意を払つて設計したつもりである。此処の下水は各戸から道路の両側にある溝に出るまでは、暗渠の土管を用ゐて居るが道路の溝は、深さ一尺幅一尺の石造で開渠としてある。而して常に汚水を停滞せしめないやうに注意して居るから下水ではあるが、誰が見ても不快な感じを起さないであらうと思ふ。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　当時の下水は、台所から庭先へ、あるいは接道へそのまま流してしまうケースが多かったため、地中に浸みこんで井戸水を汚染し、不潔な環境になりがちだった。このあたりの様子は、1925年(大正14)に<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/jiyugakuen.html" target="_blank" rel="noopener">自由学園</a>の高等科<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-03-09.html" target="_blank" rel="noopener">女学生</a>たちが実施した、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-08-06.html" target="_blank" rel="noopener">『我が住む町』</a>(自由学園／非売品)に収録された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-02.html" target="_blank" rel="noopener">「衛星調査」</a>に詳しい。ただし、大正初期に開発された「愛隣園」と大正末の当時とでは、このあたりの市街地化も進みかなり事情が異なっていたとみられるが。<br />　この文章のあと、著者は昔のほうが下水処理は合理的かつ効率的だった事例を挙げているが、確かに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">大江戸</a>(おえど)の街中にあった屋敷などには、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">上水道</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-09.html" target="_blank" rel="noopener">水道管網</a>はもちろん、地中に汚水が漏れない万年石樋などによる強固な下水管が整備されていた。そういえば、下落合駅の南にある東京都の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">水再生センター</a>には、ビル工事などの際に発掘された江戸期の万年石樋による、下水道の遺構が展示されている。上水道の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-10-06-1.html" target="_blank" rel="noopener">万年石樋</a>と同様の構造だが、300年や400年では破断しない、金属管よりも強固な“都市開発”が行われていた様子を偲ぶことができる。<br />　「愛隣園」については、拙ブログでは考古学分野の論文でおなじみの、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-30.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵野文化協会</a>による雑誌<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">「武蔵野」</a>でも取りあげられている。下落合の「愛隣園」は、それだけ当時の話題性が高かったのだろう。1918年(大正7)に刊行された「武蔵野」10月号収録の、近藤春夫による『東京郊外の小田園都市』によれば、電気料金が安いのは「会社から安く買つて供給」しているからで、片山のアポロ鉄工場が大口契約していた電力を、廉価で「愛隣園」に供給していた様子がうかがえる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6849BE99AA3E59C9205.jpg" alt="愛隣園05.jpg" width="520" height="398" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BBBAE7AF89E5B7A5E88AB8E58D94E4BC9A.jpg" alt="建築工芸協会.jpg" width="260" height="390" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E894B5E9878E191810.jpg" alt="武蔵野191810.jpg" width="250" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B585E5B79DE6B885E980A01926.jpg" alt="浅川清造1926.jpg" width="520" height="351" border="0" /></div><div>　さて、片山廣斗から影響を受けた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-14.html" target="_blank" rel="noopener">諏訪谷</a>の北側に建つ下落合604番地の浅川家は、どこにミニ文化村を開発していたのだろう。浅川家は、こちらでは<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>の<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank" rel="noopener">「下落合風景」シリーズ</a>に登場しているタブロー<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">「浅川ヘイ」</a>(行方不明)の屋敷のことで、下落合623番地に建つ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-04-03.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念アトリエ</a>の、道路を隔てた東隣りの屋敷だった。浅川邸の東側には、空中写真や地図を見ると、整然と区画割りされた敷地に大きめな邸宅が並んでいるので、同邸の東側一帯なのかもしれない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：「愛隣園」に建つ西洋館の1棟で、右手に見えている電柱の向こうが現在の近衛町通り。当時、通りの東側には宅地造成を終えた空き地が拡がっていた。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる「愛隣園」と周辺。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「愛隣園」界隈。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、片山廣斗が「愛隣園」開発で注力した下水側溝と簡易舗装の二間道路で突きあたりが現・近衛町通り。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合906番地のアポロ鉄工場。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、ミニ田園都市にしては道幅が二間と広い「愛隣園」。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、夕陽を受けた閑静なたたずまいの「愛隣園」。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、住宅街の真ん中に設置された遊園地(小公園)で、樹木にはマツ・シイ・ヒノキ・サクラ・カエデ・ツツジなどが植えられている。奥に見えているレンガ造りの建物が、汲みあげポンプ2台と気圧タンク2基が設置された水道棟。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、レンガ造りの水道棟。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1916年(大正5)に刊行された「建築工芸叢誌」19号(建築工芸協会／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1918年(大正7)に刊行された「武蔵野」10月号(武蔵野文化協会／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合604番地の浅川邸とその周辺。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　浅川家が開発したと思われる、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・浅川邸の東側一帯。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B585E5B79DE5AEB6E4BD8FE5AE85E59CB0.jpg" alt="浅川家住宅地.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>下落合を描いた画家たち・徳川義恕。</title>
<description>　西坂上の徳川義恕(よしくみ)邸には、大正期から付近に住む洋画家たちが多く集まり、邸の建築やボタン園の「静観園」、あるいはバラ園などを写生していた。こちらでは、これまで吉田博をはじめ松下春雄、有岡一郎、吉田遠志などの作品をご紹介している。　また、徳川義恕の寛子夫人は吉田博に絵を習っていたという証言も、以前お訪ねした際に当代の徳川様よりうかがっている。いや、寛子夫人に限らず西坂の徳川家は、一家をあげて洋画を描くのが趣味だったのだ。そもそも、徳川義恕自身が画会「聊娯会」に所属して..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-28T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E68195E3808CE5BAADE381AEE99BAAE3808D.jpg" alt="徳川義恕「庭の雪」.jpg" width="600" height="451" border="0" /></div><div>　西坂上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-23.html" target="_blank" rel="noopener">徳川義恕(よしくみ)邸</a>には、大正期から付近に住む洋画家たちが多く集まり、邸の建築やボタン園の「静観園」、あるいはバラ園などを写生していた。こちらでは、これまで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-04-25.html" target="_blank" rel="noopener">吉田博</a>をはじめ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-12.html" target="_blank" rel="noopener">松下春雄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">有岡一郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-01.html" target="_blank" rel="noopener">吉田遠志</a>などの作品をご紹介している。<br />　また、徳川義恕の寛子夫人は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">吉田博</a>に絵を習っていたという証言も、以前お訪ねした際に当代の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-29.html" target="_blank" rel="noopener">徳川様</a>よりうかがっている。いや、寛子夫人に限らず西坂の徳川家は、一家をあげて洋画を描くのが趣味だったのだ。そもそも、徳川義恕自身が画会「聊娯会」に所属しており、毎年暮れになると長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-21.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄アトリエ</a>で開かれる餅つき大会へ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519787673.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">満谷国四郎</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-05-17.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>、金井文彦、吉村由松らとともに夫人同伴で参加している。この餅つき大会は、1936年(昭和11)以降も<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄</a>の転居先となる下落合604番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ</a>でも継承されていたのだろう。<br />　1928年(昭和3)12月24日に、牧野虎雄アトリエで開かれた餅つき大会のめずらしい記念写真が残されている。左端には背広姿の徳川義恕が、右端には着物姿の寛子夫人がとらえられており、徳川義恕の真上には下落合630番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-07.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>が、その右並びにはまるで餅運びの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">小使いさん</a>のような、頬っかぷりをした下落合753番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">満谷国四郎</a>が写っている。いつもこんな格好をしてるから、展覧会で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-27.html" target="_blank" rel="noopener">今村繁三</a>に小使いさんとまちがえられるのだろう。満谷国四郎の右には、下落合540番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄</a>が並んで写っている。つきたての餅を味わったあと、一行は近くの空き地で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-03.html" target="_blank" rel="noopener">タコ揚げ</a>大会に興じてるのだろう。<br />　さて、西坂の徳川家では1941年(昭和16)に、家族の作品を収録した徳川義恭の編輯による画集『暢美』(私家版／非売品)を出版している。掲載されているのは、徳川義恕をはじめ寛子夫人、子息たちとその夫人の作品計31点だ。きょうは、その中から徳川義恕が下落合を描いた作品を中心にご紹介してみたい。同画集から、編輯者・徳川義恭がつづる「序」を少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　ふとしたことから作品集を作ることになりまして、一家の者の作品、約三十点を撰びました。／始(ママ)めての試みでありますから、二十数年も前の作品から極最近のもの迄含まれて居ります。／これは一家のすべてが趣味を同じくすることを記念して出来た図録と云ふべきものであります。／けれども、日常のすさびや旅情を豊かにするてだてとしてのこの道は、単なる一家の趣味といふに止らず、一家の気持を反映するものとしても亦一つの役割を演じて居ります。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　まず、『庭の雪』(6号)とタイトルされた画面(冒頭写真)は、一見してどこを描いたのかがわかる。大きな西洋館の母家(おそらく昭和期の新邸)を背に、降雪後の南側に広がる庭園の先端を描いたもので、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-17.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ</a>(崖地)の淵には四阿(あずまや)がとらえられている。左手の三角に切りとられた空の下に見えているのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-28.html" target="_blank" rel="noopener">上戸塚</a>から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">戸山ヶ原</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">百人町</a>方面の眺望だ。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">西坂</a>は、この切り立った崖地の下から右手(西)に向かい、北の丘上へと通ってきている。正確な制作年は不明だが、崖地に四阿が設置されているところをみると、画集の出版年からそれほど離れていない時期の作品ではないだろうか。空中写真を年代順に参照してみると、崖地の先端に建設されている四阿は1944年(昭和19)の空中写真、および1945年(昭和20)4月2日の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-23.html" target="_blank" rel="noopener">第1次山手空襲</a>直前に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>が撮影した写真で確認できる。画家は、庭園中ほどの北側から南を向いて描いており、背後の左手には大正期と同様にバラ園が残っていただろうか。この時期、東京名所としてボタンで有名だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-11.html" target="_blank" rel="noopener">「静観園」</a>は徳川新邸の東側、すなわち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-19.html" target="_blank" rel="noopener">聖母坂</a>に沿った東斜面に移されていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A485E381A4E3818DE5A4A7E4BC9A19281224.jpg" alt="餅つき大会19281224.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE982B819450402.jpg" alt="徳川邸19450402.jpg" width="520" height="483" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C89E5B2A1E4B880E9838EE3808CE5889DE7A78BE9838AE5A496E3808D1926.jpg" alt="有岡一郎「初秋郊外」1926.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DBEE4B88BE698A5E99B84E3808CE4B88BE890BDE59088E5BEB3E5B79DE794B7E788B5E588A5E982B8E3808D192605.jpg" alt="松下春雄「下落合徳川男爵別邸」192605.jpg" width="520" height="400" border="0" /></div><div>　つづいて、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-24.html" target="_blank" rel="noopener">紹介所</a>からモデルを雇い徳川邸内で描いたとみられる、『窓辺』(20号)の裸婦像がある。制作年が不明なので、厳密にいえば描かれている窓辺が新邸のものか旧邸のものかは不明だが、フランス風の出窓の下には造りつけのソファが見えている。窓外の景色は、背の低い植木が繫っているようなので、おそらく邸1階の窓辺なのだろう。これは推測だが、邸内の意匠が古めかしい造りであること、モデル女性の髪形が昭和期にしては垢ぬけていないことから、大正期の作品ではないだろうか。したがって、旧邸内の情景のように思える。<br />　次は、徳川邸(別邸時代)から外へでて風景を描いた、『郊外』という30号キャンバスの画面だ。おそらく明治末か大正初期に、徳川義恕が付近を散策しながら発見した風景を描いているのだろう。一見して、妙正寺川に設置されたバッケ堰のひとつをモチーフに制作したものだ。『郊外』には、徳川義恕自身によるキャプションが添えられている。同画集より、全文を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　下落合の別荘より哲学堂附近へかけ、当時は一面の原にて特に秋には空が澄み渡り大変美しくありました。／今日はこのあたりに住宅や工場が列びこの時代の面影は全く失はれて居ります。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　画面がモノクロで暗く、描かれている微細な部分は不明だが、この妙正寺川に築かれたバッケ堰は、上落合にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-17.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケの水車」</a>小屋の下流に築かれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-12-25.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ堰</a>ではない。堰自体の幅がかなり狭いこと、手前に溜池状に拡がる水面が広くないこと、妙正寺川の川幅が狭いことなどから、もうひとつ上流の上高田と下落合との間にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ堰</a>ではないかと思われる。<br />　したがって、遠景に見える左手前の森林は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">東光寺</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">光徳院</a>の建つ境内あたりの杜、中央の森林は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-03.html" target="_blank" rel="noopener">四村橋</a>(しむらばし)の西側に接した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-08-28.html" target="_blank" rel="noopener">急斜面の丘</a>であり、さらにその向こう側(右寄り奥)に見える緑の連なる森林地帯は、徳川義恕も触れている<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">井上哲学堂</a>のある丘陵(通称：<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-14.html" target="_blank" rel="noopener">和田山</a>)だろう。左手は、いまだ耕地整理が行われる以前の水田地帯であり、通称<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518015934.html" target="_blank" rel="noopener">“バッケが原”</a>にはなっていない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E681ADE7B7A8E3808CE69AA2E7BE8EE3808D1941.jpg" alt="徳川義恭編「暢美」1941.jpg" width="255" height="355" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E68195.jpg" alt="徳川義恕.jpg" width="255" height="355" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E68195E3808CE7AA93E8BEBAE3808D.jpg" alt="徳川義恕「窓辺」.jpg" width="520" height="716" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E681951929.jpg" alt="徳川義恕1929.jpg" width="520" height="473" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E68195E3808CE9838AE5A496E3808D.jpg" alt="徳川義恕「郊外」.jpg" width="520" height="372" border="0" /></div><div>　徳川義恕は、別邸を出ると西坂を下り、鎌倉支道のひとつである<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">中ノ道</a>を、ハイキング気分で延々と西へ歩いていったのだろう。ひょっとすると、寛子夫人や幼い長男の義寛を連れて、持参の弁当をどこかの草原で食べているのかもしれない。道路の左手には、一面の水田地帯が拡がり、田圃のなかには東京電燈が設置した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-10-14.html" target="_blank" rel="noopener">谷村線</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">木製高圧線塔</a>がつづいている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-30.html" target="_blank" rel="noopener">稲葉の水車</a>の小屋近くまでくると、東西を流れていた妙正寺川の川筋は、ほぼ直角に北へと折れ曲がる。御霊下の田圃から見あげた丘上には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517034041.html" target="_blank" rel="noopener">中井御霊社</a>の濃い杜が見えただろう。<br />　目白崖線沿いの道も同様に北へと折れるが、そこには崖地に通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ坂</a>下の手前に、下流で見た堰よりも規模のかなり小さめなバッケ堰が目についた。夏であれば、子どもたちが堰の下の水溜まりで、遊泳を楽しんでいたかもしれない。現在の御霊橋が架かるあたりだ。徳川義恕は、バッケ堰の下流およそ65mほどの位置にイーゼルをすえると、北北西を向いてキャンバスに向かいはじめた。彼が立つ位置は、のちの住所でいえば下落合4丁目2161番地(当時は番外地／現・中井2丁目)、いまの御霊(ごりょう)坂の下あたりの斜面ということになる。<br />　また、この位置はくしくも1926年(大正15)9月21日の、東京気象台によればどんよりとした曇り空の下、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>が<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank" rel="noopener">「下落合風景」シリーズ</a>の1作<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-10-24-1.html" target="_blank" rel="noopener">『洗濯物のある風景』</a>を描いた位置に重なり、のちに建てられた農家とみられる洗濯物を干す<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank" rel="noopener">住宅</a>は、徳川義恕が立つ背後右手になる。また、徳川義恕のいる右側にそそり立つ崖地からは、1950年(昭和25)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">旧石器時代</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">石器</a>が次々と発見され、のちに丘上の複合遺跡も含め<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">「落合遺跡」</a>と名づけられた。<br />　男爵・徳川家の四男・徳川義恭が編輯した『暢美』だが、ほかにも徳川義恕の連れ合いである寛子夫人をはじめ、長男・徳川義寛や二男・義孝(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519750490.html" target="_blank" rel="noopener">津軽義孝</a>)、三男・義忠、その連れ合いである禮子夫人などによる風景画や人物画、静物画、仏画などさまざまな作品が掲載されている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6898BE5A19AE7B791E6958FE3808CE38390E38383E382B1E5A0B0E3808D.jpg" alt="手塚緑敏「バッケ堰」.jpg" width="520" height="307" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACAC2E381AEE38390E38383E382B1E5A0B0.jpg" alt="第2のバッケ堰.jpg" width="520" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACAC2E381AEE38390E38383E382B1E5A0B01935E9A083.jpg" alt="第2のバッケ堰1935頃.jpg" width="520" height="398" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59CB0E5BDA2E59BB31918.jpg" alt="地形図1918.jpg" width="520" height="558" border="0" /></div><div>　わたしは、特に徳川義忠が描く『大磯別荘』に惹かれた。そのキャプションから引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　大磯の真夏の松林の家。のんびりとして居た日がなつかしい。それにあそこには、少年の頃の思ひ出が、一杯だ。波を枕に松風の音。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　昔の拙記事だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>に展開した豪華な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-12-30.html" target="_blank" rel="noopener">別荘街</a>について、その所在地とともに書いたことがあったけれど、徳川義恕の別荘は大磯のどのあたりにあったのだろうか。上記のキャプションからすると、小田原へ転居した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">山県有朋</a>の別荘跡地、徳川義禮別荘の南側海岸寄りあたりだろうか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：おそらく1935年(昭和10)以降の、新邸時代に描かれたとみられる徳川義恕『庭の雪』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1928年(昭和3)12月24日に牧野虎雄アトリエで行われた恒例餅つき大会記念写真。(写っている人物たちについては本文参照)　<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1945年(昭和20)4月2日に米軍<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-09.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>によって撮影された西坂上の徳川義恕邸。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1926年(大正15)に徳川邸の南庭から母家(旧邸)を描いた有岡一郎『初秋郊外』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1926年(大正15)5月に徳川邸の南庭東寄りにあったバラ園を描いた松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、1941年(昭和16)に出版された徳川義恭・編『暢美』内扉(私家版)。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、杖(じょう)の代わりにハタキをもって達磨大師に扮する徳川義恕。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、室内制作の徳川義恕『窓辺』(制作年不詳)。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1929年(昭和4)に撮影された徳川義恕。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、明治末か大正初期に制作されたとみられる妙正寺川上流のバッケ堰を描いた徳川義恕『郊外』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、上落合768～780番地の「バッケの水車」小屋のやや下流にあったバッケ堰を描いた手塚緑敏『バッケ堰』(昭和初期)。堰の下は溜池状になり、妙正寺川の川幅もかなり広かった。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、上高田と下落合の間の現・御霊橋あたりにあった規模の小さなバッケ堰(『ふる里上高田昔語り』1982年より)。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる『郊外』のバッケ堰界隈。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図でみる徳川義恕の描画ポイント。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　徳川義忠が描く小品の『大磯別荘』(4号)で、クロマツの防砂林が海風に揺れている様子がよくとらえられている。手前の植物は、夏になるとよく見かけるオオマツヨイグサの黄色い花だろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEB3E5B79DE7BEA9E5BFA0E3808CE5A4A7E7A3AFE588A5E88D98E3808D4E58FB7.jpg" alt="徳川義忠「大磯別荘」4号.jpg" width="520" height="373" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span><br />　1928年(昭和3)12月24日に徳川義恕・寛子夫妻も参加して行われた、牧野虎雄アトリエの恒例餅つき大会。餅をついているのは、近くに住む左から右へ牧野虎雄、森田亀之助、吉村吉松、金井文彦で、奥に見える頬っかぶりをした餅運びの小使いジイやが満谷国四郎。下の写真は、つきたての餅を賞味したあと、近くにある長崎村の空き地でタコ揚げをする牧野虎雄とその一行。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E789A7E9878EE382A2E38388E383AAE382A8E9A485E381A4E3818DE5A4A7E4BC9A19281224.jpg" alt="牧野アトリエ餅つき大会19281224.jpg" width="520" height="392" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E789A7E9878EE8998EE99B84E587A7E68F9AE38192192903E7BE8EE8A193E696B0E8AB96.jpg" alt="牧野虎雄凧揚げ192903美術新論.jpg" width="520" height="339" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>目白貨物駅で積み卸しされていた荷は？</title>
