落合地域になじみ深い「輝く明治の女性たち」。

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 わたしはうっかり知らなかったが、1992年(平成4)に笹本恒子が撮影した写真をベースに、NHK出版から刊行された『輝く明治の女たち-“いま”に生きる45人の肖像-』という写真集がある。笹本恒子といえば、日本初の女性報道カメラマンで同書を出版した当時はすでに78歳だったが、現役で仕事をつづけていた。つい最近、2022年に107歳で死去している。
 この写真集には、明治生まれで当時も現役で働きつづける女性たちを撮影し、近況を取材しているのだけれど、落合地域に居住していた、または落合地域になじみ深い、さらには拙サイトでも何度か繰り返し登場している女性たちが掲載されていて興味深い。彼女たちのプロフィールを見ると、確固たる思想や信念をもった人物ばかりで、その変わらない強い意志こそが、長く現役で活躍できるエネルギー源となっていたのだと思わずにはいられない。
 まず、宮崎モデル紹介所に所属し、画家のモデルをつとめていた時代に上落合、つづいて下落合に住んでいた霧島のぶ子(淡谷のり子)からご紹介したい。彼女が落合地域に住んだのは、長崎1832番地(現・目白5丁目)にアトリエをかまえていた、田口省吾の専属モデルのようになっていたからであり、また落合地域は画家が多く住んでいたため営業的にも有利だろうと、彼女なりのマーケティング感覚があったからではないだろうか。彼女が歌手になる以前の仕事なので、残念ながら上落合と下落合ともに住所は判明していない。
 1992年(平成4)の時点で、淡谷のり子は85歳だった。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 テレビではズバリとものをいわれるので、とても怖い方だと思いました、というと、「いいえー、とんでもない。私はどなたにでもやさしい人間です。だけどね、今の世の中、おかしなことばかりで、怒らずにいられますか」。幾分東北なまりの残るその口調に親しみをおぼえる。戦争中、もんぺを穿かず、軍歌をうたうことを拒否した反骨精神は今も健在だ。
  
 淡谷のり子は、時局歌や軍歌は拒否して唄わず、特高へ引っぱられての始末書は数十センチの厚さになり、憲兵隊へ拘束されての始末書は50通ほどというから、よほど強固な意志で抵抗をつづけたのだろう。米英軍の捕虜たちを前に、ドレス姿で「Torna a Surriento」を唄って拍手喝采をあび、陸軍の将校から斬り殺されそうになっても平然と唄いつづけた。
 つづいて、下落合の御留山(下落合378番地)に住んだ相馬孟胤の子息、相馬恵胤の連れ合いだった相馬雪香だ。尾崎咢堂(行雄)の三女だった雪香は、下落合1147番地(現・中落合1丁目)の佐々木久二と結婚し、白百合幼稚園を経営していた長女・清香とともに下落合にいた。戦後、尾崎行雄記念財団の副会長や、日本退職女教師連合会会長、日本動物福祉協会理事などを歴任していたが、インタビュー時は難民を助ける会の会長だった。同書より引用してみよう。
  
 「PKOの問題も、日本が国連の指揮下で行動するのは当然ですね。だけど、多くの外国人たちは前の戦争で日本軍にひどい仕打ちを受けたので、日本人を恐れています。そのことを国民に知らせてからでなくてはダメです。野党も一緒に考えるべきです」ときっぱりいう。「日本人は視点が悪い。もっと広く世界を見る目を養わなくては。変だなと思ったら、目をそらさないで現実を知る努力をすべきです。世界に通用する道義的な人間にならなくては、日本はとり残される」と。
  
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 おとめ坂上の下落合1丁目310番地(現・下落合2丁目)に住んだ、アルピニストで料理研究家だった黒田初子も登場している。撮影や取材は、料理講習会「紫水会」が開かれていた自邸で行われており、部屋の窓から見える屋敷林に囲まれた濃い緑の庭先が印象的だ。料理教室の生徒たちから、米寿(88歳)のお祝いパーティを開いてもらったばかりで、さすがにアルプス登山はやめていたようだがスキーや水泳はつづけていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 幼い頃から、登山の話を聞かされて、魅力を感じていたという従兄の正夫氏と結婚。新婚旅行は伊豆の天城山だった。銘仙の着物の裾をはしょって山に入っていく若い男女は、駆け落ちではないかと村人に怪しまれたと黒田さんはクックッと笑う。料理を教える合間に、正夫氏と一緒に国内外の山々の登攀に成功。大正15年春の富士山頂からのスキーは新記録と騒がれた。十余年前、正夫氏は死去。登山はやめたが、スキーは今も続け、冬が待ち遠しいという。
  
 戦時中、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)に住む、文学座の脚本家・森本薫のもとへ通いつづけた、杉村春子も登場している。もちろん、森本が『女の一生』を執筆していたからだ。彼女は、1992年(平成4)現在で83歳になっていた。
 笹本恒子が訪れたのは、もちろん四谷にある文学座アトリエの裏に建っていた杉村春子の自邸だ。当初は、邸内が散らかっているからと庭先の花壇で撮影をはじめたようだが、そのあとなんとか一室に入れてもらい、飼い犬とともに日常的な姿を撮影している。同書より引用してみよう。
  
 「芝居の前は稽古、稽古で忙しくて。今回も台詞が多くて大変だったんですよ。始まると、芝居のことで頭はいっぱい。ようやく明日が最終日。2日だけ休んで、こんどは旅回りでしょ。40日位帰ってこないことになるし、それで今日急にお電話して、来ていただいたのよ」。ハードなスケジュールを、むしろ楽しそうに弾んだ声で語る。部屋は散らかっているからと、庭先で。/庭いっぱい、身の丈より高い薄紫の花が生い茂り、足もとには赤、白のサルビアや水引草も可憐な姿を見せている。
  
