明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)。

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 拙ブログでいえば、下落合753番地に住んだ九条武子が信仰していた(と思われる) 親鸞の歌と伝えられている作に、「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかは」というのがある。最初から余談で恐縮だが、最近、「徒」桜を「仇」桜と「かたき」という字をあてている方が多いのは、いったいどうしたことだろう。桜へ「徒」=「はかない」の意をかぶせた用語だと思うのだが、桜は「かたき」ではないでしょう? 同じように気になるあて字に、「袖振り合うも多少の縁」。確かに多少は縁ができるかもしれないけど、「他生」の縁とは比べものにならないほど、はかなくて薄い「徒縁」にはちがいない。
 歌はみなさんも知るとおり、サクラが満開なので明日にでも花見をしようと思っていたのに、夜半の嵐であらかた散ってしまい「きのう見ときゃよかった!」と後悔してもはじまらないよというような意味あいだろう。転じて、きょうできることはきょうじゅうにやっておけ、明日になったら間にあわないことだってあるんだよ……という、教訓めいた至言にも利用されている。似たような格言には、井伏鱒二が于武陵の漢詩から訳した、「花ニ嵐ノタトヘモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ」(1935年)が思い浮かぶ。拙ブログでは、以前に下落合を散歩していた緒形拳のセリフとしてご紹介しているが、こちらは転じて、酒を飲みながら「あなたとすごしている、いまの時間がかけがえのないものなので大切にしよう」というような感覚だろうか。
 20年ほど前、身体を壊している友人から、夏の終わりに繰り返しメールをもらい、いろいろ励ましたり元気づけたりしていた。近いうちに見舞いにいこうと思っていたのだけれど、仕事がバタバタと忙しく休日になるとグッタリ昼近くまで寝ていたので、なかなかその機会がなく延びのびになっていた。別に入院しているわけではなく、通院しながら自宅で静養しているということだったので、周囲には家族もいるし大丈夫だろうと、見舞いを先延ばしにしていたのだ。だが、年末に自宅で倒れ、そのまま意識がもどらず友人は年明けに急死してしまった。なぜ、すぐに見舞いにいかなかったのかと、あとで後悔することしきりだった。
 「明日ありと思う心の徒桜」を思い知らされたような出来事で、このとき以来、いまできることはすぐに実行しようと肝に銘じて生きているつもりなわけだが、そこは根が怠惰な性格なので、延びのびになっている案件や約束は、いまでは片手の指の数よりも多くなっている。きっと、危機感や切迫感が徐々に薄れていき、大地震はいつか必ずくるというのに、東京へ高層マンションを建てつづけているゼネコンにも似て、きょうは大丈夫だろう、いましばらくはこのまま平穏無事がつづくだろうという、根拠のない刹那的な楽観論がムクムクと頭をもたげてくるのだ。明日になって、「しまった!」と思ってもあとの祭りで、サクラの花弁が散るぐらいならまだしも、多くの人命が散ってしまってはとり返しがつかない。
 「明日ありと思う心の徒桜」は、どこか茶道の「一期一会」にも通じる思いや情緒もそこはか感じられる。でも、明日の生命(いのち)をも知れない、いつ戦乱で生命を落とすかもしれない室町末期の武士がたしなんだ茶道と、現代の茶道とではまったく意味や意義が異なるだろう。いまの茶道は、「一期一会」どころか形式や作法・しきたり、あるいは道具の価値や景色にこだわりすぎて、「来週はお月謝を忘れずに」としっかり「明日」以降の日常や再会を予定しているしw、「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの、オ~ホホホ」などという点前あとの道具自慢にいたっては、「あなた、茶道に向いてないかも」と、つい口もとまで出かかってしまう。
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 ここでまた少し余談だが、どうせいつもテーマから外れた文章ばかり書いているので、しばしお許しいただきたい。いつか、わたしは抹茶よりも煎茶が好きだが、たまに喉が渇いたので煎茶のペットボトルを街中で買うと、煎茶の中に「抹茶入り」というおかしな製品を見かけるようになった。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのか? そのほうが、地域によっては「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、クドく濁った風味で台なしじゃないか、やめてもらいたい……と記事に書いたことがある。そのとき、煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で文化がちがうとも書いた。
 煎茶は、基本的にどこでも好きなときに好きなかたちで楽しめる、手軽で形式ばらない喫茶文化だけれど、抹茶はやはり肩肘が張りよそよそしく少々事情が異なるだろう。家に入った大工さんに、「お茶がはいりましたのでど~ぞ」と抹茶と茶請けをだしたら、「あざ~す」と片手で茶碗をもってすするというようなシチュエーションは考えにくい。鮨屋に入り、「あがりちょうだい」といって抹茶が出たら、「なんのマネだ?」となるだろう。つき合い酒で遅く帰宅し、「茶漬けでいいですよ」といって冷や飯佃煮に抹茶が出たら、「なに考えてんだよ」となるにちがいない。「オレ、なんか悪いこといったかな」と、夫婦関係が心配になるかもしれない。
 こんな思い出もある。学生時代に、藩主の松平不昧で有名な茶室「明々庵」を訪れ、抹茶をふるまわれたときに、茶道の心得がないので「どうやっていただけばいいんですか?」と訊いたら、「もう、ご自由にどんなかたちでお飲みになっても、まったくかまいませんよ」といわれたので、さっそく胡坐をかいて茶請けとともに味わった。ついでに、庭を向いて松江城を眺めながら残りをいただいたろうか。そのとき撮影した写真を、以前の小泉八雲の落合散歩記事に掲載している。つまり煎茶のように、気軽に周囲の景色や風情を楽しみながら飲んだわけだが、作法やしきたりに縛られず、儀式ばらずにいただいた抹茶の味はすなおに美味しかった。
 これもいつだったか、母方の大叔母が北鎌倉に住んでいて、母家つづきの鄙びた数寄屋(茶室)をしつらえており、訪ねるたびに親たちはそこで茶の接待を受けたのではないかと思う。煎茶好きな親父は、「まいったな~」と思ったのかもしれないが、そこで供された抹茶や茶請けの味は美味しかったのだろうか? おそらく、作法や形式にこだわり儀式ばって“型”にはまった茶を出され、窮屈に飲んだ抹茶の風味は、あまり美味しくはなかったのではないか。それよりは、早く腰を浮かして北鎌倉の寺社をめぐり、山々のハイキングコースを歩きたかったのではないかと思う。
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 親父は煎茶を飲むとき、かなり使いこんだ高級そうな九谷の湯呑を使っていたが、わたしは子どもが学校の工作時間につくった湯呑を愛用している。少し歪んでいるけれど、轆轤の跡も生々しく味わいがあって楽しい出来だ。高級九谷で飲んでも、子どもの工作茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ煎茶の風味は変わらない。同様に、わたしが明々庵の土産に買った1,500円の茶碗(いまでは販売していないらしく、ネットオークションではけっこうな値段がついている)で飲んでも、300万円の志野の茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ抹茶の風味は変わらない。「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの」の奥様は、楽しんで茶を飲んでいるのではなく、型や道具立てで茶に「飲まれている」のだ。
 さて、なんでしたっけ? あ、「明日ありと思う心の徒桜」だった。もうひとつ、子ども時代の思い出といえば、学校帰りに文具店のショウウィンドウで見かけたプラモデルがあった。日ごろから艦船ばかり組み立てていたので、たまには飛行機を……と目をつけていたプラモが、双発のスマートな機体が気に入った旧・海軍の爆撃機「銀河」だった。正月のお年玉がたまったら、絶対に手に入れようと思っていたのだけれど、正月の休み明けの下校時にさっそくショウウィンドウをのぞくと「銀河」がなく、かわりに「サンダーバード2号」のプラモに変わっていた。店の人に訊くと、年末に売れてしまったのだという。明日ありと思う心の徒桜。
 中学校に上がり2年生のとき、うしろの席のきれいな女子に、なんとなく会話の延長で告白されたようなのだが、冗談だと思ってそのままにしていたところ、どうしても気になり、あとあと思いきって手紙を差し上げたら、ナシのつぶてでそのままになってしまった。明日ありと思う心の徒桜……と、考えてみたら今日までこんな経験ばかりしてきたような気がする。やはり、きょうできることはきょうじゅうに、鉄は熱いうちに打て、思い立ったが吉日、旨い物は宵に食え、好機逸すべからず、善は急げ、機をみるに敏、先手必勝……と、いろいろな格言が思い浮かぶが、幼いころから中学時代まで海辺で育ったせいか、「待てば海路の日和あり」のほうがしっくりくるわたしの性格は、およそ死ぬまで治りそうもない。
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 井上光晴の小説に、『明日』(集英社/1982年)というのがある。さまざまな想いを抱えた人たちが、明日の約束をしたり予定を立てたりしていく筋立てだ。明日が出産日という妊婦も登場する。1945年(昭和20)8月8日の、長崎の1日をめぐる物語だ。けれども、彼らに「明日」はこなかった。人の生死が絡むと、「明日ありと思う心の徒桜」は「一期一会」と同様、とたんに緊張感をともなうシリアスな格言に豹変する。できるだけその感覚を忘れずに、日々をすごしたいものだ。

◆写真上:江戸川橋から高戸橋までつづく、江戸期の江戸川に起因する神田川の桜まつり。
◆写真中上は、抹茶を出されると気楽に飲めばいいものを周囲を見ながらかまえてしまうクセがある。は、織部の高そうな茶碗と志野茶碗(赤志野)。
◆写真中下は、茶室「明々庵」から撮影の松江城。は、明々庵の土産茶碗。は、親父の愛用品に似ている九谷湯呑だが実際は使いこんで渋い色あいだった。
◆写真下は、旧・海軍の爆撃機「銀河」のプラモイラスト。は、中学時代に「明日ありと思う心の徒桜」の格言を知っていればよかった。は、冒頭写真と同じく神田川の桜まつりの様子。

女ひとりでブラリと料理屋へ入れる時代に。

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 1953年(昭和28)1月から半年間にわたり、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」について、少し前に佐伯米子『言問団子』を紹介していた。このコラムシリーズが面白いのは、文章ばかりでなく挿画も執筆者が自ら描いている点だろう。執筆している画家たちはお手のもんだったろうが、作家や役者・俳優、音楽家、スポーツ選手、大学教授、評論家、舞踊家、政治家たちが、慣れない絵筆やペンを手に描いているのが面白い。
 どうしてもイヤだと挿画を断ったのは、播磨屋の初代・中村吉右衛門で、かわりに8代目・松本幸四郎(のち白鸚)が絵を引きうけている。また、音羽屋の7代目・尾上梅幸も絵がダメで尾上琴糸に頼んでいる。もうひとり、9代目・市川海老蔵(のち11代目・市川団十郎)も絵が苦手で佐伯米子に挿画を依頼している。コラム「味なもの」の連載で、挿画を断っているのはこの3人だけだ。あとの執筆者たちは、みなそれなりに絵筆やペンをなんとか使いこなしては描いている。そして、面白いのは、意外な人たちの絵に味わいがあってうまいことだ。
 たとえば、コラム「味なもの」の初回を引きうけた女優の三宅邦子は、おそらく趣味で洋画を描いていたのではないだろうか。1980年代の食べ歩き雑誌にでも登場しそうな、シャレたイラストを描いて、神田神保町の洋菓子喫茶「柏水堂」を紹介している。おそらく原画は、水彩で描いたカラーだったのではないか。また、同じく女優の丹下キヨ子は、三宅邦子とは正反対の面白いマンガで、銀座の喫茶店「きゅうべる」と向島の精進料理「雲水」について書いている。すでにどの店も閉店してしまったが、文章を読んでいるとつい出かけたくなってしまう。
 連載エッセイの「味なもの」は、戦前の同種の連載とは異なり女性の執筆者が多い。それだけ、薩長政府による「女は家に」という儒教思想の女修身(外国思想)を押しつけられることなく、戦後は自由に外を出歩けるようになったからだろう。多くが東京生まれの女性たちだが、出身町によってかなり気風(きっぷ)や気質(かたぎ)の異なるのがよくわかって面白い。「江戸っ子」(東京地方以外からの呼称)などという茫洋としたわけのわからない呼称ではなく、当時は「神田っ子」「銀座っ子」「日本橋っ子」「深川っ子」……というように、街中では町名+「っ子」が活きていた時代だ。江戸東京は、他の街に比べて相対的に広いので、(城)下町の生活言語はもちろん氏神や文化、習慣、風俗、料理、食べ物までが地域ごとにそれぞれ少しずつ異なっている。
 余談だけれど、(城)下町で生まれ育った女性の独特なイメージというのが、わたしの中にもなんとなく残っている。たとえば時代はバラバラだが、実際にその街の出身者である女性を例に挙げると、日本橋といえばビジネスでも家政でもヘゲモニーをとり、うまくまわせそうな「お上」の雰囲気が漂う十朱幸代が、銀座の女性というと装いはクールだが実はツンデレな岩下志麻が、神田というと“いなせ”でキリッとした雰囲気を漂わせた梶芽衣子が、本所というと懐が深く包容力のありそうな井川遥が、深川というときかん気が強く勇み肌だがおおらかな岩崎宏美が、浅草というと威勢がよく鉢巻きが似合いそうな天海祐希が、享保年間から拓けた飛鳥山を背負い(城)下町の雰囲気が漂う滝野川は倍賞千恵子が、もう少し北へ隅田川をたどると楽天家の小川眞由美がと、なんとなくその街ならではの気風(きっぷ)や気立てが漂う女性をイメージしてしまう。
 これは、昔から親父がいろいろな役者や俳優などで街の“分類”をしていたのを見て育っているので、自然、わたしの中でも形成された、出身町ごとの性格や風土を備える人物像(女性イメージ)なのだろう。以前ご紹介した尾張町(銀座)出身の佐伯米子だが、ふだんはツンと済ましてつれなく、気どった素振りを見せるけれど、一度気を許した相手には身をしなだれかけながら、ついデレデレと寄りかかって甘えるような性格をしていたのではないだろうか。でも、一度怒らせるとなかなか許してもらえそうもない、そんな自我の強いやや怖めな銀座女性のイメージがある。
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 さて、連作エッセイ「味なもの」にもどろう。浅草っ子で女優の丹下キヨ子は、文章も面白く、いまはなき「きゅうぺる」を紹介する、『銀座に童話調のコーヒー店』から少し引用してみよう。
  
 おいしいコーヒーを舌の上にころがしながらタバコに火をつけてふとカウンターの上を見てむせました。「お願い」が額に入っているのが目に止まりましたから。「①御婦人方の喫煙 ②ほかのお客様に話かけること ③無作法な振舞 ④放歌喧騒 ⑤長居、右自粛自戒成被様お願い申上げます 店主。(ママ:」)/喫煙、おしゃべり、長居の三つともおかしちゃってとチラッと先生のお顔をみたら、高くお笑いになって「これは私が書いたんじゃありません。井上正夫さんが書いたんですが、今ではこれも記念ではずせないんですよ」。
  
