大磯の小淘綾ノ浜に立つ黙阿弥と松本順。

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 わたしは親父の趣味のひとつだったせいか、歌舞伎座と国立劇場でずいぶん芝居(歌舞伎)を観ている。親父が、フグ毒に当たって死んだ8代目・坂東三津五郎と交流があったせいもあるのだろうが、もの心つくころから多くの芝居には連れていかれた。
 当時の舞台には梅幸や松緑、歌右衛門、勘三郎、羽左衛門、団十郎、仁左衛門、三津五郎と養子の玉三郎など、それこそ昭和の名優たちがキラ星のごとく現役で活躍しており、新派落語界と同様に、なにを観ても(聴いても)一流の芸が堪能できていた時代だった。もちろん、わたしは子どもだから、ろくすっぽ芝居の知識も教養もなく、漫然とそれらの舞台を眺めていただけで、明治座新橋演舞場の“大人の事情”ばかりがあらすじの新派にいたっては、午睡するのが決まりのようになっていた。けれども、芝居は舞台の色彩や仕掛けが面白いし、特に子どもでもわかるような筋や所作がある世話物は、眠くならずに観つづけることができた。
 数多く観た芝居の中で、もっとも多く観賞した演目はまちがいなく世話物、それも大江戸が舞台の河竹黙阿弥の作品だったろう。世話物は、子どもにもわかりやすいということで、あえて親は黙阿弥の作品を多めに選んで連れていってくれたのかもしれない。それに、黙阿弥の芝居にはあちこちに、現代までつながる江戸東京の匂いがプンプンしていた。
 中学生になってからは、親と連れだって舞台を観るということも徐々に少なくなり、高校時代には芝居ではなく、畑ちがいの文学座杉村春子の舞台(『女の一生』)を、いっしょに観にいったのが最後だったろうか。いまから思えば、親父とともに芝居に出かけ、戦前からつづくその膨大な知識や資料を受け継がなかったのが悔やまれてならない。
 拙ブログでは江戸東京の名所や、そこで起きたエピソードなどを記述する際、芝居や新派の舞台作品も同時にご紹介する記事を多く書いてきたが、これまでもっとも多く取りあげてきたのが河竹新七(黙阿弥)の作品だったろう。ちょっと振り返って、それらの記事を列挙してみると……。
 ◎音曲や楽器をめぐる東京怪談。=『加賀見山再岩藤』
 ◎桜餅めざして隅田川を芝居散歩。=『極附幡随長兵衛』『都鳥廓白波』
 ◎目黒鬼子母神の正岡と大塚山の墳丘。=『実録先代萩』
 ◎四谷見附のヒソヒソ話は聞こえるか?=『四千両小判梅葉』
 ◎大の芝居好きな刑部人と金山平三。=『青砥稿花紅彩画』『八幡祭小望月賑』
 ◎だらだら芝神明の熱い大喧嘩。=『神明恵和合取組』
 ◎「線道」をつけてもらえばよかった。=常磐津舞踊『戻橋』
 ◎蕎麦いらぬ「うなぎ」入谷の鬼子母神。=『天衣紛上野初花』
 ◎めぐみ深川情け有馬の水天宮。=『水天宮利生深川』
 ◎浜町河岸で激昂したお梅姐さん。=『月梅薫朧夜』
 ◎江戸の「広場」としての不忍池。=『黒手組曲輪達引』
 ◎怪しさ漂う大江戸のお茶の水・水道橋。=『吉様参由縁音信』
 ◎江戸東京で物語が最多の両国橋。=『舟打込橋間白浪』
 ◎新吉原の「お上がりなさいませ!」。=『籠釣瓶花街酔醒』
 ◎江戸幕府を鎌倉幕府へ仕立てなおし。=『船打込橋間白浪』『青砥稿花紅彩画』
 ◎隆慶橋は東詰めの「おきゃがれ」。=『黄門記童幼講釈』
 ◎キット、♪ぼくは悲しい受験生~。=『盲長屋梅加賀鳶』
 ◎約束の刻限に野を越え山越えて?=『四千両小判梅葉』
 ◎高橋お伝の弁護をしよう。=『綴合於伝仮名書』
 ◎日暮しに男女のいろは沈む谷中。=『日月星享和政談』
 ◎下落合と六本木を結ぶもの。=『四十七刻忠箭計』
 ◎娑婆と冥土の別れ道・深川ゑんま堂。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎ざまぁ見やがれ永代橋。=『梅雨小袖昔八丈』
 ◎永代橋の崩落からもうすぐ200年。=『八幡祭小望月賑』
 ◎こいつぁ春から縁起がいいわえ。=『三人吉三巴白浪』
 上掲の記事は、わたしがザッと思い返した河竹黙阿弥の芝居について触れたものだが、実際にはもっと数多くの記事で彼やその作品については書いている。たとえば、神田上水蛍狩りや茶番劇にからめた『花暦八笑人』などにも、若き時代の黙阿弥は登場していた。また、黙阿弥の作品以外に取りあげた芝居や新派の舞台にいたっては、おそらく上記の数倍になるだろう。
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 ちょっと余談だけれど、黙阿弥が作品につけた題目は、一部の時代物や舞踊などを除き、それぞれ独特な読み方をするものがほとんどだ。たとえば、「鼠小僧」の『鼠小紋東君新形』は「ねずみこもん・はるのしんがた」、「河内山」の『天衣紛上野初花』は「くもにまごう・うえののはつはな」、「め組の喧嘩」の『神明恵和合取組』は「かみのめぐみ・わごうのとりくみ」、「湯灌場吉三」の『吉様参由縁音信』は「きちさままいる・ゆかりのおとずれ」という具合だ。大江戸の武家はもちろん、漢字の連なる芝居のタイトルを庶民たちも容易に、あるいはなんとか読みこなせていたということだ。つまり、それだけ読み書き=識字率が高く教育が普及していたことになる。これは、同時代の海外の都市には見られない、この街ならではの大きな特徴だろう。
 河竹黙阿弥(本名:吉村芳三郎)は、1816年(文化13)に日本橋の式部小路で生まれている。実家は、湯屋(銭湯)の株を売買する越前屋という店(たな)だった。現在の日本橋2丁目7番地あたり、ちょうど高島屋と日本橋タワーにはさまれた道筋のことで、この路地は現存している。わたしの東日本橋にあった実家から、1,800mほど南西に位置する京橋との境も近い位置だ。
 さて、大江戸の街中で起きた事件や出来事、逸話などを芝居に仕立てる、幕末から明治にかけて活躍した狂言作者の代表のような河竹黙阿弥(2代目・河竹新七)だが、薩長政府は大江戸の(母国である日本の)歌舞伎についてまったく無知なことから、アタマが西洋かぶれした明治政府の役人たちは、狂言作者をヨーロッパ演劇の脚本家と同列の存在だという、救いようのない錯誤をしてしまった。ここから、明治期における黙阿弥の悲劇(苦難)がはじまる。
 狂言作者とは、もちろん作品を書く脚本家・原作者でもあるが、芝居の稽古を進行するディレクターであり、舞台全体の点検・指揮をするプロデューサーであり、役者・舞台装置・音曲などを密に連携させるディレクターであり、音曲や拍子木と幕の開閉のきっかけを指示する指揮者でもあった。要するに、創作者+舞台監督+進行ディレクターを兼ねた芝居全体をつかさどるカナメ、いま風にいえばエグゼクティブ・ディレクターのことだ。それを、日本の演劇に無知な薩長役人たちが、西洋演劇における脚本家と同じだと規定し、政府の思想宣伝のために台本や舞台へ口出しをするようになってから、自国の重要な伝統文化のひとつが滅びる寸前まで追いつめられていく。
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 まず、歌舞伎の舞台へ明治の風俗を無理やり当てはめた、まるで新派のような「散切(ざんぎり)物」を強制するようになる。しかも、洋装の役者たちが台詞まわりだけは歌舞伎の口調のままだから、世にも不思議で珍妙な芝居となった。それだけならまだしも、「皇国史観」「忠君愛国」のような思想を無理やり芝居(新時代物)の筋に盛りこみ、あるいは中国や朝鮮半島の儒教思想をそのまま持ちこんだ、サルマネ「修身」のような筋立てを押しつけるなど、薩長政府による江戸文化・芸能(ひいては日本文化)の破壊が急速に進行していく。芝居の観客も、政府の介入で限られた人々のみとされ、上流階級だけが観賞できる仕組みへと変えられていった。もちろん、江戸東京に数ある芝居連の市民たちは離れ、黙阿弥は引退を意識するようになる。
 結果からいえば、薩長政府がやっきになって強要した芝居は全滅し、黙阿弥が明治期でもかろうじて書けた「世話物」(おもに江戸期を舞台にした作品)のみが、現代でも歌舞伎座や国立劇場で上演されている。もし、日本文化に無知な薩長政府の役人が「散切物」など強制せず、黙阿弥が思いどおりの作品を書きつづけ、想像どおりの舞台を演出できていたとすれば、あとどれほどの傑作や名作が生まれていたかと思うと悔やんでも悔やみきれない。薩長政府の「国家神道」化による日本の膨大な「神殺し」に次ぐ、自国のかけがえのない「文化つぶし」の一環だ。それほど、河竹黙阿弥というクリエイターは、江戸から明治にかけての卓越した存在だった。
 ところで、黙阿弥は早稲田に大規模な蘭疇医院を開業した、日本初の西洋医・松本順(江戸期は松本良順)とも親しかったようだ。蘭疇医院が開業する際、旧・幕臣から芝居の役者、市民たちまでがこぞって早稲田へ押しかけたなかに、黙阿弥もいたのだろう。松本順は、江戸期から「将軍様でも役者でも病人は同じじゃねえか」と、黙阿弥にはおなじみの(城)下町言葉で周囲に公言してはばからず、幕末の喧騒のなかで徳川将軍から庶民にいたるまで診察した特異な西洋医なので、黙阿弥もことさら親しみをおぼえたのだろう。まるで、明治以降に「万民平等」を掲げた自由民権運動の活動家のような言葉だが、彼の周囲に咎めるものはもはやいなかった。
 黙阿弥は結局、狂言作者を引退できなかった1890年(明治23)の晩年(75歳)、薩長政府の検閲の眼が光るなか、「散切物」のかたちを踏襲しながらも、曾我十郎・五郎の対面の場を描いた清元の所作事、『名大磯湯場対面』(なにおおいそ・ゆばのたいめん)を書きあげている。この舞台は、松本順が推奨した日本初の大磯海水浴場と保養別荘地としての大磯を、せいいっぱい世の中に広報・宣伝するものとなっていた。そして、セリフにはなんと松本順当人も登場している。
  
 /\名に負うここは早稲田の殿様、松本様のお見立てゆえ、第一空気がいい上に、今度の主人は如才なく、取扱いが届くから、海水浴はどこよりも、濤龍館が繁昌だ。(『名大磯湯場対面』)
  
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 それ以前にも、黙阿弥は松本順から芝居のヒントをもらい、1887年(明治20)に市川團十郎が家康を演じる『関原神葵葉』(せきがはら・かみのあおいば)を書いている。晩年は、うしろ立てに松本順がついていたようで、少しは薩長政府の圧力が弱まっていたのかもしれない。別の見方をすれば、薩長政府による歌舞伎の破壊へ抵抗するために、松本順がひと役買っていたようにも見える。

◆写真上:地下鉄東西線・落合駅から、西へ350mほどの源通寺にある河竹黙阿弥の墓(右側)。源通寺は、1908年(明治41)に浅草から上高田へと移転してきた。
◆写真中上は、散歩でお参りできる墓所の源通寺。は、『夜討曾我狩場曙』(ようちそが・かりばのあけぼの)の舞台で曾我五郎が2代目・尾上松緑(左)と十郎が3代目・市川左団次(右)。下左は、1993年(平成5)出版の河竹登志夫『黙阿弥』(文藝春秋)。下右は、明治に入ってしばらくすると隠居したはずなのに芝居の台本依頼が途切れなかった河竹黙阿弥。
◆写真中下は、1881年(明治14)に周重が描く『夜討曾我狩場曙』。は、1890年(明治23)に3代・国貞が描く『名大磯湯場対面』。は、同年に国芳が描く『名大磯湯場対面』。同作は「散切物」なので国貞がリアルだが、国芳はあえて江戸の風俗で描いている。
◆写真下は、松本順の大磯別荘跡。は、1893年(明治26)制作の小国政『大磯海水浴場富士遠景図』。は、黙阿弥も歌舞伎役者たちもそろって眺めた大磯の小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)。
追記
 1926年(大正15)の夏に撮影された別荘地・大磯で、旧・東海道沿いにつづく街並み。(AI着色) 佐伯祐三・米子夫妻が滞在した別荘は、左手の街並みを少し左(北側)へ入った東海道線沿いの敷地にあった。街並みの背後には、湘南平(千畳敷山)へとつづく高麗山がうっすらと見えている。下の写真は、安田善次郎の別荘がある王城山の中腹並びに建てられた、湘南平へと向かう山道の右手にある大きな加山又造アトリエの門。周囲の丘陵一帯は、大小の古墳群だらけだ。
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おまけ
 最近、AIエンジンで古い写真の人物を動かしてみるのに凝っていて、いろいろ昔のアルバムを引っぱり出しては試している。下の動画は、明治生まれのうちの義祖母(ばあ)さんを、ややおきゃんな感じで動かしてみた。左側にチラリと写っているのは、おそらく連れ合いの母親だろう。

