旧・落合村には、他の河川と合流する落合川が流れ、旧石器時代から現代までつづく人が住みつづけた複合遺跡が発見され、将軍の鷹狩りには欠かせない鷹匠頭の小野家屋敷跡が残っている。また、落合村の周囲には出雲神の氷川明神が3社配置され、西側には稲荷山に稲荷塚(と稲荷祠)が、北側の金山には金山社や、湧水源には弁天社が建立されている。
上記の地勢は、新宿区の落合地域のことではない。現在は東久留米市(旧・久留米町)に含まれ、同町の南東端に位置していた落合村のことだ。あまりに地勢や史蹟、風情までが近似しているので、さっそく現地を散策しにでかけてみた。そういえば、ずいぶん以前に落合地域と地名や風情が相似した、下沼袋村から江古田村界隈を散策したことがあった。けれども、東久留米の落合村とその周辺は、それ以上に親近感をおぼえるほどよく似ている。
まず、東久留米の落合村の概略を、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から、さっそく引用してみよう。
▼
この地(落合村)は中世以降、徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の領地でした。/落合村の地形的な特徴は、(東久留米)市内を流れる主要な黒目川、落合川、立野川の三つの河川が村の東端で合流してひとつの河川(黒目川=久留米川)になることです。村の名前も、川が落ち合うという意味をこめて、落合村になったと考えられます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にも「西の方前沢村より湧出る流二条あり、村内にて久留目川と合し一条となり、此三流落合を以てかく名付と云り」とあります。村落も合流地点に多くの家々が集まっています。黒目川は久留目川、久留米川、来目川などとも表記されています。(カッコ内引用者註)
▲
今日では黒目川と呼ばれ、埼玉県を経由して最終的には荒川へと注ぐ河川のことを、昔は流れる地域名と同様に久留米川(久留目川)などと呼ばれていたのがわかる。
また、落合村を流れて黒目川と合流する落合川だが、こちらの落合地域を流れる神田上水につき地元では「落合川」と呼ばれていたことが、江戸期の享保年間に書かれた幕府記録から、昭和初期に書かれた地元の随筆にいたるまで確認することができる。ただし、妙正寺川のことを「落合川」と呼んだのは、林芙美子の随筆とそれを引用したもの以外は知らない。
東久留米の落合村には、幕府鷹匠頭の小野家の屋敷跡があったそうだが、下落合の神田上水沿いにはその将軍が鷹狩りをする御留山や、狩り場筋が中野筋と戸田筋で筋ちがいになるものの同様に御留場だった鼠山が、目白通りをはさんだ北側の長崎村と池袋村に接していた。また、神田上水と合流する妙正寺川(北川・井草流)北側の丘上から斜面にかけては、旧石器時代から現代まで人が住みつづけた落合遺跡が発掘されているが、東久留米の落合村でも小野家屋敷跡からまったく同様に、旧石器時代から現代までつづく複合遺跡が2019年(平成31)に発掘されている。引きつづき、『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』の、本文より引用してみよう。
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落合川が北東部で屈曲する近辺は「小野殿淵」と呼ばれ、右岸の高台には徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の屋敷跡があったと伝えられている。同所は旧石器時代から縄文時代、中世、近世の川岸遺跡である。/字名は落合川や立野川の側であることから川岸と呼ばれたと思われる。合流部付近に集落が作られ、僅かの水田の他は多くが畑と雑木林である。(中略) 立野川の南は黒目川水系の南側段丘の崖が川に沿って続き、急斜面と高台になっている。
▲
新宿区の落合地域とその近辺にも、神田上水沿いにある主柱がクシナダヒメで落合村総鎮守だった下落合氷川明神社(女体宮)をはじめ、同じく北側の長崎村は谷端川の段丘上にあるクシナダヒメが主柱の長崎氷川明神社(現・長崎神社)、主柱がスサノオで神田上水沿いの東側下流にある高田村の高田氷川明神社の3社が鎮座している。東久留米の落合村にも、近接して西には落合川沿いの南沢氷川明神社、北には黒目川の南斜面に門前氷川明神社、そして北東には同じく黒目川沿いに神山(こうやま)氷川明神社が建立されているが、いずれも主柱はスサノオの男神ばかりで、ペアとなるクシナダヒメの姿が希薄なのが、女神が主柱となっている落合地域とは異なる点だろうか。
