ヒッチコックの『裏窓』から烏帽子岩が見える。

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 大正末に下落合のアトリエ建築を物色し、目白中学校Click!の美術教師・清水七太郎Click!の仲介で、下落合584番地の二瓶等(徳松)アトリエClick!に目をつけていた画家に、茅ヶ崎で療養生活をつづけていた萬鉄五郎Click!がいる。1919年(大正8)以来、茅ヶ崎町(大字)南湖(字)天王山4275番地(現・茅ヶ崎市南湖4丁目5番地)に移住し、1927年(昭和2)に死去するまで茅ヶ崎での療養生活がつづいていた。現在でいうと、海岸にある「サザンビーチ・カフェ」から北北西へ600mほどの位置に萬鉄五郎アトリエ(木村別荘)があった。
 茅ヶ崎の地元民から、「おえべすさま」とあだ名で呼ばれて親しまれていた萬鉄五郎だが、ほどなく下落合への転居を計画していたにもかかわらず、結核の病状が重篤化して転地療養の8年めで茅ヶ崎に没している。萬鉄五郎は療養生活をつづけながら、1924年(大正13)から1926年(大正15)にかけて数多くの「茅ヶ崎風景」シリーズを制作している。冒頭の画面は、大正末ごろに制作された『烏帽子岩の見える海』という作品で、茅ヶ崎砂丘から姥島の烏帽子岩Click!を遠望した風景だ。浜辺に沿った茅葺き屋根の漁師村が描かれ、海岸や砂丘上に置かれた地曳き網漁Click!の舟が見えているが、相模湾の風が強くやや荒れ模様の海に見えるので、出漁禁止の日にスケッチしたのかもしれない。
 地元の舟をチャーターすれば、当時は姥島へも気軽にわたれたようで、上陸すれば烏帽子岩を眼前に眺めることができた。おそらく、萬鉄五郎も一度は見学しに漁師の舟をやとって姥島へ上陸しているのだろう。大磯Click!につづき、茅ヶ崎が別荘地や保養地、あるいは鎌倉Click!の由比ヶ浜や材木座海岸と並ぶ海水浴の観光地として拓かれた当時の様子を、1915年(大正4)に出版された河合辰太郎『湘南消夏録』(私家版)から引用してみよう。
  
 姥島(うばがしま/うばじま)は面積約一萬五千坪の一大岩石で、其中の最大岩を烏帽子岩と称し、其形ち其名に背かず、高さ五十尺(約15m余)、礁頂鋭尖、色稍ゝ白きが故に近傍を航する者の好目標となつて居る。岩上総じて海藻密生し、水線下は蠣(カキ)や螺(サザエ)を探し得べく、雲丹(ウニ)の黒針を簇生して点々岩上に付著(ママ:着)するも奇と言ひ得る。又岩隙水浅き処には細鱗群集して居る、子供等は手補にせんと懸命に逐廻すが、泉水の金魚と違ひ頗る敏捷で、容易には捕捉まらぬ、之れほ捉へやうとあせる状を見るも、一種の小景であつた。(カッコ内引用者註)
  
 烏帽子岩は、戦前から茅ヶ崎の保養客や海水浴客のシンボルとしての存在ばかりでなく、姥島の西に隣接した同じような岩礁の平島とともに、格好の漁場だった様子が伝えられている。萬鉄五郎の作品には、茅ヶ崎海岸へ海水浴に訪れる女性をモチーフにした『水着姿』(1926年)などが残されており、背後には烏帽子岩が描かれている。
 同作のほかにも、萬鉄五郎は『盛夏風景』『夏の朝』『荒模様』『冬の日』『海岸風景』『茅ヶ崎風景』『南湖院』『地震の印象』『少女(校服のとみ子)』など、茅ヶ崎の海辺を主題にした作品を数多く手がけている。また、漁師の家や漁民たち、地曳き網、海水浴場なども格好のモチーフとなり、「海岸や農家のまわりを写生してあるく。日本紙で手製の帳面を作り矢立代わりにインキ瓶のあったのに綿と墨を入れ、紐で左手につるして毛筆でつつきながら写してあるく」と、手記には書き残されている。
 萬鉄五郎の「茅ヶ崎風景」シリーズは、病気の悪化とは反比例するように楽しげで明るい。海岸に立てば、両袖に三浦半島と伊豆半島が眺められ、はるか海上には伊豆大島が望める湘南海岸Click!の明るい自然環境に、死ぬまで魅了されていたのかもしれない。その風光明媚さや、冬は暖かく夏は涼しい穏やかな気候、太平洋のほどよい波の高さと東西にどこまでもつづく砂浜の解放感は、日本初の海水浴場として別荘地・保養地に指定した、大磯の松本順(松本良順)Click!の眼差しと重なるものだったろう。
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 相模湾が引き潮になると、当時はまさに侍烏帽子(サムライえぼし)のかたちをした烏帽子岩の全体像が姿を現わしたが、1946年(昭和21)以降はその形状を次々と変えていくことになる。1945年(昭和20)の敗戦と同時に、米軍が旧・海軍の辻堂演習場を含む辻堂海岸(藤沢)から茅ヶ崎海岸にかけての広大な砂丘一帯を、射爆演習場として接収したからだ。烏帽子岩は、海岸からの砲撃演習や海上から小型艦船による艦砲射撃演習、あるいは空からの爆撃演習における、格好の標的にされることとなった。
 これらの砲爆撃演習により、烏帽子岩は年々その姿を変えていき、1959年(昭和34)に両海岸が日本へ返還されるころには、侍烏帽子のかたちはとうに失われ、やや南側に傾いだだけの、ただの三角岩のような形状になってしまった。また、茅ヶ崎と辻堂の両海岸一帯は、朝鮮戦争に備えた米軍の敵前上陸演習にも使用され、その砲爆撃の騒音は東の藤沢や鎌倉、西の平塚や大磯の海岸沿いの街々一帯に響いていた。
 当時の様子を、1995年(平成7)刊行の『茅ヶ崎市史・第2巻』から引用してみよう。
  
 敗戦後、茅ヶ崎・藤沢にわたる日本海軍の辻堂演習場は、アメリカ軍の利用するところとなった。相模湾での最初の大規模な上陸演習は、1946年(昭和21)10月におこなわれ、朝鮮戦争の勃発した1950年ごろから、実弾射撃演習が頻繁に行なわれることとなった。アメリカ軍の演習にもっとも被害をこうむったのは周辺の漁業民であった。演習水域での操業制限はいうまでもなく、漁船・漁網・漁具の破損や、火薬処理・爆撃の震動による家屋の破損、病床にある者の神経衰弱、演習場に近接した学校の就学への支障など、その被害は生活面の多岐にわたった。またアメリカ兵による風紀を乱す行いもあった。このような被害については、占領下にある段階では、わずかな補償(見舞金)が厚生省を通じてなされるにとどまった。(中略) あいつぐアメリカ軍の射撃演習の的となった烏帽子岩は変形し、天然の漁場の漁獲は減少した。
  
 当時、同じく米軍射爆場にされていた石川県の内灘海岸における反対運動の影響を受け、茅ヶ崎・辻堂の両海岸でも地元を中心に、激しい返還運動が展開されている。
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 さて、話の舞台はガラリと変わるが、A.ヒッチコックClick!監督の映画に、『Rear Window(裏窓)』(1954年)という作品がある。足を骨折し、車椅子から動けない生活をしていたカメラマンのジェフリーズ(ジェームズ・スチュアート)は、退屈しのぎに双眼鏡やカメラの望遠レンズで近所の“のぞき”をしていた。そして、ニューヨークの自宅アパートから、裏のアパートに住む宝飾セールスマンのソーウォルド(レイモンド・バー)が、口うるさい妻を殺して死体をバラバラにしたのではないかと疑いはじめる。毎日アパートへ訪ねてくる、ガールフレンドのリサ(グレース・ケリー)や、通い看護婦のステラ(セルマ・リッター)も巻きこんで、スリルとサスペンスの推理物語が進行していく。先日、デジタル・リマスタリングが済んで画面が鮮明になった『裏窓』を観ていたのだが、アパートの壁面に飾られた報道写真の1枚に、思わず目を奪われてしまった。
 カメラマンのジェフリーズは戦時中、日米戦の従軍カメラマンだったらしく、偵察機から撮影したエピソードなども語られるので、米軍偵察機F13Click!を中心とする空中写真部隊Click!と行動をともにしていたのかもしれない。アパートの壁面には、沖縄戦で上陸用舟艇から撮影したとみられる写真や、米国ニューメキシコにおける核実験の演習写真などが飾られている。ほかにも、カーレースのクラッシュ写真や交通事故、爆発事故などの写真もあるので、戦後は写真誌のカメラマンとして契約しているのかもしれない。中には、戦後の米軍演習(朝鮮戦争か?)を撮影したと思われる写真もあるが、その1枚に茅ヶ崎沖の烏帽子岩を標的に、米軍の砲撃演習を撮影したとみられる画面がある。
 烏帽子岩の周辺には、砲撃による着弾の水柱が数多く立ちならび、茅ヶ崎海岸ないしは辻堂海岸からの砲撃演習であれば、沖の着弾観測船から望遠で撮影したとみられる画面だ。また、小型艦船による艦砲射撃演習だとすれば、同艦船のブリッジから望遠して着弾の様子をとらえたものだろう。いずれにしても、烏帽子岩のかたちから1950年(昭和25)前後の射撃演習ではないかと思われる。映画が公開されたのは1954年(昭和29)なので、それ以前に米国防総省から公表されていた米軍の演習写真の1枚を、ジェフリーズが撮影した作品として小道具に採用したものだろうか。
 『裏窓』では、リサがレストランの給仕とともにアパートを訪ねてきて、ジェフリーズと将来について語りあう1シーンと、殺人の疑いが濃厚になり友人で戦友のドイル刑事に相談するが、相手にされない1シーンとにチラリと烏帽子岩らしきフォルムが登場している。もっとも、映画が撮影されるころには朝鮮戦争は休戦となり(映画公開はその直後)、茅ヶ崎海岸や辻堂海岸を舞台にした実弾砲爆撃演習や敵前上陸演習は行われなくなっていただろう。これら米軍に接収されていた茅ヶ崎・辻堂の海岸線Click!が日本へ返還されるのは、『裏窓』が公開されてから5年後の、1959年(昭和34)になってからのことだ。
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 もの心つくころ、烏帽子岩はとうに三角形の奇妙な形状になっていたが、わたしは単純に、そのかたちが昔の烏帽子に似ているからだと思いこんだ。「♪エボシ~岩が遠くに見える~涙あふれて~かすんでる~」(『チャコの海岸物語』)と歌うサザンオールスターズだけれど、烏帽子岩がサムライ烏帽子のかたちを失ってから、すでに70年余の歳月が流れた。

