東京美術学校短歌部の山田新一と蓄音器部。

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 東京美術学校短歌部について、入部していた佐伯祐三山田新一の作品を記事にしたが、今回はその後も短歌部への寄稿や短歌会に参加していた山田新一の作品と、1920年(大正9)に創設されたレコードコンサートを催す蓄音器部についてご紹介したい。特に蓄音器部については、リクエストも可能な名曲喫茶のハシリのような雰囲気が漂っている。
 まず、前回の記事では1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号(第19巻第2号)までの山田新一作品を掲載したので、今回は6月以降の作品を見てみよう。まず、同年5月8日に開催された第1回短歌会に、佐伯祐三は欠席しているが山田新一は参加しており、他の部員と同様に1首の歌を詠んでいる。「東京美術学校校友会月報」6月号に収録された1首とは、以下の作品だ。
  
 第一回短歌会/◇心燃えず心落ちゐず今日も亦 空しく寝れて雨の音きく
  
 なにやら、淡々と変わりばえのしない日々に飽きあきし、どこか虚無的な雰囲気さえ漂う歌だ。親しい友人がそれほどできず、佐伯のように恋人も現れず、孤独感にさいなまれていた時期なのかもしれない。酒の量も増えたらしく、山田新一はたびたび痛飲していたらしい。
 同年6月5日に開かれた第2回短歌会では、女子か男子かは不明だが気になる人物が出現しているようだ。作品が掲載された、「東京美術学校校友会月報」7月号より引用してみよう。
  
 第二回短歌会/◇酔ひ伏せばうつゝの如き耳に来て さゝやける声をいまだ忘れず
  
 どこかの飲み屋か喫茶店(当時は酒を置くのが普通だった)で、酔いつぶれたときにでも声をかけられた経験があるのだろうか、それを思いだしながらやはり酒を飲んでいるような情景が浮かぶ。「さゝやける声」は、店の子かママでまちがいなく女子ではないか。「市電なくなっちゃうわよ」と優しくささやかれたか、「もう閉店なんだけど」と耳打ちされたかは不明だが。
 ところが、翌月の「東京美術学校校友会月報」8月号では、『ほのほ』と題した激情の恋歌となって結晶している。だが、山田新一の思いが通じず一方通行的な恋愛のようで、「涙」にくれて「泣く」ばかりの片思いだったらしい。同号に掲載された、炎に燃えている3首を引用してみよう。
  
『ほのほ』
 ◇燃え残るほのほのごとく喘ぐこころ 心のかぎりみづからぞなく
 ◇無益なる涙なりとは知りつゝも ひたにそゝげり君が心に
 ◇にほひなき造花のごとしきみがこころ そのつめたさに涙あたへむ
  
 山田新一以外の誰かには、キラキラした眼差しで活きいきとしたバラのそよぎのような表情やしぐさを見せるのに、彼の前にきたとたん能面のように表情がなくなり、彼がいくら芸術を熱く語っても「あっそ」と気のない返事しかせず、冷たくあしらうようなリボンの似合う不愛想な女子が、どうやらひとり彼の周囲に出現していたようだ。相手は、上野桜木町か谷中あたりの令嬢か、あるいは宮崎モデル紹介所から派遣されてきたモデルのひとりだろうか。
 それから2ヶ月のブランク(リカバリー期間)をへて、どうやら山田新一は「造花」のように無表情で「つめた」い彼女をあきらめ、再び内向する歌へと回帰している。10月に開かれた第三回短歌会に出席した山田新一の1首を、「東京美術学校校友会月報」11月号より引用してみよう。
  
 第三回短歌会/◇いと小さく胸に巣食へる悲しみの 何時去りゆかむ時のあらなく
  
 ……と、またしても前田夕暮のような以前の作風にひとまわりして回帰しているようだ。
 さて、東京美術学校の文芸部で定期的に開かれていた、レコードコンサートについて見ていこう。まずは、レコードコンサートの様子を、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」6月号より見てみよう。同年5月29日に開かれたレコードコンサートは、文芸部の第2回総会に付随した催しだったようだが、当日は文芸部以外の学生たちが会場へ数多く参集していた。
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 五月二十九日文芸部総会開会に先立つて、午後零時半より第一講義室で本部主催のレコードコンサートを開催しました。何分(なにぶん)新着荷の珍らしいレード(ママ:レコード)の上に斯界の権威である各種音楽家の吹込になるレコードの事とて、会場に入れきない(ママ:入りきれない)程集まられた皆さんからは一つ一つ終るごとに、非常な喝采を得まして、一同大満足でありました。そして予定の時間より早く終つた為めに、皆さんから盛んに追加の声がかゝり、希望に依つて数種を追加した事も、此の日の盛会を語る立証かと思ひます。(中略) コンサート終了後直(ただち)に美術学校倶楽部階上に於て文芸部第二回総会を開きました。(カッコ内引用者註)
  
 このとき、流されていたレコードとは誰の演奏だったのだろうか。大正前期から中期にかけて、日本にSPレコードが入ってきていた音楽家には、ウクライナ出身の世界的なヴァイオリニストのM.エルマンがいただろう。ヴァイオリンではY.ハイフェッツと覇を競うような位置にいた音楽家で、その甘美な演奏は日本で圧倒的な人気を博していた。東京美術学校でレコードコンサートが開かれた翌年、1921年(大正10)にエルマンは来日している。
 また、リトアニア出身のY.ハイフェッツ。エルマンに比べると地味な演奏だが、確実な技術に裏打ちされた演奏は「ヴァイオリンの王」とか「20世紀最大のヴァイオリニスト」と称された。ハイフェッツのクールな演奏が、当時の日本人には完璧と聴こえながらも冷たく感じたものか、エルマンの人気には及ばなかったようだ。ハイフェッツは、1923年(大正12)に来日している。
 そして、レコードのベストセラーだったもうひとりのヴァイオリニストに、オーストリア出身のF.クライスラーがいる。クライスラーは作曲家でもあり、日本では作品とともに有名だった。大正時代が舞台の映画などのBGMに、ヴァイオリンソナタやコンチェルトがよく流れるが、クライスラーの曲であることが多い。クライスラーも1923年(大正12)に来日している。
 ピアニストでは、ポーランド出身のA.ルービンシュタインが、日本でもっとも多くのレコード売り上げを記録していただろう。1919年(大正8)の若いときから、しばしば日本を訪れて各地で演奏会を開いており、1935年(昭和10)には新交響楽団との共演も実現している。戦前戦後を通じて、日本でのルービンシュタインの人気は圧倒的だった。古くからの日本におけるショパン人気は、彼によって育まれたといっても決して大げさではない。戦後もその人気は衰えず、1966年(昭和41)6月にザ・ビートルズが来日して日本武道館で演奏した1週間後、ルービンシュタインが来日して武道館コンサートが開かれたが、まったくビートルズに劣らないほどの大人気だった。母親のレコード棚には、W.ギーゼキングとともにルービンシュタインの作品が並んでいたし、しかも彼はわたしの学生時代まで現役で、新譜・旧譜がリリースされると聴いていた。
 また、レコードで人気だった歌手にイタリア出身のA.クルチがいる。彼女はもはや伝説的なソプラノで、当時はもっとも偉大な歌手といわれていた。彼女と人気を二分していたのが、明治末に来日したロシア出身のM.ミハイロワ(ソプラノ)で、日本でのレコードの売り上げ枚数ではクルチを凌駕していたのではないだろうか。そのほか、明治末から大正前期にかけ、さまざまな音楽家が日本を訪れており、蓄音器の普及ともあいまってSPレコードのリリースも急増していた時期だった。
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 では、大正前期に普及していた蓄音器には、どのような機種があったのだろうか。蓄音器というと、大きなラッパ(アサガオ)状のスピーカーがついた形状を想像しがちだが、大正期には昭和期のレコード再生機に近いかたち、すなわち戦後の「コンパクトレコードプレーヤー」あるいは「ステレオ」の原型のようなボックス型製品も発売されていた。もちろん、ラッパのついたニッポノホンの製品も人気だったが、すでに時代遅れのデザインになっていただろう。また、ビクターなどの高価な海外製品よりも、モモタロー蓄音器やユニック、ホノラ、グランドニッポノラなど、大正時代は技術が海外製品になんとか追いついた、国産の蓄音器が普及した時期でもある。
 東京美術学校で導入していた蓄音器が、どのメーカーのものだったかは不明だが、音が一方向へ極端に偏ってしまうラッパ型の蓄音器ではなく、ステレオサウンド式にいえば音の定位や指向性があまり気にならない、音が前へ前へと拡散する最新式の蓄音器ではなかったろうか。だからこそ、大勢の学生たちが集まっても、鑑賞に耐えうる音を響かせることができたのではないか。蓄音器部(のちレコード部)の創設について、再び「東京美術学校校友会月報」6月号より引用してみよう。
  
 森田(亀之助)、田辺(孝次)先生始め二十数名の会員出席、音楽部からは松田、松本両君出席の上、本部と音楽部との関係に就て協議し、同本部に蓄音器部を新設して新に、/足立、筒井両君を委員に撰定しました。会費を新らためて(ママ:改めて)/一学期 一円五十銭にして、/それを学期始めに会計の御世話に依つて授業料、校友会費と一緒に取り立てゝもらふ事にしました。(中略) 全くこの一日はレコードに人気が集中したと言つてもいゝでせう。それがあらぬが(ママ)来月第二回のレコードコンサート開催の議がもちあがつて、直に可決しました。(カッコ内引用者註)
  
 ここで気づくのは、校友会費やサークルの活動費まで授業料と同様に、学校当局の会計部門がまとめて徴収している点だ。校友会やサークル活動への参加は個人の自由だし勝手なので、校友会やサークル活動ごとの徴収・会計とする戦後の運営常識からすると、かなりの違和感をおぼえる。しかも、活動費が1円50銭/学期とは、現在の貨幣価値に換算すれば5,000円×3学期=年間15,000円前後となり、おカネに余裕のある学生でなければサークル活動には参加できなかったろう。
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 東京美術学校のサークル活動は増えつづけ、1933年(昭和8)の時点では28部を数えるまでになっていた。ただし、野球部や相撲部、蹴球(サッカー)部、バスケットボール部、バレーボール部などかなり激しいスポーツの倶楽部も設置されていた。これは音楽学校でもまったく同様だと思うが、微妙な指先の作業・動作が必要な芸術分野では、手や指を痛めるようなスポーツは厳禁のはずだが、当時は規制が緩かったものだろうか。先年、知人の娘が喫茶店でバイトをしていて、手の指に調理で火傷をしたのだが、高名な音楽学校に通う器楽奏者としては、そもそも学生失格だろう。

◆写真上:ネコのいる家の蓄音器で、もう相性が最悪の組み合わせだったろう。
◆写真中上は、大正前期には日本ですでに有名だったヴァイオリニストのエルマン()とハイフェッツ()。は、同様にヴァイオリニストのクライスラー()とピアニストのルービンシュタイン()。は、時代を代表する歌姫でソプラノのクルチ()とミハイロワ()。
◆写真中下は、1915年(大正4)に撮影された東京美術学校。は、1922年(大正11)の職員録にみる森田亀之助と田辺孝次。ふたりとも助教授で文芸部の顧問をつとめ、森田は西洋絵画史と英語を、田辺は美術史を教えていた。は、1933年(昭和8)の時点における東京美術学校のサークル活動。「蓄音器部」は時代おくれと感じたのか、「レコード部」に改称されている。
◆写真下は、明治期から大正期にかけて普及したニッポノホンの35号後期モデル。は、ラッパ(アサガオ)が取れたモモタロー蓄音器。は、戦後のステレオを思わせるグランドニッポノラ。
おまけ
 蓄音器つながりの余談で、若いころに欲しかったマッキントッシュのアンプ群。特にパワーアンプのMcIntosh 275は垂涎のマトだったが、高価で手に入らなかった。同パワーアンプと同社製か、上杉研究所のプリアンプをつないで、クラシックでもJAZZでも聴くのが夢だった時代がある。
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佐多稲子と藤川栄子が親友になったころ。

