テニスコートから見る林泉園の古島安二邸。

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 先月、目白ヶ丘教会のオープンチャーチデーで、キリスト教とは縁のないわたしが落合地域の土地柄を美術に絡めてお話させていただいた。もっとも、話ベタが災いしてか後半の落合の建築と建築家については、時間配分がマズかったため割愛させていただいたけれど……。
 下落合(現・中落合/中井含む)の中部と西部には、落合第一地域センターおよび落合第二地域センターがあり、多彩な催しが行われ多くの文化的なサークルが活動しているが、目白駅近くの下落合東部にはそのようなスペースがない。ぜひ、地域のコミュニティが形成できるような催しを、今後とも継続して開催いただけたらと願う。さて、お話をさせていただいた当日に、参加者の方たちから旧Soーnetブログ時代のリンクが切れて、INDEXページからもたどれない記事があるとご指摘をいただいた。わたしも以前から気づいていたのだが、古いSo-net時代のリンクが今夏ごろに廃止され、ssブログ時代からのリンクしか利かなくなっている。そこで、せめて「わたしの落合町誌」「目白文化村」「高田町の暮らし1925年」の3メニュー内だけでもリンクを復旧させたいので、少しお時間をいただければと思う。また、最近ドライアイがひどくなっており、上記の作業も含め取材や記事の更新をしばらくお休みさせていただきたい。それでは読者のみなさん、よいお年を!
  
 東邦電力の社史を調べているある方から、中村彝アトリエの前に口を開ける1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、林泉園の写真をご教示いただいた。掲載されていたのは、1962年(昭和37)に経済往来社から出版された『東邦電力史』(東邦電力史刊行会)だ。
 同社は1922年(大正11)6月、名古屋にあった本社屋を東京へ移転する決定をしている。東京では事前に、社宅建設地を物色していたのだろう、同年7月には下落合で新たな分譲住宅地として華々しく売りにだされていた近衛新町のほぼ全域を、隣接する近衛町を開発中だった東京土地住宅から購入している。これは、東京土地住宅が1922年(大正11)7月29日に東京朝日新聞へ掲載した、近衛新町の分譲中止広告の時期と一致している。
 同社の松永安左衛門は、近衛新町を共同で開発していた近衛家と東京土地住宅三宅勘一に話をつけて購入したものだろう。近衛家では、中村彝アトリエの前にある湧水池や濃い緑が繁る谷戸を、「落合遊園地」として近隣の住民やハイカーたちに開放していた。早稲田に下宿し、ほとんど「引きこもり」のような生活を送っていた若山牧水が、郊外散歩をして「落合遊園地」を発見しているエピソードは、ずいぶん前に随筆『東京の郊外を想ふ』とともにご紹介している。若山牧水は、目白通り(ほぼ清戸道)から左折して近衛家の敷地を散策している。
 東邦電力は、近衛新町全域を購入した直後から、湧水が豊富で池のある「落合遊園地」のことを、「林泉園」と新たに名づけている。当時の様子を、『東邦電力史』より引用してみよう。
  
 敷地は省線目白駅を去ること僅か3、4丁にして、新開の通称近衛町並に相馬子爵邸と相対し、付近には宏壮の邸宅及び文芸美術家等の住家多く、鬱蒼たる樹木に富み、東京近郊には珍しき閑佳の一廓にして住み心地の快き事真に無類にて、丸ノ内本店までは省線電車にて50分を要せずして達し得らるべく、又敷地内の東北部に当る窪地には桜其他の老樹繁茂し、其間に楚々たる小川流れるなど、幽邃にして巴里郊外に於ける森林公園の如き観あり。
  
