
1923年(大正12)11月29日、大手町にあった前方後円墳の柴崎古墳(仮)=将門塚が、大蔵省のバラック2棟を建てるために破壊された。鳥居龍蔵の考古学グループが視察調査をしてから、およそ2ヶ月後のことだ。その様子を観察していた人物に、大蔵省建築局にいた大熊喜邦と考古学者の小此木忠七、そして下落合のタタラ遺跡である中井遺跡の西南端を、大正期に下落合1923番地に住む栗原家の協力で発掘した、武蔵野文化協会の考古学者・小松真一の3人がいた。
鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け跡から出現した築土の形状から、墳丘が全長約30mほどの、古代の柴崎村の江戸岬に築造された海を眺める小型の前方後円墳だと想定している。江戸幕府の以前、もともと将門塚の位置には神田明神が建立(730年)されており、境内には広い御手洗池(古蓮池)が湧水をたたえていた。つまり、平将門が出現して死亡するはるか以前から、神田明神は同塚に創建されていたことになる。将門塚が、江戸初期に千代田城の建設で障害になると、神田明神は一時的に神田山(駿河台の位置)へ遷座したが、同塚はそのまま残された。そして、江戸湾を埋め立てるために神田山が崩されはじめると、外神田の現在地へと再遷座している。
少し余談気味になるが、神田明神が将門塚の位置にあった室町期、江戸に城を築いた太田道灌も江戸城鎮守として神田明神を崇敬したと伝えられている。また、道灌は1478年(文明10)に河越(川越)から山王社を勧請し、江戸城の鎮護社としている。現在の日枝権現(山王権現)で、のちに徳川家の産土神となり、幕末まで大江戸を二分する天下祭りの西の拠点となった。
鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け跡から出現した築土の形状から、墳丘が全長約30mほどの、古代の柴崎村の江戸岬に築造された海を眺める小型の前方後円墳だと想定している。江戸幕府の以前、もともと将門塚の位置には神田明神が建立(730年)されており、境内には広い御手洗池(古蓮池)が湧水をたたえていた。つまり、平将門が出現して死亡するはるか以前から、神田明神は同塚に創建されていたことになる。将門塚が、江戸初期に千代田城の建設で障害になると、神田明神は一時的に神田山(駿河台の位置)へ遷座したが、同塚はそのまま残された。そして、江戸湾を埋め立てるために神田山が崩されはじめると、外神田の現在地へと再遷座している。
少し余談気味になるが、神田明神が将門塚の位置にあった室町期、江戸に城を築いた太田道灌も江戸城鎮守として神田明神を崇敬したと伝えられている。また、道灌は1478年(文明10)に河越(川越)から山王社を勧請し、江戸城の鎮護社としている。現在の日枝権現(山王権現)で、のちに徳川家の産土神となり、幕末まで大江戸を二分する天下祭りの西の拠点となった。
将門塚の破壊工事現場に立ちあった3人のうち、大熊喜邦は帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の建設事業を継続するために、上落合469番地(のち470番地)の吉武東里邸で設計業務に多忙をきわめていたのだろう、ふたりの考古学者が参加する前日に上落合へ引きあげている。したがって大熊喜邦は、古墳が崩される様子を記録に残しているとは考えにくいが、考古学者の小此木忠七と小松真一は破壊の様子を記録しているとみられる。そのうち、小松真一の調査記録を見つけたのでご紹介したい。掲載されていたのは、1927年(昭和2)に武蔵野文化協会が発刊していた歴史の専門誌「武蔵野」1月号(雄山閣)で、小松真一は『大蔵省将門塚内に在つた石室』という、8ページにわたる詳しい記録を寄せている。
それによれば、11月30日に大蔵省の臨時となるバラック省庁舎2棟を、将門塚および御手洗池(古蓮池)跡に建てるため、3間(5.5m)ほどの高さがあった墳丘(後円部)と、前方部とみられる「封土」を崩している際、江戸期のものとみられる茶碗の欠片や瓦が見つかっている。(もっとも前方部は早くから変形されていたようだ) これは、江戸初期に神田山へ遷座した当初の神田明神の名残りだろう。ところが、つづけて墳丘を崩していくと碑の建っている後円部、すなわち「記念碑から見て先づ南に当る所」から石室が出現した。これは、前方部が東南東に向いているので、通常の後円部にみられる羨門・羨道の位置より、南側へ角度的にややズレた位置から出土したことになりそうだ。出土したのは、人体が収まるほどの長方形をした石室だった。
