名画は左光線が多いと三岸好太郎。

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 伊藤廉の子どもが急死したとき、風雨が強い嵐の夜にもかかわらず、3人の画家がいたましい通夜の席に駆けつけている。1932年(昭和7)11月のことで、おそらく遅めの台風でも晩秋にきていた夜なのだろう。このときの伊藤廉アトリエは、のちの佐分眞アトリエをゆずり受けた北区西ヶ原ではなく、下落合のすぐ北側、豊島区長崎南町2丁目2027番地(のち地名番地変更で椎名町3丁目1964番地と同一敷地)に住んでいた。
 改正道路(山手通り)工事の前、伊藤アトリエは聖母坂から長崎天祖社の前を北上し、椎名町駅の南200mほどの位置で西へ左折したあたりの住宅街にあった。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、庭木が繁る洋館と見られるアトリエの屋根を確認できる。嵐の中、長崎南町の伊藤アトリエへ駆けつけたのは、宮田重雄里見勝蔵、そして三岸好太郎の3人だった。
 宮田重雄は下落合から徒歩で、おそらく5~6分ほどで着き、里見勝蔵は西武線・井荻より、三岸好太郎は同線の鷺宮より乗車して、西へ移設されたばかりの下落合駅から歩いたのだろう。里見と三岸のふたりは、鷺宮駅で落ち合い連れだって弔問に訪れているのかもしれない。1932年(昭和7)現在の各人のアトリエは、宮田重雄が第三文化村の南にあたる下落合3丁目1447番地、里見勝蔵は下落合から転居した杉並区下井草1091番地、三岸好太郎は中野区上鷺宮407番地の旧アトリエだった。宮田を除き、伊藤と里見、三岸は独立美術協会のメンバーだ。
 このとき、愛児を亡くして憔悴している伊藤廉を見かねて、おそらく三岸好太郎は気をつかったのだろうか、深夜の沈痛な雰囲気の慰めようもない中で、盛んに美術の話題を口にし、伊藤の気をまぎらせようとしている。三岸好太郎が話題にしたのは、「古今の名画は左光線で描かれている作品が圧倒的に多い」という“仮説”だった。
 以下、そのときの様子を1933年(昭和8)に発行された「美術新論」1月号(美術新論社)収録の、むさしや九郎『謹賀新年妄筆多罪』から引用してみよう。
  
 三岸好太郎氏、一つの発見を語るに到りて、忽ち議論沸騰す。三岸氏の曰く、「僕は近頃、絵画に於ける、一つの光線の法則を発見したよ。それは風景画でも人物画でも、大抵の良い絵は、故意か偶然か知らないが、必ず光線(ライト)を向つて左方から採つてあるといふ事だ。恰度、着物を着るのに左前に着てゐると可笑しいやうな具合に、これにも、人間の感覚にある安定感や美感から云つて、何か充分の理由があるんぢやないか。なにしろ大抵の絵が、左方から光りが来てゐるのだ。」 宮田氏曰く、「それぢや、先づクラシツクを調べて見ようぢやないか」
  
 絵の話題になると、どうやら4人とも夢中になるのを見こした三岸好太郎の意図的な話題ふりと、敏感にそれを察した宮田重雄が同調しているように思われるが、真っ先に反応したのは伊藤廉だった。自身のアトリエに入ると、さっそくルーブル美術館のコレクション絵画を集めた写真帖を持ちだしてきている。ページをめくりながら、ルーブルの収蔵作品を次々に確認してみると、左方からの光線作品が30枚、右方からの光線作品7枚が数えられた。つまり、約77%の作品が、左光線で描かれているということになった。
 通夜をしている4人の画家たちはこの仮説に夢中になり、伊藤廉は次々とアトリエから画集を運んできては確認していった。ボナールの画集は、左光線が22点に対して右光線が24点とあまり有意の差が感じられず、「三岸仮説」に当てはまらないことがわかった。次にドラン画集を確認すると、左光線が14点に対し右光線は10点と微妙な結果だった。
 伊藤廉はアトリエを往復して重たい画集を運び、セザンヌの画集では左光線が40点に対し右光線が25点と左光線がかなり優位で、ブラマンク画集を見ると左光線が32点に右光線が28点とやや左光線のほうが多かった。伊藤廉はすっかり夢中になり、気になりはじめたのか、これまでの自身の作品を確認しはじめた。同誌より、つづけて引用してみよう。
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 伊藤氏曰く、「しかし可笑しいなあ。僕はフランスで描いた絵は左方から光を採つてゐるが、日本に帰つて来てから描いたのは皆右からだ。向うでは左傾で、日本に帰れば右傾といふのも可笑いぜ。(ママ) これは何かの便宜のためからぢやないか知ら。」 そこで、便宜説となり、遂に、それは右利きと左利きの関係からではないかといふ疑問に到着し、絵に左方からの光線多く、右方からの光線すくなきは、人に右利き多くして左利きすくなきに因るに非ずや、(後略)
  
 ふつうに考えれば、右利きの画家が左光線の描きやすいのはあたりまえだし、左利きの画家は右光線のほうが描きやすいとすぐに気づくだろうし、また三岸好太郎もそれを十分承知のうえだったと思うのだが、あえてそれをあたかも自分が発見した“新説”のように披露にすることで、伊藤廉が感じている打撃や悲哀を少しでも薄め、慰めようとしているように感じる。「ホラ吹き好太郎」(少年時代の綽名)の、面目躍如といったところだろうか。
 これは、たぶん他の画家たちも途中から気づいていたと思うのだが、あえて実証的に多彩な画集を出させ長時間にわたりページをめくることで、伊藤廉が置かれた子どもの通夜というパニックに近い極限状況の痛みを、少しでもやわらげようとしていたのではないか。また、伊藤廉も利き腕のテーマをとうに気づいてはいたが、あえて三岸の仮説に乗って美術論を交わすことで、かろうじて心のバランスを保っていたようにも思える。
 左利きの画家たちの画集を探して、伊藤廉はアトリエを何度も往復している。
  
 然らば先づ左利の梅原龍三郎画集を調べよ、と取出して見るに、梅原氏の絵の殆ど凡ては右方光線、又、左利のレオナルド画集の絵も、殆ど凡て右方光線なり。こゝに到りて、皆々顔を見合せて呵々大笑、「なーんだ、手紙を書く時だつて、ギツチヨでなければ、誰でも電燈は左の方へ置くぢやないか」 斯くて絵画構成上の左方光線安定説は、其の夜の嵐に吹かるゝ枯葉の如く飛消。但し、伊藤氏は、この説より何事かの暗示を得て目下研究中の由也。こたびは如何なる珍説現はるゝや。
  
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 こういう、状況に応じてとっさに“融通”や“気転”のきくところが、三岸好太郎の才能でもあったのだろう。その“融通”がききすぎて、独立内部で起きたゴタゴタの際は、仲間から「三岸はそういう奴なんだからしょうがない」と諦められ、連れ合いの三岸節子からも「典型的なうそつきでしょうね」などと呆れられもするが、伊藤アトリエにおける愛児の通夜での出来事のように、「そういう奴」の繊細な神経がプラスに働いて、ともすれば底知れず落ちこみ沈鬱になる伊藤廉の心境を、少しでもやわらげようとしていたように見える。このとき、三岸好太郎は函館の湯の川温泉からもどったばかりで、彼が死去するわずか1年と7ヶ月前の出来事だ。
 伊藤廉は、子どもの通夜における「議論」の優しい心づかいを知っていて、ありがたく感じていたものか、三岸好太郎の死後に刊行された美術誌などへ、彼に関する文章や画論を積極的に寄稿している。その中から、三岸好太郎が新アトリエの建設前に逝った直後、1934年(昭和9)刊行の「アトリエ」10月号に収録された伊藤廉『三岸君を憶ふ』から引用してみよう。
  
 三岸君はアトリエを建設しかけてゐた。ことさらら南向きに大きな窓をとつて、冬には室中一杯に太陽が入るやうに設計してゐる。彼はこの冬の太陽をあびながら制作出来る幸福をたのしんで、僕にいろいろ語つた。冬の寒さが全く困るからとか、北向きの窓からとる変らざる光を欲するよりも、うつらうつら温室のやうなものゝ中にゐて制作出来るたのしさの方を欲求する理由などを。三岸君はこの願ひをやうやく実現しかけて、逝つてしまつた。心残りの多いことだらうと察する。僕たちとしても、三岸君が考へてゐる特殊な設計のアトリエの中で、制作させてみたかつた。
  
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 三岸好太郎の葬儀写真には、里見勝蔵と並ぶ左端に白のコットンスーツを着た伊藤廉が写っている。南側の全面に窓ガラスをはめ、陽光が刻々と変化する上鷺宮の三岸アトリエが竣工すると、伊藤廉はさっそく上鷺宮を訪ねただろう。そのとき、「特殊な設計のアトリエ」の北面にも、ちゃんと通常の採光窓が穿たれているのに気づいたにちがいない。

◆写真上:長崎南町2027番地にあった、伊藤廉アトリエ跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」に採取されている長崎南町2027番地の伊藤廉アトリエ。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所の伊藤アトリエだが、住所と番地はともに大きく変更され椎名町3丁目1964番地に変更されている。は、戦後に撮影された伊藤廉()と宮田重雄()。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に制作された伊藤廉『鳩と静物』。中上は、制作年が不詳の宮田重雄のリトグラフ『公園』。中下は、同じく宮田重雄の『山中秋日』。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された里見勝蔵『下落合風景』。中上は、戦後制作とみられる里見勝蔵『スペイン風景(ボーの岩山)』。中下は、1932年(昭和7)に制作された三岸好太郎『水盤のある風景』。は、晩年の1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『海と射光』
おまけ
 1936年(昭和11)に佐分眞はアトリエで自裁するが、のちにそのアトリエを譲り受けて住んでいたのが伊藤廉だった。写真は、北区西ヶ原2丁目12番地に建つ伊藤廉(佐分眞)アトリエ。
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気になる加賀藩前田家上屋敷の椿山古墳。

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 少し前、下落合の丘上を大正期に発掘調査した大里雄吉の記事Click!に、東京帝国大学のキャンパスにあった「椿山古墳」が登場していた。もちろん、江戸期から大正期にかけ同学キャンパスは加賀藩前田家上屋敷(明治以降は前田邸)であり、玄室の石材とみられる切石が出土している同古墳は、屋敷庭園の「築山」または「見晴らし台」(江戸後期には「本郷富士」)にされていたとみられる。武蔵野文化協会の会員だった安倍叔(おそらく学生)という人物が、同古墳を簡易調査しており気になったので、きょうは東京帝大キャンパスにあった椿山古墳について少し追いかけてみたい。
 これまで、大名屋敷の庭園にあった築山が、実は古墳期の前方後円墳や円墳であった事例は、拙サイトでも数多くご紹介してきている。たとえば、新宿駅西口にあたる美濃高須藩の松平家下屋敷の庭園築山にされていた新宿角筈古墳(仮)Click!をはじめ、水戸徳川家上屋敷(後楽園)にある大きめな小町塚古墳Click!(現存)、土岐美濃守の下屋敷の庭園にあった亀塚古墳Click!(現存)、尾張徳川家の下屋敷(戸山荘)だった戸山荘庭園の羨道や玄室が露出した古墳群Click!、大名屋敷ではないが寛永寺Click!境内の築山にされていた摺鉢山古墳Click!(現存)をはじめとする古墳群など、多くの拙記事に登場している。
 また、東京帝大の椿山古墳は、江戸期の富士講Click!により「本郷富士」に仕立てられており、明治期に入ってからも周辺一帯は富士町と呼ばれていた。拙サイトでは、富士塚にされていた古墳もいくつかご紹介しており、落合地域の周辺でいえば上落合の落合富士Click!にされていた大塚浅間古墳Click!や、高田富士Click!にされており玄室石材の多くが水稲荷社Click!の本殿裏に保存されている早稲田大学キャンパスの富塚古墳Click!、江古田富士にされていた江古田浅間古墳Click!(現存)などが挙げられる。
 さて、東京帝大キャンパスの椿山古墳について、東京都教育庁社会教育部文化課の記録には、どのように記載されているのかというと、たとえば1985年(昭和60)に都教育庁から出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』によれば、本郷台地の上部に築造されており、「円墳?」とクエスチョンマークが付されている。なぜなら、同古墳の南側は明治期の前田邸として造成されており、前方部が削られた前方後円墳とも解釈できるからだ。同大学の経済学部校舎(現・赤門総合研究棟)の建設時に湮滅されており、破壊時には玄室の石材とみられる切石(房州石Click!かどうかは不明)が出土しているが、江戸期か明治期に盗掘にあったものか副葬品は記録されていない。
 余談だが、東京都教育庁社会教育部文化課が刊行した『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』には、古墳期についていえば、すでに寺社や各種施設、あるいは住宅地化などにより湮滅してしまった古墳や、古墳の墳丘と思われる遺跡なども含めて広く記録されており、都市部に存在した古墳(とその疑いが濃厚な小山や丘陵)を調べるには、基本的な情報を提供してくれるベーシックな資料だろう。早くからの都市開発で石棺や副葬品、埴輪片、羨道・玄室の石材などが散逸し確認できない事例も含め、江戸期からの資料も踏まえながら記述しているとみられる。
 同書には、椿山古墳について「5千分の1東京図に墳丘が認められる」と書かれているが、これは1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」のことを指しているのだろう。同測量原図を参照すると、前田家上屋敷の正門(赤門)Click!を入ってすぐ南側(右手)に、直径が30~40mほどの椿山古墳(後円部?)が確認できる。前方部があったとしても、全長70~80mほどだろうか。いまの東大キャンパスでいうと、東大の赤門総合研究棟(経済学研究科棟含む)あたりだ。赤門を入って右手(南側)にあった、明治期の前田邸が昭和初期に解体され移転すると、医学部や懐徳館などが建設されているが、それまでの前田邸母家の南側にも、まるで双子のような瓢箪型の突起がふたつ採取されている。これも、明治期の前田邸の南側にあたる庭園築山にされていた、小型の前方後円墳×2基なのかもしれない。
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 椿山古墳の山頂には、富士権現の祠が奉られていたようだ。いまでも、東大キャンパスの南側にある狭い敷地に、墳丘から移された富士浅間社が残っている。当時の様子を、1940年(昭和15)に東京帝大庶務課から出版された『懐徳館の由来』から引用してみよう。
  
