
わたしは音楽が好きなのだが、それを聞くためのオーディオ装置にも興味をもってきた。大きなエンクロージャに、ジーメンスのコアキシャルユニット(同軸2ウェイ)をぶちこんで自作したこともあるのだけれど、30代後半からは、クラシックはタンノイにJAZZはJBLへと収斂してきた。アンプは、上杉研究所のプリとATMのパワーとで、やわらかい管球式のものを愛用してきた。もっとも、アンプもスピーカーも家族に邪魔扱いされて、現在は音の嗜好もかなり変化してきている。サウンドに関する影響は、やはりJAZZとクラシックの双方を聴く『音の素描』の著書でも有名な、オーディオ評論家の菅野沖彦から影響を受けたものだ。もっとも、わたしは音楽のコンテンツが好きなのであって、決して機械好きではないのだが・・・。
菅野沖彦は、マッキントッシュ(McIntosh)党として有名なのだが、わたしはとびきり高価な同社の製品には手がとどかない。だから、影響を受けたのは機器としてのオーディオではなく、音のとらえ方あるいはサウンドの味わい方・・・とでもいうべきだろうか。ちなみに、オーディオ好きな人が「マッキントッシュ」と聞けば、PCClick!ではなくアンプやスピーカーを一義的にイメージするだろう。わたしもアップル社から同機が発売されたとき、「なんで米国の老舗オーディオブランド?」と不可解に感じたのを憶えている。菅野沖彦は、どちらかといえばレンジの広大な伸びのある明るいサウンド(JBLやMcIntosh)でJAZZやクラシックを聴き、たまにまとまりのある同軸かワンホーンのスピーカーで、ヴォーカルや小編成ないしはソロのクラシックを楽しむのがお好きなようだ。
そのパイプをくゆらすお馴染みの菅野沖彦が、三岸節子Click!と独立美術協会へともに参加し、戦後に「別居結婚」をしていた洋画家・菅野圭介の甥であることを、三岸好太郎Click!・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様からうかがって、わたしはわが耳を疑った。しかも、鷺宮にある三岸アトリエClick!の螺旋階段で、三岸節子と菅野圭介の親族たちとともに、いまだ白髪ではなく若々しい菅野沖彦が写っている写真にも、改めて気がついた。この写真は、これまで何度も繰り返し別々の書籍や資料で見ていたのだが、おもに三岸節子と菅野圭介を注視していたため、まったく気づかなかったのだ。人と人は、いったいどこでどうつながってくるかわからない。
菅野沖彦は、叔父の菅野圭介から大きな影響を受けたとみられる。音楽の趣味はもちろん、絵画を通じての芸術観や、ブライヤーパイプの趣味までそっくりだ。その様子を、わたしの本棚から1980年代末の愛読書だった、菅野沖彦『音の素描』(音楽之友社)から引用してみよう。
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私は小さい時から音楽が大好きだった。また大好きだった人の一人に“タッタ叔父ちゃん”と呼んでいた叔父がいたが、この人は絵画きであった。京都大学の仏文をあと数ヵ月というところで退学して、フランスへ行き、ブラックやフランドランに指導を受けて画家になった。独立美術協会の会員であった。/大変な音楽好きの叔父で、自分が絵を画く時には必ずといってよいほどレコードをかけていたようだ。ゆりかごに入っていた頃の私は、母が姑の仕事を手伝っていたため、いつも、この叔父にミルクと一緒に預けられていたらしく、家で仕事をする叔父が子守役を引き受けてくれたのだという。この叔父がレコードをかけると、きまって私は“タッター、タッター”と音楽に合わせて口ずさみ、ゆりかごをゆらせながら、遊んでいたところから、いつとはなしに“タッタ叔父ちゃん”と呼ぶようになったのである。/どう考えても、私の音楽への興味はこの頃の叔父の影響によるものらしく、音楽の想い出と、この叔父とは私の頭の中で結びついて離れない。「フランダースの古城」、「ノルマンディの秋」、「パイプと大きなコンポチェ」、「蔵王」、「安良里の海」などと題された叔父の作品も、この想い出とは切っても切れない。この叔父には、私の幼年期、少年期、青年期を通じていつも大きな影響を与えられ続けたのである。 (同書「道は遥かなり」より)
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菅野沖彦から、サウンドの味わい方について大きな影響を受けていると思われるわたしは、間接的に菅野圭介の趣味の影響を受けていることになるのだけれど、わたしは残念ながらこの画家が好きではない。作品は別にして、三岸節子と戦前の独立美術協会時代、あるいは戦後の「別居結婚」時代に彼女や子どもたちを殴ったり、長女・陽子様がこしらえた料理を気に食わずにちゃぶ台ごとひっくり返したりと、自立できていないメメしい男の代表選手のような行為を繰り返しているからだ。自身ではなにもしないで他者に寄りかかるが、人が作ったものや他者の行為・行動には不満や文句をいい、他人事ないしは傍観者的なヒョ~ロンをたれたりカンシャクを起こしたりするというのは、没主体的でヒキョーかつ情けない男に象徴的な行状だからだ。メシが食いたけりゃ、自分で好きなものを作ればいいだけの話だろう。
ただし、わたしは菅野圭介の作品はキライではない。愛知の一宮市三岸節子記念美術館Click!の堤直子様より、同美術館で開催された貴重な『菅野圭介展』図録をお送りいただいた。さっそく拝見すると、彼の風景画には強く惹きつけられる。美術界では「マンネリ化した」といわれて冷遇され、画商たちにも見放された後半生の手馴れた表現のものがいいと思う。特に、茨城の鹿島灘の砂丘へ住みついていたとき、あるいは晩年に神奈川の葉山海岸にアトリエを建てて暮らし海を眺めながら描いた作品は、妙な技巧や衒気、“色気”などなくて素直でストレートに美しく、見とれてしまう。菅野沖彦は、好きな叔父のもとへ遊びにいくと、何度か繰り返し聞かされている。
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「芸術の勉強はアカデミックなものではない。音楽学校へ行くとか行かないとかいうことと、音楽家になるということは無関係だ。この叔父ちゃんを見ろ、絵の勉強に学校などへ行ったことはない。なる奴はなる。なれる奴はなれる」
「同じことだ、絵も音楽も。しっかりした技術の裏づけがない芸術は人を感動させることはできないぞ。俺の絵だって、いきなり、あんなデフォルメされたものを描いているのではない。俺にもデッサンを猛勉強した時代もある。似顔だって画けるぞ。学校へ行くよりも一人で勉強することは厳しい。強制されずに自分を自分で訓練することはな。しかし、学校へ行ったって先生まかせで勉強できるものではないぞ。結局は同じことだ。音楽学校卒業、美術学校卒業なんていうのは、あんまの免状じゃないんで、音楽家や画家になることとは無関係のものなんだ」 (同上)
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1968年(昭和43)3月に、菅野圭介は末期の食道癌のため何度めかの入院をする。病床で彼は、好きな音楽を聴きたいといいだした。つきっきりで看病していた、叔母(独立美術協会の洋画家・須藤美玲子で、のちに圭介のあとを追って2ヶ月たらずのうちに自裁)から、「タッタが音楽を聴きたがっているから、なんとか病室でレコードをかけられないだろうか」・・・という相談を受け、菅野沖彦はさっそく手持ちのレコードと小型のプレーヤーをもって、3月2日に駆けつけている。
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早速、私は小型の再生装置とタッタの好きなレコード、ショパンのバラードやマズルカ、そしてノクターンの数々、モーツァルトのピアノ・ソナタやピアノ協奏曲のいくつか、そしてベートーヴェンのピアノ・ソナタのアルバムを車に積んでかけつけたのであった。病室でのタッタは、まさに骨と皮という表現しかできないほど小さくなり、痛々しい有様だった。食べものは、すべて喉の途中からつながれた管で外へ出され胃にはなにも入らないという。 (同上)
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菅野圭介は、天井に白い紙を貼りつけて、病院のベッドに仰臥しながら空想のイメージで絵を描いていた。病院の天井も白くて四角だったのだが、改めて四角い有限の画面を設定しないと絵がイメージできない画家に、菅野沖彦は少なからずショックを受けている。
菅野沖彦が持ちこんだレコードの中から、ベートーヴェンのピアノソナタ『月光』と、ピアノソナタ第32番(作品111 ハ短調)の第2楽章を繰り返し聴いては、白紙のキャンバスにイメージで絵を描きつづけていた。きっと、菅野沖彦のことだから気をきかせて、叔父の時代にはもっともポピュラーだったワルター・ギーゼキング盤(ベートーヴェン)やクララ・ハスキル盤(ショパン)など、叔父の耳馴れたレコードを持参したものだろう。菅野圭介は、菅野沖彦が音楽とともに見舞った2日後の3月4日に、天井のキャンバスへ心で絵を描きつづけながら死去している。まだ53歳だった。

