
前世紀に書かれた評論・評価では、「下落合風景」シリーズはおしなべて不評であり、満足な評価もなされずにきているが、かなり前、同シリーズをめずらしく評価している、近くの戸塚町上戸塚866番地(現・高田馬場4丁目)に住んだ、藤川栄子の文章をご紹介したことがある。1928年(昭和3)刊行の「アトリエ」10月号に収録された、藤川栄子『佐伯さんのこと』を再度引用してみよう。
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その後ある機会から佐伯夫妻をグループの中心として目白の奇異なアトリエによく夜を更かすやうな事が度々ありました。(中略) 夫妻は毎日殆ど制作をしてゐました。訪問する度に次から次へと鋭角的な作品が壁面に凡て歪で掲げられてありました。(中略)/昨年の二科に出品されと(ママ:た)落合風景は日本での試みであつたが実に立派に成功してゐられたやうに思ひます。/外国での特殊なモチーフを描いてゐた氏には、日本でのモチーフには興味がのらないのではないかと思つてゐましたのに、あの落合風景は、落合郊外を切りとつたやうに鋭く端的に表現されてゐたと思ひます。先日ある画商でこの作品に接した時に、日本での作品では傑作だと思ひました。
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藤川栄子のいうように、確かに佐伯祐三とほぼ同時代に数多くの画家たちが落合地域に参集して、「下落合風景」あるいは「落合風景」を制作しているが、他の画面と比較しても佐伯が描いたタブローは、やはり傑出しているように感じる。それは、午前と午後で1日2枚、一気呵成で描いた筆致の鋭さ(多少の誇張も含むだろうが、本人は20号を40分で描いたと山田新一に語っている)もあるのだろうが、第1次滞仏時のパリ作品には見られない、まるで日本画のような筆さばきや、書を思わせるような筆づかいを意識的に用いているのではないかとみられる点で、洋画の表現を借りながらオリジナルな「日本の風景画」を描いているようにも思えてくる。
書が趣味だった山本發次郎が、白隠や三輪田米山などなみいる書家の作品を蒐集した中で、なぜか佐伯祐三の洋画に強く惹きつけられたのは、「下落合風景」シリーズをへたのちに到達することになる、第2次滞仏作品にことさら魅力を感じたからではないか。
藤川栄子と同様、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズを高く評価した人物に、美術史家で美術評論家の土方定一がいる。1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』収録の、土方定一『佐伯祐三の世界』より少し長いが引用してみよう。
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下落合のアトリエに落ちついた佐伯は、日本の風景をモティーフとしてまた精力的に描きはじめ、現在、残っている十二点の「下落合風景」、大阪の木津川を描いた十点の「滞船」、田端の駅を描いた「シグナル」その他を描いている。これらの佐伯の作品は、一般に第一次パリ時代と第二次パリ時代の谷間のような時期の作品とされているが、これらの画面でいつも佐伯は透明な眼をもち、日本の風景を、生活的に造形的に内包する必死な作業をしていることに、ぼくは打たれる。多くの不正直な画家であれば、パリ風景からのマニエラで日本風景を塗装するであろうが、佐伯は日本の風景を直視し、それを性格的に表現しようとしている作業である。たとえば、「下落合風景」(図No.27)のように、左の板塀に明るく映える透明な美わしさは佐伯の必死の作業を語っているようであり、水平の構図のなかの面への烈しい愛着、神経質な細い筆触の駆使、褐色の主調のなかの赤、緑の点綴、それらはすべて佐伯以外の作家の作品ではない。
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「図No.27」とは、「制作メモ」の『遠望の岡』に比定される、蘭塔坂(二ノ坂)の丘上から新宿駅方向を向いて描いた「下落合風景」の1作だ。土方によれば、1968年(昭和43)の時点で、「下落合風景」シリーズはわずか12点しか確認されていなかったことがわかる。わたしは洋画の専門家ではないので、上掲の土方貞一の評価には、ただそのままウンウンと同意する知識しかもたないが、より誰でもわかりやすく佐伯祐三の一連の「下落合風景」を評価した人物の文章が残されている。その思想性からいうと意外かもしれないが、戦前は上落合502番地に両親とともに住んでいた、左翼作家で評論家の蔵原惟人だ。
