
佐伯祐三アトリエの西隣り、下落合666番地の納三治邸が竣工した直後の記念写真を入手した。貴重な写真をお送りいただいたのは、納三治のご子孫である澤田康治様だ。1927年(昭和2)に完成したとみられる同邸だが、意匠は和洋折衷の豪華かつ巨大な屋敷で、おそらく下落合では華族邸を除けば最大クラスの建築だったとみられる。
その中の1枚に、納邸の南側にある庭園から北東を向いて撮影し、佐伯祐三アトリエがとらえられた写真がある。1927年(昭和2)という時期を考えれば、佐伯祐三はつい先だてまでこの屋根の下で仕事をしており、「下落合風景」シリーズを制作しに落合地域を歩いていた時期とストレートに重なる。すなわち、佐伯祐三がシベリア鉄道で第2次滞仏に向かう直前、彼が最後に見た下落合の風景が、納家のアルバムには残されているということだ。
納三治は当初、高田町の字池谷戸浅井原(のち雑司ヶ谷953番地)で、毛糸生産を専門にしていた曙工場を経営していた。その後、石綿の需要が急増したため同工場で生産するようになり、1929年(昭和4)には曙石綿工業(株)を設立している。以下、当時の興信録より引用してみよう。
▼
納三治 曙石綿工業(株)社長/岡山県籍
岡山県 尚順の三男にして明治六年九月出生す 同三十六年紐育(ニューヨーク)コーネル大学機械科を卒業し神戸川崎浦賀各造船所勤務 英国ロイド技師毛織物工場経営を経て昭和四年曙石綿工業を設立し社長に就く [趣]作詩 [宗]基督教(略) 東京市淀橋区下落合二ノ六六六
▲
クルマや電車など乗り物や交通機関に詳しい方なら、もうお気づきではないだろうか。同社は、石綿の生産から乗り物の制御装置、すなわちブレーキの製造をはじめるようになる。曙ブレーキ工業(株)はいまも健在で、自動車はもちろん鉄道やリニアモーターカーのブレーキまで手がける先端企業となっている。納三治は、その基礎を築いた創業者だ。
さて、納家のアルバムにもどろう。澤田様よりお送りいただいた画像は、小さめなサイズだったので、拡大するとピンボケになる可能性が高かったため、サイズを大きくする際にはAIエンジンをかませて、被写体の忠実な再現・精細化を試みている。まず、冒頭の写真①から見ていこう。納邸の玄関のある西側ウィングの、南に面したサンルーム前から東に張りだす棟を撮影したもので、木立ちの向こう側に佐伯アトリエがとらえられている。樹林の様子から、撮影されたのは1927年(昭和2)の秋だろうか、すでに佐伯一家は旅立ち鈴木誠が留守番をしていただろう。
ここで気づくのは、佐伯アトリエの屋根に天窓が穿たれていないことだ。解体直前のアトリエの屋根写真と比較すると、西側に面した屋根に天窓がなく、佐伯祐三が生きていた時代にはこの窓は存在しなかったということになる。おそらく、アトリエの内部を少しでも明るくするために、米子夫人が戦後になってから大工へ屋根の改築を依頼したものだろうか。また、アトリエの屋根は石綿による「布瓦」ではなく、瓦屋根のままのように見える。アトリエの石綿を素材とする布瓦は、隣人の納三治に勧められて米子夫人が佐伯の死後に、改めて葺き替えたものだろうか。
その中の1枚に、納邸の南側にある庭園から北東を向いて撮影し、佐伯祐三アトリエがとらえられた写真がある。1927年(昭和2)という時期を考えれば、佐伯祐三はつい先だてまでこの屋根の下で仕事をしており、「下落合風景」シリーズを制作しに落合地域を歩いていた時期とストレートに重なる。すなわち、佐伯祐三がシベリア鉄道で第2次滞仏に向かう直前、彼が最後に見た下落合の風景が、納家のアルバムには残されているということだ。
納三治は当初、高田町の字池谷戸浅井原(のち雑司ヶ谷953番地)で、毛糸生産を専門にしていた曙工場を経営していた。その後、石綿の需要が急増したため同工場で生産するようになり、1929年(昭和4)には曙石綿工業(株)を設立している。以下、当時の興信録より引用してみよう。
▼
納三治 曙石綿工業(株)社長/岡山県籍
岡山県 尚順の三男にして明治六年九月出生す 同三十六年紐育(ニューヨーク)コーネル大学機械科を卒業し神戸川崎浦賀各造船所勤務 英国ロイド技師毛織物工場経営を経て昭和四年曙石綿工業を設立し社長に就く [趣]作詩 [宗]基督教(略) 東京市淀橋区下落合二ノ六六六
▲
