下落合を描いた落四小の生徒たち。(5)

①廣瀬恒夫4-1風景.jpg
 1940年(昭和15)3月23日、6年生の卒業式にあわせて発行された児童作品集『おとめ岡』の第5号は、従来になくページの薄い編集内容となっている。第4号の32ページよりもさらに少ない20ページの構成で、図画はわずか9点、書き方(書道)の作品は8点、作文にいたっては36編と、もっとも充実していた1938年(昭和13)の第3号に収録された83編の半分以下と激減している。それだけ物資統制が強化されモノの価格が高騰し、印刷用紙でさえいままでの予算では入手が困難になっていたのだろう。そして、同号が『おとめ岡』の最終号になったとみられる。
 当時の物資統制によるモノ不足は、授業に必要な生徒たちのさまざまな学用品にまでおよんでおり、児童後援会(今日のPTAのような組織)では生徒たちの家庭へも協力を呼びかけている。第5号の巻末に掲載された、「児童後援会便り」より少し引用してみよう。
  
 十五年度は昨年よりも学用品が不足し且つ価格が高騰せる為品質が劣り、分量に於ても配給数を減らさざるを得ざるものあり。然れども学習の不便は最少限度に止むべく努力致し居る次第なれば各家庭に於ても物資愛護に御協力下さる様お願ひ致す次第なり。
  
 子どもたちの学用品にも事欠くような社会で、なぜ欧米諸国と戦争をしようなどという考えに傾いていったのか、また「勝利できる」などという予測判断ができたのか、摩訶不思議としか思えない状況が透けて見える。それに異を唱えた数多くの国民が、「非国民」のレッテルを貼られて殺されるか、起訴されて「有罪」となるか、あるいは拷問・暴力や恫喝・脅迫によって沈黙させられたのは、前号の記事でも触れたとおりだ。
 また、同号の「児童後援会便り」では同後援会の会長交代が報告されている。前会長の相馬閏二は、近衛町に建てた自邸から急遽転居するため、わずか2年間のみ会長をつとめただけで辞任している。後任の会長には、相馬閏二邸から南へ安井曾太郎アトリエ藤田邸など2邸をはさみ、同じ近衛町で下落合1丁目404番地に住む酒井菊雄が就任している。拙ブログの記事では、相馬孟胤邸とは谷戸をはさんだ隣家として、また落合第四尋常小学校(戦時中は落合第四国民学校)の学童疎開を記録したDVDでもご紹介している酒井正義様のお父様だ。
 さらに、この年は1939年(昭和14)の春から着任していた教諭の富永熊次が、落合第四尋常小学校の校歌を作詩した記念すべき年でもあった。その歌詞は、多くの校歌が軍国調の当時としては異例の存在で、軍国主義や国粋主義、皇国史観をなどを象徴するようなワードはまったく含まれておらず、江戸城を築いた太田道灌千代田城を築いた徳川幕府など、室町期からの江戸の事蹟を織りこみながら、落四小が建つ将軍鷹狩り場としての地元・御留山をクローズアップしたもので、現在でも変わらずに歌い継がれている。戦後、幾多の小学校では軍国調の校歌をつくり直さなければならなかったが、落四小ではその必要がなかった。
 さて、第5号に掲載された生徒たちの図画をご紹介していこう。まず、4年1組の廣瀬恒夫という生徒が描いた『風景』から。画面が小さくて粗いため、細かなディテールまでは不明だが、落合第四小学校の校庭あるいは権兵衛山(大倉山)の急斜面あたりから南東を向いて描いた、目白崖線の下に拡がる風景で、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの下落合を描いたものだろう。川沿いには工場や開発研究所が数多く建設されており、以前からご紹介している大黒葡萄酒(現・メルシャンワイン)の壜詰め工場もそのひとつだった。
