吉屋信子を「社員」にする原稿依頼テクニック。

原田常治0.jpg
吉屋信子0.jpg
 出版社の同志社(のち婦人生活社)の社主だった原田常治は、編集者時代の面白いエピソードを書き残している。昔もいまも、よく売れるベストセラー作家から原稿をもらうのは、出版社にとっては至難のわざだった。しかも、ふだんから自誌の予算よりも高額な原稿料で書いている作家を、それより安い稿料で口説き落とすのは不可能に近かっただろう。
 これは、原田常治が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「婦人倶楽部」編集部でエディターをしていた、1932年(昭和7)に起きた出来事だ。出版予算が限られ、社命で“相場”よりも安い原稿料で書いてくれるよう、口説き落とさなければならなくなったその相手、当時のベストセラー作家とは下落合2108番地に住んでいた吉屋信子だ。作家と編集者は、もちろん表現する作品のテーマについて合意する作業をともなうが、それにも増して稿料をめぐる交渉は一種の闘いでもあっただろう。エージェントが存在しない日本の作家は、直接本人と交渉することになる。
 当時、講談社の「婦人倶楽部」編集部は、主婦之友社が発行するライバル誌「主婦之友」に追いつこうと必死になっていた。「主婦之友」は、既婚女性向けに発行されていた売上げトップを走る雑誌で、1932年(昭和7)になると発行部数は40万部/月をゆうに超えていた。講談社の「婦人倶楽部」編集部では、部員を15~16人に増員して誌面の充実をはかろうとしていたが、「主婦之友」に比べれば編集予算(原稿料)はかなり見劣りするのが現実だった。
 原田が配属された「婦人倶楽部」編集部は、20代の彼よりも部員たち全員が年上で、「この人に書いて貰つたらいゝ」という作家には「全部書いて貰いましよう」、依頼してもどうしても書いてくれないむずかしい作家がいれば、「私が行つて書いて貰つて来ます」と宣言した。おそらく、古参の編集員たちは稿料が他誌に比べて安いのを知っていたので、「この大ボラ吹きの若造が」とでも思ったのかもしれない。そんな大風呂敷を拡げたおかげで、原田は会社からの帰宅が毎日午前2~3時になり、何度も徹夜を繰り返す日常があたりまえになってしまった。
 当時、ライバル誌だった「主婦之友」には、吉屋信子の連載小説が掲載されており、それが評判を呼んで同誌の発行部数はうなぎのぼりだった。吉屋信子は、大正末から「主婦之友」へ寄稿しており、女性向けの連載小説ではほぼ専属作家といってもいい存在だった。昭和初期だけみても、『空の彼方へ』(1927年4月~)や『暴風雨の薔薇』(1930年1月~)がヒットしており、「婦人倶楽部」編集部としてもどうしても執筆してほしい小説家のひとりだった。
 けれども、「主婦之友」の原稿料に比べ、原田が勤める「婦人倶楽部」では原稿料が半分以下で、とても引き受けてくれそうもなかった。それまでも3年間にわたり、編集部では吉屋信子へアプローチをつづけてきたが、400字詰め原稿用紙1枚につき15円を支払う「主婦之友」に対し、「婦人倶楽部」の予算では半値以下の7円しか出すことができなかった。そのような状況のなか、入社した当時の若い原田が部員たちを前にしたあいさつ、書いてくれないむずかしい作家がいれば「私が行つて書いて貰つて来ます」を思いだした編集長から、「おまえ、いってこい」と押しつけられてしまった。大言壮語をした手前、原田も「えゝ行つて見ましよう。私が行けば吉屋先生書いてくれますよ」と引き受けたが、焦った彼はいろいろと知恵をしぼりはじめた。
 原田常治の“生き方”というのは、「人間というものは、切羽つまつて、ギリギリに追いつめられると、ないと思つた力が出る、ない筈の知恵が出て来るもの」というものだった。何ごとにも背水の陣で立ち向かえば、困難な状況でもなんとか打破できる道が見つかるという考え方だ。そして、それが若干20代の彼の“哲学”であり、断崖絶壁の淵に身を置く“修養”でもあったと、彼はのちにエッセイで述懐している。では、吉屋信子の担当者だった同僚K君とともに下落合を訪ねた様子を、1952年(昭和27)に同志社から出版された原田常治『人生相談』より、少し長いが引用してみよう。
原田常治「人生座談」1952同志社.jpg 原田常治2.jpg
吉屋信子「女の友情」1950講談社.jpg 吉屋信子3.jpg
吉屋信子邸.jpg
  ▼
 その翌日、雨の中をK君と、下落合の吉屋先生のお宅へ伺いました。そして、S誌(「主婦之友」)の読者数から、その読者の年齢層、地域分布、こちらの読者の年齢層等、こまかく分析してS誌へ載せて八〇点うける小説なら、こちらへ載せれば一〇〇点うける、先生の小説を欲しがつている読者は一体どつちが多いかということを縷々二時間余り説明して、編集者というものは読者の欲している小説はのせなければならない、と同時に、作家も、自分の小説を欲している読者に与えなくてよいのか――と、どうしても「それでは書こう」という返事しか出来ないところへ話を押しつめたのです。先生もよく了解して、十分に書こうという気持は動いたようでした。しかし、最後に、/「私も、あなたのおつしやる通り、書きたいのですが、何としても、こうして、女所帯で一戸を構えている以上、生活費というものが要ります、せめて一枚十円ぐらいの原稿料を頂かなければ、生活が立つて行きません。又、そのくらい出せない雑誌ではないでしよう」/と、まことに御尤もなお言葉です。これには流石の私も、ちよつと返事に詰つてしまつたが、私の頭にキラリとひらめくものがあつたのです。そこで、「今日はこのくらいにして、K君帰ろう」……(カッコ内引用者註)