 「先生」と書いているのは、喫茶店「きゅうぺる」を経営していた児童作家の道明真治郎のことだ。同店には、どうやらコケシが飾られていたようなのだが、丹下キヨ子が描く挿画というかマンガは、そのコケシが困ったような顔をしているのが面白い。
 新派女優で、のちに歌舞伎の市川流舞踊家の3代目・市川翠扇となる市川紅梅(築地っ子)は、名の知られた洋食レストランや高級な料亭ではなく、ざっかけない茶漬けの店を紹介しているのがいい。新橋演舞場(銀座6丁目)に出演することが多かった彼女は、演舞場のごく近くにあった店が贔屓だったようだ。だから、舞台の楽屋で小腹が空いたときなど、舞台の合い間に駆けこむように茶漬けを食べていたようだ。魚介の茶漬けも出していたのだろう、「つきじくらぶ」という名前の店だったらしいが、市川紅梅『口のぜいたく直しお茶漬』から引用してみよう。
  
 新橋華街の真ん中。演舞場の楽屋口と隣り合せに、ちんまりと、ひっそりとこのお店の入口があります。名前は、恐ろしく散文的に“つきじくらぶ”。だけど、お店の中の方々のとりなしや、そのお味は、堅過ぎてもおらず、くだけすぎてもおらず、私どもが楽屋からかけこんで、軽いやすらいを感じさせてくれるほのぼのとした気分。/西洋風の食べ物にはサンドウィッチと言う気軽なものがあります。日本風のものには……ここのお店で食べさせてくれるお茶漬。
  
 なんだか、新派のセリフのようなリズムの文章だけれど、「つきじくらぶ」は銀座の再開発、あるいは区画整理のときに店をたたんでいるのだろう。東京には、昔から蕎麦屋や鮨屋と同じように、さっさと食べては仕事や遊びにもどれる茶漬けの専門店が各地域にあったが、いまではめずらしいファーストフードだろうか。このあたりだと、新宿や池袋には多いようだが、落合地域の近くでは東京メトロ東西線・高田馬場駅の駅中にある1店舗しか知らない。もうひとり、「味なもの」シリーズでは俳優の池部良が、新橋烏森にあった茶漬け屋を紹介している。
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 蕎麦屋生まれの高峰秀子は、なぜか蕎麦やうどんなどの麺類が大キライだったらしい。ニョロニョロしたのが、お腹へ入るのがどうにもガマンできず、大人になるまで満足に食べたことがなかったという。初めて蕎麦屋の暖簾をくぐったのは、羽田からパリに旅立つ直前で、なにか日本の味を記憶しておこうとしたらしい。以来、食わずギライだった蕎麦が大好物になり、東京じゅうの店を食べ歩くようになったようだ。以下、高峰秀子『パリで恋う日本の味』から引用してみよう。
  
 何しろまだ食べ始めてからの年季が浅いので、ヤプだかスナだか、何だかよくは判らないが、何といっても、割箸に上手い工合にひっかかってちょいと汁につけてツルツルッと口の中へタグリ込むあの味は、如何にも庶民の味方、下駄ばきの味、風呂帰りの味、そして淡々とした日本の味。更科は創業三百年とかいう事でありますが、私は根性曲りなので、殊に食べものに関しては説明不要の主義で、そういう曰くインネンはきかない事にしています。美味しい。
  
 登場している「更科」は、いまも麻布永坂町で健在だ。その麻布永坂町の「更科」で、先祖の墓参りの帰りに寄って食べていたのが、子ども時代の佐伯米子(池田米子)だ。彼女は銀座のお嬢さま育ちなので、蕎麦屋は出かけるものではなく家で出前をとって食べるものと、ずいぶんあとまで思いこんでいたらしい。また、年越し蕎麦は家内では欠かせない“行事”で、大晦日には家族や職人全員ぶんの蕎麦と天ぷら(専門店から)をとるならわしだった。
 そんな彼女がお薦めの蕎麦屋は、上野の広小路沿いに開店していた池之端の「蓮玉(庵)」だ。ここも江戸期からの店だが、革命家で親日家の郭沫若が、戦後に政治家になってから国賓として来日し、長年の蓮玉ファンだったことを告白しているが、この店のファンは都内だけでなく国内外にも多い。では、佐伯米子の『信州そばの石臼びき』から引用してみよう。
  
 「老舗といわれる家にはその古いのれんを支えている忠実な奉公人がいるものです。私の家にも五十年勤めた職人が居りましたが、なくなって今は十八年もいる女の子が一手でやってくれていますので大変助かります」/と自分を語らないところにも人柄が忍ばれる。(中略) 場所柄絵の関係の人が多いというが、なかなかにモリもいい、というと丈賀のセリフを思い出しますが、「モリもいいが味もいい」。
  
 「蓮玉」は当初、不忍池の端にあり店内から池が一望に見わたせたようだが、関東大震災で焼けてからは下谷(上野)広小路を1本入った仲町通りで営業している。芝居好きらしく、入谷鬼子母神が舞台の「天衣紛上野初花(くもにまごう うえののはつはな)」に登場する按摩の「丈賀」のセリフをまねているが、ここの蕎麦は腰があって確かに美味しい。
 1927年(昭和2)6月に、日本美術協会展示場(現・上野の森美術館)で開かれた1930年協会第2回展の6月18日(土)、出前に蕎麦を頼んだ前田寛治木下義謙木下孝則野口弥太郎小島善太郎らの5人はてっきり蓮玉庵かと思いきや、同店ではかつて一度も出前をやったことがないそうで、別の店だったことが判明している。5人が蕎麦を頼んだのは18日のみで、ほかには誰も頼んでいないところをみると、展示場に出入りしていたのは美味(うま)くない蕎麦屋だったのではないか。
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 ほかにオリエ津阪や戸川エマ、阿部艶子、美川きよ、初代・西崎緑など女性が多く、佐伯米子と同様に複数回の執筆もめずらしくない。機会があれば、彼女たちの文章を紹介したいが、戦後は、ようやく女性ひとりがブラリと料理屋に入っても、なんら咎められることも「不道徳」「非常識」(どこの国の思想規範だ?)などといわれることもなく、不自然に感じられない時代を迎えていた。

◆写真上:落合地域の周辺には、高田馬場に1店舗しか存在しない茶漬け屋。
◆写真中上:1953年(昭和28)に描かれた挿画で、三宅邦子の洋菓子喫茶『柏水堂』()、丹下キヨ子の喫茶店『きゅうぺる』()、市川紅梅の茶漬け屋『つきじくらぶ』()。
◆写真中下:同じく、高峰秀子の蕎麦屋『永坂更科』()、9代目・市川海老蔵の代行で描いた佐伯米子の鮨屋『二葉鮨』()、芝居好きらしい佐伯米子の蕎麦屋『蓮玉庵』()。
◆写真下は、蓮玉庵の店前と天せいろ蕎麦。は、1953年(昭和28)に読売新聞社会部・編で現代思潮社から出版された『味なもの』の表紙()と奥付()。

武蔵野で思わず出会えた蕨手刀。

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 台東区鳥越2丁目にある鳥越神社には、付近の古墳から出土したとみられる蕨手刀が奉納されている。ほかにも、以前から玄室の石棺内にあった副葬品とみられる勾玉や管玉、銀環なども同社に保存されており、早くから農地化や都市化が進んだ江戸東京では、平地にあった古墳を崩した際に出土した遺物を、近くの社に奉納したものとみられる。
 鳥越神社の近くには、古墳群が形成されていたとみられる浅草寺の境内や、同寺の東北東500mほどのところには、鳥居龍蔵の考古学チームが関東大震災の直後に調査した待乳山古墳(群?)も展開していた、東京の平地にはめずらしい古墳エリアだ。また、これらの副葬品は、過去に盗掘をまぬがれたほんの一部の遺物と思われ、江戸の市街地化が進んだ鳥越神社の周囲には、実際にどれほどの古墳が存在していたかは不明のままだ。
 鳥越神社に保存されている蕨手刀は、全長54cm余(鋩が欠損しており実寸はもう少し長い)ほどで、全長70cmを超える岩手県平泉から出土し福島県会津若松で保存されている全長70.6cm(刃長58cm)と、後世の打ち刀における大刀に近い長さには及ばない。一方、武蔵野市にある武蔵野八幡社(同社境内が古墳)から出土した蕨手刀は全長が63cmと比較的長く、鳥越神社のものよりもかなり大振りだ。わたしは、とある展覧会で「武蔵野ふるさと歴史館」へ立ち寄った際、常設展示されていた蕨手刀のレプリカを見て、都内の住宅地で発見された蕨手刀が鳥越神社のものだけではなかったことを、不勉強でうかつなことに初めて知った。
 この蕨手刀が、茎(なかご)に透かしを入れた毛抜透蕨手刀へ進化し、同時に茎が大きく曲がった曲手刀を生み、鋼の加工技術の高度化と相まって、徐々に反りのある日本独自の湾刀=「日本刀」へと進化することになる。最新の研究では、初期の湾刀(日本刀)は東北の餅鉄(河川で摩耗し粒状になった磁鉄鉱)や砂鉄を素材にしており、半地下式あるいは大型長方形箱形の溶炉によるタタラ製鉄で鋼を製錬し、後世の刀工とあまり変わらない仕事をへて、腰に佩く太刀(たち)に近い体配(刀姿)へと近づいていったことが判明している。現在の岩手県南部を中心に発達し、刀剣史では日本刀鍛冶の祖といわれている舞草(=儛草:もくさ)鍛冶の登場だ。
 当時の様子を、1995年(平成平成7)に雄山閣から出版された、石井正國と佐々木稔の共著による『古代刀と鉄の科学(増補版)』より、少し長めだが引用してみよう。
  
 おそらく蕨手刀は、長柄刀や毛抜透刀・太刀に変遷する一方で、曲手刀にも移行していったものと思われる。/次に、毛抜透蕨手刀であるが、これはかなり長寸で重ねが厚く、平棟・平造りの柄曲りの強いもので、切先は浅いフクラを示している。腰部は、鎺(はばき)の代わりに刃部を広幅に張り出し、この部分を鞘に押し込め、固定したものであろう。/これが次第に長寸になり、岩手県西磐井郡平泉の東山から出土した、伝悪路王所佩の毛抜透蕨手刀(図番号略)となる。これは、中尊寺に遺されている。そして同じく東山の出土と推定されるものが、福島県会津若松市の米山高道氏所蔵にある(同略)が、その寸法は、全長七〇・六cm、刃長五八cmと太刀に近づくもので、蕨手刀としては最長である。/最後に、岩手県胆沢郡衣川付近からの出土例がある(同略)。これはやや小振りのもので、その地刃を見るとかなり進化しており、舞草刀工の作品ではないだろうか。/これらの毛抜透蕨手刀は、いずれも九世紀前半頃(平安時代初期)のものとみえる。(中略) 衣川付近出土のものはさらに進化を見せ、小板目がつまり、こまやかな綾杉肌が示され、ぬか肌のような麗しい地鉄がある。/また、焼刃は大小ののたれ刃が示され、切先は直状になり、舞草刀工の作の中でもかなり上位のものとみえる。したがって、九世紀も末葉になると鍛冶屋も進歩して、舞草鍛冶が始まっていたものである。(カッコ内引用者註)
  