 上記の文中には、相馬孟胤邸をはじめ中村彝アトリエ前のサクラ並木や、湧水源からほとばしり出る清冽で豊かな泉水の様子が記録されている。また、山手線の目白駅から東京駅までは、当時の電車で50分ほどかかっていた様子がうかがえる。ちなみに、現在では山手線の外回り電車に乗れば、およそ25分と半分ほどの時間で東京駅に到着する。
 買収した近衛新町の約6,500余坪のうち、460坪を東邦電力の実質的な経営者だった副社長・松永安左衛門に売却し、約1,295坪に重役宅や社宅を建設している。その内訳は、一戸建て住宅が10棟、4軒つづきのテラスハウスが5棟、3軒つづきのテラスハウスが2棟、独身寮が1棟という構成だった。そのほか、共同浴場やテニスコート、ビリヤード場などを併設している。また、テニスコートの東側には、子どもたち用に鉄棒やブランコを設置した児童遊園も設けている。テニスコートから北東を向き、児童遊園を撮影したのが冒頭写真だ。
 その後、社員の人数が増えるにつれ、社宅が不足してきたため増築を繰り返し、独身者には新たに合宿所「清和寮」をテニスコートの西側、落合家庭購買組合の東隣りに建設している。また、社宅の建設からしばらくすると、社内のサークル活動が盛んになり、松永邸で社内音楽会を開催したり、清和寮で家庭製作品(裁縫・料理など)の講習会を開いたりしている。以前、目白林泉園庭球部と目白中学校庭球部が試合をした様子も、こちらの記事でご紹介していた。
 1923年(大正12)の関東大震災では、丸ノ内の海上ビル内にあった本社オフィスが破壊され、約半月間も使用できなくなった。そのため、本社機能を下落合へ移し、松永邸のなかに臨時オフィスを設けて事業を継続している。そこでは、事業・実務の継続ばかりでなく、罹災社員とその家族への救護をはじめ、食糧の配給や電信・電話による通信環境の確保、林泉園住宅地の夜警などが行われた。下落合の林泉園オフィスは、同年9月21日に海上ビルが復旧するまで存続した。
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 さて、冒頭写真にとらえられた林泉園風景について詳しく見ていこう。まず、カメラマンがいるのは林泉園の突きあたり、湧水源の上に造成されたテニスコートだ。そこから、隣接するすべり台やブランコのある児童遊園ごしに、林泉園の谷間方面を撮影している。正確にいえば、林泉園の池がある東の方角ではなく谷戸の北側崖地沿い、すなわち東北東を向いてシャッターを切っている。この児童遊園は、昭和初期にはなかったもので家々の配置や様子、そして落合第四小学校に通う生徒とみられる子どもたちの服装(洋装が多い)からして、おそらく1935年(昭和10)前後の撮影ではないだろうか。この児童遊園の地面の下、柵が見えているやや南寄り(写真では右手)の小崖の下に、水量がたいへん豊富な林泉園の湧水源があった。
 この場所を、1928年(昭和3)にフランス留学から帰国したばかりの画家が、林泉園の南側から北西を向いて写生している。中村彝の死後、中村画室倶楽部として保存されていた下落合463番地の中村彝アトリエを、おそらく5年ぶりに訪れた清水多嘉示だ。同年に描いたとみられる『風景(仮)』(OP595)という作品だが、林泉園の谷間に設置されたテニスコートと、その上に建つ東邦電力の社宅群、そして手前の谷底には湧水源とみられる白く噴出する水流が描かれている。だが、この時点でテニスコートの東側に児童遊園は見られない。1929年(昭和4)には、中村彝アトリエを購入した鈴木誠が転居してくるので、その前年に見られていた光景だ。
 林泉園北側の崖の中腹に見える、2階(屋根裏を含め3階?)建ての西洋館は、下落合1丁目450番地(旧・下落合367番地)の古島邸だ。鎌倉山住宅地と名古屋桟橋倉庫の代表取締役だった古島安二について、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 新潟県人山崎正八氏の二男にして明治十五年一月を以て生れ後先代古島理策氏の養子となり明治四十年家督を相続す、先是三十八年早稲田大学政治経済科を卒業し業界に入り現時前掲会社の重役たる外 矢作開墾会社取締役、東邦證券保有、三信鉄道、河津川水力電気、伊豆水力電気、新潟電力、長浦海園土地、名岐自動車道各会社取締役、矢作素道会社監査役等に任ず。夫人ヨシ子は同郷玉川覚平氏の長女である。
  
