
前回の野本直揮様よりお借りした野本アルバムの記事では、おもに1960年代前半に撮影された写真がメインだった。つづくアルバムでは、1960年代後半の情景が多い。したがって、写真にとらえられた下落合の風景も、それにしたがって徐々に変わりはじめている。
いちばん異なっているのは、風景の中にビルあるいはマンションなど高い建築物が、ちらほら目立ちはじめていることだ。また、人々の服装がわたしにも既視感のある子ども時代の装いに変わり、上落合には1964年(昭和39)に東京都の落合下水処理場(現・落合水再生センター)が竣工して、広々とした落合中央公園やテニスコートなどが次々にオープンしている様子がわかる。だが、1970年(昭和45)の時点では野球場がまだ工事中だった。
おそらく、当時の下水処理場と現在の水再生センターでは、下水・汚水の処理法がずいぶん異なっていると思われるが、当時は河川の水質汚染・汚濁がひどかった「公害」がピークの時代だった。今日のように、同処理場が水再生センターと名称を変え、いまやアユが棲息して毎年子どもたちの遊泳イベント(神高橋の親水テラス)も可能になった神田川をはじめ、水質が劇的に改善しつづけている渋谷川や古川、目黒川の主要な“源流”のひとつになるなど誰も想像できなかった時代だ。東京都の発表(2026年5月)によれば、多摩川の下流域だけで65万尾のアユの遡上が推定されている。ひいては東京湾の水質も改善しつづけ、現在では江戸期からつづく海苔の養殖が再開されるなど、当時の人々が聞いたら「ご冗談でしょ」としか思えないだろう。
余談だが、新宿区にはゴミ焼却場が存在しない。新宿区で出るゴミは、豊島区をはじめ他の自治体が引き受けて焼却している。その理由は、東京都の下水処理場(水再生センター)が新宿区の落合地域に建設されたからだ。新宿区をはじめ中野区や世田谷区、渋谷区、杉並区、豊島区、練馬区から排出される下水や汚水を、落合水再生センターが一括で浄化している。したがって、東京西部の下水処理は新宿区が、その代わり新宿区のゴミは各自治体が手分けして処理する仕組みが1960年代に確立されたものだろう。このような“持ちつ持たれつ”の関係は、荒川区には水再生センターは存在するが、ゴミ焼却場が存在しないのと同じ理由からだ。
野本アルバムには、一家が各地へ旅行する姿も記録されている。1960年代の半ばから、新幹線の開通や「マイ・カー」(自家用車のこと)の普及とともに、空前の全国的な「レジャー・ブーム」が到来している。高度経済成長のはじまりとともに、休日には遊園地や観光地が人々でごった返すようになった。また、おカネに余裕のある家庭は、1964年(昭和39)4月より海外への観光旅行が解禁されたので、香港やハワイ、台湾などへ出かける家族も少なくなかった。
さて、冒頭の写真①から見てみよう。1965年(昭和40)1月2日に、野本糸綿店の店前で撮影された家族の集合写真だ。カラーフィルムが広く普及していった時期だが、当時のフィルムや印画紙はいまだ技術が成熟していなかったせいか、時間が経過すると変色してしまうという課題があった。わが家のアルバムに残る、1960年代のカラー写真も同様で、まるでセピア調のモノクロ写真のように変色したものが少なくない。当時のカラーポジフィルムは、たいして変色していないが、印画紙に焼きつけるネガフィルムは、技術的な課題がまだまだあったのだろう。
写真手前の右側に立つのが、野本直揮様だ。薬王院の門前商店街には注連縄が張りめぐらされ、正月らしい松竹飾りが店舗ごとに見えている。写真②も、同日のバリエーション写真だ。枝の節痕があちこちに残る、懐かしい木製の電柱が右端に見えており、相変わらず「下落合医院」のブリキ看板が電柱に貼られているのがわかる。商家らしく、上に向けてスクスク伸びる、背の高い竹竿が店前に大きく立てられ(売上増の商売繁盛を祈念するもの)、松は竹の根もとに飾られている。
いちばん異なっているのは、風景の中にビルあるいはマンションなど高い建築物が、ちらほら目立ちはじめていることだ。また、人々の服装がわたしにも既視感のある子ども時代の装いに変わり、上落合には1964年(昭和39)に東京都の落合下水処理場(現・落合水再生センター)が竣工して、広々とした落合中央公園やテニスコートなどが次々にオープンしている様子がわかる。だが、1970年(昭和45)の時点では野球場がまだ工事中だった。
