
上落合186番地の村山知義が、『演劇的自叙伝2』(東邦出版社/1971年)で「東中野駅のこっち側」と書き、上落合742番地に住んだ尾形亀之助の『尾形亀之助全集・全1巻』(思潮社/1970年)の年譜で、「上落合でバーを経営していた吉行エイスケ夫人あぐり」と記録されているので、わたしは吉行エイスケ・吉行あぐり(安久利)夫妻が経営するバー「あざみ」は、てっきり上落合と東中野の境界あたりだ思っていた。ところが、バー「あざみ」は現在の東中野駅ではなく、1928年(昭和3)に西へ移動する前の東中野駅(駅名変更前の元・柏木駅の位置)の駅前にあった。駅前から上落合へ向かう、当時は「プロレタリヤ通り」などと呼ばれた商店街の出発点だ。
ところが、「あざみ」は吉行エイスケ・あぐり夫妻が経営をはじめる以前、関東大震災の直後から東中野駅前で営業していた。経営していたのは、震災前に横浜で夫である医学博士の於保謹太郎を亡くした於保照子という女性だった。喫茶店ともバーとも記録されている「あざみ」(いずれにしろ酒は置いていたのだろう)は、震災前から東中野駅前で開店していたという資料も見うけられる。そして、於保照子は1926年(大正15)に吉行エイスケへ、店をそのまま“居抜き”で譲っている。その後、於保照子自身は同じ屋号の「あざみ」のまま、資生堂の並びである京橋区出雲町14番地(のち銀座7丁目4番地の10)にバー「あざみ」を開店している。
まず、「あざみ」の所在地が判明したのは、1926年(大正15)に記録された「商業登記簿」からで、喫茶店「あざみ」は於保照子名義で中野町東中野1594番地と登録されている。元・柏木駅の北側で、駅名が東中野駅と変更(1917年)された駅前の西側にあたる区画だ。現在の住所でいえば、中野区東中野4丁目1番地ということになる。ちょうど当時の旧・東中野駅を北口へ降りると、駅前の左手すぐの位置になり、村山知義アトリエから直線距離で760mほど、上落合742番地の尾形亀之助の家からも直線距離で800mほどの距離だった。
於保照子について紹介した、1926年(大正15)刊行の『日本之医界』(日本之医界社)掲載の、「医界異聞」から引用してみよう。この記事では、「あざみ」は震災後の開店とされている。
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つい最近銀座は資生堂の横に「あざみ」と云ふ、ごく瀟洒な落ついたカフエーが出来たことは銀ブラ連の仲間にはとうにご承知の筈。/だが、ここの主人公とは誰あらう嘗ては横浜に於て名を知られた医博於保謹太郎君の未亡人てる子さんだ。震災ちよつとまへ、ご主人にはなくなられるし間もなくあの震災騒ぎ、で(ママ)夫人は家の下敷きとなつて大怪我をするといつたご難つづき。/そこで夫人が雄々しくも更生の第一歩として実社会に打つて出たのが、震災間あらず、郊外は東中野に開かれた喫茶店「あざみ」といふのがそれ。そして愈々今度はカフエーの本場である銀座の真中に乗出して来た訳なのである。
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照子夫人は、自邸のある横浜でなく、たまたま東京で震災に遭っているようなので、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは、震災後の可能性が高いように思える。あるいは、於保照子もまた、以前からつづく「あざみ」という店をそのまま譲りうけたものだろうか。
医学博士だった夫の資産が潤沢にあったのだろう、於保照子は東中野1594番地で3年間営業したあと、1926年(大正15)の後半期にバー「あざみ」を銀座で改めてオープンしている。おそらく夫の仕事関係から、銀座では医学分野の客筋が多く集まったのではないだろうか。
ところが、「あざみ」は吉行エイスケ・あぐり夫妻が経営をはじめる以前、関東大震災の直後から東中野駅前で営業していた。経営していたのは、震災前に横浜で夫である医学博士の於保謹太郎を亡くした於保照子という女性だった。喫茶店ともバーとも記録されている「あざみ」(いずれにしろ酒は置いていたのだろう)は、震災前から東中野駅前で開店していたという資料も見うけられる。そして、於保照子は1926年(大正15)に吉行エイスケへ、店をそのまま“居抜き”で譲っている。その後、於保照子自身は同じ屋号の「あざみ」のまま、資生堂の並びである京橋区出雲町14番地(のち銀座7丁目4番地の10)にバー「あざみ」を開店している。