於保照子と吉行夫妻の「あざみ」は東中野1594番地。

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 上落合186番地の村山知義が、『演劇的自叙伝2』(東邦出版社/1971年)で「東中野駅のこっち側」と書き、上落合742番地に住んだ尾形亀之助の『尾形亀之助全集・全1巻』(思潮社/1970年)の年譜で、「上落合でバーを経営していた吉行エイスケ夫人あぐり」と記録されているので、わたしは吉行エイスケ吉行あぐり(安久利)夫妻が経営するバー「あざみ」は、てっきり上落合と東中野の境界あたりだ思っていた。ところが、バー「あざみ」は現在の東中野駅ではなく、1928年(昭和3)に西へ移動する前の東中野駅(駅名変更前の元・柏木駅の位置)の駅前にあった。駅前から上落合へ向かう、当時は「プロレタリヤ通り」などと呼ばれた商店街の出発点だ。
 ところが、「あざみ」は吉行エイスケ・あぐり夫妻が経営をはじめる以前、関東大震災の直後から東中野駅前で営業していた。経営していたのは、震災前に横浜で夫である医学博士の於保謹太郎を亡くした於保照子という女性だった。喫茶店ともバーとも記録されている「あざみ」(いずれにしろ酒は置いていたのだろう)は、震災前から東中野駅前で開店していたという資料も見うけられる。そして、於保照子は1926年(大正15)に吉行エイスケへ、店をそのまま“居抜き”で譲っている。その後、於保照子自身は同じ屋号の「あざみ」のまま、資生堂の並びである京橋区出雲町14番地(のち銀座7丁目4番地の10)にバー「あざみ」を開店している。
 まず、「あざみ」の所在地が判明したのは、1926年(大正15)に記録された「商業登記簿」からで、喫茶店「あざみ」は於保照子名義で中野町東中野1594番地と登録されている。元・柏木駅の北側で、駅名が東中野駅と変更(1917年)された駅前の西側にあたる区画だ。現在の住所でいえば、中野区東中野4丁目1番地ということになる。ちょうど当時の旧・東中野駅を北口へ降りると、駅前の左手すぐの位置になり、村山知義アトリエから直線距離で760mほど、上落合742番地の尾形亀之助の家からも直線距離で800mほどの距離だった。
 於保照子について紹介した、1926年(大正15)刊行の『日本之医界』(日本之医界社)掲載の、「医界異聞」から引用してみよう。この記事では、「あざみ」は震災後の開店とされている。
  
 つい最近銀座は資生堂の横に「あざみ」と云ふ、ごく瀟洒な落ついたカフエーが出来たことは銀ブラ連の仲間にはとうにご承知の筈。/だが、ここの主人公とは誰あらう嘗ては横浜に於て名を知られた医博於保謹太郎君の未亡人てる子さんだ。震災ちよつとまへ、ご主人にはなくなられるし間もなくあの震災騒ぎ、で(ママ)夫人は家の下敷きとなつて大怪我をするといつたご難つづき。/そこで夫人が雄々しくも更生の第一歩として実社会に打つて出たのが、震災間あらず、郊外は東中野に開かれた喫茶店「あざみ」といふのがそれ。そして愈々今度はカフエーの本場である銀座の真中に乗出して来た訳なのである。
  
 照子夫人は、自邸のある横浜でなく、たまたま東京で震災に遭っているようなので、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは、震災後の可能性が高いように思える。あるいは、於保照子もまた、以前からつづく「あざみ」という店をそのまま譲りうけたものだろうか。
 医学博士だった夫の資産が潤沢にあったのだろう、於保照子は東中野1594番地で3年間営業したあと、1926年(大正15)の後半期にバー「あざみ」を銀座で改めてオープンしている。おそらく夫の仕事関係から、銀座では医学分野の客筋が多く集まったのではないだろうか。
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 さて、旧・東中野駅前にあった於保照子の「あざみ」について、店の様子を記録した文章も残っている。おそらく、1926年(大正15)に同店を譲りうけた吉行エイスケの店も、基本的にはそのままの意匠で、おカネのかかる大きな変更は加えられていないとみられる。1923年(大正12)の暮れに聚文館から出版された、春日靖軒『大正震災後日物語』より引用してみよう。
  
 こゝは東中野の駅近く、開店したアザミサカバ(酒場)と云ふのがある。ありし日の銀座街にも見られないやうな凝つた家の作りが人の目を引く。入口のドアーの開閉も三角なら、中の壁も米国杉のしぶい色の三角形、それにしつくり似合ふ南洋あたりの壁かけ、粗雑な中に一種のデリカシイを持つた椅子、椅子の形テーブルの上にリノリームをひいてあるのも、今まで見ない処だが、その家の主人は於保照子と云つて、横浜の社交界でも人に知られた、医学博士於保謹太郎氏の未亡人で、横浜から危難をのがれて新生面を見出さうと開いた店なのである。(カッコ内引用者註)
  
 なにもかも三角な「あざみ酒場」の外観・内装デザインは、当然、西武線がいまだ存在せず最寄りの旧・東中野駅を利用していた、三角アトリエの建築主である村山知義の目にもとまっただろう。すなわち、吉行エイスケ・あぐり夫妻が「あざみ」を経営する以前から、村山知義マヴォな人たちをはじめ、付近に住んだタダイストやアナキスト、小説家、詩人、美術家たちは、未亡人の於保照子が切り盛りする同店に通っていた可能性がある。
 春日靖軒はつづけて、「あざみ」の於保照子本人へ直接インタビューしている。彼女は1923年(大正12)9月1日、たまたま東京の姉の家にきていて罹災した。「私はあの地震によつて生れ変つたのと同じやうな気がします。丁度あの時は東京の姉の処に来てゐましたが、神保町だつたので、初め砲兵工廠(水道橋)へ逃げて爆発に会ひ、それから植物園(小石川)へ行きましたが横浜に置いて来た五人の子供の事が気になつて、たうたう二日朝皆のとめるのもきかず……」と証言している。おそらく、ケガをしたのは砲兵工廠の爆発によってだと思われるが、翌日には横浜の自邸へ向けて出発しているので、「家の下敷きとなつて大怪我」(『日本之医界』)などではなく、軽傷だったとみられる。横浜に置いてきた5人の子どもたちは、なんとか避難して無事だった。
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 於保照子の証言を見るかぎり、旧・東中野駅前に「あざみ」を開店したのは震災後だと思えるが、震災以前からつづいているバー(あざみ?)自体を、彼女が入手して継承したかどうかまでは不明だ。一方、震災前から「あざみ」はあったとする証言もある。1931年(昭和6)に春陽堂から出版された、安藤更生『銀座細見』より東中野時代のバー「あざみ」を少し長いが引用してみよう。
  
 アザミは地震前から東中野の駅のそばにあつた。内も外もクレオソート塗りの、仲々気のきいた家だつた。壁には小さなゴブラン擬(まが)ひの壁掛などがかゝつてゐた。いゝ日本酒もあり、それに添へて出す海鼠腸(このわた)などのつまみ物も美味かつた。この家は於保(照子)といふ医学博士の未亡人がはじめたので、開店当時は博士夫人の酒場といふので評判だつた。わざわざ銀座あたりから飲みに行つたものである。今、雨後の筍のやうに出来るバアのこれは元祖といつてもいゝ家である。地震後その東中野の店を譲つて、資生堂の横へ越して来た。今の女給お文さんはその東中野時代からの女給である。東中野の店は其後吉行エイスケが買つて、酒場カカドを出した。エイスケの先生辻潤、宮島資夫、エリゼ二郎、川口慶助、山内恒身などがよく集まつて飲んで居た。死んだ人見幸子などもよくこゝへその断髪姿を現して、みんなに可愛がられた。沙良峯夫、荒川畔村などといふ偉い人達がバアテンダアをやつて居たのである。(カッコ内引用者註)
  
 安藤更生は、震災前から「あざみ」には通っていたようなので、於保照子が経営する前から東中野では印象に残る店だったのだろうか? 震災後3年間の営業期間のみでは、旧・東中野駅前とはいえ、それほど強く客筋たちの記憶には残らなかったようにも思える。
 そして、安藤更生の証言には重要な点が含まれている。吉行エイスケが経営していたバーは、当初「カカド」という名称だったようだ。安藤更生は、人見幸子と知りあった経緯で、「幸子は神戸の金持の令嬢だつた。僕が幸子を知つたのは、東中野の吉行エイスケのやつて居たカゝドへ、沙良峯夫や山内恒身の集つて居る頃だつた」と書いている。これは、1931年(昭和6)に小松直人・編集で二松堂から出版された『Café jokyû no uraomote』収録の、安藤更生の文章ではバーの名前は「カアド」となっているが、これは誤植で「カカド」が正しいのだろう。
 さらに、1949年(昭和24)に星光書房から刊行された「虚無思想研究」第2号に収録の、荒川畔村『震災後と戦災後』でも、吉行エイスケと「二人で東中野で『カカド』といふ喫茶店を始めることになり、警察へ許可をとりに行つた」と書いているのでも明らかだろう。ただし、「カカド」はほんの数ヶ月という短い期間で閉店してしまっている。なお、「カカド」とは吉行エイスケが『ダダの歴史』に書く5人組のダンスとされる「ノワル・カカドゥ」からとったか、あるいはオーストラリアの先住民だったアボリジニの用語「聖地(KAKADO)」に由来する言葉のいずれだろうか。
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 「カカド」は、1926年(大正15)に吉行エイスケが雑誌「虚無思想」を発行しつつ荒川畔村とはじめた店であり、連れ合いの吉行あぐりはまだ登場していない。けれども、雑誌が赤字つづきのせいか経営は数ヶ月で破綻し、そのあと以前からの客筋にも通ってもらえるよう、「あざみ」の名称にもどして吉行夫妻が営業していた可能性がある。あるいは、於保照子の「あざみ」の印象が強く、周辺の客筋の多くが店名をバー「あざみ」と呼びつづけたせいで、夫妻は否が応でも「あざみ」とせざるをえなかったものだろうか。いずれにしろ、於保照子が経営する銀座のバー「あざみ」と、吉行夫妻が経営する東中野のバー「あざみ」は、短い期間だが並行して営業していたようだ。

◆写真上:バー「あざみ」があった、東中野1594番地界隈の現状。左手先に東中野駅が見えているが、当時は左手背後の元・柏木駅の位置に旧・東中野駅があった。
◆写真中上は、1925年(大正14)作成の1/10,000地形図にみる東中野1594番地とその周辺。は、大正期に撮影された柏木駅(のち東中野駅)。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる東中野駅界隈。すでに同駅のホーム全体が、西側へと移動している。
◆写真中下上左は、吉行エイスケのプロフィール。上右は、1926年(大正15)に銀座へ進出するまで旧・東中野駅前でバー「あざみ」を経営していた於保照子。は、吉行あぐりのプロフィール。は、洋酒についてのエッセイを新聞に連載していた於保照子の記事。
◆写真下は、尾形亀之助と村山知義のバー「あぐり」への通いルート。村山籌子の家電製品“新しもの好き”は、こんなところに遠因があったかもしれない。w は、1932年(昭和7)に撮影された東中野駅の桐ヶ谷踏み切り。駅はすでに西へと移動し、画面の左手にホームがある。踏切の向こう側左手が東中野1594番地で、関東大震災直後(直前?)からバー「あざみ」が開店していた街角。また、バー「あざみ」の並びには毛糸や手芸用品の専門店「さかゑ商店」が営業していた。