おそらく、当時の下水処理場と現在の水再生センターでは、下水・汚水の処理法がずいぶん異なっていると思われるが、当時は河川の水質汚染・汚濁がひどかった「公害」がピークの時代だった。今日のように、同処理場が水再生センターと名称を変え、いまやアユが棲息して毎年子どもたちの遊泳イベント(神高橋の親水テラス)も可能になった神田川をはじめ、水質が劇的に改善しつづけている渋谷川や古川、目黒川の主要な“源流”のひとつになるなど誰も想像できなかった時代だ。東京都の発表(2026年5月)によれば、多摩川の下流域だけで65万尾のアユの遡上が推定されている。ひいては東京湾の水質も改善しつづけ、現在では江戸期からつづく海苔の養殖が再開されるなど、当時の人々が聞いたら「ご冗談でしょ」としか思えないだろう。
余談だが、新宿区にはゴミ焼却場が存在しない。新宿区で出るゴミは、豊島区をはじめ他の自治体が引き受けて焼却している。その理由は、東京都の下水処理場(水再生センター)が新宿区の落合地域に建設されたからだ。新宿区をはじめ中野区や世田谷区、渋谷区、杉並区、豊島区、練馬区から排出される下水や汚水を、落合水再生センターが一括で浄化している。したがって、東京西部の下水処理は新宿区が、その代わり新宿区のゴミは各自治体が手分けして処理する仕組みが1960年代に確立されたものだろう。このような“持ちつ持たれつ”の関係は、荒川区には水再生センターは存在するが、ゴミ焼却場が存在しないのと同じ理由からだ。
野本アルバムには、一家が各地へ旅行する姿も記録されている。1960年代の半ばから、新幹線の開通や「マイ・カー」(自家用車のこと)の普及とともに、空前の全国的な「レジャー・ブーム」が到来している。高度経済成長のはじまりとともに、休日には遊園地や観光地が人々でごった返すようになった。また、おカネに余裕のある家庭は、1964年(昭和39)4月より海外への観光旅行が解禁されたので、香港やハワイ、台湾などへ出かける家族も少なくなかった。
さて、冒頭の写真①から見てみよう。1965年(昭和40)1月2日に、野本糸綿店の店前で撮影された家族の集合写真だ。カラーフィルムが広く普及していった時期だが、当時のフィルムや印画紙はいまだ技術が成熟していなかったせいか、時間が経過すると変色してしまうという課題があった。わが家のアルバムに残る、1960年代のカラー写真も同様で、まるでセピア調のモノクロ写真のように変色したものが少なくない。当時のカラーポジフィルムは、たいして変色していないが、印画紙に焼きつけるネガフィルムは、技術的な課題がまだまだあったのだろう。
写真手前の右側に立つのが、野本直揮様だ。薬王院の門前商店街には注連縄が張りめぐらされ、正月らしい松竹飾りが店舗ごとに見えている。写真②も、同日のバリエーション写真だ。枝の節痕があちこちに残る、懐かしい木製の電柱が右端に見えており、相変わらず「下落合医院」のブリキ看板が電柱に貼られているのがわかる。商家らしく、上に向けてスクスク伸びる、背の高い竹竿が店前に大きく立てられ(売上増の商売繁盛を祈念するもの)、松は竹の根もとに飾られている。






時代は前後するが、1962年(昭和37)に野本糸綿店を正面からとらえたのが写真③だ。空襲をまぬがれているので、戦前に建てられた東京商家の様子がわかる貴重な写真だ。戦前と異なるのは、戦後設置とみられる、店先に日陰をつくるための張りだしテント(オーニング)だろうか。店の左側には、ミゼット(オート三輪)のフロント部分が見えている。ダイハツが発売したミゼットは、国内だけで30万台以上(輸出も含めると50万台以上)も販売された同社の超ヒット車種であり、特に荷物や商品などを手軽に運べることから、全国の店舗に広く普及していった。
