
東京美術学校短歌部について、入部していた佐伯祐三と山田新一の作品を記事にしたが、今回はその後も短歌部への寄稿や短歌会に参加していた山田新一の作品と、1920年(大正9)に創設されたレコードコンサートを催す蓄音器部についてご紹介したい。特に蓄音器部については、リクエストも可能な名曲喫茶のハシリのような雰囲気が漂っている。
まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの山田新一作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよう。まず、同年5月8日に開催された第1回短歌会に、佐伯祐三は欠席しているが山田新一は参加しており、他の部員と同様に1首の歌を詠んでいる。「東京美術学校校友会月報」6月号に収録された1首とは、以下の作品だ。
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第一回短歌会/◇心燃えず心落ちゐず今日も亦 空しく寝れて雨の音きく
▲
なにやら、淡々と変わりばえのしない日々に飽きあきし、どこか虚無的な雰囲気さえ漂う歌だ。親しい友人がそれほどできず、佐伯のように恋人も現れず、孤独感にさいなまれていた時期なのかもしれない。酒の量も増えたらしく、山田新一はたびたび痛飲していたらしい。
同年6月5日に開かれた第2回短歌会では、女子か男子かは不明だが気になる人物が出現しているようだ。作品が掲載された、「東京美術学校校友会月報」7月号より引用してみよう。
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第二回短歌会/◇酔ひ伏せばうつゝの如き耳に来て さゝやける声をいまだ忘れず
▲
どこかの飲み屋か喫茶店(当時は酒を置くのが普通だった)で、酔いつぶれたときにでも声をかけられた経験があるのだろうか、それを思いだしながらやはり酒を飲んでいるような情景が浮かぶ。「さゝやける声」は、店の子かママでまちがいなく女子ではないか。「市電なくなっちゃうわよ」と優しくささやかれたか、「もう閉店なんだけど」と耳打ちされたかは不明だが。
ところが、翌月の「東京美術学校校友会月報」8月号では、『ほのほ』と題した激情の恋歌となって結晶している。だが、山田新一の思いが通じず一方通行的な恋愛のようで、「涙」にくれて「泣く」ばかりの片思いだったらしい。同号に掲載された、炎に燃えている3首を引用してみよう。
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『ほのほ』
◇燃え残るほのほのごとく喘ぐこころ 心のかぎりみづからぞなく
◇無益なる涙なりとは知りつゝも ひたにそゝげり君が心に
◇にほひなき造花のごとしきみがこころ そのつめたさに涙あたへむ
▲
山田新一以外の誰かには、キラキラした眼差しで活きいきとしたバラのそよぎのような表情やしぐさを見せるのに、彼の前にきたとたん能面のように表情がなくなり、彼がいくら芸術を熱く語っても「あっそ」と気のない返事しかせず、冷たくあしらうようなリボンの似合う不愛想な女子が、どうやらひとり彼の周囲に出現していたようだ。相手は、上野桜木町か谷中あたりの令嬢か、あるいは宮崎モデル紹介所から派遣されてきたモデルのひとりだろうか。
それから2ヶ月のブランク(リカバリー期間)をへて、どうやら山田新一は「造花」のように無表情で「つめた」い彼女をあきらめ、再び内向する歌へと回帰している。10月に開かれた第三回短歌会に出席した山田新一の1首を、「東京美術学校校友会月報」11月号より引用してみよう。
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第三回短歌会/◇いと小さく胸に巣食へる悲しみの 何時去りゆかむ時のあらなく
▲
……と、またしても前田夕暮のような以前の作風にひとまわりして回帰しているようだ。
さて、東京美術学校の文芸部で定期的に開かれていた、レコードコンサートについて見ていこう。まずは、レコードコンサートの様子を、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」6月号より見てみよう。同年5月29日に開かれたレコードコンサートは、文芸部の第2回総会に付随した催しだったようだが、当日は文芸部以外の学生たちが会場へ数多く参集していた。
まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの山田新一作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよう。まず、同年5月8日に開催された第1回短歌会に、佐伯祐三は欠席しているが山田新一は参加しており、他の部員と同様に1首の歌を詠んでいる。「東京美術学校校友会月報」6月号に収録された1首とは、以下の作品だ。