大正期の大橋(両国橋)が見られる鉄砲洲。

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 わたしも知らなかったが、おそらく親父もウッカリ気がつかなかったのではないだろうか。明治末から昭和初期まで、関東大震災をはさみ大川(隅田川)に架かっていた鉄筋の大橋(両国橋)が、そのままの意匠で別の橋として残されていたことを。
 架橋されている場所は、八丁堀が越前堀と合流し大川(隅田川)へと通じる、鉄砲洲側と霊岸島側とを結ぶ位置だ。現代のいい方をすれば、八丁堀側の湊1丁目から亀島川をはさみ新川2丁目へと架かる、亀島川の出口に設置された亀島川水門の手前ということになる。名称は「南高橋」(みなみたかばし)だが、北側に架かる高橋(たかばし)は江戸期から存在したけれど、南高橋は関東大震災後の復興事業で架けられた橋のひとつだ。おそらく、災害時に霊岸島側から築地方面へと避難できる、防災橋のひとつとして架設されたものだろう。
 鉄筋の大橋(両国橋)、いわゆる「曲弦トラス3連桁橋」とよばれる橋梁は、1904年(明治37)5月に竣工し、1931年(昭和6)ごろまで大川(隅田川)に架かっていた。長さが164.5mで幅が24.5mあり、その上を東京市電やクルマが往来していた。親父が6歳ごろまで目にしていたはずなのだが、記憶に残らなかったのだろうか。もし記憶に残っていれば、移築先で新設された南高橋の存在を認識していたはずで、家族を連れて訪れていたはずなのだが、幼児のころの記憶が曖昧だったため、それほど先代の大橋には執着がなかったのかもしれない。
 南高橋は、長さ63.1mで幅が11.0mと小さく、旧・大橋(両国橋)の3分の1強ほどのサイズだ。旧・大橋の3連桁のうち、中央の桁のみの部材を活用して、1932年(昭和7)に亀島川(旧・越前堀)の最下流域へ架橋されている。ただし、上部の強度を補うためか、新たに細めなトラスがX型に設置されているようだ。旧・大橋と同様に、橋の入口上部に、橋名のプレートが横向きで取りつけられており、戦前なので右から左へ「橋高新」と彫られている。いまとなっては、明治期の架橋技術を伝える、貴重な土木遺産ということになるのだろう。
 旧・大橋(両国橋)に比べ路面幅が狭いため、同じ部材を使っているとしても多少の加工がほどこされているのだろうか。だが、旧・大橋はトラス内の車道とは別に、人が日本橋側~本所側間を往来する歩道が、橋梁の左右(南北)に広くはみ出して設置されていたため、幅24.5m(旧・大橋)-幅11.0m(南高橋)=13.5mで、これを2分の1にした6.75m(三間強)が、旧・大橋の歩道の幅なのかもしれない。ちなみに、南高橋の歩道はトラスの内側に設けられている。いずれにしても、南高橋の外観は旧・大橋そのままのように見える。橋の入口の端柱上に装飾された、まるで西洋の鐘楼か時計塔のようなオブジェも、旧・大橋と同一のようだ。
 さて、かねがね気になっていたのだけれど、旧・大橋(両国橋)は何色に塗られていたのだろうか。現在の南高橋は、明るい灰銀色に塗られている。昭和初期に、復興校舎として早々に建設された日本橋側にある千代田小学校(現・日本橋中学校)の、屋上から北北東を向いて撮影された復興記念の人着絵はがきが残されている。それを観察すると、大橋はグレーに着色されているように見えるが、やや離れているのでほんとうにグレーだったかどうかはわからない。また、モノクロ写真への人工着色なので、それが正確な色彩なのかも不明だ。
 今回、南高橋を訪れてみて、旧・大橋(両国橋)に塗られていたカラーは、明るい灰青色(薄めな空色に近い)だったのではないかと疑うようになった。なぜなら、現在の南高橋のトラスの一部に塗料の剝脱が何ヶ所かみられ、錆びた芯の鉄骨部分に塗られた赤茶色(おそらく錆止めだろう)と、その上に塗られたかなり古めな灰青色の塗料、そして移設されて南高橋になってから新たに塗られた灰銀色と3層の塗り色が確認できるからだ。
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 ただし、旧・大橋(両国橋)から1932年(昭和7)に移築される際、それまでの塗料がすべて落とされ、改めて灰青色に塗り直されていたが、戦災で表面の塗料が傷んだため、戦後は現在の灰銀色になった……と解釈することも可能だ。けれども、関東大震災からの復興事業の慌ただしい工事のなかで、そのようにていねいな移築作業が行われていたかどうかには疑問が残る。いずれにしても、古い時代の橋色は灰青色だったことが確認できた。
 さて、南高橋の東詰めには、越前福井藩は松平越前守の中屋敷(幕末)があり、そこに奉られていた徳船稲荷社が鎮座している。明治以降に、祭祀場所は何ヶ所か移動したようだが、戦後に再び同地へと帰還している。徳船稲荷の「徳」は、徳川家の船の舳(へさき)を切りとったものだったようだが、1945年(昭和20)の空襲で失われている。現在は、かたちばかりの小さな社が戦後新たに建立されているが、今回の目的はこの稲荷社ではない。
 南高橋から、南西へ直線距離で120mほどのところにある鉄砲洲稲荷社のほうだ。同社は、平安初期に建立されているが、1457年(長禄元)に太田道灌による江戸城の築城以降、海岸線の埋め立てが徐々に進み、現在の京橋付近で暮らしていた住民たちの産土神(うぶすながみ)として奉られていた。また、徳川幕府による海岸線の大規模な埋め立てが進捗すると、さらに場所を移してほぼ現在地へと遷座している。江戸期には、江戸へとどく生活物資(米・塩・酒・薪炭など)の多くが、江戸湾から大川(隅田川)をさかのぼり、鉄砲洲湊(河岸)に陸揚げされていたことから、航海の安全を祈願する海難除け稲荷としても知られるようになった。
 今回の散策の目的は、旧・大橋(両国橋)の移設である南高橋とともに、この鉄砲洲稲荷社の境内にある、周辺の富士講によって築造された「鉄砲洲富士」を見学することだった。拙サイトでは、落合地域に築造されていた「落合富士」をはじめ、東隣りの戸塚地域に築かれた「高田富士」、北西側の江古田地域に築かれた「江古田富士」、北側の長崎地域にある「長崎富士」、南側の新宿地域に築かれたの成子(鳴子)富士などをご紹介している。
 これらの富士塚は、すべて円墳または前方後円墳とみられる墳丘の頂上部に、講中のメンバーがわざわざ背負って運んだ、富士山の溶岩を積みあげて築造されている。落合富士=大塚浅間古墳、高田富士=富塚古墳、江古田富士(未調査だが地元に古墳伝承あり)、長崎富士(同)、成子富士=成子天神山古墳といった具合に、ベースには古墳の墳丘が利用されていた。
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 大江戸(おえど)の市街地や郊外に築かれた富士塚は、もともと正円状に地面から盛りあがった墳丘(前方後円墳の場合は後円部)を、そのまま活用して築かれているが、平地の場合はどうやって築いていたのかに興味があったのだ。そこで、もともとは海岸線で埋立地だった鉄砲洲には、どのような富士塚が築かれていたのか、以前から気になっていた。埋め立てられる前の、八丁堀に架かっていた稲荷橋跡を南へ進むと、すぐ右手(西側)に鉄砲洲稲荷の杜が見えてくる。富士塚は、同社の拝殿・本殿の右手、すなわち北側にひっそりと保存されていた。
 一見しておわかりのように、地表から溶岩のみが高く積みあげられているのがわかる。これは、鉄砲洲稲荷社が旧社地から現在地へ遷座してから、改めて築かれたものだということだが、江戸期からその仕様は変わっていないのではないか。なぜなら、内陸や郊外の富士塚が富士山の一合目、すなわち墳丘の下を一合目と決め、頂上の溶岩を積みあげた山頂に向けて登りはじめるのに対し、鉄砲洲富士はいきなり五合目からはじまっているからだ。江戸期には、この溶岩の下にいくらかの土盛りがあったとしても、きわめて低いものではなかったろうか。
 その様子は、1864年(元治元)に三代豊国・二代広重によって描かれた、連作「江戸自慢三十六興」のうち『鉄砲洲いなり富士詣』でもうかがうことができる。富士塚の全体は溶岩のかたまり、すなわち現状と同様の造りであり、基盤となる丘がまったく描かれていない。画面には、遠景として山頂をめざす母子が描かれているが、鉄砲洲富士はこれほど大きくはないので浮世絵師によるデフォルマシオン(誇張)表現だろう。高さが約5.4mで面積が約95m2と、江戸の市街地や郊外にある富士塚に比べ小規模なのも、土台となる塚=古墳が存在していなかった様子がうかがえる。
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 ところで、鉄砲洲や八丁堀界隈でランチを食べようと、いろいろな飲食店を探したのだが、あいにくビジネス街の日曜日で開いてる店が少ない。明石町方面へ歩いていくと、戦前の昔から開業している老舗の天ぷら屋や鮨屋、戦後のフレンチレストランなどがあるのだが、それらは店先にメニューを表示していない「時価」の店舗なので、怖くて入れなかった。そういえば、明石町や八丁堀界隈は一時期、築地市場の新鮮な食材を背景に高級料理店が多く軒を並べていた地域でもある。

◆写真上:八丁堀側の湊1丁目から眺めた、亀島川に架かる南高橋の西詰め。
◆写真中上は、1893年(明治26)に撮影されたトラス橋になる前の大橋(両国橋)。中上は、1904年(明治37)に竣工した大橋。中下は、横網町の復興記念館に保存されている昭和初期まで使用されていた「りやうこくはし」のプレート。は、復興校舎として完成した千代田小学校(現・日本橋中学校)の屋上から撮影された大橋。元祖すずらん通りに面して、ミツワ石鹸丸見屋本社ビルがないので1930年(昭和5)以前の撮影だと思われる。
◆写真中下は、南高橋として移築された大橋の3連桁トラスの中央部。中上は、新川2丁目(東詰め)方面へ向けて撮影した南高橋。中下は、剝脱した塗料の下には赤茶色の錆止めと現状の塗料との間に灰青色の塗料が確認できる。は、東詰めから撮影した南高橋。
◆写真下は、上流の高橋から撮影した南高橋の全景。背後に見える巨大な水門は、大川の出口に設置された亀島川水門で、背景は石川島の高層ビル群。中上は、亀島川(越前堀)よりも幅が広かった八丁堀(別名:桜川)跡の桜川公園。中下は、鉄砲洲稲荷社の境内に残る鉄砲洲富士。は、1864年(元治元)に制作された三代豊国・二代広重による『鉄砲洲いなり富士詣』(部分)。
おまけ
 上の写真は、こじんまりした鉄砲洲稲荷の鉄砲洲富士全景。下は、『落合ほたる』と同様のコラボレーションで三代豊国・二代広重が描く「江戸自慢三十六興」の『鉄砲洲いなり富士詣』。
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「婦人之友」から3女性の画業事始め座談会。

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 画家になるきっかけとは、いったいどのような経験だったのか? 1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号では、三雲祥之助がMCの役割で、その連れ合いである小川マリ子、三岸節子、そして佐伯米子の3者が座談会を開いている。
 ちなみに、この当時の婦人之友社の所在地は、豊島区雑司ヶ谷6丁目1148番地のままであり、のちに同地域の住民たちにより最高裁まで争われることになる、行政による強引で一方的な地名変更の押しつけで、豊島区「西池袋2丁目」になる前の時代だ。
 なぜ、「婦人之友」が女性の洋画家たちの座談会を開いているのかといえば、戦後に結成された女流画家協会の人気や反響も大きかったのだろう、戦前には不自由だった女性の生活(女修身)が敗戦で霧散し、自分の好きな仕事に取り組める環境が、少しずつ整いはじめていた時代の影響も大きいとみられる。したがって、画家をめざす女性が急増していた背景があったのだろう。同誌の座談会では、なにがきっかけで画家になったのか、どのような経緯で画家をめざすことになったのかという、3女性の出発点=動機が語られる内容となっている。
 少し余談だけれど、いまの若い子たちには聞きなれない言葉だと思うが、わたしの親の世代までは「女流画家」や「女流作家」(ときに「閨秀作家」)などという言葉がそのまま残ってつかわれていた。では、「男流画家」や「男流作家」という表現があるかと思えば、そんな言葉は存在していない。換言すれば、画家や作家という職業は男性があたりまえの時代で、女性がそれらの職に就くのは異例だったのだ。いまや、作家や文筆家は女性のほうが圧倒的に多いのではないかと思われるが、戦前は女性が画家や作家をめざすことは、薩長政府による中国や朝鮮半島由来の儒教思想による教育から、「とんでもなく不良で非常識なこと」と思われていた時代だ。
 まず、三岸節子は女学生時代から絵がうまかったこと、美術の教師からかわいがられ、図画はいつも100点ばかりで学校の代表に選ばれることが多かったと述懐している。当時は寄宿舎の生活で、室内があまりに殺風景だったため、展覧会へ出かけて風景画を1枚購入したことから、洋画に興味を抱いたのがはじまりだった。以下、1951年(昭和26)発行の「婦人之友」6月号に収録された、「季節の話題/女性と美術を語る」という座談会から引用してみよう。
  
 三岸――女学生のくせに随分生意気な話ですけれど、その絵は加藤某とかいう無名作家の絵で、緑一色で描いた、今から考えればセンチメンタルな甘い絵だつたと思います。ともかくそれを買つて部屋にかけて毎日眺めていました。その頃の私は、絵だけでなく、文学や詩が好きで、いわゆる文学少女でしたから、芸術に対する漠然としたあこがれを持つておりました。それに子供の時から、家にはさまざまの書画があり、骨董屋が始終出入りしているというような、代々ディレツタントの家だつたという環境のせいもありましよう。
  
 三岸節子の実家(愛知県一宮市・吉田家)は、医者になる姻戚が多く、親から女子医学専門学校への進学を強くいわれていた。だが、彼女は女学校を卒業間際に受験したものの、数学が苦手で落第してしまう。そこで、親には「何でもかんでも油絵をやりたい」といって、岡田三郎助に弟子入りするのと同時に、本郷菊坂町89番地の女子美術学校へ入学してしまった。以来、三岸節子にとっては、絵を描くこと=「やむにやまれぬパッション」となったと語っている。
 一方、東京の尾張町(銀座)で育った佐伯米子は、絵を描くようになったきっかけは三岸節子に比べ「ほんとに平凡で、はずかしい」と発言しているが、彼女が育った牙彫師(がちょうし)がたくさん勤務する特殊な環境は、決してありふれた家庭生活ではなかったはずだ。むしろ、美術工芸にきわめて近しい環境だったろう。つづいて、座談会の佐伯米子の述懐から引用してみよう。
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 佐伯――私の家は、象牙彫刻の美術貿易商でした。この頃の方は象牙細工などご存知ないかもしれませんけれど、名人のほつた真白い観音様だの娘だの、そういうものがあつて、それを見て暮したということが、私の心を美術の方へ向けさせ、絵をかくようになつたもとだつたと、いえばいえるでしよう。/やつぱり私も、絵は小学校の時からはり出しとか何とかいつて、いつもお点がよかつたし、手工なども上手で、代表になつて展覧会に出たりしました。そして絵を習いたいといつていたのみ(ママ:で)、母がつれて行つてくれたのは日本画の先生でした。それで私はすぐに絵具できれいな絵が描けるのだと思いましたら、先生の前にちよこんと坐らされて、竹だの真珠の玉だのの、つけたてばかりやらされて、つまらなくてがつかりしてしまいました。それから虎の門の東京女学館に入つて、今度は川合玉堂先生にお弟子入りしましたけれど、やつぱりお手本を描いて頂いて、一週間目にお清書して、先生にもつてまいりました。(カッコ内引用者註)
  
 佐伯米子の実家・池田家では、別に彼女を画家にしようとして日本画家の画塾に通わせたのではないだろう。(城)下町の子どもが身につける、基本的な教養のひとつとして、佐伯米子の場合は日本画だったにちがいない。これは、(城)下町の家庭では江戸期からつづく習慣で、学校(寺子屋時代含む)の勉強とは別に三味や琴、明治以降はピアノやヴァイオリンなどの楽器類、清元や常磐津、小唄、詩吟、謡曲、さらに和歌、俳句、川柳の修得、絵画や書の稽古など、学校教育とは別に、なにか一芸を基本的な教養として身につけるのがあたりまえだった。
 そうでないと、なにかの会合や人前に出たとき、無芸な野暮では大恥をかくことになってしまい、あるいは話の拡がりで共通の話題が見つけにくく、趣味の基盤があるのとないのとではコミュニケーションや人脈の形成に大きく影響したからだろう。わたしの親父は、戦前に三味(細竿)と清元(いわゆる線道)へ通わされたが、45歳をすぎたあたりから、なぜか乃手趣味の謡いをはじめるようになった。息子であるわたしは、線道もついていなければことさら披露できる一芸もないので、(城)下町人としては落第で失格だろう。学校教育とは別に、必ず一芸を修得するのが戦前の江戸東京、特に町場では日常的であたりまえの世界だった。
 その後、佐伯祐三と結婚してから、米子は洋画を描くようになったと話している。佐伯とともにフランスへ出かけたとき(第1次滞仏=1923~1926年)、ゴッホ(当時の一般的な呼称はゴーグ)がいたアルルの田舎の草原で、ボール紙のキャンバスに油彩で描いたのが最初だった。それが思いもよらずパリでサロン・ドートンヌに入選し、これが契機となって油絵を描くようになった。当時は日本画の手法が抜けておらず、その表現がめずらしくて入選したのだろうと米子は回想している。
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 さて、小川マリ子の場合は、どんなきっかけで絵をはじめたのだろうか。3人の中ではもっとも遅いスタートで、絵描きになるつもりなどなかったという。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 小川――私は北海道の荒地そだちで全く美術などとは縁の遠い生活だつたのですけれど、たゞ自然の中に育ちましたから、自然に対するあこがれを、小さい時から、今も持ちつゞけているのだと思います。東京に来て東京女子大を卒業してからもぐずぐずして油絵をはじめたのは廿七位でした。その頃西荻窪に住んでおりましたが、その秋色のきれいなのに感動して、はじめて絵を描いてみたいなあと思い、誰にも教えられないのですけれど、自分でこつそり水彩画を描きました。とても恥かしがりやでしたから、描いても絶対に人にはみせないのです。そのうちに、何ということなしに油絵が描いてみたくなり、文房堂に絵具を買いに行つたのですが、自分が描くのだとは恥かしくていえない。子供用の油絵具を下さいといつて、買つたのですけれど、油壷をどこへ置くのかも分らないというようなわけでした。エカキになろうなどという考えは毛頭なく、たゞ始めは自然の中で勝手にたわむれているような気持だけでした。それでどこにも習いに行こうなどとは思いませんでした。(中略) こんなわけで私のかき出した動機は、むさし野の自然だつたように思います。
  
