鉄道沿いに設置された積込貯留槽と卸場貯溜槽。

ブロッコリー畑(前川).JPG
 少し前、西武鉄道武蔵野鉄道による糞尿輸送、すなわち1944年(昭和19)6月から開始された戦時の食糧難対策として、東京都ひいては国により推進された食糧増産計画について記事にしていた。きょうの記事も、食事中の方はページ遷移をお薦めしたい。
 日本政府(+GHQ)が、敗戦直後に1,000万人の餓死を予測しているが、その被害を最小化するために食糧(穀物・野菜)の増産をめざした糞尿輸送は、1953年(昭和28)3月までつづけられている。また、戦争末期の絶望的な肥料不足に加え、徴兵され戦場へ送られた男手が農村でも圧倒的に不足していた。したがって、戦前のように市街地へ出かけ下肥を調達する重労働ができず、東京近郊の農家にとっては鉄道による無料の下肥輸送は、少しでも収穫量を右肩あがりにするための、かけがえのない生命線ともなっていった。
 そもそも、鉄道による田園地帯への糞尿輸送は、戦争末期の食糧不足による食糧増産計画が初めてではなかった。関東大震災の少し前から、東京市部の人口増加が顕著となり、下水道整備や衛生環境のテーマとともに、屎尿処理の課題が大きくクローズアップされていた。そこで、消費地としての都市部から生産地としての農村部へ屎尿を運び、貨物列車の帰路には農村部から都市部へ生産物を運びこむという、生産・物流のサイクル化が東京市では検討されている。また、すでに武蔵野鉄道と東武東上線では大正期から実際に輸送が行われており、郡部の農業会(当時の農業協同組合)と鉄道会社、東京市の3者によって事業化されていた。
 1928年(昭和3)に東京市政調査会が発行した、「都市問題パンフレットNo.9」の医学博士・藤原九十郎による『都市の屎尿処分問題』から、少し長いが引用してみよう。
  
 屎尿の運搬は単に衛生的、経済的と云ふのみでなく、出来るだけ迅速に市外に搬出する事を以て其の根本義とせねばならぬ。彼の人力、牛馬車による遅々延々たる汚物の行列は、たとひ郊外地に於ても絶対に廃すべきことである。従つて将来搬出に用ふる運搬機関は、第一に鉄道の利用であらう。固(もと)より都市は物資の消費場であつて田舎は其の生産場である。(中略) 勿論食糧運搬車と屎尿運搬車とを同一にすることは出来ないが、同じ列車に連結する事は亳(すこし)も差支へはあるまい。現在鉄道輸送を行へるは東京市だけであつて一日三百石内外を東上線下板橋駅及び武蔵野鉄道江古田駅まで自動車で運搬し、屎尿輸送用貨車に積込み、各駅にて郡農会(ママ:農業会)は取引に要する諸経費を差引きてその残りを市に納入する事になつて居り、其の額一荷当り三銭と計上されて居る。(カッコ内引用者註)
  
 戦争末期に実施された食糧増産計画にもとづく糞尿輸送は、あらゆる物資の不足から、「食糧運搬車と屎尿運搬車とを同一」にせざるをえなかった経緯が透けて見える。ただし、往路に農村部へ糞尿を輸送はしていたが、復路に糞尿タンク車の上部に生産物を積載してもどる列車が、実際に運行されていたかどうかは、敗戦前後の混乱期でさだかではないようだ。
糞尿タンク車194411タ1形タ31武蔵野鉄道.jpg
井荻糞尿貯留槽→タンク車積込(戦後).jpg
 さて、前回の記事では食糧増産計画と糞尿輸送に関する、堤康次郎と西武鉄道の取り組みについて触れたが、今回はそれを受け入れる農村側の視点から同計画について見てみよう。西武鉄道では、農村へ運搬した下肥を貯蔵するタンク施設を「糞尿貯溜槽」と呼んでいたが、それを汲みだして活用する農業会・農家側では「糞尿卸場貯溜槽」と、「卸場」をつけて利用者側の視点で呼称している。糞尿貯溜槽は、武蔵野鉄道と西武鉄道をあわせて17ヶ所に設置されていた。
 その内訳は、市街地からトラックなどで糞尿を集め、それを各地の貯溜槽へ貨物列車で配送する、ターミナル的な中心基地となる貯溜槽を「積込貯溜槽」と呼称している。積込貯溜槽は、西武線に2ヶ所、武蔵野鉄道に1ヶ所建設され、それらを両線の農村地帯14ヶ所に展開していた卸場貯溜槽へと運んでいた。貯溜槽の詳細は、下掲の一覧表のとおりだ。
貯留槽一覧.jpg
 秋津駅は「未設」となっているが、1944年(昭和19)からの食糧増産計画では設置・利用されなかったという意味で、1922~28年(大正11~昭和3)までは、武蔵野鉄道の積卸貯溜槽が設置されており、周辺の農業会や農家で利用されていた。
 上の一覧表で、西武鉄道の東村山駅に設置された卸場貯溜槽について、詳しく研究した論文が残されている。2013年(平成25)に、東村山ふるさと歴史館の紀要である「東村山市史研究」第22号に収録された、大藪裕子『東村山に造られた糞尿卸場貯溜槽と下肥利用』から引用してみよう。
  