まず、「あざみ」の所在地が判明したのは、1926年(大正15)に記録された「商業登記簿」からで、喫茶店「あざみ」は於保照子名義で中野町東中野1594番地と登録されている。元・柏木駅の北側で、駅名が東中野駅と変更(1917年)された駅前の西側にあたる区画だ。現在の住所でいえば、中野区東中野4丁目1番地ということになる。ちょうど当時の旧・東中野駅を北口へ降りると、駅前の左手すぐの位置になり、村山知義アトリエから直線距離で760mほど、上落合742番地の尾形亀之助の家からも直線距離で800mほどの距離だった。
於保照子について紹介した、1926年(大正15)刊行の『日本之医界』(日本之医界社)掲載の、「医界異聞」から引用してみよう。この記事では、「あざみ」は震災後の開店とされている。
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つい最近銀座は資生堂の横に「あざみ」と云ふ、ごく瀟洒な落ついたカフエーが出来たことは銀ブラ連の仲間にはとうにご承知の筈。/だが、ここの主人公とは誰あらう嘗ては横浜に於て名を知られた医博於保謹太郎君の未亡人てる子さんだ。震災ちよつとまへ、ご主人にはなくなられるし間もなくあの震災騒ぎ、で(ママ)夫人は家の下敷きとなつて大怪我をするといつたご難つづき。/そこで夫人が雄々しくも更生の第一歩として実社会に打つて出たのが、震災間あらず、郊外は東中野に開かれた喫茶店「あざみ」といふのがそれ。そして愈々今度はカフエーの本場である銀座の真中に乗出して来た訳なのである。
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照子夫人は、自邸のある横浜でなく、たまたま東京で震災に遭っているようなので、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは、震災後の可能性が高いように思える。あるいは、於保照子もまた、以前からつづく「あざみ」という店をそのまま譲りうけたものだろうか。
医学博士だった夫の資産が潤沢にあったのだろう、於保照子は東中野1594番地で3年間営業したあと、1926年(大正15)の後半期にバー「あざみ」を銀座で改めてオープンしている。おそらく夫の仕事関係から、銀座では医学分野の客筋が多く集まったのではないだろうか。



さて、旧・東中野駅前にあった於保照子の「あざみ」について、店の様子を記録した文章も残っている。おそらく、1926年(大正15)に同店を譲りうけた吉行エイスケの店も、基本的にはそのままの意匠で、おカネのかかる大きな変更は加えられていないとみられる。1923年(大正12)の暮れに聚文館から出版された、春日靖軒『大正震災後日物語』より引用してみよう。
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こゝは東中野の駅近く、開店したアザミサカバ(酒場)と云ふのがある。ありし日の銀座街にも見られないやうな凝つた家の作りが人の目を引く。入口のドアーの開閉も三角なら、中の壁も米国杉のしぶい色の三角形、それにしつくり似合ふ南洋あたりの壁かけ、粗雑な中に一種のデリカシイを持つた椅子、椅子の形テーブルの上にリノリームをひいてあるのも、今まで見ない処だが、その家の主人は於保照子と云つて、横浜の社交界でも人に知られた、医学博士於保謹太郎氏の未亡人で、横浜から危難をのがれて新生面を見出さうと開いた店なのである。(カッコ内引用者註)
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なにもかも三角な「あざみ酒場」の外観・内装デザインは、当然、西武線がいまだ存在せず最寄りの旧・東中野駅を利用していた、三角アトリエの建築主である村山知義の目にもとまっただろう。すなわち、吉行エイスケ・あぐり夫妻が「あざみ」を経営する以前から、村山知義やマヴォな人たちをはじめ、付近に住んだタダイストやアナキスト、小説家、詩人、美術家たちは、未亡人の於保照子が切り盛りする同店に通っていた可能性がある。