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 刀剣用語が頻出するが、「小板目」「綾杉肌」は鋼を折り返し鍛錬したあと、刀剣の地肌(平地や棟地)に現れる独特な肌模様のことで、特に「綾杉肌」は同じ東北の古代からつづく月山鍛冶へと直接受け継がれている。「ぬか(糠)肌」は、その地模様がわからないほどよく詰み鍛えられた地肌のことで、近世では肥前刀の地肌として有名だ。「大小ののたれ刃」は、いわゆる起伏がさまざまな乱れ刃のことで、焼き刃の名称としてはより細かな分類がなされる。
 蕨手刀は東北地方や関東の古墳から多数出土しており、しかも形状が湾刀化しているものは、代表的なものに青森県弘前市の熊野奥照神社が収蔵する長寸の蕨手刀(63.5cm)もあるので、少なくとも古墳期から湾刀が造られていたとみることができる。
 いつの時代も同様に、兵器・武器の形状や進化はひとつの例外もなく、戦闘の形態(戦術・戦法)によって規定される。弥生末より朝鮮半島から運びこまれた、あるいは海をわたり大量に移住してきた韓(から)鍛冶によって鍛えられた直刀は、基本的に徒歩(かち)戦による刺突で相手を倒す武器であり、国内でも当初はそれを模倣し古墳期から奈良期を通じて、全国各地で国産の直刀が鍛造されている。現代では、朝鮮半島の鋼で造られたものか、和鉄で鍛えられたものかまで成分分析により解明することができる。(おしなべて弥生末から古墳初期の段階では、西日本は朝鮮半島の鉄鉱石に由来する朝鮮鉄が多く、東日本は河川で採取できる餅鉄や砂鉄を原料とする和鉄が中心だろうか) ところが、5世紀をすぎるころから東北および関東地方で大量の馬が飼育されるようになり、東日本では徒歩戦ではなく騎馬戦が戦闘の中心になっていく。
 そのような戦闘に直刀は不向きで、騎馬同士がすれちがいざまに相手を撫で斬る=斬り抜く湾刀、すなわち日本刀がより戦闘に適した武器として発達していく。早くも縄文時代の後期に、現在の沿海州側から日本海をわたり東北地方へもたらされたといわれる馬は、東北地方から関東地方にかけて広く普及し、牧場で飼育されるようになっていった。中でも馬畔(めぐろ:のちにさまざまな漢字が当てはめられ「免畔」「目黒」などの地名音に残る)=馬牧場の遺跡が多く、古くからつづく“群馬”や“練馬”(練馬は鎌倉時代からの地名といわれるが、地名が定着して記録に残されるには時代をまたぐほどの長期間が必要なので、鎌倉期よりもさらに以前からの呼称ではないか)など馬に関わる地名が数多く残る関東地方では、武装して馬にまたがり太刀打ちをしながら戦う戦法が定着していった。いわゆる鎌倉幕府へとつづく坂東武者の出現、流行のバズワードでいうならサムライ(つわもの)の誕生ということになるだろう。
 おそらく、最初の湾刀は偶然の産物ではなかったろうか。鋼を鍛え、折り返し鍛錬を繰り返して体配を決め、焼き入れをすることで刀は造られるが(もちろんこれほど単純な工程や手順ではなく、数種の硬軟鋼を複雑に組み合わせるケースがほとんどだが)、焼き入れのとき刃側とは反対側の棟側へ反る傾向が鋼の種類の使い分けによっては顕著だ。だから、直刀を造るためにはあらかじめ内反りで鍛えなければ、焼き入れをしたときに真直ぐにはならない。ところが、直刀を造るつもりが棟側、つまり外側へ湾曲してしまったケースが、鍛造の過程で多々あったのではないか。
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 でも、実際に騎馬戦で用いてみると、直刀よりは圧倒的に湾刀のほうが扱いやすく、また威力も大きかったため、それまで主流だった朝鮮由来の直刀技術を棄て、東日本では独自の湾刀を意図的に鍛造する技術へと進化していった。そして、刀剣史では奈良期末ないしは平安初期にかけ、舞草鍛冶の一部が俘囚(俘虜=ドレイ)として近畿地方に送られ、以降、西日本にも湾刀(日本刀)の技術が伝わったものと考えられている。余談だけれど、舞草鍛冶が「都に招かれた」などとしている刀剣書もあるが、当時の倭国=ヤマト(大和)は日高見国(=『旧唐書』でヤマトの東側に位置する日本<ひのもと>国)とは交戦中であり、敵国の鍛冶を招聘するなどありえない。
 百済の朝鮮王族・豊璋と近しかった天智天皇は、白村江の敗戦のあと中国から押しつけられた蔑称としての「倭(ワ・ヤマト)」の国号を改めるとき(「倭」は「へつらう」「しおれる」の意)、敵対していた日高見国の別名「日本(ひのもと)」国を採用する際、かなりの抵抗感や違和感があったにちがいない。けれども、中国から見て日本列島は東であり、また従来から「倭(ヤマト)国」の東は「日本国」と中国側へ報告していた経緯もあり、さらに敵国「日本」を攻略しつつある情勢から、政治的な判断で便宜的にその名称を“無断”拝借したとみられる。w
 おそらく、倭国(ヤマト)からの使者が中国を訪問し、「悪倭名 更號日本 使者自言 国近日所出 以為名」(『新唐書』より)と宣言した際、従来からのレポートが記録された『旧唐書』では、「日本国者倭国之別種也 以其国在日辺(東) 故以日本為名」と認識していたので、中国側は東の島国で大規模な政変あるいは戦闘があり、倭国(いわゆる近畿地方にあった政権)の東側にあった日本国(日高見国)が、西のヤマト(倭・大和)を滅ぼして併合したと認識したかもしれない。だが、実際には倭国(ヤマト)が日本国(日高見国)を侵略しつづけていたのだが……。そのころには、ナグサトベ女王が治めて南方氏が戦った紀国や、かつてヌナカワ女王が治め20年近くにわたりヤマトの敵対で都(ナラ)に入れなかった継体天皇を輩出した古志国(こし=のちに「越」の漢字が当てられ「えつ」「えち」と発音)、そして出雲国(根国)はどのような状況だったのだろう。
 薩長政府がこしらえた「日本史」では、『新唐書』を根拠に天智天皇の時代に国号「日本」と決められたとしているが、『旧唐書』の記述を「なかったこと」にして、いったいどこへやってしまったのだ? 対立していた、ヤマトの東にある太陽が昇る敵対国が「日本」ではなかったのか? これを踏まえるなら、中国や朝鮮半島由来の直刀を廃した独自の湾刀が「日本刀」と呼ばれるのは、歴史的にも地理的にも正しいということになる。蛇足だが、前世紀末ごろから古代の近畿にあった政権を「ヤマト」とカタカナで表記する文献や論文が急増したが、この「ヤマト」は倭(わ)国のことであり、同時期の日本(ひのもと)国と区別するためだろう。
 少し前の古墳記事でも書いたが、「“日本”とはなにか?」「“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられる事蹟だ。わが国の歴史(特に古代史)の捏造を重ねた薩長政府は、そのような政治制度など存在しないにもかかわらず、江戸期には「士農工商」(中国・朝鮮由来の儒教書に見える記述)という過酷な身分制度があったなどとする(今日では全否定され歴史書や教科書からも削除されつつある)近世にいたるまで、明治以降のわずか77年間でこの「日本」になにを植えつけようとしていたのか。
 さて、古代の大鍛冶(タタラ製鉄)小鍛冶(刀鍛冶)は、高品質な素材(砂鉄・餅鉄)に加え、タタラの溶炉技術による鋼(目白)の質のよさ、そして日本ならではの刀工たちの工夫による、硬軟の鋼を組みあわせる独自技術の発達と3拍子そろったところで、直刀(朝鮮刀)に替わる「折れず曲らずよく斬れる」、いわゆる日本刀を創造しつつあった。
 岩手県一関市には、「儛草神社」と名づけられた社(やしろ)があるが、同社の周辺からは大規模な大鍛冶・小鍛冶の遺跡が発見されている。いまも調査が継続中であり、遺跡からはタタラ製鉄にみられる鞴(ふいご)の羽口や鏃、大量の鉄糞(かなぐそ=鉄滓)が出土している。おそらく、東北から関東にかけては、豊富で良質な素材とともに、製鉄技術(大鍛冶)あるいは鍛刀技術(小鍛冶)に優れた専門家集団が数多く居住していたのではないかと思われる。それら技術の積み重ねや継承で、のちに正宗を頂点とする鎌倉鍛冶(相州伝)が形成されたのではないだろうか。現在では、儛草神社の周辺遺跡の一帯が、「日本刀発祥の地」として刀剣史上で位置づけられ記念碑が建立されている。
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 鳥越神社や武蔵野八幡宮の蕨手刀だが、江戸東京地方に埋蔵されていた蕨手刀はこれだけではなかっただろう。古くから盗掘され、あるいは耕地や市街地の開発で消滅した古墳群には、多くの蕨手刀類が眠っていた可能性がある。江戸期には、古墳から出土する錆びた刀剣(鋼)は粉末状にされ、刀剣研磨の磨き粉として“活用”されたりもしたので、「武家の都」の大江戸ではその多くが消滅してしまったのかもしれない。いまのところ、落合地域からは直刀しか出土していないが、この近辺から湾刀(日本刀)へと進化をする、過渡的な古墳刀が発見されやしないかと期待している。

◆写真上:武蔵野ふるさと歴史館に展示されている、武蔵野八幡宮から出土の蕨手刀(レプリカ)。
◆写真中上は、短寸の蕨手刀の拵(こしら)えを復元した模型。中上は、弘前市の熊野奥照神社に保存されている蕨手刀。すでに刀身が大きく湾曲しており、平造りの脇指のような体配をしている。中下は、茨城県の高根古墳から出土した7世紀前半とみられるフクラが枯れぎみな蕨手刀。は、群馬県の宮城村から出土した7世紀末とみられる蕨手刀。いずれの体配も、鎌倉期以降に見られる平造りの刺刀(さすが)や寸伸び短刀のようだ。
◆写真中下は、『古代刀と鉄の科学』(雄山閣)収録の蕨手刀を基本とした湾刀への進化。中上は、毛抜透蕨手刀がさらに進化し長大となった毛抜形太刀。中下は、1995年に出版された石井正國・佐々木稔『古代刀と鉄の科学』(雄山閣/)と、大型本で刀剣の進化も豊富な図版やカラー写真類で参照できる、1989年に出版された刀剣百科辞典のバイブル的な梶原美彦『図説日本刀用語辞典』()。は、舞草鍛冶にも言及し日本(ひのもと=日高見国)側の視点から古代史を描いた2013年出版の中津攸子『東北は国のまほろば』(時事通信社/)と、最新の研究成果も含め古代刀を解説した2022年出版の小池伸彦『古代の刀剣』(吉川弘文館/)。
◆写真下は、埼玉県の将軍山古墳出土の6世紀初めごろの古墳刀で、大板目の肌立ちごころだがよく錬れた地肌をしている。中上は、群馬県の二子山古墳出土の6世紀後半の古墳刀で典型的な綾杉肌をしている。中下は、わたしの手もとにある下落合(現・中落合・中井含む)の目白崖線から出土した古墳刀。平造り・平棟で、研ぎ師に依頼して判明したのだが明らかに柾目ごころの地肌をしている。関東地方で同様の鍛え方は、埼玉県出土の6世紀後半とみられる古墳刀に多いため同時期の作品だろうか。は、同刀の茎(なかご)には柄をかぶせる際に打った目釘が3本(4本?)、茎尻の日本刀では柄頭(つかがしら)にあたる部分へ縦に1本の目釘が錆びついたまま付属している。
おまけ1
 記事では煩雑になるので触れないが、東北各地の古墳から出土する平造りの「立鼓柄刀」。茎に目釘穴がひとつで茎は栗尻、中反り(鳥居反り)に鍛えられ限りなく日本刀に近い体配をしている。
立鼓柄刀(東北).jpg
おまけ2
 江戸時代にもう一度、日本刀は直刀もどきの体配(刀姿)へと回帰する時期があった。大規模な騎馬戦などなくなり、個人vs個人の対戦では剣術の刺突(スポーツの剣道でいう“突き”と呼ばれる技)が、相手に与えるダメージがことさら大きいため、反りが浅く直刀に近い打ち刀(大刀)が大流行した。1660年ごろの寛文年間にはじまる、このブームの中で鍛造された大刀は特に「寛文新刀」と呼ばれ、反りが浅く直刀に近い体配をしている。中曾祢興里入道虎徹の作品(下写真)には、直刀に近い刀姿の作品が多いが、このブームのまっただ中で作刀していたからだ。
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「江戸城」と「千代田城」の相違について。

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 過去に拙ブログの記事でも繰り返し書いているが、室町期の「江戸城」と江戸期の「千代田城」を混同して呼称している方が、このごろ“膝元”である東京にも多いので、もう一度ハッキリと規定して書いておきたい。両城の呼称は、時代ちがいの別の城郭だ。
 江戸東京地方にある城郭について、徳川幕府以外の各藩から江戸地方にある城のことを、おしなべて明治初期まで「江戸城」と呼称していたのはそれほど不自然ではないが、当の江戸東京の地元=(城)下町では、300年以上も前の江戸中期から、徳川幕府の城は「千代田城」と呼ばれている。ちょうど会津の街にある城郭は、外部からは一般的に「若松城」と呼ばれているが、地元ではそうは呼ばずに「鶴ヶ城」と呼称しているのと類似するケースだろうか。あるいは「姫路城」と「白鷺城」の関係も、似たような経緯があるのかもしれない。けれども、時代ちがいの感覚とは、また少し異なる“愛称”的な地元の想いのほうが強いだろうか。
 いつの間にか、室町期の城も徳川時代の城もゴッチャにされ「江戸城」と呼ばれるようになり、「千代田城」の名称が霞んでいくように感じられたのは、江戸東京地方以外からの移住者が急増した1960~70年ぐらいからだろうか? 少なくとも、わたしの子ども時代には親の世代や親戚・知人たちの間では、「千代田城」という名前が地元では一般的に使われていた。もともと柴崎村の近くに、小名で「チオタ(千代田)」と呼ばれた地域に建つ城であったことから、室町期の(地元にとっては大昔の)「江戸城」やその城下町と差別化するために、城郭が最終形となった江戸中期ごろから「千代田城」と呼ばれだしたのではないかと推測している。
 そもそも同城のおおもとは、鎌倉幕府へ参画し幕府御家人だった江戸重長が、1180年(治承4)に建設した武家館(やかた=江戸館)からスタートしている。このころから、初期鎌倉に見られたような町に近い集落(のち室町時代の城下町)が、すでに小規模ながらも形成されていたといわれている。江戸氏が統治したエリアは、南が六郷(多摩川)、北は浅草(今戸)から赤塚にかけ、東は隅田川、西は田無にまで及んでいたといわれる広大なものだった。江戸氏が建設した館は、室町期より市街地化が急速に進み位置が不明のままだが、同時代の他の武家館を参照すると、大きめの屋敷に築地と空濠をめぐらしたほどの規模だったとみられる。
 次に、鎌倉の扇ヶ谷(やつ)上杉家の家臣・太田資長(道灌)が、三方を海や湿地帯で囲まれた原日本語でエト゜(江戸=鼻・岬)のつけ根に、「江戸城」を築造したのが1457年(長禄元)のことだ。上杉氏は、江戸城と同時に関東へ複数の城郭を築いている。この史実や経緯から、江戸東京は日本でも最古クラスの城下町ということになるので、これも再度確認しておきたい。
 当時の様子を、1952年(昭和27)に岩波書店から出版された、監修・高柳光壽および岩波書店編集部による『千代田城』(岩波写真文庫58)より引用してみよう。
  
 康正二(一四五六)年扇谷上杉修理大夫定正はその臣太田左衛門大夫資長(入道して道灌といった)に命じて江戸に城を築かせ江戸城といった。(千代田城はもっと後のもので一七〇〇年頃から見えて来る) これは古河公方足利成氏に対抗するために川越・岩槻両城とともに築いたものといわれる。築城は一年余りを費して翌長禄元(一四五七)年に出来上り、資長はその四月に品川の館からこれに移った。時に資長は二十六歳であった。
  