<description>　きょうは、地元でもあまり語られることが少ない、目白貨物駅について書いてみたいと思う。この貨物駅には、いったいどのような物資が到着し、または送りだされていたのだろうか。鉄道輸送は、1970年(昭和45)前後にピークを迎えるが、それ以前の1960年代後半にはすでにトラック輸送に追い抜かれ、以降、今日まで下降線をたどっている。　山手線の目白駅における貨物扱いは、日本鉄道時代の1903年(明治36)にはじまったとされているが、いまだ貨物専用の駅は存在していない。山手線ホームの西側に..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-24T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E799BAE794B0E9A785E8B2A8E789A9E4B88AE5B18B1958.jpg" alt="新発田駅貨物上屋1958.jpg" width="600" height="415" border="0" /></div><div>　きょうは、地元でもあまり語られることが少ない、目白貨物駅について書いてみたいと思う。この貨物駅には、いったいどのような物資が到着し、または送りだされていたのだろうか。鉄道輸送は、1970年(昭和45)前後にピークを迎えるが、それ以前の1960年代後半にはすでにトラック輸送に追い抜かれ、以降、今日まで下降線をたどっている。<br />　山手線の目白駅における貨物扱いは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-14.html" target="_blank" rel="noopener">日本鉄道</a>時代の1903年(明治36)にはじまったとされているが、いまだ貨物専用の駅は存在していない。山手線ホームの西側に、いわゆる目白貨物駅が誕生したのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">初代橋上駅</a>の目白駅が竣工(1922年)し複々線化が完了したあと、1924年(大正13)ごろのことだ。貨物駅が開設された場所は、目白駅から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">田端駅</a>へと向かう<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-18.html" target="_blank" rel="noopener">豊島線</a>の建設用に、日本鉄道がすでに買収していた敷地が活用されているとみられる。<br />　開設当初は、荷役用のプラットホームや貨物上屋(うわや)、ホームに隣接した鉄道倉庫などが存在せず、管理者が勤務する建屋や人足たちの詰所、あるいは荷車を曳く馬の厩舎や道具置き場などが建ち並んでいたようだ。その様子は、ずいぶん以前にご紹介していたが、山梨県の観光サイトで公開された、1925年(大正14)制作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-06.html" target="_blank" rel="noopener">甲斐産商店</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">広報記録映画</a>で見ることができる。ただし、現在では当該サイトが閉じられ公開されていないのが残念だ。<br />　同映画では、目白貨物駅に到着した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-24.html" target="_blank" rel="noopener">大黒葡萄酒</a>のワイン樽が、プラットホームのない線路と同じ高さの地面に下ろされる様子が写っている。そして、馬車に積みこまれて小さな建屋が並ぶ貨物駅の構内を抜け、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-22.html" target="_blank" rel="noopener">椿坂</a>を下って山手線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">ガード</a>をくぐり、下落合10番地にあった大黒葡萄酒の壜詰め工場へと運ばれるシーンがとらえられている。<br />　同映画では、昭和期にプラットホーム上などでよく見られた、貨物駅に特有の貨物上家(うわや)は、いまだ建設されていないのか見あたらない。上屋というのは、旅客鉄道の駅舎に相当する建物で、貨物線における「駅舎」のような機能をもった施設だった。この貨物上屋(うわや)の詳細を知ったのは、高輪の柘榴坂上にある物流博物館においてだ。貨物列車でとどく荷に風雨や雪が直接当らないで積み卸しができるようにする大屋根と、貨物に付属する運輸情報を処理する貨物管理事務所(通称：トラバコ)が一体化したような建物だった。<br />　物流博物館では、新潟県の新発田貨物駅の模型を展示して、当時の写真とともに貨物上屋について解説している。国鉄時代の上屋は、1950年代の様子を再現したものだが、おおよそ戦前の建築も同様の造りだったと思われる。同博物館のパンフレットより、上屋について引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　&lt;新発田は&gt;雪の多い地方だけに、上屋の屋根には角材を用いた雪留めが施されていました。また風雪を除けるため、上屋の側面には羽目板の壁が張られていました。この壁は「下見板張り」(上方の羽目板の下端を下方の羽目板の上端に重なるように張る)と呼ばれる工法によるもので、雨水が浸透しにくいという特徴がありました。／上屋のガラス窓のついた部分は、現場で「トラバコ」と通称されていた事務所です。脇に立てかけられているスノコは、ホーム両端の入口に設置して、防犯用の仕切りとしたものです。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　戦前からつづく上屋は、まるで小学校の校舎のような外壁をしていたのがわかる。ただし、1階部には貨物の積み卸しができるよう、大きなスペースが拡がっていた。目白貨物駅の上屋は、1979年(昭和54)に同駅が廃止されるまで、何度か建て替えられて存在していたのがわかる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851.JPG" alt="目白貨物駅1.JPG" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7852.JPG" alt="目白貨物駅2.JPG" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851932E9A083.jpg" alt="目白貨物駅1932頃.jpg" width="520" height="429" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851936.jpg" alt="目白貨物駅1936.jpg" width="520" height="430" border="0" /></div><div>　少し横道へそれるが、目白貨物駅(の敷地)を描いた画家には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-14.html" target="_blank" rel="noopener">小島善太郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-24.html" target="_blank" rel="noopener">小熊秀雄</a>がいる。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">小島善太郎</a>が1913年(大正2)に制作した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-17.html" target="_blank" rel="noopener">『目白駅より高田馬場望む』</a>では、椿坂とともに貨物駅が建設される予定の山手線東側の敷地が描かれている。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">小熊秀雄</a>が1930年(昭和5)に描いた、椿坂を上る正面に中世の古城のような<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-10.html" target="_blank" rel="noopener">目白市場</a>が見える<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-27.html" target="_blank" rel="noopener">『目白駅附近』</a>では、目白貨物駅の引込線に入る荷を積んだ有蓋車がとらえられているが、この時点で上屋が存在したかどうかは不明だ。線路に沿ったホームに上屋が確認できるのは、1932年(昭和7)ごろに撮影された空中写真および1936年(昭和11)撮影の空中写真あたりからだ。<br />　さて、1928年(昭和3)に鉄道省運輸局が刊行した『東京市及附近貨物集散状況』には、目白貨物駅の現状について書いた記事が掲載されている。同報告書の統計解説より、引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　本駅は一般貨物積卸場三〇七坪、散物取扱場一五三坪、合計四六〇坪、之が年間取扱能力十三万余頓にして、昭和元年の実績十三万七千余頓に比するときは、七千余頓の不足を来す算定であるが、戸山ヶ原新設駅開設の暁に於て寧ろ新設駅の取扱を便宜とするものが約二八,三七九頓を算し、仮りに之を誘引し得るとすれば、夫丈け取扱能力の行詰りを緩和し得るものである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　どうやら、目白貨物駅では昭和初期の不況の影響から、1926年(大正15・昭和元)のピーク時に比べ貨物の取り扱い量が7,000余トンも減少していたようだ。<br />　では、どのような荷が目白貨物駅で取り扱われていたのだろうか。『東京市及附近貨物集散状況』では、目白貨物駅が年間に取り扱った荷の種類を、地方からの到着状況および目白貨物駅からの発送状況に分けて統計表を作成し、荷の重さ(重量トン)とともに記録している。まず、到着状況から見ていこう。1928年(昭和3)の時点で、目白貨物駅にもっとも多く到着している荷は「石材及砂利」だ。もちろん、宅地開発の築垣や縁石には欠かせない石材(大谷石など)や、コンクリートに不可欠な玉砂利が多いのは、目白駅周辺の東京郊外で大規模な宅地開発が行われていたからだ。「石材及砂利」の年間の重量は、45,000余トンとなっている。<br />　つづいて多いのが、燃料系の荷で「石炭及骸炭」の22,000余トンとなっている。これは、鉄道の蒸気機関車用に集積された燃料も含まれているとみられる。また、家庭の燃料や暖房で使われる「薪炭」が、それにつづく約9,000トンの取り扱い量となっている。時代が昭和初期なので、それほど住宅が稠密に建てられておらず、目白貨物駅のある高田町や落合町、戸塚町などでは家庭用燃料の消費量も、他の貨物駅に比べるとそれほど多くはなかった。<br />　燃料系の荷につづき目白貨物駅へ大量に到着したのは、もちろん「米」だ。当時の主食はほとんどが米なので、5,000余トンが目白貨物駅に到着している。つづいて、再び建築資材にもどり、建設工事に必要な「石灰及セメント」が、3,500余トンも運びこまれている。「石灰及セメント」に次いで多いのが、やはり建築資材とみられる「木材類」の3,100余トンだ。また、生産資源とみられる原料も運びこまれている。「石灰及セメント」に次ぐ「綿類」の1,900余トンは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">旧・神田上水</a>(1966年より<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>)沿いに多かった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">製綿工場</a>や、医療系の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-13.html" target="_blank" rel="noopener">衛生品工場</a>で需要があったのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E38288E3828AE9AB98E794B0E9A6ACE5A0B4E69C9BE382801913.jpg" alt="目白駅より高田馬場望む1913.jpg" width="520" height="344" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE9A785E99984E8BF911930.jpg" alt="目白駅附近1930.jpg" width="520" height="447" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B2A8E789A9E58897E8BB8AE381A8E38388E383A9E38383E382AFE9818BE8BCB8E382B0E383A9E38395.jpg" alt="貨物列車とトラック運輸グラフ.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9818BE98081E7958CE4B880E79EA5E3808CE79BAEE799BDE9A785E9818BE98081E5BA97E3808D1933E4BAA4E9818BE697A5E697A5E696B0E8819EE7A4BE.jpg" alt="運送界一瞥「目白駅運送店」1933交運日日新聞社.jpg" width="520" height="858" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851935.jpg" alt="目白貨物駅1935.jpg" width="520" height="473" border="0" /></div><div>　次いで、建築材の「煉瓦」が約1,900トンとつづき、再び食糧の「麦類」1,000余トンとなる。麦類がかなり多いのは、目白駅と池袋駅の間に大規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-05.html" target="_blank" rel="noopener">東京パン</a>の製パン工場や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-11.html" target="_blank" rel="noopener">製粉工場</a>が操業していたからだろうか。以下、「薬品類」が約700トン、「野菜類」が約600トン、「肥料及飼料」が550余トン、「油脂蝋類及其製品」と「硝子類及其製品」がそれぞれ370余トンに350余トンとつづく。日常の食卓には欠かせない「味噌醤油」は年間260余トンだが、「和洋酒及清涼飲料」が150余トンと意外に多いのは、大黒葡萄酒の原料樽も含まれているせいだろう。<br />　次に、目白貨物駅から各地に向けて、発送される荷の状況を見てみよう。ほとんどが目白貨物駅のある地元・高田町からの発送で、全体の75％を占めている。高田町内から、貨物車貸し切りで送られるもっとも多い荷は、「肥料及飼料」の400余トンだ。これは、高田町の肥料・飼料生産が盛んだったわけではないので、別の地方から送られてきた荷を駅近くの倉庫に保管し、それをスケジュールにあわせて発送しているとみられる。また、「木材類」の280余トン、「薪炭」の約110トンも同様で、目白貨物駅の周辺に保管されていたものを出荷しているのだろう。<br />　そのほか石炭やセメント、石材、砂利、石灰、鉄、鋼、銅、染料、各種機械類なども高田町ではあまり生産していないとみられるので、倉庫にストックしていた荷を倉出しし物流ルートへのせているとみられる。ただし「薬品類」などは、旧・神田上水沿いに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-08.html" target="_blank" rel="noopener">製薬会社</a>などがあったため、生産された製品が出荷されているのかもしれないし、「牛及馬」は高田町内の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">牧場</a>で飼育されていた動物たちを、家畜車に乗せて別の飼育場や食肉処理場へ運搬している可能性がある。<br />　目白貨物駅を利用した、周辺の自治体の荷物を見てみると、落合町からは「鉄及鋼、銅」および「鉄及鋼製品」が130～150余トンも貨車に積まれて発送されている。これらの金属や製品類は、落合地域の旧・神田上水沿いに建っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-23.html" target="_blank" rel="noopener">金属工場</a>や部品工場から出荷されたのかもしれない。また、落合町からの「和洋酒及清涼飲料水」20余トンとは、もちろんボトルに詰められ改めて出荷された、甲斐産商店の大黒葡萄酒が中心だろう。<br />　長崎町からも、落合町と同様に「鉄及鋼、銅」と「鉄及鋼製品」40余トンが、目白貨物駅から出荷されているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-16.html" target="_blank" rel="noopener">快進社DAT自動車工場</a>の製品輸送でないとすれば、どこかに金属加工や部品製造の工場があったものだろうか。興味深いのは小石川区から唯一、「和洋紙」60トンが目白貨物駅から発送されていることだ。前世紀まで、文京区の神田川沿いは印刷業と用紙業が盛んだったが、昭和初期からすでに印刷用紙を各地へ発送していた様子がうかがえる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851960.jpg" alt="目白貨物駅1960.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851975.jpg" alt="目白貨物駅1975.jpg" width="520" height="403" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A7851970E5B9B4E4BBA3E5BE8CE58D8A.jpg" alt="目白貨物駅1970年代後半.jpg" width="520" height="369" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A785-c6315.jpg" alt="目白貨物駅.jpg" width="520" height="695" border="0" /></div><div>　なお、高田町の南に位置する牛込区から、目白貨物駅を利用して発送する荷は、ほとんどが倉庫にストックされていた物資が多いようで、もっとも多いのが「石材及砂利」「米」で、「薪炭」「石灰及セメント」などの建材や、「味噌醤油」「和洋酒及清涼飲料水」などがそれに次いでいる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：物流博物館のリーフレットに掲載された、1958年(昭和33)撮影の新発田貨物駅上屋。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)に目白貨物駅に到着した甲斐産商店の大黒葡萄酒樽。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、目白貨物駅の構内から椿坂へと出る荷馬車。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1932年(昭和7)ごろ撮影の空中写真にみる目白駅周辺。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)撮影の目白貨物駅。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1913年(大正2)に制作された小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』と、1930年(昭和5)に制作された小熊秀雄『目白駅附近』。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、20世紀の鉄道輸送とトラック輸送の推移。(物流博物館資料より)　<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、目白貨物駅と契約していた高田町の運送会社による連合広告。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、目白貨物駅に停車する品川機関区の蒸気機関車6789。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1960年(昭和35)に撮影された目白貨物駅に集積される酒か醤油とみられる1升壜の木箱。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白貨物駅。倉庫群の南側のプラットホームには、フォークリフトの発達で貨物の移動に長時間を要しなくなったせいか、外壁や管理事務所(トラバコ)の付属しない簡易上屋とでもいうべき積卸場が見える。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1970年代末ごろに撮影された廃止後の目白貨物駅。倉庫群はそのままだが、手前に新しい事務所風の建物が設置され、南側の簡易上屋は解体されている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1960年代に撮影された目白貨物駅と簡易上屋。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1981年(昭和56)の空中写真にみる目白貨物駅と、1985年(昭和60)に制作された保田義孝『目白駅』。画面には目白貨物駅の跡地に、大量の木材(枕木？)が積みあげられている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE8B2A8E789A9E9A785E8B7A11981.jpg" alt="目白貨物駅跡1981.jpg" width="520" height="422" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BF9DE794B0E7BEA9E5AD9DE3808CE79BAEE799BDE9A785E3808D1985.jpg" alt="保田義孝「目白駅」1985.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>薄っすらと記録に残る下落合の中井遺跡。</title>
<description>　中井駅の北、一ノ坂と矢田坂とにはさまれたバッケ(崖地)で、1943年(昭和18)ごろに発見された大規模な「中井遺跡」について、調査報告書がないかどうか探してみたが、やはり敗戦間近な時期なので発掘調査はまったく行われず道路建設が優先され、そのまま破壊されてしまったようだ。戦争が、いかに自国の遺跡や文化財を破壊していくかの見本のひとつだろう。　なぜ、わたしが中井遺跡にこだわるのかといえば、大量のスラグ(鉄滓・金糞)が出土しているからであり、同時に判明しているかぎりでは、古墳時代..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-21T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382BFE382BFE383A9E98A91E98984.jpg" alt="タタラ銑鉄.jpg" width="600" height="468" border="0" /></div><div>　中井駅の北、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">一ノ坂</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">矢田坂</a>とにはさまれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516974783.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ</a>(崖地)で、1943年(昭和18)ごろに発見された大規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank" rel="noopener">「中井遺跡」</a>について、調査報告書がないかどうか探してみたが、やはり敗戦間近な時期なので発掘調査はまったく行われず道路建設が優先され、そのまま破壊されてしまったようだ。戦争が、いかに自国の遺跡や文化財を破壊していくかの見本のひとつだろう。<br />　なぜ、わたしが中井遺跡にこだわるのかといえば、大量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">スラグ(鉄滓・金糞)</a>が出土しているからであり、同時に判明しているかぎりでは、古墳時代後期とみられる土師器などが発見されているからだ。古墳時代の住居遺跡は、下落合にかぎらず<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-25.html" target="_blank" rel="noopener">上落合</a>からも発掘されているが、目白崖線の当該崖地には古代の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-27.html" target="_blank" rel="noopener">タタラ遺跡</a>が眠っていたとみられる。ただし、詳しい発掘調査が行われなかったため、タタラ炉の破片か、あるいは野ダタラの痕跡の有無は不明のままだ。<br />　また、古代のタタラ遺跡が「中井遺跡」と名づけられたのは、江戸期の下落合村における地元の小名にちなんでいるわけだが、この「中井」という字名がふられた地形が意味するところも含めて、わたしは強いひっかかりをおぼえる。なぜなら、現代ではタタラ製鉄の本場とされる島根県には、「中井」と名づけられたタタラ遺跡が、松江市美保関町(大字)稲積にも確認できるからだ。そして、こちらの中井遺跡も山間にある谷間の斜面で発見されている。<br />　そもそも「中井」の小名が意味する地形は、丘陵の麓または斜面、あるいは山間に切れこんだ谷戸か谷間の奥まった斜面から、自然に湧きだす湧水井、あるいは伏水流のある場所へ農地開拓とともに灌漑用に掘られた井戸(湧水源)を指していたようだ。以前にも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-06.html" target="_blank" rel="noopener">太田南畝</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-01.html" target="_blank" rel="noopener">『高田雲雀』</a>や昌平坂学問所地理局の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">『新編武蔵風土記稿』</a>を引用して、北川(現・妙正寺川)と下落合(現・中落合／中井含む)の丘陵とにはさまれた、下落合村の小名「中井」をご紹介していた。たとえば、同じ江戸東京では旧・大森区馬込町1丁目(現・大田区南馬込4丁目)の「中井」あるいは「中井谷」も、やはり谷間の斜面の湧水源にふられた小名として知られている。<br />　古墳時代との関連でいえば、大分県豊後大野市朝地町にある丸山古墳(ここでもまた全国でおなじみの古墳地名<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-06.html" target="_blank" rel="noopener">「丸山」</a>から名づけられた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-05.html" target="_blank" rel="noopener">丸山古墳</a>だ)の近くにある「中井迫」も、山間に切れこむ谷間の地形から湧きでる湧水井だったらしい様子が、1988年(昭和63)に大分合同新聞社から出版された、『あさじ地名考』掲載のイラストからもうかがえる。同地域では、湧水井からの清水を灌漑に利用し、斜面に棚田を拓いていた様子が見てとれる。<br />　また、中井＝湧水井から湧きでるのは、なにも水だけではない。地下からの水圧に押されて、地中に含まれる山砂鉄が湧水源の周囲の地表へ徐々に堆積(土砂に比べ砂鉄は比重が大きい)し、古代の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-07.html" target="_blank" rel="noopener">タタラ集団</a>にとってはかっこうの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-18.html" target="_blank" rel="noopener">神奈(鉄穴)流し</a>場になるのは、日本各地に残るタタラ遺跡にも見える明確な痕跡だ。