鉄道沿いに設置された積込貯留槽と卸場貯溜槽。

ブロッコリー畑(前川).JPG
 少し前、西武鉄道武蔵野鉄道による糞尿輸送、すなわち1944年(昭和19)6月から開始された戦時の食糧難対策として、東京都ひいては国により推進された食糧増産計画について記事にしていた。きょうの記事も、食事中の方はページ遷移をお薦めしたい。
 日本政府(+GHQ)が、敗戦直後に1,000万人の餓死を予測しているが、その被害を最小化するために食糧(穀物・野菜)の増産をめざした糞尿輸送は、1953年(昭和28)3月までつづけられている。また、戦争末期の絶望的な肥料不足に加え、徴兵され戦場へ送られた男手が農村でも圧倒的に不足していた。したがって、戦前のように市街地へ出かけ下肥を調達する重労働ができず、東京近郊の農家にとっては鉄道による無料の下肥輸送は、少しでも収穫量を右肩あがりにするための、かけがえのない生命線ともなっていった。
 そもそも、鉄道による田園地帯への糞尿輸送は、戦争末期の食糧不足による食糧増産計画が初めてではなかった。関東大震災の少し前から、東京市部の人口増加が顕著となり、下水道整備や衛生環境のテーマとともに、屎尿処理の課題が大きくクローズアップされていた。そこで、消費地としての都市部から生産地としての農村部へ屎尿を運び、貨物列車の帰路には農村部から都市部へ生産物を運びこむという、生産・物流のサイクル化が東京市では検討されている。また、すでに武蔵野鉄道と東武東上線では大正期から実際に輸送が行われており、郡部の農業会(当時の農業協同組合)と鉄道会社、東京市の3者によって事業化されていた。
 1928年(昭和3)に東京市政調査会が発行した、「都市問題パンフレットNo.9」の医学博士・藤原九十郎による『都市の屎尿処分問題』から、少し長いが引用してみよう。
  
 屎尿の運搬は単に衛生的、経済的と云ふのみでなく、出来るだけ迅速に市外に搬出する事を以て其の根本義とせねばならぬ。彼の人力、牛馬車による遅々延々たる汚物の行列は、たとひ郊外地に於ても絶対に廃すべきことである。従つて将来搬出に用ふる運搬機関は、第一に鉄道の利用であらう。固(もと)より都市は物資の消費場であつて田舎は其の生産場である。(中略) 勿論食糧運搬車と屎尿運搬車とを同一にすることは出来ないが、同じ列車に連結する事は亳(すこし)も差支へはあるまい。現在鉄道輸送を行へるは東京市だけであつて一日三百石内外を東上線下板橋駅及び武蔵野鉄道江古田駅まで自動車で運搬し、屎尿輸送用貨車に積込み、各駅にて郡農会(ママ:農業会)は取引に要する諸経費を差引きてその残りを市に納入する事になつて居り、其の額一荷当り三銭と計上されて居る。(カッコ内引用者註)
  
 戦争末期に実施された食糧増産計画にもとづく糞尿輸送は、あらゆる物資の不足から、「食糧運搬車と屎尿運搬車とを同一」にせざるをえなかった経緯が透けて見える。ただし、往路に農村部へ糞尿を輸送はしていたが、復路に糞尿タンク車の上部に生産物を積載してもどる列車が、実際に運行されていたかどうかは、敗戦前後の混乱期でさだかではないようだ。
糞尿タンク車194411タ1形タ31武蔵野鉄道.jpg
井荻糞尿貯留槽→タンク車積込(戦後).jpg
 さて、前回の記事では食糧増産計画と糞尿輸送に関する、堤康次郎と西武鉄道の取り組みについて触れたが、今回はそれを受け入れる農村側の視点から同計画について見てみよう。西武鉄道では、農村へ運搬した下肥を貯蔵するタンク施設を「糞尿貯溜槽」と呼んでいたが、それを汲みだして活用する農業会・農家側では「糞尿卸場貯溜槽」と、「卸場」をつけて利用者側の視点で呼称している。糞尿貯溜槽は、武蔵野鉄道と西武鉄道をあわせて17ヶ所に設置されていた。
 その内訳は、市街地からトラックなどで糞尿を集め、それを各地の貯溜槽へ貨物列車で配送する、ターミナル的な中心基地となる貯溜槽を「積込貯溜槽」と呼称している。積込貯溜槽は、西武線に2ヶ所、武蔵野鉄道に1ヶ所建設され、それらを両線の農村地帯14ヶ所に展開していた卸場貯溜槽へと運んでいた。貯溜槽の詳細は、下掲の一覧表のとおりだ。
貯留槽一覧.jpg
 秋津駅は「未設」となっているが、1944年(昭和19)からの食糧増産計画では設置・利用されなかったという意味で、1922~28年(大正11~昭和3)までは、武蔵野鉄道の積卸貯溜槽が設置されており、周辺の農業会や農家で利用されていた。
 上の一覧表で、西武鉄道の東村山駅に設置された卸場貯溜槽について、詳しく研究した論文が残されている。2013年(平成25)に、東村山ふるさと歴史館の紀要である「東村山市史研究」第22号に収録された、大藪裕子『東村山に造られた糞尿卸場貯溜槽と下肥利用』から引用してみよう。
  
 下肥を運ぶタンク電車は、この溜に向かって毎朝来ていて、その車両は数両連なって来ているときもあった。汲み取ることが出来るのは、午前九時から午後五時までで、そのほとんどは一日で汲み切っていた。万が一あふれてしまうようなときには、溜から現在の西武園線沿いにパイプが敷かれていて、前川へ流せるようになっていた。/汲み取ることの出来る時間が決まっていたのは、係の人がいたからで、その人は椅子に座って券の受け取りをしていた。溜の見張り番のような役だった。券とは農業会(現在の農業協同組合)で出していたもので、一回に十枚、つまり肥桶十本分が配給されていた。当時、すべての物は配給制で、米や麦、醤油、味噌などと同様に、下肥も配給だったのである。係の人は、溜のある三角地に家を建てて住んでいた。
  
 卸場貯溜槽は、打ちっぱなしのコンクリートで建設されており、厚さは30cmほどだった。貯溜槽の上部にはバルブが取りつけられており、それをまわすと下部のゴム製パイプから糞尿を汲みとれる仕組みになっていた。これは東村山駅ばかりでなく、西武線の各駅近くに設置された卸場貯溜槽も同様の設計だったろう。敗戦前後は、近くの農家からリヤカー大八車に肥桶を乗せ、下肥を汲みにきていたが、戦後もしばらくたつと専用のトラックが汲みにきていた。トラックの荷台には、肥桶ではなく大きな専用木製タンクが取りつけられ、そこへ下肥を積載していた。
都市問題パンフレットNo.9東京市政調査会.jpg 東村山市史研究22号2013.jpg
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 また、コンクリートの卸場貯溜槽には屋根がなかったため、雨が降ると糞尿が薄まり、よい下肥にはならなかった。それでも敗戦前後は、少しでも畑地に肥料を散布したいために、雨天の日でも多くの農家が汲みとりにきていたという。肥桶については、前回の記事でもご紹介しているが、いくつかの規格や種類があったようで、これは肥桶を載せるリヤカーや大八車などのサイズにあわせて製造されたか、あるいは戦時中には農村から男手が激減してしまったため、女性にも扱える小型の肥桶が製造されたのではないだろうか。
 東村山の卸場貯溜槽から、農家の下屋(肥料小屋)へ運ばれる様子を同論文より引用してみよう。
  
 下肥は肥桶に汲んで運んだ。肥桶は一本、二本と数え、二本を一組にして天秤棒で担ぐので、肥桶二本で一荷と言う。大抵どこの家でも二荷ぐらいはあった。/畑へ運ぶには、肥桶をリヤカーに載せて運んだ。大きなリヤカーには六本の肥桶を載せることも出来たが、一人で引くには四本が限度であり、一般的なリヤカーにはちょうど四本載せられた。/トラックに載せて運ぶ場合には、肥桶の吊り手の向きをそろえて太い棒を通し、固定させた。二段に肥桶を積み上げることもあった。トラックの荷台に、下肥を直接入れて運ぶことも出来たが、畑へ撒くには肥桶に入れて持ち運ばざるを得ないため、詰め替える手間を考えると、はじめから肥桶に入れて運ぶ方が効率的だった。
  
 トラックなどで運搬すると、肥桶が揺れて道路端にこぼれることもあったが、日々多くの餓死者がでている敗戦前後の社会状況では、誰もそれに文句をいわなかったという。ちなみに、敗戦から5年が経過した1950年(昭和25)の時点でさえ、年間に1万人近くが栄養失調で餓死(栄養不良による病死者含まず)するような状況がつづいていたので、優良な下肥を用いた穀物や野菜の食糧増産は、東京都や政府の最優先課題のひとつだった。
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東村山糞尿卸場貯留槽1947.jpg
 戦後、化学肥料が出まわりはじめるにつれ、寄生虫の課題とも相まって下肥の利用は減っていった。また、各自治体では衛生条例が施行され、下肥の利用が制限されている。さらに、東京市街地のトイレがほとんど水洗になると、糞尿自体が家庭生活から見えないところで処理されるようになり、その再利用が困難になっていった。ただし、下落合の近くにある畑地では、その臭気から21世紀に入ってからも、下肥が野菜づくりに活用されていたとおぼしきことは付記しておきたい。w

◆写真上:東村山駅近くの、前川沿いの畑地で撮影したブロッコリー畑。
◆写真中上は、武蔵野鉄道で使用されていた木製の糞尿タンク車。1944年(昭和19)11月ごろに撮影されたもので、形式名は「タ1形タ31」。車両の下部が往路の糞尿タンクで、上部の柵のあるスペースが帰路の野菜積載スペース。は、戦後に撮影された井荻駅の糞尿積込貯留槽。太いゴムホースを使い、積みこみ作業が行なわれている様子。
◆写真中下上左は、1928年(昭和3)に発行された「都市問題パンフレットNo.9」の藤原九十郎『都市の屎尿処分問題』(東京市政調査会)。上右は、。2013年(平成25)に出版された「東村山市史研究」第22号(東村山ふるさと歴史館)。は、使われなくなった肥桶。
◆写真下は、1947年(昭和22)撮影の井荻駅西側に設置されていた積込貯留槽。は、同年撮影の東村山駅北側の西武新宿線と西武園線の分岐に設置されていた卸場貯溜槽。

音曲や楽器をめぐる東京怪談。

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 今年は、いつもより夏が早めにきたので、すっかり恒例の怪談アーティクルが出遅れてしまった。拙サイトではずいぶん以前だが、井上円了哲学堂やその周辺に出没する「幽霊」について書いたことがある。他愛ないウワサ話だったのだけれど、井上円了が創立した東洋大学でも、この「哲学堂の幽霊」が課題になっていることを最近知った。
 以前にこちらでご紹介していたのは、落合地域でもウワサになっていた、哲学堂公園の入口(哲理門)近く、あるいは近接する公衆電話ボックスに表れる女性の幽霊だった。電話ボックスは、携帯電話の普及ですでに撤去されていそうなので、いまでは哲学堂公園内のトイレにしようか売店にしようか迷って、彼女は文字どおりさまよい歩いているのかもしれない。
 前世紀末に東洋大学で記録された哲学堂の怪談は、「幽霊門」と「地獄門」のあたりで深夜、男女の合唱する声が聞こえるというものだ。その合唱をよく聴いてみると、どうやら念仏を唱えているような抑揚で、一家心中をした近くの住民の幽霊ではないか?……という怪談話のようだ。「幽霊門」とは哲理門(妖怪門)のことだろうが、「地獄門」とはどの建物を指しているのだろうか。いずれにしても、哲学堂の哲理門をくぐってしばらく歩いた道沿いということらしい。念仏が、男女の二部合唱だったかどうかはまでは不明だが、同大学の紀要「Satya」(東洋大学井上円了記念センター)に収録されるぐらいだから、以前からかなりポピュラーな怪談なのだろう。
 1995年(平成7)の「Satya」4月号に収録の、一柳廣孝『哲学堂の幽霊』から引用してみよう。
  
 <怪談を聞いて> まず、円了は「妖怪」(合理的説明を拒否するような、自然界の不可思議な現象)的なるものをすべて否定したのではなかったか。だとすれば、哲学堂の幽霊は、円了に対して真っ向から戦いを挑む、勇気あるチャレンジャーではないのか。また、こうも考えられる。哲学堂は、円了の哲学体系を象徴的に組織化した公園である。ならば、その公園に出没する幽霊は、場合によっては「哲学堂」と同じく、円了の思想の象徴になろうと日夜(?)努力を重ねている存在とも解釈できるのではないか。(< >内引用者註)
  
 哲学堂に出る幽霊が、円了の死後100年近くたってから「戦いを挑」んだり「努力」をするのはヘンな話だが、戦いを挑む相手=井上円了も幽霊になっているという前提があるとすれば、すでに幽霊側が論戦を制している(男女合唱しながらいわず語らず論破している)のであり、円了が定義した「真怪」は稀有な現象どころか、野球音が響く東京の哲学堂公園内にも、日常的に存在するありふれた現象であると、円了も大学も認めざるをえなくなるだろう。w
 さて、音楽や楽器に関連する怪談が多いことは、よくご存じだろう。学校の音楽室と聞いただけで、ベートーヴェンが瞬きしたとか、誰もいないのにピアノが鳴ったとかいう話は、どこの学校でもありがちな怪談だ。たとえば、松谷みよ子が全国に分布する古今東西の「音楽室怪談」を記録した、1987年(昭和62)に立風書房から出版された『現代民話考』第2巻より引用してみよう。
  
 青森県青森師範学校。音楽の先生の松本先生は、深夜人が寝静まったころ、学校の講堂にろうそくをともしてピアノを弾いた。ある朝、結核だった松本先生は、ピアノの前で喀血して死んでいた。それ以来、当直の小使いの爺さんが見回りすると、誰もいない講堂からピアノの音がするようになった。ピアノは講堂から楽器練習室に移されたが、今度はこの楽器練習室からピアノが聞こえる。真夜中、音楽教室へはいると、壁にかけられた松本先生の肖像画がにやりと笑って、口からたらたらと赤い血を流すのだという。師範の七不思議の一つである。(青森県児童文学研究会)
  