 画面の少し上を、左から右へ横切っている黒っぽい線状の表現は、山手線の線路土手に設置されていた柵と植えこみとみられる。見えている手前に大きく描かれた煙突は、相馬坂の坂下東寄りに建っていた東製紙株式会社の工場のもので、その右手の少し離れた位置で排煙がのぼる煙突は山本螺旋(ねじ)合資会社の工場、手前の大きな煙突の左側に見えているやや遠景の細い煙突は、亀井薬品合名会社が建設した研究所のものだろう。画面ではわかりづらいが、右手の奥には山手線をくぐる西武線のガードや、旧・神田上水をわたる山手線の鉄橋も描かれているのかもしれない。山手線の向こう側には、早稲田通り沿いに拡がる戸塚町(現・高田馬場)の街並みが拡がっている。
②岡ミノリ3-2風景.jpg
下落合氷川明神社1932.jpg
③岡ヒトシ1-2風景.jpg
 次に、3年2組の岡ミノリという生徒が描いた『風景』だ。1939年(昭和14)5月15日から毎月、落合第四尋常小学校では下落合氷川明神社へ参拝して国旗の掲揚が行なわれるようになった。戦災で焼失する拝殿の前に、日の丸が掲げられた光景を写生している。当時の生徒たちによる参拝の様子は、堀尾慶治様が保存していた貴重な写真で見ることができる。下落合氷川社の拝殿・本殿は、敗戦後に比較的早めに再建されているが、戦前の建築とはかなり異なった意匠となっており、戦後の建物のほうがやや規模が大きい。
 つづいて、1年2組の岡ヒトシという生徒が描いた『風景』を観てみよう。ちなみに、上記の岡ミノリという生徒とこの生徒は兄弟だろうか。道路沿いに建っている家並みを描いているらしく、その道沿いに設置された電柱を1本入れて描いている。家々のかたちを観察すると、右手の小さな家はよくわからないが、中央の黒っぽい2階家は一部が店舗のようになっている。このような構えの店舗は、おそらく手前にショウケースを設置したタバコ屋だろう。
 当時、街中のタバコ屋はまったくめずらしくないが、やや広めな道路沿いにある個人住宅兼タバコ屋のような趣きの建物に見える。落合第四尋常小学校の近辺を探すと、雑司ヶ谷道(新井薬師道)に面した下落合1丁目304番地に、住宅兼タバコ屋を見つけることができる。山手線の下落合ガードをくぐり、30mほど西へ歩いた右手に開店していた。なお、わたしの学生時代までこのタバコ屋は営業をつづけており、前世紀末か今世紀に入ってから自動販売機のみが設置され、店舗自体は閉じられたように記憶している。岡ヒトシという生徒は、父親のタバコ買いにつきあって外出した際にでも、スケッチブックへ写生したものだろうか。
 2年3組の山内久子という生徒は、近くの雑木林か草原で遊んでいる女子生徒たちをとらえた『風景』を描いている。この時期、落四小に建つ開校当初からの校舎の北側、従来は傾斜地を含む広い原っぱだった場所では、新たな校舎の建設が進んでおり、1939年(昭和14)12月には完成するので、以前に登場している「清水の原っぱ」のように、小学校から少し離れた別の草地か雑木林で遊ぶ情景だろうか。あるいは、遠足でどこかに出かけた思い出の光景だろうか。モノクロなのでわかりにくいが、手前にはなにか花のようなものが描かれているような気がする。
④山内久子2-3友だち.jpg
⑤青山俊彦3-1遊園地.jpg
⑥三品代子1-3防空演習.jpg
 次に、3年1組の青山俊彦という生徒が描いた『遊園地』だが、これは明らかに下落合の風景ではない。休日に、両親とどこかの遊園地へ遊びにいったものか、人を乗せてぐるぐる回転するゴッド・スインガー(回転ブランコ)が描かれている。当初は、落四小の生徒たちがよく遠足で出かける豊島園かと思ったが、周囲に家々が建てこんでいる風情なので、浅草の花屋敷にでも家族で出かけた思い出を描いたものかもしれない。1939年(昭和14)の年度中に遠足は行なわれず、同年10月30日に実施されたのは、全校生徒参加による田無村への芋掘り課外授業だった。
 最後に、1年3組の三品代子という生徒の『防空演習』を観てみよう。防護団(おそらく淀橋区防護団落合第一分団)が実施した、防空演習を写生したものだ。防空頭巾をかぶり、襷(たすき)がけをした主婦たちがバケツリレーをしている様子が描かれている。バケツリレーの中に母親がいるのか、奥で見学をしているおかっぱ頭の少女が三品代子自身なのだろう。防護団の防空演習は、東京への空襲が増えるにつれ頻繁に行なわれるようになっていた。
