どこか地勢がよく似た西の「落合村」散策。

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 旧・落合村には、他の河川と合流する落合川が流れ、旧石器時代から現代までつづく人が住みつづけた複合遺跡が発見され、将軍の鷹狩りには欠かせない鷹匠頭の小野家屋敷跡が残っている。また、落合村の周囲には出雲神の氷川明神が3社配置され、西側には稲荷山に稲荷塚(と稲荷祠)が、北側の金山には金山社や、湧水源には弁天社が建立されている。
 上記の地勢は、新宿区の落合地域のことではない。現在は東久留米市(旧・久留米町)に含まれ、同町の南東端に位置していた落合村のことだ。あまりに地勢や史蹟、風情までが近似しているので、さっそく現地を散策しにでかけてみた。そういえば、ずいぶん以前に落合地域と地名や風情が相似した、下沼袋村から江古田村界隈を散策したことがあった。けれども、東久留米の落合村とその周辺は、それ以上に親近感をおぼえるほどよく似ている。
 まず、東久留米の落合村の概略を、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から、さっそく引用してみよう。
  
 この地(落合村)は中世以降、徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の領地でした。/落合村の地形的な特徴は、(東久留米)市内を流れる主要な黒目川、落合川、立野川の三つの河川が村の東端で合流してひとつの河川(黒目川=久留米川)になることです。村の名前も、川が落ち合うという意味をこめて、落合村になったと考えられます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にも「西の方前沢村より湧出る流二条あり、村内にて久留目川と合し一条となり、此三流落合を以てかく名付と云り」とあります。村落も合流地点に多くの家々が集まっています。黒目川は久留目川、久留米川、来目川などとも表記されています。(カッコ内引用者註)
  
 今日では黒目川と呼ばれ、埼玉県を経由して最終的には荒川へと注ぐ河川のことを、昔は流れる地域名と同様に久留米川(久留目川)などと呼ばれていたのがわかる。
 また、落合村を流れて黒目川と合流する落合川だが、こちらの落合地域を流れる神田上水につき地元では「落合川」と呼ばれていたことが、江戸期の享保年間に書かれた幕府記録から、昭和初期に書かれた地元の随筆にいたるまで確認することができる。ただし、妙正寺川のことを「落合川」と呼んだのは、林芙美子の随筆とそれを引用したもの以外は知らない。
 東久留米の落合村には、幕府鷹匠頭の小野家の屋敷跡があったそうだが、下落合の神田上水沿いにはその将軍が鷹狩りをする御留山や、狩り場筋が中野筋と戸田筋で筋ちがいになるものの同様に御留場だった鼠山が、目白通りをはさんだ北側の長崎村と池袋村に接していた。また、神田上水と合流する妙正寺川(北川・井草流)北側の丘上から斜面にかけては、旧石器時代から現代まで人が住みつづけた落合遺跡が発掘されているが、東久留米の落合村でも小野家屋敷跡からまったく同様に、旧石器時代から現代までつづく複合遺跡が2019年(平成31)に発掘されている。引きつづき、『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』の、本文より引用してみよう。
  
 落合川が北東部で屈曲する近辺は「小野殿淵」と呼ばれ、右岸の高台には徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の屋敷跡があったと伝えられている。同所は旧石器時代から縄文時代、中世、近世の川岸遺跡である。/字名は落合川や立野川の側であることから川岸と呼ばれたと思われる。合流部付近に集落が作られ、僅かの水田の他は多くが畑と雑木林である。(中略) 立野川の南は黒目川水系の南側段丘の崖が川に沿って続き、急斜面と高台になっている。
  
 新宿区の落合地域とその近辺にも、神田上水沿いにある主柱がクシナダヒメで落合村総鎮守だった下落合氷川明神社(女体宮)をはじめ、同じく北側の長崎村は谷端川の段丘上にあるクシナダヒメが主柱の長崎氷川明神社(現・長崎神社)、主柱がスサノオで神田上水沿いの東側下流にある高田村の高田氷川明神社の3社が鎮座している。東久留米の落合村にも、近接して西には落合川沿いの南沢氷川明神社、北には黒目川の南斜面に門前氷川明神社、そして北東には同じく黒目川沿いに神山(こうやま)氷川明神社が建立されているが、いずれも主柱はスサノオの男神ばかりで、ペアとなるクシナダヒメの姿が希薄なのが、女神が主柱となっている落合地域とは異なる点だろうか。
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 新宿区落合地域の北東にあたる、雑司ヶ谷村には金山金山稲荷社(現在は遷座先が不明)があるが、東久留米にあった落合村の北側に接する神山村には、金山と金山社(現在は門前氷川社境内に合祀)が存在している。金山の一帯は急斜面、あるいは崖地が多く見られ、古くはタタラ集団(大鍛冶)が通過した痕跡が、製鉄の神である金山社として残されていたと想定できる。目白崖線沿いと同様に、どこかでスラグ(鐵液・金糞)や目白(鋼)が出土しているのではないか。
 また、東久留米の金山には南山麓にかなり立派なかまえの神山(こうやま)弁天社があり、豊富な湧水が見られたということなので、地下水の圧力で噴出した金久保谷(鍛冶谷)のような、古代から砂鉄の堆積場だった可能性が高い。それは、こちらの地勢に置き換えれば江戸期には下落合村と高田村の入会地だった、金久保沢(金和久沢)の弁天社(祠)と相通じるものがありそうだ。双方の落合地域とその周辺には、いずれも大鍛冶の事蹟が色濃く展開している。
 もうひとつ、東久留米の落合村には、西に接した南沢村に稲荷山が、北側に接した門前村には稲荷塚(と稲荷祠)が記録されているが、こちらの落合地域にも北東側の雑司ヶ谷村には稲荷山(威光稲荷社)と、同じく雑司ヶ谷の崖地には武芳稲荷大明神など複数の稲荷社が、現在は暗渠化されてしまった弦巻川(金川)沿いの崖線沿いに点在している。これらの稲荷は、中世以降に農業神「稲荷」へ転化したのかもしれず、本来は大鍛冶の鋳成神だった可能性がある。
 さて、実際に現地を歩いてみると、現代住宅の意匠などを気にしなければ、まるで大正末か昭和初期あたりの豊多摩郡落合町を歩いているような風情なのに気づく。かつての神田上水のような風情が、落合川や黒目川の流域にはあちこちに見られ、落合川の湧水源域のひとつである落合村西側の南沢周辺には、昔日には小川だった妙正寺川のような細い流れが残っている。雑木林の樹々を揺らす風の音とともに、その流れをボーッと眺めていると、なにやら大正末の下落合へタイムスリップしたような錯覚をおぼえる。先述した下沼袋村や江古田村の地勢以上に、東久留米の旧・落合村界隈はこちらの落合地域との相似を強く感じさせる。
 落合川にしろ黒目川にしろ、川岸には段丘すなわち大小の崖線や斜面が形成されており、東久留米市内の随所に緑地保全地域や緑地公園が設置されているのも、昔からの風情が失われない大きな特徴だろう。先述した南沢氷川社と周辺の湧水源や金山のほぼ全域、あるいは旧石器時代からの遺跡である小山台遺跡周辺なども緑地保全地域や緑地公園であり、武蔵野原生林がそのまま保全されている。晩秋から冬に歩けば、これら地域の足もとはドングリだらけなのも、こちらの落合地域に似ている。また、北風を避けて崖線の南斜面を背負った農家が、現在もそのまま存続しているので、よけいに昔日の下落合村(字)本村あたりの風景を想起させるのだろう。
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 都心に近い市街地になると、道祖神や庚申塚第六天(大六天)、また道端の地蔵や各種観音などの石仏は、宅地化や道路の拡幅にともない近辺の社や寺院、墓地などに集められてしまうのが常だが、東久留米では本来の街道筋にそのままのかたちで奉られているケースが多いのも、同地を散策していて楽しいポイントだろう。新宿の落合地域は、都心にしてはまだマシなほうで、庚申塚や地蔵などの石仏はいまでも本来の位置に奉られてはいるが、最近は周囲に大きなマンションが建ったりすると、風情が大きく損なわれることが多い。
 落合川や黒目川は、神田川や妙正寺川とは異なりコンクリートで川全体を覆う工事がなされておらず、草木に覆われた河川敷が残されている。アユやオイカワ、コイなどの川魚はもちろん、荒川からサケも遡上してくるのではないだろうか。まるで、写真でしか見たことのない昔日の旧・神田上水や妙正寺川を眺めているようで楽しい。水がきれいになった神田川にはアユやオイカワ、マハゼ、タモロコ、モツゴなどが生息しているけれど、さすがにサケの遡上は大川(隅田川)日本橋川止まりで、神田川を遡上するとすれば河口域か千代田城外濠までではないか。
 特によかったのは、南沢氷川社とその周辺で、湧水源が集中しているのと緑地保全地域に指定されているせいか、武蔵野の面影をたっぷり味わうことができた。同社も崖上に建立されているが、境内にはいくつかの稲荷が奉られている。これらも、農業神に転化する以前は鋳成神の祠であった可能性がある。また、湧水源が近い小流れも澄んでいて美しいが、広い緑地保存地域の端には、東京都水道局の大きな防災水道タンクが設置されているのも面白い。まさかのときには、湧水を活用した給水を考えているのだろうか。湧水地帯らしく周辺の公園には池があるが、農業が主体だった時代には数多くの溜池が造られていたのだろう。
 もうひとつ印象的だったのは、金山の広大な森林だ。門前氷川明神社から庚申塔のある三叉路(古道)を右折すると、ほどなく金山の山頂だ。金山は、現在では「金山森の広場」と名づけられているが、全体が濃い森林地帯で「広場」は存在しない。いきなり山の中へ入ったような風情で、黒目川が流れる南斜面へ急激に落ちこむ地形だ。その南斜面の下には、いまでも畑地を耕す古くからの大農家が東西に軒を連ねている。弦巻川(金川)に向け、南へ急激に落ちこむ雑司ヶ谷の金山の地形にそっくりだが、山域も雑司ヶ谷の日本女子大寮と周辺の住宅地をひとまわり合わせたぐらいで、東久留米の金山のほうがややサイズが大きめだ。金山を中心に、黒目川の北岸につづく崖線沿いのどこかに、おそらく規模の大きなタタラ製鉄の遺跡が眠っているのではないだろうか。
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 落合地域から遠く離れた東久留米へ出かけたのは、地名や史蹟が相似している課題が前提としてあったわけだが、もうひとつ現地へいってみたくなる別の理由があった。落合村の北側に隣接した、門前村内にあたる黒目川に沿った段丘上に、大きな幾何学的なかたちを空中写真で見つけていたからだ。その古墳と見られる全長200mほどの稲荷塚だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:シラサギをよく見かけたので、魚の棲息も多いとみられる落合川の淵のひとつ。
◆写真中上は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる落合村とその周辺域。中上中中は、昔日の神田上水を想起させる落合川の流域。中下は、落合川の沿岸に設置された庚申塔。大鍛冶の痕跡が多い地域だと、荒神との関連を疑ってしまう。は、南沢の湧水源を流れ落合川に合流する小流れで、こちらは大正時代の妙正寺川を連想させる。
◆写真中下中上は、落合川沿いの小崖の上に建立されている南沢氷川明神社の鳥居と拝殿。中中は、南沢氷川社の本殿裏にひっそりと奉られた稲荷祠で、こちらも鋳成神との関連を疑ってしまう。中下は、落合川よりも流域面積が広い黒目川の風景。
◆写真下は、黒目川の段丘中腹にある門前氷川明神社。中上は、濃い雑木林が繁る金山の山中。中下は、金山の南山麓にある大農家。は、同じく金山の南にある神山(こうやま)弁天社。
おまけ
 黒目川の源流域といわれる、小平霊園の北側に隣接した皀莢(さいかち)窪の森。深い谷間には、大雨が降ると出現する湧水池があり、そこからの流れが黒目川に注ぐと伝承されている。下の2葉は、大正末ごろに守谷源次郎が撮影した妙正寺川の“どんね渕”(上)と、手前を流れる旧・神田上水へ注ぐ奥の妙正寺川で、地名「落合」の由来となった合流ポイント(下)。2葉ともAI着色化。
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金山稲荷(鐵液稲荷)と刀工・孫左衛門のゆくえ。

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 以前、日本女子大学の寮内敷地にあった金山稲荷社(別名:鐵液稲荷社)の遷座先ではないかとご紹介した、バッケ(崖地)の斜面に建つ稲荷社だが、その拝殿・本殿の形状がまったく異なっているのが判明した。1980年代末に撮られた、遷座前の金山稲荷社をとらえた写真が見つかったためで、おそらく雑司ヶ谷に住む宇佐美俊弘という方が撮影したものだ。雑司ヶ谷1丁目34番地にある稲荷社(こちらもバッケの地形がらみて鋳成社?)は、金山稲荷の遷座先ではない。
 写真が掲載されていたのは、1988年(昭和63)に雑司ヶ谷の地元町会である「雑司が谷二丁目町会」の役員をしていた、宇佐美俊弘が自費で出版したとみられる『ふるさと雑二町会』(非売品)という本だ。そこには、遷座前に撮影された写真とともに、金山稲荷社に関する住民の思い出が寄せられている。同書収録の橋本儀重(1901年生まれ)の『私と川』から、その一部を引用してみよう。
  
 柳下の友ちゃんが「遊びにこいやー」、「いくよー」と言って竹の垣根を越すつもりでいたんだが、つるっと足が滑ってお尻に竹の切株を刺してしまいました。そしたら柳下のおやじさんがお経を唱えながら、御符の灰みたいな粉をくっつけて拝んで治してしまった。医者にもかからず、よく治ったものです。/金山稲荷の下はみんな栗の木山で、あの栗の木は俺のだ、あの栗の木は僕のだ、と持ち分にしていました。川の方は篠竹の原っぱでした。
  
 「川」と書かれているのは日本女子大寮の南側、金山稲荷の下を流れていた弦巻川(別名:金川)のことだ。旧・神田上水(1966年より神田川)の南側からは、大久保に湧水源があった金川(近世の別名:カニ川)が流れ、北側からも金川(弦巻川)が注いでいた経緯を考えれば、あちこちにスラグ(金糞・鐵液:かなくそ)が出土する、タタラ製鉄遺跡が点在するのもなんら不思議ではない。また、金山稲荷自体も江戸期の記録から鐵液稲荷社と呼ばれていた。
 以前から、これほど探しても見つからないところをみると、金山稲荷はどこかへ合祀されてしまったものだろうか。金山稲荷社が建立されていた旧跡の近辺には、白鳥稲荷大明神や武芳稲荷大明神腰掛稲荷社、弦巻稲荷社などが展開しているが、それぞれ由緒や歴史のある稲荷社なので、別の社(やしろ)へ安易に合祀されたとは考えにくい。
 つづけて、『ふるさと雑二町会』掲載の写真に貼付された、キャプションから引用してみよう。
  