 太田道灌の江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた本格的な造りで、城郭を載せた塁の盛り土は高さ10丈(約30m/おそらくひな壇状の土塁構造)を超えていたといわれ、周囲には芝土塁をめぐらし、巨木を伐りだしては城郭をはじめ土塁をまたぐ大橋、鉄製の大手門などを次々と建設している。だが、今日の千代田城とは比較にならないほど規模の小さなもので、江戸城は現在の西ノ丸あたりにあったとする説(新井白石説)や、現在の本丸に近い位置にあったとする説がある。その城郭の場所については、早くも江戸時代から議論されており、すでに曖昧になっていたのがわかる。
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 このときから、江戸城下には平川(現・神田川の原形で日本橋あたりから海へ注いでいた古くからの流れ)沿いには、にぎやかな城下町が形成されており、海沿いには陸海の山海産物を取引する市場をはじめ、それらを運搬する物流拠点の伝馬町や、漁師町、廻船用の湊(港)などが整備されていった。江戸城の当時、城下町には房州産の米穀類、常陸産の茶類、信州産の銅、東北各地産の鉄(鋼)などが集積されていたと記録にみえる。もちろん、城下町には武器を生産する小鍛冶(刀鍛冶・鎧鍛冶)や、生産用の農工具を製造する野鍛冶(道具鍛冶)も数多く参集していただろう。これが、太田道灌が建設した「江戸城」とその城下町の姿だ。
 ちょっと余談だが、この太田道灌の城下町からつづく各地漁師町の漁師たちと、徳川家康が大坂(阪)から新たに招いた漁師たちとの間で、漁場や漁業権をめぐり訴訟沙汰が絶えなくなるのは、以前の記事でも取りあげている。新参の漁民たちは佃島を与えられ、既得権のある室町期からの城下町漁民と対立しないよう、江戸の「外」に住まわせられている。「江戸へいってくら」という佃島に残る慣用句は、こんなところにも遠因があったのかもしれない。
 さて、豊島氏を滅ぼし勢力が強大となった太田道灌が、主君の上杉定正に謀反を疑われ、1486年(文明18)に暗殺されると、江戸城にはすぐさま曾我氏が派遣されたが、その後は上杉氏の直轄支城となって室町末期を迎えている。そして、1524年(大永4)に小田原の北條氏綱(後北條氏)に攻略され、同家の遠山氏が城代として赴任している。この間も、江戸の城下町はそのまま継続しており、物流や生産の拠点だったせいか、「江戸筋」あるいは「江戸廻り」という言葉が同時代に生まれている。さらに、1590年(天正18)に豊臣秀吉により小田原の北條氏が滅ぶと、徳川家康が関八州とともに室町期の江戸城を引き継ぐことになった。
 上州世良田(現・群馬県太田市世良田)が出自の、近接する前・幕府の足利氏とともに鎌倉幕府の有力御家人だった世良田親氏→徳阿弥(信州・江戸居住のち松平家へ婿養子に入り松平親氏)→松平・徳川氏(三河・駿河時代)は、鎌倉幕府が滅亡して以来250年のブランクをへて、ようやく上州世良田のある故地の関東地方にもどれたわけだ。ちなみに、宝永年間より徳川家では「徳川」姓とともに、「世良田」姓を復活させて名のるようになる。
 小田原の北條氏が滅亡した同年に、徳川家康は太田道灌由来の江戸城へ入城している。このとき、家康は戦で荒廃していた外濠を拡張・整備し、西ノ丸の増築をしただけで旧来の本丸・二ノ丸・三ノ丸を活用して居住していた。ここで徳川家康が江戸に入ると、今日の千代田城を建設して入居したようなイメージや錯覚が生じるのだが、家康がいたのは太田道灌由来の江戸城であって、現在の千代田城などいまだ影もかたちも存在していない。
 慶長年間の姿を描いたとされる「江戸始図」(一部不正確)が残されているが、家康が居住したのは道灌が築城した本丸あるいは増築した西ノ丸であり、周囲に展開する室町期以来の丸ノ内(城郭内)や城下町へ、家臣団の屋敷が次々と建設されているものの、基本的には室町期の城郭の姿そのままだった。この経緯から、のちに広大かつ巨大な「千代田城」が築かれたあと、名称を旧来の「江戸城」と差別化する必要が生じたのは自明のことだろう。現在、江戸東京の中心に建っている城は道灌由来の「江戸城」ではなく、徳川幕府が長年月をかけて築造した「千代田城」だ。
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 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に勝利した家康は、城郭の普請ばかりでなく、翌年からおもに城下町の整備をスタートしている。先祖の徳阿弥(=松平親氏)時代からの氏子だった、のち江戸総鎮守と規定される神田明神社を、神田山(現・駿河台)から御茶ノ水の北側へと遷座させ、神田山を崩して海岸線を埋め立て新市街地を形成している。いわゆる現在につながる計画的で本格的な(城)下町の建設だが、大川(隅田川)の河口にあった中洲を埋め立て、日本橋の町を造成したのをはじめ、京橋、尾張町(銀座)、浜町などが続々と誕生している。
 家康が隠居し2代・徳川秀忠の時代になると、このときから太田道灌由来の古い“江戸城大改造プロジェクト”が始動する。本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸の大規模化をはじめ、日本最大の天守閣建設、外濠の再整備(石垣築造)と内濠の掘削だが、広大な北ノ丸はいまだ存在していない。また、1615年(元和元)ごろから、御茶ノ水の駿河台を深く掘削し、平川(現・神田川)の流れを外濠として活用するとともに隅田川まで貫通させ、牛込見附(現・飯田橋駅)に一大物流拠点を設置し、江戸川(現・神田川)を上流まで舟でさかのぼれるようにしている。
 つづいて、徳川家光が3代将軍に就任すると、秀忠に引きつづき城郭全体の大増築を行い、今日の千代田城とあまり変わらない姿へと普請を進めている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 家光は華美好きな人で、家康の残した莫大な金銀を使い果たし、幕府財政窮乏の端を開いたほどの放漫政策を行ったが工事に大名を使役することも秀忠の比ではなく、弟の徳川忠長を初めとして三家までもその役に服させて寛永六(一六二九)年から十三年にかけて大増築を行い、ほとんど日本全国の力を合せて、日本史上空前の巨城を完成させたのであった。/大手門を始点として、螺旋状に遠く浅草橋まで江戸市街の大半を囲んでのびた濠の要所要所には城門(今日に残る桜田門と同型式のもの)が設けられ、その総数三十八門に及んだ。これを概数して三十六見附と称した。四谷見附や市谷見附には、今にその石塁の一部が残っている。
  
 これにより、徳川三家や松平諸家ばかりでなく、諸国の大名たちもあらかた金蔵が空になり財政難に陥ったが、見方を変えるなら「江戸御用達」による全国の商工人や農林業の従事者、人足たちの多くが潤い、「史上空前の巨城」(世界最大の城郭建築)の周囲には、すでに都市と呼べるほどの、ありとあらゆる業種や職種の人々が参集し、(城)下町が形成されることになった。北関東で食いっぱぐれたわたしの遠い祖先も、日本橋が埋め立てられてしばらくすると、おそらく刀を棄てて仕事を探しに、江戸へとやってきては糊口をしのいでいたのだろう。
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千代田城1952岩波書店.jpg 田村栄太郎「千代田城とその周辺」1965雄山閣.jpg
藤口透吾「江戸火消年代記」1962創思社.jpg 大江戸八百八町2003江戸東京博物館.jpg
 大江戸(おえど)の巨大都市は「大江戸八百八町」と表現されるが、町の数は808町どころではなかった。「八百八」は無数という概念で、鎌倉の「百八やぐら」や戸塚から落合、大久保にかけての「百八塚」昌蓮伝承と同様のレトリックだ。江戸中期の享保年間には、すでに1,678町に達しており、幕末の町数はゆうに2,000町を超えていたといわれている。(ただし朱引墨引内にあった「村」単位の集落は含まれず、村々まで含めれば名主のいる自治体は膨大な数になるだろう) 人口も増えつづけ幕末には150万人近くと、いつの間にか世界最大の都市へと成長していた。

◆写真上:自然地形を利用したといわれる、西ノ丸に残る江戸城の道灌濠。
◆写真中上は、戦後撮影の汐見坂で、坂上に太田道灌の江戸城の櫓があったといわれる。中上は、汐見坂下にある古い白鳥濠。中下は、慶長年間に作成された「江戸始図」を岩波編集部が作図したもので、道灌由来の江戸城を中心に初期普請の様子がわかる。は、幕末の本丸(跡)。豪壮な本丸建築は焼失しており、見えている三重櫓は富士見櫓。
◆写真中下は、伏見櫓と書院門つづきに架かる手前が前橋でうしろが後橋。当時から二重橋と呼ばれていた。中上は、幕末の鍛冶橋門で現在の八重洲口あたり。中下は、浅草門(浅草見附)で門をくぐると北へ向かう道筋がつづき柳橋から蔵前、駒形をへて浅草へと抜けることができた。は、1942年(昭和17)に制作された竹内栖鳳『千代田城』。
◆写真下は、現在の宮内庁側から写した幕末の富士見櫓と坂下一ノ門(高麗門)。中上は、神田上水の水道橋が架かっているのが見える御茶ノ水あたり。現在は、左手の土手中腹が崩され中央線が走っている。中下は、1952年(昭和27)に出版された高柳光壽・監修『千代田城』(岩波書店/)と、1965年(昭和40)に出版された田村栄太郎『千代田城とその周辺』(雄山閣/)。は、江戸の火災と千代田城について解説した1962年(昭和37)出版の藤口透吾『江戸火消年代記』(創思社/)と、2003年(平成15)に出版された『大江戸八百八町』(江戸東京博物館/)。
おまけ
 北桔橋門から入った天守台の西北角の一部で、大人の身長と比べるとその大きさがわかる。イラストは、寛永年間を想定した日本最大の千代田城天守(3代目)の復元図。高さが約61mあり、遠い先祖が見た天守閣はこのデザインだったろう。下は、朝霞にかすむ富士見三重櫓を本丸側から。
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「国家安康」で浮かんだ江戸東京のアンコウ鍋。

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 このところ、東京にアンコウ(鮟鱇)鍋屋が増えてるのだという。子どものころ、アンコウの専門店といったら、万世橋の近く神田須田町の「いせ源」ぐらいしかなかったと思うのだが、戦前の東京では冬になるとあちこちでアンコウ屋が店開きをしていたらしい。
 尾崎行雄(咢堂)は、娘の清香がアンコウ鍋をつくる日にちを伝えると、わざわざ軽井沢の自宅から下落合の佐々木久二邸までやってきては賞味している。それほど、厳寒にフーフーしながらアンコウ鍋をつっつくのは、江戸東京における冬の風物詩だった。わたしは真冬の出勤途中、道筋にあたる魚屋でアンコウが店先に吊るされていたのを見たことがある。いまでも、真冬に一度はアンコウ鍋というお宅も多いのだろう。魚屋ではなく、スーパーの鮮魚売り場にアンコウの切り身がズラリと並ぶのも、季節を感じさせてくれてうれしい眺めだ。
 アンコウは鍋にするのもいいが、から揚げにしても美味しい。その外見からは想像もできない、風味がよくふんわりとした上品な白身の味わいがやみつきになる。また、新鮮な“あん肝”はフォアグラを凌駕する美味しさだとよくいわれるが、アヒルやガチョウへ無理やり大量のエサを与え、脂肪肝で肥大化して病変した肝臓と、天然の“あん肝”を比べてはアンコウに失礼だろう。また、鍋のあとに白いご飯を追加して、アンコウおじや(雑炊)にして食べるのも昔からの楽しみだ。子どものころから、わが家では冬に3~4回はアンコウ鍋を食べていたけれど、いまも身をちぢめるような寒さになるとアンコウ鍋が恋しくなる。
 皮に近いプリプリした身の部位には、フカヒレやスッポンなどと同様にコラーゲンや豊富なビタミン類、DHA・EPAがたくさん含まれているので、グロテスクな外見とは裏腹に、昔からこの街では好まれる食材だった。いまでも、女性たちにかなりの人気があるのは、美容の維持や老化防止に高い効果が得られるからだろう。この地方では、茨城から北の東北地方の太平洋沿岸で獲れるアンコウが、風味がよくサイズも大きくて最上とされている。もちろん、大江戸の街中でもアンコウ鍋は食べられており、当時は五大珍味のひとつとされていた。
 戦後しばらくは、アンコウ鍋を食べさせる店が神田の「いせ源」だけになってしまったらしいが、そのころに同店を取材したエッセイが残っている。1953年(昭和28)1月から半年間、読売新聞に連載がつづいたエッセイ「味なもの」だが、いせ源を取材しているのは小説家の山岡荘八だ。同シリーズの、『神田に懐しアンコウ鍋』から引用してみよう。
  
 寒中の鍋はわれわれの少年時代、家庭でもよく用いられた。ところが最近になるとその専門店は東京中に須田町の「いせ源」ただ一軒になったという。/神田で育った私にはいせ源はなつかしい。万世橋の駅前、以前の連雀町にあって、広瀬中佐の銅像と、いせ源の店にかかったあんこうはよく私の足をとめさせた。/しかも当主はわが親友の木村荘十氏と幼友達だという。訪問する日は珍しく朝から雪が降って、まさにおあつらえ向きの「あんこう日和」、店先についてみるとウィンドーになつかしい大人(たいじん)が、陰嚢然として下っていた。(カッコ内引用者註)
  
 わたしは残念ながら、いせ源でアンコウ鍋を食べたことがない。アンコウ鍋は、近所の魚屋さんから新鮮な切り身を買い、家庭で好きな鍋やから揚げに調理して味わうものとして育ったので、わざわざアンコウ鍋を食べに出るという発想がなかった。子どものころの記憶にも、親に連れられ専門店でアンコウ鍋を食べたという場面も味も思いあたらない。親の世代からして、アンコウ鍋は家庭で好きな料理で食うものという習慣になっていたのだろう。
 裏返せば、だからそこ戦後すぐのころ(城)下町のアンコウ鍋屋が、いせ源のみの1軒まで減少してしまったのかもしれない。冷蔵技術や流通経路の発達で、新鮮なアンコウの切り身が近所のスーパーや魚屋で、容易に手に入るようになった影響も大きいのだろうか。でも、一度はプロが味つけした割下で、この街ならではのアンコウ鍋を賞味してみたい。家庭料理とばかり思っていたアンコウ鍋だが、また家の味とはちがった発見があるのだろう。
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 いせ源も、江戸後期(天保年間)から営業している老舗の料理屋だが、店舗の建築も関東大震災から7年後の1930年(昭和5)に建て直されたもので、東京都の歴史的建造物に指定されている。当時の店主の趣味だったのか、正面の見世がまえはガラス戸を障子戸に変えれば、まるで江戸期の料亭のような風情で、上階の座敷も昔の料理屋そのままなのがとてもいい。
 店の上がり口(帳場)の様子は、木村荘八が思いだしながら描いた明治の『牛肉店帳場』によく似ているのも面白い。ただ、通される座敷によっては手すり越しに見える風景が、ビルの側壁になりそうなのは残念だが、いまでは昔からあるどこの料理屋でも、たいていそうなのだからしょうがない。山岡荘八のエッセイを、つづけて引用してみよう。
  
 話しているうちに鍋は煮えた。先ず心臓の一片から口に入れる。トロリとした味はバタを連想させ、皮はさしずめ雷秘臓(脾臓)の臍(ほぞ)とでも言おうか。何しろ食べられないところは大骨だけという大人(たいじん)である。雪白の柳肉は河豚に似ている。/むべなるかな、中川一政、木村荘八等々画壇のお歴々から金馬、三木助、小さんの辱知(じょくち)諸氏、それに亡くなった斎藤茂吉大人なども、よく食べに来られたという。家中にはそれらの人々の書画が多く、当主の子息は大学を出て勤めてみたが最後にいったところが税務署だったよしで、「いや、もうこりごりです。のれんを継ぎます」と真顔でいう。律義で鳴りひびいた当主に後あり、調理の秘訣はと問うと、それは割下にあるらしい。(カッコ内引用者註)
  
 中川一政らの画家や柳家小さんなど噺家たちが贔屓の店だったようで、奇跡的に戦災で焼けてないところをみると、現在でもそれらの書画を目にすることができるのだろう。
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 冒頭で書いたように、東京ではアンコウ鍋屋が増えているそうだ。女性人気もあるのだろうが、家庭の代表的な鍋料理のひとつだったアンコウ鍋も、“おひとり様”では作りにくいせいだろうか。それとも、以前からの江戸東京ブームに乗り、どこかでアンコウ鍋特集でもされたのだろうか。上記のいせ源も、お客が以前より増えて繁昌しているのかもしれない。余談だが、いせ源ではアンコウを素材にした「鮟まん」も売っているというが、一度味わってみたいものだ。
 同じ神田の老舗だった、いつかの水菓子屋(フルーツ店)の「万惣」のように、いせ源も「耐震建築未満」などと規定され、地元のアイデンティティを持たない(持てない)、わけのわからない役人に通達の紙きれ1枚でつぶされないことを祈るばかりだ。こういう江戸東京ならではの老舗料理屋が、1軒でも多く後世まで残っていってほしいと切に願う。以前の繰り返しになるが、古い店が古い建物なのはあたりまえではないか。
 『味なもの』に付随し『「味なものの読者」として』を書いた、“味音痴”を自称するノンフィクション作家で評論家の大宅壮一も、まったく同様のことを心配している。少しだけ引用してみよう。
  
 この世界も、戦時中から戦後にかけて、統制や原料の入手難や戦災などで、一時は完全に荒廃に帰してしまった。江戸時代から知られていた名家や名物もほとんど姿を消してしまった。古い建造物は国宝として、珍しい老樹古木の類は天然記念物として特別に保護されているが、食べもの界の名所旧跡は激しい競争のままに委ねられている。中には戦災の打撃が大きすぎたり、よい後継者がいなかったりして、すでに跡形もなくなっているものも少くない。建物や天然記念物は実物が滅びても模型などで残すという手もあるが“味”のような感覚の世界はそれもむずかしい。
  
 何百年も前からつづく“味”を、ひとつでも多く地元の味として代々受け継いでほしいものだ。
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 子どものころ、練炭の失火で焼ける前の方広寺を訪ねた際、親父が白くマーキングされた梵鐘の一画を指さして、大坂(阪)の豊臣家が滅亡するきっかけとなった「くんしんほうらく・こっかあんこう(君臣豊楽・国家安康)」の文字について解説してくれた。わたしは「あんこう」という語音を聞いたとたんに、もちろん冬場の美味しい「鮟鱇」をすぐに思い浮かべたのだが、ことほどさように昔から食い意地が張っていたわけだ。方広寺を訪ねた日が、春先にしてはたまたま真冬のような寒さだったせいもあるのかもしれない。いまでもアンコウと聞くと、方広寺の焼けてしまった半眼の巨大な大仏の顔を思い出すのは、子ども心に植えつけられた意地きたないオーバーラップのイメージなのだろう。揚げもの好きな徳川家康も、アンコウの天ぷらを食べたのだろうか?

