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<title>落合学（落合道人）</title>
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<description>新宿区の下落合や(城)下町の人々を中心に、街角の物語を想いにまかせて綴っています。主題は「わたしの落合町誌」。記事の利用につきましては一報いただければ幸いです。コンテンツの無断使用は、ご遠慮ください。</description>
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<title>1950～1978年に撮影された落合地域写真集。(上)</title>
<description>　1978年(昭和53)に新宿区が出版した、『ガレキの中から、30年のいま……新宿区30年のあゆみ』(冒頭写真)という写真集がある。戦後すぐのころ、タイトルどおり焦土と化した新宿区のガレキ風景から、1978年(昭和53)現在の街の様子や風景写真を収めたものだ。　新宿区は1947年(昭和22)3月15日に、旧・東京市街だった四谷区と牛込区、それに落合地域のある旧・豊多摩郡エリアだった淀橋区の3区をあわせて成立した。太平洋戦争がはじまる以前、四谷区・牛込区・淀橋区をあわせた戸数は..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
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<div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382ACE383ACE382ADE381AEE4B8ADE3818BE38289E3808130E5B9B4E381AEE38184E381BE1978.jpg" alt="ガレキの中から、30年のいま1978.jpg" width="600" height="424" border="0" /></div><div>　1978年(昭和53)に新宿区が出版した、『ガレキの中から、30年のいま……新宿区30年のあゆみ』(冒頭写真)という写真集がある。戦後すぐのころ、タイトルどおり焦土と化した新宿区のガレキ風景から、1978年(昭和53)現在の街の様子や風景写真を収めたものだ。<br />　新宿区は1947年(昭和22)3月15日に、旧・東京市街だった四谷区と牛込区、それに落合地域のある旧・豊多摩郡エリアだった淀橋区の3区をあわせて成立した。太平洋戦争がはじまる以前、四谷区・牛込区・淀橋区をあわせた戸数は、約6万3,300戸あったが、二度にわたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank" rel="noopener">山手空襲</a>による焼失で敗戦直後は3区内に約6,840戸しか残っていなかった。新宿区域の、実に89.2％が戦災で焦土化していたことになる。人口も、戦前は約40万人を数えたが、敗戦時には故郷への<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">一家疎開</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">学童疎開</a>、そして空襲による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-08.html" target="_blank" rel="noopener">死傷</a>などで、3区内には合計約78,000人しか残らなかった。それでも落合地域に限ってみれば、焼け残っている街角が多いほうだろう。<br />　写真集に掲載されている1950年代の写真は、わたしが実景を見たことのない世界だが、同写真集が発売された1978年(昭和53)現在の写真は、いずれも見憶えのある風景が多い。その中から、今回は落合地域の写真を中心に、1950年代と1970年代、そして現在の風景を織りまぜながらご紹介してみたい。なお、戦災を受けた街並みをとらえた写真は、ほとんどが新宿駅周辺など繁華な地域のもので、落合地域の戦災写真は収録されていない。<br />　同写真集より、「暮らしを見つめて」に添えられた本文から少し引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(敗戦)当時、失ったものは数多くありましたが、絶対的に失われなかったものもありました。それは“生きる”という人々の不屈の意志と努力です。人間はどんなに苦しい時でも、無意識のうちに本能的な行動－－たとえば“食べる”－－の方へ手を伸ばしているのです。いまの社会が以前より“豊か”になったのも、ひとりびとりの努力の結晶だと思います。／この30年、政治的にも経済的にも大きな変動がありました。人々は関心・無関心とさまざまな行動をとりました。そういう、いわゆる大局的な問題の一方で、私たちの足もと－－暮らしの面でこの30年はどうだったのでしょう。暮らしが政治・経済と切り離せないのはもちろんですが、暮らしにはそれなりの問題もあるのです。そこに根をすえた住民運動も多発しています。ですから、暮らしの問題から社会をとらえ直していくのも、ひとつのやり方ではないでしょうか。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　おっしゃるとおりで、たとえば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-24.html" target="_blank" rel="noopener">補助73号線建設</a>は人口や交通量の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-02-16.html" target="_blank" rel="noopener">急減</a>と、年々発生する莫大な管理維持費を税金でまかなうがゆえに、もはや不要だと訴訟沙汰にまでなった板橋住民に対し、「地域エゴ」だの「サヨク」だのというオバカな言質を臆面もなく繰り返す連中は、この地元・東京の、いや<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-24.html" target="_blank" rel="noopener">日本の20年先</a>さえ考えていないのだろう。ましてや、街のコミュニティや景観を台無しにした過去にあまた生じた教訓など、まったく目に入らないにちがいない。<br />　さて、『ガレキの中から、30年のいま……』に収録された、落合地域の写真を順に見ていこう。まず、1951年(昭和26)に撮影された西武新宿線と中井駅をまたぐ、中井陸橋の架橋工事を上落合側から撮影した1枚だ。上落合から北を向いて下落合(現・中落合／中井含む)の丘を写しており、工事関係者たちが集まっている下には、西武線の中井駅があり妙正寺川が流れている。奥のこんもりとした森の手前、切り拓かれた道路の崖ぎわに建っている2階家が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">矢田津世子</a>のいた矢田邸だ。その西隣り(左手)、一ノ坂をはさみ空き地の次に建つ大きな切妻の日本家屋が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">蘭塔坂</a>(二ノ坂)の上に建つ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-12-13.html" target="_blank" rel="noopener">岡不崩アトリエ</a>、つづいて左並びに渡部邸に立田邸だろう。<br />　2枚目の写真は、完成した中井陸橋から1954年(昭和29)に撮影された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村</a>の斜面だ。中央の上には、木立に囲まれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">大日本獅子吼会</a>本堂の大屋根(切妻)が見えており、その西隣り(左手)には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-31.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三アトリエ</a>の屋根がとらえられている。手前は、西武線・中井駅ホームの屋根で、写っている斜面の家々は、蘭塔坂(二ノ坂)と三ノ坂にはさまれた住宅街だ。これらの街並みは、戦災をほとんど受けておらず、戦前の眺めとさほど変わっていないだろう。<br />　3枚目の写真は、1978年(昭和53)ごろに同じく中井陸橋から撮影された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村</a>だ。多くの住宅が建て替えられており、手前の中井駅には電車が停車中だ。2枚目の写真と同様に、蘭塔坂(二ノ坂)から三ノ坂あたりの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-11-10.html" target="_blank" rel="noopener">アビラ村</a>斜面を撮影しているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">金山アトリエ</a>がどこにあるのかわからないほど家々が建てこんでいる。(おそらく丘上の上部左寄りの木立のあたり)　なお、いま同じ位置から写真を撮ろうと思っても、中井陸橋は両側が高い目隠しで覆われているので、周囲の風景がまったく見えなくなっている。山手通りに建設された、ビルやマンション用のブラインドなのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E999B8E6A98BE5B7A5E4BA8B1951.jpg" alt="中井陸橋工事1951.jpg" width="520" height="411" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E38393E383A9E69D911954.jpg" alt="アビラ村1954.jpg" width="520" height="307" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E38393E383A9E69D911978.jpg" alt="アビラ村1978.jpg" width="520" height="343" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E38393E383A9E69D912025.jpg" alt="アビラ村2025.jpg" width="520" height="401" border="0" /></div><div>　つづいて、中井陸橋の中井駅上から、下落合駅方向を眺めた写真だ。下り電車が中井駅ホームへ近づいているところを撮影したものだが、手前に中井駅の踏み切りがとらえられている。1954年(昭和29)ごろの撮影で、線路沿いに東京電力谷村線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">高圧送電線鉄塔</a>が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">田島橋</a>際の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-24.html" target="_blank" rel="noopener">目白変電所</a>までつづいている。左手が下落合の目白崖線だが、当時は屋敷林や雑木林など、緑が濃かった様子がよくわかる写真だ。左手の煙突は、銭湯<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519889444.html" target="_blank" rel="noopener">「新高湯」</a>(現・ゆ～ザ中井)のものだが、右手に見えている高い煙突は、このあたりに銭湯はなかったので、妙正寺川沿いで操業していた日本オーディオ工業あるいは青木電器の工場内にあった煙突だろう。<br />　次に、1978年(昭和53)に同じ場所を写した写真を見ると、高いビルやマンションが増え、見通しがほとんどきかなくなっている。左手の目白崖線が、手前の建物に隠れてほとんど見えない。線路からつづく正面に見えている高いビルは、建設から間もない染の里「二葉苑」の二葉ビルだろう。1970年代の後半あたりから、妙正寺川沿いにあった製造分野の工場は郊外へと移転し、煙突が見えなくなっている。東京電力谷村線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-07.html" target="_blank" rel="noopener">高圧線鉄塔</a>はそのままだが、下に見えている線路は運行ダイヤへ新たに急行や準急が追加されているので、軌道が2本から中井駅通過用の3本となっている。先述のように、中井陸橋には目隠しフェンスが設置されているので、同じ場所から下落合駅方面が撮影できない。したがって、中井駅ホームの東端からの写真が下のカラー画像だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E999B8E6A98B1954E9A083.jpg" alt="中井陸橋1954頃.jpg" width="520" height="317" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E999B8E6A98B1978.jpg" alt="中井陸橋1978.jpg" width="520" height="347" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B8ADE4BA95E999B8E6A98B2017.jpg" alt="中井陸橋2017.jpg" width="520" height="385" border="0" /></div><div>　次に、中井陸橋から新井薬師駅方向を撮影した、1954年(昭和29)ごろの写真を見てみよう。下り電車が中井駅から出発したばかりで、上掲の1954年(昭和39)に写る電車と同一の車両かもしれない。当時の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-13.html" target="_blank" rel="noopener">山手通り</a>は、今日では考えづらいが交通量も少なく、反対側へわたるのはそれほど困難ではなかった。手前が中井駅ホームで、左手には黒く妙正寺川の流れがとらえられている。左端の岸辺に写る空地は、校舎が写っていないが<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">落合第五小学校</a>の建設敷地だ。戦前は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-06-02.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二小学校</a>が建っていたが、1944年(昭和19)5月の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">炊爨室からの失火</a>で校舎のほとんどを焼失し、つづく空襲で全焼して、戦後は上落合2丁目の現在地へ移転している。その跡地に建設された落合第五小学校だが、ちょうどこの写真が撮影された1954年(昭和29)に開校している。<br />　右手に写る斜面は、下落合の丘では標高がもっとも高い(標高37.5m)、昔の字名では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-01.html" target="_blank" rel="noopener">大上</a>と呼ばれた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-07-11.html" target="_blank" rel="noopener">中井御霊社</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">目白学園</a>のある丘だ。東京電力谷村線の鉄塔が西へとつづくが、奥の左右を横切る緑の帯は中野区上高田の崖線だ。左手に見えている煙突の、いちばん左端は銭湯「三の輪湯」の煙突。さらに、その向こうに見えている煙突群は3本とも、上高田の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank" rel="noopener">バッケが原</a>の南端にあった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518015934.html" target="_blank" rel="noopener">東洋ファイバー工場</a>のものだろう。<br />　ほぼ同位置から撮影された、1978年(昭和53)の写真を見ると、やはり高い建物が増えて遠くを見通せなくなっている。左手には、鉄筋コンクリートに建て替えられた落合第五小学校の校舎が見え、その先のひときわ高いビルは、1972年(昭和47)に竣工したマンション「中井プラムレヂデンス」だ。既述のように、いまは中井陸橋からの撮影は不可能なので、中井駅の上り線ホームからの写真がその下のカラー画像だ。中央には、いまも背の高い中井プラムレヂデンスの高層ビルが見えており、ホームの屋根ごしに樹木の繁っているのが妙正寺川をはさんだ落合第五小学校の敷地だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E4BA95E896ACE5B8ABE696B9E99DA21954.jpg" alt="新井薬師方面1954.jpg" width="520" height="234" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E4BA95E896ACE5B8ABE696B9E99DA21978.jpg" alt="新井薬師方面1978.jpg" width="520" height="348" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E4BA95E896ACE5B8ABE696B9E99DA22017.jpg" alt="新井薬師方面2017.jpg" width="520" height="369" border="0" /></div><div>　つづいて、1954年(昭和29)に撮影された上落合2丁目の写真を見てみよう。この道はカメラマンの背後に、北へ右折すれば中井駅へと出られる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-04-09.html" target="_blank" rel="noopener">上落合郵便局</a>があり、正面には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二小学校</a>のある、上落合2丁目21番地あたりの道路上から東を向いて撮影したものだ。道路の突きあたりには、落合第二小学校の裏門(西門)があり、その左隣り(北隣り)は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>の際に大手町の大蔵省が全焼したため、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-30.html" target="_blank" rel="noopener">帝国議会議事堂</a>(現・国会議事堂)の設計が継続された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-11.html" target="_blank" rel="noopener">吉武東里邸</a>が建っていた。同邸のエントランスに敷かれていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">大谷石</a>は、戦後すぐに子息が通っていた落合第二小学校へ寄贈されたが、現在は旧・位置だった落合第五小学校の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-01-15.html" target="_blank" rel="noopener">校庭</a>に保存されている。<br />　1978年(昭和53)の写真には、落合第二小学校から下校する生徒たちが写っているが、庭木などを含め昔日の風情をよく残していたのが分かる。正面に見えている高いビルは、同小学校の北側に隣接して建てられた「落合マンション」で、現在は「ひまわりホーム新宿」や「ひまわり介護サービス新宿」が入る施設となっている。現在の写真を観察すると、道路右手の住宅は建て替えられているが、道筋の風情としてはそれほど大きくは変わっていない。現在でも、午後の下校時間になると落合第二小学校の西門から、子どもたちがゾロゾロとでてくるのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE590882E4B881E79BAE1954.jpg" alt="上落合2丁目1954.jpg" width="520" height="306" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE590882E4B881E79BAE1978.jpg" alt="上落合2丁目1978.jpg" width="520" height="304" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE890BDE590882E4B881E79BAE2022.jpg" alt="上落合2丁目2022.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　同写真集を眺めていると、1978年(昭和53)の写真には落合地域に限らず、新宿区全体の風景に強い既視感や懐かしさをおぼえるが、1954年(昭和29)の写真にはやはり実景を見ていないせいかなじみが薄い。次回は、下落合(現・中落合／中井含む)の東部で撮影された写真類を観察してみたい。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;つづく&gt;</span></div><br /><a name="more"></a>

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<title>薬王院の北に建設予定だった落合第二小学校。</title>
<description>　1924年(大正13)の夏に起工、翌1925年(大正14)1月に竣工した落合第二尋常小学校について、落合町の年度予算7万円が1924年(大正13)に計上されているので、当然、関東大震災による東京の市街地から転居してくる住民が激増したため、既存の落合(第一)尋常高等小学校では子どもたちを収容しきれなくなったためだと考えていた。　ところが、同小学校の成立事情を詳しく調べていくと、創立計画は大震災のかなり以前からであり、建設場所ものちの妙正寺川沿いで、西武線の中井駅南側(上落合7..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
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<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E6B2BCE698A0E5A4ABE3808CE887AAE794B1E7A4BEE4BC9AE5AE88E3828BE694BFE6B2BBE38292E3808D1979.jpg" alt="大沼映夫「自由社会守る政治を」1979.jpg" width="600" height="728" border="0" /></div><div>　1924年(大正13)の夏に起工、翌1925年(大正14)1月に竣工した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二尋常小学校</a>について、落合町の年度予算7万円が1924年(大正13)に計上されているので、当然、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>による東京の市街地から転居してくる住民が激増したため、既存の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">落合(第一)尋常高等小学校</a>では子どもたちを収容しきれなくなったためだと考えていた。<br />　ところが、同小学校の成立事情を詳しく調べていくと、創立計画は大震災のかなり以前からであり、建設場所ものちの妙正寺川沿いで、西武線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">中井駅</a>南側(上落合745番地)にあたる敷地ではなく、下落合東部に位置する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-20.html" target="_blank" rel="noopener">薬王院</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">旧墓地</a>の北側にあたる境内で、近隣から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-18.html" target="_blank" rel="noopener">“薬王院の森”</a>(現・薬王院の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-12-08.html" target="_blank" rel="noopener">新墓地</a>)と呼ばれていた敷地を中心とする一帯だった。すなわち、大震災前には山手線に近い下落合東部の人口増加が顕著であると認識されており、新たな小学校は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-04-01.html" target="_blank" rel="noopener">落合(第一)尋常高等小学校</a>の東側に設置すべきだと判断されたためだろう。<br />　創立の答申が行われたのは、大震災前の1923年(大正12)6月23日であり、もっと以前から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">落合第二尋常小学校</a>の創立および建設計画は、落合村(1924年より落合町)の議会や地元で進められていたとみられる。初めて答申書が、落合村長の川村辰三郎から豊多摩郡長の服部良太郎へ提出されたのが先のタイムスタンプであり、学校の設置場所も含め、かなり以前から村内では協議や地主へのネゴシエーションが行われていたとみられる。答申書には、校地の所在地や環境までが記載されており、かなり具体的な計画の進捗が感じられる内容だ。<br />　答申書の内容を、1979年(昭和54)に新宿区教育委員会から出版された、『新宿区教育百年史』に付属する『同史／資料編』から、短いのでおよそ本文のみを引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">大正十二年六月二十三日／落合村長 川村辰三郎／豊多摩郡長　服部良太郎殿</span><br />　豊多摩郡諮第八号ヲ以テ御諮問相成リ候　本村ニ設置スベキ尋常小学校数一ヲ増シ　其ノ位置ヲ左記ノ通リ御指定ノ件　本村会ノ決議ヲ経候　御異議無之　此ノ段及答申候也<br />　一　位置　豊多摩郡落合村大字下落合字本村<br />　　　　　　二八九番　山林　四畝二十七歩／七九〇番ノ二　山林<br />　　　　　　八〇二番　畑　六畝二十九歩／計　　二反三畝十歩　(以下略)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の文章を読むと、この答申書以前から落合村と豊多摩郡庁の間で、「設置スベキ尋常小学校」について書類のやり取りが行われていた様子がうかがえる。<br />　そして、同答申書に付帯して新小学校設置の申請書も、ほどなく提出されている。つづけて、服部豊島郡長から東京府知事の宇佐美勝夫あてに提出された、申請書の全文を引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">豊教第六二三号／申請</span><br />　本郡落合村ハ近来隔世ノ発展ヲ来シ従ッテ学齢児童ノ激増又他ニ其ノ比ヲ見ル能ワザル状態ニ有之　去ル大正十年度中既ニ一校ニテハ到底其ノ収容ニ堪エズ　増築或ハ新設等ノ計画ヲ図リタルモ　当村財政上ノ関係等ニ依リ蹉跌シ止ムヲ得ズ　大正十年度ヨリ御認可ヲ得テ仮教室ヲ使用シ　一時ヲ弥縫シ来ルモ　本年度限リニテ使用モ制限ヲ受ケ居リ　旁々学齢児童ハ其ノ後益々増加ヲ来シ一校増設ノ急務ナルハ明カナル事実ニシテ　別紙図面ノ場所ニ一校増設致シ度ク候ニ付テハ　左記ノ通リ校数並ビニ位置指定致シ度ク同村ノ意見ヲ徴シ此ノ段申請候也<br />　大正十二年六月二十六日／豊多摩郡長　服部良太郎／東京府知事　宇佐美勝夫殿<br />　(以下、落合村からの予定校地データ「一　位置　豊多摩郡落合村大字下落合字本村……」後略)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　上記の文章から、いろいろなことがわかる。まず、落合村で落合第二尋常小学校の新設が課題になっていたのは、1921年(大正10)以前からだ。そのころから、落合(第一)尋常高等小学校では収容しきれない子どもたちがおり、各地の施設や借家を「分校」にして授業していた様子がうかがえる。これは、落合尋常高等小学校に「第一」が付与される経緯、すなわち校舎の増築に次ぐ増築でも間にあわず、児童を周囲へ分散した経緯と一致している。また、川村村長の答申から服部豊島郡長の東京府への申請まで、わずか3日というのも喫緊の課題であったことを感じさせる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A21925.jpg" alt="薬王院1925.jpg" width="520" height="413" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A21926.jpg" alt="薬王院1926.jpg" width="520" height="415" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E896ACE78E8BE999A2E381AEE6A3AE1936.jpg" alt="薬王院の森1936.jpg" width="520" height="442" border="0" /></div><div>　1921年(大正10)といえば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町</a>や<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>が造成される前の時代で、山手線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">目白駅</a>近くでは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank" rel="noopener">「愛隣園」</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">浅川家</a>によるミニ文化村をはじめそこそこの住宅街が、下落合の中部では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">落合府営住宅</a>などが、また中央線の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-01-16.html" target="_blank" rel="noopener">柏木駅</a>(のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519465287.html" target="_blank" rel="noopener">東中野駅</a>)からのつながりで、上落合の街道(現・早稲田通り)沿いを中心に宅地開発がはじまったばかりのころだ。あたり一帯は耕地整理前の田畑や雑木林が多かった時期だが、大正期に入ると郊外住宅(田園都市)のブームに乗ったものか、東京市街地からの転居家庭が急増していたのだろう。当時の家庭では、子どもが4～5人はあたりまえの時代なので、「学齢児童ノ激増」となったと思われる。<br />　さて、落合第二尋常小学校の建設予定地にされたのは、住民の増加が特に顕著だった下落合の東部だった。下落合789～890番地および下落合802番地は、薬王院の森(現・新墓地)のほぼ全域と現在の本堂、道路をはさみ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-06-12.html" target="_blank" rel="noopener">夏目利政</a>がのちに設計を手がけることになる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-06.html" target="_blank" rel="noopener">“アトリエ村”</a>の東側全体ということになる。面積的に見れば、落合(第一)尋常高等小学校よりもやや広めな敷地だった。そして、道路が都合2ヶ所ひっかかるが変更する予定としている。<br />　落合村からの予定地データには、「附近ノ状況　東方ハ山林　西方宅地　東南ハ寺院　北方ハ村道　現在校地予定実施中ニ道路アルモ　追ッテ変更ス」とあり、薬王院の森と下落合802番地の間を南北に貫く道路を廃止するか、もう少し東へ移設する計画があったのだろう。なぜなら、建設予定地が変更になった1924年(大正13)以降の状況を観察すると、下落合801番地の旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-07.html" target="_blank" rel="noopener">安達堅三邸</a>から下落合804番地の旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-06-07.html" target="_blank" rel="noopener">鶴田吾郎アトリエ</a>にかけて、大正末からいき止まりの袋小路が敷設されているからだ。予定地が変更されるのと同時に、小学校と住宅街の境界になるはずだった道路敷設も、途中で中止されている可能性が高い。そして、校地変更のあと一帯に住宅が建てられ、改めて下落合800番地界隈の番地変更が行われているとみられる。<br />　落合第二尋常小学校の収容児童予定数は、1923年(大正12)6月の時点で531人(男子261人・女子270人)とされていた。ところが、豊多摩郡長の申請から8日後の1923年(大正13)7月4日に、東京府の内務部長から「待った」がかかった。落合第二尋常小学校の予定地は、「一時ノ急ヲ救ウニ止ル」つまり予定地が落合(第一)尋常高等小学校よりやや広いぐらいでは、またすぐに子どもの増加で満杯になり、新学校をどこかへ建てねばならなくなるとして、「大字上落合・葛ヶ谷方面」に広大な敷地を確保して、落合第二尋常小学校を建てられないだろうかと回答した。こうして、薬王院北側の予定地から別の敷地を選定している最中、同年9月1日に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>が東京を襲った。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5B08FE5ADA6E6A0A11932.jpg" alt="落合第二小学校1932.jpg" width="520" height="152" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5B08FE5ADA6E6A0A1.jpg" alt="落合第二小学校.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B08BE5B8B8E5B08FE5ADA6E6A0A11936-cb30c.jpg" alt="落合第四尋常小学校1936.jpg" width="520" height="373" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B08FE5ADA6E6A0A1.jpg" alt="落合第四小学校.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div>　東京市民の市街地から郊外への移動は、大震災前とは比較にならないほど激増し、落合村では予定敷地を妙正寺川沿いの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-27.html" target="_blank" rel="noopener">寺斉橋</a>を南へわたった、上落合745番地の広い敷地に決定している。そして、起工から竣工までわずか半年たらずという短いリードタイムで、大規模な落合第二尋常小学校が落成し、1925年(大正14)4月1日の開校へこぎつけている。つづいて、昭和期に入ると学齢児童の激増から、すぐに落合第三尋常小学校の設置計画も始動し、1928年(昭和3)には早くも設置予定地を決定、豊多摩郡庁を通じて申請を東京府へ提出している。<br />　1927年(昭和2)4月から西武線が運行し、中井駅のすぐ南側に位置する落合第二尋常小学校(戦後は現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">落合第五小学校</a>の敷地となる)だったが、当初、児童数706人(学級数12)でスタートしている。けれども、関東大震災の混乱のさなか猛スピードで誕生した同校だったが、どこか不運なめぐりあわせに遭遇している。以前にも拙記事でご紹介していたが、1944年(昭和19)5月23日の午後5時30分、給食室(当時の用語では炊爨室)から出火し、全校舎の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">3分の2を焼失</a>している。上落合地域が、翌1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-10.html" target="_blank" rel="noopener">空襲で壊滅</a>する、ちょうど1年ほど前の出来事だった。<br />　高学年5・6年生の生徒たちは、下落合東部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-24.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四尋常小学校(国民学校)</a>で授業を受けることになり、4年生以下の生徒たちは焼け残った校舎を利用し、午前と午後の二部制で授業をつづけている。やがて、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516919497.html" target="_blank" rel="noopener">学童疎開</a>により生徒たちは群馬県草津町へ集団疎開をするが、失火で焼け残っていた校舎も空襲で全焼してしまう。東京で業務をになう教員や事務員は、上落合東部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-12-20.html" target="_blank" rel="noopener">明星尋常高等小学校(国民学校)</a>で仕事を継承するが、同校も5月25日夜半の空襲で全焼。落合第二小の関係者は、今度は落合第三尋常小学校(国民学校)で業務を継続している。<br />　そして、敗戦後の1945年(昭和20)10月にようやく東京へもどった生徒たちは、校舎が全焼して存在しないため、落合第三尋常小学校(国民学校)で授業を受けている。敗戦からの2年半の間、落合第三小学校(新制)へ通いつづけることになる落合第二小学校の生徒たちだが、1947年(昭和22)1月21日にようやく新校舎建設予定地が決定した。上落合1丁目472番地の大屋敷だった旧・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-12-07.html" target="_blank" rel="noopener">野々村金五郎邸</a>跡で、戦時中は憲兵隊の分隊が駐屯していた広い敷地(大政翼賛会収容地)だった。同時に、中井駅南側の旧・校地は落合第五小学校の建設予定地に指定されている。そして、ようやく1948年(昭和23)3月20日、現在の落合第二小学校の敷地に戦後の新校舎が落成している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6988EE6989FE5B08FE5ADA6E6A0A1E6A0A1E8888E.jpg" alt="明星小学校校舎.jpg" width="520" height="339" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4B889E5B08FE5ADA6E6A0A11932.jpg" alt="落合第三小学校1932.jpg" width="520" height="220" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4B889E5B08FE5ADA6E6A0A1.jpg" alt="落合第三小学校.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　大震災前から始動していた落合第二尋常小学校の建設計画だが、その経緯を記録した関連書類を年代順に参照すると、大正期に入り東京市を取り巻く各郡部への人口流入が顕著だったこと、東京府が市街地からの住民移動を見越して、できるだけ大規模な小学校や施設の建設を郡部で推進しようとしていたこと、関東大震災により予想だにしなかった人口の東京市内から郊外への大移動が起き、東京府および各郡部の自治体が、その対応に追われまくっていた様子が透けて見えてくる。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1979年(昭和54)に制作された大沼映夫『自由社会守る政治を』。落合第二尋常小学校(国民学校)を卒業した下落合4丁目2151番地(現・中井2丁目)の洋画家・大沼映夫は、1944年(昭和19)に11歳で校舎の焼失と、翌年には学童疎開の辛酸をなめている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)に作成された「落合町市街図」にみる落合第二尋常小学校の建設予定地。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる予定地。すでに旧・下落合802番地界隈には住宅やアトリエが建てられ、番地変更が行われている様子がわかる。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる“薬王院の森”とその周辺。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、校地変更後に上落合745番地で開校した落合第二尋常小学校。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、戦後に上落合1丁目472番地(現・上落合2丁目10番地)へ移転した落合第二小学校。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1944年(昭和19)に炊爨(すいさん)室からの失火以降、高学年の生徒たちが通っていた落合第四尋常小学校。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、周囲の緑地が幸いしたのか空襲でも焼けなかった落合第四小学校の現状。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、落合第二尋常小学校(国民学校)に残る校舎が1945年(昭和20)4月の空襲で焼失したため、在京の教師や事務員たちが執務していた上落合1丁目136～141番地の明星尋常高等小学校(国民学校)。のちの5月の空襲で同校も焼失し、戦後に再建されることはなかった。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、疎開先からもどった落合第二小の生徒たちは、校舎がないため通った落合第三小学校(<span style="color: #3366ff;">上</span>)と同校の現状(<span style="color: #3366ff;">下</span>)。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span></div><div>　1944年(昭和19)5月23日の炊爨室(すいさんしつ＝給食室)からの失火で校舎のほとんどを焼失した、落合第二尋常高等小学校の焼け跡に立つ巡査。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520526153.html" target="_blank" rel="noopener">菅野廉一</a>が、おそらく巡査の夏服から同年の6月以降に撮影したもので、背景には中井駅付近の西武線が走り手前には妙正寺川が流れている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE4BA8CE5B08BE5B8B8E5B08FE5ADA6E6A0A1E784BCE38191E8B7A1.jpg" alt="落合第二尋常小学校焼け跡.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>　今夏もこれが近所をブンブン飛びまわっている。わが家へは、めずらしく大きな♂がやってきた。わたしが学生時代(1970年代後半～80年代)の新宿では、およそ考えられなかった光景だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382ABE38396E38388E383A0E382B72026.jpg" alt="カブトムシ2026.jpg" width="520" height="392" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>目白文化村に建つ武生郷友会の学舎。</title>
