佐伯祐三『下落合風景』の評価をめぐって。(上)

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 1984年(昭和59)4月に、アララギ発行所から刊行された短歌雑誌「アララギ/77号」には、坂本美代子という、和歌山に住んでいる歌人の作品が掲載されている。
   夫も吾も立ち去りかねつ就中(なかんずく) 「下落合風景」といふ絵の前
 わたしも、佐伯祐三の作品などが並べられる展覧会へ出かけると、「下落合風景」シリーズの画面の前で、かなり長いこと立ち止まっては眺めてしまうことが多い。これは、地元の近所を描いているので、より親しみをおぼえるせいにちがいないのだが、それだけではない。子どものころに見た、昔の懐かしい東京の情景を思いだしてしまうからだ。
 この「昔」とは、大正末から昭和初期のことではもちろんなく、高度経済成長期に東京郊外を散策すると、住宅のかたちこそ大正末とは異なるが、佐伯が描く関東ロームの赤土が露出した、工事中・造成中の新興住宅地をあちこちで目撃していた。少し風が吹くと土ぼこりが舞い、樹木の葉に付着して木立全体がくすんで見えた。道路の舗装が追いつかず、雨が降ると泥濘(ぬかるみ)や水たまりがすぐにできる開発途上の現場だった。富士山や箱根連山などによる、火山灰由来の赤土は粘り気が強く、靴などに付着すると洗い落とすのが手間だった。
 少し前、sakuraさんにご教示いただいた社会教育劇『街(ちまた)の子』(東京シネマ商会/1924年)のような情景が、1960~70年代の高度経済成長期には、東京のさらに外周域で見られた風景そのものだった。建物の外観や人々の服装こそ異なるが、走れば足もとから土ぼこりが立つ様子は、東京郊外の武蔵野ハイキング史蹟めぐりに出かけると随所で目にした光景だ。街中から電車に乗ると、途中から赤土がむき出しの工事中・造成中の新興住宅地になり、それをすぎると郊外の青々とした雑木林や田園地帯が拡がる、いわゆる昔ながらの武蔵野の姿が残っていた。
 わたしが子どものころは、すでに東京23区の外周区、あるいは23区を外れた地域にいかなければ、工事中・造成中の開発地域はなかなか見られなかったが、佐伯祐三の時代には、山手線の西側に位置する駅を少し西へ入れば、そのような風景が随所に拡がっていただろう。佐伯祐三は、なぜ赤土がむき出しの造成地にこだわったのだろうか。佐伯の作品群と同年に制作された、東京上空を飛ぶ飛行船から市街地を撮影した映画、『航空船にて復興の帝都へ』(文部省/1926年)でも明らかだが、佐伯がパリで描いたような硬質で堅牢な街並みやビル群は、関東大震災からの急速な復興事業により、東京各地ですでに見られていたはずだ。
 また、落合地域でいえば、下落合の東部には華族たちの大きな屋敷群をはじめ、レンガやセメント(モルタル)でできた西洋館群、目白文化村と同じような街並みをしていた、1922年(大正11)から東京土地住宅が開発をはじめた近衛町の邸宅群、あるいは目白通り沿いにはコンクリート製のビル(銀行や信用組合のオフィスビル)が建ちはじめていたはずだが、佐伯祐三はそれらを連作「下落合風景」にはまったく描いていない。さらに、佐伯アトリエの近くには目白文化村の開発により、レンガ造りの箱根土地本社ビルをはじめ、当時の日本の住宅街とは思えないような洋館群が建ち並んでいたのは、上記の『街の子』(1924年)で実際の映像を確認するまでもなく自明のことだった。けれども、佐伯はそれらの風景をほとんど描いていない。
 山田五郎教授も指摘・考察しているように、東京の市街地はおろか、下落合でも佐伯はそれらの風景にまったく目を向けず、あえてモチーフに選ぶのを避けながら、赤土がむき出しの工事中・造成中の開発現場ばかりを、すなわち中途半端で整備されていない、雑然としたキタナイ造成地ばかりを、意図的に選んで連作「下落合風景」として描いているのだ。
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 佐伯祐三の「下落合風景」シリーズについて、前世紀にもっとも多かった評価は、第1次滞仏と第2次滞仏の谷間のような時期で、絵にならない日本の風景を相手に苦悩をつづけていたのであり、不本意な日本の風景をイヤイヤ描いていたというものだった。これは、佐伯の「親友」を自称する阪本勝が、下落合の佐伯アトリエを訪ねた際、「あかん、ぼくは日本では描けん。日本の風景は、ぼくの絵にならん」と佐伯自身がいっていたという「証言」を中心として、後世に付会されてきた連作「下落合風景」のとらえ方であり評価なのではないか。
 たとえば、前世紀には以下のような評価が「下落合風景」シリーズについては多かった。1971年(昭和46)に文藝春秋から出版された、田中穣『佐伯祐三の死』から引用してみよう。
  
 その秋から、佐伯は東京・下落合のアトリエ周辺を描く『下落合風景』の連作にかかったが、できあがる絵がよくない。パリでつかんでいたはずのカンも調子も、もどってはこない。生家のある大阪へ出掛けて気分を変えてみたが、大阪風景もうまくない。
  