上記の地勢は、新宿区の落合地域のことではない。現在は東久留米市(旧・久留米町)に含まれ、同町の南東端に位置していた落合村のことだ。あまりに地勢や史蹟、風情までが近似しているので、さっそく現地を散策しにでかけてみた。そういえば、ずいぶん以前に落合地域と地名や風情が相似した、下沼袋村から江古田村界隈を散策したことがあった。けれども、東久留米の落合村とその周辺は、それ以上に親近感をおぼえるほどよく似ている。
まず、東久留米の落合村の概略を、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から、さっそく引用してみよう。
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この地(落合村)は中世以降、徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の領地でした。/落合村の地形的な特徴は、(東久留米)市内を流れる主要な黒目川、落合川、立野川の三つの河川が村の東端で合流してひとつの河川(黒目川=久留米川)になることです。村の名前も、川が落ち合うという意味をこめて、落合村になったと考えられます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』にも「西の方前沢村より湧出る流二条あり、村内にて久留目川と合し一条となり、此三流落合を以てかく名付と云り」とあります。村落も合流地点に多くの家々が集まっています。黒目川は久留目川、久留米川、来目川などとも表記されています。(カッコ内引用者註)
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今日では黒目川と呼ばれ、埼玉県を経由して最終的には荒川へと注ぐ河川のことを、昔は流れる地域名と同様に久留米川(久留目川)などと呼ばれていたのがわかる。
また、落合村を流れて黒目川と合流する落合川だが、こちらの落合地域を流れる神田上水につき地元では「落合川」と呼ばれていたことが、江戸期の享保年間に書かれた幕府記録から、昭和初期に書かれた地元の随筆にいたるまで確認することができる。ただし、妙正寺川のことを「落合川」と呼んだのは、林芙美子の随筆とそれを引用したもの以外は知らない。
東久留米の落合村には、幕府鷹匠頭の小野家の屋敷跡があったそうだが、下落合の神田上水沿いにはその将軍が鷹狩りをする御留山や、狩り場筋が中野筋と戸田筋で筋ちがいになるものの同様に御留場だった鼠山が、目白通りをはさんだ北側の長崎村と池袋村に接していた。また、神田上水と合流する妙正寺川(北川・井草流)北側の丘上から斜面にかけては、旧石器時代から現代まで人が住みつづけた落合遺跡が発掘されているが、東久留米の落合村でも小野家屋敷跡からまったく同様に、旧石器時代から現代までつづく複合遺跡が2019年(平成31)に発掘されている。引きつづき、『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』の、本文より引用してみよう。
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落合川が北東部で屈曲する近辺は「小野殿淵」と呼ばれ、右岸の高台には徳川幕府の鷹匠頭となった小野家の屋敷跡があったと伝えられている。同所は旧石器時代から縄文時代、中世、近世の川岸遺跡である。/字名は落合川や立野川の側であることから川岸と呼ばれたと思われる。合流部付近に集落が作られ、僅かの水田の他は多くが畑と雑木林である。(中略) 立野川の南は黒目川水系の南側段丘の崖が川に沿って続き、急斜面と高台になっている。
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新宿区の落合地域とその近辺にも、神田上水沿いにある主柱がクシナダヒメで落合村総鎮守だった下落合氷川明神社(女体宮)をはじめ、同じく北側の長崎村は谷端川の段丘上にあるクシナダヒメが主柱の長崎氷川明神社(現・長崎神社)、主柱がスサノオで神田上水沿いの東側下流にある高田村の高田氷川明神社の3社が鎮座している。東久留米の落合村にも、近接して西には落合川沿いの南沢氷川明神社、北には黒目川の南斜面に門前氷川明神社、そして北東には同じく黒目川沿いに神山(こうやま)氷川明神社が建立されているが、いずれも主柱はスサノオの男神ばかりで、ペアとなるクシナダヒメの姿が希薄なのが、女神が主柱となっている落合地域とは異なる点だろうか。