わたしは学生時代、ヘタクソなJAZZピアノをいたずらしていたことがあった。メロディラインまではなんとか弾けるものの、いざインプロヴィゼーションになるととたんに支離滅裂で破たんし、メチャクチャになるという、とんでもない「フリーJAZZピアノ」だったのだが、その練習に使っていたのが菅野沖彦の弟である、JAZZピアニストの菅野邦彦が監修した教本だった。おそらく、菅野邦彦もまた、叔父・菅野圭介から多大な影響を受けていたと思うのだが、それはまた、別の物語。
◆写真上:冬になると、管球式のプリアンプやパワーアンプとネコの相性は抜群にいいようだ。
◆写真中上:マッキントッシュ社の代表的な製品で、パワーアンプのMC2102(左)とスピーカーシステムXRT22s(右)。ともに菅野沖彦好みのノビノビとした明るいサウンドで、ことにアンプのインジケータのカラーは「マッキンブルー」と呼ばれオーディオ好きの憧れだった。
◆写真中下:左は、戦後間もないころの撮影とみられる鷺宮・三岸アトリエの螺旋階段にすわる菅野圭介。右は、1988年(昭和53)に自宅オーディオルームで撮影された菅野沖彦。
◆写真下:左は、2010~2011年(平成22~23)に横須賀美術館や一宮市三岸節子記念美術館などで開催された「菅野圭介展 色彩は夢を見よ」図録。右は、1988年(昭和53)に音楽之友社から出版された菅野沖彦『音の素描』で、発売と同時に手に入れた憶えがある。
たった1枚だけならなにを持ってく?
学生時代の友人やアルバイト先にはJAZZ好きが多く、よく「無人島に流されるとき1枚だけ持ってけるとすれば、どのアルバム?」というような会話をした。わたしが好きだったバイト先の営業マンは、繰り返し「ライオネルの『スターダスト』だね」と答えていた。彼は自身でもギターを演るのだが、スラム・スチュアート(b)がアルコで“ポパイ”のラインを弾いたりする、スウィングJAZZに両足を突っこんだようなアルバムのどこがいいのか、わたしには皆目わからなかった。
わたしは、クラシックで1枚持ってくなら、当時はブーレーズ=NYphのシェーンベルグ『浄夜』(1973~74年/EMI)に決まっていたのだけれど、JAZZは目移りがしてなかなか決まらなかった。ある日、「それでも1枚持ってくとしたら、どれなんだい?」と先輩からわけのわからない、そもそも前提となる設定からして無茶な詰問を受け、しかたなく「マイルスの『アガルタ』かな」と答えた。バイト先の先輩はシラケて「なーんだ」という顔をしたが、この想いはいまも変わっていない。理由は単純で、身の内から湧きあがる“元気”を取りもどせるからだ。
『アガルタ』(1975年/CBS Sony)は、マイルスが健康上の理由から6年余の“沈黙”に入る直前、1975年2月1日の昼間に大阪城ホールで録音されたライブ演奏なのだが、わたしはこのコンサートを聴いていない。同日の夜に演奏されたのが、『アガルタ』とほぼ同時に発売された『パンゲア』(1975年/CBS Sony)なのだが、両作ともアルバムになってからしばらくたって聴いている。「このレコードは、住宅事情が許す限り、ヴォリュームを上げて、お聴きください」というライナーノーツの註釈どおり、大音量で聴いて親から叱られたこともしばしばだった。親元から独立したあと、木造アパートやマンションで大音量を出すわけにもいかず、ヘッドフォンで聴く機会が多くなった。いまは、また大音量で聴いて家族から顰蹙をかっている。
思えば、『アガルタ』と『パンゲア』は、LPレコードの限界ギリギリの仕様をしていたことに気づく。当時、マイルスの演奏は60~90分間もぶっ通しでつづくのが当たり前になっていた。長時間録音をレコードの溝へ押しこみ気味に刻むには、カッティングする溝と溝の間隔を極限にまで詰めなければならなかった。すると、低音部がみるみるやせ細っていく。これは別にJAZZに限らず、長大で対位法のオバケのようなマーラーの交響曲チクルスのLP(バーンスタイン盤など)でも、同じような低音不足の課題が発生していた。だから、マイルスのようにケタちがいな超ワイドレンジのサウンドは、「住宅事情の許す限り」大音量で聴かないと、なかなか低音部のリアリティが出にくかったのだ。-b87fe.jpg)
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『アガルタ』は、前年の米国カーネギーホールで行われたコンサートを収録した『ダーク・メイガス』(1974年/Columbia)の発展形ではあるのだが、サウンドの重みや拡がり、空気感や空間感の肌ざわりがまるで異なっている。この時期に録音されたマイルスのライブ・アルバムは、日本のCBS Sonyが米国のCBS Columbiaに強く働きかけて実現していたのを、つい最近知った。当時の米国では、もはや既成JAZZの範疇から大きくはみ出し、JAZZファンへのセールスがかなり低迷していた、「コンテンポラリー・ミュージック」としか表現のしようがないマイルス・ミュージックは、商売にならないと考えられていたにちがいない。そして、“沈黙”直前のラストアルバム『アガルタ』と『パンゲア』は、日本で独自に企画・制作された作品となった。
このLPレコードを、高田馬場にある改装前の「マイルストーン」Click!でリクエストしたときの、友人との会話を憶えている。本アルバムを聴くと、「やってやろうじゃねえか!」と高揚した気分になれるのは、わたしが妄想とともに勝手な聴き方をしているからなのだが、LP1枚目のA・B面(CDでは1枚目)の演奏を「プレリュード」→「マイシャ」の2曲(実際には演奏に切れ目がなく、このタイトルさえレコード会社が便宜的に付与したものだが)のうち、「プレリュード」を2つに分けて3つの組曲として勝手に認識していた。わたしは、その区分を「胎動」→「前進」(以上プレリュード)→「解放」(マイシャ)などと呼んでいたのだけれど、友人からすかさず「そんじゃ、みんな新左翼の機関紙のタイトルみてえじゃんか」と突っこまれ、「なるほど、そういやぁ・・・」と苦笑した憶えがある。
『アガルタ』のジャケット・デザインは、もちろん横尾忠則なのだが、サンタナの『ロータスの伝説』(1973年/CBS Sony)以来の仕事だったようだ。2011年に出版された中山康樹『マイルス・デイヴィス「アガルタ」「パンゲア」の真実』(河出書房新社)から、横尾忠則の話を引用してみよう。