◆写真上:新鮮なアン肝は、フランス料理のフォアグラなどよりもはるかに美味だ。
◆写真中上は、昔から江戸東京の冬の風物詩だったアンコウ鍋。は、冬になると魚屋の店先で吊るし切りされるアンコウ。は、山岡荘八による「いせ源」の挿画。
◆写真中下は、神田いせ源の店前。は、同店の上がり口(帳場)。は、明治期に両国橋西詰めの第八いろは牛肉店の記憶をもとに描いた木村荘八『牛肉店帳場』(1932年)。
◆写真下は、方広寺の梵鐘に刻まれた「君臣豊楽」「国家安康」の文字。は、「アンコウ」と聞くと条件反射で思いだす、1973年(昭和48)に練炭による失火で本堂とともに焼失した方広寺の大仏。東大寺の大仏頭部より巨大だったが、京の大仏は鎌倉の大仏とは異なり“美男におわさない”顔をしていた。小学生のとき、この大仏をカラーで撮影し夏休みかなにかの宿題にした憶えがある。

大正末の展覧会で売られた絵画の値段。

萬鉄五郎「羅布をかつぐ人」1925春陽会.jpg
 下落合では、1922年(大正11)から近衛町目白文化村アビラ村(芸術村)などの開発・販売がはじまり、あちこちで洋館建築が竣工している。また、翌年に起きた関東大震災により、東京郊外の市街地化が急速に進んだ。
 これらの洋館は、日本間ではなく洋間が間取りの多くを占め、その住空間を飾るのに日本の軸画や屏風などはまったく似あわず、必然的に額縁に収められた洋画が求められるようになった。大正末になると、ほとんどの洋館の居間や書斎、応接間、寝室などの壁には洋画が架けられ、あたかも家具調度の一部のように普及していく。
 それらの作品は、各地の美術館や百貨店(デパート)、新聞社などで開かれた美術展覧会で販売されたり、あるいは各地の画廊をまわって気に入った作品を購入したり、さらには好きな贔屓の画家ができると、その作品を確実に入手できる頒布会の会員になって購入したりしていた。また、画家が所属する団体や会派などでも、その人脈を活用して作品の“売りこみ”を行っていたようで、仲介人からの絵の購入も少なくなかったらしい。洋間の普及で絵画の需要が高まった大正期、早くもブローカーのような職業も生まれていただろうか。
 佐伯祐三は、自身のアトリエがある地元で描いた「下落合風景」シリーズを1930年協会の展覧会のほか、東京の画廊や知り合いのツテを利用して販売していたようだが、大阪中津の光徳寺にいた兄・佐伯祐正が起ち上げた「佐伯祐三作品頒布会」を通じて、関西方面に数多くの作品が販売されている。同地域では、まったく馴染みのない東京は落合地域の風景画なので、それとは気づかれずサインのない佐伯祐三の作品が、西日本にいまだ多く眠っている可能性が高そうなのは、これまで何度か記事で繰り返し触れてきたとおりだ。
 佐伯祐三の作品頒布会では、会費が100円と200円のふた通りあったといい、また20号が200円だったという証言も残っているので、100円の会員は10~15号の作品を入手できたのではないだろうか。大正末の大卒初任給は50~60円ほどだったので、20号の「下落合風景」作品を購入するには、3~4ヶ月分の給与を丸ごと貯めなければならなかったことになる。今日の貨幣価値に換算(給与指数)すると、1926年(大正15)の1円は約2,400円に相当するので、佐伯の20号は約48万円ほどで売買されていたことになる。
 ちなみに、当時の大卒初任給を今日の貨幣価値に換算すると、約12万円~14万4,000円ほどということになるが、食料品などの生活必需品や家賃、借地代が今日とは比べものにならないほど安かったので、13万円前後の給与でも余裕でやっていけたのだろう。給与指数換算のみで考えると、大卒初任給が13万前後といえば1980年代前半のような感覚だろうか。大正末から昭和初期、佐伯の「下落合風景」の20号作品が50万円ほどで入手できたわけで、同作20号が軽く100倍以上はする現状から見れば、わたしにも買える「うらやましい」時代だったことになる。
 1925年(大正14)3月に、上野台で開催された春陽会第3回展では、合計248点の作品が展示されている。それぞれの作品には値段がつけられ、その記録が『近代日本アート・カタログ・コレクション』(東京文化財研究所/1932年)に残されている。同展で、もっとも高い価格を設定しているのは萬鉄五郎だが、彼は2年後に茅ヶ崎で死去することになる。同展の出品作について、萬鉄五郎が書いた文章を1925年(大正14)に刊行された『みづゑ』4月号(春陽会号)から引用してみよう。
  
 勿論立体を取扱つたものであるが、立体派としては稍初歩のものである。立体派の如きは今日では最早や世界的の常識となつてゐるのであるから別に新しい画風とは思つてゐない。(中略) その『三人の裸女』のうち一人をとつて小さく後で製作して見たのが今度の『宙腰の人』である。(中略) 『羅布被ぐ人』は昨年夏に構想が出来たもので十一月から着手したが主として今年になつてから製作したものである。これは色彩を目的としたみのでない事は一見してわかるが、従来色が暗くなる傾向があつて困つて居たのでこれにはなるべく明るい色を適合させたのである。
  
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岸田劉生「少年肖像」1925.jpg
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 文中に書かれている『羅布被ぐ人』には、3,000円の価格がつけられている。『宙腰の人』は200円だが、同時出品の『男』は5,000円と、同展では最高値がつけられていた。先の価値換算でいえば、5,000円は1,200万円ほどに相当する。
 この値段が破格な設定なのは、同展に出品していた岸田劉生の『静物』が2,000円だったのを見ても、その倍以上になるので萬鉄五郎が同作品にこめた自負・自信、ないしは特別な思い入れをうかがい知ることができる。萬鉄五郎は、ほかに『窓外風景』(100円)、『水衣の人』(500円)、『雪』(300円)と合計6点を出品している。
 名前が出たついでに、草土社から春陽会へと合流した岸田劉生は、同展に5点の作品を展示しており、上記の『静物』のほか『少年肖像』(500円)、『童女像』(500円)、『冬瓜葡萄図』(600円)、『冬日小菜』(350円)と自信家のわりには、思いのほか抑えた値づけをしているように思える。関東大震災の避難先、京都での骨董趣味や遊興による借金返済のために、あえてリーズナブル(売れそうな)な価格設定にしたものだろうか。
 ほかに高額な画家としては、作品4点を展示している梅原龍三郎の『榛名湖』(1,500円)がある。だが、販売されているのはこの1点だけで、残り3点は非売品となっており、すでに販売先が決まっていたものだろう。同じく長谷川昇も、『支那裸女』(1,000円)と高額設定をしている。長谷川は同展に4点出品しているが、『髪あむ少女』(300円)、『安息』(不明)、『裸女』(450円)と桁がちがうのは『支那裸女』のみだ。
 旧・草土社のメンバーの作品を見ると、木村荘八は同展に6点の作品を展示しており、それぞれ『連獅子(一)』(150円)、『連獅子(二)』(150円)、『引窓』(150円)、『千代萩』(150円)、『同床下』(150円)、『太十』(80円)と、すべて人形浄瑠璃をモチーフにした作品ばかりだ。価格設定も、サラリーマンが少し無理してお小遣いを貯めれば買えそうで、油彩画にもかかわらず洋館ではなく和館や日本料理屋・料亭などにも似合いそうな画面であることにも留意したい。
 下落合の椿貞雄が、同展に14点もの作品を展示していることは以前の記事に書いたが、『美中橋(一)』(120円)と『美中橋(二)』(250円)のほか、高額設定の作品としては『晴れたる冬の道』(500円)と『江戸川上流の景』(500円)の2点がある。いずれも落合地域を描いた作品とみられるが、山形県米沢での風景作品は、『置賜駅前風景』(120円)に『山里』(60円)と比較的リーズナブルだ。
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木村荘八「引窓」1925春陽会展.jpg
椿貞雄「美中橋(2)」1925春陽会展.jpg
 河野通勢は8点の作品を展示しており、そのうち『観音堂』『酉の市』『六地蔵尊』『仲の町』の4点が非売品となっている。いずれも、浅草や新吉原あたりの風景画だが、すでに料亭・料理屋か待合茶屋などへの販路が決まっていたものだろうか。ほかに『長崎女郎屋格子先の図』(250円)、『お茶の水土堤大潰壊』(70円)、『モーゼ発見』(50円)、『巴焼』(50円)という価格になっているが、「長崎女郎屋」は河野通勢が住む東京の長崎ではなく、九州の長崎市丸山町のことだろう。また、廉価な『モーゼ発見』と『巴焼』はリトグラフだと思われる。
 鎌倉で、岸田劉生や椿貞雄の相撲仲間だった横堀角次郎は、同展に4作品を展示しているが『鵠沼の道』(150円)、『静物(其一)』(80円)、『静物(其二)』(80円)、『風景』(80円)と小金があればすぐに買えそうな値づけをしている。同じく、当時は草土社風の表現をしていた三岸好太郎は、5点の作品を展示しており『少女の像』が非売品のほか、『冬の崖』(150円)、『少年』(100円)、『美しき少女』(150円)、『裸体』(150円)だった。三岸と同郷で親しい俣野第四郎は、『我孫子の風景』(100円)と『ハルビンの郊外』(100円)の2点を出品している。
 会員だった斎藤與里は、『諏訪湖畔の宿にて』『部屋の一隅』『雑魚すくい』『雪の日の天王寺公園』の4点を出品しているが、価格は高めな750円均一だった。また、中川一政は椿貞雄に次ぐ11点もの作品を展示しており、そのうちの『静物小品(其一)』『静物小品(其二)』『野娘』『肖像(其一)』『中禅寺』の5点が、すでに販路が決まっていたものか非売品となっている。残りは『静物(其一)』(250円)、『静物(其三)』(150円)、『静物(其四)』(150円)、『静物(其五)』(200円)、『肖像(其二)』(400円)、『湯ヶ原』(200円)という値づけだった。
 ちょっと気になるところでは、吉田節子(三岸節子)が4点の作品を出しており、非売品となっている『肖像』1点を除き『机上二果』(100円)、『風景』(60円)、『山茶花』(80円)という値づけだった。また、フランスに留学中だった清水多嘉示は、『風景』と『赤衣婦人』の2点を出品しているが、価格の記載がなく展示のみで非売品としていたようだ。
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斎藤與里「雪の日の天王寺公園」1925.jpg
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 同展でいちばん気がかりなのは、落合地域にアトリエがあったらしい上杉勝輝の『落合のある風景』だ。上杉勝輝は、名前からもわかるように越後を故地とする米沢藩上杉家の姻戚筋で、椿貞雄や高瀬捷三と同郷人であり、岸田劉生や河野通勢らを顧問とする「七渉会」のメンバーのひとりだった。ちなみに、『落合のある風景』は30円だが、どこかに画像が残ってやしないだろうか。

◆写真上:春陽会第3回展では、高額だった萬鉄五郎『羅布をかつぐ人』(3,000円)。
◆写真中上は、同展に出品された萬鉄五郎『宙腰の人』(200円)。は、同じく岸田劉生『少年肖像』(500円)。は、同展の梅原龍三郎『榛名湖』(1,500円)。
◆写真中下は、同展に出品された長谷川昇『安息』(価格不明)。は、同じく木村荘八『引窓』(150円)。は、すでにご紹介済みの椿貞雄『美中橋(二)』(250円)。
◆写真下は、同展に出品された河野通勢『観音堂』(非売品)。は、同じく斎藤與里『雪の日の天王寺公園』(750円)。は、三岸好太郎『冬の崖』(150円)で「我孫子風景」の1作だろう。

高田馬場駅が起点のダット乗合自動車1931年。

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 Seesaaブログで便利なのは、複数ワードで検索ができる点でしょうか。いくつかの用語を検索窓へ入力すると、ssブログとは異なり記事がよりピンポイントで絞れるのでお試しください。
  
 目白駅を起点にダット乗合自動車を運行していた、ダット自動車(合)のバス停をご紹介していたので、今回は同様にダット乗合自動車を走らせていた、高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)のバス停について書いてみたい。
 高田馬場駅を起点とするダット乗合自動車(株)は、1926年(昭和元)12月に設立された旅客運輸会社で、目白駅を起点にしていたダット自動車(合)よりも新しい会社だ。下落合の住民たちは、信濃町や四谷、市ヶ谷、神楽坂方面など、山手線と中央線に挟まれた現・新宿区の内側地域へ出かけるには、山手線の目白駅からではなく、高田馬場駅のダット乗合自動車を利用したほうが便利だったろう。現代の感覚でいえば、東京駅やその周辺の(城)下町へ出るには、目白駅から山手線に乗ってグルッとまわるよりも、高田馬場駅から地下鉄東西線で斜めに大手町まで一気に抜けるほうが、かなり効率的で時短になるのと同じような感覚だったろうか。
 ダット乗合自動車(株)は、高田馬場駅が起点であり同駅に接するすぐ西側の敷地には、同社により折り返し用のターンテーブルが設置されていた。なお、戦後は都電網の整備により、高田馬場駅を起点とする同路線は牛込柳町交差点をへて、中央線の水道橋駅前へと向かう路線に変更されている。ちなみに、今日の都バスで当時のダット乗合自動車に相当する路線は、途中までバス停が似かよっており終点の九段下停留所へと向かう「飯64」系統と、早稲田大学の正門へと向かう学バスの「学02」系統の2路線だろう。
 また、現在は小滝橋車庫まで通じる「飯64」系統のバスだが、当時は小滝橋車庫までの停留所はなく路線は通じていなかった。ただし、1926年(昭和元)末の当時から小滝橋車庫自体は存在しており、ダット乗合自動車と関東乗合自動車の共同利用だったようだ。高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)は、現在でいえば新宿区の内部へと向かう営業距離がわずか4kmの短い路線で、所有していた車両台数もわずか9台(1933年現在)と少なく、目白駅を起点にしていたダット自動車(合)より規模がかなり小さめな路線だった。
 それは、いずれ江戸川橋から早稲田を経由して、高田馬場駅まで東京市電の延長される計画が見えていたからだろう。ただし、会社の愛称である「だっと」は、利用者の間で広く親しまれたらしく、当時は「だっと」といえば乗合自動車(バス)のことを指していたらしい。戸塚町の資料でも、「だっとが走っていた」という表現を何度か見た憶えがある。
 東京市電のネットワークが整備されていた東京に、初めて乗合自動車(バス)が登場したのは1913年(大正2)4月開業の調布-府中間と笹塚-新宿間の、いずれも郊外を走る京王電気軌道(株)が経営していた路線とされている。だが、実際に乗合自動車が街のあちこちを走るようになったのは、交通網が大きなダメージを受けた関東大震災以降のことだ。
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 東京市内における乗合自動車の路線普及について、1935年(昭和10)に帝国大観社から出版された『大東京大観』より引用してみよう。
  