「中井」に限らず、目白崖線沿いにふられた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">金久保沢</a>(金和久沢)の字名や、雑司ヶ谷村の字名・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">神田久保</a>＝神奈(かんな)久保(日本語地名の「たなら相通」による)、旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-19.html" target="_blank" rel="noopener">金川</a>(弦巻川)、旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">金川(カニ川)</a>なども、中井と同様に清水ばかりでなく、湧水源から砂鉄が噴きでて堆積した流域があったからこそ、そのように名づけられたエリアだったと考えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11936.jpg" alt="中井遺跡1936.jpg" width="520" height="485" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11944.jpg" alt="中井遺跡1944.jpg" width="520" height="462" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A119450402.jpg" alt="中井遺跡19450402.jpg" width="520" height="472" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98984E6BB9328E98791E7B39E29.jpg" alt="鉄滓(金糞).jpg" width="520" height="403" border="0" /></div><div>　さて、タタラの痕跡が色濃い中井遺跡について、戦時のため報告書は存在しないが、それ以前の大正期に、武相考古会(東京と神奈川を中心とする民間の考古学サークル)の会員たちが付近で集めた、鉄滓(スラグ)や土師器や須恵器などを伝聞として記録した文章が、早稲田大学考古学研究室の資料に残っている。以前の落合遺跡の記事でもご紹介しているが、同大学考古学研究室が1955年(昭和30)に刊行した、『落合－落合遺跡調査報告書－』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　現「中井駅」上に構架された改正道路&lt;山手通り&gt;が駅北方で落合台地を削つてつくられた時にも多量の遺物が出土した。これを中井遺跡と名付けることが至当と考えるが、ここからは鬼高期&lt;古墳時代後期&gt;に相当する土師器が出土し、削られた土壁に竪穴断面数個が認められた。&lt;中略&gt;　中井遺跡と仮称す地点については上記したところであるが、&lt;武相考古会の&gt;小松真一氏の大正13年の調査によれば、下落合小上の南向丘陵中腹の住宅地工事によつて、約1尺の黒土層の下にローム土に切り込まれた2つの竪穴の存在していたことを知る。&lt;中略&gt;　これら竪穴のうちA号について、山内、甲野、八幡諸氏の助力によつて小松氏は発掘を試みられ残存部(全形の約1/3)を明らかにされている。それによると、出土遺物は土師器のほか須恵並びに鉄滓塊(長さ3.5寸～1.3寸)計14個を得られている。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の「黒土層」とされているのが、大量の木炭を焼いた灰層だとすれば、炉を築造してのタタラ製鉄ではなく、急斜面と自然風を利用したかなり大規模な野ダタラ跡も想定される。ちなみに、文中の小松真一という人物は、拙ブログの記事でも過去に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">登場</a>している。<br />　上掲の出土物は、おそらく一ノ坂～蘭塔坂(二ノ坂)の中腹あたりに位置する住宅敷地のものだが、山手通りの工事の際には、多量の鉄滓(スラグ)が出土している。それを今度は実際に道路工事の現場で目撃したか、または住民に取材したかは不明だが、戦後<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">「落合新聞」</a>を発刊していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>は、1982年(昭和57)に創樹社から出版された『御禁止山』で次のように記述している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　西武新宿線中井駅近くに「中井遺跡」がある。ここの址跡は山手通りの開鑿でいまは痕跡はない。中井遺跡は大正十三年ら小松真一という考古学者が傾斜地の切取り工事中に古墳時代の住居跡を発見し調査していた。かまどの中からおびただしい木炭の粉や多量の金糞が出土したことから刀鍛冶がいたのではないかと推定されている。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の「傾斜地の切取り工事」という表現から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-16.html" target="_blank" rel="noopener">矢田坂</a>あたりから蘭塔坂(二ノ坂)にかけて見られる雛壇状の宅地開発現場から、遺物が出現していたことがわかる。<br />　ちょうど、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>が蘭塔坂(二ノ坂)の開発現場を描いた<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/shimo-ochiai-landscape.html" target="_blank" rel="noopener">『下落合風景』シリーズ</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-06-07.html" target="_blank" rel="noopener">「切割り」</a>や、山手通り工事で消えてしまった矢田坂から一ノ坂界隈の斜面を描いたとみられる、一般には未公開の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">『下落合風景』</a>の界隈だ。これらの作品が制作される、ほんの2年ほど前に出土していた様子がうかがえる。また、付近では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-29.html" target="_blank" rel="noopener">月見岡八幡社</a>の宮司・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">守谷源次郎</a>と、彼が招聘した東京帝大の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">鳥居龍蔵</a>による調査では、六天坂の西側で古墳時代末期とみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">横穴古墳群</a>が見つかっており、六天坂から蘭塔坂(二ノ坂)一帯の谷戸は、古墳時代の規模の大きな遺跡だった可能性がある。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7A082E98984E68EA1E99B86.jpg" alt="砂鉄採集.jpg" width="520" height="630" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98984E7A9B4E6B581E38197.jpg" alt="鉄穴流し.jpg" width="520" height="630" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A792E78289E382BFE382BFE383A9.jpg" alt="角炉タタラ.jpg" width="520" height="482" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E587BAE99BB2E382BFE382BFE383A9E989A7.jpg" alt="出雲タタラ鉧.jpg" width="520" height="365" border="0" /></div><div>　なお、竹田助雄は「刀鍛冶」と書いているが、今日では大鍛冶(タタラ製鉄集団)と小鍛冶(刀鍛冶)の仕事は早い時期から分離・分業化されていたのが知られており、中井遺跡の痕跡が同一の人々による仕事だったとは限らない。大鍛冶グループが一時的に滞在して、しばらく中井＝湧水井周辺で砂鉄を集め<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516237412.html" target="_blank" rel="noopener">目白(鋼)</a>を製錬したあと、のちに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509710849.html" target="_blank" rel="noopener">古墳刀</a>を鍛造する鍛冶村が形成されているのかもしれない。大鍛冶は、大量の木炭を得られる森林と砂鉄とを求めて常に各地の移動を繰り返しているのであり、炭にする樹木や砂鉄がタタラ場に少なくなれば仕事にならない。地付きで農工業を中心に暮らす定住者の遺跡とは、まったく別の存在だからだ。<br />　また、文中で「かまど」とされている観察が、研究の進んでいない大正期のものなので、ほんとうに生活の場の単なる竈(かまど)だったのか、それとも大鍛冶が構築して鉧(けら)を取りだす際に破壊された、鞴(ふいご)の羽口をともなう溶炉跡だったのかは、いまとなっては知るよしもない。もし、「かまど」とされたものが溶炉跡だとすれば、野ダタラではなく円形か角形かは不明のままだが、粘土によって構築された後世につながるタタラの溶炉跡だった可能性もある。最新の研究では、岩手県南部で古墳時代の後期に、半地下式あるいは大型長方形箱形の溶炉によるタタラ製鉄が行われていたことが、タタラ遺跡の発掘から判明している。<br />　ついでに、島根県の「中井遺跡」についてもご紹介しておこう。松江市美保関町(大字)稲積の遺跡については、1990年(平成2)に彩文社から出版された「知識6」収録の、恩田清「歴史の検証9－島根町の歴史」に、中井遺跡から出土した鉄滓を手にする著者の写真とともに紹介されている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　これ&lt;溶炉&gt;を使用し木炭と砂鉄を交互に投入しながら三昼夜ぶっ通しで吹き続ける(千三百度くらいまで温度が上がる)ことによって砂鉄は溶けて下部に鉧といわれる玉鋼が、その上部に銑鉄(不純の鉄)が澱るのである。そこで砂の湯口を抜いてこれを炉外に流し出すのであるが鉧は流出させることはできないので炉を破砕し取り出すことになる。鉧はキラキラとと白銀のように輝く良質の和鋼で日本刀の原料となっていることは周知のことである。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　筆者は、溶炉の下部に形成された鉧(けら)から日本刀を鍛造すると書いているが、鉧が2.5トンほど製錬できたとすると、その250分の1の100kgが、まるで白銀のように輝く「目白」(刀剣に用いられる鋼)と呼ばれる、良質な部位(鉧の中で地層のような筋“目”として白銀色に形成されている)であって、他の部分は刀剣には用いられず、工具や農具など道具類へ活用されることになる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E981BAE8B7A11947.jpg" alt="中井遺跡1947.jpg" width="520" height="469" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C9DE59CB0E794BAE383BBE4B8ADE4BA95E8BFABE3808CE38182E38195E38198E59CB0E5908DE88083E3808D1988E5A4A7E58886E59088E5908CE696B0E8819EE7A4BE.jpg" alt="朝地町・中井迫「あさじ地名考」1988大分合同新聞社.jpg" width="520" height="355" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DBEE6B19FE5B882E7BE8EE4BF9DE996A2E794BAE7A8B2E7A98DE4B8ADE4BA95E981BAE8B7A1.jpg" alt="松江市美保関町稲積中井遺跡.jpg" width="520" height="315" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BD28E98BBC29.jpg" alt="目白(鋼).jpg" width="520" height="398" border="0" /></div><div>　ちなみに、目白崖線の東に残る「目白」(室町末期より目白山と呼ばれた一帯)の地名は、良質な砂鉄を産出し優れた鋼を製錬できる斜面だったことから、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-01-06.html" target="_blank" rel="noopener">太田道灌</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>を築いた1400年代ごろに、そう名づけられたのではないかと考えている。ちなみに、江戸城の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町</a>は米穀や茶とともに、鉄(鋼)や銅など金属の集積地であり、関東一円の物流拠点になっていた様子がうかがえる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：丸型炉の湯口から流れだした銑鉄(不純鉄)で、冷えて固まるとスラグ(鉄滓・金糞)になる。鉧(けら)は炉の底部に形成され、最後に溶炉を破壊して取りだす。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる改正道路(山手通り)工事前の中井遺跡の位置。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、多量の鉄滓(スラグ)が発見されたあと1944年(昭和19)の空中写真にみる同遺跡。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-23.html" target="_blank" rel="noopener">第1次山手空襲</a>直前の同遺跡界隈。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、タタラ遺跡から多量に発見される不純鉄＝スラグ(鉄滓・金糞)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、島根県で撮影された崖地の砂鉄採集。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、比重の大きい砂鉄を集める神奈(鉄穴)流しで、遺跡は棚田へ改造されたりする。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、角炉によるタタラ製鉄。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、日本刀剣美術保存協会主宰の「出雲タタラ」で製錬された2.5トンの鉧。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる中井遺跡。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、大分県豊後大野市朝地町の「中井迫」界隈を描いたイラスト。切れこんだ谷間に、棚田が形成されていたのがわかる。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、松江市美保関町稲積にある中井遺跡から出土する大きなスラグ(鉄滓・金糞)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、わたしの手もとにある日本刀剣美術保存協会の「出雲タタラ」で精錬された刀剣用の目白(鋼)。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-25.html" target="_blank" rel="noopener">矢田津世子</a>が歩いていた矢田坂(AI着色)の緑が濃かった谷戸、中井遺跡の東側にあたる崖地には、守谷源次郎と東京帝大の鳥居龍蔵によって確認された横穴古墳群が存在していた。下の写真は、大磯の楊谷寺谷戸横穴古墳群(古墳時代後期)だが、このような風情だったのかもしれない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A58AE8B0B7E5AFBAE8B0B7E688B8E6A8AAE7A9B4E58FA4E5A2B3E7BEA4.JPG" alt="楊谷寺谷戸横穴古墳群.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FA2E794B0E6B4A5E4B896E5AD90_color.jpg" alt="矢田津世子_color.jpg" width="520" height="747" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>下落合を描いた画家たち・大久保作次郎。(3)</title>
<description>　牧野虎雄は、長崎町荒井1721番地(現・目白4丁目)につづいて下落合604番地(現・下落合4丁目)に住んだが、長崎でも下落合でもアトリエの庭先をよく描いている。庭には、武蔵野の面影をやどした樹々や、自身がモチーフ用に植えた花卉が咲いていたからだが、下落合540番地の大久保作次郎もまた、よくアトリエ南側の広い庭園を描いている。　特に滞欧からもどったあと、1929年(昭和4)に庭風景の作品が集中しているようだ。自身でも「出不精」「引籠り」と書いているように、大久保作次郎は牧野虎..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-18T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE586ACE381AEE697A5E38196E38197E3808D1929.jpg" alt="大久保作次郎「冬の日ざし」1929.jpg" width="600" height="475" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-21.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄</a>は、長崎町荒井1721番地(現・目白4丁目)につづいて下落合604番地(現・下落合4丁目)に住んだが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">長崎</a>でも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">下落合</a>でもアトリエの庭先をよく描いている。庭には、武蔵野の面影をやどした樹々や、自身がモチーフ用に植えた花卉が咲いていたからだが、下落合540番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-19.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎</a>もまた、よくアトリエ南側の広い庭園を描いている。<br />　特に滞欧からもどったあと、1929年(昭和4)に庭風景の作品が集中しているようだ。自身でも「出不精」「引籠り」と書いているように、大久保作次郎は牧野虎雄とは異なり、アトリエを出て周辺の風景をスケッチするという習慣がなく、たまに出かける国内外を問わない旅行で写生するのが中心だった。戦後の1955年(昭和30)に制作された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-10.html" target="_blank" rel="noopener">『早春(目白駅)』</a>は、付近を散歩の途中で描いたとみられる画面で、めずらしい作品だったろう。したがって、国内の風景画は旅先の名所・旧蹟が多く、アトリエの“外”に拡がる下落合の風景は描いていない。そのかわり、広い敷地に建つ自邸の“内”の風景、特に南の庭園に繁る屋敷林や池をたびたび描いている。<br />　1929年(昭和4)の1年間だけ見ても、自身の庭をモチーフにした作品は3点を数えることができる。すなわち、『冬の日ざし』と『林間の五月』、そして『六月の池』の3作品だ。また、敗戦直後の時期には旅行で遠出ができないせいか、やはり庭の雑木林や花壇、温室など自邸内外の人物(家族など)をまじえた作品が多くなる。それらは、大正期からの作品と表現的にはあまり変わっておらず、むしろ「外光派」の出発点に回帰しているようにさえ感じられる。<br />　大久保作次郎の仕事のなかで、唯一、表現の変革を試みたと思われるのは滞欧作品のあたり、すなわち大正末の数年間にセザンヌのような描写を試みただけであり、帰国後は東京美術学校の黎明期における「外光派」、つまり穏便で着実な(大過ない)「印象派」へと再び回帰しているように見える。1971年(昭和46)に出版された『大久保作次郎画集』(サンケイ新聞社)に収録の、河北倫明の解説文「大久保作次郎の芸術」では、彼の仕事について次のように書いている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　自然の相貌や興趣を印象派式にたどりたどりして、追求するやり方では、どうしても一定のとろさが残り、直截的な胸のすく表現には至りにくいという事情が伏在することである。そこから一般的にいって近代型の直截な感覚表現への道が工夫されていくことになるのだが、大久保さんの場合は、さきにも着目したように、滞欧作「マルセイユの魚売り」あたりで、その方向への気配をうかがわせたにとどまり、ふたたび外光風の着実直摯な作風に戻っていった。つまり、二度と近代風への欲目をみせることがなかったので、以後人物画のほかに風景画などがふえたりはしたが、あくまで本来の外光的追求画法の中に道を求めて迷わなかった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　特に人物画に関しては、大久保作次郎は物語のワンシーンを切りとったような、なにかつづきのシーンがあるのではないかと思わせるような画面が多い。そこが、従来の外光派＝印象派とは異なる、私的なセンチメンタリズムを加味した彼ならではの表現なのだろう。<br />　さて、帰国後しばらくたつ1929年(昭和4)に集中して描かれた、“下落合の庭”3部作について観ていこう。まず、『冬の日ざし』とタイトルされる、大久保邸にあった池と屋敷林を描いたものだ。(冒頭写真)　この池には、ときにスイレンが栽培されるなどして、彼の作品には繰り返し登場している。いかにも、印象派の画家らしいモチーフなのだが、昭和初期の大久保作次郎アトリエは広い敷地に鬱蒼とした屋敷林が繁る、まるで武蔵野の雑木林のような風情だった。<br />　1932年(昭和7)に美術工芸会から出版された『大久保作次郎画集』では、それぞれの作品に自身で解説を書いている。『冬の日ざし』(25号)に添えられた、彼のキャプションを引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　池畔の暗い木立に遠い冬の陽光が射して、もの静かな、ありのまゝの自然を感じるがまゝに描いたものである。／私はこのわが家の同じモチーフを、飽かずに幾枚も画にしてゐる。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE982B81936.jpg" alt="大久保作次郎邸1936.jpg" width="520" height="464" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE69E97E99693E381AEE4BA94E69C88E3808D1929.jpg" alt="大久保作次郎「林間の五月」1929.jpg" width="520" height="412" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE585ADE69C88E381AEE6B1A0E3808D1929.jpg" alt="大久保作次郎「六月の池」1929.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE59091E697A5E891B5E3808D1927.jpg" alt="大久保作次郎「向日葵」1927.jpg" width="520" height="507" border="0" /></div><div>　「ありのまゝの自然」と書いているが、大久保作次郎邸の庭を1936年(昭和11)撮影の空中写真で上空から見ると、武蔵野の雑木林をそのまま保存したような状態に見える。庭にあった池が、自然の湧水によるものかどうかは不明だが、やや窪んだ地形に形成されているところをみると、地面を掘削しているうち地下水がせり上がって、清冽な池になったのかもしれない。<br />　この池を囲む雑木林を描いたのが、同じ1929年(昭和4)に制作された『林間の五月』(25号)だ。(上から3枚目の画面)　画集より、大久保自身によるキャプションを引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　五月のもつ緑色の変化に興味をもつて描いたのである。雑木の緑、雑草の緑、樹間には筍が生へ樹枝には鵯が囀つてゐる。(略) 明暗のもつ調子よりも、色彩の諧調を描こうとしたものである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　初夏になっても山へ帰らないヒヨドリ(鵯)のつがいは、現在でも下落合のあちこちで見られ鳴き声もよく聞こえている。同画集に掲載された画面は、ほとんどがモノクロなので実際の色調は不明だが、さまざまな諧調のグリーンを用いて庭を描きあげているのだろう。<br />　翌月になると、大久保作次郎は再び庭池を描いている。スイレンが咲きはじめたからだが、この画面から土橋の架かる池が、かなり大きかったことがわかる。彼のキャプションを引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　出不精の私は、一度旅に出ると、また帰り不精になつて、永滞在になるのであるが、兎角アトリエに引籠り勝ちで、風景も自宅の庭をよく描き、常に手近いものに愛着をもつて、題材を求めてゐる。／この作も睡蓮咲き初めた庭の池である。睡蓮は私の最も好む花の一つで、連年この池の花によつて幾枚かの作を繰りかへし描いてゐるが、描く度に私の感受性は新しい情緒に呼び起されて、真実を掴むことに力を傾けてゐるのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　『六月の池』(60号)と題された画面(上から4枚目の画面)は、いかにも印象派の表現を踏襲するような色彩の趣きなのだろう。人手で栽培されたスイレンを除けば、『六月の池』のような情景は当時、下落合の目白崖線に入りこんだあちこちの谷戸で見られたにちがいない。それらの湧水池は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">郊外遊園地</a>の庭園池になったり、収穫した野菜の土を落とす<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">「洗い場」</a>にされたり、ニシキゴイなどを養殖する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512040396.html" target="_blank" rel="noopener">「養魚場」</a>になったり、アユを放って<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">「釣り堀」</a>にされたりしている。<br />　大久保作次郎の庭にはヒマワリが植えられていたらしく、1927年(昭和2)には真夏に採取したヒマワリをモチーフに静物画を描いている。近くに住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-03.html" target="_blank" rel="noopener">牧野虎雄</a>も、庭にヒマワリを植えてモチーフにしていたが、大久保作次郎から種を分けてもらい育てていたのかもしれない。12号と小さめなサイズの『向日葵』(上から5枚目の画面)について、同画集のキャプションより引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE88AB1E88B91E381AEE688AFE3828CE3808D1948.jpg" alt="大久保作次郎「花苑の戯れ」1948.jpg" width="520" height="462" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE3818AE88CB6E381A9E3818DE3808D1950.jpg" alt="大久保作次郎「お茶どき」1950.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE69CA8E894ADE381AEE686A9E38184E3808D1952.jpg" alt="大久保作次郎「木蔭の憩い」1952.jpg" width="520" height="421" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　盛夏の花壇に咲く向日葵は、多くの花に君臨するかの様に高く伸びて、蒼空に太陽の様に咲き出る。私は好んで必ずこの花を庭に咲かせ、庭に咲いたままを描く。／この作は庭に咲いた向日葵を切つて、スペヰンの古壺に挿したものである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　次に、アトリエの庭を描いた戦後の3部作を見てみよう。戦前の3部作とは異なり、そこには家族と思われる人物たちが描きこまれている。それぞれの画題は、『花苑の戯れ』(1948年)に『お茶どき』(1950年)、『木蔭の憩い』(1952年)と、ほとんど同じような変わりばえのしない雰囲気の画面がつづく。(上から6枚目～8枚目の画面)<br />　戦後すぐのころの作品群なので、「出不精」で「引籠り」がちな大久保作次郎は、再び庭の情景に目を向けているのだろう。『花苑の戯れ』には、花壇に咲くヒマワリもとらえられている。各画面は、2年おきに描かれており5年間にわたる作品にもかかわらず、まるで映画のワンシーンの情景を切りとったような、あたかも時間がとまったかのような錯覚を起こさせる仕上りとなっている。戦後には、それまで以上に新たな洋画の潮流が日本の美術界へドッと押しよせてきたはずだが、大久保作次郎の「外光風の着実直摯な作風」はまったく変わらなかった。<br />　大久保アトリエのすぐ近くに、1919年(大正8)ごろ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-03.html" target="_blank" rel="noopener">「百姓家」</a>を借りて住み、下落合の路上で貧血を起こして倒れ行路病者になりそこなった同郷の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-31.html" target="_blank" rel="noopener">小出楢重</a>は、この変わりばえのしない大久保作次郎の作風について、皮肉をこめたエッセイを書いている。1936年(昭和11)に昭森社から出版された小出楢重『大切な雰囲気』収録の、「大久保作次郎君の印象」から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　月日が経つた上に、西洋の寂寞と芸術で苦労したものか、最近はその顔に不思議な妖味を現はして来ました。殊に目の位置がだんだん上へ上へとせり上つて了つて、目の下何寸と云つて鯛なら値うちものとなりつゝあります。／君の性格は、母の云ふ如く殿様であり君子です。君子は危きに近よらずとか申しますが、危きに内心ひそかに近よりたがる君子で、危い処には何があるかもよく御存じの君子の様な気もします。とに角ものわかりのよい、親切丁寧、女性に対してものやさしきいゝ君子かも知れません。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　「危き処」とは、時代とともに進化する美術のフロント(最前線)のことであり、そこに近づいたことで官展から放逐され、批評家からははボロクソにこき下ろされ、表現や発表の機会を次々と奪われていったアヴァンギャルドな画家たちをよく知る、小出楢重ならではの最大限の皮肉なのだろう。なお、同エッセイは1930年(昭和5)に刊行された、「美術新論」4月号に掲載されたものだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE6B8A9E5AEA4E381AEE4B880E99A85E3808D1954.jpg" alt="大久保作次郎「温室の一隅」1954.jpg" width="520" height="653" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE3808CE697A9E698A528E5ADA6E7BF92E999A2E381AEE5BAAD29E3808D1948.jpg" alt="大久保作次郎「早春(学習院の庭)」1948.jpg" width="520" height="429" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838EE794BBE99B861932E7BE8EE8A193E5B7A5E88AB8E4BC9A.jpg" alt="大久保作次郎画集1932美術工芸会.jpg" width="265" height="367" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E4B985E4BF9DE4BD9CE6ACA1E9838E1971.jpg" alt="大久保作次郎1971.jpg" width="245" height="367" border="0" /></div><div>　大久保作次郎は、1955年(昭和30)に学習院大学のキャンパスから山手線をはさみ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>の丘を描いた『早春(目白駅)』を仕上げているが、その7年前、まったく同じ画題で『早春(学習院の庭)』を制作している。種子が飛ばされてきたのだろう、繁殖力の強いシュロ(棕櫚)の木があちこちに生える学習院の森だが、同作にも前面に大きくシュロが何本もあしらわれている。めずらしく近所を散策して見つけた風景のようだが、大久保作次郎はアトリエから「出不精」で「引籠り」だったわけではなく、下落合や目白に色濃い武蔵野の風情が残る雑木林から外界へは、あまり出たくない「君子」だったのではないか。戦争に敗けようと餓死者が10万人単位で出ようと、世界は「十年一日の如く」いつも同じで変わらないと信じていられるのも、また「君子」の特権だからだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：自邸の広い庭を描いた、1929年(昭和4)制作の大久保作次郎『冬の日ざし』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合540番地の大久保作次郎アトリエ。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1929年(昭和4)に制作された大久保作次郎『林間の五月』。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同年に制作された同『六月の池』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1927年(昭和2)に制作された同『向日葵』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1948年(昭和23)制作の大久保作次郎『花苑の戯れ』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1950年(昭和25)制作の同『お茶どき』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1952年(昭和27)制作の同『木蔭の憩い』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1954年(昭和29)制作の庭に建てられていた温室内を描いた大久保作次郎『温室の一隅』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、『早春(目白駅)』に先立つこと7年前の1948年(昭和23)に制作された同『早春(学習院の庭)』。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、1932年(昭和7)に出版されたモノクロ画像が主体の『大久保作次郎画集』(美術工芸会)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、1971年(昭和46)に撮影された晩年の大久保作次郎。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　近年の学習院大学キャンパスの森にも、あちこちにシュロの木が目立って生えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5ADA6E7BF92E999A2E382ADE383A3E383B3E38391E382B91.JPG" alt="学習院キャンパス1.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5ADA6E7BF92E999A2E382ADE383A3E383B3E38391E382B92.JPG" alt="学習院キャンパス2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5ADA6E7BF92E999A2E382ADE383A3E383B3E38391E382B93.JPG" alt="学習院キャンパス3.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>津軽義孝邸の馬場と見晴坂沿いの土蔵。</title>