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その後ある機会から佐伯夫妻をグループの中心として目白の奇異なアトリエによく夜を更かすやうな事が度々ありました。(中略) 夫妻は毎日殆ど制作をしてゐました。訪問する度に次から次へと鋭角的な作品が壁面に凡て歪で掲げられてありました。(中略)/昨年の二科に出品されと(ママ:た)落合風景は日本での試みであつたが実に立派に成功してゐられたやうに思ひます。/外国での特殊なモチーフを描いてゐた氏には、日本でのモチーフには興味がのらないのではないかと思つてゐましたのに、あの落合風景は、落合郊外を切りとつたやうに鋭く端的に表現されてゐたと思ひます。先日ある画商でこの作品に接した時に、日本での作品では傑作だと思ひました。
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藤川栄子のいうように、確かに佐伯祐三とほぼ同時代に数多くの画家たちが落合地域に参集して、「下落合風景」あるいは「落合風景」を制作しているが、他の画面と比較しても佐伯が描いたタブローは、やはり傑出しているように感じる。それは、午前と午後で1日2枚、一気呵成で描いた筆致の鋭さ(多少の誇張も含むだろうが、本人は20号を40分で描いたと山田新一に語っている)もあるのだろうが、第1次滞仏時のパリ作品には見られない、まるで日本画のような筆さばきや、書を思わせるような筆づかいを意識的に用いているのではないかとみられる点で、洋画の表現を借りながらオリジナルな「日本の風景画」を描いているようにも思えてくる。
書が趣味だった山本發次郎が、白隠や三輪田米山などなみいる書家の作品を蒐集した中で、なぜか佐伯祐三の洋画に強く惹きつけられたのは、「下落合風景」シリーズをへたのちに到達することになる、第2次滞仏作品にことさら魅力を感じたからではないか。
藤川栄子と同様、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズを高く評価した人物に、美術史家で美術評論家の土方定一がいる。1968年(昭和43)に講談社から出版された『佐伯祐三全画集』収録の、土方定一『佐伯祐三の世界』より少し長いが引用してみよう。
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下落合のアトリエに落ちついた佐伯は、日本の風景をモティーフとしてまた精力的に描きはじめ、現在、残っている十二点の「下落合風景」、大阪の木津川を描いた十点の「滞船」、田端の駅を描いた「シグナル」その他を描いている。これらの佐伯の作品は、一般に第一次パリ時代と第二次パリ時代の谷間のような時期の作品とされているが、これらの画面でいつも佐伯は透明な眼をもち、日本の風景を、生活的に造形的に内包する必死な作業をしていることに、ぼくは打たれる。多くの不正直な画家であれば、パリ風景からのマニエラで日本風景を塗装するであろうが、佐伯は日本の風景を直視し、それを性格的に表現しようとしている作業である。たとえば、「下落合風景」(図No.27)のように、左の板塀に明るく映える透明な美わしさは佐伯の必死の作業を語っているようであり、水平の構図のなかの面への烈しい愛着、神経質な細い筆触の駆使、褐色の主調のなかの赤、緑の点綴、それらはすべて佐伯以外の作家の作品ではない。
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「図No.27」とは、「制作メモ」の『遠望の岡』に比定される、蘭塔坂(二ノ坂)の丘上から新宿駅方向を向いて描いた「下落合風景」の1作だ。土方によれば、1968年(昭和43)の時点で、「下落合風景」シリーズはわずか12点しか確認されていなかったことがわかる。わたしは洋画の専門家ではないので、上掲の土方貞一の評価には、ただそのままウンウンと同意する知識しかもたないが、より誰でもわかりやすく佐伯祐三の一連の「下落合風景」を評価した人物の文章が残されている。その思想性からいうと意外かもしれないが、戦前は上落合502番地に両親とともに住んでいた、左翼作家で評論家の蔵原惟人だ。


1979年(昭和54)に、新日本出版社から刊行された『蔵原惟人評論集 8』に収録の、蔵原惟人『一九七〇年にむかう文化運動の課題』から引用してみよう。
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私は先日、佐伯祐三展を見にいきました。そこには、パリの街を描いたものがたくさんありましたが、私は彼が日本に帰っていた一年半ほどのあいだに描いた十数点の風景画にひかれました。とくに六点の「下落合風景」、「ガード風景」、「シグナル」などは、滞欧作と違った特色をもって、私たちに訴えるものがあると思います。というのも、パリの風景はブラマンクやユトリロなどの敷いた線にそって描かれているが、日本で描かれたものには、いくぶん違ったものが出ているように思うからであります。その後、彼はふたたびフランスに行って、そこで死んでいますが、こういう画家を日本に永住させなかったところに、当時の日本の社会にも、この画家自身にも問題があるのだと思います。