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(制作の期間は)1日か2日でしょうね。そんなに時間はかけません。いつも思いついたらサッとやっちゃいます。/アガルタというのは、マイルスは知ってるかわからないけど、地底王国の地球空洞説のなかの、つまり地底内部の国の名前です。アガルタの首都がシャンバラと言いますね。そういうアガルタやシャンバラ関係のことについてはかつて相当いろいろ研究していましたから、この当時もそうだったと思うんですよ。だからそれをタイトルにしてみたらどうかなって言ったんだと思う。マイルスも知っていたのかな。彼にもそういう神秘主義的なものに憧れる資質がありますから、たぶん知っていたと思うんですよね。
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こんなわけのわからないことを言われ、特色(ゴールド)入りジャケットの色校正を何十回もやらされたら、レコード会社の担当者は悲鳴を上げ、印刷会社から色校費何百万円の請求書を受け取った上司が怒鳴りちらすのも無理はないのだが、それでもなんとかマイルスからOKをもらえて同作は世の中に出た。当初は、『アガルタの凱歌』と『パンゲアの刻印』というタイトルだったが、わたしがおカネを貯めてようやく入手した(2枚組LPは高価だった)アルバムでは、すでに『アガルタ』と『パンゲア』というタイトルに変更されたあとだった。
マイルスのライブ演奏は、世界各地で発売されたブートレグClick!(私家盤/海賊盤)も含め、わたしはLP・CD・DVDとそのほとんどを入手して聴いているが、1985年7月13日にオランダ・ハーグで録音され、FM東京でも同年9月に音源が流されたブートレグ『A DAY BEFORE』(MBGADISC)を例外として、正規盤ではやはり『アガルタ』がいちばん好きだ。
Columbiaレーベル時代の全作品が、オリジナル紙ジャケットのデザインをベースにCD全集化されたので、この際すべてを買い替えることにした。厳密にいえば、『アガルタ』の米国盤ジャケットは廃棄され、横尾のデザインのほうが採用されて全集入りしている。従来のプラスチックケースで出ていたアルバムは、かなり手元にそろっていたのだが破損しやすいため、改めて紙ジャケットのCDを手元に置きたくなったのだ。『The Complete Columbia Album Collection』(2010年/Columbia)がとどいたとき、真っ先に取りだしたのはやはり『アガルタ』と『パンゲア』の2作品だった。マイルスの『オン・ザ・コーナー』(1972年/Columbia)が、いまの若い子たちから「バッハ」(聖典)と呼ばれているように、『アガルタ』はこれからどのような聴き方をされていくのか、楽しみだ。

アルバイト先にいた営業マンの言葉を思いだしたので、久しぶりにライオネル・ハンプトン(vib)の『スターダスト』(1947年/Universal)を探しだして、ターンテーブルに載せてみる。年齢のせいだろうか、「まあ、こういう世界も、たまにはお茶でも飲みながら、いいのかな」・・・と、ネコの頭をなでながら聴いていたのだけれど、やはり、わたしの世代は1970~80年代にかけ、JAZZとカテゴライズされていた既存の音楽をぶち壊し、止揚していく、そして21世紀への音楽をいまから思えば準備しつづけていた、20世紀末の(東京藝大音楽部の学生たちの言葉を借りれば)「インプロヴィゼーション・ミュージック」(だから、それがJAZZなんじゃんw)に、惹きつけられてしまうのだ。
◆写真上:Columbia期の作品を網羅した『The Complete Columbia Album Collection』。
◆写真中上:横尾忠則のデザイン制作による、『アガルタ』ジャケットの表面(上)と裏面(下)。
◆写真中下:左は、中山康樹『マイルス・デイヴィス「アガルタ」「パンゲア」の真実』(河出書房新社/2011年)。右は、1975年ごろに撮影されたとみられるマイルス・デイビス(tp、key)。
◆写真下:左は、音楽好きな若い子たちならたいてい知っている『オン・ザ・コーナー』。右は、80年代のベスト演奏だと思う1985年オランダ・ハーグでのライブ演奏を収めた『A DAY BEFORE』。

★追記
当全集の『アガルタ』と『パンゲア』に収録された音源は、のちのCD制作に使われた日本のCBS Sonyに保存されているマザーテープではなく、1975年にマイルスとテオ・マセロが編集した初期のマスターテープ、すなわちLPレコードと同じ「演奏」でありサウンドであることが判明した。
つまり、マイルスの理想とした1975年現在のサウンドが、この全集の『アガルタ』では聴けることになる。『アガルタ』のたった1枚のために、高価な同全集を購入するのはどうかと思うが、LPレコードの初期サウンドをご存じない方には願ってもないチャンスということになる。
藤田邸の水琴窟を甦らせる。

目白駅のすぐ西側、下落合の通称「近衛町(このえまち)」Click!に建つ藤田邸の庭園に残る「水琴窟(すいきんくつ)」を調査し、音色を甦らせる活動に参加、見学してきた。水琴窟は、別名「洞水門(とうすいもん)」とも呼ばれていたようで、江戸時代に庭師たちによって普及したと伝えられているが、その歴史には謎が多い。江戸中期の茶人であり、庭園造成も手がけた小堀遠州の発明だとする説もあるけれど、さだかではないようだ。
手水鉢(ちょうずばち)から流れ落ちる水の滴りが、地面に逆さまにして埋められた甕(かめ)の中に落ちると、空洞の中で水滴が反響し、まるで琴のようなサウンドを響かせるというしかけだ。江戸期に多くの水琴窟が造られたようだがほどなく廃れ、明治以降の日本庭園で再びブームとなったが、昭和に入るころには造られなくなり、戦後はその存在さえほとんど忘れられてしまったらしい。そんなめずらしい、風流で貴重な水琴窟のひとつが、近衛町の藤田邸に現存していた。
水琴窟の音を甦らせるためには、地中の甕の中に長年にわたって堆積したヘドロや水を取り除かなければならない。藤田邸の庭園は、カフェ「花想容」Click!に接しているので、定休日に作業を行うことになった。水琴窟用に開発された専用機材を手に作業を行うのは、NPO法人・日本水琴窟フォーラムClick!の理事である加藤さんをはじめスタッフのみなさんだ。午後1時30分に藤田邸へ集合し、1時50分ごろから作業をスタート。ブログ開設以来、親しくさせていただいているMyPlaceClick!の玉井さんたちとともに、わたしも立ち会って見学させていただく。
まず、埋められた甕の上に積まれた、たくさんの丸い川原石を取り除く。(写真①) コンクリートで固められたすり鉢状の底から、すぐに甕の底に開けられた水門(すいもん)と呼ばれる穴が姿を現した。(②) 2時15分、水門から甕の中にたまった泥水の吸い出しを開始。(③) 吸水に活躍したのは、吸引力が強い業務用の掃除機だ。(④) 工夫された吸い口を水門の中に入れ、何度となく繰り返し泥水を吸い上げていく。(⑤) 当初は、30cmを超えてたまっていた泥水が、40分ほどの吸い出し作業で20cmほどになる。



2時55分、作業を中断して水琴窟の音色を試聴してみる。(⑥) 試聴管を通して響いてきたのは、なんとも美しく微妙かつ繊細な金属琴のようなサウンドだ。つづけて、もう少し水を吸い出し15cmほどの水位になったところで、再び試聴。(⑦) 今度は、甕内の反響が前回よりも大きいらしく、低音域の倍音が多めな妙なる調べが聴こえてきた。(個人的にはこちらの音のほうが気に入った) 20cmの水位のほうが音がよかった・・・という意見が出されて、この水琴窟の理想的な水位は20cmと設定。試聴音は、二度とも録音された。
甕内に堆積したヘドロを除去する作業の前に、甕の大きさを水門から探って推測する。(⑧) 棒やアルミの針金などを用いて推測された甕のサイズは、高さ(深さ)が約570mm、最大の直径が約550mm、逆さになった開口部の直径が300mm余ということがわかった。一般住宅の庭に造られた水琴窟としては、どうやら最大クラスの作品らしい。また、水門からうかがえる甕の材質や硬質な音色から、おそらく1500度ぐらいの高温で焼成された素焼きの甕である可能性が高いこともわかった。3時30分、ヘドロの除去作業を開始。(⑨) 途中、吸入管が詰まり、堆積していたヘドロが意外に固いことがわかる。富士山の火山灰である関東ローム層の赤土が固まると、清掃がかなりやっかいだとのこと。3時55分、多くのヘドロを吸い出し、再び甕の形状を探る。逆さまになった開口部がやや狭くなっているが、およそ釣鐘型をした素焼きの甕らしい。約2時間ほどかけた清掃作業がほぼ終わり、午後4時すぎに小休止。
わたしは、藤田様が差し入れてくださったオヤツをしっかりいただいたあと(爆!)、打ち合わせの時間が迫ったので4時30分に失礼してしまった。その後、甕内を理想の水位にもどし、水門の上に川原石を積み重ねて作業は終了している。この調査およびクリーニングの詳細な経緯については、日本水琴窟フォーラムがこの6月に発行したばかりの機関紙「水琴窟」第2号にレポートを書かせていただいた。ご希望の方は同フォーラムへご連絡いただくか、わたしに連絡をいただいてもいいし、またはカフェ「花想容」へ行かれればご覧いただけるのではないかと思う。

