馬ばかり作って有名になった彫刻家・三井高義。

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 下落合を舞台にしたドラマ『さよなら・今日は』(1973~1974年)で、彫刻家のアトリエを改造し喫茶店「鉄の馬」を開業していたシーンを、期せずして思いだしてしまった。カレーを食べながら、大阪からやってきた緒形拳が「しかし、ここはなんで、こう馬ばっかりあるんやろな?」と訊くと、カウンターで仕事をしていた大原麗子が「でも面白いわよね、馬ばっかり彫って有名になった(彫刻家)なんて」と答えるドラマの初回(1973年10月6日)、以下のシーンだ。
 その「馬」の作品ばかり作って有名になった彫刻家が、実際に下落合でアトリエをかまえていた。下落合1丁目414番地(現・下落合2丁目)、当時の近衛町1号の敷地に住んでいたのは三井高義だ。まさかと思ったけれど、ほんとうに下落合で暮らしており、しかも戦前から戦後にかけ一貫して同住所を動かずににアトリエをかまえていた。同敷地には、近衛町の開発とほぼ同時に、彫刻家で島津マネキンの開発者としても有名な島津良蔵が住んでいたので、ふたりとも東京美術学校の出身であり、ひょっとすると同業のよしみから京都へもどる島津良蔵が、そのまま三井高義へ住宅やアトリエごと譲っているのかもしれない。
 島津良蔵は、1932年(昭和7)まで近衛町の同番地にいたことが、東京美術学校の卒業生名簿で確認できるが、翌1933年(昭和8)の同校名簿には京都市中京区東洞院御池上ルに転居しており、このころにアトリエの住人が三井高義へと交代しているのだろう。島津良蔵は、1926年(大正15)3月に東京美術学校塑造部を卒業しているが、三井高義も1930年(昭和5)3月に同校のやはり塑造部を卒業しているので、学年は島津が三井の5年先輩ということになる。
 ただ、馬ばかり作って有名になった彫刻家の「吉良アトリエ」は、大正期から画家たちが集合して住んでいた薬王院の北西側にあたる、下落合2丁目801番地だと浅丘ルリ子が劇中で証言しているし、同家の居間からは落合第四小学校のチャイムが近くに聞こえ、また出勤する家族たちは相馬坂を下って高田馬場駅まで歩いているので、ドラマの制作者たちは下落合(現・中落合/中井含む)東部のどこか……ということで設定したかったのだろう。w
 三井高義は、1903年(明治36)に東京市の麹町で生まれているが、1987年(昭和62)まで健在だったので、当然ドラマの放映当時は68歳と、いまだ旺盛に作品を制作していた時期にあたる。ひょっとすると、NTV開局20周年記念の同ドラマで小道具として使われた数多くの馬彫刻は、すべて三井高義が協力して提供したものであり、「吉良家」の大きなアトリエつき西洋館は、近衛町の三井アトリエがモデルになっているのかもしれない。NTVの経営陣あるいはドラマのプロデューサーに、三井高義と親しい人物でもいたものだろうか。
 ただし、三井アトリエは1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼けているので、それ以前に建てられた西洋館は戦後まで残っていなかったはずだ。したがって、アトリエ付きの大正建築が舞台だった「吉良邸」とは設定が一致していない。また、島津良蔵の住宅兼アトリエを受け継いだと思われる三井高義は、1936~1938年(昭和11~13)の間に自邸を大幅に増築するか、ないしは建て替えをしている。1936年(昭和11)の空中写真に写る同邸と、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる同邸とは、形状がまったく異なっているからだ。
 大正期に近衛町へ建設され、島津良蔵アトリエから三井高義アトリエに引き継がれた、屋敷林に囲まれ門から奥まった位置にある西洋館、あるいは1936年(昭和11)すぎにかなり大きな屋敷へと建て替えられているとみられ、空襲で焼失してしまう戦前の三井アトリエの写真をともに探したが、残念ながら見つけることはできなかった。
 三井高義は、三井財閥における一本松家の裕福な当主なので、他の芸術家たちとは異なり、生涯にわたり生活の心配はなかったと思われる。1930年(昭和5)に東京美術学校を卒業すると、さまざまなものをモチーフに作品を制作しはじめるが、ほどなく多種多様な種類の馬をモチーフにした彫刻づくりに傾倒していく。1987年(昭和62)に立風書房から出版された佐藤朝泰『門閥』より、簡単な紹介文を引用してみよう。
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 一本松家の現当主は三井高義。明治三十六年十月生まれ・昭和五年美校を卒業。馬の彫刻では右に出るものがいないという異色の三井一族。幻の名馬「トキノミノル号」「五冠馬シンザン号」の記念像の製作者としても知られている。
  