 日本女子大学寮東側沿いの坂道を下る途中、右手の参道を入ると鳥居が見えてくる。民家がそばまで迫っているにもかかわらず、境内は静寂が支配する別世界。
  
 金山稲荷社がどこかへ遷座してから、この参道は縞模様の工事用バリケードによる立入禁止で塞がれており、現在は金山稲荷の跡地へ入ることができない。ちょうど、大学寮の大谷石が途切れる東側の坂の途中で、西側の斜面へと入る細い参道は草に覆われている。
 空中写真で現状を確認すると、コンクリート塀に沿って新たに建てられたとみられる温室や、青いビニールシートで覆われたところが、金山稲荷社の拝殿・本殿があった境内なのだろう。そのビニールシートが強風で飛ばされないよう、シートの四隅や上部に石材あるいはコンクリートブロックが載せられているが、ひょっとすると遷座で不要になった金山稲荷の廃材なのかもしれない。
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 つづけて、金山稲荷(鐵液稲荷)社の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 橋本さんの子供の頃の遊び場、金山稲荷。元亀年間(1570~73)、この地に住む刀鍛冶・石堂孫左衛門が刀剣製作の妙を祈願して祀ったのが始まり。質素な本殿に比べて、鳥居は石造りの堂々たるものだ。
  
 ここで留意しなければならないのは、備前伝の刀鍛冶・石堂派が近江の故地(石堂)を離れ、江戸へとやってきて江戸石堂を形成したのは徳川幕府が開かれてからであり、室町末期の元亀年間ではない点だ。また、金山稲荷(鐵液稲荷)は室町末期の建立ではなく、神奈(鉄穴)流しに適する丘の急斜面にあることから、さらに古い時代の鋳成社の可能性が高い。なぜなら、地面から大量にスラグ(鐵液・金糞)が出土するのは、刀鍛冶の仕事ではなく鉧(けら)を製錬したあとに出る鉄滓(てっさい)、すなわちタタラ集団による溶炉跡=製鉄遺跡の可能性が高いからだ。目白崖線沿いには、いくつかのタタラ遺跡があることからもそれはうかがえる。鋳成神が、農業神である稲荷神へと習合し、改めて建立されたのが室町末期の元亀年間ではなかったか。いくつかの故事がまじりあい、雑司ヶ谷の地元で伝承されてきたように思われるのだ。
 そして、ここでも「石堂孫左衛門」が登場してくる。この石堂孫左衛門については、これまで何度も記事を書きつづけてきており、その系統は江戸石堂派の本拠地である赤坂を離れた、3代目以降が確認できない(作品が見つからない)、石堂守久(秦東連/東蓮)の流れではないかと想定していた。江戸石堂からの分派の系統は、かなり工房の所在が判明しているが、石堂守久一派の所在が曖昧でハッキリしない。したがって消去法から、分派の初代・守久(八左衛門)が寛文年間に雑司ヶ谷に工房をかまえ、元禄年間に2代目・守久が跡を継ぎ、その後、3代目の守久になるはずだった“孫左衛門”の時代に、刀剣の販路がふるわず赤坂の江戸石堂に吸収されたか、野鍛冶(農工の道具鍛冶)へ転向しているのではないかと想像していた。
 ところが、ここにもうひとり、孫左衛門を名のる刀工の存在が判明した。時代はかなり下って、江戸後期の文化・文政年間に登場し、そのまま「孫左衛門」と刀の茎(なかご)に銘を切る刀鍛冶だ。孫左衛門は刀工銘ではなく本名であり、姓は渡邊と名のっている。渡邊孫左衛門は、備前岡山藩の藩士であり、江戸へ出府して勤務するが、館林秋元藩の日本橋浜町の中屋敷に工房をかまえていた新々刀の刀匠・水心子正秀へ弟子入りしている。
 おそらく、国許の伝統的な鍛刀技術である備前伝の鍛錬法を習いに通ったのだろうが、備前伝の腕前は同じ水心子正秀の弟子だった大慶直胤(荘司箕兵衛)や、その娘婿の荘司次郎太郎直勝のほうが、師よりも断然うまかっただろう。特に大慶直胤と次郎太郎直勝は、相州伝や山城伝など日本各地の伝法に通じており、師の水心子正秀を凌駕する腕前だった。
 ここでちょっと余談だけれど、江戸で渡邊孫左衛門といえば駿河台に屋敷をかまえていた、若年寄支配の泣く子も黙る加役=火盗(火付盗賊改方)の役人が有名だが、まったく同姓同名の別人だ。
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 備前の渡邊孫左衛門は、岡山藩の資料にも記録されており8俵2人扶持、すなわち薄給取りでかなり身分の低い下級武士だったことがわかる。岡山藩の記録によれば、鉄砲隊の隊員(足軽)だったらしい。それが何を思ったのか、江戸へ出府した際に刀鍛冶になろうと決心したらしい。水心子正秀の資料では、孫左衛門=「備前藩士/渡邊孫左衛門/文化の頃」と書かれているのみで、修業を終えたあとに孫左衛門がどうしたかまでは書かれていない。もっとも、水心子正秀の弟子は全国でゆうに100人を超えていたので、いちいち詳細を記録できなかったのだろう。
 だが、水心子正秀の口述を筆記した著作『刀剣実用論』には、たった1ヶ所だが渡邊孫左衛門の名前が登場している。1811年(文化8)に出版された、『刀剣実用論』より引用してみよう。
  
 一、ためしにて折れ候事も度々有之事にて先頃備州候の御家士渡邊孫左衛門と申人の咄に、関打と見え候刀にて腰車を切候処 一体刀には疵も無之候ひしが鎺元より折れ候由
  
 この一文は、渡邊孫左衛門が弟子入りする前、水心子正秀が彼の話を聞いて周囲に語ったエピソードなのだろう。「ためし」とは、小塚原(こづかっぱら)で罪人を処刑したあと、その身体を使って試し斬りをすることで、死体の腰車(腰骨の位置)を斬ったところ、鎺(はばき)元すなわち鍔(つば)のすぐ上あたりから刀がポッキリ折れてしまったという逸話だ。試し斬りに使われたのは「関打(せきうち)」つまり美濃伝で、刀剣を鍛造したのは関鍛冶(岐阜)の仕事だった。
 このあと、渡邊孫左衛門は水心子門に弟子入りし、備前伝をマスターしたのだろうが、その後、薄給の備前藩士を辞めて江戸に居住しなかっただろうか。当時、武家は家督を兄弟や親戚の誰か(男子)に譲れば、すぐにも隠居あるいは武家以外の身分になることができた。そういえば、江戸後期の絵師や物書き、俳諧・狂歌師たちは、その多くが武家の出自だったことに気づく。武士を辞めて町人になることで、自分の好きな職業を選ぶことができた。こちらでも、由緒ある旗本の家督を弟にゆずって、花柳界で幇間になった松廼家露八の生涯をご紹介していた。
 徳川幕府は、基本的に触書政治であり凶悪な犯罪はともかく、軽犯罪や細かな生活風俗まで取り締まる今日の警察のような大規模な組織をもたなかったため、町役や村役を中心とする街ごとの自治に一任していた。したがって、武家を辞めて町人になっても、髷もそのまま苗字を名のり、2尺(幕府の規定で、町人は刃長2尺未満の刀剣しか指して出歩けない建前だった)を超える大刀を指す町人さえめずらしくなかった。渡辺孫左衛門もまた、貧乏な武家に嫌気がさし、全国に名の通った憧れの水心子正秀の門人にもなれて、雑司ヶ谷に住み備前伝の刀鍛冶になりはしなかったろうか。
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 江戸石堂は江戸後期に入ると、関東ではあまり人気のない匂(にお)い本位に、華々しい派手な丁子刃(ちょうじば)の刃文を焼く、ちょっと公家趣味的な備前伝をやめ、鎌倉鍛冶の五郎入道正宗を頂点とする錵(にえ)本位の豪壮な相州伝を改めて修得しなおしている。そして、「相伝備前」という新技法を編みだし、7代目・石堂運寿是一は徳川家の御用鍛冶にまでなった。孫左衛門は、江戸や関東のマーケットニーズがよく見えず、そのまま備前伝を焼きつづけて工房を維持できずに廃業したのではないだろうか。彼が雑司ヶ谷にいたとすれば、自身の技術である備前伝にちなみ、また師の水心子正秀が5代目・石堂是一から備前伝を修得した関係から、自身は“孫弟子”にあたる師弟筋となるので、あえて「石堂」孫左衛門と周囲へ名のっていた……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1980年代末ごろに撮影された、雑司ヶ谷の金山稲荷(鐵液稲荷)社。
◆写真中上は、金山稲荷の遷座先かもしれないと訪れた雑司ヶ谷1丁目34番地の稲荷社だが、拝殿本殿の形状がまったく異なるのが分かる。は、1980年代末ごろに撮影された金山稲荷社と参道。は、同社の参道があったとみられる跡の現状。
◆写真中下は、Googleマップ3Dによる金山稲荷跡の現状で、社の跡にはビニールシートが敷かれているようだ。は、水心子正秀資料にみる刀銘「孫左衛門」。は、1811年(文化8)出版の水心子正秀『刀剣実用論』()と、同書に登場する渡邊孫左衛門の記述()。
◆写真下は、水心子正秀が鍛えた備前伝による互(ぐ)の目丁子の刃文。は、茎(なかご)に切られた「水心子白熊入道正秀」銘。は、江戸石堂派が焼いた匂い出来の派手な丁子刃の典型例。

下落合の家が焼け転々とする女性新聞記者。

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 戦時中、下落合に住んでいた女性の新聞記者がいた。住所は不明だが、秋田県の県立本荘高等女学校を卒業すると東京へやってきて、山根真治郎が設立し院長をつとめる日本新聞協会付属新聞学院へ入学している。同学院を卒業すると、有楽町駅前の毎日新聞社(現・ビックカメラ有楽町ビルの敷地)に就職した。名前を杉野糸子といい、結婚してからは古谷糸子の名前で評論家活動もしているので、ご存じの方も多いのではないか。
 下落合から目白駅で山手線に乗り、有楽町まで毎日出勤していたが、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で、下落合(現・中落合/中井含む)の自宅が全焼している。下落合では、アパートに住んでいたのか借家だったのか、あるいは下宿生活だったのかは不明だが、「下落合の家」と書いているので借家でのひとり住まいだったのかもしれない。また、おもに鉄道や幹線道路、河川沿いの工業地帯がねらわれた第1次山手空襲で罹災しているので、目白駅もほど近い下落合の東部に在住していたのだろう。
 4月13日夜半の空襲で罹災したあと、杉野糸子はおそらく九段近くに改めてアパートか下宿を借り直しているとみられるが、今度は1ヶ月後の5月25日夜半の第2次山手空襲で焼けだされ、ついに帰るところがなくなってしまった。彼女はそのまま、九段の焼け跡に掘られた防空壕で寝たり、本郷の東京帝大前にあった毎日新聞社寮へ布団を背負って歩いたりしている。その途中でも空襲に遭い、道端で布団をかぶってすごしたこともあったようだ。
 杉野糸子は、毎日新聞社で文化部に所属していたが、戦争の激化とともに文化部は廃止され、「特別報道部」という聞きなれないセクションに配属されている。特別報道部とは、大本営から発表される「戦果」とは別に、公表を許されない戦争の実情がレポートされた「秘密資料」を編集する部署で、社内の幹部にだけ“極秘”の印が押された文書を配布してまわっていた。杉野糸子によれば、資料には「さんざんな負けいくさの実情」が記載されており、それを編集して幹部たちに配布し、配った相手の氏名や日時を記録するのが彼女の仕事だった。
 これら「さんざんな負けいくさ」の悲惨な資料をベースに、「赫々(かくかく)たる皇軍の戦果」をひねりだし、いかに「鬼畜米英を撃滅」しつつあるかの報道をデッチあげ、ウソ八百の記事を捏造するのかが幹部たちに課せられた業務だったのだろう。なんのことはない、大本営の広報機関がもうひとつ、新聞社内にも特別報道部という名で存在していたようなものだ。杉野糸子は、それらの資料に目を通しながら、「私の憂鬱」は深まるばかりだったと書いている。
 1945年(昭和20)になると、新聞記者たちは次々と姿を消していった。徴用された者もいれば、焼けだされて故郷に疎開していった記者もいた。また、希望者は地方紙へ転勤(疎開)することもできたようだ。記者がどんどん減っていっても、半ペラ(新聞紙片面印刷)の編集にはまったく困らず、むしろ人手は余っているほどだったという。けれども、杉野糸子は東京にとどまりつづけた。当時の様子を、1973年(昭和48)に東京空襲を記録する会から出版された『東京大空襲・戦災誌』第4巻収録の、古谷糸子『有楽町駅爆撃―「ジャーナリスト」より―』から引用してみよう。
  
 私にも、もし希望があれば、統合された地方紙への出向もできるからといわれた。たくさんの先輩や後輩たちも、地方紙へ疎開していった。/しかし、私は、どんなに空襲がはげしくなってきても、東京を離れる気持はまったくなかった。東京を離れるというよりは、中央の新聞社を離れる気にはなれなかった。なんといっても、新聞社は戦争の成行きも、国内の情勢も、手に取るようにわかった。そしてそれが一番必要な時期に、新聞社を離れて、のんべんだらりと生きながらえる気もなかった。若かったせいであろう。死ぬことを心配するよりも、戦争の成行きを見きわめたいという気持のほうがつよかったのである。(中略) そんなふうで、私は仕事中に空襲警報が出て、みんなが地下の新聞紙用の置場に退避する時にも、なるべく編集局に居残った。/どうせ、爆撃を受けるものならば、一部始終の見える場所にいたいという考えからであった。
  