 だが、いくらバケツリレーと防火ハタキなどで消火しようとしても、B29から投下されるM69集束焼夷弾により、まわりで同時多発的に発生する大火災にはほとんど無力だった。それでも、住宅の敷地が広くて屋敷林や雑木林が多く、延焼スピードが遅かった落合地域における山手大空襲では、多少の効果はあったかもしれないが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲では、火災を消そうとして火に囲まれ、逃げ遅れてほぼ全滅した消防署員や消防団員、防護団、一般市民たちなど10万人以上が焼死し、一家全滅やひとり住まいの独身者など証言のない行方不明者を含めると、あとどれぐらいの犠牲者がいるのかさえわからない。
 東京都では、戦後80年の現在でも死者・行方不明者の捜索(遺骨収集)がつづいているが、うちの親父のように激しい空襲がはじまると同時に、すぐさま避難した人々が命からがら助かっているのを見ても、バケツリレーやハタキなど防火7つ道具による防空演習が、いかに無力だったのかがうかがえる。以前、町内会の防護団役員でふだんの防空演習などでは威張りちらしていた元軍人が、いざ空襲がはじまると同時に「退避~っ!」と、真っ先に町内の防空壕へ飛びこんで、のちに町民たちから吊しあげを食った東日本橋のエピソードをご紹介していたが、この防護団役員の判断は結果的に正しかったことになる。空襲と同時に直撃弾を避けるために防空壕へ退避し、火災が拡大して迫らぬうちに即座に避難しなければ、とうてい間にあわない危機的な状況だった。
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 『おとめ岡』第5号には、尋常小学校から中学校へ進学する生徒の入学試験について書いた作文が、2編ほど収録されている。当時は、中学校を通じての5年間の成績しだいで、進学する高等学校(現在の大学教養課程に相当)が決まるので、その緊張度は現在の高校受験ぐらいの感覚だったろうか。ドキドキしながら、受験や合格発表にのぞんでいる様子がうかがえる。だが、1940年(昭和15)3月に落合第四尋常小学校を卒業し中学へ進学した生徒たちは、その大半の年月を勉学などではなく学徒勤労動員のもと、戦時中は工場や農場などの生産現場で働かされることになった。
                                      <了>

◆写真上:目白崖線から山手線をはさみ、戸塚町方面を描いた4年1組の廣瀬恒夫『風景』
◆写真中上は、下落合氷川明神社への参拝日を描いた3年2組の岡ミノリ『風景』は、1932年(昭和7)に撮影された下落合氷川社の旧・拝殿。は、下落合の道路沿いに開店していたタバコ屋を描いたとみられる1年2組の岡ヒトシ『風景』
◆写真中下は、原っぱで遊ぶ女生徒を描いた2年3組の山内久子『友だち』は、街中にある遊園地のゴッド・スインガーを描いたとみられる3年1組の青山俊彦『遊園地』は、防護団による演習を描いた1年3組の三品代子『防空演習』
◆写真下は、1940年(昭和15)3月23日に発行された児童作品集『おとめ岡』第5号の表紙()と奥付()。は、1939年(昭和14)12月に竣工した敷地北側の新校舎。は、1944年(昭和19)12月13日に偵察機F13から撮影された新校舎を含む落合第四国民学校(尋常小学校)の全景。
おまけ
 1955年(昭和30)ごろに撮影された、戦後は早めに再建されている下落合氷川明神社の拝殿。戦前の小さめな拝殿とは異なり、戦後に再建された拝殿は規模が大きくなっている。
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