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第一回短歌会/◇心燃えず心落ちゐず今日も亦 空しく寝れて雨の音きく
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なにやら、淡々と変わりばえのしない日々に飽きあきし、どこか虚無的な雰囲気さえ漂う歌だ。親しい友人がそれほどできず、佐伯のように恋人も現れず、孤独感にさいなまれていた時期なのかもしれない。酒の量も増えたらしく、山田新一はたびたび痛飲していたらしい。
同年6月5日に開かれた第2回短歌会では、女子か男子かは不明だが気になる人物が出現しているようだ。作品が掲載された、「東京美術学校校友会月報」7月号より引用してみよう。
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第二回短歌会/◇酔ひ伏せばうつゝの如き耳に来て さゝやける声をいまだ忘れず
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どこかの飲み屋か喫茶店(当時は酒を置くのが普通だった)で、酔いつぶれたときにでも声をかけられた経験があるのだろうか、それを思いだしながらやはり酒を飲んでいるような情景が浮かぶ。「さゝやける声」は、店の子かママでまちがいなく女子ではないか。「市電なくなっちゃうわよ」と優しくささやかれたか、「もう閉店なんだけど」と耳打ちされたかは不明だが。
ところが、翌月の「東京美術学校校友会月報」8月号では、『ほのほ』と題した激情の恋歌となって結晶している。だが、山田新一の思いが通じず一方通行的な恋愛のようで、「涙」にくれて「泣く」ばかりの片思いだったらしい。同号に掲載された、炎に燃えている3首を引用してみよう。
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『ほのほ』
◇燃え残るほのほのごとく喘ぐこころ 心のかぎりみづからぞなく
◇無益なる涙なりとは知りつゝも ひたにそゝげり君が心に
◇にほひなき造花のごとしきみがこころ そのつめたさに涙あたへむ
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山田新一以外の誰かには、キラキラした眼差しで活きいきとしたバラのそよぎのような表情やしぐさを見せるのに、彼の前にきたとたん能面のように表情がなくなり、彼がいくら芸術を熱く語っても「あっそ」と気のない返事しかせず、冷たくあしらうようなリボンの似合う不愛想な女子が、どうやらひとり彼の周囲に出現していたようだ。相手は、上野桜木町か谷中あたりの令嬢か、あるいは宮崎モデル紹介所から派遣されてきたモデルのひとりだろうか。
それから2ヶ月のブランク(リカバリー期間)をへて、どうやら山田新一は「造花」のように無表情で「つめた」い彼女をあきらめ、再び内向する歌へと回帰している。10月に開かれた第三回短歌会に出席した山田新一の1首を、「東京美術学校校友会月報」11月号より引用してみよう。
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第三回短歌会/◇いと小さく胸に巣食へる悲しみの 何時去りゆかむ時のあらなく
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……と、またしても前田夕暮のような以前の作風にひとまわりして回帰しているようだ。
さて、東京美術学校の文芸部で定期的に開かれていた、レコードコンサートについて見ていこう。まずは、レコードコンサートの様子を、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」6月号より見てみよう。同年5月29日に開かれたレコードコンサートは、文芸部の第2回総会に付随した催しだったようだが、当日は文芸部以外の学生たちが会場へ数多く参集していた。


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五月二十九日文芸部総会開会に先立つて、午後零時半より第一講義室で本部主催のレコードコンサートを開催しました。何分(なにぶん)新着荷の珍らしいレード(ママ:レコード)の上に斯界の権威である各種音楽家の吹込になるレコードの事とて、会場に入れきない(ママ:入りきれない)程集まられた皆さんからは一つ一つ終るごとに、非常な喝采を得まして、一同大満足でありました。そして予定の時間より早く終つた為めに、皆さんから盛んに追加の声がかゝり、希望に依つて数種を追加した事も、此の日の盛会を語る立証かと思ひます。(中略) コンサート終了後直(ただち)に美術学校倶楽部階上に於て文芸部第二回総会を開きました。(カッコ内引用者註)