新宿区落合地域の北東にあたる、雑司ヶ谷村には金山と金山稲荷社(現在は遷座先が不明)があるが、東久留米にあった落合村の北側に接する神山村には、金山と金山社(現在は門前氷川社境内に合祀)が存在している。金山の一帯は急斜面、あるいは崖地が多く見られ、古くはタタラ集団(大鍛冶)が通過した痕跡が、製鉄の神である金山社として残されていたと想定できる。目白崖線沿いと同様に、どこかでスラグ(鐵液・金糞)や目白(鋼)が出土しているのではないか。
また、東久留米の金山には南山麓にかなり立派なかまえの神山(こうやま)弁天社があり、豊富な湧水が見られたということなので、地下水の圧力で噴出した金久保谷(鍛冶谷)のような、古代から砂鉄の堆積場だった可能性が高い。それは、こちらの地勢に置き換えれば江戸期には下落合村と高田村の入会地だった、金久保沢(金和久沢)の弁天社(祠)と相通じるものがありそうだ。双方の落合地域とその周辺には、いずれも大鍛冶の事蹟が色濃く展開している。
もうひとつ、東久留米の落合村には、西に接した南沢村に稲荷山が、北側に接した門前村には稲荷塚(と稲荷祠)が記録されているが、こちらの落合地域にも北東側の雑司ヶ谷村には稲荷山(威光稲荷社)と、同じく雑司ヶ谷の崖地には武芳稲荷大明神など複数の稲荷社が、現在は暗渠化されてしまった弦巻川(金川)沿いの崖線沿いに点在している。これらの稲荷は、中世以降に農業神「稲荷」へ転化したのかもしれず、本来は大鍛冶の鋳成神だった可能性がある。
さて、実際に現地を歩いてみると、現代住宅の意匠などを気にしなければ、まるで大正末か昭和初期あたりの豊多摩郡落合町を歩いているような風情なのに気づく。かつての神田上水のような風情が、落合川や黒目川の流域にはあちこちに見られ、落合川の湧水源域のひとつである落合村西側の南沢周辺には、昔日には小川だった妙正寺川のような細い流れが残っている。雑木林の樹々を揺らす風の音とともに、その流れをボーッと眺めていると、なにやら大正末の下落合へタイムスリップしたような錯覚をおぼえる。先述した下沼袋村や江古田村の地勢以上に、東久留米の旧・落合村界隈はこちらの落合地域との相似を強く感じさせる。
落合川にしろ黒目川にしろ、川岸には段丘すなわち大小の崖線や斜面が形成されており、東久留米市内の随所に緑地保全地域や緑地公園が設置されているのも、昔からの風情が失われない大きな特徴だろう。先述した南沢氷川社と周辺の湧水源や金山のほぼ全域、あるいは旧石器時代からの遺跡である小山台遺跡周辺なども緑地保全地域や緑地公園であり、武蔵野原生林がそのまま保全されている。晩秋から冬に歩けば、これら地域の足もとはドングリだらけなのも、こちらの落合地域に似ている。また、北風を避けて崖線の南斜面を背負った農家が、現在もそのまま存続しているので、よけいに昔日の下落合村(字)本村あたりの風景を想起させるのだろう。
また、東久留米の金山には南山麓にかなり立派なかまえの神山(こうやま)弁天社があり、豊富な湧水が見られたということなので、地下水の圧力で噴出した金久保谷(鍛冶谷)のような、古代から砂鉄の堆積場だった可能性が高い。それは、こちらの地勢に置き換えれば江戸期には下落合村と高田村の入会地だった、金久保沢(金和久沢)の弁天社(祠)と相通じるものがありそうだ。双方の落合地域とその周辺には、いずれも大鍛冶の事蹟が色濃く展開している。
もうひとつ、東久留米の落合村には、西に接した南沢村に稲荷山が、北側に接した門前村には稲荷塚(と稲荷祠)が記録されているが、こちらの落合地域にも北東側の雑司ヶ谷村には稲荷山(威光稲荷社)と、同じく雑司ヶ谷の崖地には武芳稲荷大明神など複数の稲荷社が、現在は暗渠化されてしまった弦巻川(金川)沿いの崖線沿いに点在している。これらの稲荷は、中世以降に農業神「稲荷」へ転化したのかもしれず、本来は大鍛冶の鋳成神だった可能性がある。
さて、実際に現地を歩いてみると、現代住宅の意匠などを気にしなければ、まるで大正末か昭和初期あたりの豊多摩郡落合町を歩いているような風情なのに気づく。かつての神田上水のような風情が、落合川や黒目川の流域にはあちこちに見られ、落合川の湧水源域のひとつである落合村西側の南沢周辺には、昔日には小川だった妙正寺川のような細い流れが残っている。雑木林の樹々を揺らす風の音とともに、その流れをボーッと眺めていると、なにやら大正末の下落合へタイムスリップしたような錯覚をおぼえる。先述した下沼袋村や江古田村の地勢以上に、東久留米の旧・落合村界隈はこちらの落合地域との相似を強く感じさせる。