◆写真上:大正末ごろに制作された、萬鉄五郎『烏帽子岩の見える海』。
◆写真中上は、1886年(明治19)に作成された1/20,000地形図にみる茅ヶ崎沖の姥島と平島の岩礁。は、米軍が作成した「Sagami-bay岩礁図」にみる烏帽子岩。は、1928年(昭和3)に制作された三橋兄弟治『茅ヶ崎駅前』。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に撮影された烏帽子岩。中上は、茅ヶ崎海岸から遠望した烏帽子岩の現状。中下は、1926年(大正15)制作の萬鉄五郎『水着姿』で満潮時の烏帽子岩が描かれている。は、1926年(大正15)の夏に別荘地・大磯で撮影された街の様子(AI着色)で、茅ヶ崎の繁華街も似たような雰囲気だったろう。華族一行のあとを、地元の子どもたちがゾロゾロついてまわっているが、背後の高麗山の形状から旧・東海道より国道1号線に出るあたりで撮影されたとみられる。化粧坂に残る松並木や史蹟類を見物した帰りのようだが、佐伯祐三Click!一家が避暑で滞在した大磯山王町418番地の別荘Click!は、ちょうど画面左手を120mほど北へ入った東海道線の線路ぎわにあった。
◆写真下は、萬鉄五郎()と三橋兄弟治()。中上は、侍烏帽子のかたちが失われた現代の烏帽子岩。中下は、ヒッチコック『裏窓』(1954年)の1シーンで、グレース・ケリーの右横に烏帽子岩の着弾観測時に撮影されたとみられる写真が飾られている。
おまけ1
 1960年代後半に撮影された、茅ヶ崎海水浴場とユーホー道路(湘南道路)Click!だが、1959年(昭和34)までは米軍の射爆演習場だった。遠景に見えるのはパシフィックホテル茅ヶ崎で、その向こうの海岸がガメラ映画Click!のロケ地。下は、1966年(昭和41)に開業した当時のパシフィックホテル茅ヶ崎だけれど、その駐車場の水銀灯の下から錆びた鉄箱に入れられた北朝鮮製の無線機が発見され、湘南の地元ではちょっとしたスパイ騒ぎになった。
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おまけ2
 今年もいつもの夏のように、大きなカブトムシが下落合の木々を飛びまわっている。
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怪奇映画のポスターが気になった夏。

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 夏になると、小・中学生のころに見かけた映画のポスターがよみがえる。学校の登下校時、和泉屋さん(現在はセブンイレブンになっている)という酒屋から海へと通じる道路ぎわには、大きな映画のポスターが2段組でずらりと並んで貼られている展示板が設置されていた。ほぼ毎日、その前を通っては登下校していたのを憶えている。1960年代から70年代にかけ、そこには色とりどりのポスターが貼られていたので、子どもの眼にはよけいに印象深かったのだろう。
 この展示板には、東宝や松竹、大映、東映、日活の各系列、さらに2本立てや3本立てがふつうの名画座(迷画座?)のような映画館が、常時ポスターを貼りだしていたので、おそらく街の映画館が販促費を少しずつ出しあって、住宅地に設置した宣伝ボードだったのだろう。貼られたポスターには、リアルタイムで上映中の“いま”の作品から、10年以上も前の、わたしが生まれる前の作品まで、その種類はバラエティに富んでいた。確か、1964年(昭和39)の東京オリンピックの年だったか、あるいはその翌年だったのだろうか、ここのポスターで見かけた映画版『鉄腕アトム』(日活)のロードショーへ、母親に頼んで連れていってもらった憶えがある。
 でも、この映画ポスターの掲示板の前で、長く立ち止まってジッと眺めているわけにはいかなかった。なぜなら、東映の高倉健が登場するヤクザ映画の隣りには、太股をあらわにしたお姉さんが胸をはだけて微笑む日活の「成人映画」(ピンク映画とも呼ばれた)ポスターが貼られていたり、大映のガメラシリーズの隣りには、背中からお尻の上までを丸出しにした安田道代が、意味ありげな視線を送りながら振り向いてたりするので、もう恥ずかしくていたたまれなくなるのだ。ましてや、近所で顔見知りの大人に見られたりしたらと思うと、気が気ではなかった。
 潮の匂いが日ごとに濃くなり、身体がいつもべとついて生臭くなる夏を迎えると、掲示板には毎年、お約束のように怪奇映画のポスターが並んで貼られるようになる。その中で、いまでもいちばん印象に残っているのが、『吸血鬼ゴケミドロ』(1968年/松竹)だ。ポスターには、吸血鬼に血を吸われる半裸のお姉さんと、それを恐怖の眼差しで見つめるふたりのお姉さん(ひとりは金髪の欧米人)がコラージュされていて、キャッチフレーズに「生き血を吸われた人間が、次々とミイラと化す! 残忍で凶暴な吸血鬼……次はお前だ!」と書かれていたようだ。
 もう、こんなポスターを目にしたら観るっきゃないでしょ。小学生のわたしは、さっそく母親に『吸血鬼ゴケミドロ』が観たいといったら、ゴジラシリーズClick!や鉄腕アトムならしぶしぶ連れていってくれたのに、「ゴケミドロ」はダメだという。母親いわく、「子どもが観るものではありません。大人の映画です!」と断られてしまった。「そ~かな~、吸血鬼なんだけどなー、ゴケミドロなんだよー」といっても、頑としてダメだといいつづけた。いまから考えると、自分が怖くて絶対に観たくなかったのではないかとも思えるが、結局、この作品は観ることができずに季節はすぎていった。
 映画の内容や質はともかく、この映画のタイトルは秀逸で、いまでも第1級のネーミングだと思っている。吸血鬼ブームにのって制作された映画なのだろうが、「ゴケミドロ」の「ゴケ」は、陽の当たらないじとじとした蔭地に生える「苔」なのか、あるいは喪服を着たちょっと色っぽくて妖しい「後家」なのか、「ミドロ」は水が緑色に濁ってなにが隠れひそんでいるかわからない不気味な「みどろヶ沼」なのか、それともドロドロでグチャグチャした何かにまみれたちょっとエロティックな「お姉さん」なのか、子どもから大人までついポスターをジッと見つめながら、あらぬ妄想をふくらませてしまう、幅広いターゲットを意識した優れたネーミングであり作品のタイトルだ。ポスターに登場している、佐藤友美と金髪のお姉さんが血を吸われ、ミイラになってしまうのだろうか?……と、子どもなら誰でもふつうに妄想して心配するだろう。
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ガス人間第一号1960.jpg 電送人間1960.jpg
 1950年代末から60年代にかけて上映された、怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画などとも呼ばれた)のタイトルやポスターを改めて眺めてみると、裸で胸元を手で覆いながら微笑む叶順子のわけのわからないタイトル『透明人間と蝿男』(1957年/大映)とか、下着姿で半裸の白川由美が不気味な怪物から逃れようとしている『美女と液体人間』(1958年/東宝)とか、やっぱり半裸のままの前を隠した白川由美が戦慄におののいている『電送人間』(1960年/東宝)とか、美しい着物姿の八千草薫があしらわれタイトルとのギャップがすさまじい『ガス人間第一号』(1963年/東宝)とか、肌もあらわな水野久美がキノコを食べる『マタンゴ』(1963年/東宝)とか、ミイラのような気味の悪い男とロングヘアが似合う松岡きっことの対比がすごい『吸血髑髏船』(1968年/松竹)とか、もう子どもから大人まで脳内が妄想だらけになりそうな、夢にまで出てきそうなタイトルがズラリと並んでいた。これらのポスターの何枚かは、学校からの帰り道、2本立ての再上映館(名画座ならぬ迷画座?)の掲示コーナーで見ているのだろう。
 1970年前後になると、怪奇映画(スリラー映画)は少年少女漫画からの影響だろうか、ある程度ストーリーが想定できる、かなりストレートなポスター表現やタイトルに変貌していったような記憶がある。たとえば、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(1970年/東宝)とか、『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)とか、『血を吸う薔薇』(1974年/東宝)とか、岸田今日子Click!の従弟だった岸田森の吸血鬼シリーズがヒットしたせいなのだろう。大きな西洋館に迷いこんだヒロインたちが、またいつものパターンで恐怖の体験をするんだぜ……といった、“怖がり”を楽しみ、ある意味ではお決まりの「予定調和」を期待させる仕上がりになっていそうな作品群だ。
 子どものころ、親に止められて観賞できなかった上掲の作品を、大人になってから観ると退屈だったりガッカリすることが多い。いや、むしろ笑ってしまうシーンも少なくないのだ。マタンゴを食べつづけているのに、なんで水野久美の顔はボコボコにならないんだ?……とか、人を襲うとき岸田森の吸血鬼は、なんで居場所がバレてしまうのにいちいち「ウエ~~~ッ!」と声をあげてしまうのだ?……とか、ヒロインが襲われるときはタイミングよく、なぜみんな下着か水着?(うれしいけれど)……とか、相手に怪人だと悟られてはいけないのに、目つきから挙動から話し方から笑い方まで怪しすぎるでしょ!……とか、ボーイフレンドがヒロインに「とにかく気にするのはよして休もう」って、お化けに襲われてヒドイ目に遭ったばかりなのに気にしないで休んでる場合じゃないじゃんか、おい!?……とか、大人のリアリズムに邪魔されて、すでに子ども時代のように、素直に怖がり、ストレートに画面へのめりこんで楽しむことができなくなっている。
マタンゴ1963.jpg 怪談1965.jpg
怪談蛇女1968(東映).jpg 吸血髑髏船1968(松竹).jpg
蛇娘と白髪魔1968(大映).jpg 吸血鬼ゴケミドロ1968(松竹).jpg
 映画は、いや文学や音楽もそうなのかもしれないが、それを観賞(鑑賞)する時期や年齢というものが、厳然とどこかにあるのだろう。やはり、細かな理屈が先に立ってしまう年齢になってから観ると、多くの「怪奇映画」は喜劇映画へと転化してしまいそうだ。土屋嘉男はガス人間なのだから、プロパンのような密閉容器に入れてしまえば二度と出てこれないぜ……、どこへでも瞬間移動できる岸田森の吸血鬼が、なんでわざわざ壁をぶち破って逃げる主人公の前に立ちはだかるのさ……、南風洋子より松尾嘉代のほうがよっぽど妖しいじゃん……などなど、つい不純でよけいなことを考えてしまう年齢になると、おどろおどろしさは雲散霧消し、せっかくの怖さが限りなく後退してしまう。やはり、映画の“観どき”、映画館への“入りどき”というのがあるのだろう。
 これらの作品の“観どき”、“入りどき”を逃したわたしは、親に邪魔されない学生以降になってから観賞した作品も少なくないが、おそらく子どものころに観ていたらトラウマになったと思われるような作品も、気の抜けたコーラのような味わいにしか感じなかった。いや、中には突っこみどころ満載で爆笑してしまうシーンも多い。
 つい先年、1960年代のおどろおどろしい怪奇映画(スリラー映画・恐怖映画)の遺伝子を正統に受け継いだ、独立プロ作品『血を吸う粘土』(2017年/soychiume)という映画を観た。東京藝大や武蔵野美大、女子美大などをめざす美校生たちのストーリーに惹かれて、つい観てしまった作品だが、やはり物語がいちばん盛り上がる肝心のクライマックス部分で、梅沢壮一監督には悪いけれどつい笑ってしまった。わたしにとっては残念ながら、この手の作品はとうに「賞味期限」が切れていたのだ。
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 学生時代に、文芸地下かどこかで藤田敏八の『八月の濡れた砂』(1971年/日活)を観ていたら、わたしが怖ごわと、ときにはひそかに胸躍らせながら眺めていた、通学路の掲示板が映りそうになった。高校生がタンデムシートからダチをふり落として、湘南海岸沿いをバイクで疾走しながら渚に向かうシーンだ。でも、「そういや、あすこに映画ポスターの掲示板があったな」という感慨のみで、もはや胸がときめくことはなかった。石川セリClick!の歌ではないけれど、「♪あの夏の光と影は~どこへ行ってしまったの~」と、すでに心は実世界のリアリズムにすっかり侵され支配されており、8月の怪(あやかし)ポスターはとうに色褪せてしまったのだ。子どものころにたくさん遊んでおけば、そしてたくさんの映画でも見ておけば、心の引き出しもたくさん増えて、夢も豊かになるのだろう。