藤田邸Click!は、1922年(大正11)に近衛町が造成されるのとほぼ同時期に建築されている。もともとは、近衛篤麿Click!邸が建っていたところで、篤麿の死去とともに子息の近衛文麿Click!があとを継ぐけれど、多くの負債を抱えた同家はほどなく、下落合の広大な敷地の大半を手放すことになった。近衛家は、篤麿が設立した東京同文書(目白中学校Click!)に隣接した敷地へ、新邸を建てて転居している。旧篤麿邸の広大な敷地は、東京土地住宅(株)の常務取締役で文麿の友人でもあった三宅勘一が「近衛町」と名づけ、1922年(大正11)に坪あたり平均68円50銭で分譲を開始している。しかし、1925年(昭和14)に東京土地住宅の経営が破綻Click!すると、同じ下落合に目白文化村Click!を開発していたライバルのディベロッパーである箱根土地(株)が、近衛町の開発や販売の一部を東京土地住宅からそのまま継承している。
藤田邸の建築は東京土地住宅の時代、すなわち近衛町が成立した初期のころから同地に建っていた。1924年(大正13)より鈴木邸となっていたが、1932年(昭和7)にそれ以前から下落合にお住まいだった藤田様が入居されて現在にいたる。水琴窟は、藤田様が入居する以前から存在しているので、おそらく邸の建築当初から庭園内に造られていたものだろう。ちなみに、藤田邸の位置は広大な近衛篤麿邸の寝室だったあたりに相当するらしい。
下落合では最近、藤田邸以外でも水琴窟を見かけたことがある。重層長屋(実質マンション)の建設で裁判中の、タヌキの森Click!に建っていた旧・E邸、すなわち前田子爵邸の移築建築である服部政吉建築土木事務所Click!の庭園だ。そこには、あまりにも巨大なために神田川の水運を利用して、ようやく目白崖線(バッケ)の上まで引きずって運び上げたと伝えられる、5mを超える鞍馬石の式台が置かれた近くに、これまた大きな手水鉢が据えられた水琴窟が見られた。
明治以降、和式の庭が造園されれば、そこには必ず水琴窟が造られた・・・という時代があったらしい。「鹿威し(ししおどし)」とともに、和庭にはいたってポピュラーな細工だったようだ。鹿威しは音が大きいため、一般の住宅には水琴窟が好まれたとも聞く。鹿威しは戦後も造られつづけたけれど、水琴窟はその庭師技術とともにすっかり忘れ去られてしまった。だから、古い日本庭園が残っていれば、水琴窟は日本じゅうどこにあってもおかしくはない。目白・下落合界隈には古い邸が多いので、それと気づかれずに眠っている水琴窟がまだまだありそうだ。お心あたりの方は、ぜひこの記事のコメント欄へでも一報いただければと思う。
わたしは、水琴窟の音を初めて耳にしたとき、少し風がある秋のカラッとした透明な空気の中、奈良の鄙びた旅館に寝ていると遠くから響いてくる寺の風鐸の音色を想い出してしまった。藤田邸の水琴窟は、造られた当初の音色を取りもどしているだろうか。今度、「花想容」へコーヒーを飲みに寄ったときにでも、ぜひ聴いてみたいと思っている。その繊細で妙なるサウンドは、大正期の下落合のあちこちで響いていた音色にちがいない。
■写真上:藤田邸の水琴窟と、地中に埋められた甕の水門(空洞の甕内へ落ちる点滴口)。
■写真中上:水琴窟を甦らせる作業中の、日本水琴窟フォーラムのスタッフのみなさん。
■写真中下:上は、近衛町が開発された1922年(大正11)当時の地形図。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる藤田邸(当時は鈴木邸)。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる藤田邸。邸の西には、洋画家・安井曾太郎の自宅と北に面したアトリエが確認できる。
■写真下:タヌキの森の広い庭園にあった、水琴窟全景と手水鉢。
ダイクストラのシベリウスが素晴らしい。

わたしがもの心つくころ、家の中に流れていた曲はシベリウスが多かった。もちろん、親父の趣味ではなく母親のほうだ。女学生時代から『レミンカイネン組曲』が好きで、中でも「トゥオネラの白鳥」には目がなかったようだ。親父は、長唄に清元に謡いと邦楽一辺倒だったので、このふたり、音楽的な趣味ではまったく合わなかったことになる。片や「♪あなあさましや~あななげかわしやぞ~ろ」と『すみだ川』が聞こえるかと思うと、一方から恋人が死んだイゾルデの悲痛なソプラノが聞こえてきて、悲劇的いや刺激的すぎてアタマがおかしくなりそうだった。
『レミンカイネン』のほかにもシベリウスはよくかかっていて、『タピオラ』や『悲しきワルツ』、『弦楽オーケストラのためのロマンス』、シンフォニーのNo.2、No.1などが印象に残っている。このころは、いまや“名盤”といわれているオーマンディ盤もバルビローリ盤も、はたまたC.デイヴィス盤も存在していないので、ビーチャム=ロイヤルpo.盤とか古いカラヤンの録音盤だったのだろう。いまだシベリウスは波の低周波音Click!とともに、わたしの耳について離れない。
同様に子供時代のわたしの耳には、ワグナーの楽劇もときどき登場した。こちらは、誰の演奏だったかはっきり憶えている。妙ちくりんな指揮者たちの名前は、子供でも一度聞いたら忘れない。もちろん、「フルヴェン」に「クナ」だ。『トリスタンとイゾルデ』はフルトヴェングラー=フィルハーモニアo.盤であり、『指輪』はクナッパーツブッシュ=ウィーンpo.盤(例のジークリンデがフラグスタートの伝説盤)だ。わたしは、いまでもクナの『指輪』は取り出して聴くことがある。案外、カラヤンのミーハーファンな母親なのだが、ワグナーに関してはこのふたりを外したことがない。
先日、目白バ・ロック音楽祭の「吟遊詩人とワーグナー&シベリウスの2番」コンサートへ出かけてきた。オランダ出身のペーター・ダイクストラ指揮=日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、ワグナーは『指輪』(ワルキューレの騎行)に『トリスタンとイゾルデ』(前奏曲)、『タンホイザー』(序曲)、シベリウスはNo.2とお馴染みの曲ばかりで、なんとも豪華なプログラム。音楽祭の詳細発表とともに、真っ先に目に飛び込んできた演奏会だ。バ・ロックは「場」と「人」という意味で、「バロック音楽」だと勘違いしている方が多いようだけれど、「バロック音楽」祭であればワグナーやシベリウスはありえないだろう。久しぶりのクラシック・コンサートだったが、文京シビックホールの大ホールはなかなか響きがよくて気に入ってしまった。残響の具合が、わたし好みでちょうどいい。