 ほかにも、前世紀の近代美術全集や展覧会図録では、ほぼ同様のとらえ方や評価がなされており、「下落合風景」シリーズは佐伯がやむをえず、不本意に取り組んだ作品群ということにされている。パリでつかんだカンや調子を維持したければ、東京の市街地には似たような風景や、震災復興の堅牢なコンクリートや石造りのビル群が、ずいぶん建ち並んでいたはずなのだ。
 北野中学校時代からの「親友」を名のる阪本勝だが、佐伯の東京美術学校からの親友である山田新一によれば、阪本は当初「絵を熱心に描く以外は、勉強も運動もしない、佐伯が野球の選手であったということは嘘で、絶対にしたことはない」と、伝記本(『佐伯祐三』日動出版/1970年初版)に書いていたようで(同書は改訂を頻繁に繰り返している)、佐伯が野球部の主将でセンターを守り、ときに剛速球を投げるピッチャーもつとめ、長距離バッターとしても鳴らしていたという中学時代の生活をまったく知らなかった様子から、山田新一が根本的な不信感を抱いたように、わたしも阪本勝が「親友」になったのは、佐伯の死後ではないかと想像している。
 また、佐伯の周囲にいた友人たちも、佐伯米子の実家である池田家側でも、阪本勝を一度も見かけていないし、親友だったという印象をまったく残していないことも、山田新一は確認して『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)に記述している。
 もうひとつ、美術評論家で京都国立近代美術館の館長だった今泉篤男も、大正末から昭和初期にかけての「下落合風景」シリーズについて、同じような評価をしている。1999年(平成11)に求龍堂から出版された『今泉篤男著作集2』収録の、『佐伯祐三』(1963年)から引用してみよう。
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 下落合のアトリエに落ち着いた佐伯は、まずその附近の風景をモティーフとして仕事を開始した。私はこの頃の習作の「下落合風景」を何点か見たことがあるが、それらは第一次滞欧期の終わり頃の作調のペースをまったく乱してしまって、惨憺たるものであった。風景のもつ量感表現はばらばらに散乱し、色調は混乱し、佐伯独得の一気に貫いた息の通った強さが見られない。それらの作品を見ていると、日本に帰った佐伯が、日本の風景のモティーフを扱いあぐんでいる苦悩がまざまざと感じられる。/何故このように佐伯は日本のモティーフに当面して混乱し、手こずったか。それは、われわれにとって一つの問題でなければならない。
  
 ここでは、佐伯の「下落合風景」シリーズは「惨憺たるもの」であり、完成したタブローでさえなく「習作」レベルにまで評価が貶められている。
 また、これらの人々は、東京の下落合という街の歴史(おもに明治以降)や風情などをよく知らない、東京以外の街の出身者ばかりであることにも気づく。佐伯が「下落合風景」を描いているとき、震災から復興をつづける東京の街々はどのような姿をしていたのか、あるいは明治期から華族やおカネもちの別荘地として拓けた下落合には、いかなる人たちが居住し、どのような風景が展開していたのかが未知のまま、画面の様子だけとらえて評論・評価しているようにも感じてしまう。佐伯祐三が、当時の東京や地元の下落合からなにをモチーフに選び、またなにをモチーフから捨象していたのかが、まったく考慮されてもいなければ見えていないようなのだ。
 「あかん、日本の風景は描けん」と阪本に「証言」したはずの佐伯が、なぜ当の下落合のアトリエで画布600枚も手づくりして用意し、現状で判明している「下落合風景」だけでも58点(「制作メモ」に残る未知の作品記録を含めると70点余、戦災で失われた作品あるいは行方不明の作品を含めると、わたしは100点単位になるのではないかと考えている)も制作したのかが、まったく理解できないことになる。そこには、佐伯祐三の内面に存在したなんらかの“こだわり”や、モチーフ選びの“美意識”が大きく左右していたと考えてしかるべきだろう。
 それは、パリでは公衆便所(『共同便所』)を描き、下落合では自宅の「便所風景」を描いてしまう佐伯独自の“美意識”にちがいない。山田五郎教授は、その意識的かつ意図的なモチーフ選びを、浄土真宗における大無量寿経にみえる、四十八願の四願「無有好醜」と結びつけて解説している。もともとは、極楽浄土では美醜による差別をすることなく、すべてを美しいと思えるような心(価値観)をもちたいという意味あいからだろうが、これを浄土真宗本願寺派の光徳寺の息子である佐伯祐三の内面を通じ、絵画の世界で解釈すればモチーフの美醜を問わず、すべての風景に美を見いだす境地に到達したいというような、通常の洋画家にはもちえない志向になるだろうか。
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 確かにふつうの画家であれば、まかりまちがっても「便所風景」などは絶対に描かない。さらにいえば、フランス人は自宅の居間に、どれほど出来がよくてもパリの公衆便所の画面を架けようとは思わない。同様に、日本人は自宅の客間や居間に、アトリエの西に接した廊下の突きあたりにあった、手ぬぐいがゆれる佐伯家の「便所風景」を飾りたいとは、決して思わないだろう。
                                   <つづく>

◆写真上:誰も写生や記念写真を撮りたいとは思わない、郊外で開発中の新興住宅地。
◆写真中上は、北野中学野球部の佐伯祐三(AI着色以下同)。は、1923年(大正12)の渋温泉で撮影された佐伯祐三。は、1926年(大正15)撮影の1930年協会記念写真。
◆写真中下は、連作「下落合風景」の1作で1926年(大正15)9月27日に蘭塔坂(二ノ坂)の上から新宿駅方面を眺めた『遠望の岡』は、1926年(大正15)に佐藤重遠中央生命保険倶楽部(旧・箱根土地本社)ビルを描いた林武『文化村風景』は、1925年(大正14)に前谷戸の谷間から第一文化村の外れや“スキー場”水道タンクを描いた山口諭助『下落合風景』
◆写真下は、第1次渡仏直前の1923年(大正12)に門司で撮影された佐伯祐三。は、1928年(昭和3)にパリで制作された佐伯祐三『共同便所』。は、いまも残るパリの古い公衆便所。