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 下落合(現・中落合/中井含む)東部の南隣り、戸塚町上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)と藤川栄子は、ある日、道を歩いていてお互いに「どっかで会ったような……?」と感じたのが、のちに親友になるきっかけだった。
 そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、『戸塚から落合へ』に記述されている。当時、窪川稲子(佐多稲子)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番地)に、藤川栄子は大正期から上戸塚866番地(のち戸塚3丁目866番地)に住んでいて、ふたりの住いは早稲田通りをはさみ斜向かいで250mほどしか離れていないところにあった。
 ある日、夫の窪川鶴次郎が借りていた「勉強部屋」がある道筋を歩いていると、門の前で3歳ぐらいの女の子と遊ぶ女性がいた。瘦せていて背が高く、背中で十文字に紐のかかるスカートをはいたその女性に、「何だか見覚えがある」と感じた窪川稲子だが、このときは思いだせなかった。その人も、窪川稲子に面識があるのかジッと見つめ返してきた。
 数日後、ハタと気がついた。「主婦の友」のグラビアに、窪川稲子と娘の写真が載ったとき、いっしょに藤川栄子と娘の写真も掲載されていたのだ。門の前を通るとき表札を見ると、やはり「藤川」と書かれていた。当時は、「まだ勇造氏がゐられた筈」とあるので、ふたりの最初の出会いは藤川勇造が1935年(昭和10)に死去する、少し前の時期だったことがわかる。
 藤川勇造が死去してから、ふたりは急速に親しくなって窪川稲子は藤川栄子のアトリエへ、藤川は窪川稲子の自宅へ頻繁に往来するようになる。このあと、窪川稲子のもとを訪ねる上落合に住んでいた壺井栄も、同じ香川出身の藤川栄子と急速に親しくなっている。しかも、結婚前の藤川栄子の旧姓は坪井栄(えい)であり、「つぼいさかえ」とも読めるので、のちに壺井栄と坪井栄とが混線するおかしなエピソードまで発生している。
 1940年(昭和15)ごろから、藤川栄子と窪川稲子に壺井栄が加わって、日ごろのストレスを発散させるためか早稲田通りを闊歩する、3人の「歩きませう散歩」がスタートしている。もちろん、この3人の背後には半分嫌がらせをかねた、特高の尾行がついていただろう。画家の藤川栄子が文学者たちと親しくなったのは、自身が奈良女子高等師範学校の文科を卒業したあと、早稲田大学文学部の聴講生を修了し、文学をめざしていた時期があったからだ。
 このころの、「いやになつて、寝てばかり」(『戸塚から落合へ』)というふたりの思いは共通しており、日本が対米英との戦争に向けてまっしぐらに進むなか、自由な表現ができなくなり社会の隅々にまで日本型ファシズム、すなわち軍国主義がいきわたろうとしている状況を憂い、思わずため息まじりに嘆いた言葉だったのだろう。不用意に「戦争反対」などと発言しようものなら、すぐにも特高憲兵隊に検挙され、殺されかねない時代をすでに迎えていた。
 窪川稲子の自宅の裏には、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いか妙正寺川沿いに展開する、染物の工房に勤めていた染物職人の家があった。非常に仲睦まじい夫婦で、娘がふたりいる4人家族だった。いい年をした、そんな職人の家にも赤紙(召集令状)がとどくほど、中国での戦争は戦死者が急増して泥沼化し、出口がまったく見えない状況を迎えていた。1949年(昭和24)に新日本文学会(のち講談社/筑摩書房)から出版された、佐多稲子『私の東京地図』より引用してみよう。
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 私の家の出口の左手に、女の子二人と夫婦で睦まじく暮らしてゐた染物職人も、優形の身体で出征していつた。家内で睦ましいといふことが、排他的にさへなつてゐた夫婦だつたが、主人は似合はぬ洋服に襷をかけて出立するとき、どうぞ、あとをお頼み申します、と私の前でまで、しんからさう言つておじぎをした。夫の出征したあとは、細君は腕がよかつたので仕立ものを大きな呉服屋から引受けてそれで生計もちやんと立ててゐたが、ある朝まだ小暗いうちに、まるで気の狂つたやうに我が子を折かんするのが聞こえてきた。八歳ぐらゐだつた下の子がおびえておろおろと謝りながら、打たれて泣いてゐる。朝の空気がただならぬものになつて、近所からなだめに出た。
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 ある日突然、仲睦まじかった家庭の幸福が一瞬のうちに壊され、鬱積してたまりにたまった母親の怒りやストレスが、ふたりの娘に向けられて爆発した瞬間だったのだろう。その怒りは、現代の視点から見れば、本来なら戦争をつづける政府に対して向けられるべきものだったのだろうが、この若い母親は皇国史観軍国主義による教育で、そのような思考回路が曇らされてかたちをなさず、かわいがっていた娘たちへ激しい暴力をふるう自分自身の感情を理解も整理もできずに、もてあましてさえいたのかもしれない。このような光景は、当時は表面化しなかっただけで、夫が戦場にもっていかれた各地の家庭で見られた現象ではなかったろうか。
 早稲田通りのあちこちで、高田馬場駅へ向けた出征兵士を見送る行列の光景が繰り返されるようになっていた。街中には、「♪徐州~徐州と人馬は進む~」という『麦と兵隊』(作詞:藤田まさと/1938年)が繰り返し流れていたということなので、1939年(昭和14)ごろの情景だろう。窪川稲子(佐多稲子)は、家の2階で徹夜の書きものをしながら、母親が狂ったように折檻し、娘たちが泣き叫ぶ声を聞いていた。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 私は胸を突かれたやうになつて、徹夜の机の前でじいつとしてゐた。残された妻の、ときに猛るのが分かるおもひがする。ねえ、お父ちゃん、と夫を呼ぶとき嬉しさうだつた声のその妻の苛ら立つた叱り方は、何か本能的な苦痛を現わしてゐた。数ケ月経つたある夜、外出しようとした私は通りへ出るとき郵便配達夫の赤い自転車とすれちがつた。私の家ではないかと振り返るとそれはひとつ手前の織物職人の家の前へ停まつた。それは主人の戦死の知らせであつた。
  
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 そのころ、娘をもつ藤川栄子もイラ立つ毎日を送っていた。それは、近しい者への怒りというかたちでは表れず、内へ内へとこもる怒りだったようだ。もちろん、自分の友人知人が戦死したり戦傷で入院したりしており、その感情が戦争をやめようとしない政府や社会に対してのものであることを、彼女は十分に理解していたのだろう。
 その怒りを抑えるために、藤川栄子は「いやになつて、寝てばかり」いたのかもしれないし、また娘を連れて戸山ヶ原をあてもなく歩きまわったり、窪川稲子や壺井栄とともに早稲田通りから落合地域への、「歩きませう散歩」をつづけていたのかもしれない。藤川栄子は画家なので、この時期のことはほとんど文章に残してはいないが、作品の制作意欲も極端に落ちこんで、満足なタブローを仕上げられないでいたようだ。唯一、1938年(昭和13)の「文藝」11月号に収録された「葉書随筆」に日記という形式で、ある日の日常を報告している。同日記より、引用してみよう。
  
 某月某日/早朝に起きる、学校にゆく子供と朝食をとるために。相変らず目ざめ際の気持の悪いこと、愉快なことは少しもない。(中略) 午後、子供と戸山の原を太陽を浴びて歩いた。散歩しながら殊にはつきりと生々と馬や木の生活を感じた。どの木もそれぞれの根を張つて自分の仕事をしてゐる。八月以来怠けきつてゐる自分の仕事について考へる。仕事をしないと病的な癇癪が始まつて仕方がない。夜おそく就寝、疲れて。
  
 世間に公表される原稿なので、「数えきれない犠牲者を生む戦争をつづけてるから、朝の寝ざめが悪いし気分もすぐれないのよ!」などと書けば、すぐにも特高が踏みこんできて検挙されるので、表現に細心の注意を払いながら婉曲な表現でしか書けないことも、彼女の激しくストレートな性格からすれば怒りやストレスを蓄積させる要因だったろう。
 藤川栄子と窪川稲子がふだんから贔屓にしていた、高田馬場駅近くの早稲田通り沿いで開業する、椿堂文房具店の肥った後妻が死んでしばらくすると、窪川稲子はただならぬ大きなラジオの音声に起こされた。佐多稲子『私の東京地図』(1949年)より、再び引用してみよう。
  
 朝の早い豆腐やで、いつもラヂオは体操からはじまつた。それは私の寝てゐる二階へまつすぐ聞えた。私は、いつにないラヂオの改まつた放送にすぐ目を覚ました。それは十二月八日の朝であつた。私と吉之助は黙つて顔を見合せるふうにして、軍艦マーチに昂奮する外の気配に身をひそめた。その外の昂奮は奇妙なものだつた。中国の戦争やノモンハンの戦ひで疲れた神経が、はけ口を見つけたやうに、軍艦マーチに煽られてゐた。
  
 文中で「吉之助」と書かれているのは、もちろん当時の夫だった窪川鶴次郎のことだ。
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 窪川稲子(佐多稲子)が住む家のごく近く、このラジオをかけていた豆腐屋は早稲田通りに面した店舗ではなく、通りを北に入る露地裏で営業していた店だろう。窪川稲子や藤川栄子、ときに目白町3丁目3570番地からやってくる中條百合子が気に入り好んで花を買っていた、戸塚4丁目591番地の増田屋花店(現存)の裏あたりで開業していた、住宅街の中のこじんまりした豆腐屋ではないか。

◆写真上:カメラマンを意識したのか、1962年(昭和37)撮影のテレ笑いをする佐多稲子。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に自宅で撮影された窪川稲子(佐多稲子)と長男・健造。中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された藤川栄子。中下は、夫の死後の1935年(昭和10)以降に撮影された藤川栄子と娘の曜子。は、昭和初期に撮影された窪川稲子。
◆写真中下上左は、1941年(昭和16)出版の窪川稲子『季節の随筆』(万里閣)。上右は、1949年(昭和24)に出版された佐多稲子『私の東京地図』(筑摩書房版)。中上は、戦後に起ち上げた婦人民主クラブ準備会の記念写真。後列右からふたりめに藤川栄子が、前列右から3人めに佐多稲子、4人めに宮本百合子が写る。中下は、1946年(昭和21)撮影の壺井栄と佐多稲子。う~~ん、壺井栄はやはり大仏さんに見える。は、1955年(昭和30)撮影の佐多稲子。
◆写真下は、1957年(昭和32)に新宿区柏木4丁目971番地(現・北新宿3丁目)の自宅で撮影された佐多稲子。手もとには、愛飲の缶PEACEが見えている。中上は、1961年(昭和36)4月に香川県の高松市立美術館で開かれた藤川勇造遺作展の会場で撮影された、高松と小豆島で同郷の藤川栄子と壺井栄。中下は、1954年(昭和29)9月に藤川アトリエで撮影された藤川栄子と画家をめざす娘の曜子。は、1921年(大正10)創業の現存する老舗の増田屋花店(現・フラワーショップ マスダ)。
おまけ
 濱田煕が、1995年(平成7)に描いた『昔の町並み』から、藤川栄子と窪川稲子(佐多稲子)が住んでいた家の表通り(早稲田通り)に並ぶ商店街の様子で、1938年(昭和13)ごろを想定している。これらの商店街や藤川栄子のアトリエ、窪川稲子が住んだ家は空襲ですべて焼けている。
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良質な氷を提供する氷室(ひむろ)ニーズの高まり。

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 落合地域は、目白崖線沿いに入りこむ谷戸地形のバッケ(崖地)から湧く泉や、関東ローム下を流れる地下水の水質が優れていたせいか、大正期から製氷工場や製氷工房が多く、また季節を問わず氷を販売する氷屋(氷室)があちこちに開店していた。拙ブログでは、豊菱製氷会社山手製氷会社などいくつかの大規模工場をご紹介しているが、隣接する高田地域(現・目白地域)にも、1925年(大正14)現在で飲食の氷店(冷蔵・冷房用の業務氷は除く)だけで5店舗が開業していた。氷のニーズを考えれば、飲食以外の氷店(肉・魚屋など生鮮品の冷蔵用や室内の冷房用の氷柱など)のほうが、むしろ戦前までは需要が多かったのではないかと思われる。
 昭和期に入ると、生鮮食品を保存する冷蔵庫に用いる氷や、冷房用の氷柱などの需要はピークを迎える。電気冷蔵庫はいまだ高価であり、ブロック氷を用いた冷蔵庫が急速に普及していったからだ。そこで用いられた氷は、製氷工場や製氷工房で製造された人造氷を、おもに街中にあった小売の氷屋(氷室)が一般に販売していた。もちろん店頭販売ではなく、契約した家庭や店舗に氷を定期的に(夏季の家庭には通常朝夕の2回)配達するのが業務の中心だった。
 戦前は、氷を莚(むしろ)でくるみ、家庭の前で契約しているサイズにノコギリで切ってから配達していた。戦後は、小型トラック仕様のミゼットなどに氷の塊を積んで配達しており、子どものころは夏場など魚屋の前でノコギリを使う氷屋をよく見かけていた。現在は冷凍車で運ぶのがあたりまえになり、冷凍車両から店舗やホテルなどの冷凍庫へと直接納品しているのだろう。戦後、氷を入れる仕様の冷蔵庫が急減し、氷店(氷室)の存在が危うくなったけれど、飲食店やホテル、セレモニーホールなどでの需要が増えたため、現在では勢いを取りもどしつつあるらしい。かき氷ブームも、追い風となっているのだろう。また戦前とは異なり、氷室(ひむろ)では氷のほかにドライアイスを扱う店舗が増え、食材の宅配などでも需要が増えているようだ。
 以前の記事で、目白2丁目の明治通り沿いにある同志舎外口製氷所本店(外口氷室=地元の通称は「雑司ヶ谷の外口さん」)をご紹介していたが、2018年(平成30)に豊島区立郷土資料館から発行された研究紀要「生活と文化」28号には、同氷室のレポートが証言類も含めてより詳しく掲載されている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された「町工場の履歴書」展図録によれば、下落合の近衛邸相馬邸、高田町(のち目白町)の戸田邸尾張徳川邸などへ、いつも多量の氷をとどけていたあの同志舎製氷所の氷室(ひむろ)だ。それらの氷は、冷蔵庫や冷房用の氷柱に使われたり、飲食の際に用いられたのだろう。
 「生活と文化」28号によれば、大正期から昭和初期にかけ氷冷蔵庫を備えた家は、「おカネ持ち」のイメージがあったという。わたしの子どものころは高度経済成長期で、電気冷蔵庫ではなく戦前からの氷冷蔵庫のままの家は、「三種の神器」まであと一歩というような感覚だった。氷冷蔵庫が残っていたお宅は、電気冷蔵庫が買えないというよりも、ほかに欲しい家電やクルマなどを優先させたお宅で、電気冷蔵庫があとまわしになっているという印象だった。氷冷蔵庫の外箱は木製で、内部は冷温が保たれるよう、一面にブリキの貼られている製品が多かった。
 当時は、少しでも新鮮な食材を手に入れるため、「主婦」が毎夕買い物に出かけるのが食生活の習慣となっており、自宅にあるのが氷冷蔵庫だろうが電気冷蔵庫だろうが、あまり不便さを感じなかったせいもあるのだろう。でも、大正期から昭和初期にかけ、電気冷蔵庫を備えていたお宅は超「おカネ持ち」か、どうしても仕事の設備として投資しなければならない対象だったのだろう。
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 氷冷蔵庫は、ご存じの方も多いと思うが、上段に大きな氷塊を収納するボックスがあり、下段のより大きなボックスへ傷みやすい食材を入れて保存していた。冷気は下段へと下がるので、その冷たい空気でさまざまな食品を冷やしていたわけだ。厳密にいえば、生鮮食品を長く保存するための「冷蔵」ではなく、できるだけ腐敗を遅らせる短時間の一時的「冷蔵」にすぎなかった。電気冷蔵庫のように、電気代を気にする必要はなかったが、夏場は上段ボックスへ朝夕の二度の氷の入れ替えがあり、氷代の出費がけっこうたいへんだったろう。その氷塊を、毎日欠かさずに家庭へとどけていたのが、外口氷室のような街の氷屋さんだった。
 「生活と文化」28号収録の、三村宜敬「豊島区の氷販売業忘備録」より引用してみよう。
  
 それまでは、(外口)万吉さんがリヤカーに載せた百三十六キロの氷三本を(外口)文祥さんら兄妹が押して販売を手伝っていたという。最盛期は、午前と午後の二回リヤカーで顧客のもとに販売していた。/顧客には氷券を購入してもらい、買った家には氷を販売していた。文祥さん曰く「氷屋はどの家でも裏から入れた」というから、配達のスピードが肝心だった事がわかる。特に氷券は四月頃から売って歩く、(ママ:。) 気温が上がるに従って需要が増加していくためである。しかし、昭和三十六年頃から電気冷蔵庫の普及や製氷機が販売されてきたことから、顧客から「電気にしちゃった」といって注文を受けられないことが増えてきた。(カッコ内引用者註)
  