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このとき、流されていたレコードとは誰の演奏だったのだろうか。大正前期から中期にかけて、日本にSPレコードが入ってきていた音楽家には、ウクライナ出身の世界的なヴァイオリニストのM.エルマンがいただろう。ヴァイオリンではY.ハイフェッツと覇を競うような位置にいた音楽家で、その甘美な演奏は日本で圧倒的な人気を博していた。東京美術学校でレコードコンサートが開かれた翌年、1921年(大正10)にエルマンは来日している。
また、リトアニア出身のY.ハイフェッツ。エルマンに比べると地味な演奏だが、確実な技術に裏打ちされた演奏は「ヴァイオリンの王」とか「20世紀最大のヴァイオリニスト」と称された。ハイフェッツのクールな演奏が、当時の日本人には完璧と聴こえながらも冷たく感じたものか、エルマンの人気には及ばなかったようだ。ハイフェッツは、1923年(大正12)に来日している。
そして、レコードのベストセラーだったもうひとりのヴァイオリニストに、オーストリア出身のF.クライスラーがいる。クライスラーは作曲家でもあり、日本では作品とともに有名だった。大正時代が舞台の映画などのBGMに、ヴァイオリンソナタやコンチェルトがよく流れるが、クライスラーの曲であることが多い。クライスラーも1923年(大正12)に来日している。
ピアニストでは、ポーランド出身のA.ルービンシュタインが、日本でもっとも多くのレコード売り上げを記録していただろう。1919年(大正8)の若いときから、しばしば日本を訪れて各地で演奏会を開いており、1935年(昭和10)には新交響楽団との共演も実現している。戦前戦後を通じて、日本でのルービンシュタインの人気は圧倒的だった。古くからの日本におけるショパン人気は、彼によって育まれたといっても決して大げさではない。戦後もその人気は衰えず、1966年(昭和41)6月にザ・ビートルズが来日して日本武道館で演奏した1週間後、ルービンシュタインが来日して武道館コンサートが開かれたが、まったくビートルズに劣らないほどの大人気だった。母親のレコード棚には、W.ギーゼキングとともにルービンシュタインの作品が並んでいたし、しかも彼はわたしの学生時代まで現役で、新譜・旧譜がリリースされると聴いていた。
また、レコードで人気だった歌手にイタリア出身のA.クルチがいる。彼女はもはや伝説的なソプラノで、当時はもっとも偉大な歌手といわれていた。彼女と人気を二分していたのが、明治末に来日したロシア出身のM.ミハイロワ(ソプラノ)で、日本でのレコードの売り上げ枚数ではクルチを凌駕していたのではないだろうか。そのほか、明治末から大正前期にかけ、さまざまな音楽家が日本を訪れており、蓄音器の普及ともあいまってSPレコードのリリースも急増していた時期だった。
五月二十九日文芸部総会開会に先立つて、午後零時半より第一講義室で本部主催のレコードコンサートを開催しました。何分(なにぶん)新着荷の珍らしいレード(ママ:レコード)の上に斯界の権威である各種音楽家の吹込になるレコードの事とて、会場に入れきない(ママ:入りきれない)程集まられた皆さんからは一つ一つ終るごとに、非常な喝采を得まして、一同大満足でありました。そして予定の時間より早く終つた為めに、皆さんから盛んに追加の声がかゝり、希望に依つて数種を追加した事も、此の日の盛会を語る立証かと思ひます。(中略) コンサート終了後直(ただち)に美術学校倶楽部階上に於て文芸部第二回総会を開きました。(カッコ内引用者註)
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このとき、流されていたレコードとは誰の演奏だったのだろうか。大正前期から中期にかけて、日本にSPレコードが入ってきていた音楽家には、ウクライナ出身の世界的なヴァイオリニストのM.エルマンがいただろう。ヴァイオリンではY.ハイフェッツと覇を競うような位置にいた音楽家で、その甘美な演奏は日本で圧倒的な人気を博していた。東京美術学校でレコードコンサートが開かれた翌年、1921年(大正10)にエルマンは来日している。
また、リトアニア出身のY.ハイフェッツ。エルマンに比べると地味な演奏だが、確実な技術に裏打ちされた演奏は「ヴァイオリンの王」とか「20世紀最大のヴァイオリニスト」と称された。ハイフェッツのクールな演奏が、当時の日本人には完璧と聴こえながらも冷たく感じたものか、エルマンの人気には及ばなかったようだ。ハイフェッツは、1923年(大正12)に来日している。