 同丘<椿山古墳>上に富士神社の小祠が前田家の氏神として祀られてあつたが、前田家が敷地移転の際、これを町会に譲り、町会の有志によつて今尚祭祀を続けられて居る。懐徳館の庭の一部を割いた一角に祀られて居る富士浅間神社といふのが即ちこれである。この丘地が富士権現丘地と呼ばれるに至つたのは、此の社があつた所から出てゐるものであらう。現在では椿山と称へられて本学の一名所となつているのみでなく椿山古墳として原史時代遺蹟の一に数へにれて居る。(指定外史蹟名勝天然記念物・原史時代遺蹟・昭和十一年四月二日発行、東京市公報第二六八五号所載)<カッコ内引用者註>
  
 椿山古墳は、1885年(明治18)に坪井正五郎Click!が調査をしたが、このときは富士権現に向かう石段を少し掘り下げただけで遺物は発見できなかった。玄室の石材とみられる、「切石」が多く発見されるのは、椿山を崩した後世のことだ。
 また、「五千分一東京図測量原図」には、旧・前田家上屋敷の心字池(現・三四郎池Click!)の西側に椿山古墳よりも山頂が高く、直径も60mを超えそうで規模も大きめな円形の丘が採取されている。同地図では「楢」山と記載されているが、その渦巻き状の螺旋形をした丘のかたちから、江戸期より庭園の螺山(さざえやま)とされていた丘だろう。現在のキャンパスでは、文学部3号館や総合図書館のあるあたりだ。
 同地図では、囲いの中に円形のように描かれているが、こちらも南側を当時の校舎で大きく削りとられており、もともとは前方部が削られた100m超の中型前方後円墳だったのかもしれない。現在は墳丘が崩され、中央通り(西側)や弓道場(南側)になっているが、その片鱗は心字池に隣接した西側の森に多少は残っているだろうか。
 螺山(楢山)について、前出の『懐徳館の由来』よりつづけて引用してみよう。
  
 心字池の西側の丘上(略)にもう一つの丘があつた。螺山と呼ばれ、四十米近くの相当に高い丘であつた。前田侯が此の丘の上で江戸中を展望した所だと云はれる。育徳園心字池を掘つた土を盛り上げて副産物として出来た丘だと云はれる。金沢兼六公園の栄螺山を型取つたもので、螺旋状の路を上りつめると、富士山は勿論、品川の海までも一瞳の中に眺められたものであつた。この螺山は明治二十三、四年頃迄はあつたが、其後敷地を拡張する必要上、取崩されてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
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 ここでは、尾張徳川家の下屋敷だった戸山庭園のケースと、同じような事例を見ることができる。戸山庭園では、「琵琶湖」に見立てる池を掘った土砂で「箱根山」Click!を築いたとされているが、もともとあった丘状の突起へさらに掘削した土砂を盛りかぶせて、より高度のある丘(箱根山は約45m)を造成したのではないかと疑われているからだ。もともとあった丘状の突起とは、もちろん古墳の墳丘が想定されている。箱根山の場合は、ふたつの丘状突起の上へ新たに土砂がかぶせられているとみられる。
 螺山は、前田家上屋敷の見晴らし台にされていたようだが、上野の寛永寺境内にあった摺鉢山古墳Click!もまた、上野公園内で見晴らし台にされていた事蹟が想起される。見晴らし台にする際は、後円部を大きく削って丘上を平らにしているが、墳丘を削る以前はやはり30~40mほどの高度があったとみられ、ちょうど前田家の螺山と同じぐらいの規模だろう。上野山の摺鉢山古墳(前方後円墳)は現存しているが、前田家の螺山のほうは椿山古墳とは異なり、なんら調査されることなく明治中期には破壊されてしまった。
 また、上記の文中で明らかに誤りなのは、兼六園の栄螺山は1837年(天保8)に築造されており、本郷の前田家にあった螺山は江戸前期(あるいはそれ以前)から存在しているので、金沢兼六園の栄螺山のほうが本郷の螺山をコピーして模したものだろう。1997年(平成9)に執筆された西村公宏の論文『近代日本高等教育機関におけるランドスケープ成立に関する研究』では、螺山消滅はもう少しあとの時代とされている。
  
 また、明治32(1899)年頃に、サザエ(栄螺)山は消滅し、生理・医化学教室の建設が進められており、明治36(1903)年頃には池のある中庭が整備されている。
  
 1929年(昭和4)に前田邸が駒場の東京帝大農学部跡地へと転居移転Click!する際、庭園の南端(現在の懐徳館から医学部3号館あたり)にあった、ふたつの瓢箪型突起の湮滅については記録が残っていないので、おそらくなんら調査もされずに破壊されているようだ。
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 こうして、本郷台地の丘上にあった加賀藩前田家の広い上屋敷内を見てくると、椿山古墳のみならず基盤が古墳とみられる螺山や双子の瓢箪型突起に限らず、早くから東京帝大の下になってしまった敷地には、数多くの古墳があったのではないかと想像できるのだ。

◆写真上:前田家上屋敷の正門(赤門)を入って、すぐ右手(南側)にあった椿山古墳。全景は入らなかったのか、5分の3ほどの墳丘がとらえられている。
◆写真中上は、正門(赤門)の冠木と門戸。は、東京大学の赤門総合研究棟で椿山古墳は画面の右手にあった。下左は、1940年(昭和15)に出版された『懐徳館の由来』(東京帝大庶務課)。下右は、1985年(昭和60)に出版された『都心部の遺跡-貝塚・古墳・江戸 東京都心部遺跡分布調査報告-』(東京都教育庁社会教育部文化課)。
◆写真中下は、1883年(明治16)に作成された「五千分一東京図測量原図」。は、1902年(明治35)に作成された「本郷区全図」で螺山が崩されている。
◆写真下は、東大キャンパスに南接して残る富士浅間社。は、本郷富士塚の記念碑。は、東大の南端につづくレンガ塀で、双子の瓢箪状突起は塀内の右手にあった。

おまけ
 江戸前期に冬の江戸市中へ出まわった、ミカンの原種を手に入れた。左側に置いたいまの紀州ミカンに比べると、小ぶりなユズと見まちがえるほどのサイズだ。紀伊国屋文左衛門が紀州から江戸へ回航していた当時のミカンは、江戸後期の品種改良がなされる以前のもので、このような形態をしていたのだろう。風味は現代のミカンとあまり変わらず、ひと口で食べられてしまうが、種がたくさんあるので食べたあとがたいへんだ。戦前まで、ミカンの北限は神奈川の湘南・二宮といわれており、子どものころは静岡ミカンと並び地元のミカンはよく食べたが、現在は新潟あるいは福島がミカンの北限生産地といわれている。
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【緊急】 佐伯祐正の「善隣館」支援について。

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 大阪市北区中津にある、佐伯祐正Click!が光徳寺で創立したセツルメントClick!社会福祉法人「光徳寺善隣館 中津学園」Click!の園長・渡辺祐子様(旧姓・佐伯祐子様)より、先日ご連絡をいただいた。渡辺様は、佐伯祐正の孫にあたられる方だ。
 現在、同施設は予想される「南海大地震」などに備えて強固な施設の建て替え中とのことだが、施設内に創立者の佐伯祐正および生家である佐伯祐三Click!の思いを伝えるため「アーカイブギャラリー」、および地域の子どもと障がい児たちのための「アートワークショップ」の開催を予定されており、同施設を開設するためのクラウドファンディングのプロジェクトを実施・推進されている。以下、渡辺様よりのコメントをそのまま引用してみよう。
  
 (前略) 祐正は道人様も記事に書いてくださったように、イギリスのトインビーホール
を真似て、大阪市北区中津(祐三の生家)の敷地内に「善隣館」を建てました。今年は
祐正が方面委員(今の民生委員)の事務所を敷地内に置き、実質的に福祉事業を始めてか
ら100年が経ちます。
 戦後は、焼け跡に保育園を建設して地域の戦災孤児や戦争未亡人の支援もしてきまし
た。1961年よりは、自宅で育てることが困難な障がい児の福祉型居住施設を運営しおり
ます。63年経ち園舎が老朽化し、雨漏りやひび割れもひどく、まして南海大地震に対し
ての備えも必要なために、建て替えを始めました。
 建物を新しくするのに合わせて、祐正・祐三の思いを伝えるため、アーカイブギャラ
リーを作り、また、地域のこどもと障がい児たちのアートワークショップも開催する予定
です。そのための資金を集めるため、クラウドファンディングを開始しましたが、あまり
広がりを見せず、できたら道人様に拡散していただけないかとメッセージお送りました。
 厚かましいお願いですが、ぜひ支援や拡散をよろしくお願いいたします。
 もし説明が必要であれな、メールや文章で改めて説明させていただきます。
 応募期間:2024年11月1日〜2024年12月16日
 https://camp-fire.jp/projects/758268/view
  (社福)光徳寺善隣館 中津学園
  園長 渡辺祐子
  担当 河﨑洋充
  
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 詳細は、「洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい」の、クラウドファンディングページClick!をご参照いただきたい。ほかでは入手できない佐伯祐三のポストカードや複製画、Tシャツなど支援用の楽しいアイテムがいろいろあり、わたしもさっそくポストカードによる支援をさせていただいた。クラウドファンディングの期間が12月16日までと短いため、支援の意志がおありの方は、できるだけお早めにCAMPFIREの上記ページよりご支援いただければと思う。
 「善隣館」が活動をはじめてから、すでに100年もの歳月が流れようとしている。その真摯な活動に共鳴・共感される方、あるいは大正期から盛んになったセツルメント活動に興味のある方(拙記事では、関西地域の「善隣館」や賀川豊彦Click!のケースをご紹介しているが、この地域では東京帝大セツルメントClick!について触れている)、そして佐伯祐三とその芸術がお好きな方は、ぜひクラウドファンディングに協力いただければと思うしだいだ。
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 なお、光徳寺善隣館 中津学園については、「中津学園 園舎建替え工事応援」サイトClick!も開設されているので、興味のある方はこちらもご参照いただければと思う。

◆写真上:昭和初期ごろに撮影された、佐伯祐正のセツルメント「善隣館」。壁面には、佐伯祐三の『滞船』や『薔薇』をはじめ滞仏作品が架けられている。
◆写真中は、セツルメントの研究で渡欧・渡米し、1925年(大正14)の夏にパリの佐伯祐三アトリエで撮影された佐伯祐正。(撮影は佐伯祐三とみられる) は、昭和初期に撮影された「善隣館」のモダンな外観と内部だが、1945年(昭和20)の中津地域への空襲により光徳寺の本堂と境内に付属していた同館は全焼している。
◆写真下:クラウドファンディングCAMPFIREに掲載の、「洋画家佐伯祐三の生家で障がい児と地域のアート拠点とアーカイブギャラリーを作りたい」のトップページ。

バックキャスト的に歴史を想像してみる。

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 ここに拙記事を書きはじめてから、きょうで丸20年を迎えます。いつも拙ブログをご訪問いただき、ありがとうございます。ここ1~2年で、記事へのアクセスカウントが大きく変動しています。佐伯祐三Click!に関する拙記事が、もっともアクセスの多いアーティクルClick!として7万超えのトップになりました。山田五郎教授Click!の講義、「オトナの教養講座」Click!による影響ではないかと思います。(ありがとうございました。>山田様)
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 ……とここまで書いて、来年の3月末にss-blogがとうとう終了するそうです。Seesaaブログへの、記事データの丸ごと移行サービスが予定されているようですが、どのようなものかはいまのところ不明です。すでにfacebookなどとのリンクは切れているようですが、拙サイトが消滅するまで力不足ながら、これからも落合地域をベースに故郷の江戸東京を、そして日本を見わたすような記事が書くことができればと考えています。あと4ヶ月余ほどの期間になりますが、よろしくお願いいたします。
  