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佐伯祐三が、パリへいきたくてたまらなくなったのは、別に「日本の社会」への強い問題意識があったわけではなく、むしろ佐伯は日本の画壇で優遇されめぐまれていたはずだ。また、画家自身に問題があったとすれば、パリを再訪したいがために、「画商や頒布会にまわす下落合風景ぎょうさん描いたるわ」という課題か、よく風邪を引いたらしく「なんとか、シベリア鉄道の運賃600円をはよ貯めなあかん」といった、いわば焦燥だったかもしれない。
わたしもまた、パリでの作品とはまったくちがう特色をもち、「私たちに訴えるものがある」という感触を強くもつが、それは下落合の昔の姿を写した画面であると同時に、その昔、わたし自身も目にしていた東京郊外のホコリっぽい風景であり、さらにいえば、美麗な西洋館が建ち並んでいたはずの、1926~27年(大正15~昭和2)にかけて、従来の日本の住宅街らしからぬ下落合にアトリエをかまえていながら、きわめて東京の郊外らしい殺伐とした赤土がむき出しの、画面には描かれないが土ボコリが舞う開発現場ばかりを選んで描いているという、先の山田五郎教授が指摘した「無有好醜」に通じる、いかにも佐伯祐三らしい視点を感じるからだ。
パリに住むフランス人にしてみれば(実際に佐伯は街の巡査からことさら注意を受けているが)、なぜパリの汚い裏道や場末の街角、なんのへんてつもないドア、落書きとポスターで汚れ放題な石塀、きたならしい公衆便所、ありふれてくすんだ古いアパルトマンなどを描くのか?……という疑問は、そのまま裏返せば、なぜ下落合(東京)に住んでいながら、「絵にならない」キタナイ風景ばかりを選んで描いているのか?……に直結する、1枚のコイン裏表の視座にすぎないのではないか。
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私は先日、佐伯祐三展を見にいきました。そこには、パリの街を描いたものがたくさんありましたが、私は彼が日本に帰っていた一年半ほどのあいだに描いた十数点の風景画にひかれました。とくに六点の「下落合風景」、「ガード風景」、「シグナル」などは、滞欧作と違った特色をもって、私たちに訴えるものがあると思います。というのも、パリの風景はブラマンクやユトリロなどの敷いた線にそって描かれているが、日本で描かれたものには、いくぶん違ったものが出ているように思うからであります。その後、彼はふたたびフランスに行って、そこで死んでいますが、こういう画家を日本に永住させなかったところに、当時の日本の社会にも、この画家自身にも問題があるのだと思います。
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佐伯祐三が、パリへいきたくてたまらなくなったのは、別に「日本の社会」への強い問題意識があったわけではなく、むしろ佐伯は日本の画壇で優遇されめぐまれていたはずだ。また、画家自身に問題があったとすれば、パリを再訪したいがために、「画商や頒布会にまわす下落合風景ぎょうさん描いたるわ」という課題か、よく風邪を引いたらしく「なんとか、シベリア鉄道の運賃600円をはよ貯めなあかん」といった、いわば焦燥だったかもしれない。
わたしもまた、パリでの作品とはまったくちがう特色をもち、「私たちに訴えるものがある」という感触を強くもつが、それは下落合の昔の姿を写した画面であると同時に、その昔、わたし自身も目にしていた東京郊外のホコリっぽい風景であり、さらにいえば、美麗な西洋館が建ち並んでいたはずの、1926~27年(大正15~昭和2)にかけて、従来の日本の住宅街らしからぬ下落合にアトリエをかまえていながら、きわめて東京の郊外らしい殺伐とした赤土がむき出しの、画面には描かれないが土ボコリが舞う開発現場ばかりを選んで描いているという、先の山田五郎教授が指摘した「無有好醜」に通じる、いかにも佐伯祐三らしい視点を感じるからだ。
パリに住むフランス人にしてみれば(実際に佐伯は街の巡査からことさら注意を受けているが)、なぜパリの汚い裏道や場末の街角、なんのへんてつもないドア、落書きとポスターで汚れ放題な石塀、きたならしい公衆便所、ありふれてくすんだ古いアパルトマンなどを描くのか?……という疑問は、そのまま裏返せば、なぜ下落合(東京)に住んでいながら、「絵にならない」キタナイ風景ばかりを選んで描いているのか?……に直結する、1枚のコイン裏表の視座にすぎないのではないか。