 小川マリ子は、その後、知りあいを通じて小島善太郎に油絵を習うことになる。小島善太郎が、南多摩郡加住村(現・八王子市舟木町)にアトリエをかまえていた時代だろう。
 3人のなかで、やはり三岸節子の出発点が意志的で、確とした主体性に裏打ちされていると感じる。佐伯米子は、どちらかというと(城)下町の教養が出発点で、あとは連れ合い(夫)しだいだった様子が透けて見えるようだ。もし、夫が文学者だったら、彼女は時代の証言者的なエッセイストになったのではないか……と思えるような文章(おもに明治から大正期の銀座・東京風景など)を、あちらこちらに残している。小川マリ子は、絵を描きたいとひそかに思う女子がいれば、誰もがたどりそうな道筋で画家になっており、「婦人之友」の読者にはもっとも近しい存在といえるだろうか。「婦人之友」編集部では読者に向け、うまく“バランス”のよい人選をしているように思える。
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 この座談会に、同じ女流画家協会の起ち上げからの会員で、三岸節子の親友でもある藤川栄子が参加していたとしたら、どのような展開になっていただろう。それを想像すると、ちょっとおもしろい情景が浮かんできそうだ。三岸節子が「絵の学校なんかで勉強してちゃダメになるわよ」とか、藤川栄子が「米子さん、あんた、“なんぼでもデッサン”よね」とか、ふたりの強い女性の遠慮会釈のない、いいたい放題の掛けあい対談になり、言葉では太刀打ちできそうもない佐伯米子と、奥手で恥ずかしがりやの小川マリ子は、ほとんど発言する機会がなかったのではないか。w

◆写真上:自由学園明日館の隣りにある、ライト風の窓が目立つ婦人之友社ビル。
◆写真中上は、1951年(昭和26)に発行された「婦人之友」6月号の表紙()と目次()。は、座談会で司会をつとめた三雲祥之助(左)と佐伯米子(右)。は、同じく座談会へ参加した小川マリ子。いまだ敗戦から間もないため、写真の印刷画質が非常に悪い。
◆写真中下は、1947年(昭和22)ごろ撮影の女流画家協会展の部屋割りを相談する会員たち。は、同じころ展覧会前に同協会で行われた応募作品に対する審査会の様子。中央の長椅子に座っている森田元子と右隣りには佐伯米子、右端で作品を指し長椅子のアームに腰かけながら文句をいっていそうなのが藤川栄子は、フランスの野原で写生をする佐伯米子。
◆写真下は、1955年(昭和30)撮影の三雲祥之助と妻の小川マリ子。は、1934年(昭和9)ごろに撮影されたとみられる大正期の女性画家としては先がけていた甲斐仁代(左)と藤川栄子(右)。は、1915年(大正4)に撮影された本郷菊坂の女子美術学校における人体デッサンの実技授業。
おまけ1
 1950年代の、時代を彷彿とさせる記事や広告も掲載されている。おそらく表3の記事「商品の知識/粉ミルク」(左)と、表4の「森永ドライミルク」広告(右)はタイアップ企画だろう。わずか5年後、森永乳業の徳島工場で生産されたドライミルクに、工業用の第二燐酸ソーダに含まれた多量のヒ素が混入し、西日本を中心に1万3,000人の乳幼児が中毒症状を発症、うち130人以上が死亡している。いわゆる「森永ヒ素ミルク中毒事件」で、わたしの親たちは決して森永の乳製品を手にしなかったのを憶えている。現在でも、重症の被害者への補償やケアはつづいているようだ。
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おまけ2
 1950年代の画家の女性ふたりは、このように報道されていた。1959年(昭和34)の新聞記事から。
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中井英夫が住みたがった大江戸の認識。

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 下落合4丁目2123番地の「バラ園」に住んだ中井英夫は、敗戦直後の翌年1946年(昭和21)には西荻窪の次姉のアパートに身を寄せていた。そこでも、以前から書き継がれてきた日記をつけつづけ、敗戦直後のものは『黒鳥館戦後日記』として発表している。
 その中に、どうしても東京に住むなら……という前提で、当時の住みたい街をいくつかピックアップしている。以前にも、拙記事でご紹介していたけれど、敗戦から5ヶ月後、1946年(昭和21)1月24日付けの日記には、次のような記述が見えている。再度の引用となって恐縮だが、1983年(昭和58)に立風書房から出版された、中井英夫『黒鳥館戦後日記』から引用してみよう。
  
 どうで東京に住むとならば、築地か人形町か薬研堀か、もしくは本郷、上野、浅草、それでなければ直次郎を気取つて駒込あたりに侘びずまひ、本当の江戸に生きぬきたい。もとより己が生得の田舎気質は、何遍お江戸の水で洗はうとあくのぬけるしろものではない乍ら、こんな西荻あたりは場末の面白さも見られず、ほとほとに愛想もつき果てた。今度の戦争で焼けなかつたその事自体が荻窪以西の如何に片田舎であるかを示してゐる。(中略)/東京に住むことのうれしさ、誰がクソ、どうあつても此処だけは離れぬ、ここだけは己のふるさと。さういへば今朝の新聞には、戦災者の麦ふみの写真など出てゐたけれども、何とそれが神田の町中での事だといふに、ふるさともあまりの土くささに、わびしさをもよほさずにゐられない。
  
 父親の中井猛之進は岐阜の出身だが、中井英夫は滝野川区の田端町生まれなので、ふるさとは東京ということになる。だが、彼は故郷の街の名前をあえて挙げていない。おそらく、大江戸(おえど)由来の芝居(黙阿弥の世話物中心)に馴染んでいたものか、江戸東京でも江戸後期から明治にかけて人気があった地域の街をピックアップしているのがわかる。
 この文章につづけて、「焼けたことこそ江戸ッ児の誇りとは申せ、もう少し焼け方もあつたらうものを」と、空襲で焼けた街々を惜しんでいるところは、中井英夫がすでに江戸東京地方のアイデンティティをすっかり身につけていた(つもりになっていた)ことをうかがわせる表現だ。ちなみに、彼の故郷である田端町は、空襲でほとんど焼け野原になっていた。
 まず、「築地」から考えてみよう。築地あるいは大川(隅田川)の中に浮かぶ佃島や月島界隈は、激しい空襲からもかろうじて焦土にならなかったエリアだ。ところどころ、まだら状に焼夷弾が落ちたものか、部分的に焼けた街角が確認できるが、街全体が消滅してしまうほどの被害は受けていない。築地の北側、明石町や入船町、新川町、八丁堀など、そして北東側の霊岸島界隈は空襲の延焼に遭い、ほぼ全域で焼け野原が拡がるような風景だった。
 次に「人形町」もまた、日本橋地域の中で奇跡的に焼け残った街ということになる。西側の日本橋江戸橋へ近づくほど、コンクリートのビル(内部は丸焼けだったが)を除き、木造の家屋は空襲でほとんど焼失している。だが、おそらく風向きの加減からか、人形町一帯には火がまわらなかったらしく、戦前の古い街並みがそのまま“保存”されているような状態だった。つまり、中井英夫の「築地」や「人形町」は、戦前の東京の街中の香りがそのままつづいている地域ということになる。ただし、これらの街々も関東大震災で江戸期や明治期の風情を消すほどの大きな被害を受けているため、厳密にいえば大正期に建てられた建築が中心で、ところどころに江戸や明治建築(レンガかコンクリート造りで、焼け残ったか修復された建築)が残っているような風情だったろう。
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 だが、「薬研堀」の街々はまったく異なる。厳密にいえば、「薬研堀」という町名はかなり局所的になる。江戸後期から明治期にかけ、大川へ通う薬研堀は埋め立てられつづけたが、その埋め立てた堀の上にできた街を、一時的に明治初期ごろから薬研堀町と呼んだ時代があった。だが、中井英夫が書いた「薬研堀」はその街のことではない。江戸期から、通称名として「薬研堀」地域と呼ばれていたのは、大橋(両国橋)の西詰めに近い、日本橋米澤町や同矢ノ倉町、同村松町、同若松町、そして明治初期に形成された薬研堀町をすべて併せた一帯、つまり大江戸時代=江戸後期にはもっとも繁華な街だった現在の東日本橋地域のことだ。
 江戸前期には、医者や薬問屋などが多く住んでいたといわれているが、江戸後期になると神田川の河口をはさんだ柳橋を背負う、大江戸ではもっとも繁華な街を形成していた地域ということになる。現代の感覚でいうと、銀座か新宿の商店街に相当する街中ということになるだろうか。大橋(両国橋)の東西両詰め(日本橋側と本所側)=両国広小路では、しじゅう見世物の小屋がけ(いまでいう大規模なイベント)が行われ、ときには開催中に大江戸人口の約半数(70万~80万人)ほどを集めるほどの賑やかさだった。中井英夫が「薬研堀」を挙げたのは、そんな大江戸一の繁華だった街に、彼ならではの「郷愁」を感じていたものだろうか。
 次いで挙げている「本郷」だが、これは彼の母校である東京帝大がある街なので、学生時代の思い出と結びついたノスタルジア(郷愁)からだろう。戦後は、湯島から神田にかけては焼け野原だったが、本郷の北端や西片町にかけては延焼をまぬがれている。特に西片町には、江戸期から大正期にかけての古い住宅街がそのまま残されていただろう。
 つづいて、挙げているのが「上野」だ。中井英夫は「上野」と書いているが、これは厳密にいえば江戸期から街々が形成されてきた下谷のことだろう。江戸後期には、小旗本や御家人、千代田城に勤める茶坊主、幕府専属の専門職人など、幕臣を中心とした「御城」の関係者たちが多く住んでいた街だが、明治以降はさまざまな分野の専門職人の街に変貌している。また、あとで挙げている「直次郎」が活躍した地域でもあり、町名ともからみ芝居の舞台として数多く登場する地域だ。また、今日でいう上野は本郷の東隣りにあたる地域なので、中井英夫は学生時代の思い出のある街だったのかもしれない。ただし、同地域は銀座とともに、東京大空襲以前の早い時期から空襲にさらされており、戦後は焼け残った街角が島状に点在するような光景になっていた。
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 次に、「浅草」を挙げているが、これは明治以降に遊興地として拓けた街で、中井英夫も映画や寄席、演劇などを観に通っていたのではないかと思われる。この街も、学生時代のなんらかの思い出と結びついているのではないか。ただし、上野の東側に位置する大川沿いの浅草一帯は、激しい空襲によりほぼ全滅状態だった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲で大きなダメージを受け、焼け残ったエリアは敗戦まで繰り返し爆撃されたのだろう、見わたす限りの焼け野原だった。浅草寺にも火が入り、本堂や五重塔など主要な伽藍を焼失している。
 最後に、「直次郎を気取つて駒込あたり」は、もちろん河竹黙阿弥『天衣紛上野初花』(くもにまごう・うえののはつはな)=通称「河内山」に登場する、上野寛永寺の高僧をかたる茶坊主の河内山宗俊と、御家人くずれの「直侍」(なおざむらい)こと直次郎の、ふたりの悪党が活躍する芝居の舞台だ。駒込は、御家人だった直次郎が役宅をかまえていた街で、「河内山」の第六幕に「/\根が駒込の片端で~二人扶持に俵取~」と七五調のセリフが登場する。
 こうして、敗戦直後に中井英夫が挙げている、東京の住みたい街々を見てくると、江戸後期または明治以降から戦前にかけて江戸一あるいは東京一といわれた人々が集まる繁華街、あるいは学生時代に頻繁に遊びに出かけ馴染んだと思われるノスタルジックな街々、さらには芝居(特に黙阿弥作品)を通じて親しんだとみられる場所などで暮らしたいと考えていたようだ。けれども、なぜか彼は市谷台町に住んだあと、1958年(昭和33)に下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目23番地)に転居してきて、多種多様なバラを育てながら『虚無への供物』を執筆することになる。
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 中井英夫は、「どうで東京に住むとならば」と挙げた街々へ、戦後やや落ち着いてから出かけているはずだが、そこで見た焼け野原や戦争の傷跡が生々しい地域に幻滅したものだろうか、それらの街々には住んでいないようだ。むしろ、西荻窪と同様に戦争の被害をほとんど受けていない、戦前はアビラ村(芸術村)と呼ばれていた、下落合4丁目におよそ10年間も暮らしている。

◆写真上:戦後、寄宿していた西荻窪の次姉アパート前で撮られた中井英夫(左)。
◆写真中上は、1948年(昭和23)に米軍のF13により撮影された空中写真にみる築地界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の日本橋人形町界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された東日本橋界隈。は、1948年(昭和23)撮影の本郷界隈。
◆写真中下は、1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる下谷(上野)界隈。中上は、1947年(昭和22)撮影の浅草界隈。中下は、1947年(昭和22)に撮影された駒込界隈。は、1947年(昭和22)撮影の中井英夫が生まれたふるさと町の田端界隈。
◆写真下は、戦後すぐのころに撮影された中井英夫。中上は、1947年(昭和22)に次姉のアパートに寄宿していたころの西荻窪界隈。中下は、1947年(昭和22)撮影の下落合4丁目(現・中井2丁目)界隈。は、世田谷区羽根木2丁目25番地の自邸縁側で撮影された中井英夫(右)と澁澤龍彦(左)。
おまけ
 1947年(昭和22)7月27日 晴、暑さ限りなし
 「向ひのアパートで子供を叱る声、かけつ放しのラヂオ、四卓ばかり朝からやつてゐる麻雀等々、こちらでは酒をのんでチンダラカノサマヨ、りんごの歌等々、(中略) この中で勉強なんか出来るもんか、清浄な人間になんかなれるものか。たゞじつと身をひそめて、書くべきものに耳をすますのみ」(『続・黒鳥館戦後日記』より)。下は、1947年(昭和22)に描かれた中井英夫『自画像』。
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随所で見かける刀剣好きな大熊喜邦のネーム。

