中井駅前に立つ出征将校(士官)はどこの誰?

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 落合地域の地元資料や、新宿区の現代史資料で、戦時中の地域の様子を紹介するのによく引用される写真がある。菅野廉一という方が撮影した、「出征兵士」を送る冒頭の写真だ。太平洋戦争の開始後1942年(昭和17)に撮影されたもので、場所は西武線・中井駅前の広場だ。きょうは、この写真にとらえられた人物ついて少しこだわり、やや強引ながら掘り下げてみたい。
 この写真には、引用資料に「出征兵士を送る……」というキャプションが添えられていることが多いけれど、写っている台の上に立つ人物は、明らかに兵士ではなく陸軍の「将校(士官)」だ。よく人物を観察すると、両手には白手袋をはめており、右腰の拳銃は丸い水筒のような装備に隠れて見えないが、左腰に吊るされた短剣が確認できる。すなわち、この人物は少なくとも大学卒業か、あるいはそれに準じる学歴の持ち主であり、赤紙(召集令状)を受けとったときは少なくとも尉官(少尉か?)、あるいは除隊後の予備役召集であればそれ以上の階級士官として、入隊が予定されていたとみられる。だから、出征の際にも将校の軍服を着用しているのだろう。
 次に、出征旗やのぼりなどに混じって、出征士官の名前が読みとれる。氏名が書かれたのぼりには、「出征/保坂嘉録君」と書かれている。おそらく、下落合(現・中落合/中井含む)の西部か、上落合の西部に居住していた人物と思われるが、残念ながら大正末から1960年代にかけて作成された、苗字が掲載されている住宅明細図類に、「保坂」という姓の家は発見できなかった。昭和10年代ともなると、中井駅の周辺にはアパートが数多く建てられているので、そのような集合住宅で暮らしていた人物かもしれないし、借家住まいだと名前が採取されない可能性が高い。
 ちなみに、中井駅前のどこの場所で撮影されたものか厳密に見ていこう。太陽光は、左手の上方から射しており、見えている鉄製の支柱は東京電燈谷村線高圧線鉄塔の下部だ。戦後の写真になるが、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前の踏み切り写真には、焼けずに残ったこの高圧線鉄塔がとらえられている。したがって、冒頭の写真で出征を見送る壮行会が開かれているのは、踏み切りを南へわたり寺斉橋の手前、中井駅の小さな駅前広場から路上にかけてであるのがわかる。高圧線鉄塔の角度から、将校が台の上に立っているのは、中井駅前の広場へ少し入ったあたりだろうか。中井駅舎は、写真の左手枠外ということになる。
 さて、以上のようなことを踏まえ、名前としてはめずらしい保坂「嘉録」(かろくorよしろく?)について考えてみる。保坂という苗字は、この地方でいうと山梨県の甲府周辺に多い苗字だ。この人物は、地元で中学校を終えると、大学予科あるいは専門学校へ入学するために、東京へやってきたものだろうか。学生時代の住まいと、同じ地域に住んでいるとはまったく限らないが、他の地方から就学のために東京へ転居してきた人物が、卒業後も学生時代から住んでいた馴染みのある街に、そのまま住みつづけるという可能性はありえるだろう。
 次に人物のデータベースを調べていくと、たったひとりだが「保坂嘉録」という名前がひっかかる。姓はともかく、名前のほうはめずらしい表記……というか、そもそも非常にまれな名前だろう。広告分野の方であれば、この名前に聞き憶えがあるのかもしれない。敗戦後のまもない時期、1946年(昭和21)10月に銀座で小森源四郎らとともに、広告代理店「南北社」を起ち上げた創業者のひとりだ。創業とともに、保坂嘉録は常務取締役に就任している。
 保阪嘉録について、もう少し詳しく調べていくと、1912年(大正元)に山梨県甲府市で、保坂荒吉の長男として生まれている。戦後の「紳士録」によれば、1930年(昭和5)に早稲田大学付属専門部に入学し、3年後の1933年(昭和8)に卒業している。この「専門部」というのがわかりにくいが、戦前の多くの私立大学には特化した技術や技能、知識を教授する専門部という教育機関が存在していた。当時、専門学校の人気が高かったため、経営の安定化をめざして各大学では付属の専門部を設置している。大学予科が2年で本科が3年の5年間だったのに対し、専門部は3年で卒業できた。