 競馬好きの方なら、一度は耳にしたことのある名馬だと思うが、これらは三井高義が競馬界から依頼され戦後に制作された作品群であり、美校を卒業した彼は、帝展や日仏展、新文展などへ作品を出品し、帝展では7回ほど入選している。全日本彫塑家連盟の会員で、戦時中は日本美術報国会の代議会員にも就任していた。帝展系の彫刻家集団「第三部会」では、特選につづき無鑑査会員となっている。また、自身が中心となって1933年(昭和8)ごろに結成したとみられる「五年会」展でも、定期的に作品を発表しつづけていた。
 三井高義の馬好きは、どうやら父親で三井一本松家の創立者だった三井高信(三井得右衛門)ゆずりのようだ。三井高信には、馬に関するエピソードが数多く残されているが、今日では法規を無視する傍若無人な「上級国民」と批判されそうな逸話も多い。父・高信に関して、落合地域の近くで起きたエピソードがらみでご紹介すると、下落合から2kmほど下流の旧・神田上水にクルマごと転落して事故死した、初代・東京駅長の高橋善一との「馬」エピソードが有名だろうか。1959年(昭和34)に東西文明社から出版された、加東源蔵『東京駅発車 ゆうもあ号』から引用してみよう。
  
 五慶庵の裏は、すぐ講談社の野間さんのお屋敷で、昔の芭蕉庵のあった所である。/初代の東京駅長であった高橋さんが、駅長をやめるとすぐに、渡辺治右衛門さんのお世話でこの芭蕉庵に仮住居をされたのであったが、たまたま自動車の試運転に乗って、江戸川へ落ちて即死をされた。(中略) 三井高義さんのお父さんは、高橋駅長と非常に懇意にしておられたそうであるが、ある時、外国から珍らしい種類の馬を買っておいでになって昔の新橋の駅へ貨車で到着した時に、高橋駅長にたのんで、改札口を通そうとされたところ、若いまじめな改札係が故障をいったので困っておられると、高橋駅長があとからやって来て、/「ああそれは犬だ。通してやれ」/といって、さっさと通してしまったということである。
  
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 三井高義が子ども時代の思い出だが、「野間さん」は目白山(=椿山/現・文京区関口)の胸突き坂を上がったところに現存する、下落合の吉屋信子もお呼ばれしていた野間清治邸(現・野間記念館)であり、「芭蕉庵」は神田上水の工事に従事したといわれている松尾芭蕉が滞在していた関口芭蕉庵のことだ。また、高橋善一がクルマごと転落したのは大洗堰(現・大滝橋あたり)の上流であり、文中には「江戸川」とあるが旧・神田上水が正しい表現だろう。
 高橋善一が事故死したのは1923年(大正12)のことなので、三井高義が父親からこの話を聞いたのは、東京美術学校に入学する以前の中学時代のことだろうか。ちょうどそのころに撮影された愛馬「老松号」にまたがる、三井高義の写真が残されている。(冒頭写真)
 敗戦後、GHQによる財閥解体が進むと、三井高義は競馬の競争馬を制作することが多くなった。また、馬に限らずイヌやニワトリなどの動物彫刻、いわゆる一般に販売する“売り彫刻”も多く手がけるようになり、逆境の家計を支えていたようだ。競馬は、本人も好きだったのかもしれないが、馬彫刻で有名な彼に競馬界からの依頼も増えていったようだ。
 そのような状況のなかで、1回めの東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)に、戦後の日本競馬界を代表するシンザン号の制作を依頼されている。シンザン号は、同年に戦後初となる日本クラシックの三冠馬となり、翌1965年(昭和40)には天皇賞と有馬記念でもつづけて優勝したため、「五冠馬シンザン号」と呼ばれるようになった名馬だ。三井高義は、1964年(昭和39)の三冠馬時代にブロンズで『三冠馬シンザン』を制作している。
 三井高義の制作途上を取材したとみられる、1966年(昭和41)に中央競馬会から刊行された『蹄跡/昭和40年度』収録の、「ブロンズ像/三冠馬シンザン」から引用してみよう。
  