<description>　箱根土地が1925年(大正14)に作成した「目白文化村分譲地地割図」には、第一文化村のエリアに「福井郷友会殿」と記載された敷地が掲載されている。第一文化村の南東に設置された水道タンクの近く、田邸と古河邸にはさまれたかなり大きな敷地だ。だが、これは「武生郷友会」の誤りであり、「福井郷友会」と表記しては非常にマズイことを、同地割図を作成した箱根土地の担当者は気づかなかったようだ。武生郷友会のメンバーが同地割図を見たとしたら、苦虫を嚙みつぶしたような表情を見せたのではないだろうか..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-08-02T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE5ADA6E8888E.jpg" alt="武生郷友会学舎.jpg" width="600" height="420" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地</a>が1925年(大正14)に作成した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508393569.html" target="_blank" rel="noopener">「目白文化村分譲地地割図」</a>には、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">第一文化村</a>のエリアに「福井郷友会殿」と記載された敷地が掲載されている。第一文化村の南東に設置された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509878987.html" target="_blank" rel="noopener">水道タンク</a>の近く、田邸と古河邸にはさまれたかなり大きな敷地だ。だが、これは「武生郷友会」の誤りであり、「福井郷友会」と表記しては非常にマズイことを、同地割図を作成した箱根土地の担当者は気づかなかったようだ。武生郷友会のメンバーが同地割図を見たとしたら、苦虫を嚙みつぶしたような表情を見せたのではないだろうか。<br />　武生(たけふ)の街(現・越前市)は、現在では確かに福井県に所属しているのだが、もともと江戸期には本多家が治める2万3千石の府中藩で、松平家が治める福井藩の隣藩だった。しかも、府中藩の本多家はもともと福井松平家の家老格ということで、なにかというと福井藩から蔑視され圧力や圧政に苦しんできた歴史をもっていた。したがって、郷友会には意地でも「福井」の名称は入れず、対外的にも「福井」ではなく「武生」というネームで通していた。<br />　目白文化村に建設する、東京へ留学する学生たちのための学舎も、あえて「福井」ではなく「武生郷友会会所」と名づけている。おそらく、箱根土地の地割図作成者は「武生」のネームに聞きおぼえがなく、どこの県にある街かを調べたうえで、あえて知名度のある県名の「福井」へと勝手に変えてしまったのだろう。武生郷友会に所属する古老たちが見たら、逆鱗に触れるような記載だったにちがいない。旧・福井藩と旧・府中藩の地域対立は明治以降もつづき、さまざまな事件が起きている。その代表的な「武生騒動」については、1988年(昭和64)に武生郷友会が編纂した『武生郷友会百年史』(百年史編纂委員会)に詳しいので参照されたい。ひょっとすると、同会のメンバーが地割図の誤表記に、箱根土地へクレームを入れているのかもしれない。<br />　さて、武生郷友会の「会所」(学舎)は当初、世田谷の太子堂に転居した青山6丁目147番地の旧・本多副恭(男)邸跡に置かれていたが、1924年(大正13)4月30日、第一文化村の下落合(3丁目)1321番地に武生郷友会会所が竣工すると、設備や学生たちは下落合へ移転している。その建設時の様子と、その後の経緯について『武生郷友会百年史』より少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　その頃、土肥慶蔵より新しく開発された目白文化村の土地百坪(三三〇平方メートル)の無償貸与の申出がなされた。二十年貸与という条件であるから、ほとんど寄附に等しい好意であった。しかし、会としても土肥氏個人に甘えることは立場上許されず、購入原価での購入を申出た。氏がそれを快諾されたことは言うまでもない。そして、青山会所を九千円で売却し、約七年間続いた同会所は閉鎖された。／大正十二年(一九二三)八月に目白&lt;下落合&gt;の購入地に会所建設が進められた。平家建三十四坪(約一一二平方メートル)木造の建物である。その年九月一日に関東大震災が起ったため、工事は一時中断された。竣工は同十三年四月&lt;4月30日&gt;と記されている。この文化村の敷地が現在の郷友会の存在する場所であり、当時、豊多摩郡落合町目白第一文化村八号と呼ばれた。最近の全財産目録によると敷地は百八十八・二八坪(約六二一平方メートル)になっており、その後近隣地を買収していったことは明らかである。また、現在は、建物も旧館・新館併せ百七十三・二五坪(約五七一平方メートル)で約五倍に増築されている。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　登場している土肥慶蔵は武生出身の医師で、皮膚科が専門だった。東京帝大医学部の教授に就任し、日本皮膚科学会を設立して会頭をつとめていた人物だ。<br />　武生郷友会は、東京における武生出身者の拠点であると同時に、東京に学ぶ学生たちの負担を減らすために学生寮の役割を担っていた。その公的な目的のため、1923年(大正12)には「財団法人寄附行為起草委員会」が設立され、1925年(大正14)12月には財団法人の認可が下りて、「財団法人 武生郷友会」としての活動基盤が整えられている。また、東京へ留学する学生たちのために奨学資金の募金活動も行われ、奨学金貸与制度が設けられている。この募金活動では、途中の金融恐慌から世界大恐慌の困難な時期をはさみながら、1930年(昭和5)までに在京の武生出身者からは8,240円、地元の在住者から1,770円の計10,010円の資金が集まった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE69687E58C96E69D91E58886E8ADB2E59CB0E59CB0E589B2E59BB31925.jpg" alt="目白文化村分譲地地割図1925.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801924E7ABA3E5B7A5.jpg" alt="武生郷友会所1924竣工.jpg" width="520" height="346" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801925.jpg" alt="武生郷友会所1925.jpg" width="520" height="318" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE6898028E5A4A7E6ADA3E69CABE9A08329.jpg" alt="武生郷友会所(大正末頃).jpg" width="520" height="332" border="0" /></div><div>　こうして、目白文化村には武生出身の学生たちが、戦前戦後を通じて集うことになったのだが、1945年(昭和20)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">山手大空襲</a>の際には、学生たちによる必死の消火活動で第一文化村にもかかわらず、武生郷友会会所および学舎は延焼をまぬがれている。しかも、同会所の記録には、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で火災が迫り、消火(防火)活動を行ったと記録されている。ここで想起されるのは、1945年(昭和20)5月17日に米軍の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-09.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>から撮影された、爆撃の焼け跡も生々しい下落合一帯の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-23.html" target="_blank" rel="noopener">空中写真</a>だ。<br />　目白文化村は、同年4月13日夜半の空襲で大半が焼けたとする資料がかなり多いのだが、また事実そのように罹災した方の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/508609869.html" target="_blank" rel="noopener">証言類</a>も残されているが、米国の国防総省が前世紀末に公開したとみられる先の偵察写真では、確かに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">落合府営住宅</a>から第一文化村の北端は焦土化しているものの、弁天社のある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-04-27.html" target="_blank" rel="noopener">前谷戸</a>をはさんだ南側は焼け残っているように見える。すなわち、目白文化村の空襲による罹災は、4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたっているのではないかということだ。それが戦後、4月13日夜半の空襲で焼けだされた人々の証言のみが採取された時点で、「目白文化村の空襲は4月13日」とされてきたのではないか。<br />　武生郷友会会所の学舎で記録された、「昭和二十年」の項目よりそのまま引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(前略) 五月二十五日、米軍のB29は約十二万個の焼夷弾を投下、山の手から多摩地区を火の海に変えた。／下落合一帯もたちまち火に包まれた。在舎の学生たちはバケツリレーで必死の消火作業に当たった。学舎は奇跡的に類焼を免れた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　すなわち、第一文化村の南側は1945年(昭和20)4月13日夜半ではなく、5月25日夜半の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-03-11.html" target="_blank" rel="noopener">第2次山手空襲</a>で危機的な状況を迎えていたのは明らかだろう。したがって、目白文化村の空襲は4月13日夜半の罹災家屋と、5月25日夜半の罹災家屋が混在していたことになる。それが、1ヶ月ほどの短期間のタイミングで受けた壊滅的な空襲禍のため、戦後の部分的な証言をベースに「目白文化村の空襲は4月13日」へと集約されていったのではないか。<br />　換言すれば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-06.html" target="_blank" rel="noopener">偵察機F13</a>が撮影した同年5月17日の偵察写真、つまり5月25日夜半に計画されていた空襲の8日前に撮影された第一文化村の姿は、やはり焼け残っていた家々もとらえられているということだろう。そして、8日後に実施された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-10.html" target="_blank" rel="noopener">第2次山手空襲</a>で、なんとか焼け残っていた家々も延焼してしまったというのが正確な経緯なのではないか。事実、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真では、第一文化村の南側で延焼をまぬがれているのは唯一、武生郷友会の建物のみだった。学生たちが必死で消火作業を行ったのは、近隣の家々からの延焼を防ぐためであり、それまでは近隣の家々も4月13日夜半の空襲では焼けずに建っていたということになる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801936.jpg" alt="武生郷友会所1936.jpg" width="520" height="399" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801947.jpg" alt="武生郷友会所1947.jpg" width="520" height="401" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE5ADA6E8888EE5A297E7AF8919521109.jpg" alt="武生郷友会学舎増築19521109.jpg" width="520" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801960E5B9B4E4BBA3.jpg" alt="武生郷友会所1960年代.jpg" width="520" height="352" border="0" /></div><div>　さて、『武生郷友会百年史』には、戦時中を同学舎で送った人の手記も掲載されている。その中から、田中壽という人の書いた『私と郷友会』というタイトルの手記を少し長いが引用しよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　目白通りを黄バスが走り、椎名町のバス停から少し入った所に「目白文化村」があった。そこは安倍能成、末高信、関口存男、奥村鶴吉など当時の錚々たる学者たちの表札が並ぶ閑静な高級住宅地であった。その一角に、「文化村」のイメージとは凡そ程遠い、いわば場違いなオンボロ家屋「武生郷友会所」があった。(中略) 敗戦直後のこの一年間の在舎生活は、停電、燃料払底、食糧不足等々、惨憺たるものであった。新宿や池袋などのヤミ市でよく飢えを凌いだものである。／思えば、今から四十年以前の下落合三丁目界隈は谷あり坂あり緑濃く田園牧歌的な自然環境に恵まれていた。こうした環境のなかで、詰め襟の学生服を着て板割り草履？か下駄を鳴らして通学し、風体いささかも構わず意気浩然として闊歩した青春の学舎時代に、よき先輩後輩を知り得たのは幸であった。／しかし、軍事一色の時代、科学研究は戦争遂行を唯一絶対の目標とされたため、学問の自由は抑圧され、逼塞した大学では軍事教練や体練？が幅を利かし、社会科学の基礎的学習が全く出来なかったことは今もって痛恨の思いとなっている。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　下落合3丁目(現・中落合3丁目)の武生郷友会所の学生は、中井駅から高田馬場駅へ、またバスで目白駅へ出て通学していた。ターミナル駅の新宿と池袋の双方に近いため、学校への通学には便利だったろうが、上掲の手記にもあるように、いちばん学ぶ必要がある貴重な時代を戦争で台なしにされたことは、うちの親父ともども「痛恨」のきわみだったろう。<br />　戦後は、目白文化村の東側を斜めに貫通する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">改正道路(山手通り)</a>の敷設で、交通量の増加とともにかなり騒音に悩まされたと思われる。現在は、山手通り沿いにマンション風の武生郷友会所および学舎が完成し、入寮者はかなり快適な学生生活を送れているのではないだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE5ADA6E8888E1988.jpg" alt="武生郷友会学舎1988.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58685E983A8E5808BE5AEA4.jpg" alt="内部個室.jpg" width="520" height="659" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58685E983A8E5BB8AE4B88B.jpg" alt="内部廊下.jpg" width="520" height="653" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AFAEE7A5ADE79BAEE799BDE69687E58C96E69D91E3818BE38191E381A3E38193.jpg" alt="寮祭目白文化村かけっこ.jpg" width="520" height="297" border="0" /></div><div>　5月25日夜半の空襲から焼け残ったということは、1924年(大正13)に竣工した西洋館風の学舎がそのまま戦後まで建っていたことになる。むしろ、その建築をリフォームしつづけていたほうが、いくら「オンボロ」になったとはいえ、目白文化村らしい風情を残す学舎だったのではないだろうか。戦後、しばらくしてから建てられた学舎の写真を見ると、わたしが住んでいた学生下宿に近い「オンボロ」アパートのようで、文化村のイメージとは「凡そ程遠い」外観だと思うのだけれど。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：現在も目白文化村の第一文化村にある、(財)武生郷友会の会所および学舎。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみる「福井郷友会殿」。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1924年(大正13)4月30日に竣工した武生郷友会会所(学舎)の記念写真。目白文化村の建築らしい、最初はしゃれた西洋館風の学舎だった。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1925年(大正14)に撮影された同会所前の記念写真。背後の樹間には、西隣りの西洋館だったとみられる田邸が見えているのがめずらしい写真だ。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、大正末ごろに撮影された同会所で、上の写真と同様に西隣りの2階建てだったらしい田邸の屋根がとらえられている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる武生郷友会会所。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同会所で、延焼が北側から迫っていた様子がわかる。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、旧・会所の敷地も含め東側に拡張された同会所。1952年(昭和27)11月9日に竣工しているが、ふつうのアパートと変わらず文化村らしくないデザインの建物になった。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1960年代に撮影された武生郷友会の学舎祭(寮祭)が開かれている写真で、手前の道路が山手通り(環六)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1988年(昭和64)に撮影された武生郷友会会所(学舎)。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、同学舎内部の個室と廊下。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1980年代とみられる同学舎祭(寮祭)の催しで目白文化村のかけっこ。こんな若者たちが文化村を疾走してたら、犬が吠えるぐらいでは済まず通報されたかもしれない。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ1</span><br />　1963年(昭和38)の空中写真にみる、東へ拡張された武生郷友会会所(学舎)。2枚目は、1987年(昭和62)11月14日に撮影された同会所の外観で突きあたりが山手通り。3枚目は1988年(昭和63)に斜めフカンから撮影された同会所。左上には、十三間通り(新目白通り)が写っている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE689801963.jpg" alt="武生郷友会所1963.jpg" width="520" height="395" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE5ADA6E8888EE5A496E5A38119871114.jpg" alt="武生郷友会学舎外壁19871114.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6ADA6E7949FE983B7E58F8BE4BC9AE5ADA6E8888E1988E38395E382ABE383B3.jpg" alt="武生郷友会学舎1988フカン.jpg" width="520" height="359" border="0" /></div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ2</span></div><div>　下落合の氷川明神社近くで見かけた、いまだ体表に子ども時代の模様が薄っすら残る若いアオダイショウの個体。1.5mほどで、わが家の周辺に出没する2mをゆうに超える美しい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-05-07.html" target="_blank" rel="noopener">アオダイショウ</a>よりも小ぶりだが、そのぶん敏捷で動きがすばやい。人間の近くで静かに暮らし、ネズミなどの害獣やゴキブリなど害虫、ときにゴミ漁りのカラスなども捕食してくれる頼りになる益獣だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E382AAE38380E382A4E382B7E383A7E382A6E5909B.jpg" alt="アオダイショウ君.jpg" width="520" height="356" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>「バッケが原」は南関東に多く見られた一般名か。</title>
<description>　落合地域の西寄り、下落合(現・中落合／中井含む)と上落合のバッケ(崖地)＝急斜面に挟まれた、谷底を流れる妙正寺川には「バッケの水車」と呼ばれる水車小屋が設置されていた。また、バッケの水車の少し下流にあった灌漑用水用の川堰は、「バッケ堰」と呼ばれている。さらに徳川義恕が描く、あるいは上高田が地元の『ふる里上高田の昔語り』(1982年)に掲載された小規模なバッケ堰は稲葉の水車の上流、上高田と下落合との間にも築造されていた。　これらバッケの水車またはバッケ堰の周囲は、水田や麦畑が..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-30T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38390E38383E382B1E3818CE58E9F1933.jpg" alt="バッケが原1933.jpg" width="600" height="426" border="0" /></div><div>　落合地域の西寄り、下落合(現・中落合／中井含む)と上落合の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-17.html" target="_blank" rel="noopener">バッケ</a>(崖地)＝急斜面に挟まれた、谷底を流れる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-13.html" target="_blank" rel="noopener">妙正寺川</a>には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-04-17.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケの水車」</a>と呼ばれる水車小屋が設置されていた。また、バッケの水車の少し下流にあった灌漑用水用の川堰は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-12-25.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケ堰」</a>と呼ばれている。さらに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520287578.html" target="_blank" rel="noopener">徳川義恕</a>が描く、あるいは上高田が地元の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">『ふる里上高田の昔語り』</a>(1982年)に掲載された小規模なバッケ堰は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-04-30.html" target="_blank" rel="noopener">稲葉の水車</a>の上流、上高田と下落合との間にも築造されていた。<br />　これらバッケの水車またはバッケ堰の周囲は、水田や麦畑が多かったが、大正から昭和初期にかけて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">耕地整理</a>が行われ、田畑は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">大量の土砂</a>で埋め立てられ宅地が造成されていった。その過程で、住宅が建てられる前の耕地整理を終えた原っぱのことを、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516855848.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケが原」</a>または<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518015934.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケの原」</a>と呼んでいた。落合地域でいえば、早い時期から耕地整理が行われていた上落合の西部が「バッケが原」と呼ばれていたようだが、大正後期から昭和期にかけては落合地域の西側、上高田の耕地整理が進んだエリアを、そう呼ぶようになったようだ。<br />　もちろん、バッケには東京西部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">小金井</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-11-16.html" target="_blank" rel="noopener">国分寺</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-31.html" target="_blank" rel="noopener">ハケ</a>と同様に、各所で噴出する湧水が豊富な急斜面あるいは崖地の近くに見られる地形の呼称で、落合地域の周辺では戸塚町下戸塚(現・早稲田3丁目)に、1932年(昭和7)まで住所として使われた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-07-24.html" target="_blank" rel="noopener">「(字)バッケ下」</a>という字名が残されていた。また、同じ戸塚町の上戸塚(現・高田馬場4丁目)の崖下にも、小規模な<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-28.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケが原」</a>と呼ばれた原っぱが存在していたのを、同地域で育った<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">濱田煕</a>がイラストとともに記録している。<br />　湧水が豊富な崖地や急斜面のことをバッケと呼称するのは、おそらく江戸東京の市街地の随所でつかわれた方言だと思われ、各地の崖地や急斜面に残る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-02-10.html" target="_blank" rel="noopener">「バッケ坂」</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-08-10.html" target="_blank" rel="noopener">「オバケ坂」</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-22.html" target="_blank" rel="noopener">「化坂」</a>、ときに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">「八景坂」</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/516974783.html" target="_blank" rel="noopener">「幽霊坂」</a>へと転化していったらしいことは、これまでに何度も記事に書いてきた。では、崖地や急斜面の下に拡がる原っぱのことを、「バッケが原」あるいは「バッケの原」と呼称していた地域は、落合地域とその周辺域以外にもあるだろうか？　それを調べて、ちょっと深く掘り下げてみようというのが、きょうの夏休みの宿題的なテーマだ。<br />　かつて引用した『広辞苑』(岩波書店)には、関東地方でつかわれてきた「ハケ」とともに「バッケ」の意味は掲載されているが、「バッケが原」あるいは「バッケの原」までは掲載されていない。そこで、かなり古めな地名辞典や方言辞典ではどうだろうか？　そこで、江戸東京地方の方言とともに地名なども数多く採取されている、1970年(昭和45)に校倉書房から出版された、山中襄太の『方言俗語語源辞典』を参照してみた。以下、「ばっけ」の項目を少し長いが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><strong><span style="color: #333399;">　ばっけ</span></strong><br />　崖。がけ。茨城県久慈郡、千葉県印旛郡。 [考&lt;察&gt;] 関東でガケの意。関東地方の地誌を調べているという竹田義氏によれば、川沿いの雑木林や、川や林にかこまれたくぼ地や野原に、バッケとか、バッケの原という地名があるという。西武新宿線中井駅と新井薬師前駅との中間北側にも、もとバッケの原&lt;地元では「バッケが原」の呼称が多い&gt;があって、そのころ消防の演習などをよくやったものである。八景坂という坂がある。東京都大田区大森貝塚のある木原山(20mほどの丘陵)の東の坂。八景とは当て字。この地方の方言でガケのことをハッケ、ハケという。すなわちがけ坂の意。ハケ、ハッケは、バッケ、バッカ、バッカイ、ハガ(芳賀)、ホケ、ボケ(歩危)と同義で、ガケ(崖)、カケ(欠、缼)という語とも同源で、音が変ったものであろう。hの音とkの音とが変わる例――ハじかむ～カじかむ(寒さで手が)、ヒらめく～キらめく、フたばる、へたばる～クたばる。フすぼる～クすぼる(燻)、フくむ～クくむ(含)、へずる～ケずる(削)……(以下略) 　(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE9AB98E794B01935E9A083.jpg" alt="上高田1935頃.jpg" width="520" height="535" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38390E38383E382B11933E9A083.jpg" alt="バッケ1933頃.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE5ADA6E59C92E38390E38383E382B1.jpg" alt="目白学園バッケ.jpg" width="520" height="392" border="0" /></div><div>　一般的な『広辞苑』などではなく、ちょっと昔の方言辞典類を調べていれば、「バッケ」についてより詳しいことが判明していたかと思うと、少々時間をムダにした残念な思いもするけれど、著者は「八景」という言葉も「バッケ」ないしは「ハケ」の転化(転訛)だと考察している。<br />　拙記事では、これまで大森地域の八景坂や江戸期からつづく「大森八景」、あるいは同様に三浦半島も近い横浜の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-01-20.html" target="_blank" rel="noopener">「金沢八景」</a>についても記事にしていた。また、「〇〇八景」という眺めの良い場所にふられた風光明媚な観光地も、もともとはバッケあるいはハケ＝崖地や急斜面にちなんだ呼称が語源ではないかとも書いていた。なお、文中に登場している地誌の専門家らしい竹田義という人物の著作は、残念ながらどこにも見つけることができなかった。<br />　『方言俗語語源辞典』によれば、バッケあるいはハッケ、ハケなどという地形を表現する地名は、茨城県や千葉県、東京都(江戸期からつづく市街地内外)などに見られる地形方言のようだが、先の金沢八景のように神奈川県にもバッケと呼ばれた地名は存在している。しかも、横浜市に残るのは上高田と同様に、「バッケが原」と呼ばれた崖地の下に拡がる原っぱだった。江戸期には、処刑場としても使用されていた原っぱで、以前から寺院も建立されている。1994年(平成6)に230クラブ新聞社から出版された、小寺篤『鶴見川・境川流域文化考』から少しだけ引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　横浜市神奈川区片倉町に長遠寺がある。元禄以前には風土記稿が小名としてあげている「本宮」の地が寺の在処であって浄遠寺と称した。住職海浄師によると、もとその場所には処刑場があり、「バッケが原」と呼ばれていたという。片倉村は「昔上杉北條等の分国ニシテ」と誌され、近世では天領の代官支配また旗本支配の時期もあったというから、いずれそのあたりの裁断処刑の地であったのであろう。しかしここにもロウバをつけた地名はなく、「バッケが原」である。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　著者は、「ロウバ」という音の地名を探して横浜市内の河川沿いを探索しているのだが、その過程で鳥山川沿いに「バッケが原」と呼ばれる地名を発見している。<br />　長遠寺のある崖地の地域は、室町期の早くから開拓されていたようで、「上杉北條等」という証言が残ることから、室町期の関東管領だった山内上杉氏ないしは扇谷上杉氏、その後は駿河から伊豆の伊勢氏(後北條氏)の所領地だったことがわかる。つまり、鎌倉期のすぐあとから開拓されていた地域とみられ、古い地形方言もそのまま受け継がれてきたのだろう。現在、長遠寺の周辺は住宅街で埋まり、昔日の崖地や「バッケが原」を見ることはできないが、宅地造成で崖地や急斜面が修正されてもなお、北西側と東側へと落ちこむ地形は昔日の面影をとどめているようだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88AE688B8E5A19AE38390E38383E382B1E3818CE58E9F1936.jpg" alt="上戸塚バッケが原1936.jpg" width="520" height="418" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E688B8E5A19AE38390E38383E382B1E3818CE58E9FE8B7A1.JPG" alt="戸塚バッケが原跡.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B9E8A880E4BF97E8AA9EE8AA9EE6BA90E8BE9EE585B81970E6A0A1E58089E69BB8E688BF.jpg" alt="方言俗語語源辞典1970校倉書房.jpg" width="255" height="362" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B6B4E8A68BE5B79DE383BBE5A283E5B79DE6B581E59F9FE69687E58C96E880831994.jpg" alt="鶴見川・境川流域文化考1994.jpg" width="255" height="362" border="0" /></div><div>　横浜の「バッケが原」は、近世になると処刑場があったとされているので、バッケの意味が通じにくくなった明治以降、「オバケ」や「幽霊」と容易に結びついていきそうなことも想像できる。片倉地域で、「オバケ坂」あるいは「幽霊坂」と呼ばれる坂道や、処刑場だったバッケが原にまつわる怪談話も、地元で色濃く伝承されていそうだ。別に処刑場など関係がない、都内の崖地や急斜面に通う坂道だったバッケ坂が、近代に入ると容易に「オバケ坂」や「幽霊坂」に転訛(転化)しているのを想定すると、樹木が繁茂して開墾や開発がされにくい地形に通う坂道は、昼なお暗く不気味で、いかにもオバケや幽霊が出現するのにふさわしい風情だったろう。<br />　さて、「バッケ」や「ハッケ」、「ハケ」などとともに、もうひとつ関東地方の方言で気になる地形表現がある。これは、ずいぶん以前に調べた憶えがあるけれど、川筋や海岸の平地から丘陵へと鋭く切れこむように形成されている谷間のことを、谷と書いて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-07-22.html" target="_blank" rel="noopener">「ヤツ」</a>と発音するケースだ。この呼称は、一般的な地形名称でいえば「谷戸(ヤト)」のことだが、特に関東地方の南部に多くみられ、神奈川県や千葉県、東京都の南部に数多く分布しているようだ。ときには、谷で「ヤツ」とは読みにくいせいか、谷津と「ツ」がふられた地名も見かける。<br />　先の関東管領だった上杉氏から引用すれば、鎌倉に赴任して館をかまえたのが扇ヶ谷だったため、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と呼称されている。神奈川県の鎌倉には、谷のことを「ヤツ」と発音する地名が多く、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">二階堂ヶ谷</a>(にかいどうがやつ)や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">釈迦堂ヶ谷</a>(しゃかどうがやつ)、犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)など数が知れない。ちなみに、犬懸ヶ谷に館をかまえた上杉氏は犬懸上杉氏と呼ばれていた。そして、このような呼称は千葉県にも多く見られる特徴だ。<br />　これはあくまでも私見だけれど、もともと古くから関東南部で使われていた谷(ヤツ)の呼称だが、鎌倉時代に武家政治の中心地である鎌倉へ館をかまえる、全国各地の守護(大名)や国人(地付きの有力武士)が多くなり、鎌倉での呼称が関東各地(あるいは全国)へと拡散していったのではないか。千葉県に多いのは、鎌倉幕府の有力御家人だった千葉氏の本拠地だったせいか、あるいはもう少し時代が下り本来は鎌倉公方だった足利氏が、関東管領の上杉氏との対立で鎌倉を追われ、下総国で古河公方を名乗るようになったころに拡散されていったものだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E981A0E5AFBA1966.jpg" alt="長遠寺1966.jpg" width="520" height="470" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E995B7E981A0E5AFBAE38390E38383E382B1.jpg" alt="長遠寺バッケ.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E688A6E69797192812.jpg" alt="戦旗192812.jpg" width="260" height="375" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59089E794B0E381A8E38197E3808CE38390E38383E382B1E381AEE58E9FE381AEE789A9E8AA9EE3808D1987E5B08FE5B3B0E69BB8E5BA97.jpg" alt="吉田とし「バッケの原の物語」1987小峰書店.jpg" width="250" height="375" border="0" /></div><div>　さて、なぜ「バッケ」あるいは「ハケ」がテーマの文章に「ヤツ」が登場しているのかといえば、これらの呼び名がふられた地方地域が重なるように感じるからだ。もちろん、バッケ・ハケ＝崖地や急斜面には、湧水の浸食で形成されたヤツ＝谷・谷津・谷戸が多いのはあたりまえだが、いろいろ調べていると、呼称としての音の共通分布が「バッケ」「ハケ」と「ヤツ」の地域は近しいのではないかという感触をおぼえた。原日本語(アイヌ語に継承)で考えると、「パケ(pake)」は頭や先端・淵などの意味であり、「ヤチ(yati)」はそのまま谷間や谷地の意味になる。古朝鮮語が混じらない、それほど古くからの日本語であるならば、東日本に多いのもうなずけるのだが……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1933年(昭和8)に撮影された、学生たちの郊外散策をとらえた記念写真。カメラマンの位置が上高田のバッケが原で、写っている丘陵は下落合の西端。手前には妙正寺川が流れており、学生たちが並んでいる坂道の名は昔もいまも「バッケ坂」。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1936年(昭和11)に撮影された上高田のバッケが原。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1933年(昭和8)ごろに撮影された下落合のバッケ下を歩く女性。左手が上高田のバッケが原で、右手には下落合西端の丘陵に地層がむき出しのバッケ(崖地)が見えている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同じくバッケが原から戦後すぐのころに撮影された下落合西端の丘陵で冒頭写真とほぼ同じ場所。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にとらえられた上戸塚のバッケが原。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、上戸塚にあったバッケが原の現状で、現在は斜面に集合住宅群が建てられている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1970年(昭和45)に出版された山中襄太の『方言俗語語源辞典』(校倉書房／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1994年(平成6)に出版された小寺篤『鶴見川・境川流域文化考』(230クラブ新聞社／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1966年(昭和41)の空中写真にとらえられた横浜市神奈川区片倉町の長音寺界隈。同寺の周囲は丘陵になっており、バッケ(崖地)があったのは北東側だろうか。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、長音寺のある丘の現状。<span style="color: #3366ff;">下左</span>は、上高田のバッケが原が登場する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-04.html" target="_blank" rel="noopener">槇本楠郎</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">『文化村を襲った子供』</a>が収録された1928年(昭和3)の「戦旗」12月号。<span style="color: #3366ff;">下右</span>は、1987年(昭和63)に出版された吉田とし『バッケの原の物語』(小峰書店)だが、本来のバッケとは無関係なオバケのいる原っぱのこと。彼女は静岡の富士市出身だが、故郷の近くにバッケの原と呼ばれた原っぱがあったのかもしれない。</div></div><a name="more"></a>

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<title>自動【者】を超える人力【者】を育てないと。</title>