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 見あげた“記者魂”を備えた女性記者だが、伽藍や本尊、仏事や檀家の仏(墓)さえ守らず、コソコソと東京から故郷へ逃げ散っていった「敵前逃亡」坊主たちに、ツメの垢でも煎じて飲ませたい根性のあるプロ意識の持ち主だ。あるいは、親たちの反対を押しきって新聞記者になると宣言し東京へきていたかもしれない彼女は、故郷の秋田には帰りづらく常に「背水の陣」、または「大死一番」(仏教用語w)の覚悟で死と向きあっていたものだろうか。そんな彼女は、山手大空襲後は新聞社の医務室を寝室にしたり、焼け跡の防空壕で寝泊まりしてすごした。
 少し時間を巻きもどして、杉野糸子が住んでいた下落合の家が焼ける以前、彼女は編集局にいて銀座や京橋、有楽町界隈の爆撃を直接目撃している。この空襲は、1945年(昭和20)1月27日に東京の繁華街をねらった真っ昼間の爆撃だった。しかも、投下されたのは焼夷弾ではなく、250キロ爆弾が主体だったようだ。この空爆で、530人以上が死亡し多数の重軽傷者がでている。杉野糸子が編集室から見ていた目の前の有楽町駅では、電車に乗ろうとしていた87人の乗客が構内で即死し、爆風でちぎれた首が飛ぶような惨状だった。
 また、数寄屋橋の泰明小学校も攻撃をうけ、女性教師4名が即死している。校舎の一部が外濠へ崩落するほどの、激しい爆撃だった。その日の様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 突然、ものすごい音響とともに、編集局の電灯は消え、ガラス窓がバリバリッと音を立ててとび散った。あわてて机の下にもぐり込んだが、一瞬にして窓の外は黒煙に覆われた。/爆音の通り過ぎるのを待って、私は有楽町駅の見えるバルコニーにとんでいった。駅から銀座方面にかけて、黒い煙がほうぼうに燃え広がっていた。道路には、爆風で飛んだ腕や肉片がとび散っており、あわただしく救助班が走り回っていた。/ふだんなら、目をおおいたくなる惨状も、緊張していたせいか、それほどおそろしくも感じなかった。しかし、その晩、社会部の記者と、手分けして負傷者を各病院に見舞った時は、さすがにおそろしくおもった。
  
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 このあと、同年3月10日の東京大空襲や4月13日夜半の第1次山手大空襲から、有楽町駅前の毎日新聞社ビルは罹災をまぬがれていたが、5月25日夜半の第2次山手空襲で無数の焼夷弾攻撃をうけ、3階の編集局などを除いてビルは半焼した。だが、消火作業で水びたしとなり仕事ができないので、5階の大会議室に編集局を移設している。
 この空襲以降、彼女は帰る家がないので編集局(大会議室)に泊まりこむことが多くなったようだが、同じような境遇の記者たちも、職場で寝起きしていたらしい。夜になると、記者たちは流行の国民歌謡や軍歌を唄って気を奮い立たせようとしたが、「つけ焼刃の元気では、どうにもならない戦況の深刻さ」に、彼女を含め記者たちは暗く打ちひしがれていた。
 この5月25日夜半の空襲では、おもに焼け残った東京西部(山手線内外)の住宅地への絨毯爆撃はもちろん、都心部にあった焼け残りの街や施設も、爆撃の目標になっていたのがわかる。毎日新聞社のビルは、使える部屋が残っていただけまだマシなほうで、ビル内部が全焼してしまった社屋や商業施設もめずらしくなかった。同日の空襲で、目白駅周辺の焼け残っていた住宅街や、落合地域では特に上落合が壊滅的な被害をうけている。
 空襲から4日後の5月29日、こちらは真っ昼間の無差別爆撃だった横浜大空襲が起きている。わずか1時間ほどの爆撃で、死者・行方不明者8千人から1万人を数えた。杉野糸子を含む新聞記者たちは、取材のために2台のトラックに分乗して、横浜へと向かっている。
  
 横浜に近づくにつれて、はだしのままでゾロゾロ避難してくる被災者が、沿道を埋めていた。道の両側の住家や立木は、まださかんに燃えていた。道ばたには、真黒焦げになった死体がゴロゴロしていた。桜木町駅前は、車の乗り入れが危険なほど焼夷弾の殻でいっぱいであった。/黒煙と、真赤な火炎の中を、なに一つ持たず、着のみ着のままででこからともなく集まってくる被災者たちを見ながら、いよいよ本土も戦場に変わったという実感を深めた。
  
 もちろん、当時は見たままを記事に書けるはずもなく、「帝都市街を盲爆」「戦力蓄積支障なし」「我が損害極めて軽微」などと、虚妄の記事をタレ流していた。これは80年ほど前に滅亡した大日本帝国で見られた姿だが、いま戦争をしている国々ではどのようなウソにまみれた「大本営発表」がなされ、どのようにねじ曲げられた報道がなされているだろうか。また、いま戦争を起こしてない、あるいは戦争に巻きこまれていない国々では、どのような報道がなされているのだろうか。
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 杉野糸子は戦後、毎日新聞社に文化部が再設置されてもどると、下落合に住む作家の連載小説を担当している。毎日新聞に掲載された、林芙美子の『うず潮』(1947年)だった。また、のちに毎日新聞のコラム「余禄」を執筆することになる、同僚の古谷綱正と戦後まもなく結婚している。

◆写真上:東京駅の屋根付近から撮影された、1945年(昭和20)1月27日昼下がりの空襲。同日14時45分の着弾をとらえた、有楽町方面の街並みの様子。
◆写真中上は、1941年(昭和16)撮影の禁止されたパーマをかけてモンペをはかず華やかな装いで街を歩く女性を摘発・検束する巡査。中上は、1942年(昭和17)に撮影された防空訓練日に銀座を散歩する老人を恫喝する防護団の防空役員。1941年(昭和16)には、東京市が故郷でない60歳以上の老人は東京から退去すべしと軍から圧力がかかったが、撮影された銀座の老人は地付きの東京人なのだろう。島崎藤村は退去圧力で、大磯町東小磯88番地に転居している。中下は、1928年(昭和3)撮影の数寄屋橋界隈で有楽町駅前にあった毎日新聞社。は、1945年(昭和20)1月27日の14時45分すぎ次々と250キロ爆弾が着弾する銀座方面。
◆写真中下は、銀座の爆撃で逃げまどう数寄屋橋附近で撮影された母子たち。後方には、銀座4丁目の服部時計店が見える。中上は、1945年(昭和20)1月27日の空襲により直撃弾をうけた泰明小学校の校舎で女性教師4名が即死している。中下は、爆風に吹き飛ばされた大量の遺体がそのままの有楽町ガード下。は、爆弾で倒壊した有楽町駅付近の商店街。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で防空壕に生き埋めになった遺体を掘り起こす高田馬場駅前。駅前が空き地なのは、山手沿線(其ノ五)防火帯33号線(建物疎開)で住宅が取り壊された跡。中上は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で激しい爆撃をうける中野駅とその周辺。中下は、1973年(昭和48)出版の『東京大空襲・戦災誌』第4巻(東京空襲を記録する会/)と、1991年(平成3)に出版された古谷糸子『こんばんは古谷綱正です』(鎌倉書房/)。は、戦後すぐのころに撮影されたインタビューする杉野糸子(右)と当時は衆議院議員だった奥むめお(左)。
おまけ
 1941年(昭和16)2月11日に、チケットを求めて日劇を7周に囲む李香蘭のファンたち。親父からさんざん聞かされていたが、実際の写真はめずらしい。このあと、劇場側と行列のファンたちとの間でイザコザが起き、警察隊が出動して群衆は消火栓ポンプの放水で追い散らされた。
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コメント関連
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JAZZ喫茶=「不良のたまり場」なのはいつまで?

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 以前、喫茶店が不良のたまり場だったなんて、わたしの世代では知らないという記事を書いたことがある。では、JAZZ喫茶が不良のたまり場と呼ばれなくなったのは、はたしていつごろからだろうか? わたしは、以前にもチラッと触れたが、本格的なモダンJAZZを伝えた、1961年(昭和36)のArt Blakey & the Jazz Messengersの来日以降ではないかと考えていた。
 ところが、ちょっと面白い文章を見つけたのでご紹介してみたい。それは、目白台にある日本女子大学のキャンパス内にあった目白高校(1960年に西生田にある日本女子大学付属高等学校へ統合)の、PTA会長だった佐久洋という人が書いた文章だ。目白高校とは、この界隈ではあまり聞きなれない学校名だが、1901年(明治34)に成瀬仁蔵が設立した、日本女子大学校付属高等女学校に由来する目白台の伝統のある女子高等学校が出発点だ。
 だが、1948年(昭和23)の学制改革により川崎市多摩区西生田へ、付属中学校とともに付属高等学校も移転した。ところが、西生田の校舎では教室数や施設が十分足りてないことと、都心部に住む生徒たちの通学の便宜を考えたものか、日本女子大学キャンパス内にも高等部が残されている。この高等学校を、西生田の日本女子大学付属高等学校と区別するために、「目白高校」と称していたようだ。目白台と西生田に並立する高校は、途中で目白校が閉校しかかったこともあったが復活し、目白台キャンパスに1960年(昭和35)まで開校していた。目白高校の名称は、10年ほどしか使われなかったので、地元で印象が薄いのも当然だった。
 当時の校長は、目白高校と日本女子大付属高等学校ともに、戦前に高良とみと親しく下落合に住んだ上代タノだった。陸軍にタテつき、敗戦まで勤労動員先の工場で、「敵性言語」とされた英語を教えつづけていた上代タノだが、戦後は日本女子大の学長にも就任していた。
 では、1960年(昭和35)に出版された『目白高校十年の歩み』(日本女子大学付属高等学校PTA)に収録の、元・PTA会長だった佐久洋『思いつくまゝ』より、少し引用してみよう。
  
 打ち眺めたところ何の目的で学校へ行って居るのか、学校時代に何を獲得しようとするのか、勉強らしいものは殆んどしないようだし、集って話すことは映画かジャズ喫茶は未だいいとして、ボーイフレンドか彼氏の話が多いようである。特に中学高校とも女子大の付属を出て女子大に進んだ人は男女共学の時代を経ないで思春期に入るためか男性への関心が特に強いのではないかと思う。こういう大学時代を過した人達は今後何年か何十年か経って集った時に一体何を共通の話題として持ち得るのだろうか。思えば気の毒なものと考えられる。
  
 なんとなく当時の女学生が読んでも、「大きなお世話よ」とでもいいそうな文面だが、わたしの学生時代にも「いまどきの学生は……」という声が周囲からよく聞こえたので、上の世代から見れば若い生徒や学生たちは、いつの時代でも心もとなく頼りなげに映るのだろう。ところで、著者は大学へ入学してからが「思春期」だと考えているようだが、いまも昔も中学生になるころから、女子も男子ももう立派な思春期だったのではないだろうか。
 ここで留意したいのは、女学生たちのことではなく、JAZZ喫茶が映画と同列に挙げられている点だ。1960年(昭和35)現在、映画館を「不良のたまり場」と考える大人は、おそらくごく少数派になっていただろう。同様に、JAZZ喫茶もようやく戦前のダンス音楽や、戦後すぐのころ男女が密着して踊るBGMとは、まったく別の音楽だと認識されはじめていたのではないか。
 1940年代からはじまるBe-Bop革命、すなわちBGMやダンス音楽とは一線を画し、音楽好きが鑑賞する曲として大きく進化したモダンJAZZが、ようやく日本に伝わりはじめた時期と一致しているのだろう。それは、JAZZ喫茶のレコード棚でも、また会話の少ない店内のリクエストでも顕著になりつつある時代であり、「不良」たちは名曲喫茶と同様、静かに曲へ耳を傾ける鑑賞音楽に用はないので、自然と足が遠のいていった……そんな情景を思い浮かべてしまうのだ。
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 そして、『目白高校十年の歩み』が出版された翌年、Jazz Messengersの来日公演で、蕎麦屋の出前持ちの兄(あん)ちゃんまでが、「Moanin’」のメロディラインを口ずさむ時代になると、JAZZ喫茶の意味あいや位置づけが根本的に変わってしまったのだとみられる。そんな狭間の時代に書かれたのが、目白高校のPTA会長だった方の「映画かジャズ喫茶は未だいいとして」という、暗に双方のスペースに通う女学生はまだマシだと許容する表現になったのだろう。
 この文章が書かれてから10年後、映画館に通う女子高生はあたりまえとなり、JAZZ喫茶に通う彼女たちは読書をしながら、なにやら難しいことを考えていそうな“哲学少女”あるいは“文学少女”のように見られていく。Cecil Taylorを聴きながら、高橋和巳とか安部公房、ときにボーヴォワールなどの本を読んでいる彼女たちに、街の「不良」など寄りつくはずもなく、「わたしは慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい」(高野悦子/1969年)などといわれたりすると、「あ、そうっすか」とそそくさ退散するお兄ちゃんたちも多かったのではないか。
 校長の上代タノは、『目白高校十年の歩み』の「刊行によせて」で、目白高校と日本女子大付属高等学校について、次のように記している。『目白高校十年の歩み』より、再び引用してみよう。
  
 付属高等女学校が、新制度によって高等学校と中学校とに分れる当時、本学園の種々の事情によって、付属高等学校は目白と西生田に教室が分れましたが、本学園における一貫教育の一段階としては同じ場であり、目白校、西生田校と各々の特色を活かしながらも、教育・指導の内容においては、一つの付属高等学校であった訳です。/其の後、本学園が年をおうて整備され、西生田校舎に付属高等学校の全生徒を受入れる施設が整うて昭和三十五年度からはこゝに全生徒が集合することになりました。従って十年にわたって続いてきた目白校も、西生田校と合流し名実ともに、一つの付属高等学校として、その在るべき姿に成長して、今後永くその役割を果たすことになりました。学園のために慶賀すべきことゝ存じます。
  
 さて、10年間しか目白台の日本女子大キャンパス内に存在しなかった目白高校だが、大学と同一キャンパスのうえにいくつかの施設を供用していたため、西生田キャンパスとはまたちがった独特な雰囲気が形成されていたらしく、都心部から個性的な生徒たちが入学してきているようだ。
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 1948年(昭和25)4月に入学した、元・華族で帝展のち光風会の洋画家・大河内信敬の娘、大河内桃子もそのひとりだった。もちろん、下谷育ちで谷中っ子の女優・河内桃子のことだ。当時としては170cmと長身の彼女は、目白高校の生徒たちの間でもかなり目立つ存在だったようだ。彼女が在学中、目白高校のみ単独で行われていた演劇コンクールについて、当時の教師が印象に残るシーンを記録している。同書に収録の、山中ミツという人の書いた『思い出』から引用してみよう。
  