 よく、歴史を語るのに【もし】というのは禁句などといわれる。だが、それは記録などの資料を積み重ね、過去に起きた事象を実証的に研究ないしは論証・解釈していく、純粋な歴史学の分野や視点には当てはまるかもしれないが、他の学術分野での史的な【もし】という仮説設定は、別に回避されもせずに重要な設定要素のひとつとなっている。【もし】という仮説を設定してシミュレーションを繰り返さなければ、これから起きる事象を予測し、あるべき未来の姿を想像(創造)することができないからだ。
 たとえば、1960年代に米国で起きたといわれている資本主義経済史上では前代未聞のスタグフレーションは、どのような経済政策のもとで、またどのような経済・社会状況のもとで起きているのか? 【もし】、当時の米財務省や中央銀行(連邦準備銀行制度=FED・FRS)が、金融政策Aではなく別の異なる金融政策Bを実施していれば、スタグフレーションは防げたのではないか?……というような過去の選択肢【もし】のテーマは、経済学においては長きにわたって大きな命題のひとつとなっていた。
 これは、別に「あのとき、ああしておけば、こうしておけばよかった!」と悔恨しているわけではなく、将来的に発生する怖れのある、現代の経済学(経済施策)では防止・修正しにくい資本主義経済の破綻のひとつ、スタグフレーションをどうすれば防げるのかを研究するための【もし】+シミュレーションの展開だ。以前のフランスや日本のように、主要な社会インフラや基幹産業の企業の多くを国有化すれば、すなわち社会主義経済的な要素を多く取り入れれば、資本主義は延命できるかもしれないが、米国では政治・社会思想的な素地でそのような施策は受け入れられないだろう。では、どうするのか?……というような【もし】が、これまでいくつも設定されてきた。おそらく、何百通りもの【もし】が設定され、史実とは異なる「ありえた未来」予測が繰り返されてきたのだろう。
 日本についていえば、人材不足から完全失業率は2%台と低いのに、消費は伸びないばかりか物価は上昇してインフレ傾向となっており、賃金も一部の大手企業を除いてはさほど物価にスライドして上昇しているとは思えず、インフレ分を差し引けば実質的に賃金は下落していそうだ。景気は、好景気からはほど遠く消費は伸びずに貯蓄か投資にまわり、インフレ含みの景況で相変わらずの不況感のみがつづいている。これは、いままで誰も経験したことのない、21世紀の新型スタグフレーションではなかろうか?
 【もし】、前世紀のM.フリードマンのような、時代遅れの株主資本至上主義的(新自由主義的)で、一部の大手企業家(資本家)の利益や株主投資価値の最大化をめざし、格差社会を大きく助長させた「アベノミクス」がなければ、【もし】政府財務省や日銀がまったく異なる財務政策や金融施策を打ちだしていたら、かなりちがった経済局面あるいは社会状況を迎えていたのではないか?……というような【もし】は、現代経済学の分野では同じ誤謬やまちがった選択を繰り返さないために、常に設定され検証・議論されつづけるテーマだろう。財源(企業の場合は経営資源)は、どのような目標に対してなにを最大化し、どの領域を最適化するために優先して配分されるべきだったかが常に問わている。
 史的な【もし】は、別に社会科学の分野に限らない。人文科学の哲学分野では、いま風にいえばマルチバース(昔風にいえばパラレルワールド)の設定で、史的な【もし】を前提とした「可能世界意味論」の領域があるだろうか。また、自然科学にも量子力学の「多世界解釈」や、理論物理学の「マルチバース宇宙論」などの分野が関わっているのかもしれない。いずれも、既存・既知の宇宙を、地球を、空間を、時間を、そして人間世界(社会)の事象を超えて、【もし】を設定したうえでの仮説であり研究であり考察だろう。
 現代の経営学あるいは経済学に、バックキャスティングという手法がある。未来の企業経営や国家の経済・社会状況を予測し、めざす目標に向かってどのような事業計画あるいは経済・社会計画を立てれば、理想的な目標に到達できるかを予測する方法論だ。これは、現時点から未来を予測して【もし】を設定するのではなく、30年後・50年後・100年後など未来のある時点を起点とし、その未来の時点に設定(想定)した理想的な目標に達するためには、2025年にはどのような施策を採用し、どのような方向性で企業の将来的な事業計画を、国家の長期的な経済・社会政策を策定し、将来に向けた施策を実施していくべきか?……というような、未来のある時点から逆算(逆予測)していく手法=方法論のことだ。日本では、バックキャスティングという言葉はそれほど古くはないが、このような言葉を用いなくても、企業や官公庁では昔からさまざまな事業計画や経営計画で実施されてきたことだろう。
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 たとえば、ダムや鉄道、空港、道路などの建設を考えればすぐに理解できるのではないだろうか。ダムは、50年・100年単位で活用される建造物だが、裏返せば50年・100年先の未来を予測して建設計画は企画・立案されなければ意味がない。ダムを設置する下流の人口(住民)推移による飲料水の需要はどうか、工業・農業用水の需要はどうか、住宅地や工業地の水力による電力需要はどうか、ダムの設置場所の降雨量はどうか、50年後や100年後でも気象条件が担保できる地形か、将来的な気象変動はどうなのか、それらの条件によってダムの建設予定地や貯水池のスケール、建設予算の規模はどうするのか?……などなど、50年・100年先まで見すえた予測が求められる。
 これがうまくいかないと、せっかく巨費を投入して建設したダムは無駄になってしまうし、また未来予測とは大きく異なる事態(T.クーンが「パラダイム」と呼ぶもの)が招来すれば、状況や条件が大きく変化(チェンジ)をとげて、既存の計画や考え方では間に合わなくなり、少なからぬ破綻が起きてカタストロフを招いてしまうだろう。
 たとえば、この近辺の地域でいえば20世紀後半の神奈川県が好例だろうか。戦後、県の東部における人口の増大や工場建設の増加を予想し、水道水や工業・農業用水、電力などの需要増を予測して1960年(昭和35)に企画・設計され1965年(昭和40)に竣工した津久井ダム(城山ダム)と、馬入川(相模川)Click!沿いの各地に散在する浄水設備だったが、ほどなくパラダイムによる大きな変化が起きている。
 予想もつかなかった急激な戦後復興と高度経済成長で、横浜市の人口がみるまに大阪市を抜いて、東京区部に次ぐ300万を超える第2の大都市にふくれあがり、川崎市を含む京浜の海岸沿いでは工業地帯の拡大とともに、工業用水が絶対的に不足しはじめている。また、高速交通網の整備により東京市街地の「公害」を避け、神奈川県や埼玉県が通勤圏内となって人口が急増するドーナッツ化現象の進捗で、生活に不可欠な飲み水=水道水がまったく不足するという非常事態にまで立ちいたった。同様の爆発的な現象は、先祖が住み着いた江戸初期(1600年代初め)にも起きており、江戸の町に引かれた小石川上水では水道水Click!が絶対的に不足し、大急ぎで小石川上水を包括した神田上水Click!の大工事にかからなければならなかった、徳川幕府の経緯によく似ている。
 そのため、以前にも記事にしたが神奈川県では相模川総合開発Click!の大幅な見直しや修正を繰り返し重ねた結果、1980年代には県東部の水道水や工業用水はようやく充足し、同様に人口の急増で上水道の絶対的な不足に悩んでいた東京西部へ、援助給水するまでになっていた。つまり、当初は津久井ダムの企画設計から50年後の2010年(平成22)を想定してバックキャスティング(当時はこんな言葉はなかった)されていたが、早くも1970年代から80年代の想定を超えるパラダイム(急速な戦後復興と高度経済成長および予想を超えた人口急増)で、計画の大きな変更・修正を余儀なくされたケースだ。
 もちろん、逆のケースもありうる。50年・100年先の未来の目標時点から、楽観的かついい加減でお手盛りのバックキャスティングを行い、ゼネコンのカネにまみれた地元や国の族議員・族官吏(ロビイスト)らが、根拠のない底ぬけに楽観的な採算予測と事業計画で、ダムや鉄道、空港、道路などを誘致・建設し、案のじょう採算があわずに運用管理費だけが膨らみつづけ、わずか10~20年ほどで大赤字の“負の遺産”と化する事業も少なくないからだ。
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 このような、歴史学では用いられない(ありえない)バックキャスティング的な【もし】=予測的な視座からあえて歴史を見なおすと、さまざまなマルチバース(パラレルワールド)を想定することができる。たとえば、1868年(慶応4)の「明治維新」はほんとうに「維新」なのか、近代版平安朝へ復古する時代錯誤なアナクロニズム政治ではないのか? 1925年(大正14)に「治安維持法」Click!が制定されず内務省に特高警察Click!が設置されていなければ、「大正デモクラシー」と呼ばれた日本型の資本主義的自由主義はどのような姿を迎えていたのか? 1931年(昭和6)に日本が「満洲事変」を起こして戦争へ突入しなければ、国民党政権を中心に現代中国はどのような国家に変貌していたのか?
 1945年(昭和20)に国家滅亡の「亡国」を招来したにもかかわらず、敗戦時にあえて米軍を「解放軍」などと規定せず、常にCICやG2を中核とするGHQの謀略や言論工作を検証する眼差しや批判眼が備わっていたとしたら(歴史学上では無理なありえない設定だがバックキャスト的な自在な視座からは意味がある)どうか、またソ連帰りの「共産主義者」のアジテーションやカンパニア的な扇動に乗らなければ、戦後民主主義はより強靭な体制を獲得できていただろうか? またはできなかったのだろうか?……。
 最近、2024年に中央公論社から出版された藪本勝治『吾妻鏡―鎌倉幕府「正史」の虚実―』という本を手にした。その「あとがき」で、著者はこんなことを書いている。
  
 人間が過去をどのように語り直し、意味づけ、更新してゆくのか、という問題に、私は惹かれ続けている。/過去は現在を支えてくれる。そして進むべき未来を指し示してくれる。未来が見通せるのは、過去から現在に至る筋道が、確たる意味を携えてすっと通っていると感じられるからだろう。だから人間は、未来の見通しに窮するとき、過去を振り返り、現在につながる歴史を再系列化して語り直し、過去像を更新しようとする。(中略) しかし、いや、それゆえに、歴史は虚偽を含んでいる。(中略) そのことにはたと気づかされて戦慄することがしばしばあるのだ。社会環境の中で自然と教え込まれ、常識として内面化していた「正しい歴史」が、(中略) 独自の構想と文脈を備えた物語の一節にすぎなかったのだとわかってしまう衝撃。しかしそこには先入観の束縛から解き放たれるような快楽が付随する。
  
 著者は、鎌倉時代の末期に編纂された『吾妻鑑』の「正史」や、『平家物語』の軍記物、『愚管抄』の史論書などを例に記しているのだけれど、これはあらゆる「常識」といわれる歴史書(正史)にも当てはまることだろう。
 歴史学は“結果論”であり、その解釈の変更や更新を時代とともに追究する学問なのだが、もう一歩進んで歴史的な事象にバックキャスティング的な視点を持ちこみ、もし80年前のパラダイム(時代の流れを変えてしまう大きな出来事)が避けられていたら、もし160年前のパラダイムが存在しなければ、2025年の現在はどのように変革され新たな社会が誕生していたのかを想像するのは、決して無意味でも不毛なことでもなく、「未来を見通せる」新たな「筋道」を発見できる端緒となる可能性を秘めてやしないか。
 もちろん、過去は修正できないが、未来へ向けた選択の動機づけやファクターには十分なりえるだろう。歴史学とは異なり、その時代の狭隘な視野でも当時の限られた価値観でもなく、そんなものはどこかへうっちゃって、より状況を広くとらえ鳥瞰できる現代の視界や価値観から捉えなおすことで、新たなマルチバース(パラレルワールド)に気づき、よりよい(いまよりもマシな)平和で豊かな未来へとつなげることができるのではないか。宮崎駿アニメの観賞眼的ないい方をすれば、歴史的な現実と「ファンタジー」(同時代の並列的かつ自由自在な想い)との緊張関係を認識・維持することが、少なくとも「いつかきた道」を繰り返さず、別の新しい未来を獲得するためのトリガーとなるのではないか、そんな気が強くするのだ。
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 歴史(特に近・現代史)を【もし】で見なおすことは、近未来や少し遠めな未来の予測に直結する……とは、歴史学を除いた学術分野ではよくいわれ繰り返されるフレーズだが、そのようなバックキャスティング的な視座から、若い子たちが少しでもよりよいマルチバースが存在した可能性に“気づき”、また“想像”できるきっかけとなるような要素を含んだ記事が書けているとすれば、拙サイトの存在意味が多少なりともあったといえるのだろうか?

◆写真上:これから人口が急減しクルマが減りつづける中、いまだ計画が廃棄されない池袋の補助73号線(十三間道路=25m道路)。目白3丁目から4丁目を斜めに貫通し、目白通りへと抜ける計画だ。敗戦直後の1946年(昭和21)に都が計画した80年前の道路で、北区十条では住民の集団訴訟による事業取り消し裁判が進行している。
◆写真中上:65年前に計画された、神奈川県の津久井ダム(城山ダム)と津久井湖。
◆写真中下・下:50年・100年先の綿密なバックキャスティングが不可欠な、目先の利益や見栄で建造してはいけない、運用管理費が膨らみつづける建造物の代表格=鉄道と空港。

鎌倉で「相模湾風景」を描いた有島生馬。

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 かなり前に、鎌倉にあった有島生馬Click!の邸を拠点に、稲村ヶ崎で初夏のキス釣りをする俳優の森雅之と山村聰Click!の記事を書いたことがあった。森雅之は有島生馬の甥だが、その“殿様釣り”に呆れたと山村聰は書いている。
 わたしは1960年代のもの心つくころから現在まで、鎌倉の街や山々は数えきれないほど歩いているけれど、ついぞ有島生馬のアトリエ=「松の屋敷」は記憶にないので、一度も訪れたことがなかったように思う。いまは、屋敷が丸ごと長野市に移築され「有島生馬記念館」となっているようだが、それも訪ねたことはない。親父は、洋画や白樺派の小説にはほとんど興味がなく、わたしはといえば泳いだり山歩き(キャンプ)に忙しかったせいか、有島生馬のアトリエが姥ヶ谷にあったことなど知らなかった。それに気づいたのは、1980年代のはじめごろ長野市への移築がニュースになってからだ。
 横浜の税務官吏の家で生まれた有島生馬は、4年間にわたるヨーロッパ生活のあと、セザンヌを日本に紹介したことで知られているが、拙サイトで多く取りあげているテーマに沿っていえば、「白樺」Click!の同人画家(作家)であったことや、官展と訣別して二科会の創立メンバーに名を連ねたことだろうか。パリでは、こちらでもときどき名前が挙がる安井曾太郎Click!南薫造Click!高村光太郎Click!藤田嗣治Click!梅原龍三郎Click!らといっしょで、ときには交流もしていたようだ。
 寄宿していた鎌倉の新渡戸稲造Click!邸を出て、姥ヶ谷にある生糸商のイタリア人が建てた西洋館を購入したのは、1921年(大正10)12月のことだった。1927年(昭和2)に改造社より出版された、『現代日本文学全集/第27篇』掲載の、自身による年譜から引用してみよう。
  