 大東京に於ける乗合自動車が一般に其の本来の機能を認められ、漸く実用化されるに至つたのは実に大震災後のことに属する。彼の大震火災は大東京の交通施設の上にも一大破壊を齎(もたら)し、殊に市内に於ける運輸交通機関は致命的損傷を蒙り、一時全く其の運行を停止するの止むなきに至つた。其の結果は俄然各種の応急的運輸交通機関の出現となつたが、其の中に在つて自動車の活躍は特に目覚しく、他の応急的代用機関は多く秩序回復と共に其の姿を没したが、独り乗合自動車は依然として優勢の地位を保ち、爾来急激な勢を以て発達し、今日の盛況を見るに至つたのである。現在大東京内に於ける乗合自動車の数は五十三で、(後略/カッコ内引用者註)
  
 東京市が、関東大震災の直後に、交通機能回復のためフォードT型バス=「円太郎バス」800台を緊急輸入した経緯は、以前の記事でも触れたとおりだ。これらの「円太郎バス」は、軌道(レール)の復旧に時間がかかる鉄道や市電に代わり、大震災直後から東京各地を走るようになった。鉄道や市電が復旧したあとも、これらのバスは東京各地で活用され、新たな交通網として1925年(大正14)4月より、東京市営軌道から経営分離し東京市営乗合自動車へ移行している。
 さて、資本金10万円(1926年現在)で設立された、ダット乗合自動車(株)の路線を見てみよう。起点からの停留所は、高田馬場駅前-戸塚役場前-源兵衛-諏訪ノ森-戸塚署脇-横門前-学院前-穴八幡-交番前-感通寺-若松町の順だった。ただし、同路線には2系統あり、高田馬場駅前-穴八幡までは同じコースだが、そこから分岐し、穴八幡-グランド坂上-早稲田と、早稲田大学および市電の終点となる早稲田電停へ向かう路線とがあった。
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 地元の方はすでにお気づきだと思うが、ダット乗合自動車は高田馬場駅から少しだけ早稲田通りを進み、戸塚第二尋常小学校や戸塚町役場をすぎて、字源兵衛の街角を南へ右折すると諏訪社の東側あたりから諏訪通りへと抜け、戸山ヶ原の近衛騎兵連隊(横門前)から早稲田第一高等学院(学院前)、そして高田八幡(穴八幡)で再び早稲田通りへ合流しているのがおわかりだろう。そして、再び早稲田通りを走って馬場下町交番(交番前)から夏目坂を右折すると、感通寺前を通過して市電が通う終点の若松町へと向かっている。
 また、高田八幡(穴八幡)から分岐する別路線は、早大西門がもっとも近いグランド坂上から、戸塚球場(のち安部球場)のあるグランド坂を斜めに下り、やはり東京市電が通う旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの終点・早稲田(電停)へと向かっていた。
 さて、早稲田通りおよび江戸川橋から街中へ向かう都電は廃止されたが、地下鉄網が整備された現在の都バスは、かなり走るコースが戦前とは異なっており、また昔の戸山ヶ原に接した諏訪通りを走ることはない。まず、「飯64」系統は起点が小滝橋車庫になっており、高田馬場駅前に停車したあとのバス停をたどると、高田馬場駅前-新宿区社会福祉協議会前(昔の戸塚役場前)-高田馬場二丁目-西早稲田-甘泉園公園前-グランド坂下-早稲田(都電の早稲田電停)-関口一丁目-鶴巻町-江戸川橋-東五軒町-大曲-飯田橋-飯田橋駅前-飯田橋一丁目-まないた橋-九段下(終点)となっている。そのルートのほとんどが、十三間通り(新目白通り)を走り江戸川橋から目白通りへと、新宿区の内部に向かうのではなく千代田区方面へと抜けていく。
 また、「学02」は早稲田通りをそのまま東南へとたどり、高田馬場駅前-高田馬場二丁目-西早稲田-馬場下町-早大正門(終点)となっていて、「飯64」系統が西早稲田から十三間通り(新目白通り)へと入るのに対し、「学02」系統は地下鉄東西線・早稲田駅のある馬場下町や夏目坂の入口を経由して、早大正門へと北上するコースだ。ちょうど、早稲田通りをそのまま東進しない「飯64」系統の“穴”を、「学02」系統の学バスが埋めるような停留所の配置になっている。ちなみに、早大正門のバス停からケヤキ並木がつづく早大通り(旧・正門通りまたは鶴巻通り)を東へ600mほど歩くと、「白61」系統の都立新宿山吹高校前のバス停があり、これに乗車すると江戸川橋を経由して目白駅が起点だったダット乗合自動車と同コースで、目白駅前へ10分程度でたどり着くことができる。
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 こうして、練馬方面から目白駅前を経由して、あるいは高田馬場駅前を起点にして運行をはじめていた、ダット乗合自動車の路線停留所を追いかけてみると、当時のバス路線は、東京の郊外から繁華な市街地の中心部まで通う東京市電の電停まで、いかに効率よく乗客を運ぶかを考えていたのかがわかる。だが、現在の路線は各鉄道(地下鉄)駅への連絡ももちろん考慮されてはいるけれど、ことさら鉄道駅から遠い住宅街、あるいは鉄道駅がないエリアを遠まわりしてでもめぐるように、路線の走行コースが細かく策定されているのに改めて気づくのだ。

◆写真上:JR高田馬場駅の駅前広場にあった「平和の女神」像の噴水あたりから、1983年(昭和58)に撮影されたBIGBOXと西武新宿線の西武高田馬場駅方面。
◆写真中上は、1927年(昭和2)に撮影された高田馬場駅ホーム。右手では、西武高田馬場駅のホームが建設中だろう。は、同じく1927年(昭和2)に撮影された高田馬場駅入口と山手線のガード下。西武線の高田馬場仮駅は、画面左手の山手線外側ないしは内側のどちらかにあった時期で「高田馬場駅の三段跳び」直前の風景。駅前広場は存在せず、諏訪町の街並みが拡がっていた。は、1985年(昭和60)に撮影された高田馬場駅の駅前広場。
◆写真中下は、1931年(昭和6)に高田馬場駅が起点のダット乗合自動車(株)が作成した運行路線図。は、1980年(昭和55)の大改装直前に撮影された高田馬場駅前の「平和の女神」の噴水広場。は、大正末に撮影された東京市営バスに勤務するバスガール
◆写真下は、1932年(昭和7)に撮影された東京市営乗合自動車(いわゆる「円太郎」バス)。は、同年に撮影された東京遊覧乗合自動車(東京ユーラン乗合自動車=現・はとバス)。は、1937年(昭和12)の時点で東京市内を走っていた最新型の乗合自動車。

佐伯米子と向田邦子の「近似性」について。

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 以前、親父の仕事の都合から、一時期(15年弱)神奈川県の平塚に住んでいたころ、東京に出かける(帰郷する)親父の土産が、頭が白くなるどうしようもないオモチャ類だったのを書いたことがある。また、休日などは東京各地を連れ歩いてくれて散策をしたが、芝居新派の舞台だったりすると、そこは子どもなのでかなりガッカリしたものだ。
 親父は酒を飲まなかった(飲めなかった)が、東京各地の料理屋=“うまいもん”屋によく立ち寄っては、顔見知りだった店の主人や仲居さんと楽しそうに世間話をしていた。わたしは“うまいもん”を食べるのに夢中で、大人の会話なんぞ聞いてなかったが、料理の味はしっかりと舌に記憶している。でも、それは小学校の高学年以上の記憶であって、それ以前に連れていってくれた店の味は、ほとんど思いだせない。
 その後、自宅は母親が手芸店をやってみたいといい出したため、親父の勤め先も近い母親の実家がある横浜へと転居して10年ほどいたが、わたしは学生時代の途中でひとり東京へともどり、親父が停年退職したあとしばらくすると、親たちもわたしを追いかけるように東京の家へともどっている。わたしは学生時代、バイトなどで忙しく親たちとどこかへ出かけた記憶はあまりないが、土産はずいぶんもらった憶えがある。それらは、たいがい親戚東京の知りあいたちが、親たちへの手土産に持参する菓子類だった。
 親父の故郷の親戚や同窓生たちは、酒を飲めないのをよく知っていたので、日本橋の「清壽軒」とか銀座の「虎屋」の羊羹、日本橋は「文明堂」のカステラとかを持参していた。わたしは海街にいたころから、それら菓子のお相伴にあずかっていたわけだが、たまに風味が大きくちがう菓子を食べさせてくれることがあった。当時は気づかなかったが、いまから考えると親父の友人でも、(城)下町ではなく乃手方面に住む人たちが持参した土産だったのではないか。親父は口がおごっていたので、気をつかって老舗の味を選んでいたにちがいない。
 たとえば、食べ慣れた虎屋の「夜の梅」や「おもかげ」ではなく、日本橋堀留町の清壽軒の羊羹でもなかったのは、おそらく甘さが軽く上品な風味をした本郷の「藤むら」の羊羹だったのではないか。文明堂のカステラとは異なり、やや甘さひかえめでふんわりとしていたのは、戦後に目黒へ進出した「福砂屋」の製品ではなかったろうか。これらの製品は江戸期から、または明治初期からの老舗ばかりなので、親父がことさら喜んだ顔が目に浮かびそうだ。
 日本橋の清壽軒は江戸期からの店だし、本郷の藤むらにいたっては室町時代の加賀は金沢からで、加賀前田藩の上屋敷(現・東京大学キャンパス)に呼ばれて江戸へやってきた店だ。虎屋も同じく室町時代からだが、もともとは京の出自で明治になってからやってきているので、江戸東京地方では“新参”の小豆菓子屋ということになってしまう。小豆菓子でいえば、羽振りのいい札差からなぜか菓子屋へ転向した日本橋小伝馬町(その前は大伝馬町だったそうな)の「梅花亭」は、幕末からの元祖・銅鑼焼(どら焼き)の店で、同じ日本橋の人形焼きとともに親父は目がなかった。わたしは、どら焼きも人形焼きも、羊羹やカステラほどには好きではなかったが……。
 文明堂の長崎カステラは、CMとともに東京の進物としてすっかり定着したけれど、明治末からの商売なので、ここに登場している老舗たちに比べると新しい店だ。カステラの福砂屋は、1624年(元和10/寛永元)と江戸初期の創業で、ちょうど先祖が北関東から江戸へやってきたころだが、東京へ進出したのはようやく戦後になってから。福砂屋のカステラは、この正月にいただきもので改めて味わったが、文明堂とは異なる軽妙な風味で美味しかった。
 ほかにも、親父の芝居好きを知っている友人たちは、歌舞伎座も近い銀座の「菊廼舎(きくのや)」あたりの菓子を土産にしていただろう。でも、ここの高級和菓子はわたしの口には絶対に入らなかった。せいぜい、夏場に中元でとどく同店の水羊羹の一片を食べられれば御の字だった。また、親父は菓子の中でもせんべいには目がなかったので、土産や贈答にもずいぶんいただいたろう。柳橋も近い蔵前の「八百屋せんべい」や銀座の「松崎」などがとどくと、ことさら上機嫌だったにちがいない。こういう“うまいもん”や菓子類を食べつづけた親父は、ご想像どおり、40歳をすぎるころから糖尿病の治療にわずらわされ、それは60歳近くまでつづいた。いや、敗戦後、学生時代に銀座松屋の裏にあった米軍のPX(酒保)の調理場で、ホットドッグやパイ、ケーキづくりのアルバイトをしてつまみ食いをしていたころから、すでに糖尿病の予備軍だったのではないだろうか。
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 いつだったか、神田の江戸期からつづく水菓子屋(フルーツ店)だった「万惣」閉店について書いたことがあったが、またぞろ江戸期からつづく老舗の閉店を、このところ頻繁に耳にしている。新型コロナ禍の影響も大きかったのだろうが、先述した本郷で営業していた羊羹の藤むらや、蔵前の八百屋せんべい(いつの間に閉店?)、洋菓子の神保町にあった「柏水亭」(こちらもいつの間に閉店?)、菓子屋ではないが柴又の川魚料理で名高かった「川甚」や、文政年間からつづいた深川の木場も近いうなぎの「宮川」、明治の店では浅草でトンカツ発祥の元祖「喜多八」、湯島の牛鍋屋「江知勝」など、古くからの老舗が立てつづけに閉業している。
 ちょっと横道へそれるが、下落合の林芙美子が死去する当日、仕事の宴席で食べにいった蒲焼屋の「宮川」を、わたしは当時もっとも有名だった根岸の「宮川」とばかり思いこんでいた。だが、画家で医者でもある宮田重雄によれば、富岡八幡から大横川をはさんですぐのところにあった、深川の「宮川」だったと店の亭主ともども証言している。
 老舗の閉店は、いまの東京のニーズや味覚に合わないのかと思いきや、江戸期からつづく風味をさほど変えずに、菓子屋も料理屋もパンデミックを乗りこえて順調に営業をつづけている店も多いので、単に「時代の好みが変わった」だけでは説明がつかない。やはり、営業の継続=跡とりや人手不足の課題が大きいのだろうか。また、万惣のように「耐震建築未満」として、なんら営業継承の手が差しのべられないまま、行政によってつぶされた江戸期からの老舗もあるのかもしれない。古い店が、古い建物なのはあたりまえではないか。
 100年やそこらではきかない、街のシンボル的な江戸期からの老舗を観光や街づくり、事業継続の融資設定などとからめ、どうサポートすれば営業を継続できるのかを考えるのも、行政の重要な役目であり努めだろうに。この街の、そういう地場・地元の感覚を備えた役人がほとんどおらず、よその街の「他人事」のように感じていたものだろうか? 自身の住んでいる街のアイデンティティを持たない(持てない)人間が、数百年にわたり営業してきた店を紙切れ1枚で右から左へ“処分”しているとすれば、日本橋の上空に高速道路を建設しようなどと計画した、あるいは江戸東京じゅうの町名を「恥ずかしい」から変えてしまえと画策した、いけいけドンドン(小林信彦)の愚かな役人たちの時代から、この65年間、さほど進歩していないのではないか。
 さて、1950年代の読売新聞に、同社の社会部が企画したコラム「味なもの」というのが連載されていた。作家や画家、役者・俳優、舞踊家、音楽家、スポーツ選手、大学教授、評論家、漫画家、政治家たちが、江戸東京の行きつけの老舗=“うまいもん”屋(江戸・明治期からの店が中心)を紹介するという趣向で、のち1953年(昭和28)に現代思潮社から単行本として出版もされている。その中に、画家の佐伯米子が言問団子について書いたエッセイがあるので、そこから少しご紹介したい。
  