そのミゼットの荷台に乗って、得意げな表情をしている子どもたちが写真④だ。ミゼットは、ちょうど野本糸綿店の向かいにあった船木精米所のもので、残念ながらカメラのピントが子どもたちにあっていない。そのおかげで、背後に写る商店街の様子が克明にとらえられている。右側の「小川硝子店」は、野本糸綿店から西へ4軒めの店舗で、その手前には魚屋の「魚緑」が店開きをしていたはずだ。小川硝子の西隣りは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」(住宅協会)では商店名がない「片桐」邸となっており、細い路地をはさんで「パーマミハル」の看板が出ているのが平岡美容院、そのさらに西隣りが「薬局フタバ」という順に並んでいると思われる。
画面左手(商店街の南側)は、船木精米所の西隣りが「高橋氷店」、その隣りが「ツバメドライクリーニング」工場という順番で並んでいた。いつかの記事で、着物の需要が減るにつれ、神田川や妙正寺川沿いに展開していた染物工場が、その設備を応用してクリーニング工場に衣替えするケースをご紹介したが、ツバメドライクリーニングももとは古くからある染物工場のひとつだったのかもしれない。田島橋の北詰めにあった三越染物工場が、戦後は染物工程を残しつつ、半分がクリーニング事業に転換していたのと同じ経緯ではないだろうか。
1965年(昭和40)に撮影された写真⑤も、店舗の造りがよくわかる1枚だ。店の中にいる野本兄弟の左側に、ちょっとかわいい女の子が座っているが、遊びにきた「久美ちゃん」だそうだ。
そのミゼットの荷台に乗って、得意げな表情をしている子どもたちが写真④だ。ミゼットは、ちょうど野本糸綿店の向かいにあった船木精米所のもので、残念ながらカメラのピントが子どもたちにあっていない。そのおかげで、背後に写る商店街の様子が克明にとらえられている。右側の「小川硝子店」は、野本糸綿店から西へ4軒めの店舗で、その手前には魚屋の「魚緑」が店開きをしていたはずだ。小川硝子の西隣りは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」(住宅協会)では商店名がない「片桐」邸となっており、細い路地をはさんで「パーマミハル」の看板が出ているのが平岡美容院、そのさらに西隣りが「薬局フタバ」という順に並んでいると思われる。
画面左手(商店街の南側)は、船木精米所の西隣りが「高橋氷店」、その隣りが「ツバメドライクリーニング」工場という順番で並んでいた。いつかの記事で、着物の需要が減るにつれ、神田川や妙正寺川沿いに展開していた染物工場が、その設備を応用してクリーニング工場に衣替えするケースをご紹介したが、ツバメドライクリーニングももとは古くからある染物工場のひとつだったのかもしれない。田島橋の北詰めにあった三越染物工場が、戦後は染物工程を残しつつ、半分がクリーニング事業に転換していたのと同じ経緯ではないだろうか。
1965年(昭和40)に撮影された写真⑤も、店舗の造りがよくわかる1枚だ。店の中にいる野本兄弟の左側に、ちょっとかわいい女の子が座っているが、遊びにきた「久美ちゃん」だそうだ。


時代は進み、1966年(昭和41)4月に店前で撮影された、野本直揮様(右端)が小学校へ入学するときの記念が写真⑥。ピッカピカの1年生なのだが、背後の壁に「手をあげて横断歩道を渡ろうよ」のポスターが貼られている。子どもたちの背後に、トラックの接近するのが見えているが、この商店街の通りは十三間通り(新目白通り)が敷設される以前、聖母坂通り(補助45号線)から戸塚(現・高田馬場)や目白方面へと抜けるメインストリート(新井薬師道の道筋)だった。したがって、時代をへるにしたがってクルマの往来が頻繁になり、先のポスターも貼られたのだろう。
写真⑦は、1967年(昭和42)11月に撮影された家族の肖像で、左側の着物姿のお姉さんは「正子ちゃん」とのことだ。晩秋の穏やかな情景だが、十三間通りの工事が近づき、家からの立ち退きが迫っている時期に撮影されたものだ。野本家では、すでに下落合の近所に別の敷地を入手して、新しい自邸および店舗を建設している最中だった。