パリでの佐伯作品は(そこがパリであるがゆえに)、ポエジーでリリカル(抒情的)などと表現され評価されるのを見るけれど、わたしたちが日本人であるがゆえに、「下落合風景」シリーズは「あえて絵にならない、キタナイ風景ばかり選んで描いてる」としか映らない。逆に、フランス人が「下落合風景」シリーズを観たら、はたしてどのような反応をするのだろうか。少なくとも当時の多くのフランス人は、パリの裏街や公衆便所、汚れた壁などの画面を観て、そこに詩情を感じてリリカルだなどとは思わないだろう。いまの東京でいえば、歌舞伎町の裏道に建つビルの雑然とした看板やPOP、キャバクラやサラ金、デリヘルのチラシやビラがベタベタ貼られている壁面を描いたとて、美しくてポエジーかつリリカルだなどと思わないのと同じことだろう。
余談だけれど、蔵原惟人は共産党に身を置く評論家だが、この人は本質的にナショナリスト=愛国者だと感じることがある。特に戦後の文章からはそれを感じ、その「愛国」とは薩長政府がこしらえた歴史を捏造してまでの大日本帝国的な思想ではまったくなく、あるべき姿の日本を想定したバックキャスト的な視座からの「愛国」であり「ナショナリスト」ではなかったろうか。もっとも、わたしとは思想や考え方がかなり異なるとは思うけれど。
さて、佐伯祐三の本をもっとも多く著した朝日晃もまた、「下落合風景」シリーズについては「過小評価」されすぎだと書いている。第2次滞仏作品に佐伯が発揮しているオリジナリティは、日本の下落合に滞在していたときの、制作経緯を抜きにしては語れないとする見方だ。1978年(昭和53)に講談社から出版された、朝日晃『永遠の佐伯祐三』より少し長いが引用してみよう。
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「下落合風景」を見ると、なんとかして日本風景の中に緊張する油絵の硬質空間を持ちこもうとして必死に苦闘していることがわかる。空と地面のバランス、道の遠近強調、電柱と電線という厄介な点景、点景人物、光りと影などに、その苦闘がよく現れている。第二回の一九三〇年協会展に出品した風景は、きっとそういった作品群の一部であろう。しかし、現存するその当時の作品を見る場合、現在まで、佐伯の秀作としての鮮烈な第二次滞欧の作品群と比較して「下落合風景」が考えられがちであるために、その質はいつも過小評価されてきたきらいがないではない。その「下落合風景」の前後に、林武が第十三回の二科展に「文化村風景」を発表しているが、その風景の脆弱さは佐伯の比ではない。やはり、この一連の佐伯の作品には、ある日本風景とのまじめな対峙が感じられ、わたしは改めて再評価すべきだと考えている。
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朝日晃は、世に出ていない「下落合風景」(おそらく相続税の関係からか)を、いくつか個人宅で見せてもらっているので(朝日晃資料にはその写真類が含まれている)、「作品群の一部」という表現で膨大な数量の「下落合風景」作品を漠然と暗示している。
林武の『文化村風景』との比較は、わたしも同感だが、「電柱と電線という厄介な点景」については、電灯線・電力線が住宅敷地の側溝地下に造られた共同溝に埋設され、電柱が存在しなかった目白文化村を眼前にして、佐伯祐三が下落合のそのような風景をほとんど選んで描いてはいないという意図的な点にも、風景のモチーフ選びとからめてことさら留意したい。「厄介な点景」に目をつけ、あえてモチーフに選んで描いているのは佐伯の画家としての“美意識”であり眼差しだ。
余談だけれど、蔵原惟人は共産党に身を置く評論家だが、この人は本質的にナショナリスト=愛国者だと感じることがある。特に戦後の文章からはそれを感じ、その「愛国」とは薩長政府がこしらえた歴史を捏造してまでの大日本帝国的な思想ではまったくなく、あるべき姿の日本を想定したバックキャスト的な視座からの「愛国」であり「ナショナリスト」ではなかったろうか。もっとも、わたしとは思想や考え方がかなり異なるとは思うけれど。
さて、佐伯祐三の本をもっとも多く著した朝日晃もまた、「下落合風景」シリーズについては「過小評価」されすぎだと書いている。第2次滞仏作品に佐伯が発揮しているオリジナリティは、日本の下落合に滞在していたときの、制作経緯を抜きにしては語れないとする見方だ。1978年(昭和53)に講談社から出版された、朝日晃『永遠の佐伯祐三』より少し長いが引用してみよう。
