名画は左光線が多いと三岸好太郎。

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 伊藤廉の子どもが急死したとき、風雨が強い嵐の夜にもかかわらず、3人の画家がいたましい通夜の席に駆けつけている。1932年(昭和7)11月のことで、おそらく遅めの台風でも晩秋にきていた夜なのだろう。このときの伊藤廉アトリエは、のちの佐分眞アトリエをゆずり受けた北区西ヶ原ではなく、下落合のすぐ北側、豊島区長崎南町2丁目2027番地(のち地名番地変更で椎名町3丁目1964番地と同一敷地)に住んでいた。
 改正道路(山手通り)工事の前、伊藤アトリエは聖母坂から長崎天祖社の前を北上し、椎名町駅の南200mほどの位置で西へ左折したあたりの住宅街にあった。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、庭木が繁る洋館と見られるアトリエの屋根を確認できる。嵐の中、長崎南町の伊藤アトリエへ駆けつけたのは、宮田重雄里見勝蔵、そして三岸好太郎の3人だった。
 宮田重雄は下落合から徒歩で、おそらく5~6分ほどで着き、里見勝蔵は西武線・井荻より、三岸好太郎は同線の鷺宮より乗車して、西へ移設されたばかりの下落合駅から歩いたのだろう。里見と三岸のふたりは、鷺宮駅で落ち合い連れだって弔問に訪れているのかもしれない。1932年(昭和7)現在の各人のアトリエは、宮田重雄が第三文化村の南にあたる下落合3丁目1447番地、里見勝蔵は下落合から転居した杉並区下井草1091番地、三岸好太郎は中野区上鷺宮407番地の旧アトリエだった。宮田を除き、伊藤と里見、三岸は独立美術協会のメンバーだ。
 このとき、愛児を亡くして憔悴している伊藤廉を見かねて、おそらく三岸好太郎は気をつかったのだろうか、深夜の沈痛な雰囲気の慰めようもない中で、盛んに美術の話題を口にし、伊藤の気をまぎらせようとしている。三岸好太郎が話題にしたのは、「古今の名画は左光線で描かれている作品が圧倒的に多い」という“仮説”だった。
 以下、そのときの様子を1933年(昭和8)に発行された「美術新論」1月号(美術新論社)収録の、むさしや九郎『謹賀新年妄筆多罪』から引用してみよう。
  
 三岸好太郎氏、一つの発見を語るに到りて、忽ち議論沸騰す。三岸氏の曰く、「僕は近頃、絵画に於ける、一つの光線の法則を発見したよ。それは風景画でも人物画でも、大抵の良い絵は、故意か偶然か知らないが、必ず光線(ライト)を向つて左方から採つてあるといふ事だ。恰度、着物を着るのに左前に着てゐると可笑しいやうな具合に、これにも、人間の感覚にある安定感や美感から云つて、何か充分の理由があるんぢやないか。なにしろ大抵の絵が、左方から光りが来てゐるのだ。」 宮田氏曰く、「それぢや、先づクラシツクを調べて見ようぢやないか」
  
 絵の話題になると、どうやら4人とも夢中になるのを見こした三岸好太郎の意図的な話題ふりと、敏感にそれを察した宮田重雄が同調しているように思われるが、真っ先に反応したのは伊藤廉だった。自身のアトリエに入ると、さっそくルーブル美術館のコレクション絵画を集めた写真帖を持ちだしてきている。ページをめくりながら、ルーブルの収蔵作品を次々に確認してみると、左方からの光線作品が30枚、右方からの光線作品7枚が数えられた。つまり、約77%の作品が、左光線で描かれているということになった。
 通夜をしている4人の画家たちはこの仮説に夢中になり、伊藤廉は次々とアトリエから画集を運んできては確認していった。ボナールの画集は、左光線が22点に対して右光線が24点とあまり有意の差が感じられず、「三岸仮説」に当てはまらないことがわかった。次にドラン画集を確認すると、左光線が14点に対し右光線は10点と微妙な結果だった。
 伊藤廉はアトリエを往復して重たい画集を運び、セザンヌの画集では左光線が40点に対し右光線が25点と左光線がかなり優位で、ブラマンク画集を見ると左光線が32点に右光線が28点とやや左光線のほうが多かった。伊藤廉はすっかり夢中になり、気になりはじめたのか、これまでの自身の作品を確認しはじめた。同誌より、つづけて引用してみよう。
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 伊藤氏曰く、「しかし可笑しいなあ。僕はフランスで描いた絵は左方から光を採つてゐるが、日本に帰つて来てから描いたのは皆右からだ。向うでは左傾で、日本に帰れば右傾といふのも可笑いぜ。(ママ) これは何かの便宜のためからぢやないか知ら。」 そこで、便宜説となり、遂に、それは右利きと左利きの関係からではないかといふ疑問に到着し、絵に左方からの光線多く、右方からの光線すくなきは、人に右利き多くして左利きすくなきに因るに非ずや、(後略)
  