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 音楽室というとたいていピアノだが、学校を離れると、巷にはさまざまな楽器の怪談が眠っている。江戸東京では三味がもっとも多く、化け猫が弾く楽器はたいてい三味と相場が決まっている。また、新橋演舞場の誰もいないはずの楽屋で、真夜中になると亡くなったばかりの名手が細竿をつまびく音を聞いたとか、やはり死んだはずの新内の門付け(流し)が、深夜の路上で三味を弾いて唄っていたとか、座敷をつとめる芸者衆の背後で、死んだはずの姐さんが細竿を弾いていたとか、この手の怪談は江戸期からエンエンとつづいている。
 また、あまり目立たないが琴(箏)の怪談というのもある。そこで、ここは日本橋の琴にまつわる怪談をご紹介したい。この話を記録しているのは、牛込の早稲田変電所近くの「事故物件」に住む住民の話を採取した、怪談好きな礒萍水(いそひょうすい)で、以前に「お化け大明神」として拙ブログでもご紹介している。今度は、わたしの故郷である日本橋が舞台だ。
 時代は、おそらく明治末か大正のころだろう。「自分の親友の野守新一郎の事実談」としているので、直接本人に取材しているとみられる。野守の妹が12歳になったので、三味や琴を習わせようとしていた。それには、妹専用の琴が一面入用なので、日本橋仲通りにある古道具屋をのぞいて歩いた。すると、45円と少々高価だが、造りのよさそうな高級琴を見つけたので帰って家族に相談すると、母親が改めて古道具屋を訪ねることになった。
 母親の見立ては、生田流の琴で総体が黒のツヤ消し、金の高蒔絵がほどこされ、模様は斧に菊の花をあしらった「よき・こと・きく」を表現したもので、柱はすべて象牙製と、大名のお姫(ひい)様が嫁入り道具にするような出来だった。そこで、母親は娘のために無理をして、この琴を購入することに決めた。45円という値段は、父親の1ヶ月分の給料とほぼ同額だった。
 こうして、野守家にやってきた高級琴なのだが、異変はすぐに起きた。兄の野守新一郎が夜遅く帰宅し、琴の置かれた床の間のある部屋で電気を消して就寝したときのこと……。1919年(大正8)に井上盛進堂から出版された、礒萍水『最も物凄き怪談新百物語』より引用してみよう。
  
 その真暗の中である、床の方がぼーつと明るい、いや床の一円が明るいのではない、琴の在る辺り、いや、琴の上ばかりが明るいのに気がついた、実に明るいのは琴の上ばかりなのに気がついた。/野守は由来、暢気至極の男であつたから、これは大方、自分の眼の什応(どう)かしたのだらうと思つて、手で能く撫でゝ、再び試験のつもりで見やると、これは不思議、眼の迷ひではなかつた、琴の上はぼーツと明るい、十三弦の柱のくばりも其儘(そのまま)、糸の細いのまでが数へられる、そして直ぐ右に隣りして居る掛物は全然見ゑず。(カッコ内引用者註)
  
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最高級琴(会津材・象牙柱).jpg
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 この現象を家族に話すと、「そんなバカな」と両親が琴の前で寝てみたが、やはり同じ現象が起きて父母ともにすっかり怖気づいてしまった。琴のボーッとした光は、どこか別の部屋の灯火が漏れているのでもなく、月光の反射でもなく、琴自体が青白く発光しているのだと気がついた。気味が悪くなり、仲通りの古道具屋へ返しにいくと買い値より5円安い40円で引きとってくれたが、最後に「これで三度返されますよ」といわれ、改めてゾッとしたという。
 なぜ琴が深夜に青白く光っていたのか、その因果関係はまったく不明で、また因果関係を追及してもいないので、なんらかの謂れがあるのだろうが、妙に納得してしまうような原因やオチをつけないところに、この怪談のリアリティを強く感じてしまう。琴を愛用したお姫(ひい)様=華族の娘が若くして死んだとか、死ぬ間際の箏職人が精魂こめてこしらえたものだとか、因果を説明されると「やはりそうだったんだ」と落ち着きはするが、不思議な現象は不思議なまま投げだされたほうが、より現実味を帯びた怪談のように感じるようだ。
 そういえば、同じ新宿区内で落合地域の南西に位置する神楽坂には、「さくらさくら」変奏曲や「春の海」で有名な琴(箏)の宮城道雄が住んでいたけれど、児童向けの曲を含めたくさんの箏曲を残してはいるが、残念ながらお化けや幽霊の曲はないようだ。
 その神楽坂には、若いころは座敷に出ていてのちに歌手へ転向し、『ゲイシャ・ワルツ』が大ヒットした神楽坂はん子が、戦後にこんな怪談を残している。幽霊の存在などまったく信じていなかった神楽坂はん子だが、まだレコード歌手になる以前、芸者をしていた時分に知りあいの元芸者が、喘息をこじらせて急死した。ところが、その翌日にお座敷へ向かう途中で、その元芸者の姐さんに出会っている。1953年(昭和28)の東京新聞に掲載された記事より、少し引用してみよう。
  
 あくる晩の八時ごろ、私がお座敷にゆく途中でした。いつも見上げたりしないのに、その日に限って何げなく見上げると、黒塀の前に白い着物で死んだはずのあの人が、すうっと立っているのです。もともとノンビリした方で、あんまりこわがったりしないのに、この時ばかりはびっくりして、うわーっと大声をあげ、お座敷に行くのも忘れて、家へ飛んで帰ってみんなに話すと「今しがた納棺したところだから、きっと魂が出たのよ」といわれてぞーっ。早速お経をあげるやら大騒ぎでした。
  
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 「見上げると」と書いているので、神楽坂はん子は芸者新道(じんみち)あたりを上りながら、呼ばれた料亭をめざしていたのだろう。その後、彼女は作詞・西條八十で作曲・古賀政男のお化けをテーマにした『ヒュードロ節』をレコードに吹きこむが、その際にも自宅の鏡に死んだ姐さんが出現している。もっとも、二度めは『ヒュードロ節』の発売にあわせた、話題づくりのプロモーション臭がするけれど、神楽坂の坂道で出会った一度めの怪談は、かなりリアルな感じがするのだ。

◆写真上:1860年(万延元)に2代目・河竹新七(のち河竹黙阿弥)が書いた『加賀見山再岩藤』(かがみやま ごにちのいわふじ)で、「骨寄せ岩藤」を演じるのは4代目・尾上松緑。
◆写真中上は、明治末ごろ撮影された哲学堂の哲理門。は、その哲理門で出迎える幽霊と天狗。は、江戸期の絵巻に描かれた細竿を弾く化け猫。
◆写真中下は、箏曲のおさらい風景。は、会津材に象牙の柱を用いた現代の高級琴。は、戦後1952年(昭和27)ごろに撮影された歩道のない神楽坂通り。
◆写真下は、『ヒュードロ節』を唄った神楽坂はん子。は、1953年(昭和28)に撮影された左から西條八十(作詞)、古賀政男(作曲) 、神楽坂はん子。念のために、『ヒュードロ節』の成功と祟り封じで四谷の於岩稲荷を参詣したときの様子。は、神楽坂の芸者新道(じんみち)の現状。

林芙美子はドヤ街で明け六ツの鐘を聞いたか。

天龍寺鐘楼.jpg
 近年、新宿区にも時の鐘があるのを知った。江戸市内に時刻を告げる時の鐘だが、江戸市内ではなく郊外にも時の鐘が設置されていた。おそらく、江戸が大江戸(おえど)と呼ばれるようになるころ、甲州街道の内藤新宿が廃止され江戸市内に編入された、比較的新しい時代だろうと考えたが、そのとおりだった。豊島郡の天龍寺境内に建立された時の鐘は、1767年(明和4)の鋳造で、内藤新宿が廃止されてから51年目のことだ。もっとも、地元からの幕府への強力な嘆願で、その後、宿場町(歓楽街)としての内藤新宿は復活(1772年)することになるのだが。
 江戸時代には、天龍寺の周囲に形成された町家は天龍寺門前町と呼ばれていたが、明治期に入ると内藤新宿南町と変わった。目の前が、高遠藩内藤家の広大な中屋敷(現・新宿御苑)で、当時の天龍寺は甲州街道に面して山門が建てられていた。そして、1920年(大正9)に四谷区に編入され、豊多摩郡内藤新宿南町は四谷区旭町に変更されている。いまの地勢でいえば、新宿駅の南口にあるルミネの階段を下りて、甲州街道の陸橋ガードをくぐった先の、玉川上水が流れていた新宿4丁目一帯が旧・四谷区旭町ということになる。
 地形は、南東へ向けて下り坂がつづく典型的な低地で、1970年代までは新宿を代表する労働者のドヤ街のひとつだった。江戸期には、内藤新宿で働く人たちや遊女・芸人、小商人などが住んでいたといわれている。また、周辺は大名の中・下屋敷と幕臣たちの屋敷だらけだったが、明治期になると天龍寺の境内や墓地は徐々に削られていき、内藤新宿南町には新しい街並みが形成されていった。四谷区に編入された直後、1921年(大正10)には東京府立第六中学校(府立六中)が創設されるが、このころから簡易宿泊施設が急増していったという。ちなみに、府立六中は現・都立新宿高校のことで、新宿区内でも都立戸山高校と並び有数の進学校だ。
 上記のように、江戸期の郊外にあたるこの一帯には、幕府の旗本や御家人たちが多く住み、その屋敷が多かったせいで、時の鐘の必要性が高まったのだろう。だが、江戸市内とは異なり、天龍寺の境内に設置されていた時の鐘は、朝方のみ時の刻み方が変わっていた。通常明け六ツにつく夜明けの鐘だが、天龍寺の時の鐘は四半刻(しはんとき=約30分)も早く明け六ツを知らせていた。江戸期の時刻は、季節を問わず夜明けが明け六ツ、日没が暮れ六ツとなり、夏は夜が短く冬は夜が長かったせいで、季節によって時刻が自在に伸縮していた。仮に午前6時を日の出の明け六ツとすれば、1刻は約120分前後なので、四半刻早いということは夜明け前のまだほの暗い時刻、午前5時30分ごろには鐘が鳴りだしたことになる。
 これは、勤め先が千代田城あるいはその周辺にある旗本や御家人たちの出勤、または中・下屋敷を訪れていた大名や家臣の出勤に配慮したもので、江戸の市街地からは遠い内藤新宿ならではの、出勤時間を考慮した四半刻(約30分)前倒しの時の鐘だった。もちろん、鐘の音(ね)は宿場の内藤新宿にも聞こえていたはずで、明け六ツに遊女屋や“飯炊き女”のいる宿から追いだされる遊び人たちは、江戸市内とは異なり約30分の“損”をすることになった。だが、当時の人たちは約30分もあれば平気で7~8kmは歩けたと思われるので、江戸市内にほんとうの明け六ツの鐘が鳴りはじめるころには、内藤新宿から神田あたりまでもどれていたのだろう。
 当時の四谷大木戸は、江戸市内への編入とともに開けっぱなしになっていた可能性が高い。すでに、江戸市内と市外を隔てる大木戸の役目は終えており、のちの文政年間には石垣のみを残して木戸門は丸ごと撤去されることになる。
 江戸市街地から見れば、「府外」と認識されていた天龍寺境内の時の鐘だが、周囲に響く音色はとてもよかったらしく、上野寛永寺と市ヶ谷八幡社の時の鐘と並び、天龍寺の時の鐘は「江戸三名鐘」に数えられている。でも、わたしは残念ながら同寺の鐘の音をじかに聞いたことがない。
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 さて、1920年(大正10)に四谷区旭町になった天龍寺周辺だが、この町名には見憶えがある。わたしは作家としての林芙美子はともかく、地元のさまざまな記録や証言から林芙美子という人物がとても苦手なので、拙記事ではあまり取りあげてこなかったが、彼女の代表作『放浪記』には、この甲州街道沿いの低地だった旭町が何度か登場している。もちろん、当時はドヤ街と化していた旭町の描写で、文字どおり彼女の“放浪時代”に体験した風景だ。1964年(昭和39)に河出書房新社から出版された、現代表記の『日本文学全集・第20巻/林芙美子集』より引用してみよう。
  
 夜。/新宿の旭町の木賃宿へ泊った。石崖の下の雪どけで、道が餡このようにこねこねしている通りの旅人籠に、一泊三十銭で私は泥のような体を横たえることが出来た。三畳の部屋に豆ランプのついた、まるで明治時代にだってありはしないような部屋の中に、明日の日の約束されていない私は、私を捨てた島の男へ、たよりにもならない長い手紙を書いてみた。(中略) 夜中になっても人が何時までもそうぞうしく出はいりをしている。/「済みませんが……」/そういって、ガタガタの障子をあけて、不意に銀杏返しに結った女が、乱暴に私の薄い布団にもぐり込んで来た。(中略) 朝、青梅街道の入口の飯屋へ行った。熱いお茶を呑んでいると、ドロドロに汚れた労働者が駈け込むように這入って来て、/「姉さん! 十銭で何か食わしてくんないかな、十銭玉一つきりしかないんだ」/大声で言って正直に立っている。すると、十五六の小娘が、/「御飯に肉納豆でいいですか」と言った。/労働者は急にニコニコしてバンコへ腰をかけた。
  
 このシーンは、住みこみの女中として働いていた家を追いだされたあと、いくあてがなくて旭町のドヤ(簡易旅館)へ泊まる様子だが、大正当時の新宿の様子や匂いがわかって興味深い。林芙美子は、甲州街道沿いにある旭町の簡易旅館をでると、カギの字に折れ曲がった追分の、青梅街道へと出るすぐ手前の飯屋へ入っているのがわかる。現在の甲州街道から青梅街道へと抜ける、新宿3丁目の三菱UFJ銀行新宿支店のあたりだろうか。
 その後、林芙美子は男にひどい目に遭ったり、いろいろ職を変えたりなどして再び旭町へともどってくる。同じく『放浪記』より、つづけて引用してみよう。
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 烏が啼いている。省線がごうごうと響いている。朝の旭町はまるでどろんこのびちゃびちゃな街だ。それでも、みんな生きていて、旅立ちを考えている貧しい街。/私のそばに寝た三十年配の女は、銀の時計を持っている。昔はいい暮しをしていたと昨夜も何度か話していたけれど、紫のべっちん足袋は泥だらけだ。/役にもたたぬ風呂敷包みを私達は三つも持っている。別にどうと云うあてもなく、多摩川を逃げ出して来て、この木賃宿だけが楽天地のパレルモなり。
  
 右手には新宿高島屋やタイムズスクエアが建ち、やや左手にはNTTドコモの尖塔のようなビルがそびえる、現代の新宿4丁目の風景とは思えないような風情だ。それでも、旧・旭町の路地を散策すると、いまでも新宿高校の東側に通う低地へ下る坂の中途に、大正期からつづく現代版の簡易宿泊所、ビジネスホテルや旅館などをいくつか見つけることができる。おそらく林芙美子も、この緩斜面のどこかに建っていた「木賃宿」へ泊っているのだろう。戦前までは、ひと雨降ると空き地に池のような大きな水たまりができる湿地帯だった。
 新宿を代表するドヤ街だった旭町だが、幸運な街でもあった。古い建物が多かったにもかかわらず、1923年(大正12)の関東大震災では二葉保育園の園舎を除き被害を受けずに無事で、1945年(昭和20)の二度にわたる山手大空襲でもほぼ延焼をまぬがれている。むしろ、旭町から見て高台にあった新宿駅東口の繁華街が、この空襲で壊滅的な被害を受けた。
 林芙美子の『放浪記』とは別に、もうひとつ「新宿・旭町」について印象に残る映像を思いだす。1974年(昭和49)1月19日にNTVで放送されたドラマ、下落合が舞台の『さよなら・今日は』の第16回「旅立ちのとき」だ。吉良家の次女「みどり」(中野良子)が、アトリエの喫茶店「鉄の馬」のバーテンだった、「和気一作」(原田芳雄)の行き先を「高橋清」(緒形拳)に訊ねる。緒形拳が「あいつ、新宿・旭町のなんとかいう、あけぼの荘とかいう旅館に泊まるゆうとりました。……花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」と井伏鱒二の訳詩をつぶやき、長女の「夏子」(浅丘ルリ子)が「あの子、まさか……」とあとを追いかけるシーンだ。
 当時、高校生だったわたしは、新宿区の旭町がどこにあるのか、さっそく地図で調べた記憶がある。けれども、とうに旭町は消滅していて新宿4丁目(1952年12月~)になっていたので、見つけられなかったのを憶えている。ドラマの脚本家は、新宿駅南口界隈の歴史や経緯に詳しかったか、あるいは林芙美子の『放浪記』を読んで印象に残ったものだろうか。林芙美子が「旅立ち」と書き、このドラマでも家を離れ自立しようとする、みどりの「旅立ち」を描くシーンに旭町が登場している。念のため、1938年(昭和13)作成の「火保図」や、1960年代に作成された「東京都全住宅案内帳」を参照してみたが、「あけぼの荘」という名の簡易旅館は残念ながら見あたらなかった。
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 時の鐘は、戦時中の金属供出からまぬがれたものが多く、いまでも江戸期の音色を聞かせてくれるが、天龍寺の時の鐘は大正時代まで鳴り響いていただろうか。時の鐘は、明治期を通じて大正期までつづいた地域が多い。もっとも、大正期には鐘の音が聞こえる範囲での“鐘役銭”は、すでに徴収していなかったろう。大正期は江戸時代の昼夜12刻制ではなく、もちろん現在の24時間制をもとに鐘をついたので、明け方の鐘は午前6時だったとみられる。林芙美子は旭町の「木賃宿」に泊まりながら、天龍寺の午前6時を告げる時の鐘の音を垢じみた蒲団の中で聞いていたのだろうか?

