江戸川橋から目白坂を上り、目白通りから途中で北西へと向かう南長崎通り(長崎バス通り=ほぼ昔の練馬街道)へと入って、多摩地域の清戸村までつづく街道は、いつから「清戸道」と呼ばれるようになったのだろうか?
わたしは、『高田村誌』に書かれた「清戸道」のルビにふられたように、「清戸道」は本来「せいどどう」あるいは「せいとどう」ないしは「せいとみち」と呼ばれたのではないかと以前から疑っているが、街道筋の各農村で正月に行われるどんど焼き(江戸東京方言では賽戸祓い・芝灯祓い・道祖神払い=「せいとばれえ」)の火炎が、点々とつづく街道筋を表現したものではないかと考えている。それが、ひとたび後世に「清戸」という漢字が当てはめられると、異なった発音になってしまうのは、地名に見られる「清戸」をはじめ「成都」「西都」「清土」「青土」「青砥」「勢井戸」などと同様のケースのように思われる。
この「どんど焼き(せいとばれえ)」(関東でも神奈川県南部など、地域によっては「せえとばれえ」と「い」が「え」に転訛して発音される)の火祭り神事は、関東地方では鎌倉時代以前から由来の知れないほどの古(いにしえ)より行われていた正月の催事であり、したがって「賽ノ神」や「賽戸ノ神」、「芝灯」、「道祖神」(江戸期)などが意識される以前から存在し、後世になってからそれらの神々と習合していったのではないか。したがって、「せいと」という地名や道名に当てはめられる漢字も一律ではなく、地域によっては多種多様な漢字が、古より当てはめられてきたとみられる。村々の「入口」に設置された、鎌倉期から室町期に多い石碑は、今日では「板碑」と表現されているが、当時はどのような名称で呼ばれていたのだろう。「賽戸」や「芝灯」は、外からの災厄を防御するファイヤウォールそのものではなかったか。
どんど焼き(せいとばれえ)の神事が行われるのは事実、街道筋や川筋、海辺など、なにかを運んでくる場所、なにかがやってくる場所で行われるのが通例であり、それは人々が暮らす村落共同体の「入口」であり、素性や得体の知れない「他所」や「外界」との接点でもあったはずだ。換言すれば、道や川、海などを通じて「他所」や「外界」から運ばれてくるであろう災厄や病魔、さまざまな不吉な事象・現象を、ミクロコスモス(村落共同体)は常に敏感に認識して生活していたはずであり、1年間にわたり村内に滞留した、あるいは村内を通過した災厄や病魔を祓う必要性が生じたため、交通(人流・物流)が頻繁な要所では、新年の火祭り神事(どんど焼き=せいとばれえ)が発達した……と捉えることもできる。
そもそも火炎により災厄や病魔を祓う、または地上に降りた神(善神・悪神)を火炎の力で“神の国”へ帰還させるという行事は、古くから日本列島各地で見られた神事であり、別にどんど焼き(せいとばれえ)は関東地方のみの専売特許ではない。アイヌ民族の神送り火祭(イヨマンテ)も同系統だし、琉球の火の神(ヒヌカン)も近しい存在だろう。この神事を正月に限らず、初めて季節を問わないイベント化したのは江戸幕府の徳川吉宗であり、1732年(享保18)に開かれ両国橋のたもとで打ちあげられた花火大会も、流行した疫病を祓う厄落としから出発している。
わたしが、初めて「清戸道」という呼称を調べたのは、いまから10年ほど前だったと記憶している。目白駅(地上駅)近くで、目白橋をわたる目白通りと、目白橋の下にあった踏み切り(LEVEL CROSSING 51CN)をわたる清戸道とが、並行する道筋に別れて存在していた時代を調べていたときだ。その際に、残念ながら参照していた直接資料は失念してしまったけれど、江戸時代の初期から「清戸道」の呼称が用いられていたという記述を憶えていた。その根拠となる引用されていた資料は、江戸幕府が実施した検地にまつわる記録だったという、ウロ憶えの印象が残っていた。