 目白校単独の催しであった演劇コンクール等も思い出深いものです。今は付属中学に勤務されている宮島直子さんの演ぜられた「寺子屋」の松王丸、伊吹山ますみさんの「修善寺物語」の夜叉王、立石美智子さんの「ベニスの商人」のシヤィロック(ママ)等、数え上げれば限りなくその名演技が思い出されてまいります。それに二回生の方達の「元禄花見踊」のきれいであったこと。鶴見幸恵さん、穂積寿美子さん、それに今テレビ、新劇に活躍されている河内(大河内)桃子さん達の舞姿のあでやかさ。何といっても眼に訴える劇や踊りの印象はいつまでたっても消えないものですね。そしてこの印象と共に、お一人お一人が、いつまでもなつかしく思い出されてくるのはたのしいものです。/外を通る自動車の警笛に悩まされた騒がしい建物、何の設備もないうす暗い教室、先生兼小使いさん兼給仕さんであった多忙な毎日、でも私共はとても楽しく過しました。
  
 大河内桃子は、1950年(昭和25)に目白高校を卒業すると、しばらくOL生活を送っていたが、1953年(昭和28)に東宝ニューフェイス6期生として東宝に入社した。ヒロインとして最初に抜擢されたのが、1954年(昭和29)公開の『ゴジラ』だったのには、同窓生たちもビックリしたのではないか。文中に「自動車の警笛に悩まされた」とあるが、目白高校の校舎は日本女子大キャンパスの北側、不忍通り(清戸坂/清土坂)に面していたので、クルマや工事の騒音が直接響いたのだろう。
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 『元禄花見踊』は、明治期に入ってリニューアルされた新富座お披露目の舞台で演じられた舞踊だが、下谷区の上野山に集う多彩な花見客たちが長唄を背に踊る華やかな出し物だ。演劇コンクールでこの演目を提案したのは、東京芸大も近い谷中育ちだった大河内桃子ではなかったろうか。

◆写真上:中等部と高等部が西生田へ移転前に撮影された、日本女子大学の正門プレート。
◆写真中上は、目白高校の校舎と生徒たち。は、1960年(昭和35)1月の閉校3か月前に撮影された目白高校の授業風景。は、1960年(昭和35)当時に校長だった上代タノ()と、日本女子大学校付属高等女学校の創立者・成瀬仁蔵()。
◆写真中下は、目白高校の美術部の活動風景。中上は、1956年(昭和31)10月撮影の目白高校仮装行列。中下は、日本女子大キャンパス内にあった目白高校の校舎位置。は、1960年(昭和35)出版の『目白高校十年の歩み』の表紙()と奥付()。
◆写真下は、日本女子大学と目白高校が共用した成瀬記念講堂。は、1950年(昭和25)3月の卒業生名簿で大河内桃子のネームが見える。は、男女共学ではなかったため「男性への関心が特に強い」のだろうが、ボーイフレンドはもう少し選んだほうがいいかもしれない大河内桃子。
おまけ
 1964年(昭和39)に撮影された、自分が破壊したジオラマを竹ぼうきで掃除するゴジラ(3代目)。同年に公開の『モスラ対ゴジラ』で使用された、人気の高いいわゆる「モスゴジ」の着ぐるみ。
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目白貨物駅で積み卸しされていた荷は?

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 きょうは、地元でもあまり語られることが少ない、目白貨物駅について書いてみたいと思う。この貨物駅には、いったいどのような物資が到着し、または送りだされていたのだろうか。鉄道輸送は、1970年(昭和45)前後にピークを迎えるが、それ以前の1960年代後半にはすでにトラック輸送に追い抜かれ、以降、今日まで下降線をたどっている。
 山手線の目白駅における貨物扱いは、日本鉄道時代の1903年(明治36)にはじまったとされているが、いまだ貨物専用の駅は存在していない。山手線ホームの西側に、いわゆる目白貨物駅が誕生したのは、初代橋上駅の目白駅が竣工(1922年)し複々線化が完了したあと、1924年(大正13)ごろのことだ。貨物駅が開設された場所は、目白駅から田端駅へと向かう豊島線の建設用に、日本鉄道がすでに買収していた敷地が活用されているとみられる。
 開設当初は、荷役用のプラットホームや貨物上屋(うわや)、ホームに隣接した鉄道倉庫などが存在せず、管理者が勤務する建屋や人足たちの詰所、あるいは荷車を曳く馬の厩舎や道具置き場などが建ち並んでいたようだ。その様子は、ずいぶん以前にご紹介していたが、山梨県の観光サイトで公開された、1925年(大正14)制作の甲斐産商店による広報記録映画で見ることができる。ただし、現在では当該サイトが閉じられ公開されていないのが残念だ。
 同映画では、目白貨物駅に到着した大黒葡萄酒のワイン樽が、プラットホームのない線路と同じ高さの地面に下ろされる様子が写っている。そして、馬車に積みこまれて小さな建屋が並ぶ貨物駅の構内を抜け、椿坂を下って山手線のガードをくぐり、下落合10番地にあった大黒葡萄酒の壜詰め工場へと運ばれるシーンがとらえられている。
 同映画では、昭和期にプラットホーム上などでよく見られた、貨物駅に特有の貨物上家(うわや)は、いまだ建設されていないのか見あたらない。上屋というのは、旅客鉄道の駅舎に相当する建物で、貨物線における「駅舎」のような機能をもった施設だった。この貨物上屋(うわや)の詳細を知ったのは、高輪の柘榴坂上にある物流博物館においてだ。貨物列車でとどく荷に風雨や雪が直接当らないで積み卸しができるようにする大屋根と、貨物に付属する運輸情報を処理する貨物管理事務所(通称:トラバコ)が一体化したような建物だった。
 物流博物館では、新潟県の新発田貨物駅の模型を展示して、当時の写真とともに貨物上屋について解説している。国鉄時代の上屋は、1950年代の様子を再現したものだが、おおよそ戦前の建築も同様の造りだったと思われる。同博物館のパンフレットより、上屋について引用してみよう。
  
 <新発田は>雪の多い地方だけに、上屋の屋根には角材を用いた雪留めが施されていました。また風雪を除けるため、上屋の側面には羽目板の壁が張られていました。この壁は「下見板張り」(上方の羽目板の下端を下方の羽目板の上端に重なるように張る)と呼ばれる工法によるもので、雨水が浸透しにくいという特徴がありました。/上屋のガラス窓のついた部分は、現場で「トラバコ」と通称されていた事務所です。脇に立てかけられているスノコは、ホーム両端の入口に設置して、防犯用の仕切りとしたものです。(< >内引用者註)
  
 戦前からつづく上屋は、まるで小学校の校舎のような外壁をしていたのがわかる。ただし、1階部には貨物の積み卸しができるよう、大きなスペースが拡がっていた。目白貨物駅の上屋は、1979年(昭和54)に同駅が廃止されるまで、何度か建て替えられて存在していたのがわかる。
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 少し横道へそれるが、目白貨物駅(の敷地)を描いた画家には、小島善太郎小熊秀雄がいる。小島善太郎が1913年(大正2)に制作した『目白駅より高田馬場望む』では、椿坂とともに貨物駅が建設される予定の山手線東側の敷地が描かれている。また、小熊秀雄が1930年(昭和5)に描いた、椿坂を上る正面に中世の古城のような目白市場が見える『目白駅附近』では、目白貨物駅の引込線に入る荷を積んだ有蓋車がとらえられているが、この時点で上屋が存在したかどうかは不明だ。線路に沿ったホームに上屋が確認できるのは、1932年(昭和7)ごろに撮影された空中写真および1936年(昭和11)撮影の空中写真あたりからだ。
 さて、1928年(昭和3)に鉄道省運輸局が刊行した『東京市及附近貨物集散状況』には、目白貨物駅の現状について書いた記事が掲載されている。同報告書の統計解説より、引用してみよう。
  
 本駅は一般貨物積卸場三〇七坪、散物取扱場一五三坪、合計四六〇坪、之が年間取扱能力十三万余頓にして、昭和元年の実績十三万七千余頓に比するときは、七千余頓の不足を来す算定であるが、戸山ヶ原新設駅開設の暁に於て寧ろ新設駅の取扱を便宜とするものが約二八,三七九頓を算し、仮りに之を誘引し得るとすれば、夫丈け取扱能力の行詰りを緩和し得るものである。
  
 どうやら、目白貨物駅では昭和初期の不況の影響から、1926年(大正15・昭和元)のピーク時に比べ貨物の取り扱い量が7,000余トンも減少していたようだ。
 では、どのような荷が目白貨物駅で取り扱われていたのだろうか。『東京市及附近貨物集散状況』では、目白貨物駅が年間に取り扱った荷の種類を、地方からの到着状況および目白貨物駅からの発送状況に分けて統計表を作成し、荷の重さ(重量トン)とともに記録している。まず、到着状況から見ていこう。1928年(昭和3)の時点で、目白貨物駅にもっとも多く到着している荷は「石材及砂利」だ。もちろん、宅地開発の築垣や縁石には欠かせない石材(大谷石など)や、コンクリートに不可欠な玉砂利が多いのは、目白駅周辺の東京郊外で大規模な宅地開発が行われていたからだ。「石材及砂利」の年間の重量は、45,000余トンとなっている。
 つづいて多いのが、燃料系の荷で「石炭及骸炭」の22,000余トンとなっている。これは、鉄道の蒸気機関車用に集積された燃料も含まれているとみられる。また、家庭の燃料や暖房で使われる「薪炭」が、それにつづく約9,000トンの取り扱い量となっている。時代が昭和初期なので、それほど住宅が稠密に建てられておらず、目白貨物駅のある高田町や落合町、戸塚町などでは家庭用燃料の消費量も、他の貨物駅に比べるとそれほど多くはなかった。
 燃料系の荷につづき目白貨物駅へ大量に到着したのは、もちろん「米」だ。当時の主食はほとんどが米なので、5,000余トンが目白貨物駅に到着している。つづいて、再び建築資材にもどり、建設工事に必要な「石灰及セメント」が、3,500余トンも運びこまれている。「石灰及セメント」に次いで多いのが、やはり建築資材とみられる「木材類」の3,100余トンだ。また、生産資源とみられる原料も運びこまれている。「石灰及セメント」に次ぐ「綿類」の1,900余トンは、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに多かった製綿工場や、医療系の衛生品工場で需要があったのだろう。
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 次いで、建築材の「煉瓦」が約1,900トンとつづき、再び食糧の「麦類」1,000余トンとなる。麦類がかなり多いのは、目白駅と池袋駅の間に大規模な東京パンの製パン工場や製粉工場が操業していたからだろうか。以下、「薬品類」が約700トン、「野菜類」が約600トン、「肥料及飼料」が550余トン、「油脂蝋類及其製品」と「硝子類及其製品」がそれぞれ370余トンに350余トンとつづく。日常の食卓には欠かせない「味噌醤油」は年間260余トンだが、「和洋酒及清涼飲料」が150余トンと意外に多いのは、大黒葡萄酒の原料樽も含まれているせいだろう。
 次に、目白貨物駅から各地に向けて、発送される荷の状況を見てみよう。ほとんどが目白貨物駅のある地元・高田町からの発送で、全体の75%を占めている。高田町内から、貨物車貸し切りで送られるもっとも多い荷は、「肥料及飼料」の400余トンだ。これは、高田町の肥料・飼料生産が盛んだったわけではないので、別の地方から送られてきた荷を駅近くの倉庫に保管し、それをスケジュールにあわせて発送しているとみられる。また、「木材類」の280余トン、「薪炭」の約110トンも同様で、目白貨物駅の周辺に保管されていたものを出荷しているのだろう。
 そのほか石炭やセメント、石材、砂利、石灰、鉄、鋼、銅、染料、各種機械類なども高田町ではあまり生産していないとみられるので、倉庫にストックしていた荷を倉出しし物流ルートへのせているとみられる。ただし「薬品類」などは、旧・神田上水沿いに製薬会社などがあったため、生産された製品が出荷されているのかもしれないし、「牛及馬」は高田町内の牧場で飼育されていた動物たちを、家畜車に乗せて別の飼育場や食肉処理場へ運搬している可能性がある。
 目白貨物駅を利用した、周辺の自治体の荷物を見てみると、落合町からは「鉄及鋼、銅」および「鉄及鋼製品」が130~150余トンも貨車に積まれて発送されている。これらの金属や製品類は、落合地域の旧・神田上水沿いに建っていた金属工場や部品工場から出荷されたのかもしれない。また、落合町からの「和洋酒及清涼飲料水」20余トンとは、もちろんボトルに詰められ改めて出荷された、甲斐産商店の大黒葡萄酒が中心だろう。
 長崎町からも、落合町と同様に「鉄及鋼、銅」と「鉄及鋼製品」40余トンが、目白貨物駅から出荷されているが、快進社DAT自動車工場の製品輸送でないとすれば、どこかに金属加工や部品製造の工場があったものだろうか。興味深いのは小石川区から唯一、「和洋紙」60トンが目白貨物駅から発送されていることだ。前世紀まで、文京区の神田川沿いは印刷業と用紙業が盛んだったが、昭和初期からすでに印刷用紙を各地へ発送していた様子がうかがえる。
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 なお、高田町の南に位置する牛込区から、目白貨物駅を利用して発送する荷は、ほとんどが倉庫にストックされていた物資が多いようで、もっとも多いのが「石材及砂利」「米」で、「薪炭」「石灰及セメント」などの建材や、「味噌醤油」「和洋酒及清涼飲料水」などがそれに次いでいる。

◆写真上:物流博物館のリーフレットに掲載された、1958年(昭和33)撮影の新発田貨物駅上屋。
◆写真中上は、1925年(大正14)に目白貨物駅に到着した甲斐産商店の大黒葡萄酒樽。中上は、目白貨物駅の構内から椿坂へと出る荷馬車。中下は、1932年(昭和7)ごろ撮影の空中写真にみる目白駅周辺。は、1936年(昭和11)撮影の目白貨物駅。
◆写真中下は、1913年(大正2)に制作された小島善太郎『目白駅より高田馬場望む』と、1930年(昭和5)に制作された小熊秀雄『目白駅附近』。中上は、20世紀の鉄道輸送とトラック輸送の推移。(物流博物館資料より) 中下は、目白貨物駅と契約していた高田町の運送会社による連合広告。は、目白貨物駅に停車する品川機関区の蒸気機関車6789。
◆写真下は、1960年(昭和35)に撮影された目白貨物駅に集積される酒か醤油とみられる1升壜の木箱。中上は、1975年(昭和50)の空中写真にみる目白貨物駅。倉庫群の南側のプラットホームには、フォークリフトの発達で貨物の移動に長時間を要しなくなったせいか、外壁や管理事務所(トラバコ)の付属しない簡易上屋とでもいうべき積卸場が見える。中下は、1970年代末ごろに撮影された廃止後の目白貨物駅。倉庫群はそのままだが、手前に新しい事務所風の建物が設置され、南側の簡易上屋は解体されている。は、1960年代に撮影された目白貨物駅と簡易上屋。
おまけ
 1981年(昭和56)の空中写真にみる目白貨物駅と、1985年(昭和60)に制作された保田義孝『目白駅』。画面には目白貨物駅の跡地に、大量の木材(枕木?)が積みあげられている。
目白貨物駅跡1981.jpg
保田義孝「目白駅」1985.jpg