◆写真上:天龍寺に残る「江戸三名鐘」のひとつ、1767年(明和4)に鋳造された時の鐘。
◆写真中上は、1862年(文久2)に作成された尾張屋清七版による江戸切絵図「内藤新宿千駄ヶ谷辺図」。は、1899年(明治32)に作成された1/20,000の「東京全図」にみる内藤新宿南町の界隈。は、新宿4丁目にある天龍寺山門の現状。
◆写真中下は、1935~38年(昭和10~13)ごろに作成された新宿駅周辺の「火保図」にみる四谷区旭町。は、新宿4丁目(旧・旭町)のいまに残る旅館街。右手は天龍寺の墓地だが、昔日の面影は薄い。は、あちこち「放浪」した時代に撮影された林芙美子。
◆写真下は、1941年(昭和16)に作成された「淀橋区詳細図」にみる旭町界隈。は、1957年(昭和32)に撮影された新宿駅甲州口(南口)で、徒歩5分ほどにある旭町は安宿と街娼の巣窟だった。は、1960年代に作成された「東京都全住宅案内帳」の新宿4丁目(旧・旭町)界隈。町内を北東から南西へ貫通する明治通りの敷設で、旧・旭町は斜め東西に分断されてしまった。
おまけ
 旭町に住みつき、角筈1丁目の武蔵野館横に天城俊彦が開設した天城画廊で、盛んに個展を開いていたのが長谷川利行だ。1935年(昭和10)ごろに制作された長谷川利行『新宿風景』の1作。下の写真は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲下における照明弾に照らされた旭町。
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戦中戦後を走る堤康次郎の食糧増産列車。

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 きょうの記事は、食事中にノートPCやスマホ片手に読んでいる方がいるとしたら、ただちに読むのをやめてページ遷移することをお奨めする。今回は、江戸東京の郊外野菜の栽培に用いられた重要な肥料、人糞尿のリサイクル活用についてがテーマだ。
 糞尿を肥料にしようと発想したのは、別に日本だけではない。中国をはじめ、アジアの多くの国々では肥料として用いられている。これに対して、ヨーロッパでは早くから糞尿は汚穢(おわい)、つまり汚らわしく厭うものとして忌避されており、古代ローマ帝国の時代から下水を通じて河川へそのまま流し、大地へ還元させるという発想そのものがなかった。したがって、糞尿たれ流しによるさまざまな疾病が、ヨーロッパでは恒常的に流行している。
 人間の糞尿を汚穢だとするとらえ方は、日本史の中では大きく二度ほどありそうだ。一度目は、明治以降に欧米からもたらされた思想や価値観をそのままコピーした時期であり、二度目は1945年(昭和20)以降に米軍からもたらされた衛生観だ。もっとも、ヨーロッパでは糞尿を平然と道路や広場にぶちまけるか、河川へたれ流していたので、実際にはどちらが「衛生」的なのか多々異論があるだろう。ヨーロッパで古くから、男女ともにハイヒールが発達したのは、石畳の道路を歩くときに糞尿の汚れを避けるためだという伝承があるぐらいだ。
 ところが、1877年(明治10)に東京帝大へ招聘された、大森貝塚の発見などで有名なE.S.モースは、糞尿のリサイクルと河川の清潔さ、糞尿による不衛生な環境に起因する病気が、日本ではきわめて少ないことに早くも気づいている。1987年(昭和62)に泰流社から出版された李家正文『糞尿と生活文化』によれば、日本人は糞尿に対する感じ方(抵抗感)が鈍いのではないかとしつつも、モースは「アメリカ人を悩ませる病気が日本ではみられない。(米国では)汚物を下水管で流し水を汚しているのに、日本ではそんなことがない」と記している。
 また、戦後に日本を占領した米軍は、糞尿を肥料のひとつとして育てられた日本の野菜をきらい、東京郊外の府中にわざわざハイドロポニックス水耕田の施設を建設して、将兵のために野菜を供給していた。これは、そもそも糞尿を回収する供給地だった、東京市街地の大半が戦災で壊滅してしまったため、肥料不足ひいては野菜不足に陥っていた課題を解消するための水耕田だったようだが、当然ながら関東ロームの大地+有機肥料で育てられた野菜のほうが風味がよく、戦後の食糧不足の時代でさえ水耕電は日本に定着しなかった。
 糞尿は汚穢だという感覚が欧米から輸入され、それを無批判・無検証で信じてしまう人間が多かった明治期、人糞を化学的に処理して衛生的な肥料にしようという試みが、日本でも行われている。イギリスで開発された肥料製造法のようだが、すばやく効率的に人糞を加工して扱いやすい肥料にできるということで期待されたらしい。もともと、京都の宇治では茶の栽培に人糞を使用していたが、ときに人糞を乾燥させ粉状にしたものを肥料として用いていた例もあり、人糞の加工はイギリスばかりでなく日本でも早くから行われていたようだ。
 明治の初期、本所にあった勧業寮で行われた人糞を原料とする肥料製造について、宮武外骨が主宰していた東京大学大学院の法学政治学研究科に付属する、「明治新聞雑誌文庫」に保存された新聞を見てみよう。1940年(昭和15)に林泉社から出版された『新聞集成明治編年史』第2巻に収録の、1876年(明治9)発行の郵便報知新聞4月18日号より、一部を引用してみよう。
  
 近年英国の発明にて、人糞を煮詰め盡(ことごと)く水分を去り、硫酸とかき和して臭気を止め乾して袋に盛り蓄へ、遠方の運輸に便にし肥料とすることは至極能き工夫なればとて、此程勧業寮にて其術を伝へ、本所五ッ目の広漠なる明け地へ竈を築き大釜を掛け並べ、千早籠城のごとく数十斛(こく)の黄龍汁をぐらぐら煮たぎらすと何とも彼とも譬へ様のなき臭煙が立ち昇り、風の随意々々吹散らすと、近所最寄の人々は胸を悪くし堪らぬとて、数十人連署して(東京)府庁へ願ひ出したるが、其後お止めになりたる由。(中略) 至極能いことゆゑ今後人家遠ふの場所にて盛に製法になつたら、嘸(さぞ)農家の益になる事で御座りましやう。(カッコ内引用者註)
  
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 これは、糞尿を活用して優れた肥料の「硫安」(硫酸アンモニウム)をつくろうとしているとみられる。だが、いくら本所にあった広い空き地を実験場にしても、風向きによっては近辺の住宅地にも臭気が流れこみ、住民たちはたまったものではなかったろう。東京府の命令で、さっそく実験は中止されているようだが、その後、「人家遠ふの場所」でも継続されたのかもしれないけれど、戦後まで糞尿の利用はつづけられたので、肥料開発は結局失敗したのだろう。
 先述したように、野菜栽培をするのに人糞尿は肥料のひとつにすぎず、ほかに江戸期からは糠(ぬか)や草木灰、油粕、魚粕、酒粕、家畜糞なども併せて畑に用いられていた。肥料となる人糞尿は、江戸市街地の町家や武家屋敷と農家が、便所汲みとりの請け負い契約を結び、代償として現金を支払うか、のちに生産した野菜をとどけるかして購入している。貸家や長屋などの場合は、買いとり先の代表として大家か、長屋の差配へカネを支払った。運搬は、農家が用意した肥桶に入れ、大八車や牛車に積んで生産地へと運んでいる。
 糞尿は、そのまま畑には撒けないので、下屋(肥料小屋)や肥溜めで熟成させる必要があった。下肥は、腐熟すればするほど酸性がアルカリ性になり、やがて中性になって優れた肥料になった。当時の農家には、下屋(肥料小屋)あるいは肥溜めがふたつ用意されており、ひとつは熟成させた下肥を保存し、もうひとつは新たに運搬してきた糞尿を貯蔵・熟成させる目的のものだった。練馬区教育委員会が、1985年(昭和60)にまとめた『練馬大根』によれば、甘みのある大きなダイコンを育てるのに、もっとも適した肥料は下肥と糠の2種類だったという。
 また、食糧や物資(肥料など)が極端に不足していた戦時中にも、糞尿の活用は大いに奨励されている。この事業を推進したのは、下落合の目白文化村国立学園都市を開発した、箱根土地でおなじみの堤康次郎だ。往路の鉄道で糞尿を東京郊外の田園地帯へと運び、糞尿貯溜槽と呼ばれるタンクでしばらく保存し、帰路の列車で生産物を東京市街地へと運びこむ、食糧増産&流通サイクルの事業化を試みている。畑への下肥利用と野菜栽培は、堤家の自宅で実証実験が繰り返されたようで、糞尿の貯蔵・熟成にはどの程度時間をかければすぐに利用できる状態になるか、堤自身をはじめ操夫人や娘、女中らも総動員して自宅の庭で実証実験に取り組んでいたらしい。
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 糞尿輸送は、1944年(昭和19)6月からスタートし、戦後の食糧難時代をほぼ脱却する1953年(昭和28)3月までつづけられている。糞尿輸送と食糧増産計画を事業化するにあたり、堤康次郎は資本金3,000万円で食糧増産株式会社を、1944年(昭和19)7月に設立している。では、その様子を、1955年(昭和30)に東洋書館から出版された筑井正義『堤康次郎伝』より引用してみよう。
 なお、糞尿輸送は西武線(現・西武新宿線)の開設時からまもなく開始されたと話される方もいるが、明らかに誤りで、戦争末期から9年弱つづけられた東京都ひいては国の食糧増産計画とシンクロした事業だった。ただし、ややこしいことに武蔵野鉄道(現・西武池袋線)や東武東上線では大正中期から行われており、当時は食糧増産がテーマではなく、人口が急増する東京市部の衛生環境、すなわち都市問題としての屎尿処理がメインテーマだった。
  
 まず輸送用の専用タンク車を百十五輌つくった。タンク車はコック一つひねればドーッと下へ出るように設計した。糞尿貯溜槽は武蔵野、西武の両沿線数十ヶ所に全容積二十七万一千五石のものを作った。肥溜の上へレールをしき、ここへタンク車を引込んで、コックをひねれば手をよごさずに操作できるというわけだ。輸送第一号車が肥溜にあけられる日、これをみにきた島田農林大臣や大達都長官、それに当時都会議員だった浅沼稲次郎等は、堤の構想にびっくりしたという。/このくさい特別列車が、とくに深夜の輸送力を利用して行われたことも従業員にとっては、かなりの負担となったが、みな喜んで協力した。/堤はまたこの肥料を利用して食糧増産を考えた。両電鉄を中心として東京都の郊外と埼玉県下の不毛の土地、平地、林野など二千町歩を開墾して畑にしようというのだ。そして、その食糧は専用タンクの上に特殊装置を作って、復路に運搬することまで計画した。
  
 文中、糞尿貯溜槽は「数十ヶ所」となっているが、1944年(昭和19)11月現在では17ヶ所の貯溜槽が稼働していた。堤康次郎が実施したのは、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)と西武鉄道(現・西武新宿線)の2線だが、郊外の田園地帯から食糧不足が深刻な大都市へ乗り入れする鉄道の大手は、戦争末期から戦後にかけて全国的に同様の輸送事業を手がけている。
 東京ではほかに東武鉄道が、名古屋では名古屋鉄道が、近畿では大阪電気軌道や京阪神急行電鉄が下肥輸送に参画していた。なお、国有鉄道は東京都(1943年より府→都)ひいては国の要請を拒否し、鉄道による糞尿輸送を引きうけた堤康次郎のもとへ、運輸通信省の牛島辰弥が訪れて、「国鉄に(糞尿輸送の)累が及ぶ」として抗議している。食糧増産計画は、戦中戦後を通じての大都市を抱える地方自治体ひいては国策だが、国鉄が拒否して私鉄が協力しているのは興味深い事実だ。
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 戦争末期から戦後の食糧難時代、毎年全国で万単位の餓死者が出たとされるが、政府統計が残る1950年(昭和25)の時点でさえ9,119人が餓死している。だが、これは正式に栄養失調と認定された数字であり、衰弱死など限りなく餓死に近い例まで入れると膨大な数にのぼるだろう。敗戦直後には、政府(+GHQ)は1,000万人の餓死者が出ると予測していた。それほど、国内の食糧は絶対的に不足し危機的な状況だったにもかかわらず、1944年(昭和19)の戦時中から自治体や国が推進する食糧増産計画は私鉄ばかりが協力し、国鉄が拒否して参画しなかったのは不可解で奇異に映る。鉄道官僚のエリートたちは、ことさら「汚穢」とかかわるのを忌避したものだろうか。日々、国内で数百人の餓死者が出る状況下、そんなことを気にしている場合ではなかったと思うのだが。

◆写真上:赤門を入ってすぐの、東京大学大学院法学政治学研究科「明治新聞雑誌文庫」入口。
◆写真中上は、1876年(明治9)4月18日に発行された郵便報知新聞の「人肥製造の失敗」記事。は、現在の畑で散布される化学肥料の「硫安」(硫酸アンモニウム)。は、宮武外骨が主宰・管理していた「明治新聞雑誌文庫」の資料室内部。
◆写真中下は、農家で実際に使われた直径38cm()と35cm()の肥桶。は、糞尿を運ぶ牛車。は、農家の畑近くに建てられた下屋(肥料小屋)。
◆写真下は、府中に建設された米軍のハイドロポニックス水耕田施設。は、西武鉄道が115輌製造した糞尿輸送のタンク車。上部には、復路で生産物を積載する設備も備えていた。