 かつて、豊島区の全体では40軒以上の氷屋があったが、現在はたった4軒に減ってしまったという。その原因は、上記のように1960年代から急速に普及しはじめた電気冷蔵庫のせいだが、それでも氷の需要はなくならなかった。現在は、天然水や良質な水で造った丸氷や角氷、打(ぶ)っかき氷、ドライアイスなどの販売がメインだという。特に昨今のかき氷(フラッペ)ブームは、街中の氷室にとっては需要の追い風となっているのだろう。また、生協をはじめ増えつづける宅配の食材・食品・調理品の団体・企業では、ドライアイスの需要が伸びていそうなのは想像にかたくない。
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 外口氷室の先代となる女将は、埼玉県の飯能で生まれて育ち、1939年(昭和14)6月1日に武蔵野鉄道(現・西武池袋線)に乗って、東京市内の雑司ヶ谷の外山氷室まで嫁いできた。その当時、彼女は花嫁衣裳のまま武蔵野鉄道に揺られてきたという。夫を早くに亡くした彼女は、戦後、息子夫婦とともに氷室を守りつづけてきた。結婚記念日である6月1日は、現在では「氷の日」となっており、よほど氷に縁のある人生だったのだろう。
 外口氷室は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼している。同店の証言によれば、「大正製薬のところに飛行機が落ち」て、延焼が目白2丁目まで徐々に拡がってきたためだという。より正確にいうなら、B29が日本の戦闘機による体当たり攻撃で撃墜されたのは、大正製薬の道路をはさんだ北隣りの国産電機で、拙ブログにも何度か登場いただいた下落合の松尾徳三様が、勤労動員で勤務する航空機用のマグネット工場だった。
 外口氷室は、空襲で店舗が全焼したにもかかわらず、戦後すぐに営業を再開できている。空襲をまぬがれた住宅地からは、氷のニーズが多かったという。同紀要より、つづけて引用してみよう。
  
 一年の疎開の後に現在の目白の地に戻った際には、空襲にあっていなかった鬼子母神周辺の地域の住民から氷の需要があったことと、要町の製氷工場が空襲の被害にあっていなかったために、すぐに氷屋を再開することができたのである。当初は畳一畳分の冷蔵庫を作り製氷所から馬が引く荷車で氷を運んでもらった。バラックの店舗の裏には畑を作り、氷の配達の帰りに用意していた木箱に道に落ちている馬糞を拾い、肥料としていたという。肥料が良いためか、たくさんの野菜ができて近所の人にも大変喜ばれたという。/戦後は、駅のキヨスクの売店、西武デパート、東京丸物(現PARCO)、三越などへ氷を配達していた。
  
 戦後すぐ1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、確かに雑司ヶ谷にある鬼子母神(きしもじん)の周辺は空襲の被害を受けておらず、南西側の住宅街からは氷の注文が多かったのだろう。空襲で焼けだされたあと、「一年の疎開」先は親戚が住んでいた千葉県の幕張だったそうだ。
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 かつて、豊島区に40軒以上もの氷屋があったころは競合が激しく、顧客をめぐって熾烈な値引き競争も行われていたようだが、現在は同業者が結束して東京アイスアカデミーの研究会を設立し、ブランド氷「氷屋純氷」を起ち上げて共存共栄の環境を構築している。特に、消費者の品質がいい氷へのニーズは高く、店舗や家庭を問わず「純氷」によるかき氷人気はウナギのぼりのようだ。

◆写真上:近年の都内では、天然水や良質な水による空前のかき氷ブームとなっている。
◆写真中上は、わたしの子どものころには現役で見かけた氷冷蔵庫。は、レストランやバーなど飲食業には欠かせないアイスピックでつくる打(ぶ)っかき氷
◆写真中下は、氷屋さんではデフォルトの角氷。は、目白2丁目で営業をつづける外口氷室。は、敗戦直後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる雑司ヶ谷界隈。
◆写真下は、人気のアイスボールでウィスキーなどのオンザロックには最適だ。は、結婚披露宴やイベント会場などで見かける氷アート。下左は、2018年(平成30)発行の研究紀要「生活と文化」(豊島区立郷土資料館)。下右は、1861年(文久元)の江戸期に創業の巣鴨「福島屋」のかき氷。

自動【者】を超える人力【者】を育てないと。

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 いつか、戦後の1960年代まで目白駅前で俥力(しゃりき)をつづけていた、「島さん」について記事にしたことがある。60歳を超えていたとみられる島さんだが、100円/キロで酔客などを目白駅前から自宅まで送りとどけていた。ただし、目白崖線の急坂のある一帯は、さすがに身体が追いつかず、やむなく「乗車拒否」をしていたらしい。
 戦後はおろか、昭和初期から自動車や自転車が一般に普及するにしたがい、人力車の需要は急減していった。明治末から大正期にかけて、まずは馬車屋が自動車(乗合自動車)の普及で徐々に淘汰されていった。だが、小まわりがきく人力車は、昭和初期までなにかと重宝がられ、需要がなくなることはなかった。人力車の台数と自動車の普及台数が逆転するのは、ちょうど大正の終り(1926年)から昭和の初め(1927年)のころだ。また、タクシーやハイヤーの台数が人力車数を上まわるのは、1928年(昭和3)のことだった。
 東京市内では、1912年(明治45・大正元)に23,361台を数えていた人力車だが、1930年(昭和5)には3,353台にまで数を減らしている。わずか18年の間に、人力車は7分の1にまで激減してしまった。それにかわり、1912年(明治45・大正元)にはわずか298台だった自動車は、1930年(昭和5)には27,469台と約92倍に激増している。また、ハイヤー・タクシーは1915年(大正4)に94台だったものが、1930年(昭和5)には7,815台と、こちらも約83倍と急増している。これらの統計数値は、警視庁保安部交通課が調査した「東京市年報」に掲載されたものだ。
 明治末から大正初期にかけ、まずは馬車屋による自動車の敵対視や排斥がはじまっている。自ら技師であり、ガソリン自動車の先駆けといわれる国産車を製造した内山駒之助は、馬車の御者から拳銃で撃たれ重傷を負っている。1905年(明治38)に起きた広島での事件について、1987年(昭和62)に新潮社から出版された高田公理『自動車と人間の百年史』より引用してみよう。
  
 広島に長期滞在して車両の整備に当たった内山氏も、あるときは馬車の通過を道の片隅に避けたが、馬車との接触で自動車が同氏の立つ崖下側に転覆し、その下敷きとなって負傷したこともあった。……馬車屋にピストルで狙撃され弾丸が胸部を貫通するというさんざんな目にもあった。/馬車だけではない。人力車夫もまた競合相手の自動車営業に妨害を加えることが二度三度ではなかったようだ。だから、九か月後の同年十一月に結局は廃業せざるをえなくなった。
  
 まさに、自動車を運転したり、それで商売をしようとしたり整備したりするのは大都市圏ならともかく、地方では文字どおり命がけだった様子がうかがえる。
 東京でも、車夫と自動車の運転手は険悪な仲だった。俥をひろおうとした、自動車のドライバーを「乗車拒否」する車夫の話が残っている。別にタクシーやハイヤーなどで商売をしている人間ではなく、自動車を運転している人物というだけで俥の利用を拒否された。1984年(昭和59)に中央大学出版部から刊行された、山中新『馬なし馬車が行く』から少し長めだが引用してみよう。
  
 時間が時間だったせいか、人力車は一台も通っていなかった。/「岡田さん、歩きましょうよ」/小林は、上野方面に向って歩き出した。/「篭町まで行って、人力車の詰所から乗りましょう」/岡田も歩調を早めた。岡田の家から篭町までは、たいした道程ではなかったが、人力車の詰所の前まで来ると、縁台に腰を下してタパコを吸っている車夫がいた。/「大至急で、神田の岩本町までやってください」/ところが、車夫は岡田の顔を見ると、ぷっと横を向いてしまった。/「ふん……。あんたは自動車の運転手様だろ。わしらのような、二本足で引いて走る車なんぞに乗らんで、四つの立派な車のついた、自動車とかいう豪勢なお車に乗った方が、お似合いなんでは…」/車夫は、にべもなく岡田の頼みを断った。商売敵といわれればそれまでだが、なにもハイヤーの運転手をしているわけでもないので、/「おれは、自動車の運転手をしているが、君たちの商売敵ではないよ」/と、車夫に言っても、車夫は一向に行ってくれそうもない。やむをえず、二人は神田の岩本町まで歩くことにした。岡田は歩きながら、この車夫の態度が許せないと腹を立てていた。
  
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 この俥(じんりき)の車夫の場合は、まだイヤミをいうだけの「乗車拒否」だが、急速に普及する自動車に対し、組織的な反対運動を繰り広げる地域も出はじめている。
 1914年(大正3)の夏には、岡山県で大規模な反対運動に火がついた。同年に日本自動車倶楽部から発行された『自動車』8月号に収録の、新聞記事(新聞名は不詳)の見出し「人力車夫の反対運動」から引用してみよう。ちなみに、反対運動が人口の多い都市部ではなく地方に多いのは、俥を利用する乗客の絶対数が都市部に比べ限られて少ないからであり、乗合自動車などの普及で壊滅的なダメージを受ける危機感が、より深刻かつ身近に感じられたからだろう。
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 津山からの通信に由ると、倉敷、勝山間約八里の間に乗合自動車の経営を思ひ立つ人ありて、七月十五日津山にその発起人会を開きて、準備に着手したが、斯くと聞きし津山の人力車夫等は、之を以て彼等の危急存亡となし、熊公も大八も東奔西走して同志を募ること無慮二百数十名同盟して、反対運動を開始し、十八名の委員を選ぶやら、津山側の乗合自動車発起人及株主等に向つて、自動車営業の撤廃を哀願すると云ふ騒動、而して若し容れられない時には、更に美作五郡の同業と共に結束して、勝敗を試む可しと、息巻荒く武者振つて居る
  
 このような対立は、全国各地で起きており、ひょっとすると東京郊外の目白通りを走るダット乗合自動車と、目白駅前に集合していた俥力との間でも、トラブルが頻繁に起きていたのかもしれない。大正期を通じて、人力車と自動車との競合・対立は全国レベルにまで拡大するが、自動車やバスの急激な普及の前に、人力車の車夫たちは無力だった。
 大正末ごろになると、俥力たちは時代の進展と技術の進歩にあきらめが先立ったのだろう。乗合自動車やタクシー会社に対して、保証金あるいは廃業手当を求める要求闘争に変化していった。その事例を、1927年(昭和2)5月4日に発行された、「京都日出新聞」より引用してみよう。
  
 京都駅前に営業する人力車夫は、最近恐ろしい勢ひで発達して来た自動車のため漸次生活の道を失ふに至り、窮した揚句つひに旅館と結託して宿引をやつたり婦女子によくないことをしたりするので、京都駅および七条署側で、今月中で廃業さすべき運びとまでなつたが、これらの者に対する涙金について、駅前で営業の各自動車会社より出金するやう懇談することとなり、目下有力者が協議中で、この際、自発的に廃業する者に対しても相当な方法を講じたいとの意向である。
  
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 けれども、これらは観光地や都市部の駅前についての現象であって、交通が不便な郊外住宅地や、柳橋あるいは新橋、赤坂、神楽坂といった華町ではずいぶんあとまで、俥は芸者を乗せて走りつづけている。こちらでも、芝居帰りに目白駅から西落合1丁目132番地の貫井家まで、俥を飛ばして帰宅していた神田っ子のばあやをご紹介しているが、今日のように地下鉄やバスの路線網が未発達な時代なので、人力車は戦前までずいぶん重宝がられていた。ちなみに、貫井冨美子の夫も、米国に留学して技術を学んできた自動車の設計技師だった。
 自動車にはかなわない人力車だが、それでも俥力(しゃりき)とドライバーとの間では各地で軋轢や暴力事件が発生していた。1931年(昭和6)4月29日の東京朝日新聞から引用してみよう。
  
 商売敵の車夫/運転手を撲る
 二十八日午前零時半頃赤坂区田町三一一〇竹屋タクシー方運転手関矢五郎(二五)が同一一先道路で自動車を電柱につきあてたところその傍に見てゐた人力車夫明智喜平方のひき子鈴木与七(二七)青田清次(三四)北川徳四郎(二五)の三名が罵倒したので立回りをはじめ関矢を袋たゝきにして全治三週間の傷を負はせた上 自動車の窓ガラスその他をめちゃめちゃに打ち毀した 表町署では加害者三名を引致取調中であるが平素商売敵から相反目してゐたものであると
  
 竹屋タクシーの商売が順風満帆なのに対し、車夫たちは日ごろから鬱積した不満を募らせていたのだろう。来年は、仕事があるかどうかわからないというような危機感を抱いていたにちがいない。それが、ちょっとした事故をきっかけに爆発したものだろう。
 最後に、少し余談気味になるけれど、技術の急速な進歩・発展で職を失う事例は、別に歴史上の俥力とドライバーの物語に限らない。現代でさえ、基幹業務や定型業務のデスクワークが、AIプラットフォーム上のアルゴリズムに制御されたRPAに、丸ごと駆逐されようとしている。ところが、端末の前に座る机上業務全般がAIインクルードの仕組みになると、広範なデスクワーカーが大量に失業しかねない情勢だ。昭和の用語でいえば、「サラリーマン」と呼ばれた組織へ勤める人たちの存立基盤が危うくなっている。ICT導入による効率化や省力化で、「生じた余裕を、別の創造的な業務に振り向けることができます」といった、ひと昔前のICTフレーズとはまったく異質な世界だ。
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 AIが創案しあやつるボット類で、人力(おもに頭脳労働)が代替される時代がすぐそこに見えている。これまでの各種システムによる効率化や省力化のレベルではなく、業務をする人そのものが不要になる従来では考えられなかった世界だ。拙サイトをスタートしてすぐのころ、いまから21年前にシステム開発・運用に関する「ミーム遺伝子(暗黙知)」の活躍について書いたことがある。システムの不足する部分を、業務をする人が獲得した経験値やノウハウなどの社内文化・風土が補う、人的依存の文化・風土・慣習的領域について触れた記事だった。だが、AIプラットフォームはそれらの「ミーム遺伝子(暗黙知)」さえ丸ごと飲みこむ仕組みづくりが可能だ。
 すると、記憶力やその横断的で広範な応用力、調査力、企画力、構築・開発力、そして経験則やノウハウの正確な蓄積ではかなわないAIを前に、記憶力中心の学校教育の“お勉強”ではまったくダメなのは自明のことだろう。定型式の詰めこみで変わりばえのしない暗記中心の学習では、AIの仕組みを前にまったく刃(歯)が立たないということだ。AIが備えた既存のアルゴリズムの不足や弱点のアウェアネスができる人材、あるいは従来のアルゴリズムを凌駕するような「規格」外れの想像力(創造力)や発想を養い育てる教育でないと、AIにただ命令されコキ使われる人間ばかりになってしまう。あるいは、江戸の街と同様に手に職(技術)をつける教育が不可欠になるのだろう。いま改めて、自動【者】を超える人力【者】を養成しなければならない時代がそこまできているようだ。