<description>　いつか、戦後の1960年代まで目白駅前で俥力(しゃりき)をつづけていた、「島さん」について記事にしたことがある。60歳を超えていたとみられる島さんだが、100円／キロで酔客などを目白駅前から自宅まで送りとどけていた。ただし、目白崖線の急坂のある一帯は、さすがに身体が追いつかず、やむなく「乗車拒否」をしていたらしい。　戦後はおろか、昭和初期から自動車や自転車が一般に普及するにしたがい、人力車の需要は急減していった。明治末から大正期にかけて、まずは馬車屋が自動車(乗合自動車)の..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-27T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B585E88D89E5A5B3E5AD90E4BFA5E58A9B.jpg" alt="浅草女子俥力.jpg" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　いつか、戦後の1960年代まで目白駅前で俥力(しゃりき)をつづけていた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">「島さん」</a>について記事にしたことがある。60歳を超えていたとみられる島さんだが、100円／キロで酔客などを目白駅前から自宅まで送りとどけていた。ただし、目白崖線の急坂のある一帯は、さすがに身体が追いつかず、やむなく「乗車拒否」をしていたらしい。<br />　戦後はおろか、昭和初期から自動車や自転車が一般に普及するにしたがい、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514535639.html" target="_blank" rel="noopener">人力車</a>の需要は急減していった。明治末から大正期にかけて、まずは馬車屋が自動車(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-02.html" target="_blank" rel="noopener">乗合自動車</a>)の普及で徐々に淘汰されていった。だが、小まわりがきく人力車は、昭和初期までなにかと重宝がられ、需要がなくなることはなかった。人力車の台数と自動車の普及台数が逆転するのは、ちょうど大正の終り(1926年)から昭和の初め(1927年)のころだ。また、タクシーやハイヤーの台数が人力車数を上まわるのは、1928年(昭和3)のことだった。<br />　東京市内では、1912年(明治45・大正元)に23,361台を数えていた人力車だが、1930年(昭和5)には3,353台にまで数を減らしている。わずか18年の間に、人力車は7分の1にまで激減してしまった。それにかわり、1912年(明治45・大正元)にはわずか298台だった自動車は、1930年(昭和5)には27,469台と約92倍に激増している。また、ハイヤー・タクシーは1915年(大正4)に94台だったものが、1930年(昭和5)には7,815台と、こちらも約83倍と急増している。これらの統計数値は、警視庁保安部交通課が調査した「東京市年報」に掲載されたものだ。<br />　明治末から大正初期にかけ、まずは馬車屋による自動車の敵対視や排斥がはじまっている。自ら技師であり、ガソリン自動車の先駆けといわれる国産車を製造した内山駒之助は、馬車の御者から拳銃で撃たれ重傷を負っている。1905年(明治38)に起きた広島での事件について、1987年(昭和62)に新潮社から出版された高田公理『自動車と人間の百年史』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　広島に長期滞在して車両の整備に当たった内山氏も、あるときは馬車の通過を道の片隅に避けたが、馬車との接触で自動車が同氏の立つ崖下側に転覆し、その下敷きとなって負傷したこともあった。……馬車屋にピストルで狙撃され弾丸が胸部を貫通するというさんざんな目にもあった。／馬車だけではない。人力車夫もまた競合相手の自動車営業に妨害を加えることが二度三度ではなかったようだ。だから、九か月後の同年十一月に結局は廃業せざるをえなくなった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　まさに、自動車を運転したり、それで商売をしようとしたり整備したりするのは大都市圏ならともかく、地方では文字どおり命がけだった様子がうかがえる。<br />　東京でも、車夫と自動車の運転手は険悪な仲だった。俥をひろおうとした、自動車のドライバーを「乗車拒否」する車夫の話が残っている。別にタクシーやハイヤーなどで商売をしている人間ではなく、自動車を運転している人物というだけで俥の利用を拒否された。1984年(昭和59)に中央大学出版部から刊行された、山中新『馬なし馬車が行く』から少し長めだが引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　時間が時間だったせいか、人力車は一台も通っていなかった。／「岡田さん、歩きましょうよ」／小林は、上野方面に向って歩き出した。／「篭町まで行って、人力車の詰所から乗りましょう」／岡田も歩調を早めた。岡田の家から篭町までは、たいした道程ではなかったが、人力車の詰所の前まで来ると、縁台に腰を下してタパコを吸っている車夫がいた。／「大至急で、神田の岩本町までやってください」／ところが、車夫は岡田の顔を見ると、ぷっと横を向いてしまった。／「ふん……。あんたは自動車の運転手様だろ。わしらのような、二本足で引いて走る車なんぞに乗らんで、四つの立派な車のついた、自動車とかいう豪勢なお車に乗った方が、お似合いなんでは…」／車夫は、にべもなく岡田の頼みを断った。商売敵といわれればそれまでだが、なにもハイヤーの運転手をしているわけでもないので、／「おれは、自動車の運転手をしているが、君たちの商売敵ではないよ」／と、車夫に言っても、車夫は一向に行ってくれそうもない。やむをえず、二人は神田の岩本町まで歩くことにした。岡田は歩きながら、この車夫の態度が許せないと腹を立てていた。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E88AB3E8998EE3808CE9A6ACE8BB8AE381A8E4BFA5E3808D28E6988EE6B2BBE69C9F29.jpg" alt="芳虎「馬車と俥」(明治期).jpg" width="520" height="463" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B885E8A6AAE3808CE69FB3E58E9FE5A49CE99BA8E3808D1896.jpg" alt="清親「柳原夜雨」1896.jpg" width="520" height="352" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8ADA6E8A696E5BA81E7B5B1E8A8881930.jpg" alt="警視庁統計1930.jpg" width="520" height="626" border="0" /></div><div>　この俥(じんりき)の車夫の場合は、まだイヤミをいうだけの「乗車拒否」だが、急速に普及する自動車に対し、組織的な反対運動を繰り広げる地域も出はじめている。<br />　1914年(大正3)の夏には、岡山県で大規模な反対運動に火がついた。同年に日本自動車倶楽部から発行された『自動車』8月号に収録の、新聞記事(新聞名は不詳)の見出し「人力車夫の反対運動」から引用してみよう。ちなみに、反対運動が人口の多い都市部ではなく地方に多いのは、俥を利用する乗客の絶対数が都市部に比べ限られて少ないからであり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-25.html" target="_blank" rel="noopener">乗合自動車</a>などの普及で壊滅的なダメージを受ける危機感が、より深刻かつ身近に感じられたからだろう。<br />　<span style="color: #008000;">　▼</span><br />　津山からの通信に由ると、倉敷、勝山間約八里の間に乗合自動車の経営を思ひ立つ人ありて、七月十五日津山にその発起人会を開きて、準備に着手したが、斯くと聞きし津山の人力車夫等は、之を以て彼等の危急存亡となし、熊公も大八も東奔西走して同志を募ること無慮二百数十名同盟して、反対運動を開始し、十八名の委員を選ぶやら、津山側の乗合自動車発起人及株主等に向つて、自動車営業の撤廃を哀願すると云ふ騒動、而して若し容れられない時には、更に美作五郡の同業と共に結束して、勝敗を試む可しと、息巻荒く武者振つて居る<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　このような対立は、全国各地で起きており、ひょっとすると東京郊外の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-31.html" target="_blank" rel="noopener">目白通り</a>を走る<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-06.html" target="_blank" rel="noopener">ダット乗合自動車</a>と、目白駅前に集合していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-19.html" target="_blank" rel="noopener">俥力</a>との間でも、トラブルが頻繁に起きていたのかもしれない。大正期を通じて、人力車と自動車との競合・対立は全国レベルにまで拡大するが、自動車やバスの急激な普及の前に、人力車の車夫たちは無力だった。<br />　大正末ごろになると、俥力たちは時代の進展と技術の進歩にあきらめが先立ったのだろう。乗合自動車やタクシー会社に対して、保証金あるいは廃業手当を求める要求闘争に変化していった。その事例を、1927年(昭和2)5月4日に発行された、「京都日出新聞」より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　京都駅前に営業する人力車夫は、最近恐ろしい勢ひで発達して来た自動車のため漸次生活の道を失ふに至り、窮した揚句つひに旅館と結託して宿引をやつたり婦女子によくないことをしたりするので、京都駅および七条署側で、今月中で廃業さすべき運びとまでなつたが、これらの者に対する涙金について、駅前で営業の各自動車会社より出金するやう懇談することとなり、目下有力者が協議中で、この際、自発的に廃業する者に対しても相当な方法を講じたいとの意向である。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38395E382A9E383BCE3838928E6988EE6B2BBE69CAB29.jpg" alt="フォード(明治末).jpg" width="520" height="321" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BB8E6A8A1E6B9BEE5A4A7E58089E5969CE4B883E9838E.jpg" alt="相模湾大倉喜七郎.jpg" width="520" height="394" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38380E38383E38388E382B5E383B3E5889DE69C9FE59E8B.jpg" alt="ダットサン初期型.jpg" width="520" height="324" border="0" /></div><div>　けれども、これらは観光地や都市部の駅前についての現象であって、交通が不便な郊外住宅地や、柳橋あるいは新橋、赤坂、神楽坂といった華町ではずいぶんあとまで、俥は芸者を乗せて走りつづけている。こちらでも、芝居帰りに目白駅から西落合1丁目132番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517886323.html" target="_blank" rel="noopener">貫井家</a>まで、俥を飛ばして帰宅していた神田っ子の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-27.html" target="_blank" rel="noopener">ばあや</a>をご紹介しているが、今日のように地下鉄やバスの路線網が未発達な時代なので、人力車は戦前までずいぶん重宝がられていた。ちなみに、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">貫井冨美子</a>の夫も、米国に留学して技術を学んできた自動車の設計技師だった。<br />　自動車にはかなわない人力車だが、それでも俥力(しゃりき)とドライバーとの間では各地で軋轢や暴力事件が発生していた。1931年(昭和6)4月29日の東京朝日新聞から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">商売敵の車夫／運転手を撲る</span><br />　二十八日午前零時半頃赤坂区田町三一一〇竹屋タクシー方運転手関矢五郎(二五)が同一一先道路で自動車を電柱につきあてたところその傍に見てゐた人力車夫明智喜平方のひき子鈴木与七(二七)青田清次(三四)北川徳四郎(二五)の三名が罵倒したので立回りをはじめ関矢を袋たゝきにして全治三週間の傷を負はせた上 自動車の窓ガラスその他をめちゃめちゃに打ち毀した 表町署では加害者三名を引致取調中であるが平素商売敵から相反目してゐたものであると<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　竹屋タクシーの商売が順風満帆なのに対し、車夫たちは日ごろから鬱積した不満を募らせていたのだろう。来年は、仕事があるかどうかわからないというような危機感を抱いていたにちがいない。それが、ちょっとした事故をきっかけに爆発したものだろう。<br />　最後に、少し余談気味になるけれど、技術の急速な進歩・発展で職を失う事例は、別に歴史上の俥力とドライバーの物語に限らない。現代でさえ、基幹業務や定型業務のデスクワークが、AIプラットフォーム上のアルゴリズムに制御されたRPAに、丸ごと駆逐されようとしている。ところが、端末の前に座る机上業務全般が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/511367073.html" target="_blank" rel="noopener">AIインクルードの仕組み</a>になると、広範なデスクワーカーが大量に失業しかねない情勢だ。昭和の用語でいえば、「サラリーマン」と呼ばれた組織へ勤める人たちの存立基盤が危うくなっている。ICT導入による効率化や省力化で、「生じた余裕を、別の創造的な業務に振り向けることができます」といった、ひと昔前のICTフレーズとはまったく異質な世界だ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382ACE382BDE383AAE383B3E382B9E382BFE383B3E3838928E698ADE5928CE5889DE69C9F29.jpg" alt="ガソリンスタンド(昭和初期).jpg" width="520" height="379" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE69C9DE697A5E696B0E8819E19310429.jpg" alt="東京朝日新聞19310429.jpg" width="520" height="404" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E98E8CE58089E995B7E8B0B7.JPG" alt="鎌倉長谷.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　AIが創案しあやつるボット類で、人力(おもに頭脳労働)が代替される時代がすぐそこに見えている。これまでの各種システムによる効率化や省力化のレベルではなく、業務をする人そのものが不要になる従来では考えられなかった世界だ。拙サイトをスタートしてすぐのころ、いまから21年前にシステム開発・運用に関する<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-24.html" target="_blank" rel="noopener">「ミーム遺伝子(暗黙知)」</a>の活躍について書いたことがある。システムの不足する部分を、業務をする人が獲得した経験値やノウハウなどの社内文化・風土が補う、人的依存の文化・風土・慣習的領域について触れた記事だった。だが、AIプラットフォームはそれらの「ミーム遺伝子(暗黙知)」さえ丸ごと飲みこむ仕組みづくりが可能だ。</div><div>　すると、記憶力やその横断的で広範な応用力、調査力、企画力、構築・開発力、そして経験則やノウハウの正確な蓄積ではかなわないAIを前に、記憶力中心の学校教育の“お勉強”ではまったくダメなのは自明のことだろう。定型式の詰めこみで変わりばえのしない暗記中心の学習では、AIの仕組みを前にまったく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">刃(歯)が立たない</a>ということだ。AIが備えた既存のアルゴリズムの不足や弱点のアウェアネスができる人材、あるいは従来のアルゴリズムを凌駕するような「規格」外れの想像力(創造力)や発想を養い育てる教育でないと、AIにただ命令されコキ使われる人間ばかりになってしまう。あるいは、江戸の街と同様に手に職(技術)をつける教育が不可欠になるのだろう。いま改めて、自動【者】を超える人力【者】を養成しなければならない時代がそこまできているようだ。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：最近の浅草地域をめぐる俥力(しゃりき)には、なんと女子がかなりいるようだ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、明治期に馬車と俥のすれちがいを描いた芳虎の浮世絵。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1896年(明治29)制作の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-01-20.html" target="_blank" rel="noopener">清親</a>『柳原夜雨』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1930年(昭和5)の警視庁交通課統計。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、明治末に撮影された人気ナンバーワンのフォード自動車。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、鎌倉の海岸線で自動車を走らせる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">大倉喜七郎</a>(運転席)。うしろの左端でタバコをくわえているのは、自動車技師の内山駒之助。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-16.html" target="_blank" rel="noopener">長崎町の工場</a>で生産されたダットサンの初期型モデル。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、昭和初期に撮影されたガソリンスタンド。給油する女性の、児雷也(じらいや)のようなアタマはどうしたもんだろうか。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1931年(昭和6)4月29日に発行された東京朝日新聞の「商売敵の車夫／運転手を撲る」記事。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、鎌倉の江ノ電・長谷駅前で見かけた観光俥。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1943年(昭和18)に、内務省の先が見通せる理性的な検閲官により、「検閲保留」の状態をつづけさせるイキなはからいで、連続の試写会(実質的には公開)された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-18.html" target="_blank" rel="noopener">板妻</a>主演の俥力<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-08-24.html" target="_blank" rel="noopener">『無法松の一生』</a>(稲垣浩監督/1943年)。わたしは、舞台で観た<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">緒形拳</a>の俥力「無法松」のほうが印象深いが、親たちの世代ではこの映画だろう。下は「児雷也ってなに？」という若い子のために、1880年代に制作された周延『竹乃一説児雷也藤橋乃場』(部分)の芝居絵。寝起きで髪の毛がボサボサのときなど、「児雷也みたいな頭してないで、早く顔を洗ってらっしゃい」とは、親たちによくいわれたセリフだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E784A1E6B395E69DBEE381AEE4B880E7949F1943E59D82E5A6BBE5A4A7E698A0.jpg" alt="無法松の一生1943坂妻大映.jpg" width="520" height="303" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E591A8E5BBB6E3808CE7ABB9E381AEE4B880E8AAACE58590E99BB7E4B99FE897A4E6A98BE4B983E5A0B4E3808DE6988EE6B2BBE69C9F.jpg" alt="周延「竹の一説児雷也藤橋乃場」明治期.jpg" width="520" height="472" border="0" /></div><a name="more"></a>

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<title>理論物理学を専攻した田辺尚雄が語る霊体験。</title>
<description>　目白通りの北側に張りだした下落合の一画、下落合(1丁目)546番地に東洋音楽の研究者だった田辺尚雄が住んでいた。こちらでは何度も記事でご紹介している、大久保作次郎アトリエの3軒西隣りの敷地だ。また、早稲田中学校では曾宮一念の恩師だった経緯も、その怪談好きとともにご紹介しており、目白文化協会の記事にもメンバーのひとりとしてその名前が登場している。それ以前に住んでいたのは、日本女子大学校近くの高田老松町だったが、1917年(大正6)に新居を建設して下落合に転居してきている。　田..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-24T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5BAAD3.jpg" alt="田辺尚雄邸庭3.jpg" width="600" height="588" border="0" /></div><div>　目白通りの北側に張りだした下落合の一画、下落合(1丁目)546番地に東洋音楽の研究者だった田辺尚雄が住んでいた。こちらでは何度も記事でご紹介している、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519787673.html" target="_blank" rel="noopener">大久保作次郎アトリエ</a>の3軒西隣りの敷地だ。また、早稲田中学校では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/521078205.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>の恩師だった経緯も、その<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-05-29.html" target="_blank" rel="noopener">怪談好き</a>とともにご紹介しており、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-02-20.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化協会</a>の記事にもメンバーのひとりとしてその名前が登場している。それ以前に住んでいたのは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520360743.html" target="_blank" rel="noopener">日本女子大学校</a>近くの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-02-16.html" target="_blank" rel="noopener">高田老松町</a>だったが、1917年(大正6)に新居を建設して下落合に転居してきている。<br />　田辺尚雄は、四谷区西信濃町で生まれた四谷っ子なのだが、ちょっと変わった学歴の持ち主だ。母親の死去からしばらくして養子にだされ、大阪で府立第五中学校を卒業している。東京へもどると、梧蔭塾で剣道(剣術？)を習い、宮内省の楽師にヴァイオリンを習いながら、東京物理学校(現・東京理科大学)で物理学を勉強している。つづいて、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">第一高等学校</a>の二部へ入学し、同時に東京音楽学校(現・東京藝大音楽部)の選科に入り、引きつづきヴァイオリンを習得している。そして、1904年(明治37)に一高を卒業すると、東京帝大理科大学理論物理学科に入学する。また、同時にノエル・ペリというフランス人の教師について和声学と作曲法などを学びながら、東京音楽学校で結成されたオーケストラで第二ヴァイオリンを担当している。<br />　東京帝大を卒業すると、同大大学院で音響学を専攻し、つづいて同大文学部心理学科に聴講生として入学、次に同大学医学部の生理学科の聴講生として通学している。このあと、田中正平の邦楽研究所へ入り、日本舞踊や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">長唄</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-14.html" target="_blank" rel="noopener">清元</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">謡曲</a>、花柳流舞踊、村山流舞踊などを修得している。こうして、ようやく俳優学校の教師として就職している。だが、わずか1年間で辞めてしまい、東洋音楽学校の音楽講師、つづいて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-10-26.html" target="_blank" rel="noopener">早稲田中学校</a>の物理および数学教師に就任している。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-13.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>が中学で、「田辺先生」から物理の授業を受けたのはこの時期のことだ。1909年(明治42)に八重子夫人と結婚すると、早稲田中学も辞めてしまい、今度は東京音楽学校の邦楽調査嘱託として勤務するが、わずか3ヶ月で退職している。<br />　その後、東京盲学校嘱託講師として勤務するが、勉強はこれで終わりではなかった。宮内省楽師の薗兼明に入門して笙や舞踊を学び、大原重朝(伯)・重明父子について歌披講や催馬楽、神楽歌、琵琶の演奏を学んでいる。その後も、職を転々としながら勉強をつづけた。<br />　まあ、なんともめまぐるしい学歴で、入学した学校や入門した習いごとを書くだけで履歴書のほとんどが埋まってしまいそうなほどだ。おそらく、学校の勉強や習いごとが大好きな少年・青年時代だったのだろう。しかも、剣道(剣術？)にヴァイオリン、理論物理学、音楽(邦楽・和声学・作曲法)、生理学、舞踊とあまり横のつながりがなさそうに見えるが、田辺尚雄の内面ではそれらが密接に絡みあい、ひとつの筋道として見えていたのかもしれない。わたしなら、勉強ばかりで遊ばない、オレはもうすぐ気が狂う……の精神状態に陥りそうな学習の密度だ。<br />　そんな彼が、初めて霊体験をしたのは、1914年(大正3)に養母が死去して通夜が行われた、東北帝国大学理学部に臨時嘱託講師として出向していた下落合時代だ。当時のいきさつを、1965年(昭和40)に青蛙房から出版された、田辺尚雄『明治音楽物語』から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　幽霊や亡霊などというものが果して実在するか否か。有るとも言えないし、また無いとも断言出来ないし、大いに迷っている。私は物理学を専攻した人間であるから、「亡霊などというものは実在しない。それは心の迷いだ」と断言したいのであるが、実際迷っている。いま私の周囲に起った二、三の思い出話をして見よう。／前に申したように、私の母は大正三年夏に六十一歳を一期として、観音林の邸に於いて死んだ。葬儀まで約五日間ほど棺を宅に置いて一同で焼香を続けていた。初めの一日や二日は多くの人でお通夜していたが、一同も疲れたので、三日目の夜は私一人でお通夜することになった。(中略)　伯母はそのころ神戸に住んでいた。母の死に際し、初めの二日間ほどはお通夜をしていたが、何しろ年をとっていて疲れるからというので、三日目の朝神戸の自宅に帰って休息し、五日の葬儀の日には来るからと言って帰ってしまった。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B81926.jpg" alt="田辺尚雄邸1926.jpg" width="520" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B81936.jpg" alt="田辺尚雄邸1936.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B81947.jpg" alt="田辺尚雄邸1947.jpg" width="520" height="399" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B8428E5ADA6E7949FE69982E4BBA3291907.jpg" alt="田辺尚雄(学生時代)1907.jpg" width="255" height="360" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B8428E699A9E5B9B429.jpg" alt="田辺尚雄(晩年).jpg" width="255" height="360" border="0" /></div><div>　3日目から、田辺尚雄がひとりで通夜をして線香を焚いていたのだが、徹夜つづきであまりに眠くなり、つい夜半すぎに隣りの部屋で寝入ってしまった。<br />　すると、翌朝に神戸へ帰ったはずの伯母が駆けこんできて、「お線香の煙が絶えているではないか。昨夜は誰もお通夜をしなかったのか」と、田辺尚雄を起こして責めたてた。なぜ、線香の煙が絶えたのを知ったのかと訊くと、伯母が熟睡していたら冷たい手で揺り起こす者がいる。ふと目をさますと、枕元には死んだはずの妹が座っていて、「誰もお線香を上げてくれる者がいなくて寂しいから、早く来て下さい」と、かすかな声で訴えられた。だから、夜明けを待たず神戸から飛んできたのだと答えた。確かに通夜をせずに寝てしまい、線香をあげなかったのは事実なので、田辺尚雄は伯母のいうことを事実として受けとめた。このとき、彼は31歳だった。<br />　伯母は、田辺尚雄ひとりでちゃんと通夜を行い、線香の煙を絶やさないようにできるだろうかと、不安を抱えながら神戸に帰ったせいで、その不安心理から死んだ妹が現れて、その懸念を訴える妙な幽霊の夢を見てしまったのだ……というような、心理学的な解釈が可能だと思うのだが、田辺尚雄は伯母にそのような反論をしなかった。また、そのように受けとめてもいない。なぜなら、彼自身が15歳のとき、実際に幽霊(あるいは妖怪)を目撃したことがあったからだ。<br />　田辺尚雄が、まだ養家である大阪島之内の南錦屋町に住んでいた15歳のころ、夜中の2時ごろに火事を知らせる半鐘が鳴り響いて目をさました。さすが、根は四谷っ子の彼には火事というと飛び出して見物にいくクセがあり、物干し台から街を見まわしたが火災は見えない。次に庭のキリの木に登り、母家の屋根のてっぺんに登って周囲を見わたしたが、すでに火事は鎮火したらしく火炎も煙も見えなかった。大阪の夏は酷暑であり、せっかく登った屋根の上が涼しく気持ちがいいので、少し涼をとってから降りようとしばらく腰かけていた。<br />　その深夜の情景を、田辺尚雄の『明治音楽物語』からつづけて引用してみよう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5898D1.jpg" alt="田辺尚雄邸前1.jpg" width="520" height="696" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5898D2.jpg" alt="田辺尚雄邸前2.jpg" width="520" height="697" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5898D3.jpg" alt="田辺尚雄邸前3.jpg" width="520" height="707" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E69BB8E6968E1944E9A083.jpg" alt="田辺尚雄書斎1944頃.jpg" width="520" height="374" border="0" /></div><div>　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私は科学者であるから、幽霊などは信じないと言いたいところであるが、実は私は幽霊と無心で話をしたことがある。(中略)　その夜は晴天であったが月は出ていなかった。私の周囲は全く闇であった。ところが(屋根のてっぺんにいる)私の前三メートルばかり離れたところに、浴衣を着た一人の女が立っている。暗中にも拘わらず、着物の模様までハッキリと浮び上がって見えている。髪もキチンと結ってある。当時物理学に凝っていた(15歳の)私は、幽霊だの妖怪などというものは全く信じていなかった。それ故そのとき私は、下から宅の女中が火事を見に登って来たものと思って、／「火事はモウ消えたよ。早く下りて寝なさい」／と言ったら、その女は黙ってニコッと笑ったが、その顔には眼も鼻もなく、ただ口だけあって、その口を大きく開いて笑うと同時に、スーッと消えてしまって何もない。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　田辺尚雄は、いま自分が見たものが信じられず、屋根から降りるとさっそく女中部屋にいって、熟睡している3人の女中を起こし、「今誰か二階の屋根に火事見に登ったか？」といちいちウラ取りをしている。だが、女中たちは寝ていたのであり、半鐘や火事のことも知らなかったようだ。その事実を確認すると彼はゾーッと総毛だち、怖くて2階の自分の部屋に帰ってひとりで寝ることができず、そのまま女中部屋の片隅で寝かせてもらっている。<br />　どうやら、田辺尚雄が見た幽霊(または妖怪)は、中野区教育委員会が『口承文芸調査報告書／中野の昔話・伝説・世間話』(1987年)で採取している妙正寺川の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">怪異譚</a>や、脚本家で作家の長島槇子が『人間じゃない』というエピソード(2014年)のなかに出現する、上高田の光徳院にある墓地付近のオバケとそっくりなことに気づく。大きな口だけが目立ち、他の顔の部位が見えないのも同一だ。これを幽霊ととらえるか、または妖怪と規定するかは課題だが、田辺尚雄はその双方とも否定していない。そういう意味で、彼は真の科学者だったといえるのだろう。<br />　現代の科学で解明できている範囲のみを規範として、なんでもすべてが説明できてしまうと考える科学教(？)の信者ではなく、不明なことは不思議のままにしておき、いつか科学がより発展すれば解明できるかもと、安易な判断や規定・断定を留保するのは、自然・社会・人文各科学分野の研究者には欠かせないデフォルトの謙虚な姿勢であり、いわば学究の徒には不可欠な資質・性向だろう。現象を不思議に感じ問題意識や“仮説”をもたなければ、そもそも科学の進歩はありえない。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私は科学愛好者であって、妖怪だの幽霊だのを全く信じていなかったので、大屋根の上で女のまぼろしを見たときも、全く虚心平気で、別にこわいとも思っていなかった。つまり「怖い怖い」と臆病の気持ちで錯覚を起こしたのではないから、一体確かにこの眼で見たまぼろし――それから七十年も経た今日でも、そのまぼろしはハッキリと記憶に映じている――は、そもそも何であったのであろうか。今だに不思議に堪えない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5BAAD1.jpg" alt="田辺尚雄邸庭1.jpg" width="520" height="689" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E794B0E8BEBAE5B09AE99B84E982B8E5BAAD2E6A8B9E6B0B719220110.jpg" alt="田辺尚雄邸庭2樹氷19220110.jpg" width="520" height="733" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E78EB2E790B4E6BC94E5A58F19270816E69DB1E4BAACE694BEE98081JOAK.jpg" alt="玲琴演奏19270816東京放送JOAK.jpg" width="520" height="677" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5AEB6E6978FE8A898E5BFB5E58699E79C9F19330920E4B88BE890BDE59088E5B08FE5B79DE58699E79C9FE9A4A8.jpg" alt="家族記念写真19330920下落合小川写真館.jpg" width="520" height="366" border="0" /></div><div>　田辺尚雄は、梧蔭塾で剣道(剣術？)を習っているとき、塾生たちと徹夜で百物語の会を開いている。その会では、幽霊画をうまく描けるからと、彼が会場のコーディネイトを任されていた。彼は数枚の幽霊画を描いて会場にぶら下げたが、百物語が進みはじめると、そのなかに描いたはずのないモノがひとつ混じっていた。それを確かめようと近づくのだが、それはまた、別の物語……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：ちょっと危ない雰囲気が漂う田辺尚雄(右)邸の庭先で、このノリは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">下落合2080番地</a>のアトリエにいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-10-14.html" target="_blank" rel="noopener">金山平三</a>以来だ。ザルをかぶった虚無僧に、刃(やいば)を向ける武士＝田辺尚雄は、当時流行りの怪談本『虚無僧の辻斬り』の読みすぎなのか？<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸で、一家は東側の近所にある小川写真館の常連でもあった。<span style="color: #3366ff;">中上</span>・<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。この一画は、空襲による被害を受けていない。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1907年(明治40)に撮影された東京帝大の学生時代(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、晩年の田辺尚雄(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、下落合と目白町の境界となる田辺邸前の通りで、手前の陰になっている側が田辺尚雄邸。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同じ通りから田辺邸の門をとらえた写真。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、田辺邸(右手)の門前の道で撮影された家族写真で道路の奥が目白駅方面。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1944年(昭和19)に撮影された田辺尚雄の書斎。さまざまな楽器や、海外の土産物がところ狭しと並んでいる。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、田辺邸の西陽が当たる庭で背後の屋敷は加美山邸とみられる。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1922年(大正11)1月10日に田辺邸の庭にできた樹氷。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1927年(昭和2)8月16日撮影の発明した「玲琴」を弾く田辺尚雄。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、下落合537番地の小川写真館で撮影された家族の肖像。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>追記</span><br />　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>をテーマに、「オトナの教養講座」で拙サイトの記事を取りあげてくれた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-16.html" target="_blank" rel="noopener">山田五郎様</a>が、この7月14日に亡くなった。一度だけ食事をご一緒したことがあるが、博学で面白く話がつきずにとても気さくで謙虚な方だった。心より、ご冥福をお祈りしたい。(<span style="font-size: 8pt; color: #ff0000;">Click!</span>↓)<br /><a href="https://www.youtube.com/watch?v=U_YIYYPGZTs" target="_blank" rel="noopener"><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B1B1E794B0E4BA94E9838EE382AAE38388E3838AE381AEE69599E9A48AE8AC9BE5BAA7.jpg" alt="山田五郎オトナの教養講座.jpg" width="600" height="335" border="0" /></a><br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　おそらく低予算でロケ地をいろいろ選べず、ロケ隊も移動できないせいか下落合の半径180m以内で3話分を撮影してしまったDシネマ『戦慄ショートショート・コワバナ／黒い部屋』(2012年)。下落合の東部にお住まいの方なら、すぐにロケ場所が特定できるだろう。どうやら山手線沿い近くの下落合には、田辺先生もビックリないわくつきの「黒い部屋」がずいぶんあるようなのだ。w</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E383ADE382B11.jpg" alt="下落合ロケ1.jpg" width="520" height="283" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E383ADE382B12.jpg" alt="下落合ロケ2.jpg" width="520" height="291" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE890BDE59088E383ADE382B13.jpg" alt="下落合ロケ3.jpg" width="520" height="287" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>7年間しかなかった下落合の「近衛目白中学邸」。</title>