 40年間 馬を彫りつづけた彫刻家が ある日 シンザンを彫ることになった/彫刻家は 見て愕いた 一段上から人間を見下しているような シンザンの風格に/彫刻家は 彫り始めて目を瞠った これほど狂いのない脚があるのかと/彫刻家は 彫りつづけて茫然とした おれは馬に負けてしまったのではないかと/朝に 夕に 彫刻家は シンザンを見た さわってみた 話してみた/彫刻家は 彫りつづけた 負けて似せたくなるのを 懸命に怺えながら/「おれが彫りたいのは シンザンそのもの!」/40日後 彫刻家は ノミを置いた/像を前にして 彫刻家は懐う 「やはり負けた 苦しかった だが 幸せだった――」と
  
 シンザンの彫刻はその後、横浜や北海道、京都など競馬場にゆかりの各地に建立されている。
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 三井高義は、観世流の謡曲(能楽)にも造詣が深かったが、これもまた父親の三井高信から受け継いだ趣味のひとつだった。能雑誌などを参照していると、しばしば三井高義のネームを見かけ、「安達原」や「俊寛」などの舞台で謡っていた記録が残されている。自邸とともに能舞台も併設されていた、近くの観世喜之邸にも親しく出入りしていたのかもしれない。下落合414番地の三井アトリエと下落合515番地の観世邸とは、直線距離でわずか280mほどしか離れていない。

◆写真上:大正末に撮影されたとみられる、愛馬「老松号」に乗った三井高義。
◆写真中上は、下落合414番地に住んだ島津良蔵()と三井高義()。中上は、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮影された三井アトリエ。中下は、1933年(昭和8)撮影の「五年社」記念写真(三井高義は中央右)。は、1926年(大正15)制作の三井高義『のり馬』。
◆写真中下からへ、三井高義が制作した『繋がれた馬』(1927年)、『老』(1928年)、『乗馬婦人』(1934年)、『馬車馬』(1957年)の多彩な馬をモチーフにした作品群。
◆写真下からへ、同じく三井高義の制作による『組馬』(1962年)、『放たれた喜び』(1967年)、『組馬コンポヂッション』(1983年)、そしてもっとも有名な『三冠馬シンザン』(1964年)。
おまけ
 1975年(昭和50)の空中写真にみる、近衛町1号(現・下落合2丁目)の三井高義アトリエ。
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下落合を描いた画家たち・古瀬静雄。