さて、演奏はなんといっても、シベリウスが素晴らしかった。まるで水を得た魚のように、静謐でほの暗いシベリウスの世界が一気に拡がった。わたしは、最近はヤルヴィ盤をターンテーブルに載せることが多いけれど、同夜の演奏もとても気に入った。管と弦のバランスがよいのがなによりステキだ。弦が艶やかすぎず、“絹ごし”なのがほどよい。ワグナーの演奏を意識してか、バイロイト祝祭典劇場のように第1バイオリンと第2バイオリンを左右に分けたのも、よい効果を生んだのかもしれない。(バイロイトは向かって第2v.左・第1v.右だったかな?) シベリウスの演奏を「水を得た魚」なんて書いたけれど、「水を得なかった魚」が前半のワグナーなのだ。(爆!)
子供時代のジーメンス製同軸2ウェイのコアキシャルユニットから聞こえてくる原体験のクナ盤『指輪』は例外にしても、わたしは寺山修司の名訳「この世の果ての揺り籠へ 流れてお行きちぎれ雲 流れてお行き水すまし」の『ラインの黄金』(新書館/1983年)が評判になっていたころの世代だから、ワグナーに関してはいろいろとあれこれウルサイのだ。同夜の演奏は、ひと言でいえば弦が管に飲みこまれてしまっている。(ホール特性もあるのだろうか?) かんじんの、ワグナーらしい弦の粘るようなウネリが湧いてこないのだ。シベリウスが“絹ごし”の弦だとすれば、誤解を怖れずにいえばワグナーは“ナイロン製”の、少しオドロオドロしいまでに艶やかで、ときにグロテスクかつ不気味な蔭りの感じられる響きがないと『指輪』の主題が表現できない。管が米国的にキラキラしていた、いまは亡きショルティ=シカゴo.がいちばんワグナー演奏で気をつかったのは、まさにその点ではなかったか? これは、オケのプログラムにおける得手不得手の問題があるのかもしれず、日フィルがシベリウスは演奏し慣れているが、ワグナーはそうではないせいなのかもしれないのだが・・・。

指揮のダイクストラとしては、およそ大時代的ではない軽快さと親しみやすさ、これからも数多くの若い人たちに聴かれるべき21世紀的なワグナーの姿を提示したのかもしれないけれど、「ワルキューレ」は天馬ではなくグライダーが滑空しているように聴こえてしまう。『トリスタン』にしても、悲劇的ではなくどこか爽やかに響いてしまったように思うのだ。ついでに、『トリスタン』は“前奏曲”だけではなく、“愛と死”もぜひカップリングして演奏されるべきであることを改めて痛感した。明らかに、ホールの観客は前奏曲の中途半端な終りにとまどって拍手を忘れていた。でも、弦の音色を考慮すれば、“愛と死”までは無理だったのだろうか?(時間的な課題もあるだろう) ワグナーの中では、管が張り出す(弦が後退しても違和感をあまり感じない)『タンホイザー』がいちばんよかったと思う。
ダイクストラという指揮者、ワグナーを再び演奏するのであれば、ぜひ弦が豊かなボリュームで艶やかに響くオケの演奏を聴いてみたいものだ。繰り返しになるけれど、鳥肌が立ったシベリウスは素晴らしい。目白バ・ロック音楽祭Click!は、まだまだ15日までつづく。チケットはお早めに!
■写真上:左は、文京シビックホールの大ホール入口にて。右は、ダイクストラのプロフィールを大きくフューチャーした、「吟遊詩人とワーグナー&シベリウスの2番」のコンサートリーフレット。
■写真中:左は、1983年(昭和58)に出版された寺山修司訳でアーサー・ラッカム挿画の『ラインの黄金』(新書館)。この翻訳直後に寺山は急死し、残り3夜の「ワルキューレ」「ジークフリート」「神々の黄昏」は寺山訳でないのがいまだに残念だ。右は、いまでもときどきターンテーブルに載せられるクナッパーツブッシュ=ウィーンpo.盤の『指輪(ワルキューレ)』(1957年10月録音)。
■写真下:こちらは、聴く機会の多いシベリウス。ともにヤルヴィ=エーテボリo.盤で、左は『交響曲第2番・Op.43』(1983年9月録音)、右は『レミンカイネン組曲・Op.22』(1985年2月録音)。
森山カルテットの板橋文夫が好きだ。

日本人が演るJAZZの中で、わたしが好きな作品はそれほど多いとはいえないけれど、学生時代から変わらずに聴きつづけているのがこの1枚。1977年に新宿PIT INNで行われた、森山威男カルテットによる『FLUSH UP』だ。とうに擦り切れ、すでに処分してしまったLPは翌78年早々にプレスされ、わたしはさっそく購入している。CDはずっと遅れて、1991年の春にようやく発売された。
このアルバムが気に入っているのは、どこか土臭い演奏をする板橋文夫(p)が、昔から好きだったせいだろう。77年の春、森山カルテットがPIT INNに出演したとき、わたしはライブを聴きに出かけているはずだが、いろいろなライブに顔を出していたせいか記憶が曖昧だ。どうやら、このアルバムの録音日ではなかったような気がする。同様に、板橋文夫トリオのライブにも頻繁に出かけていた。森山威男(ds)が山下洋輔トリオを抜けたのは、カルテットが結成される少し前だったように思う。そして、このコンボの音楽ディレクターとして迎えられたのが、ピアニストの板橋文夫だった。
それまで、森山威男といえば山下洋輔トリオのドラマーの印象が強く、なによりも全学バリスト封鎖中の早大法学部4号館で、1969年夏に行われた『DANCING古事記』ライブのイメージが強烈だった。すでに伝説化しているこのライブは、当時ゲバルトで対立していた各セクトのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちが、コンサートの間だけ観客席で一緒に並んで演奏を聴いていたという、ちょっと信じられないようなエピソードを早稲田に残している。もちろん、わたしの知らない時代のこと。

板橋のピアノは、興が乗るとうなり声とともにピアノ線を切るほどの凄まじいドライブをするのが有名で、PIT INNでのライブには必ず調律師が呼ばれていた。そのハードな面ばかりがクローズアップされがちなのだけれど、これが同一人物の演奏かと思うような、繊細できめ細やかな弾き方をすることもできた。まるで、コルトレーンClick!の“静”と“動”を思わせるような起伏。当時のスタイルは抜群のテクニックを基盤に、1969~72年ぐらいまでのマッコイ・タイナー(p)の影響が顕著だったように思うが、歌伴やリズムセクションでのバッキングには1968~69年ぐらいのチック・コリア(p)の影がチラリと見え隠れしたりもした。でも、それは演奏のほんの部分的なものにすぎず、総体的には板橋ならではのモードJAZZスタイルをすでに確立していたように思う。その演奏の魅力に取り憑かれたわたしは、森山カルテットや板橋トリオを聴きに通いつづけた。
それから時代がすぎ、わたしは仕事が忙しくてライブハウス通いどころではなくなったころ、板橋は『WATARASE(渡良瀬)』というアルバムを出した。栃木県の渡良瀬出身の彼は、北関東の広大な平野を流れる渡良瀬川を観ながら育ったのだろう。さっそく聴いてみたところ、またしても板橋のピアノに魅了され「WATARASEコンサート」へ通ったりした。そして、1990年の暮れ、森山カルテットが名古屋のライブハウスLovelyへ出演した際、「WATARASE」が演奏されることになる。こちらも、さっそくわたしの愛聴盤の1枚となった。