戦前のももんじ屋にオオカミが入荷していた。

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 以前、大江戸の各地にあったももんじ屋(肉理屋)についてご紹介しているが、大橋(両国橋)東詰めの本所側に、1718年(享保3)から開店している「豊田屋」さんには、興味深い記録が残っていた。ももんじとして、2頭のニホンオオカミを仕入れたというものだ。
 しかも、このエピソードは吉田家の先々代にあたる8代目が記憶していたものであり、時代は戦前の昭和初期だと思われる。ご存じのように、ニホンオオカミは1905年(明治38)を最後に絶滅したとされているが、明治末から現代にいたるまで目撃情報や遠吠えの報告はあとをたたない。環境庁の規定では、「過去50年間の生存確認ができない」という規定から絶滅種とされている。ところが、豊田屋では昭和初期に「狼」を仕入れていた。
 ちょうど同時期に、南方熊楠は周辺の紀伊山中でニホンオオカミの目撃情報が絶えないことから、熊野古道へ探索に出かけたりしている。また、関東の秩父山系では、オオカミとみられる動物が猟師や登山家、ハイカーたちによって頻繁に目撃されており、国の規定がどうであれ、そこにいて当然のような存在として戦前戦後を通じ伝えられている。
 わたしは親に連れられ、幼稚園のころから豊田屋へは昼食・夕食を問わず食べに寄っていたけれど、オオカミの話は聞いたことがない。わたしの子どものころは、8代目・吉田実店主から9代目にかかる時代だったのだろう。オオカミのエピソードが記録されたのは、1953年(昭和28)1月から半年間にわたり、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」で、豊田屋を訪ねて8代目の吉田店主からオオカミの話を聞いているのは石黒敬七だ。1953年(昭和28)に現代思潮社から出版された読売新聞社会部・編『味なもの』収録の、石黒敬七「享保の昔から精力鍋」より引用してみよう。
  
 此頃は猪と鹿ぐらいのものだが、時々、猿、狐、狸、熊などがくるそうだ。主人公<8代目店主・吉田実>が覚えあってから狼が二匹来たことが一回だけあるという。「お相撲さんも場所の前後には見えます。場所中は四ツ足(手をつくの意)だというので、縁起をかついで見えません」とのこと。春日野親方、元安芸ノ海、栃錦、元双葉山などは好きらしい。(< >内引用者註)
  
 豊田屋の常連には、9代目・市川団十郎西園寺公望2代目・市川猿之助尾崎士郎横山大観坂口安吾、木村武山……などがいたようだ。石黒敬七は「精力鍋」とタイトルしているが、わたしが子どものころ……というか親の世代から上では、寒い冬場の夜や雪の降った日などに、冷えた身体を暖めるのが“ももんじ食”の目的なので、別に「精力」云々は上野山下のケコロ(岡場所)のやき鳥深川の「う」と同様、年間を通じて食べてもらえるよう、あと追いでつけられた「効能」(大正以降?)ではないだろうか。
 いつか、大江戸の武家屋敷跡や商家跡から、たくさんのアオジシ(ニホンカモシカ)やシシ(ニホンジカ)など山に棲む動物の骨が発掘された記事を書いたけれど、江戸の武家・町人を問わず肉食、あるいは江戸各地のももんじ屋の暖簾をくぐって肉料理を食べるのは、別に江戸中期から特別めずらしいことではなくなっていた。流行りの江戸本などに書かれている、おそらく江戸詰めだった大名のこの街以外の藩士か、仏教の関係者あたりが記録したとみられる「薬食い」などという意識はなく、大江戸での肉食はとうに定着していただろう。うちの先祖も、大橋(両国橋)の東詰めに開店した豊田屋へ、さっそく冬の寒い夜など食べに出かけていると思われる。
 上記の文中に挙げられているももんじの中で、もちろんオオカミは食べたことがないが、サルは気味が悪いので口にしたことがなく、仕入れのタイミングが悪いのかキツネも食べたことがない。イノシシとタヌキ、シカ、クマは豊田屋で食べている。イノシシ鍋とシカ(ニホンジカ・エゾシカを問わず)の刺し身や鍋は非常に美味だが、ツキノワグマの鍋や汁は美味しくない。クマは、北陸にある多くの鮨屋がそうしているように、極低温冷凍で殺菌・殺虫してルイベ(ルイペ:溶かしながら食べる料理の総称/アイヌ語)の状態から、ポッと赤みがさした溶けかけの刺し身を、ワサビ醤油でいただくのがすばらしく美味しい。
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 タヌキは、どう調理しようが臭くてマズイので口にあわない。おそらく、キツネも同じような風味ではないかと想像しているが、どうだろうか。アオジシ(ニホンカモシカ)は、牛肉よりもはるかに美味しいという記録が、戦前の資料やマタギの記録各種には見えるけれど、現在は特別天然記念物に指定され、食べると即座に逮捕されるので経験がない。オオカミの味は、はたしてどのような風味だったのだろうか。食肉目イヌ科に属する動物なので、イヌの肉に近い味なのだろうか? もっとも、わたしはイヌ肉も食べたことがないので味はわからない。
 ちょっと横道へそれるけれど、江戸東京ではキツネのことを「コンチキ」あるいは「コンコンチキ」と呼んでいた。この名称は、うちの祖父から親の世代まで現役でつかわれていて、そのころにはキツネの呼称というよりも、なにかを強調したいときに語尾へくっつける表現としてつかわれていた。「嘘八百のコンコンチキだ」とか「バカ丸出しのコンコンチキなやつだ」、「当ったりまえのコンコンチキさね」とかいうつかい方だ。有吉佐和子は、『和宮様御留』(講談社/1978年)の中で京の祇園囃子を「コンコンチキチン、コンチキチン」と表現しているが、これはもちろん本来の意味でつかわれている事例で、陰険でズルがしこいイメージが付与されたキツネ(かわいそうに)を、京の公家たちになぞらえて「コンコンチキ」としたものだろう。
 さて、ももんじの豊田屋で昭和初期に仕入れた「狼」は、はたして「オオカミ」だったのか、それとも「ヤマイヌ」と呼ばれ、江戸期には同一視されていた別種のイヌ科動物だったのだろうか。これは相変わらずハッキリせず、ニホンオオカミの謎とされているテーマだ。そもそも、オランダのライデン博物館に保存されているシーボルトが送った標本でさえ、それぞれの個体標本が一致していない。したがって、現在では日本の山中にはニホンオオカミとともに、イヌ科のもう1種類の動物が棲息していたのではないかという見方が有力なようだ。
 誤解を怖れずにいうなら、ちょうど北米大陸におけるオオカミとコヨーテのような関係に似ているだろうか。けれども、北米大陸ほどコトは単純ではなく、ニホンオオカミはイヌとも交配していたような形跡が見うけられ、亜種の存在という課題がよけいに分類をややこしくしているようだ。つまり純粋なニホンオオカミと、イヌと交配した亜種の雑種オオカミと、日本の山に棲息し「ヤマイヌ」と呼ばれた独自のイヌ科の動物の、3種類が想定できるということなのだろう。
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 江戸期の人々は、ニホンオオカミ(狼)ともう1種(2種?)のイヌに似た野生動物(豺・犲=山犬)を、総称して「ヤマイヌ」あるいは「オオカミ」と呼んでいた可能性があるということだ。シーボルトは、確実に2種の異なるイヌ科の動物と認識していたが、ライデン博物館館長のテミンクはシーボルトの帰国を待たず、1種と断定してタイプ標本化してしまった。その錯誤(?)の経緯を、2017年(平成29)に旬報社から出版された、宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』から引用してみよう。
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 ライデン自然史博物館にCanis hodophilaxのタイプ標本として現在保存されている標本は、シーボルトが送ったものとされる。一体の動物のセットではなく、三つの頭骨と一つの全身骨格、それによく知られている立像の剥製標本があり、後ほど述べるように三体の動物のものであると説明されている。/シーボルト自身は、ヤマイヌとオオカミという二種類の動物をライデンに送ったつもりだった。ところがライデン自然史博物館の初代館長で、鑑定にあたった動物学者テミングは、それらをまとめてCanis hodophilaxとし、標本群をタイプ標本に指定している。/山根(一眞)は剥製標本の台座の裏には、「Jamainu」と明記があることを確認している。ニホンオオカミの呼称はヨーロッパでは当初、ヤマイヌという動物一種とされていた。ヤマイヌに付された学名がCanis hodophilaxだから、オオカミには、まだ学名が付されていないことにもなりかねない。(カッコ内引用者註)
  
 この背景には、シーボルトとテミングの根深い確執があったとされている。シーボルトが長崎の出島に拘禁されて(いわゆる「シーボルト事件」)帰国が遅れている間に、シーボルトが2種のイヌ科動物として送った標本をあえて1種にまとめ、シーボルトの業績をできるだけ過小化しようとしていたフシが見られるのだ。ライデン博物館に保存されているタイプ標本には、「発見者」であるシーボルトの名前ではなく、テミングの助手の名前が記されている点からも、シーボルトの業績を「なかったこと」にしようとする意図がうかがえるというのが現状の解釈だ。
 現代から見ると、ライデン博物館のタイプ標本は2種以上の動物に分類されている。ひとつの頭骨と全身骨格(♂)は、明らかにイヌ(野犬?)のものであり(A)、もうひとつの頭骨は日本国内でニホンオオカミとされる標本と一致している(B)。また、残りの頭骨と剥製にされた標本は、ニホンオオカミに似ているが小型で、国内に残るニホンオオカミの毛皮などと比較してもかなり小さい(C)。すなわち、先述したようにBが本来のニホンオオカミであり、Aが日本の山野にいたイヌ科の未知の動物(ヤマイヌ?)で、Cがオオカミとヤマイヌが交配した亜種ということになりそうだ。
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 いまの動物学による観察・分類を踏まえると、ももんじ屋「豊田屋」が仕入れた「狼」とは、はたしてニホンオオカミだったのだろうか? それとも、日本の山野にいたイヌ科の固有動物(ヤマイヌ)、あるいはオオカミとイヌとが交配した亜種だったのだろうか? 昭和初期のことなので、写真が撮られたかもしれないが、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で焼失しているのだろう。実際にそれを食べた人物の“食レポ”が残されていないかどうか、これからも注意してみたい。

◆写真上:子どものころから見かける、豊田屋の軒先に吊るされたイノシシ。ちなみに、イノシシ以外の動物が熟成のために吊るされているのは見たことがない。
◆写真中上は、夜になると輝くももんじ屋「豊田屋」の電飾看板。は、出汁を先に張ってから肉を入れる江戸東京では牛鍋と同じく「鍋料理」に分類されるシシ鍋。下左は、1953年(昭和28)に出版された読売新聞社会部・編『味なもの』(現代思潮社)。下右は、2017年(平成29)に出版された宗像充『ニホンオオカミは消えたか?』(旬報社)。
◆写真中下は、ライデン自然史博物館に収蔵されているシーボルトが収集した「Jamainu(ヤマイヌ)」の剥製だがニホンオオカミとは形状が異なる。は、シーボルトの資料に描かれたヤマイヌ。は、和歌山大学が所蔵しているニホンオオカミの剥製標本。
◆写真下は、東京大学が所蔵しているニホンオオカミの剥製。は、国立科学博物館に展示されているニホンオオカミの骨格標本。は、狛犬ならぬ狛狼が出迎える渋谷の宮益御嶽社。

鹿地事件の茅ヶ崎C31ハウスと渋谷USハウス。

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 中国の重慶(国民党政府)へ亡命し、そこで対日の反戦・反軍国主義プロパガンダを推進して、蒋介石による日本本土の「初空襲」にも参画していた、作家で文芸評論家の鹿地亘は、帰国後の1947年(昭和22)より下落合4丁目2135番地(現・中井2丁目)に、のち1953年(昭和28)より上落合1丁目36番地に住んだことはかつて記事にしている。
 戦後の米軍による謀略事件の資料類を調べていたら、鹿地亘が米軍のキャノン機関(G2)に拉致誘拐・監禁されていた場所の詳細な証言や特定、監禁ルートの調査に同行したカメラマンが撮影したとみられる写真類が、1952年(昭和27)の時点で残されていることが判明した。また、当時は衆議院議員で社会党の代議士だった猪俣浩三も、1952年(昭和27)12月8日の衆議院法務委員会が開催される直前に、鹿地亘が監禁されていた米軍拠点のルートを自身で調査あるいは調べさせ、関連する人物たちや近隣住民への調査・取材を実施している。そして、判明したそれらの事実や証言を、同日の法務委員会で政府への質問内容に含めて詳細に暴露している。
 鹿地亘は、藤沢の鵠沼で暴行され米軍に拉致・誘拐されたあと、謀諜機関G2の本部だった不忍池も近い本郷ハウス(現・旧岩崎邸庭園/米軍接収施設)での拷問と自殺未遂を皮きりに、横浜の中央外人病院(同)、川崎市丸子の東京銀行川崎クラブ(TCクラブ/同)、茅ヶ崎の米軍キャンプが置かれた海岸北側の松林に建っていた中島別荘(C31ハウス/同)、渋谷区代官山駅近く猿楽町の猿楽小学校前にあった西洋館(USハウス/同)、殺されそうになった沖縄の米軍知念基地、そしてB17に乗せられて羽田から再び代官山の西洋館(USハウス)へと、神宮外苑で解放されるまでめまぐるしいルートを連れまわされつつ、約1年間にわたって監禁されつづけた。
 日本の主権侵害をマスコミが報道せず、国会の法務委員会で質疑応答がなされなければ、米軍のスパイになるのを拒否した鹿地亘は、代官山(渋谷ハウス)へもどされず、おそらく沖縄(当時は米国領)の米軍基地で殺されていただろう。この中で、以前から気になっていたのが、米軍キャンプが設置され射爆場にされていた茅ヶ崎の海岸一帯にあった中島別荘(C31ハウス)と、代官山駅近くの猿楽町にあった大きな西洋館(渋谷ハウス)だ。
 衆議院の猪俣浩三議員は、鹿地亘が米軍に監禁されているのを告発した、米軍勤務のコック山田善二郎とともに、これらG2の謀諜拠点を2週間かけてめぐり具体的な調査をしている。その様子を、1952年(昭和27)12月の衆議院法務委員会における国会速記録から引用してみよう。
  
 (前略)茅ヶ崎市のある松林に囲まれたC三一号と称しまする、アメリカに接収せられましたる公館であるということを山田氏が申しましたので、茅ヶ崎駅からその公館まで行きまする道順を彼に口述させてみましたが、はたして山田が言う通りのC三一号なるみのが存在しておつたことがわかりました。その他、この茅ヶ崎市に抑留せられまする以前におつたと称しまするのは、丸子多摩川の東京銀行の川崎支店、そのとき東銀クラブ、なお東川クラブと称せられる所、これはやはり接収せられましてアメリカ軍の何らかの諜報機関の館になつておつたようでありますが、そこに鹿地氏があつて、やはり山田君はそこで鹿地氏に食事を提供しておつたという証言がありましたので、これもまつたく山田氏の知らざる第三者をつかわしまして、そのTCクラブと称される東銀クラブの公館の付近の住民について調査をいたしました。そうしますと、山田というコックがおつたこと、日本人で病人と称する者が長らくここにおつたということの証言を得たのであります。
  