◆写真上:最近の浅草地域をめぐる俥力(しゃりき)には、なんと女子がかなりいるようだ。
◆写真中上は、明治期に馬車と俥のすれちがいを描いた芳虎の浮世絵。は、1896年(明治29)制作の清親『柳原夜雨』。は、1930年(昭和5)の警視庁交通課統計。
◆写真中下は、明治末に撮影された人気ナンバーワンのフォード自動車。は、鎌倉の海岸線で自動車を走らせる大倉喜七郎(運転席)。うしろの左端でタバコをくわえているのは、自動車技師の内山駒之助。は、長崎町の工場で生産されたダットサンの初期型モデル。
◆写真下は、昭和初期に撮影されたガソリンスタンド。給油する女性の、児雷也(じらいや)のようなアタマはどうしたもんだろうか。は、1931年(昭和6)4月29日に発行された東京朝日新聞の「商売敵の車夫/運転手を撲る」記事。は、鎌倉の江ノ電・長谷駅前で見かけた観光俥。
おまけ
 1943年(昭和18)に、内務省の先が見通せる理性的な検閲官により、「検閲保留」の状態をつづけさせるイキなはからいで、連続の試写会(実質的には公開)された板妻主演の俥力『無法松の一生』(稲垣浩監督/1943年)。わたしは、舞台で観た緒形拳の俥力「無法松」のほうが印象深いが、親たちの世代ではこの映画だろう。下は「児雷也ってなに?」という若い子のために、1880年代に制作された周延『竹乃一説児雷也藤橋乃場』(部分)の芝居絵。寝起きで髪の毛がボサボサのときなど、「児雷也みたいな頭してないで、早く顔を洗ってらっしゃい」とは、親たちによくいわれたセリフだ。
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ニャアと鳴くせりふ間あいの大江戸芝居。

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 わたしが両親とともに芝居を最後に観たのは、中学生のころだったと思う。この「最後」は、子ども時代を通じての「最後」という意味で、学生時代以降の大人になってからの観劇は除く。小学校低学年のころから、芝居であれば歌舞伎座か国立劇場、新派であれば明治座新橋演舞場へときどき通い、その舞台の価値をほとんど理解しないまま育った。
 両親とともに観た最後の芝居は、歌舞伎座の興行で17代目・中村勘三郎6代目・中村歌右衛門が出演していた。勘三郎の『俊寛』が印象深いので、調べてみると1971年(昭和46)11月の「吉例顔見世大歌舞伎」だったろう。昼の部には勘三郎の『俊寛』が、夜の部には歌右衛門の『時雨西行(江口の君)』が含まれている。この日の舞台は、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょう・くるわにっき)』にはじまり、親父の好きそうな将門がらみの『忍夜恋曲者(しのびよる・こいはくせもの)―将門―』、『平家女護島(へいけにょごのしま)―俊寛―』、そしてわたしの好きな黙阿弥の『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・めおのしらなみ)』とつづいている。
 親父が、フグ毒に当たって急死した8代目・坂東三津五郎とは知りあいだったので、大和屋が主演した『双蝶々曲輪日記』は確実に観ていると思うのだが、情けないことにわたしはまったく記憶にない。なぜか、足が悪くなり素早い立ち振る舞いができずにモタついていた17代目・勘三郎の演技と、花道の“スッポン”からせり上がってきて身長が低かったにもかかわらず、その舞踊が子ども心に見惚れるほど美しかった6代目・歌右衛門が強く印象に残っている。歌舞伎座のデータベースを調べると、当日は上記役者のほか13代目・片岡仁左衛門、7代目・守田勘弥、7代目・尾上梅幸、17代目・市村羽左衛門、5代目・坂東玉三郎(8代目・大和屋養子)…etc.と、のちの活躍も含めればほとんどみな「人間国宝」だらけのような舞台だったことに気づく。1960~70年代は大正末から昭和初期以来の歌舞伎黄金期で、芝居にまったく興味などがなかった、幼いわたしを無理やり引っぱってでも、親たちは伝説になる舞台を観ておきたかったのだろう。
 上記の「白浪五人男」=『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』では、この日とは別の7代目・音羽屋(当時はまだ4代目・尾上菊之助だったろう)が、弁天小僧菊之助を演じた舞台のほうが鮮烈な印象に残っている。こちらは、調べてみるといつもの歌舞伎座ではなく明治座でかけられた1968年(昭和43)の出し物だ。もちろんわたしはまだ小学生で、弁天小僧の居直りセリフ「浜松屋の場」を、なぜか暗記したのは少したってからのことだろう。この日、曽我兄弟の大磯における湯場の対面や松本順がセリフに登場する、黙阿弥『夜討曽我』も演じられているが、ふがいないことにまったく記憶がない。舞台が明治座だから、当時から食い意地の張っていたわたしは、きっと観劇後に立ち寄るかもしれない薬研堀の「鳥安」か、あるいは大橋東詰めの「豊田屋(ももんじ屋)」が気になって、舞台はほとんど上の空だったのだろう。ちなみに、夏になると歌舞伎役者がそろって大磯の別荘か旅館へ避暑と海水浴に出かけてしまい、江戸東京の芝居小屋では幕が開けられなくなったのは、大正の初めぐらいまでだろうか。
 親父の書棚の、ほぼ半分近くを占めていた芝居の書籍や資料だが、そのほとんどを親父の死後に処分してしまったのが、いまさら惜しくてしかたがない。そのほか書棚を占めていた観世流の能楽関連の書籍やレコードは惜しいとは感じないし、建築・土木が専門だった親父の寺社建築や仏教美術に関する大量の書籍や資料もそれほど惜しくはない。もっとも、母親が親父とともに鑑賞して歩いた仏教美術の資料の一部は、未整理のままどこかの段ボールに入ったままだと思うのだが……。わたしとしては、芝居本がそのまま残っていればと、いまになって後悔しきりだ。
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 ただ、親父の芝居本のうち、たった4冊だけだが手もとに残っている。これは、ページ内に親父の書きこみがあり、本棚から抜きとって形見にしたものだ。そのうちの2冊、1953年(昭和28)に第一書店から出版された『名せりふさわり集』と、1954年(昭和29)に同社から刊行された『芝居せりふ集』は、すでに以前の記事でご紹介していた。残りの2冊とは、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二の『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』と、1958年(昭和33)に同社から刊行された戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』だ。わずかにこの4冊だけで、残りの数百冊はおそらく母親が古書店を呼んで処分したものだろう。
 特に後者の2冊は、親父が実際に歩いた街や地域には赤〇印と書きこみがあり、『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』は1ヶ所を除いて全地域を歩いている。歩かなかった1ヶ所とは、いわずもがなだが「三田薩摩邸跡」だ。もちろん、幕末の大江戸(おえど)で市中の世情不安を引き起こすためだけの目的で、まったく「敵」でもなく罪も落ち度もない女子どもへの辻斬りや、商家への火付け盗賊を繰り返した、同藩の益満休之助(配下は500名といわれる)らテロリストたちが巣くっていた凶悪な犯罪者アジトなので、ことさら忌避して寄りつかなかったのだろう。
 『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』の「あとがき」で、戸板康二は次のように書いている。
  
 東京には、江戸時代から舞台を通じて人々に親しまれた町や橋や神社仏閣が少なくない。これらの旧蹟は、大正十二年の震災と、昭和二十年の戦災と、二度の火の洗礼によつて、多くは変貌してしまつてゐる。/しかし、芝居の中には、レパートリイが繰り返されるものが多いので、土地の人は、口づたへにでも、住んでゐる周辺の場所を、芝居にむすびつけて知つてゐる。区民の誇りと思つてゐるかどうかはわからないが、とにかくそれは「名所」なのである。
  
 「とにかく」、わたしもそう思う。芝居の舞台になった街や川は、それだけで歴史の地層や物語がとても分厚いと感じるし、江戸期からつづく舞台の情景が浮かべば、現実の風景へ書割(かきわり)がまぼろしのように重なって見える。YouTubeなどで、昔の写真や浮世絵と現在の風景を透過して見せるコンテンツが流行っているようだが、まさにあれと同じような感触を憶える。落合地域や、その周辺域が舞台になった芝居や新派の舞台は、これまで機会があるごとに再三ご紹介してきた。
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 もう1冊の『芝居名所一幕見―諸國篇―』は、芝居の舞台となった日本全国の地域を紹介する内容だが、こちらも9割がた訪問した赤〇印がついている。北は十和田湖(新派『湖の聲』)から南は長崎(新派『於蝶夫人』)まで、芝居や新派を問わずよくこれだけ踏破したものだと思う。おそらく、仕事で地方への出張が入るたびに、1日休暇をとるか週末にひっかけて各地をめぐり歩いたものだろう。それを母親が許していたのは、現地発送のぶんも含め、お土産がかなりたくさんあったからにちがいない。小学生のとき、出張先からもらった阿蘇山が火口湖から大噴火にいたるまでの人着による連続絵はがきを、わたしはまだどこかに持っていると思う。同じく活火山である箱根連山を抱える神奈川県では、火山災害対策も課題のひとつだった。
 さて、わたしが子どものころに連れ歩かれた歌舞伎座や国立劇場、明治座、新橋演舞場は、建て替えが本決まりとなり閉館したまま再開のめどが立たない国立劇場を除き、すべてが昔の姿を消している。外見は似ているものもあるが、内部はわたしが子どものころとはまったくの別物だ。裏返せば、それだけ芝居の需要がいまだに多く、建て替える資金に困らないということなのだろう。唯一、建て替えが中断している国立劇場は、入札不調が原因と聞いている。わたしが子どものころの舞台は、いまだ江戸期の名残りをどこかに残していたものだろうか。
 江戸の中期、芝居小屋は葺屋町の市村座、堺町の中村座、木挽町の森田座の3ヶ所(江戸三座)あった。当初の芝居小屋は3階建てで、庶民が観賞する一般の桟敷席には屋根がなく、舞台と両袖の観劇料が高価な芝居茶屋がらみの桟敷席のみ屋根が葺かれていた。芝居小屋がすべて屋根で覆われる「全蓋式」になるのは、1720年代のことだそうだ。のち、これら三座は浅草の猿若町に集められ、安藤広重『名所江戸百景』(猿わか町よるの景)にも登場している。
 また、照明やスポットライトなどない時代なので自然光を利用していたため、採光は天井近くに設けられた横長の明かりとり(窓)の「窓番」によって場面ごとに調節されていた。だから、窓から野良ネコが屋根づたいに入りこむことも多く、1746年(延享3)ごろに刷られた鳥居清忠の浮世絵『浮絵劇場図』には、芝居小屋の天井近くに入りこんだ白黒ぶちの野良ネコがわがもの顔で歩いている。せりふ途中の絶妙な間あいで「しばらく、しばらく、あいやし~ば~ら~くぅ…(ニャーオ)」と、見得を切るちょうどいい間あいで鳴かれたら鎌倉権五郎はどうするのだろうか。w もっとも、江戸後期には龕灯(がんどう)などを用いて、舞台の照明がかなり工夫されたようなのだが。
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 こういう芝居の歴史や舞台の仕掛け、書割、道具、風俗などにやたら詳しい専門家に、元・国立劇場主席芸能調査役(おそらく定年で退職)の石橋健一郎がいる。2018年(平成30)9月28日~10月16日にかけ、日本経済新聞に連載の『江戸の芝居小屋十選』は面白く読ませてもらった。わたしよりひとつ上の生年になるが、両親から芝居だ新派だと連れ歩かれ、親ともども遊んでばかりいて勉強も宿題もロクすっぽせず、しょっちゅう教師に怒られ、連絡がいっていたらしい親からも叱られていた子どものころ、石橋君はわたしとはまったく対照的で超優秀な小学校の同級生だった。

◆写真上:江戸中期の芝居小屋には、天井近くの明かりとりから「窓番」の目を盗み野良ネコが入りこんだ。解体される直前、旧・歌舞伎座で撮影した天井近くの桟敷席。
◆写真中上は、1817年(文化14)制作の豊国(初代)『中村座内外乃図』(部分)の芝居小屋外観。さまざまな身分の人々が、中村座へ押しかけているのが描かれている。中上は、同じく『中村座内外乃図』(部分)の小屋内観。中下は、1923年(大正12)の関東大震災の直後に撮影された旧・歌舞伎座。は、1926年(大正15)に撮影された旧・歌舞伎座。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に制作された「新古細句銀座通」シリーズのうち岸田劉生『歌舞伎座附近』。は、1929年(昭和4)に撮影された旧・歌舞伎座。は、親父の本棚から1953年(昭和28)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』(白水社/)と、1958年(昭和33)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』(白水社/)。
◆写真下は、1746年(延享3)ごろに制作された鳥居清忠『浮絵劇場図』。天井近くの「窓番」が、障子を外すか立てようとする刹那、野良ネコが場内に入りこんだ情景が描かれている。は、リニューアル直前の旧・歌舞伎座。は、リニューアル前の旧・歌舞伎座の内観で手前が花道。

「男ってゴミみたいだから掃き出した」と三岸節子。

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 おそらく、1953年(昭和28)の秋ごろのエピソードだろう。扇谷正造と織田昭子は、銀座でつづけざま三岸節子と出会っている。扇谷正造は、足元がおぼつかない足取りで菅野圭介を連れて歩く彼女と銀座4丁目で、織田昭子は電通銀座ビルの交詢社通りをはさんだ斜向かい裏、銀座6丁目で開店していたバー「アリババ」のカウンターで飲んだくれていた彼女だ。
 当時、「別居結婚」をしていた菅野圭介に愛人(画家・須藤美玲子)ができ、その経緯を「週刊朝日」の扇谷正造から聞かされた三岸節子は仰天している。また、菅野圭介が気の強い三岸節子へ離婚話を直接切りだせないため、須藤との再婚を朝日新聞と「週刊朝日」へリークして既成事実化しようとしたのも、彼女のプライドを傷つけた。まさに、料理が気に入らないと膳をひっくり返し妻を殴る、没主体的で気の小さなDV男ならではの行動だろう。この一連の出来事で、三岸節子は人間不信となり、軽井沢へ一時引きこもることになったといわれる。
 扇谷は、新制作協会の展覧会で三岸節子の出品作『くちなし』を観た帰りに、銀座4丁目で彼女と出あっている。また、新制作展は織田昭子も観ており、『くちなし』が「すごくすてきだった」と気に入っていた。銀座のマダムとしては、開催されている主要な展覧会の観賞や、評判となっている小説などの書籍、ときには顧客筋の職業に関連する専門書などにも目をとおしておかないと、文字どおり“お話にならない”商売だったのだろう。いまでも、銀座の高級クラブのホステスさんたちは、自身の客筋にあわせて勉強を怠らないようだ。いや、親がらみの柳橋や知人に芸者さんはいたけれど、銀座の高級クラブなど一度ものぞいたことがないので“伝聞”なのだが。
 織田昭子と対談する扇谷正造の回想を、1973年(昭和48)に産業能率短期大学出版部から刊行された、『扇谷正造対談集/あしたはあしたの風が吹く』から引用してみよう。
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 その少し前に新製作派(ママ:新制作協会)の展覧会があってね。三岸さん『くちなし』という作品を出していた。すごくいい絵なんです。(中略)/その絵を見た帰り、銀座へ行った。四丁目で(都電を)おり、ふっと立っていたら、三岸さんがやってきた。フラリ、フラリ、風に吹かれているみたいな歩き方だ。もっとも、三岸さん、足が悪いせいもあるけど、それは足だけではない。どうも心の安定がとれてないみたい。みると、菅野圭介氏が、二、三歩離れて歩いて来る。「おや、どちらへ」「これから浅草へ行くんです」。/で、たまたま社(朝日新聞社)の車を待たせてあるので、それをどうぞ、といった。二人は乗ったが、どうも、様子がただ事ではない。(中略)/無残な飲み方は、その直後なんで、何かピーンときた。その夜、三岸さんを鷺宮のお家までお送りした。帰りしなに「じゃ、さようなら」って声が、ひどくわびしく、悲しそうだった。(カッコ内引用者註)
  