<description>　ずいぶん以前になるが、1935年(昭和10)ごろに制作された国際聖母病院の絵はがきをご紹介したことがある。青柳ヶ原を開発・整地し、竣工して間もない同病院の全景をモチーフにした絵はがきだった。その画面に、聖母坂を上り下りする自動車や人々にまじって、乗馬をする人物も描かれていた。事実、落合地域では乗馬を楽しむ人々が多かったのだろう。　乗馬好きな鈴木三重吉と近衛秀麿が連れだって、乗馬で遠出をしていたエピソードをご紹介していたが、落合地域は乗馬に最適な東京郊外だったせいか、馬が趣味..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-14T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE7BEA9E5AD9DE982B81940.jpg" alt="津軽義孝邸1940.jpg" width="600" height="367" border="0" /></div><div>　ずいぶん以前になるが、1935年(昭和10)ごろに制作された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-07-14.html" target="_blank" rel="noopener">国際聖母病院</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-06-09.html" target="_blank" rel="noopener">絵はがき</a>をご紹介したことがある。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">青柳ヶ原</a>を開発・整地し、竣工して間もない同病院の全景をモチーフにした絵はがきだった。その画面に、聖母坂を上り下りする自動車や人々にまじって、乗馬をする人物も描かれていた。事実、落合地域では乗馬を楽しむ人々が多かったのだろう。<br />　乗馬好きな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-06.html" target="_blank" rel="noopener">鈴木三重吉</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">近衛秀麿</a>が連れだって、乗馬で遠出をしていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">エピソード</a>をご紹介していたが、落合地域は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-07.html" target="_blank" rel="noopener">乗馬</a>に最適な東京郊外だったせいか、馬が趣味の住民たちが多く住んでいたようだ。馬の彫刻ばかり制作して有名になった彫刻家・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508951033.html" target="_blank" rel="noopener">三井高義</a>もそうだし、愛馬<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">「乃木号」</a>にまたがった学習院馬場の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-08-21.html" target="_blank" rel="noopener">乃木希典</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">戸山ヶ原</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">近衛騎兵連隊</a>へ騎馬のまま通勤していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">大島久直</a>の子息・大島久忠など、落合地域は適度な起伏もあるため、大正期から昭和初期にかけ街道筋を馬がゆきかう格好の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-23.html" target="_blank" rel="noopener">乗馬コース</a>でもあった。また、中には落合地域が近衛騎兵連隊の日常的な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">訓練エリア</a>とされたせいで、その被害をうけた地元住民から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-11.html" target="_blank" rel="noopener">近衛師団</a>が猛抗議される、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">境界柵破壊事件</a>なども<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank" rel="noopener">「落合遊園地」</a>の谷戸近くで発生している。<br />　この地域の乗馬好きな住民のひとりに、下落合3丁目1765番地(現・中落合1丁目)の翠ヶ丘に住んでいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-10.html" target="_blank" rel="noopener">津軽義孝</a>がいた。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-22.html" target="_blank" rel="noopener">ギル夫人邸</a>のあと、同地に邸を建設して麻布区市兵衛町2丁目13番地から下落合へ転居してきている。彼の馬好きは広く知られており、戦前戦後を通じてさまざまな乗馬競技団体の役員や理事、競馬関連組織の代表などをつとめている。津軽義孝について、1939年(昭和14)に刊行された『華族大観』(華族大観刊行会)より、その一部を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　徳川幕府の初に於て四萬七千石を領せしが後十萬石に加封せらる、明治維新の際藩主承昭勲功に依り賞典禄一萬石を給はり、明治十七年伯爵を授けらる、先代英麿は公爵近衛篤麿の弟にして、入りて承昭の嗣となり、夙に独逸に留学し法律学を修め、帰朝後学習院及早稲田、慶應法政各大学に教授し、後韓国宮内府書記官、李王職事務官を歴任し、又宮内省式武官に任ぜられ、退官後貴族院議員に選ばれたり。／<strong>当主</strong>…義孝は男爵徳川義恕の二男にして明治四十年十二月を以て生る、母は承昭の二女寛子なり、大正八年先代英麿の後を享け家督を相続し襲爵仰付けらる、平素生物学に興味を有し、且つ馬事研究に従事し現に日本競馬会に勤務す。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　津軽義孝は、下落合東部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">近衛家</a>とも、また<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-17.html" target="_blank" rel="noopener">西坂</a>上の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-23.html" target="_blank" rel="noopener">徳川家</a>とも姻戚関係だったのがわかる。だからこそ、下落合の近所へ転居してきているのだろう。<br />　先日、ギル(Gill)邸に咲いていた黄色い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">モッコウバラ</a>の記事で、六花さんと津軽義孝をめぐるコメントのやり取りをしていて、中谷邸の裏に津軽邸の馬場があったことに気づいた。中谷邸のご当主(当時)も、確かギル邸のバラ園とともに、のちに転居してきた津軽邸の馬の話もされていたように記憶している。その際、津軽邸の厩舎がどこにあったのかまでは訊きそびれているが、おそらく和館や土蔵のある敷地北側の家令住宅群に近いほうではなかったろうか。<br />　津軽邸の南側に拡がる庭は、一面が芝庭だった様子が空中写真では見てとれる。また、撮影者は津軽義孝自身だろうか、1940年(昭和15)に庭先で家族を写した写真でも、母家の前に拡がる広い芝庭の様子がとらえられている。(冒頭写真)　人物の背後には、母家の洋館部と和館部がとらえられており、右端で画面の枠外に切れているのが2階建ての大規模な同家の土蔵だ。この蔵は、1937年(昭和12)に津軽邸で催された「青森県人会園遊会」の記念写真で、その全体像がとらえられている。この蔵の右手(東側)には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">中ノ道</a>(下の道＝現・中井通り)へと下る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-13.html" target="_blank" rel="noopener">見晴坂</a>が、冒頭写真にとらえられた洋館部の左手(西側)の、少し離れた位置には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">六天坂</a>が通っている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE982B8E99D92E6A3AEE79C8CE4BABAE4BC9AE59C92E9818AE4BC9A1937.jpg" alt="津軽邸青森県人会園遊会1937.jpg" width="600" height="402" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE982B81935E9A083.jpg" alt="津軽邸1935頃.jpg" width="600" height="471" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE982B819450402.jpg" alt="津軽邸19450402.jpg" width="600" height="587" border="0" /></div><div>　ここで、津軽邸の馬場のテーマから少し外れるが、冒頭写真にとらえられた洋館部を観察すると、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-07-26.html" target="_blank" rel="noopener">ギル夫人</a>が住んでいた屋敷とは明らかに異なっているのが判然としている。南側に面した暖炉と煙突の位置は同じだが、ギル邸にあった南面の切妻が津軽邸に見あたらず、屋根のかたちや建物の東西幅が異なっているのがわかる。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">有岡一郎</a>の『或る外人の家』では、屋根の上に尖塔状の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-05-12.html" target="_blank" rel="noopener">フィニアル</a>が描かれていたが、津軽邸には見あたらない。つまり、津軽邸はギル邸を解体してから改めて建設されているとみられ(洋館部の位置はほぼ同一なので、礎石など基礎部は利用しただろうか？)、庭のバラ園をつぶして広い芝庭をしつらえているのだろう。<br />　各時代の空中写真を観察すると、その広い芝庭の南側あたりに池らしい黒い影が見えているが、池のさらに南側にも、樹木が繁っていない広いスペースが拡がっていたのがわかる。この池の南側に拡がる空間が、津軽邸の馬場だったエリアだろうか。ちょうど、中谷邸の裏(東側)にあたる、屋敷林に囲まれた広場のようなスペースだ。<br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-07.html" target="_blank" rel="noopener">乗馬</a>をやったことのある方ならおわかりだと思うが、冒頭写真に写る芝庭のような場所で馬を走らせたら、蹄(ひずめ)と蹄鉄で地面がまたたく間に掘り返されてしまう。サラブの大型馬であれば、体重が500～600kgほどあるので、芝庭に地面を掘り返す土起こし機を走らせているようなものだ。せっかく育成した芝庭が、あっという間に台無しになってしまうだろう。馬場を見たことのある方なら、その地面がたいがい砂あるいは柔らかい土でできていることにお気づきだと思う。したがって、津軽家が乗馬を楽しんだのは、屋敷のすぐ前に拡がる芝庭ではない。すると、残る馬場として使用できそうなスペースは、南北に広い庭園の南側ということになる。<br />　さて、馬場とともにもうひとつ気になるのが、母家の右手(西側)に見えている大きくて頑丈そうな土蔵だ。この蔵の中には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">尾形光琳</a>による江戸中期の名作『紅白梅図』屏風(国宝)が収蔵されていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508609869.html" target="_blank" rel="noopener">空襲</a>の際、津軽邸にも焼夷弾が落ち蔵が炎上しそうになったが、おそらく津軽義孝が命じたのだろう、母家が焼けるのを尻目に蔵の防火へ家令を集中させている。そのせいか、母家をはじめ北側の家令住宅を含む建築群はすべて焼失したけれど、見晴坂沿いの土蔵のみがなんとか焼け残っているのが、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真からも見てとれる。同屏風と同じく、江戸初期の『関ヶ原合戦図』屏風(通称「津軽屏風」)や『寒山拾得図』などの名品類も、かろうじて焼失をまぬがれたのだろう。<br />　また、この蔵には鎌倉の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517240276.html" target="_blank" rel="noopener">五郎入道正宗</a>による太刀(たち)、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">「城和泉守正宗」</a>(通称「津軽正宗」)も保存されていた。城和泉守とは、武田信玄につかえた城景茂(じょうかげもち)のことで、彼が所有していたことからこの名称がつけらけている。鎌倉期の刀剣を代表するような正宗の作品で、騎馬戦などなくなった打ち刀全盛の江戸期に、幕府による長さ(刀剣の「長さ」は刃長のこと)の規制から2尺3寸(約70cm)へと摺りあげられ(短縮され)ているが、摺りあげたのが<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">刀剣鑑定</a>の本阿弥家の本阿弥光徳(こうとく)であり、茎(なかご)には金象嵌で「城和泉守所持／正宗磨上／本阿（光徳花押）」と入れられている。現存する正宗の太刀は稀少なので、焼け身にならずに済んだのはなによりだった。ちなみに焼け身とは、火災により刀剣が焼けると地肌が黒く荒れ刃文がすべて消えてしまうが、あえて再刃をほどこしても元の美しい状態には二度ともどらない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/F.E382B5E383BCE38388E383AAE382A2E382B9E3808CE38380E382A4E382AAE383A1E38389E3808D1780E7ACAC1E59B9EE38380E383BCE38393E383BCE584AAE58B9DE9A6AC.jpg" alt="F.サートリアス「ダイオメド」1780第1回ダービー優勝馬.jpg" width="600" height="425" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE982B8E8B7A11947.jpg" alt="津軽邸跡1947.jpg" width="600" height="547" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B0BEE5BDA2E58589E790B3E3808CE7B485E799BDE6A285E59BB3E5B18FE9A2A8E3808DE5AE9DE6B0B8E5B9B4E99693.jpg" alt="尾形光琳「紅白梅図屏風」宝永年間.jpg" width="600" height="263" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE6ADA3E5AE97E88C8E.jpg" alt="津軽正宗茎.jpg" width="600" height="304" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE6ADA3E5AE97E58883E69687.jpg" alt="津軽正宗刃文.jpg" width="600" height="315" border="0" /></div><div>　馬のテーマにもどるが、日本で初めて本格的な競馬が行われたのは江戸末期で、開港した横浜の根岸競馬場においてだった。現在、根岸競馬記念公苑になっている森林公園の場所がそれで、わたしの世代だと<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-01.html" target="_blank" rel="noopener">ユーミン</a>の『海を見ていた午後』に登場する「♪山手のドルフィンは～静かなレストラン～」の、レストラン「ドルフィン」があるあたりの森というと通りがいいだろうか。その記念公苑が10周年を迎えた1987年(昭和62)、馬事文化財団の理事長だった津軽義孝は、同年発行の『根岸競馬記念公苑10年のあゆみ』(馬事文化財団)で、馬の減少を次のように嘆いている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　この公苑は、わが国洋式競馬発祥の地であります旧根岸競馬場跡地の一角(敷地約24,800m2)に建設されたもので、さかのぼれば、慶応2年(1866)秋に、この根岸の高台に本格的な競馬場が建設され、その翌年から昭和17年(1942)までの75年間にわたり競馬がおこなわれていた想い出深いゆかりの地であります。／歴史的に人間と深い関り合いを持った馬も最盛期には150万頭を算したものが、戦後の機械文明の波におされ、現在では、10万頭に満たない状況であります。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　1990年(平成2)に毎日新聞社から出版された『日本の肖像』第2巻で、記者からインタビューを受けた津軽義孝は、「生まれて初めて馬に乗ったのが三歳くらいのころでした」と答えている。子どものころから厩舎で飼葉の世話などもしており、以来、馬が身近になったようだ。<br />　同インタビューで興味を引かれたのは、1986年(昭和61)4月に起きた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">チェルノブイリ原発事故</a>を注視している箇所だ。同年の5月5日～10日にかけ、北半球の気流の影響でエジプト地域がホットスポット化していた。馬を生育する牧草地帯にも、雨とともに放射性物質(おもにセシウムだろうか)が降り注ぎ、「(原発事故で)カイロのアラブ馬がだめになっています。牧場の草に影響が出ているのです」と解説している。レベル７の「原子力緊急事態宣言」が発令されたまま解除されていない、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-07.html" target="_blank" rel="noopener">福島第一原発事故</a>の現状を見たら、はたして津軽義孝は東北の状況をどうとらえるだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE7BEA9E5AD9D28E4BCAF291931.jpg" alt="津軽義孝(伯)1931.jpg" width="290" height="410" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE7BEA9E5AD9D1990.jpg" alt="津軽義孝1990.jpg" width="290" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E5A3ABE68B9BE5BE85E7ABB6E8B5B0186528E685B6E5BF9CE5858329E383ADE383B3E38389E383B3E3838BE383A5E383BCE382B9.jpg" alt="武士招待競走1865(慶応元)ロンドンニュース.jpg" width="600" height="421" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B8E69E97E4BFA1E5AE9FE3808CE5A4A7E697A5E69CACE6A8AAE6B59CE6A0B9E5B2B8E4B887E59BBDE4BABAE7ABB6E9A6ACE88888E8A18CE4B98BE59BB3E3808D1872.jpg" alt="永林信実「大日本横浜根岸万国人競馬興行之図」1872.jpg" width="600" height="868" border="0" /></div><div>　戦前まで、津軽邸の馬場ではサラブかアラブが走りまわる蹄鉄音や、馬たちのいななきが聞こえていただろう。見晴坂が通う道筋では、それらの音がよく響いていたにちがいない。けれども、残念ながら津軽邸の馬に関する具体的なエピソードを、その周辺ではいまだ耳にしたことがない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1940年(昭和15)撮影の、下落合3丁目1765番地に建つ津軽義孝邸南側の芝庭。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1937年(昭和12)に津軽邸で開かれた「青森県人会園遊会」の記念写真で、東側の見晴坂沿いに建つ2階建ての大きな土蔵が鮮明にとらえられている。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された津軽邸。麻布からの転居前で自邸を建築している途上なのか、あるいはギル邸時代のままなのか土蔵がいまだ見えない。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1945年(昭和20)4月2日の空襲11日前に米軍の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">F13</a>から撮影された津軽邸最後の姿。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1780年(安永9)に英国で開催された第1回ダービーの優勝馬を描くF.サートリアスの『ダイオメド』で、1987年(昭和62)出版の『根岸競馬記念公苑10年のあゆみ』(馬事文化財団)の表紙に採用されている。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1947年(昭和22)に撮影された戦後の津軽邸跡で、母家から北側は全焼しているが東側の土蔵だけがポツンと焼け残っているのがわかる。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、宝永年間に制作された尾形光琳『紅白梅図』屏風。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、鎌倉期の刀匠・正宗による太刀の金象嵌「城和泉守所持／正宗磨上／本阿（光徳花押）」銘入り「津軽正宗」の茎(なかご)と刃文。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、若き日の津軽義孝(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と1990年(平成2)に撮影された同人(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1865年(慶応元)に根岸競馬場で開かれた競馬「武士招待競走」を報じるロンドンニュースのイラスト。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1872年(明治5)制作の永林信実『横浜名所之内／大日本横浜根岸万国人競馬興行之図』。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　86歳と長寿だった津軽義孝だが、1980年(昭和55)に碓氷元が『インタビュー健康法』(中央公論事業出版)の中で、健康法について彼に取材している。以下、津軽義孝の回答を引用してみよう。<br />「その点、偽りを持たぬ馬や犬を友にして暮らしてゆくのが最高ですね。どうです、馬のあの純粋の眼、馬の眼を見ていればとげとげしい心や、人を騙したり偽ったりするよこしまの心は起きません。馬の眼のような心を持ってやってゆけば、心も体も健康でいられますよ。やれ食事はどうだ、運動はどうだ、などと屁理屈をこねなくても、快活に元気にやってゆけます」。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE7BEA9E5AD9DE4B997E9A6AC.jpg" alt="津軽義孝乗馬.jpg" width="600" height="724" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>　いまだ目白通りの北側にあった学習院馬場で、大正末ごろに撮影された乗馬姿の鈴木三重吉。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E988B4E69CA8E4B889E9878DE5908928E5ADA6E7BF92E999A2E9A6ACE5A0B429.jpg" alt="鈴木三重吉(学習院馬場).jpg" width="600" height="669" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>コメント関連図版</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B4A5E8BBBDE982B81938E781ABE4BF9DE59BB3.jpg" alt="津軽邸1938火保図.jpg" width="520" height="484" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E781ABE4BF9DE59BB3E587A1E4BE8B.jpg" alt="火保図凡例.jpg" width="450" height="661" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>地震学で注目されている「牛」と津波の関係。</title>
