映画の目白文化村と夏川静江1924年。(下)

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 『街の子』のつづきで、山田邸(中村邸)の玄関前でカネを返そうとする仙吉(小島勉)だが、どうしても勇気が出ずに逡巡する。見守っているお京(夏川静江)に気づき、やっぱり返そうと門から踵(きびす)を返したところへ、山田博士が偶然家からでてきてバッタリ出会う。
 このとき、中村邸から北西側にあたる家々がとらえられている。手前のレンガの門と大きな西洋館が関口邸で、その奥の小さめなマンサード屋根が安食邸(のち会津八一文化村秋艸堂)、さらにその向こう側に見えている大きな屋根(主屋根)が神谷邸の母家という順番だ。(22) ちなみに、これまで関口邸の写真を探していたがどうしても見つからず、どのような意匠をしていたのか不明のままだったので、ようやく外観を見ることができた。東西隣りの安食邸や末高邸に比べると、二間道路に接するほどの大きな西洋館だった様子がうかがえる。映画にもとらえられている関口邸や中村邸のレンガ造りの門柱は、今世紀に入ってもそのまま残っていた。
 カネを盗んだことを、仙吉は山田夫妻に土下座して謝りカネを返そうとし、お京は末高邸の門柱の陰でこの成りいきに喜ぶが、ここで面白い場面がとらえられている。おそらく、いつも静かな環境の目白文化村なのに、外がガヤガヤしているので「騒々しい、なにしてるの?」と、榎邸の誰かが麦藁帽子をかぶって様子をうかがいにでてきたようだ。(23) お京の背後には、「なんだ、映画の撮影か」と納得して、邸内に引っこむ人物(女性?)の姿がとらえられている。また、山田邸(中村邸)の玄関口のシーンでは、目白文化村を歩いたり自転車に乗って通りすぎる建設関係者か見学者、あるいは御用聞きのような人々が遠景にとらえられている。
 次のシーンは、再び落合府営住宅の中だ。同住宅街の様子が随所にとらえられており、どうやら道路に向けて丈の高い板塀を設置している邸が多かったようだ。(24) 落合府営住宅に建てられた屋敷の多くは、周囲を高い板塀で囲んで家内を見えなくする古い意匠だが、目白文化村の生け垣が主体の開放的な雰囲気とは対照的だ。再びシーンはめまぐるしく変わり、謝罪した仙吉はお京とともに連れだって帰途につく。このシーンでも、今度は渡辺邸の2階の窓から、「外がうるさいな、何事だ?」と尖がり屋根の西洋館に似あわず、和服姿の人物(男性?)がひとり姿を見せて、撮影の成りゆきを2階から見物している様子がとらえられている。(25)
 つづいて、落合府営住宅では放火の騒ぎが起き、実際には火を点けていないスリの親分の息子が、大人たちの誤認で追いかけられている。お京と仙吉が帰り道を歩いていると、そこへ親分の息子が逃げてきてふたりに助けを求める。(26) このとき、背後に映っている屋敷群が落合第二府営住宅の一画だろう。3人が立っているのは下落合1511番地の路上であり、空き地の北側に見えている大和張りの板塀が第二府営住宅2号の但本邸、左手の屋敷は奥から手前へ同5号の須崎邸、同4号の上林邸、同3号の大江邸の並びだ。この場面では、画面の左上に「大島椿油ハカリウリ」の看板が見えており、小野田製油所が落合府営住宅に設置したものだろう。当時の同製油所は、胡麻油のほかに菜種油や椿油も生産しており、椿油は女性の需要がいまだに高かった。
 自分の息子が捕まりそうになるのを見たスリの親分が、どういう風の吹きまわしか急に改心して「実は、みんなあっしの悪だくみだったんで」と周囲に告白し、文化村交番から駆けつけた夏服の巡査に捕まって、騒ぎはいちおう収拾する。(27) このとき、なぜか山田邸(中村邸)から博士(はかせ)までが現場に駆けつけ、やたら化粧の濃い顔から涙をぬぐっている。(28) その博士の背後に映っている2階家が、但本邸の東隣りにあたる第二府営住宅1号の天野邸だろう。博士の右肩には、落合府営住宅案内図の看板が見え、「むさしや」★(記事末参照)の店舗の一部が見えている。