この石室は、古墳の羨道や玄室とは明らかに異なっており、長さが6尺3寸(約191cm)で幅が奥で2尺8寸7分(約87cm)、入口で2尺9寸(約88cm)、高さが5尺2寸(約158cm)というものだった。底には、一面に平石が敷きつめられており、天井に組まれた石材はひとつが長さ3寸5分(約10.6cm)、幅が1尺2寸(約36cm)、厚みが3~4寸(約9~10cm)というものだった。石材の多くが、江戸時代に多用された相州真鶴産の小松石だったが、それがすべてではなかった。小松石で組まれた石室の中に、より脆弱な質の石材も混在して構築されていた。
その様子を、小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』から引用してみよう。
▼
敷石の入口に向ふ最南端の石は巾一寸四分(4.2cm)、深さ三分(9.1cm)の溝が附けられてる。石室は形は保つてゐるけれども完全ではない。敷石のうち入口から二番目の石は無かつたし、又、奥壁の一部は失はれ、天井石は奥二枚のみ存し、左壁も右壁も石が見えない部分がある。要するに元、一度は少く共露いた形跡が有る。それは此構造物が完形でない事も其証拠であるが、尚、盛土の土が内部に這入り、又瓦の破片やら新らしい時代の陶器、茶碗欠け等が混じつてゐたのでも解る。又、石材のうちにザクザクした脆い石質のものも混用されてゐる。(カッコ内引用者註)
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それによれば、11月30日に大蔵省の臨時となるバラック省庁舎2棟を、将門塚および御手洗池(古蓮池)跡に建てるため、3間(5.5m)ほどの高さがあった墳丘(後円部)と、前方部とみられる「封土」を崩している際、江戸期のものとみられる茶碗の欠片や瓦が見つかっている。(もっとも前方部は早くから変形されていたようだ) これは、江戸初期に神田山へ遷座した当初の神田明神の名残りだろう。ところが、つづけて墳丘を崩していくと碑の建っている後円部、すなわち「記念碑から見て先づ南に当る所」から石室が出現した。これは、前方部が東南東に向いているので、通常の後円部にみられる羨門・羨道の位置より、南側へ角度的にややズレた位置から出土したことになりそうだ。出土したのは、人体が収まるほどの長方形をした石室だった。
この石室は、古墳の羨道や玄室とは明らかに異なっており、長さが6尺3寸(約191cm)で幅が奥で2尺8寸7分(約87cm)、入口で2尺9寸(約88cm)、高さが5尺2寸(約158cm)というものだった。底には、一面に平石が敷きつめられており、天井に組まれた石材はひとつが長さ3寸5分(約10.6cm)、幅が1尺2寸(約36cm)、厚みが3~4寸(約9~10cm)というものだった。石材の多くが、江戸時代に多用された相州真鶴産の小松石だったが、それがすべてではなかった。小松石で組まれた石室の中に、より脆弱な質の石材も混在して構築されていた。
その様子を、小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』から引用してみよう。
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敷石の入口に向ふ最南端の石は巾一寸四分(4.2cm)、深さ三分(9.1cm)の溝が附けられてる。石室は形は保つてゐるけれども完全ではない。敷石のうち入口から二番目の石は無かつたし、又、奥壁の一部は失はれ、天井石は奥二枚のみ存し、左壁も右壁も石が見えない部分がある。要するに元、一度は少く共露いた形跡が有る。それは此構造物が完形でない事も其証拠であるが、尚、盛土の土が内部に這入り、又瓦の破片やら新らしい時代の陶器、茶碗欠け等が混じつてゐたのでも解る。又、石材のうちにザクザクした脆い石質のものも混用されてゐる。(カッコ内引用者註)