東隣りの中華料理店「香蘭」は営業しているようだが、電柱に貼られていた「下落合医院」の看板が外されている。やはり、十三間通りの工事で全敷地がひっかかる同医院は、ちょうどこのころにどこかへ移転したものだろう。奥に写る「香蘭」の、西側の壁面が見えているが、昭和初期に建てられた店舗建築なのでだいぶ傷みがきているのがわかる。戦後20年以上がたち、戦前も含めると30年以上が経過している建物だ。十三間通り(新目白通り)の敷設計画が、商店街では視野に入っていたためリフォームをせず、我慢をして立ち退く日を待ちつづけていたと思われる。
写真⑦は、1967年(昭和42)11月に撮影された家族の肖像で、左側の着物姿のお姉さんは「正子ちゃん」とのことだ。晩秋の穏やかな情景だが、十三間通りの工事が近づき、家からの立ち退きが迫っている時期に撮影されたものだ。野本家では、すでに下落合の近所に別の敷地を入手して、新しい自邸および店舗を建設している最中だった。
東隣りの中華料理店「香蘭」は営業しているようだが、電柱に貼られていた「下落合医院」の看板が外されている。やはり、十三間通りの工事で全敷地がひっかかる同医院は、ちょうどこのころにどこかへ移転したものだろう。奥に写る「香蘭」の、西側の壁面が見えているが、昭和初期に建てられた店舗建築なのでだいぶ傷みがきているのがわかる。戦後20年以上がたち、戦前も含めると30年以上が経過している建物だ。十三間通り(新目白通り)の敷設計画が、商店街では視野に入っていたためリフォームをせず、我慢をして立ち退く日を待ちつづけていたと思われる。





落合第四幼稚園と、落合第四小学校の写真類も数多く撮られている。写真⑧は、1963年(昭和38)3月に撮影された、落合第四幼稚園の卒園式をとらえた1枚だ。先の小学校へ上がるピッカピカの1年生の、約1か月前に撮られたもので野本直揮様が写っている。
つづいて写真⑨は、1964年(昭和39)の落合第四小学校における運動会を撮影したものだ。落合第四小学校から眺める新宿一帯の風景は壮観で、当時は高いビルやマンションなどがほとんどない時代なので、戸山ヶ原の集合住宅から新宿駅西口の淀橋浄水場あたりまでが、よく見えたのではなかろうか。写真左手には、中野方面の遠望風景がとらえられている。
写真⑩と写真⑪は、1965年(昭和40)10月1日に行われた、落合第四小学校の運動会をとらえた2枚だ。このころになると、木造の校舎が鉄筋コンクリートの校舎へ、徐々に建て替えられているのがわかる。前年の1964年(昭和39)に、第1期改築鉄筋3階建校舎=北校舎の建て替えが終了していたが、運動会を撮影した1965年(昭和40)には、第2期改築鉄筋3階建校舎(西側校舎)と体育館が春先に竣工したばかりだった。
1966年(昭和41)の空中写真を参照すると、いちばん北側の北校舎と体育館は建て替えられているが、北寄りにあった木造校舎は解体されて空き地(のちに校庭を拡張)になっており、また校庭の南西にある校舎は古い木造建築のままなのがわかる。すべての校舎の建て替えが終了し、現在の姿になるのは中央校舎が落成した、1976年(昭和51)11月になってからのことだ。また、御留山を見ると、相変わらず武蔵野原生林そのままの「落合秘境」だが、北側には大蔵省が買収したあと、公務員宿舎「落合住宅」の竣工している様子が見えている。
つづいて写真⑨は、1964年(昭和39)の落合第四小学校における運動会を撮影したものだ。落合第四小学校から眺める新宿一帯の風景は壮観で、当時は高いビルやマンションなどがほとんどない時代なので、戸山ヶ原の集合住宅から新宿駅西口の淀橋浄水場あたりまでが、よく見えたのではなかろうか。写真左手には、中野方面の遠望風景がとらえられている。
写真⑩と写真⑪は、1965年(昭和40)10月1日に行われた、落合第四小学校の運動会をとらえた2枚だ。このころになると、木造の校舎が鉄筋コンクリートの校舎へ、徐々に建て替えられているのがわかる。前年の1964年(昭和39)に、第1期改築鉄筋3階建校舎=北校舎の建て替えが終了していたが、運動会を撮影した1965年(昭和40)には、第2期改築鉄筋3階建校舎(西側校舎)と体育館が春先に竣工したばかりだった。