クルマや電車など乗り物や交通機関に詳しい方なら、もうお気づきではないだろうか。同社は、石綿の生産から乗り物の制御装置、すなわちブレーキの製造をはじめるようになる。曙ブレーキ工業(株)はいまも健在で、自動車はもちろん鉄道やリニアモーターカーのブレーキまで手がける先端企業となっている。納三治は、その基礎を築いた創業者だ。
さて、納家のアルバムにもどろう。澤田様よりお送りいただいた画像は、小さめなサイズだったので、拡大するとピンボケになる可能性が高かったため、サイズを大きくする際にはAIエンジンをかませて、被写体の忠実な再現・精細化を試みている。まず、冒頭の写真①から見ていこう。納邸の玄関のある西側ウィングの、南に面したサンルーム前から東に張りだす棟を撮影したもので、木立ちの向こう側に佐伯アトリエがとらえられている。樹林の様子から、撮影されたのは1927年(昭和2)の秋だろうか、すでに佐伯一家は旅立ち鈴木誠が留守番をしていただろう。
ここで気づくのは、佐伯アトリエの屋根に天窓が穿たれていないことだ。解体直前のアトリエの屋根写真と比較すると、西側に面した屋根に天窓がなく、佐伯祐三が生きていた時代にはこの窓は存在しなかったということになる。おそらく、アトリエの内部を少しでも明るくするために、米子夫人が戦後になってから大工へ屋根の改築を依頼したものだろうか。また、アトリエの屋根は石綿による「布瓦」ではなく、瓦屋根のままのように見える。アトリエの石綿を素材とする布瓦は、隣人の納三治に勧められて米子夫人が佐伯の死後に、改めて葺き替えたものだろうか。






写真②は、西側の三間道路すなわち「八島さんの前通り」に面した、納邸の門を撮影したものだ。この光景は、佐伯祐三も渡仏直前に目にしていただろう。納邸の敷地が整地され、縁石が設置されて屋敷が建てられていく様子を、佐伯は「下落合風景」シリーズの何点かの作品に残している。納邸の敷地内には、別棟かあるいは貸家かは不明だが、日本家屋が建っているのが見えている。また、道路を隔てた南側の第三文化村には、いまだ吉田博・ふじをアトリエは建てられておらず、大塚邸のままだった。大塚邸は、屋根の形状からして西洋館だろう。
右端にとらえられた電柱は、佐伯祐三が『八島さんの前通り』の納邸敷地前に描いた電柱の実物そのものだ。この電柱の先を左折(東折)すると、不動谷(西ノ谷)への下り坂となり、青柳邸の前に拡がる青柳ヶ原、現在の国際聖母病院の北側の接道につづいている。また、右手前の隅に見えている植えこみは、道をはさんだ納邸の西隣りにあたる、下落合1449番地に建つ第三文化村の山口邸の一部だろう。門前に張りだした、植栽の角でもとらえたものだろうか。写真③は、納邸の玄関を写したもので、どことなく武家屋敷の構えを思わせる意匠だ。
写真④は、南側の庭園から西側のウィングを写したもので、池の水位が低いことから一連の写真が、納邸の竣工後間もない時期に撮影された様子が見てとれる。手前の松の陰には、納邸の敷地内に建つ離れのような和館が透けて見えていただろう。また、撮影者の背後は佐伯祐三が『テニス』をプレゼントした、落合第一小学校の教諭・青柳辰代が住む青柳邸だ。
写真⑤は、納邸の南庭から北を向き、納三治の家族や親戚一同を撮影した記念写真だ。応接室とみられる洋館部の手前には、シュロ(棕櫚)の木が何本も植えられ、この一画だけが西洋館の風情を漂わせている。応接室とみられる細い窓も凝ったデザインをしており、一部に色ガラスが嵌められていたのではないだろうか。ちなみに、記念写真に写る人々のうち最前列の右からふたりめの着物姿の少女が、貴重な写真をお送りいただいた澤田康治様のお母様だ。納邸の屋根瓦の色が、北隣りの八島知邸と同様に赤だったのは、佐伯の描く「下落合風景」作品から判明している。また、AIによるカラー化の判断では、納邸の屋根は赤、南側の大塚邸の屋根は青または緑と認識している。
右端にとらえられた電柱は、佐伯祐三が『八島さんの前通り』の納邸敷地前に描いた電柱の実物そのものだ。この電柱の先を左折(東折)すると、不動谷(西ノ谷)への下り坂となり、青柳邸の前に拡がる青柳ヶ原、現在の国際聖母病院の北側の接道につづいている。また、右手前の隅に見えている植えこみは、道をはさんだ納邸の西隣りにあたる、下落合1449番地に建つ第三文化村の山口邸の一部だろう。門前に張りだした、植栽の角でもとらえたものだろうか。写真③は、納邸の玄関を写したもので、どことなく武家屋敷の構えを思わせる意匠だ。