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 ちなみに早稲田大学の専門部には、工学・商学・デザインなどの専門学科があり、今日の専門学校と同じように、すぐにも企業で戦力になるよう実務的・実践的な内容の授業が行われていた。大学で学問を修めるというよりは、今日のいわばビジネススクールのような存在だった。保坂嘉録は1933年(昭和8)に修了しているので、そのとき彼はまだ21歳だったろう。
 早稲田の専門部を卒業すると、彼は(株)華北交通に就職している。華北交通は、中国で陸上輸送(鉄道・バス・トラックなど)をメインの事業にすえた満鉄の系列運輸会社で、本社は北京の東長安街にあり、東京事務所は赤坂区葵町2番地(現・港区虎ノ門)の満鉄東京支社ビル内に置かれていた。彼が本社か東京事務所の、どちらに勤務していたのかは不明だが、少なくとも30歳になった1942年(昭和17)には、最寄りの駅が中井駅の下落合あるいは上落合に居住していたのだろう。年齢から推察すると、結婚後の家族もいっしょに暮らしていたのではないか。早大で専門部の学科が商業だったとすれば、彼は陸軍の主計少尉(経理担当)として召集されたものだろうか。
 もし、冒頭写真ののぼりに書かれた「出征/保坂嘉録君」と、戦後に上記の南北社を設立し常務取締役、すなわち実働部隊のトップに就任していた保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は召集でどこに派遣されたのかは不明だが、運よく戦死をせずに3年後には1945年(昭和20)8月15日のポツダム宣言受諾(無条件降伏)の日を迎えることができ、無事に復員できたことになる。会社の設立時期やその準備期間を考慮すれば、復員時期はかなり早かったのではないか。彼の出征先はもともと勤務先だった中国か、あるいは軍務が国内だったのかもしれない。
 戦後、南北社は媒体広告を中心に、順調に売り上げを伸ばしていき、中堅の広告代理店としては電博(でんぱく)に負けない仕事をしてきている。1951年(昭和26)に日本電報通信社(のち電通)から出版された『広告五十年史』収録の、「自由競争時代の再現」から少し引用してみよう。
  
 (昭和)廿一年十二月に、全国の新聞を会員とする『日本新聞協会』は、新に広告代理業者十六を指定代理業者として承認し、これ等十六の代理業者が、俗に第二組合といわれる『全国新聞広告同業組合』を組織した。かく別個の同業組合が成立した理由は、戦後の企業の自由の風潮や俗に第一組合といわれる『日本新聞広告同業組合』の組合員になる適格条件の過酷であつた点等によるもので、結成当時の顔触れは次の通りであつた。/東京――三和広告社、中央広告株式会社、第一広告社、協同広告株式会社、広生社、東成社、三正堂、南北社、三栄広告社、八昭堂/大阪――(以下略) (カッコ内引用者註)
  
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 南北社が創業してから、わずか2ヶ月後の広告業界の様子だが、すでに電通や博報堂による業界の寡占が「第一組合」の結成とともに進められていた様子が見える。これに抗して結成されたのが、南北社も参画する「第二組合」こと「全国新聞広告同業組合」だった。
 保阪嘉録の南北社は、新聞や雑誌の媒体広告、あるいはラジオやのちにTVのCM制作で急成長していった。クライアントは自動車産業が多かったらしく、トヨタやホンダ、日野自動車などの広告制作が中心だったらしい。1963年(昭和38)6月になると、保坂嘉録は南北社での常務取締役のまま、銀座8丁目の東京PRサービスの取締役にも就任している。同社は、おもにTVのCMを手がける専門会社で、TBSや日本テレビ、読売テレビ、RKB毎日などがおもなクライアントだった。1970年(昭和45)ごろ、彼は60歳を目前に同社の代表取締役に就任している。住まいも、戦後に住んでいた練馬区から田無市へ転居しているようだ。