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 猪俣議員は、本郷ハウス(岩崎邸)で40年間ボイラーマンをしていた斎藤正太郎が、一時的に茅ヶ崎のC31ハウスに同職で勤務していたことも突きとめ、そこでコックの山田善二郎とともに、鹿地亘が監禁されているのを確信するようになった経緯を発表している。そして、明らかに国家の主権が侵されている重大事件だと規定した。ちなみに、鹿地亘が茅ヶ崎の監禁場所へ移送されたころ、責任者はG2のキャノン少佐からCIAのガルシェ大佐に交代している。
 茅ヶ崎にあったC31ハウス(現・茅ヶ崎市松が丘2丁目)は、もともと中島飛行機の中島知久平の実弟で、錫(すず)を採掘する千歳鉱山と岩戸鉱山の社長だった中島門吉の別荘だったのを、敗戦と同時に米軍が接収しC31ハウスと称し謀諜機関の拠点としていたもので、返還後はクロマツに囲まれた旅館「松林荘」として営業していたようだ。当時の写真を見ると、門の脇には門番の袖がある和風の造りだが、母家はモダンな西洋館というややチグハグな外観をしている。
 鹿地亘が、C31ハウスの2階に監禁されていた時期は、ちょうど朝鮮戦争と重なるので、茅ヶ崎海岸から菱沼海岸、辻堂海岸にかけては、米軍による射爆演習や上陸演習が盛んに行なわれ、C31ハウス(中島別荘)にも砲爆弾の音がよく響いていたにちがいない。烏帽子岩がサムライ烏帽子のかたちを失い、今日のようにただの三角岩になってしまったころだ。
 そして、次に移送されたのが代官山駅の近く、渋谷区猿楽町の西洋館(USハウス)だった。鹿地亘は、監禁場所を移動させられるとき常に目かくしをされていたのだが、監禁場所が渋谷の猿楽町にあることは監禁当時より知っていた。それは、1952年(昭和27)10月1日に行われる総選挙に向け、役所の広報係が「立会演説会が裏の猿楽小学校で開かれます!」と、拡声器で繰り返し叫んでいたのを聞いたからだ。この猿楽町にあったUSハウスが、以前より気になっていた。
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 ここは、鹿地亘自身の証言を聞いてみよう。1953年(昭和28)に理論社から出版された鹿地亘/山田善二郎・共著『だまれ日本人!』から、猿楽町USハウスでの様子を引用してみる。
  
 「茅ガ崎」におったのは、九月の二十三日までで、わたしの察するところでは、山田がここをはなれたことにかれらは不安を感じはじめ、再びわたしの居所を代官山の猿楽小学校前の洋館の二階にうつした。監視はその前の部屋にいつもピストルを枕のわきにおいて寝た。この物置風の小部屋には小窓があったが、それはわたしが暑かろうという口実で、電気冷蔵器をすえつけてふさがれた。/今度はラジオの聴取も禁止された。十一月の初旬のある日のこと、ガルシェはわたしのところからラジオをとりあげてもってゆく。それから、読ましていた新聞もさしとめた。わたしは何事かかれらのおびえることがあると感じた。そして、わたしにさしのべられた国民的救いの手は、ひしひしと迫っているのを感じた。/わたしは光田軍曹と高橋曹長の手ぬかりで、ある日、古い朝日新聞をみると、外ではわたしの救出が大きな問題になっていることがわかった。
  
 登場している「光田軍曹と高橋曹長」は、鹿地亘の監視役で米軍の日系二世兵士だ。この直後、身辺に危険が迫っているので「国外にあなたを移します」という口実のもと、彼は羽田から沖縄の嘉手納空港に移送され、知念基地の兵舎に監禁されることになる。
 鹿地亘が急遽、日本から沖縄(米国領)へ移送されたのは、国会での本格的な調査が開始されようとしていたからだ。このときが、鹿地亘にとってはもっとも危険な時期だったろう。彼を殺して闇に葬れば、当時の米軍と日本政府との力関係からして、事件そのものをたやすく「なかったこと」にできただろう。ちょうど、下山事件などの関係者の何人かが、沖縄の米軍基地を最後に「行方不明」となり消息が知れないのと同様の結果だったのではないか。
 そうはならなかったのは、CIAが鹿地亘を対中対ソスパイに仕立てるのを、いまだ諦めていなかったフシが見える。それは、ガルシェ大佐が最後に「あなたに協力を願う我々の希望は捨てていない」と伝えたことからも、「利用価値」を認めていたことがうかがえる。おそらく、当時のCIAには対中対ソに人脈をもつ人材が少なく、彼のように中国国民党や共産党に多くの知己をもつ人物は稀少価値だったのだろう。CIAは、最後の監禁場所となった猿楽町のUSハウス(渋谷区猿楽町10番地)で、鹿地亘に米軍最高司令部への連絡方法まで教えてから解放している。1952年(昭和27)12月7日の夜7時ごろ、鹿地亘は神宮外苑でタクシー代をわたされ米軍のジープから放りだされた。鹿地亘はタクシーをひろうと、下落合4丁目2135番地のわが家へ1年ぶりに帰宅している。
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 この渋谷猿楽町のUSハウスは、猿楽小学校のすぐ南側に道路を隔てて接した大きな屋敷で、和風の門がまえにモダンな西洋館という、やはり不釣り合いな意匠をしていた。このG2渋谷拠点だった西洋館は、南東側に増築を重ね1980年代まで建っていたのが空中写真から見てとれる。

◆写真上:鹿地亘が拷問を受け、縊死とクレゾール液の服用で何度か自殺未遂を繰り返した、米軍G2(キャノン機関)の本部「本郷ハウス」(現・旧岩崎庭園)。
◆写真中上は、茅ヶ崎のラチエン通りから東へ折れたところにあったC31ハウス(中島門吉別荘)。は、1952年(昭和27)に撮影された茅ヶ崎の米軍C31ハウス。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された渋谷区猿楽町の渋谷USハウス。は、1952年(昭和27)に撮影された渋谷USハウス。は、1979年(昭和54)撮影の同邸。
◆写真下は、1952年(昭和27)12月8日刊行の朝日新聞記事。は、下落合の家族のもとへもどった鹿地亘。は、1952年(昭和27)12月10日の衆議院法務委員会で証言する鹿地亘。
おまけ
 1952年(昭和27)12月に衆議院の法務委員会で宣誓・証言をする、奥から斎藤正太郎、山田善二郎(マイク前)、上海と神田神保町で内山書店を経営していた内山完造。彼らの証言により当時、日本国内にあった米軍謀諜機関のG2のちCIAのアジトが、次々と明るみにでていった。
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明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)。

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 拙ブログでいえば、下落合753番地に住んだ九条武子が信仰していた(と思われる) 親鸞の歌と伝えられている作に、「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)、夜半に嵐の吹かぬものかは」というのがある。最初から余談で恐縮だが、最近、「徒」桜を「仇」桜と「かたき」という字をあてている方が多いのは、いったいどうしたことだろう。桜へ「徒」=「はかない」の意をかぶせた用語だと思うのだが、桜は「かたき」ではないでしょう? 同じように気になるあて字に、「袖振り合うも多少の縁」。確かに多少は縁ができるかもしれないけど、「他生」の縁とは比べものにならないほど、はかなくて薄い「徒縁」にはちがいない。
 歌はみなさんも知るとおり、サクラが満開なので明日にでも花見をしようと思っていたのに、夜半の嵐であらかた散ってしまい「きのう見ときゃよかった!」と後悔してもはじまらないよというような意味あいだろう。転じて、きょうできることはきょうじゅうにやっておけ、明日になったら間にあわないことだってあるんだよ……という、教訓めいた至言にも利用されている。似たような格言には、井伏鱒二が于武陵の漢詩から訳した、「花ニ嵐ノタトヘモアルゾ サヨナラダケガ人生ダ」(1935年)が思い浮かぶ。拙ブログでは、以前に下落合を散歩していた緒形拳のセリフとしてご紹介しているが、こちらは転じて、酒を飲みながら「あなたとすごしている、いまの時間がかけがえのないものなので大切にしよう」というような感覚だろうか。
 20年ほど前、身体を壊している友人から、夏の終わりに繰り返しメールをもらい、いろいろ励ましたり元気づけたりしていた。近いうちに見舞いにいこうと思っていたのだけれど、仕事がバタバタと忙しく休日になるとグッタリ昼近くまで寝ていたので、なかなかその機会がなく延びのびになっていた。別に入院しているわけではなく、通院しながら自宅で静養しているということだったので、周囲には家族もいるし大丈夫だろうと、見舞いを先延ばしにしていたのだ。だが、年末に自宅で倒れ、そのまま意識がもどらず友人は年明けに急死してしまった。なぜ、すぐに見舞いにいかなかったのかと、あとで後悔することしきりだった。
 「明日ありと思う心の徒桜」を思い知らされたような出来事で、このとき以来、いまできることはすぐに実行しようと肝に銘じて生きているつもりなわけだが、そこは根が怠惰な性格なので、延びのびになっている案件や約束は、いまでは片手の指の数よりも多くなっている。きっと、危機感や切迫感が徐々に薄れていき、大地震はいつか必ずくるというのに、東京へ高層マンションを建てつづけているゼネコンにも似て、きょうは大丈夫だろう、いましばらくはこのまま平穏無事がつづくだろうという、根拠のない刹那的な楽観論がムクムクと頭をもたげてくるのだ。明日になって、「しまった!」と思ってもあとの祭りで、サクラの花弁が散るぐらいならまだしも、多くの人命が散ってしまってはとり返しがつかない。
 「明日ありと思う心の徒桜」は、どこか茶道の「一期一会」にも通じる思いや情緒もそこはか感じられる。でも、明日の生命(いのち)をも知れない、いつ戦乱で生命を落とすかもしれない室町末期の武士がたしなんだ茶道と、現代の茶道とではまったく意味や意義が異なるだろう。いまの茶道は、「一期一会」どころか形式や作法・しきたり、あるいは道具の価値や景色にこだわりすぎて、「来週はお月謝を忘れずに」としっかり「明日」以降の日常や再会を予定しているしw、「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの、オ~ホホホ」などという点前あとの道具自慢にいたっては、「あなた、茶道に向いてないかも」と、つい口もとまで出かかってしまう。
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 ここでまた少し余談だが、どうせいつもテーマから外れた文章ばかり書いているので、しばしお許しいただきたい。いつか、わたしは抹茶よりも煎茶が好きだが、たまに喉が渇いたので煎茶のペットボトルを街中で買うと、煎茶の中に「抹茶入り」というおかしな製品を見かけるようになった。なぜ煎茶の中に、あえて抹茶を混入するのか? そのほうが、地域によっては「高級」に感じるのかもしれないが、せっかく煎茶のサッパリと澄んだ風味が、抹茶の粉っぽくて重たい、クドく濁った風味で台なしじゃないか、やめてもらいたい……と記事に書いたことがある。そのとき、煎茶は煎茶、抹茶は抹茶で文化がちがうとも書いた。
 煎茶は、基本的にどこでも好きなときに好きなかたちで楽しめる、手軽で形式ばらない喫茶文化だけれど、抹茶はやはり肩肘が張りよそよそしく少々事情が異なるだろう。家に入った大工さんに、「お茶がはいりましたのでど~ぞ」と抹茶と茶請けをだしたら、「あざ~す」と片手で茶碗をもってすするというようなシチュエーションは考えにくい。鮨屋に入り、「あがりちょうだい」といって抹茶が出たら、「なんのマネだ?」となるだろう。つき合い酒で遅く帰宅し、「茶漬けでいいですよ」といって冷や飯佃煮に抹茶が出たら、「なに考えてんだよ」となるにちがいない。「オレ、なんか悪いこといったかな」と、夫婦関係が心配になるかもしれない。
 こんな思い出もある。学生時代に、藩主の松平不昧で有名な茶室「明々庵」を訪れ、抹茶をふるまわれたときに、茶道の心得がないので「どうやっていただけばいいんですか?」と訊いたら、「もう、ご自由にどんなかたちでお飲みになっても、まったくかまいませんよ」といわれたので、さっそく胡坐をかいて茶請けとともに味わった。ついでに、庭を向いて松江城を眺めながら残りをいただいたろうか。そのとき撮影した写真を、以前の小泉八雲の落合散歩記事に掲載している。つまり煎茶のように、気軽に周囲の景色や風情を楽しみながら飲んだわけだが、作法やしきたりに縛られず、儀式ばらずにいただいた抹茶の味はすなおに美味しかった。
 これもいつだったか、母方の大叔母が北鎌倉に住んでいて、母家つづきの鄙びた数寄屋(茶室)をしつらえており、訪ねるたびに親たちはそこで茶の接待を受けたのではないかと思う。煎茶好きな親父は、「まいったな~」と思ったのかもしれないが、そこで供された抹茶や茶請けの味は美味しかったのだろうか? おそらく、作法や形式にこだわり儀式ばって“型”にはまった茶を出され、窮屈に飲んだ抹茶の風味は、あまり美味しくはなかったのではないか。それよりは、早く腰を浮かして北鎌倉の寺社をめぐり、山々のハイキングコースを歩きたかったのではないかと思う。
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 親父は煎茶を飲むとき、かなり使いこんだ高級そうな九谷の湯呑を使っていたが、わたしは子どもが学校の工作時間につくった湯呑を愛用している。少し歪んでいるけれど、轆轤の跡も生々しく味わいがあって楽しい出来だ。高級九谷で飲んでも、子どもの工作茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ煎茶の風味は変わらない。同様に、わたしが明々庵の土産に買った1,500円の茶碗(いまでは販売していないらしく、ネットオークションではけっこうな値段がついている)で飲んでも、300万円の志野の茶碗で飲んでも、手ざわりや口あたりこそちがえ抹茶の風味は変わらない。「この織部は元和偃武のころですのよ、二つほどしましたの」の奥様は、楽しんで茶を飲んでいるのではなく、型や道具立てで茶に「飲まれている」のだ。
 さて、なんでしたっけ? あ、「明日ありと思う心の徒桜」だった。もうひとつ、子ども時代の思い出といえば、学校帰りに文具店のショウウィンドウで見かけたプラモデルがあった。日ごろから艦船ばかり組み立てていたので、たまには飛行機を……と目をつけていたプラモが、双発のスマートな機体が気に入った旧・海軍の爆撃機「銀河」だった。正月のお年玉がたまったら、絶対に手に入れようと思っていたのだけれど、正月の休み明けの下校時にさっそくショウウィンドウをのぞくと「銀河」がなく、かわりに「サンダーバード2号」のプラモに変わっていた。店の人に訊くと、年末に売れてしまったのだという。明日ありと思う心の徒桜。
 中学校に上がり2年生のとき、うしろの席のきれいな女子に、なんとなく会話の延長で告白されたようなのだが、冗談だと思ってそのままにしていたところ、どうしても気になり、あとあと思いきって手紙を差し上げたら、ナシのつぶてでそのままになってしまった。明日ありと思う心の徒桜……と、考えてみたら今日までこんな経験ばかりしてきたような気がする。やはり、きょうできることはきょうじゅうに、鉄は熱いうちに打て、思い立ったが吉日、旨い物は宵に食え、好機逸すべからず、善は急げ、機をみるに敏、先手必勝……と、いろいろな格言が思い浮かぶが、幼いころから中学時代まで海辺で育ったせいか、「待てば海路の日和あり」のほうがしっくりくるわたしの性格は、およそ死ぬまで治りそうもない。
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 井上光晴の小説に、『明日』(集英社/1982年)というのがある。さまざまな想いを抱えた人たちが、明日の約束をしたり予定を立てたりしていく筋立てだ。明日が出産日という妊婦も登場する。1945年(昭和20)8月8日の、長崎の1日をめぐる物語だ。けれども、彼らに「明日」はこなかった。人の生死が絡むと、「明日ありと思う心の徒桜」は「一期一会」と同様、とたんに緊張感をともなうシリアスな格言に豹変する。できるだけその感覚を忘れずに、日々をすごしたいものだ。