<description>　先日、友人の連れ合いが亡くなった。わたしより2歳上の彼は、治療が困難なガンだった。つい「あと2年で同い歳か」と思うと、手もとに残った取材のリソースや調査資料をそのままに、仕事ですごすのがもったいないと感じてしまった。そこで、徹夜など苦にならなかった約20年前とは異なり、調査・取材や執筆が体力的にややキツイくなってきたので、なか2日で書いていた拙記事を数日おきで書きつづけられればと思う。どこまで継続できるか不明だが、もう少し綴ってみたい。竹田助雄が「落合新聞」の発行を停止した..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-03-11T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5A4A9E7A59EE99A8EE6AEB5.JPG" alt="牛天神階段.JPG" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　先日、友人の連れ合いが亡くなった。わたしより2歳上の彼は、治療が困難なガンだった。つい「あと2年で同い歳か」と思うと、手もとに残った取材のリソースや調査資料をそのままに、仕事ですごすのがもったいないと感じてしまった。そこで、徹夜など苦にならなかった約20年前とは異なり、調査・取材や執筆が体力的にややキツイくなってきたので、なか2日で書いていた拙記事を数日おきで書きつづけられればと思う。どこまで継続できるか不明だが、もう少し綴ってみたい。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹田助雄</a>が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-01-30.html" target="_blank" rel="noopener">「落合新聞」</a>の発行を停止したのは、なんと46歳の若さだったのに改めて気づいた。<br />　そうでした、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513796674.html" target="_blank" rel="noopener">「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)」</a>を昨年の春に書いたばかりでした。<br />　　<span style="color: #008000;">★</span><br />　わたしはまったく知らなかったのだが、地震学あるいは地震史学では「牛」と津波の関係が研究されているそうだ。それは日本史上、全国各地で起きた地震についての記録をていねいにたどっていくと、「牛」というキーワードが散見されるからだという。<br />　「牛」は、生きているモ～ッと鳴く「牛」の伝説もあれば、地名や河川にふられている「牛」がつく地名や河川名の場合もある。なぜ、学者たちが「牛」に注目したのかといえば、日本史上で繰り返し地震による津波が襲っている痕跡(地層)のある場所には、なぜか「牛」がつく地名が海岸近くに多いこと。また、近世以前の記録では突然「牛」(の群)に襲われ多くの死傷者をだしたというような、地域のフォークロアや物語が伝わっていることなどが指摘されている。<br />　確かに、津波が繰り返し襲ったとみられる地域には、牛津や牛潟、牛淵(渕)、牛着、牛転など地震の津波を意識して考えると、太平洋側や日本海側の海岸線には気になる地名が数多く点在していることに気づく。また、実際に「牛」に襲われたという説話も残っている。それらの「牛」は、近くの河川や海からやってきて人々を殺傷したり、住居や建物を破壊しては去っていく。たとえば東京地方では、浅草湊の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">浅草寺</a>が「牛」に襲われた伝説は、地震学でも注目を集めている事例だ。戎光祥出版から刊行された伊藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(2023年)から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　建長三年(一二五一)、浅草寺の食堂に牛が暴れ入って僧侶たち五〇人ほどが大けがをしたという。「牛」は「津波」を象徴することが地震学の研究から知られているので、江戸湾地震による津波で浅草寺食堂が押し流されたことをいうのだろう。浅草寺は坂東札所十三番目として今に有名だが、すでに鎌倉時代には観音信仰の「霊仏」の御座す場でもあった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-26.html" target="_blank" rel="noopener">浅草寺</a>は、現在は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">大川(隅田川)</a>の中流域に存在するように見えるが、当時は江戸湾の河口も近い下流域だった。その食堂(じきどう)へ「牛」(件)が暴れ入って、食事をしていた僧50人のうち24人が障害を受け、また7人が即死したという事件を記録したものだ。計31人が死傷した「牛」は、『新編武蔵風土記稿』では隅田川から来襲したとされている。この「牛」事件が記録されているのは、『吾妻鑑』の第41巻で1251年(建長3)3月の条だ。原典より、該当箇所を引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　建長三年三月大六日丙寅。武藏国浅草寺(せんそうじ)に、牛の如き者忽然と出現し、寺于奔走す。時于寺僧五十口計り、食堂(じきどう)之間に集會也。件之恠異を見て、廿四人 立所(たちどころ)に病痾を受け、起居の進退不成。居風と云々。七人即座に死ぬと云々。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　伝説や説話で「牛(の如き者)」というと、古くは出雲神話と結びついた暴れ神の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-01.html" target="_blank" rel="noopener">牛頭天王(スサノオ)</a>や、おもに都で天変地異を引き起こす<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-06-19.html" target="_blank" rel="noopener">菅公(天神)</a>由来の牛、あるいは同様に天変地異の際に出現する妖怪(化物)といわれる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-01.html" target="_blank" rel="noopener">件(くだん)</a>などが思い浮かぶが、「牛」＝津波の襲来にちなんで建立されたなんらかの祈念場が、おもに近世に入って牛頭天王(スサノオ)を奉った社(やしろ)や、菅公(菅原道真)を奉った社＝天神と習合してやしないだろうか。<br />　「牛」の地名が海辺はもちろん内陸部にも存在するのは、津波が河川をさかのぼって周辺の平野部にある集落や田畑を襲った可能性もありそうだ。川を遡上した津波が、海浜から離れた内陸にまで大きな被害をもたらすのは、東日本大震災や能登半島地震による津波の映像でも記憶に新しい。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5B68BE7A4BE.jpg" alt="牛嶋社.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5B68BE7A4BE28E59091E5B3B629.jpg" alt="牛嶋社(向島).jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEA4E794BAE69C9FE381AEE6B19FE688B8.jpg" alt="室町期の江戸.jpg" width="520" height="527" border="0" /></div><div>　また、天変地異の際に出現する「牛(の如く者)」は、そのままなんらかの災害を象徴しているともいえる。妖怪「件(くだん)」伝説と地震・津波との関連は、地震学でも研究分野があまり見あたらないので、もう少し精査が必要だろうが、「牛(の如き者)」の出現と災厄は、なぜか大地震(津波)のあった年に重ねて語られてきているのも注目すべき点だろう。<br />　上記の浅草寺の「牛」襲来事件は、江戸直下型の活断層地震のようで、江戸湾の海底が崩落したか、海底を走る活断層が大きくズレたかで生じた津波が、江戸地方の河川をいっせいにさかのぼっていったケースのように思える。もっとも近い例では、1855年(安政2)に大江戸を襲った<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-04-08.html" target="_blank" rel="noopener">安政大地震</a>(安政江戸地震)で、江戸湾では津波(海底崩落と推定されている)が発生し、沿岸地帯はもちろん江戸湾に注ぐ主要河川を津波が遡上していったという伝承が残っている。鎌倉時代の浅草寺ケースも、これに近い状況ではなかっただろうか。<br />　興味深いことに、浅草寺の対岸にあたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">向島</a>には、スサノオが主柱の牛嶋社(牛御前社)が存在している。もっとも、同社が建立されたのは貞観年間(800年代半ば)といわれているので、浅草寺を襲った1251年(建長3)の「牛」とは直接関連はないが、貞観年間はたび重なる大地震で国内がパニックになった時代であり、富士山や阿蘇山、鳥海山などが次々に噴火した時期とも重なる。そのような時代に、「牛」＝牛頭天王(スサノオ)が奉られている点にも深く留意したい。ちなみに、浅草寺は628年(推古天皇36)の創建なので、すでに向島の対岸には存在していた。<br />　牛嶋社は、現在は隅田公園(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-06.html" target="_blank" rel="noopener">水戸徳川家下屋敷</a>＝小梅邸)の北東角地に鎮座しているが、隅田川河畔や隅田公園よりも地形がやや高めで土手状になっている点も興味深い。その昔、隅田川を河川敷まで浸しながら、猛烈な勢いで遡上してくる黒い津波から逃れるため、人々は少しでも高い土地へ避難して生き延びた事蹟でもあったのではなかろうか。津波の原因や正体などまったくわからなかった当時、家々や障害物を次々に破壊しながら内陸へ押し寄せてくる津波は、確かにどこまでも突進してくる黒い猛牛の群に見えたかもしれない。<br />　そのような視点から、改めて「牛」の奉られている地点を眺めると、中世の旧・石神井川の源流域で奥東京湾の名残りの池沼とされる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-02-13.html" target="_blank" rel="noopener">不忍池</a>に近接した高台には菅公の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-09-20.html" target="_blank" rel="noopener">湯島天神</a>の「牛」がおり、現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-08-18.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>の流れのベースとなった、旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-14.html" target="_blank" rel="noopener">平川</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">白鳥池</a>の手前にある高台には、牛天神の「牛」がいる。いずれも、中世以前は江戸地方を流れる運輸の中心となった主要な河川だったことを考えると、江戸湾から川を遡上する津波の避難所としての役割を、それらの高台は災害の伝承とともに担っていたのではないか。<br />　もちろん、これらの社では牛頭天王(スサノオ)＝牛、または菅公(天神)＝牛とのつながりや物語が、社の由来として語られているのだが、面白いことに大きな牛の像が境内に鎮座している点も今日では共通している。これら川を遡上した津波は、旧・石神井川のケースでは不忍池で、旧・平川のケースでは大きな白鳥池で、勢いが急激に衰え消滅したのではないかと想定することができる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B9AFE5B3B6E5A4A9E7A59EE99A8EE6AEB5.jpg" alt="湯島天神階段.jpg" width="520" height="651" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B9AFE5B3B6E5A4A9E7A59E.jpg" alt="湯島天神.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B9AFE5B3B6E5A4A9E7A59EE7899B.jpg" alt="湯島天神牛.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div>　ちょっと余談気味になるけれど、いまでは神田川河畔の高台にある牛天神だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">源頼朝</a>の伝説に由来する「牛石」という自然石が置かれ、周囲には注連縄が張られている。頼朝が奥州戦に向かう途中、この高台で休息した際に牛に乗る菅公の夢をみたといういわれがあるが、江戸期の付会臭がプンプンする説話だ。牛に似た石をご神体とし、それを撫でるとご利益があるというものだが、この自然石が平川を遡上する津波＝「牛」によって押し流されてきたので、その形状(牛石)から避難所となった高台に奉られている……と想像するのも面白い。<br />　もうひとつ、室町時代には相模湾にも「牛」の説話が伝わっている。こちらは、江戸湾直下型の活断層地震とは異なり、プレート型地震による大津波に由来するとみられる伝承だ。そこには、大規模な「牛」の群が登場する。1495年(明応4)から5年ほどの間、伊豆の伊勢宗瑞(北条早雲)と扇谷(おうぎがやつ)上杉方との間で、小田原城をめぐり何度か合戦が行われている。この小田原城は「古小田原城」で、江戸期の現・小田原城とはややズレた位置に建っていた。<br />　この明応年間の戦いで、大森氏が籠城する小田原城は落城し、伊勢氏(後北条氏)が占領することになるのだが、この戦闘には1,000頭の「火牛」が登場している。伊勢宗瑞は、牛の角に松明を結びつけ小田原城を急襲したという伝説が『相州兵乱記』に記録されている。「千頭の火牛」は、木曽義仲の倶利伽羅峠でも有名だが、明らかに伝説の類だろう。<br />　明応年間といえば、特に1498年(明応7)に相模湾から紀伊半島まで襲ったとみられる明応大地震(おそらく現在でいわれるプレート型の東海大地震だろう)がつとに有名だが、全国規模で繰り返し地震がつづいていた時代だった。明応年間の地震による大津波で、鎌倉の大仏殿が流されて露座になったという伝承も残っている。小田原城が津波で被災したのを見て、伊勢宗瑞はここぞとばかり攻撃して占領しているのではないか。『太田道灌と武蔵・相模』より、再び引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　古くは「日本書紀」「古事記」の素戔嗚尊伝承、「備前国風土記」の牛窓説話に「牛の怪」が語られている。また、中世後期の戦記物「相州兵乱記」には伊勢宗瑞の千頭の牛による小田原占領説話、さらに中国の歴史書「史記」(田単伝)にも、火牛・千余の牛による奇策によって自領が守られる話がある。特に「豆相記」には「牛、大嶋の絶頂を上る」時とされていることから、松明をつけた牛が大嶋の山の頂上を越えるくらいたくさんやってきた、とみることができるだろう。こうした牛によせた不思議な説話は、実は津波という体験をした前近代の人々が生活感覚の中で得た表現だろう。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　「大嶋の絶頂」とは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-31.html" target="_blank" rel="noopener">伊豆大島</a>の三原山のことだ。三原山の標高は700mを越えるので、それほど巨大な津波は史的にありえず物語の誇張だろうが、相模湾の沖に見える大島の三原山が容易に丸ごとスッポリ隠れるほどの、それほど高いと感じられた大津波の来襲を想起させる表現だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5A4A9E7A59E28E58C97E9878EE5A4A9E7A59E29.JPG" alt="牛天神(北野天神).JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5A4A9E7A59E.JPG" alt="牛天神.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7899BE5A4A9E7A59EE7899BE79FB3.JPG" alt="牛天神牛石.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　そういえば、いまは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">千代田城</a>の内濠に面した九段(件)という地域も、中世以前は旧・平川沿岸の低地から麹町台地にかけての地名だったことに気づく。現在は妖怪化されて語られることの多い件(くだん)だが、ここでも昔日には、旧・平川を遡上する津波の伝承が存在したものだろうか。</div><br /><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">※</span>追記</span>：面白いことに原日本語(アイヌ語に継承)でも、ウシ(ス)&lt;Usis＞は偶蹄目動物＝牛科だと気づいた。北海道などで、大津波に関するとみられるウシ(Usis)の伝承や地名はないだろうか？</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：旧・平川の沿岸にある、小日向崖線つづきの崖地を上る牛天神の階段(きざはし)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、浅草寺の対岸にある向島のやや小高い位置に鎮座する牛嶋社の鳥居と拝殿。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、牛嶋社の境内に置かれた「牛」。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1400年代の室町期に栄えた江戸の街とその周辺。(伊藤一美『太田道灌と武蔵・相模』掲載の地図を加工)<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、本郷台地の崖を上る湯島天神の階段(きざはし)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、いまは菅公伝承が主体となった湯島天神の拝殿。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同社の境内に設置された「牛」。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、小日向崖線上に位置する牛天神の拝殿。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、牛天神の境内に置かれた「牛」。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、うずくまる牛に似ているので“御神体”とされ奉じられている自然石「牛石」(撫で牛)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1963年(昭和38)に制作された、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-20.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義</a>による高松土人形の玩具『高松の牛のリ天神』。下は、香港国際映画祭でグランプリ受賞の<a href="https://alfazbetmovie.com/kuronoushi/" target="_blank" rel="noopener">『黒の牛』</a>(監督・蔦哲一朗／2026年)の黒牛「ふさ子」さん。津波の「牛」ではなく、このような牛たちなら別に怖ろしくはなく害はないのだが。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E69DBEE381AEE7899BE381AEE3828AE5A4A9E7A59E.jpg" alt="高松の牛のり天神.jpg" width="520" height="599" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9BB92E381AEE7899B28E381B5E38195E5AD90E38195E38293292026E894A6E593B2E4B880E69C97.jpg" alt="黒の牛(ふさ子さん)2026蔦哲一朗.jpg" width="520" height="316" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>INDEXページの全リンク先の修復を完了。</title>
<description>　正月明けから、深夜にINDEXページのリンク修復作業を少しずつしていたら、BGMの合い間にヌエ(トラツグミ)の鳴く声が聞こえてきた。最初は、坂を下る自転車のブレーキ音かと思っていたが、規則的にいつまでも聞こえるし、日付が変わった真夜中なのでヌエ(トラツムギ)の声だと気づいた。冬になり山から低地に下りてきて、下落合に立ち寄ったのだろう。下落合の森にはフクロウも確認されているようだし、ヌエがいてもおかしくない環境だ。　その昔、横溝正史の映画だったろうか、「鵺(ヌエ)の鳴く夜は恐..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-01-15T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AF8CE5A3ABE5B1B128E6ADA6E794B0E88BB1E7B480E6A79829.jpg" alt="富士山(武田英紀様).jpg" width="600" height="310" border="0" /></div><div>　正月明けから、深夜にINDEXページのリンク修復作業を少しずつしていたら、BGMの合い間にヌエ(トラツグミ)の<a href="https://www.youtube.com/watch?v=dJDfSss4f0Y" target="_blank" rel="noopener">鳴く声</a>が聞こえてきた。最初は、坂を下る自転車のブレーキ音かと思っていたが、規則的にいつまでも聞こえるし、日付が変わった真夜中なのでヌエ(トラツムギ)の声だと気づいた。冬になり山から低地に下りてきて、下落合に立ち寄ったのだろう。下落合の森にはフクロウも確認されているようだし、ヌエがいてもおかしくない環境だ。<br />　その昔、横溝正史の映画だったろうか、<a href="https://www.youtube.com/watch?v=2HwlKFqW5eU" target="_blank" rel="noopener">「鵺(ヌエ)の鳴く夜は恐ろしい」</a>というキャッチフレーズがあったけれど、午前2時近くにURLの張りなおし作業をしながら、ヌエの鳴き声を聞いているのは、「オレ、なにをしてるんだ？」と、わが身を顧みて確かに恐ろしいことにちがいない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38388E383A9E38384E382B0E3839F28E3838CE382A829E4B889E9B7B9E5B882.jpg" alt="トラツグミ(ヌエ)三鷹市.jpg" width="600" height="427" border="0" /></div><div>　さて、以下のINDEXページに掲載している、すべての拙記事のURLは張りなおしが完了した。これらのページをポータルに、任意の記事へジャンプしてご覧いただけるようになったので、改めてご報告がてら更新したしだい。もし、なにかお気づきの点があれば、ご連絡をいただきたい。</div><div><a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3828FE3819FE38197E381AEE890BDE59088E794BAE8AA8C.jpg" alt="わたしの落合町誌.jpg" width="600" height="488" border="0" /></a></div><div><a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE69687E58C96E69D91.jpg" alt="目白文化村.jpg" width="600" height="464" border="0" /></a></div><div><a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/jiyugakuen.html" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E794B0E794BAE381AEE69AAEE38289E381971925.jpg" alt="高田町の暮らし1925.jpg" width="600" height="468" border="0" /></a></div><div>　ただし、So-net時代に書いた古い記事の、ページ本文中に設定していたリンクは、いまや数千ヶ所にもおよぶので、残念ながらそれらをすべて設定し直すのは、いくら時間があっても足りないので実質的に不可能だ。そこで、「どうしても以前のように、ページ内からリンク先の当該ページへ飛べなきゃダメ！」とか、「INDEXページで当該記事を見つけるのは面倒でキライ！」とか、または「Googleやブログなどの検索窓に複数ワードを入力して探すのは疲れるしヤダ！」という方のためにw、ちょっと“裏ワザ”的で単純な操作をご紹介しておきたい。少し面倒な操作だけれど、慣れてしまえば古い元記事から正確にリンク先をたどることができる。<br />　So-netブログ時代のリンクが廃止されたといっても、当時のURLの一部が実はSeesaaブログへそのまま引き継がれて設定されているのにお気づきだろうか？　So-net時代に設定されたページURLのドメイン部分、つまり「<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp</a>」はもちろん廃止され消えてしまっているわけだが、記事のURL末尾に含まれていたアップロードの日付けは、そのままSeesaaブログの新しいURLへと継承されている。<br />　つまり、ブラウザの上部に表示される古い時代のURLに、Seesaaブログのドメイン＋フォルダ名をそのまま単純にかぶせ、末尾に「.html」を付け加えてあげれば、リンク切れになった昔の古い記事でも、わざわざ検索エンジンで面倒な遠まわりをして探さず、すぐにも読むことができるのだ。以下、具体的な昔の記事例を挙げて、その方法を実際にやってみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E381AEE382A4E383BCE382BCE383ABE381AFE78FBEE5AD98E38197E381A6E38184E3828BE8A898E4BA8B.jpg" alt="佐伯祐三のイーゼルは現存している記事.jpg" width="600" height="494" border="0" /></div><div>　たとえば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-27.html" target="_blank" rel="noopener">「佐伯祐三のイーゼルは現存している」</a>という、2009年12月27日にアップした記事がある。So-net時代に書いたずいぶん古い記事だが、当然、文中に設定された<span style="color: #ff0000; font-size: 8pt;">Click!</span>のリンク先はSo-net時代のままなので、関連記事にジャンプして読むことができない。<br />　例を挙げると、文中に書かれた相馬邸の「『黒門』の移築<span style="color: #ff0000; font-size: 8pt;">Click!</span>」をクリックしても、ブラウザによって表示はさまざま異なると思うが、下の画面のように「このサイトにアクセスできません」(Google Chrome)や、「申し訳ございません。このページに到達できません」(Microsoft Edge)などの一文が表示されて、リンク先に設定されている昔の「黒門」記事にはたどり着けない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E381AEE382A4E383BCE382BCE383ABE381AFE78FBEE5AD98E38197E381A6E38184E3828BE8A898E4BA8BE69CACE69687.jpg" alt="佐伯祐三のイーゼルは現存している記事本文.jpg" width="600" height="393" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839AE383BCE382B8E8A1A8E7A4BAE4B88DE58FAFChrome.jpg" alt="ページ表示不可Chrome.jpg" width="600" height="399" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839AE383BCE382B8E8A1A8E7A4BAE4B88DE58FAFEdge.jpg" alt="ページ表示不可Edge.jpg" width="600" height="373" border="0" /></div><div>　そこで、古いSoｰnet時代のURLの部分に注目していただきたい。廃止されたSo-net時代のリンク先を見ると、下のようなURLになっていると思う。つまり、リンクが切れた先の当該の「黒門」記事は、いまから17年前の2009年6月24日にアップされていたことがわかる。そこで、次のように古いURLへSeesaaブログのドメイン部をコピーしてかぶせてあげ、さらに末尾に「.html」(ドット・エイチティーエムエル)を追加すれば、移行したあと新たにSeesaaブログ内へ収容されている、リンク先に設定されていた「黒門」記事へとジャンプすることができるのだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/URLE4BFAEE6ADA3E5898D.jpg" alt="URL修正前.jpg" width="600" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/URLE4BFAEE6ADA3E5BE8C.jpg" alt="URL修正後.jpg" width="600" height="411" border="0" /></div><div>　Seesaaブログのドメインを直接、そのままブラウザの上部のURL表示へコピー&amp;ペーストし、末尾に「.html」を付けるだけで、リンク切れになっている記事へジャンプすることができる。<br />　<a href="http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-24" target="_blank">http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-24</a>　(ジャンプ先のリンク切れ記事)<br />　　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #ff0000;"><a href="https://tsune-atelier.Seesaa.net/article" target="_blank">https://tsune-atelier.Seesaa.net/article</a></span>/2009-06-24　(Seesaaドメイン部をコピー＆ペースト)<br />　　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<a href="https://tsune-atelier.Seesaa.net/article/2009-06-24" target="_blank">https://tsune-atelier.Seesaa.net/article/2009-06-24</a><span style="color: #ff0000;">.html</span>　(末尾に「.html」を付加)<br />　すると、文中ではリンク切れになっていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-06-24.html" target="_blank" rel="noopener">「下落合からたどる『黒門』物語。（上）」</a>の記事(下画面)を、すぐに表示させることができる。ブログやGoogleの検索窓から記事を探すより、こちらのほうが圧倒的に早いケースもあるので、お困りの際にはぜひお試しいただきたい。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/URLE4BFAEE6ADA3E5BE8CE8A1A8E7A4BA.jpg" alt="URL修正後表示.jpg" width="600" height="529" border="0" /></div><div>　さて、リンクの再設定を繰り返していたら、昔の拙記事をついつい読んでしまった。そこには、すっかり忘れていたテーマもあれば、深掘りしたい課題、いまならこうは書かないだろうなと思われる記事などが散見された。けれども、長く取材や調査を重ねに重ねたうえで、現在につながる記事が書けているわけだから、そのプロセスはやはり認識経路や思考過程の記録なので、いまとなっては恥ずかしい文章もあるけれど、そのままソッと残しておきたいと思う。<br />　最後に余談だが、リンクの再設定という退屈で単純な作業のため、BGMとして<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-03-02.html" target="_blank" rel="noopener">JAZZ</a>を聴きながら作業を進めることにした。ただ漫然と聴いていても面白くないので、Miles DavisがCBS/Columbiaレーベルへ録音し、これまで発売された全アルバム『The Complete Columbia Album Collection』(1949年5月から死後の2009年までの全66枚で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-08.html" target="_blank" rel="noopener">ブートレグ</a>は除外)を、いちばん古い『IN PARIS FESTIVAL INTERNATIONAL DE JAZZ』(1949年)から聴きはじめ、年代順にどこまで聴けるかを試してみた。(退屈な作業には、こんな気晴らししか思いつかなかった)</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839EE382A4E383ABE382B9COLUMBIA.JPG" alt="マイルスCOLUMBIA.JPG" width="600" height="456" border="0" /></div><div>　BE-BOP革命期からクール、ハード・パップ、モード(フリーは含まず)、エレクトリック(ファンク)、そして現代へとつづくコンテンポラリーJAZZへとたどり、およそ戦後60年余にわたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-11-26.html" target="_blank" rel="noopener">JAZZ</a>を概観(聴)できる気晴らしBGMだったのだが、深夜とあって書斎に置いた小型の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">オーディオ装置</a>の音量をかなり絞らざるをえなかったのが<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-22.html" target="_blank" rel="noopener">残念</a>だ。作業しつつ、1949年から聴きつづけた結果、10日め、つまりいま聴いているのは『DARK MAGUS』(1974年)の2枚目。結局、Columbiaレーベルでの最後の録音作品である『AURA』(1985年)までたどり着かずに、ようやく作業を終えた。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：下落合の丘上から眺めた、冬の夕暮れにみる富士山。(撮影：武田英紀様)<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中</span>：冬になると、山から街へとやってくるヌエ(トラツグミ)。(「三鷹市役所」サイトより)</div><div><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：紙ジャケットCDに興味津々なうちのネコで、ときどきかじってるから油断ならない。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　ついでに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-12-01.html" target="_blank" rel="noopener">『The Complete Columbia Album Collection』</a>には画家としての<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-11.html" target="_blank" rel="noopener">マイルス・デイヴィス</a>も、フランスのFrédéric Goatyの解説により紹介されているので、その作品を2点ほど。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/Miles20Davis20A.jpg" alt="Miles Davis A.jpg" width="520" height="589" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/Miles20Davis20B.jpg" alt="Miles Davis B.jpg" width="520" height="733" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/Miles20Davis.jpg" alt="Miles Davis.jpg" width="520" height="431" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span><br />　先日、江古田を散歩していたら、かつて<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">第一文化村</a>にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508316723.html" target="_blank" rel="noopener">水道タンク</a>によく似た、背の高い塔状の水道タンクを見つけた。工事中の透明養生越しなので、ピンボケなのが残念だが雰囲気は伝わるだろうか。目白文化村の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509878987.html" target="_blank" rel="noopener">水道タンク</a>は、もう少し直径が大きく大容量だったように見える。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B4E98193E382BFE383B3E382AF.JPG" alt="水道タンク.JPG" width="520" height="392" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