 文中、三岸節子の「無残な飲み方」というのは、秋雨が降る夜の11時ごろ、扇谷正造が飲み屋へ寄ると閑散とした店内で、三岸節子がひとりで飲んでいたという情景だ。その飲み方というのが尋常でなく、「なんというのかな“無残”って感じだった」と回想している。
 この直後、「ピーン」ときた扇谷は菅野圭介に取材しているのだろう。菅野がリークした、「ボクたち結婚します」という宣言と、須藤美玲子と子どもの3人で撮られた写真が「週刊朝日」に大きく報道され、三岸節子は大きな衝撃を受けたのだとみられる。須藤美玲子は、菅野圭介より17歳も年下の27歳であり、三岸節子との「別居結婚はいわばガクブチでしかなかったのではないか」などと、須藤へのインタビューでいわれ放題だったことにも、かなり傷ついたにちがいない。
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 一連の騒動の最中だったのだろう、三岸節子は顔見知りの織田昭子が経営する、銀座6丁目にあったバー「アリババ」を訪れている。そのときの様子を、今度は織田昭子の証言で聞いてみよう。
  
 三岸さんとは、こういうお付き合いだったんです。わたしが林芙美子さんのうちに一年半ばかりお世話になっていた。そのとき、林さんが女流アンデパンダンというのに、F氏賞というのを出していた。三岸さん、それでよく林先生の家へお見えになってたもんですから……。わたしがああいうところで商売始めたというんで、何回かお見えになったんです。扇谷さんがお見えになる前に「男なんてゴミみたいなもんだから、掃き出してやったわ」っておっしゃって、飲んでいらしたわけなんですよ。(中略) その前にね「男ってどう思う?」っておっしゃられた。ちょっと、ただごとではない感じなのでね「今、わたしは男の方って、お客様としてしか考えません」。(中略)/そのあと「男ってゴミみたいなもんよ……」なんです。その言葉が非常に鮮烈でね、わたしにもよくその感じがわかるんです。男と女がうまくいかなくなっちゃって、それこそ、そうとでもいうほかない女の気持ちが非常によく出てるんですよ。
  
 バー「アリババ」でも、三岸節子はふつうではない飲み方をしていたらしく、織田昭子になんとなくからみそうな、危惧をおぼえる酒の勢いだったようだ。扇谷正造は、このあと三岸節子が早くに亡くした亡夫・三岸好太郎の作品を、戦後次々と買いもどしているのに触れて、三岸アトリエに付属する6畳の和室に、前夫の作品ばかりを集めては眺めていた様子を紹介している。そして、「これじゃ菅野君はたまらないだろうな」と感じたという。
 また、織田昭子は夜に灯りがともる菅野圭介アトリエへ、三岸節子が“突入”した話もしている。アトリエのガラス窓を手足でたたき割り、血だらけになりながら菅野啓介の前に、突然現れたことがあったようだ。織田昭子は、『嵐が丘』のヒースクリフにたとえて、「三岸さんガラスが見えなくなっちゃったんですね、バリバリと、その中を突き破って入っていった」、その一途なところにとても惹かれると話している。その話を受けた扇谷正造は、いきなりUFOの話をしはじめたのだ。
  
 そういう激しさをもった女性は三岸さんと死んだ森田たまさんだったね。日本人でこの二人だけが“空飛ぶ円盤”を見ている。森田たま氏は箱根の山中を歩いていてだ。パーッと閃光がひらめいて顔をあげたら円盤が飛んで行く。三岸さんはニースで見たって手紙をくれた。だから空飛ぶ円盤の見える女性というのはね、何か、こう“つかれたもの”を持っている。こういう女性はガラスなんて何でもない。
  
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 三岸節子や森田たまが、UFOの目撃談義をどこかでしているのか、わたしは寡聞にしてそのような資料は一度も見たことがないし、UFOを目撃した女性が「日本人でこの二人だけ」だともとうてい思えないが、憑かれたものをもつ女性とUFOを目撃することとの関係性が、まったく意味不明でわからない。なにかに熱中しがちな性格の人間は、脳内がドーパミン過多となりふだん見えないものが見えるようになるということだろうか。この対談は、料亭かどこかの酒席だったと思われるので、対談後半ともなると扇谷正造は、かなり“できあがって”いたのではないか。
 さて、織田昭子がマダムをつとめた新宿の中村屋裏にあった「ととやホテル」のバーと、彼女が経営していた銀座のバー「アリババ」については、東京を散歩する文学関係者をはじめ、さまざまな人たちが記録を残している。そんな中から、1959年(昭和34)にみかも書房から出版された、スペイン語学者の佐久間正『東京味どころ』と、1988年(昭和63)に泰流社から出版された、朝日新聞記者で銀座が故郷の水原孝『私の銀座昭和史』の2冊から、少しだけご紹介してみよう。
  
 「ととや」だけが群をぬいて、上品なバーだった。というのは、ふつうのレベルということでもある。いま銀座の「アリババ」のマダムである、作家織田作之助氏の未亡人昭子さんがいたために、“虚名”をはせすぎたきらいがあるが、バーというより、応接間かなんかで飲んでいる感じの、きさくな店であった。これも、最近は、「馬上盃」となり…… (佐久間正)
 外濠通りの電通のビルの裏にバーのアリババがある。/アリババのママは、作家織田作之助の最後を看取った織田昭子である。小学校が私より二級下、オカッパ、色白で黒い大きな瞳の美少女だった。旧木挽町歌舞伎座裏の商人の娘だけに、気っぷがよく、頭の回転が早い。いつ会っても昔と変わらない人柄のいいマダムである。 (水原孝)
  
 織田昭子は、歌舞伎座のある木挽町(銀座)で生まれ育ったのなら、おそらく芝居はあびるほど観ているだろう。舞台演劇をめざしたのも、子どものころからなじんだ芝居の影響かもしれない。
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 新宿東口のハモニカ横丁にあり、当時は新宿中村屋の裏手にあった「ととやホテル」(のち中村屋ビルと一体化営業)のバーが、上記の文中にあるように「ととや」だったのかどうかは不明だ。ホテルのバーなので、お客たちはホテル名をつけてバー「ととや」と呼んでいたのかもしれない。

◆写真上:木村伊兵衛が1949年(昭和24)に撮影した、銀座で商売をする靴磨き(部分)。
◆写真中上は、1973年(昭和48)出版の『あしたはあしたの風が吹く』(産業能率短期大学出版部)内扉()と、著者の扇谷正造()。は、1956年(昭和31)出版の織田昭子『マダム』(三笠書房/)と、著者の織田昭子()。は、バー「アリババ」の織田昭子(AI着色)。
◆写真中下は、バー「アリババ」があった銀座6丁目の道筋。正面を横切る道路が交詢社通りで、向かい右手にある濃い灰色のビルが銀座7丁目の電通銀座ビル。は、振り向いた背後の道筋。は、上鷺宮の三岸アトリエにある螺旋階段で撮影された菅野圭介(AI着色)。
◆写真下は、1953年(昭和28)10月22日発行の朝日新聞記事(改編集版)。は、1950年(昭和25)撮影の闇市に接した「ととやホテル」。は、1956年(昭和31)撮影の新宿中村屋裏の同ホテル。
おまけ
 織田昭子が見ていた、1948年(昭和23)4月撮影の新宿通り。この撮影から半年後、織田昭子は新宿中村屋の右手に見えている三角屋根の「ととやホテル」のバーにマダムとして勤務している。
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柴崎古墳(仮)=将門塚から出土していた石室。

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 1923年(大正12)11月29日、大手町にあった前方後円墳の柴崎古墳(仮)=将門塚が、大蔵省のバラック2棟を建てるために破壊された。鳥居龍蔵の考古学グループが視察調査をしてから、およそ2ヶ月後のことだ。その様子を観察していた人物に、大蔵省建築局にいた大熊喜邦と考古学者の小此木忠七、そして下落合のタタラ遺跡である中井遺跡の西南端を、大正期に下落合1923番地に住む栗原家の協力で発掘した、武蔵野文化協会の考古学者・小松真一の3人がいた。
 鳥居龍蔵らの考古学チームは、震災の焼け跡から出現した築土の形状から、墳丘が全長約30mほどの、古代の柴崎村の江戸岬に築造された海を眺める小型の前方後円墳だと想定している。江戸幕府の以前、もともと将門塚の位置には神田明神が建立(730年)されており、境内には広い御手洗池(古蓮池)が湧水をたたえていた。つまり、平将門が出現して死亡するはるか以前から、神田明神は同塚に創建されていたことになる。将門塚が、江戸初期に千代田城の建設で障害になると、神田明神は一時的に神田山(駿河台の位置)へ遷座したが、同塚はそのまま残された。そして、江戸湾を埋め立てるために神田山が崩されはじめると、外神田の現在地へと再遷座している。
 少し余談気味になるが、神田明神が将門塚の位置にあった室町期、江戸に城を築いた太田道灌も江戸城鎮守として神田明神を崇敬したと伝えられている。また、道灌は1478年(文明10)に河越(川越)から山王社を勧請し、江戸城の鎮護社としている。現在の日枝権現(山王権現)で、のちに徳川家の産土神となり、幕末まで大江戸を二分する天下祭りの西の拠点となった。
 将門塚の破壊工事現場に立ちあった3人のうち、大熊喜邦帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の建設事業を継続するために、上落合469番地(のち470番地)の吉武東里邸設計業務に多忙をきわめていたのだろう、ふたりの考古学者が参加する前日に上落合へ引きあげている。したがって大熊喜邦は、古墳が崩される様子を記録に残しているとは考えにくいが、考古学者の小此木忠七と小松真一は破壊の様子を記録しているとみられる。そのうち、小松真一の調査記録を見つけたのでご紹介したい。掲載されていたのは、1927年(昭和2)に武蔵野文化協会が発刊していた歴史の専門誌「武蔵野」1月号(雄山閣)で、小松真一は『大蔵省将門塚内に在つた石室』という、8ページにわたる詳しい記録を寄せている。
 それによれば、11月30日に大蔵省の臨時となるバラック省庁舎2棟を、将門塚および御手洗池(古蓮池)跡に建てるため、3間(5.5m)ほどの高さがあった墳丘(後円部)と、前方部とみられる「封土」を崩している際、江戸期のものとみられる茶碗の欠片や瓦が見つかっている。(もっとも前方部は早くから変形されていたようだ) これは、江戸初期に神田山へ遷座した当初の神田明神の名残りだろう。ところが、つづけて墳丘を崩していくと碑の建っている後円部、すなわち「記念碑から見て先づ南に当る所」から石室が出現した。これは、前方部が東南東に向いているので、通常の後円部にみられる羨門・羨道の位置より、南側へ角度的にややズレた位置から出土したことになりそうだ。出土したのは、人体が収まるほどの長方形をした石室だった。
 この石室は、古墳の羨道や玄室とは明らかに異なっており、長さが6尺3寸(約191cm)で幅が奥で2尺8寸7分(約87cm)、入口で2尺9寸(約88cm)、高さが5尺2寸(約158cm)というものだった。底には、一面に平石が敷きつめられており、天井に組まれた石材はひとつが長さ3寸5分(約10.6cm)、幅が1尺2寸(約36cm)、厚みが3~4寸(約9~10cm)というものだった。石材の多くが、江戸時代に多用された相州真鶴産の小松石だったが、それがすべてではなかった。小松石で組まれた石室の中に、より脆弱な質の石材も混在して構築されていた。
 その様子を、小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』から引用してみよう。
  
 敷石の入口に向ふ最南端の石は巾一寸四分(4.2cm)、深さ三分(9.1cm)の溝が附けられてる。石室は形は保つてゐるけれども完全ではない。敷石のうち入口から二番目の石は無かつたし、又、奥壁の一部は失はれ、天井石は奥二枚のみ存し、左壁も右壁も石が見えない部分がある。要するに元、一度は少く共露いた形跡が有る。それは此構造物が完形でない事も其証拠であるが、尚、盛土の土が内部に這入り、又瓦の破片やら新らしい時代の陶器、茶碗欠け等が混じつてゐたのでも解る。又、石材のうちにザクザクした脆い石質のものも混用されてゐる。(カッコ内引用者註)
  