◆写真上:江戸川橋から高戸橋までつづく、江戸期の江戸川に起因する神田川の桜まつり。
◆写真中上は、抹茶を出されると気楽に飲めばいいものを周囲を見ながらかまえてしまうクセがある。は、織部の高そうな茶碗と志野茶碗(赤志野)。
◆写真中下は、茶室「明々庵」から撮影の松江城。は、明々庵の土産茶碗。は、親父の愛用品に似ている九谷湯呑だが実際は使いこんで渋い色あいだった。
◆写真下は、旧・海軍の爆撃機「銀河」のプラモイラスト。は、中学時代に「明日ありと思う心の徒桜」の格言を知っていればよかった。は、冒頭写真と同じく神田川の桜まつりの様子。

女ひとりでブラリと料理屋へ入れる時代に。

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 1953年(昭和28)1月から半年間にわたり、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」について、少し前に佐伯米子『言問団子』を紹介していた。このコラムシリーズが面白いのは、文章ばかりでなく挿画も執筆者が自ら描いている点だろう。執筆している画家たちはお手のもんだったろうが、作家や役者・俳優、音楽家、スポーツ選手、大学教授、評論家、舞踊家、政治家たちが、慣れない絵筆やペンを手に描いているのが面白い。
 どうしてもイヤだと挿画を断ったのは、播磨屋の初代・中村吉右衛門で、かわりに8代目・松本幸四郎(のち白鸚)が絵を引きうけている。また、音羽屋の7代目・尾上梅幸も絵がダメで尾上琴糸に頼んでいる。もうひとり、9代目・市川海老蔵(のち11代目・市川団十郎)も絵が苦手で佐伯米子に挿画を依頼している。コラム「味なもの」の連載で、挿画を断っているのはこの3人だけだ。あとの執筆者たちは、みなそれなりに絵筆やペンをなんとか使いこなしては描いている。そして、面白いのは、意外な人たちの絵に味わいがあってうまいことだ。
 たとえば、コラム「味なもの」の初回を引きうけた女優の三宅邦子は、おそらく趣味で洋画を描いていたのではないだろうか。1980年代の食べ歩き雑誌にでも登場しそうな、シャレたイラストを描いて、神田神保町の洋菓子喫茶「柏水堂」を紹介している。おそらく原画は、水彩で描いたカラーだったのではないか。また、同じく女優の丹下キヨ子は、三宅邦子とは正反対の面白いマンガで、銀座の喫茶店「きゅうべる」と向島の精進料理「雲水」について書いている。すでにどの店も閉店してしまったが、文章を読んでいるとつい出かけたくなってしまう。
 連載エッセイの「味なもの」は、戦前の同種の連載とは異なり女性の執筆者が多い。それだけ、薩長政府による「女は家に」という儒教思想の女修身(外国思想)を押しつけられることなく、戦後は自由に外を出歩けるようになったからだろう。多くが東京生まれの女性たちだが、出身町によってかなり気風(きっぷ)や気質(かたぎ)の異なるのがよくわかって面白い。「江戸っ子」(東京地方以外からの呼称)などという茫洋としたわけのわからない呼称ではなく、当時は「神田っ子」「銀座っ子」「日本橋っ子」「深川っ子」……というように、街中では町名+「っ子」が活きていた時代だ。江戸東京は、他の街に比べて相対的に広いので、(城)下町の生活言語はもちろん氏神や文化、習慣、風俗、料理、食べ物までが地域ごとにそれぞれ少しずつ異なっている。
 余談だけれど、(城)下町で生まれ育った女性の独特なイメージというのが、わたしの中にもなんとなく残っている。たとえば時代はバラバラだが、実際にその街の出身者である女性を例に挙げると、日本橋といえばビジネスでも家政でもヘゲモニーをとり、うまくまわせそうな「お上」の雰囲気が漂う十朱幸代が、銀座の女性というと装いはクールだが実はツンデレな岩下志麻が、神田というと“いなせ”でキリッとした雰囲気を漂わせた梶芽衣子が、本所というと懐が深く包容力のありそうな井川遥が、深川というときかん気が強く勇み肌だがおおらかな岩崎宏美が、浅草というと威勢がよく鉢巻きが似合いそうな天海祐希が、享保年間から拓けた飛鳥山を背負い(城)下町の雰囲気が漂う滝野川は倍賞千恵子が、もう少し北へ隅田川をたどると楽天家の小川眞由美がと、なんとなくその街ならではの気風(きっぷ)や気立てが漂う女性をイメージしてしまう。
 これは、昔から親父がいろいろな役者や俳優などで街の“分類”をしていたのを見て育っているので、自然、わたしの中でも形成された、出身町ごとの性格や風土を備える人物像(女性イメージ)なのだろう。以前ご紹介した尾張町(銀座)出身の佐伯米子だが、ふだんはツンと済ましてつれなく、気どった素振りを見せるけれど、一度気を許した相手には身をしなだれかけながら、ついデレデレと寄りかかって甘えるような性格をしていたのではないだろうか。でも、一度怒らせるとなかなか許してもらえそうもない、そんな自我の強いやや怖めな銀座女性のイメージがある。
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 さて、連作エッセイ「味なもの」にもどろう。浅草っ子で女優の丹下キヨ子は、文章も面白く、いまはなき「きゅうぺる」を紹介する、『銀座に童話調のコーヒー店』から少し引用してみよう。
  
 おいしいコーヒーを舌の上にころがしながらタバコに火をつけてふとカウンターの上を見てむせました。「お願い」が額に入っているのが目に止まりましたから。「①御婦人方の喫煙 ②ほかのお客様に話かけること ③無作法な振舞 ④放歌喧騒 ⑤長居、右自粛自戒成被様お願い申上げます 店主。(ママ:」)/喫煙、おしゃべり、長居の三つともおかしちゃってとチラッと先生のお顔をみたら、高くお笑いになって「これは私が書いたんじゃありません。井上正夫さんが書いたんですが、今ではこれも記念ではずせないんですよ」。
  
 「先生」と書いているのは、喫茶店「きゅうぺる」を経営していた児童作家の道明真治郎のことだ。同店には、どうやらコケシが飾られていたようなのだが、丹下キヨ子が描く挿画というかマンガは、そのコケシが困ったような顔をしているのが面白い。
 新派女優で、のちに歌舞伎の市川流舞踊家の3代目・市川翠扇となる市川紅梅(築地っ子)は、名の知られた洋食レストランや高級な料亭ではなく、ざっかけない茶漬けの店を紹介しているのがいい。新橋演舞場(銀座6丁目)に出演することが多かった彼女は、演舞場のごく近くにあった店が贔屓だったようだ。だから、舞台の楽屋で小腹が空いたときなど、舞台の合い間に駆けこむように茶漬けを食べていたようだ。魚介の茶漬けも出していたのだろう、「つきじくらぶ」という名前の店だったらしいが、市川紅梅『口のぜいたく直しお茶漬』から引用してみよう。
  
 新橋華街の真ん中。演舞場の楽屋口と隣り合せに、ちんまりと、ひっそりとこのお店の入口があります。名前は、恐ろしく散文的に“つきじくらぶ”。だけど、お店の中の方々のとりなしや、そのお味は、堅過ぎてもおらず、くだけすぎてもおらず、私どもが楽屋からかけこんで、軽いやすらいを感じさせてくれるほのぼのとした気分。/西洋風の食べ物にはサンドウィッチと言う気軽なものがあります。日本風のものには……ここのお店で食べさせてくれるお茶漬。
  
 なんだか、新派のセリフのようなリズムの文章だけれど、「つきじくらぶ」は銀座の再開発、あるいは区画整理のときに店をたたんでいるのだろう。東京には、昔から蕎麦屋や鮨屋と同じように、さっさと食べては仕事や遊びにもどれる茶漬けの専門店が各地域にあったが、いまではめずらしいファーストフードだろうか。このあたりだと、新宿や池袋には多いようだが、落合地域の近くでは東京メトロ東西線・高田馬場駅の駅中にある1店舗しか知らない。もうひとり、「味なもの」シリーズでは俳優の池部良が、新橋烏森にあった茶漬け屋を紹介している。
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 蕎麦屋生まれの高峰秀子は、なぜか蕎麦やうどんなどの麺類が大キライだったらしい。ニョロニョロしたのが、お腹へ入るのがどうにもガマンできず、大人になるまで満足に食べたことがなかったという。初めて蕎麦屋の暖簾をくぐったのは、羽田からパリに旅立つ直前で、なにか日本の味を記憶しておこうとしたらしい。以来、食わずギライだった蕎麦が大好物になり、東京じゅうの店を食べ歩くようになったようだ。以下、高峰秀子『パリで恋う日本の味』から引用してみよう。
  
 何しろまだ食べ始めてからの年季が浅いので、ヤプだかスナだか、何だかよくは判らないが、何といっても、割箸に上手い工合にひっかかってちょいと汁につけてツルツルッと口の中へタグリ込むあの味は、如何にも庶民の味方、下駄ばきの味、風呂帰りの味、そして淡々とした日本の味。更科は創業三百年とかいう事でありますが、私は根性曲りなので、殊に食べものに関しては説明不要の主義で、そういう曰くインネンはきかない事にしています。美味しい。
  
 登場している「更科」は、いまも麻布永坂町で健在だ。その麻布永坂町の「更科」で、先祖の墓参りの帰りに寄って食べていたのが、子ども時代の佐伯米子(池田米子)だ。彼女は銀座のお嬢さま育ちなので、蕎麦屋は出かけるものではなく家で出前をとって食べるものと、ずいぶんあとまで思いこんでいたらしい。また、年越し蕎麦は家内では欠かせない“行事”で、大晦日には家族や職人全員ぶんの蕎麦と天ぷら(専門店から)をとるならわしだった。
 そんな彼女がお薦めの蕎麦屋は、上野の広小路沿いに開店していた池之端の「蓮玉(庵)」だ。ここも江戸期からの店だが、革命家で親日家の郭沫若が、戦後に政治家になってから国賓として来日し、長年の蓮玉ファンだったことを告白しているが、この店のファンは都内だけでなく国内外にも多い。では、佐伯米子の『信州そばの石臼びき』から引用してみよう。
  
 「老舗といわれる家にはその古いのれんを支えている忠実な奉公人がいるものです。私の家にも五十年勤めた職人が居りましたが、なくなって今は十八年もいる女の子が一手でやってくれていますので大変助かります」/と自分を語らないところにも人柄が忍ばれる。(中略) 場所柄絵の関係の人が多いというが、なかなかにモリもいい、というと丈賀のセリフを思い出しますが、「モリもいいが味もいい」。
  
 「蓮玉」は当初、不忍池の端にあり店内から池が一望に見わたせたようだが、関東大震災で焼けてからは下谷(上野)広小路を1本入った仲町通りで営業している。芝居好きらしく、入谷鬼子母神が舞台の「天衣紛上野初花(くもにまごう うえののはつはな)」に登場する按摩の「丈賀」のセリフをまねているが、ここの蕎麦は腰があって確かに美味しい。
 1927年(昭和2)6月に、日本美術協会展示場(現・上野の森美術館)で開かれた1930年協会第2回展の6月18日(土)、出前に蕎麦を頼んだ前田寛治木下義謙木下孝則野口弥太郎小島善太郎らの5人はてっきり蓮玉庵かと思いきや、同店ではかつて一度も出前をやったことがないそうで、別の店だったことが判明している。5人が蕎麦を頼んだのは18日のみで、ほかには誰も頼んでいないところをみると、展示場に出入りしていたのは美味(うま)くない蕎麦屋だったのではないか。
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 ほかにオリエ津阪や戸川エマ、阿部艶子、美川きよ、初代・西崎緑など女性が多く、佐伯米子と同様に複数回の執筆もめずらしくない。機会があれば、彼女たちの文章を紹介したいが、戦後は、ようやく女性ひとりがブラリと料理屋に入っても、なんら咎められることも「不道徳」「非常識」(どこの国の思想規範だ?)などといわれることもなく、不自然に感じられない時代を迎えていた。

◆写真上:落合地域の周辺には、高田馬場に1店舗しか存在しない茶漬け屋。
◆写真中上:1953年(昭和28)に描かれた挿画で、三宅邦子の洋菓子喫茶『柏水堂』()、丹下キヨ子の喫茶店『きゅうぺる』()、市川紅梅の茶漬け屋『つきじくらぶ』()。
◆写真中下:同じく、高峰秀子の蕎麦屋『永坂更科』()、9代目・市川海老蔵の代行で描いた佐伯米子の鮨屋『二葉鮨』()、芝居好きらしい佐伯米子の蕎麦屋『蓮玉庵』()。
◆写真下は、蓮玉庵の店前と天せいろ蕎麦。は、1953年(昭和28)に読売新聞社会部・編で現代思潮社から出版された『味なもの』の表紙()と奥付()。