 大正十年/極楽寺海岸にて専ら静養、六月同村内にて転居――一月『嘘の果』を新潮社より出版。田邊松坡先生の唐宋詩醇の講義に列す。「十二月の夕陽」「うるめる春」等を二科展へ出品。――十二月姥谷松の屋敷を購入転居す。
  
 文中で「姥谷」とあるのは、現在の七里ヶ浜Click!沿いに建つ鎌倉静養館の前あたりにあった江ノ電の停車場名で、とうに廃止になって存在していない。有島生馬アトリエ=「松の屋敷」は、ちょうど姥ヶ谷駅前にあたる敷地に建っていた。
 わたしは、戦前にあった姥ヶ谷駅などまったく知らないし、もの心つくころ江ノ電に乗ると姥ヶ谷から西側にかけての一帯は、丘陵や森林を片っぱしから切り崩して、赤土とコンクリートや大谷石による擁壁だらけの風景だった。ちょうど、佐伯祐三Click!が描く蘭塔坂(二ノ坂)Click!「切割」Click!のような風情が随所で拡がり、新興住宅地(現・七里ガ浜東住宅地)を造成しているさなかで、山々に囲まれた鎌倉の風情もなにもあったものではなかった。だから、親父も連れ歩いてはくれなかったのだろうが、鎌倉の緑深い丘陵が海辺近くまでせり出した地勢で、有島生馬が「松の屋敷」を購入した大正当時は、鎌倉極楽寺村字姥ヶ谷(現・鎌倉市稲村ヶ崎3丁目)ではなかっただろうか。
 「松の屋敷」を購入した当時、有島生馬は身体を壊しており、落ち着ける土地への転地療養が必要だった。医者が奨めた静養地(避寒地)は、松本順(松本良順)Click!の考えに倣ったものか、相模湾の海辺沿いにある土地だった。上記の年譜と同年の、1927年(昭和2)に改造社から出版された有島生馬『海村』から、そのときの様子を引用してみよう。
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 医師の勧告に従つて、愈々鎌倉極楽寺村の海岸に転地療養を決行したのは、大正九年十一月のことだつた。これといつて悲観しもしなかつたが、前途の成行は自分でも見当がつかなかつた。近親のものなどは私自身より反つて心を痛めてゐたのではなかつたかと思ふ。当時は音無橋の東岸に建つ、新渡戸博士の別荘に寓居してゐたが、翌年の暮から現在の松の屋敷といふ二十年も前に、さる伊太利人の造つた別荘を譲り受けて居住するやうになつた。この屋敷のことは嘗つて「廃屋」と題して、神戸附近のことにして短編を書いたことがある。(中略) それに極楽寺海岸は気候や風景としては至極気に入つていたのであるが、文字でするスケツチの対象としては余り単調で、全くモデルに乏しいものであつた。もしこれが一つの漁村であり、何軒かの漁士(ママ:師)でも住んでゐる村であつたならば、小品の材料はいくらでも得られるだらうにと屡々思つたのである。
  
 有島生馬は当初、明らかに転地療養のために購入した姥ヶ谷の別荘だったはずなのだが、徐々にこの地ですごす時間が多くなり、戦後になると最終的には彼の本邸、すなわち終の棲家として姥ヶ谷の「松の屋敷」に住みつづけることになった。戦後、森雅之と山村聰が釣りの拠点として利用したのは、本邸になってまもない1950年代のことだろう。ただし、美術や文芸の年鑑類には、あくまで本邸は麹町区麹町下六番町10番地(のち六番町3丁目5番地)のままとなっており、麹町の家は東京における仕事の拠点であり、世間と交流する「公邸」だと位置づけていたのかもしれない。
 10代のころから有島生馬の弟子だった東郷青児Click!は、たびたび「松の屋敷」の師邸を訪ねている。戦前は、屋敷の北側に位置する姥ヶ谷駅と江ノ電沿いにつづく道路だけで、南側の海岸沿いを走る自動車道路(ユーホー道路Click!湘南道路Click!)は藤沢止まりで存在せず、南庭と海岸とがつづいていて屋敷から裸のまま海へ入れたと証言しているので、現代の“マイビーチ”のような感覚だったのだろう。
 有島生馬は文中で、スケッチをするには単調すぎて「全くモデルに乏しい」と書いているが、これは小説を創作する際のテーマ性に乏しいという意味あいだ。確かに昭和初期は、稲村ヶ崎と腰越の中間にあたる姥ヶ谷界隈は、人家も乏しく人影を見るのさえまれではなかったろうか。聞こえるのは、しじゅう耳について離れない通奏低音のような相模湾の潮騒と、やわらかくたわみやすいクロマツの枝をわたる風の音ばかりで、人間の営みは昭和初期からブームになる物好きなハイカーたちClick!や、夏になると近くの別荘にやってくる海水浴客Click!だけだったにちがいない。
 だが、「全くモデルに乏しい」のは小説を書くにあたっての話であって、絵画のモチーフとしてはまったく正反対だったようだ。有島生馬は、相模湾沿いに拡がる海辺の風景を大量のタブローやスケッチ類に残している。実は、この記事を書こうと思いついたのは、彼の作品に相模湾の情景が数多く含まれているのに気づいたからだ。
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 「松の屋敷」周辺をモチーフにした風景画は、姥ヶ谷に住みはじめてからまもなく描いた、『岬と海水浴場』(1922年/のちに改題して『稲村ヶ崎』)が最初だろうか。昭和期に入ってからも、引きつづき何点か描いているとみられるが、わたしが目にしたのは戦後になって、「松の屋敷」が本邸となり常住するようになってからの作品群だ。
 たとえば、1948年(昭和23)に稲村ヶ崎から海岸沿いを遠望して描いた『由比ヶ浜』や、1957年(昭和32)に自邸を描いた『真夏の庭』、1961年(昭和36)に江ノ島の夜景を描いた『夜の島』、1969年(昭和44)に再び自邸を描いた『母の日』などだ。また、相模湾沿いに湘南海岸を西へたどり、1969年(昭和44)には『茅ヶ崎の夕富士』などという作品も残っている。夜の江ノ島を描いた『夜の島』は、回転する江ノ島灯台の白と赤の光とともに、その風情がひときわ懐かしい。子どものころ、夏など2階の部屋で寝ていると須賀港(馬入川=相模川河口にある漁港)に設置された灯台の光と、江ノ島灯台のそれとが交互に夜空に映えて見え、潮風の生臭いベランダから飽きもせずに眺めていた。
 「松の屋敷」について、1976年(昭和51)に中央公論美術出版から刊行された有島生馬『思い出の我』収録の、長女・有馬暁子の「あとがき」から引用してみよう。
  
 私は冠木門の扉の上の門額に「松の屋敷」と、鋳物で五分位の厚みのある文字がうちつけてあり、門柱に、「ヴィヴァンティ」という表札のかかっている入口まで、初めて来た時から興味があった。/庭内に入ると松が群生し、月桂樹、枇杷、珊瑚樹、無花果、棕櫚、芭蕉が伸び放題伸び異国情緒にあふれ、少女の私にはすべてが寓話的に見えた。/那智黒が敷かれ、柾に囲まれた小径は玄関まで続いていた。当時壁がベイジュ色、わくを茶のペンキで塗った瓦屋根の総二階で、海側から見ると四角い家屋のように見えるが、北側へ廻ると東西に十七坪ほど翼のように張り出していた。/東側の翼が大震災の時、倒壊したので父は裏庭へ移築した。(中略) 「松の屋敷」の松は残念ながら一九六〇年頃湘南海岸を荒した松食虫に襲われて全滅してしまった。
  
 有島暁子の証言によれば、彼女が初めて「松の屋敷」を訪れたときには、いまだイタリア人生糸商の表札がそのままだったようだ。また、当初から「松の屋敷」という額が架けられており、しかも外観が西洋館にもかかわらず、なぜか北側の玄関先には冠木門がしつらえられていた。文中には、地面が砂地でもよく育つサンゴジュやマサキ、イチジクなど、当時の相模湾沿いに多かった(わが家にもあった)庭木の名前が登場して懐かしい。
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 文中に「松食虫」禍が書かれているが、湘南海岸から鎌倉海岸では1960年代を通じてマツクイムシが猛威をふるった。海岸沿いにつづく防砂林が危機的な状況となり、神奈川県ではヘリコプターから繰り返し殺虫剤を散布している。散布当日は、洗濯物や蒲団を干せずに窓や戸を閉め切って、家内に薬剤が入りこむのを防いでいた。散布されていたのは、いまから見れば猛毒のDDTやBHCだったと思うが、そのせいで子どものころは楽しみのひとつだった、クロマツ林に生えるハツタケの採集Click!を親から禁止されたのが残念だった。

◆写真上:材木座にある光明寺の裏山から、先端に江ノ島がのぞく稲村ヶ崎を眺める。
◆写真中上は、「松の屋敷」を拠点に釣りをしていた森雅之()と山村聰()。中上は、1922年(大正11)制作の有島生馬『岬と海水浴場(稲村ヶ崎)』。中下は、1978年(昭和53)の空中写真にみる有島生馬邸(松の屋敷)。は、同邸の外観。
◆写真中下は、1978年(昭和53)に姥ヶ谷側から撮影された「松の屋敷」。中上は、同年撮影の相模湾が見わたせるテラス。ただし、当時は庭先を国道134号線に断ち切られて海辺には直接下りられず、クルマの騒音もうるさかっただろう。中下は、同邸ですごす晩年の有島生馬。は、1948年(昭和23)制作の有島生馬『由比ヶ浜』。
◆写真下は、1957年(昭和32)制作の有島生馬『真夏の庭』。中上は、1961年(昭和36)制作の『夜の島』。中下は、1969年(昭和44)制作の『茅ヶ崎の夕富士』『母の日』。

長崎ダットが原の快進社DAT自動車工場。

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 今年(2024年)の夏、小川薫様Click!アルバムClick!から引用された写真類を中心に、日刊自動車新聞の中島公司編集委員による、ダット乗合自動車Click!の記事が連載された。それに刺激され、わたしももう少し東長崎駅の北口一帯に拡がる、地元の住民たちからは“ダットが原”と呼ばれていた長崎村西原3922番地(登記上は同番地だが、厳密には工場は3923番地で3922番地はダット自動車工場の社員寄宿舎の位置)の、快進社(Kwaishinsha Motor Car Company,Ltd.)によるダット自動車工場について書いてみたい。
 米国デトロイトで、ガソリンエンジンによる自動車産業の未来に気づき、農商務省の海外実業練習生として留学からもどった橋本増治郎は、さまざまな製造現場を転々としながら、快進社自動車工業の設立へ向けて事業を収斂させていく。その過程では、快進社の起ち上げ時に資金の提供や社屋・工場敷地の斡旋などで世話になる男爵・田健治郎をはじめ、親友となった青山禄郎、鉱業所の社長だった竹内明太郎などに出会っている。
 1911年(明治44)の時点で、出資額は田が2,000円、青山が2,500円、竹内が2,500円、そして橋本自身が4,700円の計11,700円となった。物価指数をめやすに単純に換算すると、いまの貨幣価値でいえば約5千万円ほどが集まったことになるが、当時の国民の所得水準を加味すると、現代ではおよそ1億円弱ぐらいの感覚だろうか。これを元手に、橋本は渋谷町麻布広尾88番地(現・渋谷区広尾5丁目)に快進社を設立している。当初、会社はオフィスというよりは設計・製造の研究所+町工場然としたものであり、いわゆるベンチャーのガレージ・メーカーに近い姿だったろう。
 それまでの日本社会は、鹿鳴館時代そのままに「舶来品が高級で一番」の感覚が染みついており、自動車は米国のフォードやGMが主流だった。そのような市場に向け、部品にいたるまですべてが国産で、4気筒・15馬力、時速33kmの独自設計による自動車の開発をめざしている。だが、開発は挫折に次ぐ挫折の連続で、1913年(大正2)にようやく完成した1号車は、エンジンがV型2気筒で10馬力にとどまった。同年に開催された「東京大正博覧会」には、出資してくれた田・青山・竹内の頭文字をとり、「DAT自動車」と命名して出品している。もちろん、DATは「脱兎」にもからめたネーミングだった。
 1916年(大正5)、橋本は当初の開発計画だった水冷4気筒で15馬力のエンジン、33km/時のスピードで走るダット41型の開発に成功する。同年、米国における自動車生産台数は160万台を超えていたが、それに対抗できる国産車が1台ようやく完成したにすぎなかった。ダット41型は、あくまでもガレージメーカーが手づくりで製造した1台の国産車にすぎず、大量生産への道は遠かった。しかも、当時の自動車でさえ必要部品は5,000点もあり、それら部品製造の品質向上も大きな課題だった。
 橋本増治郎は自動車だけでは食べていけず、この時期には竹内明太郎の依頼により石川県小松にあった小松鉄工所(のち小松製作所Click!)の所長も兼務している。その給与で、なんとか快進社の開発事業を継続しながら、1918年(大正7)に株式会社快進社を設立し、同時にダット41型の本格的な量産に向け工場敷地を探すことになった。
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 その様子を、2017年(平成29)に三樹書房より出版の、下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』から引用してみよう。
  
 橋本は大正七(一九一八)年「株式会社快進社」を設立した。場所は現在の西武池袋線・東長崎駅北側の一帯六〇〇〇坪、東京府北豊島郡長崎村三九二二番地。武蔵野の面影を残しており、土地の人はこの一帯を「ダットが原」と呼んだ。資本金は六〇万円。株主は橋本増治郎、田篤、田艇吉(健治郎の兄)、青山禄郎、青山伊佐男、竹内明太郎。「小松製作所の幹部社員」白石多士郎、田中哲四郎、吉岡八二郎、松本俊吉、各務良幸、「早稲田大学教授」の山本忠興、中村康之助、岩井興助、「快進社の技師と工場長」の小林栄司と倉垣知也など、九一名の出資者が集まった。
  