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文中にある「ザクザクした脆い石質のもの」は、南関東に展開する古墳の玄室に多用された、小松石よりも加工が容易な房州石ではなかっただろうか。
すなわち、このような想定が成り立つだろうか。まず、この位置にいまだ神田明神の社殿があった江戸初期の以前に、墳丘が崩れて古墳本来の羨道や玄室が露出したか、あるいは古墳をあばく盗掘の被害に遭い、しばらくは荒廃にまかせるばかりだった。江戸幕府が成立し、神田明神が新たな石材(小松石)を用いて、江戸初期に石室を修復した。徳川家康の先祖である徳阿弥(世良田親氏→松平親氏)が、還俗していずれ「徳川」の姓を名乗れという神託を受けた氏子という関係もあり、当然ながら徳川幕府も修復資金を拠出しているのだろう。
すなわち、このような想定が成り立つだろうか。まず、この位置にいまだ神田明神の社殿があった江戸初期の以前に、墳丘が崩れて古墳本来の羨道や玄室が露出したか、あるいは古墳をあばく盗掘の被害に遭い、しばらくは荒廃にまかせるばかりだった。江戸幕府が成立し、神田明神が新たな石材(小松石)を用いて、江戸初期に石室を修復した。徳川家康の先祖である徳阿弥(世良田親氏→松平親氏)が、還俗していずれ「徳川」の姓を名乗れという神託を受けた氏子という関係もあり、当然ながら徳川幕府も修復資金を拠出しているのだろう。
その際、以前より露出していた玄室や羨道の石材(房州石)も使えるものはそのまま活用して石室を再構築した。だが、ほどなく同社は遷座することになり社殿は解体され、神田山に建設された新たな社殿へと移った。石室の中から見つかった、比較的新しい茶碗や瓦のカケラは、そのときにでた旧・社殿に関連した廃棄物ではないか。いっしょに調査した小此木忠七によれば、瓦の欠片は寛永年間ごろ、すなわち江戸初期のものと考察されている。
文中の、入口の石に刻まれた「巾一寸四分、深さ三分の溝」は不明だが、神主が祭祀後に榊(さかき)を奉納した溝だろうか。大正期は、古墳時代の前方後円墳(当時は瓢箪型墳墓と呼ばれた)などという概念は一般的ではないので、塚状のものから武器(鉄剣・鉄刀)や鎧兜、宝飾類(勾玉・管玉・宝珠)などの副葬品が見つかると、大昔の墳墓ぐらいの認識はあったかもしれないが、それが1500年前なのか1700年前のものかまでは、人文科学の未発達な当時はわからなかった。小松真一も、「上代の塚墓の盛土を利用してこれに寄生して石室をつくつた事を想像出来ない事はなからう」と想定している。また、その際には新たな付会や説話が多く創られ、語り継がれていくことにも触れている。つまり、柴崎古墳(仮)にまつわる「将門伝説」がそれだ。
また、そのように墳丘が崩され、単なる小さな塚状のたたずまいになってしまった古墳の実例として、浅茅ヶ原の妙亀堂(台東区橋場1丁目の現・妙亀塚公園内古墳跡)、荒川沿いにある渋江村西光寺の清重塚(葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡)、墳丘を農地にすっかり削られた川妻村の薬師堂(茨城県五霞町川妻の穴薬師古墳)の3例を紹介している。最後の穴薬師古墳は、著者の小松真一が関東大震災の前年、1922年(大正11)に現地調査をしたばかりであり、すでに副葬品は盗掘に遭って存在しなかったと「人類学雑誌」に報告している。
なお、穴薬師古墳の「薬師」は同古墳の玄室から薬師如来像が出土したことにちなんでおり、いずれかの時代に古墳があばかれ、そこへ新たに薬師如来像を安置した事蹟によるものだ。穴薬師古墳から東へ180mほどの近くにある、畑地に囲まれわずかな塚丘が残る雷電社も、穴薬師古墳によく似た風情なので同様に古墳だったのではなかろうか。古墳の羨道や玄室が見つかると、阿弥陀仏や稲荷社・稲荷の祠を建立して奉った事蹟によく似ている。ちなみに、薬師古墳や薬師塚古墳あるいは雷電塚古墳や雷電山古墳は、稲荷塚古墳や稲荷山古墳と同じく全国各地に展開している。