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 上落合に一時住んでいた大熊喜邦というと、帝国議会議事堂(現・国会議事堂)や帝国劇場をはじめ、建築家としての印象が強いだろう。また、後年には江戸期の建築や街道、触書(ふれがき)などの研究家としても知られている。だが以前から、刀剣関連の書籍でもしばしば彼の名前を見かけることに気づいていた。もとは旗本の家柄なので、家伝刀剣類に興味をおぼえていたのだろうか。どちらかといえば、刀剣よりも刀装具の美に関する著書が多い。
 旧・旗本の大熊家に伝わった刀剣類は、かなりの数量におよぶ。他人ごとながら、さぞ手入れがたいへんだったろうと思うのだが、刀剣のためにメンテナンス専門の家令を雇用していたのかもしれない。家伝の刀剣は、もちろん江戸期から伝わっているもので、刀身(白鞘で休ませている刀身)のほか、柄(つか)や柄巻、目貫(めぬき)、柄頭(つかがしら)、鐺(こじり)、鐔(鍔:つば)、小柄(こづか)、笄(こうがい)、鞘(さや)、そして下緒(したお)にいたるまで、刀装具すべての保守・管理をしなければならなかったとみられるので、膨大な手間ひまがかかっただろう。
 大熊家の刀剣は、判明しているだけで刀(打ち刀=大刀のこと)が25振り、脇指が24振り、短刀が5振りで、刀と脇指がほぼ同数なのは江戸期には“二本指し”が、勤めのある武家一般の装いだったからだ。これらには、すべて刀装具が付属しており、それらもすべて含めた手入れは、やはり専門職に頼らざるをえなかっただろう。時代は新刀(慶長~安永期=江戸前期)の作品が多く、ことに大熊家の先祖には小糠肌を焼く肥前刀好きと、中世以降に相州伝の影響が色濃い美濃の関鍛冶のファンがおり、好んで作品を購入していたようだ。
 また、旗本らしく幕府の抱え鍛冶で茎(なかご)に葵紋を切るのが許された、“南蛮鉄”の使用が目立つ「越前康継」、同じく越前鍛冶の「伯耆守汎隆」、大坂新刀の流れをくんだ濤乱刃の「越中入道紀充」など、日本海側出身の作品が目立つ。古刀(平安~室町期)では、めずらしいところで室町初期の平安城派(後三条派)と呼ばれる「三条吉則」、織田信長の抱え鍛冶だった美濃鍛冶「若狭守氏房」などだろうか。先祖が江戸後期に入手したのだろう、新々刀(安永~明治初期)では松平白河藩の抱え鍛冶だった「固山宗次」や、湯島天神の傍で鍛刀していた「南海太郎朝尊」の作品も見える。もっとも、大熊家の刀剣目録は寛政期までのをめやすにしており、幕末に手に入れた新々刀がもう何振りが伝わっていたのかもしれない。
 ここで、ざっと幕臣だった大熊家について概観しておこう。大熊喜邦の曽祖父にあたる大熊喜住は、佐渡奉行から幕府評定所(寺社奉行+町奉行+勘定奉行による共同裁定組織)の留役をつとめ、禄高は400俵(約160石)の旗本だった。だが、「天保年間仙石道之助家来吟味」(通称:仙石騒動)の探索で功績があり、給与倍増の800俵(約320石)取りになっている。さらに、200俵加増されて1,000俵、晩年には長年勤務の役料としてプラス1,500俵と、加えて100人扶持が支給されるようになり、併せて2,500俵(約1,000石)と100人扶持の支給となっている。
 大熊喜邦によれば、大熊家の先祖には特別に熱心な刀剣趣味の人物は見あたらず、刀に対する好き嫌いぐらいはあっただろうが、おそらく先祖は禄高に見あった刀剣を、時代ごとに気の向くまま所有したまでだろうと語っている。(「刀剣資料」25/南人社) 確かに、これまで拙サイトでご紹介してきた大名家収蔵刀に比べれば、かなり地味でしぶい収蔵作品ばかりだが、1,000石100人扶持の旗本としてはこれぐらいの作品所有が妥当だったのだろう。けれども、戦災をくぐり抜けた現代から見れば、いずれも日刀保から特別保存刀剣や重要刀剣に指定されそうな作品ばかりが並んでおり、当時はほぼ“現代刀”だったそれらの価値は飛躍的に高まっている。
 さて、50振り以上の刀剣(鎗や薙刀は含まず)を所有していた大熊家だが、大熊喜邦が惹かれたのは刀身の美よりも、おもに美しい意匠がほどこされた刀装具のほうだった。特に鍔(鐔:つば)の研究では、本を何冊も出版するほどの入れこみようで、いまでも刀剣書籍(刀装具)のなかでは重要な資料の位置を占めている。ご存じのように、江戸期に入ると戦闘がほとんどなくなり、また銃砲の役割りが大きくなるにつれ、武器としての刀剣の比重は徐々に低下する一方となった。すると、武家社会では刀剣を武士の象徴とし、美しく装飾して誇示する趣味が流行するようになる。
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 その様子を、1922年(大正11)に鈴木書店から出版された、大熊喜邦『鐔百姿』から引用しよう。
  
 昔武家生活の時代には刀は武士の生命とするところで、中身(刀身)は勿論、太刀(たち)の造りや刀剣の拵(こしらえ)には柄(つか)の頭(かしら)から鐺(こじり)の先迄心血を注で意匠を凝らした。時には数年は愚か十数年を費して一組を纏めた事さへもあると聞いてゐる。かやうな理で一枚の鐔一組の目貫(めぬき)にも持つ人の趣味や好尚は窺はれるので、それがたとへ仕入れものでも選択に個性の現れはある。また其の時代には體に着ける装身具的のものとして人前に誇るものは印籠(いんろう)と刀剣で、殊に目に触れ易い刀剣の装飾には身分不相当な金をかけ、一つ一つにさへ目に見へぬ苦心をし、己れが好みの全体をそれに傾けた程のものである。かゝる有様であるから、彫工でも鐔工でも小柄(こづか)の柄一本、鐔の一枚に力作を試み其の手法も意匠にも彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の痕を見せぬものはないのである。(カッコ内引用者註)
  
 文中で「太刀」と書いているのは、腰に指す打ち刀の大刀のことで、たとえば鎌倉武士が腰に佩く(下げる)、打ち刀とは表裏が逆な太刀(たち)のことではない、
 大熊喜邦が、刀身ばかりでなくその拵(こしら)えに、いかに注目していたかを感じさせる文章だ。平和な江戸期には、武士たちは刀装具のデザインにカネをかけて凝りに凝った。それらは、室町期以前とは比較にならないほど、芸術的で豪華な工芸作品を産みだしていく。
 幕府は繰り返し、大刀と脇指の長さ(刃長)に基準を設け、奢侈な刀剣拵えを規制しようとするが、そもそも江戸幕府の規制は「触書政治」(触書の内容は基本的に自治組織へ一任されており、取り締まる機関も員数が少なく手配がとどかない)が基本で守らない武家や市民も数多く、拵えに凝る武家の趣味は幕末まで変わらなかった。幕府の意向に沿う地味な刀は、役向きの勤務時のみに指してでるが、趣味や好みを存分に反映した刀は役向き以外の外出時、あるいは自宅に何振り所有してても勝手で咎められなかった。また、幕府の規制に一見適合しているように見えても、刀装具を細見すると贅沢な素材や彫刻、金銀細工、蒔絵などが施されていることも少なくなかった。武家の指している刀を見れば、およそ石高や台所事情、懐具合を推し量ることができただろう。
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 刀装具のなかで、大熊喜邦が注目したのは鍔(鐔:つば)だった。刀(大刀)の鍔は径が広いため、さまざまなテーマによる絵画やデザインが可能で、小柄・笄とともに金工師や彫師による腕の見せどころとなった。大熊喜邦が、初めて鍔(鐔)に興味をおぼえたのは1910年(明治43)ごろのことで、当時は刀剣に付属する鍔(鐔)の細工美に目を向ける人物などほとんどいなかった。ましてや刀剣ではなく、鍔(鐔)を収集して観賞しようなどというような趣味も存在しなかった。1930年(昭和5)に洪洋社から出版された、大熊喜邦『古鐔図録・続』の「はしがき」から少し引用してみよう。
  
 私が鐔といふ小さな作品に案外大きな芸術の潜んでゐるのを見て驚かされたのは今から約二十年も前であつた。それから鐔に趣味をもち愛玩する様になつたが、それも鉄の透鐔(すかしつば)と真鍮象嵌鐔(ぞうがんつば)といふ極く限られた範囲のものであつた。それはこの二つの種類のものに私が最も印象づけられたからで、この範囲は今も変りはない。時に鉄鐔の精巧なる作品に手を触れてはゐるが、それは鉄といふ地鉄に痕づけられた作者の繊細な而して麗はしい彫法に共鳴をもつからである。(中略) どちらにしても鐔は見れば見るほど面白いもので好愛者の少ないのを不思議に思ふほどであるが、研究すればするほどむづかしいものであると思はない時はない。
  
 いまでこそ、鍔(鐔)を収集する愛好家は数多く存在し、根付(ねつけ)の蒐集家とほぼ同じぐらいいるのではないかと想像するが、当時は刀剣の付属品ほどの意味しかもたず、鍔自体の美や面白味を観賞する人が少なかったのだろう。現代では鍔はもちろん、小柄穂(こづかほ)や縁頭(ふちがしら)、鐺(こじり)、目貫(めぬき)が専門の愛好家さえ数多くいる。
 ただし、この趣味も数が増えてくると手入れが大変で、真鍮鍔は鹿皮で定期的にぬぐうぐらいでいいのだろうが、鉄鍔は刀剣と同様に丁子油を使って磨かなければならないし、金銀象嵌や七宝などで細工されている場合は、削ったり摺り減らしたりしないよう細心の注意が必要となるだろう。
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 収蔵品のほとんどが刀剣という、佐野美術館を設計したのが大熊喜邦の子息である大熊喜英というのも、大熊家と刀剣との深いつながりを感じさせる仕事だ。はたして、大熊喜邦が収集した鍔(鐔)や、大熊家の刀剣類は戦災をくぐり抜け、はたして戦後まで何振りが保存できただろうか。

◆写真上:ともに鉄鍔で、三国志図象嵌鍔(左)と波小鼓透鍔(右)。
◆写真中上は、竹梅彫刻は新刀の祖・埋忠明寿写しだろうか幕府抱え鍛冶の初代・越前康継押形。は、白河松平藩の抱え鍛冶だった固山宗次押形。は、1925年(大正14)出版の大熊喜邦『古鐔図録』(洪洋社/)と1933年(昭和8)出版の『古鐔図録・続』()。
◆写真中下は、1922年(大正11)に出版された大熊喜邦『工芸図案/鐔百姿』(鈴木書店/)と著者()。は、打ち刀拵えの名称。は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の見開き。
◆写真下は、大熊喜邦『古鐔図録・続』の解説。は、柄の上下に用いる月下秋虫図の縁頭(ふちがしら)。は、刀剣の収蔵品がメインの静岡県三島市にある佐野美術館(設計:大熊喜英)。
おまけ
 先日、鞴(ふいご)祭りと紀文についての記事を書いたが、ある方から紀州の柑橘系フルーツをまとめていただいた。写真の左上がユズで右上がライム、そして中央が紀州ミカンだ。農家で栽培されたものではなく、自然におかれた樹木からそのまま収穫されたもので、特にミカンは甘味に強めな酸味が立つ昔ながらの風味で、人工栽培とは異なり非常に香りが強い。たまに種のある房が混じるが、品種改良が進む以前の「昔のほうがもっと美味しかった」と感じるフルーツのひとつ。
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コメント(三島通良)関連地図資料
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江戸東京の鞴(ふいご)祭りにミカンと紀文。

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 拙ブログをはじめたころ、いまではすっかり目立たなくなった江戸東京の鞴(ふいご)祭りについて書いたことがある。国家の基盤にかかわる、製鉄や鉄製品(武器や建設・農器具など)を製造する際に、大鍛冶・小鍛冶たちが常用する鞴(ふいご)だが、毎年11月8日(地方によっては2月7日または毎月8日)に行なわれる産鉄神あるいは鍛冶神を奉るのが鞴祭りだ。
 鞴祭りは、別にタタラの産鉄集団や刀鍛冶、刃物や農具、大工道具などの道具鍛冶(野鍛冶)に限らず、それらを使って仕事をする彫師や鋳物師、鑢(やすり)師、石工、金工、大工など職人の間でも行われている。これらの工房や製作所には、道具の修理や保守などメンテナンスのために、小型の火床(ほと)や鞴(ふいご)など簡易な鍛冶道具一式を備える鍛冶場が、どこにでも設置されれていたからだ。佐伯米子の実家である、尾張町から新橋へ移転した池田象牙店でも、象牙加工の鑿(のみ)や彫刻刀を用いるので、鞴祭りが行われていたかもしれない。
 これら鞴のある工房に奉られた神棚、鞴祭りで祈念した産鉄神あるいは鍛冶神としては、金山姫や金山彦、荒神(こうじん)、鋳成神(いなりしん)などがいる。これらの神々は、別に鍛冶職のみならず、金山神はカンナ流しやタタラ製鉄が行われていた場所などに金山社(神社)が建立されており、荒神の社(やしろ)は近世に「幸神」や「古神」など別の字があてはめられ、まったく異なる意味の社となっている場合が多い。また、鞴と火床の神のはずが、近世に料理場や台所にある竈(かまど)の神へと転化し、「三宝荒神」として奉られているケースも多々ある。
 また、古来からの鋳成神は、奈良期以降に朝鮮半島の新羅からもたらされたといわれる農業神の「稲荷」と習合し、全国各地の鋳成神の社が「稲荷」社へと転化した様子がうかがえる。田畑などない崖地や、山丘の斜面に建立されている稲荷社は、古来から日本で奉られていた鋳成社の存在を疑うと、その周辺の地下からはスラグ(鉱滓)=金糞・鐵液、すなわちタタラ製鉄で鉧(けら)を精製したあとの鉄クズなどが出土する事例が多い。また、鞴の羽口(はぐち)や溶炉の跡などが出土することもある。戦時で満足に調査されず、改正道路(山手通り)の工事でスラグ(鉄滓)が出土したまま破壊された、タタラ遺跡とみられる「中井遺跡」ではどうだったのだろう?
 武家や町人の別なく、鍛冶職の鞴(ふいご)祭りでは神前に並べられる供物として、江戸期になると燈明や注連縄のもとにミカン、餅、清酒、するめ、菓子などが供えられている。なぜミカンが供えられるのか、その由来は曖昧でハッキリしないが、目白(鋼)=鉄がもっとも忌避する「酸」味のある美味しい水菓子(フルーツ)を、この日だけは解禁して神々に美味しく食べてもらうためとか、熟したミカンの色合い(ふつうは熟柿色といわれる)が、灼熱の良質な目白(鋼)に色が似ているからだとか、多彩な説が存在するが近世につくられた付会臭がしないでもない。
 神前に供えられた、これらのミカンや餅、菓子類は近所の家々に配られ、また早朝から鍛冶屋の前に集まった子どもたちや近隣の人々へ、ちょうど節分の豆まきのようにバラ撒かれた。特に鞴祭りに備えられたミカンを食べると、1年間は風邪を引かない(病にかからない)という謂れがあったため、子どもたちばかりでなく大人たちも競ってミカンを手に入れようとした。これは、大名屋敷に設置された鍛冶場でも同様で、鞴祭りの供物は近隣の屋敷へ配られ、また屋敷の門前には多くの人々が参集してミカンや菓子類がまかれるのを待っていた。
 鞴祭りに集まった子どもたちが、鍛冶屋の店先や屋敷の門前で唱和する囃し言葉は、「♪鍛冶屋のビンボー、ビンボー鍛冶屋~」が定番だった。確かに戦(いくさ)などなくなってしまった、江戸期の刀鍛冶はかなりの貧乏暮らしをしており、名の知られた刀匠でない限りは生活が困窮していて、野鍛冶(道具鍛冶)へと転向する刀鍛冶も当時は少なくなかった。目白の金山稲荷社の付近で鍛刀していた江戸石堂の一派が消えてしまったのも、道具鍛冶へ転向したせいかもしれない。
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 また、多種多様な道具を製作する街中の鍛冶屋は生活が豊かだったが、「鍛冶屋のビンボー」は囃し言葉として定着し、町人や武家の別なく子どもたちは囃し立てている。鞴祭りの様子を、1969年(昭和44)に雄山閣から出版された、福永酔剣『刀鍛冶の生活』から少しだけ引用してみよう。
  