 ふつうに考えれば、右利きの画家が左光線の描きやすいのはあたりまえだし、左利きの画家は右光線のほうが描きやすいとすぐに気づくだろうし、また三岸好太郎もそれを十分承知のうえだったと思うのだが、あえてそれをあたかも自分が発見した“新説”のように披露にすることで、伊藤廉が感じている打撃や悲哀を少しでも薄め、慰めようとしているように感じる。「ホラ吹き好太郎」(少年時代の綽名)の、面目躍如といったところだろうか。
 これは、たぶん他の画家たちも途中から気づいていたと思うのだが、あえて実証的に多彩な画集を出させ長時間にわたりページをめくることで、伊藤廉が置かれた子どもの通夜というパニックに近い極限状況の痛みを、少しでもやわらげようとしていたのではないか。また、伊藤廉も利き腕のテーマをとうに気づいてはいたが、あえて三岸の仮説に乗って美術論を交わすことで、かろうじて心のバランスを保っていたようにも思える。
 左利きの画家たちの画集を探して、伊藤廉はアトリエを何度も往復している。
  
 然らば先づ左利の梅原龍三郎画集を調べよ、と取出して見るに、梅原氏の絵の殆ど凡ては右方光線、又、左利のレオナルド画集の絵も、殆ど凡て右方光線なり。こゝに到りて、皆々顔を見合せて呵々大笑、「なーんだ、手紙を書く時だつて、ギツチヨでなければ、誰でも電燈は左の方へ置くぢやないか」 斯くて絵画構成上の左方光線安定説は、其の夜の嵐に吹かるゝ枯葉の如く飛消。但し、伊藤氏は、この説より何事かの暗示を得て目下研究中の由也。こたびは如何なる珍説現はるゝや。
  
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 こういう、状況に応じてとっさに“融通”や“気転”のきくところが、三岸好太郎の才能でもあったのだろう。その“融通”がききすぎて、独立内部で起きたゴタゴタの際は、仲間から「三岸はそういう奴なんだからしょうがない」と諦められ、連れ合いの三岸節子からも「典型的なうそつきでしょうね」などと呆れられもするが、伊藤アトリエにおける愛児の通夜での出来事のように、「そういう奴」の繊細な神経がプラスに働いて、ともすれば底知れず落ちこみ沈鬱になる伊藤廉の心境を、少しでもやわらげようとしていたように見える。このとき、三岸好太郎は函館の湯の川温泉からもどったばかりで、彼が死去するわずか1年と7ヶ月前の出来事だ。
 伊藤廉は、子どもの通夜における「議論」の優しい心づかいを知っていて、ありがたく感じていたものか、三岸好太郎の死後に刊行された美術誌などへ、彼に関する文章や画論を積極的に寄稿している。その中から、三岸好太郎が新アトリエの建設前に逝った直後、1934年(昭和9)刊行の「アトリエ」10月号に収録された伊藤廉『三岸君を憶ふ』から引用してみよう。
  
 三岸君はアトリエを建設しかけてゐた。ことさらら南向きに大きな窓をとつて、冬には室中一杯に太陽が入るやうに設計してゐる。彼はこの冬の太陽をあびながら制作出来る幸福をたのしんで、僕にいろいろ語つた。冬の寒さが全く困るからとか、北向きの窓からとる変らざる光を欲するよりも、うつらうつら温室のやうなものゝ中にゐて制作出来るたのしさの方を欲求する理由などを。三岸君はこの願ひをやうやく実現しかけて、逝つてしまつた。心残りの多いことだらうと察する。僕たちとしても、三岸君が考へてゐる特殊な設計のアトリエの中で、制作させてみたかつた。
  
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三岸好太郎「海と射光」1934.jpg
 三岸好太郎の葬儀写真には、里見勝蔵と並ぶ左端に白のコットンスーツを着た伊藤廉が写っている。南側の全面に窓ガラスをはめ、陽光が刻々と変化する上鷺宮の三岸アトリエが竣工すると、伊藤廉はさっそく上鷺宮を訪ねただろう。そのとき、「特殊な設計のアトリエ」の北面にも、ちゃんと通常の採光窓が穿たれているのに気づいたにちがいない。

◆写真上:長崎南町2027番地にあった、伊藤廉アトリエ跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」に採取されている長崎南町2027番地の伊藤廉アトリエ。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所の伊藤アトリエだが、住所と番地はともに大きく変更され椎名町3丁目1964番地に変更されている。は、戦後に撮影された伊藤廉()と宮田重雄()。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に制作された伊藤廉『鳩と静物』。中上は、制作年が不詳の宮田重雄のリトグラフ『公園』。中下は、同じく宮田重雄の『山中秋日』。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された里見勝蔵『下落合風景』。中上は、戦後制作とみられる里見勝蔵『スペイン風景(ボーの岩山)』。中下は、1932年(昭和7)に制作された三岸好太郎『水盤のある風景』。は、晩年の1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『海と射光』
おまけ
 1936年(昭和11)に佐分眞はアトリエで自裁するが、のちにそのアトリエを譲り受けて住んでいたのが伊藤廉だった。写真は、北区西ヶ原2丁目12番地に建つ伊藤廉(佐分眞)アトリエ。
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