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 このあと、『街の子』は大団円を迎えるのだが、山田夫妻はお京に仙吉、逮捕されたスリの親分の息子の3人を引きとり(やっぱり、汚い悪ガキふたりは引きとらなかったんだねw)、みんなで暮らすようになる。このとき、庭にブランコやすべり台などの遊具がある大きな西洋館が、目白文化村のどこの邸だかが不明だ。(29) 庭にはソテツがいく株か植えられており、建物のデザインはどこか第二文化村の松下邸に似ているが、窓などのデザインが微妙に異なるようだ。また、遊具の向こうにも大きな西洋館の切妻が見えているが、これもどこの邸だかわからない。(30) 前回記事の、屋根裏部屋がありそうな不明邸の切妻にも似ているが、手前の洋館の庭はそれほど広くはないので、まったく異なるエリアの洋館群だろう。
 さて、『街(ちまた)の子』の出演者たちについて少し見ていこう。夏川静江は、わたしの世代では穏やかなお婆さん役の女優であり、同映画で初めて十代のみずみずしい彼女の姿を観ることができた。この映画に出演するきっかけは、小石川水道町にあった東京シネマ商会の隣家がたまたま夏川邸だったそうで、姉弟ともに出演している。夏川静江の実弟は、スリの親分の息子を演じた子役(夏川大吾)で、のちに夏川大二郎の芸名で人気俳優になっている。
 つづいて、スリの親分役のいかにも悪そうな小杉義夫(のち小杉義男)だが、わたしはこの俳優は忘れもしない、子どものころ夢にまででてきた人物だ。南太平洋のどこかにある孤島「インファント島」で、ザ・ピーナッツになんとなく似た「小美人」や、「土人」たちとともに大きな“蛾”を神とあがめて奉っている、わけのわからない「原住民」の「酋長」がこの人だった。小学生だったわたしは、「モスラ」の羽化した成虫やイモムシとともに小杉酋長も夢に現れている。
 ゴジラ映画でモスラが登場すると、必ずこの小杉酋長も「土人」たちの踊りの中心にいて、なぜかカタコトだが日本語をしゃべっていた。親に「なんで日本語がしゃべれるの?」と訊いたら、「きっと太平洋戦争中、日本軍が上陸して島を占領されたかなんかして、学校で日本語を強制的に勉強させられていたんでしょ」という答えが返ってきたのを、いまでも憶えている。とても学校などありそうもない、モスラのいるジャングルだらけのインファント島なのだが……。
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 次に、その親分の女房役として出ている、ふてくされた気だるい感じがなんともいえない高橋豊子(のち高橋とよ)だが、わたしはこの女優も昔からのおなじみだ。親父が観ていた小津安二郎映画というと、必ず杉村春子とともにどこかで出演する常連で、近所の奥さんだったり飲み屋のお女将だったり、女中さんだったり、自治会長だったりと、なんでもこなせるマルチ女優なのだ。この人が出てくると、たいがい「話し長っ!」と感じるのだけれど、『街の子』ではほとんどしゃべらず静かにしている。あっ、サイレント映画だからあたりまえか。(爆!)
 つづいて、仙吉役の小島勉は、大きくなってからもどこかで見たことのあるような顔立ちだが、記憶があやふやでわからない。同様に、山田家の家政婦の一色久子も知らない。伊澤蘭奢は、舞台や映画の歴史では“超”がつくほど有名な女優だけれど、わたしにはなじみがなく一般的な彼女の知識しかもちあわせていない。なんだか何気ないシーンでも、いつもオーバーアクション気味なのは、もともと舞台が長かったせいだろう。この映画の出演時、彼女は35歳だったはずだが、そのわずか4年後の1928年(昭和3)に、脳溢血で38歳の生涯を閉じている。
 そして、問題は厚化粧でちょっと不気味な、伊澤蘭奢とは対照的に表情やリアクションに乏しく、ルバシカ姿でウロウロしているだけの印象が強くて、とても演技をしているようには見えない山田実博士なのだ。なぜ、洋画家あるいは工芸家(金工家)として知られ、平塚らいてうの連れ合いでもある奥村博史が、こんなところで俳優なんかやっているのだろう?
