映画の目白文化村と夏川静江1924年。(中)

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 つづいて『街の子』のシーンが変わり、おそらく目白駅から山田邸へ俥(じんりき)で帰ってきた山田夫人の場面からはじまる。ここからは、“動く”目白文化村の情景がつづく。山田邸は、もちろん実際は落合第一府営住宅に住んでいたF.L.ライトの弟子・河野伝の設計による中村邸で、その向かいには女性が設計した末高邸が大映しになっている。また、中村邸の門前で山田夫人が降りる際には、早大講師だった末高邸の背後にある、笠松邸の南面が見えている。(10)
 門前から俥が帰るシーンでは、中村邸のエントランスから三角屋根が鋭角な渡辺邸、少し遠景にはテニスコートをはさんで河野邸とみられる2階家が見えている。(11) 次に、帰る俥と仙吉がすれちがうシーンは、実際に中村邸のある道筋ではなく第一文化村の入口だ。(12) この風景は、後半にもう一度登場するが、松下春雄が翌年に描いた『文化村入口』(1925年)と見比べると、設置された看板や文化村交番など、まったくそのとおりに描かれていたことがわかる。(13) 正面の建物は竹俣内科医院であり、交番には白い夏服を着た巡査が見えている。
 このシーンでたいへん興味深いのは、前年の1923年(大正12)夏に埋め立てを完了した、前谷戸の新たな住宅敷地に、太い下水用の土管や縁石に用いる大谷石の石材が集積されているのがとらえられている。この埋立地の、三間道路をはさんだ右手にはレンガ造りの箱根土地本社ビルが建っているはずだ。また、前谷戸の埋め立てにともない、新たに弁天社のある東西の三間道路を敷設する必要性が生じたため、文化村倶楽部の北側に伸びたウィングの撤去工事、および改築が行われたとみられる。埋め立てから1年後の映像を見る限り、改築した文化村倶楽部の北側に、この時期にはモルタルによる高めな塀が設置されていたようだ。
 次は、第一文化村の中村邸の応接間にカメラがセッティングされている。手前には、荻島安二の作品とみられる彫刻の頭部が見え、窓の外には末高邸とその背後の笠松邸がよく見える。(14) また、中村邸の応接間を女中が通るシーンがつづき、大映しになった中村邸の窓のデザインがよくわかる。(15) 窓の下には、泥棒よけなのだろうベランダに見られるようなデザインの格子がはめられ、採光か換気のために設けられた下の窓をガードしている。最初は掃きだし口の窓かと考えたが、当時はすでに洋間で箒(ほうき)は使わず独自の掃除道具が普及しつつあった。
 少し余談になるが、同邸を建てた中村正俊は小西六の幹部社員であり、目白文化村の住所は下落合1321番地にあたる。以前、「小西六とオリエンタルが“同舟”する下落合。」の記事で、杉浦六右衛門の家を第一文化村で探したが、どうしても見つからずそのままになっていた。ひょっとすると、1935年(昭和10)前後に日本橋区室町3丁目1番地へ新社屋が完成するまで、同社の本社所在地を一時的に中村邸に置き、法務局で登記変更していたのではないか。
 盗んだカネを返しにきた仙吉だが、6円50銭も不足しているので山田夫妻に返すのをあきらめて、第一文化村の二間道路を走っていく。(16) このとき見えているのは、右端の植栽は中村邸の東端で、その向こう側が信夫邸の敷地だがいまだ建設されていない。信夫邸はこの直後、1925年(大正14)の夏までに建設されている。映像正面に見えているのは勝木邸だが、その手前の西並びに建つ山岸邸や林邸(角地)の敷地は、いまだ着工されず空き地のままとなっている。画面の左端に見えている生垣は、すでに建設されている榎邸だが、三間道路をはさみその向こう側に見えている濃い樹林は、箱根土地本社の前庭にあたる不動園だ。
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前谷戸の埋め立て192307.jpg
 つづいて、神楽坂の赤城大明神社の境内がロケ地に選ばれている。台座に「改代町」と刻まれた狛犬は、リニューアル前の赤城社では朱塗りの拝殿前に鎮座するおなじみの情景だった。赤城社では拝殿前の広場と、境内西側にある赤城元町へと下りる階段で撮影が行われている。その直後、山田夫妻に返済する不足金を稼ぐため、納豆売りになった仙吉が急坂を上るシーンが登場するが、目白崖線に通う急坂のひとつで撮影されたものだろうか。
 お京と仙吉が、どこかの西洋館の勝手口に掘られた井戸端で再会したあと、仙吉は盗んだカネを返しに目白文化村の山田邸(中村邸)へ向かうのだが、ここでスリの親分と手下(てか)の悪ガキたちが登場する。だが、その登場しているのが驚いたことに、落合府営住宅の街角なのだ。(17) 親分の縄張りや自宅は、江戸川橋界隈じゃなかったのかよ……と思わず突っこみを入れたくなるけれどw、江戸川橋から4kmも離れた下落合で火付けと泥棒をする悪だくみを、落合府営住宅(おそらく第一文化村の北側にある落合第二府営住宅)の三間道路上で、しかも真昼間(まっぴるま)に堂々としているのだ。なぜ、落合府営住宅だとわかったのかといえば、落合第一府営住宅から落合第四府営住宅まで描かれた案内板が、撮影された板塀の前に建っているからだ。(18)
 この時期、落合府営住宅は第一文化村の西側にあたる第四府営住宅まで竣工しており、4区画そろった住宅街の様子が案内板には描かれている。案内板を拡大してみると、第二府営住宅2号・但本邸の南側にある空き地に、なんらかの記号が描かれているように見えるので、それが「現在地」を示す印ではないかと思われる。その前提で映像を観察していくと、はたして下落合1511番地の路上に当時の情景とよく一致する街角を見つけることができる。この空地の右手(東側)には、「むさしや(武蔵屋)」★(記事最終末参照)という店があるが蕎麦屋ないしは鮨屋だろうか。
 このあと、再びシーンがもとへもどり、第一文化村の山田邸(中村邸)へと向かう仙吉と、ほんとうに更生してカネを返すのかを見とどけるために、そのあとを追いかけるお京が登場する。ところが、電柱がなく道端には共同溝が敷設されているようなので、同じ目白文化村の中だと思われる風景だが、どこの住宅かが不明だ。(19) 画面の左手から太陽が射しているので、そちらが南か南に近い方角だと考えると、このような風景の場所を文化村入口付近では特定できない。手前が2階建て、向こう側が平家建て(屋根裏部屋のある2階家?)の洋館だが、奥は雑木林が拡がる未開発地のようだ。十三間通り(新目白通り)の工事で、消滅してしまった第二文化村のどこかだろうか?