写真④は、南側の庭園から西側のウィングを写したもので、池の水位が低いことから一連の写真が、納邸の竣工後間もない時期に撮影された様子が見てとれる。手前の松の陰には、納邸の敷地内に建つ離れのような和館が透けて見えていただろう。また、撮影者の背後は佐伯祐三が『テニス』をプレゼントした、落合第一小学校の教諭・青柳辰代が住む青柳邸だ。
写真⑤は、納邸の南庭から北を向き、納三治の家族や親戚一同を撮影した記念写真だ。応接室とみられる洋館部の手前には、シュロ(棕櫚)の木が何本も植えられ、この一画だけが西洋館の風情を漂わせている。応接室とみられる細い窓も凝ったデザインをしており、一部に色ガラスが嵌められていたのではないだろうか。ちなみに、記念写真に写る人々のうち最前列の右からふたりめの着物姿の少女が、貴重な写真をお送りいただいた澤田康治様のお母様だ。納邸の屋根瓦の色が、北隣りの八島知邸と同様に赤だったのは、佐伯の描く「下落合風景」作品から判明している。また、AIによるカラー化の判断では、納邸の屋根は赤、南側の大塚邸の屋根は青または緑と認識している。




これらの貴重な写真類をベースに、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズに描かれた納邸を、敷地の整地から竣工前後までを見ていこう。まず、「八島さんの前通り」(星野通り)を大塚邸のある南側から北を向いて描いた画面は、いまのところ4点が発見されているが、その制作過程では納邸敷地の雑草だらけだった空き地が、草が刈られ整地されていく様子が順番に確認できる。そして、1926年(大正15)の晩秋ごろには大谷石とみられる縁石が設けられ、納邸の建設を待つばかりの状態になっていた。(作品⑥) 同年の冬か、1927年(昭和2)の新年ごろに描かれた『目白風景』(作品⑦)では、青柳ヶ原の西側に入りこむ不動谷(西ノ谷)の突きあたり、青柳邸と並ぶ西隣りに、建設中で養生が張りめぐらされているとみられる大きな納邸がとらえられている。
そして、再び「八島さんの前通り」にもどり、今度はこの通りがクラックする直前、北側の内藤邸の前あたりから南を向いて描いた2点の作品が残っている。1点はエチュードのようにラフな画面(作品⑧)だが、サインの入ったもう1点(作品⑨)のほうは緻密に描かれており、それぞれの住宅の住民名まで特定することができる。これらの作品は、1927年(昭和)の夏に近い時期に描かれている。なぜなら、八島邸の向こう側(南側)には、納邸の赤い大きな屋根が見えており、同邸が竣工する前後の時期に描かれているからだ。作品⑨の画面は、1927年(昭和2)6月17日(金)から30日(木)まで2週間にわたって開催された、1930年協会第2回展に出品されているので、画面の樹木などの様子から、その直前に描かれているものと思われる。
そして、もうひとつ面白い事実がある。佐伯祐三が雑司ヶ谷西谷戸大門原1126番地(現・西池袋2丁目)あたりに設置された、山手線の踏み切りを描いた作品に『踏切』(作品⑩)がある。正面に見えている、武蔵野鉄道のレンガガードをくぐり道なりに北へと進めば、5分ほどで納三治が経営する曙工場(当時は毛糸生産)にたどり着けたはずだ。描かれた線路土手の草地の青さや、やがて隣家となる納家との事前交流(建設時の挨拶など)で、佐伯祐三が納三治のいる曙工場を訪ねている可能性があるのは、1927年(昭和2)になってからのことだろうか。
再度フランス行きの資金を稼ぎたかった佐伯は、納三治の執務室にでも架けられそうな作品を手に、経営している曙工場へ出かけやしなかっただろうか。納家に佐伯家の作品が残っていたかどうかは、残念ながら不明だ。納三治の工場にしろ自邸にしろ、佐伯作品が架けられていたとしても、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失してしまった可能性が高い。