大磯の小淘綾ノ浜に立つ黙阿弥と松本順。

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 わたしは親父の趣味のひとつだったせいか、歌舞伎座と国立劇場でずいぶん芝居(歌舞伎)を観ている。親父が、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎と交流があったせいもあるのだろうが、もの心つくころから多くの芝居には連れていかれた。
 当時の舞台には梅幸や松緑、歌右衛門、勘三郎、羽左衛門、団十郎、仁左衛門、三津五郎と養子の玉三郎など、それこそ昭和の名優たちがキラ星のごとく現役で活躍しており、新派落語界と同様に、なにを観ても(聴いても)一流の芸が堪能できていた時代だった。もちろん、わたしは子どもだから、ろくすっぽ芝居の知識も教養もなく、漫然とそれらの舞台を眺めていただけで、明治座新橋演舞場の“大人の事情”ばかりがあらすじの新派にいたっては、午睡するのが決まりのようになっていた。けれども、芝居は舞台の色彩や仕掛けが面白いし、特に子どもでもわかるような筋や所作がある世話物は、眠くならずに観つづけることができた。
 数多く観た芝居の中で、もっとも多く観賞した演目はまちがいなく世話物、それも大江戸が舞台の河竹黙阿弥の作品だったろう。世話物は、子どもにもわかりやすいということで、あえて親は黙阿弥の作品を多めに選んで連れていってくれたのかもしれない。それに、黙阿弥の芝居にはあちこちに、現代までつながる江戸東京の匂いがプンプンしていた。
 中学生になってからは、親と連れだって舞台を観るということも徐々に少なくなり、高校時代には芝居ではなく、畑ちがいの文学座杉村春子の舞台(『女の一生』)を、いっしょに観にいったのが最後だったろうか。いまから思えば、親父とともに芝居に出かけ、戦前からつづくその膨大な知識や資料を受け継がなかったのが悔やまれてならない。
 拙ブログでは江戸東京の名所や、そこで起きたエピソードなどを記述する際、芝居や新派の舞台作品も同時にご紹介する記事を多く書いてきたが、これまでもっとも多く取りあげてきたのが河竹新七(黙阿弥)の作品だったろう。ちょっと振り返って、それらの記事を列挙してみると……。
 ◎音曲や楽器をめぐる東京怪談。=『加賀見山再岩藤』
 ◎桜餅めざして隅田川を芝居散歩。=『極附幡随長兵衛』『都鳥廓白波』
 ◎目黒鬼子母神の正岡と大塚山の墳丘。=『実録先代萩』
 ◎四谷見附のヒソヒソ話は聞こえるか?=『四千両小判梅葉』
 ◎大の芝居好きな刑部人と金山平三。=『青砥稿花紅彩画』『八幡祭小望月賑』
 ◎だらだら芝神明の熱い大喧嘩。=『神明恵和合取組』
 ◎「線道」をつけてもらえばよかった。=常磐津舞踊『戻橋』
 ◎蕎麦いらぬ「うなぎ」入谷の鬼子母神。=『天衣紛上野初花』
 ◎めぐみ深川情け有馬の水天宮。=『水天宮利生深川』
 ◎浜町河岸で激昂したお梅姐さん。=『月梅薫朧夜』
 ◎江戸の「広場」としての不忍池。=『黒手組曲輪達引』
 ◎怪しさ漂う大江戸のお茶の水・水道橋。=『吉様参由縁音信』
 ◎江戸東京で物語が最多の両国橋。=『舟打込橋間白浪』
 ◎新吉原の「お上がりなさいませ!」。=『籠釣瓶花街酔醒』
 ◎江戸幕府を鎌倉幕府へ仕立てなおし。=『船打込橋間白浪』『青砥稿花紅彩画』
 ◎隆慶橋は東詰めの「おきゃがれ」。=『黄門記童幼講釈』
 ◎キット、♪ぼくは悲しい受験生~。=『盲長屋梅加賀鳶』
 ◎約束の刻限に野を越え山越えて?=『四千両小判梅葉』
 ◎高橋お伝の弁護をしよう。=『綴合於伝仮名書』
 ◎日暮しに男女のいろは沈む谷中。=『日月星享和政談』
 ◎下落合と六本木を結ぶもの。=『四十七刻忠箭計』
 ◎娑婆と冥土の別れ道・深川ゑんま堂。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎ざまぁ見やがれ永代橋。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎永代橋の崩落からもうすぐ200年。=『八幡祭小望月賑』
 ◎こいつぁ春から縁起がいいわえ。=『三人吉三巴白浪』
 上掲の記事は、わたしがザッと思い返した河竹黙阿弥の芝居について触れたものだが、実際にはもっと数多くの記事で彼やその作品については書いている。たとえば、神田上水蛍狩りや茶番劇にからめた『花暦八笑人』などにも、若き時代の黙阿弥は登場していた。また、黙阿弥の作品以外に取りあげた芝居や新派の舞台にいたっては、おそらく上記の数倍になるだろう。
源通寺.JPG
夜討曾我狩場曙.jpg
河竹登志夫「黙阿弥」1993文藝春秋.jpg 河竹黙阿弥.jpg
 ちょっと余談だけれど、黙阿弥が作品につけた題目は、一部の時代物や舞踊などを除き、それぞれ独特な読み方をするものがほとんどだ。たとえば、「鼠小僧」の『鼠小紋東君新形』は「ねずみこもん・はるのしんがた」、「河内山」の『天衣紛上野初花』は「くもにまごう・うえののはつはな」、「め組の喧嘩」の『神明恵和合取組』は「かみのめぐみ・わごうのとりくみ」、「湯灌場吉三」の『吉様参由縁音信』は「きちさままいる・ゆかりのおとずれ」という具合だ。大江戸の武家はもちろん、漢字の連なる芝居のタイトルを庶民たちも容易に、あるいはなんとか読みこなせていたということだ。つまり、それだけ読み書き=識字率が高く教育が普及していたことになる。これは、同時代の海外の都市には見られない、この街ならではの大きな特徴だろう。
 河竹黙阿弥(本名:吉村芳三郎)は、1816年(文化13)に日本橋の式部小路で生まれている。実家は、湯屋(銭湯)の株を売買する越前屋という店(たな)だった。現在の日本橋2丁目7番地あたり、ちょうど高島屋と日本橋タワーにはさまれた道筋のことで、この路地は現存している。わたしの東日本橋にあった実家から、1,800mほど南西に位置する京橋との境も近い位置だ。
 さて、大江戸の街中で起きた事件や出来事、逸話などを芝居に仕立てる、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者の代表のような河竹黙阿弥(2代目・河竹新七)だが、薩長政府は大江戸の(母国である日本の)歌舞伎についてまったく無知なことから、アタマが西洋かぶれした明治政府の役人たちは、狂言作者をヨーロッパ演劇の脚本家と同列の存在だという、救いようのない錯誤をしてしまった。ここから、明治期における黙阿弥の悲劇(苦難)がはじまる。
 狂言作者とは、もちろん作品を書く脚本家・原作者でもあるが、芝居の稽古を進行するディレクターであり、舞台全体の点検・指揮をするプロデューサーであり、役者・舞台装置・音曲などを密に連携させるディレクターであり、音曲や拍子木と幕の開閉のきっかけを指示する指揮者でもあった。要するに、創作者+舞台監督+進行ディレクターを兼ねた芝居全体をつかさどるカナメ、いま風にいえばエグゼクティブ・ディレクターのことだ。それを、日本の演劇に無知な薩長役人たちが、西洋演劇における脚本家と同じだと規定し、政府の思想宣伝のために台本や舞台へ口出しをするようになってから、自国の重要な伝統文化のひとつが滅びる寸前まで追いつめられていく。
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 まず、歌舞伎の舞台へ明治の風俗を無理やり当てはめた、まるで新派のような「散切(ざんぎり)物」を強制するようになる。しかも、洋装の役者たちが台詞まわりだけは歌舞伎の口調のままだから、世にも不思議で珍妙な芝居となった。それだけならまだしも、「皇国史観」「忠君愛国」のような思想を無理やり芝居(新時代物)の筋に盛りこみ、あるいは中国や朝鮮半島の儒教思想をそのまま持ちこんだ、サルマネ「修身」のような筋立てを押しつけるなど、薩長政府による江戸文化・芸能(ひいては日本文化)の破壊が急速に進行していく。芝居の観客も、政府の介入で限られた人々のみとされ、上流階級だけが観賞できる仕組みへと変えられていった。もちろん、江戸東京に数ある芝居連の市民たちは離れ、黙阿弥は引退を意識するようになる。
 結果からいえば、薩長政府がやっきになって強要した芝居は全滅し、黙阿弥が明治期でもかろうじて書けた「世話物」(おもに江戸期を舞台にした作品)のみが、現代でも歌舞伎座や国立劇場で上演されている。もし、日本文化に無知な薩長政府の役人が「散切物」など強制せず、黙阿弥が思いどおりの作品を書きつづけ、想像どおりの舞台を演出できていたとすれば、あとどれほどの傑作や名作が生まれていたかと思うと悔やんでも悔やみきれない。薩長政府の「国家神道」化による日本の膨大な「神殺し」に次ぐ、自国のかけがえのない「文化つぶし」の一環だ。それほど、河竹黙阿弥というクリエイターは、江戸から明治にかけての卓越した存在だった。
 ところで、黙阿弥は早稲田に大規模な蘭疇医院を開業した、日本初の西洋医・松本順(江戸期は松本良順)とも親しかったようだ。蘭疇医院が開業する際、旧・幕臣から芝居の役者、市民たちまでがこぞって早稲田へ押しかけたなかに、黙阿弥もいたのだろう。松本順は、江戸期から「将軍様でも役者でも病人は同じじゃねえか」と、黙阿弥にはおなじみの(城)下町言葉で周囲に公言してはばからず、幕末の喧騒のなかで徳川将軍から庶民にいたるまで診察した特異な西洋医なので、黙阿弥もことさら親しみをおぼえたのだろう。まるで、明治以降に「万民平等」を掲げた自由民権運動の活動家のような言葉だが、彼の周囲に咎めるものはもはやいなかった。
 黙阿弥は結局、狂言作者を引退できなかった1890年(明治23)の晩年(75歳)、薩長政府の検閲の眼が光るなか、「散切物」のかたちを踏襲しながらも、曾我十郎・五郎の対面の場を描いた清元の所作事、『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)を書きあげている。この舞台は、松本順が推奨した日本初の大磯海水浴場と保養別荘地としての大磯を、せいいっぱい世の中に広報・宣伝するものとなっていた。そして、セリフにはなんと松本順当人も登場している。
  
 /\名に負うここは早稲田の殿様、松本様のお見立てゆえ、第一空気がいい上に、今度の主人は如才なく、取扱いが届くから、海水浴はどこよりも、濤龍館が繁昌だ。(『名大磯湯場対面』)
  
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 それ以前にも、黙阿弥は松本順から芝居のヒントをもらい、1887年(明治20)に市川團十郎が家康を演じる『関原神葵葉』(せきがはら・かみのあおいば)を書いている。晩年は、うしろ立てに松本順がついていたようで、少しは薩長政府の圧力が弱まっていたのかもしれない。別の見方をすれば、薩長政府による歌舞伎の破壊へ抵抗するために、松本順がひと役買っていたようにも見える。

◆写真上:地下鉄東西線・落合駅から、西へ350mほどの源通寺にある河竹黙阿弥の墓(右側)。源通寺は、1908年(明治41)に浅草から上高田へと移転してきた。
◆写真中上は、散歩でお参りできる墓所の源通寺。は、『夜討曾我狩場曙』(ようちそが・かりばのあけぼの)の舞台で曾我五郎が2代目・尾上松緑(左)と十郎が3代目・市川左団次(右)。下左は、1993年(平成5)出版の河竹登志夫『黙阿弥』(文藝春秋)。下右は、明治に入ってしばらくすると隠居したはずなのに芝居の台本依頼が途切れなかった河竹黙阿弥。
◆写真中下は、1881年(明治14)に周重が描く『夜討曾我狩場曙』。は、1890年(明治23)に3代・国貞が描く『名大磯湯場対面』。は、同年に国芳が描く『名大磯湯場対面』。同作は「散切物」なので国貞がリアルだが、国芳はあえて江戸の風俗で描いている。
◆写真下は、松本順の大磯別荘跡。は、1893年(明治26)制作の小国政『大磯海水浴場富士遠景図』。は、黙阿弥も歌舞伎役者たちもそろって眺めた大磯の小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)。
追記
 1926年(大正15)の夏に撮影された別荘地・大磯で、旧・東海道沿いにつづく街並み。(AI着色) 佐伯祐三・米子夫妻が滞在した別荘は、左手の街並みを少し左(北側)へ入った東海道線沿いの敷地にあった。街並みの背後には、湘南平(千畳敷山)へとつづく高麗山がうっすらと見えている。下の写真は、安田善次郎の別荘がある王城山の中腹並びに建てられた、湘南平へと向かう山道の右手にある大きな加山又造アトリエの門。周囲の丘陵一帯は、大小の古墳群だらけだ。
大磯1926.jpg
加山又造アトリエ.JPG
おまけ
 最近、AIエンジンで古い写真の人物を動かしてみるのに凝っていて、いろいろ昔のアルバムを引っぱり出しては試している。下の動画は、明治生まれのうちの義祖母(ばあ)さんを、ややおきゃんな感じで動かしてみた。左側にチラリと写っているのは、おそらく連れ合いの母親だろう。