◆写真上:「ウエ~~ッ!」と格闘して苦しいと、死んでいるのに喘いでしまう肺呼吸の吸血鬼・岸田森。『呪いの館・血を吸う眼』(1971年/東宝)より。
◆写真中上は、1957年(昭和32)の『透明人間と蝿男』(大映/)と1958年(昭和33)の『美女と液体人間』(東宝/)。は、1960年(昭和35)の『ガス人間第一号』(東宝/)と同年の『電送人間』(東宝/)の各ポスター。
◆写真中下は、1963年(昭和38)の『マタンゴ』(東宝/)と1965年(昭和40)の『怪談』(東宝/)。『怪談』は小泉八雲Click!が原作で、これなら母親も映画館に連れていってくれたかもしれない唯一の文芸作品。だけど、子どもは文部省推薦とか芸術祭参加の作品など観たくはないのだ。は、1968年(昭和43)の『怪談蛇女』(東映/)と同年の『吸血髑髏船』(松竹/)。は、1968年(昭和43)の『蛇娘と白髪魔』(大映/)と同年の『吸血鬼ゴケミドロ』(松竹/)の各ポスター。
◆写真下は、1970年(昭和45)の『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』(東宝/)と1971年(昭和46)の『呪いの館・血を吸う眼』(東宝/)。は、1974年(昭和49)の『血を吸う薔薇』(東宝/)と2017年(平成29)の『血を吸う粘土』(soychiume/)の各ポスター。東宝の「血を吸う」シリーズのポスターは、漫画からの影響が顕著だ。は、わたしの通学路が映っていた1971年(昭和46)の『八月の濡れた砂』(日活)の1シーン。