]]><![CDATA[
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</item>
<item rdf:about="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html">
<link>https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518777763.html</link>
<title>テニスコートから見る林泉園の古島安二邸。</title>
<description>　先月、目白ヶ丘教会のオープンチャーチデーで、キリスト教とは縁のないわたしが落合地域の土地柄を美術に絡めてお話させていただいた。もっとも、話ベタが災いしてか後半の落合の建築と建築家については、時間配分がマズかったため割愛させていただいたけれど……。　下落合(現・中落合／中井含む)の中部と西部には、落合第一地域センターおよび落合第二地域センターがあり、多彩な催しが行われ多くの文化的なサークルが活動しているが、目白駅近くの下落合東部にはそのようなスペースがない。ぜひ、地域のコミュ..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2025-12-31T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921935E9A083.jpg" alt="林泉園1935頃.jpg" width="520" height="330" border="0" /></div><div>　先月、目白ヶ丘教会のオープンチャーチデーで、キリスト教とは縁のないわたしが落合地域の土地柄を美術に絡めてお話させていただいた。もっとも、話ベタが災いしてか後半の落合の建築と建築家については、時間配分がマズかったため割愛させていただいたけれど……。</div><div>　下落合(現・中落合／中井含む)の中部と西部には、落合第一地域センターおよび落合第二地域センターがあり、多彩な催しが行われ多くの文化的なサークルが活動しているが、目白駅近くの下落合東部にはそのようなスペースがない。ぜひ、地域のコミュニティが形成できるような催しを、今後とも継続して開催いただけたらと願う。さて、お話をさせていただいた当日に、参加者の方たちから旧Soｰnetブログ時代のリンクが切れて、INDEXページからもたどれない記事があるとご指摘をいただいた。わたしも以前から気づいていたのだが、古いSo-net時代のリンクが今夏ごろに廃止され、ssブログ時代からのリンクしか利かなくなっている。そこで、せめて<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/" target="_blank" rel="noopener">「わたしの落合町誌」</a>と<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">「目白文化村」</a>、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/jiyugakuen.html" target="_blank" rel="noopener">「高田町の暮らし1925年」</a>の3メニュー内だけでもリンクを復旧させたいので、少しお時間をいただければと思う。また、最近ドライアイがひどくなっており、上記の作業も含め取材や記事の更新をしばらくお休みさせていただきたい。それでは読者のみなさん、よいお年を！</div><div>　　<span style="color: #008000;">★</span><br />　東邦電力の社史を調べているある方から、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/tsune.html" target="_blank" rel="noopener">中村彝アトリエ</a>の前に口を開ける1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-02-14.html" target="_blank" rel="noopener">林泉園</a>の写真をご教示いただいた。掲載されていたのは、1962年(昭和37)に経済往来社から出版された『東邦電力史』(東邦電力史刊行会)だ。<br />　同社は1922年(大正11)6月、名古屋にあった本社屋を東京へ移転する決定をしている。東京では事前に、社宅建設地を物色していたのだろう、同年7月には下落合で新たな分譲住宅地として華々しく売りにだされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-31.html" target="_blank" rel="noopener">近衛新町</a>のほぼ全域を、隣接する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>を開発中だった東京土地住宅から購入している。これは、東京土地住宅が1922年(大正11)7月29日に東京朝日新聞へ掲載した、近衛新町の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-02.html" target="_blank" rel="noopener">分譲中止広告</a>の時期と一致している。<br />　同社の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-06.html?1761971192" target="_blank" rel="noopener">松永安左衛門</a>は、近衛新町を共同で開発していた近衛家と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517646011.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">三宅勘一</a>に話をつけて購入したものだろう。近衛家では、中村彝アトリエの前にある湧水池や濃い緑が繁る谷戸を、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-03-28.html" target="_blank" rel="noopener">「落合遊園地」</a>として近隣の住民やハイカーたちに開放していた。早稲田に下宿し、ほとんど「引きこもり」のような生活を送っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-14.html" target="_blank" rel="noopener">若山牧水</a>が、郊外散歩をして「落合遊園地」を発見しているエピソードは、ずいぶん前に随筆<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513593573.html" target="_blank" rel="noopener">『東京の郊外を想ふ』</a>とともにご紹介している。若山牧水は、目白通り(ほぼ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">清戸道</a>)から左折して近衛家の敷地を散策している。<br />　東邦電力は、近衛新町全域を購入した直後から、湧水が豊富で池のある「落合遊園地」のことを、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">「林泉園」</a>と新たに名づけている。当時の様子を、『東邦電力史』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　敷地は省線目白駅を去ること僅か3、4丁にして、新開の通称近衛町並に相馬子爵邸と相対し、付近には宏壮の邸宅及び文芸美術家等の住家多く、鬱蒼たる樹木に富み、東京近郊には珍しき閑佳の一廓にして住み心地の快き事真に無類にて、丸ノ内本店までは省線電車にて50分を要せずして達し得らるべく、又敷地内の東北部に当る窪地には桜其他の老樹繁茂し、其間に楚々たる小川流れるなど、幽邃にして巴里郊外に於ける森林公園の如き観あり。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の文中には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">相馬孟胤邸</a>をはじめ中村彝アトリエ前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-17.html" target="_blank" rel="noopener">サクラ並木</a>や、湧水源からほとばしり出る清冽で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-04.html" target="_blank" rel="noopener">豊かな泉水</a>の様子が記録されている。また、山手線の目白駅から東京駅までは、当時の電車で50分ほどかかっていた様子がうかがえる。ちなみに、現在では山手線の外回り電車に乗れば、およそ25分と半分ほどの時間で東京駅に到着する。<br />　買収した近衛新町の約6,500余坪のうち、460坪を東邦電力の実質的な経営者だった副社長・松永安左衛門に売却し、約1,295坪に重役宅や社宅を建設している。その内訳は、一戸建て住宅が10棟、4軒つづきのテラスハウスが5棟、3軒つづきのテラスハウスが2棟、独身寮が1棟という構成だった。そのほか、共同浴場やテニスコート、ビリヤード場などを併設している。また、テニスコートの東側には、子どもたち用に鉄棒やブランコを設置した児童遊園も設けている。テニスコートから北東を向き、児童遊園を撮影したのが冒頭写真だ。<br />　その後、社員の人数が増えるにつれ、社宅が不足してきたため増築を繰り返し、独身者には新たに合宿所「清和寮」をテニスコートの西側、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">落合家庭購買組合</a>の東隣りに建設している。また、社宅の建設からしばらくすると、社内のサークル活動が盛んになり、松永邸で社内音楽会を開催したり、清和寮で家庭製作品(裁縫・料理など)の講習会を開いたりしている。以前、目白林泉園庭球部と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-26.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>庭球部が試合をした様子も、こちらの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-02.html" target="_blank" rel="noopener">記事</a>でご紹介していた。<br />　1923年(大正12)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>では、丸ノ内の海上ビル内にあった本社オフィスが破壊され、約半月間も使用できなくなった。そのため、本社機能を下落合へ移し、松永邸のなかに臨時オフィスを設けて事業を継続している。そこでは、事業・実務の継続ばかりでなく、罹災社員とその家族への救護をはじめ、食糧の配給や電信・電話による通信環境の確保、林泉園住宅地の夜警などが行われた。下落合の林泉園オフィスは、同年9月21日に海上ビルが復旧するまで存続した。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C92E9968BE799BAE59BB3.jpg" alt="林泉園開発図.jpg" width="520" height="306" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921926.jpg" alt="林泉園1926.jpg" width="520" height="363" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921936.jpg" alt="林泉園1936.jpg" width="520" height="392" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921938.jpg" alt="林泉園1938.jpg" width="520" height="460" border="0" /></div><div>　さて、冒頭写真にとらえられた林泉園風景について詳しく見ていこう。まず、カメラマンがいるのは林泉園の突きあたり、湧水源の上に造成されたテニスコートだ。そこから、隣接するすべり台やブランコのある児童遊園ごしに、林泉園の谷間方面を撮影している。正確にいえば、林泉園の池がある東の方角ではなく谷戸の北側崖地沿い、すなわち東北東を向いてシャッターを切っている。この児童遊園は、昭和初期にはなかったもので家々の配置や様子、そして<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-24.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>に通う生徒とみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510206351.html" target="_blank" rel="noopener">子どもたち</a>の服装(洋装が多い)からして、おそらく1935年(昭和10)前後の撮影ではないだろうか。この児童遊園の地面の下、柵が見えているやや南寄り(写真では右手)の小崖の下に、水量がたいへん豊富な林泉園の湧水源があった。<br />　この場所を、1928年(昭和3)にフランス留学から帰国したばかりの画家が、林泉園の南側から北西を向いて写生している。中村彝の死後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-11-03.html" target="_blank" rel="noopener">中村画室倶楽部</a>として保存されていた下落合463番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-14.html" target="_blank" rel="noopener">中村彝アトリエ</a>を、おそらく5年ぶりに訪れた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-21.html" target="_blank" rel="noopener">清水多嘉示</a>だ。同年に描いたとみられる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-23.html?1761972331" target="_blank" rel="noopener">『風景(仮)』(OP595)</a>という作品だが、林泉園の谷間に設置されたテニスコートと、その上に建つ東邦電力の社宅群、そして手前の谷底には湧水源とみられる白く噴出する水流が描かれている。だが、この時点でテニスコートの東側に児童遊園は見られない。1929年(昭和4)には、中村彝アトリエを購入した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">鈴木誠</a>が転居してくるので、その前年に見られていた光景だ。<br />　林泉園北側の崖の中腹に見える、2階(屋根裏を含め3階？)建ての西洋館は、下落合1丁目450番地(旧・下落合367番地)の古島邸だ。鎌倉山住宅地と名古屋桟橋倉庫の代表取締役だった古島安二について、1932年(昭和7)出版の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">『落合町誌』</a>(落合町誌刊行会)から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　新潟県人山崎正八氏の二男にして明治十五年一月を以て生れ後先代古島理策氏の養子となり明治四十年家督を相続す、先是三十八年早稲田大学政治経済科を卒業し業界に入り現時前掲会社の重役たる外 矢作開墾会社取締役、東邦證券保有、三信鉄道、河津川水力電気、伊豆水力電気、新潟電力、長浦海園土地、名岐自動車道各会社取締役、矢作素道会社監査役等に任ず。夫人ヨシ子は同郷玉川覚平氏の長女である。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B885E6B0B4E5A49AE59889E7A4BAE3808CE9A2A8E699AFE3808DE4BBAEop595.jpg" alt="清水多嘉示「風景」仮op595.jpg" width="520" height="416" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E5B3B6E982B819240527.jpg" alt="古島邸19240527.jpg" width="520" height="422" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A898E5BFB5E58699E79C9F19240527.jpg" alt="記念写真19240527.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921935.jpg" alt="林泉園1935.jpg" width="520" height="348" border="0" /></div><div>　上記の役職に加え、古島は東邦電力の理事も兼任しているので、松永安左衛門に奨められて林泉園に自邸を建設しているのだろう。林泉園の開発当初から、古島邸は林泉園に家をかまえていたとみられ、大正末ごろ写真に見える新邸を建てているようだ。<br />　古島邸の北側、すなわち崖上には林泉園に沿って二間道路が通っているが、その道路沿いには江戸桜の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-19.html" target="_blank" rel="noopener">ソメイヨシノ</a>が植えられ並木が形成されていた。古島邸の裏、少し高い位置につづく並木がそれだ。このサクラ並木は、中村彝アトリエからも撮影されており、中村彝が死去するおよそ半年前、1924年(大正13)5月27日に開かれた園遊会の記念写真にも、人々が並ぶ背後にソメイヨシノが大きな枝葉を繁らせている。すなわち古島邸の斜向かい、写真の左枠外には下落合1丁目464番地の中村彝アトリエ(当時は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-25.html" target="_blank" rel="noopener">鈴木誠アトリエ</a>)が建ち、古島邸の左側の高い位置に見えている住宅が、二間道路をはさんだ下落合1丁目462番地の吉村邸だろう。<br />　古島安二邸にスポットを当てると、1922年(大正11)にスケッチされた曾宮一念<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">『落合ニテ』</a>には、建て替え前(仮住まいの暫定邸？)とみられる古島邸の低い屋根がとらえられている。同スケッチは、中村彝アトリエとその東隣りに建つ福川別邸を、裏側すなわち北西側から写したものだが、林泉園の谷戸にはおそらく当時は平家だったとみられる低い屋根が見えている。さらに、先の中村彝アトリエで開かれたパーティー記念写真の背後にも、古島邸(新邸)の屋根がとらえられている。この時点で、かなり屋根の位置が高くなっているので、建設中の古島邸あるいは竣工後の新邸は、1924年(大正13)ごろと類推することができそうだ。<br />　また、中村彝自身も、東邦電力による林泉園住宅地を描いている。1923年(大正12)ごろにスケッチされた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">『林泉園風景』</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-06.html" target="_blank" rel="noopener">鈴木良三</a>がタイトルを付加しているのだろう)がそれだ。中村彝は、アトリエの南側に口を開けた林泉園の周辺に、次々と建設されていく赤い屋根に白い壁の洋風住宅群やテラスハウスに惹かれ、スケッチブックを手に病む身体をおして写生に出ているのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E5B3B6E5AE89E4BA8CE982B8.jpg" alt="古島安二邸.jpg" width="520" height="575" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808EE890BDE59088E3838BE38386E3808F1922.jpg" alt="曾宮一念『落合ニテ』1922.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C92E9A2A8E699AF1923E9A083.jpg" alt="林泉園風景1923頃.jpg" width="520" height="402" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C92E382B5E382AFE383A9E88081E69CA82013.JPG" alt="林泉園サクラ老木2013.JPG" width="520" height="693" border="0" /></div><div>　『東邦電力史』に掲載された写真の撮影時期だが、児童遊園に植えられたサクラとみられる樹木に花が咲いているので春なのだろう。けれども、崖上のサクラ並木にはあまり花が残っていないようなので、花見の季節を終えて林泉園がやや静寂を取りもどした時期、4月の初旬から中旬にかかる季節のようにも思える。中村彝アトリエ前のサクラ並木だが、老樹が1本だけ残されて花をつけていた。だが、幹の空洞化が進み倒木の怖れがあるということで、少し前に伐採されている。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、林泉園の児童遊園と古島安二邸。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、東邦電力が作成した林泉園住宅地の開発地割図。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の林泉園だが、フリーハンドで描かれているため位置関係が不正確だ。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる林泉園界隈。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる林泉園界隈。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1928年(昭和3)ごろに制作された清水多嘉示『風景(仮)』(OP595)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1924年(大正13)5月27日に中村彝アトリエで開かれた園遊会の記念写真。左から右へ岡崎興、伊藤成一、鶴田吾郎、高野正哉が写る背後に小島邸の屋根が見えている。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同日の園遊会で前列左から前田慶三、遠山五郎、鈴木良三、後列左から右へ堀進二、本郷惇、福原達朗、長谷部英一、酒井億尋たちの背後にとらえられたサクラ並木。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1935年(昭和10)撮影の林泉園で写生する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の生徒たち。(提供：<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">堀尾慶治様</a>)<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、冒頭写真にとらえられた古島安二邸の拡大。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1922年(大正11)に曾宮一念が描いたスケッチ『落合ニテ』。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1923年(大正12)ごろに中村彝が描いたスケッチ『林泉園風景』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、2013年(平成25)4月に撮影したサクラ並木の最後のソメイヨシノ老木だが、2016年(平成28)ごろに倒木の怖れがあるということで伐採されている。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修／青山敏子様によります。</span><br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　戦後の1947年(昭和22)に撮影された林泉園の空中写真で、緑が濃かったため空襲による延焼被害をあまり受けていない様子がわかる。テニスコートと児童遊園は、戦時中の食糧増産のため畑地にされていた。下の写真は、ともに下落合の住民だった松永安左衛門(右)と石橋湛山(左)。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69E97E6B389E59C921947.jpg" alt="林泉園1947.jpg" width="520" height="401" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79FB3E6A98BE6B99BE5B1B1E381A8E69DBEE6B0B8E5AE89E5B7A6E8A19BE996801956.jpg" alt="石橋湛山と松永安左衛門1956.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>大磯の小淘綾ノ浜に立つ黙阿弥と松本順。</title>