於保照子と吉行夫妻の「あざみ」は東中野1594番地。

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 上落合186番地の村山知義が、『演劇的自叙伝2』(東邦出版社/1971年)で「東中野駅のこっち側」と書き、上落合742番地に住んだ尾形亀之助の『尾形亀之助全集・全1巻』(思潮社/1970年)の年譜で、「上落合でバーを経営していた吉行エイスケ夫人あぐり」と記録されているので、わたしは吉行エイスケ吉行あぐり(安久利)夫妻が経営するバー「あざみ」は、てっきり上落合と東中野の境界あたりだ思っていた。ところが、バー「あざみ」は現在の東中野駅ではなく、1928年(昭和3)に西へ移動する前の東中野駅(駅名変更前の元・柏木駅の位置)の駅前にあった。駅前から上落合へ向かう、当時は「プロレタリヤ通り」などと呼ばれた商店街の出発点だ。
 ところが、「あざみ」は吉行エイスケ・あぐり夫妻が経営をはじめる以前、関東大震災の直後から東中野駅前で営業していた。経営していたのは、震災前に横浜で夫である医学博士の於保謹太郎を亡くした於保照子という女性だった。喫茶店ともバーとも記録されている「あざみ」(いずれにしろ酒は置いていたのだろう)は、震災前から東中野駅前で開店していたという資料も見うけられる。そして、於保照子は1926年(大正15)に吉行エイスケへ、店をそのまま“居抜き”で譲っている。その後、於保照子自身は同じ屋号の「あざみ」のまま、資生堂の並びである京橋区出雲町14番地(のち銀座7丁目4番地の10)にバー「あざみ」を開店している。
 まず、「あざみ」の所在地が判明したのは、1926年(大正15)に記録された「商業登記簿」からで、喫茶店「あざみ」は於保照子名義で中野町東中野1594番地と登録されている。元・柏木駅の北側で、駅名が東中野駅と変更(1917年)された駅前の西側にあたる区画だ。現在の住所でいえば、中野区東中野4丁目1番地ということになる。ちょうど当時の旧・東中野駅を北口へ降りると、駅前の左手すぐの位置になり、村山知義アトリエから直線距離で760mほど、上落合742番地の尾形亀之助の家からも直線距離で800mほどの距離だった。
 於保照子について紹介した、1926年(大正15)刊行の『日本之医界』(日本之医界社)掲載の、「医界異聞」から引用してみよう。この記事では、「あざみ」は震災後の開店とされている。
  
 つい最近銀座は資生堂の横に「あざみ」と云ふ、ごく瀟洒な落ついたカフエーが出来たことは銀ブラ連の仲間にはとうにご承知の筈。/だが、ここの主人公とは誰あらう嘗ては横浜に於て名を知られた医博於保謹太郎君の未亡人てる子さんだ。震災ちよつとまへ、ご主人にはなくなられるし間もなくあの震災騒ぎ、で(ママ)夫人は家の下敷きとなつて大怪我をするといつたご難つづき。/そこで夫人が雄々しくも更生の第一歩として実社会に打つて出たのが、震災間あらず、郊外は東中野に開かれた喫茶店「あざみ」といふのがそれ。そして愈々今度はカフエーの本場である銀座の真中に乗出して来た訳なのである。
  
 照子夫人は、自邸のある横浜でなく、たまたま東京で震災に遭っているようなので、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは、震災後の可能性が高いように思える。あるいは、於保照子もまた、以前からつづく「あざみ」という店をそのまま譲りうけたものだろうか。
 医学博士だった夫の資産が潤沢にあったのだろう、於保照子は東中野1594番地で3年間営業したあと、1926年(大正15)の後半期にバー「あざみ」を銀座で改めてオープンしている。おそらく夫の仕事関係から、銀座では医学分野の客筋が多く集まったのではないだろうか。
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 さて、旧・東中野駅前にあった於保照子の「あざみ」について、店の様子を記録した文章も残っている。おそらく、1926年(大正15)に同店を譲りうけた吉行エイスケの店も、基本的にはそのままの意匠で、おカネのかかる大きな変更は加えられていないとみられる。1923年(大正12)の暮れに聚文館から出版された、春日靖軒『大正震災後日物語』より引用してみよう。
  
 こゝは東中野の駅近く、開店したアザミサカバ(酒場)と云ふのがある。ありし日の銀座街にも見られないやうな凝つた家の作りが人の目を引く。入口のドアーの開閉も三角なら、中の壁も米国杉のしぶい色の三角形、それにしつくり似合ふ南洋あたりの壁かけ、粗雑な中に一種のデリカシイを持つた椅子、椅子の形テーブルの上にリノリームをひいてあるのも、今まで見ない処だが、その家の主人は於保照子と云つて、横浜の社交界でも人に知られた、医学博士於保謹太郎氏の未亡人で、横浜から危難をのがれて新生面を見出さうと開いた店なのである。(カッコ内引用者註)
  
 なにもかも三角な「あざみ酒場」の外観・内装デザインは、当然、西武線がいまだ存在せず最寄りの旧・東中野駅を利用していた、三角アトリエの建築主である村山知義の目にもとまっただろう。すなわち、吉行エイスケ・あぐり夫妻が「あざみ」を経営する以前から、村山知義マヴォな人たちをはじめ、付近に住んだタダイストやアナキスト、小説家、詩人、美術家たちは、未亡人の於保照子が切り盛りする同店に通っていた可能性がある。
 春日靖軒はつづけて、「あざみ」の於保照子本人へ直接インタビューしている。彼女は1923年(大正12)9月1日、たまたま東京の姉の家にきていて罹災した。「私はあの地震によつて生れ変つたのと同じやうな気がします。丁度あの時は東京の姉の処に来てゐましたが、神保町だつたので、初め砲兵工廠(水道橋)へ逃げて爆発に会ひ、それから植物園(小石川)へ行きましたが横浜に置いて来た五人の子供の事が気になつて、たうたう二日朝皆のとめるのもきかず……」と証言している。おそらく、ケガをしたのは砲兵工廠の爆発によってだと思われるが、翌日には横浜の自邸へ向けて出発しているので、「家の下敷きとなつて大怪我」(『日本之医界』)などではなく、軽傷だったとみられる。横浜に置いてきた5人の子どもたちは、なんとか避難して無事だった。
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 於保照子の証言を見るかぎり、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは震災後だと思えるが、震災以前からつづいているバー(あざみ?)自体を、彼女が入手して継承したかどうかまでは不明だ。一方、震災前から「あざみ」はあったとする証言もある。1931年(昭和6)に春陽堂から出版された、安藤更生『銀座細見』より東中野時代のバー「あざみ」を少し長いが引用してみよう。
  
 アザミは地震前から東中野の駅のそばにあつた。内も外もクレオソート塗りの、仲々気のきいた家だつた。壁には小さなゴブラン擬(まが)ひの壁掛などがかゝつてゐた。いゝ日本酒もあり、それに添へて出す海鼠腸(このわた)などのつまみ物も美味かつた。この家は於保(照子)といふ医学博士の未亡人がはじめたので、開店当時は博士夫人の酒場といふので評判だつた。わざわざ銀座あたりから飲みに行つたものである。今、雨後の筍のやうに出来るバアのこれは元祖といつてもいゝ家である。地震後その東中野の店を譲つて、資生堂の横へ越して来た。今の女給お文さんはその東中野時代からの女給である。東中野の店は其後吉行エイスケが買つて、酒場カカドを出した。エイスケの先生辻潤、宮島資夫、エリゼ二郎、川口慶助、山内恒身などがよく集まつて飲んで居た。死んだ人見幸子などもよくこゝへその断髪姿を現して、みんなに可愛がられた。沙良峯夫、荒川畔村などといふ偉い人達がバアテンダアをやつて居たのである。(カッコ内引用者註)
  
 安藤更生は、震災前から「あざみ」には通っていたようなので、於保照子が経営する前から東中野では印象に残る店だったのだろうか? 震災後3年間の営業期間のみでは、旧・東中野駅前とはいえ、それほど強く客筋たちの記憶には残らなかったようにも思える。
 そして、安藤更生の証言には重要な点が含まれている。吉行エイスケが経営していたバーは、当初「カカド」という名称だったようだ。安藤更生は、人見幸子と知りあった経緯で、「幸子は神戸の金持の令嬢だつた。僕が幸子を知つたのは、東中野の吉行エイスケのやつて居たカゝドへ、沙良峯夫や山内恒身の集つて居る頃だつた」と書いている。これは、1931年(昭和6)に小松直人・編集で二松堂から出版された『Café jokyû no uraomote』収録の、安藤更生の文章ではバーの名前は「カアド」となっているが、これは誤植で「カカド」が正しいのだろう。
 さらに、1949年(昭和24)に星光書房から刊行された「虚無思想研究」第2号に収録の、荒川畔村『震災後と戦災後』でも、吉行エイスケと「二人で東中野で『カカド』といふ喫茶店を始めることになり、警察へ許可をとりに行つた」と書いているのでも明らかだろう。ただし、「カカド」はほんの数ヶ月という短い期間で閉店してしまっている。なお、「カカド」とは吉行エイスケが『ダダの歴史』に書く5人組のダンスとされる「ノワル・カカドゥ」からとったか、あるいはオーストラリアの先住民だったアボリジニの用語「聖地(KAKADO)」に由来する言葉のいずれだろうか。
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 「カカド」は、1926年(大正15)に吉行エイスケが雑誌「虚無思想」を発行しつつ荒川畔村とはじめた店であり、連れ合いの吉行あぐりはまだ登場していない。けれども、雑誌が赤字つづきのせいか経営は数ヶ月で破綻し、そのあと以前からの客筋にも通ってもらえるよう、「あざみ」の名称にもどして吉行夫妻が営業していた可能性がある。あるいは、於保照子の「あざみ」の印象が強く、周辺の客筋の多くが店名をバー「あざみ」と呼びつづけたせいで、夫妻は否が応でも「あざみ」とせざるをえなかったものだろうか。いずれにしろ、於保照子が経営する銀座のバー「あざみ」と、吉行夫妻が経営する東中野のバー「あざみ」は、短い期間だが並行して営業していたようだ。

◆写真上:バー「あざみ」があった、東中野1594番地界隈の現状。左手先に東中野駅が見えているが、当時は左手背後の元・柏木駅の位置に旧・東中野駅があった。
◆写真中上は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる東中野1594番地とその周辺。は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東中野駅界隈。すでに同駅のホーム全体が、西側へと移動している。
◆写真中下上左は、吉行エイスケのプロフィール。上右は、1926年(大正15)に銀座へ進出するまで旧・東中野駅前でバー「あざみ」を経営していた於保照子。は、吉行あぐりのプロフィール。は、洋酒についてのエッセイを新聞に連載していた於保照子の記事。
◆写真下は、尾形亀之助と村山知義のバー「あぐり」への通いルート。村山籌子の家電製品“新しもの好き”は、こんなところに遠因があったかもしれない。w は、1932年(昭和7)に撮影された東中野駅の桐ヶ谷踏み切り。駅はすでに西へと移動し、画面の左手にホームがある。踏切の向こう側左手が東中野1594番地で、関東大震災直後(直前?)からバー「あざみ」が開店していた街角。また、バー「あざみ」の並びには毛糸や手芸用品の専門店「さかゑ商店」が営業していた。