子ども時代の記憶はいい加減。

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 子どものころの記憶ほど、あてにならないものはない。そろそろ黄昏どきになり、クタクタになって遊びから帰る午後6時ごろ、風呂の次には夕食が待っていた。原っぱでの草野球に、防風・防砂林の松林での“基地”づくり、夏なら午後いっぱいプールで泳ぎ、たまには浜辺に出て三浦半島や伊豆半島を眺めながら難しい蝉凧Click!揚げと、遊びたい放題に遊んでいた時代だ。わたしが小学生だったとき、1960年代後半の海岸っぺりClick!に住んでいたころの情景だ。
 親父は当時、忙しい設計や建設の仕事Click!に忙殺されていたのでたいていは帰りが遅く、先に夕食を済ませては宿題もせずにあとは寝るだけという生活だった。夕食をとりながら居眠りをしないよう、特別にTVを観ながらの食事が許されていた時間だ。そのとき、6時30分からはじまるドラマを観ていたのだが、なぜか強く印象に残っている。NHKの『素顔の青春』という連続ドラマで、キリスト教系の病院に付属する看護婦養成学校の物語だったと思う。もっとも、ドラマのタイトルはずいぶんあとから判明したもので、数年前まではとうに忘れていた。
 ドラマ名が判明したのは、そのテーマソングのメロディや歌詞をかなり憶えていたからだ。小学生の記憶力はあなどれない……と、タイトルとは矛盾するようなことを書いてしまうが、先年、何気なく60年代のCMをYouTubeで検索していたら、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』Click!という曲がひっかかった。憶えていた歌詞やメロディから、「もしや?」と思って聴いてみると大当たりだったのだ。作詞が岩谷時子で、作曲がいずみ・たくだったというのも知った。そして、このテーマソングが使われたドラマが、『素顔の青春』(NHK/1967年)というタイトルだったことも判明した。
 小学生のわたしが、なぜNHKの看護婦養成学校を舞台にした、子どもにはたいして面白くもなさそうなドラマを好んで観ていたのかといえば、「マタンゴ」でゴジラよりも強いキングギドラを連れてやってきた「X星人」の水野久美Click!が、白衣の看護婦役で出演していたからだ。この南洋の島に棲息するキノコのお化けから怪獣連れの宇宙人のあと、ほかでもない白衣の天使に姿を変えた水野久美が、子ども心に気になって気になってしかたがなかったのだ。だから、ほかの若い看護学生役の女の子たちなどどうでもよく、ただ水野久美の出演のみに興味が集中して観ていたのを憶えている。
 だが、あくまでも阿部京子や春丘典子、伊藤栄子、摩耶明美の4人の看護学生たちが物語の主人公であり、彼女たちがさまざまな経験を重ねて一人前の看護婦になるまでを描いた青春ドラマなので、いつも水野久美が登場するとは限らない。だから、彼女が出てこないと遊び疲れから、夕食の途中でつい居眠りをはじめてしまうのだ。すると母親が、「ほら、X星人が出たわよ!」と叫んで起こしてくれ、わたしはハッとして急いで白黒のTV画面に目を向けると、看護婦姿の水野久美が映っていて満足しながら食事をつづける……というような光景が日々繰り返された。
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 キリスト教系の看護婦養成学校では、入学して数年たつとチャペルの祭壇にある十字架の前で「戴帽式」が行なわれる。火のついた蝋燭を片手に、彼女たちはナイチンゲールの誓詞を読み上げるのだが、子ども心にも強く印象に残るシーンだった。大人になってから、ドラマのモデルになった病院に付属する看護学校とは、築地にある聖路加病院Click!か下落合にある国際聖母病院Click!だったのではないかと、漠然と想像していた。ところが、『素顔の青春』はNHK大阪が制作したドラマであり、大阪市内にあるという設定の「城南大学付属看護学院」が舞台だったのだ。
 改めて出演者を見ると、当時のわたしはまったく気づかなかったが、大阪出身の俳優たちが大半を占めている。同作品の出演者は、主人公である上記4人の看護学生と水野久美をはじめ、毛利菊枝、小坂一也、北沢彪、門之内純子、中村芳子、大塚国夫、近藤正臣、久富惟晴、中村雁治郎、浪花千栄子、西山辰夫、伊吹友木子、加島潤、桜田千枝子、曾我廼家明蝶、小田草之介、山田桂子、池田和歌子、武原英子などだ。彼ら(彼女ら)の多くは、まちがいなく大阪弁を話していたはずなのだが、まったく印象に残っていないのは、水野久美や看護学生たちが関東弁をしゃべっていたせいだからなのか?
 このドラマは、NHK総合テレビの月曜から金曜までの午後6時30分から放映され、1年間もつづいていたらしい。毎日、倍賞千恵子が唄う『虹につづく道』を夕食どきに聴かされつづけ、「いつ、X星人にもどるのだ?」と看護婦姿の水野久美を観ていたわけだから、どうりで強く印象に残ったわけだ。原作者は、木下惠介Click!プロダクションの脚本家・楠田芳子で、当時のエッセイが残っている。
 1967年(昭和42)に発行された「グラフNHK」10月15日号所収の、楠田芳子のエッセイ『“青春”いまむかし』から少し長いが引用してみよう。
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 NHKで決めてくれた<素顔の青春>とは、好ましい題名だと思う。一年間、自分のすべてをかたむけてとりくむ作品だから、わたしがきらいなわけはない。この作品の中で、わたしは人間のごく平凡な生活の中にある哀歓を、由紀子という主人公の若い目を通して描き、生きてゆくことの大切さ、美しさを、また平凡な人生の中の心にしみるドラマを書きたいと思った。/看護婦というきびしい職場の中で成長して行く彼女を、わたしは一生懸命自分の心の中に置いて、愛しもし、いたわりもしている。また彼女を囲むたくさんの登場人物のすべてが、わたしの胸の中でブツブツいったり、笑ったりしているような気さえもする。/このドラマのために、たびたび看護学院を訪れ、先生がたや学生の皆さんからお話をお聞きした。教師も学生も、わたしの想像を越えた自由と規律とを持っていることに感慨を抱いたのは歳のせいであろうか。そしてある日フト自分をふりかえってみる。わがままで激しく、そのくせ無力な少女が中都市の大通りをスタスタ歩いている。上級生には敬礼、飲食店には立入禁止、外出には制服着用、髪は三つ編み、スカート丈は床上三十センチ、ひだの数は……ああ、もう忘れました。あれもいけない、これもするな。なにが楽しくて生きていたのかと思うほど制約の多かった学生時代で、いま、わたしの身について時たま子どもたちをあきれさせることといったら、簡単な電気製品の修理であろう。刃物のとぎかた、柳行李をカメの子型に荷作りする方法など、満州の開拓村へ花嫁に行ったときのために教育されたのだから、なんともわびしく、味けない思いがする。
  
 いまだ、生活も思想・信条も不自由だった戦争の記憶が色濃い1960年代、作者の楠田芳子は看護学校の学生たちをうらやましく眺めながら、『素顔の青春』を書いていたのがわかる。「子どもたちをあきれさせる」彼女の得意ワザとは、男たちが前線にいってしまい男手のない“銃後”の生活でも、なんとか女子たちだけで切り盛りできるよう、身につけさせられた生活上の「技術」ばかりだ。
 でも、午後6時30分という子ども番組の時間帯で、「人間のごく平凡な生活の中にある哀歓」を描こうとした作品に、「マタンゴ」で「X星人」の水野久美をキャスティングしたらダメでしょ。子どもの頭の中では、あらぬ妄想がどこまでも際限なく拡がりつづけ、「生きてゆくことの大切さ、美しさ」どころではなく、いつ妖しげな媚態から彼女の正体がバレるのか、ウキウキ気分で1年間をすごしてしまったような気がする。
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 そういえば最近、水野久美が「マタンゴ」でも「X星人」でもなく、「口裂け女」Click!になったというウワサを耳にしたので、再び「とうとう正体を現したな」とウキウキ気分が再燃している。小学生のころから現在にいたるまで、好きな女優のひとりなのだ。

◆写真上:築地にある1874年(明治7)創立の、聖路加病院の旧・病院棟(1933年築)。
◆写真中上は、『素顔の青春』で印象的な戴帽式シーン。は、同作品で山崎葉子先生役の水野久美(右)。『素顔の青春』関連の写真は、いずれも「グラフNHK」より。下は、もう一生忘れられない「マタンゴ」()と「X星人」()の水野久美。
◆写真中下上左は、『素顔の青春』の原作者・楠田芳子。上右は、同ドラマの看護学生・杉本由紀子役の阿部京子。は、1931年(昭和6)に創立された下落合の国際聖母病院。は、聖路加病院のすぐ近くにある1874年(明治7)創立の築地教会礼拝堂。
◆写真下は、ドラマが放映されたころのナショナル・パナカラーと街中を走っていた大衆車ファミリア。は、倉本聰のドラマ『やすらぎの刻-道』(テレビ朝日/2019年)で「口裂け女」に変身した水野久美。(右から2人目) ちなみに左から右へ、いしだあゆみ、加賀まりこ、浅丘ルリ子Click!、大空真弓、水野、丘みつ子のお化けたち。中でも「お岩」「山姥」「口裂け女」が秀逸で、そのまま『金曜日のお岩たちへ』『バッケが原の山姥』『妖怪大戦争-口裂け女vsマタンゴ-』とかいう映画でも撮ってほしい。

三岸好太郎と中村伸郎と向田邦子。

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 わたしが、加藤嘉と同じぐらい好きな俳優に中村伸郎がいる。文学座を、杉村春子Click!らとともに起ち上げた中心人物なのだが、のちに脱退して「日本浪漫派」に近い舞台で活躍していた。わたしは晩年のひとり芝居を、残念ながら観そこなっている。どのような役柄でも、抜群のリアリティと存在感を発揮する中村の芝居は、映画やTVでひっぱりだこだったように思う。中村伸郎は、もともと俳優ではなく画家をめざしていた。
 中村伸郎は大正末、のちに人形劇団「プーク」結成の基盤となる人形劇を上演している。この劇団「プーク」の近い位置にいたのが、三岸好太郎Click!の親友だった久保守だ。三岸好太郎は、人形劇団「プーク」のメンバーたちともサロン的な交流を通じて親しかっただろう。つまり、中村伸郎と三岸好太郎は顔見知りであり、同劇団のメンバーには作曲家・吉田隆子Click!が参加していた…という経緯だ。ここで三岸と吉田は知り合い、すぐに恋愛関係になる。のちに、吉田隆子は久保守の兄・久保栄と結婚をすることになるが、中村伸郎もまた、築地小劇場で仕事をする久保栄とは親しかっただろう。
 戦後、久保栄と吉田隆子の家に入門してきた人物に、中野重治Click!の文章へ共鳴した歌人・村上一郎がいた。村上一郎も中村伸郎と同様に、なぜか「日本浪漫派」臭のする方向へと傾斜していくが、1975年(昭和50)に吉祥寺の自宅で頸動脈を切断し、吉本隆明の弔辞いわく「死ねば死にきり」(高村光太郎)の自刃をして果て「風」(墓誌銘)となった。このあたり、書きはじめると長くなりそうなので、このへんで…。
 三岸好太郎と中村伸郎の接点について、1993年(平成5)に北海道立三岸好太郎美術館Click!刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』から引用しよう。
  
 昭和初期、東京郊外の東中野にミモザという料理店があった。月に1回ほど、その店に若い画家や音楽家らが集まり、食事や歓談に興じる会が開かれたという。当時川端画学校で絵画を学び、のちに俳優に転じた中村伸郎(略)が会の世話をしていたようであるが、誰がリーダーということもなく和気あいあいとした集まりであったらしい。おそらく東京美術学校で絵画や音楽を学ぶ者たちの交流から始まり、さらに彼らの知人を含めたものとなっていったのであろう。ここに集まった若者たちの中には、中村のほか、画家では三岸、久保守(略)、小寺丙午郎(中村の兄、久保守と東京美術学校で同級)、川崎福三郎(略)、山田正(略)、岡部文之助(略)らがおり、後に多くのモニュメント制作で知られる札幌出身の彫刻家・本郷新も姿を見せた。音楽家では声楽の奥田良三(略)、四家文子、ピアノの園田清秀(略)、チェロの小沢弘らがいた。
  