春日靖軒はつづけて、「あざみ」の於保照子本人へ直接インタビューしている。彼女は1923年(大正12)9月1日、たまたま東京の姉の家にきていて罹災した。「私はあの地震によつて生れ変つたのと同じやうな気がします。丁度あの時は東京の姉の処に来てゐましたが、神保町だつたので、初め砲兵工廠(水道橋)へ逃げて爆発に会ひ、それから植物園(小石川)へ行きましたが横浜に置いて来た五人の子供の事が気になつて、たうたう二日朝皆のとめるのもきかず……」と証言している。おそらく、ケガをしたのは砲兵工廠の爆発によってだと思われるが、翌日には横浜の自邸へ向けて出発しているので、「家の下敷きとなつて大怪我」(『日本之医界』)などではなく、軽傷だったとみられる。横浜に置いてきた5人の子どもたちは、なんとか避難して無事だった。
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こゝは東中野の駅近く、開店したアザミサカバ(酒場)と云ふのがある。ありし日の銀座街にも見られないやうな凝つた家の作りが人の目を引く。入口のドアーの開閉も三角なら、中の壁も米国杉のしぶい色の三角形、それにしつくり似合ふ南洋あたりの壁かけ、粗雑な中に一種のデリカシイを持つた椅子、椅子の形テーブルの上にリノリームをひいてあるのも、今まで見ない処だが、その家の主人は於保照子と云つて、横浜の社交界でも人に知られた、医学博士於保謹太郎氏の未亡人で、横浜から危難をのがれて新生面を見出さうと開いた店なのである。(カッコ内引用者註)
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なにもかも三角な「あざみ酒場」の外観・内装デザインは、当然、西武線がいまだ存在せず最寄りの旧・東中野駅を利用していた、三角アトリエの建築主である村山知義の目にもとまっただろう。すなわち、吉行エイスケ・あぐり夫妻が「あざみ」を経営する以前から、村山知義やマヴォな人たちをはじめ、付近に住んだタダイストやアナキスト、小説家、詩人、美術家たちは、未亡人の於保照子が切り盛りする同店に通っていた可能性がある。
春日靖軒はつづけて、「あざみ」の於保照子本人へ直接インタビューしている。彼女は1923年(大正12)9月1日、たまたま東京の姉の家にきていて罹災した。「私はあの地震によつて生れ変つたのと同じやうな気がします。丁度あの時は東京の姉の処に来てゐましたが、神保町だつたので、初め砲兵工廠(水道橋)へ逃げて爆発に会ひ、それから植物園(小石川)へ行きましたが横浜に置いて来た五人の子供の事が気になつて、たうたう二日朝皆のとめるのもきかず……」と証言している。おそらく、ケガをしたのは砲兵工廠の爆発によってだと思われるが、翌日には横浜の自邸へ向けて出発しているので、「家の下敷きとなつて大怪我」(『日本之医界』)などではなく、軽傷だったとみられる。横浜に置いてきた5人の子どもたちは、なんとか避難して無事だった。



於保照子の証言を見るかぎり、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは震災後だと思えるが、震災以前からつづいているバー(あざみ?)自体を、彼女が入手して継承したかどうかまでは不明だ。一方、震災前から「あざみ」はあったとする証言もある。1931年(昭和6)に春陽堂から出版された、安藤更生『銀座細見』より東中野時代のバー「あざみ」を少し長いが引用してみよう。