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 文中にある「ザクザクした脆い石質のもの」は、南関東に展開する古墳の玄室に多用された、小松石よりも加工が容易な房州石ではなかっただろうか。
 すなわち、このような想定が成り立つだろうか。まず、この位置にいまだ神田明神の社殿があった江戸初期の以前に、墳丘が崩れて古墳本来の羨道や玄室が露出したか、あるいは古墳をあばく盗掘の被害に遭い、しばらくは荒廃にまかせるばかりだった。江戸幕府が成立し、神田明神が新たな石材(小松石)を用いて、江戸初期に石室を修復した。徳川家康の先祖である徳阿弥(世良田親氏→松平親氏)が、還俗していずれ「徳川」の姓を名乗れという神託を受けた氏子という関係もあり、当然ながら徳川幕府も修復資金を拠出しているのだろう。
 その際、以前より露出していた玄室や羨道の石材(房州石)も使えるものはそのまま活用して石室を再構築した。だが、ほどなく同社は遷座することになり社殿は解体され、神田山に建設された新たな社殿へと移った。石室の中から見つかった、比較的新しい茶碗や瓦のカケラは、そのときにでた旧・社殿に関連した廃棄物ではないか。いっしょに調査した小此木忠七によれば、瓦の欠片は寛永年間ごろ、すなわち江戸初期のものと考察されている。
 文中の、入口の石に刻まれた「巾一寸四分、深さ三分の溝」は不明だが、神主が祭祀後に榊(さかき)を奉納した溝だろうか。大正期は、古墳時代の前方後円墳(当時は瓢箪型墳墓と呼ばれた)などという概念は一般的ではないので、塚状のものから武器(鉄剣・鉄刀)や鎧兜、宝飾類(勾玉・管玉・宝珠)などの副葬品が見つかると、大昔の墳墓ぐらいの認識はあったかもしれないが、それが1500年前なのか1700年前のものかまでは、人文科学の未発達な当時はわからなかった。小松真一も、「上代の塚墓の盛土を利用してこれに寄生して石室をつくつた事を想像出来ない事はなからう」と想定している。また、その際には新たな付会や説話が多く創られ、語り継がれていくことにも触れている。つまり、柴崎古墳(仮)にまつわる「将門伝説」がそれだ。
 また、そのように墳丘が崩され、単なる小さな塚状のたたずまいになってしまった古墳の実例として、浅茅ヶ原の妙亀堂(台東区橋場1丁目の現・妙亀塚公園内古墳跡)、荒川沿いにある渋江村西光寺の清重塚(葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡)、墳丘を農地にすっかり削られた川妻村の薬師堂(茨城県五霞町川妻の穴薬師古墳)の3例を紹介している。最後の穴薬師古墳は、著者の小松真一が関東大震災の前年、1922年(大正11)に現地調査をしたばかりであり、すでに副葬品は盗掘に遭って存在しなかったと「人類学雑誌」に報告している。
 なお、穴薬師古墳の「薬師」は同古墳の玄室から薬師如来像が出土したことにちなんでおり、いずれかの時代に古墳があばかれ、そこへ新たに薬師如来像を安置した事蹟によるものだ。穴薬師古墳から東へ180mほどの近くにある、畑地に囲まれわずかな塚丘が残る雷電社も、穴薬師古墳によく似た風情なので同様に古墳だったのではなかろうか。古墳の羨道や玄室が見つかると、阿弥陀仏や稲荷社・稲荷の祠を建立して奉った事蹟によく似ている。ちなみに、薬師古墳や薬師塚古墳あるいは雷電塚古墳や雷電山古墳は、稲荷塚古墳や稲荷山古墳と同じく全国各地に展開している。
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 さて、『大蔵省将門塚内に在つた石室』の末尾には、お決まりのように「将門伝説」にまつわるタタリ譚が付記されている。1926年(大正15)12月13日発行の、都新聞の記事からの引用だ。
  
 大蔵省の式内政務次官が将門塚の祟りでアキレス腱を断つたといふ因縁めいた話は、元来同次官と新聞記者との冗談から花が咲いた噂であるが、これが一度新聞に伝へられると、噂は噂に止まらず省内お役人連の中にはいろいろと気に病む人が少くない。そこへ持つて来て黒田主税局長が最近何うした原因か、矢張アキレス腱の付近に炎症を起してビツコを引き出したのでその噂はいよいよ大仰になり「然う云へば今年の夏、荒川事務次官がアキレス腱を断つたのも将門塚の祟りであらうし、強てコヂつければ故早速(整爾)蔵相の逝去も禁足の禁を破つたのが病勢増進の原因だから、これまた将門塚の祟りかも知れぬ」と昨今気の病み方が一層ひどくなつた。(カッコ内引用者註)
  
 将門のタタリが、情けないアキレス腱の故障では、あまりにも矮小でケチすぎやしないだろうか。デスクワークばかりで、単に官吏たちが運動不足だっただけだろう。将門のタタリは、史的な経緯を考えても、菅公の雷禍以上でなければ割にあわない。
 そもそも、将門は出雲のオオクニヌシ(オオナムチ)とともに、神田明神社が主柱と奉る江戸東京の総鎮守だ。冒頭の将門塚で遊ぶ子どもたちが象徴的なように、この街で、この地域で生まれ育った人間にとっては、1300年の歴史をもつゲニウスロキ(地霊)であり地主神=守護神そのものだ。タタリがあるとすれば、この街この地域に仇なし敵対する人間たちにほかならない。
 たとえば、当時の大蔵省をめぐる新聞記事には、「執念深き亡霊の祟り」などという表現がある。この街に暮らしつづけている住民が、なんで守護神の「祟り」を警戒しなければならないのだろうか? たとえば、大阪の「住吉さん(すみよっさん)」の3神に対し、「祟り」があるので注意が必要などと書いたら「このドアホが!」、太宰府の菅公天神に対し「祟り」があるから警戒せよなどと発言したら「このバカちんが!」と張り倒されるのがオチだろう。どこの地方・地域でもいい、自身が初詣でなどで贔屓にしている社に向かって、「祟りがあるから気をつけろ」などといったら、どういう反応になるか愚かな記者は気づかなかったらしい。江戸東京の氏子連150万人(1960年当時)は、怒らないとでも思ったのだろうか?
 1874年(明治7)に、薩長政府(教部省)の圧力に負けた神田明神の神主が、氏子連には黙って主柱から将門を外し、代わりにスクナビコナを勧請した。この神主は氏子連より即日、神田明神から追放されている。以来、うちの親父の世代まで復帰運動はつづき、実に110年ぶりの1984年(昭和59)に、将門は神田明神の主柱に復活した。
 氏子の数も増えつづけ、20世紀末を迎えるころには300万人に倍増し(特に戦後は氏子町の一部である大手町や丸の内の関係筋から企業繫栄・起業成就・商売繁盛の祈念が多そうだが)、神田祭は昔と変わらず(城)下町15区でいえば神田区・日本橋区・京橋区の一部・本所区の一部・深川区の一部・麹町区の一部、その他の地域も含め108町(1960年代の東京オリンピックを意識した町名統合・変更で108町に減ったが実際は150町以上)の町内からは、神輿150基と山車50基が陸路あるいは神田川の水路を経由して、神田明神へ集合する日本最大の祭りとなっている。明治以来、神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)は大手町に立ち寄り、薩長政府の弾圧や嫌がらせにもめげず、将門塚(元・神田明神の建立位置)の前で、必ず神輿への将門渡御の神事を行ってきた。
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 この街の守護神である将門にタタリがあるとすれば、アキレス腱を痛めたり関係者に障りがでたりとか、そんなチャチなバチでは収まらないだろう。万が一にもタタリがあったとすれば、薩長政府が築いたものを根底から破壊することにちがいない。神田明神の主柱外しから、わずか71年後の1945年(昭和20)、薩長政府由来の短命な大日本帝国は膨大な犠牲者を生みながら滅亡している。

◆写真上:古代の神田明神跡=将門塚で遊ぶ子どもたちで、1968年(昭和43)撮影の江戸東京らしい風景。「祟りが怖い」とは、どこの地方・地域に住んでいる人間の感覚だろう?
◆写真中上は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)に掲載の大蔵省内にあった将門塚と御手洗池(古蓮池)。中上は、1935年(昭和10)刊行の『武蔵野叢書』(武蔵野会)に掲載された関東大震災直後の大蔵省によるバラック省庁舎の計画図。中下は、鳥居龍蔵チームが北東側から震災直後に撮影した将門塚で、小型の前方後円墳だった様子がよくわかる。は、南東側の前方部から同チームが撮影した将門塚。
◆写真中下は、小松真一が作図した将門塚出土の石室計測図。は、小松真一が撮影した石室の内部。下左は、1927年(昭和2)に刊行された「武蔵野」1月号(武蔵野文化協会)。下右は、1992年(平成4)に出版された『神田明神史考』(神田明神史考刊行会)。
◆写真下は、明治初年に描かれた将門塚で、御手洗池(古蓮池)に張りだした北東側の藤棚あたりからの眺めだと思われる。後円部の残滓は、3間(5.5m)ほどの高さだった。中上は、2011年(平成23)4月に撮影した将門塚の記念碑。中下は、現在の将門塚のモニュメント。は、明治末か大正初期に撮影された神田明神の本神輿(ほんしゃみこし)への将門渡御の光景で、背後に見えている墳丘が柴崎古墳(後円部)。本神輿が2基あるうち、1基は出雲神のオオクニヌシ(オオナムチ)の神輿。
おまけ1
 小松真一『大蔵省将門塚内に在つた石室』に引用されている、上から下へ台東区橋場1丁目の妙亀塚公園内古墳跡と葛飾区四つ木1丁目の清重塚古墳跡、小松自身が調査した茨城県五霞町川妻にある穴薬師古墳の、羨門から見た玄室(玄門)と玄室内部の石組み(一部修復)。同墳は、薩長政府の「官令達 乙部第百廿号」により墳丘が崩されたとみられ、ほぼ玄室部のみしか残っていない。
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おまけ2
 破壊される直前、1935年(昭和10)11月29日に小松真一によって撮影された柴崎古墳<将門塚古墳>(仮)の姿。いまだかろうじて、小型の前方後円墳のフォルムをとどめていた。
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拡大しつづける写生・撮影禁止の風景。

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 1931年(昭和6)の「満洲事変」以降、日中戦争が激しくなるにつれ、日本国内には風景の写生禁止・撮影禁止の場所が急増していく。特に港湾や海岸線は、海軍の艦艇が往来したり新造艦の公試運転が行われるため、特に厳しい監視の目が注がれていた。
 東京の周辺でいうと、海軍工廠があった横須賀市街を走る横須賀線は、港湾や工廠のガントリークレーンのある側の窓は、すべてブラインドを下すよう命令されていたのを、三浦半島へのハイキングの際など親たちからよく聞かされた。特に、建造中の艦艇や、海軍へ引きわたされる前後の公試運転中の新造艦が停泊したりしていると、警官や憲兵隊が付近の家々や山々までを監視してまわっていた。写生や撮影が見つかると、即座に検挙されることになる。
 アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直/2016年)の中で、太平洋戦争末期に「北條すず」が瀬戸内海を写生していると、憲兵がやってきて「間諜(スパイ)」行為だとして叱責・罵倒するシーンがあるけれど、描いていたスケッチブックだけ没収して、あとは自宅へ“連行”してそのまま“釈放”することなどありえない。特に「すず」は、レイテ沖海戦やエンガノ岬沖海戦で傷つき、ほうほうの体でようやく帰還してきた聯合艦隊の残存部隊(原作では航空戦艦「日向」と重巡「利根」)を写生しており、即座に憲兵隊本部へ連行されただろう。これは「要塞地帯法」の第7条違反、または「軍港要港規則」の第19条違反にあたり、その物証とともに現行犯である「北條すず」が逮捕・拘留され、起訴されないのはアニメ(ファンタジー)の世界だからだ。
 昭和10年代の画家たちは、この要塞地法や軍港要港規則などで、たまにヒドイめに遭っている。別に、写生が禁止されていない場所で風景画を描いていても、間諜(スパイ)の嫌疑をかけられて連行されることもめずらしくなかった。特に海が見わたせる付近では軍港や、必要に応じて艦船が出入りする要港でなくても、うっかり沖に目を向けて写生したりしていると、地元の巡査や在郷軍人会の役員に見とがめられ、事実としてプロの画家であることが証明されるか、誰かを保証人に立てて「無実」が証明されるまで、連行・拘留されることも少なくなかった。
 以下、1935年(昭和10)現在の要塞地法と、港湾に関する軍港要港規則を引用してみよう。
  
 要塞地帯法/第七条 何人ト雖モ要塞司令官ノ許可ヲ得ルニアラザレバ要塞地帯内水陸形状ヲ測量撮影模写録取シ又ハ要塞地帯内ヲ航空スルコトヲ得ズ
 軍港要港規則/第十九条 鎮守府司令官ノ許可ヲ得ズシテ軍港要港内ヲ航空シ又ハ同境域内水陸ノ形状ヲ測量、撮影、模写、録取シ若シクハ地理案内等ノ図書ヲ発行スルコトヲ禁ズ
  
 上記の2法ばかりでなく、朝鮮半島や中国では「関東洲防禦営造物地帯令」の第4条、台湾では1919年(大正8)まで「台湾国防用防禦営造物区域取締規則」(のち国内「要塞地法」を適用)によって、軍の施設や艦船が停泊・航行する港や海域は、すべて「測量、撮影、模写、録取」が禁止された。ただし、今日のように正確な位置座標を規定できるGPSなどない時代なので、上記法の適用は大雑把なエリアとなり、それが戦争の激化とともに曖昧化し拡大されていった。
 1930年代になると、個人で携帯できるコンパクトなカメラを所有する市民が急増し、あらゆる場所での写真撮影が可能になったため、特に海浜地帯に軍港や造船所などを抱える軍部や自治体では、撮影禁止区域の監視に頭を痛めていたようだ。そのために、憲兵隊と協議してパトロールを強化したり、監視する警官の人数を増やしたりしている。また、軍港や要塞を抱える地元では、「不審人物」を見かけたらただちに官憲へ通報するよう、住民たちへの通達も繰り返し頻繁に行われていた。画家が写生していて連行されたのは、この仕組みによるケースがほとんどだった。
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 戦前の上落合に、個人用のカメラなど撮影機材一式を販売する、康業社という会社が営業していた。写真を趣味とする、個人のアマチュアカメラマンを顧客に、カメラやフィルムなどを販売していたが、同社には出版部も付属していて、初心者向けの「写真入門」「カメラ入門」のような書籍類も刊行している。西武線・下落合駅から、旧・八幡通り沿いの商店街を少し西へ入った、上落合1丁目263番地で営業しており、写真誌などへ媒体広告も出稿している。
 同社の出版物に、T.P.S.(東京写真研究会=Tokyo Photographic Society)に所属する清水久が執筆し、1935年(昭和10)に出版された『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』という書籍がある。カメラの機能説明にはじまり、さまざまな写真の撮影方法、フィルムの種類と特徴、風景・静物から動体(人間や乗り物など)までの撮影テクニック、現像方法と焼き付け・印画の手順、おまけに写真の修正技術など、カメラの初心者に向けて懇切ていねいに解説をほどこした写真の入門書だ。その中で、特に「注意すべき撮影禁止区域」という項目が1章が設けられ、20ページにわたり撮影が禁止されている地域が、概略地図入りで紹介されている。同書より、少しだけ引用してみよう。
  
 撮影の為に旅行したり、旅行のついでに撮影したりすることは、写真家に与へられた最大のたのしみであるが、何処へ行つても自由に写すといふことは出来ない。旅行した地方によつては、撮影を禁止されてゐる場所がある。(中略) ことに国法によつて禁止されてゐる要塞地帯などは、いくら写真機が自分のものであるからと云つても、一定の手続を経ないと、思はぬところで、国法を犯すことになる。要塞地帯には陸軍管轄の要塞地帯と海軍管轄の軍港や要港地域がある。これに関する規則や地域はときどき変更になり、その度毎に官報に発表されるが、うつかりしてゐるとそれに気付かないことがあるから、若し不安の場合には、その地の官庁に問合せるとよい。
  