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16榎邸・勝木邸・中村邸(信夫邸未建設).jpg
第一文化村街角192508.jpg
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 つづいて、(13)の文化村入口シーンが登場し、実際の道筋とは異なる山田邸(中村邸)前の二間道路が、パースのきいたアングルで撮られている。(20) 左手の邸が、これまでも登場している山田邸(中村邸)で、右手の大谷石による門柱が末高邸だ。左側の中村邸の西並びには、いまだ大沢邸も長田邸も未建設で空き地のままとなっている。二間道路の右側には、目白文化村にはめずらしい電柱が2本並んで建っているが、これは電燈・電力線用の電柱ではなく電信・電話線の柱だ。(電燈・電力線は地下の共同溝に埋設されている) 第一文化村が販売されるとすぐに、電話を引く家庭が続出したため急遽建てられた背の低い電柱だ。
 一方、末高邸の西並びには、すでに関口邸安食邸が建てられていた。法政大講師の関口邸には、劇作家の岸田国士が頻繁に訪れており、その西隣りの安食邸は1935年(昭和10)より会津八一霞坂から転居して住み、文化村秋艸堂(別名:慈樹園)と呼ばれるようになる。残念ながら、安食邸は関口邸と樹木の影に隠れて見えない。正面には、第一文化村でもっとも広い敷地(300坪)に建っていた、神谷邸の南ウィングが見えている。神谷邸も、当時は箱根土地の嘱託社員として勤務していた河野伝の設計であり、門柱はどこか帝国ホテルの意匠を連想させる。神谷邸の向こう側には、やはりライト風の西洋館で竣工間近な、2階建ての前田邸が見えている。
 ここで、仙吉を追いかけてきたお京は、末高邸の門柱の陰にかくれて成りいきを見守り、仙吉は山田邸(中村邸)の門から玄関へと入っていく。(21) 末高邸は、大谷石の門から玄関までの距離があったため、中村邸を撮影するにはカメラアングルやセッティングポイントとしては最適だったのだろう。この映画の随所に登場する目白文化村の邸宅は、水はけをよくするのと湿気を避けて住宅を乾燥させるために、道路面からかなり高い位置に建てられていたのがわかる。
 ところが昭和期に入ると、自動車を所有する家庭が増えたため、車庫の部分のみは路面と水平になるように築垣を崩したり、あるいは戦後に道路が舗装されると築垣をすべてなくして、道路と水平に建設する邸宅が急増することになる。さて、盗んだおカネを返しにきた仙吉は、山田邸(中村邸)の玄関で勇気をなくし逡巡することになるが、そのつづきの場面は次回の記事ということで。
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20中村邸門前・神谷邸・関口邸・前田邸(建設中).jpg
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 当時の下落合は、住宅街の路面が舗装されておらず赤土のままなので、仙吉がちょっと走っただけでも土ぼこりがひどかった様子がうかがえる。まだ空き地が多かった1924年(大正13)の当時は、春先などに強風が吹くと土ぼこりが一帯に舞いあがり、洗濯物や蒲団などの管理や始末がたいへんだったのではないか。ただし、市街地とは異なり空気は澄んでいて清々しかっただろう。
                                   <つづく>

◆写真(10)~(21)は社会教育劇『街の子』の場面で、ほかは当該シーンに関連する写真・図版。
おまけ
 早大教授の末高信は、家の設計をすべて妹に委任したというエピソードが残っているが、その末高邸が俥の背後に、また中村邸の応接間からハッキリととらえられている。末高邸の背後に映る、ペンションのような笠松邸もめずらしい。末高邸の屋根は緑、いちばん下の神谷邸南ウィングの屋根を緑っぽくとらえているので、このAIエンジンの色彩認識は案外正確なのかもしれない。どの邸も築1~2年なので、生垣や庭木が育っておらず、まだ本来の落ち着いた風情は見られない。
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