武蔵野で思わず出会えた蕨手刀。

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 台東区鳥越2丁目にある鳥越神社には、付近の古墳から出土したとみられる蕨手刀が奉納されている。ほかにも、以前から玄室の石棺内にあった副葬品とみられる勾玉や管玉、銀環なども同社に保存されており、早くから農地化や都市化が進んだ江戸東京では、平地にあった古墳を崩した際に出土した遺物を、近くの社に奉納したものとみられる。
 鳥越神社の近くには、古墳群が形成されていたとみられる浅草寺の境内や、同寺の東北東500mほどのところには、鳥居龍蔵の考古学チームが関東大震災の直後に調査した待乳山古墳(群?)も展開していた、東京の平地にはめずらしい古墳エリアだ。また、これらの副葬品は、過去に盗掘をまぬがれたほんの一部の遺物と思われ、江戸の市街地化が進んだ鳥越神社の周囲には、実際にどれほどの古墳が存在していたかは不明のままだ。
 鳥越神社に保存されている蕨手刀は、全長54cm余(鋩が欠損しており実寸はもう少し長い)ほどで、全長70cmを超える岩手県平泉から出土し福島県会津若松で保存されている全長70.6cm(刃長58cm)と、後世の打ち刀における大刀に近い長さには及ばない。一方、武蔵野市にある武蔵野八幡社(同社境内が古墳)から出土した蕨手刀は全長が63cmと比較的長く、鳥越神社のものよりもかなり大振りだ。わたしは、とある展覧会で「武蔵野ふるさと歴史館」へ立ち寄った際、常設展示されていた蕨手刀のレプリカを見て、都内の住宅地で発見された蕨手刀が鳥越神社のものだけではなかったことを、不勉強でうかつなことに初めて知った。
 この蕨手刀が、茎(なかご)に透かしを入れた毛抜透蕨手刀へ進化し、同時に茎が大きく曲がった曲手刀を生み、鋼の加工技術の高度化と相まって、徐々に反りのある日本独自の湾刀=「日本刀」へと進化することになる。最新の研究では、初期の湾刀(日本刀)は東北の餅鉄(河川で摩耗し粒状になった磁鉄鉱)や砂鉄を素材にしており、半地下式あるいは大型長方形箱形の溶炉によるタタラ製鉄で鋼を製錬し、後世の刀工とあまり変わらない仕事をへて、腰に佩く太刀(たち)に近い体配(刀姿)へと近づいていったことが判明している。現在の岩手県南部を中心に発達し、刀剣史では日本刀鍛冶の祖といわれている舞草(=儛草:もくさ)鍛冶の登場だ。
 当時の様子を、1995年(平成平成7)に雄山閣から出版された、石井正國と佐々木稔の共著による『古代刀と鉄の科学(増補版)』より、少し長めだが引用してみよう。
  
 おそらく蕨手刀は、長柄刀や毛抜透刀・太刀に変遷する一方で、曲手刀にも移行していったものと思われる。/次に、毛抜透蕨手刀であるが、これはかなり長寸で重ねが厚く、平棟・平造りの柄曲りの強いもので、切先は浅いフクラを示している。腰部は、鎺(はばき)の代わりに刃部を広幅に張り出し、この部分を鞘に押し込め、固定したものであろう。/これが次第に長寸になり、岩手県西磐井郡平泉の東山から出土した、伝悪路王所佩の毛抜透蕨手刀(図番号略)となる。これは、中尊寺に遺されている。そして同じく東山の出土と推定されるものが、福島県会津若松市の米山高道氏所蔵にある(同略)が、その寸法は、全長七〇・六cm、刃長五八cmと太刀に近づくもので、蕨手刀としては最長である。/最後に、岩手県胆沢郡衣川付近からの出土例がある(同略)。これはやや小振りのもので、その地刃を見るとかなり進化しており、舞草刀工の作品ではないだろうか。/これらの毛抜透蕨手刀は、いずれも九世紀前半頃(平安時代初期)のものとみえる。(中略) 衣川付近出土のものはさらに進化を見せ、小板目がつまり、こまやかな綾杉肌が示され、ぬか肌のような麗しい地鉄がある。/また、焼刃は大小ののたれ刃が示され、切先は直状になり、舞草刀工の作の中でもかなり上位のものとみえる。したがって、九世紀も末葉になると鍛冶屋も進歩して、舞草鍛冶が始まっていたものである。(カッコ内引用者註)
  
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 刀剣用語が頻出するが、「小板目」「綾杉肌」は鋼を折り返し鍛錬したあと、刀剣の地肌(平地や棟地)に現れる独特な肌模様のことで、特に「綾杉肌」は同じ東北の古代からつづく月山鍛冶へと直接受け継がれている。「ぬか(糠)肌」は、その地模様がわからないほどよく詰み鍛えられた地肌のことで、近世では肥前刀の地肌として有名だ。「大小ののたれ刃」は、いわゆる起伏がさまざまな乱れ刃のことで、焼き刃の名称としてはより細かな分類がなされる。
 蕨手刀は東北地方や関東の古墳から多数出土しており、しかも形状が湾刀化しているものは、代表的なものに青森県弘前市の熊野奥照神社が収蔵する長寸の蕨手刀(63.5cm)もあるので、少なくとも古墳期から湾刀が造られていたとみることができる。
 いつの時代も同様に、兵器・武器の形状や進化はひとつの例外もなく、戦闘の形態(戦術・戦法)によって規定される。弥生末より朝鮮半島から運びこまれた、あるいは海をわたり大量に移住してきた韓(から)鍛冶によって鍛えられた直刀は、基本的に徒歩(かち)戦による刺突で相手を倒す武器であり、国内でも当初はそれを模倣し古墳期から奈良期を通じて、全国各地で国産の直刀が鍛造されている。現代では、朝鮮半島の鋼で造られたものか、和鉄で鍛えられたものかまで成分分析により解明することができる。(おしなべて弥生末から古墳初期の段階では、西日本は朝鮮半島の鉄鉱石に由来する朝鮮鉄が多く、東日本は河川で採取できる餅鉄や砂鉄を原料とする和鉄が中心だろうか) ところが、5世紀をすぎるころから東北および関東地方で大量の馬が飼育されるようになり、東日本では徒歩戦ではなく騎馬戦が戦闘の中心になっていく。
 そのような戦闘に直刀は不向きで、騎馬同士がすれちがいざまに相手を撫で斬る=斬り抜く湾刀、すなわち日本刀がより戦闘に適した武器として発達していく。早くも縄文時代の後期に、現在の沿海州側から日本海をわたり東北地方へもたらされたといわれる馬は、東北地方から関東地方にかけて広く普及し、牧場で飼育されるようになっていった。中でも馬畔(めぐろ:のちにさまざまな漢字が当てはめられ「免畔」「目黒」などの地名音に残る)=馬牧場の遺跡が多く、古くからつづく“群馬”や“練馬”(練馬は鎌倉時代からの地名といわれるが、地名が定着して記録に残されるには時代をまたぐほどの長期間が必要なので、鎌倉期よりもさらに以前からの呼称ではないか)など馬に関わる地名が数多く残る関東地方では、武装して馬にまたがり太刀打ちをしながら戦う戦法が定着していった。いわゆる鎌倉幕府へとつづく坂東武者の出現、流行のバズワードでいうならサムライ(つわもの)の誕生ということになるだろう。
 おそらく、最初の湾刀は偶然の産物ではなかったろうか。鋼を鍛え、折り返し鍛錬を繰り返して体配を決め、焼き入れをすることで刀は造られるが(もちろんこれほど単純な工程や手順ではなく、数種の硬軟鋼を複雑に組み合わせるケースがほとんどだが)、焼き入れのとき刃側とは反対側の棟側へ反る傾向が鋼の種類の使い分けによっては顕著だ。だから、直刀を造るためにはあらかじめ内反りで鍛えなければ、焼き入れをしたときに真直ぐにはならない。ところが、直刀を造るつもりが棟側、つまり外側へ湾曲してしまったケースが、鍛造の過程で多々あったのではないか。
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古代刀と鉄の科学1995雄山閣.jpg 図説日本刀用語辞典1989梶原福松.jpg
東北は国のまほろば2013時事通信社.jpg 古代の刀剣2022吉川弘文館.jpg
 でも、実際に騎馬戦で用いてみると、直刀よりは圧倒的に湾刀のほうが扱いやすく、また威力も大きかったため、それまで主流だった朝鮮由来の直刀技術を棄て、東日本では独自の湾刀を意図的に鍛造する技術へと進化していった。そして、刀剣史では奈良期末ないしは平安初期にかけ、舞草鍛冶の一部が俘囚(俘虜=ドレイ)として近畿地方に送られ、以降、西日本にも湾刀(日本刀)の技術が伝わったものと考えられている。余談だけれど、舞草鍛冶が「都に招かれた」などとしている刀剣書もあるが、当時の倭国=ヤマト(大和)は日高見国(=『旧唐書』でヤマトの東側に位置する日本<ひのもと>国)とは交戦中であり、敵国の鍛冶を招聘するなどありえない。
 百済の朝鮮王族・豊璋と近しかった天智天皇は、白村江の敗戦のあと中国から押しつけられた蔑称としての「倭(ワ・ヤマト)」の国号を改めるとき(「倭」は「へつらう」「しおれる」の意)、敵対していた日高見国の別名「日本(ひのもと)」国を採用する際、かなりの抵抗感や違和感があったにちがいない。けれども、中国から見て日本列島は東であり、また従来から「倭(ヤマト)国」の東は「日本国」と中国側へ報告していた経緯もあり、さらに敵国「日本」を攻略しつつある情勢から、政治的な判断で便宜的にその名称を“無断”拝借したとみられる。w
 おそらく、倭国(ヤマト)からの使者が中国を訪問し、「悪倭名 更號日本 使者自言 国近日所出 以為名」(『新唐書』より)と宣言した際、従来からのレポートが記録された『旧唐書』では、「日本国者倭国之別種也 以其国在日辺(東) 故以日本為名」と認識していたので、中国側は東の島国で大規模な政変あるいは戦闘があり、倭国(いわゆる近畿地方にあった政権)の東側にあった日本国(日高見国)が、西のヤマト(倭・大和)を滅ぼして併合したと認識したかもしれない。だが、実際には倭国(ヤマト)が日本国(日高見国)を侵略しつづけていたのだが……。そのころには、ナグサトベ女王が治めて南方氏が戦った紀国や、かつてヌナカワ女王が治め20年近くにわたりヤマトの敵対で都(ナラ)に入れなかった継体天皇を輩出した古志国(こし=のちに「越」の漢字が当てられ「えつ」「えち」と発音)、そして出雲国(根国)はどのような状況だったのだろう。
 薩長政府がこしらえた「日本史」では、『新唐書』を根拠に天智天皇の時代に国号「日本」と決められたとしているが、『旧唐書』の記述を「なかったこと」にして、いったいどこへやってしまったのだ? 対立していた、ヤマトの東にある太陽が昇る敵対国が「日本」ではなかったのか? これを踏まえるなら、中国や朝鮮半島由来の直刀を廃した独自の湾刀が「日本刀」と呼ばれるのは、歴史的にも地理的にも正しいということになる。蛇足だが、前世紀末ごろから古代の近畿にあった政権を「ヤマト」とカタカナで表記する文献や論文が急増したが、この「ヤマト」は倭(わ)国のことであり、同時期の日本(ひのもと)国と区別するためだろう。
 少し前の古墳記事でも書いたが、「“日本”とはなにか?」「“日本文化”とはなにか?」、そして「“ナショナリズム”とはなにか?」を深く考えさせられる事蹟だ。わが国の歴史(特に古代史)の捏造を重ねた薩長政府は、そのような政治制度など存在しないにもかかわらず、江戸期には「士農工商」(中国・朝鮮由来の儒教書に見える記述)という過酷な身分制度があったなどとする(今日では全否定され歴史書や教科書からも削除されつつある)近世にいたるまで、明治以降のわずか77年間でこの「日本」になにを植えつけようとしていたのか。
 さて、古代の大鍛冶(タタラ製鉄)小鍛冶(刀鍛冶)は、高品質な素材(砂鉄・餅鉄)に加え、タタラの溶炉技術による鋼(目白)の質のよさ、そして日本ならではの刀工たちの工夫による、硬軟の鋼を組みあわせる独自技術の発達と3拍子そろったところで、直刀(朝鮮刀)に替わる「折れず曲らずよく斬れる」、いわゆる日本刀を創造しつつあった。
 岩手県一関市には、「儛草神社」と名づけられた社(やしろ)があるが、同社の周辺からは大規模な大鍛冶・小鍛冶の遺跡が発見されている。いまも調査が継続中であり、遺跡からはタタラ製鉄にみられる鞴(ふいご)の羽口や鏃、大量の鉄糞(かなぐそ=鉄滓)が出土している。おそらく、東北から関東にかけては、豊富で良質な素材とともに、製鉄技術(大鍛冶)あるいは鍛刀技術(小鍛冶)に優れた専門家集団が数多く居住していたのではないかと思われる。それら技術の積み重ねや継承で、のちに正宗を頂点とする鎌倉鍛冶(相州伝)が形成されたのではないだろうか。現在では、儛草神社の周辺遺跡の一帯が、「日本刀発祥の地」として刀剣史上で位置づけられ記念碑が建立されている。
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 鳥越神社や武蔵野八幡宮の蕨手刀だが、江戸東京地方に埋蔵されていた蕨手刀はこれだけではなかっただろう。古くから盗掘され、あるいは耕地や市街地の開発で消滅した古墳群には、多くの蕨手刀類が眠っていた可能性がある。江戸期には、古墳から出土する錆びた刀剣(鋼)は粉末状にされ、刀剣研磨の磨き粉として“活用”されたりもしたので、「武家の都」の大江戸ではその多くが消滅してしまったのかもしれない。いまのところ、落合地域からは直刀しか出土していないが、この近辺から湾刀(日本刀)へと進化をする、過渡的な古墳刀が発見されやしないかと期待している。

◆写真上:武蔵野ふるさと歴史館に展示されている、武蔵野八幡宮から出土の蕨手刀(レプリカ)。
◆写真中上は、短寸の蕨手刀の拵(こしら)えを復元した模型。中上は、弘前市の熊野奥照神社に保存されている蕨手刀。すでに刀身が大きく湾曲しており、平造りの脇指のような体配をしている。中下は、茨城県の高根古墳から出土した7世紀前半とみられるフクラが枯れぎみな蕨手刀。は、群馬県の宮城村から出土した7世紀末とみられる蕨手刀。いずれの体配も、鎌倉期以降に見られる平造りの刺刀(さすが)や寸伸び短刀のようだ。
◆写真中下は、『古代刀と鉄の科学』(雄山閣)収録の蕨手刀を基本とした湾刀への進化。中上は、毛抜透蕨手刀がさらに進化し長大となった毛抜形太刀。中下は、1995年に出版された石井正國・佐々木稔『古代刀と鉄の科学』(雄山閣/)と、大型本で刀剣の進化も豊富な図版やカラー写真類で参照できる、1989年に出版された刀剣百科辞典のバイブル的な梶原美彦『図説日本刀用語辞典』()。は、舞草鍛冶にも言及し日本(ひのもと=日高見国)側の視点から古代史を描いた2013年出版の中津攸子『東北は国のまほろば』(時事通信社/)と、最新の研究成果も含め古代刀を解説した2022年出版の小池伸彦『古代の刀剣』(吉川弘文館/)。
◆写真下は、埼玉県の将軍山古墳出土の6世紀初めごろの古墳刀で、大板目の肌立ちごころだがよく錬れた地肌をしている。中上は、群馬県の二子山古墳出土の6世紀後半の古墳刀で典型的な綾杉肌をしている。中下は、わたしの手もとにある下落合(現・中落合・中井含む)の目白崖線から出土した古墳刀。平造り・平棟で、研ぎ師に依頼して判明したのだが明らかに柾目ごころの地肌をしている。関東地方で同様の鍛え方は、埼玉県出土の6世紀後半とみられる古墳刀に多いため同時期の作品だろうか。は、同刀の茎(なかご)には柄をかぶせる際に打った目釘が3本(4本?)、茎尻の日本刀では柄頭(つかがしら)にあたる部分へ縦に1本の目釘が錆びついたまま付属している。
おまけ1
 記事では煩雑になるので触れないが、東北各地の古墳から出土する平造りの「立鼓柄刀」。茎に目釘穴がひとつで茎は栗尻、中反り(鳥居反り)に鍛えられ限りなく日本刀に近い体配をしている。
立鼓柄刀(東北).jpg
おまけ2
 江戸時代にもう一度、日本刀は直刀もどきの体配(刀姿)へと回帰する時期があった。大規模な騎馬戦などなくなり、個人vs個人の対戦では剣術の刺突(スポーツの剣道でいう“突き”と呼ばれる技)が、相手に与えるダメージがことさら大きいため、反りが浅く直刀に近い打ち刀(大刀)が大流行した。1660年ごろの寛文年間にはじまる、このブームの中で鍛造された大刀は特に「寛文新刀」と呼ばれ、反りが浅く直刀に近い体配をしている。中曾祢興里入道虎徹の作品(下写真)には、直刀に近い刀姿の作品が多いが、このブームのまっただ中で作刀していたからだ。
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「江戸城」と「千代田城」の相違について。