文中の、入口の石に刻まれた「巾一寸四分、深さ三分の溝」は不明だが、神主が祭祀後に榊(さかき)を奉納した溝だろうか。大正期は、古墳時代の前方後円墳(当時は瓢箪型墳墓と呼ばれた)などという概念は一般的ではないので、塚状のものから武器(鉄剣・鉄刀)や鎧兜、宝飾類(勾玉・管玉・宝珠)などの副葬品が見つかると、大昔の墳墓ぐらいの認識はあったかもしれないが、それが1500年前なのか1700年前のものかまでは、人文科学の未発達な当時はわからなかった。小松真一も、「上代の塚墓の盛土を利用してこれに寄生して石室をつくつた事を想像出来ない事はなからう」と想定している。また、その際には新たな付会や説話が多く創られ、語り継がれていくことにも触れている。つまり、柴崎古墳(仮)にまつわる「将門伝説」がそれだ。
また、そのように墳丘が崩され、単なる小さな塚状のたたずまいになってしまった古墳の実例として、浅茅ヶ原の妙亀堂(台東区橋場1丁目の現・妙亀塚公園内古墳跡)、荒川沿いにある渋江村西光寺の清重塚(葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡)、墳丘を農地にすっかり削られた川妻村の薬師堂(茨城県五霞町川妻の穴薬師古墳)の3例を紹介している。最後の穴薬師古墳は、著者の小松真一が関東大震災の前年、1922年(大正11)に現地調査をしたばかりであり、すでに副葬品は盗掘に遭って存在しなかったと「人類学雑誌」に報告している。
なお、穴薬師古墳の「薬師」は同古墳の玄室から薬師如来像が出土したことにちなんでおり、いずれかの時代に古墳があばかれ、そこへ新たに薬師如来像を安置した事蹟によるものだ。穴薬師古墳から東へ180mほどの近くにある、畑地に囲まれわずかな塚丘が残る雷電社も、穴薬師古墳によく似た風情なので同様に古墳だったのではなかろうか。古墳の羨道や玄室が見つかると、阿弥陀仏や稲荷社・稲荷の祠を建立して奉った事蹟によく似ている。ちなみに、薬師古墳や薬師塚古墳あるいは雷電塚古墳や雷電山古墳は、稲荷塚古墳や稲荷山古墳と同じく全国各地に展開している。



さて、『大蔵省将門塚内に在つた石室』の末尾には、お決まりのように「将門伝説」にまつわるタタリ譚が付記されている。1926年(大正15)12月13日発行の、都新聞の記事からの引用だ。
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大蔵省の式内政務次官が将門塚の祟りでアキレス腱を断つたといふ因縁めいた話は、元来同次官と新聞記者との冗談から花が咲いた噂であるが、これが一度新聞に伝へられると、噂は噂に止まらず省内お役人連の中にはいろいろと気に病む人が少くない。そこへ持つて来て黒田主税局長が最近何うした原因か、矢張アキレス腱の付近に炎症を起してビツコを引き出したのでその噂はいよいよ大仰になり「然う云へば今年の夏、荒川事務次官がアキレス腱を断つたのも将門塚の祟りであらうし、強てコヂつければ故早速(整爾)蔵相の逝去も禁足の禁を破つたのが病勢増進の原因だから、これまた将門塚の祟りかも知れぬ」と昨今気の病み方が一層ひどくなつた。(カッコ内引用者註)
▲
将門のタタリが、情けないアキレス腱の故障では、あまりにも矮小でケチすぎやしないだろうか。デスクワークばかりで、単に官吏たちが運動不足だっただけだろう。将門のタタリは、史的な経緯を考えても、菅公の雷禍以上でなければ割にあわない。
そもそも、将門は出雲のオオクニヌシ(オオナムチ)とともに、神田明神社が主柱と奉る江戸東京の総鎮守だ。冒頭の将門塚で遊ぶ子どもたちが象徴的なように、この街で、この地域で生まれ育った人間にとっては、1300年の歴史をもつゲニウスロキ(地霊)であり地主神=守護神そのものだ。タタリがあるとすれば、この街この地域に仇なし敵対する人間たちにほかならない。
たとえば、当時の大蔵省をめぐる新聞記事には、「執念深き亡霊の祟り」などという表現がある。この街に暮らしつづけている住民が、なんで守護神の「祟り」を警戒しなければならないのだろうか? たとえば、大阪の「住吉さん(すみよっさん)」の3神に対し、「祟り」があるので注意が必要などと書いたら「このドアホが!」、太宰府の菅公天神に対し「祟り」があるから警戒せよなどと発言したら「このバカちんが!」と張り倒されるのがオチだろう。どこの地方・地域でもいい、自身が初詣でなどで贔屓にしている社に向かって、「祟りがあるから気をつけろ」などといったら、どういう反応になるか愚かな記者は気づかなかったらしい。江戸東京の氏子連150万人(1960年当時)は、怒らないとでも思ったのだろうか?