 長崎村西原一帯の土地6,000坪を提供したのは、白石基礎工業の社長だった白石多士郎で、竹内明太郎の孫にあたる人物だ。白石の名前は、関東大震災Click!のあとの両国橋Click!蔵前橋Click!厩橋Click!駒形橋Click!などの復興・再建で、(城)下町Click!では有名だ。また、高田町字高田1417番地(現・豊島区高田2丁目)のオール電化の家Click!に住んだ、早大理工学部の教授・山本忠興Click!が出資しているのも興味深い。
 ダット自動車工場は、武蔵野鉄道の東長崎駅を北口で降りた西側一帯で、原は北西側を流れる旧・千川上水Click!までつづいている立地だった。工場の建坪は600坪あり、機械工場から仕上工場まであったが、当時はライン生産ではないため、1台1台が手づくり生産に近い工程だった。また、工場周辺の広い「ダットが原」を活用して、テスト走行をする試運転環路までが設置されている。ダット自動車の部品を、すべて国産製造でまかなうため、専門工作機械を20台以上も導入し、橋本は純国産自動車の製造にこだわった。
 1918年(大正7)に「軍用自動車補助法」が施行され、陸軍のおもにトラックを開発すると政府から製造補助金(1台あたり3,000円まで)が支給されることになった。これは、いつか海軍の「大型優秀船建造助成」Click!でも触れたが、この制度を利用すると大型の貨客船を建造する場合、海軍から少なからぬ補助金が支給された。だが、戦時になるとこれら大型貨客船は海軍に徴収され、空母などに改装されたヒモつきの助成金だった。軍用自動車補助法も同様で、戦時には陸軍が兵站の輸送にトラックを徴用するという条件が存在していた。
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 経営を軌道に乗せるため、快進社のダット自動車工場ではダット41型保護トラックを開発することになる。だが、陸軍にダット41型自動車をベースとしたトラックを持ちこむと、ボルトやナットが陸軍の制式と合わないため不合格になった。陸軍のナット・ボルトの制式は特殊なものだったため、快進社の橋本はさっそくこれに異議を唱えた。広く販売されている市販品のボルト・ナットが、自動車やトラックの修理に利用できなければ意味がないとし、陸軍に制式の変更を迫った。それから2年後の1920年(大正9)に、陸軍はようやく橋本の主張を認めトラックに使用されているボルト・ナットを制式に採用し、ダット41型保護トラックは軍用自動車補助法の検定に合格している。
 ちょうど同じころ、ダット41型保護トラックを改装したダット41型応用乗合自動車改装車も生産を開始した。大正後期から昭和初期にかけ、バスガール上原とし様Click!が勤務し目白通りを走るダット乗合自動車Click!の初期型車体は、このダット41型応用乗合自動車改装車Click!だったとみられる。また、2年後の1922年(大正11)に上野で開催された「平和記念東京博覧会」で、ダット41型自動車は東京府金牌を受賞している。このような華々しい業績にもかかわらず、快進社=ダット自動車工場の経営は困難の連続だった。工員の給与が足りなくなると、橋本は子どもたちの貯金まで借りて給料日に支払っている。
 その困窮する様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 ある時、退職工員が退職金の不満を訴えてきたという。橋本は「私の家庭に貴君の家以上に贅沢な衣類や調度品があったら、何品でも良いから自由に持ち帰ってくれ」と応答したので「私の思慮が浅うございました。成功してください」と涙ながらに帰ったという。/橋本家の生活信条は「簡素第一」で慎ましいものだった。とえ夫人は工場員の制服だけでなく、子供達の洋服やズック靴をシンガーミシンで縫い繕った。四男三女をもうけ、清貧そのものの生活の中にも、精神的な豊かさを感じさせる独自の生き方があった。
  
 夫妻とも長身で洋装が日常だったため、子どもたちが入学した大正期の長崎尋常小学校(現・長崎小学校)では、「外人の子」としていじめられている。
 1926年(大正15)、困窮する快進社に大阪の実用自動車との合併話が持ちこまれている。仲介したのは陸軍で、実用自動車もまた製品が売れずに経営危機にみまわれていた。同年9月に両社は合併し、社名をダット自動車製造に変更している。日本におけるフォードとGMのシェアが98%という、米国車の圧倒的な植民地的市場をにらみながらの再出発だった。
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 少し前、(城)下町の番町で生まれた貫井冨美子Click!について書いたが、彼女に「東京から来たって顔は絶対にしないで」と頼んだ夫Click!は、米国へ自動車設計を勉強しに留学し、帰国後は自動車工場に勤務している。その勤め先は、近くのダット自動車工場ではなかったろうか。彼の落合町葛ヶ谷132番地(西落合1丁目132番地)の自宅から、長崎村西原3922番地までは1,000m、徒歩10分ほどの距離だ。彼は早大理工学部を卒業しているが、快進社の出資者に同学部教授・山本忠興らの名前が見えるので、可能性が高いように思えるのだ。

◆写真上:長崎村西原3922番地に建設された、快進社・ダット自動車工場の記念写真。
◆写真中上は、麻布広尾88番地で1913年(大正2)に完成したダット1号車。は、1918年(大正7)に竣工した長崎のダット自動車工場。は、1921年(大正10)に作成された快進社事業案内カタログ。「Nagasaki-mura,Ochiai,Tokyo,Nippon」=日本(国)・東京(府)・落合・長崎村という、不可思議な住所が記載されている。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみるダット自動車工場と社員寄宿舎。中上は、ダット41型自動車とダット41型保護トラックが写る大正期のダット自動車工場。中下は、同工場があった“ダットが原”の現状。は、陸軍の規定に合格する1922年(大正11)に同工場で撮影されたダット41型保護トラック。
◆写真下は、1922年(大正11)ごろ撮影のダット41型保護トラックを改造したダット41型応用乗合自動車改装車。は、1931年(昭和6)ごろに作成された「ダットソン号」カタログ。のちに「ソン」は「損」を連想させるとして、「ダットサン」に改名されている。下左は、2017年(平成29)に出版された下風憲治・著/片山豊・監修『ダットサンの忘れえぬ7人―設立と発展に関わった男たち―』(三樹書房)。下右は、少し古いが1995年(平成7)に出版された『歴史を読みなおす24/自動車が走った・技術と日本人』(朝日新聞社)。

酷暑だった夏の終わりの密室怪談。

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 下落合に日本民話の会の事務所があることは、以前の記事Click!でもご紹介しているが、同会が発行している紀要というか機関誌『聴く 語る 創る』は、日本で語り継がれてきた多種多様な民話や説話を収録・研究していて興味深い。
 1993年(平成5)5月に創刊号が刊行された同誌だが、最初に「トイレの花子さん」や「赤いはんてん」、「厠神(トイレの神様)」などの登場しているのがおもしろい。人がどうしてもひとりにならざるをえない密室の怪談として、ロシアのバーニャ(ロシア式サウナ風呂小屋)と日本のトイレに伝わる怪談の比較論を展開する、民俗学的なアプローチによる論文なのだが、その具体的な相違点や共通点を考察したものだ。
 ロシアのオバケが、「妖精」あるいは「妖怪」の部類に分類されそうなのに対し、日本のオバケは「厠神(トイレの神様)」を除いて「幽霊」「心霊」に近しい存在として語られている。たとえば、ロシアのバーニャに出現するオバケとしてバンニクあるいはバエンニクというのが存在するが、その多くが老人のような姿をして出現している。また、バーニャの中から声だけ聞こえるときは、男女を問わない会話のざわめきとして聞こえたりもする。おしなべて、「妖精」あるいは「妖怪」のイタズラとされているようだが、ときに人の生命を奪い生皮をはいだりする、残酷で怖い側面もあったりする。
 ロシアのバーニャ(サウナ小屋)は、家屋に付属する施設ではなく、自宅から離れた場所(川や湖の岸辺や森の中)に設置される丸太小屋だが、昔の日本の農家に多かった母家から離れた庭先のトイレの位置よりも、はるかに遠い場所に建てられていた。たとえば、代表的なバンニク怪談には次のようなものがある。同誌に掲載の、渡辺節子『<密室の怪>日本のトイレとロシアのバーニャー』から引用してみよう。
  
 これは私の女友達にあったことだよ。年寄りたちはあの娘に一人でバーニャへ洗いにいくもんじゃないよ、って言ってたの。それなのにあの娘ったら、うっかりしたんだか、バカにしてたのかしらね、一人でバーニャへなんか洗いにいって、それもいっとう最後によ。/入って、頭を洗ってて、水をとろうとかがんだら、なんと腰掛台の下に小さい爺さんが座ってるんだって! 頭が大きくて、ひげが緑色なの! あの娘の方を見ているものだから、きゃーってとび出したのよ!
  
 この怪談は、1976年(昭和51)にチタ州ネルチンスクで採取されたものだが、バンニクが姿を見せるのはめずらしいことらしい。若い娘が入ってきたので、つい現れてしまったのだろうか。通常の怪談だと、誰もいないはずの真っ暗なバーニャの中から会話や呼びかける声が聞こえたり、白樺などの枝葉で身体をパシャパシャたたく音が聞こえてきたりと、人に怪しい気配を感じさせて脅かすことが多いようだ。
 また、屋外にポツンと建つ人家からかなり離れたバーニャ(サウナ小屋)には、バンニクだけでなく森の精霊(レーシー)や悪魔などの魔物(妖怪)が入りこんで居すわりやすいといわれており、特に人間が活動する時間帯ではない夜間には、多くの地方でバーニャに入ってはならないと戒められている。また、そのいい伝えを無視して深夜にバーニャへ足を踏み入れたりすると、ひどい目に遭うとされている。
 これは、若者が肝試しに深夜のバーニャへ出かけバンニクに殺されたケースだ。
  
 「夜、バーニャに行って炉の煉瓦をとってきてみせる」っていうわけ。で、/「とってこれっこないさ」/「なんでさぁ?」/そういって夜、出かけていったんだよ。でもね、煉瓦に手を出したとたん、魔モノがとび出してきて、/「ここで何やってるんだ? なんだ!?」/「煉瓦をもってかなきゃいけないんだ」/バンニクがその人をしめ殺してしまったのさ。戻ってこないわけ。さんざっぱら待ってたんだよ。きてみたら、しめ殺されてころがってたんだよ。(1979年/ネルチンスク)
  
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 絞め殺すだけでなく、人間の生皮をはいで石の上に拡げて乾燥させる、地域によってはより恐怖度の高い残虐なバンニクもいたらしい。また、やはり人家から離れたオビン(穀物の乾燥小屋)に棲みつくオビンニクという精霊もいるが、こちらは妖怪や妖精というよりも怪獣に近い存在で、やはりバンニクと同じようなイタズラや悪さをするらしい。
 おもしろいのは日本のトイレと同じように、ロシアでも小屋の方位(方角)を気にしている点だろう。バーニャ(サウナ)の設置場所や方角が悪いと、家族にさまざまな障害(病気)が現れて不幸になるといい伝えられている。日本でも、トイレの位置を北東側(鬼門)あるいは南西側(裏鬼門)に設置すると、家庭内にさまざまな災厄をもたらすといわれてきたのと同じような伝承だ。また、妖怪や精霊の邪魔になるところに小屋を建てると「霊障」にみまわれるというのも、霊が通過する「霊道」をさえぎると霊が滞留してよくないという、日本の怪談ではよく登場するシチュエーションだ。
 さて、日本の代表的な密室であるトイレには「厠神」が宿るとされているが、その姿はバーニャのバンニクほど鮮明ではない。ありがちな怪異現象として、汲みとり式のトイレから手が出てきて尻を撫でたりするが、これは「厠神」ではなく河童やタヌキ、化け猫の仕業だったりする。毛深い手なので、妖怪的な“毛物”の仕業にされているようだが、この毛むくじゃらの手こそ「厠神」のものだとする出雲地方の伝承もある。
 だが、日本で語られるほとんどのトイレ怪談は人間の幽霊・心霊によってもたらされるものであり、そこが精霊・妖精のイメージが強いロシアのバンニクやオビンニクとの大きな差異だという。人間の霊による代表的なトイレ怪談ケースを、同論文から引用してみよう。
  
 「あかずの便所」 学校、寮、旅館等集団の生活の場に釘づけになったトイレが一つあり、その理由をきく。大体は自殺や事故がらみの死亡事件のあと、幽霊騒ぎがあり、そこを使わないように閉めきった、というもの。つまり「怪の正体」ははっきりしていて、ナニモノかではなくあくまでも人間、その霊作用であり、事件の現場がトイレであったためにそこにいついた地縛霊であって、他の幽霊話と同じ、といえる。
  
 このよくある幽霊話と、センサーと洗浄器付きの全自動水洗トイレになってからも、下から手や顔がでてくる妖怪譚とは、昔から語り継がれてきた日本の伝統的な怪談パターンだが、近年はそれらとは明らかに傾向が異なる3種類の怪談が語られているという。
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 そのひとつが、「上からのぞく」怪談だ。小学生が夜、忘れ物をとりに学校へいくと、暗い体育館や廊下でワゴン(または車椅子)を押す看護婦や老婆の幽霊に出遭う。霊から「見たな~」といわれ、トイレのいちばん奥の個室に飛びこんで鍵をかけると、幽霊がキリキリキリとワゴン(車椅子)の音をさせながらトイレに入ってくる。
 手前の個室からドアを開け、順番に「いな~い」といってはバタンとドアを閉め、徐々に奥の個室へと迫ってくる。ついに小学生が隠れたいちばん奥の個室の前までやっくるが、急にシーンと静かになって気配が消えてしまう。いつまでも物音がしないので、ようやく幽霊があきらめて消えてくれたかと思いフッと上を見ると、追いかけてきた霊が天井近くから、生気のない顔でジッと小学生を見下ろしていた……という結末だ。
 さらに、前世紀末から語られている残り2パターンの新怪談とは次のような展開だ。
  