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 過去に拙ブログの記事でも繰り返し書いているが、室町期の「江戸城」と江戸期の「千代田城」を混同して呼称している方が、このごろ“膝元”である東京にも多いので、もう一度ハッキリと規定して書いておきたい。両城の呼称は、時代ちがいの別の城郭だ。
 江戸東京地方にある城郭について、徳川幕府以外の各藩から江戸地方にある城のことを、おしなべて明治初期まで「江戸城」と呼称していたのはそれほど不自然ではないが、当の江戸東京の地元=(城)下町では、300年以上も前の江戸中期から、徳川幕府の城は「千代田城」と呼ばれている。ちょうど会津の街にある城郭は、外部からは一般的に「若松城」と呼ばれているが、地元ではそうは呼ばずに「鶴ヶ城」と呼称しているのと類似するケースだろうか。あるいは「姫路城」と「白鷺城」の関係も、似たような経緯があるのかもしれない。けれども、時代ちがいの感覚とは、また少し異なる“愛称”的な地元の想いのほうが強いだろうか。
 いつの間にか、室町期の城も徳川時代の城もゴッチャにされ「江戸城」と呼ばれるようになり、「千代田城」の名称が霞んでいくように感じられたのは、江戸東京地方以外からの移住者が急増した1960~70年ぐらいからだろうか? 少なくとも、わたしの子ども時代には親の世代や親戚・知人たちの間では、「千代田城」という名前が地元では一般的に使われていた。もともと柴崎村の近くに、小名で「チオタ(千代田)」と呼ばれた地域に建つ城であったことから、室町期の(地元にとっては大昔の)「江戸城」やその城下町と差別化するために、城郭が最終形となった江戸中期ごろから「千代田城」と呼ばれだしたのではないかと推測している。
 そもそも同城のおおもとは、鎌倉幕府へ参画し幕府御家人だった江戸重長が、1180年(治承4)に建設した武家館(やかた=江戸館)からスタートしている。このころから、初期鎌倉に見られたような町に近い集落(のち室町時代の城下町)が、すでに小規模ながらも形成されていたといわれている。江戸氏が統治したエリアは、南が六郷(多摩川)、北は浅草(今戸)から赤塚にかけ、東は隅田川、西は田無にまで及んでいたといわれる広大なものだった。江戸氏が建設した館は、室町期より市街地化が急速に進み位置が不明のままだが、同時代の他の武家館を参照すると、大きめの屋敷に築地と空濠をめぐらしたほどの規模だったとみられる。
 次に、鎌倉の扇ヶ谷(やつ)上杉家の家臣・太田資長(道灌)が、三方を海や湿地帯で囲まれた原日本語でエト゜(江戸=鼻・岬)のつけ根に、「江戸城」を築造したのが1457年(長禄元)のことだ。上杉氏は、江戸城と同時に関東へ複数の城郭を築いている。この史実や経緯から、江戸東京は日本でも最古クラスの城下町ということになるので、これも再度確認しておきたい。
 当時の様子を、1952年(昭和27)に岩波書店から出版された、監修・高柳光壽および岩波書店編集部による『千代田城』(岩波写真文庫58)より引用してみよう。
  
 康正二(一四五六)年扇谷上杉修理大夫定正はその臣太田左衛門大夫資長(入道して道灌といった)に命じて江戸に城を築かせ江戸城といった。(千代田城はもっと後のもので一七〇〇年頃から見えて来る) これは古河公方足利成氏に対抗するために川越・岩槻両城とともに築いたものといわれる。築城は一年余りを費して翌長禄元(一四五七)年に出来上り、資長はその四月に品川の館からこれに移った。時に資長は二十六歳であった。
  
 太田道灌の江戸城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備えた本格的な造りで、城郭を載せた塁の盛り土は高さ10丈(約30m/おそらくひな壇状の土塁構造)を超えていたといわれ、周囲には芝土塁をめぐらし、巨木を伐りだしては城郭をはじめ土塁をまたぐ大橋、鉄製の大手門などを次々と建設している。だが、今日の千代田城とは比較にならないほど規模の小さなもので、江戸城は現在の西ノ丸あたりにあったとする説(新井白石説)や、現在の本丸に近い位置にあったとする説がある。その城郭の場所については、早くも江戸時代から議論されており、すでに曖昧になっていたのがわかる。
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 このときから、江戸城下には平川(現・神田川の原形で日本橋あたりから海へ注いでいた古くからの流れ)沿いには、にぎやかな城下町が形成されており、海沿いには陸海の山海産物を取引する市場をはじめ、それらを運搬する物流拠点の伝馬町や、漁師町、廻船用の湊(港)などが整備されていった。江戸城の当時、城下町には房州産の米穀類、常陸産の茶類、信州産の銅、東北各地産の鉄(鋼)などが集積されていたと記録にみえる。もちろん、城下町には武器を生産する小鍛冶(刀鍛冶・鎧鍛冶)や、生産用の農工具を製造する野鍛冶(道具鍛冶)も数多く参集していただろう。これが、太田道灌が建設した「江戸城」とその城下町の姿だ。
 ちょっと余談だが、この太田道灌の城下町からつづく各地漁師町の漁師たちと、徳川家康が大坂(阪)から新たに招いた漁師たちとの間で、漁場や漁業権をめぐり訴訟沙汰が絶えなくなるのは、以前の記事でも取りあげている。新参の漁民たちは佃島を与えられ、既得権のある室町期からの城下町漁民と対立しないよう、江戸の「外」に住まわせられている。「江戸へいってくら」という佃島に残る慣用句は、こんなところにも遠因があったのかもしれない。
 さて、豊島氏を滅ぼし勢力が強大となった太田道灌が、主君の上杉定正に謀反を疑われ、1486年(文明18)に暗殺されると、江戸城にはすぐさま曾我氏が派遣されたが、その後は上杉氏の直轄支城となって室町末期を迎えている。そして、1524年(大永4)に小田原の北條氏綱(後北條氏)に攻略され、同家の遠山氏が城代として赴任している。この間も、江戸の城下町はそのまま継続しており、物流や生産の拠点だったせいか、「江戸筋」あるいは「江戸廻り」という言葉が同時代に生まれている。さらに、1590年(天正18)に豊臣秀吉により小田原の北條氏が滅ぶと、徳川家康が関八州とともに室町期の江戸城を引き継ぐことになった。
 上州世良田(現・群馬県太田市世良田)が出自の、近接する前・幕府の足利氏とともに鎌倉幕府の有力御家人だった世良田親氏→徳阿弥(信州・江戸居住のち松平家へ婿養子に入り松平親氏)→松平・徳川氏(三河・駿河時代)は、鎌倉幕府が滅亡して以来250年のブランクをへて、ようやく上州世良田のある故地の関東地方にもどれたわけだ。ちなみに、宝永年間より徳川家では「徳川」姓とともに、「世良田」姓を復活させて名のるようになる。
 小田原の北條氏が滅亡した同年に、徳川家康は太田道灌由来の江戸城へ入城している。このとき、家康は戦で荒廃していた外濠を拡張・整備し、西ノ丸の増築をしただけで旧来の本丸・二ノ丸・三ノ丸を活用して居住していた。ここで徳川家康が江戸に入ると、今日の千代田城を建設して入居したようなイメージや錯覚が生じるのだが、家康がいたのは太田道灌由来の江戸城であって、現在の千代田城などいまだ影もかたちも存在していない。
 慶長年間の姿を描いたとされる「江戸始図」(一部不正確)が残されているが、家康が居住したのは道灌が築城した本丸あるいは増築した西ノ丸であり、周囲に展開する室町期以来の丸ノ内(城郭内)や城下町へ、家臣団の屋敷が次々と建設されているものの、基本的には室町期の城郭の姿そのままだった。この経緯から、のちに広大かつ巨大な「千代田城」が築かれたあと、名称を旧来の「江戸城」と差別化する必要が生じたのは自明のことだろう。現在、江戸東京の中心に建っている城は道灌由来の「江戸城」ではなく、徳川幕府が長年月をかけて築造した「千代田城」だ。
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 1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に勝利した家康は、城郭の普請ばかりでなく、翌年からおもに城下町の整備をスタートしている。先祖の徳阿弥(=松平親氏)時代からの氏子だった、のち江戸総鎮守と規定される神田明神社を、神田山(現・駿河台)から御茶ノ水の北側へと遷座させ、神田山を崩して海岸線を埋め立て新市街地を形成している。いわゆる現在につながる計画的で本格的な(城)下町の建設だが、大川(隅田川)の河口にあった中洲を埋め立て、日本橋の町を造成したのをはじめ、京橋、尾張町(銀座)、浜町などが続々と誕生している。
 家康が隠居し2代・徳川秀忠の時代になると、このときから太田道灌由来の古い“江戸城大改造プロジェクト”が始動する。本丸・二ノ丸・三ノ丸・西ノ丸の大規模化をはじめ、日本最大の天守閣建設、外濠の再整備(石垣築造)と内濠の掘削だが、広大な北ノ丸はいまだ存在していない。また、1615年(元和元)ごろから、御茶ノ水の駿河台を深く掘削し、平川(現・神田川)の流れを外濠として活用するとともに隅田川まで貫通させ、牛込見附(現・飯田橋駅)に一大物流拠点を設置し、江戸川(現・神田川)を上流まで舟でさかのぼれるようにしている。
 つづいて、徳川家光が3代将軍に就任すると、秀忠に引きつづき城郭全体の大増築を行い、今日の千代田城とあまり変わらない姿へと普請を進めている。以下、同書より再び引用してみよう。
  
 家光は華美好きな人で、家康の残した莫大な金銀を使い果たし、幕府財政窮乏の端を開いたほどの放漫政策を行ったが工事に大名を使役することも秀忠の比ではなく、弟の徳川忠長を初めとして三家までもその役に服させて寛永六(一六二九)年から十三年にかけて大増築を行い、ほとんど日本全国の力を合せて、日本史上空前の巨城を完成させたのであった。/大手門を始点として、螺旋状に遠く浅草橋まで江戸市街の大半を囲んでのびた濠の要所要所には城門(今日に残る桜田門と同型式のもの)が設けられ、その総数三十八門に及んだ。これを概数して三十六見附と称した。四谷見附や市谷見附には、今にその石塁の一部が残っている。
  
 これにより、徳川三家や松平諸家ばかりでなく、諸国の大名たちもあらかた金蔵が空になり財政難に陥ったが、見方を変えるなら「江戸御用達」による全国の商工人や農林業の従事者、人足たちの多くが潤い、「史上空前の巨城」(世界最大の城郭建築)の周囲には、すでに都市と呼べるほどの、ありとあらゆる業種や職種の人々が参集し、(城)下町が形成されることになった。北関東で食いっぱぐれたわたしの遠い祖先も、日本橋が埋め立てられてしばらくすると、おそらく刀を棄てて仕事を探しに、江戸へとやってきては糊口をしのいでいたのだろう。
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千代田城1952岩波書店.jpg 田村栄太郎「千代田城とその周辺」1965雄山閣.jpg
藤口透吾「江戸火消年代記」1962創思社.jpg 大江戸八百八町2003江戸東京博物館.jpg
 大江戸(おえど)の巨大都市は「大江戸八百八町」と表現されるが、町の数は808町どころではなかった。「八百八」は無数という概念で、鎌倉の「百八やぐら」や戸塚から落合、大久保にかけての「百八塚」昌蓮伝承と同様のレトリックだ。江戸中期の享保年間には、すでに1,678町に達しており、幕末の町数はゆうに2,000町を超えていたといわれている。(ただし朱引墨引内にあった「村」単位の集落は含まれず、村々まで含めれば名主のいる自治体は膨大な数になるだろう) 人口も増えつづけ幕末には150万人近くと、いつの間にか世界最大の都市へと成長していた。

◆写真上:自然地形を利用したといわれる、西ノ丸に残る江戸城の道灌濠。
◆写真中上は、戦後撮影の汐見坂で、坂上に太田道灌の江戸城の櫓があったといわれる。中上は、汐見坂下にある古い白鳥濠。中下は、慶長年間に作成された「江戸始図」を岩波編集部が作図したもので、道灌由来の江戸城を中心に初期普請の様子がわかる。は、幕末の本丸(跡)。豪壮な本丸建築は焼失しており、見えている三重櫓は富士見櫓。
◆写真中下は、伏見櫓と書院門つづきに架かる手前が前橋でうしろが後橋。当時から二重橋と呼ばれていた。中上は、幕末の鍛冶橋門で現在の八重洲口あたり。中下は、浅草門(浅草見附)で門をくぐると北へ向かう道筋がつづき柳橋から蔵前、駒形をへて浅草へと抜けることができた。は、1942年(昭和17)に制作された竹内栖鳳『千代田城』。
◆写真下は、現在の宮内庁側から写した幕末の富士見櫓と坂下一ノ門(高麗門)。中上は、神田上水の水道橋が架かっているのが見える御茶ノ水あたり。現在は、左手の土手中腹が崩され中央線が走っている。中下は、1952年(昭和27)に出版された高柳光壽・監修『千代田城』(岩波書店/)と、1965年(昭和40)に出版された田村栄太郎『千代田城とその周辺』(雄山閣/)。は、江戸の火災と千代田城について解説した1962年(昭和37)出版の藤口透吾『江戸火消年代記』(創思社/)と、2003年(平成15)に出版された『大江戸八百八町』(江戸東京博物館/)。
おまけ
 北桔橋門から入った天守台の西北角の一部で、大人の身長と比べるとその大きさがわかる。イラストは、寛永年間を想定した日本最大の千代田城天守(3代目)の復元図。高さが約61mあり、遠い先祖が見た天守閣はこのデザインだったろう。下は、朝霞にかすむ富士見三重櫓を本丸側から。
天守台.jpg
千代田城(復元)寛永年間.jpg
富士見櫓(現代).jpg