 赤煉瓦通りだった頃の銀座で育った私の子供時代には、近くの青柳とか風月(ママ)、弥左衛門町の松崎のお煎餅、栄太樓の甘納豆、壺屋の最中などが、ふだんのおやつに頂いたお菓子でした。そして古いお店は今では場所も変り、昔の店の面影はありませんが、その頃、春の季節の訪れを子供心に一番先きに教えてくれるのが、百花園の七草でした。お芝居の忍ぶ売りの持つ籠のような物に入った七草は、すぐに、向島の桜餅、言問団子といった連想につながる、楽しい春の前触れでした。長命寺の桜餅はお花見に賑う頃、誰かがお土産にもってきてくれたものでしたし、言問のお団子は、ボートレースと結びついて、その頃の私共の喜びでした。
  
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 印刷では「風月」となっているが、佐伯米子の原稿ではまちがいなく「凮月」となっていたはずで、活字職人による植字ミスか、「凮」の活字が見つからなかったかのどちらかだろう。彼女が挙げている菓子店は、銀座の「青柳」を除いていまも健在な老舗ばかりだ。
 日本橋の飴で有名な「榮太樓」をはじめ(わたしの世代では甘納豆や梅ぼ志=梅干飴ではなくラムネ飴が印象的だ)、最中(もなか)で知られる本郷の壺屋(最中は嫌いなので食べたことがない)、銀座のせんべいで有名な「松崎」、同じく銀座の洋菓子で有名な「凮月(堂)」、そして新型コロナ禍を押して、つい先だても食べに寄った長命寺(=元祖・桜餅)の「山本や」に、異なる風味の餡を3種並べた「言問団子」。ついでに、日本橋の佃煮「鮒佐」や鴨すき「鳥安」、本所のももんじ「豊田屋」も江戸期や明治期のたび重なる大火や地震、関東大震災、そして薩長政府による国家の滅亡=敗戦を超えて、昔から変わらずに営業をつづけている。なお、文中の「ボートレース」とは、1905年(明治38)の春にはじまり現在までつづく、早稲田大学漕艇部と慶應義塾大学端艇部が競う春の風物詩、大川(隅田川)の「早慶レガッタ」のことだ。
 佐伯米子による上掲の随筆は、まるで銀座のタウン誌「銀座百点」にエッセイを書いていた向田邦子のような出だしであり、最後まですんなり読めてしまった。文章に、この街で育った女性特有の文体というか、芝居のわたり台詞の“間”あるいは呼吸のようなリズムがあるので、ゴリッとした抵抗感や描写の味わいに違和感がないせいだろう。(長谷川時雨にも強くそれを感じる) 向田邦子が「銀座百点」に『父の詫び状』(1976年)を書きはじめる、20年以上も前の文章だ。
 佐伯米子のエッセイは、これまでにもけっこう読んできており、また拙記事でも取りあげて引用しているけれど、美術や連れ合いに関するテーマよりも、池田象牙店があった尾張町(現・銀座4丁目界隈)の昔話のほうが文章もみずみずしく活きいきとし、文体もこなれて優れたエッセイに仕上がっているように感じる。いっそ、画家にならず文筆の腕を磨いたほうが、より豊かな才能が発揮でき、いい仕事が残せたのではないかと思うと残念だ。(爆!)
 佐伯米子が尾張町(銀座4丁目)にこだわるのは、店にストックしていた貴重な象牙のほとんどが関東大震災の被害で失われ、経営が急速に悪化したため、尾張町を離れて土橋(現・銀座8丁目)に移転したのが、よほど口惜しかったせいもあるのだろう。彼女の結婚は関東大震災の前であり、夫である佐伯祐三は、尾張町にあった本来の店舗へ頻繁に顔を見せていたはずだ。
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 もし、彼女が文筆家になっていたら、明治から大正にかけての故郷=銀座中心街の姿を、そして(城)下町に漂う独特な風情を、より多く記録してくれたのではないかと思うと残念でならない。もちろん、池田象牙店に彫師の見習いとして弟子入りしてきた月島出身の少年=彫刻家・陽咸二の姿をはじめ、黙々と象牙を彫りつづける職人たちや店内の様子、正月に「天目一箇神」(彫神・刃物神=鍛冶神・タタラ神)を奉った紙垂も真新しい神棚を、家族や職人たち全員で礼拝する光景、振袖を着て初詣でと新春顔見世興行へ出かける習慣の娘たち(足の悪い池田米子も出かけただろう)、年始まわりで店にくるさまざまな人間模様など、リアルで貴重な記録が残されていたはずなのだ。
 ……あっ、なるほど、佐伯米子の生活環境のそこかしこに漂う空気は、どこか向田ドラマの設定やシチュエーションにとても近似していることに改めて気づかされる。「ほんとうにもう、50年もたってしまったのでしょうか?」(黒柳徹子)と同様に、昔懐かしい“東京の匂い”がするのだ。

◆写真上:1953年(昭和28)ごろに、佐伯米子が挿画として描いた『言問団子』。
◆写真中上は、万延年間から営業をつづける羊羹で知られた日本橋「清壽軒」。中上は、東京で明治以降に進物の定番となった羊羹の「虎屋」。中下は、残念ながら閉店してしまった江戸東京では300年近い歴史をもつ本郷の羊羹「藤むら」。は、江戸の札差から途中で菓子屋に鞍替えした元祖・銅鑼焼(どら焼き)の日本橋小伝馬町「梅花亭」。
◆写真中下は、歌舞伎座も近い高級菓子「菊廼舎(きくのや)」だが夏場の水羊羹の印象が強い。中上は、せんべいでは定番の銀座「松崎」。中下は、どれだけ食べたかわからない甘味に飴各種の日本橋「榮太樓」。は、わたしは苦手な最中の本郷「壺屋」。
◆写真下は、明治からは洋菓子の進物として定番となった300年近くつづく銀座「凮月(堂)」。中上は、300年をゆうに超えて営業をつづける元祖・桜餅(長命寺)の「山本や」。中下は、170年ほど前から営業をつづける向島の代表的な菓子「言問団子」。は、秋の向島百花園の井戸。
おまけ
 1960年(昭和35)すぎごろに、写真愛好家の山田広次という方が撮影した「雪の日本橋」。気がせいて2041年といわず、もっと早く上空のぶざまな高速道路を取っ払えないものだろうか。
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薩長政府「塚丘は総て廃毀せよ」通達はひどい。

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 1876年(明治9)10月10日、内務省は各府県から問い合わせのあった旧「一里塚」に関する処置について、「官令達 乙部第百廿号」を作成し東京府を中心に各府県あてに通達している。旧「一里塚」とは、江戸幕府が各街道沿いに設置した古い里標のことだが、この時期に新政府は改めて新「一里塚」の標杭設置を進めている。
 したがって、早めに新「一里塚」標杭が設置された東京地方の近く、関東および中部の近県では、江戸期の旧「一里塚」の扱いをめぐり薩長政府へ「伺」(うかがい=問い合わせ)をする案件が、明治政府の“膝元”である関東地方を中心に多かった。たとえば、「官令達 乙部第百廿号」が下令される直前、旧「一里塚」について問い合わせをしていた関東近県には茨城県、福島県、静岡県、長野県、石川県、愛知県などがある。
 また、江戸幕府が雇用していたフランス人の専門技師たちを、薩長政府は掲げていた政治思想に反して「攘夷」することもなく、そのままなしくずし的にアドバイザーとして横すべりで雇用しつづけ、フランスのメートル法(1885年採用)の施行をめざすことになるため、新「一里塚」の設置は明治初期のみに限られた施策だったろう。こちらでも、日本初の地形図となる1880年(明治13)に作成された、メートル表示の2万分の1「フランス式彩色地図」をご紹介している。そして、旧「一里塚」が設置されていたのは、主要街道沿いの幕府・各藩直轄地(のち官有地)が多かったため、その扱いについて新政府に「伺」(問い合わせ)をする必要が生じたとみられる。
 当初、政府は近隣府県からの「伺」にいちいち回答をしていたようだが、その手間が面倒になったのか1876年(明治10)に、内務省が各府県に残った旧「一里塚」の課題に対して通達している。ところが、この官令の中には旧「一里塚」とは直接なんの関係もない、明治初期まで残っていた古墳の墳丘についての措置まで含まれていた。いい方を換えれば、旧「一里塚」の「伺」にかこつけ、関東およびその周辺地方に明治期まで残っていた大小古墳を、薩長政府が意図的に破壊し消滅させようとしていた様子がうかがえる。
 1876年(明治9)10月10日の内務省官令達・乙部第120号を、そのまま引用しよう。
  
 各街道一里塚ノ儀里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木二連接シ又ハ目標等ニ相成自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除之外耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ總テ廃毀シ最寄人民へ入札ヲ以テ拂下候積相心得近傍形況及反別等明瞭ノ図面相副可伺出此旨相達候事
  
 つまり、新「一里塚」標杭を設置済みの府県に限り、その目標となる古墳・旧跡や大樹、並木など街道の目標物はそのまま残していいが、耕地開拓などの邪魔になる官有地の「有害無益ナ塚丘」はすべて「廃毀」し、地方地域の「人民」(事業者や地主・農民)に売っ払(ぱら)ってしまえ……という官令だった。もちろん、この新「一里塚」標杭は、1885年(明治18)のメートル法採用で意味をなさなくなり、内務省官令達・乙部第120号は関東地方と、その周辺域の近県のみに多大な影響を及ぼしたことになる。
 明治初期から中期にかけ、利根川沿いに築造されていた大小古墳のほとんどすべてを、政府あるいは自治体が廃毀し、その土砂を利根川の本流をはじめ、長大な流域の河川堤防建設に流用してしまったという茨城県の伝承が、がぜんリアリティをもって認識できる内務省の通達だ。もちろん茨城県(旧・水戸藩側の地方)ばかりでなく、関東地方および中部など近県の目立つ大小古墳は、まったく同様の措置がとられただろう。
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 いまのところ、関東では最大規模の200mをゆうに超え、周濠(周壕)を入れれば300m超とみられる群馬県の太田天神山古墳も、その大半が崩されて畑地にされていた。崩され破壊されなかったのは、開拓の手が及ばなかったエリア(発見されにくい山中など)の古墳か、なんらかの根強い禁忌やタブー伝説が付随する古墳、あるいは江戸東京のケースだと大名庭園の築山や、寺社の境内や墓域に取りこまれていた古墳富士講による「〇〇富士」にされて残った古墳、公園や庭園の見晴らし台として残された古墳などがほとんどだ。
 だが、20世紀末から考古学が科学技術と連動するようになると、関東では特に明治期から内務省の官令や開発の手が及ばなかった(あえて無視するか逆らった)、千葉県や群馬県、埼玉県など関東各県では次々と大小古墳群が発見され、薩長政府が躍起になって消滅させようとしていた関東の古代史(古墳時代)にもかかわらず、特に千葉県と群馬県は全国でトップクラスの古墳域であることが判明している。特に千葉県は、同じ利根川沿いに展開する数多くの古墳群が健在であり、対岸の茨城県側とは対照的な現状となった。
 この内務省官令により、関東に築造された膨大な大小古墳が破壊され、「関東地方には大型古墳がない坂東夷の豪族レベルが跋扈していた未開地」という、マッチポンプ式の結果論的な皇国史観=薩長政府による「日本史」のイメージづくりが進められたのは、中国・朝鮮半島の儒教思想とその男権思想をわが国へ無理やり根づかせようと、関東の社(やしろ)から巫女(女性神主)を無理やり追放した1873年(明治6)の巫女禁断法令と同一線上にある、古代から連綿とつづいた日本文化つぶしの意図的な策謀だったろう。
 さらに、「日本史」(おもに古代史)を捏造するだけでなく、薩長政府は日本の神々にあろうことか序列(位階)づけを行い、皇国史観に都合の悪い日本の神々の抹殺・廃棄=「日本の神殺し」や、各地の社に奉られた主柱(神々)の入れ替えまで(バチ当たりなことに)やってのけている。これらのテーマへ接するたびに、文化人類学レベルにまで根ざす「“日本”とはなにか?」「オリジナルな“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられてしまうのだ。薩長政府は、中国や朝鮮半島など外国の思想や教義を借りて、原日本色が色濃い東日本になにを植えつけようとしていたのだろうか?
 さて、わたしは相変わらず戦前戦後の空中写真や地形図、各地の伝承などをたよりに、東京近郊に展開していたとみられる大型古墳の痕跡探し、いわば「古墳探しの東京散策」をつづけているが、今回は阿佐ヶ谷と大泉学園のふたつの事例を駆け足でご紹介したい。また、友人から最近いただいた1922年(大正11)作成の、東京近郊の地形を精細に記録した3,000分の1地形図は、古墳痕の探索にはもってこいの地図なのが判明したのでとても嬉しい。
 まず、阿佐ヶ谷のケースは、ずいぶん以前から戦前の空中写真を参照するたびに、阿佐ヶ谷駅の北側に並んで残る、いかにも古墳然とした形跡が気になっていた。ひとつは、阿佐ヶ谷駅の北口からすぐのところにある阿佐ヶ谷神明社から世尊院、そして同寺社の南側にあたる大地主が屋敷をかまえていた一帯のかたちだ。古墳が寺社の境内にされている事例は、全国的に無数に存在しているが、ことに後円部らしい屋敷林が色濃く残っていた大地主屋敷(一部は現・杉並第一小学校)のあたりが気になっていた。
 同地の地形は、北側および東側には田圃が拡がり湧水流(灌漑用水)が流れる広めの谷間が口を開け、前方部(阿佐ヶ谷神明社や世尊院)が北北西を向く小高い丘上に位置している。全長は墳丘とみられるかたちだけで300mをゆうに超える鍵穴型のフォルムだが、大正期からの宅地開発が進むまで、なんとかその形状が残されていたとみられる。実際に現地を歩いてみると、大地主の屋敷は解体工事中でマンションでも建設されるのか、もはや地面が平坦にならされたあとであり、また阿佐ヶ谷神明社や世尊院のあたりも、ほとんど墳丘の残滓と呼べるほどの地面の“ふくらみ”を確認することができなかった。おそらく、かなり早い時期に墳丘は崩されているとみられる。
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 阿佐ヶ谷駅北口のフォルムとは対照的に、やはり前方部を北北西に向けたもうひとつの鍵穴型の痕跡は、後円部とみられる位置の中心部に、羨道や玄室に使われていたとみられる大きな房州石が、個人宅(元・地主宅か?)の庭石にされて残っていた。阿佐ヶ谷北2丁目から天沼1丁目にかかる大きなフォルムで、こちらは200m超のサイズだろうか。戦前の空中写真を参照すると、大型の前方後円墳が前方部を北北西に向け、高円寺駅北口のフォルムとあわせ、中央線の北側にふたつ並んで築造されているように見える。また、後円部の墳丘はそのまま土砂を外周へ均すように拡げて宅地開発が行なわれたのだろう、1944年(昭和19)の空中写真では家々がその道筋とともに、円の中心から外周へと向くように建てられている様子が確認できる。
 実際に現地を歩いてみると、前方部(谷間に向いた北北西側)に地面の急激な盛り上がりを一部確認することができた。けれども、後円部は完全に整地(おそらく1940年ごろの宅地開発)がゆきとどいており、正円形を物語る道筋や住宅敷地は残っているものの、地面の突起や“ふくらみ”は確認できなかった。ただし、後円部の中心にあたる住宅地には、大きな房州石が6個ほど庭石として残されているのを確認できたのは先述のとおりだ。
 もうひとつ、練馬区にある大泉学園駅の北側、白子川をはさんだ小泉牧場の北にある丘上に、前方部を東へ向けた前方後円墳の残滓らしい地面(畑地)のフォルムを見つけていた。阿佐ヶ谷に残る痕跡に比べ、こちらは200m弱ほどとやや小さめだが、ところどころに畑地(もちろん練馬ダイコンが中心)が残るエリアだけに、そしてあからさまなフォルムが残っていた練馬地域だけに、大いに期待して散策に出かけた。
 結果からいうと、こちらは前方部が道路や住宅敷地の境界にかたちを残しており、地面の傾斜や“ふくらみ”も一部で視認できた。また、後円部には畑地が残り東南北いずれの方角にも、薄っすらとした盛りあがりを確認することができた。すべてが区画整理で宅地化され、整然とした住宅街として整地されていたら、おそらく残らなかった地面の“ふくらみ”だろう。この古墳跡とみられるフォルムは、白子川が流れる谷間から南側一帯を眺望できる丘の、ちょうど南斜面ギリギリの淵ところに築造されており、古代には白子川流域の集落を見下ろすには格好の位置だったと思われる。
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 最後に余談だが、丘下へともどる途中で大泉村役場跡(現・大泉中島公園)に寄ったのだが、そこで「石舞台」と刻まれた巨大な石が設置されているのに驚いた。石舞台といえば、奈良の明日香村にある玄室が露出した石舞台古墳(方墳/蘇我馬子の墳墓とされているが不明)をすぐに想起するので、これは丘上から玄室の石材を下ろして村役場の敷地に設置したのか?……と一瞬疑ったが、実は現代彫刻家が制作したオブジェで、神奈川県の真鶴から21tの小松石を運んで刻み「石舞台」と名づけたらしい。それにしても、前方後円墳の痕跡が残る直下に「石舞台」のオブジェとは出来すぎで、制作者は知ってか知らずか面白い偶然があるものだ。