 第12回二科展は目前なのに、目白文化村でロケーションなんてしている場合じゃないと思うのだが。それとも、「あなたも、少しは稼いできてちょうだい」と奥さんにいわれ、ドキュメント風をねらう畑中蓼坡監督の「素人っぽい演技がほしいんだよな」という要望とマッチして、出演の運びとなったものだろうか。この映画の翌年、奥村博史は成城学園の美術講師として赴任している。
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 1956年(昭和31)に現代社から出版された奥村博史の著作に、武者小路実篤の序を添えた自伝小説『めぐりあい』がある。その中に、「若い燕には赤い憧れの夢があったのです。いつまでもいつまでも清く美しくありたいという夢があったのです」という、少女のような文章がでてくる。年上の女性のもとへ通い、養ってもらう年下の男のことを「若い燕」と表現したのは、奥村博史が最初だった。大正初期に平塚らいてうへの手紙で、自身のことを「若い燕」と称したのがはじまりで、以来、女性から見て年下の“彼”のことを、「若い燕」と呼ぶのが流行語になっていった。
★追記:「むさしや(武蔵屋)」について
 江戸東京の「新内(しんない)」語りの資料を調べていたら、神楽坂の高橋家が経営していた俥屋(人力車による輸送会社)が「武蔵屋」という名称だったことが判明した。人力車を50~100台も所有し、牛込区(現・新宿区の一部)を中心に明治期から昭和初期にかけ、周辺地域の省線駅や住宅街へ展開していた大規模な組織だったようで、第二府営住宅内にあった「むさしや」は俥屋だった可能性が高い。そういえば、本作には俥が登場するシーンも挿入されていた。ちなみに、この高橋家から出たのが現在の新内語り11世・鶴賀若狭掾(人間国宝)だ。
                                     <了>

◆写真上:山田邸(中村邸)の門内で、カネを返す勇気がでずに逡巡する仙吉。
◆写真中上からへ、仙吉がいた中村邸の門(2007年撮影)、門内から見える第一文化村の各邸(22)、映画にも登場する関口邸の門(2007年撮影)、お京がたたずむ末高邸の門と榎邸(23)、末高邸の門跡(2007年撮影)、落合府営住宅の街角(24)で高い板塀。
◆写真中下からへ、末高邸の庭から見る中村邸と渡辺邸(25)、落合第二府営住宅に建てられた各邸(26)、下落合1511番地の府営住宅案内板のある路上(27)、路上で涙する山田博士の背後に見える天野邸(28)、不明な2邸(29)(30)でおそらく目白文化村内。
◆写真下からへ、『街の子』の出演者たち、夏川静江の実弟で人気俳優だった夏川大吾(夏川大二郎)、モスラの酋長といえば小杉義夫(小杉義男)、ほんとはおしゃべりだけどサイレントでしゃべれない高橋豊子(高橋とよ)、和装と洋装の伊澤蘭奢、画家で平塚らいてうの連れ合いの奥村博史、1921年(大正10)制作の奥村博史『寧楽の春』、1930年(昭和5)制作の同『山荘の午後』。
おまけ
 『街の子』では、やはり第一文化村の入口風景が興味深い。前年の夏に埋め立てを終えた谷戸には大量の大谷石や土管が置かれ、宅地造成が進んでいる様子がとらえられている。カラー化すると、交番の中にいる夏服の巡査までハッキリ確認でき、松下春雄の『文化村入口』そのままだ。
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