<description>　わたしは親父の趣味のひとつだったせいか、歌舞伎座と国立劇場でずいぶん芝居(歌舞伎)を観ている。親父が、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎と交流があったせいもあるのだろうが、もの心つくころから多くの芝居には連れていかれた。　当時の舞台には梅幸や松緑、歌右衛門、勘三郎、羽左衛門、団十郎、仁左衛門、三津五郎と養子の玉三郎など、それこそ昭和の名優たちがキラ星のごとく現役で活躍しており、新派や落語界と同様に、なにを観ても(聴いても)一流の芸が堪能できていた時代だった。もちろん..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2025-12-28T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B2B3E7ABB9E9BB99E998BFE5BCA5E5A293E68980.JPG" alt="河竹黙阿弥墓所.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　わたしは親父の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">趣味</a>のひとつだったせいか、歌舞伎座と国立劇場でずいぶん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">芝居(歌舞伎)</a>を観ている。親父が、フグ毒に当たって死んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-07.html" target="_blank" rel="noopener">8代目・坂東三津五郎</a>と交流があったせいもあるのだろうが、もの心つくころから多くの芝居には連れていかれた。<br />　当時の舞台には梅幸や松緑、歌右衛門、勘三郎、羽左衛門、団十郎、仁左衛門、三津五郎と養子の玉三郎など、それこそ昭和の名優たちがキラ星のごとく現役で活躍しており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-15.html" target="_blank" rel="noopener">新派</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">落語界</a>と同様に、なにを観ても(聴いても)一流の芸が堪能できていた時代だった。もちろん、わたしは子どもだから、ろくすっぽ芝居の知識も教養もなく、漫然とそれらの舞台を眺めていただけで、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-03.html?1761123450" target="_blank" rel="noopener">明治座</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-11-27.html" target="_blank" rel="noopener">新橋演舞場</a>の“大人の事情”ばかりがあらすじの新派にいたっては、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">午睡</a>するのが決まりのようになっていた。けれども、芝居は舞台の色彩や仕掛けが面白いし、特に子どもでもわかるような筋や所作がある世話物は、眠くならずに観つづけることができた。<br />　数多く観た芝居の中で、もっとも多く観賞した演目はまちがいなく世話物、それも<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-07-06-2.html" target="_blank" rel="noopener">大江戸</a>が舞台の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-26.html" target="_blank" rel="noopener">河竹黙阿弥</a>の作品だったろう。世話物は、子どもにもわかりやすいということで、あえて親は黙阿弥の作品を多めに選んで連れていってくれたのかもしれない。それに、黙阿弥の芝居にはあちこちに、現代までつながる江戸東京の匂いがプンプンしていた。 <br />　中学生になってからは、親と連れだって舞台を観るということも徐々に少なくなり、高校時代には芝居ではなく、畑ちがいの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">文学座</a>は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-06.html" target="_blank" rel="noopener">杉村春子</a>の舞台(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-18.html" target="_blank" rel="noopener">『女の一生』</a>)を、いっしょに観にいったのが最後だったろうか。いまから思えば、親父とともに芝居に出かけ、戦前からつづくその膨大な知識や資料を受け継がなかったのが悔やまれてならない。<br />　拙ブログでは江戸東京の名所や、そこで起きたエピソードなどを記述する際、芝居や新派の舞台作品も同時にご紹介する記事を多く書いてきたが、これまでもっとも多く取りあげてきたのが河竹新七(黙阿弥)の作品だったろう。ちょっと振り返って、それらの記事を列挙してみると……。<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516665567.html" target="_blank" rel="noopener">音曲や楽器をめぐる東京怪談。</a>＝『加賀見山再岩藤』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">桜餅めざして隅田川を芝居散歩。</a>＝『極附幡随長兵衛』『都鳥廓白波』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">目黒鬼子母神の正岡と大塚山の墳丘。</a>＝『実録先代萩』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">四谷見附のヒソヒソ話は聞こえるか？</a>＝『四千両小判梅葉』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">大の芝居好きな刑部人と金山平三。</a>＝『青砥稿花紅彩画』『八幡祭小望月賑』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-05-04.html" target="_blank" rel="noopener">だらだら芝神明の熱い大喧嘩。</a>＝『神明恵和合取組』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-14.html" target="_blank" rel="noopener">「線道」をつけてもらえばよかった。</a>＝常磐津舞踊『戻橋』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-03.html" target="_blank" rel="noopener">蕎麦いらぬ「うなぎ」入谷の鬼子母神。</a>＝『天衣紛上野初花』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-10-28.html?1761122336" target="_blank" rel="noopener">めぐみ深川情け有馬の水天宮。</a>＝『水天宮利生深川』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-10-19.html" target="_blank" rel="noopener">浜町河岸で激昂したお梅姐さん。</a>＝『月梅薫朧夜』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">江戸の「広場」としての不忍池。</a>＝『黒手組曲輪達引』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">怪しさ漂う大江戸のお茶の水・水道橋。</a>＝『吉様参由縁音信』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-10-03.html" target="_blank" rel="noopener">江戸東京で物語が最多の両国橋。</a>＝『舟打込橋間白浪』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-05.html" target="_blank" rel="noopener">新吉原の「お上がりなさいませ！」。</a>＝『籠釣瓶花街酔醒』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">江戸幕府を鎌倉幕府へ仕立てなおし。</a>＝『船打込橋間白浪』『青砥稿花紅彩画』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">隆慶橋は東詰めの「おきゃがれ」。</a>＝『黄門記童幼講釈』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-02-05.html" target="_blank" rel="noopener">キット、♪ぼくは悲しい受験生～。</a>＝『盲長屋梅加賀鳶』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">約束の刻限に野を越え山越えて？</a>＝『四千両小判梅葉』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">高橋お伝の弁護をしよう。</a>＝『綴合於伝仮名書』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">日暮しに男女のいろは沈む谷中。</a>＝『日月星享和政談』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-05-23.html" target="_blank" rel="noopener">下落合と六本木を結ぶもの。</a>＝『四十七刻忠箭計』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-13.html" target="_blank" rel="noopener">娑婆と冥土の別れ道・深川ゑんま堂。</a>＝『梅雨小袖昔八丈』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-03-24.html" target="_blank" rel="noopener">ざまぁ見やがれ永代橋。</a>＝『梅雨小袖昔八丈』</div><div>　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-03-18-1.html" target="_blank" rel="noopener">永代橋の崩落からもうすぐ200年。</a>＝『八幡祭小望月賑』<br />　◎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-02-02.html" target="_blank" rel="noopener">こいつぁ春から縁起がいいわえ。</a>＝『三人吉三巴白浪』<br />　上掲の記事は、わたしがザッと思い返した河竹黙阿弥の芝居について触れたものだが、実際にはもっと数多くの記事で彼やその作品については書いている。たとえば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">神田上水</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-17.html" target="_blank" rel="noopener">蛍狩り</a>や茶番劇にからめた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">『花暦八笑人』</a>などにも、若き時代の黙阿弥は登場していた。また、黙阿弥の作品以外に取りあげた芝居や新派の舞台にいたっては、おそらく上記の数倍になるだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6BA90E9809AE5AFBA.JPG" alt="源通寺.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A49CE8A88EE69BBEE68891E78BA9E5A0B4E69B99.jpg" alt="夜討曾我狩場曙.jpg" width="520" height="402" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B2B3E7ABB9E799BBE5BF97E5A4ABE3808CE9BB99E998BFE5BCA5E3808D1993E69687E8979DE698A5E7A78B.jpg" alt="河竹登志夫「黙阿弥」1993文藝春秋.jpg" width="255" height="366" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B2B3E7ABB9E9BB99E998BFE5BCA5.jpg" alt="河竹黙阿弥.jpg" width="255" height="366" border="0" /></div><div>　ちょっと余談だけれど、黙阿弥が作品につけた題目は、一部の時代物や舞踊などを除き、それぞれ独特な読み方をするものがほとんどだ。たとえば、「鼠小僧」の『鼠小紋東君新形』は「ねずみこもん・はるのしんがた」、「河内山」の『天衣紛上野初花』は「くもにまごう・うえののはつはな」、「め組の喧嘩」の『神明恵和合取組』は「かみのめぐみ・わごうのとりくみ」、「湯灌場吉三」の『吉様参由縁音信』は「きちさままいる・ゆかりのおとずれ」という具合だ。大江戸の武家はもちろん、漢字の連なる芝居のタイトルを庶民たちも容易に、あるいはなんとか読みこなせていたということだ。つまり、それだけ読み書き＝識字率が高く教育が普及していたことになる。これは、同時代の海外の都市には見られない、この街ならではの大きな特徴だろう。<br />　河竹黙阿弥(本名：吉村芳三郎)は、1816年(文化13)に日本橋の式部小路で生まれている。実家は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518179705.html" target="_blank" rel="noopener">湯屋(銭湯)</a>の株を売買する越前屋という店(たな)だった。現在の日本橋2丁目7番地あたり、ちょうど高島屋と日本橋タワーにはさまれた道筋のことで、この路地は現存している。わたしの東日本橋にあった実家から、1,800mほど南西に位置する京橋との境も近い位置だ。<br />　さて、大江戸の街中で起きた事件や出来事、逸話などを芝居に仕立てる、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者の代表のような河竹黙阿弥(2代目・河竹新七)だが、薩長政府は大江戸の(母国である日本の)歌舞伎についてまったく無知なことから、アタマが西洋かぶれした明治政府の役人たちは、狂言作者をヨーロッパ演劇の脚本家と同列の存在だという、救いようのない錯誤をしてしまった。ここから、明治期における黙阿弥の悲劇(苦難)がはじまる。<br />　狂言作者とは、もちろん作品を書く脚本家・原作者でもあるが、芝居の稽古を進行するディレクターであり、舞台全体の点検・指揮をするプロデューサーであり、役者・舞台装置・音曲などを密に連携させるディレクターであり、音曲や拍子木と幕の開閉のきっかけを指示する指揮者でもあった。要するに、創作者＋舞台監督＋進行ディレクターを兼ねた芝居全体をつかさどるカナメ、いま風にいえばエグゼクティブ・ディレクターのことだ。それを、日本の演劇に無知な薩長役人たちが、西洋演劇における脚本家と同じだと規定し、政府の思想宣伝のために台本や舞台へ口出しをするようになってから、自国の重要な伝統文化のひとつが滅びる寸前まで追いつめられていく。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A49CE8A88EE69BBEE68891E78BA9E5A0B4E69B991881E591A8E9878D.jpg" alt="夜討曾我狩場曙1881周重.jpg" width="520" height="261" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5908DE5A4A7E7A3AFE6B9AFE5A0B4E5AFBEE99DA21890E59BBDE8B29E3E4BBA3.jpg" alt="名大磯湯場対面1890国貞3代.jpg" width="520" height="255" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5908DE5A4A7E7A3AFE6B9AFE5A0B4E5AFBEE99DA21890E59BBDE88AB3.jpg" alt="名大磯湯場対面1890国芳.jpg" width="520" height="248" border="0" /></div><div>　まず、歌舞伎の舞台へ明治の風俗を無理やり当てはめた、まるで新派のような「散切(ざんぎり)物」を強制するようになる。しかも、洋装の役者たちが台詞まわりだけは歌舞伎の口調のままだから、世にも不思議で珍妙な芝居となった。それだけならまだしも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html?1761124355" target="_blank" rel="noopener">「皇国史観」</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514089141.html" target="_blank" rel="noopener">「忠君愛国」</a>のような思想を無理やり芝居(新時代物)の筋に盛りこみ、あるいは中国や朝鮮半島の儒教思想をそのまま持ちこんだ、サルマネ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">「修身」</a>のような筋立てを押しつけるなど、薩長政府による江戸文化・芸能(ひいては日本文化)の破壊が急速に進行していく。芝居の観客も、政府の介入で限られた人々のみとされ、上流階級だけが観賞できる仕組みへと変えられていった。もちろん、江戸東京に数ある芝居連の市民たちは離れ、黙阿弥は引退を意識するようになる。<br />　結果からいえば、薩長政府がやっきになって強要した芝居は全滅し、黙阿弥が明治期でもかろうじて書けた「世話物」(おもに江戸期を舞台にした作品)のみが、現代でも歌舞伎座や国立劇場で上演されている。もし、日本文化に無知な薩長政府の役人が「散切物」など強制せず、黙阿弥が思いどおりの作品を書きつづけ、想像どおりの舞台を演出できていたとすれば、あとどれほどの傑作や名作が生まれていたかと思うと悔やんでも悔やみきれない。薩長政府の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">「国家神道」</a>化による日本の膨大な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">「神殺し」</a>に次ぐ、自国のかけがえのない「文化つぶし」の一環だ。それほど、河竹黙阿弥というクリエイターは、江戸から明治にかけての卓越した存在だった。<br />　ところで、黙阿弥は早稲田に大規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">蘭疇医院</a>を開業した、日本初の西洋医・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html?1761124567" target="_blank" rel="noopener">松本順</a>(江戸期は松本良順)とも親しかったようだ。蘭疇医院が開業する際、旧・幕臣から芝居の役者、市民たちまでがこぞって早稲田へ押しかけたなかに、黙阿弥もいたのだろう。松本順は、江戸期から<strong>「将軍様でも役者でも病人は同じじゃねえか」</strong>と、黙阿弥にはおなじみの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町言葉</a>で周囲に公言してはばからず、幕末の喧騒のなかで徳川将軍から庶民にいたるまで診察した特異な西洋医なので、黙阿弥もことさら親しみをおぼえたのだろう。まるで、明治以降に「万民平等」を掲げた自由民権運動の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517936419.html" target="_blank" rel="noopener">活動家</a>のような言葉だが、彼の周囲に咎めるものはもはやいなかった。<br />　黙阿弥は結局、狂言作者を引退できなかった1890年(明治23)の晩年(75歳)、薩長政府の検閲の眼が光るなか、「散切物」のかたちを踏襲しながらも、曾我十郎・五郎の対面の場を描いた清元の所作事、『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)を書きあげている。この舞台は、松本順が推奨した日本初の大磯海水浴場と保養別荘地としての<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-28.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>を、せいいっぱい世の中に広報・宣伝するものとなっていた。そして、セリフにはなんと松本順当人も登場している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　／＼名に負うここは早稲田の殿様、松本様のお見立てゆえ、第一空気がいい上に、今度の主人は如才なく、取扱いが届くから、海水浴はどこよりも、濤龍館が繁昌だ。(『名大磯湯場対面』)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DBEE69CACE9A086E588A5E88D98E8B7A1.jpg" alt="松本順別荘跡.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E7A3AFE6B5B7E6B0B4E6B5B4E5A0B4E5AF8CE5A3ABE981A0E699AFE59BB31893E5B08FE59BBDE694BF.jpg" alt="大磯海水浴場富士遠景図1893小国政.jpg" width="520" height="265" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E7A3AFE381AEE6B5B7.JPG" alt="大磯の海.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　それ以前にも、黙阿弥は松本順から芝居のヒントをもらい、1887年(明治20)に市川團十郎が家康を演じる『関原神葵葉』(せきがはら・かみのあおいば)を書いている。晩年は、うしろ立てに松本順がついていたようで、少しは薩長政府の圧力が弱まっていたのかもしれない。別の見方をすれば、薩長政府による歌舞伎の破壊へ抵抗するために、松本順がひと役買っていたようにも見える。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：地下鉄東西線・落合駅から、西へ350mほどの源通寺にある河竹黙阿弥の墓(右側)。源通寺は、1908年(明治41)に浅草から上高田へと移転してきた。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、散歩でお参りできる墓所の源通寺。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、『夜討曾我狩場曙』(ようちそが・かりばのあけぼの)の舞台で曾我五郎が2代目・尾上松緑(左)と十郎が3代目・市川左団次(右)。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、1993年(平成5)出版の河竹登志夫『黙阿弥』(文藝春秋)。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、明治に入ってしばらくすると隠居したはずなのに芝居の台本依頼が途切れなかった河竹黙阿弥。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1881年(明治14)に周重が描く『夜討曾我狩場曙』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1890年(明治23)に3代・国貞が描く『名大磯湯場対面』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同年に国芳が描く『名大磯湯場対面』。同作は「散切物」なので国貞がリアルだが、国芳はあえて江戸の風俗で描いている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、松本順の大磯別荘跡。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1893年(明治26)制作の小国政『大磯海水浴場富士遠景図』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、黙阿弥も歌舞伎役者たちもそろって眺めた大磯の小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>追記</span></div><div>　1926年(大正15)の夏に撮影された別荘地・大磯で、旧・東海道沿いにつづく街並み。(AI着色)　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三・米子夫妻</a>が滞在した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-25.html" target="_blank" rel="noopener">別荘</a>は、左手の街並みを少し左(北側)へ入った東海道線沿いの敷地にあった。街並みの背後には、湘南平(千畳敷山)へとつづく高麗山がうっすらと見えている。下の写真は、安田善次郎の別荘がある王城山の中腹並びに建てられた、湘南平へと向かう山道の右手にある大きな加山又造アトリエの門。周囲の丘陵一帯は、大小の古墳群だらけだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E7A3AF1926.jpg" alt="大磯1926.jpg" width="800" height="584" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58AA0E5B1B1E58F88E980A0E382A2E38388E383AAE382A8.JPG" alt="加山又造アトリエ.JPG" width="700" height="525" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　最近、AIエンジンで古い写真の人物を動かしてみるのに凝っていて、いろいろ昔のアルバムを引っぱり出しては試している。下の動画は、明治生まれのうちの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-05.html" target="_blank" rel="noopener">義祖母(ばあ)さん</a>を、ややおきゃんな感じで動かしてみた。左側にチラリと写っているのは、おそらく連れ合いの母親だろう。</div><div><div class="video-link"><video controls="controls" width="300" height="285">このブラウザでは再生できません。<source src="https://blog.seesaa.jp/pages/tools/download/play?d=bd26f5b3b5a73c9806d276c094129ee8&u=https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/Teru20Video.mp4"></video><br>再生できない場合、ダウンロードは&#x1F3A5;<a href="https://blog.seesaa.jp/pages/tools/download/index?d=bd26f5b3b5a73c9806d276c094129ee8&u=https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/Teru20Video.mp4">こちら</a></div></div></div><a name="more"></a>

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<title>於保照子と吉行夫妻の「あざみ」は東中野1594番地。</title>
<description>　上落合186番地の村山知義が、『演劇的自叙伝2』（東邦出版社/1971年）で「東中野駅のこっち側」と書き、上落合742番地に住んだ尾形亀之助の『尾形亀之助全集・全1巻』（思潮社/1970年）の年譜で、「上落合でバーを経営していた吉行エイスケ夫人あぐり」と記録されているので、わたしは吉行エイスケ・吉行あぐり(安久利)夫妻が経営するバー「あざみ」は、てっきり上落合と東中野の境界あたりだ思っていた。ところが、バー「あざみ」は現在の東中野駅ではなく、1928年(昭和3)に西へ移動す..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2025-12-25T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4B8ADE9878E1594E795AAE59CB0E7958CE99A88-d615b.jpg" alt="東中野1594番地界隈.jpg" width="700" height="408" border="0" /></div><div>　上落合186番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516490365.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義</a>が、『演劇的自叙伝2』（東邦出版社/1971年）で「東中野駅のこっち側」と書き、上落合742番地に住んだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-07.html" target="_blank" rel="noopener">尾形亀之助</a>の『尾形亀之助全集・全1巻』（思潮社/1970年）の年譜で、「上落合でバーを経営していた吉行エイスケ夫人あぐり」と記録されているので、わたしは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-02-24.html" target="_blank" rel="noopener">吉行エイスケ</a>・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-08-18.html" target="_blank" rel="noopener">吉行あぐり(安久利)</a>夫妻が経営する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-06-11.html" target="_blank" rel="noopener">バー「あざみ」</a>は、てっきり上落合と東中野の境界あたりだ思っていた。ところが、バー「あざみ」は現在の東中野駅ではなく、1928年(昭和3)に西へ移動する前の東中野駅(駅名変更前の元・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">柏木駅</a>の位置)の駅前にあった。駅前から上落合へ向かう、当時は「プロレタリヤ通り」などと呼ばれた商店街の出発点だ。<br />　ところが、「あざみ」は吉行エイスケ・あぐり夫妻が経営をはじめる以前、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>の直後から東中野駅前で営業していた。経営していたのは、震災前に横浜で夫である医学博士の於保謹太郎を亡くした於保照子という女性だった。喫茶店ともバーとも記録されている「あざみ」(いずれにしろ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">酒は置いていた</a>のだろう)は、震災前から東中野駅前で開店していたという資料も見うけられる。そして、於保照子は1926年(大正15)に吉行エイスケへ、店をそのまま“居抜き”で譲っている。その後、於保照子自身は同じ屋号の「あざみ」のまま、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-12-11.html" target="_blank" rel="noopener">資生堂</a>の並びである京橋区出雲町14番地(のち銀座7丁目4番地の10)にバー「あざみ」を開店している。<br />　まず、「あざみ」の所在地が判明したのは、1926年(大正15)に記録された「商業登記簿」からで、喫茶店「あざみ」は於保照子名義で中野町東中野1594番地と登録されている。元・柏木駅の北側で、駅名が東中野駅と変更(1917年)された駅前の西側にあたる区画だ。現在の住所でいえば、中野区東中野4丁目1番地ということになる。ちょうど当時の旧・東中野駅を北口へ降りると、駅前の左手すぐの位置になり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-05-26.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義アトリエ</a>から直線距離で760mほど、上落合742番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-06.html" target="_blank" rel="noopener">尾形亀之助</a>の家からも直線距離で800mほどの距離だった。<br />　於保照子について紹介した、1926年(大正15)刊行の『日本之医界』(日本之医界社)掲載の、「医界異聞」から引用してみよう。この記事では、「あざみ」は震災後の開店とされている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　つい最近銀座は資生堂の横に「あざみ」と云ふ、ごく瀟洒な落ついたカフエーが出来たことは銀ブラ連の仲間にはとうにご承知の筈。／だが、ここの主人公とは誰あらう嘗ては横浜に於て名を知られた医博於保謹太郎君の未亡人てる子さんだ。震災ちよつとまへ、ご主人にはなくなられるし間もなくあの震災騒ぎ、で(ママ)夫人は家の下敷きとなつて大怪我をするといつたご難つづき。／そこで夫人が雄々しくも更生の第一歩として実社会に打つて出たのが、震災間あらず、郊外は東中野に開かれた喫茶店「あざみ」といふのがそれ。そして愈々今度はカフエーの本場である銀座の真中に乗出して来た訳なのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　照子夫人は、自邸のある横浜でなく、たまたま東京で震災に遭っているようなので、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは、震災後の可能性が高いように思える。あるいは、於保照子もまた、以前からつづく「あざみ」という店をそのまま譲りうけたものだろうか。<br />　医学博士だった夫の資産が潤沢にあったのだろう、於保照子は東中野1594番地で3年間営業したあと、1926年(大正15)の後半期にバー「あざみ」を銀座で改めてオープンしている。おそらく夫の仕事関係から、銀座では医学分野の客筋が多く集まったのではないだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/1E383BB102C000E59CB0E5BDA2E59BB31925.jpg" alt="1・10,000地形図1925.jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69F8FE69CA8E9A78528E5A4A7E6ADA3E69C9F29.jpg" alt="柏木駅(大正期).jpg" width="520" height="286" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4B8ADE9878EE9A7851936.jpg" alt="東中野駅1936.jpg" width="520" height="375" border="0" /></div><div>　さて、旧・東中野駅前にあった於保照子の「あざみ」について、店の様子を記録した文章も残っている。おそらく、1926年(大正15)に同店を譲りうけた吉行エイスケの店も、基本的にはそのままの意匠で、おカネのかかる大きな変更は加えられていないとみられる。