 この文章に添えられた、久保守の渡欧送別会をとらえた1930年(昭和5)2月の記念写真には、三岸好太郎とともに中村伸郎の姿が見える。東中野にあったレストラン「ミモザ」の集いへ、三岸と同郷である多くの北海道出身者が参加していたのも興味深い。ちなみに、昭和初期に作成された「大日本職業別明細図」で東中野駅の周辺を調べてみたが、上落合や角筈も含め「ミモザ」という料理屋は発見できなかった。
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 人形劇団「プーク」の音楽部員として参加していた、吉田隆子の側から見ると、当時の様子はこのように映っている。2011年(平成23)に教育史料出版会から刊行された、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』から当該部分を引用しよう。
  
 アテネ・フランセで広がった交友関係は、やがて人形劇団プークへと繋がっていく。隆子の音楽家としての第一歩は、人形劇団の音楽部員から始まった。/隆子は、まず1929年(昭和4)に結成された人形劇サークル「ラ・クルーボ」に参加し、次々に新しい刺激を得ることができた。「ラ・クルーボ」は美術、文学、国際語エスペラントを含む語学、自然科学、社会科学などを学ぶ青年たちによる人形劇サークルで、隆子はここで『はだかの王様』の音楽を担当している。そのころに撮ったと思われる1枚の写真には、隆子を含めて10人のメンバーが写っているが、楽しげに肩を組みながら、誰もがみんな生き生きと輝いて見える。その中には、許嫁であった鳥山榛名や、のちに結婚生活を送ることになった高山貞章(略)の姿もある。/その後、人形劇団プークの創立メンバー18人の一人として、1936年(昭和11)まで人形劇の作曲に携わった。
  
 画家志望の中村伸郎と、当時は春陽会で活躍していた三岸好太郎の接点は、「ミモザ」会ないしは「プーク」を媒介に、ほんの一瞬(数年)の出来事だったと思われるが、ふたりはなんら影響を受けることなく、再びまったく別々の軌跡を描いて離れていったのだろう。同じく、三岸と吉田隆子との恋愛もほんのつかの間だったが、隆子は三岸好太郎の制作活動に少なからぬ影響を与えている。同性あるいは異性のちがいに関係なく、表現者同士がほんの短い間でも触れ合った場合、ときに爆発的な“化学反応”を見せることがあるけれど、三岸好太郎の場合は後者のケースだった。そのころの情景を、今度は1999年(平成11)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用しよう。
  
 好太郎が吉田隆子と出会ったのは一九三二年。当時隆子の婚約者であり、人形劇団プークの創立者(創立一九二九年)であった鳥山榛名が、開成中学の同期生の俳優の中村伸郎などと音楽、演劇、美術関係に携わる若手たちの集まる文化サークル、というよりはサロンのようなものを作っていた。久保守に連れられて、このサロンの常連の一人に好太郎もなったが、音楽家の卵であった隆子も参加するようになった。/はじめて顔を合わせた好太郎と隆子は、激しい恋に落ちたのである。
  
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 中村伸郎というと、小津安二郎Click!『秋刀魚の味』Click!『東京暮色』Click!、あるいは山本薩夫の『白い巨塔』や『華麗なる一族』などでの演技が強烈な印象に残っている。特に小津安二郎は、文学座の俳優を好んで出演させており、杉村春子とともに中村伸郎は画面に欠くことのできないバイプレーヤーだったのだろう。
 中村伸郎は1980年(昭和55)前後、向田邦子Click!のNHKドラマ『虞美人草』への出演が決定していたにもかかわらず、向田の事故死で制作が中止になってしまったのは、なんとも惜しいことだ。もし、そのまま制作されていたとしたら、彼の代表作のひとつになっていたかもしれない。ただし、向田邦子が脚本家として参加していた『だいこんの花』(1970年)に、中村伸郎は眼科医師として一度登場している。もっとも、その回は向田邦子の作ではなく、松木ひろしが脚本を担当していたようなのだが…。
 余談だけれど、人が生きている流れの中で、たった一瞬触れ合っただけなのにもかかわらず、忘れられない大きな仕事を残すケースをたまに見る。三岸好太郎における吉田隆子もその好例だが、向田邦子と松本清張もまた、同じような仕事を残している。1960年(昭和35)に松本清張は短編『駅路』(文藝春秋)を書き、1977年(昭和52)に向田邦子はたった一度だけ清張作品の脚本を手がけ、ドラマ『最後の自画像(駅路)』(NHK)を仕上げた。同作は、向田が生存中にNHKで放映され、わたしも学生時代に観ているが、32年後の2009年(平成22)にも向田脚本でフジテレビが制作している。
 清張のプロットは尊重しているが、繰り広げられる人間ドラマは向田の手によって、原作とはまったく別モノの優れた作品に改編されている。向田は清張本人をドラマへ引っぱりだし、原作にはない認知症の進んだ「雑貨商小松屋」主人として登場させた。「小松屋」清張が怒らなかったところをみると、向田の脚本に舌を巻いたものだろうか。2009年に放映されたドラマの冒頭には、「人は人と出会う一瞬にそれぞれの人生が交差し、輝きを放つようです」というナレーションが挿入されていた。そういえば、『最後の自画像』はゴーギャンがテーマであり、くしくも絵画がらみの作品なのが面白い。
 向田邦子は、特に春陽会Click!に属していた画家たちが好みだったらしく、岸田劉生Click!の作品を欲しがったが高価でとても手が出ず、中川一政の作品を部屋へ架けていたのは有名だ。のちに向田作品の装丁を、中川本人も手がけている。彼女が、三岸好太郎について触れている文章をわたしは知らないが、目にしていたことはまちがいないだろう。
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 中村伸郎と向田邦子が、「虞美人草」で一瞬でも交差していたとすれば、どのような姿を見せてくれたのだろうか? 「日常生活の中にこそ、きらりと光る珠玉の人生がある」は、向田邦子の至言だけれど、もう少し生きていてくれれば、いままで見たことがないような中村伸郎の「きらり」演技が見られたかもしれないと思うと、いまでも残念だ。

◆写真上:中村伸郎が通い、佐伯祐三Click!山田新一Click!も通った小石川下富坂町の川端画学校は、戦時中に解散して現存しないが、満谷国四郎Click!吉田博Click!中村不折Click!らが設立し中村彝Click!小島善太郎Click!も通った太平洋画会研究所(現・太平洋美術会研究所)は、いまも谷中で健在だ。
◆写真中上上左は、『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』に掲載されている1930年(昭和5)に開かれた久保守送別会の記念写真。上右は、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』に掲載された人形劇団「プーク」の吉田隆子と中村伸郎。下左は、1993年(平成5)刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』(北海道立三岸好太郎美術館)。下右は、2011年(平成23)に出版された辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会)。
◆写真中下は、小津安二郎『秋刀魚の味』(1962年)の中村伸郎。は、NET(現・テレビ朝日)のドラマ『だいこんの花』(1970年)に出演した中村伸郎。
◆写真下:松本清張()と、父親が何度も下落合を訪れてClick!いる向田邦子()。