 江戸では八日の未明に、町内の子供たちが鍛冶屋の前に集まり、「鍛冶屋の貧乏、鍛冶屋の貧乏」、とはやし立てた。すると鍛冶は、「早朝からうるさいやつらだ」、とこぼしながら二階から蜜柑や餅をまくのが、習わしになっていた。「餅みかんフイゴまつりやつかみ取り」(下風)の句は、それを詠んだものである。つぎに鍛冶場では、フイゴに注連縄をはり、灯明・蜜柑・餅・神酒などのお供物をした。そして神官をよんで、おはらいをしてもらった。それがすむと、フイゴに供えた蜜柑は風邪の薬になる、というので、親類近辺の子供のいる家には配って回った。「兄弟子の長き羽織やフイゴ祭」(行々子)、という句があるとおり、その日は弟子たちも晴れ着をきていた。なお「古弟子をフイゴ祭に招きける」(秋渓)、とあるとおり、古弟子も招いて赤飯でお祝いをした。
  
 江戸の街中では、暖簾分けをして店をかまえている弟子の鍛冶屋や、武家では刀匠から独立して一本立ちした刀鍛冶まで招いて、鞴祭りが行われていた様子がうかがえる。
 もうお気づきだと思うが、今日でいえば正月の餅、バレンタインデーのチョコレート、土用の丑の日のウナギ、クリスマスイブのケーキと同様に、毎年11月8日の鞴祭りが近づくと、江戸では大量のミカンが消費されていたことがわかる。それまでも、ミカンは相模(現・神奈川県)の二宮(江戸期におけるミカン栽培の北限)から西、おもに伊豆から駿河(現・静岡県)にかけて収穫されたものは、江戸市中の水菓子屋(フルーツ専門店)の店頭に並んで出まわっていたが、一度に大量のミカンが食べられるのは、11月の鞴祭り前後と相場が決まっていた。
 そのため、10月末から11月の初めにかけ、いかにスムーズに江戸市中へミカンを流通させるかが、水菓子屋ひいては水菓子問屋の大きな課題だった。大都市化が進む江戸市中では、冬になるとミカンの消費量が増えつづけ、鞴祭りの前後にミカンの需要がピークを迎えると、年に一度のせっかくの商機をミカン不足で逃してしまうことになりかねない。現に、相模産や伊豆駿河産のミカンだけでは不足気味で、年々品薄の状態が起きており、価格の高騰も招いて商売自体が困難になりつつある状況だった。そこに目をつけたのが、紀国の紀伊国屋(きのくにや)文左衛門だったのだ。
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 ちょっと余談だが、紀国を紀伊国と記述するようになったのは江戸期からで、本来は紀国(きのくに)が正しい。江戸期の書物に、読みや母音の曖昧さを回避するため、おもに「イ」の母音を中心に漢字の「伊」がふられている。斐川(ひかわ=氷川)に「伊」を加えて、斐伊川・簸伊川などと表記されるようになったが、読みはいずれも「ひかわ」が正しい。同様に、江戸期から使われていた「半島」(オランダ訳語)という地形表現を意識すれば、現代では紀伊半島を「きいはんとう」と発音するけれど、江戸期も含め本来の読みは「きのはんとう」だろう。
 さて、紀伊国屋文左衛門がミカン船を江戸に回航して大もうけをしようと思ったのは、俗説によれば海が荒れて嵐が近づいため、他のミカン船が出航をためらうのを尻目に、生命を賭けて荒海に乗りだし、なんとか江戸に回航できて市場では稀少だったミカンをとどけたからだ……というのがある。でも、これでは紀文が死を賭して出航する理由としては弱すぎる。ミカンを安全かつ確実に江戸へとどけるには、海が少しでも凪ぐのを待ち船出をすればいいだけの話だ。
 今日ではほぼ忘れられているが、紀伊国屋文左衛門は積み荷のミカンを、是が非でも江戸の鞴祭りまでに間にあわせる必要があったのだ。紀文がマーケティングの支柱としていたのは、海が荒れてても嵐の中でも、とにかくミカンの大量消費が見こめる11月8日の鞴祭りの前に、なんとしてでもミカンを江戸市場へとどける必要があったのだ。これは、江戸の鞴(ふいご)がある街中の町人鍛冶屋はもちろん、武家の鍛冶屋(刀鍛冶や宮鍛冶、金工師など)、あるいは大名家の中に鍛冶場を設けている屋敷(中屋敷・下屋敷)、そして鍛冶屋が鍛えた刃物や道具を使うさまざまな職人の工房でも、ミカンが大量かつ一度期に消費されるからで、紀文は生命を危険にさらしてでも、荷のミカンが鞴祭りに間にあわなければ意味がないと考えたからだ。紀文の思惑は当たり、彼のミカンは高値で取引されて大もうけをしている。
 江戸後期になると、大江戸(おえど)では冬を代表する水菓子となったミカンは、鞴(ふいご)初めにも神棚へ供えられたかもしれない。鞴初めは、鍛冶屋ばかりでなく鞴を用いるすべての職人の仕事(細工)初めであり、正月の元旦ないしは2日が多かった。鞴初めは、本格的な仕事はせず、道具鍛冶の場合はミニチュアの小さな鉈(なた)・斧(おの)や包丁、刀鍛冶の場合は小さな玩具のような刀(刀子:とうす)や、槍・薙刀(なぎなた)などをつくり、神棚へ供えるのがしきたりだった。
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 その際、金山神や荒神、鋳成神へ正月の餅や神酒、菓子類などとともに、ミカンが添えられたとしてもおかしくないだろう。供物のミカンは弟子や職人たちが相伴したのだろうが、ビタミンCを多く摂取すると風邪を引きにくいというのは、江戸の人々も経験則で知っていたにちがいない。

◆写真上:現代の紀州ミカン(左)と、江戸期から改良されなかった300年来の小さなミカン(右)。
◆写真中上は、江戸期に鍛冶場で用いられていた手押し鞴(ふいご)で、穴の開いているところに火床(ほと)へ風を送る羽口(はぐち)が取りつけられる。は、現代の鞴祭りでもミカンやするめ、清酒は欠かせない供物だ。は、1935年(昭和10)撮影の目白坂中腹に建立されていた目白不動で、江戸市中の刀鍛冶や金工師の崇敬を集めていた。
◆写真中下は、長野県三宝寺の邪鬼を踏む荒神像。は、鳥羽市河内町に伝わる荒神像。江戸期から現代まで、荒神は住宅の火事除けや安産を祈願する神にもされてしまい超多忙になった。w は、1734年(享保19)に描かれた紀伊国屋文左衛門像。
◆写真下上左は、1969年(昭和44)出版の福永酔剣『刀鍛冶の生活』(雄山閣)。上右は、江戸期には竈のあるどこの料理場や台所にも貼られていた三宝荒神の護符。は、1688年(貞享6)編纂の『正月揃』に収録の「鞴初め」。は、鞴初めで奉納された武器や刃物のミニチュア作品。
おまけ
 刀匠と弟子の相槌(あいづち)打ちによる鍛刀風景で、火床の手前に見える大きな箱が手押し鞴。
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虎狼痢(ころり)でキャパオーバーの落合火葬場。

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 喉元すぎればなんとやらで、つい忘れがちだが、数年前、新型コロナウィルス(COVID-19)の世界的な流行で、死者の急増に対して葬儀・火葬が追いつかず、遺体が葬儀場の周囲に放置されたり、大きな穴にまとめて埋葬される事例が世界じゅうで起きていた。
 日本の各地でも、斎場の火葬炉をフル稼働させているにもかかわらず、遺体の数が多すぎて数日間(最長は1週間だったろうか)は、順番待ちというような事態に陥っている。国内では、新型コロナ禍だけでわずか3年の間に、全国で13万2,000人を超える死者が出ており、これに通常の病死や事故死などの死者を加えると膨大な人数になるのだろう。各地の斎場はキャパシティをはるかに超え、隣県の斎場へ越境して遺体を運び火葬するというニュースまでが流れた。江戸東京で、一度にこれほどの病死者が発生したのは、大正期のスペイン風邪以来ではないだろうか。これと同様の事態が江戸期、特に江戸後期のこの街でも起きている。
 江戸期のケースは、コロナやインフルのウィルスではなく、虎狼痢(ころり=コレラ)の大流行だった。江戸時代は「鎖国」をしていて、きわめて閉鎖的なイメージがつくられているが(これも薩長政府による教育の“成果”だろうか)、貿易拠点を限定しているだけで当然、アジア諸国やヨーロッパ(おもにオランダを介して)の技術や文化、知識、モノ、動物までが日本にそのまま流入していた。欧米諸国による、アジアの植民地化を警戒しての政策だったが、幕末には欧米諸国に向けて開国しているので、それらがさらに国内へ加速してもたらされている。
 この中で、流入してほしくはないもの、すなわち伝染病も時代をへるにしたがって急増していった。その代表格が虎狼痢(ころり=コレラ)だった。コレラは、長崎で発症すると街道沿いに大坂(阪)で大流行し、ほどなく京から東海道を伝わって江戸でも大流行するのが通例となった。特に江戸中期から後期になると、コレラの流行は定期的に発生するようになる。
 たとえば、1822年(文政5)に発生したコレラ禍では、7万3,000人が死亡している。さらに、1858年(安政5)の発生時には全国で10万人以上(江戸だけでも2万8,000人)が、1861年(文久2)には江戸の街では麻疹の流行と重なり7万人とも、全国では20万人以上が死亡したともいわれ実数は不明のままだ。1858年(安政5)に発生したコレラの災禍を、1882年(明治15)に出版された斎藤月岑『武江年表』(巻の十)の、「安政五年戌午」より引用してみよう。
 ちなみに、日本はすでに欧米諸国と開国しており、この年にはオランダ使節が江戸を表敬訪問(安政5年6月4日<旧暦>に江戸発)しており、7月4日(以下同)にはロシアの使節団が芝に到着・滞在、同日にはイギリス使節団が品川沖に投錨し上陸・滞在している。ことのほか雨が多い夏で、さまざまな祭りやイベントの人出は少なかったが、7月末ごろからコレラの流行がはじまった。
  
 始めの程は一町に、五人七人次第に殖て、擔を並べ一ッ家に枕を並べ臥したるものあり、路頭に匍匐して死に就けるものありけり、此の病暴瀉又は暴痧などと号し、俗諺にコロリと云へり、西洋にはコレラ又アジヤ、テイカなど唱ふるをよし、東都の俗ころりといふは、頓死をなしてころりと死したりといふ俗言に出て、文政二年疫病行はれしより、しかいへり、然るに西洋にコレラといふよしを思へば、自から通音なるもをかし、大方は即時に、嘔気を催し吐瀉して後、続て潟痢をなし、手足厥冷し、蹇痿痺れて企踵(たちどころ)に絶命す、稀には数刻の後蘇生せるも有りける由、多くは夭札(わかじに:若死)の輩にして老人に少なく、又小児にも鮮なし、医生は籃輿(らんよ:駕籠)を飛して東西に奔走し、庸医薬舗といへども、薬餌を乞ふ者更に絶ゆる事なし、官府よりも薬法を択で、貴賤に示されたり、偖(さて)此の処にや乗しけん、狐惑(きつねつき)の患もあり(カッコ内引用者註)
  
 このとき、日本で初めて本格的な西洋の最先端臨床医学を学んでいた松本順(松本良順)は、いまだ長崎でポンペのもとにおり、幕府の医学所(のち西洋医学所)の頭取には就いていない。
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 当時、コレラ対策の中心にいたのは蘭学の緒方洪庵であり、また旧来の漢方医たちだった。緒方洪庵は、ヨーロッパで出版された3冊の医学書を抄訳し、治療法と看護法をまとめた『虎狼痢治準』を出版している。ただし、同書はあくまでも蘭学をベースとした「文献医学」であり、臨床例を積み重ねて得たコレラに対する実践的・技術的な医療ではなかった。
 緒方洪庵は当時、大坂(阪)で活躍していたが、江戸ではお玉が池にあった幕府の医学所を中心に、西洋医薬のキニーネや漢方の処方が行なわれている。緒方洪庵が幕府の医学所頭取に就任するのは、1862年(文久2)からだ。だが、江戸は人口がケタちがいに多いため、医薬が不足するのは目に見えていた。先の新型コロナ禍のときも、関連する医薬が払底したのは記憶に新しい。そこで庶民は、さまざまな「おまじない」を通じてコレラを避けようとしている。
 かなり前、のちの明治に入って流行したお染風邪(おそらくインフルエンザ)の際に、「久松るす」と書いた紙を門口に貼った事例をご紹介していたが、それとまったく同じような気休めの“魔除け”だ。コレラの場合は、街頭に神輿獅子頭を展示したり、神事の結界に用いる斎竹を張りめぐらしたり、門口に注連縄を張ったり、三峰社からの分社を建立したり、軒に高梁提灯をかかげて節分のように豆まきをしたり、家々の軒に八つ手の葉を吊るしたり、門松を立てて厄払いをしたりと、およそ考えられる魔除けのすべてが試みられている。
 だが、このような「おまじない」でコレラ菌が消滅するはずもなく、ますます死者は急増していった。当時の悲惨な様子を、再び『武江年表』(巻の十)より、少し長いが引用してみよう。
  