1966年(昭和41)の空中写真を参照すると、いちばん北側の北校舎と体育館は建て替えられているが、北寄りにあった木造校舎は解体されて空き地(のちに校庭を拡張)になっており、また校庭の南西にある校舎は古い木造建築のままなのがわかる。すべての校舎の建て替えが終了し、現在の姿になるのは中央校舎が落成した、1976年(昭和51)11月になってからのことだ。また、御留山を見ると、相変わらず武蔵野原生林そのままの「落合秘境」だが、北側には大蔵省が買収したあと、公務員宿舎「落合住宅」の竣工している様子が見えている。


さて、子どもたちが小学校から下校する風景も撮影されている。子どもたちが通る町並みは、十三間通りの工事で全的に消えてしまった街角もとらえられていて貴重だ。1963年(昭和38)4月に撮影された連続写真で、ここはドキュメント風に順を追ってご紹介していこう。写真⑫は、まさに落合第四小学校の北側校舎(木造時代)の昇降口を出て、下校する生徒たちをとらえたものだ。写真⑬は、小学校を出ていつも登下校する道筋(雑司ヶ谷道=新井薬師道)へと向かう子どもたちで、左手の下見板張りの外壁は、校庭の南西側にあった戦前からの古い校舎だ。
写真⑭は、野本家のお祖父ちゃんが迎えにきたようで、大倉山(権兵衛山)に通う権兵衛坂の下あたりを歩く子どもたちだ。わたしの学生時代には、この左手に薪炭屋が営業をつづけていた。そういえば、写真⑪には校庭から西を眺める体育館と校舎との間に、大倉山のピーク界隈がとらえられている。写真⑮は、いまでは見られない風景で、雑司ヶ谷道(新井薬師道)から南へ折れて昔日には八重垣道と名づけられていた道筋へ入り、最初の曲がり角を右折(西折)するところをとらえたものだ。正面に見えている踏み切りは、西武新宿線の現在は西武高田馬場駅から4つめになってしまった「馬6」踏み切りで、右手のシヤッターを閉めている建物は「今泉製作所」だと思われる。
写真⑭は、野本家のお祖父ちゃんが迎えにきたようで、大倉山(権兵衛山)に通う権兵衛坂の下あたりを歩く子どもたちだ。わたしの学生時代には、この左手に薪炭屋が営業をつづけていた。そういえば、写真⑪には校庭から西を眺める体育館と校舎との間に、大倉山のピーク界隈がとらえられている。写真⑮は、いまでは見られない風景で、雑司ヶ谷道(新井薬師道)から南へ折れて昔日には八重垣道と名づけられていた道筋へ入り、最初の曲がり角を右折(西折)するところをとらえたものだ。正面に見えている踏み切りは、西武新宿線の現在は西武高田馬場駅から4つめになってしまった「馬6」踏み切りで、右手のシヤッターを閉めている建物は「今泉製作所」だと思われる。


写真⑮には、兄を迎えにきた野本直揮様(右端)も写っているが、右手の大谷石の縁石に築かれた塀が、氷川明神社の南東角地だったとみられる。すなわち、この角地の手前から「馬6」踏み切りのあたりまで、現在は十三間通り(新目白通り)が貫通していて、すべて消滅してしまった風景だ。この道を右折(西折)すると、恵比寿屋酒店の前を通って商店街の通りへと抜けることができた。
<つづく>
<つづく>
◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。なお1966年(昭和41)の空中写真は、十三間通り工事前の門前商店街をとらえた最後の姿とみられる。
★おまけ
写真に撮られた子どもたちの下校コースを、1963年(昭和38)撮影の空中写真でたどってみた。下の写真は、1963年(昭和38)に撮影された下校コースの現状。写真⑬の落四小からの下校近道は現在、落合第四幼稚園の敷地内になっていて利用しにくい。写真⑭の雑司ヶ谷道(新井薬師道)は、なんとなく面影が残っている。写真⑮の氷川明神東側の「八重垣道」は、十三間通りに断ち切られ昔の面影は皆無だ。いちばん下の写真は、門前商店街跡の現状。
★おまけ
写真に撮られた子どもたちの下校コースを、1963年(昭和38)撮影の空中写真でたどってみた。下の写真は、1963年(昭和38)に撮影された下校コースの現状。写真⑬の落四小からの下校近道は現在、落合第四幼稚園の敷地内になっていて利用しにくい。写真⑭の雑司ヶ谷道(新井薬師道)は、なんとなく面影が残っている。写真⑮の氷川明神東側の「八重垣道」は、十三間通りに断ち切られ昔の面影は皆無だ。いちばん下の写真は、門前商店街跡の現状。