板橋文夫については、面白い想い出がある。80年代の前半、わたしの周囲ではめずらしかった、お茶の水に通う友人の女学生がピアノを習っていた。クラシックを習っていたので、あまり気にもとめなかったのだけれど、なにかの機会に教師の名前が出て、わたしは愕然としてしまった。彼女にピアノを教えていたのが、PIT INNでうなり声をあげながらピアノ線をよく切っていた板橋文夫なのだ。JAZZのみでは食えないから、どうやら昼間はピアノ教師をつづけていたらしい。
確かに、クラシックの曲は弾きこなせてあたりまえ、それプラスアルファの音楽的才能とオリジナル表現力とテクニックと体力とが、JAZZには求められる。板橋はクラシックピアノを彼女に教えることで、夜への指ならしとテクニックのおさらいを、日々つづけていたのかもしれない。
■写真上:『FLUSH UP』(UNION JAZZ/TECP-18775)。森山威男(ds)、板橋文夫(p)、望月英明(b)、高橋知己(ss)の演奏で、18分間にわたるタイトル曲の板橋と高橋のモード演奏は壮絶だ。
■写真中:左は、「WATARASE」が収録されている『Live at LOVELY』(disk union/DIW-820)。森山(ds)、板橋(p)、望月(b)に加え、サックスに井上叔彦(ts)が参加している。同時に収録された、同じく板橋作曲の「GOOD BYE」も好きな曲。右は、ライブハウスで演奏中の板橋文夫。
■写真下:左は、学生時代に知人へ頼んでダビングしてもらった、「DANSING古事記」コンサートのテープ。右は、CD版の『DANSING古事記』(disk union /DANC-3)。山下洋輔(p)、森山威男(ds)、中村誠一(sax)で、このコンサートをプロデュースした麿赤児や立松和平の名前も見える。
“中年殺し”の歌なのだけれど。

「正攻法」のいい歌だ。秋の虫が鳴く夜長にでも、ボリュームを少ししぼり気味にしてしっとり聴いていると、越し方の足跡を眺めながらジ~ンときてしまうような感覚。曲想や感触はまったく異なるけれど、なぜか突飛に立原道造の詩の世界を思い出してしまった。おそらく、ある一定の年齢や経験を積みあげた人たち、あるいは歳若くても鋭敏な若い子たちに響く、深い歌詞なのだろう。ユニット名は、iora(アイオラ)Click!。この秋、下落合からメジャーデビューをはたすグループだ。
わたしがiora(アイオラ)について知ったのは、昨年のいまごろだろうか? 「カフェ杏奴」Click!のママさんから、カードか名刺をいただいたような気がする。それから一度、iora(アイオラ)サイトへアクセスしただけで、そのまま時間がすぎていった。それが今年の11月に、レーベルUniversalからメジャーデビューすることになったそうだ。先週末の夜、「杏奴」へ寄ったら、たまたまメンバーのおひとりがいて、デビューシングル『五番目の季節』の試聴盤をいただいたので、さっそく聴いてみる。
『五番目の季節』は、いま流行りのロシア文学風にいえば、「カーチャはようやく人生を生き始めていた」というようなシチュエーション、意識的な「季節」を迎え、いくたびか印象的な「夏」をすごしたことのある世代なら、とてもよく響く歌だろう。サビにかけての、「♪赤く燃えてる夢はどこに消えたの 明日への不安などなかったころ ♪忘れないで物語は どこからでも夢中になれるわ」・・・と、クリアな女性の声で唄われると、よし明日からまたやってやろうじゃないかという気分にもなれるのだ。もっとも、『五番目の季節』には旧バージョンがあって、こちらは『それは季節のように』というタイトルで、歌詞がかなり異なっている。旧バージョンはサイトで試聴Click!することができるが、どちらかといえば旧バージョンのほうが好きだ。
わたしには、CDに添付されているライナーノーツや歌詞を読む習慣がない。(いただいた試聴盤には、もちろん付いてなかったけれど) おそらく、JAZZを聴き始めてから身についた面倒くさがりなのだろう。だから、「杏奴」のママさんが言われるとおり、これだけスッキリとしたクリアで美しい日本語で唄われると、歌の意味がすんなり身体へ沁みこんでくる。ただ、わたしはクセからか、ヴォーカル全般を意味のある歌そのものとして聴いてはいない、もうひとつ別の耳がどこかにある。歌詞の意味などそっちのけで、音として、“楽器”のひとつとして人の声を聴いてしまうクセがあるのだ。おそらく、JAZZやクラシック、はては歌舞伎や小唄なんてところからの影響もあるのかもしれない。そんなアバウトでいい加減な聴き方、曖昧な姿勢を叱咤し一蹴するかのように、『五番目の季節』はわたしの耳へ鋭角で飛びこんできた。
さて、中年のわたしはこのテの歌にジンとしてしまうのだけれど、若い子たちはどうなのだろう? ちょうど『五番目の季節』を聴いているとき、大学生と高校生のオスガキどもがやってきた。そのときの反応を、忠実に再現しておこう。「あ、これ、・・・あれ、なんだっけ?」、「ナカ、ナカジマ・・・ナカジマミユキ!」、「・・・ちがうか、じゃあユーミン?」、「iora(アイオラ)? ・・・ここからデビューするの? マジですか」。ちなみに、わが家のCD棚には中島みゆきもユーミンも置いてないが、オスガキたちの世代でもどこかで聴いたことがあるのか、このふたりだけは知っているらしい。確かにイントロのアレンジからして劇的で、どことなくドラマや映画の主題歌になりそうな曲なのだ。
音楽を日々ふんだんに消費する世代、シングルをいちばん購入する世代だと思われる、このオスガキたちの反応、ちょっと気になる。はたしてiora(アイオラ)は、世代を超えて琴線に響くか? オスガキどもの世代はともかく、30代以上の方にはお奨めの良質な1枚。
■写真:11月にデビューのiora(アイオラ)、試聴盤『五番目の季節』(下落合バージョン?)。
●Live Concert 10月5日(金) Open 18:00~ Start 18:30~ 渋谷O-EAST
●Debut Single 『五番目の季節』(Universal J/UPCH-5494)
学生時代の一里塚(マイルストーン)。

久しぶりの「Milestone(マイルストーン)」だ。学生時代から、行きつけのJAZZ喫茶。いや、JAZZ喫茶というよりは、昔から酒やカクテルも出すので、JAZZバーと呼んだほうがいいのかもしれない。いまは休日というと、地元下落合のカフェ「杏奴」Click!ですごすことが多いけれど、実は高田馬場の「Milestone」Click!へ通った時間のほうがはるかに長い。ほとんど1976年の開店当初から、わたしは頻繁に出かけていた。なにかの節目にもちょくちょく出かけていた、文字どおり一里塚(Milestone)のようなお店だ。
ここへ来るとホッとするのだけれど、当時に比べて店の様子は一変している。大理石で覆われた、オリジナルの巨大エンクロージャにぶちこまれたJBL3ウェイは姿を消し、いまでは逆に懐かしいオリンパスの音色が鳴り響いている。以前の、JAZZ喫茶にしてはまばゆく明るかった昼間の店内は、窓も小さくほんの少し薄暗くなり、タバコの煙が紫色に見えるスポットライト照明へと変わった。
巨大な大理石JBL時代はフュージョン全盛で、わたしは店名どおり1969年以降のマイルスばかりをリクエストしていたようだ。店によって、リクエストするミュージシャンやイディオムを決めていたような気がする。当時、オーディオにもかなりうるさくて、このアルバムを鳴らすのはあの店のシステム・・・なんてことにこだわっていたのだろう。同じ高田馬場の「intro(イントロ)」はコルトレーン、早稲田の「もず」はハードバップ全般、吉田おじいちゃんのいた横浜の日本JAZZ喫茶1号店で、12月いっぱいで閉店してしまう「ちぐさ」ではピアノJAZZとビッグバンド、同「ダウンビート」や鎌倉「IZA」ではウェストコースト、そして「Milestone」ではコンテンポラリーというように・・・。学生時代の「Milestone」は、窓も大きくて明るく、フュージョンの音色が似合っていたのだろう。もっとも、昼間のJAZZ喫茶タイムとは異なり、夜のJAZZバータイムになるととたんに、人の顔も判別しづらいほど薄暗くなって、女の子を連れてくると怪しげな雰囲気になったものだけれど・・・。