1874年(明治7)に、薩長政府(教部省)の圧力に負けた神田明神の神主が、氏子連には黙って主柱から将門を外し、代わりにスクナビコナを勧請した。この神主は氏子連より即日、神田明神から追放されている。以来、うちの親父の世代まで復帰運動はつづき、実に110年ぶりの1984年(昭和59)に、将門は神田明神の主柱に復活した。
氏子の数も増えつづけ、20世紀末を迎えるころには300万人に倍増し(特に戦後は氏子町の一部である大手町や丸の内の関係筋から企業繫栄・起業成就・商売繁盛の祈念が多そうだが)、神田祭は昔と変わらず(城)下町の15区でいえば神田区・日本橋区・京橋区の一部・本所区の一部・深川区の一部・麹町区の一部、その他の地域も含め108町(1960年代の東京オリンピックを意識した町名統合・変更で108町に減ったが実際は150町以上)の町内からは、神輿150基と山車50基が陸路あるいは神田川の水路を経由して、神田明神へ集合する日本最大の祭りとなっている。明治以来、神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)は大手町に立ち寄り、薩長政府の弾圧や嫌がらせにもめげず、将門塚(元・神田明神の建立位置)の前で、必ず神輿への将門渡御の神事を行ってきた。
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大蔵省の式内政務次官が将門塚の祟りでアキレス腱を断つたといふ因縁めいた話は、元来同次官と新聞記者との冗談から花が咲いた噂であるが、これが一度新聞に伝へられると、噂は噂に止まらず省内お役人連の中にはいろいろと気に病む人が少くない。そこへ持つて来て黒田主税局長が最近何うした原因か、矢張アキレス腱の付近に炎症を起してビツコを引き出したのでその噂はいよいよ大仰になり「然う云へば今年の夏、荒川事務次官がアキレス腱を断つたのも将門塚の祟りであらうし、強てコヂつければ故早速(整爾)蔵相の逝去も禁足の禁を破つたのが病勢増進の原因だから、これまた将門塚の祟りかも知れぬ」と昨今気の病み方が一層ひどくなつた。(カッコ内引用者註)
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将門のタタリが、情けないアキレス腱の故障では、あまりにも矮小でケチすぎやしないだろうか。デスクワークばかりで、単に官吏たちが運動不足だっただけだろう。将門のタタリは、史的な経緯を考えても、菅公の雷禍以上でなければ割にあわない。
そもそも、将門は出雲のオオクニヌシ(オオナムチ)とともに、神田明神社が主柱と奉る江戸東京の総鎮守だ。冒頭の将門塚で遊ぶ子どもたちが象徴的なように、この街で、この地域で生まれ育った人間にとっては、1300年の歴史をもつゲニウスロキ(地霊)であり地主神=守護神そのものだ。タタリがあるとすれば、この街この地域に仇なし敵対する人間たちにほかならない。
たとえば、当時の大蔵省をめぐる新聞記事には、「執念深き亡霊の祟り」などという表現がある。この街に暮らしつづけている住民が、なんで守護神の「祟り」を警戒しなければならないのだろうか? たとえば、大阪の「住吉さん(すみよっさん)」の3神に対し、「祟り」があるので注意が必要などと書いたら「このドアホが!」、太宰府の菅公天神に対し「祟り」があるから警戒せよなどと発言したら「このバカちんが!」と張り倒されるのがオチだろう。どこの地方・地域でもいい、自身が初詣でなどで贔屓にしている社に向かって、「祟りがあるから気をつけろ」などといったら、どういう反応になるか愚かな記者は気づかなかったらしい。江戸東京の氏子連150万人(1960年当時)は、怒らないとでも思ったのだろうか?
1874年(明治7)に、薩長政府(教部省)の圧力に負けた神田明神の神主が、氏子連には黙って主柱から将門を外し、代わりにスクナビコナを勧請した。この神主は氏子連より即日、神田明神から追放されている。以来、うちの親父の世代まで復帰運動はつづき、実に110年ぶりの1984年(昭和59)に、将門は神田明神の主柱に復活した。
氏子の数も増えつづけ、20世紀末を迎えるころには300万人に倍増し(特に戦後は氏子町の一部である大手町や丸の内の関係筋から企業繫栄・起業成就・商売繁盛の祈念が多そうだが)、神田祭は昔と変わらず(城)下町の15区でいえば神田区・日本橋区・京橋区の一部・本所区の一部・深川区の一部・麹町区の一部、その他の地域も含め108町(1960年代の東京オリンピックを意識した町名統合・変更で108町に減ったが実際は150町以上)の町内からは、神輿150基と山車50基が陸路あるいは神田川の水路を経由して、神田明神へ集合する日本最大の祭りとなっている。明治以来、神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)は大手町に立ち寄り、薩長政府の弾圧や嫌がらせにもめげず、将門塚(元・神田明神の建立位置)の前で、必ず神輿への将門渡御の神事を行ってきた。



この街の守護神である将門にタタリがあるとすれば、アキレス腱を痛めたり関係者に障りがでたりとか、そんなチャチなバチでは収まらないだろう。万が一にもタタリがあったとすれば、薩長政府が築いたものを根底から破壊することにちがいない。神田明神の主柱外しから、わずか71年後の1945年(昭和20)、薩長政府由来の短命な大日本帝国は膨大な犠牲者を生みながら滅亡している。
◆写真上:古代の神田明神跡=将門塚で遊ぶ子どもたちで、1968年(昭和43)撮影の江戸東京らしい風景。「祟りが怖い」とは、どこの地方・地域に住んでいる人間の感覚だろう?