 室内で撮影された杉村春子の背後には、膨大な数の大小さまざまな人形が、飾り棚に詰めこまれているのが見える。各地を巡業公演するかたわら、人形を集めてまわるのが趣味だったのだろうか。連れ合いに確認してみたが、人形の趣味までは知らないとのことだった。その人形たちが並ぶ飾り棚の横に、誰かの肖像画が飾られているのが見えている。杉村本人か、あるいはゆかりの人物の肖像画なのか、遠くてぼやけ気味な写りなので判然としない。
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 戸塚町上戸塚593番地(現・高田馬場3丁目)に住み、しょっちゅう上落合503番地つづいて同549番地の壺井栄や、上落合740番地つづいて目白町3丁目3570番地の宮本百合子、上落合186番地の村山籌子、上落合48番地から同481番地の原泉子、ときに下落合2108番地の吉屋信子や、早稲田通りをはさんで戸塚町上戸塚866番地の藤川栄子を訪ねていた佐多稲子(当時は窪川稲子)も、同写真集には登場している。
 このとき、佐多稲子は88歳だったが、特別パッケージのロング「HOPE」(?)らしいタバコとソフトケースに入れた100円ライターを片手に、執筆に忙しい毎日を送っていた。佐多稲子は、もともと缶「PEACE」のファンだったと思うのだが、戦後にようやくPEACEな時代が実現されたので、次はHOPEに変えたのだろうか。w このときは病院で長時間待たされて、約束の時間にすっかり遅れてしまったようだ。笹本恒子が佐多稲子を初めて撮影したのは、1940年(昭和15)というから、実に50年を超えるつきあいということになる。つづけて引用してみよう。
  
 カメラを手に、初めて佐多さんを訪問したのは、駆け出しの間もない昭和15年の夏だった。きちんと深く合わせた襟元と白地のひとえものが、とても清楚に見えた。あれから半世紀が過ぎた。/約束の時刻にお宅を訪れたが、ご不在で、先約者がビデオカメラをセットして待ち構えていた。佐多さんは、病院通いとのことだった。/「ごめんなさいね、こんなにお待たせして」。ビデオの撮影がすむと、いつもと変わらぬ笑顔を向けてくださる。長時間病院で待たされ、帰宅するやカメラとマイクの攻撃を受けたのに、疲れた気配も見せない。
  
 次も、オシャレ雑誌「スタイル」のADをつとめ、下落合の各所に住んでいた松井直樹や、佐多稲子と同様ときどき吉屋信子を訪ねていた宇野千代も収録されている。彼女は、笹本恒子の撮影助手を見ると「あなたはきれいね」といい、助手が宇野千代を褒めると、「昔はべっぴんだったのよ。今はもう、ヘチャクチャでダメね」と笑った。このとき、95歳だった宇野千代の好物はホウレンソウとメザシで、TVの『水戸黄門』と『暴れん坊将軍』を観るのが好きだと答えている。
  
 米寿祝いのパーティに、派手な大振袖姿で現れ、参会者を驚かせた宇野さん。白寿祝いには、武道館を借り切って、ゴンドラで空中から舞い降りる、と宣言したという。この日の服装は、納戸色の地に白い波頭の小紋。帯も同じ模様の色変わりと、渋い。もちろん、自身のデザイン。
  
 だが、宇野千代は撮影から4年後、白寿を目前に98歳で他界している。
 余談だけれど、佐多稲子や宇野千代の着物姿を見て改めて気づくのだが、ほんとうに着物をきちんときれいに着こなしている。それにつけ、半襟をこれ見よがしに見せたいのか、最近の襟うしろを抜いた若い子の着こなしが、とてもダラシなく見えてしかたがない。芸者や銀座のクラブママなど“玄人”じゃあるまいし、着物はちゃんと美しく着こなしてほしいものだ。
 上掲の女性たちのほか、婦人洋画家協会の打ち合わせで下落合を訪れていた深沢紅子(当時89歳)や、拙ブログで何度か登場している望月百合子(当時92歳)など計45人の明治女性が、カメラの前で微笑んでいる。『輝く明治の女たち-“いま”に生きる45人の肖像-』は、もちろん新刊では入手できないが、興味のある方は図書館か古書店で手にとってご覧いただければと思う。
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 一時期、下落合のすぐ南にあたる戸塚町上戸塚397番地(現・高田馬場3丁目)に、夫の三岸好太郎とともに住んでいた三岸節子も、制作中の元気な姿を見せている。また、彼女は同書へ序文も寄せている。1992年(平成4)1月の時点で、三岸節子は87歳になっていた、大磯の山々に多く自生する、薄桃色のヤマザクラが満開だった庭を歩きながらのインタビューで、大磯のアトリエ上鷺宮のアトリエの双方で制作中の姿が紹介されている。こちらでご紹介できないのが残念だ。

◆写真上:1992年(平成4)刊行の笹本恒子『輝く明治の女たち-“いま”に生きる45人の肖像-』(NHK出版/左)と、女性の報道カメラマン第1号だった著者(右)。
◆写真中上は、自邸でくつろぐ死去するまで唄いつづけた淡谷のり子。は、尾崎行雄記念館に架けられた小磯良平『尾崎行雄肖像』の前の相馬雪香。
◆写真中下は、下落合の自邸内で開いていた料理教室や自室で撮影された黒田初子。は、同書と同じ1992年(平成4)撮影の屋敷林が繁る黒田初子邸。
◆写真下は、文学座裏の自邸で撮られた人形に囲まれる杉村春子。は、タバコとライター片手に執筆中の佐多稲子。は、脇指か短刀の透かし鍔(赤坂派?)を文鎮に筆をとる宇野千代。