それから、怠惰なわたしは深く調べもせず、そのままにして放っておいたのだが、友人と「清戸道」に関する議論をしていた際、もう一度改めて詳しく調べてみる気になった。江戸期から明治期にかけての、各種文献を国会図書館で調べていたら、豊島区の北西隣りに位置する練馬地域で、江戸時代の初期から「清戸道」と呼称している事例を見つけることができた。それは、練馬区教育委員会が保存しているとみられる、1674年(延宝2)に作成された「関村検地帳」(井口家文書)だ。同帳が収録されていたのは、1961年(昭和56)に練馬区から出版された『近世練馬諸家文書抄』だった。おそらく、わたしが参照した資料も同記録からの引用だったのだろう。
「関村検地帳」には、全部で12ヶ所に「清戸道」の記録が登場し、そのうちの10ヶ所および追記の1ヶ所の、計11ヶ所が幕府(勘定所配下の代官所)による検地の記録だ。
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清戸道/下畑九畝廿九歩 弐拾八間半/拾間半 久太郎
同所/下畑八畝拾三歩 拾一間/弐拾壱間 同人
同所/下畑壱畝歩 拾間/三間 同人
同所/下々畑壱反七畝拾弐歩 弐拾七間半/拾九間 同人
同所/下々畑壱反四畝七歩 拾四間/三拾間半 同人
同所/下々畑壱反三畝拾六歩 弐拾九間/拾四間 同人
同所/下々畑壱反三畝拾歩 弐拾間/弐拾間 同人
同所/下々畑弐反壱畝廿壱歩 四拾弐間/拾五間半 同人
同所/下々畑九畝拾歩 弐拾八間/拾間 同人
同所/下々畑壱反六畝拾五歩 拾八間/弐拾七間半 同人
清戸道/下々萱弐反壱畝歩 拾八間/三拾五間 久太郎 (追記)
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この中で、最下段の清戸道下々萱耕作地2反1畝歩が、同年による検地帳の追記ということになる。関村の久太郎という人物は、清戸道沿いの耕作地からはやや離れているとみられ、差配や小作人に田畑をまかせた大農家だったか、家業が商家で所有地を人に貸していたかのいずれかだろう。あるいは、鷹狩り場(御留山・御留場)の「筋」表現と同様に、地域を貫く街道「筋」の捉え方で書かれており、清戸道に通じる村内の道筋をそう表現していたか、あるいはこの道も「せいとばれえ」が行なわれる関村の道筋そのもので、そう呼ばれていたのかもしれない。
あるいは、江戸初期には神送りの火祭り=せいとばれえ(どんど焼き=左義長)を実施する道筋が、一般名称として関東各地でそのように呼ばれていたとすれば、ほかの地域にも「せいと」にさまざまな漢字を当てはめた道路(街道筋)が存在していてもおかしくないし、別の漢字を当てはめられている地域も気になる。たとえば、落合地域の近くでいえば、清戸道の街道筋から分岐し雑司ヶ谷の神田久保の谷間を抜け、護国寺へと向かう道筋が「清土道(せいとどう)」や「清土村」なら、目白台の斜面にあるのも「清戸坂(せいどざか)」だということに気づく。
江戸時代の初期、1600年代から呼称される「清戸道」だが、この当時の発音が「きよとみち」だったか「せいどどう(せいとみち)」だったのかは不明だ。おそらく、延宝年間に突然「清戸道」と呼ばれだしたのではなく、そのずっと以前、室町期より練馬から江戸城(1457年に太田道灌が江戸岬に建設した城郭)の城下町へと抜ける街道は、「清戸道」と呼ばれていたように思われる。もっとも、「清戸」と「せいと」祓いを結びつけて考えるわたしは地名や道名も含め、さらにもっとずっと以前から、さまざまな漢字を当てはめられて「清戸」ケースに限らず、関東各地で「せいと」と呼ばれていたのではないかと考えている。
さて、井口家文書には、幕府に提出した村方書上(かきあげ)とみられる記録を収集した、1720年(享保5)の「村明細帳」も残されている。同文書は、旗本で天領(幕府領)の代官だった会田伊右衛門あてに提出された、練馬地域の各種農作物に関する収穫高を報告した書上で、その中に同地域を通過している街道筋を紹介する一文が記録されている。その中にも「清戸道」は登場しており、すでに書上の提出先である幕府勘定所でも、また練馬の地元でも、江戸川橋から目白坂を上り、小石川村から下高田村(高田村)、下落合村、長崎村を経由して練馬方面へと抜ける街道筋は、「清戸道」と認識されていたのがわかる。
『近世練馬諸家文書抄』収録の村方書上より、再び引用してみよう。