落合川にしろ黒目川にしろ、川岸には段丘すなわち大小の崖線や斜面が形成されており、東久留米市内の随所に緑地保全地域や緑地公園が設置されているのも、昔からの風情が失われない大きな特徴だろう。先述した南沢氷川社と周辺の湧水源や金山のほぼ全域、あるいは旧石器時代からの遺跡である小山台遺跡周辺なども緑地保全地域や緑地公園であり、武蔵野原生林がそのまま保全されている。晩秋から冬に歩けば、これら地域の足もとはドングリだらけなのも、こちらの落合地域に似ている。また、北風を避けて崖線の南斜面を背負った農家が、現在もそのまま存続しているので、よけいに昔日の下落合村(字)本村あたりの風景を想起させるのだろう。
都心に近い市街地になると、道祖神や庚申塚、第六天(大六天)、また道端の地蔵や各種観音などの石仏は、宅地化や道路の拡幅にともない近辺の社や寺院、墓地などに集められてしまうのが常だが、東久留米では本来の街道筋にそのままのかたちで奉られているケースが多いのも、同地を散策していて楽しいポイントだろう。新宿の落合地域は、都心にしてはまだマシなほうで、庚申塚や地蔵などの石仏はいまでも本来の位置に奉られてはいるが、最近は周囲に大きなマンションが建ったりすると、風情が大きく損なわれることが多い。
落合川や黒目川は、神田川や妙正寺川とは異なりコンクリートで川全体を覆う工事がなされておらず、草木に覆われた河川敷が残されている。アユやオイカワ、コイなどの川魚はもちろん、荒川からサケも遡上してくるのではないだろうか。まるで、写真でしか見たことのない昔日の旧・神田上水や妙正寺川を眺めているようで楽しい。水がきれいになった神田川にはアユやオイカワ、マハゼ、タモロコ、モツゴなどが生息しているけれど、さすがにサケの遡上は大川(隅田川)か日本橋川止まりで、神田川を遡上するとすれば河口域か千代田城の外濠までではないか。
特によかったのは、南沢氷川社とその周辺で、湧水源が集中しているのと緑地保全地域に指定されているせいか、武蔵野の面影をたっぷり味わうことができた。同社も崖上に建立されているが、境内にはいくつかの稲荷が奉られている。これらも、農業神に転化する以前は鋳成神の祠であった可能性がある。また、湧水源が近い小流れも澄んでいて美しいが、広い緑地保存地域の端には、東京都水道局の大きな防災水道タンクが設置されているのも面白い。まさかのときには、湧水を活用した給水を考えているのだろうか。湧水地帯らしく周辺の公園には池があるが、農業が主体だった時代には数多くの溜池が造られていたのだろう。
もうひとつ印象的だったのは、金山の広大な森林だ。門前氷川明神社から庚申塔のある三叉路(古道)を右折すると、ほどなく金山の山頂だ。金山は、現在では「金山森の広場」と名づけられているが、全体が濃い森林地帯で「広場」は存在しない。いきなり山の中へ入ったような風情で、黒目川が流れる南斜面へ急激に落ちこむ地形だ。その南斜面の下には、いまでも畑地を耕す古くからの大農家が東西に軒を連ねている。弦巻川(金川)に向け、南へ急激に落ちこむ雑司ヶ谷の金山の地形にそっくりだが、山域も雑司ヶ谷の日本女子大寮と周辺の住宅地をひとまわり合わせたぐらいで、東久留米の金山のほうがややサイズが大きめだ。金山を中心に、黒目川の北岸につづく崖線沿いのどこかに、おそらく規模の大きなタタラ製鉄の遺跡が眠っているのではないだろうか。
落合川や黒目川は、神田川や妙正寺川とは異なりコンクリートで川全体を覆う工事がなされておらず、草木に覆われた河川敷が残されている。アユやオイカワ、コイなどの川魚はもちろん、荒川からサケも遡上してくるのではないだろうか。まるで、写真でしか見たことのない昔日の旧・神田上水や妙正寺川を眺めているようで楽しい。水がきれいになった神田川にはアユやオイカワ、マハゼ、タモロコ、モツゴなどが生息しているけれど、さすがにサケの遡上は大川(隅田川)か日本橋川止まりで、神田川を遡上するとすれば河口域か千代田城の外濠までではないか。
特によかったのは、南沢氷川社とその周辺で、湧水源が集中しているのと緑地保全地域に指定されているせいか、武蔵野の面影をたっぷり味わうことができた。同社も崖上に建立されているが、境内にはいくつかの稲荷が奉られている。これらも、農業神に転化する以前は鋳成神の祠であった可能性がある。また、湧水源が近い小流れも澄んでいて美しいが、広い緑地保存地域の端には、東京都水道局の大きな防災水道タンクが設置されているのも面白い。まさかのときには、湧水を活用した給水を考えているのだろうか。湧水地帯らしく周辺の公園には池があるが、農業が主体だった時代には数多くの溜池が造られていたのだろう。