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 上記の役職に加え、古島は東邦電力の理事も兼任しているので、松永安左衛門に奨められて林泉園に自邸を建設しているのだろう。林泉園の開発当初から、古島邸は林泉園に家をかまえていたとみられ、大正末ごろ写真に見える新邸を建てているようだ。
 古島邸の北側、すなわち崖上には林泉園に沿って二間道路が通っているが、その道路沿いには江戸桜のソメイヨシノが植えられ並木が形成されていた。古島邸の裏、少し高い位置につづく並木がそれだ。このサクラ並木は、中村彝アトリエからも撮影されており、中村彝が死去するおよそ半年前、1924年(大正13)5月27日に開かれた園遊会の記念写真にも、人々が並ぶ背後にソメイヨシノが大きな枝葉を繁らせている。すなわち古島邸の斜向かい、写真の左枠外には下落合1丁目464番地の中村彝アトリエ(当時は鈴木誠アトリエ)が建ち、古島邸の左側の高い位置に見えている住宅が、二間道路をはさんだ下落合1丁目462番地の吉村邸だろう。
 古島安二邸にスポットを当てると、1922年(大正11)にスケッチされた曾宮一念『落合ニテ』には、建て替え前(仮住まいの暫定邸?)とみられる古島邸の低い屋根がとらえられている。同スケッチは、中村彝アトリエとその東隣りに建つ福川別邸を、裏側すなわち北西側から写したものだが、林泉園の谷戸にはおそらく当時は平家だったとみられる低い屋根が見えている。さらに、先の中村彝アトリエで開かれたパーティー記念写真の背後にも、古島邸(新邸)の屋根がとらえられている。この時点で、かなり屋根の位置が高くなっているので、建設中の古島邸あるいは竣工後の新邸は、1924年(大正13)ごろと類推することができそうだ。
 また、中村彝自身も、東邦電力による林泉園住宅地を描いている。1923年(大正12)ごろにスケッチされた『林泉園風景』(鈴木良三がタイトルを付加しているのだろう)がそれだ。中村彝は、アトリエの南側に口を開けた林泉園の周辺に、次々と建設されていく赤い屋根に白い壁の洋風住宅群やテラスハウスに惹かれ、スケッチブックを手に病む身体をおして写生に出ているのだろう。
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 『東邦電力史』に掲載された写真の撮影時期だが、児童遊園に植えられたサクラとみられる樹木に花が咲いているので春なのだろう。けれども、崖上のサクラ並木にはあまり花が残っていないようなので、花見の季節を終えて林泉園がやや静寂を取りもどした時期、4月の初旬から中旬にかかる季節のようにも思える。中村彝アトリエ前のサクラ並木だが、老樹が1本だけ残されて花をつけていた。だが、幹の空洞化が進み倒木の怖れがあるということで、少し前に伐採されている。

◆写真上:1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、林泉園の児童遊園と古島安二邸。
◆写真中上は、東邦電力が作成した林泉園住宅地の開発地割図。中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の林泉園だが、フリーハンドで描かれているため位置関係が不正確だ。中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる林泉園界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる林泉園界隈。
◆写真中下は、1928年(昭和3)ごろに制作された清水多嘉示『風景(仮)』(OP595)。中上は、1924年(大正13)5月27日に中村彝アトリエで開かれた園遊会の記念写真。左から右へ岡崎興、伊藤成一、鶴田吾郎、高野正哉が写る背後に小島邸の屋根が見えている。中下は、同日の園遊会で前列左から前田慶三、遠山五郎、鈴木良三、後列左から右へ堀進二、本郷惇、福原達朗、長谷部英一、酒井億尋たちの背後にとらえられたサクラ並木。は、1935年(昭和10)撮影の林泉園で写生する落合第四小学校の生徒たち。(提供:堀尾慶治様)
◆写真下は、冒頭写真にとらえられた古島安二邸の拡大。中上は、1922年(大正11)に曾宮一念が描いたスケッチ『落合ニテ』。中下は、1923年(大正12)ごろに中村彝が描いたスケッチ『林泉園風景』。は、2013年(平成25)4月に撮影したサクラ並木の最後のソメイヨシノ老木だが、2016年(平成28)ごろに倒木の怖れがあるということで伐採されている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。
おまけ
 戦後の1947年(昭和22)に撮影された林泉園の空中写真で、緑が濃かったため空襲による延焼被害をあまり受けていない様子がわかる。テニスコートと児童遊園は、戦時中の食糧増産のため畑地にされていた。下の写真は、ともに下落合の住民だった松永安左衛門(右)と石橋湛山(左)。
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