35年ぶりに情報誌掲載の『さよなら・今日は』。

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 旧・牛込区(現在の新宿区東部の地域)を中心にしたタウン誌が、何年か前から発行されている。現在第6号までが出ている、季刊誌『牛込を愛する人の為のコミュニティマガジン/[今昔]牛込柳町界隈』だ。1947年(昭和22)までつづいた牛込区といってもかなり範囲が広く、北は早稲田鶴巻町から山吹町、東は飯田橋駅前の新小川町から下宮比町に神楽坂、南は広い市ヶ谷の全域から若松町、河田町に余丁町、西は戸山町(旧・戸山ヶ原Click!)全域を含むエリアで、現在の新宿区では約3分の1弱の面積に相当する広さだ。
 『[今昔]牛込柳町界隈』Click!(無料)は、新宿区内の駅や主要施設などに置かれているので、目にされた方も多いのではないだろうか? 先月、同誌の編集長である伊藤様より、「早大の演劇博物館に保存されている、ドラマのシナリオについての記事を流用させていただきたい」という電話をいただいた。第6号では、早稲田大学とその界隈を特集するとのことで、早大の演博(えんぱく)に寄贈され保存されている、貴重な演劇資料にスポットを当てたものだろう。
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 ドラマのシナリオとは、もちろん森繁久彌Click!が出身校である同大学に寄贈した1973~74年(昭和48~49)に放映されたNTVドラマで、下落合を舞台にした『さよなら・今日は』Click!だ。このドラマのことが、発行数の多い情報誌的なメディアで本格的に取り上げられるのは、おそらく35年ぶりぐらいではないだろうか? 寄贈のシナリオは、同ドラマの第14回「正月の結婚式」(脚本・岡本克巳/演出・小杉義夫)のもので、森繁自身が「高橋作造」役で客演している。そのほかに同ドラマには山村聰Click!、浅丘ルリ子、山田五十鈴、山口崇、林隆三、中野良子、緒形拳Click!、大原麗子、原田芳雄、栗田ひろみ、森光子、水野久美などが出演しており、以前の記事Click!にも書いたがNTV開局20周年記念作品だ。第14回は、昔日の生放送ドラマを再現したものらしく、森繁もそれが印象に残り、また山田五十鈴との掛け合いも面白かったせいで、シナリオを長く保存していたのかもしれない。
 お送りいただいた見本誌を拝見すると、早稲田大学の特集記事の次に早稲田(馬場下町)にある江戸刺繍工房の記事がつづき、その次に『さよなら・今日は』の記事が見開きで登場している。目立つ新企画のページで比較的大きな扱いなので、旧・NTV(現・日本テレビ)の関係者や映像コンテンツのプランナーの目にとまり、DVDあるいはBDで同作品が甦ってくれればいいのだが・・・。
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 このドラマでは、下落合に建っていた大正期の吉良邸+アトリエが、新宿地域の再開発の波に押されて解体され、集合住宅化されようとする1970年代半ばの情景が描かれているけれど、あれから30年以上が経過した現在でも、下落合ではまったく同様のテーマを抱えている。タヌキの森Click!ケースに象徴的な、歴史的建造物や屋敷林を排除して計画された違法建築問題もそうだが、『さよなら・今日は』は現在でもそのまま通用するingテーマ、すなわち「家族と家」の主題と「街(地域)への愛着」の課題とを、両面からていねいに描いている作品といえるだろう。
 落合地域にお住いの方が一家で1セット、同ドラマのDVD/BDを購入するとすれば、おそらく1,000セットはかたいのではないだろうか。また、ロケで撮影された1970年代半ばの下落合風景は記録的な側面からも貴重だし、下落合に興味をお持ちの方、あるいは出演している俳優たちのファンまで含めると、発売すれば採算はすぐにも取れそうな気がするのだ。でも、出演者や脚本家たちがあまりに豪華すぎたのが祟り、著作権料の関係からやはり販売は困難な状況なのだろうか?
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 お送りいただいた、『[今昔]牛込柳町界隈』のバックナンバーを拝見すると、牛込地域に展開するあちこちの物語が紹介されており、わたしの落合サイトと同じようなテーマや志向、あるいは視点の記事が並んでいて、読み飽きずにとても面白い。すぐお隣り(このくくりでいうと落合は淀橋地域)の牛込地域で発行されているタウン誌なので、これからも同誌のコンテンツには注目していきたい。

◆写真上:演劇に関するあらゆる時代の資料が収蔵された、早大の演劇博物館。
◆写真中上上左は、『さよなら・今日は』を取り上げてくださった『[今昔]牛込柳町界隈』Vol.6の最新号。上右は、1972年(昭和47)に向田邦子脚本の『新・だいこんの花』(NET)に出演の森繁久彌(右)と大原麗子(左)で、ともにこのあと『さよなら・今日は』へ出演することになる。は、『[今昔]牛込柳町界隈』Vil.6の早稲田大学大隈講堂の特集記事。
◆写真中下:同誌最新号の、『さよなら・今日は』をめぐる演博収蔵シナリオの記事。
◆写真下は、同誌Vol.3で特集は牛込報国寺と移築された田安家の屋敷門。は、同誌Vol.5で特集は市ヶ谷台地の陸軍士官学校大講堂(現・市ヶ谷記念館)。
同作品が、何十年ぶりかで情報誌に取り上げられたので、早期DVD/BD化を願って久しぶりに同作品の第4回「予告編」を掲載したい。1973年10月27日に放映された第4回には、吉良邸のベランダで話す夏子(浅丘ルリ子)と良平(林隆三)のシーンが登場するが、ベランダの向こうに拡がる下落合風景は、セリフにも挿入されているとおり1970年代の汚れた空の下、落合第四小学校の校庭南端から見おろす富士短期大学(当時)の時計台と西武新宿線、そして新宿高層ビル(4本)だ。

(Part01)
(Part02)
(Part03)
(Part04)
(Part05)
(Part06)
(Part07)
(Part08)
(Part09)
(Part10)
(Part11)

高峰秀子がくぐる「浮雲ガード」。

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 このサイトで、佐伯祐三Click!が描いた作品の描画ポイントClick!に関連し、高田町字上屋敷1127番地あたりから東の雑司ヶ谷を向いて描いた『踏切(踏み切り)』Click!(1926年ごろ)近くの、山手線をまたぐ武蔵野鉄道のガードを、通称「浮雲ガード」Click!と表現してきた。これは林芙美子Click!原作による成瀬巳喜男監督の映画『浮雲』(1955年)のロケーション現場にちなみ、とりあえず地元の記憶とからめて規定した呼称だ。映画『浮雲』では、このガードをくぐって山手線沿いを散歩する、高峰秀子と森雅之のせつないシーンが収録されている。目白駅や目白橋までが映る、当時の貴重な画像が手に入ったので、改めてご紹介したい。
 当該のシーンは、ちょうどガード上を西武池袋線(旧・武蔵野鉄道)の電車が走り、ガード下の山手線を黒っぽい電車(おそらくチョコレート色の車両)が、同時にくぐり抜ける瞬間からはじまっている。() 左手にうがたれた「浮雲ガード」のトンネルをくぐり、高峰と森とがゆっくりと姿を現わす。この風情は、おそらく佐伯が『踏切』を描いた当時と、それほど変わってはいないだろう。夕陽に映える、山手線沿いに作られた粗い木柵も、ほとんど当時の形状のままだ。()
 ただ、佐伯の画面と異なるのは、線路沿いに立つ電柱がリニューアルされているのと、ガードや山手線沿いの家々が戦争をはさんで新しくなっていることだ。ガードの向こう側には、東京パンの製粉工場Click!だろうか、何本かの煙突がそそり立ち、かなり大きめなビル状の建物もとらえられている。池袋駅Click!を中心に、このあたりは1945年(昭和20)4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!を受けており、特に線路沿いの家々は爆撃を受けて全焼している。だから、画面に映っている建物はかなりの割合で、戦後に建てられた新築の家々だろう。()
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 肩をならべて歩くふたりがアップになると、いまだレンガ積みのままの西武池袋線の橋脚が見てとれる。佐伯が描いた踏み切りのある側からも光が射しているので、同ガードの細部まで見てとれるのだが、1933年(昭和8)に出版された『高田町史』(高田町教育会編)掲載の、昭和初期に撮影された写真と見比べても、ほとんど意匠は変わっていないようだ。ガードの上を通過する、電車の車両だけが新しくなっているように見える。(④⑤)
 そして、このあとカメラアングルが変わり、目白駅まで歩いていくふたりのうしろ姿のシーンへと移る。() 水虫が痛くなってしまった、ちょっと情けない森雅之が立ち止まるので、このシーンは相対的に長尺だ。遠方には、目白橋を通過するクルマが見え、1955年(昭和30)当時の目白駅Click!が黄昏の中、シルエット状に浮かび上がっている。() ふたりが歩き進むうち、切り通し状に鋭く落ちこんだ山手線の対岸に建ち並ぶ家々が見えてくる。線路沿いは空襲で焼け野原となっているので、いずれも戦後に建てられた住宅やアパートだろう。
 以前にご紹介した、小川薫様Click!がお持ちの戦前に撮影された目白駅前の写真Click!に写る建物は、あらかたB29による爆撃で焼失している。この『浮雲』シーンには、目白駅もほど近い復興後の目白幼稚園の園舎や、戦前は「目白市場」と呼ばれていた百貨店のような大きめの建物も、再建されたシルエットとしてとらえられているのかもしれない。()
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 この映画には、戦後10年たった東京の各地、千駄ヶ谷駅や神宮外苑、池袋、目白、雑司ヶ谷(?)などがとらえられており、たいへん貴重な記録となっている。デコちゃんClick!こと、高峰秀子の大ファンだった親父も、少しあとの『喜びも悲しみも幾歳月』(木下惠介監督/1957年)とともに、確実にリアルタイムで観ている作品だろう。いまだ、わたしの両親が結婚する前の映画だ。
 昨年の暮れに亡くなったばかりの高峰秀子だが、『浮雲』はデコちゃんファンにはたまらない1作となっただろう。薄情で煮えきらず、浮気性で生活力のないいい加減な森雅之なんかと一緒にいないで、「デコちゃん、オレんとこへおいでよっ!」と、やきもきしながら観ているファンたち全員に思わせてしまうところが、この高峰秀子映画のミソなのだろう。ちなみに、林芙美子の原作を読んでもあまり・・・というか、ほとんど面白いとは感じないけれど、映画『浮雲』は高峰秀子の魅力でグイグイと惹きこまれてしまう、最後まで飽きずに観つづけてしまう強い引力を備えた作品に仕上がっている。
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 最後に、このサイトをお読みの悲しみに暮れていらっしゃるであろうデコちゃんファンのために、目白駅近くの夕暮れに寂しげな表情を浮かべてたたずむ、高峰秀子のプロフィールを載せて追悼したい。彼女は親の歳よりも少し上なのだが、わたしの世代から見ても十分にかわいく美しい。でも、親父がやはりファンだった原節子Click!は、どこがいいのかよくわからないのだが。(爆!) たとえば、高峰秀子は東京弁の下町言葉が似あい、原節子は山手言葉ばかり話しているからかとも思ったのだが、どうもそうではないような気がするのだ。余談だけれど、いまから十数年前に原節子が鎌倉から目白近辺へ転居した話を聞いたのだけれど、近くで見かけられた方はいらっしゃるだろうか?