 さて、冒頭の写真にもどろう。中井駅前で、彼は台の上に直立不動で立ち、背中には明日の生命をも知れない緊張感が漂う情景なのだが、わずか2年半後に周囲の風景自体が二度にわたる大空襲消滅することになるなど、まだ誰も予測できなかったころだろう。けれども、太平洋戦争に突入する以前、出征兵士の壮行会でよく見られた「おめでたく」「晴れがましい」笑顔が、この写真ではただのひとりの表情からもうかがえない。それだけ状況は深刻であり、30歳を超えた人物にまで赤紙がとどくようになった状況を、誰もが緊迫感とともに受けとめていたのかもしれない。このあと、「保坂嘉録君」は万歳三唱に送られながら中井駅の改札を通過した。
 この写真は、たとえば1992年(平成4)に新宿区から出版された『語りつぐ平和への願い―新宿区平和都市宣言5周年記念誌―』にも掲載されている。同時に、菅野廉一という方によって戦時中に記録された、落合地域の貴重な写真類も掲っているので併せてご紹介しておきたい。これまで拙記事に登場した写真も多いが、改めて掲載させていただければと思う。
 ただし、その中の1点、落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校の位置)の焼け跡にたたずむ巡査をとらえた写真があるが、これは戦争とは直接関係がないと思われる。背後に写る家々が、空襲の被害をまったく受けていないことから、1944年(昭和19)5月23日に同校の炊爨室(給食室)からの出火で、校舎の3分の2を焼失した大火の焼け跡に立つ巡査の姿をとらえたものだろう。
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 中井駅前の出征写真の人物は、当然ながら遠からずの戦死を強く覚悟していただろう。戦争の激化で、とても生きては帰れそうにないので、残された家族のゆくすえを親戚に頼んでいったかもしれない。この出征士官と、戦後の保坂嘉録が同一人物だとすれば、彼は1960年代にトヨペット・クラウンやホンダN360のCMを制作しながら、いったいどのような感慨を抱いていたのだろうか。

◆写真上:1942年(昭和17)に中井駅前で撮影された、「保坂嘉録君」の出征見送りの壮行会。
◆写真中上は、1954年(昭和29)ごろに撮影された中井駅前と出征見送りの位置。中上は、冒頭写真の拡大。中下は、1941年(昭和16)に中井駅近くの商店街で撮影された出征兵士の見送り。右手に「少年倶楽部」の垂れ幕がある書店は、中井駅のすぐ北側にあった文楽堂書店だろうか。は、1942年(昭和17)に一ノ坂下で撮影された出征兵士の見送り。『語りつぐ平和への願い』(新宿区)では、上掲2枚の出征写真のキャプションが逆になっている。
◆写真中下は、麻布一連隊(第一師団歩兵第一連隊)へ入営直前の兵士と家族の様子。中上は、中井駅前で行われた「武運長久」を願う千人針。中下は、焦土の上落合側から中井駅方面を撮影した敗戦直後の様子。は、敗戦直後に撮影された掘立て小屋状の中井駅。
◆写真下は、敗戦から間もない時期に撮影された妙正寺川沿いの工事風景。は、1948年(昭和23)に撮影された中井駅。は、1957年(昭和32)に広告専門誌へ出稿した南北社の媒体広告。
おまけ1
 戦災写真ではなく、1944年(昭和19)5月23日の炊爨室(すいさんしつ)からの失火で校舎の大半を焼失した、落合第二尋常高等小学校の焼け跡に立つ夏服姿の巡査をとらえた情景だと思われる。東京電燈谷村線の高圧線鉄塔の真下には西武線が、家々が並ぶ手前には妙正寺川が流れている。
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おまけ2
 冒頭写真をAIで着色してみた。文字の認識はいい加減だが、情景的にはリアルになったろうか。つい84年ほど前、日本が激しい戦争をしていたころ鉄道駅周辺で見られていた日常的な風景だ。
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