◆写真中上:上は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)に掲載の大蔵省内にあった将門塚と御手洗池(古蓮池)。中上は、1935年(昭和10)刊行の『武蔵野叢書』(武蔵野会)に掲載された関東大震災直後の大蔵省によるバラック省庁舎の計画図。中下は、鳥居龍蔵チームが北東側から震災直後に撮影した将門塚で、小型の前方後円墳だった様子がよくわかる。下は、南東側の前方部から同チームが撮影した将門塚。
◆写真中下:上は、小松真一が作図した将門塚出土の石室計測図。中は、小松真一が撮影した石室の内部。下左は、1927年(昭和2)に刊行された「武蔵野」1月号(武蔵野文化協会)。下右は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)。
◆写真下:上は、明治初年に描かれた将門塚で、御手洗池(古蓮池)に張りだした北東側の藤棚あたりからの眺めだと思われる。後円部の残滓は、3間(5.5m)ほどの高さだった。中上は、2011年(平成23)4月に撮影した将門塚の記念碑。中下は、現在の将門塚のモニュメント。下は、明治末か大正初期に撮影された神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)への将門渡御の光景で、背後に見えている墳丘が柴崎古墳(後円部)。本神輿が2基あるうち、1基は出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)の神輿。
★おまけ1
小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』に引用されている、上から下へ台東区橋場1丁目の妙亀塚公園内古墳跡と葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡、小松自身が調査した茨城県五霞町川妻にある穴薬師古墳の、羨門から見た玄室(玄門)と玄室内部の石組み(一部修復)。同墳は、薩長政府の「官令達 乙部第百廿号」により墳丘が崩されたとみられ、ほぼ玄室部のみしか残っていない。
◆写真中上:上は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)に掲載の大蔵省内にあった将門塚と御手洗池(古蓮池)。中上は、1935年(昭和10)刊行の『武蔵野叢書』(武蔵野会)に掲載された関東大震災直後の大蔵省によるバラック省庁舎の計画図。中下は、鳥居龍蔵チームが北東側から震災直後に撮影した将門塚で、小型の前方後円墳だった様子がよくわかる。下は、南東側の前方部から同チームが撮影した将門塚。
◆写真中下:上は、小松真一が作図した将門塚出土の石室計測図。中は、小松真一が撮影した石室の内部。下左は、1927年(昭和2)に刊行された「武蔵野」1月号(武蔵野文化協会)。下右は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)。
◆写真下:上は、明治初年に描かれた将門塚で、御手洗池(古蓮池)に張りだした北東側の藤棚あたりからの眺めだと思われる。後円部の残滓は、3間(5.5m)ほどの高さだった。中上は、2011年(平成23)4月に撮影した将門塚の記念碑。中下は、現在の将門塚のモニュメント。下は、明治末か大正初期に撮影された神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)への将門渡御の光景で、背後に見えている墳丘が柴崎古墳(後円部)。本神輿が2基あるうち、1基は出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)の神輿。
★おまけ1
小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』に引用されている、上から下へ台東区橋場1丁目の妙亀塚公園内古墳跡と葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡、小松自身が調査した茨城県五霞町川妻にある穴薬師古墳の、羨門から見た玄室(玄門)と玄室内部の石組み(一部修復)。同墳は、薩長政府の「官令達 乙部第百廿号」により墳丘が崩されたとみられ、ほぼ玄室部のみしか残っていない。




★おまけ2
破壊される直前、1935年(昭和10)11月29日に小松真一によって撮影された柴崎古墳<将門塚古墳>(仮)の姿。いまだかろうじて、小型の前方後円墳のフォルムをとどめていた。