もうひとつ印象的だったのは、金山の広大な森林だ。門前氷川明神社から庚申塔のある三叉路(古道)を右折すると、ほどなく金山の山頂だ。金山は、現在では「金山森の広場」と名づけられているが、全体が濃い森林地帯で「広場」は存在しない。いきなり山の中へ入ったような風情で、黒目川が流れる南斜面へ急激に落ちこむ地形だ。その南斜面の下には、いまでも畑地を耕す古くからの大農家が東西に軒を連ねている。弦巻川(金川)に向け、南へ急激に落ちこむ雑司ヶ谷の金山の地形にそっくりだが、山域も雑司ヶ谷の日本女子大寮と周辺の住宅地をひとまわり合わせたぐらいで、東久留米の金山のほうがややサイズが大きめだ。金山を中心に、黒目川の北岸につづく崖線沿いのどこかに、おそらく規模の大きなタタラ製鉄の遺跡が眠っているのではないだろうか。
落合地域から遠く離れた東久留米へ出かけたのは、地名や史蹟が相似している課題が前提としてあったわけだが、もうひとつ現地へいってみたくなる別の理由があった。落合村の北側に隣接した、門前村内にあたる黒目川に沿った段丘上に、大きな幾何学的なかたちを空中写真で見つけていたからだ。その古墳と見られる全長200mほどの稲荷塚だが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:シラサギをよく見かけたので、魚の棲息も多いとみられる落合川の淵のひとつ。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる落合村とその周辺域。中上・中中は、昔日の神田上水を想起させる落合川の流域。中下は、落合川の沿岸に設置された庚申塔。大鍛冶の痕跡が多い地域だと、荒神との関連を疑ってしまう。下は、南沢の湧水源を流れ落合川に合流する小流れで、こちらは大正時代の妙正寺川を連想させる。
◆写真中下:上・中上は、落合川沿いの小崖の上に建立されている南沢氷川明神社の鳥居と拝殿。中中は、南沢氷川社の本殿裏にひっそりと奉られた稲荷祠で、こちらも鋳成神との関連を疑ってしまう。中下・下は、落合川よりも流域面積が広い黒目川の風景。
◆写真下:上は、黒目川の段丘中腹にある門前氷川明神社。中上は、濃い雑木林が繁る金山の山中。中下は、金山の南山麓にある大農家。下は、同じく金山の南にある神山(こうやま)弁天社。
★おまけ
黒目川の源流域といわれる、小平霊園の北側に隣接した皀莢(さいかち)窪の森。深い谷間には、大雨が降ると出現する湧水池があり、そこからの流れが黒目川に注ぐと伝承されている。下の2葉は、大正末ごろに守谷源次郎が撮影した妙正寺川の“どんね渕”(上)と、手前を流れる旧・神田上水へ注ぐ奥の妙正寺川で、地名「落合」の由来となった合流ポイント(下)。2葉ともAI着色化。
◆写真中上:上は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる落合村とその周辺域。中上・中中は、昔日の神田上水を想起させる落合川の流域。中下は、落合川の沿岸に設置された庚申塔。大鍛冶の痕跡が多い地域だと、荒神との関連を疑ってしまう。下は、南沢の湧水源を流れ落合川に合流する小流れで、こちらは大正時代の妙正寺川を連想させる。
◆写真中下:上・中上は、落合川沿いの小崖の上に建立されている南沢氷川明神社の鳥居と拝殿。中中は、南沢氷川社の本殿裏にひっそりと奉られた稲荷祠で、こちらも鋳成神との関連を疑ってしまう。中下・下は、落合川よりも流域面積が広い黒目川の風景。
◆写真下:上は、黒目川の段丘中腹にある門前氷川明神社。中上は、濃い雑木林が繁る金山の山中。中下は、金山の南山麓にある大農家。下は、同じく金山の南にある神山(こうやま)弁天社。
★おまけ
黒目川の源流域といわれる、小平霊園の北側に隣接した皀莢(さいかち)窪の森。深い谷間には、大雨が降ると出現する湧水池があり、そこからの流れが黒目川に注ぐと伝承されている。下の2葉は、大正末ごろに守谷源次郎が撮影した妙正寺川の“どんね渕”(上)と、手前を流れる旧・神田上水へ注ぐ奥の妙正寺川で、地名「落合」の由来となった合流ポイント(下)。2葉ともAI着色化。







































































