 下肥を運ぶタンク電車は、この溜に向かって毎朝来ていて、その車両は数両連なって来ているときもあった。汲み取ることが出来るのは、午前九時から午後五時までで、そのほとんどは一日で汲み切っていた。万が一あふれてしまうようなときには、溜から現在の西武園線沿いにパイプが敷かれていて、前川へ流せるようになっていた。/汲み取ることの出来る時間が決まっていたのは、係の人がいたからで、その人は椅子に座って券の受け取りをしていた。溜の見張り番のような役だった。券とは農業会(現在の農業協同組合)で出していたもので、一回に十枚、つまり肥桶十本分が配給されていた。当時、すべての物は配給制で、米や麦、醤油、味噌などと同様に、下肥も配給だったのである。係の人は、溜のある三角地に家を建てて住んでいた。
  
 卸場貯溜槽は、打ちっぱなしのコンクリートで建設されており、厚さは30cmほどだった。貯溜槽の上部にはバルブが取りつけられており、それをまわすと下部のゴム製パイプから糞尿を汲みとれる仕組みになっていた。これは東村山駅ばかりでなく、西武線の各駅近くに設置された卸場貯溜槽も同様の設計だったろう。敗戦前後は、近くの農家からリヤカー大八車に肥桶を乗せ、下肥を汲みにきていたが、戦後もしばらくたつと専用のトラックが汲みにきていた。トラックの荷台には、肥桶ではなく大きな専用木製タンクが取りつけられ、そこへ下肥を積載していた。
都市問題パンフレットNo.9東京市政調査会.jpg 東村山市史研究22号2013.jpg
肥桶.jpg
 また、コンクリートの卸場貯溜槽には屋根がなかったため、雨が降ると糞尿が薄まり、よい下肥にはならなかった。それでも敗戦前後は、少しでも畑地に肥料を散布したいために、雨天の日でも多くの農家が汲みとりにきていたという。肥桶については、前回の記事でもご紹介しているが、いくつかの規格や種類があったようで、これは肥桶を載せるリヤカーや大八車などのサイズにあわせて製造されたか、あるいは戦時中には農村から男手が激減してしまったため、女性にも扱える小型の肥桶が製造されたのではないだろうか。
 東村山の卸場貯溜槽から、農家の下屋(肥料小屋)へ運ばれる様子を同論文より引用してみよう。
  
 下肥は肥桶に汲んで運んだ。肥桶は一本、二本と数え、二本を一組にして天秤棒で担ぐので、肥桶二本で一荷と言う。大抵どこの家でも二荷ぐらいはあった。/畑へ運ぶには、肥桶をリヤカーに載せて運んだ。大きなリヤカーには六本の肥桶を載せることも出来たが、一人で引くには四本が限度であり、一般的なリヤカーにはちょうど四本載せられた。/トラックに載せて運ぶ場合には、肥桶の吊り手の向きをそろえて太い棒を通し、固定させた。二段に肥桶を積み上げることもあった。トラックの荷台に、下肥を直接入れて運ぶことも出来たが、畑へ撒くには肥桶に入れて持ち運ばざるを得ないため、詰め替える手間を考えると、はじめから肥桶に入れて運ぶ方が効率的だった。
  
 トラックなどで運搬すると、肥桶が揺れて道路端にこぼれることもあったが、日々多くの餓死者がでている敗戦前後の社会状況では、誰もそれに文句をいわなかったという。ちなみに、敗戦から5年が経過した1950年(昭和25)の時点でさえ、年間に1万人近くが栄養失調で餓死(栄養不良による病死者含まず)するような状況がつづいていたので、優良な下肥を用いた穀物や野菜の食糧増産は、東京都や政府の最優先課題のひとつだった。
井荻積込貯留槽1947.jpg
東村山糞尿卸場貯留槽1947.jpg
 戦後、化学肥料が出まわりはじめるにつれ、寄生虫の課題とも相まって下肥の利用は減っていった。また、各自治体では衛生条例が施行され、下肥の利用が制限されている。さらに、東京市街地のトイレがほとんど水洗になると、糞尿自体が家庭生活から見えないところで処理されるようになり、その再利用が困難になっていった。ただし、下落合の近くにある畑地では、その臭気から21世紀に入ってからも、下肥が野菜づくりに活用されていたとおぼしきことは付記しておきたい。w

◆写真上:東村山駅近くの、前川沿いの畑地で撮影したブロッコリー畑。
◆写真中上は、武蔵野鉄道で使用されていた木製の糞尿タンク車。1944年(昭和19)11月ごろに撮影されたもので、形式名は「タ1形タ31」。車両の下部が往路の糞尿タンクで、上部の柵のあるスペースが帰路の野菜積載スペース。は、戦後に撮影された井荻駅の糞尿積込貯留槽。太いゴムホースを使い、積みこみ作業が行なわれている様子。
◆写真中下上左は、1928年(昭和3)に発行された「都市問題パンフレットNo.9」の藤原九十郎『都市の屎尿処分問題』(東京市政調査会)。上右は、。2013年(平成25)に出版された「東村山市史研究」第22号(東村山ふるさと歴史館)。は、使われなくなった肥桶。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の井荻駅西側に設置されていた積込貯留槽。は、同年撮影の東村山駅北側の西武新宿線と西武園線の分岐に設置されていた卸場貯溜槽。