  ▲
 原田常治がいとまを告げたので、彼女はやはり講談社では10円/枚の原稿料が無理なので、あきらめたのだと解釈しただろう。吉屋信子は、ていねいに玄関まで送りに出てくれたが、原田は靴をはいてから振り返ると、「今日は先生、これで帰りますが、明後日又お伺いします。その時はウンと云つて下さいますね」と、念を押すようにいった。吉屋信子は、てっきり編集者が原稿依頼を断念して帰るところだと思っていたので、「妙なお顔をされ」たようだ。
 ここから、原田常治の「キラリとひらめ」いた工作がはじまった。帰社すると、彼は編集長に吉屋先生は「大丈夫、明後日行けば書きますよ」と報告した。ところが、編集長はまったく信用せず、他の編集部員も彼の報告を「のみ込めない顔」をするばかりだったらしい。だが、原田にはすでに「成算」があり、少しばかり自信さえ湧いてきていた。彼は、吉屋信子が話していた「女所帯で一戸を構えている」というワードに、大きなひっかかりとともにヒラメキを感じていたのだ。
原田常治1_1210x1244.jpg
吉屋信子2_1766x2400.jpg
吉屋信子と門馬千代_1040x1196.jpg
 さっそく、原田は会計部の予算に厳格なM部長のところへいって、下落合の吉屋邸を訪ねた結果、「先生も快く引きうけて、来月号から書いて下さいます」と報告した。原稿料が折りあわず、吉屋信子がどうしても書いてくれないという、以前からの経緯を知っていたM部長は、もちろんサギ師を見るような怪訝な目つきで彼を眺めて、「原稿料はどうしたい」と訊いた。それに対して原田は、原稿料は出さないことに決めたと答えている。以下、前掲書よりつづけて引用してみよう。
  ▼
 「原稿料はどうしたい」/「えゝ、原稿料はあげないことにしました」/「え?」/「その代り、書いている間、月給を差上げることにしました。月三百円、いゝですね。来月から払つて下さいよ」/これには、Mさんも、何だか訳が分らない顔をしていましたが、少しして、/「三百円というと、一枚いくら位になる?」/「そうですね、四十枚として、七円ちよつと位ですか、別に今までの会計案より上げるというのではありません」/「ウン、そんならいゝだろう」/もう、これでこの話は九分通り成功です。
  ▲
 そして約束の明後日、下落合の吉屋信子を訪ねた彼は、「婦人倶楽部」に書いてくれている期間は原稿料ではなく、社員と同様に「月給」として月々300円を必ず支払うということで、話がなんとかまとまった。原田常治は、彼女がなによりも生活や収入の安定を求めているのが最優先の課題だと感じとり、吉屋信子は月々40枚書こうが30枚しか書けなかろうが、毎月必ず300円の一定収入があるのを大きな魅力と感じたのだろう。たとえ病気で一時的に書けない月があったとしても、一定の収入が保証されれていれば、安心して生活することができる。
 こうして、吉屋信子を講談社の「社員」化することで、雑誌「婦人倶楽部」に連載がスタートしたのは、彼女の初期代表作で超ベストセラーとなる『女の友情』だった。当初、吉屋信子は自身の原稿料を下げたくなかったせいか、月々の連載枚数を30~35枚ほどにセーブしていたようだが、『女の友情』が空前の大ヒットとなるにつれ、「婦人倶楽部」の発行部数は目に見えて急増し、わずか3ヶ月で彼女の月給は500円に引きあげられている。原田常治はあえて書いていないが、講談社の社主だった野間清治夫妻が、彼女を目白山(椿山)の自邸に招くようになったころ、吉屋信子の「月給」はさらに上がっていただろう。彼女は、講談社の基礎を築いた作家のひとりとなった。
吉屋信子編物.jpg
吉屋信子「女の友情」1948新潮社.jpg
講談社.jpg
 作家には、いつもの額の原稿料が欲しい要望があり、出版社側にはそんな予算はないという課題があったわけだが、その解決に正面から取り組んでいては10年たっても解決しないだろう。だが、課題や対立のポイントを少しだけずらし、別の角度から提案をすればすんなり解決してしまうことがある。しかも、「成果(成功)」がおよそ見通せるような場合は、ある程度の結果がでた時点で、作家側も出版社側も双方が満足するような修正ができる。これは別に出版の領域に限らず、あらゆる分野にも適用できるテクニックだろうが、原田常治は35歳をすぎたらこんなムチャをしてはダメだと説いている。若い20歳代の彼だからできたことで、「あの子、何考えてるのかしら?」とか「あいつ、何やってんだ?」と見すごしてくれたけれど、これが中年以上の人間が同じことをしたら、文字どおりサギ師のようないかがわしさが残り、かえって信用をなくすだけということだろう。

◆写真上:原田常治(上)と吉屋信子(下)の、瞬間的な表情のマッシュアップ。
◆写真中上:上は、1952年(昭和27)出版の原田常治『人生座談』(同志社/左)と、著者の原田常治(右)。中は、1950年(昭和25)出版の吉屋信子『女の友情/童貞』(講談社/左)と、著者の吉屋信子(右)。下は、門馬千代と暮らした下落合2108番地の吉屋信子邸(AI着色)。
◆写真中下:上は、打ち合わせ中の原田常治。中は、めずらしく着物姿の吉屋信子。(いずれもAI着色) 下は、昭和初期に下落合の自邸庭で撮影された門馬千代(右)と吉屋信子。
◆写真下:上は、下落合の自邸ポーチで編み物をする吉屋信子(AI着色)。中は、1948年(昭和23)出版の吉屋信子『女の友情』(新潮社版)。下は、目白崖線東端の音羽通り沿いにある講談社の現状。