 <トイレの>中に入っている時、「赤いハンテン着せましょうか」と声があり(手が下からなのにくらべ、大概は天井から)、応じるとナイフ等がとんできてささり、とびちった血で赤いハンテンを着たようになる。バリエーションは種々あるが、この「ナニモノ」かは今だ<ママ:未だ>かって姿を見せたことがない。(中略) <花子さん>だけは新たにトイレの中にいついた怪、といえるかもしれない。北海道から沖縄まで全国の小学校の女子トイレ、三番目あたりに住み、一定のルールにのっとった呼びかけに対し、返事をする。「遊びましょ」というと「何して遊ぶ」とかいう。姿をみせることもあって、六才とか、一三才とかの女の子、遊び方は「首しめごっこ」と首をしめてきたり「殺しあい」と幾分かは恐い。(中略) が、花子の話は絶対的に子供の世界、それも小学校までにしかない。(< >内引用者註)
  
 この「トイレの花子さん」は、20世紀末から今世紀にかけ活動範囲が大きく拡がっているという。彼女は、トイレで自殺した何年何組の子とかトイレで殺された子という、妖怪ではなく人間の幽霊・心霊としての位置づけがなされ、出現場所もトイレばかりでなく理科室や体育館、音楽室、はては校庭にまで出現するようになっている。
 ロシアのトイレは、昔から母なる大地の「外で用足しする」ことが多く密室にはならないため、代わりに丸太でこしらえたバーニャ(サウナ小屋)が密室怪談の温床となった。逆に日本では、江戸期から銭湯が利用されており風呂場は密室になりにくく、トイレがひとりになる空間として多くの怪談を育んできた。ロシアでは「人でないもの」=妖精・精霊の類だが、日本では多くの場合「人でないもの」=幽霊・心霊としてとらえられる傾向が顕著だ。だが、バーニャ=風呂場だから全裸、トイレ=用足しのため下半身裸と、怪異が出現してもすぐには逃げだせない(あるいは逃げ場のない)空間であるのが共通している。
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 戦後、日本では銭湯が廃れ、風呂付きの住宅があたりまえになると(密室化すると)、さっそく風呂場の怪談が登場している。自宅やホテル、旅館、合宿所と場所は多彩だが、いきなりシャワーの水音がして風呂に誰かがいる気配がしたり、風呂場のドアを開けてずぶ濡れの幽霊が這いでてきたりする。これは上記論文から離れた私見だが、「おひとりさま」が増えるにつれて部屋(室)レベルでなく、生活環境の全体までが密室化し、これから同じような怪談が数多く再生産されていくのではないだろうか。心霊マンション・アパートや幽霊ホテルはめずらしくなくなったが、トイレから解放されて行動範囲を拡げた「花子さん」のように、幽霊街とか心霊通りなどといったエリア単位の怪談が増えそうな気がするのだ。

◆写真上:トイレや風呂場からのぞくオバケは、こんなイメージが多いようだ。
◆写真中上は、ロシアの屋外に建てられるバーニャ(サウナ小屋)の内部。は、水木しげるによる「バンニク」。は、同じく乾燥小屋の「オビンニク」。
◆写真中下は、日本トイレ研究所Click!によるトイレ怪談の全国分布グラフ。関東地方は思いのほか少なめで、中部地方から近畿地方にかけてがかなり多いようだ。は、同研究所の統計からトイレ怪談の起きる場所として学校が大半なのがわかる。下左は、1993年(平成5)に日本民話の会から刊行された機関誌『聴く 語る 創る』5月創刊号。下右は、2015年(平成27)に出版された日本民話の会・編『学校の怪談』(ポプラ社)。
◆写真下は、水木しげるによる「トイレの花子さん」。は、「看護婦幽霊の便所オバケ(見たな~)」のフィギュア(TAKARATOMY)。は、夏になるとネットのあちらこちらで顔を見かける「♪赤いハンテン着せましょか~」で独特な節まわしの稲川淳二Click!

ほんとうに古城のような外観の目白市場。

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 目白駅前に建っていた、戦前の目白市場の写真が見つからない。目白市場の紹介は、戦前の高田町や豊島区の資料類で頻繁に登場するのだが、その外観写真がなかなか発見できないでいる。東京府内でも5本の指に入るほど、デパート並みの大規模な公設市場Click!だった目白市場なので、必ずどこかに写真が残っているはずだ。
 以前、小熊秀雄Click!『目白駅附近』Click!に描かれた目白市場はご紹介していたが、おおざっぱなスケッチであり建物の詳細はわからなかった。だが、もうひとり目白市場を描いた画家がいる。拙サイトでは初登場の、帝展に出品していた矢島堅土だ。1932年(昭和7)の目白駅前を描いたスケッチ『目白駅』(1932年)で、川村学園の校舎の手前に、まるで中世ヨーロッパの古城を思わせる大きな建築物がとらえられている。(冒頭画面)
 また、手前に「荷物あずかり」の看板が見えている目白駅Click!の改札前には、モダンな装いの男女がいきかい、着物姿の人物がひとりもいない。左手には自動車の前部が見え、改札前の横(東側)にはダット乗合自動車Click!が乗客を待ちながら、発車時刻まで停車しているのが見えている。川村女学院Click!の独特な半円形デザインの大窓を備えた第二校舎と、目白市場との間には樹木が見えているが、同女学院の運動場が設置されていたスペースだ。けれども、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を見ると、目白市場と第二校舎の間はこれほど狭くはなく、画家の“望遠眼”による伸縮自在な構成だろう。
 目白市場の上には、同市場の焼却炉とみられる煙突が突きだしており、その左手(西側)の屋上には、東京府市場協会のロゴマークが入った協会旗が掲揚されているのだろう。正円の中に、TM(Tokyo Markets)のイニシャルを重ねてデザインした、誰もが憶えやすいロゴマークだった。当時、東京府による直接間接の公設市場は府内に34館あり、中にはデパートと直接競合するような大規模な市場も建設されている。
 1932年(昭和7)の時点で、もっとも敷地面積が広く建物の規模が大きかったのは、1918年(大正7)2月15日に開設された渋谷市場だ。建坪が326.62坪と広く、館内には30店舗が入居していた。東京府内の最大市場ということで、記念絵はがきなども制作されている。2番目は西巣鴨(池袋)の西巣鴨市場で、250.1坪の敷地に建ち17店舗が開店していた。3番目は青山の248坪の敷地に建っていた青山市場で、28店舗が営業していた。4番目が寺島(墨田区)にあった寺島市場で、207.27坪の敷地に10店舗が開店していた。
 そして5番目に大規模だったのが、1929年(昭和4)10月3日に開業した、建坪200坪の古城のような特異なデザインのビルに、23店舗が入居していた目白市場だ。しかも、1935年(昭和10)の時点で目白市場は、同年12月20に竣工した蒲田市場と並び、最新の設備を備えたもっとも新しい公設市場だった。当時の様子を、1935年(昭和10)に東京毎夕新聞社から刊行された、『大東京の現世』より引用してみよう。
  
 新市部(東京市区部)に於ては蒲田及目白の二市場はその建築様式設備ともに新しく殊に目白市場は省線目白駅前にあり欧州の古城の如き優美なる外観を有し、その内部も全く百貨店(デパート)式に設計せられたる市場である。(カッコ内引用者註)
  
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 目白市場は、開設と同時に女性販売員の募集をしたと思われ、その募集広告も残されている。府内にある34ヶ所の市場には、合計約500店舗もの小売店が入居していたが、東京府市場協会で一括して募集をかけていたようだ。ただし、協会直営で新しい目白市場と蒲田市場のみは協会が直接面接して採用し、残りの32市場は募集している店舗の責任者を紹介され、その面接を受けてから採用されていた。
 販売員の募集要項を見ると、小学校または女学校の卒業者で、16歳から19歳ぐらいまでと限定されているのは、デパートガールClick!と同じだ。協会直営の目白市場は身元保証人が必要で、勤務時間は午前9時から午後8時までとなっている。ただし、この勤務時間もデパートと同様で、早番と遅番のローテーションが組まれていたのだろう。面接のあと採用が決まると、1か月前後の見習い期間をへて本採用の販売員となった。
 日給は60~70銭で、現代の貨幣価値にすると382~445円ほどだろうか。時給のまちがいではと思われるかもしれないが、当時の生活必需品の物価や家賃は、現代とは異なり相対的にかなり廉価なため、早番か遅番で月26日勤務したとして15円60銭~18円20銭は、当時、女子の稼ぎとしてはまあまあだったろう。いまだ少数だった、大卒(学士)サラリーマン(男子)の初任給が50円の時代だった。ただし、勤務時間内の休み時間に弁当をとって食べると、日給から10銭が引かれたが弁当持参は自由だった。
 東京府市場協会による当時の募集要項の一部を、1936年(昭和11)に発行された東京女子就職指導会・編のパンフレット『東京女子就職案内』から引用してみよう。
  
 東京府市場協会の監督を受けてゐる日用品市場は全市に三十四ヶ所あり売店の数は約五百ヶ店となつてゐます。/其中(そのうち)目白市場と蒲田市場丈(だ)けは協会の直営でありますが其他は只監督丈けで店の販売員の如きも各其店の所有者が自由に売子を使つてゐると云ふ風でありますから目白と蒲田を除く外の市場で販売員を希望せらるゝ人々は各其市場内の店主と交渉して就職するのであります。(カッコ内引用者註)
  
 矢島堅土が、『目白駅』のスケッチを描いた当時、目白市場は竣工してから3年めであり、館内の店舗はすべて埋まっていたと思われる。また、目白市場のオープンとほぼ同時に開店した、川村女学院の割烹部を中心とした「女学生市場」Click!=女学生たちによる飲食&喫茶店が、周辺の男子たちを数多く集めて大繁盛していたころだろう。
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 また、昭和10年代に入ると、四谷区麹町12丁目16~17番地にあった東京府市場協会では、新聞や雑誌などへ積極的に媒体広告を打ちはじめている。これは、山手線のターミナル駅前に進出しはじめた競合相手のデパートを意識しているとみられるが、デパートの隆盛とともに集客率や売上がこの時期に低減していたのかもしれない。
 その大量広告による露出度アップの成果だろうか、新宿駅に近い淀橋市場Click!では事実、伊勢丹や三越新宿店をしのぐ売上を記録しており、地域の生活に根づいた安心の「公設百貨店」というイメージづくりが成功したかたちだ。東京府市場協会の広告はいずれも似かよったもので、「当協会ハ小売市場ヲ経営スル我ガ国唯一ノ公益法人ニシテ大東京市民ノ生活安定ニ資スルヲ以テ使命トス」というキャッチフレーズが添えられ、以下34ヶ所の市場名がズラリと並ぶレイアウトだった。
 さて、スケッチ『目白駅』を描いた矢島堅土の添えられたキャプションを、1932年(昭和7)に日本風景版画会から出版された、『大東京百景』より引用してみよう。
  
 ローブ、シヤポー、サツク、パラソールと新を競つたのが、ヌーベル・モード欄。/コーンビーフの缶詰と沢庵とを、ハトロン紙か何かにくるんだのが、家庭料理欄。/ヰオリン(ママ:ヴァヰオリン)のケースや、小型のスケツチ箱を下げたのが、趣味欄。/日に焼けた、逞しい二の腕をむき出したのや、ゴルフパンツのムシウ(ムッシュ)と腕を組んだのが、スポーツ欄。等、々、々。/やがて、大東京に抱擁される、現在の、郊外の文化住宅なるものに帰つて行つたり、新らしき女性インテリの製作所たる、(日本)女子大や川村女学院に通ふ、彼女氏等で、此処では如何なるシツクな男性も、てんで眼界には這入らない。/要するに、婦人雑誌を生地で行つたのが、此の目白駅のプラツトフオームである。(カッコ内引用者註)
  
 当時のカタカナ用語をふんだんにつかった、やや皮肉も混じる文章だが、昭和初期に見られた目白駅前の様子を写しておもしろい。「やがて、大東京に抱擁される」と書かれているので、同年10月に東京35区Click!制が施行される以前の文章で、矢島に限らず当時の人々が(城)下町Click!=東京15区に対して、目白駅を「郊外」Click!と認識していたのがわかる。
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 『大東京百景』には矢島堅土による『(雑司ヶ谷)鬼子母神』や、当時は荏原郡駒沢町555番地にアトリエがあった、独立美術協会Click!小島善太郎Click!も『哲学堂』『浅政醤油店前』『塔の側(宝仙寺)』のスケッチを描いている。それぞれのスケッチには、モチーフとその周辺について書いたキャプションが添えられているが、また機会があればご紹介したい。

◆写真上:1932年(昭和7)の『大東京百景』に描かれた、矢島堅土のスケッチ『目白駅』。
◆写真中上:同スケッチ『目白駅』の部分拡大。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる目白市場。は、1945年(昭和20)4月2日撮影の第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の空中写真にみる目白市場。目白市場は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼しているとみられる。は、1936年(昭和11)7月に制作された東京府市場協会の媒体広告。
◆写真下:3点とも1932年(昭和7)出版の『大東京百景』(日本風景版画会)のために描かれた、小島善太郎のスケッチで『哲学堂』()『浅政醤油店前』()『塔の側』()。