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「下落合風景」を見ると、なんとかして日本風景の中に緊張する油絵の硬質空間を持ちこもうとして必死に苦闘していることがわかる。空と地面のバランス、道の遠近強調、電柱と電線という厄介な点景、点景人物、光りと影などに、その苦闘がよく現れている。第二回の一九三〇年協会展に出品した風景は、きっとそういった作品群の一部であろう。しかし、現存するその当時の作品を見る場合、現在まで、佐伯の秀作としての鮮烈な第二次滞欧の作品群と比較して「下落合風景」が考えられがちであるために、その質はいつも過小評価されてきたきらいがないではない。その「下落合風景」の前後に、林武が第十三回の二科展に「文化村風景」を発表しているが、その風景の脆弱さは佐伯の比ではない。やはり、この一連の佐伯の作品には、ある日本風景とのまじめな対峙が感じられ、わたしは改めて再評価すべきだと考えている。
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朝日晃は、世に出ていない「下落合風景」(おそらく相続税の関係からか)を、いくつか個人宅で見せてもらっているので(朝日晃資料にはその写真類が含まれている)、「作品群の一部」という表現で膨大な数量の「下落合風景」作品を漠然と暗示している。
林武の『文化村風景』との比較は、わたしも同感だが、「電柱と電線という厄介な点景」については、電灯線・電力線が住宅敷地の側溝地下に造られた共同溝に埋設され、電柱が存在しなかった目白文化村を眼前にして、佐伯祐三が下落合のそのような風景をほとんど選んで描いてはいないという意図的な点にも、風景のモチーフ選びとからめてことさら留意したい。「厄介な点景」に目をつけ、あえてモチーフに選んで描いているのは佐伯の画家としての“美意識”であり眼差しだ。



従来の連作「下落合風景」の評価は、画面に描かれたモノや表現手法(技法)のみを観察しながらのものが圧倒的に多かったように思う。そこには、佐伯祐三が落合地域(ひいては東京)のどのような風景を選び、またそれとは逆に、あえて選ばなかったのかという画家の主体的な視座が欠落していたように感じる。そのせいか、当時の下落合の風景あるいは東京市街地の様子を知れば知るほど、佐伯が「絵にならない」開発中の“キタナイ”場所ばかりを、意図的に選んでいるのが透けて見えてくる。わたしが以前から感じている、従来の「下落合風景」に関する多くの評価・評論への違和感や疑問は、「日本の風景は、ぼくの絵にならん」ではなく、「あのな~、絵になるキレイな下落合(東京)の風景はな、わし~よう描かへん。……そやねん」だったのではないかということだ。
<了>
<了>
◆写真上:1925年(大正14)ごろ、フランスで撮影された佐伯祐三のスナップ。(AI着色以下同)
◆写真中上:上は、2007年(平成19)に撮影した解体前の佐伯アトリエの便所(左手)と洋間。中・下は、1926年(大正15)9月22日制作の佐伯祐三『墓のある風景』と薬王院旧墓地の現状。卒塔婆が並ぶ墓場をモチーフに描く画家も、日本にはまずいないのではないか。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)ごろ撮影されたとみられる屋外で写生中の佐伯祐三。中は、1926年(大正15)の8月以前に制作された『下落合風景』。下は、開業直前の西武線・中井駅前の開発造成地を描いたタイトルと場所が一致しない佐伯祐三『目白の風景』。
◆写真下:上は、勝巳商店地所部が1940年(昭和15)に昭和版「目白文化村」を開発・販売する、1926年(大正15)9月18日~19日のいずれかに制作したとみられる佐伯祐三『原』。中は、タイトルが不詳で個人蔵の佐伯祐三『下落合風景』。下は、モラン村で撮影された佐伯一家で、右から左へ横手貞美、佐伯祐三、佐伯米子、佐伯彌智子、荻須高徳。
◆写真中上:上は、2007年(平成19)に撮影した解体前の佐伯アトリエの便所(左手)と洋間。中・下は、1926年(大正15)9月22日制作の佐伯祐三『墓のある風景』と薬王院旧墓地の現状。卒塔婆が並ぶ墓場をモチーフに描く画家も、日本にはまずいないのではないか。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)ごろ撮影されたとみられる屋外で写生中の佐伯祐三。中は、1926年(大正15)の8月以前に制作された『下落合風景』。下は、開業直前の西武線・中井駅前の開発造成地を描いたタイトルと場所が一致しない佐伯祐三『目白の風景』。
◆写真下:上は、勝巳商店地所部が1940年(昭和15)に昭和版「目白文化村」を開発・販売する、1926年(大正15)9月18日~19日のいずれかに制作したとみられる佐伯祐三『原』。中は、タイトルが不詳で個人蔵の佐伯祐三『下落合風景』。下は、モラン村で撮影された佐伯一家で、右から左へ横手貞美、佐伯祐三、佐伯米子、佐伯彌智子、荻須高徳。