1923年(大正12)の暮れに聚文館から出版された、春日靖軒『大正震災後日物語』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　こゝは東中野の駅近く、開店したアザミサカバ(酒場)と云ふのがある。ありし日の銀座街にも見られないやうな凝つた家の作りが人の目を引く。入口のドアーの開閉も三角なら、中の壁も米国杉のしぶい色の三角形、それにしつくり似合ふ南洋あたりの壁かけ、粗雑な中に一種のデリカシイを持つた椅子、椅子の形テーブルの上にリノリームをひいてあるのも、今まで見ない処だが、その家の主人は於保照子と云つて、横浜の社交界でも人に知られた、医学博士於保謹太郎氏の未亡人で、横浜から危難をのがれて新生面を見出さうと開いた店なのである。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　なにもかも三角な「あざみ酒場」の外観・内装デザインは、当然、西武線がいまだ存在せず最寄りの旧・東中野駅を利用していた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-28.html" target="_blank" rel="noopener">三角アトリエ</a>の建築主である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-04.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義</a>の目にもとまっただろう。すなわち、吉行エイスケ・あぐり夫妻が「あざみ」を経営する以前から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-20.html" target="_blank" rel="noopener">村山知義</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-10.html" target="_blank" rel="noopener">マヴォな人たち</a>をはじめ、付近に住んだタダイストやアナキスト、小説家、詩人、美術家たちは、未亡人の於保照子が切り盛りする同店に通っていた可能性がある。<br />　春日靖軒はつづけて、「あざみ」の於保照子本人へ直接インタビューしている。彼女は1923年(大正12)9月1日、たまたま東京の姉の家にきていて罹災した。「私はあの地震によつて生れ変つたのと同じやうな気がします。丁度あの時は東京の姉の処に来てゐましたが、神保町だつたので、初め砲兵工廠(水道橋)へ逃げて爆発に会ひ、それから植物園(小石川)へ行きましたが横浜に置いて来た五人の子供の事が気になつて、たうたう二日朝皆のとめるのもきかず……」と証言している。おそらく、ケガをしたのは砲兵工廠の爆発によってだと思われるが、翌日には横浜の自邸へ向けて出発しているので、「家の下敷きとなつて大怪我」(『日本之医界』)などではなく、軽傷だったとみられる。横浜に置いてきた5人の子どもたちは、なんとか避難して無事だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E8A18CE382A8E382A4E382B9E382B1.jpg" alt="吉行エイスケ.jpg" width="255" height="359" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696BCE4BF9DE381A6E3828B-bd54f.jpg" alt="於保てる.jpg" width="255" height="359" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E8A18CE38182E38190E3828A.jpg" alt="吉行あぐり.jpg" width="520" height="734" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696BCE4BF9DE785A7E5AD90E696B0E8819EE980A3E8BC89.jpg" alt="於保照子新聞連載.jpg" width="520" height="583" border="0" /></div><div>　於保照子の証言を見るかぎり、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは震災後だと思えるが、震災以前からつづいているバー(あざみ？)自体を、彼女が入手して継承したかどうかまでは不明だ。一方、震災前から「あざみ」はあったとする証言もある。1931年(昭和6)に春陽堂から出版された、安藤更生『銀座細見』より東中野時代のバー「あざみ」を少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　アザミは地震前から東中野の駅のそばにあつた。内も外もクレオソート塗りの、仲々気のきいた家だつた。壁には小さなゴブラン擬(まが)ひの壁掛などがかゝつてゐた。いゝ日本酒もあり、それに添へて出す海鼠腸(このわた)などのつまみ物も美味かつた。この家は於保(照子)といふ医学博士の未亡人がはじめたので、開店当時は博士夫人の酒場といふので評判だつた。わざわざ銀座あたりから飲みに行つたものである。今、雨後の筍のやうに出来るバアのこれは元祖といつてもいゝ家である。地震後その東中野の店を譲つて、資生堂の横へ越して来た。今の女給お文さんはその東中野時代からの女給である。東中野の店は其後吉行エイスケが買つて、酒場カカドを出した。エイスケの先生辻潤、宮島資夫、エリゼ二郎、川口慶助、山内恒身などがよく集まつて飲んで居た。死んだ人見幸子などもよくこゝへその断髪姿を現して、みんなに可愛がられた。沙良峯夫、荒川畔村などといふ偉い人達がバアテンダアをやつて居たのである。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　安藤更生は、震災前から「あざみ」には通っていたようなので、於保照子が経営する前から東中野では印象に残る店だったのだろうか？　震災後3年間の営業期間のみでは、旧・東中野駅前とはいえ、それほど強く客筋たちの記憶には残らなかったようにも思える。<br />　そして、安藤更生の証言には重要な点が含まれている。吉行エイスケが経営していたバーは、当初「カカド」という名称だったようだ。安藤更生は、人見幸子と知りあった経緯で、「幸子は神戸の金持の令嬢だつた。僕が幸子を知つたのは、東中野の吉行エイスケのやつて居たカゝドへ、沙良峯夫や山内恒身の集つて居る頃だつた」と書いている。これは、1931年(昭和6)に小松直人・編集で二松堂から出版された『Café jokyû no uraomote』収録の、安藤更生の文章ではバーの名前は「カアド」となっているが、これは誤植で「カカド」が正しいのだろう。<br />　さらに、1949年(昭和24)に星光書房から刊行された「虚無思想研究」第2号に収録の、荒川畔村『震災後と戦災後』でも、吉行エイスケと「二人で東中野で『カカド』といふ喫茶店を始めることになり、警察へ許可をとりに行つた」と書いているのでも明らかだろう。ただし、「カカド」はほんの数ヶ月という短い期間で閉店してしまっている。なお、「カカド」とは吉行エイスケが『ダダの歴史』に書く5人組のダンスとされる「ノワル・カカドゥ」からとったか、あるいはオーストラリアの先住民だったアボリジニの用語「聖地(KAKADO)」に由来する言葉のいずれだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE59088E69DB1E4B8ADE9878E1936.jpg" alt="上落合東中野1936.jpg" width="520" height="651" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4B8ADE9878EE9A7851932E6A190E383B6E8B0B7E8B88FE58887.jpg" alt="東中野駅1932桐ヶ谷踏切.jpg" width="520" height="334" border="0" /></div><div>　「カカド」は、1926年(大正15)に吉行エイスケが雑誌「虚無思想」を発行しつつ荒川畔村とはじめた店であり、連れ合いの吉行あぐりはまだ登場していない。けれども、雑誌が赤字つづきのせいか経営は数ヶ月で破綻し、そのあと以前からの客筋にも通ってもらえるよう、「あざみ」の名称にもどして吉行夫妻が営業していた可能性がある。あるいは、於保照子の「あざみ」の印象が強く、周辺の客筋の多くが店名をバー「あざみ」と呼びつづけたせいで、夫妻は否が応でも「あざみ」とせざるをえなかったものだろうか。いずれにしろ、於保照子が経営する銀座のバー「あざみ」と、吉行夫妻が経営する東中野のバー「あざみ」は、短い期間だが並行して営業していたようだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：バー「あざみ」があった、東中野1594番地界隈の現状。左手先に東中野駅が見えているが、当時は左手背後の元・柏木駅の位置に旧・東中野駅があった。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる東中野1594番地とその周辺。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東中野駅界隈。すでに同駅のホーム全体が、西側へと移動している。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上左</span>は、吉行エイスケのプロフィール。<span style="color: #3366ff;">上右</span>は、1926年(大正15)に銀座へ進出するまで旧・東中野駅前でバー「あざみ」を経営していた於保照子。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、吉行あぐりのプロフィール。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、洋酒についてのエッセイを新聞に連載していた於保照子の記事。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、尾形亀之助と村山知義のバー「あぐり」への通いルート。村山籌子の家電製品<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">“新しもの好き”</a>は、こんなところに遠因があったかもしれない。w　<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1932年(昭和7)に撮影された東中野駅の桐ヶ谷踏み切り。駅はすでに西へと移動し、画面の左手にホームがある。踏切の向こう側左手が東中野1594番地で、関東大震災直後(直前？)からバー「あざみ」が開店していた街角。また、バー「あざみ」の並びには毛糸や手芸用品の専門店「さかゑ商店」が営業していた。</div></div><a name="more"></a>

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<title>官舎「落合住宅」から眺めた下落合風景。</title>
<description>　新宿区のおとめ山公園が2013年(平成25)に大きく拡張された際、おとめ山通り(御留坂)をはさみ公園の北側に建っていた、大小6棟の公務員宿舎(落合住宅)がいっせいに解体された。これらの集合住宅群は戦後、東邦生命(旧・第一徴兵保険)から大蔵省(現・財務省)が買収した国有地に建設されており、各省庁の官僚と家族たちが暮らしていた。　そこに住んだ国家公務員とその家族たちは、生涯にわたって住むわけではなく、地方への転勤や異動もあったとみられることから、長めな居住でも十数年の単位だった..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2025-12-22T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE851.JPG" alt="落合住宅1.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　新宿区の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">おとめ山公園</a>が2013年(平成25)に大きく拡張された際、おとめ山通り(御留坂)をはさみ公園の北側に建っていた、大小6棟の公務員宿舎(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-17.html" target="_blank" rel="noopener">落合住宅</a>)がいっせいに解体された。これらの集合住宅群は戦後、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-02-26.html" target="_blank" rel="noopener">東邦生命</a>(旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-09.html" target="_blank" rel="noopener">第一徴兵保険</a>)から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">大蔵省</a>(現・財務省)が買収した国有地に建設されており、各省庁の官僚と家族たちが暮らしていた。<br />　そこに住んだ国家公務員とその家族たちは、生涯にわたって住むわけではなく、地方への転勤や異動もあったとみられることから、長めな居住でも十数年の単位だったのだろう。彼らには、一時滞在的な集合住宅で永住地ではなかったけれど、下落合ではどのような景色が見えていたのだろうか。きょうの記事は、一時的な住まいだった官僚が目にした下落合(おもに東部)は、どのような街に映っていたのかをご紹介してみたい。<br />　当時の運輸省(現・国土交通省)につとめていた豊田実という人物が、1985年(昭和60)に書いたエッセイから、当時の様子をかいま見てみよう。ちなみに、著者は1985年(昭和60)の時点で、下落合での暮らしは9年目を迎えていることから、1976年(昭和51)ごろに「落合住宅」へ引っ越してきたことになる。わたしが高校時代に、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-03.html" target="_blank" rel="noopener">TVドラマ</a>に映る緑が多い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-05.html" target="_blank" rel="noopener">下落合の風景</a>に惹かれて、近辺を歩きはじめていた2年後ぐらいの時期だった。<br />　エッセイのタイトルも、そのものずばり『下落合風景』となっている。執筆の当時、著者は運輸省の運輸政策局政策課長のポストに就いていた。なお、この方は1990年代に入って運輸省事務次官をへたあと、2001年(平成13)に62歳で急死している。TVや雑誌など、マスコミにも登場しているようなので、ご記憶の方もおられるのではないだろうか。<br />　1980年代は、1970年代に比べれば森林や屋敷林に繁っていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-11.html" target="_blank" rel="noopener">樹木の緑</a>が、大幅に減退していたとはいえ、いまだ新宿区の他の街々よりは地域全体が圧倒的に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">青々</a>としていた時代だった。その様子を、1985年(昭和60)に交通公論社から出版された、村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』収録の、豊田実のエッセイ『下落合風景』から順次引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　山手線に乗って高田馬場駅から目白駅に向かい、神田川を渡ると、すぐ左側の車窓に樹木におおわれた台地が現れる。この台地一帯が下落合である。落合という地名は、二つの川が落ち合うところから起こっている。(中略)　この台地は大昔から住み心地が良かったのか、縄文時代より前の住居跡が見つかったりする。高台なので天気の良い日には丹沢や秩父の連山を一望することが出来る。もっとも最近は、新宿方面に高層ビルが次々とそびえ視界を遮ぎり始めている。雪化粧をした富士山を眺めながら古代の人々は、いったい何に思いをめぐらしていたのだろうか。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　エッセイの冒頭から、どうやら下落合での暮らしがかなり気に入っていた様子がうかがえる。娘を通わせていたのは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>で、「♪みのを借らんと、言う人に、花をささげて文の道～」と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">校歌</a>を紹介し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510585498.html" target="_blank" rel="noopener">江戸城</a>を築いた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-01-06.html" target="_blank" rel="noopener">太田道灌</a>の事蹟にも触れている。ただし、あえて神奈川県にも同じ伝説があると書き添えている。神奈川県の「山吹の里」は、現在の横浜市の金沢地域、つまり鎌倉のすぐ東側に伝承されてきた。豊田実は、神奈川県の出身だ。<br />　このあと、落合住宅が建つ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">「御留山」</a>はもともと将軍の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-20.html" target="_blank" rel="noopener">鷹狩り場</a>であり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-05.html" target="_blank" rel="noopener">江戸名所図会</a>の紹介とともに旧・神田上水の一帯が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-17.html" target="_blank" rel="noopener">ホタルの名所</a>だった、江戸後期の様子が記述されている。つづけて、新宿区の落合ホタル復活事業についても書いているので、再び引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE851975-5436e.jpg" alt="落合住宅1975.jpg" width="520" height="425" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE852.JPG" alt="落合住宅2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE853.JPG" alt="落合住宅3.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE854.JPG" alt="落合住宅4.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　区役所の方でも何とか蛍を復活させようと、おとめ山の清流に目をつけた。公園の一画に小屋をつくり、蛍を幼虫から生育することに取り組み、数年がかりで遂に成功した。毎年、夏になると数日間ではあるが、公園で蛍の鑑賞会が催される。だんだん世間に知られるようになって、今ではかなりの人が遠方から楽しみに出掛けて来るようで、期間中は大変な人出になる。都内のホテルが田舎から成虫をもってきて放すのとは違い、その光には一段と趣きがある。近くにある古刹・瑠璃山薬王院の牡丹と並んで下落合の風物詩になったようだ。この「おとめ山公園」の清流には、かつて「清水蟹」と呼ばれるカニが生息していたという。残念ながら今では見られなくなってしまったが、こんこんと湧き出る清水、数えきれない種類の樹木や四季折々の草花、群れ遊ぶ鳥たち。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　いまも基本的に変わらない情景だが、登場しているホタルを放つ「ホテル」とは、同じ目白崖線沿いで落合地域の東側にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-06-30.html" target="_blank" rel="noopener">椿山荘</a>を意識してのことだろう。ただし、1980年代と現在とでは、大きく異なる点がある。文中に書かれている「清水蟹」(サワガニ)が、いまでは湧水流に復活しているし、オニヤンマやクロスジギンヤンマ、カブトムシ、クワガタなど大型昆虫も飛びまわり、夜になれば樹々のこずえではフクロウが鳴いている。<br />　1980年代の半ばでは、1960～70年代の高度経済成長期にもたらされた空気・土壌汚染や、河川汚濁の影響がまだ色濃く残っていたとみられるが、21世紀に入ってからの東京各地の環境は劇的に変化した。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-17.html" target="_blank" rel="noopener">大川(隅田川)</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-05.html" target="_blank" rel="noopener">多摩川</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">日本橋川</a>をサケが遡上し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-15.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-02.html" target="_blank" rel="noopener">アユ</a>など数多くの川魚が生息しており、東京湾では江戸期からおなじみの浅草海苔の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">養殖事業</a>がリスタートしているのを聞いたら、著者は目をまるくして驚くだろうか。<br />　次いで、明治期からの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">近衛邸</a>や大正初期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">相馬邸</a>など華族屋敷について触れたあと、大正期から数多くの住宅が建ち並ぶようになったと紹介し、「新興住宅地とは違った落ち着き」がある街だと書いている。朝のラジオ体操には、お年寄りの姿が多く見られるのも、新しい街とは異なる特徴だとして挙げている。このラジオ体操は、夏休みに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510206351.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の校庭で行われていた催しに、彼自身も参加したものだろうか。豊田実は、下落合2丁目21番地の4に建っていた、「落合住宅RA-14」に住んでいたので、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-24.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>へは歩いて数分だったろう。上記の住所は、現在は拡張されたおとめやま公園の「みんなの原っぱ」にあたる区画だ。<br />　つづいて、下落合のお年寄りたちが開いていた教室が紹介されている。わたしも、1970年代から街の随所で目にしていたが、下落合には習いごとの教室がことのほか多かった。絵画教室やピアノ教室、生花教室、絵画教室、書道教室、着物教室、裁縫教室、茶道教室、陶芸教室、謡曲教室、詩吟教室、算盤教室など、街を歩けば個人邸の前に掲げられた、手作りの小さな看板が目についた。わたしが聖母坂に住んでいたときは、お隣りに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-14.html" target="_blank" rel="noopener">三味の音色</a>も江戸東京らしく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-27.html" target="_blank" rel="noopener">小唄教室</a>まであった。著者は、娘をピアノや習字の教室に通わせていたようだ。つづけて、引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE855.JPG" alt="落合住宅5.JPG" width="520" height="693" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4BD8FE5AE856.JPG" alt="落合住宅6.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E79599E5B1B120220211.JPG" alt="御留山20220211.JPG" width="520" height="310" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　子供がピアノの稽古や習字の手習いでお世話になった先生方は、片や七十七歳、片や八十五歳という高齢であった。たまたま幼稚園児の娘をピアノの先生宅に連れて行くように頼まれた。日頃から厳しい先生だと吹き込まれているので恐る恐るドアを開けると、開口一番「お父さんも聞いていきなさい」と先手を打たれてしまった。坂本龍一を鍛えたということが自慢の一つで、この日もヨーロッパで活躍している教え子からの手紙を紹介しながら厳しい練習が続いた。習字の先生も厳しさは同様であったようだ。(中略)　この先生方のように現役で活躍されている高齢者は近所にまだまだ大勢いる。高齢化社会花開くである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　1980年代には、いまだ上記のように習いごと教室が数多く見られたが、21世紀に入ってからは街中で個人教授の看板を見ることが少なくなった。<br />　家の近所での習いごとが下火になり、なにかを習うなら専門学校に付属する教室へ……というのが増えたせいだろうか。また、楽器の習いごと教室が個人宅で減ったのは、明らかに大手楽器メーカーによるチェーン教室化の影響だろう。習いごとに企業がからむと、標準的(マニュアル的)な教授が中心になり、教師ごとの個性や教え方の特徴が消えていく。<br />　上記の、「坂本龍一を鍛えた」先生のいるピアノ教室が下落合のどこにあったのかは不明だが、習字教室の家にはブルドーザーがやってきて壊してしまった経緯を記録している。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　習字の先生のお宅は戦前からある木造家屋で、生け垣に囲まれた緑の庭には先生の思い出が浸みわたっているようだった。そのお宅が突然、それこそあっと言う間にブルトーザ(ママ)で取り払われてしまった。一体どうしたのだろうと心配していると「病院に勤務していた息子さんが定年退官して開業するため医院を建てるらしい」というニュースが入ってきた。かねがねお年寄の一人ぐらしを気に掛けていたのでその話に安堵した。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　これは、1980年代も現在も変わらない、街の姿を少しずつ変えていく建て替えの情景だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A81979.jpg" alt="下落合東部1979.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E69DB1E983A82019.jpg" alt="下落合東部2019.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69D91E4B88AE5AF8CE5A3ABE799BBE383BBE7B7A8E3808CE9818BE8BCB8E5AE98E5839AE38289E3818FE3818CE3818DE5B896E3808D1985E4BAA4E9809AE585ACE8AB96E7A4BE.jpg" alt="村上富士登・編「運輸官僚らくがき帖」1985交通公論社.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE794B0E5AFA6.jpg" alt="豊田實.jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div>　豊田実は、『下落合風景』を書いてからしばらくすると、異動で海上保安庁次長に就任している。それにともない、住まいも品川区の官舎「上大崎住宅」(現在の日刊競馬新聞社界隈)へと転居している。大崎駅のすぐ東側だが、下落合に比べて緑が少なくガッカリしたのではなかろうか。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：おとめ山公園の北側、下落合2丁目21番地に建っていた「落合住宅」。2008年(平成20)の撮影で、手前に並ぶ石は保存された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/512040396.html" target="_blank" rel="noopener">相馬孟胤邸</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-07-04.html" target="_blank" rel="noopener">七星礎石</a>。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる落合住宅6棟。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>・<span style="color: #3366ff;">下</span>は、2007年(平成19)から2008年(平成20)にかけて撮影した同住宅。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、2010年(平成22)の解体寸前に撮影した落合住宅と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-09-08.html" target="_blank" rel="noopener">七星礎石</a>。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、保存されていた相馬邸の庭石。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、落合住宅が建っていた跡の「みんなの原っぱ」雪景。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1979年(昭和54)に撮影された下落合東部。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、2019年(平成31)撮影の同地域。樹木の緑が、大幅に減退している様子が見てとれる。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1985年(昭和60)に出版された村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』(交通公論社／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、『下落合風景』の著者・豊田実(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　御留山のオニヤンマとカブトムシ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-23.html" target="_blank" rel="noopener">カブトムシ</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-09.html" target="_blank" rel="noopener">クワガタ</a>などの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-06-06.html" target="_blank" rel="noopener">虫たち</a>は網戸にくることが多く、何度かこちらでもご紹介している。なお、クロスジギンヤンマは写真を撮り損ねている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E79599E5B1B1E382AAE3838BE383A4E383B3E3839E.jpg" alt="御留山オニヤンマ.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E79599E5B1B1E382ABE38396E38388E383A0E382B7.JPG" alt="御留山カブトムシ.JPG" width="520" height="371" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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