状況の“先読み”ができなかったオレ。

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 学生時代に、約1年ほどバイトをしていたコーヒーショップのカウンター業務Click!で、わたしは貴重な体験をしている。それは、次に発生する仕事の手順や方法を予測して先どりすることで、作業の手間ヒマが大きく異なるということだった。それは、コーヒーClick!(サイフォン方式)を淹れるときも料理をつくるときも同様で、仕事の導線(動線)や道具・食材の収納・配置における工夫なども含め、“先読み”をすることで業務にかかるリードタイムを短縮したり、料理にかかる手間を省力化したりすることができた。
 わたしがバイトをしていたコーヒーショップは、4人がけのボックス席が10組あり、カウンターを含め混雑すると最大50人前後が入れる規模だった。ただし、すべてのイスが埋まることはほぼなかったので、満員でも30~40人ほどだったろう。平日のランチタイムや休日などは満席に近い状態となり、てんてこまいの忙しさになったので、仕事の“先読み”による省力化・短縮化・効率化は、お客にオーダーが「遅いぞ!」といわれないためにも、常に考えなければならない切実な課題だった。
 カウンターの言葉数の少ない前任者は、新たに開店する支店へ転勤するとかで、カウンター業務の右も左もわからないわたしに、基本的な仕事の流れを教えてくれただけで、わずか2週間の引き継ぎ期間を終えるとどこかへいってしまった。仕事の動きをよく観察して、見よう見まねで憶えろ……ということだったのだろう。だから、あとは自分で考えながら憶えて工夫を重ねるしかなく、たとえばAというオーダーにはどのような手順を組み立てたら最速でお客に提供できるか、Bというオーダーにはカウンター内でどのように動けば最短のリードタイムで対応できるか、あるいはAとCという組み合わせのオーダーには、空いた隙間時間に下ごしらえをどの程度までやっておけば即座に対応できるか……というような、作業の“先読み”=予測をベースとした柔軟な創意工夫が求められた。
 もちろん、当時は端末もデータもない時代なので、今日のデータドリブンによる次のアクション予測などありえず、すべてが経験値を積み重ねたカンとノウハウが頼りな人的依存の業務だった。土日のオーダーにはAとBが多いので、前日の発注は素材を多めにとか、このところ暑い平日のランチはCかD+アイスコーヒーが圧倒的なので、ロースト系の豆を多めに仕入れよう……とかを、わたしが遅番の場合は自分で発注するが、早番の場合は遅番のカウンター担当に発注を引き継いでから学校へ出かけていた。
 つまり、カウンター内の業務プロセスにしろ、売上に直結する受発注の基本的な経営判断にしろ、単なるアルバイトにもかかわらず作業の“先読み”と需給の予測が常に問われていたわけで、それが的中すると嬉しかったが、外れるとゲームに負けたかのように悔しくガッカリしたものだ。あまり外れつづけていると、当然のことだが古くなったコーヒー豆やムダになった野菜などの食材を廃棄しなければならず、ときどき現れるショップのオーナー(6~7店舗を経営していたようだ)からは、ひとこと注意されることになる。
 けれども、「ビジネスの重要なテーマはバイトで学んだ」ではないが、当時のコーヒーショップClick!のカウンターという業務には、あらゆるビジネスの重要なファクターがまんべんなく含まれていたんだと、あとになってから思い当たることになる。中でも、常に次のことを考えて行動する、作業する、備えるという作業の“先読み”と受発注の予測が、飲食店というオーダーがあってから短時間で商品を提供し、コーヒーの淹れ方や料理にできるだけ上達して工夫をほどこし、「美味しい」付加価値を生みつつ他店との差別化を図り、仕入れは新鮮野菜をはじめ生モノが多いので常に最小在庫で、不足しそうなぶんは店内在庫を意識しつつ時間を見はからいながら、ジャストインタイムで調達できるよう発注するという、調達-製造-ロジスティクス-販売-経営判断(BI)的な側面など、大げさにいえば“ものづくり”ビジネス全般に共通する、ベーシックなメソッドやフローを学ばせてもらった。
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 つまり、今日ではERPやSCMで管理されているデータ流や、モノが動くロジスティクス(物流/在庫管理)まで、当時はすべてが属人化によるアナログだったが、コーヒーショップ店内には一連の業務プロセスが完結して存在したということだ。現代のチェーン形式のカフェでは、おそらく人がほとんど介在せず、“本部”からのデータ流とロジスティクスが存在し、カウンター業務は純粋にマニュアルどおりの定型作業に徹するだけなのだろう。需給が、現場の状況に合わない場合(天候や近場のイベント、観光客の多寡など)は、店舗のマネージャーが個別のデータ操作で対応し、カウンターは関与しない業務になっており、大規模なカフェチェーンでは人的依存を最小化し、それさえ繊細な予測データとして組みこまれ、AI・機械学習なども援用しながら運営されているにちがいない。
 いい勉強をさせてもらったアナログ時代のコーヒー店バイトだが、作業の“先読み”についてひとつ気がついたことがある。それは、いろいろな調理作業(オーダー処理)をするうえで、そのフローや手順の“先読み”ができる人と、できない人がいるということだ。ショップが混雑する期間や、夏休み・冬休みなど人出が多い時期に合わせ、カウンター業務では期間限定でアルバイトを雇うことがあった。(わたしもバイトなのだが。w) また、他店の早番・遅番のカウンターに欠員ができそうになると、急いで新たに長期バイトを募集して業務を憶えてもらう必要が生じた。そんなとき、助手や見習いとしてわたしのいるバイト店にも、雇用したスタッフたちが派遣されてくる。この人たちの中に、業務手順や作業導線(動線)の気づきや“先読み”ができる人と、できない人がいたのだ。
 別に“先読み”の可否には、学歴や職歴はいっさい関係ない。カウンターで作業をしている、わたしの次に動く先々へいつも立ちはだかる(仕事の邪魔をする)有名大学の学生もいれば、次に欲しい道具や食材をいつも先まわりして用意してくれる、高校を中退した暴走族あがりのようなお兄ちゃんもいた。つまり、相手のことをよく観察して作業手順を理解し、次に相手がなにをするか、なにをしたいのかを“先読み”して、自身の行動を選択・決定できる人と、いちいち口でいわなければわからない人とがいるのだ。換言すれば、アタマが柔軟で即時的に対応できる人とそうでない人、観察力の優れている人とそうでない人、即興で創造的な対応ができる人とできない人……ということになるだろうか。
 これは、学歴が高いからできることではなく、また学歴が低いからできないことでもない。実は、アタマの回転の「速さ」や「柔軟さ」というのは、学校における記憶力中心のテストや成績にはあまり比例せず、こういうところで如実に表面化してくるのではないかと感じた経験だった。これは、別にコーヒーショップのカウンター業務に限らず、さまざまな分野の業種職種における職員や職人の世界でもまったく同様なのではないだろうか。その能力は、幼いころからの家庭教育や家庭環境に由来するものなのか、あるいはもって生まれた性格からなのか、後天的に自分で努力して獲得した鋭敏な能力なのかは不明だが、バイト先での非常に印象的な体験だったので、いつまでも忘れずに憶えている情景だ。
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 さて、わたしは学生時代から、そんな仕事や生活における“先読み”のたいせつさについて学んできたはずなのに、この歳になってうかつにも大失敗をやらかしてしまった。わたしの予想や計画、思惑がことごとく外れ、180度の“先読み”まちがいをしてしまった。まわりの社会的状況をよく観察せず、周囲の環境や背景を十分に把握せずに、甘い認識のまま時代を大きく見誤っていたことに改めて気がついたのだ。
 実は、もう一般の企業や組織では定年時期もすぎてるし、昨年(2023年)の12月31日づけで仕事を廃業して、“隠居”生活に入る予定・計画を以前から立てていた。既存の仕事も、8年先か10年先かはわからないが、AIやAI絡みのRPA(S/Wロボット)、量子アニーリングなどに取って替わられるのは時間の問題だし、そろそろ年齢とともに引きどきだと考えていたのだ。従来より継続している、PaaS上のシステム案件は定期的なマネジメントのみを残し、ほかの仕事からはすべて引退しようと思い、クライアント各社にもそう宣言したのが昨年の10月中旬のことだった。翌11月に入り、新規に発生する案件(仕事)がピタリと止まったので、クライアントのみなさんが了解してくれたものとばかり考えていた。
 これで、ようやく日々の仕事に束縛される時間が減り、休日や祝日ばかりでなく、落合地域や江戸東京の以前から気になっている各種テーマについて、平日も含めたっぷりと十分な時間をかけて、従来とは比較にならないほど柔軟な取材や調べものができるし、特に興味のあるテーマについては好きなだけ深掘りできると楽しみにしていた。廃業宣言から1ヶ月、以前から継続している案件とシステムの定例的な運用管理のほか、新たな仕事は発生せず、各クライアントも了解してくれたとホッとしていた。
 ところが、12月に入るとわたしの「廃業・引退宣言」など、まるで聞こえなかったかのように仕事が続々と入りはじめ、最初は「ウソだろ?」と思っていたのが、正月をすぎて春・夏を迎えてみれば、以前とまったく変わらない“日常業務”に忙殺される笑えない自分がいた。わたしの「宣言」は、いつのまにか「なかったこと」にされ、結局、拙ブログでの記事や表現は深掘りして取り組めない、文字校正Click!さえかなり不十分なままの、いままでどおり空いた時間を見つけての片手間で浅い「取材・調査記事」のままになっている。それほど、世の中は人手不足が深刻であり、こんな拙いわたしでさえ辞めさせてくれない状況を迎えていたのも見抜けず、まったく生活設計の“先読み”ちがい=空振りをしてしまった。このまま死ぬまで、“戦場”を離脱できないのだろうか?
 たとえば、以前の下練馬記事Click!では日を改めて、古い農家を訪ね(あちこちに大農家らしい住宅を見かけた)房州石や埴輪の欠片を所有してないかどうかを確認したいし、下落合の小名「摺鉢山」Click!の後円部とみられる場所で住宅が解体され、掘り返された赤土の土砂の中に素焼きの埴輪片のようなものを多数見かけたので、土地の所有者や工事業者に当たって確かめたいし、上落合の八幡公園Click!が設置される際に房州石や埴輪片が出土していないかどうか、どこかに眠っている1960年代の古い工事記録を探ってもみたいのだが、そのような深掘り時間が現状では到底とれそうもない。田畑の畔や畝へ、出土した土器片や埴輪片が邪魔なので鋤きこんだ話が、あちこちに伝わる落合地域なのだ。
 また、久しぶりに最新のミラーレス一眼でも手にし、いつもはコンデジやスマホの拙い写真ばかり掲載してきたのを少しこだわりたかったし、落合地域の記事と連動した動画を撮影してじっくり編集にも取り組みたかったのに、そんな時間も余裕すらも相変わらずない。夢に描いていた理想の隠居生活など、どこかへ吹っ飛んでしまった。
 最近のICTテーマで、プロセスマイニングという手法が注目されブームになりかかっている。業務フローをデータドリブンで分析して可視化し、その非効率的なプロセスや業務コスト(人手と時間)がかかる部分を検討して改善サイクルを廻し、AIや量子コンピューティングなども援用しつつプロセスの整流化と、ヒューマンエラーの最小化で生産性を高めようとする考え方だ。労働人口の減少や人材不足が進む今日、より注目を集めそうな仕組みづくりだ。現在はERPのIFS(スウェーデン)やSAP(ドイツ)とからめCelonis社(ドイツ)がシェアNo.1で、事実上の世界標準だろう。
 この業務の変革手法を、拙記事の取材や調べもののリードタイム短縮や効率化、エラーの低減に応用できないかどうか、そして短時間で効率よく文章化できないかどうか、マジメ半分ジョーダン半分で考えている。取材の遠まわりや調べもののムダを、できるだけ回避したいという想いがますます強くなっている。そうでもしないと、従来の拙記事のレベルからより精確で深耕した内容への質的向上は、日常業務を抱えていては望めそうにないからだ。
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 そのようなプラットフォームを形成するには、データ基盤を周到に整理=可視化して、短いリードタイムで検索・参照ができるよう、常にBI環境のような基盤整備が必要だ。また、取材や調査の流れを、習慣化した手順やカンに頼った曖昧な作業フローを排除し、ムダで非効率と思われるプロセスを省いた各種フローパターンを抽出し、いくつかケース別にモデルフローとして可視化・規定する作業が不可欠になる。けれども、そんなことをやってる時間は、いったいどこにあるのだろう? 寄る年波とともに、面倒なことは「まっ、いっか~」で済ますことが多い、きょうこのごろのオレがいる。
 こういう心がささくれ立って、なにをする気も起きないときは、フォーレ『パヴァーヌ Op.50』でも聴いて早寝に限る。うんと懐かしいバレンボイム=パリo.か、先日亡くなったばかりの小澤=ボストンso.か、JAZZのヒューバート・ロウズ(fl)にしようか……、やっぱり、わたしにはネコジャケの後者Click!のほうが、いまの気持ちにフィットしそうだ。

◆写真上:目白にある、いつもJAZZが流れている喫茶店Click!のカウンターにて。
◆写真中上は、早朝に出勤する早番がまずやることは、モーニングセットやタマゴサンドに使う50個ほどの鶏卵を茹でることだった。このあと、客足を見ながら10個ずつ茹で卵を追加していく。は、とどいている大量の野菜類を洗浄して皮のある野菜はすべてむいておく。卵や野菜が不足しそうな場合はリアルタイムで発注する。
◆写真中下は、次に10斤ほどとどいている温かい食パンをトースト用とサンドイッチ用にスライス。すべてスライスすると乾いてしまうので、朝は2斤ほどからスタート。は、トーストやサンドなどの調理中にどのタイミングでサイフォンに点火すれば、コーヒーClick!と料理とを同時に提供できるのかも経験とカンがものをいう。そのタイミングは料理の種類ごと、あるいはオーダーの人数・分量でそれぞれ異なっている。もちろんコーヒー豆Click!はオーダーが入ってから挽き、豆が残り少なくなるごとに発注していた。
◆写真下は、マッキントッシュClick!C29+MC7300によるスタンダードな“コンビ顔”に魅かれて立ち寄ってしまう目白の喫茶店。は、Celonis Process Miningの業務プロセス可視化画面。アクションフローを検討して、遠まわりな作業を改善・効率化できるかも。
おまけ1
 かつて、下落合の小名で「摺鉢山」と呼ばれたエリアの中心部で住宅が解体され、掘り返された土砂の中に大量の素焼きとみられる破片の含有が確認できた。これらが土器片か埴輪片かは不明だが、調査・確認してみたいテーマのひとつなのだが……。特に、裏側が朱に近い色あいをした欠片は、墳丘に並べられた形象埴輪の特徴で破片の一部かもしれない。
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おまけ2
 コーヒーショップといえば、自宅近くの店に毎日通っていたらしいコーヒー好きなこの人を思いだす。亡くなる2年前の1986年(昭和61)に、福音館書店の「こどものくに」シリーズで出版された『ぼくのおじいちゃんのかお①』(天野祐吉+沼田早苗)の大好きな加藤嘉。
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おまけ3
 隠居したら、これも時間をかけてやってみたかったお遊び。ここで暮らした人々の存在感をよりリアルに表現したいため、AIエンジンを使って下落合を自在に歩かせてみたかった。「ニヤニヤ佐伯祐三」のポートレートと、風景に眼をこらす「モチーフ探しの金山平三」。清水多嘉示がパリから送った“タピ”らしい布を背景に、アトリエで「絶対安静の中村彝」。(画像の下にある「こちら」のリンク先へアクセスすると、大きな画面で表示される)