 上記のように、1935年(昭和10)の段階では規制がそれほどでもなく、いまだ過剰な取り締まりや太平洋戦争中のようなヒステリックな監視・拘束・検挙の仕組みができていなかったせいか、写真に撮りたい場所やスケジュールを詳しく書いた「撮影願」を、地元の陸海軍の司令官あてに提出すれば、撮影に差し障りのない時期を選んで許可が下りていた。
 これは、おそらく画家も同様で、港を見下ろすような丘上で風景画の制作をしたい場合は、地元の要塞地帯司令部か鎮守府の司令官あてに「模写(写生)願」を提出し、「作業許可証」を得てから予定のスケジュールでその場所を訪れ制作していたとみられる。また、「作業不可」の回答が寄せられることも多く、特に米英との対立が深まり、太平洋戦争が近づくにつれて「作業許可証」を得ることは、よほど軍部にコネがあるか軍の親密な協力者でないかぎり困難になっていった。
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 たとえば、先述した横須賀の海軍工廠のケースでいうと、1944年(昭和19)10月に大和型戦艦の3番艦(110号艦)で、航空母艦に改装された「信濃」がドッグ内注水で進水し(実際には事故で一時中断)、翌11月にかけて館山沖や千葉沖を中心に公試運転が行われているが、このとき横須賀線ばかりでなく、三浦半島や房総半島で海が見下ろせる建物の窓はすべてふさがれ、見晴らしのいい場所にはすべて憲兵や警察官が配置されるなど、空前の防諜・監視体制が敷かれたことは、いまでも語り草になっている。このような時期に、三浦半島や房総半島の山々で写生や撮影はおろか、ハイキングをしていただけでも即座に検束・拘留されただろう。
 『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(1935年)には、当時、地元の市町村役場や警察署、憲兵隊へいけば、撮影禁止場所の具体的なエリアを記載した地図(図面)を閲覧できたようで、それを参照しながら現地の撮影場所を決定したほうがいいとしている。どのような観光地においても、近くに陸海軍の施設があれば、気軽にカメラのシャッターを押して写真など撮れなかった。特に、東京湾岸は横浜市の本牧より北側を除き、ほとんどすべてが撮影禁止の「東京湾要塞地帯」であり、三浦半島のすべてと房総半島の西側は、全地域が撮影禁止となっていた。それでも、航行する船舶の写真を撮影したければ、先の「撮影願」を東京湾要塞司令部または横須賀鎮守府の司令官あてに提出し、「作業許可証」が下りるのを待たねばならなかった。
 1935年(昭和10年)の当時は、いまだ私的な写真撮影に軍部はいくらか鷹揚だったようで、「作業許可証」が下りる確率はそれほど低くはなかったらしい。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 左図(東京湾要塞地帯)の中で網目の区域は海軍の管轄に属する部分であるから、願書は横須賀鎮守府司令長官へ、その他は東京湾要塞司令官へ提出すればよい。(中略) 一部分の撮影が解除されてゐるところもあるからその区域は、東京湾要塞司令部、横須賀鎮守府、その他その区域の市町村役場、警察署、憲兵隊に備へ付けの図面について見られるとよい。(カッコ内引用者註)
  
 上記の中で、「一部分の撮影が解除されてゐるところ」とあるのは、市街地化が進む横浜市の金沢区などのことで、戦前に撮影された地図製作用の写真にも、観光地化がいちじるしかった鎌倉市街地や三浦半島部は存在しないが、大船や横浜市金沢区の市街地域は撮影され残されている。
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 このほか、撮影禁止場所としては日光や京都の寺社および庭園、各地の帝国大学構内などが挙げられている。観光地の寺社が撮影禁止なのは、もちろん記念の観光絵はがきの販売に影響するからだが、帝大のキャンパス内が撮影禁止というのは、どのような理由によるものなのだろうか。

◆写真上:1970年(昭和45)に横須賀へ遊びにいったときにわたしが撮影した、横須賀海軍工廠時代から艦船建造に使われていた巨大なガントリークレーン。子どもとはいえ、戦時中なら即座に検挙・拘束されてカメラとフィルムは没収されていただろう。
◆写真中上は、アニメ映画『この世界の片隅に』(監督・片渕須直/2016年)の1シーンで、呉沖の航空戦艦「日向」と重巡「利根」を写生する「北條すず」。は、横須賀港に接岸する海上自衛隊輸送艦「おおすみ」。いまは平和な時代なので、港内をいくら撮影しても警官や憲兵が飛んでくることなどありえない。は、1935年(昭和10)に出版された清水久『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』(康業社出版部)の中扉()と奥付()。
◆写真中下は、康業社写真部が雑誌などに出稿していた媒体広告。は、上落合1丁目263番地にあった康業社跡(正面の茶色いマンション)。は、『すばらしく上手に写れる初歩の写真読本』に掲載の要塞地帯全国分布図で、左上は植民地だった朝鮮半島と台湾の地図。このあと、瀬戸内海の呉海軍工廠・鎮守府や柱島泊地の周辺など要塞地帯は拡大しつづける。
◆写真下は、同書に掲載された東京湾要塞地帯図。グレーの網がけは横須賀鎮守府が、点線の内側は東京湾要塞司令部が撮影禁止に指定しているエリア。ほかにも同書には、全国に分布する撮影禁止の要塞地帯概略図が掲載されている。は、陸海軍あてに提出する「撮影願」様式。
おまけ
 戦後の1947年(昭和22)に撮影された横須賀軍港で、右手に空母「信濃」を建造した巨大なドックが見えている(上写真)。1944年(昭和19)11月19日に米軍の偵察機F13が撮影した、上写真のドック内で建造中の巨大な空母「信濃」をとらえた空中写真も米国で公開されている(下写真×2葉)。
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どこか地勢がよく似た西の「落合村」散策。

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 旧・落合村には、他の河川と合流する落合川が流れ、旧石器時代から現代までつづく人が住みつづけた複合遺跡が発見され、将軍の鷹狩りには欠かせない鷹匠頭の小野家屋敷跡が残っている。また、落合村の周囲には出雲神の氷川明神が3社配置され、西側には稲荷山に稲荷塚(と稲荷祠)が、北側の金山には金山社や、湧水源には弁天社が建立されている。
 上記の地勢は、新宿区の落合地域のことではない。現在は東久留米市(旧・久留米町)に含まれ、同町の南東端に位置していた落合村のことだ。あまりに地勢や史蹟、風情までが近似しているので、さっそく現地を散策しにでかけてみた。そういえば、ずいぶん以前に落合地域と地名や風情が相似した、下沼袋村から江古田村界隈を散策したことがあった。けれども、東久留米の落合村とその周辺は、それ以上に親近感をおぼえるほどよく似ている。
 まず、東久留米の落合村の概略を、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から、さっそく引用してみよう。
  
 この地(落合村)は中世以降、徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の領地でした。/落合村の地形的な特徴は、(東久留米)市内を流れる主要な黒目川、落合川、立野川の三つの河川が村の東端で合流してひとつの河川(黒目川=久留米川)になることです。村の名前も、川が落ち合うという意味をこめて、落合村になったと考えられます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にも「西の方前沢村より湧出る流二条あり、村内にて久留目川と合し一条となり、此三流落合を以てかく名付と云り」とあります。村落も合流地点に多くの家々が集まっています。黒目川は久留目川、久留米川、来目川などとも表記されています。(カッコ内引用者註)
  
 今日では黒目川と呼ばれ、埼玉県を経由して最終的には荒川へと注ぐ河川のことを、昔は流れる地域名と同様に久留米川(久留目川)などと呼ばれていたのがわかる。
 また、落合村を流れて黒目川と合流する落合川だが、こちらの落合地域を流れる神田上水につき地元では「落合川」と呼ばれていたことが、江戸期の享保年間に書かれた幕府記録から、昭和初期に書かれた地元の随筆にいたるまで確認することができる。ただし、妙正寺川のことを「落合川」と呼んだのは、林芙美子の随筆とそれを引用したもの以外は知らない。
 東久留米の落合村には、幕府鷹匠頭の小野家の屋敷跡があったそうだが、下落合の神田上水沿いにはその将軍が鷹狩りをする御留山や、狩り場筋が中野筋と戸田筋で筋ちがいになるものの同様に御留場だった鼠山が、目白通りをはさんだ北側の長崎村と池袋村に接していた。また、神田上水と合流する妙正寺川(北川・井草流)北側の丘上から斜面にかけては、旧石器時代から現代まで人が住みつづけた落合遺跡が発掘されているが、東久留米の落合村でも小野家屋敷跡からまったく同様に、旧石器時代から現代までつづく複合遺跡が2019年(平成31)に発掘されている。引きつづき、『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』の、本文より引用してみよう。
  
 落合川が北東部で屈曲する近辺は「小野殿淵」と呼ばれ、右岸の高台には徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の屋敷跡があったと伝えられている。同所は旧石器時代から縄文時代、中世、近世の川岸遺跡である。/字名は落合川や立野川の側であることから川岸と呼ばれたと思われる。合流部付近に集落が作られ、僅かの水田の他は多くが畑と雑木林である。(中略) 立野川の南は黒目川水系の南側段丘の崖が川に沿って続き、急斜面と高台になっている。
  
 新宿区の落合地域とその近辺にも、神田上水沿いにある主柱がクシナダヒメで落合村総鎮守だった下落合氷川明神社(女体宮)をはじめ、同じく北側の長崎村は谷端川の段丘上にあるクシナダヒメが主柱の長崎氷川明神社(現・長崎神社)、主柱がスサノオで神田上水沿いの東側下流にある高田村の高田氷川明神社の3社が鎮座している。東久留米の落合村にも、近接して西には落合川沿いの南沢氷川明神社、北には黒目川の南斜面に門前氷川明神社、そして北東には同じく黒目川沿いに神山(こうやま)氷川明神社が建立されているが、いずれも主柱はスサノオの男神ばかりで、ペアとなるクシナダヒメの姿が希薄なのが、女神が主柱となっている落合地域とは異なる点だろうか。
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 新宿区落合地域の北東にあたる、雑司ヶ谷村には金山金山稲荷社(現在は遷座先が不明)があるが、東久留米にあった落合村の北側に接する神山村には、金山と金山社(現在は門前氷川社境内に合祀)が存在している。金山の一帯は急斜面、あるいは崖地が多く見られ、古くはタタラ集団(大鍛冶)が通過した痕跡が、製鉄の神である金山社として残されていたと想定できる。目白崖線沿いと同様に、どこかでスラグ(鐵液・金糞)や目白(鋼)が出土しているのではないか。
 また、東久留米の金山には南山麓にかなり立派なかまえの神山(こうやま)弁天社があり、豊富な湧水が見られたということなので、地下水の圧力で噴出した金久保谷(鍛冶谷)のような、古代から砂鉄の堆積場だった可能性が高い。それは、こちらの地勢に置き換えれば江戸期には下落合村と高田村の入会地だった、金久保沢(金和久沢)の弁天社(祠)と相通じるものがありそうだ。双方の落合地域とその周辺には、いずれも大鍛冶の事蹟が色濃く展開している。
 もうひとつ、東久留米の落合村には、西に接した南沢村に稲荷山が、北側に接した門前村には稲荷塚(と稲荷祠)が記録されているが、こちらの落合地域にも北東側の雑司ヶ谷村には稲荷山(威光稲荷社)と、同じく雑司ヶ谷の崖地には武芳稲荷大明神など複数の稲荷社が、現在は暗渠化されてしまった弦巻川(金川)沿いの崖線沿いに点在している。これらの稲荷は、中世以降に農業神「稲荷」へ転化したのかもしれず、本来は大鍛冶の鋳成神だった可能性がある。
 さて、実際に現地を歩いてみると、現代住宅の意匠などを気にしなければ、まるで大正末か昭和初期あたりの豊多摩郡落合町を歩いているような風情なのに気づく。かつての神田上水のような風情が、落合川や黒目川の流域にはあちこちに見られ、落合川の湧水源域のひとつである落合村西側の南沢周辺には、昔日には小川だった妙正寺川のような細い流れが残っている。雑木林の樹々を揺らす風の音とともに、その流れをボーッと眺めていると、なにやら大正末の下落合へタイムスリップしたような錯覚をおぼえる。先述した下沼袋村や江古田村の地勢以上に、東久留米の旧・落合村界隈はこちらの落合地域との相似を強く感じさせる。
 落合川にしろ黒目川にしろ、川岸には段丘すなわち大小の崖線や斜面が形成されており、東久留米市内の随所に緑地保全地域や緑地公園が設置されているのも、昔からの風情が失われない大きな特徴だろう。先述した南沢氷川社と周辺の湧水源や金山のほぼ全域、あるいは旧石器時代からの遺跡である小山台遺跡周辺なども緑地保全地域や緑地公園であり、武蔵野原生林がそのまま保全されている。晩秋から冬に歩けば、これら地域の足もとはドングリだらけなのも、こちらの落合地域に似ている。また、北風を避けて崖線の南斜面を背負った農家が、現在もそのまま存続しているので、よけいに昔日の下落合村(字)本村あたりの風景を想起させるのだろう。
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 都心に近い市街地になると、道祖神や庚申塚第六天(大六天)、また道端の地蔵や各種観音などの石仏は、宅地化や道路の拡幅にともない近辺の社や寺院、墓地などに集められてしまうのが常だが、東久留米では本来の街道筋にそのままのかたちで奉られているケースが多いのも、同地を散策していて楽しいポイントだろう。新宿の落合地域は、都心にしてはまだマシなほうで、庚申塚や地蔵などの石仏はいまでも本来の位置に奉られてはいるが、最近は周囲に大きなマンションが建ったりすると、風情が大きく損なわれることが多い。
 落合川や黒目川は、神田川や妙正寺川とは異なりコンクリートで川全体を覆う工事がなされておらず、草木に覆われた河川敷が残されている。アユやオイカワ、コイなどの川魚はもちろん、荒川からサケも遡上してくるのではないだろうか。まるで、写真でしか見たことのない昔日の旧・神田上水や妙正寺川を眺めているようで楽しい。水がきれいになった神田川にはアユやオイカワ、マハゼ、タモロコ、モツゴなどが生息しているけれど、さすがにサケの遡上は大川(隅田川)日本橋川止まりで、神田川を遡上するとすれば河口域か千代田城外濠までではないか。
 特によかったのは、南沢氷川社とその周辺で、湧水源が集中しているのと緑地保全地域に指定されているせいか、武蔵野の面影をたっぷり味わうことができた。同社も崖上に建立されているが、境内にはいくつかの稲荷が奉られている。これらも、農業神に転化する以前は鋳成神の祠であった可能性がある。また、湧水源が近い小流れも澄んでいて美しいが、広い緑地保存地域の端には、東京都水道局の大きな防災水道タンクが設置されているのも面白い。まさかのときには、湧水を活用した給水を考えているのだろうか。湧水地帯らしく周辺の公園には池があるが、農業が主体だった時代には数多くの溜池が造られていたのだろう。
 もうひとつ印象的だったのは、金山の広大な森林だ。門前氷川明神社から庚申塔のある三叉路(古道)を右折すると、ほどなく金山の山頂だ。金山は、現在では「金山森の広場」と名づけられているが、全体が濃い森林地帯で「広場」は存在しない。いきなり山の中へ入ったような風情で、黒目川が流れる南斜面へ急激に落ちこむ地形だ。その南斜面の下には、いまでも畑地を耕す古くからの大農家が東西に軒を連ねている。弦巻川(金川)に向け、南へ急激に落ちこむ雑司ヶ谷の金山の地形にそっくりだが、山域も雑司ヶ谷の日本女子大寮と周辺の住宅地をひとまわり合わせたぐらいで、東久留米の金山のほうがややサイズが大きめだ。金山を中心に、黒目川の北岸につづく崖線沿いのどこかに、おそらく規模の大きなタタラ製鉄の遺跡が眠っているのではないだろうか。
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 落合地域から遠く離れた東久留米へ出かけたのは、地名や史蹟が相似している課題が前提としてあったわけだが、もうひとつ現地へいってみたくなる別の理由があった。落合村の北側に隣接した、門前村内にあたる黒目川に沿った段丘上に、大きな幾何学的なかたちを空中写真で見つけていたからだ。その古墳と見られる全長200mほどの稲荷塚だが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:シラサギをよく見かけたので、魚の棲息も多いとみられる落合川の淵のひとつ。
◆写真中上は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる落合村とその周辺域。中上中中は、昔日の神田上水を想起させる落合川の流域。中下は、落合川の沿岸に設置された庚申塔。大鍛冶の痕跡が多い地域だと、荒神との関連を疑ってしまう。は、南沢の湧水源を流れ落合川に合流する小流れで、こちらは大正時代の妙正寺川を連想させる。
◆写真中下中上は、落合川沿いの小崖の上に建立されている南沢氷川明神社の鳥居と拝殿。中中は、南沢氷川社の本殿裏にひっそりと奉られた稲荷祠で、こちらも鋳成神との関連を疑ってしまう。中下は、落合川よりも流域面積が広い黒目川の風景。
◆写真下は、黒目川の段丘中腹にある門前氷川明神社。中上は、濃い雑木林が繁る金山の山中。中下は、金山の南山麓にある大農家。は、同じく金山の南にある神山(こうやま)弁天社。
おまけ
 黒目川の源流域といわれる、小平霊園の北側に隣接した皀莢(さいかち)窪の森。深い谷間には、大雨が降ると出現する湧水池があり、そこからの流れが黒目川に注ぐと伝承されている。下の2葉は、大正末ごろに守谷源次郎が撮影した妙正寺川の“どんね渕”(上)と、手前を流れる旧・神田上水へ注ぐ奥の妙正寺川で、地名「落合」の由来となった合流ポイント(下)。2葉ともAI着色化。
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金山稲荷(鐵液稲荷)と刀工・孫左衛門のゆくえ。