そして、再び「八島さんの前通り」にもどり、今度はこの通りがクラックする直前、北側の内藤邸の前あたりから南を向いて描いた2点の作品が残っている。1点はエチュードのようにラフな画面(作品⑧)だが、サインの入ったもう1点(作品⑨)のほうは緻密に描かれており、それぞれの住宅の住民名まで特定することができる。これらの作品は、1927年(昭和)の夏に近い時期に描かれている。なぜなら、八島邸の向こう側(南側)には、納邸の赤い大きな屋根が見えており、同邸が竣工する前後の時期に描かれているからだ。作品⑨の画面は、1927年(昭和2)6月17日(金)から30日(木)まで2週間にわたって開催された、1930年協会第2回展に出品されているので、画面の樹木などの様子から、その直前に描かれているものと思われる。
そして、もうひとつ面白い事実がある。佐伯祐三が雑司ヶ谷西谷戸大門原1126番地(現・西池袋2丁目)あたりに設置された、山手線の踏み切りを描いた作品に『踏切』(作品⑩)がある。正面に見えている、武蔵野鉄道のレンガガードをくぐり道なりに北へと進めば、5分ほどで納三治が経営する曙工場(当時は毛糸生産)にたどり着けたはずだ。描かれた線路土手の草地の青さや、やがて隣家となる納家との事前交流(建設時の挨拶など)で、佐伯祐三が納三治のいる曙工場を訪ねている可能性があるのは、1927年(昭和2)になってからのことだろうか。
再度フランス行きの資金を稼ぎたかった佐伯は、納三治の執務室にでも架けられそうな作品を手に、経営している曙工場へ出かけやしなかっただろうか。納家に佐伯家の作品が残っていたかどうかは、残念ながら不明だ。納三治の工場にしろ自邸にしろ、佐伯作品が架けられていたとしても、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失してしまった可能性が高い。




納邸のアルバムがきわめて貴重なのは、佐伯祐三が生きていた時代のアトリエ直近の風景を、そのまま目にすることができるという点だ。従来は、佐伯の画面からしかうかがい知れなかった「八島さんの前通り」(星野通り)の情景を、実際に目にすることができるからだ。佐伯と同時代のこの風景は、わたしが想像していたよりもキレイに整備されている印象で、佐伯はわざと鄙びた様子に描いているのではないかとさえ思える。貴重な写真をありがとうございました。>澤田康治様
◆写真:納三治邸の写真①~⑤は、同家のアルバムから竣工直後のもの。(提供:澤田康治様)
◆写真下:モノクロ写真は、1929年(昭和4)撮影の曙石綿工業高田馬場本社と晩年の納三治。
★おまけ1
1927年(昭和2)の夏、二度目の渡仏前に佐伯祐三が実際に目にしていた、アトリエ西側の「八島さんの前通り」(星野通り=1931年までの補助45号線)をAIでカラー化してみた。納邸の屋根は赤、南の第三文化村の西洋館だった大塚邸は青ないし緑の屋根と認識している。2葉めの写真は、いただいた画像を単純拡大したもの。佐伯アトリエの屋根は、石綿製の「布瓦」ではなく通常の瓦が葺かれているように見える。下の写真は、1945年(昭和20)5月17日の空中写真にみる下落合666番地の納邸。母家は全焼しているようだが、敷地の南西角にある緑に囲まれた別棟は焼け残っているようだ。また、濃い屋敷林に囲まれた佐伯アトリエは、延焼からまぬがれているのがわかる。
◆写真下:モノクロ写真は、1929年(昭和4)撮影の曙石綿工業高田馬場本社と晩年の納三治。
★おまけ1
1927年(昭和2)の夏、二度目の渡仏前に佐伯祐三が実際に目にしていた、アトリエ西側の「八島さんの前通り」(星野通り=1931年までの補助45号線)をAIでカラー化してみた。納邸の屋根は赤、南の第三文化村の西洋館だった大塚邸は青ないし緑の屋根と認識している。2葉めの写真は、いただいた画像を単純拡大したもの。佐伯アトリエの屋根は、石綿製の「布瓦」ではなく通常の瓦が葺かれているように見える。下の写真は、1945年(昭和20)5月17日の空中写真にみる下落合666番地の納邸。母家は全焼しているようだが、敷地の南西角にある緑に囲まれた別棟は焼け残っているようだ。また、濃い屋敷林に囲まれた佐伯アトリエは、延焼からまぬがれているのがわかる。



★おまけ2
おそらく空襲により山本發次郎邸で焼け、戦前の画集にモノクロ画像でしか残されていない佐伯祐三の『目白風景』を、AIエンジンでカラー化してみた。1926~27年(大正15~昭和2)にかけての冬期に制作されたとみられ、口を開けた不動谷(西ノ谷)と青柳ヶ原の冬枯れ風景が姿を現した。
<追記>土色を、ちゃんと「関東ローム」の色にしてと命じたら、より佐伯らしくなった。(下)