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アザミは地震前から東中野の駅のそばにあつた。内も外もクレオソート塗りの、仲々気のきいた家だつた。壁には小さなゴブラン擬(まが)ひの壁掛などがかゝつてゐた。いゝ日本酒もあり、それに添へて出す海鼠腸(このわた)などのつまみ物も美味かつた。この家は於保(照子)といふ医学博士の未亡人がはじめたので、開店当時は博士夫人の酒場といふので評判だつた。わざわざ銀座あたりから飲みに行つたものである。今、雨後の筍のやうに出来るバアのこれは元祖といつてもいゝ家である。地震後その東中野の店を譲つて、資生堂の横へ越して来た。今の女給お文さんはその東中野時代からの女給である。東中野の店は其後吉行エイスケが買つて、酒場カカドを出した。エイスケの先生辻潤、宮島資夫、エリゼ二郎、川口慶助、山内恒身などがよく集まつて飲んで居た。死んだ人見幸子などもよくこゝへその断髪姿を現して、みんなに可愛がられた。沙良峯夫、荒川畔村などといふ偉い人達がバアテンダアをやつて居たのである。(カッコ内引用者註)
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安藤更生は、震災前から「あざみ」には通っていたようなので、於保照子が経営する前から東中野では印象に残る店だったのだろうか? 震災後3年間の営業期間のみでは、旧・東中野駅前とはいえ、それほど強く客筋たちの記憶には残らなかったようにも思える。
そして、安藤更生の証言には重要な点が含まれている。吉行エイスケが経営していたバーは、当初「カカド」という名称だったようだ。安藤更生は、人見幸子と知りあった経緯で、「幸子は神戸の金持の令嬢だつた。僕が幸子を知つたのは、東中野の吉行エイスケのやつて居たカゝドへ、沙良峯夫や山内恒身の集つて居る頃だつた」と書いている。これは、1931年(昭和6)に小松直人・編集で二松堂から出版された『Café jokyû no uraomote』収録の、安藤更生の文章ではバーの名前は「カアド」となっているが、これは誤植で「カカド」が正しいのだろう。
さらに、1949年(昭和24)に星光書房から刊行された「虚無思想研究」第2号に収録の、荒川畔村『震災後と戦災後』でも、吉行エイスケと「二人で東中野で『カカド』といふ喫茶店を始めることになり、警察へ許可をとりに行つた」と書いているのでも明らかだろう。ただし、「カカド」はほんの数ヶ月という短い期間で閉店してしまっている。なお、「カカド」とは吉行エイスケが『ダダの歴史』に書く5人組のダンスとされる「ノワル・カカドゥ」からとったか、あるいはオーストラリアの先住民だったアボリジニの用語「聖地(KAKADO)」に由来する言葉のいずれだろうか。
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アザミは地震前から東中野の駅のそばにあつた。内も外もクレオソート塗りの、仲々気のきいた家だつた。壁には小さなゴブラン擬(まが)ひの壁掛などがかゝつてゐた。いゝ日本酒もあり、それに添へて出す海鼠腸(このわた)などのつまみ物も美味かつた。この家は於保(照子)といふ医学博士の未亡人がはじめたので、開店当時は博士夫人の酒場といふので評判だつた。わざわざ銀座あたりから飲みに行つたものである。今、雨後の筍のやうに出来るバアのこれは元祖といつてもいゝ家である。地震後その東中野の店を譲つて、資生堂の横へ越して来た。今の女給お文さんはその東中野時代からの女給である。東中野の店は其後吉行エイスケが買つて、酒場カカドを出した。エイスケの先生辻潤、宮島資夫、エリゼ二郎、川口慶助、山内恒身などがよく集まつて飲んで居た。死んだ人見幸子などもよくこゝへその断髪姿を現して、みんなに可愛がられた。沙良峯夫、荒川畔村などといふ偉い人達がバアテンダアをやつて居たのである。(カッコ内引用者註)
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安藤更生は、震災前から「あざみ」には通っていたようなので、於保照子が経営する前から東中野では印象に残る店だったのだろうか? 震災後3年間の営業期間のみでは、旧・東中野駅前とはいえ、それほど強く客筋たちの記憶には残らなかったようにも思える。
そして、安藤更生の証言には重要な点が含まれている。吉行エイスケが経営していたバーは、当初「カカド」という名称だったようだ。安藤更生は、人見幸子と知りあった経緯で、「幸子は神戸の金持の令嬢だつた。僕が幸子を知つたのは、東中野の吉行エイスケのやつて居たカゝドへ、沙良峯夫や山内恒身の集つて居る頃だつた」と書いている。これは、1931年(昭和6)に小松直人・編集で二松堂から出版された『Café jokyû no uraomote』収録の、安藤更生の文章ではバーの名前は「カアド」となっているが、これは誤植で「カカド」が正しいのだろう。