<description>　1922年(大正11)4月、近衛篤麿邸跡を開発していた東京土地住宅の常務・三宅勘一は、同敷地の分譲地を「近衛町」と名づけて販売をスタートしている。それにともない、近衛篤麿邸(近衛旧邸)は解体されるが、近衛一家が住むための新たな邸宅の建設が、目白中学校の南側敷地、下落合432～456番地で清水組(現・清水建設)によって進められていた。　きょうは、1929年(昭和4)11月に下落合436番地の近衛新邸が竣工すると、ほどなく解体されてしまい、わずか7年間ほどしか存在しなかった幻の..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-21T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B81923.jpg" alt="近衛目白中学邸1923.jpg" width="600" height="438" border="0" /></div><div>　1922年(大正11)4月、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520549487.html" target="_blank" rel="noopener">近衛篤麿邸</a>跡を開発していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-07-03.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の常務・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-04-12.html" target="_blank" rel="noopener">三宅勘一</a>は、同敷地の分譲地を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">「近衛町」</a>と名づけて販売をスタートしている。それにともない、近衛篤麿邸(近衛旧邸)は解体されるが、近衛一家が住むための新たな邸宅の建設が、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-04-06.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>の南側敷地、下落合432～456番地で清水組(現・清水建設)によって進められていた。<br />　きょうは、1929年(昭和4)11月に下落合436番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">近衛新邸</a>が竣工すると、ほどなく解体されてしまい、わずか7年間ほどしか存在しなかった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">幻の近衛文麿邸</a>について書いてみたい。この邸宅については、これまでわたしの知るかぎり、地図上に記載されていたのは戦後まで修正がつづけられていた、日本地形社の1／3,000地形図のみだ。そして、清水建設情報資料センターには、清水組が作図した邸宅の各種図面の多くが保存されている。<br />　近衛篤麿邸(近衛旧邸)でも近衛新邸でもない、この約7年間だけ存在していた暫定的な下落合の近衛邸を、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-04.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>の校庭南側にあたる敷地に建設されているので、とりあえず便宜的な呼称として「近衛目白中学邸」とする。だが、暫定的な邸と表現するには、かなり大きくて豪華な2階建ての西洋館であり、清水組による側面図や平面図、詳細な間取り図、調度図などが残されていた。まずは、近衛目白中学邸の建物配置図から見てみよう。<br />　図面は、1922年(大正11)10月10日に製図されたものであり、翌1923年(大正12)11月11日に転写されたという日付が確認できる。このタイムスタンプだけでは、同邸がいつ竣工したのかが不明だが、少なくとも東京土地住宅が近衛町の販売を開始する1922年(大正11)4月の段階で、近衛篤麿邸(近衛旧邸)が解体を終えていたとすれば、すでに近衛目白中学邸は居住できるような状態まで建設が進捗していないと、近衛家は路頭に迷うことになってしまう。したがって、建物配置図は同邸の工事があるいてど進捗したあとに、改めて作図されている可能性が高い。<br />　まず、邸への当初の広めなアプローチは近衛町通り側、すなわち東側に設けられていた。入口から西へ90mほど進むと正門があり、門を入ると正面にはやや高くなった車寄せのある、東を向いた玄関があった。玄関のある棟は、外壁がモルタルづくりだとみられるが、母家は棟によってはモルタルと下見板張りの外壁が混在するような設計になっていた。側面図を参照すると、北側の外壁はモルタルが多く、南側の外壁には下見板張りが多かったような印象だ。<br />　1922年(大正11)の建設当初は、東側の近衛町通りから<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">舟橋家</a>による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520235297.html" target="_blank" rel="noopener">住宅開発地</a>の北辺沿いに、西へ向かうアプローチ通路が拓かれ、玄関のあるエントランスへと入れる外構だった。だが、1926年(大正15)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-04-26.html" target="_blank" rel="noopener">目白中学校</a>が上練馬村高松2305番地へ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">移転</a>すると、近衛町通りを経由せず目白通りから左折(南折)して100mほどで、邸内に直接入れる北門が設置されている。この目白通りからのアプローチは、日本地形社の1/3,000地形図のみに採取されている外構だ。また、目白中学校の跡地に造られた北門へといたる道筋と平行して、東側には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-12-22.html" target="_blank" rel="noopener">近衛篤麿</a>の四男で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-28.html" target="_blank" rel="noopener">有島生馬</a>へ師事し、一時期は洋画家をめざしていた近衛忠麿、のち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-28-1.html" target="_blank" rel="noopener">水谷川忠麿邸</a>(下落合451番地)への目白通りからのアプローチが造られている。<br />　近衛目白中学邸の建物配置は、母家を中心に北側には東から西へ大きな倉庫が1棟、車庫が1棟、東西に細長い物置(倉庫とは別で近衛旧邸の家財道具庫か？)が1棟、小規模な倉庫が1棟の順に建てられていた。もっとも、小規模な倉庫といっても、建物面積は150坪ほどはありそうなので、大規模な倉庫のほうはその倍以上の350坪近くはありそうだ。近衛篤麿邸(近衛旧邸)と同様に、母家の中心には中庭が設けられているが、その広さだけで145坪の面積があった。なお、先述の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-31.html" target="_blank" rel="noopener">目白通り</a>から直接邸へ入れるアプローチ通路が拓かれ、北門が設置されるのと同時に、東西に細長い物置の建築は移築されるか、解体されているのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E5BBBAE789A9E9858DE7BDAEE59BB31922.jpg" alt="近衛目白中学邸建物配置図1922.jpg" width="520" height="292" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE59CB0E5BDA2E7A4BE1928E9A083.jpg" alt="日本地形社1928頃.jpg" width="520" height="494" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E8B7A11936.jpg" alt="近衛目白中学邸跡1936.jpg" width="520" height="398" border="0" /></div><div>　母家の部屋数は、近衛旧邸に比べておよそ4分の1以下だろう。近衛旧邸と大きく異なるのは、敷地内に家令たちの住居が存在しないことだ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>は、父親から継承している大きな負債を抱えており、先祖から受け継いだ刀剣などの道具類を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513906478.html" target="_blank" rel="noopener">売り立て</a>(オークション)に何度か出品したのも、大正初期に広大な敷地の西側を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-12.html" target="_blank" rel="noopener">相馬家</a>に売却したのも、また近衛旧邸を解体して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-18.html" target="_blank" rel="noopener">近衛町開発</a>のために「解放」したのも、莫大な借金を返済するためだった。したがって、近衛邸を維持するために要した人件費削減は喫緊の課題だったとみられ、近衛旧邸の解体とともに家令たちの多くは解雇、あるいは通いの勤務形態に移行しているのではないか。<br />　もちろん、車庫は運転手の住宅も兼ねていたかもしれないが、近衛目白中学邸の邸内には女中部屋はいくつか設置されているものの、家令部屋と思われる部屋は存在していないようだ。書生は、何人か住みこませていたかもしれないが、中庭や南側に拡がる広い庭の手入れなどは、通いの庭師に任せていた可能性が高そうだ。<br />　近衛篤麿邸の造園師だった方の、子孫の記録が残っている。祖父と父親が、近衛旧邸内に住みこみで庭師をしていたが、その子どもにあたる人物(D氏)が証言する記録だ。それによれば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>による近衛町の開発以降の証言が存在していない。つまり、近衛旧邸の解体以前に屋敷を出され、次の近衛目白中学邸には住みこんでいなかった様子がわかる。1994年(平成6)に新宿歴史博物館から刊行された、『新宿区の民俗(4) 落合地区篇』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　近衛邸の造園師であった祖父と父親の職業柄、D氏は明治三十七年&lt;1904年&gt;に生まれてから十五、六歳まで近衛邸の家で育った。邸内では主人を「殿様」、奥様を「奥方」、殿様の母親を「御後室様」、坊ちゃんを「若様」、お嬢様を「オヒイ(姫)様」と呼び、あいさつは「ごきげんよう」と頭を下げ、物をちょうだいするときには両手を重ねて「恐れ入ります」ということのほか、常にあそばせ言葉であった。節供&lt;節句&gt;と学校から通信簿をもらった時は、近衛宅のお局口から下女中、中女中、上女中の順に手渡されながら、オイマ(居間)に上がって、奥方様からお言葉をいただいた。そそうのないように子供心ながらに緊張したという。(&lt; &gt;内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　やや余談めくが、近衛邸内で話されていた日常会話の言葉が京都方言ではなく、江戸東京方言の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">山手言葉</a>だったのがうかがえて興味深い。(城)下町言葉をまじえた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">「おとついおいであそばせ～」</a>とか、「手前生国(しょうごく)と発しまするは関東でござんす」など博徒たちもつかっていた、ざっかけない町言葉の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">「ざんす」</a>など、近衛家ではまかりまちがってもつかわれなかっただろう。w</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E5B9B3E99DA2E59BB31923.jpg" alt="近衛目白中学邸平面図1923.jpg" width="520" height="477" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E581B4E99DA2E59BB31923.jpg" alt="近衛目白中学邸側面図1923.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E7AA93EFBC86E38389E382A2E59BB31923.jpg" alt="近衛目白中学邸窓＆ドア図1923.jpg" width="520" height="399" border="0" /></div><div>　1904年(明治37)生まれのD氏は、15～16歳まで近衛旧邸内の家ですごしているので、少なくとも1920年(大正9)ごろまでは邸内に住まいがあったことになる。換言すれば、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>が東京土地住宅の三宅勘一と近衛町開発計画を立てはじめたころに、解雇されて邸内の住居から離れているか、あるいは通いの庭師に契約変更されたものだろう。<br />　近衛目白中学邸の南庭は、近衛旧邸に比べればはるかに狭かったが、それでも東西は50m以上、南北は40m以上の面積があった。なお、大正末から昭和初期にかけ南庭の南東側、舟橋家の住宅開発地に接するように、母家とは別の大きめな家屋が建設されている。1/3,000地形図のみに採取されているが、これが北門の設置で移築された物置なのかもしれない。<br />　建物の外観は2階建てで、2階部のある棟は大きくふたつに分かれていたが、2階は近衛旧邸とは異なり居住空間ではなかった。1923年(大正12)1月11日作成の平面図を見ると、2階は什器室や納戸、物置、予備室などが配置されており、近衛家の家族や使用人が生活する場は、すべて1階に限られている。邸の南側には、家族たちの居間や寝室、化粧室、浴室、便所、応接室、客室などが配置され、中庭を挟んだ邸の北側には、事務室をはじめ女中部屋、厨房、食堂、浴室、便所などが連なっていた。玄関前の広間から、南側の廊下を西へ進むと家族たちの居住空間へと通じていたが、いくつかの角を折れる廊下は東西約34mほどの長さがあった。<br />　同邸には、地下室も設置されている。厨房から、6畳ほどの広さの地下室へ下りられる仕様になっており、大きな棚が設置されていたようなので食糧類の備蓄や、食器・調度類の保管などに使われていたとみられる。また、邸の北側には給湯専用室が設けられているので、全館内へ温水が供給されていたのだろう。同邸には暖炉用の煙突が見えないが、客間と居間の2ヶ所に暖炉が確認できる。ひょっとすると、暖炉の中はガスストーブを燃やす形式だったのかもしれない。給湯室の存在から、各部屋の暖房はセントラルヒーティングだった可能性が高そうだ。<br />　南庭に面した、東西に連なる家族たちや客間の各部屋には、「ベランダ―」と名づけられたサンルームが4ヶ所配置され、各「ベランダ―」からは階段を下りて庭先へ出られた。南側の側面図を見ると、1階の軒下まである巨大な窓が各部屋に取りつけられており、陽光を最大限に室内まで取りこめる仕様をしていたのがわかる。特に、室内外の窓やドアの設計には凝っていたようで、清水組の図面記録には窓部やドア部のデザインだけ採取された側面図が残されている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E5B18BE6A0B9E5B9B3E99DA2E59BB31923.jpg" alt="近衛目白中学邸屋根平面図1923.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E8B7A1.JPG" alt="近衛目白中学邸跡.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8E382A2E38397E383ADE383BCE38381E8B7A1.JPG" alt="近衛目白中学邸アプローチ跡.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　かなり手をかけて建設されたように見える近衛目白中学邸だが、わずか7年ほどで解体されている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-14.html" target="_blank" rel="noopener">近衛文麿</a>は、1924年(大正13)に麹町区に建築した永田町邸へ転居しているので、近衛目白中学邸には約2年ほどしか住んでいないことになる。けれども、永田町邸は交通の便があまりによすぎたため訪問客や陳情客が引きも切らず、わずか数年で下落合にもどってくることになった。その際、親族が住んでいた近衛目白中学邸を解体し、1929年(昭和4)には下落合436～437番地へ改めて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-19.html" target="_blank" rel="noopener">近衛新邸</a>を建設している。そして8年後、1937年(昭和12)に首相へ就任するとともに、杉並区西田町1丁目42番地に建っていた「楓荻(ふうてき)荘」を買収し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-10.html" target="_blank" rel="noopener">「荻外荘」</a>と名づけて本邸にしている。下落合の近衛新邸は、そのまま近衛別邸となり空襲で焼けるまで残されていた。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1923年(大正12)に描かれた近衛目白中学邸の側面図。上から玄関の東側面図、巨大な窓が目立つ南側面図、のち北門が設置される目白通り側の北側面図。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1922年(大正11)現在の建物配置図。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、日本地形社の1/3,000地形図に採取された近衛目白中学邸で、すでに目白通りからのアプローチと北門が設置されている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸の位置と近衛新邸の位置。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1923年(大正12)1月現在で作図された近衛目白中学邸の平面図。下部には2棟の2階部が、左上には厨房下に設置された地下室の平面図が描かれている。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、同じく1923年(大正12)1月現在の同邸側面図。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同年作成の窓とドアの意匠図。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1923年(大正12)現在で描かれた近衛目白中学邸の屋根平面図。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、同邸が建っていたあたりの現状。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、東側の玄関に向かうアプローチがあったと思われるあたり。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>追記</span></div><div><div>　清水建設情報資料センターに保存されている、各時代の近衛邸の図面を参照していて不可解なことに気がついた。従来、多くの資料で麹町区の近衛永田町邸とされていた写真は、下落合に7年間だけ存在していた下落合432～456番地の近衛目白中学邸ではないだろうか。<br />　なぜなら、もうお気づきかもしれないが建物配置図で描かれている敷地の形状が、西側の三間道路に接した永田町2丁目の敷地ではなく、明らかに東側すなわち近衛町通りからのアプローチを前提にした配置で、正門および玄関も東を向いているからだ。しかも、日本地形社が1/3,000地形図に採取した下落合の屋敷や敷地のかたちや、1936年(昭和11)に撮影された空中写真に写る敷地のかたちも、上掲の図面類の形状とほぼ一致している。<br />　どこかで誰かが何かを取りちがえ、それがそのまま下落合の近衛目白中学邸→「永田町邸の写真」になってしまったのではないか。戦前の空中写真で、麹町永田町2丁目25番地(現・千代田区永田町2丁目17番地の5)にとらえられた近衛永田町邸の、西側を三間道路に接した敷地のかたちを見れば一目瞭然だろう。下掲の近衛邸外観は、近衛永田町邸ではなく下落合の近衛目白中学邸ではないか。ついでに、1936年(昭和11)に撮影された近衛永田町邸と、戦後の1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の空中写真も掲載してみた。西側の三間道路に向いた門やアプローチ、屋根の形状や中庭のない様子、焼け跡にみる屋敷のかたちや敷地の形状がまったく異なるのがおわかりだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE79BAEE799BDE4B8ADE5ADA6E982B8.jpg" alt="近衛目白中学邸.jpg" width="520" height="373" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE6B0B8E794B0E794BAE982B81936.jpg" alt="近衛永田町邸1936.jpg" width="520" height="402" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8BF91E8A19BE6B0B8E794B0E794BAE982B81948.jpg" alt="近衛永田町邸1948.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div></div></div><a name="more"></a>

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<title>府中崖線沿いの「古墳文化村」を歩く。</title>
<description>　自宅の庭先に古墳があるというのは、どのような気分なのだろうか。わたしなどは、なんとなく歴史的なロマンを想像してワクワクし、庭先を見るたびにウキウキした気分になりそうだが、昔日の落合地域がそんな環境に近かったのではないかと想像している。　「今度クルマを買うから車庫を造ろう」と、大谷石の築垣を壊して庭先の急斜面を掘ったら、羨道からつづく玄室がポッカリと口を開け、中には被葬者の副葬品として鉄刀や勾玉が眠っていたので、玉砂利の上の人骨は見なかったことにしてソッと埋めもどしたりとか、..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E5A19AE58FA4E5A2B31.JPG" alt="高倉塚古墳1.JPG" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　自宅の庭先に古墳があるというのは、どのような気分なのだろうか。わたしなどは、なんとなく歴史的なロマンを想像してワクワクし、庭先を見るたびにウキウキした気分になりそうだが、昔日の落合地域が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">そんな環境</a>に近かったのではないかと想像している。<br />　「今度クルマを買うから車庫を造ろう」と、大谷石の築垣を壊して<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">庭先</a>の急斜面を掘ったら、羨道からつづく玄室がポッカリと口を開け、中には被葬者の副葬品として<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-19.html" target="_blank" rel="noopener">鉄刀</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">勾玉</a>が眠っていたので、玉砂利の上の人骨は見なかったことにしてソッと埋めもどしたりとか、庭先の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-23.html" target="_blank" rel="noopener">「落合富士」</a>が実は<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/circle.html" target="_blank" rel="noopener">小規模な古墳</a>の上に富士山の溶岩で築かれたもので、うちには江戸期の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-09-30.html" target="_blank" rel="noopener">富士講</a>である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank" rel="noopener">月三講社</a>が築いた「富士山があるんだぞ！」と自慢していたら、1500年前の古墳時代の墳墓だとわかって少し薄気味悪く感じたり……とか、人それぞれ受けとめ方や感じ方が異なるのだろう。わたしのようにワクワクしてしまうのは、少数派なのかもしれない。<br />　庭先に古墳がある不動産広告は、どのようなコピー表現だったのだろうか？　想像するだけで楽しい。落合地域ではほとんどの古墳が破壊され、いまや戦後に認定された古墳のみしかカウントされていないが、東京には古墳群のまん真ん中に住宅街を開発してしまった地域がかなりある。そんな街の広告は、たとえば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518544703.html" target="_blank" rel="noopener">箱根土地</a>あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-05-30.html" target="_blank" rel="noopener">東京土地住宅</a>の宣伝<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-06-09.html" target="_blank" rel="noopener">コピー風</a>に表現すると……。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　〓<strong><span style="color: #333399;">古墳時代からつづく瀟洒な高燥住宅地</span></strong>〓<br />　新緑の風薫る当地は、古墳時代の面影がいまに漂う高台の日当り良好な敷地で、武蔵野の恵まれた風致をそのまま残す、古墳の端に位置しております。古墳群のさらに下層には、旧石器時代から縄文、弥生の住まいが陸続と眠っております。毎日、古墳を眺めてすごす趣味と健康を兼ねた生活は、倦み疲れた心身へ常に新鮮な生気と夢を与えてくれます。庭先から出土する、稀少な形象埴輪はお庭のオーナメントに、また円筒埴輪は花卉の植木鉢かお玄関の傘立てに、勾玉や管玉はお子様の玩具に最適で、ときおり出土する人骨は、ご家族の活力とロマンを掻き立て明日への鋭気を養うには最適な刺激となることでしょう。ときに「お～い、やっほー！」と叫べば、「お～い、やっほー！」と返してくれます。こだまでしょうか、いいえ1600年前の人々も健勝で元気な武蔵野丘陵の高台「古墳文化村」へ、ぜひ一度ご見学にお出かけください。なお、不動産投資をお考えのお客さまには、当社が「はにわファンド」サービスをご提供しております。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58FA4E5A2B3E69687E58C96E69D91.jpg" alt="古墳文化村.jpg" width="520" height="345" border="0" /><br /><span style="font-size: 10pt; color: #333399;">　<span style="color: #ff0000;">※</span>羨道や玄室を、ワインセラーや寝室に改造するのは文化財保護法で固く禁止されております。</span><br /><span style="font-size: 10pt; color: #333399;">　<span style="color: #ff0000;">※</span>地下から人声のすることがありますが、空耳ですのでお気になさらずお過ごしください。</span><br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　もう、古墳住宅街へのあこがれから、妄想が止まらない。巨大な前方後円墳の麓の住宅より、あたかも庭先の築山のように眺められる小型のかわいい古墳のほうが、生活に密着できて楽しそうだ。かつて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-05.html" target="_blank" rel="noopener">田園調布</a>の住宅街が、確認されているだけで52基の古墳だらけだったように、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">落合地域の住宅街</a>も似たようなものだったのではないだろうか。鳥居龍蔵と守谷源次郎は、上落合と下落合のおもに斜面で37基の古墳を確認しているが、下落合の丘上一帯および西落合エリアは未調査のままだったので、膨大な古墳数を想定できそうだ。<br />　戦後、東京都内には古墳群のなかに宅地を開発し、しかも古墳を破壊せずにそのまま庭先へ残した住宅街も存在している。「物件写真」を見て感動したので、さっそく現地を訪ねてみることにした。場所は、戦後に宅地化が進んだ、府中市分梅町や美好町の界隈だ。換言すれば、開発が大正期や戦前ではなく、戦後だったからこそ古墳の文化財としての重要性が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/513874574.html" target="_blank" rel="noopener">認識</a>され、あえて住宅街のなかにいくつかの古墳を、そのまま残すという開発法がとられたのだろう。<br />　冒頭写真は、わたしがいちばんうらやましく感じた、4棟の住宅に囲まれたかわいいサイズの「高倉塚古墳」。分梅町や美好町に拡がる周囲27基の古墳群は、多くが住宅街の下になってしまったけれど、6世紀前半に築造された直径20mほど円墳(後円部？)とされる高倉塚古墳は、「高倉古墳群」と呼ばれた古墳群の中心あたりに位置していたらしい。整備される前は、4棟の庭先の築山のような風情をしており、東側には分梅町の公会堂が設置されている。同墳および周辺からは、銀象嵌太刀や太刀四振り、土師器、直刀、鉄鏃・玉類などが発掘されている。<br />　ここで、以前にも記事に書いたが、従来は「円墳」とされていた関東の古墳が、最新の発掘再調査では前方後円墳に訂正される事例が続出している。江戸期の特に関東地方では、田畑に開拓しやすい前方部が崩されがちで、大量の土砂が堆積している後円部は残されるか、あるいはなんらかの謂れ(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-08-02.html" target="_blank" rel="noopener">禁忌伝承</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">屍家伝説</a>)が伝わり、墳頂へ祠が設置されたりした場合には、開墾から外されたケースが多々見られるからだ。したがって、円墳とされているものの、本来は前方後円墳だったのではという意味あいをこめ、「円墳(後円部？)」とする記述で文章を進めたい。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E5A19AE58FA4E5A2B32.JPG" alt="高倉塚古墳2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E5A19AE58FA4E5A2B3E695B4E58299E5898D2000.jpg" alt="高倉塚古墳整備前2000.jpg" width="520" height="358" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E58FA4E5A2B3E7BEA4E587BAE59C9FE98A80E8B1A1E5B58CE99094E5A4AAE58880.jpg" alt="高倉古墳群出土銀象嵌鐔太刀.jpg" width="520" height="374" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E5A19AE58FA4E5A2B31975.jpg" alt="高倉塚古墳1975.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58886E6A285E794BAE383BBE7BE8EE5A5BDE794BAE58FA4E5A2B3E7BEA4.jpg" alt="分梅町・美好町古墳群.jpg" width="520" height="405" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58886E5808DE6B2B3E58E9F1947.jpg" alt="分倍河原1947.jpg" width="520" height="512" border="0" /></div><div>　次は、高倉塚古墳の北270mほどのところに位置する高倉古墳群27号墳、通称「首塚古墳」がある。こちらも住宅の庭先といっていい位置に面しているが、住民の方は古墳ギライだったのか、南面立地にもかかわらず住宅の窓のない外壁だけが、古墳の残滓側に向いている。また、同墳は破壊前の空中写真を見ると、30mほどの円墳(後円部？)サイズだったと思われるが、現在は築土がすべて取り払われており、墳頂に奉られていたとみられる小さな稲荷社のみが残っている。副葬品としては銅製品が出土しており、時代も6世紀前半ごろと推定されている。<br />　つづいて、高倉塚古墳の西北西170mほどのところに築かれた、天王塚古墳について見てみよう。同墳は八雲社の本殿裏に位置しており、名称の「天王」はもちろん<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank" rel="noopener">牛頭天王</a>＝スサノオにちなんでのことだ。6世紀後半に築造された15m前後の小さな円墳(後円部？)ということだが、本格的な調査はなされておらず、玄室の様子や副葬品の有無は確認されていない。同墳も、西側には住宅が建設されているので、当初は庭つづきの小山だったようだ。<br />　その天王塚古墳から、北へ220mほどのところには高倉古墳群20号墳がある。当初は、畑のなかにポツンとある古墳だったものが、現在は物流倉庫と個人宅に接しているため、立ち入ることができない。同墳は、隣接するお宅の私有地との情報もあり、事実だとすれば文字どおり庭に古墳のある戸建て住宅ということになる。高倉20号墳は、6世紀後半の築造とされ、直径が20m弱の円墳(後円部？)で、周壕(濠)跡も発掘されている。副葬品としては土師器類が発掘されているようだが、盗掘に遇ったのか刀剣類や玉類などは発見されなかったようだ。同墳の南側には、高倉古墳群21号墳があったそうだが、いまでは住宅街の下になっている。<br />　高倉20号墳から西へ620mほどのところ、JR南武線・西府駅の駅前には御嶽塚古墳(正式名称は御嶽塚古墳群5号墳)が現存している。6世紀前期から中期にかけて築造された円墳(後円部？)で直径は25m、周濠(壕)の幅は7mということだ。同墳は公園化されているので、周囲に住宅は存在していない。出土品としては、円筒埴輪や石室に納められた圭頭大刀、金銅製の耳飾などが発掘されている。御嶽塚古墳の周囲からは、数多くの円墳(後円部？)が発見されているので、西府町も古墳群のなかの住宅街といえそうだ。<br />　また、JR南北線の西府駅あたりには、かつて御嶽塚古墳群16号墳があり、埴輪や土師器が数多く出土している。御嶽塚古墳の真北460mほどのところには、以前に拙サイトでもご紹介した7世紀築造とみられる、国内最大級の上円下方墳・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-08.html" target="_blank" rel="noopener">武蔵府中熊野神社古墳</a>が位置している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A696E5A19AE58FA4E5A2B3.JPG" alt="首塚古墳.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A696E5A19AE58FA4E5A2B31975.jpg" alt="首塚古墳1975.jpg" width="520" height="378" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A9E78E8BE5A19AE58FA4E5A2B3.JPG" alt="天王塚古墳.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A9E78E8BE5A19AE58FA4E5A2B31975.jpg" alt="天王塚古墳1975.jpg" width="520" height="375" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E5808920E58FB7E5A2B3.JPG" alt="高倉20号墳.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9AB98E58089E58FA4E5A2B3E7BEA420E58FB7E5A2B31975.jpg" alt="高倉古墳群20号墳1975.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E5B6BDE5A19AE58FA4E5A2B3.JPG" alt="御嶽塚古墳.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5BEA1E5B6BDE5A19AE58FA4E5A2B31974.jpg" alt="御嶽塚古墳1974.jpg" width="520" height="392" border="0" /></div><div>　さて、周濠(壕)域まで住宅群に囲まれた古墳ということで、全国のさまざまなケーススタディを眺めていたら、大阪の貝塚市地蔵堂にある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">丸山古墳</a>の空中写真を見つけた。それを目にしたとたん、この光景は東京のどこかでも見たことがあると気づき、記憶の糸をたぐりながら画像ファイルを眺めていると、渋谷区の鉢山地域にも同じようなフォルムがあるのを見つけていた。鉢山という<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">摺鉢山</a>と同様に、いかにも古墳がかつて存在したらしい字名にも惹かれる。<br />　鉢山にピンとこない方には、代官山駅の北側エリアといえばわかりやすいだろうか。以前、拙記事で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-03-16.html" target="_blank" rel="noopener">岡崎キイ</a>の物語にからめ、水戸徳川家の屋敷があった猿楽町と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-06.html" target="_blank" rel="noopener">猿楽塚古墳</a>をご紹介していた。あるいはドラマ好きには、かつて1979年(昭和54)に放映された『ちょっとマイウェイ』のレストラン「ひまわり」がある線路をはさんだ北側、または1995年(平成7)に放送された『王様のレストラン』のロケ地で、フレンチレストランの「Belle Équipe(ベル・エキュプ)」(実際は「Madame Toki(マダム・トキ)」)のある街角の直近といえば通りがいいだろうか。<br />　上空から見た貝塚市地蔵堂の丸山古墳は、鍵穴型の原っぱが拡がり、その周囲を住宅がグルリと取り囲むような風情をしているが、渋谷の鉢山地域のほうは戦前から、北側の後円部の一部が整地されて宅地開発が徐々に進捗するが、他の部分は森や原っぱのままで、戦後は空襲で焼けた一部も含め、原っぱを取り囲むように住宅が建てられていく。貝塚市地蔵堂の丸山古墳は全長72mほどだが、渋谷の鉢山にある鍵穴型のフォルムは、全長260mあまりのサイズだ。昭和初期から宅地開発が進んでいるとみられ、おそらく発掘調査の記録は皆無だろう。<br />　戦前は、東京あるいは関東地方でこのような<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-09.html" target="_blank" rel="noopener">大王クラス</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-03-19.html" target="_blank" rel="noopener">大型古墳</a>らしい<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-02-05.html" target="_blank" rel="noopener">フォルム</a>を見つけたとしても、薩長政府による<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">「官令達 乙部第百廿号」</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">皇国史観</a>の徹底により、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">大きな古墳</a>はすべて破壊して開墾するか河川の堤防用の土砂として「活用」され、坂東は中小の古墳しか存在しない坂東夷が跋扈する辺境エリアという“神話”が、マッチポンプ式に結果論として形成されていった。だが、薩長政府の通達に逆らうか無視した地域、ことに千葉県や群馬県などでは戦後、自然科学の多彩な手法を用いた調査により、全国でトップクラスの古墳密集地域であることが判明している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A4A7E998AAE8B29DE5A19AE5B882E59CB0E894B5E5A082E4B8B8E5B1B1E58FA4E5A2B3.jpg" alt="大阪貝塚市地蔵堂丸山古墳.jpg" width="520" height="394" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E989A2E5B1B11936-ff967.jpg" alt="鉢山1936.jpg" width="520" height="351" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E989A2E5B1B11944.jpg" alt="鉢山1944.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E989A2E5B1B11947.jpg" alt="鉢山1947.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div>　けれども、江戸東京の市街地(朱引き墨引き内エリア)では早くから宅地化や農地化が進み、どれだけの古墳が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-22.html" target="_blank" rel="noopener">寺社の境内</a>や宅地・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-06.html" target="_blank" rel="noopener">農地の下</a>になってしまったのかは不明のままだ。渋谷区の鉢山地域に残るフォルムは、たまたまここに内藤家の下屋敷があり、古墳の後円部の半ばから前方部にかけてが、同屋敷の庭園となっていたため、後世までよく保存されていたケースだろう。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：住宅に隣接した、分梅町に位置する高倉古墳群のひとつ高倉塚古墳の墳丘。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：2000年(平成12)ごろまで、高倉塚古墳はほんとうに庭先の古墳だったようだ。高倉古墳群からは、みごとな銀象嵌の丸鐔が残る太刀などが出土している。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>から<span style="color: #3366ff;">下</span>へ、稲荷社が奉られた首塚古墳に八雲社の天王塚古墳、高倉20号墳、西府町の御嶽塚古墳。空中写真はいずれも1974～75年(昭和49～50)撮影。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、大阪の貝塚市地蔵堂にある丸山古墳。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、渋谷区鉢山地域の巨大な鍵穴フォルムをとらえたもので、1936年(昭和11)、1944年(昭和19)、1947年(昭和22)撮影の空中写真。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1979年(昭和54)撮影の渋谷区鉢山地域のフォルムで、前方部には高価そうな住宅街が建設されている。プール付きの大きめな邸宅も確認できるので、文字どおり「古墳文化村」だったのだろう。下は、大型古墳とみられるフォルムのすぐ南西側にあるフレンチレストラン「Madame Toki」。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E989A2E5B1B11979.jpg" alt="鉢山1979.jpg" width="520" height="389" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E3839EE38380E383A0E383BBE38388E382AD.jpg" alt="マダム・トキ.jpg" width="520" height="597" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>自身の東京弁に疑いをもった曾宮一念。</title>