板倉須美子はオアフ島に戦艦を浮かべる。

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 先日、千葉市美術館で開かれていた「板倉鼎・須美子・パリに生きたふたりの画家」展Click!を観にでかけたが、板倉鼎の連れ合いである板倉/昇須美子(いたくら/のぼりすみこ)の面白さに惹かれてしまった。アカデミズムにまったく縛られず、すべて無視した構図や表現に思わず見とれてしまったのだ。夫婦ふたり展だったので夫の表現に比べると、ことさらその自由度や柔軟性の高さが際立っている。もう、絵を描くのが楽しくて面白くてしかたがないという感覚が、画面のそこかしこから溢れでていた。
 須美子の作品の中でも、特に目を惹いた画面があった。1926年(大正15)2月から6月まで、ハワイのホノルルに滞在していたときの情景をモチーフに制作した『ベル・ホノルル』シリーズだが、その中に『ベル・ホノルル23』(1928年)と題して、海岸に生えたヤシの樹間をゆったり散歩する人たちを描いた作品がある。画面を仔細に観察すると、彼女はユーモラスな性格というかかなり“変”で、ヤシの樹の陰に入りこんだ人物の半身や、画面の外(右側)へ歩いていき画角から外れようとしている人物の半身像などを描いている。つまり、風景の中に描かれている人々の姿の多くが、みんな中途半端で半身なのだ。樹の陰などで、前に歩く踏み足の見えない人物が、画面に5人も登場しており、おまけに黒いイヌの後足もヤシの陰に隠れて見えない。
 このイヌを連れた、薄いブルーのワンピース姿の女性が顕著な例で、左へ歩いていく女性の顔を含めた前半分がヤシの陰になって見えず、イヌは樹のさらに左側から姿を現わしている。同様に、画面右手の枠外へ歩み去ろうとしている、白いコットンスーツにストライプのシャツ姿をしたラフな男は、画家に視線を送りつつ身体の左半分しか描かれていない。当時の画家だったら、こんな構図や表現はまったくありえないだろうという、画面の“お約束”をまったく無視した「タブー」で非常識だらけの仕上がりなのだ。
 そして、中でももっとも目を惹かれたのは、ホノルル沖に停泊している濃い灰色をした巨大な船だ。この軍艦とみられる艦影は、手前に描かれたヨットのサイズと比較すると、ゆうに200mを超えそうな大きさをしている。しかも、この軍艦も樹影で断ち切られており、異様に長い艦尾が手前のヤシの右側から、ちょこんと顔を見せているようなありさまだ。戦前に生まれた方、あるいは艦船マニア(プラモマニア含む)なら、2本の煙突のうち前方の煙突が独特な形状で後方に屈曲しているのを見たら、絵が制作された1928年(昭和3)現在、想定できる軍艦は世界で2隻しか存在していないことに気づかれるだろう。
 軍縮時代の前、八八艦隊構想をもとに建造され「世界七大戦艦」と呼ばれた日本海軍の長門型戦艦の1番艦と2番艦、戦艦「長門」Click!「陸奥」Click!だ。排煙が前檣楼(艦橋)に流れこんでしまうため、第1煙突が屈曲型に改装されたのは第1次改装時で、「陸奥」が1925年(大正14)、「長門」が1926年(大正15)のことだ。以降、1934年(昭和9)の大規模な第2次改装までの約10年間、両艦は屈曲煙突の独特で印象的な艦影をしていた。
 でも、長門型戦艦にしては前檣楼(艦橋)が低すぎて、当時は平賀譲の設計で建艦技術が世界的に注目された軽巡洋艦「夕張」か、あるいはより排水量が大きな古鷹型重巡洋艦のような姿をしている。また、マスト下の後楼も存在しないように見えるし、そもそも40センチ2連装の砲塔4基がどこへいったのかまったく見えない。だが、須美子のデフォルメは大胆かつ“常識”にとらわれないのだ。これほどのサイズの艦船で、屈曲煙突を備えた軍艦は彼女が生きていた当時、戦艦「長門」「陸奥」の2隻以外には考えられない。
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 では、両艦のうちのいずれかが大正末、米太平洋艦隊の本拠地で真珠湾Click!もあるオアフ島のホノルル沖へ親善訪問をしており、須美子はそれを目にしているのだろうか? だが、両艦の艦歴を調べてみても、そんな事実は見あたらないし、そもそも当時は海軍の主力艦で最高機密に属する戦艦(特に「長門」は連合艦隊旗艦だった)が、お気軽に親善航海して海外の人々の目に艦影をさらすとも思えない。しかも、『ベル・ホノルル23』が描かれたのは1928年(昭和3)のパリであり、板倉鼎は落選したが、須美子の『ベル・ホノルル』シリーズのうち2点が、サロン・ドートンヌに入選している。
 『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦の謎を解くカギは、この1928年(昭和3)という年紀にありそうだ。前年の1927年(昭和2)は、大正天皇の葬儀が新宿御苑Click!を中心に行われ、摂政だった昭和天皇が即位した年だった。そして、同年10月30日には海軍特別大演習の実施と同時に、昭和天皇による初の観艦式が横浜沖で開催されている。その際、「御召艦」(天皇が乗る軍艦)の役をつとめたのが、連合艦隊旗艦の戦艦「長門」ではなく、姉妹艦の戦艦「陸奥」だった。観艦式の様子は、日本で発行されている新聞の1面で報道され、天皇が乗る「御召艦」の写真も掲載されている。
 余談だが、わたしの母方の祖父Click!は、このとき横浜沖の観艦式に出かけており、同式典で販売されていた軍艦のブロマイドを購入している。わたしが祖父宅へ遊びにいったとき、その写真を見せてくれたのだが、祖父が購入したのは「御召艦」だった戦艦「陸奥」ではなく、同様に第1煙突が奇妙に屈曲した戦艦「長門」のほうだった。
 当時、日本の新聞がパリへ配送されるのに、どれほどの時間が必要だったかは不明だが、須美子は掲載された写真を見ているのではないか。当時は船便なので、日本の新聞は数週間遅れ(ヘタをすると1ヶ月遅れ)で、パリの日本人コミュニティまでとどいていたと思われるのだが、彼女はその1面に掲載された独特な艦影の戦艦「陸奥」がことさら印象に残り、のちに『ベル・ホノルル23』に描き加えているのではないだろうか。彼女が日本海軍の“軍艦ヲタク”でないかぎり、そう考えるのが自然のように思える。
 須美子は、いつものようにベル(美しい)ホノルル風景を描いていた。海岸にヤシの樹々が並び、その樹間には海辺の散策を楽しむ人々が、面白い配置やポーズで次々と加えられていく。奥に描かれるハワイの海には、いつも夫と同様に白い三角帆のヨットやディンギーばかりを描いてきたが、「そうだわ、たまにはちがう船でも描いてみましょ!」と、以前に新聞で見た横浜沖の観艦式における戦艦「陸奥」の姿をイメージし、彼女にはめずらしく灰色の絵の具で写真を思いだしながら、その姿を再現してみた。
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 でも、彼女は軍艦のことなどよく知らないし、艦影もぼんやりとウロ憶えなので、戦艦の前檣楼をかなり低く描いてしまい、4基の砲塔はそもそもハッキリと記憶にとどめてはおらず、面白いと感じた煙突の鮮明なフォルムばかりが目立ってしまった。軍艦の中央構造部と全長を描いてみて、「こんな、寸詰まりのカタチじゃなかったかも。もっと長くて大きかったはずなのよ」と、右手の海岸に描いたヤシの端から艦尾をちょっとだけのぞかせることにした……。制作時の、そんな情景が想い浮かんでしまう『ベル・ホノルル23』の画面なのだ。ちなみに、同作を制作中の彼女の写真も残されている。
 ほかにも須美子の画面は、東京美術学校の教授や従来の画家たちが観たら、眼を吊りあげていきり立ちそうな、突っこみどころが満載だ。『ベル・ホノルル23』の次作『ベル・ホノルル24』(1928年ごろ)では、「キミ、この人物をタテにした構図の意図はなんだね? 手前のラリッてる半グレの金髪男で、背後の紳士の片足が隠れてるじゃないか。海の虹も2色だしサボテンも変だし、こんなのありえないよ!」と教授に叱責されそうだ。『ベル・ホノルル12』では、「右に歩いていく男の足先がキャンバス外れで欠けてるし、樹から半分のぞく女性は松本清張の『熱い空気』(家政婦は見た)なのか? なんでいつも半分で中途半端で、どこかが欠けてるんだよ!」と、官展の画家から説教されそうだ。w
 『ベル・ホノルル26』では、「キミは、なにか危ない思想にかぶれちゃいないだろうね。特高に尾けられてやしないか? 樹の陰には、それらしい男があちこちウロウロしてこちらをうかがってるよ! 中條百合子Click!なんかと仲よくするんじゃない!」と教授に懸念され、『公園』では「おい、メリーゴーランドの近くにいる人影からするってえと、奥の噴水脇にいる人物は身長5mかい? バッカ野郎!Click! 絵の基礎から面洗って勉強しやがれ!」と、プロの画家あたりに怒鳴られそうなのだ。けれども、彼女の描く絵は面白く、夫の余った絵の具を使ったといわれている色彩感覚もみずみずしくて新鮮だ。
 油絵の具の使い方をはじめ、板倉鼎からなにかとアドバイスを受けて描いているのだろうが、帝展画家の助言など無視して、のほほんと自由に描いているらしいところに、須美子の真骨頂やプリミティーフな魅力がありそうだ。上記の叱責や説教は、戦後の美術界ではほぼ無効になっていることを考えると、彼女は40年ほど早く生まれすぎたのかもしれない。
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 パリで短期間のうちに夫と次女に先立たれ、帰国してからは長女を亡くして、とうとうひとりになってしまった須美子は、1931年(昭和6)から佐伯米子Click!の紹介で有島生馬Click!の画塾に通いはじめている。妙なアカデミズムに染まらないほうが、彼女らしいオリジナル表現が保てるのに……と思うのは、わたしだけではないだろう。同じ境遇の佐伯米子Click!とは親しく交流しているようだが、1934年(昭和9)に須美子はわずか25歳で病没している。

◆写真上:1928年(昭和3)制作とみられる、板倉/昇須美子『ベル・ホノルル23』。
◆写真中上は、『ベル・ホノルル23』に描かれた軍艦部分の拡大。中上は、第1次改装を終えた1925年(大正14)撮影の戦艦「陸奥」。中下は、竣工間もない1924年(大正13)撮影の軽巡洋艦『夕張』。は、横浜沖で挙行された海軍特別大演習・観艦式を1面で報道する1927年(昭和2)10月30日の毎日新聞夕刊。
◆写真中下は、パリで撮影されたとみられる板倉/昇須美子。スマホのイヤホンで音楽を聴いているような風情から、100年近い年月をまるで感じさせない。中上は、1927年(昭和2)秋に横浜沖で行われた特別大演習・観艦式の戦艦「陸奥」を写した記念絵はがき。中下は、1928年(昭和3)の撮影とみられる『ベル・ホノルル23』を制作する須美子。は、同年ごろ制作された同『ベル・ホノルル24』。
◆写真下は、1927年(昭和2)ごろ制作の板倉/昇須美子『ベル・ホノルル12』(部分)。中上は、1928年(昭和3)ごろ制作の『ベル・ホノルル26』(部分)。中下は、1931年(昭和6)に制作された同『公園』。下左は、2015年(平成27)に目黒区美術館で開催された「よみがえる画家/板倉鼎・須美子」展図録。下右は、(社)板倉鼎・須美子の画業を伝える会Click!代表の水谷嘉弘様よりお送りいただいた著作『板倉鼎をご存じですか?』(コールサック社)。二瓶等(二瓶徳松)Click!の画業に関連し、拙ブログの紹介もしていただいている。
おまけ
 米軍が撮影した、長門型戦艦の写真を探しに米国サイトをサーフしていたら、米国防省から情報公開されたあまり見たことのない写真数葉を見つけたので、ついでにご紹介したい。上の写真は、1944年(昭和19)10月24日の捷1号作戦(レイテ沖海戦)中に、フィリピンのシブヤン海で米空母艦載機と交戦し、回避運動をする戦艦「長門」(手前)と戦艦「大和」Click!(奥)。なお、「長門」の同型艦で板倉/昇須美子がモチーフにしたとみられる戦艦「陸奥」は、1943年(昭和18)6月に広島沖の柱島泊地で謎の爆発事故により沈没している。中の写真は、同海戦で右舷に至近弾を受ける戦艦「武蔵」Click!で、同艦は同日の19時すぎに転覆してシブヤン海に沈没している。下の写真は、母港の横須賀港で係留砲台とされた敗戦時の戦艦「長門」。上空は米軍の艦載機で、敗戦時に唯一海上に浮かんでいた戦艦だった。
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