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関邨道筋の儀は青梅道・保谷道・清戸道・小榑道外作付道之寸九尺道と定置候、且大道筋之寸弐間三尺、小榑道九尺右道筋之儀関村拾弐筋道ニ書上仕候、松平九郎左衛門様出役之節申上置候/名主 歌右衛門/年寄 久兵衛
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この時期、天領の関村を担当する幕府勘定所の代官が、大旗本の松平九郎左衛門だったことが判明している。また、当時「清戸道」を含む「大道筋」が2間3尺(約4.5m)ほどの道幅だったことが記録されている。これは、明治以降の住宅地にメインロードとして敷設される三間道路よりも、まだ1m弱ほど狭い街道筋だったこともわかる。
もうひとつ、徳川家の鷹狩りについて調べていた際、先述の検地帳から4年後の1678年(延宝6)に作成された『御鷹場絵図』という図版を、どこかの資料で参照している。同資料のメモは残るが、それが掲載されていた資料名を失念している。きっと、夜中に眠くなってスキャニングするのが面倒になり、そのまま寝てしまったわたしの怠惰な性格のせいだろう。これは練馬区の資料ではなく、同絵図は徳川将軍の鷹狩り「六筋」について書かれたものだったと思うが、その中に「清戸海道(街道)」というネームが挿入されていたのを憶えている。これも、江戸時代の初期に記録された「清戸道」なのだが、後日に国会図書館を調べても原典を見つけることができなかった。
江戸初期なので、(城)下町からそれほど離れてはいない鷹狩りの御留場(御留山)絵図が描かれていたと思うのだが、「戸田筋」(長崎・練馬地域側)か「中野筋」(目白・下高田・落合側)かもハッキリしない。ひょっとすると、近くでは最大規模の早大図書館か、東京中央図書館の資料なのかもしれないが、どなたか原典の『御鷹場絵図』(1678年)が収録された書籍、あるいは掲載された地誌本をご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
◆写真上:練馬区教育委員会が設置した、千川通り(栄町)沿いの「清戸道」記念碑。
◆写真中上:上は、幕末か明治初期の江戸川橋を想定し1932年(昭和7)に描かれた川瀬巴水『暮るゝ雪・江戸川』。中上は、1935年(昭和10)に撮影された鉄筋コンクリートでリニューアルされた江戸川橋。中下は、江戸川橋の現状。下は、1932年(昭和7)撮影の練馬志木街道。清戸道も同様に、このような風情だったと思われる。
◆写真中下:上・中上は、1674年(延宝2)作成の「関村検地帳」と同検地帳追記に掲載された「清戸道」。中下・下は、目白坂と記念プレート。文京区教育委員会が設置したプレートだが、江戸川橋を起点とする「清戸道」の解説が見える。
◆写真下:上は、清戸道が北西(右手)へと向かう目白通りと南長崎通りの分岐点。中上は、長崎地域を練馬方面へ向けて貫く南長崎通り(清戸道)。中下は、冒頭写真の「清戸道」記念碑の解説プレート。下は、「桜の碑」とサクラ並木がつづく千川通り(清戸道)。
★おまけ1
現在の神田川流域の「江戸川」と、東京都と千葉県の境を流れる「江戸川」とを史的に混同されている方が多いので、蛇足ながら付記したい。江戸川橋(の手前の大洗堰=現在の大滝橋のある江戸川公園あたり)から、千代田城の外濠にでる舩河原橋までの神田川は、江戸時代より1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれていた。現在の東京都と千葉県の境を流れる大河は、江戸東京の市街側からは「太井川(ふといがわ)」または「太日川(おおいがわ)」と呼ばれ、神田上水の下流域名だった江戸川とは混同されていない。写真は、葛飾区の金町あたりの現・江戸川(太井川or太日川)。
★おまけ2
1918年(大正7)に正月の海辺で描かれた、有島生馬の『どんど焼き』(せいとばれえ)。有島武郎の一家とともに、鎌倉町泉ヶ谷(いずみがやつ)へ避寒していた際に描いたもの。