<description>　いったい「曾宮」という苗字はめったにないらしく、曾宮一念は戦前から“同族”の姓を探して全国にアンテナを張りめぐらしていたらしい。だが、なかなか見つからず、どうやら先祖は九州の豊後か阿蘇地方にいた武家だったらしいことを確認している。　曾宮一念が養子になる前の旧姓は「下田」だが、新聞記者だった養父の「曾宮」という姓は東京ではめずらしく、自分の親族以外の「曾宮」姓をたどっていくと、九州の阿蘇地域にたどりついたようだ。養父の実家は、豊後佐伯藩(現・大分県佐伯市)の「軽い身分の武家」..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-15T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58699E7949FE4B8ADE381AEE69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5.jpg" alt="写生中の曾宮一念.jpg" width="600" height="529" border="0" /></div><div>　いったい「曾宮」という苗字はめったにないらしく、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520333228.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>は戦前から“同族”の姓を探して全国にアンテナを張りめぐらしていたらしい。だが、なかなか見つからず、どうやら先祖は九州の豊後か阿蘇地方にいた武家だったらしいことを確認している。<br />　曾宮一念が養子になる前の旧姓は「下田」だが、新聞記者だった養父の「曾宮」という姓は東京ではめずらしく、自分の親族以外の「曾宮」姓をたどっていくと、九州の阿蘇地域にたどりついたようだ。養父の実家は、豊後佐伯藩(現・大分県佐伯市)の「軽い身分の武家」で、当時でも佐伯郊外の直美村という地域には、「曾宮」姓の人たちがいくらか住んでいたようだ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-08.html" target="_blank" rel="noopener">曾宮一念</a>が、自身の苗字に興味を抱いたのは、50年間で一度も同姓に出会わなかったのが理由だと、1952年(昭和27)に四季社から出版されたエッセイ集『袖の中の蜘蛛』に書いている。<br />　曾宮一念の家族が、日本橋浜町から<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-07-23.html" target="_blank" rel="noopener">大川(隅田川)</a>の河口域に近い<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519230779.html" target="_blank" rel="noopener">霊岸島</a>へ転居したころ、茅場町にあった西洋料理屋「常盤亭」の出前持ちから、深川の木場に「曾宮」という家があることを聞いている。曾宮一念が子どものころのことだが、その時代から自身のめずらしい苗字に興味を抱きはじめていたのだろう。ただし、深川の「曾宮」は実際に確認したわけではなく、子どものことなのでそのままになってしまった。また、発音ではよく「染谷」とまちがえられたため、深川の「そみや」は「そめや」だったのではないかと回顧している。<br />　また、東京美術学校(現・東京藝大)時代にクラスメイトの鶴見守雄と市電に乗っていたところ、彼が曾宮をつついて向かいに座る男のことを知らせた。男は「曾宮」と書かれた黒蛇ノ目の傘を手にしており、帰ってから養父に話すと豊後佐伯の故郷に近い地方の人だろうということだった。美校を卒業して、しばらく病床にあったころ『古事記』を読んでいたら、「曾の宮」というワードに気づいた。その様子を、上記のエッセイ集に収録された『曾宮はゐないか』より引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　祖の宮なら解るが曾の字では解らない。曾といふ字は曾遊などといふ以外には使ひ方を知らない。曾根、曾我、曾田の姓を稀に見るだけである。曾の宮に就て旧師(池内宏氏)にきいたら熊襲の“そ”も阿蘇の“そ”も九州の事さ、とのことであつた。(語源的にはアイヌ語の噴烟の意の転化と後に知つたが) 古事記に出てゐると言へば、ちと物々しいけれども日向、肥後の何処かを記に出てゐる曾の宮の地と考へて、その地名が姓に用ひられたのかも知れない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　曾宮一念は触れていないが、戦後に住んだ富士宮から間近に見える富士山も、「アソ・マ」「アサ・マ」(浅間)と呼ばれていた時期がある。「アソ」「アサ」は、曾宮が書いているとおり噴烟をあげる火山の意だが、「マ」は原日本語(アイヌ語に継承)で聖なる所＝「聖域」を意味する名詞だ。各地に散在する浅間社は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-09-23.html" target="_blank" rel="noopener">富士信仰</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-05-05.html" target="_blank" rel="noopener">富士講</a>)からきていることにも留意したい。<br />　富士山は、「アソ・マ」「アサ・マ」から不二→富士へと転化したが、「浅間」をそのまま山名あるいは別称に残している山は、現在でも日本各地に見いだすことができる。したがって、九州の阿蘇にちなんだ「曾宮」さんは、中部地方から東北にかけて多い「浅間」さんと、根の深いところで同じような意味あいなのかもしれない。曾宮家に入った養子とはいえ、富士山の麓にある富士宮にアトリエをかまえたのも、偶然とはいいながら面白い符合ではないだろうか。<br />　その後、曾宮一念は「曾宮」姓をふたり発見している。ひとりは、熊本県から日中戦争へ従軍して戦死した一等兵曹の「曾宮某」と、1951年(昭和26)に発刊された俳句雑誌「馬酔木」12月号に、「曾宮三郎」という人の発句が掲載されたのを見つけている。曾宮一念が見たのは、同号に掲載された「文とゞくポストや萩に隠れをり／曾宮三郎」なのだろう。彼は大津在住となっているが、出身地は九州だろうと感じたので、さっそく「馬酔木」編集部の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-03.html" target="_blank" rel="noopener">水原秋桜子</a>にこの人物のことを問い合わせているが、返事がくる前に同エッセイの原稿締め切りがきて出版されてしまった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E382A2E38388E383AAE382A8E382ABE383A9E383BC.jpg" alt="曾宮一念アトリエカラー.jpg" width="520" height="414" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE382A2E38388E383AAE382A8E5BAADE382ABE383A9E383BC.jpg" alt="曾宮アトリエ庭カラー.jpg" width="520" height="673" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE8A296E381AEE4B8ADE381AEE89C98E89B9BE3808D1952.jpg" alt="曾宮一念「袖の中の蜘蛛」1952.jpg" width="255" height="336" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A296E381AEE4B8ADE381AEE89C98E89B9BE5A5A5E4BB98.jpg" alt="袖の中の蜘蛛奥付.jpg" width="255" height="336" border="0" /></div><div>　以上の人々が、曾宮一念が50年間に発見した曾宮姓の人物のすべてだが、「曾宮」という苗字がめずらしいせいか、既述のように発音では「染谷」とまちがえられることがしばしばあった。また、郵便物の書きまちがいも多く、人偏をつけて「僧宮」だったり、土篇をつけて「増宮」だったり、よくある名前に置き換えた「曾根」だったり、會(会)と曾(曽)をまちがえて「會宮(会宮)」になっていたりと、配達される1％ほどが誤記だったようだ。特に最後の誤記は、邪馬壹国(邪馬壱国)と邪馬臺国(邪馬台国)の書きまちがい(『魏志倭人伝』)を想像してしまうが、それでも下落合623番地の曾宮アトリエには、異なる苗字の郵便物がなんとかとどいていたらしい。<br />　いろいろ調べたところが、結局のところ曾宮氏は九州の阿蘇山周辺で農民のちに武家をしていたか、あるいは社(やしろ)の神主でもしていた家筋であり、全国に分布する鈴木氏とは異なり、最終的には「それにしても甚だしく繁殖の悪い種族である」と結論づけている。そして、最後に電話を介した面白い“空耳”エピソードを紹介している。同書より、つづけて引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　私は会社や病院や取次人のゐる家へ電話はかけない。小宮か富谷としか聞いてくれないからである。下落合に長く住んでゐたので下落合の曾宮と言つたら「さうですか」と電話が通じたので、その家へ行つて今朝電話で参上を約束したと言つても女中さんに要領を得ない。強引に主人に会つたら相撲茶屋の富屋(下落合の曾宮)と聞かされてゐた。かうなると自ら本場と称してゐる私の東京弁にも疑を持つて来る。／(廿七年一月)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　これは、その経緯がおおよそ想像できる。おそらく、電話を受けた女中さんは東北地方から東京へやってきたばかりで、電話で訪問を告げた曾宮一念のことを、確かに主人あるいは夫人へちゃんと伝えたはずだ。だが、その発音とイントネーションから、聞いた人には「下落合の曾宮さん」が「相撲茶屋の富屋さん」に聞こえてしまったのだ。「はて、相撲茶屋の富屋なんて知らんけどな」と、主人は不可解に首をひねっていたのだろう。<br />　曾宮一念は、子ども時代を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-17.html" target="_blank" rel="noopener">大川(隅田川)</a>も近い日本橋浜町で育っているので、その“母語”である<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">東京方言</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-11-20.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町言葉</a>はかなり自負をもって<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-30.html" target="_blank" rel="noopener">話していた</a>のだろうが、どうやらこの一件のあと「取次人」のいるところへ電話しなくなるほど、自身の発音に自信がなくなってしまったらしい。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9A6ACE98594E69CA8195112.jpg" alt="馬酔木195112.jpg" width="520" height="438" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E382B9E382B1E38383E38381.jpg" alt="曾宮一念スケッチ.jpg" width="520" height="387" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE5BEA1E5898DE5B48EE78788E58FB0E3808D1952.jpg" alt="曾宮一念「御前崎燈台」1952.jpg" width="520" height="784" border="0" /></div><div>　曾宮の故郷である日本橋浜町が出たついでに、ちょっと気になっていた長めの余談を書いてみたい。いつだったか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-04.html" target="_blank" rel="noopener">槇本楠郎</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-03-27.html" target="_blank" rel="noopener">『文化村を襲った子供』</a>について記事にしたことがある。そこで、槇本が定義していた「ブルジョア」とは、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>など新山手に住みオシャレな広い西洋館で暮らして犬を飼い、ときおりピアノの音色が近隣に響くような街角の住民たちのことだったらしく、彼らを「階級敵」とみなす槇本は、同作で「文化村」の家々を子どもたちに襲わせて、彼の「階級観」から湧きあがる怒りの溜飲を下げていたようだ。同記事では、以下のように書いていた。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　ちなみに、ピアノの音色をブルジョア趣味に象徴させているけれど、ピアノは乃手の習いごとや趣味一般であり、下町に流れる三味(しゃみ)の音色と同様の位置づけであることを、どうやら槇本は知らない。ましてや高級な、あるいは名うての三味一式なら、今日のアントニオ・ストラディバリと同様に、当時の家庭用ピアノよりもはるかに値段が高いことも知らないのだろう。高価な楽器＝「ブルジョア趣味」と短絡的に規定するなら、当時の神田や日本橋、尾張町(のち銀座)など下町のほうが、よほど「ブルジョア」になってしまうではないか。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　槇本は岡山からきたので、江戸東京のことをまったく知らなかったのかもしれないが、大企業の代表取締役よりもはるかに高額な所得を得ていた商家が、上記の街々にはゴマンと存在していた。店構えは、やや繁華な通り筋にあるさして大きくない店舗でも、当時の用語でいえば「百万長者」はあちこちにいた。槇本は、立派な洋館に住んでいるから「ブルジョア」、それほど大きくない店を構えるのは「プチブル」とでも、見た目で判断していたのではないか？<br />　確かに勤め人や工員、労働者などを雇用する会社組織は企業家が経営しており、彼らの多くは新たに住宅地が形成された、山手線西部の内外に屋敷を建てることが多かったのだが(ただ目白文化村は学者や文化人などが主体で経営者は少数だ)、住宅の外観やピアノの音色ではなく、所得の多さで「ブルジョア」を規定するのであれば、財閥の総帥やカネ持ち華族は論外としても、住宅のサイズや生活スタイルなどで判断していたら、この城下町では大まちがいを犯すことになる。<br />　極度に発達した市場をもつ商業都市(江戸時代も含めて)の商人たちは、別に三つ揃えを着て一見紳士風な姿をし、わかりやすく葉巻やパイプなどくわえてはいない。基本的にはふつうの市井人と変わらない容姿(なり)で、しかもベースが商人なので横柄でも傲慢でもなく気さくで腰も低いが、所得で比べるならば圧倒的に乃手よりも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-07-09.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町</a>の商人のほうが高かっただろう。<br />　たとえば、曾宮一念の故郷である日本橋浜町近くでいえば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-01.html" target="_blank" rel="noopener">日本橋横山町や馬喰町界隈</a>には、大阪の船場(せんば)と同様に戦前から繊維問屋街が形成され、大金持ちの人々が住んでいた。彼らは、最盛期にはおそらく名の知られた企業の社長よりも数倍の所得を稼いでいただろう。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-02-06.html" target="_blank" rel="noopener">鎌倉</a>、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">箱根</a>、国府津、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518158135.html" target="_blank" rel="noopener">湯河原</a>、新興地では<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-12-15.html" target="_blank" rel="noopener">軽井沢</a>などに複数の別荘をもち(江戸期であれば本所や向島など大川の東側に拡がる田園地帯に寮＝別荘を所有し)、日常勤務のある企業の経営者や取締役などよりも、よほど優雅でゆとりのある暮らしをしていた。槇本楠郎のような、この街に関する根本的な勘ちがいが(およそ欧米式の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">アップタウンとダウンタウン</a>を想定するような、すなわち丘陵地＝経営者街で平地＝労働者街というマルクス時代のロンドン風景のような見当ちがいの錯覚が)、最近、いくつかの書籍や資料に散見されたので、改めて念のため余談として書いてみたしだい。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E38388E383AAE382A8E381AEE69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5.jpg" alt="アトリエの曾宮一念.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE6A19CE381A8E6B5B7E3808D1952.jpg" alt="曾宮一念「桜と海」1952.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69BBEE5AEAEE4B880E5BFB5E3808CE5889DE5B3B6E3808D1952.jpg" alt="曾宮一念「初島」1952.jpg" width="520" height="714" border="0" /></div><div>　戦後になるが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-23.html" target="_blank" rel="noopener">野村芳太郎</a>・監督による<a href="https://www.youtube.com/watch?v=OCUTBJyiE8s" target="_blank" rel="noopener">『女たちの庭』</a>(松竹／1967年)という映画がある。戦前からつづく、おそらく日本橋あたりの商家を舞台にしたホームドラマだが、やはり繊維関係の仕事をなりわいにしている商店だ。店主役を<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517488345.html" target="_blank" rel="noopener">小沢栄太郎</a>が演じており、扇子を片手に開襟シャツ姿で働く店(たな)の主人なのだが、街を歩けばどこにでもいそうなヲジサンが、乃手で大きな屋敷をかまえる重役たちよりもよほど高収入と聞いたら、いまの若い子たちは信じるだろうか？　でも、それが巨大市場を抱える商業が極度に発達した城下町＝江戸東京の史的事実であり、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520405707.html" target="_blank" rel="noopener">浅草っ子</a>の野村芳太郎は熟知していたらしく、商家の町娘たちの豊かで優雅な暮らしぶりをリアルに描いている。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：風景を写生中の曾宮一念で、AIエンジンでカラー化してみた。今回の記事では、従来のモノクロ写真をすべてAIで緻密なカラー化を試みている。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1921年(大正10)4月ごろに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-11.html" target="_blank" rel="noopener">竣工</a>したアトリエ前に立つ曾宮一家。しばらくすると、<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>が建設中だったアトリエ内部のカラーリングの参考にと、曾宮アトリエを見学しに訪れている。(提供：<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-11-21.html" target="_blank" rel="noopener">江崎晴城様</a>) <span style="color: #3366ff;">中</span>は、残雪の庭に立つ曾宮一念。佐伯祐三が描いたとみられる、背後の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">『浅川ヘイ』</a>の様子がよくわかる。(提供：江崎晴城様) <span style="color: #3366ff;">下</span>は、1952年(昭和27)に四季社から出版された曾宮一念『袖の中の蜘蛛』の表紙(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1951年(昭和26)に発行された俳句雑誌「馬酔木」12月号(馬酔木発行所)で曾宮一念が見つけた同姓「曾宮三郎」の発句。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、農閑期の用水路のような場所で制作中の曾宮一念。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『御前崎燈台』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、タブローの制作中にひと息入れるアトリエの曾宮一念。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『桜と海』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、同じく1952年(昭和27)ごろに制作された『初島』。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　1967年(昭和42)に公開された、監督・野村芳太郎による『女たちの庭』(松竹)の宣伝ポスター。わたしの感覚やイメージからすると、いかにも(城)下町の勝気肌で娘気質(かたぎ)っぽい、好きな岡田茉莉子と香山美子ふたりが出演していたので、遅ればせながら先ごろ観賞した作品のひとつ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5A5B3E3819FE381A1E381AEE5BAAD.jpg" alt="女たちの庭.jpg" width="520" height="745" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>ニャアと鳴くせりふ間あいの大江戸芝居。</title>
<description>　わたしが両親とともに芝居を最後に観たのは、中学生のころだったと思う。この「最後」は、子ども時代を通じての「最後」という意味で、学生時代以降の大人になってからの観劇は除く。小学校低学年のころから、芝居であれば歌舞伎座か国立劇場、新派であれば明治座か新橋演舞場へときどき通い、その舞台の価値をほとんど理解しないまま育った。　両親とともに観た最後の芝居は、歌舞伎座の興行で17代目・中村勘三郎と6代目・中村歌右衛門が出演していた。勘三郎の『俊寛』が印象深いので、調べてみると1971年..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-12T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A7E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA71.JPG" alt="旧歌舞伎座1.JPG" width="600" height="450" border="0" /></div><div>　わたしが両親とともに芝居を最後に観たのは、中学生のころだったと思う。この「最後」は、子ども時代を通じての「最後」という意味で、学生時代以降の大人になってからの観劇は除く。小学校低学年のころから、芝居であれば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">歌舞伎座</a>か国立劇場、新派であれば<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-12-03.html" target="_blank" rel="noopener">明治座</a>か<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">新橋演舞場</a>へときどき通い、その舞台の価値をほとんど理解しないまま育った。<br />　両親とともに観た最後の芝居は、歌舞伎座の興行で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2005-04-27.html" target="_blank" rel="noopener">17代目・中村勘三郎</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-15.html" target="_blank" rel="noopener">6代目・中村歌右衛門</a>が出演していた。勘三郎の『俊寛』が印象深いので、調べてみると1971年(昭和46)11月の「吉例顔見世大歌舞伎」だったろう。昼の部には勘三郎の『俊寛』が、夜の部には歌右衛門の『時雨西行(江口の君)』が含まれている。この日の舞台は、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょう・くるわにっき)』にはじまり、親父の好きそうな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520144042.html" target="_blank" rel="noopener">将門</a>がらみの『忍夜恋曲者(しのびよる・こいはくせもの)―将門―』、『平家女護島(へいけにょごのしま)―俊寛―』、そしてわたしの好きな<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">黙阿弥</a>の『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・めおのしらなみ)』とつづいている。<br />　親父が、フグ毒に当たって急死した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-07.html" target="_blank" rel="noopener">8代目・坂東三津五郎</a>とは知りあいだったので、大和屋が主演した『双蝶々曲輪日記』は確実に観ていると思うのだが、情けないことにわたしはまったく記憶にない。なぜか、足が悪くなり素早い立ち振る舞いができずにモタついていた17代目・勘三郎の演技と、花道の“スッポン”からせり上がってきて身長が低かったにもかかわらず、その舞踊が子ども心に見惚れるほど美しかった6代目・歌右衛門が強く印象に残っている。歌舞伎座のデータベースを調べると、当日は上記役者のほか13代目・片岡仁左衛門、7代目・守田勘弥、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-05-14.html" target="_blank" rel="noopener">7代目・尾上梅幸</a>、17代目・市村羽左衛門、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-07-10.html" target="_blank" rel="noopener">5代目・坂東玉三郎</a>(8代目・大和屋養子)…etc.と、のちの活躍も含めればほとんどみな「人間国宝」だらけのような舞台だったことに気づく。1960～70年代は大正末から昭和初期以来の歌舞伎黄金期で、芝居にまったく興味などがなかった、幼いわたしを無理やり引っぱってでも、親たちは伝説になる舞台を観ておきたかったのだろう。<br />　上記の「白浪五人男」＝『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』では、この日とは別の7代目・音羽屋(当時はまだ4代目・尾上菊之助だったろう)が、弁天小僧菊之助を演じた舞台のほうが鮮烈な印象に残っている。こちらは、調べてみるといつもの歌舞伎座ではなく明治座でかけられた1968年(昭和43)の出し物だ。もちろんわたしはまだ小学生で、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">弁天小僧</a>の居直りセリフ「浜松屋の場」を、なぜか暗記したのは少したってからのことだろう。この日、曽我兄弟の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯</a>における湯場の対面や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">松本順</a>がセリフに登場する、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-02.html" target="_blank" rel="noopener">黙阿弥</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518674667.html" target="_blank" rel="noopener">『夜討曽我』</a>も演じられているが、ふがいないことにまったく記憶がない。舞台が明治座だから、当時から食い意地の張っていたわたしは、きっと観劇後に立ち寄るかもしれない薬研堀の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-03-05.html" target="_blank" rel="noopener">「鳥安」</a>か、あるいは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-03-26.html" target="_blank" rel="noopener">大橋</a>東詰めの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">「豊田屋(ももんじ屋)」</a>が気になって、舞台はほとんど上の空だったのだろう。ちなみに、夏になると歌舞伎役者がそろって大磯の別荘か旅館へ避暑と海水浴に出かけてしまい、江戸東京の芝居小屋では幕が開けられなくなったのは、大正の初めぐらいまでだろうか。<br />　親父の書棚の、ほぼ半分近くを占めていた芝居の書籍や資料だが、そのほとんどを親父の死後に処分してしまったのが、いまさら惜しくてしかたがない。そのほか書棚を占めていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-20.html" target="_blank" rel="noopener">観世流の能楽</a>関連の書籍やレコードは惜しいとは感じないし、建築・土木が専門だった親父の寺社建築や仏教美術に関する大量の書籍や資料もそれほど惜しくはない。もっとも、母親が親父とともに鑑賞して歩いた仏教美術の資料の一部は、未整理のままどこかの段ボールに入ったままだと思うのだが……。わたしとしては、芝居本がそのまま残っていればと、いまになって後悔しきりだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE59BBDE3808CE4B8ADE69D91E5BAA7E58685E5A496E4B983E59BB328E5A49629E3808D1817.jpg" alt="豊国「中村座内外乃図(外)」1817.jpg" width="520" height="465" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8B18AE59BBDE3808CE4B8ADE69D91E5BAA7E58685E5A496E4B983E59BB328E5868529E3808D1817.jpg" alt="豊国「中村座内外乃図(内)」1817.jpg" width="520" height="317" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA71923.jpg" alt="歌舞伎座1923.jpg" width="520" height="394" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA7E5898DE58686E5A4AAE9838E1926.jpg" alt="歌舞伎座前円太郎1926.jpg" width="520" height="418" border="0" /></div><div>　ただ、親父の芝居本のうち、たった4冊だけだが手もとに残っている。これは、ページ内に親父の書きこみがあり、本棚から抜きとって形見にしたものだ。そのうちの2冊、1953年(昭和28)に第一書店から出版された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-25.html" target="_blank" rel="noopener">『名せりふさわり集』</a>と、1954年(昭和29)に同社から刊行された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">『芝居せりふ集』</a>は、すでに以前の記事でご紹介していた。残りの2冊とは、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二の『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』と、1958年(昭和33)に同社から刊行された戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』だ。わずかにこの4冊だけで、残りの数百冊はおそらく母親が古書店を呼んで処分したものだろう。<br />　特に後者の2冊は、親父が実際に歩いた街や地域には赤〇印と書きこみがあり、『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』は1ヶ所を除いて全地域を歩いている。歩かなかった1ヶ所とは、いわずもがなだが「三田薩摩邸跡」だ。もちろん、幕末の大江戸(おえど)で市中の世情不安を引き起こすためだけの目的で、まったく「敵」でもなく罪も落ち度もない女子どもへの辻斬りや、商家への火付け盗賊を繰り返した、同藩の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-21.html" target="_blank" rel="noopener">益満休之助</a>(配下は500名といわれる)らテロリストたちが巣くっていた凶悪な犯罪者アジトなので、ことさら忌避して寄りつかなかったのだろう。<br />　『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』の「あとがき」で、戸板康二は次のように書いている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　東京には、江戸時代から舞台を通じて人々に親しまれた町や橋や神社仏閣が少なくない。これらの旧蹟は、大正十二年の震災と、昭和二十年の戦災と、二度の火の洗礼によつて、多くは変貌してしまつてゐる。／しかし、芝居の中には、レパートリイが繰り返されるものが多いので、土地の人は、口づたへにでも、住んでゐる周辺の場所を、芝居にむすびつけて知つてゐる。区民の誇りと思つてゐるかどうかはわからないが、とにかくそれは「名所」なのである。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　「とにかく」、わたしもそう思う。芝居の舞台になった街や川は、それだけで歴史の地層や物語がとても分厚いと感じるし、江戸期からつづく舞台の情景が浮かべば、現実の風景へ書割(かきわり)がまぼろしのように重なって見える。YouTubeなどで、昔の写真や浮世絵と現在の風景を透過して見せるコンテンツが流行っているようだが、まさにあれと同じような感触を憶える。落合地域や、その周辺域が舞台になった芝居や新派の舞台は、これまで機会があるごとに再三ご紹介してきた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B2B8E794B0E58A89E7949FE3808CE696B0E58FA4E7B4B0E5B7A5E98A80E5BAA7E9809AE383BBE6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA7E99984E8BF91E3808D1927.jpg" alt="岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg" width="520" height="360" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA71929-6dc56.jpg" alt="歌舞伎座1929.jpg" width="520" height="357" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E688B8E69DBFE5BAB7E4BA8CE3808CE88A9DE5B185E5908DE68980E4B880E5B995E8A68BE3808D1953.jpg" alt="戸板康二「芝居名所一幕見」1953.jpg" width="255" height="250" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E688B8E69DBFE5BAB7E4BA8CE3808CE88A9DE5B185E5908DE68980E4B880E5B995E8A68BE3808D1958.jpg" alt="戸板康二「芝居名所一幕見」1958.jpg" width="255" height="250" border="0" /></div><div>　もう1冊の『芝居名所一幕見―諸國篇―』は、芝居の舞台となった日本全国の地域を紹介する内容だが、こちらも9割がた訪問した赤〇印がついている。北は十和田湖(新派『湖の聲』)から南は長崎(新派『於蝶夫人』)まで、芝居や新派を問わずよくこれだけ踏破したものだと思う。おそらく、仕事で地方への出張が入るたびに、1日休暇をとるか週末にひっかけて各地をめぐり歩いたものだろう。それを<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517191114.html" target="_blank" rel="noopener">母親</a>が許していたのは、現地発送のぶんも含め、お土産がかなりたくさんあったからにちがいない。小学生のとき、出張先からもらった阿蘇山が火口湖から大噴火にいたるまでの人着による連続絵はがきを、わたしはまだどこかに持っていると思う。同じく活火山である箱根連山を抱える<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">神奈川県</a>では、火山災害対策も課題のひとつだった。<br />　さて、わたしが子どものころに連れ歩かれた歌舞伎座や国立劇場、明治座、新橋演舞場は、建て替えが本決まりとなり閉館したまま再開のめどが立たない国立劇場を除き、すべてが昔の姿を消している。外見は似ているものもあるが、内部はわたしが子どものころとはまったくの別物だ。裏返せば、それだけ芝居の需要がいまだに多く、建て替える資金に困らないということなのだろう。唯一、建て替えが中断している国立劇場は、入札不調が原因と聞いている。わたしが子どものころの舞台は、いまだ江戸期の名残りをどこかに残していたものだろうか。<br />　江戸の中期、芝居小屋は葺屋町の市村座、堺町の中村座、木挽町の森田座の3ヶ所(江戸三座)あった。当初の芝居小屋は3階建てで、庶民が観賞する一般の桟敷席には屋根がなく、舞台と両袖の観劇料が高価な芝居茶屋がらみの桟敷席のみ屋根が葺かれていた。芝居小屋がすべて屋根で覆われる「全蓋式」になるのは、1720年代のことだそうだ。のち、これら三座は浅草の猿若町に集められ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-05.html" target="_blank" rel="noopener">安藤広重</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-17.html" target="_blank" rel="noopener">『名所江戸百景』</a>(猿わか町よるの景)にも登場している。<br />　また、照明やスポットライトなどない時代なので自然光を利用していたため、採光は天井近くに設けられた横長の明かりとり(窓)の「窓番」によって場面ごとに調節されていた。だから、窓から野良ネコが屋根づたいに入りこむことも多く、1746年(延享3)ごろに刷られた鳥居清忠の浮世絵『浮絵劇場図』には、芝居小屋の天井近くに入りこんだ白黒ぶちの野良ネコがわがもの顔で歩いている。せりふ途中の絶妙な間あいで「しばらく、しばらく、あいやし～ば～ら～くぅ…(ニャーオ)」と、見得を切るちょうどいい間あいで鳴かれたら鎌倉権五郎はどうするのだろうか。w　もっとも、江戸後期には龕灯(がんどう)などを用いて、舞台の照明がかなり工夫されたようなのだが。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9B3A5E5B185E6B885E5BFA0E3808CE6B5AEE7B5B5E58A87E5A0B4E59BB3E3808D1746E9A083.jpg" alt="鳥居清忠「浮絵劇場図」1746頃.jpg" width="520" height="372" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A7E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA72.JPG" alt="旧歌舞伎座2.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A7E6AD8CE8889EE4BC8EE5BAA73.JPG" alt="旧歌舞伎座3.JPG" width="520" height="390" border="0" /></div><div>　こういう芝居の歴史や舞台の仕掛け、書割、道具、風俗などにやたら詳しい専門家に、元・国立劇場主席芸能調査役(おそらく定年で退職)の石橋健一郎がいる。2018年(平成30)9月28日～10月16日にかけ、日本経済新聞に連載の『江戸の芝居小屋十選』は面白く読ませてもらった。わたしよりひとつ上の生年になるが、両親から芝居だ新派だと連れ歩かれ、親ともども<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">遊んでばかり</a>いて勉強も宿題もロクすっぽせず、しょっちゅう教師に怒られ、連絡がいっていたらしい親からも叱られていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">子どものころ</a>、石橋君はわたしとはまったく対照的で超優秀な小学校の同級生だった。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：江戸中期の芝居小屋には、天井近くの明かりとりから「窓番」の目を盗み野良ネコが入りこんだ。解体される直前、旧・歌舞伎座で撮影した天井近くの桟敷席。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1817年(文化14)制作の豊国(初代)『中村座内外乃図』(部分)の芝居小屋外観。さまざまな身分の人々が、中村座へ押しかけているのが描かれている。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、同じく『中村座内外乃図』(部分)の小屋内観。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1923年(大正12)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>の直後に撮影された旧・歌舞伎座。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1926年(大正15)に撮影された旧・歌舞伎座。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1927年(昭和2)に制作された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-12-17.html" target="_blank" rel="noopener">「新古細句銀座通」</a>シリーズのうち<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-09-01.html" target="_blank" rel="noopener">岸田劉生</a>『歌舞伎座附近』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1929年(昭和4)に撮影された旧・歌舞伎座。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、親父の本棚から1953年(昭和28)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』(白水社／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、1958年(昭和33)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』(白水社／<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1746年(延享3)ごろに制作された鳥居清忠『浮絵劇場図』。天井近くの「窓番」が、障子を外すか立てようとする刹那、野良ネコが場内に入りこんだ情景が描かれている。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、リニューアル直前の旧・歌舞伎座。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、リニューアル前の旧・歌舞伎座の内観で手前が花道。</div></div><a name="more"></a>