そして、レコードのベストセラーだったもうひとりのヴァイオリニストに、オーストリア出身のF.クライスラーがいる。クライスラーは作曲家でもあり、日本では作品とともに有名だった。大正時代が舞台の映画などのBGMに、ヴァイオリンソナタやコンチェルトがよく流れるが、クライスラーの曲であることが多い。クライスラーも1923年(大正12)に来日している。
ピアニストでは、ポーランド出身のA.ルービンシュタインが、日本でもっとも多くのレコード売り上げを記録していただろう。1919年(大正8)の若いときから、しばしば日本を訪れて各地で演奏会を開いており、1935年(昭和10)には新交響楽団との共演も実現している。戦前戦後を通じて、日本でのルービンシュタインの人気は圧倒的だった。古くからの日本におけるショパン人気は、彼によって育まれたといっても決して大げさではない。戦後もその人気は衰えず、1966年(昭和41)6月にザ・ビートルズが来日して日本武道館で演奏した1週間後、ルービンシュタインが来日して武道館コンサートが開かれたが、まったくビートルズに劣らないほどの大人気だった。母親のレコード棚には、W.ギーゼキングとともにルービンシュタインの作品が並んでいたし、しかも彼はわたしの学生時代まで現役で、新譜・旧譜がリリースされると聴いていた。
また、レコードで人気だった歌手にイタリア出身のA.クルチがいる。彼女はもはや伝説的なソプラノで、当時はもっとも偉大な歌手といわれていた。彼女と人気を二分していたのが、明治末に来日したロシア出身のM.ミハイロワ(ソプラノ)で、日本でのレコードの売り上げ枚数ではクルチを凌駕していたのではないだろうか。そのほか、明治末から大正前期にかけ、さまざまな音楽家が日本を訪れており、蓄音器の普及ともあいまってSPレコードのリリースも急増していた時期だった。



では、大正前期に普及していた蓄音器には、どのような機種があったのだろうか。蓄音器というと、大きなラッパ(アサガオ)状のスピーカーがついた形状を想像しがちだが、大正期には昭和期のレコード再生機に近いかたち、すなわち戦後の「コンパクトレコードプレーヤー」あるいは「ステレオ」の原型のようなボックス型製品も発売されていた。もちろん、ラッパのついたニッポノホンの製品も人気だったが、すでに時代遅れのデザインになっていただろう。また、ビクターなどの高価な海外製品よりも、モモタロー蓄音器やユニック、ホノラ、グランドニッポノラなど、大正時代は技術が海外製品になんとか追いついた、国産の蓄音器が普及した時期でもある。
東京美術学校で導入していた蓄音器が、どのメーカーのものだったかは不明だが、音が一方向へ極端に偏ってしまうラッパ型の蓄音器ではなく、ステレオサウンド式にいえば音の定位や指向性があまり気にならない、音が前へ前へと拡散する最新式の蓄音器ではなかったろうか。だからこそ、大勢の学生たちが集まっても、鑑賞に耐えうる音を響かせることができたのではないか。蓄音器部(のちレコード部)の創設について、再び「東京美術学校校友会月報」6月号より引用してみよう。
▼
森田(亀之助)、田辺(孝次)先生始め二十数名の会員出席、音楽部からは松田、松本両君出席の上、本部と音楽部との関係に就て協議し、同本部に蓄音器部を新設して新に、/足立、筒井両君を委員に撰定しました。会費を新らためて(ママ:改めて)/一学期 一円五十銭にして、/それを学期始めに会計の御世話に依つて授業料、校友会費と一緒に取り立てゝもらふ事にしました。(中略) 全くこの一日はレコードに人気が集中したと言つてもいゝでせう。それがあらぬが(ママ)来月第二回のレコードコンサート開催の議がもちあがつて、直に可決しました。(カッコ内引用者註)
▲
ここで気づくのは、校友会費やサークルの活動費まで授業料と同様に、学校当局の会計部門がまとめて徴収している点だ。校友会やサークル活動への参加は個人の自由だし勝手なので、校友会やサークル活動ごとの徴収・会計とする戦後の運営常識からすると、かなりの違和感をおぼえる。しかも、活動費が1円50銭/学期とは、現在の貨幣価値に換算すれば5,000円×3学期=年間15,000円前後となり、おカネに余裕のある学生でなければサークル活動には参加できなかったろう。
東京美術学校で導入していた蓄音器が、どのメーカーのものだったかは不明だが、音が一方向へ極端に偏ってしまうラッパ型の蓄音器ではなく、ステレオサウンド式にいえば音の定位や指向性があまり気にならない、音が前へ前へと拡散する最新式の蓄音器ではなかったろうか。だからこそ、大勢の学生たちが集まっても、鑑賞に耐えうる音を響かせることができたのではないか。蓄音器部(のちレコード部)の創設について、再び「東京美術学校校友会月報」6月号より引用してみよう。