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 以前、日本女子大学の寮内敷地にあった金山稲荷社(別名:鐵液稲荷社)の遷座先ではないかとご紹介した、バッケ(崖地)の斜面に建つ稲荷社だが、その拝殿・本殿の形状がまったく異なっているのが判明した。1980年代末に撮られた、遷座前の金山稲荷社をとらえた写真が見つかったためで、おそらく雑司ヶ谷に住む宇佐美俊弘という方が撮影したものだ。雑司ヶ谷1丁目34番地にある稲荷社(こちらもバッケの地形がらみて鋳成社?)は、金山稲荷の遷座先ではない。
 写真が掲載されていたのは、1988年(昭和63)に雑司ヶ谷の地元町会である「雑司が谷二丁目町会」の役員をしていた、宇佐美俊弘が自費で出版したとみられる『ふるさと雑二町会』(非売品)という本だ。そこには、遷座前に撮影された写真とともに、金山稲荷社に関する住民の思い出が寄せられている。同書収録の橋本儀重(1901年生まれ)の『私と川』から、その一部を引用してみよう。
  
 柳下の友ちゃんが「遊びにこいやー」、「いくよー」と言って竹の垣根を越すつもりでいたんだが、つるっと足が滑ってお尻に竹の切株を刺してしまいました。そしたら柳下のおやじさんがお経を唱えながら、御符の灰みたいな粉をくっつけて拝んで治してしまった。医者にもかからず、よく治ったものです。/金山稲荷の下はみんな栗の木山で、あの栗の木は俺のだ、あの栗の木は僕のだ、と持ち分にしていました。川の方は篠竹の原っぱでした。
  
 「川」と書かれているのは日本女子大寮の南側、金山稲荷の下を流れていた弦巻川(別名:金川)のことだ。旧・神田上水(1966年より神田川)の南側からは、大久保に湧水源があった金川(近世の別名:カニ川)が流れ、北側からも金川(弦巻川)が注いでいた経緯を考えれば、あちこちにスラグ(金糞・鐵液:かなくそ)が出土する、タタラ製鉄遺跡が点在するのもなんら不思議ではない。また、金山稲荷自体も江戸期の記録から鐵液稲荷社と呼ばれていた。
 以前から、これほど探しても見つからないところをみると、金山稲荷はどこかへ合祀されてしまったものだろうか。金山稲荷社が建立されていた旧跡の近辺には、白鳥稲荷大明神や武芳稲荷大明神腰掛稲荷社、弦巻稲荷社などが展開しているが、それぞれ由緒や歴史のある稲荷社なので、別の社(やしろ)へ安易に合祀されたとは考えにくい。
 つづけて、『ふるさと雑二町会』掲載の写真に貼付された、キャプションから引用してみよう。
  
 日本女子大学寮東側沿いの坂道を下る途中、右手の参道を入ると鳥居が見えてくる。民家がそばまで迫っているにもかかわらず、境内は静寂が支配する別世界。
  
 金山稲荷社がどこかへ遷座してから、この参道は縞模様の工事用バリケードによる立入禁止で塞がれており、現在は金山稲荷の跡地へ入ることができない。ちょうど、大学寮の大谷石が途切れる東側の坂の途中で、西側の斜面へと入る細い参道は草に覆われている。
 空中写真で現状を確認すると、コンクリート塀に沿って新たに建てられたとみられる温室や、青いビニールシートで覆われたところが、金山稲荷社の拝殿・本殿があった境内なのだろう。そのビニールシートが強風で飛ばされないよう、シートの四隅や上部に石材あるいはコンクリートブロックが載せられているが、ひょっとすると遷座で不要になった金山稲荷の廃材なのかもしれない。
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 つづけて、金山稲荷(鐵液稲荷)社の写真に添えられたキャプションから引用してみよう。
  
 橋本さんの子供の頃の遊び場、金山稲荷。元亀年間(1570~73)、この地に住む刀鍛冶・石堂孫左衛門が刀剣製作の妙を祈願して祀ったのが始まり。質素な本殿に比べて、鳥居は石造りの堂々たるものだ。
  
 ここで留意しなければならないのは、備前伝の刀鍛冶・石堂派が近江の故地(石堂)を離れ、江戸へとやってきて江戸石堂を形成したのは徳川幕府が開かれてからであり、室町末期の元亀年間ではない点だ。また、金山稲荷(鐵液稲荷)は室町末期の建立ではなく、神奈(鉄穴)流しに適する丘の急斜面にあることから、さらに古い時代の鋳成社の可能性が高い。なぜなら、地面から大量にスラグ(鐵液・金糞)が出土するのは、刀鍛冶の仕事ではなく鉧(けら)を製錬したあとに出る鉄滓(てっさい)、すなわちタタラ集団による溶炉跡=製鉄遺跡の可能性が高いからだ。目白崖線沿いには、いくつかのタタラ遺跡があることからもそれはうかがえる。鋳成神が、農業神である稲荷神へと習合し、改めて建立されたのが室町末期の元亀年間ではなかったか。いくつかの故事がまじりあい、雑司ヶ谷の地元で伝承されてきたように思われるのだ。
 そして、ここでも「石堂孫左衛門」が登場してくる。この石堂孫左衛門については、これまで何度も記事を書きつづけてきており、その系統は江戸石堂派の本拠地である赤坂を離れた、3代目以降が確認できない(作品が見つからない)、石堂守久(秦東連/東蓮)の流れではないかと想定していた。江戸石堂からの分派の系統は、かなり工房の所在が判明しているが、石堂守久一派の所在が曖昧でハッキリしない。したがって消去法から、分派の初代・守久(八左衛門)が寛文年間に雑司ヶ谷に工房をかまえ、元禄年間に2代目・守久が跡を継ぎ、その後、3代目の守久になるはずだった“孫左衛門”の時代に、刀剣の販路がふるわず赤坂の江戸石堂に吸収されたか、野鍛冶(農工の道具鍛冶)へ転向しているのではないかと想像していた。
 ところが、ここにもうひとり、孫左衛門を名のる刀工の存在が判明した。時代はかなり下って、江戸後期の文化・文政年間に登場し、そのまま「孫左衛門」と刀の茎(なかご)に銘を切る刀鍛冶だ。孫左衛門は刀工銘ではなく本名であり、姓は渡邊と名のっている。渡邊孫左衛門は、備前岡山藩の藩士であり、江戸へ出府して勤務するが、館林秋元藩の日本橋浜町の中屋敷に工房をかまえていた新々刀の刀匠・水心子正秀へ弟子入りしている。
 おそらく、国許の伝統的な鍛刀技術である備前伝の鍛錬法を習いに通ったのだろうが、備前伝の腕前は同じ水心子正秀の弟子だった大慶直胤(荘司箕兵衛)や、その娘婿の荘司次郎太郎直勝のほうが、師よりも断然うまかっただろう。特に大慶直胤と次郎太郎直勝は、相州伝や山城伝など日本各地の伝法に通じており、師の水心子正秀を凌駕する腕前だった。
 ここでちょっと余談だけれど、江戸で渡邊孫左衛門といえば駿河台に屋敷をかまえていた、若年寄支配の泣く子も黙る加役=火盗(火付盗賊改方)の役人が有名だが、まったく同姓同名の別人だ。
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 備前の渡邊孫左衛門は、岡山藩の資料にも記録されており8俵2人扶持、すなわち薄給取りでかなり身分の低い下級武士だったことがわかる。岡山藩の記録によれば、鉄砲隊の隊員(足軽)だったらしい。それが何を思ったのか、江戸へ出府した際に刀鍛冶になろうと決心したらしい。水心子正秀の資料では、孫左衛門=「備前藩士/渡邊孫左衛門/文化の頃」と書かれているのみで、修業を終えたあとに孫左衛門がどうしたかまでは書かれていない。もっとも、水心子正秀の弟子は全国でゆうに100人を超えていたので、いちいち詳細を記録できなかったのだろう。
 だが、水心子正秀の口述を筆記した著作『刀剣実用論』には、たった1ヶ所だが渡邊孫左衛門の名前が登場している。1811年(文化8)に出版された、『刀剣実用論』より引用してみよう。
  
 一、ためしにて折れ候事も度々有之事にて先頃備州候の御家士渡邊孫左衛門と申人の咄に、関打と見え候刀にて腰車を切候処 一体刀には疵も無之候ひしが鎺元より折れ候由
  
 この一文は、渡邊孫左衛門が弟子入りする前、水心子正秀が彼の話を聞いて周囲に語ったエピソードなのだろう。「ためし」とは、小塚原(こづかっぱら)で罪人を処刑したあと、その身体を使って試し斬りをすることで、死体の腰車(腰骨の位置)を斬ったところ、鎺(はばき)元すなわち鍔(つば)のすぐ上あたりから刀がポッキリ折れてしまったという逸話だ。試し斬りに使われたのは「関打(せきうち)」つまり美濃伝で、刀剣を鍛造したのは関鍛冶(岐阜)の仕事だった。
 このあと、渡邊孫左衛門は水心子門に弟子入りし、備前伝をマスターしたのだろうが、その後、薄給の備前藩士を辞めて江戸に居住しなかっただろうか。当時、武家は家督を兄弟や親戚の誰か(男子)に譲れば、すぐにも隠居あるいは武家以外の身分になることができた。そういえば、江戸後期の絵師や物書き、俳諧・狂歌師たちは、その多くが武家の出自だったことに気づく。武士を辞めて町人になることで、自分の好きな職業を選ぶことができた。こちらでも、由緒ある旗本の家督を弟にゆずって、花柳界で幇間になった松廼家露八の生涯をご紹介していた。
 徳川幕府は、基本的に触書政治であり凶悪な犯罪はともかく、軽犯罪や細かな生活風俗まで取り締まる今日の警察のような大規模な組織をもたなかったため、町役や村役を中心とする街ごとの自治に一任していた。したがって、武家を辞めて町人になっても、髷もそのまま苗字を名のり、2尺(幕府の規定で、町人は刃長2尺未満の刀剣しか指して出歩けない建前だった)を超える大刀を指す町人さえめずらしくなかった。渡辺孫左衛門もまた、貧乏な武家に嫌気がさし、全国に名の通った憧れの水心子正秀の門人にもなれて、雑司ヶ谷に住み備前伝の刀鍛冶になりはしなかったろうか。
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 江戸石堂は江戸後期に入ると、関東ではあまり人気のない匂(にお)い本位に、華々しい派手な丁子刃(ちょうじば)の刃文を焼く、ちょっと公家趣味的な備前伝をやめ、鎌倉鍛冶の五郎入道正宗を頂点とする錵(にえ)本位の豪壮な相州伝を改めて修得しなおしている。そして、「相伝備前」という新技法を編みだし、7代目・石堂運寿是一は徳川家の御用鍛冶にまでなった。孫左衛門は、江戸や関東のマーケットニーズがよく見えず、そのまま備前伝を焼きつづけて工房を維持できずに廃業したのではないだろうか。彼が雑司ヶ谷にいたとすれば、自身の技術である備前伝にちなみ、また師の水心子正秀が5代目・石堂是一から備前伝を修得した関係から、自身は“孫弟子”にあたる師弟筋となるので、あえて「石堂」孫左衛門と周囲へ名のっていた……そんな情景を想像してしまうのだ。

◆写真上:1980年代末ごろに撮影された、雑司ヶ谷の金山稲荷(鐵液稲荷)社。
◆写真中上は、金山稲荷の遷座先かもしれないと訪れた雑司ヶ谷1丁目34番地の稲荷社だが、拝殿本殿の形状がまったく異なるのが分かる。は、1980年代末ごろに撮影された金山稲荷社と参道。は、同社の参道があったとみられる跡の現状。
◆写真中下は、Googleマップ3Dによる金山稲荷跡の現状で、社の跡にはビニールシートが敷かれているようだ。は、水心子正秀資料にみる刀銘「孫左衛門」。は、1811年(文化8)出版の水心子正秀『刀剣実用論』()と、同書に登場する渡邊孫左衛門の記述()。
◆写真下は、水心子正秀が鍛えた備前伝による互(ぐ)の目丁子の刃文。は、茎(なかご)に切られた「水心子白熊入道正秀」銘。は、江戸石堂派が焼いた匂い出来の派手な丁子刃の典型例。