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<title>納秀子は死の床の竹久夢二へショコラを贈った。</title>
<description>　竹久夢二が死の床に就いていた1934年(昭和9)2月、下落合2丁目666番地に住む納三治の連れ合いだった秀子夫人より、富士見高原療養所へ見舞い品としてチョコレートがとどけられた。1月に秀子夫人のもとへとどいた夢二からのうら寂しげな手紙に応えたもので、同年2月10日の『夢二日記』(筑摩書房版)には「ショコラ 納秀子」と、とどいた品が記録されている。　1934年(昭和9)1月29日消印の、納秀子あて竹久夢二の手紙は以下のような内容だった。　　▼　東京都淀橋区下落合六六三(ママ：..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-09T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90.jpg" alt="桜井八重子.jpg" width="600" height="607" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-02.html" target="_blank" rel="noopener">竹久夢二</a>が死の床に就いていた1934年(昭和9)2月、下落合2丁目666番地に住む<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520863836.html" target="_blank" rel="noopener">納三治</a>の連れ合いだった秀子夫人より、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-02-04.html" target="_blank" rel="noopener">富士見高原療養所</a>へ見舞い品としてチョコレートがとどけられた。1月に秀子夫人のもとへとどいた夢二からのうら寂しげな手紙に応えたもので、同年2月10日の『夢二日記』(筑摩書房版)には「ショコラ 納秀子」と、とどいた品が記録されている。<br />　1934年(昭和9)1月29日消印の、納秀子あて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-28.html" target="_blank" rel="noopener">竹久夢二</a>の手紙は以下のような内容だった。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">東京都淀橋区下落合六六三(ママ：六六六)　　　納秀子様</span><br />　(印刷された富士見高原療養所へ入院した旨を知らせるあいさつの定型文) ／ 欲するものが少くなり／欲するものが切になり／たべるものが僅かにたのしみ (カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　下落合663番地は、納邸の北側に隣接する住宅8軒の番地であり、納邸は大正期から変わらず666番地だったが、手紙は無事に秀子夫人のもとへとどけられている。<br />　納秀子こと旧姓・唐澤ひで(秀子)は、1895年(明治28)10月25日に芝区愛宕町2丁目6番地(現・西新橋3丁目)の家具商だった家に生まれ、愛宕山と芝増上寺にはさまれた江戸期からの繁華な街中で育った。府立第三高等女学校(現・都立駒場高校)へ進むが絵を描くのが好きで、のちに本郷本妙寺坂の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">女子美術学校</a>へ転校している。さらに、女子美の在学中に演劇に惹かれ、絵画をやめて帝国劇場付属技芸学校の第3期生として入学し、1914年(大正3)11月1日に同校を卒業している。同期には香川玉夜、村田美彌子、静香八千代、四条京子の4人がいた。<br />　1915年(大正4)1月22日から帝劇で上演されたマチネー(昼公演)で戯曲『女同志』の花嫁「マーチン」役にはじまり、芝居『鳥目の上使(うわづかい)』の妹娘「紅梅姫」役、『良人』では姪の「りん子」役を演じたのが、唐澤秀子の帝劇初舞台となった。新劇女優としての彼女が特異な存在なのは、早くから義太夫節を鶴澤文京に、日本舞踊を水木歌若と花柳徳太郎に師事していたことだ。これは娘時代に、江戸東京育ちの慣習として通わされていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-01.html" target="_blank" rel="noopener">習い事</a>とみられ、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-01.html" target="_blank" rel="noopener">尾張町</a>(銀座4丁目)育ちの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/514535639.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯米子</a>の日本画や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-16.html" target="_blank" rel="noopener">木村荘八</a>が晩年にいたるまでつづた三味と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-27.html" target="_blank" rel="noopener">小唄</a>、日本橋で育ったうちの親父の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-09-14.html" target="_blank" rel="noopener">三味・清元</a>と同質の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-07.html" target="_blank" rel="noopener">(城)下町</a>における一般教養だろう。したがって、西洋演劇とともに和芝居もすぐに演じられる素養や所作を、あらかじめ備えていたのではないか。<br />　帝国劇場付属技芸学校は、1908年(明治41)に川上貞奴が帝国女優養成所として創立しているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-08.html" target="_blank" rel="noopener">帝国劇場</a>が建設されるとともに同劇場へ経営を委譲、以降は帝劇付属技芸学校として運営されていた。唐澤秀子は、帝劇の舞台に出演するようになると、芸名を「桜井八重子」と名乗っていた。ここで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-09-13.html" target="_blank" rel="noopener">竹久夢二</a>のファンなら、すぐにもピンとくるネームだろう。夢二は、順天堂病院に結核で入院していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-03-07.html" target="_blank" rel="noopener">笠井彦乃</a>に逢うことがかなわず、その寂しさから雰囲気や面影がどこか似ている帝劇の女優・桜井八重子へ、盛んにアプローチの手紙を書いている。<br />　竹久夢二と桜井八重子が初めて顔をあわせたのは、彦乃が東京の順天堂病院へ入院し、夢二がそれを追って次男の不二彦とともに東京へもどったあと、1918年(大正7)11月8日に開かれた短歌会「春草会」の“夢二帰京歓迎会”(いま風にいえば同サークルのオフミ)での席上だった。桜井八重子は、以前から夢二ともども春草会の同人で、短歌やエッセイなどを文芸誌に数多く寄稿しており、当時、彼女に冠せられたショルダーは「文学女優」となっている。確かに、1917年(大正6)に新潮社から刊行された「文章倶楽部」1月号には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-10-22.html" target="_blank" rel="noopener">岡本かの子</a>と並んで短歌を寄せ、同年に一元社から刊行された「日本評論」8月号には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-12-26.html" target="_blank" rel="noopener">尾崎翠</a>(当時は尾崎みどり子)とともにエッセイを寄稿している。文章表現が上手だったのは、おそらく府立第三高等女学校時代からなのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD9028E5ADA6E7949FE69982E4BBA329.jpg" alt="桜井八重子(学生時代).jpg" width="520" height="761" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5B89DE59BBDE58A87E5A0B41920.jpg" alt="帝国劇場1920.jpg" width="520" height="396" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD901922.jpg" alt="桜井八重子1922.jpg" width="520" height="696" border="0" /></div><div>　その歓迎会の席で、桜井八重子は「宵待草」を唄ったという資料が多いけれど、これは夢二が書いた自伝絵画小説『出帆』で演出したフィクションで、実際に彼女が唄ったのは夢二が作詞・装幀を、本居如月が作曲をしたセノオ楽譜(セノオ音楽出版)の第44番「蘭燈」だった。このときから、どこか笠井彦乃に雰囲気が似た桜井八重子に惹かれはじめ、夢二は息子とともに滞在していた本郷菊坂の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">菊富士ホテル</a>から、桜井八重子あてに意味不明な手紙を頻繁に送りはじめている。春草会の歓迎会から2ヶ月半後、1919年(大正8)1月19日の手紙を引用してみよう。ちなみに、当時の桜井八重子は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518249189.html" target="_blank" rel="noopener">早稲田大学</a>南門の斜向かい、現在の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">早大南門通り</a>沿いで<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-03-13.html" target="_blank" rel="noopener">早稲田中学校</a>に隣接した、豊多摩郡戸塚町下戸塚稲荷前13番地(現・新宿区戸塚町1丁目)に住んでいた。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　今日は好い雨です。／やさしい雨が家をめぐつて／私の床をめぐつて降つてゐます。／きつかけがなくちや床を出られないなんて、贅沢を言つたつて、／駄々をきいてくれるんじやないが、／なにしろ好い雨です。／そちらも雨が降つているのでせうか。／八重子様<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　なんとも形容しがたい、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-03-17.html" target="_blank" rel="noopener">吉屋信子</a>が夢二から受けとった不可解で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-07.html" target="_blank" rel="noopener">甘やかな手紙</a>と同様、ラブレターとも近況報告とも、ひとりごとともとれる意味不明な内容だ。「本郷が雨なら、ふつう早稲田も雨降りだろ！」と、凡人が身もふたもないことをいってはいけない。なにしろ相手は抒情詩人で抒情画家の代表的な存在である夢二なので、そこは行間を深読みし、紙面裏にかくれた含意を斟酌しなければならない。入院中の笠井彦乃なら、おそらくそれを斟酌したうえで返事を書いたのではないか。ちょうど、昔なじみの島村抱月の死や、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517488345.html" target="_blank" rel="noopener">松井須磨子</a>の自裁から10日後の手紙であり、ことさらアンニュイでペシミスティックな気分になっていたようだ。<br />　ところが、桜井八重子は笠井彦乃に容姿や雰囲気が似ていても、性格は反対だったようだ。本人も、1918年(大正7)に演芸画報社が実施したアンケートに「性質：勝気」と書いているように、控えめでロマンティストの彦乃とは異なり、ポジティブで頭の回転が速く行動的で明朗な性格だったらしく(学歴を見ても想像できる)、さっそく夢二親子のいる菊富士ホテルを訪ねた。そこで「あのお手紙はどういう意味ですの？」と面と向かって訊ねたかどうかは不明だが、「なにがいいたいんだろ？」とちょっと気になってときどき訪問するようになった。桜井八重子も、今日的ないい方をすればホテルに仮住まいする、父子家庭が気がかりだったのではないか。<br />　だが、夢二自身も遠からず、彼女が彦乃に雰囲気は似ていても、彦乃とはまったく異なる性格なのを認識したのではないか。桜井八重子は、勝ち気でサッパリとした江戸東京育ちの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510025107.html" target="_blank" rel="noopener">町娘的</a>な性格をしており、この地方の言葉でいえば気風(きっぷ)のいい娘気質(かたぎ)だったと想像できるので、その後の夢二の手紙では、桜井八重子にどこか甘えて寄りかかるような文面へと変化しているようにも感じる。それが、死の床に就く1934年(昭和9)に書いた「欲するものが切になり／たべるものが僅かにたのしみ」という、まるで母親に「なにか美味しいものを見つくろって送ってよ」と、甘えてねだるような文面まで継承されていたのではなかろうか。もっとも夢二の言動からは、いつも女性に依存し寄りかかって生きているような姿勢を感じるのだが。</div><div>　ちょっと蛇足だが、帝劇女優の桜井八重子について本名を「納秀子」とする資料がとても多いのだけれど、竹久夢二と交流があった独身時代は「唐澤ひで(唐澤秀子)」が本名であり、納秀子は女優を引退して納三治と結婚したあと、下落合での氏名になる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90E6AD8CE99B86E3808CE887AAE794BBE5838FE3808D1917.jpg" alt="桜井八重子歌集「自画像」1917.jpg" width="260" height="393" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90E6AD8CE99B86E3808CE887AAE794BBE5838FE3808DE5A5A5E4BB98.jpg" alt="桜井八重子歌集「自画像」奥付.jpg" width="250" height="393" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E698A5E88D89E4BC9AE79FADE6AD8CE8AAADE5A3B2E696B0E8819E191811.jpg" alt="春草会短歌読売新聞191811.jpg" width="520" height="174" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6A19CE4BA95E585ABE9878DE5AD90E3808CE5A4A2E381ABE592B2E3818FE88FAFE3808DE68CBFE794BBE7ABB9E4B985E5A4A2E4BA8C.jpg" alt="桜井八重子「夢に咲く華」挿画竹久夢二.jpg" width="520" height="677" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7ACAC3E59B9EE698A5E88D89E4BC9AE4BC9AE590881919.jpg" alt="第3回春草会会合1919.jpg" width="520" height="373" border="0" /></div><div>　演芸画報社のアンケートついでに、桜井八重子の回答の一部を『現代俳優鑑』(1918年)から引用してみよう。ちなみに、彼女は当時の女優にしてはめずらしく、酒もタバコも嫌いだったようだ。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　<span style="color: #333399;">身の丈</span>：五尺一寸(約155cm)／<span style="color: #333399;">体重</span>：十三貫二百匁(49.5kg)／<span style="color: #333399;">前身</span>：女学生／<span style="color: #333399;">煙草</span>：喫せず／<span style="color: #333399;">酒量</span>：飲せず／<span style="color: #333399;">衣類の生地と色気好</span>：銘仙、お召類、紫が一番すき／<span style="color: #333399;">好きな物</span>：本をよむこと、芝居をすること、旅、絵をかくこと、おばけの話、食べ物はうなぎ、ひたしもの／<span style="color: #333399;">嫌ひな物</span>：人参、陽気(賑やか)なところ、自働車、足袋／<span style="color: #333399;">両親の職業</span>：家具商／<span style="color: #333399;">兄弟の有無</span>：妹一人、弟一人あり／<span style="color: #333399;">家庭の人々</span>：父母、自分、妹、弟 (カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　好きなものは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-11-13.html" target="_blank" rel="noopener">「おばけの話」</a>(怪談)やウナギの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-10-25.html" target="_blank" rel="noopener">蒲焼き</a>で、嫌いなものは足袋で裸足(おそらく塗り下駄を履くの)がいいと、健康な町娘の性格そのまま全開の桜井八重子に、夢二はすっかりアテが外れたのではないだろうか。アンケートからは、妹や弟からもなにかと頼りにされていそうな、「姉(ねえ)さん」の姿や雰囲気が感じられる。大人しく言葉少なに控えめで、好きな男へなよっとしなだれかかるような女性を夢想していた夢二は、早くからその見立てちがいに気づいていたように思える。夢二が彼女から、「我がまゝがすぎますよ」とでも叱られ諭されるような場面でもあったのだろうか、1919年(大正8)2月3日付けで「いつぱしの我がまゝものゝようにおもはれる私なぞは損をしてゐる」などと、母親あるいは姉に甘えるような手紙も投函している。<br />　さて、桜井八重子が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">有島武郎</a>と知りあったのは、有島の書簡によれば1921年(大正10)4月21日の京都「宇治の会」の席上でだった。ドイツ文学の研究者で翻訳家、京都帝大講師だった成瀨無極も同席しており、「宇治の会」のメンバーは徹夜で当時の世相や文学などについて語りあったらしい。その思い出は、戦後の1956年(昭和31)に発行された「洛味」55号に、『古いアルバムを開いて』というタイトルで成瀨無極が詳細をつづっているが、このような席でも議論や話題についていける桜井八重子は、かなりの読書家で勉強熱心な「文学女優」だったのだろう。</div><div>　成瀨無極は、のちに『塔』という小説を発表し、有島武郎と桜井八重子の邂逅の様子を描いているとしているが、これは成瀨本人の思いちがいだった可能性が高い。小説『塔』は、1913年(大正2)10月に執筆され翌年に発表されているので、有島武郎と桜井八重子が知りあう8年も前の作品だ。また、桜井八重子(唐澤秀子)と知りあってからの2年間で、有島武郎はこまめに80通もの手紙を彼女あてに書いているので、それほど彼女の存在や言動が気にかかっていたのだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE6A98BE799BDE69CA8E5B18B191611.jpg" alt="日本橋白木屋191611.jpg" width="520" height="720" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E78FBEE4BBA3E4BFB3E584AAE991911918E6BC94E88AB8E794BBE5A0B1E7A4BE.jpg" alt="現代俳優鑑1918演芸画報社.jpg" width="520" height="667" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69687E7ABA0E580B6E6A5BDE983A8191701E696B0E6BDAEE7A4BE.jpg" alt="文章倶楽部191701新潮社.jpg" width="520" height="408" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E697A5E69CACE8A995E8AB96191708E4B880E58583E7A4BE.jpg" alt="日本評論191708一元社.jpg" width="520" height="343" border="0" /></div><div>　ところで、下落合にあったとみられる「重役夫人」邸から盗まれた夢二屏風をめぐって、下落合3丁目1507番地に住む<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-02-12.html" target="_blank" rel="noopener">沖野岩三郎</a>と、同3丁目1470番地の<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">第三文化村</a>のアパート「玉翠荘」に住む<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-03.html" target="_blank" rel="noopener">宮地嘉六</a>とが関係し、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-02.html" target="_blank" rel="noopener">ちょっとした騒動</a>が巻き起こった事件については以前記事にしていた。この泥棒が入った「重役夫人」邸の蔵とは、下落合2丁目666番地の納邸(秀子夫人邸)のことではないか。そのことを、秀子夫人の孫にあたる澤田康治様に訊ねてみたが不明とのことだ。また、自邸の新築工事であいさつにきた納夫妻へ、画家だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-20.html" target="_blank" rel="noopener">東隣りの隣人</a>が「あのな～、わし～肖像画も得意なんですわ。ヴィーナス八重子はん描かしてくれへんやろか？」と頼んだかはさだかでない。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509355016.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯米子</a>はもちろん、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509355016.html" target="_blank" rel="noopener">尾張町(銀座)</a>の娘時代に帝劇で桜井八重子の芝居を観ていただろう。桜井八重子と有島武郎の邂逅と、その頻繁に交わされた往復書簡について、それはまた、別の物語……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：大正らしいモダンな柄で、好きな紫色の銘仙を着ている桜井八重子(AI着色)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、学生時代の撮影とみられる唐澤秀子。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1920年(大正9)撮影の帝国劇場。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1917年(大正6)ごろ撮影の桜井八重子ブロマイド(AI着色)。いずれのAI処理でも、桜井八重子の着物は紫と判断しておりアンケートの「紫が一番すき」を裏づけているようだ。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1917年(大正6)に東京堂書店から出版された桜井八重子歌集『自画像』の内扉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と奥付(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。奥付の著作者には、本名の唐澤ひでと記載されている。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1918年(大正7)11月の読売新聞に掲載された春草会の作品。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、桜井八重子歌集『夢に咲く華』に寄せた竹久夢二の挿画「EX-LIBRIS」。ラテン語で蔵書票(ブックプレート)のこと。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1919年(大正8)に開かれた短歌会「第3回春草会」。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-18.html" target="_blank" rel="noopener">窪田空穂</a>や岡本かの子、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-09-04.html" target="_blank" rel="noopener">生田花世</a>が見えるが右端でカッコよくポーズをとっているのが竹久夢二。ハレーション気味で、桜井八重子がわからない。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1916年(大正5)に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-01-10.html" target="_blank" rel="noopener">日本橋白木屋</a>でショッピングを楽しむ桜井八重子(左端)と親族とみられる一行。<span style="color: #3366ff;">中上</span>は、1918年(大正7)に演芸画報社が桜井八重子へ送付したアンケートの回答。<span style="color: #3366ff;">中下</span>は、1917年(大正6)に出版された「文章倶楽部」1月号(新潮社)の広告。春草会の同人だった岡本かの子と短歌作品を寄せている。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1917年(大正6)に出版された「日本評論」8月号(一元社)の広告。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-12-25.html" target="_blank" rel="noopener">尾崎翠</a>(当時は尾崎みどり子)の『思郷』とともに随筆『夏愁』を寄稿している。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>が、めずらしく親族以外の人物をモチーフにしたタブロー。1920～23年(大正9～12)ごろに、光徳寺の古くからの檀家で、東京へ転居した大谷家に下宿していた佐伯が同家の人々を描いたもので(おそらく1920年制作が有力だろうか)、『大谷安兵衛像』(左)と『大谷さく像』(右)。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE5A4A7E8B0B7E5AE89E585B5E8A19BE5838FE3808D1920-23.jpg" alt="佐伯祐三「大谷安兵衛像」1920-23.jpg" width="290" height="363" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE5A4A7E8B0B7E38195E3818FE5838FE3808D.jpg" alt="佐伯祐三「大谷さく像」.jpg" width="270" height="363" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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<title>東京美術学校で短歌を詠む佐伯祐三。</title>
<description>　佐伯祐三の一般的な年譜には、どこにも書かれていないが、彼は東京美術学校で1920年(大正9)の冬から春ごろにかけ短歌部に入部していた。短歌部には、同級生だった山田新一も所属しており、どちらかが誘って入部したのかもしれない。山田のほうが、佐伯よりも長く「校友会月報」に作品を寄せているので、誘ったのは山田新一だろうか。　東京美術学校に創設された短歌部について、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載の、和田茂生(西洋画科)が書いた..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-06T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE5B886E888B9E3808D1920E9A083.jpg" alt="佐伯祐三「帆船」1920頃.jpg" width="600" height="429" border="0" /></div><div>　<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/511505604.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐三</a>の一般的な年譜には、どこにも書かれていないが、彼は東京美術学校で1920年(大正9)の冬から春ごろにかけ短歌部に入部していた。短歌部には、同級生だった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515624903.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>も所属しており、どちらかが誘って入部したのかもしれない。山田のほうが、佐伯よりも長く「校友会月報」に作品を寄せているので、誘ったのは<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-10-11.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>だろうか。<br />　東京美術学校に創設された短歌部について、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載の、和田茂生(西洋画科)が書いた文章から引用してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　(前略) 短歌部は文芸部に付属した短歌練磨の機関とします。そして月々会合を催して、会員の交誼を厚くし且つ意見を交換して斯道の向上を計つてゆきたいと思つてゐます。／何分創設間もない事ですから今の所会員も少なく、此際多数の入会者を希望して居ります。有志の方は私又は他の文芸部委員に迄御申込下さい。尚会への希望或は有益なる事柄は御好意に私に御洩し願たいと望んで居ります。(和田茂生)<br />　◎短歌会開催の時日場所等は生徒控所に適時掲示しますから其節は奮つて御来会下さい。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　この文章から、美校の短歌部は同年の初めごろより、文芸部から独立して創設されたことがわかる。上記の文章を書いている和田茂生が責任者だったようだが、大分出身の彼は美校を卒業すると、大阪で画業をはじめ装丁、漫画、グラフィックデザインなどさまざまな仕事をしている。短歌部が創設されるのとほぼ同時に、佐伯と山田は入部しているのだろう。<br />　佐伯祐三と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-16.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>が、東京美術学校でできたばかりの短歌部に所属していたのを知ったのは、つい最近のことだ。わたしがたまたま東京藝術大学が出版していた、芸術研究振興財団・編『東京藝術大学百年史.／東京美術学校篇』第3巻を読んでいたとき、佐伯が『死の國』『行く年』『冬のある曇れる日』の3篇を、短歌部に寄稿していることがわかった。同書によれば、短歌部は田辺孝次と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520287578.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>が主催する美術史研究会の、文芸部茶話会の席で同部の創設が決まり、短歌部委員(部長)に和田茂生が選ばれたのだという。さっそく、東京藝大の美術部卒の友人に無理をいって、佐伯が投稿した校友会月報を探していただいたところ、マイクロフィルムに記録された「東京美術学校校友会月報」第19巻第1号(1920年4月号)であることがわかった。<br />　佐伯祐三の短歌3篇は、それぞれ連載形式で月報に寄稿されているのではなく、「東京美術学校校友会月報」4月号のみに集中して、3篇7首が収録されていることもわかった。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-01-22.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>の作品は、その後も連続して月報に掲載されているが、佐伯祐三はこの月の号のみ掲載で、あとの月報には作品が見られない。おそらく、テキストでの内面表現が性にあわないと感じて早々にやめてしまったか、急に創作熱が冷めて飽きちゃったのではないか。<br />　文芸部では、ほかにも新たなサークルを次々に創設しており、音楽を鑑賞するレコードコンサートを開催したのをきっかけに蓄音器部が創設されている。蓄音器部には、音楽(クラシック)愛好家たちが集まり、美校の部活動ではかなりの人気を博したようだ。佐伯が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-04-03.html" target="_blank" rel="noopener">ヴァイオリン</a>に傾倒したのも、この文芸部の一連の活動に刺激されきっかけになった可能性がある。<br />　もうひとつ、文芸部の顧問的な位置にいた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-07.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>と佐伯がわりと親しかったのは、単純に師弟関係のみで懇意だったわけでなく、学内の短歌部(文芸部)などのサークル活動を通じて、お互いに気心が知れ親しくなったのではないかと想定できる。佐伯祐三が下落合に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-11.html" target="_blank" rel="noopener">アトリエ建設</a>を決めたのも、周辺の環境や立地も含め、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-04-14.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助</a>の助言があったのではないか。下落合630番地の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">森田亀之助邸</a>と同666番地の佐伯アトリエは、わずか120mほどしか離れていない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E887AAE794BBE5838F1919E9A083E382B3E383B3E38386.jpg" alt="佐伯祐三自画像1919頃コンテ.jpg" width="520" height="826" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A1E6A0A1E58F8BE4BC9AE69C88E5A0B1E7B78FE79BAEE98CB2.jpg" alt="東京美術学校校友会月報総目録.jpg" width="520" height="332" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE887AAE794BBE5838FE3808D1919E9A083E3839AE383B3.jpg" alt="佐伯祐三「自画像」1919頃ペン.jpg" width="520" height="722" border="0" /></div><div>　では、1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」4月号に収録された、佐伯祐三の短歌3篇をご紹介しよう。ちなみに、歌作は前年1919年(大正8)の暮れから新年にかけてだと思われる。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">『死の國』</span><br />　◇彼女(か)の母は生くる我が兒に説く如く 泣きふためきてあり死にし子の前<br />　◇明るきや暗きを知らで死に行きし はかなき運命(さだめ)を我はいとしむ<br />　◇佛前に並べる霊(みたま)よ安かれと 願ふ心のあつくも冷し<br /><span style="color: #333399;">『行く年』</span><br />　◇夢と思へば夢にともあれど過ぎし年 あまりに心を使ひてありき<br />　◇今日この頃すぎしこの年かへり見れば 我(われ)我が身の如見えずもなりぬ<br /><span style="color: #333399;">『冬のある曇れる日』</span><br />　◇ながむればながむる程に芭蕉の葉 恐ろしきまでに冬枯れてけり<br />　◇めいる如と降るや降らずの寒空を 背にして立てり淋しき冬枯れ<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　詠まれた季節が冬のせいか、いずれも暗い情景が目に浮かぶ歌ばかりだが、画家的な観点から視覚的な作品ばかりかというとそうでもない。画面らしい光景が鮮明に浮かぶのは、『冬のある曇れる日』ぐらいだろうか。また、『死の國』などは、のちの佐伯祐三やその家族がたどった物語の結末を知っている今日から見れば、意味深長に感じてしまう歌作なのはしかたないだろう。<br />　1919年(大正8)は、佐伯が東京美術学校2年生(21歳)だった年で、『死の國』は冬休みに大阪の実家・光徳寺へもどった際に、子どもの葬儀でも目撃して詠んだ作品だろうか。この年、光徳寺の古くからの檀家で、東京の本郷に住んでいた大谷菊枝から、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-01.html" target="_blank" rel="noopener">尾張町</a>(現・銀座4丁目)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-04-25.html" target="_blank" rel="noopener">池田象牙店</a>の娘・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-01.html" target="_blank" rel="noopener">池田米子</a>を紹介されている。佐伯が山田新一らへ、盛んに「ヴィーナスはん」と興奮して話していた時期と重なる。