◆写真上:西武池袋線の「浮雲ガード」上(歩道橋)から、山手線の目白駅を眺めた現状風景。
◆写真中上・中下:成瀬巳喜男監督『浮雲』に収録された、1955年(昭和30)当時のシーン。
◆写真下は、戦後間もない1947年(昭和22)の空中写真にみる「浮雲ガード」シーンのロケーション現場。は、目白の夕暮れにたたずむデコちゃんこと高峰秀子。

負け犬のシネマレビュー(23) 『サンシャイン・クリーニング』

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いやはや、この先の20年はどうなるんでしょうねえ

『サンシャイン・クリーニング』(クリスティン・ジェフズ監督/2008年/米国)

 以前ここで取り上げた『リトル・ミス・サンシャイン』と同じ制作チームが手がけたサンシャインシリーズ第二弾。といっても“サンシャイン”は偶然の一致らしいが、こんどの家族もなんだかせつない。
 姉ローズは『魔法にかけられて』のお姫さま、エイミー・アダムス。高校時代はチアリーダーだったと言われたら確かにそんな風貌である。しかし高校のアイドルも三十路のいまはシングルマザー。ティーンエージャーみたいな安っぽい下着(こういうチョイスにスタッフのセンスが光る)で、輝ける時代の彼氏と不倫とは、ちょっとなさけない。
 妹ノラは『プラダを着た悪魔』でいい味出していたアシスタント役のエミリー・ブラント。いまだ実家で父と同居するパンクなフリーター役もお似合いだが、このパパ、アラン・アーキンこそ最高! 『リトル・ミス』でドラッグが止められず老人ホームを追い出されたおじいちゃんだ。ミスコンのアイドルをめざす孫娘にとんでもないショーの振り付けを吹き込んだ末、自分はさっさとあの世にいってしまうおちゃめな頑固者、今作でも調子に乗ってます。
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 やけに気になると思っていたが、孫息子が手に入れたレトロな双眼鏡を目にしたときの、にやけた表情と子どもじみた口調「ちょっと、それ貸してみろ」で謎が解けた。わが父にそっくりなのである。いや、このオジサンと父以上に身につまされるのが、結婚もムリ、何をやってもダメな姉妹なのだけれど。
 妙な作り話で甥を混乱させるマイペースが妹の特権なら、一生懸命は姉の宿命か。前向きだが冷静さに欠け、張り切れば張り切るほど空回りする要領の悪さはいかにも長女。不安を追い払うように鏡に向かって「あなたは強い、パワフル、何でもできる」と鼓舞する姿、いかにもアメリカと思ったら、最近日本もこんな感じの自己啓発が大流行りのようで。
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 ダメ、ムリなんて否定的な“ネガティブワード”が運を下げるらしい。なるほど、そうなのか…と、隣合わせた女子の話に聞き耳立てれば、できると自分に言い聞かせる、成功した姿をイメージする、念ずれば通じる、しまいには、いいことだからみんなに教えてあげている……なんだ、そりゃ。新手の宗教か、あるいはねずみ講か。しかも成功した経験がないから困っているのにどうやってイメージするのだ? 
 “失われた”10年が20年になりそうないま、ポジティブシンキングはスピリチュアルと結びついて新しい貧困ビジネスの誕生…って、あまりにも短絡的というか、手ぇ抜いてない? だってこういうの、1980年前後に日本版が出た『コスモポリタン』が毎号「成功するための○カ条」みたいな小特集を組んでいた。最新の自己啓発が30年前のアメリカの女性誌の焼き直しでは、ちょっと興ざめ。それにネガティブワードというが、目上のひとからのどうしてもできない頼まれごとには、いやーわたしにはとてもムリと断るしかない。もともと日本語は、ひとつの言葉にネガとポジの両面で表裏一体を為すものである。それをひとつの意味に集約してしまうのは情緒がない。
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 歴史は繰り返すというが、その時代を知るひとにとっては“失われた”時代も、十代二十代にはただの過去。20年前に生まれた子どもはそろそろ成人。かれらはこのどん底の現実を生き、この先も生きていかなければならない。本気でかれらを思うなら、机上の空論ではなく、その椅子を明け渡してあげるのがいちばんの近道だ。そう、この映画のパパみたいに。今作のパパ、エンディングはちょっとかっこいいぞ。
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『サンシャイン・クリーニング』公式サイトClick!
飯田橋ギンレイホールClick! 11月28日(土)~12月11日(金) 同時上映『人生に乾杯!』

負け犬のシネマレビュー(22) 『ヴィヨンの妻』

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 生きていさえすればいいのよ
 『ヴィヨンの妻 〜桜桃とタンポポ〜』(根岸吉太郎監督/2009年/日本)

 前作『サイドカーに犬』で、竹内結子がこの原作文庫を読んでいるのを見て、根岸吉太郎の次回作は『ヴィヨンの妻』に違いないと確信し、発表前からあちこちで言いふらした。公開が決まってからは観もしない先から、今年のナンバーワンだと会うひとたちに勧めまくった。
 なにしろあの古田新太から、あれだけの色気を引き出した監督である。浅野忠信の“大谷”がどれくらいダメでいい男か、観るまでもない。ところへもってきて浅野の離婚報道である。うわー、これ絶対、役に入り込んでいるなと思ったら案の定。宣伝用のポスターでは、大きななりして背をまるめ、松たか子に手を引かれるように歩いている。松が毅然と顔をあげているのに対し、はにかみ笑う浅野の目線は宙を泳ぎ、空いているほうの手にはさくらんぼの包み。これと予告編だけで、もう胸が張り裂けそうになる。
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 同級生が『人間失格』ってすごいよと言っているころ、私は、ふん、メロスを書いた作家なんて…と、見向きもしなかった。オッサンとチンピラばかりの映画館の隅っこで小さくなって、雨に降られて入れ墨が落ちる『まむしの兄弟』に、せつないなぁと、涙していた。R15なんて指定がない時代とはいえ、相当変わった女子中学生である。泣くべきときに泣いておかなかったせいか、中年以降は涙腺のフタがぶっとんだみたいに泣ける。困ったものだ。
 青春時代に出会うはずの太宰と対峙したのは、すっかりオバサンになってから。最初に読んだのが、岩波文庫の『ヴィヨンの妻・桜桃』だった。いや、もうまいった。ぜんぶで十編の短編に出てくる男みな最低で、最高。あたりまえである、これすべて太宰治という一緒に死んであげると言ってくれる女に事欠かない色男なのだから。自分の足もとも固められないくせして、言うことだけは理にかなって素晴らしい。やけ酒呷って八つ当たりに吐くヘリクツがまた、あまりにも自分勝手過ぎて怒るのを通り越し、笑ってしまう。
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 なにしろ松たか子演じた大谷の妻さっちゃんは、家に帰って来ない亭主に会うために、なんでもっと早く飲み屋で働くことに気づかなかったのだろうと言う天真爛漫(大谷に言わせれば「体がだるくなるほど素直」な女)さ。好きな男のために襟巻きを万引きするような女である。堤真一演じた元彼氏がほかの著作に出てくるのか、あるいは太宰の嫌いな“文化”とか“愛”なんてことばをシラフで口走る象徴としての役柄なのかはわからない。ただ松たか子のさっちゃんが“やられ”る相手を、行きずりの工員でなく、いまは弁護士となったかつての彼氏としたあたりに、いい意味でも悪い意味でも作り手の男らしさを感じる。とはいえ妻夫木聡が演じた工員はどこかで読んだ憶えのある「奥さんをください」なんてセリフを口走る屈託のなさで、この起用には納得できる。
 納得といえば広末涼子も然り。そのことしか頭にないような崩れ方と話し方がほんとにいやらしい。『ヴィヨンの妻』だと大谷のために身を持ち崩す年増女でしかない役を『桜桃』の数行とくっつけただけで、太宰の絶望しているのだか、ひとを食っているのだかわからない世界をみごとに体現した。松演じるさっちゃんの不自然なまでの清潔さが、裏を返せば、見切りをつけたらすぐ次の男に行けるいまどきのたくましい女に通じるなら、見かけばかり威勢のいい広末の秋ちゃんは、そこにいない男にいつまでも焦がれて死にかねない。
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 こういう対極にある女ふたりを真ん中に立て、女を引退したような顔をしながら大谷といいこともあったおかみさん、それこそコキュなのに自分には真似できない大谷に惚れ込んでいるみたいな飲み屋の亭主……なんて人間模様を描けてしまう根岸吉太郎も、ベテラン脚本家の田中陽造(と書きながら、ふと陽造は葉蔵からきているのかと思ったが、それは余談)も、相当大谷的。無邪気な顔して、ひとの心にずかずか入り込み、あんたが甘やかすから俺がつけあがってしまうんだ、なんてセリフを吐いてきたんじゃないんですかねえ。
                                              負け犬
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負け犬のシネマレビュー(21) 『扉をたたく人』

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 見て見ぬふりをできない人たち
 『扉をたたく人』(トム・マッカーシー監督/2007年/米国)