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 古瀬静夫という洋画家については、詳しいことはわからない。野外写生で、よく落合地域にはやってきてはいたようだが、画家は彼の“二刀流”の半面であって、もう半分の顔は農林省の農業総合研究所の研究員で国家公務員だった。
 1960年(昭和35)に農林省を退職するまで、豊島区長崎2丁目23番地(のちの微妙な番地変更で24番地になっているとみられる)に住んでいたようで、現在の豊島区が運営する「中高生センタージャンプ長崎」の界隈だ。その後、ある時期に川崎市幸区の小向西町へ転居していると思われる。所属していた美術団体は「示現会」で、戦後は定期的に日展へ作品を出品しており、街の風景画を得意とする画家だったようだ。
 古瀬静夫の『下落合風景』(冒頭写真)は、1957年(昭和32)に開催された第13回日展に出品されたものだが、このころは毎年日展へ応募していたようで、画面はいずれも東京を中心とした街中の風景だったとみられる。1954年(昭和29)の第10回日展にも作品が入選しており、こちらはそのままのタイトル『ある街かど』という画面で、角(すみ)切りのある丁字路を描いた画面も、やはり東京のどこかの風景だろう。残念ながら、両作ともカラー画像は発見できなかった。
 古瀬静夫の『下落合風景』は、ひと目見たとたんに描いた場所がピンポイントでわかった。いまだリニューアルされる前の、1950年代の田島橋の東側欄干を左手に見て、東京電力の目白変電所前の路上から旧・神田上水(現・神田川)をはさみ、対岸に建っていた戦前からつづく下落合1丁目69番地の三越染物工場内の建屋を描いたものだ。もっとも、当時は三越専属工場(第二クリーニング工場)という名称で事業を継続しており、染物の需要が徐々に減少しつづけていたため、旧・神田上水沿いの多くの染物工場がクリーニング業へ転換したように、三越も染物工場の一部をクリーニング工場として運営していたのだろう。
 画面は、数日前に降雪があった真冬か春先のように見え、橋や路上などには残雪が描かれているようだ。太陽光は画家の背後から射しており、建物などの陰影から時刻はおそらく真昼に近い時間帯だろう。当時の下落合(現・中落合/中井含む)のエリアで、目白崖線南側の谷間を流れる旧・神田上水、あるいは妙正寺川に架かっている橋は数多いが、橋の北詰めが画面のようにかなり急な下り坂になっている橋はたったひとつ、高田馬場駅から栄通りに入り下落合へと向かう、江戸期からつづく田島橋しか存在していない。
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 1960年代に入ると、田島橋のリニューアル工事とシンクロするように、三越専属工場の跡地には巨大な三越マンション(つい先年リニューアルされている)が建設されているが、その際に坂道の傾斜角がかなり修正され、現在の下り坂はこれほど急傾斜ではない。また、1957年(昭和32)当時の旧・田島橋は変わったデザインをしていて、西側に造られた欄干の親柱の上には、南北ともに平べったい立方体をベースに地球儀の北半球のような球体オブジェが載っていたが、東側の親柱にはそれがなく単なる四角柱となっていた。どことなく、大川(隅田川)大橋(両国橋)を想起させるようなデザインだが、大正末から昭和初期に流行った意匠なのだろうか。
 正面に見える三越専属工場の右手(東側)には、下落合1丁目68番地のST化学工業(株)の本社・工場が建っているはずだが、キャンバスの枠外れで描かれていない。同社はいまも健在であり、現在は本社ビルとなっている消臭剤でおなじみのエステー(株)だ。また正面奥に見える、東西に長いビルのように描かれた四角い大きな構造物は、建築中だったとみられる下落合1丁目247番地のアリミノ化学(株)と日本ヘレンカーチス(株)の協業工場だと思われるが、実質はアリミノ化学の本社兼工場だったろう。ヘアワックスやヘアカラーなどで知られる(株)アリミノは、現在も同じ敷地に独特なデザインをしたブルーの本社ビルが建っている。
 アリミノ化学工場の右手(東側)、下落合1丁目番地71番地にはアオガエルを「ミドリガエル」、青々とした葉を「緑々した葉」と呼ばないと許してもらえそうもない、池田元太郎が設立した池田化学工業(株)が建っているはずだが、空襲で全焼したあとに再建された工場の建屋の軒が低かったものか、三角の屋根がかろうじて見えているだけだ。
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 田島橋の北詰め(左側)に見えているコンクリートの塀と門は、防火帯36号江戸川線建物疎開で無理やり解体された、豊菱製氷工場の塀と門の残滓で、当時は内部が広い空き地となっていた。古瀬静夫が『下落合風景』を描いた当時も、また1960年代に入ってからも田島橋北詰めの左手(西側)、製氷工場があった敷地は長く空き地の状態がつづいていた。
 そして、豊菱製氷工場北側の道路沿いにつづく敷地に建っていたのが、戦後、新たな住宅地として開発された区画で、いちばん手前(南側)の家が下落合2丁目212番地の原邸、つづいて北へ向かって同番地のアパート「竜雲荘」、大久保邸(現・ビアンカ大久保)、阿部材木店(現・阿部マンション)という順番に建てられて間もない家々が並んでいた。現在は、製氷工場が建っていた区画のほとんどが、東京富士大学(旧・富士女子短期大学)のキャンパスエリアとなっている。
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 現在の田島橋あたりからは、企業のビルやマンションに遮られて見えないが、『下落合風景』の当時は、もう少し目白崖線の緑がつづく下落合の丘が見えてもいいのかもしれない。だが、それを描くと手前の街並みが際立たなくなるため、画家があえて省略している可能性もありそうだ。

◆写真上:日展に出品された、1957年(昭和32)制作の古瀬静夫『下落合風景』。
◆写真中上は、制作と同年撮影の1957年(昭和32)の空中写真にみる描画ポイント。は、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内図帳」にみる同所。
◆写真中下は、1955年(昭和30)に撮影された田島橋と南詰めの東京電力目白変電所。田島橋の西側親柱に載った、半球体オブジェの様子がよくわかる。は、古い三越マンションが解体された直後の田島橋南詰めから北を向いて眺めた現状。左手やや遠めな青いビルがアリミノの本社ビルで、右端の三越敷地のすぐ右側がエステーの本社ビル。
◆写真下は、1954年(昭和29)の第10回日展に入選した古瀬静夫『ある街かど』。は、練馬の石神井公園まで写生にでかけた古瀬静夫『晩秋の三宝池』(制作年不詳)。
おまけ
 旧・神田上水と妙正寺川の合流点から、少し下流にあった一枚岩(ひとまたぎ)にAI着色をしてみた。それなりに木漏れ日があたるリアルな情景になったが、『江戸名所図会』に描かれた一枚岩は田島橋の上流、現在の下落合駅南側に接する変電所のあたりにあった。
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「清戸道」の呼称は江戸時代の初期から。