そして、『行く年』の「夢にともあれど」や「あまりに心を使ひて」、「我が身の如見えずもなりぬ」などは、その湧きあがる思いや激しい感情を顧みての作歌だろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69DB1E4BAACE7BE8EE8A193E5ADA6E6A0A1E6A0A1E58F8BE4BC9AE69C88E5A0B119200419E5B7BB1E58FB7.jpg" alt="東京美術学校校友会月報19200419巻1号.jpg" width="520" height="492" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE6A4BFE3808D1920E9A083.jpg" alt="佐伯祐三「椿」1920頃.jpg" width="520" height="599" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE688B8E5B1B1E383B6E58E9FE9A2A8E699AFE3808D1920.jpg" alt="佐伯祐三「戸山ヶ原風景」1920.jpg" width="520" height="425" border="0" /></div><div>　これら陰鬱な歌が詠まれた翌1921年(大正10)、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-01.html" target="_blank" rel="noopener">戸山ヶ原</a>近くの<a href="https://monotagahi.seesaa.net/article/2011-11-12.html" target="_blank" rel="noopener">上戸塚</a>(現・高田馬場4丁目)から本郷の弥生町へと転居するが、3月には従兄の浅見憲雄が心臓病で急死し、7月には弟の佐伯祐明が結核性肺炎で入院(翌年死去)、父親の佐伯祐哲が9月に死去、同じく9月には檀家で友人の大谷菊枝(24歳)が自裁と、新年度の校友月報に掲載された歌が、まるで予知していたかのような暗い1年となった。ただし、父親に許され11月に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/509355016.html" target="_blank" rel="noopener">池田米子</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-01-25.html" target="_blank" rel="noopener">築地本願寺</a>で結婚し、アトリエが竣工するまでの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">仮住まい</a>として下落合に家を借りたのが、唯一の明るいエピソードだったのではないか。周囲に、「ボク、三十三になったら死ぬねん」といいはじめたのも同年のことだ。<br />　同号の短歌部には、山田新一の以下の作品も1首だけだが掲載されている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">『かじめとり』</span><br />　◇その磯にかじめとりつゝ人間の 貧しさ知らずすぐすよろしき<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　どこか、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">前田夕暮</a>が詠じた作品のようにも感じるが、浜辺で写生をしているとき、波に打ちあげられたカジメを採る漁師の娘でも見かけたのだろうか。なんの問題も抱えず、深い悩みもなく素朴に暮らしている人間はとても美しい……というような意味になりそうだ。翌1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号にも、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-09-20.html" target="_blank" rel="noopener">山田新一</a>は『氷雨』という題で2首の短歌を寄せている。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br /><span style="color: #333399;">『氷雨』</span><br />　◇口笛は人気(ひとけ)絶えたる砂浜の 潮(うしお)の音に吸はれゆくかな<br />　◇思出は磯打つ浪の音ににて 寂しき胸に絶えて潮(うしお)す<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　今度は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-01-19.html" target="_blank" rel="noopener">石川啄木</a>風の作品だが、かなりロマンティストな彼にもなにか深い悲しい出来事があったのだろうか。浜辺で「潮す」＝泣き暮れる様子は、少くとも尋常でない。あるいは、青春の想像力をふくらませた、悲劇の主人公になった疑似体験でも詠んでいるのだろうか。<br />　このあと、山田新一は「校友会月報」6月号に『たましひの墓』のタイトルで3首、5月に開かれた第1回短歌会の席上で1首(同6月号掲載)、6月に開かれた第2回短歌会の席上で1首(同7月号掲載)、同8月号には『ほのお』の題で4首、また10月に開かれた第3回短歌会の席上で1首(同11月号掲載)と、その後もたびたび開かれる短歌会には出席し、短歌部への作品投稿も長くつづけている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E593B2E891ACE58480192009.jpg" alt="佐伯祐哲葬儀192009.jpg" width="520" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E7B590E5A99AE5BC8F192011.jpg" alt="佐伯祐三結婚式192011.jpg" width="520" height="417" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4BD90E4BCAFE7A590E4B889E3808CE99D99E789A9E3828AE38293E38194E3808D1921E9A083.jpg" alt="佐伯祐三「静物りんご」1921頃.jpg" width="520" height="722" border="0" /></div><div>　山田新一の作品のほうが、直截的な佐伯祐三よりも表現にふくらみや余韻があり、こなれていて上手なのが目立つ。山田は、現代短歌(当時)について勉強したのだろう。一方の佐伯は、刹那的な激情で作歌を試みたけれど、テキストでは内面や感情をうまく表現しきれないとあきらめたか、そもそも短歌には興味がなく飽きてしまったのだろうか。また、彼の周囲の出来事を追いかければ、激動の時期ともいえる1920年(大正9)で、歌詠みどころではなかったのかもしれない。山田新一の作品群や、文芸部で大人気だったレコードコンサートについて、それはまた、別の物語……。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：1920年(大正9)ごろ、東京美術学校2～3年生のときに制作された佐伯祐三『帆船』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1919年(大正8)ごろにコンテで描かれた佐伯祐三『自画像』。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、「東京美術学校校友会月報総目録」(東京藝術大学)に掲載された短歌部の佐伯祐三と山田新一。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1919年(大正8)ごろにペンで描かれた佐伯祐三『自画像』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1920年(大正9)に刊行された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載された佐伯祐三と山田新一の短歌作品。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1920年(大正9)ごろに制作された佐伯祐三『椿』。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1920年(大正9)に制作された同『戸山ヶ原風景』。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1920年(大正9)に行われた父・佐伯祐哲の葬儀における佐伯祐三(左からふたりめ)で、右端には法衣姿の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-12-11.html" target="_blank" rel="noopener">佐伯祐正</a>が写っている。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、同年11月に築地本願寺で行われた佐伯祐三と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-04-01.html" target="_blank" rel="noopener">池田米子</a>の結婚式記念写真。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1921年(大正10)ごろに制作された佐伯祐三『静物りんご』。</div></div><a name="more"></a>

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<item rdf:about="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520819261.html">
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<title>1960年代の下落合を映す家族の肖像。(下)</title>
<description>　前回の記事につづき、冒頭の写真①は、どこかのデパートか遊園地のパビリオンへ遊びにいったときの記念写真だろう。1960年代後半に子ども時代を送った方なら、背後にいる怪獣が『ウルトラマン』に登場した、ウラン怪獣「ガボラ」であることはすぐにおわかりのはずだ。円谷プロダクションと連携した、ウルトラマンイベントにおける記念の1枚だろう。　当時は怪獣ブームの真っただ中にあり、『ウルトラQ』からはじまる円谷プロが創作した怪獣や宇宙人などを、ひと目見るだけで名前や出現の経緯がいえるほどの“..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-07-03T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A01966E5A48FE382ACE3839CE383A9.jpg" alt="①1966夏ガボラ.jpg" width="600" height="402" border="0" /></div><div>　<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520800871.html" target="_blank" rel="noopener">前回の記事</a>につづき、冒頭の<span style="color: #ff0000;">写真①</span>は、どこかのデパートか遊園地のパビリオンへ遊びにいったときの記念写真だろう。1960年代後半に子ども時代を送った方なら、背後にいる怪獣が『ウルトラマン』に登場した、ウラン怪獣「ガボラ」であることはすぐにおわかりのはずだ。円谷プロダクションと連携した、ウルトラマンイベントにおける記念の1枚だろう。<br />　当時は怪獣ブームの真っただ中にあり、『ウルトラQ』からはじまる円谷プロが創作した怪獣や宇宙人などを、ひと目見るだけで名前や出現の経緯がいえるほどの“怪獣博士”が、少年の間で全国的に出現していた。いつか、こちらでも母親が有楽町で<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-02.html" target="_blank" rel="noopener">ひどいめ</a>に遭った円谷英二の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520360743.html" target="_blank" rel="noopener">ゴジラ</a>をご紹介しているけれど、近くの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-01-14.html" target="_blank" rel="noopener">学習院大学</a>を襲った『ウルトラセブン』の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-09-09.html" target="_blank" rel="noopener">プロテ星人</a>もそうだが、TVで放映されたウルトラシリーズは、映画の怪獣ブームよりもはるかに広く深く、子どもたちの間に浸透していった。そんなブームを反映してか、あちこちのデパートや遊園地では怪獣イベントが開かれ、野本家でもそんな催事のひとつに出かけたものだろう。<br />　また、怪獣によく似ている(いい方が逆立ちしている)恐竜ブームも、怪獣ブームとシンクロするように起きていた。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-03-04.html" target="_blank" rel="noopener">東京国立科学博物館</a>では、1964年(昭和39)に日本で初めてジュラ紀の肉食恐竜アロサウルスの全身骨格が公開され、わたしも真っ黒な恐竜標本を見学しに同年、科学博物館を訪れている。当時のアロサウルスは、少し前までタルボサウルスとマイアサウラの全身骨格標本が置かれていた、中央ホールに展示されていた。初めてアロサウルスの標本を見たとき、「ゴジラより小っちゃいじゃん」と感じたので、わたしもアタマの中が怪獣漬けだったのだろう。<br />　恐竜イベントでよく出かけたのは、毎年開かれる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-05-10.html" target="_blank" rel="noopener">玉川園</a>(二子玉川)の恐竜展だった。こちらは、博物館ではないので全身骨格などの展示はないが、復元された数多くの恐竜たちを見ることができた。ただ、現在のように恐竜学が未発達な時代なので、肉食恐竜はみんなゴジラのように、直立で歩いて獲物を狙っていたし、竜脚下目のディプロドクスやアパトサウルス(当時はブロントサウルス)は首を垂直に立てて歩行していた。ボートに乗って恐竜を見学するというアトラクションも記憶にあるが、これは玉川園ではなく横浜ドリームランドだったろうか。夏休みの恐竜展も楽しみだったが、もっと楽しみだったのは、もちろんお化け屋敷やスリラーショーだった。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真①</span>の、キラキラしている少年たち(手前が<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520666422.html" target="_blank" rel="noopener">野本直揮様</a>)の目を見れば、当時の怪獣ブームを懐かしさとともに思いだされる、元・少年の方々も多いのではないだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A11963E6B0B7E5B79DE6988EE7A59E.jpg" alt="②1963氷川明神.jpg" width="520" height="357" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E6B0B7E5B79DE6988EE7A59EE69DBEE5BDB1E981931963.jpg" alt="氷川明神松影道1963.jpg" width="520" height="444" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真②</span>は、1963年(昭和38)9月に撮影された、下落合氷川明神社で遊ぶ子どもたちだ。場所は、その昔に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-15.html" target="_blank" rel="noopener">「松影道」</a>と名づけられた、同社の西端を南北に通る細道で、現在は子供たちが遊ぶ右手に舞殿(神楽殿)が建てられている。手前の石垣は、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通り(新目白通り)の工事</a>の際に、通りに面した石垣も含めてリニューアルされ、現在は大粒の丸い河原石を積みあげる築垣に変わっている。正面には、やや左手(西側)にズレて<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-05-08.html" target="_blank" rel="noopener">七曲坂</a>が通っており、左手には地元の建設会社で落合地域の住宅やマンションを建てていた河野建設(少し前まで営業)があり、丁字路の右手に当時は氷川社の神輿蔵(わたしは記憶にない)があったようだ。写真をよく観察すると、境内のあちこちに年齢がパラパラな近所の子どもたちが仲よく遊んでおり、当時はそれがあたりまえの時代だった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A21965E890BDE59088E585ACE59C92E5889DE5A48F1.jpg" alt="③1965落合公園初夏1.jpg" width="520" height="464" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A31965E890BDE59088E585ACE59C92E5889DE5A48F2.jpg" alt="④1965落合公園初夏2.jpg" width="520" height="368" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真③④⑤⑥</span>は、1964年(昭和39)から上落合1丁目100番地で稼働をしはじめた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-10.html" target="_blank" rel="noopener">落合下水処理場</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-13.html" target="_blank" rel="noopener">落合水再生センター</a>)に、できたばかりの「落合中央公園」で遊ぶ野本一家を記録したものだ。1965年(昭和40)6月の初夏に撮影されたもので、芝庭や花壇、テニスコートは完成していたようだが、野球場は1971年(昭和46)の時点でもまだ工事中だった。<br />　余談だが、当時の下落合東部では、落合中央公園を略して「落合公園」と呼ぶことが一般化していたようだ。でも落合公園は、1960年(昭和35)に下落合5丁目802番地(現・中井1丁目)にオープンしており、東部の略称「落合公園」とで多少混乱していたらしい。現在では、落合中央公園は落合を略して、単に「中央公園」と呼ばれることが多くなった。また、落合下水処理場の北側、上落合1丁目122番地で操業していた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-10-30.html" target="_blank" rel="noopener">東京護謨工場</a>がなくなり、跡地には東京都下水道局が買収して公園化した「せせらぎの里公苑」ができているので、上落合の東部(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-09-15.html" target="_blank" rel="noopener">前田地区</a>)は戦前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-02-18.html" target="_blank" rel="noopener">工場地帯</a>から一変し、公園やスポーツ施設の多いエリアとなっている。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真③</span>は、ドッジボールで遊ぶ野本家のお父様だが、同公園から南東を向いて撮影された背景には、戸塚町4丁目から3丁目にかけて(現・高田馬場3丁目)の丘陵に建てられた住宅群が写っている。1980年代以降は高いビルやマンションが急増し、写真にとらえられた戸塚地域に限らず、上落合地域でも丘陵が目立たなくなっているが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-01-13.html" target="_blank" rel="noopener">旧・神田上水</a>(1966年より<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-29.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>)沿いの戸塚町側に形成された段丘地形を、ハッキリとらえためずらしい写真だ。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真④</span>は、家族の背後に東京都下水道局の事務所ビルが写っており、同ビルはこれまでリフォームを繰り返し現在でも使用されている。ただし、手前の芝庭や花壇は、いまでは「ちびっこ広場」(児童遊園)や「犬の広場」(ドッグラン公園)へと衣替えしている。また、事務所ビルの左手、遠景に見えているグリーンベルトが、下落合3丁目(現・中落合)あたりの目白崖線だろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A4196506E890BDE59088E585ACE59C921.jpg" alt="⑤196506落合公園1.jpg" width="520" height="364" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A5196506E890BDE59088E585ACE59C922.jpg" alt="⑥196506落合公園2.jpg" width="520" height="356" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E4B8ADE5A4AEE585ACE59C921966.jpg" alt="落合中央公園1966.jpg" width="520" height="465" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑤</span>は、同公園から南東側を向いて撮影されたもので、旧・神田上水が流れる対岸には、戸塚地域の丘陵一帯がとらえられている。また、<span style="color: #ff0000;">写真⑥</span>は公園からほぼ東を向いて撮影されたもので、旧・神田上水の対岸には集合住宅が見えている。これらは、久保前橋を戸塚町側へわたった左手(北側)、茶道会館のさらに北側に建っていた戸塚町4丁目505番地の都営アパート群だろう。現在は、新宿区営の集合住宅で高田馬場3丁目の「高田馬場コーポラス」になっている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A619660101E8BEB0E5B7B3E6A98B1.jpg" alt="⑦19660101辰巳橋1.jpg" width="520" height="554" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A719660101E8BEB0E5B7B3E6A98B2.jpg" alt="⑧19660101辰巳橋2.jpg" width="520" height="602" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑦</span>は、辰巳橋を背景に東南東を向いて、1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。下を流れるのは、神田川と合流する直前の妙正寺川だ。辰巳橋の向こう側には、妙正寺川をわたる西武新宿線の鉄橋があるはずだが辰巳橋に隠れ、かろうじて鉄橋の橋脚のみが川の中に見えている。橋の向こう側には、戦後の工場街が拡がるが、左手(北側)が富士化成KK工場であり、中央に見える煙突の右手(南側)が旭洋印刷落合工場だろう。遠くにビル状の建物が見えているが、大世学院政治経済科および富士女子短期大学の校舎だとみられる。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑧</span>も、1966年(昭和41)1月1日に妙正寺川の辰巳橋を写したものだが、ほぼ真東を向いてシャッターが切られている。この位置までくると、西武線の鉄橋の橋脚が、辰巳橋の下にハッキリと確認できる。野本家のお父様が歩く左手のコンクリート塀は、(株)正人刃物製作所の大きな建屋であり、新たに正面左手に見えている凸型のビル状の建屋は、屋上に干し場も備えたツバメドライクリーニング工場の一部ではないだろうか。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A819660101E4B889E6A5BDE3839BE38386E383AB.jpg" alt="⑨19660101三楽ホテル.jpg" width="520" height="774" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑨</span>は、下落合駅前の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-10-12.html" target="_blank" rel="noopener">西ノ橋</a>の北詰めで、同じく1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。どうやら、正月の空いている街中をお父様は散策されていたようだ。背景に見えているのは、以前の記事にも登場した「三楽ホテル」のファサードだ。独特な唐破風の屋根と赤いベンガラの手すりに、ホテルという名称のアンバランスさがなんともいえない味わいを醸しだしている。正月のせいか、軒下には紅白の幕が張りめぐらされているようだ。<br />　あとで知ったことだが、三楽ホテルは東京における労働組合の運動史には頻繁に登場してくる場所で、同ホテルで組合結成の決起集会が開かれたり、活動方針が話し合われる会合がもたれたり、各地の組合の代表や幹部を集めて協議会を開いたりと、労働運動では有名なホテルだったらしい。山手線からひとつめの駅で、しかも駅から徒歩1分以内という地の利がよかったせいだろう。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A919671012E887AAE5AE85E5BBBAE8A8AD.jpg" alt="⑩19671012自宅建設.jpg" width="520" height="760" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑩</span>は、十三間通りの工事計画が進捗して、立ち退く日も迫りつつあったため、野本家では下落合に新たな地所を手に入れ、自宅兼店舗を新築している風景だ。1967年(昭和42)10月12日の撮影で、背後は緑が濃い武蔵野の雑木林の名残りが見られる環境だ。現在でも、北側の風情はなんとか失われずかろうじて残っている。わたしは背後のアパートに、人がいるのを見たことがない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AA19690304E5A4A7E99BAA1.jpg" alt="⑪19690304大雪1.jpg" width="520" height="370" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AB19690304E5A4A7E99BAA2.jpg" alt="⑫19690304大雪2.jpg" width="520" height="388" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E58D81E4B889E99693E9809AE3828AE5B7A5E4BA8B1971.jpg" alt="十三間通り工事1971.jpg" width="520" height="261" border="0" /></div><div>　次の<span style="color: #ff0000;">写真⑪⑫</span>は、わたしにも記憶がある。1969年(昭和44)3月4日、東京では戦後初めて気象庁から大雪警報が発令された日だ。都心(霞が関周辺)の積雪は19cmだったが、下落合では40cm近くまで積もったという。コンクリートやアスファルトで固められ交通量の多い都心と、土面が多く残る下落合との気温差が、当時はそれだけあったのだろう。わたしは、いまだ<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">平塚</a>にいたのだが、にわかの大雪にビックリして鮮明な記憶として残っている。相模湾の海街では、東京や横浜が降雪でも藤沢から小田原にかけては雨の場合が多い。だが、このときの降雪は半端ではなく、庭に設置していた野鳥の餌付け台の上には、20cm以上の雪が積もっていた。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑪</span>は、同日に薬王院の門前商店街があったあたり、十三間通り(新目白通り)の工事で家屋がすべて解体された跡の空き地に立つ、野本兄弟を写したもの。背後にある小山は、工事用の土砂を堆積したものだろう。兄弟の頭上背後に見えている大きなビルは、アリミノ化学の本社ビル、左手に見えているビルは位置からすると昭光精機の本社あたりで、その背後が移転して間もない<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2007-02-17.html" target="_blank" rel="noopener">神田精養軒</a>の本社ビル、そして遠景にうっすらと見えている鉄骨と下部が養生に覆われているように見える建築中のビルが、1964年(昭和39)ごろに移転した<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520047259.html" target="_blank" rel="noopener">大黒葡萄酒(三楽オーシャン)</a>の跡地に建てられはじめた、高層分譲アパートの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-05-24.html" target="_blank" rel="noopener">高田馬場住宅</a>(1971年ごろ入居開始)だろうか。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑫</span>は、同じ位置から走る西武新宿線をとらえたもので、大雪の当日は東京じゅうの電車のダイヤが乱れ、間引き運転がされていた。企業も早めの帰宅をうながして、同日のラッシュアワーは午後3時ごろにピークを迎えたらしい。右端に見えているビルは、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-08-18.html" target="_blank" rel="noopener">富士女子短期大学</a>(現・東京富士大学)の校舎の一部だろうか。また、中央に見えている煙突は岡村製綿工場のあたりだ。</div><div>　最後に、わたしがのけぞってしまったのは、野本アルバムに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-21.html" target="_blank" rel="noopener">大磯海岸</a>での海水浴の写真が数多く貼られていたことだ。国の重要無形民俗文化財で日本では最大級の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-15.html" target="_blank" rel="noopener">どんど焼き</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-09-26.html" target="_blank" rel="noopener">せいとばれえ</a>＝左義長)が行われる、北浜海岸で撮影されたものだ。まったく同時期に、夏休みの北浜海岸ではよく泳いでいたので、わたしがどこかに写っていないかどうか、アルバムを真剣に探してしまった。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AC19630806E5A4A7E7A3AF1.jpg" alt="⑬19630806大磯1.jpg" width="520" height="340" border="0" /></div><div>　時代が前後するが、1963年(昭和38)8月6日に撮影された<span style="color: #ff0000;">写真⑬</span>は、渚に近い兜岩(かぶといわ)など、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2011-04-29.html" target="_blank" rel="noopener">関東大震災</a>で海底からより高く<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2006-10-16.html" target="_blank" rel="noopener">浮上してきた岩礁</a>がとらえられている。わたしの子ども時代、この兜岩まで泳いでいき、そこから海面へ逆さまにダイビングするのが「ちゃんと泳げる男子」の証明だった。この砂浜の写真は、早稲田の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-06-25.html" target="_blank" rel="noopener">松本順</a>が1882年(明治15)10月に日本初の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/518674667.html" target="_blank" rel="noopener">海水浴場</a>に指定してから、今日にいたるまでほとんど変わらない情景だ。<br />　サーファーたちは、もちろん当時もいたのだけれど、波乗り兄ちゃん姉ちゃんたちは、北浜海岸のもう少し東のオオイソポイントか、花水川の河口域であるハナミズポイント、あるいは大磯港のある<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-10-24.html" target="_blank" rel="noopener">照ヶ崎</a>から西につづく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-06-28.html" target="_blank" rel="noopener">小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)</a>の西端、血洗川の河口域であるチアライポイントあたりに集まっていて、海水浴客とはきれいに棲み分けていた。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AD19630806E5A4A7E7A3AF2.jpg" alt="⑭19630806大磯2.jpg" width="520" height="793" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑭</span>も同日の撮影だが、工事中でいまだ未開通のままの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-11-21.html" target="_blank" rel="noopener">西湘バイパス</a>が背景にとらえられている。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">ユーホー道路</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2021-09-12.html" target="_blank" rel="noopener">湘南遊歩道路</a>＝国道134号線)の交通量が急増し、大磯から西へ敷設された西湘バイパスが竣工すると、浜辺に近いエリアには魚群が寄りつかなくなり、湘南海岸の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">地曳き網</a>はふるわなくなって、観光用の地曳きを除き急速に衰退していった。<br />　現在、野本夫妻が座っている左手、大磯港の手前には津波の避難タワーが建設されている。ただし、大磯はすぐ北側に山を背負っているので、津波が到達するまで10～15分ほどの余裕があれば、海岸線から十分に山側へ避難することができるだろう。高い丘陵がなく避難タワーが随所に必要なのは、むしろ平塚から藤沢にかけての海岸線だ。1498年(明応7)に起きた、鎌倉の大仏殿を破壊しさらっていったといわれる<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520106972.html" target="_blank" rel="noopener">明応大地震</a>クラスのプレート型巨大地震(津波の高さは30mと推定されている)が起きたら、湘南海岸の全域で大きな被害が生じそうなことはいうまでもない。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;了&gt;</span></div><div><span style="color: #3366ff;">◆写真</span>：文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。</div><div><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span></div><div>　1966年(昭和41)には、西落合の目白通りから<a href="https://chinchikopapalog.seesaa.net/article/mejiro-bunkamura.html" target="_blank" rel="noopener">目白文化村</a>へ十三間通りが迫っていた。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-04-19.html" target="_blank" rel="noopener">安倍能成</a>邸が、第二文化村と東側の十三間通り筋とで、2軒に分かれているのが記録されためずらしい地図。下の写真は2023年6月の梅雨どきに津波避難タワーから撮影した、引き潮でかなり露出した北浜海岸の兜岩と遠景は潮流観測所に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-08-22.html" target="_blank" rel="noopener">烏帽子岩</a>と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-10-28.html" target="_blank" rel="noopener">江の島</a>、および防音壁が設置された<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-10-20.html" target="_blank" rel="noopener">西湘バイパス</a>。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E79BAEE799BDE69687E58C96E69D911966.jpg" alt="目白文化村1966.jpg" width="600" height="644" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E5859CE5B2A92023.jpg" alt="兜岩2023.jpg" width="600" height="410" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E8A5BFE6B998E38390E382A4E38391E382B92023.jpg" alt="西湘バイパス2023.jpg" width="600" height="405" border="0" /></div><br /></div><a name="more"></a>

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<item rdf:about="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520800871.html">
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<title>1960年代の下落合を映す家族の肖像。(上)</title>
<description>　前回の野本直揮様よりお借りした野本アルバムの記事では、おもに1960年代前半に撮影された写真がメインだった。つづくアルバムでは、1960年代後半の情景が多い。したがって、写真にとらえられた下落合の風景も、それにしたがって徐々に変わりはじめている。　いちばん異なっているのは、風景の中にビルあるいはマンションなど高い建築物が、ちらほら目立ちはじめていることだ。また、人々の服装がわたしにも既視感のある子ども時代の装いに変わり、上落合には1964年(昭和39)に東京都の落合下水処理..</description>