大正期の大橋(両国橋)が見られる鉄砲洲。

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 わたしも知らなかったが、おそらく親父もウッカリ気がつかなかったのではないだろうか。明治末から昭和初期まで、関東大震災をはさみ大川(隅田川)に架かっていた鉄筋の大橋(両国橋)が、そのままの意匠で別の橋として残されていたことを。
 架橋されている場所は、八丁堀が越前堀と合流し大川(隅田川)へと通じる、鉄砲洲側と霊岸島側とを結ぶ位置だ。現代のいい方をすれば、八丁堀側の湊1丁目から亀島川をはさみ新川2丁目へと架かる、亀島川の出口に設置された亀島川水門の手前ということになる。名称は「南高橋」(みなみたかばし)だが、北側に架かる高橋(たかばし)は江戸期から存在したけれど、南高橋は関東大震災後の復興事業で架けられた橋のひとつだ。おそらく、災害時に霊岸島側から築地方面へと避難できる、防災橋のひとつとして架設されたものだろう。
 鉄筋の大橋(両国橋)、いわゆる「曲弦トラス3連桁橋」とよばれる橋梁は、1904年(明治37)5月に竣工し、1931年(昭和6)ごろまで大川(隅田川)に架かっていた。長さが164.5mで幅が24.5mあり、その上を東京市電やクルマが往来していた。親父が6歳ごろまで目にしていたはずなのだが、記憶に残らなかったのだろうか。もし記憶に残っていれば、移築先で新設された南高橋の存在を認識していたはずで、家族を連れて訪れていたはずなのだが、幼児のころの記憶が曖昧だったため、それほど先代の大橋には執着がなかったのかもしれない。
 南高橋は、長さ63.1mで幅が11.0mと小さく、旧・大橋(両国橋)の3分の1強ほどのサイズだ。旧・大橋の3連桁のうち、中央の桁のみの部材を活用して、1932年(昭和7)に亀島川(旧・越前堀)の最下流域へ架橋されている。ただし、上部の強度を補うためか、新たに細めなトラスがX型に設置されているようだ。旧・大橋と同様に、橋の入口上部に、橋名のプレートが横向きで取りつけられており、戦前なので右から左へ「橋高新」と彫られている。いまとなっては、明治期の架橋技術を伝える、貴重な土木遺産ということになるのだろう。
 旧・大橋(両国橋)に比べ路面幅が狭いため、同じ部材を使っているとしても多少の加工がほどこされているのだろうか。だが、旧・大橋はトラス内の車道とは別に、人が日本橋側~本所側間を往来する歩道が、橋梁の左右(南北)に広くはみ出して設置されていたため、幅24.5m(旧・大橋)-幅11.0m(南高橋)=13.5mで、これを2分の1にした6.75m(三間強)が、旧・大橋の歩道の幅なのかもしれない。ちなみに、南高橋の歩道はトラスの内側に設けられている。いずれにしても、南高橋の外観は旧・大橋そのままのように見える。橋の入口の端柱上に装飾された、まるで西洋の鐘楼か時計塔のようなオブジェも、旧・大橋と同一のようだ。
 さて、かねがね気になっていたのだけれど、旧・大橋(両国橋)は何色に塗られていたのだろうか。現在の南高橋は、明るい灰銀色に塗られている。昭和初期に、復興校舎として早々に建設された日本橋側にある千代田小学校(現・日本橋中学校)の、屋上から北北東を向いて撮影された復興記念の人着絵はがきが残されている。それを観察すると、大橋はグレーに着色されているように見えるが、やや離れているのでほんとうにグレーだったかどうかはわからない。また、モノクロ写真への人工着色なので、それが正確な色彩なのかも不明だ。
 今回、南高橋を訪れてみて、旧・大橋(両国橋)に塗られていたカラーは、明るい灰青色(薄めな空色に近い)だったのではないかと疑うようになった。なぜなら、現在の南高橋のトラスの一部に塗料の剝脱が何ヶ所かみられ、錆びた芯の鉄骨部分に塗られた赤茶色(おそらく錆止めだろう)と、その上に塗られたかなり古めな灰青色の塗料、そして移設されて南高橋になってから新たに塗られた灰銀色と3層の塗り色が確認できるからだ。
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 ただし、旧・大橋(両国橋)から1932年(昭和7)に移築される際、それまでの塗料がすべて落とされ、改めて灰青色に塗り直されていたが、戦災で表面の塗料が傷んだため、戦後は現在の灰銀色になった……と解釈することも可能だ。けれども、関東大震災からの復興事業の慌ただしい工事のなかで、そのようにていねいな移築作業が行われていたかどうかには疑問が残る。いずれにしても、古い時代の橋色は灰青色だったことが確認できた。
 さて、南高橋の東詰めには、越前福井藩は松平越前守の中屋敷(幕末)があり、そこに奉られていた徳船稲荷社が鎮座している。明治以降に、祭祀場所は何ヶ所か移動したようだが、戦後に再び同地へと帰還している。徳船稲荷の「徳」は、徳川家の船の舳(へさき)を切りとったものだったようだが、1945年(昭和20)の空襲で失われている。現在は、かたちばかりの小さな社が戦後新たに建立されているが、今回の目的はこの稲荷社ではない。
 南高橋から、南西へ直線距離で120mほどのところにある鉄砲洲稲荷社のほうだ。同社は、平安初期に建立されているが、1457年(長禄元)に太田道灌による江戸城の築城以降、海岸線の埋め立てが徐々に進み、現在の京橋付近で暮らしていた住民たちの産土神(うぶすながみ)として奉られていた。また、徳川幕府による海岸線の大規模な埋め立てが進捗すると、さらに場所を移してほぼ現在地へと遷座している。江戸期には、江戸へとどく生活物資(米・塩・酒・薪炭など)の多くが、江戸湾から大川(隅田川)をさかのぼり、鉄砲洲湊(河岸)に陸揚げされていたことから、航海の安全を祈願する海難除け稲荷としても知られるようになった。
 今回の散策の目的は、旧・大橋(両国橋)の移設である南高橋とともに、この鉄砲洲稲荷社の境内にある、周辺の富士講によって築造された「鉄砲洲富士」を見学することだった。拙サイトでは、落合地域に築造されていた「落合富士」をはじめ、東隣りの戸塚地域に築かれた「高田富士」、北西側の江古田地域に築かれた「江古田富士」、北側の長崎地域にある「長崎富士」、南側の新宿地域に築かれたの成子(鳴子)富士などをご紹介している。
 これらの富士塚は、すべて円墳または前方後円墳とみられる墳丘の頂上部に、講中のメンバーがわざわざ背負って運んだ、富士山の溶岩を積みあげて築造されている。落合富士=大塚浅間古墳、高田富士=富塚古墳、江古田富士(未調査だが地元に古墳伝承あり)、長崎富士(同)、成子富士=成子天神山古墳といった具合に、ベースには古墳の墳丘が利用されていた。
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 大江戸(おえど)の市街地や郊外に築かれた富士塚は、もともと正円状に地面から盛りあがった墳丘(前方後円墳の場合は後円部)を、そのまま活用して築かれているが、平地の場合はどうやって築いていたのかに興味があったのだ。そこで、もともとは海岸線で埋立地だった鉄砲洲には、どのような富士塚が築かれていたのか、以前から気になっていた。埋め立てられる前の、八丁堀に架かっていた稲荷橋跡を南へ進むと、すぐ右手(西側)に鉄砲洲稲荷の杜が見えてくる。富士塚は、同社の拝殿・本殿の右手、すなわち北側にひっそりと保存されていた。
 一見しておわかりのように、地表から溶岩のみが高く積みあげられているのがわかる。これは、鉄砲洲稲荷社が旧社地から現在地へ遷座してから、改めて築かれたものだということだが、江戸期からその仕様は変わっていないのではないか。なぜなら、内陸や郊外の富士塚が富士山の一合目、すなわち墳丘の下を一合目と決め、頂上の溶岩を積みあげた山頂に向けて登りはじめるのに対し、鉄砲洲富士はいきなり五合目からはじまっているからだ。江戸期には、この溶岩の下にいくらかの土盛りがあったとしても、きわめて低いものではなかったろうか。
 その様子は、1864年(元治元)に三代豊国・二代広重によって描かれた、連作「江戸自慢三十六興」のうち『鉄砲洲いなり富士詣』でもうかがうことができる。富士塚の全体は溶岩のかたまり、すなわち現状と同様の造りであり、基盤となる丘がまったく描かれていない。画面には、遠景として山頂をめざす母子が描かれているが、鉄砲洲富士はこれほど大きくはないので浮世絵師によるデフォルマシオン(誇張)表現だろう。高さが約5.4mで面積が約95m2と、江戸の市街地や郊外にある富士塚に比べ小規模なのも、土台となる塚=古墳が存在していなかった様子がうかがえる。
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 ところで、鉄砲洲や八丁堀界隈でランチを食べようと、いろいろな飲食店を探したのだが、あいにくビジネス街の日曜日で開いてる店が少ない。明石町方面へ歩いていくと、戦前の昔から開業している老舗の天ぷら屋や鮨屋、戦後のフレンチレストランなどがあるのだが、それらは店先にメニューを表示していない「時価」の店舗なので、怖くて入れなかった。そういえば、明石町や八丁堀界隈は一時期、築地市場の新鮮な食材を背景に高級料理店が多く軒を並べていた地域でもある。

◆写真上:八丁堀側の湊1丁目から眺めた、亀島川に架かる南高橋の西詰め。
◆写真中上は、1893年(明治26)に撮影されたトラス橋になる前の大橋(両国橋)。中上は、1904年(明治37)に竣工した大橋。中下は、横網町の復興記念館に保存されている昭和初期まで使用されていた「りやうこくはし」のプレート。は、復興校舎として完成した千代田小学校(現・日本橋中学校)の屋上から撮影された大橋。元祖すずらん通りに面して、ミツワ石鹸丸見屋本社ビルがないので1930年(昭和5)以前の撮影だと思われる。
◆写真中下は、南高橋として移築された大橋の3連桁トラスの中央部。中上は、新川2丁目(東詰め)方面へ向けて撮影した南高橋。中下は、剝脱した塗料の下には赤茶色の錆止めと現状の塗料との間に灰青色の塗料が確認できる。は、東詰めから撮影した南高橋。
◆写真下は、上流の高橋から撮影した南高橋の全景。背後に見える巨大な水門は、大川の出口に設置された亀島川水門で、背景は石川島の高層ビル群。中上は、亀島川(越前堀)よりも幅が広かった八丁堀(別名:桜川)跡の桜川公園。中下は、鉄砲洲稲荷社の境内に残る鉄砲洲富士。は、1864年(元治元)に制作された三代豊国・二代広重による『鉄砲洲いなり富士詣』(部分)。
おまけ
 上の写真は、こじんまりした鉄砲洲稲荷の鉄砲洲富士全景。下は、『落合ほたる』と同様のコラボレーションで三代豊国・二代広重が描く「江戸自慢三十六興」の『鉄砲洲いなり富士詣』。
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「婦人之友」から3女性の画業事始め座談会。

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 画家になるきっかけとは、いったいどのような経験だったのか? 1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号では、三雲祥之助がMCの役割で、その連れ合いである小川マリ子、三岸節子、そして佐伯米子の3者が座談会を開いている。
 ちなみに、この当時の婦人之友社の所在地は、豊島区雑司ヶ谷6丁目1148番地のままであり、のちに同地域の住民たちにより最高裁まで争われることになる、行政による強引で一方的な地名変更の押しつけで、豊島区「西池袋2丁目」になる前の時代だ。
 なぜ、「婦人之友」が女性の洋画家たちの座談会を開いているのかといえば、戦後に結成された女流画家協会の人気や反響も大きかったのだろう、戦前には不自由だった女性の生活(女修身)が敗戦で霧散し、自分の好きな仕事に取り組める環境が、少しずつ整いはじめていた時代の影響も大きいとみられる。したがって、画家をめざす女性が急増していた背景があったのだろう。同誌の座談会では、なにがきっかけで画家になったのか、どのような経緯で画家をめざすことになったのかという、3女性の出発点=動機が語られる内容となっている。
 少し余談だけれど、いまの若い子たちには聞きなれない言葉だと思うが、わたしの親の世代までは「女流画家」や「女流作家」(ときに「閨秀作家」)などという言葉がそのまま残ってつかわれていた。では、「男流画家」や「男流作家」という表現があるかと思えば、そんな言葉は存在していない。換言すれば、画家や作家という職業は男性があたりまえの時代で、女性がそれらの職に就くのは異例だったのだ。いまや、作家や文筆家は女性のほうが圧倒的に多いのではないかと思われるが、戦前は女性が画家や作家をめざすことは、薩長政府による中国や朝鮮半島由来の儒教思想による教育から、「とんでもなく不良で非常識なこと」と思われていた時代だ。
 まず、三岸節子は女学生時代から絵がうまかったこと、美術の教師からかわいがられ、図画はいつも100点ばかりで学校の代表に選ばれることが多かったと述懐している。当時は寄宿舎の生活で、室内があまりに殺風景だったため、展覧会へ出かけて風景画を1枚購入したことから、洋画に興味を抱いたのがはじまりだった。以下、1951年(昭和26)発行の「婦人之友」6月号に収録された、「季節の話題/女性と美術を語る」という座談会から引用してみよう。
  
 三岸――女学生のくせに随分生意気な話ですけれど、その絵は加藤某とかいう無名作家の絵で、緑一色で描いた、今から考えればセンチメンタルな甘い絵だつたと思います。ともかくそれを買つて部屋にかけて毎日眺めていました。その頃の私は、絵だけでなく、文学や詩が好きで、いわゆる文学少女でしたから、芸術に対する漠然としたあこがれを持つておりました。それに子供の時から、家にはさまざまの書画があり、骨董屋が始終出入りしているというような、代々ディレツタントの家だつたという環境のせいもありましよう。
  
 三岸節子の実家(愛知県一宮市・吉田家)は、医者になる姻戚が多く、親から女子医学専門学校への進学を強くいわれていた。だが、彼女は女学校を卒業間際に受験したものの、数学が苦手で落第してしまう。そこで、親には「何でもかんでも油絵をやりたい」といって、岡田三郎助に弟子入りするのと同時に、本郷菊坂町89番地の女子美術学校へ入学してしまった。以来、三岸節子にとっては、絵を描くこと=「やむにやまれぬパッション」となったと語っている。
 一方、東京の尾張町(銀座)で育った佐伯米子は、絵を描くようになったきっかけは三岸節子に比べ「ほんとに平凡で、はずかしい」と発言しているが、彼女が育った牙彫師(がちょうし)がたくさん勤務する特殊な環境は、決してありふれた家庭生活ではなかったはずだ。むしろ、美術工芸にきわめて近しい環境だったろう。つづいて、座談会の佐伯米子の述懐から引用してみよう。
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 佐伯――私の家は、象牙彫刻の美術貿易商でした。この頃の方は象牙細工などご存知ないかもしれませんけれど、名人のほつた真白い観音様だの娘だの、そういうものがあつて、それを見て暮したということが、私の心を美術の方へ向けさせ、絵をかくようになつたもとだつたと、いえばいえるでしよう。/やつぱり私も、絵は小学校の時からはり出しとか何とかいつて、いつもお点がよかつたし、手工なども上手で、代表になつて展覧会に出たりしました。そして絵を習いたいといつていたのみ(ママ:で)、母がつれて行つてくれたのは日本画の先生でした。それで私はすぐに絵具できれいな絵が描けるのだと思いましたら、先生の前にちよこんと坐らされて、竹だの真珠の玉だのの、つけたてばかりやらされて、つまらなくてがつかりしてしまいました。それから虎の門の東京女学館に入つて、今度は川合玉堂先生にお弟子入りしましたけれど、やつぱりお手本を描いて頂いて、一週間目にお清書して、先生にもつてまいりました。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯米子の実家・池田家では、別に彼女を画家にしようとして日本画家の画塾に通わせたのではないだろう。(城)下町の子どもが身につける、基本的な教養のひとつとして、佐伯米子の場合は日本画だったにちがいない。これは、(城)下町の家庭では江戸期からつづく習慣で、学校(寺子屋時代含む)の勉強とは別に三味や琴、明治以降はピアノやヴァイオリンなどの楽器類、清元や常磐津、小唄、詩吟、謡曲、さらに和歌、俳句、川柳の修得、絵画や書の稽古など、学校教育とは別に、なにか一芸を基本的な教養として身につけるのがあたりまえだった。
 そうでないと、なにかの会合や人前に出たとき、無芸な野暮では大恥をかくことになってしまい、あるいは話の拡がりで共通の話題が見つけにくく、趣味の基盤があるのとないのとではコミュニケーションや人脈の形成に大きく影響したからだろう。わたしの親父は、戦前に三味(細竿)と清元(いわゆる線道)へ通わされたが、45歳をすぎたあたりから、なぜか乃手趣味の謡いをはじめるようになった。息子であるわたしは、線道もついていなければことさら披露できる一芸もないので、(城)下町人としては落第で失格だろう。学校教育とは別に、必ず一芸を修得するのが戦前の江戸東京、特に町場では日常的であたりまえの世界だった。
 その後、佐伯祐三と結婚してから、米子は洋画を描くようになったと話している。佐伯とともにフランスへ出かけたとき(第1次滞仏=1923~1926年)、ゴッホ(当時の一般的な呼称はゴーグ)がいたアルルの田舎の草原で、ボール紙のキャンバスに油彩で描いたのが最初だった。それが思いもよらずパリでサロン・ドートンヌに入選し、これが契機となって油絵を描くようになった。当時は日本画の手法が抜けておらず、その表現がめずらしくて入選したのだろうと米子は回想している。
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 さて、小川マリ子の場合は、どんなきっかけで絵をはじめたのだろうか。3人の中ではもっとも遅いスタートで、絵描きになるつもりなどなかったという。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 小川――私は北海道の荒地そだちで全く美術などとは縁の遠い生活だつたのですけれど、たゞ自然の中に育ちましたから、自然に対するあこがれを、小さい時から、今も持ちつゞけているのだと思います。東京に来て東京女子大を卒業してからもぐずぐずして油絵をはじめたのは廿七位でした。その頃西荻窪に住んでおりましたが、その秋色のきれいなのに感動して、はじめて絵を描いてみたいなあと思い、誰にも教えられないのですけれど、自分でこつそり水彩画を描きました。とても恥かしがりやでしたから、描いても絶対に人にはみせないのです。そのうちに、何ということなしに油絵が描いてみたくなり、文房堂に絵具を買いに行つたのですが、自分が描くのだとは恥かしくていえない。子供用の油絵具を下さいといつて、買つたのですけれど、油壷をどこへ置くのかも分らないというようなわけでした。エカキになろうなどという考えは毛頭なく、たゞ始めは自然の中で勝手にたわむれているような気持だけでした。それでどこにも習いに行こうなどとは思いませんでした。(中略) こんなわけで私のかき出した動機は、むさし野の自然だつたように思います。
  