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森田(亀之助)、田辺(孝次)先生始め二十数名の会員出席、音楽部からは松田、松本両君出席の上、本部と音楽部との関係に就て協議し、同本部に蓄音器部を新設して新に、/足立、筒井両君を委員に撰定しました。会費を新らためて(ママ:改めて)/一学期 一円五十銭にして、/それを学期始めに会計の御世話に依つて授業料、校友会費と一緒に取り立てゝもらふ事にしました。(中略) 全くこの一日はレコードに人気が集中したと言つてもいゝでせう。それがあらぬが(ママ)来月第二回のレコードコンサート開催の議がもちあがつて、直に可決しました。(カッコ内引用者註)
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ここで気づくのは、校友会費やサークルの活動費まで授業料と同様に、学校当局の会計部門がまとめて徴収している点だ。校友会やサークル活動への参加は個人の自由だし勝手なので、校友会やサークル活動ごとの徴収・会計とする戦後の運営常識からすると、かなりの違和感をおぼえる。しかも、活動費が1円50銭/学期とは、現在の貨幣価値に換算すれば5,000円×3学期=年間15,000円前後となり、おカネに余裕のある学生でなければサークル活動には参加できなかったろう。



東京美術学校のサークル活動は増えつづけ、1933年(昭和8)の時点では28部を数えるまでになっていた。ただし、野球部や相撲部、蹴球(サッカー)部、バスケットボール部、バレーボール部などかなり激しいスポーツの倶楽部も設置されていた。これは音楽学校でもまったく同様だと思うが、微妙な指先の作業・動作が必要な芸術分野では、手や指を痛めるようなスポーツは厳禁のはずだが、当時は規制が緩かったものだろうか。先年、知人の娘が喫茶店でバイトをしていて、手の指に調理で火傷をしたのだが、高名な音楽学校に通う器楽奏者としては、そもそも学生失格だろう。
◆写真上:ネコのいる家の蓄音器で、もう相性が最悪の組み合わせだったろう。
◆写真中上:上は、大正前期には日本ですでに有名だったヴァイオリニストのエルマン(左)とハイフェッツ(右)。中は、同様にヴァイオリニストのクライスラー(左)とピアニストのルービンシュタイン(右)。下は、時代を代表する歌姫でソプラノのクルチ(左)とミハイロワ(右)。
◆写真中下:上は、1915年(大正4)に撮影された東京美術学校。中は、1922年(大正11)の職員録にみる森田亀之助と田辺孝次。ふたりとも助教授で文芸部の顧問をつとめ、森田は西洋絵画史と英語を、田辺は美術史を教えていた。下は、1933年(昭和8)の時点における東京美術学校のサークル活動。「蓄音器部」は時代おくれと感じたのか、「レコード部」に改称されている。
◆写真下:上は、明治期から大正期にかけて普及したニッポノホンの35号後期モデル。中は、ラッパ(アサガオ)が取れたモモタロー蓄音器。下は、戦後のステレオを思わせるグランドニッポノラ。
◆写真中上:上は、大正前期には日本ですでに有名だったヴァイオリニストのエルマン(左)とハイフェッツ(右)。中は、同様にヴァイオリニストのクライスラー(左)とピアニストのルービンシュタイン(右)。下は、時代を代表する歌姫でソプラノのクルチ(左)とミハイロワ(右)。
◆写真中下:上は、1915年(大正4)に撮影された東京美術学校。中は、1922年(大正11)の職員録にみる森田亀之助と田辺孝次。ふたりとも助教授で文芸部の顧問をつとめ、森田は西洋絵画史と英語を、田辺は美術史を教えていた。下は、1933年(昭和8)の時点における東京美術学校のサークル活動。「蓄音器部」は時代おくれと感じたのか、「レコード部」に改称されている。
◆写真下:上は、明治期から大正期にかけて普及したニッポノホンの35号後期モデル。中は、ラッパ(アサガオ)が取れたモモタロー蓄音器。下は、戦後のステレオを思わせるグランドニッポノラ。
★おまけ
蓄音器つながりの余談で、若いころに欲しかったマッキントッシュのアンプ群。特にパワーアンプのMcIntosh 275は垂涎のマトだったが、高価で手に入らなかった。同パワーアンプと同社製か、上杉研究所のプリアンプをつないで、クラシックでもJAZZでも聴くのが夢だった時代がある。




























































