もうひとつ、「Milestone」にはお気軽な点があった。最初から会話が自由だったのだ。これはいまも変わらない。連れ立ったお客が増えて会話が始まると、マスターはさりげなく音量を落としてくれる。でも、いかにもJAZZを聴きにきたお客ばかりになると、ボリュームをめいっぱい上げてくれる。こういう、お客をよく見て細かく配慮してくれるところ、わたしが「Milestone」を好きになったゆえんだ。おそらく、マスターの趣味とは異なる、わたしのつまらないリクエストにもいちいちていねいに応じてくれていた。「Milestone」は、お客をうっちゃっといてくれないでゴチャゴチャ能書きばかりたれる、どこかのうるさいマスターのいる店とは異なり、気軽に入れて自由にJAZZを楽しむことができる、学生のわたしにはありがたいJAZZ喫茶だった。あれから30年、JBLオリンパスの音もいい。わたしは、このスピーカーにちょっとばかり偏見を持っていたようだ。
早稲田から高田馬場にかけてあった、JAZZを聴かせてくれる店も、クラシックの名曲喫茶も、そのほとんどが姿を消してしまった中で、「Milestone」だけがいまだ健在だ。「intro」も存在するけれど、いわゆるJAZZ喫茶ではもはやない。「Duo」にいたってはカレーショップだ。新宿東口に新しい店ができると出かけるが(いまだこの街には、たまにJAZZ喫茶がオープンしたりする!)、あまり気に入った店はできない。米兵らしい外国人だらけだった怪しげな「ポニー」や、新派の水谷八重子(良重)がやっていた同じ歌舞伎町の「木馬」が、その後どうなったかは知らない。
あっ、いま「I’ll be seeing you」がかかっている。日本との戦争へ出征してしまった彼を、そのガールフレンドが「またお逢いしましょ」と思い出に囁きかけている悲しい歌だ。残念ながら、ビリー・ホリデイ(コモドア盤)ではないけれど。・・・そう、いまこの文章を「Milestone」で書いている。読書と原稿書きとJAZZ談義にはもってこいの店、それが昔からの「Milestone」だ。これからも、やさしいマスターのいるこの店に、ときどき寄ってみよう。
■写真上:高田馬場の「Milestone」。わたしが30年来、変わらないお気に入りのJAZZ喫茶。
■写真中:左は、現在のJBLオリンパス・システム。パワーは、わたしの大好きなMcIntosh管球式(真空管パソコンではない)のNo.2XXシリーズ(1950年代)だ。わが家も管球がメインなので、どこかサウンドが近いような気がする。でも、さすがにいまはレコードではなくCD演奏となっている。右は、学生時代におなじみの「Milestone」店内。巨大な大理石JBLが、ことさら目を惹く。
■写真下:学生時代のある日、早稲田~高田馬場に点在したJAZZ喫茶のはしご散歩コース。これだけはしごすれば、お腹はコーヒーでチャプチャプだったはずだけれど、まったく憶えがない。JAZZ喫茶はこれだけでなく、もっとたくさんの店が存在していた。高田馬場駅周辺に比べ、昔から目白駅の周りがJAZZ喫茶の不毛地帯だったのは、ここの学生たちがJAZZをあまり聴かないせいだからか?
最近のいっぷく時間に。

・・・と昨日は言いつつ、書き出すと止まらないのが音楽のテーマなのだ。
いつだったか、タクシーに乗っていたら「これ、いいでしょ、お客さん」と、1枚の写真を見せられた。受け取ってみると、30歳前後のタクシードライバーと椎名林檎が一緒に写っている写真。背景は、新宿あたりだろうか。思わず、「ヲヲッ!?」と声をあげてしまった。鼻梁横にあった大きな「黒子時代」の顔だから、2003年の夏より前に撮られたのだろう。そういえば、車内には「東京事変」の新曲が流れていた。どうして、わたしが林檎好きだとわかったのだろうか?
わたしは、椎名林檎のミーハーなファンだ。1998年のシングルCD『幸福論』以来のお気に入りだ。翌年の本格的なJAZZ、カップリング曲『輪廻ハイライト』を聴いてから、60年代、新宿のライブハウスに浅川マキが出現したときと同じ衝撃波なのだと思う・・・などと、触れまわっていた。(見たのかい?) それほど、わたしにはショックだったのだ。いや、カテゴライズを拒否するように、ロックにJAZZにブルース、クラシック、ポップス、フォーク、ボサノヴァ、はては演歌や唱歌にいたるまで、あらゆる音楽ジャンルの曲を繰り出しつづける彼女のアルバムは、漠然と“コンテンポラリーミュージック”としか表現のしようがない作品が多い。
そんな中で、いちばんのお気に入りはアルバムではなく、ライヴDVD『賣笑エクスタシー』(2003年)というのも面白い。彼女の外観は、ぜんぜんわたしの好みではないけれど、とにかく音楽が気持ちいいのだ。ロックのステージでときどき見せる、白目をむき出して表情が豹変する、まるで頭(かしら)のガブClick!のような危ない表情も好きじゃないのだが、彼女の紡ぎだすサウンドが、わたしの感覚にジャストフィットするようだ。仕事に疲れたとき、描画ポイントで行き詰ったとき(笑)、DVD『賣笑エクスタシー』をかけて音だけ聴いてたりする。

『輪廻ハイライト』にみられる、最後までほんの微かに音階を外しながら、徹底して意味のないアドリブ“コトバ”でドライブする、彼女ならではのスウィング感は、もう天性のものなのだろう。モンクの半音階奏法をもじって、わたしは汎音階唱法と呼んでたりする。ストリングスをバックに、濃い4ビートJAZZを聴かせるDVD『賣笑エクスタシー』だけれど、途中で「おや、モードJAZZか?」などと思わせ、終わりが近づくとストリングスの楽団員が次々と消え、ついにはフリーイディオムへと突入していく様子は、彼女の音楽位置にぴったりなエンディングだった。
反面、まるで50~60年代に量産された歌曲のような高木東六ばりのメロディーで、「♪わたしのなまえをお知りになりたいのでしょう?」と、意味深長な歌詞のついた「みんなのうた」(NHK)の『りんごのうた』(2003年)のような曲にも、ぞっこん惹かれてしまう。“コトバ”の音韻は音楽の一部であり、「歌詞に特に意味はない」・・・と言いつづける椎名林檎は、いまどき珍しいJAZZYな存在なのだ。凡百の女性JAZZヴォーカリストを自称する、日本のシンガーたちの大半は、おそらく彼女の足元にも及ぶまい。
中学校すら満足に卒業していない彼女の音楽を聴くにつけ、音楽は絵画と同様、「教育」でも「勉強」でもなく、つくづく天性のものなのだと感じるしだい。
■写真上:ライヴDVD『賣笑エクスタシー』(2003年5月27日/TOBF-5275/東芝EMI)より。
■写真下:左は、“黒子時代”のDVD『賣笑エクスタシー』のジャケット、右は、ポスト“黒子時代”のDVD+CD『りんごのうた』(2003年11月25日/TOCT-4774/東芝EMI)ジャケット。
マイ・フェイバリット・コルトレーン。