◆写真上:1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる、阿佐ヶ谷駅(手前右手)の北側。
◆写真中上は、1876年(明治9)10月10日に発令された「達 乙部第百廿号」(『官令全書』1876年より)。中上は、1941年(昭和16)の空中写真にみる阿佐ヶ谷駅北側の様子。中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる阿佐ヶ谷北から天沼にかけてのフォルム。は、1944年(昭和19)の空中写真にみる同フォルムの後円部。森が残る円の中心部あたりに、6個の房州石とみられる大石の残るのが今回の散策で確認できた。
◆写真中下は、阿佐ヶ谷駅北口に近いフォルムの大地主の屋敷があったあたりで建設工事中の現状。中上は、阿佐谷北2丁目と天沼1丁目にまたがるフォルムの後円部から北側の前方部へとカーブを描く道筋。中下は、同フォルムの前方部の北端あたりでいまだ地面の“ふくらみ”が確認できる。は、同フォルムの後円部にあたる中心部に残されていた羨道や玄室の石材に使われた房州石とみられる大石の一部。
◆写真下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる大泉学園の白子川北岸に見えるフォルム。中上は、より古い1936年(昭和11)の空中写真にとらえられた同フォルム。中下は、後円部の東側あたりでやや地面が盛りあがっているのが確認できる。は、帰りぎわに立ち寄った大泉村役場跡(現・大泉中島公園)で見つけてビックリした「石舞台」のオブジェ作品。
おまけ
 もちろん小泉牧場にも立ち寄り、キャップにホルスタインのイラストをあしらった搾りたての「CRAFT MILK’S MILK」(200ml)を手に入れた。この牛乳からは、生クリームもバターも生成できる成分無調整(ノンホモジナイズ製法)の製品で濃厚な風味だ。東京23区で唯一「東京牧場」として残る小泉牧場だが、近々、以前と同様に各種アイスクリームの販売を再開するとうかがったが、ヨーグルトなどの製造も予定しているそうだ。
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名画は左光線が多いと三岸好太郎。

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 伊藤廉の子どもが急死したとき、風雨が強い嵐の夜にもかかわらず、3人の画家がいたましい通夜の席に駆けつけている。1932年(昭和7)11月のことで、おそらく遅めの台風でも晩秋にきていた夜なのだろう。このときの伊藤廉アトリエは、のちの佐分眞アトリエをゆずり受けた北区西ヶ原ではなく、下落合のすぐ北側、豊島区長崎南町2丁目2027番地(のち地名番地変更で椎名町3丁目1964番地と同一敷地)に住んでいた。
 改正道路(山手通り)工事の前、伊藤アトリエは聖母坂から長崎天祖社の前を北上し、椎名町駅の南200mほどの位置で西へ左折したあたりの住宅街にあった。1936年(昭和11)の空中写真を見ると、庭木が繁る洋館と見られるアトリエの屋根を確認できる。嵐の中、長崎南町の伊藤アトリエへ駆けつけたのは、宮田重雄里見勝蔵、そして三岸好太郎の3人だった。
 宮田重雄は下落合から徒歩で、おそらく5~6分ほどで着き、里見勝蔵は西武線・井荻より、三岸好太郎は同線の鷺宮より乗車して、西へ移設されたばかりの下落合駅から歩いたのだろう。里見と三岸のふたりは、鷺宮駅で落ち合い連れだって弔問に訪れているのかもしれない。1932年(昭和7)現在の各人のアトリエは、宮田重雄が第三文化村の南にあたる下落合3丁目1447番地、里見勝蔵は下落合から転居した杉並区下井草1091番地、三岸好太郎は中野区上鷺宮407番地の旧アトリエだった。宮田を除き、伊藤と里見、三岸は独立美術協会のメンバーだ。
 このとき、愛児を亡くして憔悴している伊藤廉を見かねて、おそらく三岸好太郎は気をつかったのだろうか、深夜の沈痛な雰囲気の慰めようもない中で、盛んに美術の話題を口にし、伊藤の気をまぎらせようとしている。三岸好太郎が話題にしたのは、「古今の名画は左光線で描かれている作品が圧倒的に多い」という“仮説”だった。
 以下、そのときの様子を1933年(昭和8)に発行された「美術新論」1月号(美術新論社)に収録の、むさしや九郎『謹賀新年妄筆多罪』から引用してみよう。
  
 三岸好太郎氏、一つの発見を語るに到りて、忽ち議論沸騰す。三岸氏の曰く、「僕は近頃、絵画に於ける、一つの光線の法則を発見したよ。それは風景画でも人物画でも、大抵の良い絵は、故意か偶然か知らないが、必ず光線(ライト)を向つて左方から採つてあるといふ事だ。恰度、着物を着るのに左前に着てゐると可笑しいやうな具合に、これにも、人間の感覚にある安定感や美感から云つて、何か充分の理由があるんぢやないか。なにしろ大抵の絵が、左方から光りが来てゐるのだ。」 宮田氏曰く、「それぢや、先づクラシツクを調べて見ようぢやないか」
  
 絵の話題になると、どうやら4人とも夢中になるのを見こした三岸好太郎の意図的な話題ふりと、敏感にそれを察した宮田重雄が同調しているように思われるが、真っ先に反応したのは伊藤廉だった。自身のアトリエに入ると、さっそくルーブル美術館のコレクション絵画を集めた写真帖を持ちだしてきている。ページをめくりながら、ルーブルの収蔵作品を次々に確認してみると、左方からの光線作品が30枚、右方からの光線作品7枚が数えられた。つまり、約77%の作品が、左光線で描かれているということになった。
 通夜をしている4人の画家たちはこの仮説に夢中になり、伊藤廉は次々とアトリエから画集を運んできては確認していった。ボナールの画集は、左光線が22点に対して右光線が24点とあまり有意の差が感じられず、「三岸仮説」に当てはまらないことがわかった。次にドラン画集を確認すると、左光線が14点に対し右光線は10点と微妙な結果だった。
 伊藤廉はアトリエを往復して重たい画集を運び、セザンヌの画集では左光線が40点に対し右光線が25点と左光線がかなり優位で、ブラマンク画集を見ると左光線が32点に右光線が28点とやや左光線のほうが多かった。伊藤廉はすっかり夢中になり、気になりはじめたのか、これまでの自身の作品を確認しはじめた。同誌より、つづけて引用してみよう。
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 伊藤氏曰く、「しかし可笑しいなあ。僕はフランスで描いた絵は左方から光を採つてゐるが、日本に帰つて来てから描いたのは皆右からだ。向うでは左傾で、日本に帰れば右傾といふのも可笑いぜ。(ママ) これは何かの便宜のためからぢやないか知ら。」 そこで、便宜説となり、遂に、それは右利きと左利きの関係からではないかといふ疑問に到着し、絵に左方からの光線多く、右方からの光線すくなきは、人に右利き多くして左利きすくなきに因るに非ずや、(後略)
  
 ふつうに考えれば、右利きの画家が左光線の描きやすいのはあたりまえだし、左利きの画家は右光線のほうが描きやすいとすぐに気づくだろうし、また三岸好太郎もそれを十分承知のうえだったと思うのだが、あえてそれをあたかも自分が発見した“新説”のように披露にすることで、伊藤廉が感じている打撃や悲哀を少しでも薄め、慰めようとしているように感じる。「ホラ吹き好太郎」(少年時代の綽名)の、面目躍如といったところだろうか。
 これは、たぶん他の画家たちも途中から気づいていたと思うのだが、あえて実証的に多彩な画集を出させ長時間にわたりページをめくることで、伊藤廉が置かれた子どもの通夜というパニックに近い極限状況の痛みを、少しでもやわらげようとしていたのではないか。また、伊藤廉も利き腕のテーマをとうに気づいてはいたが、あえて三岸の仮説に乗って美術論を交わすことで、かろうじて心のバランスを保っていたようにも思える。
 左利きの画家たちの画集を探して、伊藤廉はアトリエを何度も往復している。
  
 然らば先づ左利の梅原龍三郎画集を調べよ、と取出して見るに、梅原氏の絵の殆ど凡ては右方光線、又、左利のレオナルド画集の絵も、殆ど凡て右方光線なり。こゝに到りて、皆々顔を見合せて呵々大笑、「なーんだ、手紙を書く時だつて、ギツチヨでなければ、誰でも電燈は左の方へ置くぢやないか」 斯くて絵画構成上の左方光線安定説は、其の夜の嵐に吹かるゝ枯葉の如く飛消。但し、伊藤氏は、この説より何事かの暗示を得て目下研究中の由也。こたびは如何なる珍説現はるゝや。
  
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 こういう、状況に応じてとっさに“融通”や“気転”のきくところが、三岸好太郎の才能でもあったのだろう。その“融通”がききすぎて、独立内部で起きたゴタゴタの際は、仲間から「三岸はそういう奴なんだからしょうがない」と諦められ、連れ合いの三岸節子からも「典型的なうそつきでしょうね」などと呆れられもするが、伊藤アトリエにおける愛児の通夜での出来事のように、「そういう奴」の繊細な神経がプラスに働いて、ともすれば底知れず落ちこみ沈鬱になる伊藤廉の心境を、少しでもやわらげようとしていたように見える。このとき、三岸好太郎は函館の湯の川温泉からもどったばかりで、彼が死去するわずか1年と7ヶ月前の出来事だ。
 伊藤廉は、子どもの通夜における「議論」の優しい心づかいを知っていて、ありがたく感じていたものか、三岸好太郎の死後に刊行された美術誌などへ、彼に関する文章や画論を積極的に寄稿している。その中から、三岸好太郎が新アトリエの建設前に逝った直後、1934年(昭和9)刊行の「アトリエ」10月号に収録された伊藤廉『三岸君を憶ふ』から引用してみよう。
  
 三岸君はアトリエを建設しかけてゐた。ことさらら南向きに大きな窓をとつて、冬には室中一杯に太陽が入るやうに設計してゐる。彼はこの冬の太陽をあびながら制作出来る幸福をたのしんで、僕にいろいろ語つた。冬の寒さが全く困るからとか、北向きの窓からとる変らざる光を欲するよりも、うつらうつら温室のやうなものゝ中にゐて制作出来るたのしさの方を欲求する理由などを。三岸君はこの願ひをやうやく実現しかけて、逝つてしまつた。心残りの多いことだらうと察する。僕たちとしても、三岸君が考へてゐる特殊な設計のアトリエの中で、制作させてみたかつた。
  
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里見勝蔵「スペイン風景(ボーの岩山)」.jpg
三岸好太郎「水盤のある風景」1932.jpg
三岸好太郎「海と射光」1934.jpg
 三岸好太郎の葬儀写真には、里見勝蔵と並ぶ左端に白のコットンスーツを着た伊藤廉が写っている。南側の全面に窓ガラスをはめ、陽光が刻々と変化する上鷺宮の三岸アトリエが竣工すると、伊藤廉はさっそく上鷺宮を訪ねただろう。そのとき、「特殊な設計のアトリエ」の北面にも、ちゃんと通常の採光窓が穿たれているのに気づいたにちがいない。

◆写真上:長崎南町2027番地にあった、伊藤廉アトリエ跡の現状(右手)。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「長崎町事情明細図」に採取されている長崎南町2027番地の伊藤廉アトリエ。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所の伊藤アトリエだが、住所と番地はともに大きく変更され椎名町3丁目1964番地に変更されている。は、戦後に撮影された伊藤廉()と宮田重雄()。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に制作された伊藤廉『鳩と静物』。中上は、制作年が不詳の宮田重雄のリトグラフ『公園』。中下は、同じく宮田重雄の『山中秋日』。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された三岸好太郎(左)と里見勝蔵(右)。
◆写真下は、1920年(大正9)に制作された里見勝蔵『下落合風景』。中上は、戦後制作とみられる里見勝蔵『スペイン風景(ボーの岩山)』。中下は、1932年(昭和7)に制作された三岸好太郎『水盤のある風景』。は、晩年の1934年(昭和9)に制作された三岸好太郎『海と射光』
おまけ
 1936年(昭和11)に佐分眞はアトリエで自裁するが、のちにそのアトリエを譲り受けて住んでいたのが伊藤廉だった。写真は、北区西ヶ原2丁目12番地に建つ伊藤廉(佐分眞)アトリエ。
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