 小川マリ子は、その後、知りあいを通じて小島善太郎に油絵を習うことになる。小島善太郎が、南多摩郡加住村(現・八王子市舟木町)にアトリエをかまえていた時代だろう。
 3人のなかで、やはり三岸節子の出発点が意志的で、確とした主体性に裏打ちされていると感じる。佐伯米子は、どちらかというと(城)下町の教養が出発点で、あとは連れ合い(夫)しだいだった様子が透けて見えるようだ。もし、夫が文学者だったら、彼女は時代の証言者的なエッセイストになったのではないか……と思えるような文章(おもに明治から大正期の銀座・東京風景など)を、あちらこちらに残している。小川マリ子は、絵を描きたいとひそかに思う女子がいれば、誰もがたどりそうな道筋で画家になっており、「婦人之友」の読者にはもっとも近しい存在といえるだろうか。「婦人之友」編集部では読者に向け、うまく“バランス”のよい人選をしているように思える。
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 この座談会に、同じ女流画家協会の起ち上げからの会員で、三岸節子の親友でもある藤川栄子が参加していたとしたら、どのような展開になっていただろう。それを想像すると、ちょっとおもしろい情景が浮かんできそうだ。三岸節子が「絵の学校なんかで勉強してちゃダメになるわよ」とか、藤川栄子が「米子さん、あんた、“なんぼでもデッサン”よね」とか、ふたりの強い女性の遠慮会釈のない、いいたい放題の掛けあい対談になり、言葉では太刀打ちできそうもない佐伯米子と、奥手で恥ずかしがりやの小川マリ子は、ほとんど発言する機会がなかったのではないか。w

◆写真上:自由学園明日館の隣りにある、ライト風の窓が目立つ婦人之友社ビル。
◆写真中上は、1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号の表紙()と目次()。は、座談会で司会をつとめた三雲祥之助(左)と佐伯米子(右)。は、同じく座談会へ参加した小川マリ子。いまだ敗戦から間もないため、写真の印刷画質が非常に悪い。
◆写真中下は、1947年(昭和22)ごろ撮影の女流画家協会展の部屋割りを相談する会員たち。は、同じころ展覧会前に同協会で行われた応募作品に対する審査会の様子。中央の長椅子に座っている森田元子と右隣りには佐伯米子、右端で作品を指し長椅子のアームに腰かけながら文句をいっていそうなのが藤川栄子は、フランスの野原で写生をする佐伯米子。
◆写真下は、1955年(昭和30)撮影の三雲祥之助と妻の小川マリ子。は、1934年(昭和9)ごろに撮影されたとみられる大正期の女性画家としては先がけていた甲斐仁代(左)と藤川栄子(右)。は、1915年(大正4)に撮影された本郷菊坂の女子美術学校における人体デッサンの実技授業。
おまけ1
 1950年代の、時代を彷彿とさせる記事や広告も掲載されている。おそらく表3の記事「商品の知識/粉ミルク」(左)と、表4の「森永ドライミルク」広告(右)はタイアップ企画だろう。わずか5年後、森永乳業の徳島工場で生産されたドライミルクに、工業用の第二燐酸ソーダに含まれた多量のヒ素が混入し、西日本を中心に1万3,000人の乳幼児が中毒症状を発症、うち130人以上が死亡している。いわゆる「森永ヒ素ミルク中毒事件」で、わたしの親たちは決して森永の乳製品を手にしなかったのを憶えている。現在でも、重症の被害者への補償やケアはつづいているようだ。
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おまけ2
 1950年代の画家の女性ふたりは、このように報道されていた。1959年(昭和34)の新聞記事から。
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中井英夫が住みたがった大江戸の認識。

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 下落合4丁目2123番地の「バラ園」に住んだ中井英夫は、敗戦直後の翌年1946年(昭和21)には西荻窪の次姉のアパートに身を寄せていた。そこでも、以前から書き継がれてきた日記をつけつづけ、敗戦直後のものは『黒鳥館戦後日記』として発表している。
 その中に、どうしても東京に住むなら……という前提で、当時の住みたい街をいくつかピックアップしている。以前にも、拙記事でご紹介していたけれど、敗戦から5ヶ月後、1946年(昭和21)1月24日付けの日記には、次のような記述が見えている。再度の引用となって恐縮だが、1983年(昭和58)に立風書房から出版された、中井英夫『黒鳥館戦後日記』から引用してみよう。
  
 どうで東京に住むとならば、築地か人形町か薬研堀か、もしくは本郷、上野、浅草、それでなければ直次郎を気取つて駒込あたりに侘びずまひ、本当の江戸に生きぬきたい。もとより己が生得の田舎気質は、何遍お江戸の水で洗はうとあくのぬけるしろものではない乍ら、こんな西荻あたりは場末の面白さも見られず、ほとほとに愛想もつき果てた。今度の戦争で焼けなかつたその事自体が荻窪以西の如何に片田舎であるかを示してゐる。(中略)/東京に住むことのうれしさ、誰がクソ、どうあつても此処だけは離れぬ、ここだけは己のふるさと。さういへば今朝の新聞には、戦災者の麦ふみの写真など出てゐたけれども、何とそれが神田の町中での事だといふに、ふるさともあまりの土くささに、わびしさをもよほさずにゐられない。
  
 父親の中井猛之進は岐阜の出身だが、中井英夫は滝野川区の田端町生まれなので、ふるさとは東京ということになる。だが、彼は故郷の街の名前をあえて挙げていない。おそらく、大江戸(おえど)由来の芝居(黙阿弥の世話物中心)に馴染んでいたものか、江戸東京でも江戸後期から明治にかけて人気があった地域の街をピックアップしているのがわかる。
 この文章につづけて、「焼けたことこそ江戸ッ児の誇りとは申せ、もう少し焼け方もあつたらうものを」と、空襲で焼けた街々を惜しんでいるところは、中井英夫がすでに江戸東京地方のアイデンティティをすっかり身につけていた(つもりになっていた)ことをうかがわせる表現だ。ちなみに、彼の故郷である田端町は、空襲でほとんど焼け野原になっていた。
 まず、「築地」から考えてみよう。築地あるいは大川(隅田川)の中に浮かぶ佃島や月島界隈は、激しい空襲からもかろうじて焦土にならなかったエリアだ。ところどころ、まだら状に焼夷弾が落ちたものか、部分的に焼けた街角が確認できるが、街全体が消滅してしまうほどの被害は受けていない。築地の北側、明石町や入船町、新川町、八丁堀など、そして北東側の霊岸島界隈は空襲の延焼に遭い、ほぼ全域で焼け野原が拡がるような風景だった。
 次に「人形町」もまた、日本橋地域の中で奇跡的に焼け残った街ということになる。西側の日本橋江戸橋へ近づくほど、コンクリートのビル(内部は丸焼けだったが)を除き、木造の家屋は空襲でほとんど焼失している。だが、おそらく風向きの加減からか、人形町一帯には火がまわらなかったらしく、戦前の古い街並みがそのまま“保存”されているような状態だった。つまり、中井英夫の「築地」や「人形町」は、戦前の東京の街中の香りがそのままつづいている地域ということになる。ただし、これらの街々も関東大震災で江戸期や明治期の風情を消すほどの大きな被害を受けているため、厳密にいえば大正期に建てられた建築が中心で、ところどころに江戸や明治建築(レンガかコンクリート造りで、焼け残ったか修復された建築)が残っているような風情だったろう。
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 だが、「薬研堀」の街々はまったく異なる。厳密にいえば、「薬研堀」という町名はかなり局所的になる。江戸後期から明治期にかけ、大川へ通う薬研堀は埋め立てられつづけたが、その埋め立てた堀の上にできた街を、一時的に明治初期ごろから薬研堀町と呼んだ時代があった。だが、中井英夫が書いた「薬研堀」はその街のことではない。江戸期から、通称名として「薬研堀」地域と呼ばれていたのは、大橋(両国橋)の西詰めに近い、日本橋米澤町や同矢ノ倉町、同村松町、同若松町、そして明治初期に形成された薬研堀町をすべて併せた一帯、つまり大江戸時代=江戸後期にはもっとも繁華な街だった現在の東日本橋地域のことだ。
 江戸前期には、医者や薬問屋などが多く住んでいたといわれているが、江戸後期になると神田川の河口をはさんだ柳橋を背負う、大江戸ではもっとも繁華な街を形成していた地域ということになる。現代の感覚でいうと、銀座か新宿の商店街に相当する街中ということになるだろうか。大橋(両国橋)の東西両詰め(日本橋側と本所側)=両国広小路では、しじゅう見世物の小屋がけ(いまでいう大規模なイベント)が行われ、ときには開催中に大江戸人口の約半数(70万~80万人)ほどを集めるほどの賑やかさだった。中井英夫が「薬研堀」を挙げたのは、そんな大江戸一の繁華だった街に、彼ならではの「郷愁」を感じていたものだろうか。
 次いで挙げている「本郷」だが、これは彼の母校である東京帝大がある街なので、学生時代の思い出と結びついたノスタルジア(郷愁)からだろう。戦後は、湯島から神田にかけては焼け野原だったが、本郷の北端や西片町にかけては延焼をまぬがれている。特に西片町には、江戸期から大正期にかけての古い住宅街がそのまま残されていただろう。
 つづいて、挙げているのが「上野」だ。中井英夫は「上野」と書いているが、これは厳密にいえば江戸期から街々が形成されてきた下谷のことだろう。江戸後期には、小旗本や御家人、千代田城に勤める茶坊主、幕府専属の専門職人など、幕臣を中心とした「御城」の関係者たちが多く住んでいた街だが、明治以降はさまざまな分野の専門職人の街に変貌している。また、あとで挙げている「直次郎」が活躍した地域でもあり、町名ともからみ芝居の舞台として数多く登場する地域だ。また、今日でいう上野は本郷の東隣りにあたる地域なので、中井英夫は学生時代の思い出のある街だったのかもしれない。ただし、同地域は銀座とともに、東京大空襲以前の早い時期から空襲にさらされており、戦後は焼け残った街角が島状に点在するような光景になっていた。
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 次に、「浅草」を挙げているが、これは明治以降に遊興地として拓けた街で、中井英夫も映画や寄席、演劇などを観に通っていたのではないかと思われる。この街も、学生時代のなんらかの思い出と結びついているのではないか。ただし、上野の東側に位置する大川沿いの浅草一帯は、激しい空襲によりほぼ全滅状態だった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で大きなダメージを受け、焼け残ったエリアは敗戦まで繰り返し爆撃されたのだろう、見わたす限りの焼け野原だった。浅草寺にも火が入り、本堂や五重塔など主要な伽藍を焼失している。
 最後に、「直次郎を気取つて駒込あたり」は、もちろん河竹黙阿弥『天衣紛上野初花』(くもにまごう・うえののはつはな)=通称「河内山」に登場する、上野寛永寺の高僧をかたる茶坊主の河内山宗俊と、御家人くずれの「直侍」(なおざむらい)こと直次郎の、ふたりの悪党が活躍する芝居の舞台だ。駒込は、御家人だった直次郎が役宅をかまえていた街で、「河内山」の第六幕に「/\根が駒込の片端で~二人扶持に俵取~」と七五調のセリフが登場する。
 こうして、敗戦直後に中井英夫が挙げている、東京の住みたい街々を見てくると、江戸後期または明治以降から戦前にかけて江戸一あるいは東京一といわれた人々が集まる繁華街、あるいは学生時代に頻繁に遊びに出かけ馴染んだと思われるノスタルジックな街々、さらには芝居(特に黙阿弥作品)を通じて親しんだとみられる場所などで暮らしたいと考えていたようだ。けれども、なぜか彼は市谷台町に住んだあと、1958年(昭和33)に下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目23番地)に転居してきて、多種多様なバラを育てながら『虚無への供物』を執筆することになる。
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 中井英夫は、「どうで東京に住むとならば」と挙げた街々へ、戦後やや落ち着いてから出かけているはずだが、そこで見た焼け野原や戦争の傷跡が生々しい地域に幻滅したものだろうか、それらの街々には住んでいないようだ。むしろ、西荻窪と同様に戦争の被害をほとんど受けていない、戦前はアビラ村(芸術村)と呼ばれていた、下落合4丁目におよそ10年間も暮らしている。

◆写真上:戦後、寄宿していた西荻窪の次姉アパート前で撮られた中井英夫(左)。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に米軍のF13により撮影された空中写真にみる築地界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の日本橋人形町界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された東日本橋界隈。は、1948年(昭和23)撮影の本郷界隈。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる下谷(上野)界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の浅草界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された駒込界隈。は、1947年(昭和22)撮影の中井英夫が生まれたふるさと町の田端界隈。
◆写真下は、戦後すぐのころに撮影された中井英夫。中上は、1947年(昭和22)に次姉のアパートに寄宿していたころの西荻窪界隈。中下は、1947年(昭和22)撮影の下落合4丁目(現・中井2丁目)界隈。は、世田谷区羽根木2丁目25番地の自邸縁側で撮影された中井英夫(右)と澁澤龍彦(左)。
おまけ
 1947年(昭和22)7月27日 晴、暑さ限りなし
 「向ひのアパートで子供を叱る声、かけつ放しのラヂオ、四卓ばかり朝からやつてゐる麻雀等々、こちらでは酒をのんでチンダラカノサマヨ、りんごの歌等々、(中略) この中で勉強なんか出来るもんか、清浄な人間になんかなれるものか。たゞじつと身をひそめて、書くべきものに耳をすますのみ」(『続・黒鳥館戦後日記』より)。下は、1947年(昭和22)に描かれた中井英夫『自画像』。
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