 先日、四谷にある韓国文化院に「ハンとは何か」という講習を聴きに行った。
 なんでも韓国の韓というのは、あてるなら桓という字で、ハンという言葉には一、多、中、大、凡という5つの意味があるとか。神はひとつでなく、やおよろず受け容れるその思想は、ひとつでたくさん、まんなかへんで大きく、およそ、という、いいかげんといえばいいかげんなもの。したがって恨という漢字をあてた韓半島の感情を現す言葉も、単なる怨みではなく、いろんな意味が含まれるらしい。私はこれを、客のテーブルに水をこぼしておいて「ケンチャナヨ(大丈夫)」と笑ってすますウェイトレスに通じる適当思想と判断したが、こういういいかげんさこそ、いまみたいな時代に必要かもしれないとも思う。
 講師の金先生も言っていたが、教育や観光など文化交流のプロが必死でがんばっても破れなかった日韓の壁は、韓流ドラマとそのファンがいともたやすくぶっ壊した。まるで誤報によって崩れたベルリンの壁のように。人間も同じ。表に見せている面の下に別の面が用意されていて、それはほんのちょっとしたきっかけで表出するのだ。
 この映画の主人公である大学教授はほかにすることもないから去年の素材で今年も講義をするつもりだ。融通が利かず、やる気もないのは妻を亡くして落ち込んだ気分を引きずっているからだが、かれより忙しい教授に頼まれニューヨークの会議に出席しなければならなくなる。そこは奥さんと過ごした思い出の場所。ためいき混じりで長いあいだ留守にしていたマンションを開けると、見知らぬ住人が……というところから、物語ははじまる。
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 たいていのひとは初対面の相手に戸惑う。ひらたく言えば怖れる。海のものとも山のものとも知れない人は怖くてあたりまえ。持つ人と持たない人に分ければ、持つ者ほど持たざる者を怖れるだろう。しかし、このオジサン、戸惑いながらも怖がっていない。ここは長年教室で若者たちを見てきたからだろう。興味を持ち、ためらいながらも期待する。常に他人から見下されてきた人は当然猜疑心が強くなり、生まれ育ちに恵まれた人は物事をポジティブにとらえる。万国共通の感覚を、ありふれた風貌のリチャード・ジェンキンスがごくふつうに演じる。さすがアカデミー主演男優賞にノミネートされただけあって演技は上手いが、ジャンベ奏者のハーズ・スレイマンや、その母ヒアム・アッバス、彼女ダナイ・グリラも負けていない。ひとりの人間が一瞬にして持つ複雑に絡み合う感情を、ことばではなく顔が語る。それぞれの登場人物と、その表情には、そのときそのときのひとつではない心模様が満ちている。
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 フェラ・クティの音楽も、ジャンベの演奏も、予告編や前評判ほどインパクトはない。派手なアクションもない。人物の心理描写で魅せる。何度も見たような話なのに惹きつけられる。それは丁寧だからというほかない。一生物の家具を選ぶのに似た感覚とでも言おうか。オーギー・レンのタバコ屋みたいな店が出てくる街角や、路上で売られているモノや、売っている人…物語の背景も自然で落ち着きがあり、作った人のセンスが出ている。まさに引き算の美学。いい意味でアメリカらしくないこんな映画と、こんな目線を、ニュージャージー生まれの移民でもない、まだ若いトム・マッカーシー監督が持ち得たことに驚く。公開時の4館から270館まで拡大したというから、アメリカとアメリカ人、まだまだ捨てたものじゃないです。
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 『愛を読むひと』(2008アメリカ・ドイツ)もまた見て見ぬふりができない人の物語。お金をかけたわりにケイト・ウィンスレットの老けメイクが稚拙なのは差し引いて、ブルーノ・ガンツ扮する法科の教授が「判断は道徳的かどうかではなく合法かどうかで決まる」というセリフも聞き逃せない。
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負け犬のシネマレビュー(20) 『イントゥ・ザ・ワイルド』

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あまりにも純粋な不器用さが痛々しい
『イントゥ・ザ・ワイルド』(ショーン・ペン監督/2007年/米国)

 エルサレム賞を受賞した村上春樹は、ちいさな卵と立ちはだかる壁があれば、どちらが正しくても自分はいつでも卵の側に立つとコメントしていたが、正誤を決定するのは誰なのかという疑問が残る。小説にしろ、映画にしろ、芸術とはマイノリティに身を置き、そこに視点を据えるのは言わずもがな・・・。
 しばらく足が遠のいていた映画館へ久しぶりに向かわせたのは、監督ショーン・ペンという名前。『ステート・オブ・グレース』(90)のすばらしすぎる演技に、こいつ、ただの不良じゃなかったんだと驚いた。そのとき感じた“もやもや”を、翌年自ら監督した『インディアン・ランナー』で解明し、95年にはジャック・ニコルソン、アンジェリカ・ヒューストンを迎え『クロッシング・ガード』を演出。ジョン・カサヴェテス亡き後のアメリカの影を継ぐのはかれをおいてほかにないと確信した。
 そのペンの名とともに「青年はなぜ荒野に消えたのか」という宣伝コピーを見て、また犯罪の話かと思った負け犬、あほですねえ。そうであろうとなかろうとショーン・ペンだもんね、と出かける負け犬、ミーハーですねえ。でも出かけた甲斐はあった。めずらしくクリント・イーストウッドが監督に徹しながら音楽があまりにもひどかった出演作『ミスティック・リバー』(03)の面目躍如、選曲がすばらしかった。
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 基本、リュック担いで自分探しに出かけるようなやつは裕福な家の子どもだ。家庭環境に多少問題があるにせよ、中流に生まれて成績優秀で将来を嘱望される人間がなぜひとりで荒野をめざすのか。望んだわけでもないのに毎日がスリリングでエキサイトな家庭内荒野に身を置いてきた負け犬には感情移入できないが、ここで泣かすぞと盛り上がる音楽には、ついもらい泣き。金持ちの息子に感情移入はできなくても、ないものねだりは人の情。自分を試してみたい気持ちはわかる。
 かつては私もコトバの通じない国で何カ月もひとりで暮らせるひとを超人のように思い、憧れた。しかし実際にリュックひとつで旅するひとと出会ってみれば、かれらも寂しがりで小心で、だからこそ孤独に身を置いてみたい自分と同じ弱虫だとわかる。理屈っぽすぎて日本じゃ使えない極端なインテリもいれば、頭はいいのに体が動かない口ばかり達者なのもいる。長居すればジャンキーにもなるし、お金がなくなれば1円2円高い率での両替に躍起になるしみったれにもなってしまう。
 そういう人間を目の当たりにし、また自分もそうなりかけているのに気づいたとき、帰らなきゃまずいぞと思うのが旅だ。しかし、この映画の主人公クリス・マッカンドレスは生真面目すぎた。潔癖すぎた。裏を返せば融通のきかない頑固者である。ジャック・ロンドンもソローもトルストイもいい。それはわかる。でも90年に大学を卒業したアメリカ人が、なぜトバイアス・ウルフを読んでいないのだ。その自伝を映画化した『ボーイズ・ライフ』でジャック・ロンドンに傾倒する主人公を好演したディカプリオは言う。
 「今日から僕のことをジャックと呼んでくれ」
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 クリスも、アレグザンダー・スーパートランプなんて名乗るくらいのユーモアはある。でも、きっとトバイアス・ウルフを読んでいなかったのだろう。『ボーイズ・ライフ』を読んでいたら、命の次に大切なお金や、車を捨てたりしなかったかもしれない。ひとのこと言えないが中途半端な読書は、中途半端な頭でっかちになるだけだ。
 同じロードムービーでも『テルマ&ルイーズ』とか『天使が見た夢』とか『ベーゼ・モア』なんて女が主人公の映画はどれも衝撃のラストまでにプライドどころか、見栄も意地もかなぐり捨てるのに。とはいえ、いま挙げた映画はクリスのようにストイックな旅ではないが。
 この旅に出たことをクリスは、ほんとうに一度も後悔しなかっただろうか。路上生活をしながら、旅の途中で出会ったひとの遠慮がちな忠告を聞いておけばよかったと、一度も考えなかっただろうか。くたくたになるほど体を酷使して働きながら、こういう経験をしたいがために旅に出たのだと、心の底から自分の選択に胸を張れただろうか。それを想うとせつないが、男のいう純粋は、命をかけて意地を張る“向こう見ずなあまのじゃく”のことらしく、ぜんぜん感情移入できないぞ。
 でも、嫌いになれないんだな、こういう男・・・。
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 DVD発売中。アラスカの大地を大きな画面で見たい方は、私の大好きな三軒茶屋シネマ(4月4日から『その土曜日、7時58分』と同時上映)へ。
 役者ショーン・ペンのアカデミー主演男優受賞作『ミルク』は4月18日から公開。ゲイを公言しながらカリフォルニア州で初めて公職選に公認されたハーヴェイ・ミルクの映画は、ガス・ヴァン・サントの本作以前にドキュメンタリー作『ハーヴェイ・ミルク』(84)もあるので興味がある方はこちらもどうぞ。
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「三軒茶屋シネマ」にて4月4日(土)~17日(金) 同時上映『その土曜日、7時58分』Click!