さらに、1949年(昭和24)に星光書房から刊行された「虚無思想研究」第2号に収録の、荒川畔村『震災後と戦災後』でも、吉行エイスケと「二人で東中野で『カカド』といふ喫茶店を始めることになり、警察へ許可をとりに行つた」と書いているのでも明らかだろう。ただし、「カカド」はほんの数ヶ月という短い期間で閉店してしまっている。なお、「カカド」とは吉行エイスケが『ダダの歴史』に書く5人組のダンスとされる「ノワル・カカドゥ」からとったか、あるいはオーストラリアの先住民だったアボリジニの用語「聖地(KAKADO)」に由来する言葉のいずれだろうか。


「カカド」は、1926年(大正15)に吉行エイスケが雑誌「虚無思想」を発行しつつ荒川畔村とはじめた店であり、連れ合いの吉行あぐりはまだ登場していない。けれども、雑誌が赤字つづきのせいか経営は数ヶ月で破綻し、そのあと以前からの客筋にも通ってもらえるよう、「あざみ」の名称にもどして吉行夫妻が営業していた可能性がある。あるいは、於保照子の「あざみ」の印象が強く、周辺の客筋の多くが店名をバー「あざみ」と呼びつづけたせいで、夫妻は否が応でも「あざみ」とせざるをえなかったものだろうか。いずれにしろ、於保照子が経営する銀座のバー「あざみ」と、吉行夫妻が経営する東中野のバー「あざみ」は、短い期間だが並行して営業していたようだ。
◆写真上:バー「あざみ」があった、東中野1594番地界隈の現状。左手先に東中野駅が見えているが、当時は左手背後の元・柏木駅の位置に旧・東中野駅があった。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる東中野1594番地とその周辺。中は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東中野駅界隈。すでに同駅のホーム全体が、西側へと移動している。
◆写真中下:上左は、吉行エイスケのプロフィール。上右は、1926年(大正15)に銀座へ進出するまで旧・東中野駅前でバー「あざみ」を経営していた於保照子。中は、吉行あぐりのプロフィール。下は、洋酒についてのエッセイを新聞に連載していた於保照子の記事。
◆写真下:上は、尾形亀之助と村山知義のバー「あぐり」への通いルート。村山籌子の家電製品“新しもの好き”は、こんなところに遠因があったかもしれない。w 下は、1932年(昭和7)に撮影された東中野駅の桐ヶ谷踏み切り。駅はすでに西へと移動し、画面の左手にホームがある。踏切の向こう側左手が東中野1594番地で、関東大震災直後(直前?)からバー「あざみ」が開店していた街角。また、バー「あざみ」の並びには毛糸や手芸用品の専門店「さかゑ商店」が営業していた。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる東中野1594番地とその周辺。中は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東中野駅界隈。すでに同駅のホーム全体が、西側へと移動している。
◆写真中下:上左は、吉行エイスケのプロフィール。上右は、1926年(大正15)に銀座へ進出するまで旧・東中野駅前でバー「あざみ」を経営していた於保照子。中は、吉行あぐりのプロフィール。下は、洋酒についてのエッセイを新聞に連載していた於保照子の記事。
◆写真下:上は、尾形亀之助と村山知義のバー「あぐり」への通いルート。村山籌子の家電製品“新しもの好き”は、こんなところに遠因があったかもしれない。w 下は、1932年(昭和7)に撮影された東中野駅の桐ヶ谷踏み切り。駅はすでに西へと移動し、画面の左手にホームがある。踏切の向こう側左手が東中野1594番地で、関東大震災直後(直前?)からバー「あざみ」が開店していた街角。また、バー「あざみ」の並びには毛糸や手芸用品の専門店「さかゑ商店」が営業していた。