<dc:subject>気になる下落合</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-06-30T00:00:00+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A019650102E6ADA3E69C881.jpg" alt="①19650102正月1.jpg" width="600" height="413" border="0" /></div><div>　前回の野本直揮様よりお借りした<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520727292.html" target="_blank" rel="noopener">野本アルバム</a>の記事では、おもに1960年代前半に撮影された写真がメインだった。つづくアルバムでは、1960年代後半の情景が多い。したがって、写真にとらえられた下落合の風景も、それにしたがって徐々に変わりはじめている。<br />　いちばん異なっているのは、風景の中にビルあるいはマンションなど高い建築物が、ちらほら目立ちはじめていることだ。また、人々の服装がわたしにも既視感のある子ども時代の装いに変わり、上落合には1964年(昭和39)に東京都の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2022-04-13.html" target="_blank" rel="noopener">落合下水処理場</a>(現・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-27.html" target="_blank" rel="noopener">落合水再生センター</a>)が竣工して、広々とした落合中央公園やテニスコートなどが次々にオープンしている様子がわかる。だが、1970年(昭和45)の時点では野球場がまだ工事中だった。<br />　おそらく、当時の下水処理場と現在の水再生センターでは、下水・汚水の処理法がずいぶん異なっていると思われるが、当時は河川の水質汚染・汚濁がひどかった「公害」がピークの時代だった。今日のように、同処理場が水再生センターと名称を変え、いまや<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-04-26.html" target="_blank" rel="noopener">アユが棲息</a>して毎年子どもたちの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-08-15.html" target="_blank" rel="noopener">遊泳イベント</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-02-27.html" target="_blank" rel="noopener">神高橋</a>の親水テラス)も可能になった<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-02-29.html" target="_blank" rel="noopener">神田川</a>をはじめ、水質が劇的に改善しつづけている渋谷川や古川、目黒川の主要な“源流”のひとつになるなど誰も想像できなかった時代だ。東京都の発表(2026年5月)によれば、多摩川の下流域だけで65万尾のアユの遡上が推定されている。ひいては東京湾の水質も改善しつづけ、現在では江戸期からつづく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-02-23.html" target="_blank" rel="noopener">海苔の養殖</a>が再開されるなど、当時の人々が聞いたら「ご冗談でしょ」としか思えないだろう。<br />　余談だが、新宿区にはゴミ焼却場が存在しない。新宿区で出るゴミは、豊島区をはじめ他の自治体が引き受けて焼却している。その理由は、東京都の下水処理場(水再生センター)が新宿区の落合地域に建設されたからだ。新宿区をはじめ中野区や世田谷区、渋谷区、杉並区、豊島区、練馬区から排出される下水や汚水を、落合水再生センターが一括で浄化している。したがって、東京西部の下水処理は新宿区が、その代わり新宿区のゴミは各自治体が手分けして処理する仕組みが1960年代に確立されたものだろう。このような“持ちつ持たれつ”の関係は、荒川区には水再生センターは存在するが、ゴミ焼却場が存在しないのと同じ理由からだ。<br />　野本アルバムには、一家が各地へ旅行する姿も記録されている。1960年代の半ばから、新幹線の開通や「マイ・カー」(自家用車のこと)の普及とともに、空前の全国的な「レジャー・ブーム」が到来している。高度経済成長のはじまりとともに、休日には遊園地や観光地が人々でごった返すようになった。また、おカネに余裕のある家庭は、1964年(昭和39)4月より海外への観光旅行が解禁されたので、香港やハワイ、台湾などへ出かける家族も少なくなかった。<br />　さて、冒頭の<span style="color: #ff0000;">写真①</span>から見てみよう。1965年(昭和40)1月2日に、野本糸綿店の店前で撮影された家族の集合写真だ。カラーフィルムが広く普及していった時期だが、当時のフィルムや印画紙はいまだ技術が成熟していなかったせいか、時間が経過すると変色してしまうという課題があった。わが家のアルバムに残る、1960年代のカラー写真も同様で、まるでセピア調のモノクロ写真のように変色したものが少なくない。当時のカラーポジフィルムは、たいして変色していないが、印画紙に焼きつけるネガフィルムは、技術的な課題がまだまだあったのだろう。<br />　写真手前の右側に立つのが、野本直揮様だ。薬王院の門前商店街には注連縄が張りめぐらされ、正月らしい松竹飾りが店舗ごとに見えている。<span style="color: #ff0000;">写真②</span>も、同日のバリエーション写真だ。枝の節痕があちこちに残る、懐かしい木製の電柱が右端に見えており、相変わらず「下落合医院」のブリキ看板が電柱に貼られているのがわかる。商家らしく、上に向けてスクスク伸びる、背の高い竹竿が店前に大きく立てられ(売上増の商売繁盛を祈念するもの)、松は竹の根もとに飾られている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E9878EE69CACE5AEB6E591A8E8BEBAE4BD8FE5AE85E6988EE7B4B0E59BB31960-b339e.jpg" alt="野本家周辺住宅明細図1960.jpg" width="520" height="406" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E59586E5BA97E8A1971966E69C80E5BE8C.jpg" alt="商店街1966最後.jpg" width="520" height="401" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A119650102E6ADA3E69C882.jpg" alt="②19650102正月2.jpg" width="520" height="752" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A21962E5BA97E88897E381A8E3839FE382BCE38383E38388.jpg" alt="③1962店舗とミゼット.jpg" width="520" height="519" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A31964E5A48FE59586E5BA97E8A197.jpg" alt="④1964夏商店街.jpg" width="520" height="786" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A41965E5BA97E5898D.jpg" alt="⑤1965店前.jpg" width="520" height="361" border="0" /></div><div>　時代は前後するが、1962年(昭和37)に野本糸綿店を正面からとらえたのが<span style="color: #ff0000;">写真③</span>だ。空襲をまぬがれているので、戦前に建てられた東京商家の様子がわかる貴重な写真だ。戦前と異なるのは、戦後設置とみられる、店先に日陰をつくるための張りだしテント(オーニング)だろうか。店の左側には、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-05-28.html" target="_blank" rel="noopener">ミゼット</a>(オート三輪)のフロント部分が見えている。ダイハツが発売したミゼットは、国内だけで30万台以上(輸出も含めると50万台以上)も販売された同社の超ヒット車種であり、特に荷物や商品などを手軽に運べることから、全国の店舗に広く普及していった。<br />　そのミゼットの荷台に乗って、得意げな表情をしている子どもたちが<span style="color: #ff0000;">写真④</span>だ。ミゼットは、ちょうど野本糸綿店の向かいにあった船木精米所のもので、残念ながらカメラのピントが子どもたちにあっていない。そのおかげで、背後に写る商店街の様子が克明にとらえられている。右側の「小川硝子店」は、野本糸綿店から西へ4軒めの店舗で、その手前には魚屋の「魚緑」が店開きをしていたはずだ。小川硝子の西隣りは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」(住宅協会)では商店名がない「片桐」邸となっており、細い路地をはさんで「パーマミハル」の看板が出ているのが平岡美容院、そのさらに西隣りが「薬局フタバ」という順に並んでいると思われる。<br />　画面左手(商店街の南側)は、船木精米所の西隣りが「高橋氷店」、その隣りが「ツバメドライクリーニング」工場という順番で並んでいた。いつかの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2020-05-20.html" target="_blank" rel="noopener">記事</a>で、着物の需要が減るにつれ、神田川や妙正寺川沿いに展開していた染物工場が、その設備を応用してクリーニング工場に衣替えするケースをご紹介したが、ツバメドライクリーニングももとは古くからある染物工場のひとつだったのかもしれない。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-10-09.html" target="_blank" rel="noopener">田島橋</a>の北詰めにあった三越染物工場が、戦後は染物工程を残しつつ、半分がクリーニング事業に転換していたのと同じ経緯ではないだろうか。<br />　1965年(昭和40)に撮影された<span style="color: #ff0000;">写真⑤</span>も、店舗の造りがよくわかる1枚だ。店の中にいる野本兄弟の左側に、ちょっとかわいい女の子が座っているが、遊びにきた「久美ちゃん」だそうだ。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A5196604E890BDE59B9BE5B08F1E5B9B4E7949F.jpg" alt="⑥196604落四小1年生.jpg" width="520" height="765" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A6196711E5AEB6E6978FE381AEE88296E5838F.jpg" alt="⑦196711家族の肖像.jpg" width="520" height="738" border="0" /></div><div>　時代は進み、1966年(昭和41)4月に店前で撮影された、野本直揮様(右端)が小学校へ入学するときの記念が<span style="color: #ff0000;">写真⑥</span>。ピッカピカの1年生なのだが、背後の壁に「手をあげて横断歩道を渡ろうよ」のポスターが貼られている。子どもたちの背後に、トラックの接近するのが見えているが、この商店街の通りは十三間通り(新目白通り)が敷設される以前、聖母坂通り(補助45号線)から戸塚(現・高田馬場)や目白方面へと抜けるメインストリート(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-22.html" target="_blank" rel="noopener">新井薬師道</a>の道筋)だった。したがって、時代をへるにしたがってクルマの往来が頻繁になり、先のポスターも貼られたのだろう。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑦</span>は、1967年(昭和42)11月に撮影された家族の肖像で、左側の着物姿のお姉さんは「正子ちゃん」とのことだ。晩秋の穏やかな情景だが、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-09-06.html" target="_blank" rel="noopener">十三間通りの工事</a>が近づき、家からの立ち退きが迫っている時期に撮影されたものだ。野本家では、すでに下落合の近所に別の敷地を入手して、新しい自邸および店舗を建設している最中だった。<br />　東隣りの中華料理店「香蘭」は営業しているようだが、電柱に貼られていた「下落合医院」の看板が外されている。やはり、十三間通りの工事で全敷地がひっかかる同医院は、ちょうどこのころにどこかへ移転したものだろう。奥に写る「香蘭」の、西側の壁面が見えているが、昭和初期に建てられた店舗建築なのでだいぶ傷みがきているのがわかる。戦後20年以上がたち、戦前も含めると30年以上が経過している建物だ。十三間通り(新目白通り)の敷設計画が、商店街では視野に入っていたためリフォームをせず、我慢をして立ち退く日を待ちつづけていたと思われる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A7196303E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B9BCE7A89AE59C92E381B2E381AAE381BEE381A4E3828A.jpg" alt="⑧196303落合第四幼稚園ひなまつり.jpg" width="520" height="350" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A81964E9818BE58B95E4BC9A.jpg" alt="⑨1964運動会.jpg" width="520" height="477" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291A919651001E7A78BE381AEE9818BE58B95E4BC9A1.jpg" alt="⑩19651001秋の運動会1.jpg" width="520" height="679" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AA19651001E7A78BE381AEE9818BE58B95E4BC9A2.jpg" alt="⑪19651001秋の運動会2.jpg" width="520" height="692" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E890BDE59088E7ACACE59B9BE5B08FE5ADA6E6A0A11966.jpg" alt="落合第四小学校1966.jpg" width="520" height="406" border="0" /></div><div>　落合第四幼稚園と、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/510478773.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の写真類も数多く撮られている。<span style="color: #ff0000;">写真⑧</span>は、1963年(昭和38)3月に撮影された、落合第四幼稚園の卒園式をとらえた1枚だ。先の小学校へ上がるピッカピカの1年生の、約1か月前に撮られたもので野本直揮様が写っている。<br />　つづいて<span style="color: #ff0000;">写真⑨</span>は、1964年(昭和39)の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-24.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>における運動会を撮影したものだ。<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-11-08.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>から眺める新宿一帯の風景は壮観で、当時は高いビルやマンションなどがほとんどない時代なので、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-11-14.html" target="_blank" rel="noopener">戸山ヶ原</a>の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2010-11-15.html" target="_blank" rel="noopener">集合住宅</a>から新宿駅西口の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2019-07-09.html" target="_blank" rel="noopener">淀橋浄水場</a>あたりまでが、よく見えたのではなかろうか。写真左手には、中野方面の遠望風景がとらえられている。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑩</span>と<span style="color: #ff0000;">写真⑪</span>は、1965年(昭和40)10月1日に行われた、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-08-14.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の運動会をとらえた2枚だ。このころになると、木造の校舎が鉄筋コンクリートの校舎へ、徐々に建て替えられているのがわかる。前年の1964年(昭和39)に、第1期改築鉄筋3階建校舎＝北校舎の建て替えが終了していたが、運動会を撮影した1965年(昭和40)には、第2期改築鉄筋3階建校舎(西側校舎)と体育館が春先に竣工したばかりだった。<br />　1966年(昭和41)の空中写真を参照すると、いちばん北側の北校舎と体育館は建て替えられているが、北寄りにあった木造校舎は解体されて空き地(のちに校庭を拡張)になっており、また校庭の南西にある校舎は古い木造建築のままなのがわかる。すべての校舎の建て替えが終了し、現在の姿になるのは中央校舎が落成した、1976年(昭和51)11月になってからのことだ。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2008-07-29.html" target="_blank" rel="noopener">御留山</a>を見ると、相変わらず武蔵野原生林そのままの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-17.html" target="_blank" rel="noopener">「落合秘境」</a>だが、北側には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2016-05-15.html" target="_blank" rel="noopener">大蔵省</a>が買収したあと、公務員宿舎<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/519493509.html" target="_blank" rel="noopener">「落合住宅」</a>の竣工している様子が見えている。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AB196304E4B88BE6A0A10.jpg" alt="⑫196304下校0.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AC196304E4B88BE6A0A11.jpg" alt="⑬196304下校1.jpg" width="520" height="362" border="0" /></div><div>　さて、子どもたちが小学校から下校する風景も撮影されている。子どもたちが通る町並みは、十三間通りの工事で全的に消えてしまった街角もとらえられていて貴重だ。1963年(昭和38)4月に撮影された連続写真で、ここはドキュメント風に順を追ってご紹介していこう。<span style="color: #ff0000;">写真⑫</span>は、まさに<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2012-12-23.html" target="_blank" rel="noopener">落合第四小学校</a>の北側校舎(木造時代)の昇降口を出て、下校する生徒たちをとらえたものだ。<span style="color: #ff0000;">写真⑬</span>は、小学校を出ていつも登下校する道筋(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2009-07-08.html" target="_blank" rel="noopener">雑司ヶ谷道</a>＝新井薬師道)へと向かう子どもたちで、左手の下見板張りの外壁は、校庭の南西側にあった戦前からの古い校舎だ。<br />　<span style="color: #ff0000;">写真⑭</span>は、野本家のお祖父ちゃんが迎えにきたようで、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-01-30.html" target="_blank" rel="noopener">大倉山</a>(<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-01-25.html" target="_blank" rel="noopener">権兵衛山</a>)に通う<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-07-18.html" target="_blank" rel="noopener">権兵衛坂</a>の下あたりを歩く子どもたちだ。わたしの学生時代には、この左手に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/517001316.html" target="_blank" rel="noopener">薪炭屋</a>が営業をつづけていた。そういえば、<span style="color: #ff0000;">写真⑪</span>には校庭から西を眺める体育館と校舎との間に、大倉山のピーク界隈がとらえられている。<span style="color: #ff0000;">写真⑮</span>は、いまでは見られない風景で、雑司ヶ谷道(新井薬師道)から南へ折れて昔日には<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-01-15.html" target="_blank" rel="noopener">八重垣道</a>と名づけられていた道筋へ入り、最初の曲がり角を右折(西折)するところをとらえたものだ。正面に見えている踏み切りは、西武新宿線の現在は<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2024-06-17.html" target="_blank" rel="noopener">西武高田馬場駅</a>から4つめになってしまった「馬6」踏み切りで、右手のシヤッターを閉めている建物は「今泉製作所」だと思われる。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AD196304E4B88BE6A0A12.jpg" alt="⑭196304下校2.jpg" width="520" height="368" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AE196304E4B88BE6A0A13.jpg" alt="⑮196304下校3.jpg" width="520" height="353" border="0" /></div><div>　<span style="color: #ff0000;">写真⑮</span>には、兄を迎えにきた野本直揮様(右端)も写っているが、右手の大谷石の縁石に築かれた塀が、氷川明神社の南東角地だったとみられる。すなわち、この角地の手前から「馬6」踏み切りのあたりまで、現在は十三間通り(新目白通り)が貫通していて、すべて消滅してしまった風景だ。この道を右折(西折)すると、恵比寿屋酒店の前を通って商店街の通りへと抜けることができた。<br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<span style="color: #333399;">&lt;つづく&gt;</span></div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真</span>：文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供：野本直揮様)より。なお1966年(昭和41)の空中写真は、十三間通り工事前の門前商店街をとらえた最後の姿とみられる。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　写真に撮られた子どもたちの下校コースを、1963年(昭和38)撮影の空中写真でたどってみた。下の写真は、1963年(昭和38)に撮影された下校コースの現状。<span style="color: #ff0000;">写真⑬</span>の落四小からの下校近道は現在、落合第四幼稚園の敷地内になっていて利用しにくい。<span style="color: #ff0000;">写真⑭</span>の雑司ヶ谷道(新井薬師道)は、なんとなく面影が残っている。<span style="color: #ff0000;">写真⑮</span>の氷川明神東側の「八重垣道」は、十三間通りに断ち切られ昔の面影は皆無だ。いちばん下の写真は、門前商店街跡の現状。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B88BE6A0A1E382B3E383BCE382B91963.jpg" alt="下校コース1963.jpg" width="600" height="386" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ACE890BDE59088E7ACACE59B9BE5B9BCE7A89AE59C92.jpg" alt="⑬落合第四幼稚園.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291ADE99B91E58FB8E383B6E8B0B7E98193.jpg" alt="⑭雑司ヶ谷道.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E291AEE6B0B7E5B79DE6988EE7A59EE585ABE9878DE59EA3E98193.jpg" alt="⑮氷川明神八重垣道.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99680E5898DE59586E5BA97E8A197E8B7A1.jpg" alt="門前商店街跡.jpg" width="520" height="336" border="0" /></div><a name="more"></a>

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<title>「男ってゴミみたいだから掃き出した」と三岸節子。</title>
<description>　おそらく、1953年(昭和28)の秋ごろのエピソードだろう。扇谷正造と織田昭子は、銀座でつづけざま三岸節子と出会っている。扇谷正造は、足元がおぼつかない足取りで菅野圭介を連れて歩く彼女と銀座4丁目で、織田昭子は電通銀座ビルの交詢社通りをはさんだ斜向かい裏、銀座6丁目で開店していたバー「アリババ」のカウンターで飲んだくれていた彼女だ。　当時、「別居結婚」をしていた菅野圭介に愛人(画家・須藤美玲子)ができ、その経緯を「週刊朝日」の扇谷正造から聞かされた三岸節子は仰天している。ま..</description>
<dc:subject>気になるエトセトラ</dc:subject>
<dc:creator>落合道人</dc:creator>
<dc:date>2026-06-27T00:00:00+09:00</dc:date>
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<div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69CA8E69D91E4BC8AE585B5E8A19BE3808CE98A80E5BAA7E9A2A8E699AFE3808D1949.jpg" alt="木村伊兵衛「銀座風景」1949.jpg" width="600" height="492" border="0" /></div><div>　おそらく、1953年(昭和28)の秋ごろのエピソードだろう。扇谷正造と<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/520168736.html" target="_blank" rel="noopener">織田昭子</a>は、銀座でつづけざま<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-07-18.html" target="_blank" rel="noopener">三岸節子</a>と出会っている。扇谷正造は、足元がおぼつかない足取りで菅野圭介を連れて歩く彼女と銀座4丁目で、織田昭子は電通銀座ビルの交詢社通りをはさんだ斜向かい裏、銀座6丁目で開店していたバー「アリババ」のカウンターで飲んだくれていた彼女だ。<br />　当時、「別居結婚」をしていた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-09-22.html" target="_blank" rel="noopener">菅野圭介</a>に愛人(画家・須藤美玲子)ができ、その経緯を「週刊朝日」の扇谷正造から聞かされた<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-19.html" target="_blank" rel="noopener">三岸節子</a>は仰天している。また、<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2015-06-05.html" target="_blank" rel="noopener">菅野圭介</a>が気の強い三岸節子へ離婚話を直接切りだせないため、須藤との再婚を朝日新聞と「週刊朝日」へリークして既成事実化しようとしたのも、彼女のプライドを傷つけた。まさに、料理が気に入らないと膳をひっくり返し妻を殴る、没主体的で気の小さなDV男ならではの行動だろう。この一連の出来事で、三岸節子は人間不信となり、軽井沢へ一時<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2013-10-19.html" target="_blank" rel="noopener">引きこもる</a>ことになったといわれる。<br />　扇谷は、新制作協会の展覧会で三岸節子の出品作『くちなし』を観た帰りに、銀座4丁目で彼女と出あっている。また、新制作展は織田昭子も観ており、『くちなし』が「すごくすてきだった」と気に入っていた。銀座のマダムとしては、開催されている主要な展覧会の観賞や、評判となっている小説などの書籍、ときには顧客筋の職業に関連する専門書などにも目をとおしておかないと、文字どおり“お話にならない”商売だったのだろう。いまでも、銀座の高級クラブのホステスさんたちは、自身の客筋にあわせて勉強を怠らないようだ。いや、親がらみの<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2023-05-16.html" target="_blank" rel="noopener">柳橋</a>や知人に<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2018-06-16.html" target="_blank" rel="noopener">芸者さん</a>はいたけれど、銀座の高級クラブなど一度ものぞいたことがないので“伝聞”なのだが。<br />　織田昭子と対談する扇谷正造の回想を、1973年(昭和48)に産業能率短期大学出版部から刊行された、『扇谷正造対談集／あしたはあしたの風が吹く』から引用してみよう。<br />　<span style="color: #008000;">　▼</span><br />　その少し前に新製作派(ママ：新制作協会)の展覧会があってね。三岸さん『くちなし』という作品を出していた。すごくいい絵なんです。(中略)／その絵を見た帰り、銀座へ行った。四丁目で(都電を)おり、ふっと立っていたら、三岸さんがやってきた。フラリ、フラリ、風に吹かれているみたいな歩き方だ。もっとも、三岸さん、足が悪いせいもあるけど、それは足だけではない。どうも心の安定がとれてないみたい。みると、菅野圭介氏が、二、三歩離れて歩いて来る。「おや、どちらへ」「これから浅草へ行くんです」。／で、たまたま社(朝日新聞社)の車を待たせてあるので、それをどうぞ、といった。二人は乗ったが、どうも、様子がただ事ではない。(中略)／無残な飲み方は、その直後なんで、何かピーンときた。その夜、三岸さんを鷺宮のお家までお送りした。帰りしなに「じゃ、さようなら」って声が、ひどくわびしく、悲しそうだった。(カッコ内引用者註)<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　文中、三岸節子の「無残な飲み方」というのは、秋雨が降る夜の11時ごろ、扇谷正造が飲み屋へ寄ると閑散とした店内で、三岸節子がひとりで飲んでいたという情景だ。その飲み方というのが尋常でなく、「なんというのかな“無残”って感じだった」と回想している。<br />　この直後、「ピーン」ときた扇谷は菅野圭介に取材しているのだろう。菅野がリークした、「ボクたち結婚します」という宣言と、須藤美玲子と子どもの3人で撮られた写真が「週刊朝日」に大きく報道され、三岸節子は大きな衝撃を受けたのだとみられる。須藤美玲子は、菅野圭介より17歳も年下の27歳であり、三岸節子との「別居結婚はいわばガクブチでしかなかったのではないか」などと、須藤へのインタビューでいわれ放題だったことにも、かなり傷ついたにちがいない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E38182E38197E3819FE381AFE38182E38197E3819FE381AEE9A2A8E3818CE590B9E3818F1973E58685E68989.jpg" alt="あしたはあしたの風が吹く1973内扉.jpg" width="255" height="380" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E68987E8B0B7E6ADA3E980A0.jpg" alt="扇谷正造.jpg" width="255" height="380" border="0" /><br /><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B994E794B0E698ADE5AD90E3808CE3839EE38380E383A0E3808D1956E4B889E7ACA0.jpg" alt="織田昭子「マダム」1956三笠.jpg" width="250" height="366" border="0" /> <img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B994E794B0E698ADE5AD90-836fb.jpg" alt="織田昭子.jpg" width="260" height="366" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E7B994E794B0E698ADE5AD90E382A2E383AAE38390E38390.jpg" alt="織田昭子アリババ.jpg" width="520" height="391" border="0" /></div><div>　一連の騒動の最中だったのだろう、三岸節子は顔見知りの織田昭子が経営する、銀座6丁目にあったバー「アリババ」を訪れている。そのときの様子を、今度は織田昭子の証言で聞いてみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　三岸さんとは、こういうお付き合いだったんです。わたしが林芙美子さんのうちに一年半ばかりお世話になっていた。そのとき、林さんが女流アンデパンダンというのに、F氏賞というのを出していた。三岸さん、それでよく林先生の家へお見えになってたもんですから……。わたしがああいうところで商売始めたというんで、何回かお見えになったんです。扇谷さんがお見えになる前に「男なんてゴミみたいなもんだから、掃き出してやったわ」っておっしゃって、飲んでいらしたわけなんですよ。(中略)　その前にね「男ってどう思う？」っておっしゃられた。ちょっと、ただごとではない感じなのでね「今、わたしは男の方って、お客様としてしか考えません」。(中略)／そのあと「男ってゴミみたいなもんよ……」なんです。その言葉が非常に鮮烈でね、わたしにもよくその感じがわかるんです。男と女がうまくいかなくなっちゃって、それこそ、そうとでもいうほかない女の気持ちが非常によく出てるんですよ。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　バー「アリババ」でも、三岸節子はふつうではない飲み方をしていたらしく、織田昭子になんとなくからみそうな、危惧をおぼえる酒の勢いだったようだ。扇谷正造は、このあと三岸節子が早くに亡くした亡夫・<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2017-08-20.html" target="_blank" rel="noopener">三岸好太郎</a>の作品を、戦後次々と買いもどしているのに触れて、三岸アトリエに付属する6畳の和室に、前夫の作品ばかりを集めては眺めていた様子を紹介している。そして、「これじゃ菅野君はたまらないだろうな」と感じたという。<br />　また、織田昭子は夜に灯りがともる菅野圭介アトリエへ、三岸節子が“突入”した話もしている。アトリエのガラス窓を手足でたたき割り、血だらけになりながら菅野啓介の前に、突然現れたことがあったようだ。織田昭子は、『嵐が丘』のヒースクリフにたとえて、「三岸さんガラスが見えなくなっちゃったんですね、バリバリと、その中を突き破って入っていった」、その一途なところにとても惹かれると話している。その話を受けた扇谷正造は、いきなりUFOの話をしはじめたのだ。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　そういう激しさをもった女性は三岸さんと死んだ森田たまさんだったね。日本人でこの二人だけが“空飛ぶ円盤”を見ている。森田たま氏は箱根の山中を歩いていてだ。パーッと閃光がひらめいて顔をあげたら円盤が飛んで行く。三岸さんはニースで見たって手紙をくれた。だから空飛ぶ円盤の見える女性というのはね、何か、こう“つかれたもの”を持っている。こういう女性はガラスなんて何でもない。<br />　　<span style="color: #008000;">▲</span></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E382A2E383AAE38390E38390E8B7A1.jpg" alt="アリババ跡.jpg" width="520" height="368" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E99BBBE9809AE8A38FE98A80E5BAA76E4B881E79BAE.jpg" alt="電通裏銀座6丁目.jpg" width="520" height="390" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E4B889E5B2B8E382A2E38388E383AAE382A8E381AEE88F85E9878EE59CADE4BB8B.jpg" alt="三岸アトリエの菅野圭介.jpg" width="520" height="386" border="0" /></div><div>　三岸節子や<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/515721725.html" target="_blank" rel="noopener">森田たま</a>が、UFOの目撃談義をどこかでしているのか、わたしは寡聞にしてそのような資料は一度も見たことがないし、UFOを目撃した女性が「日本人でこの二人だけ」だともとうてい思えないが、憑かれたものをもつ女性とUFOを目撃することとの関係性が、まったく意味不明でわからない。なにかに熱中しがちな性格の人間は、脳内がドーパミン過多となりふだん見えないものが見えるようになるということだろうか。この対談は、料亭かどこかの酒席だったと思われるので、対談後半ともなると扇谷正造は、かなり“できあがって”いたのではないか。<br />　さて、織田昭子がマダムをつとめた新宿の中村屋裏にあった「ととやホテル」のバーと、彼女が経営していた銀座のバー「アリババ」については、東京を散歩する文学関係者をはじめ、さまざまな人たちが記録を残している。そんな中から、1959年(昭和34)にみかも書房から出版された、スペイン語学者の佐久間正『東京味どころ』と、1988年(昭和63)に泰流社から出版された、朝日新聞記者で銀座が故郷の水原孝『私の銀座昭和史』の2冊から、少しだけご紹介してみよう。<br />　　<span style="color: #008000;">▼</span><br />　「ととや」だけが群をぬいて、上品なバーだった。というのは、ふつうのレベルということでもある。いま銀座の「アリババ」のマダムである、作家織田作之助氏の未亡人昭子さんがいたために、“虚名”をはせすぎたきらいがあるが、バーというより、応接間かなんかで飲んでいる感じの、きさくな店であった。これも、最近は、「馬上盃」となり…… <span style="color: #333399;">(佐久間正)</span><br />　外濠通りの電通のビルの裏にバーのアリババがある。／アリババのママは、作家織田作之助の最後を看取った織田昭子である。小学校が私より二級下、オカッパ、色白で黒い大きな瞳の美少女だった。旧木挽町歌舞伎座裏の商人の娘だけに、気っぷがよく、頭の回転が早い。いつ会っても昔と変わらない人柄のいいマダムである。 <span style="color: #333399;">(水原孝)</span><br />　　<span style="color: #008000;">▲</span><br />　織田昭子は、歌舞伎座のある木挽町(銀座)で生まれ育ったのなら、おそらく<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-10-29.html" target="_blank" rel="noopener">芝居</a>はあびるほど観ているだろう。舞台演劇をめざしたのも、子どものころからなじんだ芝居の影響かもしれない。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E69C9DE697A5E696B0E8819E19531022.jpg" alt="朝日新聞19531022.jpg" width="520" height="562" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E381A8E381A8E38284E3839BE38386E383AB1950.jpg" alt="ととやホテル1950.jpg" width="520" height="414" border="0" /></div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E381A8E381A8E38284E3839BE38386E383AB1956.jpg" alt="ととやホテル1956.jpg" width="520" height="467" border="0" /></div><div>　新宿東口のハモニカ横丁にあり、当時は新宿中村屋の裏手にあった「ととやホテル」(のち中村屋ビルと一体化営業)のバーが、上記の文中にあるように「ととや」だったのかどうかは不明だ。ホテルのバーなので、お客たちはホテル名をつけてバー「ととや」と呼んでいたのかもしれない。</div><br /><div><span style="color: #3366ff;">◆写真上</span>：木村伊兵衛が1949年(昭和24)に撮影した、銀座で商売をする靴磨き(部分)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中上</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1973年(昭和48)出版の『あしたはあしたの風が吹く』(産業能率短期大学出版部)内扉(<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、著者の扇谷正造(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1956年(昭和31)出版の織田昭子『マダム』(三笠書房／<span style="color: #3366ff;">左</span>)と、著者の織田昭子(<span style="color: #3366ff;">右</span>)。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、バー「アリババ」の織田昭子(AI着色)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真中下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、バー「アリババ」があった銀座6丁目の道筋。正面を横切る道路が交詢社通りで、向かい右手にある濃い灰色のビルが銀座7丁目の電通銀座ビル。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、振り向いた背後の道筋。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、上鷺宮の<a href="https://tsune-atelier.seesaa.net/article/2014-07-04.html" target="_blank" rel="noopener">三岸アトリエ</a>にある螺旋階段で撮影された菅野圭介(AI着色)。<br /><span style="color: #3366ff;">◆写真下</span>：<span style="color: #3366ff;">上</span>は、1953年(昭和28)10月22日発行の朝日新聞記事(改編集版)。<span style="color: #3366ff;">中</span>は、1950年(昭和25)撮影の闇市に接した「ととやホテル」。<span style="color: #3366ff;">下</span>は、1956年(昭和31)撮影の新宿中村屋裏の同ホテル。<br /><span style="color: #333399;"><span style="color: #ff0000;">★</span>おまけ</span><br />　織田昭子が見ていた、1948年(昭和23)4月撮影の新宿通り。この撮影から半年後、織田昭子は新宿中村屋の右手に見えている三角屋根の「ととやホテル」のバーにマダムとして勤務している。</div><div><img src="https://tsune-atelier.up.seesaa.net/image/E696B0E5AEBFE9809AE3828A194804.jpg" alt="新宿通り194804.jpg" width="520" height="342" border="0" /></div></div><a name="more"></a>

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