たまには気分を変えて・・・。わたしがもっともよく聴いた、コルトレーンのアルバムがこれだ。でも、このアルバムは彼の死後に発売されたもので、「わたしが生きているうちは発表するな」と、当時の妻のアリスに言ったとか言わなかったとか。でも、彼は伝説だらけなのでホントかどうかはさだかでない。しかも、このアルバムには異なるバージョンがいくつか存在するようで、発売された国によって「Transition(トランジション)」は必ず含まれるものの、収録された曲がそれぞれ違う。わたしは、日本で発売されたLPおよびCDで聴きなれている。
ジョン・コルトレーン(ts,ss,fl)のアルバムで、「1枚だけ選んで聴いてもいいよ」・・・と言われたら、いまでも間違いなく、これをピックアップするだろう。フリー志向の『Ascension(アセンション)』へと突入する直前、わずか18日前(1965年6月10日)に録音された作品だ。有調(モードJAZZ)のはずなのだが、まるで幅の狭い塀の上を両手拡げて危うげに歩いているようで、いつどちら側へ転んで落ちてもおかしくないような演奏が繰り広げられている。もっとも、フリーJAZZの定義しだいでは、リズムセクションがバックで有調を奏でる『アセンション』はフリーでなく、どこまでいっても“コルトレーンJAZZ”だ・・・なんてことにもなりかねないのだけれど。
わたしが学生時代にいちばん好きだったアルバムも『トランジション』なら、いまでももっともお気に入りの作品であることに変化はない。・・・なぜだろう?
“前進”という言い方が適当かどうか、それまでのイディオムを破壊しようとし、そののちに、新たな再構築を試みようとしている・・・というような“音”にも聴こえるからだろうか。そのまっ只中、過渡期にあるのがこのアルバム・・・と頭で整理して考えたほうが、確かにわかりやすいしスッキリするとは思うのだが、放っておけば30分でも40分でもブロウしつづけていたのは、崩壊感、否定感に往々にしてともなう一種のトランス状態(イイ気持ち)が支配していたからではなかったか? この年の夏、カルテットはヨーロッパツアーへと出るけれど、エルヴィン・ジョーンズ(ds)が怒ってシンバルを投げつけた・・・なんて伝説が生まれるのもこのころのこと。もはや、かろうじて「ジョン・コルトレーン・カルテット」と名乗っていたにすぎないようだ。

「ギリギリのところで迷いながら演奏をつづける、過渡的な作品」・・・と、多くの音楽評論家は本作を位置づけるけれど、わたしにはそうは聴こえない。このアルバムは、とてっもコルトレーンらしい、彼の音楽の本質だと感じるからだ。いままでの規範をなにもかも打(ぶ)ち壊していく、勢いのある快感(Transition/65年6月10日録音)と、まるで一歩間違えればイージーリスニングへ転んでしまいそうな、様式美と予定調和の快適さ(Dear Load/65年5月26日録音)。双方の音楽世界が、彼の内部ではなんの矛盾もなく共存している。その共通項は、いつどちら側へ転んで落ちてもおかしくない、狭い塀の上を歩くギリギリの音楽表現・・・というスリリングなテーマだ。
こういう状況は、「苦しい」と捉えられるのがフツーだし、事実「新たな表現へ向けて苦しんでいる過渡的なコルトレーン」なんて評論を、このアルバムに関してはイヤというほど聞かされたし読まされたけれど、わたしにはそうは聴こえていない。麻薬的な快感さえ感じられて、「すげえ楽しそうじゃん!」と感じるのだ。いや、もっと言ってしまえば、これが彼の代表作じゃなくてなんなのだ?・・・という想いがあったりする。
『トランジション』は、いかにもコルトレーンらしさに満ちていて、彼の音楽の本質をよく表現していて、わたしは聴いていると身体が揺れてしまうほど楽しくてしかたがないのだ。『A Love Supreme(至上の愛)』(64年12月9日)や『アセンション』(65年6月28日)は棄てても、『トランジション』はおそらく死ぬまで棄てないだろう。
・・・と、こんなことを書き始めると、とたんにここが音楽ブログになりそうだ。音楽と物語(小説)は、あまり近寄らないようにしよう。
■写真:『トランジション』(Impulse)のアルバムジャケット。ジョン・コルトレーン(ts)、マッコイ・タイナー(p)、ジミー・ギャリソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ/ロイ・ヘインズ(ds)。
弦が3本足りねえぞ、親父。

子供のころ、三味線をいじっていたことがある。竿(さお)の重ね(側面)に、細長い指押さえ練習用の譜尺(①~⑱ぐらいまでの番号がふってある)を貼って、チントンシャンと弾いていた。もちろん、撥(ばち)を使うわけだけれど、これがなかなかギターのピックのようにはいかない。すぐに三の糸(いちばん細い糸)を切ってしまうヘタッピーだったので、練習は爪弾くほうが多かった。
家にあったのは、もちろん細竿だ。親父が子供のころ、清元や小唄の稽古に通わせられていたのだ。戦前の日本橋界隈には、町内に何人かの長唄や端唄、清元、常磐津などのお師匠(しょ)さんが必ずいて、子供たちに三味(しゃみ)や唄を教えていた。それが、江戸東京の下町に住む子供たちの、基本的な“教養”のひとつだったのだ。なにかの席や集まりで、三味を手に小唄のひとつも唄えないとバカにされてしまう。だから、みんなかなり一所懸命に習ったそうだ。親父も、いまの子があたりまえに塾へ通うように、お師匠さん宅へせっせと通っていた。
そんな環境で育ったせいか、親父はわたしが中学生のころ、どこに仕舞ってあったのか三味線を持ち出して、楽譜とともにわたしに与えた。もちろん、そのころにはお師匠さんなんて近所にいないから、自分で勝手に勉強しろ・・・というわけだ。「ギターがほっし~!」とねだったら、なぜか三味線が出てきたので、目が点になる。弦があと3本、足りねえじゃねえかよ親父!・・・と言いたかったが、おカネが自由にならない身では仕方がない、あきらめた。駒(こま)が小唄用の、細身でとてもきれいな三味だった。女持ちの風情があったので、もともと祖母のものなのかもしれない。
練習していると、♪チントンシャン~チントンシャン~ブチッと、さっそく三の糸を切ってしまう。さあ、予備糸がないからたいへんだ。近くの楽器屋に行ったら、「三の糸?」と怪訝な顔をされてしまった。三味線屋を探さなければならない。ようやく探し当てた三味屋へ行ったら、今度は「こんなガキが三味の糸だと?」と、もう一度怪訝な顔をされた。そんなこんなで、「♪花の大江戸の夜桜~三間見ぬまの小夜嵐~とくらあ!」と、半分ヤケになって練習したのだが、結局モノにはならなかった。どんな楽器でもそうだが、自習ではやはり上達しないのと、三味で「LET IT BE」を弾こうなんて不埒なことを考えていたからだ。
三味線は便利な楽器で、ギターやビオラなんかとは異なりかさばらない。竿の途中にある、継ぎ手と呼ばれる箇所から3つに分解できるので、ショルダーバッグにも収まってしまう。組み立ても、いたってお手軽で簡単だ。こんなにスマートで、下町では粋で身近な楽器のはずなのに、昔から山手における請けはよくない。以前知り合いに、三味だったらうちにあるよ・・・と言ったら眉をひそめられてしまった。話の様子からすると、なんとなく花柳界や芸者を連想してしまうらしいのだが、60~70年ぐらい前までは、東京の町場で三味のひとつも弾けて小唄か都々逸でも口ずさめなきゃ、大人として恥をかいた時代があったんだよ・・・と言っても、なんとなく納得できない様子だった。同じ東京でも、下町と山手とではこうも生活感が違うものか・・・と、そのとき思ったものだ。
しかし、親父は清元か常磐津をもはや唄うでもなく、面倒な三味はさっさと子供に押しつけて、自分は山手趣味の謡曲にすっかり取りつかれてしまった。「♪あなあさましや~あななげかわしやぞ~ろ~、げにめのまえの~うきよかな~」と、遠くの夜道から『隅田川』ときには『橋弁慶』が聞こえてくると、おふくろは夕食に火を入れて温めはじめたものだ。まったく、ないものにあこがれるとはよく言ったもので、親父の山手趣味は死ぬまでつづいた。
練習に気のないわたしに、文字通りバチが当たったせいか、ほどなく胴の裏皮が破れてしまった。それ以来、三味は再びどこかに仕舞われ、わたしは「ギターギター、今度こそ6本の弦がある楽器がほっし~!」と再び叫びだした。でも、いまならもう一度、三味をいじってもいいかな・・・という気がしている。三味の店は神楽坂にあるので、糸の買い出しにも困らない。でも、それには胴の破れを直さなければならない。三味の皮は、やわらかい猫皮だ。・・・いま、うちには1匹、ちょうど猫がいる。

■写真:日本橋人形町の三味線屋。いつも切れてた「三の糸ください」と、つい入りそうになる。