 やがて寺院も葬儀にかゝりて片時の暇なし、小柄原(こずかっぱら=小塚原)、深川霊岸寺、桐ケ谷、狼谷、落合村其余三昧の寺院は混雑いふべからず、棺を積む事山の如く、故に止む事を得ずして、数旬の後を約し置、或は価を増して、次第に荼毘の烟とはなしぬ、其あたりの臭気鼻を襲ふて堪え難し、この頃街を徘徊するに、郊送の群に逢ふ事更に絶へず、日本橋、永代橋、両国橋、或は浅草、下谷、谷中、三田、四谷其外寺院の多き所にては、陸続として引きもきらず、日本橋畔には、これを見ること百に余れる日もありとぞ、八月朔日より九月末迄、武家市中社寺の男女、この病に終れる者凡二万八千余人、内火葬九千九百余人なりしといふ、実に恐るべき病なり、八月末の頃は次第に蔓延して、其辺際たしかならねど、奥羽のあたりにも至りしと聞けり(中略) 九月初旬より些とく遠ざかり、十月に至り漸く此の噂止みたり、(カッコ内引用者註)
  
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 わずか2ヶ月間に、大江戸だけで2万8,000人の生命が奪われているが、全国の死者をあわせるとゆうに10万人を超えていたと推定されている。
 安政期のコレラでは、有名人も多数罹患して死亡している。浮世絵師の安藤広重をはじめ、山東京伝の実弟で戯作者だった山東京山、俳人の西馬得蕪、川柳の5代・緑亭川柳、名うての三味の演奏家だった杵屋六左衛門、狂歌師の六朶園や燕栗園など、幕末の大江戸文化をけん引していた数多くの芸術家や文化人が罹患して没している。
 当時の火葬は、隠亡(おんぼう=火葬夫のこと)が薪を積み上げ、ひと晩かけて遺体を骨灰にし、翌朝に遺族へわたすのが通常の業務だったので、寺院の葬儀待ちとともに火葬待ちの遺体がちまたにあふれた。もちろん、いくら江戸の街といえども、それだけ多数の死者を迅速に火葬できる施設などなく、火葬場の周辺は順番を待つ棺桶で埋めつくされた。火葬しきれない遺体は、そのまま土中に埋めてしまった事例も多いとみられる。コレラの流行が一段落したのは、秋の虫の音が大きくなる9月(旧暦)の中旬をすぎたころからだった。
 文中に「落合村」が登場しているが、上落合村の「日蓮宗火葬場法界寺」(のち落合火葬場/現・落合斎場)も、パニックに近い状況だったのではないかと想定できる。運びこまれた、処理しきれない棺の遺体が腐敗すると別の疾病を生じかねないので、村役は衛生保全のために奔走したのではないかと思われる。当時は炉も煙突もなく、薪を組んでの野焼きに近い火葬だったので、あたり一帯には遺体を焼きつづける独特な臭気が充満しただろう。いまでこそ、斎場と名を変えた火葬場は、きわめて高温で短時間に処理するため煙突もなく、まるで高級ホテルのような意匠をしているが、わたしが子どものころまでは高い煙突と、独特の暗鬱な雰囲気が漂う場所だった。
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 江戸期からつづく落合火葬場(現・落合斎場)だが、ここから昇天した人物たちの名前を挙げるだけで、江戸期以降に起きた近・現代史の出来事や逸話が、およそ網羅できてしまう“史蹟”だろう。皇室からアナキストまで、多彩な人々がここで骨灰になっている。拙ブログに登場している、近所の人々をはじめ、東京の西北部に居住していた人たちの多くも、落合の空から旅立っていった。

◆写真上:現代ではめったに見かけなくなった、空へのびる火葬場の高い煙突。
◆写真中上は、大江戸の街をたびたび悩ませたコレラ菌。は、1858年(安政5)に緒方洪庵が3冊の医学本から抄訳した『虎狼痢治準』。は、1858年(安政5)に天寿堂から出版された仮名垣魯文・編『安政午秋頃痢流行記』の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」。
◆写真中下は、同書の仮名垣魯文・編『安政午秋頃痢流行記』の本文。は、1862年(文久3)に作成された『虎狼痢病療方』。治療法が書かれているが、ほとんど「おまじない」の気休めレベルの内容だ。は、1864~65年(元治元~慶応元)にかけ英国のDay & Son社から出版された『Sketches of Japanese manners and customs(日本の作法と習慣)』の火葬図。
◆写真下は、1928年(昭和3)ごろに撮影された落合地域の葬列は、憲兵隊に虐殺されたあと隠蔽された井戸から掘りだされ落合火葬場へと到着した大杉栄、伊藤野枝、橘宗一3人の棺は、ホテルのロビーと見まごうような落合斎場で、右手には喫茶コーナーも設置されている。
おまけ
 上の写真は、1932年(昭和7)5月19日に首相官邸を出て落合火葬場へと向かう犬養毅の葬列。下は死の床の夏目漱石で、1916年(大正5)12月9日に死去し、東京帝大医科大学で解剖されたあと落合火葬場で荼毘にふされた。落合斎場の歴史をたどると、近・現代史の総ざらえになりそうだ。
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大泉黒石が饒舌に語る「目白の向こう」。

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 いつだったか、拙ブログで笙野頼子の『下落合の向こう』(文藝春秋/1994年)について記事にしたことがある。きょうは、大泉黒石が描く「目白の向こう」あるいは「目白の奥」について書いてみたい。黒石がいう「目白」とは目白駅のことで、「向こう」や「奥」は駅の外側という意味あいを含んでいる。彼は「目白の向こう」へ転居する直前、高田町雑司ヶ谷442番地に住んでいたため、その西にある目白駅のさらに向こうという意味で、そう表現したのだろう。
 大泉黒石が、関東大震災後の1924年(大正13)に雑司ヶ谷から「目白の奥」へと転居した当時、地名としての「目白」は彼が住んでいた雑司ヶ谷から南東の方角だったはずだ。したがって「目白(駅)の向こう」とは、高田町雑司ヶ谷旭出(ほぼ現・目白3~4丁目)か長崎村(1926年より長崎町)、落合町のいずれかの地域にあたる。その詳細が記されているのは、1926年(大正15)に文録社から出版された大泉黒石『人間廃業』だ。大泉黒石は、笙野頼子の象徴的あるいは幻想的な「向こう」ではなく、きわめて具象的な風景を記録している。黒石と家族が雑司ヶ谷から転居した先は、長崎村五郎窪4213番地で茶畑のなかに建っていた「震災長屋」だった。
 震災長屋とは、関東大震災で被災した東京市街地に住んでいた住民が、大挙して東京郊外へ避難してきたため、特に山手線の西側沿いが慢性的な住宅不足に陥り、郊外の地主たちが畑地などに大急ぎで建てた臨時的な長屋建築のことだ。いま風にいえば、有料の避難住宅といったところだろうか。1924年(大正13)というと、東京市街はいまだ焼け跡だらけであり、あちこちが工事中で復興事業にようやく取りかかりはじめたばかりのころだ。黒石は、周囲を茶畑(狭山茶)に囲まれた「目白の奥なる震災長屋の一つ」を、「茶中館」と名づけている。
 黒石は当時、映画や出版などの仕事で収入はそこそこあったとみられるが、震災後、あえて家賃節約のために安い長屋へ引っ越したのだろう。長屋の環境を、『人間廃業』から引用してみよう。
  
 見つけた家は、以前の古巣に近い目白の奥の武蔵ヶ原の一角だ。(中略) 暫く見ぬまに、スッカリ(森が)切りまくられた上に、べた一(いち)めん立ち列んでいる家の雛型みたいな小っぽけな屋体骨(ママ)の天井を、肩で担ぐような具合いに、ズラリと端座った先駆者がいるんだから早いもんだ。(中略) おまけに何処もそろって表札を出していないから妙だが、こんな函の中に蟄居するくらいの身分だから、表札に書いてお目にかけるような尋常の名まえもないんだろう。また斯んな風に丸くなって端座って居れば、主人の顔なんざ、そとから丸見えに見えるから、表札には及ばないのかも知れないと思いながら、月二十円で、取り敢ず中の一軒を借りることにした。(カッコ内引用者註)
  
 「一国の文士」が、20円の長屋住まいとはみっともないと誰かがいったようだが、これはふだんから口グセのように「一国の文士」という言葉を聞かされていた、美代夫人の皮肉なのだろう。後述するが、すっかり東京方言の(城)下町言葉が板についた夫人の啖呵が面白い。
 新居は長屋形式なので、屋根つづきでもあるが庭つづきでもある。物干しの竹竿にかけている、よその亭主の褌(ふんどし)と別の奥さんの腰巻がからみあったり、息子のシャツとよその娘の襦袢(じゅばん)が仲よく「ダンス」を踊ってたりするような庭先だった。また、「お宅の縁側に日があたっているから」と、大泉宅の縁側や庭先によその家の布団が干されたりした。困るのは、その布団が不潔だったものかシラミが大泉家に移り、一家の衛生を悩ませることになった。ところが、長屋の住民たちは「痒いのも汚いのも」およそ平気で、特に気にしている様子はなかった。
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 この五郎窪の長屋近くに、もう1軒の「大泉さん」が住んでいた。こちらの「大泉さん」はおカネ持ちで、大屋敷をかまえていたらしく、日本橋兜町で株売買の仕事をしている“顔役”だという話だった。花崗岩の立派な門柱で、母家はその奥深くにあり、ときどき門からでた自家用車が「俺ンチの前」をスピードを落とさず走りぬけていった。
 大正期にクルマを所有しているほどだから、大ガネ持ちの「大泉さん」だったのだろう。クルマが長屋の前を通るたびに、大泉家は土ぼこりと排気ガスに悩まされ、「コン畜生」と腹を立てている。東京市街地へ向かう「大泉さん」のクルマが走る先は、満足に整備されていなかった西部の目白通りではなく、ダット乗合自動車以前に旭組乗合自動車が走りはじめ、簡易舗装がなされていたとみられる長崎バス通り(大和田通り)のほうではなかったか。
 ちなみに、このおカネ持ちの「大泉さん」の大屋敷を、1925年(大正14)4月11日に作成された「出前地図(西部版)」(下落合及長崎一部案内図)で探してみたけれど、残念ながら同地図は長崎村五郎窪4173番地の西端で途切れており、4213番地は記載されていなかった。
 おカネ持ち「大泉さん」の屋敷を、大泉黒石の家だと思って訪ねる出版人や映画人が多かったらしく、屋敷の者から「クロイシなんて大泉は知らないよ!」と、かなりの権幕で怒られ門から摘みだされる事態が多発していた。郵便の誤配も多く、ある日、黒石の家に「大泉さん」あての封筒がまちがって配達されたので、ふだんからムカつく「大泉さん」だったからか、腹立ちまぎれについ開封してしまった。すると、中身は「帝国旅館舞踏夜会」の案内状と招待券だった。帝国ホテルの舞踏夜会で、大泉黒石は日ごろの「大泉さん」への鬱憤を晴らそうと出かけていく。そこで映画女優と出会い、「おや、先生じゃございませんか?」と声をかけられ、ていねいに礼をいわれてしまう。そもそも、この映画女優とは知りあいでなかった黒石は、誰かが自分の名前を騙って映評を書き、この女優の演技を褒めそやしているらしいことを知った。
 こうして、帝国ホテルにおける舞踏夜会のひょんなキッカケから、誰かが自分の名前を勝手につかい、詐欺まがいの原稿を書いていることがわかった。その犯人はすぐに判明するのだけれど、その過程で自分の名前が映画の出演者にまで勝手につかわれていたことも知る。役柄は鞍馬の烏天狗で、天狗面を終始つけたままの出演だから誰が演じているのかわからず、映画の話題づくりのためキャストに「大泉黒石」と断りもなく入れられていた。
 怒り心頭に発した黒石は、さっそく目白通りを東へ歩き雑司ヶ谷の鬼子母神前から王子電気軌道に乗ると、滝野川にある「日本芸術映画撮影所」へ抗議に出かけた。そして、ただちに烏天狗のキャストから自分の名前を削除するよう監督に申し入れると、さっさと自宅に引きあげている。ところが、撮影所から出演料を支払うという伝言が、追いかけて自宅にとどいた。一連の経緯を聞いた美代夫人は、これまた怒り心頭に発して大泉黒石に噛みついている。美代夫人は、連れ合いが徐々に「金持ちでなくなって」くると、「踏み台か座布団ぐらい」にしか扱わなくなっていたらしい。
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 一国の文士というのが一番情けないのさ。ほんとうですよ。一国だか万国だか知りませんが、あなたみたいな文士なんか、世間の方で人間の数に入れちゃいますまい。その証拠には、それ、わたしの眼玉を御覧なさい。天狗に名前を貸すと、幾らかしら、謝金が貰えると聞いて、こんなにおどろいているじゃありませんか? わたしが、会社の重役か局長さんの奥様であったら、こんなに驚くでしょうか? というんですよ。そうでしょう? それほど文士の奥さんに貧乏させる世間に対して、名誉の外聞のとありもしない見栄をはる義理が、何処にござんすか? そんなことはみんな会社の重役か、局長さんのなさることさ。馬鹿らしい。この節の案山子と、あなたの名前なんか、雀の脅かしにもなりませんやね。それでも欲しいと仰有るかたが、おいでなさるんだから案山子が雀を生捕ったよりゃ、剛勢奇特と思って、ドシドシ貸して上げなくちゃならないのに、坊っちゃんや若旦那じゃあるまいし、苦労も貧乏も、来世の分まで腹一ぱいして来たくせに、それしきのことに煮え切らないようでは心細い話さ。いいから承知しましたと活発に仰有いよ。
  
 美代夫人は、長崎の旧家・造り酒屋の娘で大泉黒石とは幼馴染みだが、彼の三高時代に京都で再会し、東京へ転居後の一高時代に「おい、来たよ」と彼を追いかけてきて結婚している。だから、彼の人間性や性格は知りぬいているはずだった。
 それにしても、夫に対する啖呵が小気味よい。どこで馴染んだのか、東京方言の(城)下町言葉に「ざんす」など、“お上さま”口調をまじえながら、夫に面と向かって自身の想いをシャキシャキと叩きつけている。まるで、新派の科白を聞いているようだ。結局、黒石も芝居がかったか「仕方がない。承知すらァ」としぶしぶ同意し、最後には「俺の負け」を認めている。
 『人間廃業』には、面白いエピソードも記録されている。黒石は「武蔵野線」と書いているが、もちろん当時の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)のことだ。これほどの「事故」(事件?)であれば、およそ新聞ダネにもなっているのではないか。『人間廃業』から、つづけて引用してみよう。
  
 武蔵野線の村で祭りがあったから見に行ったことがある。汽車(ママ)が練馬を出かかるとビールを一ダースほどブラ下げた百姓が、大分遠方から手を振り乍(なが)ら、待った待ったをやると、汽車が止った。すると乗合の若い衆どもが、この調子で何時も汽車がおくれるのだ。あんまりダラシがなさすぎると憤慨して、ワッショワッショと左右に汽車をゆすると田甫の中へひっくり返った。満員だから一人も怪我はなかったが、一緒にころげ落ちた俺は、もう二度と再びこんな汽車には乗らないと思った。(カッコ内引用者註)
  
 武蔵野鉄道が、いまだ貨物用の軽便鉄道の面影を残していたころの「事故」だろう。ビールを手に「汽車」を停めて乗りこもうとしていたのは、祭りへ参加しようとする練馬の農民たちだった。彼らが、停車場でないところで勝手に「汽車」を停めて乗りこみ、いつも時刻を遅らせることに憤慨していた車内の「若い衆」は、当時は小さかった車両をゆすって脱線・横転させ、彼らを乗せまいとひと泡吹かせたことになる。軽便鉄道あがりの武蔵野鉄道は、当時、客車も小型で「満員」といっても乗客の数は知れていたものか、ケガ人が出るほどの事故にならなかったようだ。
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 大泉黒石は、長崎村五郎窪4213番地(現・南長崎4丁目)の家から、1926年(大正15)に同村大和田2028番地(現・南長崎1丁目)へ移るが、そこにはきわめて短期間しか住まず、同年9月には下落合744番地(現・下落合4丁目)へとやってくる。この住所は、下落合735番地のすぐ隣りの敷地であり、上落合186番地のアトリエを含む住宅をリニューアル中だった、村山知義・村山籌子夫妻が一時的にアトリエをかまえていた区画に隣接した位置だ。大泉黒石の転居は、時期的にも村山夫妻の下落合への転居とピッタリ重なるので、ひょっとすると隣人同士だった可能性もありそうだ。

◆写真上:長崎村五郎窪4213番地の、震災長屋があったあたりの現状。(以下の古写真はAI着色)
◆写真中上は、1923年(大正12)9月に高田町(現・目白/雑司ヶ谷地域)から関東大震災で起きた東京市街地の大火災を望む。は、昭和初期に撮影された大和田通り(長崎バス通り)。は、1931年(昭和6)撮影の大和田通りに開店していた小西酒店。
◆写真中下は、昭和初期に撮影された長崎町の千川通りを走る自家用車とみられるクルマ。は、1931年(昭和6)撮影の大正期から営業をつづける映画館「洛西館」(のち目白松竹館)。は、1931年(昭和6)に撮影された大和田通りで営業していた米店。
◆写真下は、旭組乗合自動車のあとを継ぐように1926年(大正15)に営業を開始した長崎町のダット乗合自動車営業所。は、武蔵野鉄道が軽便鉄道時代に撮影された貨車を牽引する小型の蒸気機関車。は、武蔵野鉄道の電化が進むなか1924年(大正13)に撮影された電車。

五姓田芳柳の没骨描法をマネた銭湯絵師。

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 学生時代に通っていた、銭湯の壁面に描かれた風景画を思いだせない。わたしが住んでいた学生アパートから、椎名町教会の並びにあった銭湯「久の湯」(旧・仲ノ湯/閉業)へは、アパート1階のドアを閉めてから早足に徒歩30秒で、70mほどしか離れていなかった。
 三保の松原を海上から描き、背景に小さめな富士山をあしらった構図だったか、それとも全面に大きな富士山が裾野の樹海まで描かれていたのか、ほぼ毎日見ていたはずなのになぜか思いだせない。気温が下がる冬場は、湯気がモウモウとしていて壁画が見づらかっただろうが、夏場はハッキリと視認できていたはずだ。うろ憶えだが、全体がブルーがかった画面だったのはまちがいないと思うけれど、海も山もブルーに塗られるのがふつうだ。それよりも、大きな風呂へ入るのが楽しみで、いろいろな情景にまぎれて忘れてしまったものだろうか?
 わたしが銭湯に通ったのは、親元から独立した大学時代の後半と、社会に出てから2年ぐらいまでだから、わずか4年ほどにすぎない。汚いけれど安かった学生アパートの次は、安月給をやりくりして、ようやく念願だった下落合のマンションへ引っ越すことができたので、銭湯へはいかなくなってしまった。生まれてから、ずっと家庭用の小さな風呂で育ったので、銭湯の大きな湯船につかるのが、わたしには楽しみだったのだ。当時の銭湯代は、確か200円前後だったと思うので、毎日欠かさず通っても月6,000円程度だった。それでも、夜遅く帰った日や真冬などは面倒になって入らなかったので、月平均5,000円ほどの出費だったろう。
 銭湯には、いっせい休業日というのがなかったので、久の湯が休みのときは小野田製油所の横を入り、目白文化村の入口にあった「人生浴場」(旧・伊乃湯/萩ノ湯)へ出かけた。この銭湯は、そもそも店名からして失念しており、拙ブログをはじめてから読者の方にご教示いただいている。人生浴場という名称だから、「♪や~ると思えばどこま~でやるさ~」と、湯船につかりながら気持ちよさそうに唄う爺ちゃんがいたかというと、そんな記憶はない。たまに入ることになった銭湯のせいか、壁画もなにが描かれていたのかまったく記憶にない。
 あれからもう1店、友人といっしょに椎名町駅の北側にある「妙法湯」にも一二度入ったのを思いだしたが、そこの壁画もまったく憶えていない。いまから思えば、わたしのアパートからは妙法湯よりも、椎名町駅の南東側にある四角い煙突の「五色湯」のほうが、少しだけ近かった。当時は街を歩いていると、銭湯の煙突が目印のようにあちこちに見えており、直近の久の湯が休みでも散歩がてら、煙突をめざして歩いていけば必ず銭湯にめぐり合えた。また、どんな銭湯にめぐり合えるのか、ワクワクするのも楽しかった。ただし、江戸東京方言で湯屋(ゆうや/関西では「ゆや」)のどこにも、すでに番頭さん(俗称:三助さん)はいなかったように思う。
 いちばん近かった久の湯は、確か午後3時から開いていたように思うが、当時は東京浴場組合に加盟しているどこの銭湯でも、開業時間は午後3時と決められていたのではないだろうか。いわゆる“朝湯”に入った記憶はないが、ひょっとすると浴場組合には加入していない銭湯では、午前中から営業していたところがあったのかもしれない。深夜勤務でアパート暮らしの警備員や作業員、水商売で朝帰りが多い人たちには、朝風呂に入れるのはありがたかっただろう。あるいは、正月恒例の“朝湯”は、江戸の昔からつづいていたものだろうか。
 アルバイトがない日、午後3時の開業時にいくと近所のご隠居さんらしき年寄りや、学校帰りで下宿住まいの学生たちなどはいたが、午後7時以降の混雑に比べればガラガラだった。下足箱や脱衣場のロッカーも、まだほとんどのカギがついていて、広い浴場へ貸し切りで入ったような気分を味わえた。たまに早く入浴すると、必ず出会う顔なじみのご隠居さんらしい老人がいて、何度か話した憶えがある。その方は、自宅に風呂はあるのだけれど、銭湯の一番湯=新湯(あらゆ)へ入りに毎日通ってきていると話していた。近所でアパート経営をしているともいっていた。
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 ちょっと余談だが、連れ合いの父親は新湯がキライで、自宅の風呂でも娘たちが入ったあとに入浴するのを好んだ。新湯は、「湯が硬くて柔らかくない」ので、誰かが(女性たちが)入浴したあとに入ると「湯がこなれて」ちょうどいいそうだ。風呂へいちばん先に入る(のが当然だと思っている)、乃手の威張ったおっかない父親が聞いたら唖然とするだろうが、義父は麻布の出身だ。女子たちを優先したところをみると、(城)下町の気質を備えていたのだろう。
 新湯(あらゆ)とは反対に、バイトや飲み会で帰るのが仕舞い湯(閉業時間)に近いころになると、とんでもない混み方だったのを憶えている。洗い場でカランから熱めな湯を使う人が多いせいか、広い浴場にはことさら湯気が立ちこめ、湯船は「すいません」と声をかけなければ入りにくいほどで、芋の子を洗うという表現がピッタリな情景だった。湯船には次々と洗い終えた人が入るので、みんな遠慮して数分しかつからずに風呂から上がっていた。
 昭和初期ぐらいまで、(城)下町の銭湯では仕舞い湯の時間になると、男女どちらかの湯船(女湯が多かったらしい)の栓を抜いて掃除をはじめてしまうため、必然的に女性たちが男湯へ移動してきて混浴になったという。また、その時間帯をめざしてやってくる男たちもいたらしいが、もちろんわたしはそんな銭湯の情景は(残念ながら)知らない。ついでに親父からの受け売りの話をすると、戦前の銭湯には隣接して映画館や演芸場、食堂、居酒屋などが併設されており、銭湯(ゆうや)でサッパリしたあと立ち寄ってはひと息入れられるような仕組みになっていた。往年の「船橋ヘルスセンター」のミニ版だが、江戸の昔から銭湯と娯楽は付きものだったらしい。そういえば東京郊外の温泉浴場からスタートした目黒雅叙園も、舞台や宴会場を備えていた。
 よく昔の思い出話などで、ひとっ風呂(ぷろ)浴びたあと脱衣場で冷たいコーヒー牛乳を飲むのが楽しかったとか、肩たたきチェア(マッサージチェアではない)で身体をほぐすのが楽しみだったとかいう証言を聞くのだが、わたしは一度も試したことはない。親元から意地を張って独立したため、生活費や学費の一部をバイトで稼がなければならない貧乏学生だったので、風呂上がりのそれらは贅沢品だった。また、余分なおカネがあるのなら少しでもレコードや本に費やしたかった。
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 さて、いまさら気になる銭湯の壁画だが、これは東京(関東)ならではの銭湯の情景で、関西の銭湯にはもともと存在しなかったようだ。銭湯の湯船の造りが、関東と関西では根本的に異なっていたからで、湯船が洗い場の突きあたりにあるのが関東で、湯船が洗い場の中央にあるのが関西の銭湯だった。したがって、湯船の上に大きな壁面の空間が拡がる関東では、明治末以降に日本画とも西洋画ともつかない風景画をペンキで描くのが、東京を中心に流行しはじめている。銭湯の壁画は、当時の関西には存在しなかったが、昭和期になると関東風の構造で建設した銭湯には、関西地方でも壁面にペンキ画が描かれていたらしい。
 その風景画だが、幕末から明治期にかけ日本画用の岩絵の具を使う没骨(もっこつ)描法で有名になった、江戸出身の洋画家・五姓田芳柳の風景画や人物画をマネたのだという。五姓田芳柳は、医師の松本順(松本良順)の知己を得ており、解剖図の制作などでも活躍していた。銭湯の壁画を描く専門絵師は、彼の描法を模倣しながらおもに風景画を描いている。当時の様子を、1980年(昭和55)に講談社から出版された、加太こうじ『東京の原像』から引用してみよう。
  
 (描法は)五姓田芳柳などがそれだが、その亜流がペンキで掛額用の素人向きの風景画を描いた。それは露天などで売られていた。そのペンキの風景画の描法で、銭湯の休日に、男湯、女湯の二枚を描きあげてしまうのが、東京の銭湯の風景画である。早い者は助手を使って午前中だけで男湯、女湯の二枚を描いた。昭和初期にはそのペンキ画家たちの組合があって、東京中の銭湯の風景画を一手に引きうけていたが、今はどうなったのか私は知らない。(カッコ内引用者註)
  
 もともと夜店で売られるような、粗末なペンキ画を制作していた画家たちが、銭湯の広い壁面に目をつけて営業をかけたのだろう。またたく間に銭湯の壁画は拡がり、関東各地にまで出張して描くようになった。これはどこか、関東大震災の直後にバラック建ての商店へ、看板やイラストを描いてまわった洋画家たちの仕事に似ている。銭湯の風景画家たちの中には、洋画家をめざして果たせなかった「芸術家」も、ずいぶんいたのではないだろうか。
 少し寄り道をするが、下落合が舞台のドラマ『さよなら・今日は』(NTV/1973~74年)には、刑務所を出所して間もない銭湯絵師の高橋清(緒形拳)が登場する。彼は大阪出身という設定だったけれど、戦後は関西でも銭湯の壁画描きで飯が食えたのだろうか? また、絵のモチーフや構図をめぐり、銭湯の主人とケンカをして仕事がふいになったというエピソードが登場している。彼が喫茶店「鉄の馬」の窓に描いた富士山は、さながら片岡球子が描く画面のようで、とても通常の“銭湯の富士山”のようではなかったから、主人が怒ってケンカになったのだろう。
 1970年代なので、いまだ東京には銭湯画家たちの組合はあったと思われるが、大阪出身の銭湯絵師でも仕事が見つかるほど、絵師自体の数が減っていたのかもしれない。
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 いまでも憶えているのは、5月5日に銭湯へいくと湯船に大きな菖蒲(しょうぶ)の葉が束ねて入れられていたのと、12月20日ごろの冬至の日にいくと、やはりこれでもかというほど大量の黄色い柚子(ゆず)が湯船に浮かんでいたことだ。最近は、ヨーロッパで薬効があると知られているらしいラベンダー湯というのが、「銭湯の日」とされる10月10日にあるそうだが、わたしは知らない。

◆写真上:関東の銭湯(ゆうや)では定番だった、銭湯絵師が描く白砂青松と富士山。
◆写真中上は、目白通り沿いで健在な下落合の「福の湯」。は、佐伯祐三が諏訪谷ごしに描いた福の湯の煙突。は、数回通ったことがある椎名町の「妙法湯」。
◆写真中下は、四角い煙突の目白の「五色湯」。は、中井駅近くにある「ゆ~ザ・中井」(旧・草津温泉)。は、佐伯祐三が中井駅前の開発途上に描いた草津温泉の煙突。
◆写真下は、閉業した下落合駅近くの「竜の湯」。は、下落合の南を流れる神田川沿いにある「世界湯」。は、佐伯祐三が連作「下落合風景」で第三文化村から描いた「菊ノ湯」の煙突。
おまけ
 13年前に西荻界隈を散策していて見つけた、昔ながらの店がまえをしている「天徳湯」。ここ数年の新型コロナ感染症禍をはさみ、すでに閉業してしまっているようだ。
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