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 江戸川橋から目白坂を上り、目白通りから途中で北西へと向かう南長崎通り(長崎バス通り=ほぼ昔の練馬街道)へと入って、多摩地域の清戸村までつづく街道は、いつから「清戸道」と呼ばれるようになったのだろうか?
 わたしは、『高田村誌』に書かれた「清戸道」のルビにふられたように、「清戸道」は本来「せいどどう」あるいは「せいとどう」ないしは「せいとみち」と呼ばれたのではないかと以前から疑っているが、街道筋の各農村で正月に行われるどんど焼き(江戸東京方言では賽戸祓い・芝灯祓い・道祖神払い=「せいとばれえ」)の火炎が、点々とつづく街道筋を表現したものではないかと考えている。それが、ひとたび後世に「清戸」という漢字が当てはめられると、異なった発音になってしまうのは、地名に見られる「清戸」をはじめ「成都」「西都」「清土」「青土」「青砥」「勢井戸」などと同様のケースのように思われる。
 この「どんど焼き(せいとばれえ)」(関東でも神奈川県南部など、地域によっては「せえとばれえ」と「い」が「え」に転訛して発音される)の火祭り神事は、関東地方では鎌倉時代以前から由来の知れないほどの古(いにしえ)より行われていた正月の催事であり、したがって「賽ノ神」や「賽戸ノ神」、「芝灯」、「道祖神」(江戸期)などが意識される以前から存在し、後世になってからそれらの神々と習合していったのではないか。したがって、「せいと」という地名や道名に当てはめられる漢字も一律ではなく、地域によっては多種多様な漢字が、古より当てはめられてきたとみられる。村々の「入口」に設置された、鎌倉期から室町期に多い石碑は、今日では「板碑」と表現されているが、当時はどのような名称で呼ばれていたのだろう。「賽戸」や「芝灯」は、外からの災厄を防御するファイヤウォールそのものではなかったか。
 どんど焼き(せいとばれえ)の神事が行われるのは事実、街道筋や川筋、海辺など、なにかを運んでくる場所、なにかがやってくる場所で行われるのが通例であり、それは人々が暮らす村落共同体の「入口」であり、素性や得体の知れない「他所」や「外界」との接点でもあったはずだ。換言すれば、道や川、海などを通じて「他所」や「外界」から運ばれてくるであろう災厄や病魔、さまざまな不吉な事象・現象を、ミクロコスモス(村落共同体)は常に敏感に認識して生活していたはずであり、1年間にわたり村内に滞留した、あるいは村内を通過した災厄や病魔を祓う必要性が生じたため、交通(人流・物流)が頻繁な要所では、新年の火祭り神事(どんど焼き=せいとばれえ)が発達した……と捉えることもできる。
 そもそも火炎により災厄や病魔を祓う、または地上に降りた神(善神・悪神)を火炎の力で“神の国”へ帰還させるという行事は、古くから日本列島各地で見られた神事であり、別にどんど焼き(せいとばれえ)は関東地方のみの専売特許ではない。アイヌ民族の神送り火祭(イヨマンテ)も同系統だし、琉球の火の神(ヒヌカン)も近しい存在だろう。この神事を正月に限らず、初めて季節を問わないイベント化したのは江戸幕府の徳川吉宗であり、1732年(享保18)に開かれ両国橋のたもとで打ちあげられた花火大会も、流行した疫病を祓う厄落としから出発している。
 わたしが、初めて「清戸道」という呼称を調べたのは、いまから10年ほど前だったと記憶している。目白駅(地上駅)近くで、目白橋をわたる目白通りと、目白橋の下にあった踏み切り(LEVEL CROSSING 51CN)をわたる清戸道とが、並行する道筋に別れて存在していた時代を調べていたときだ。その際に、残念ながら参照していた直接資料は失念してしまったけれど、江戸時代の初期から「清戸道」の呼称が用いられていたという記述を憶えていた。その根拠となる引用されていた資料は、江戸幕府が実施した検地にまつわる記録だったという、ウロ憶えの印象が残っていた。
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 それから、怠惰なわたしは深く調べもせず、そのままにして放っておいたのだが、友人と「清戸道」に関する議論をしていた際、もう一度改めて詳しく調べてみる気になった。江戸期から明治期にかけての、各種文献を国会図書館で調べていたら、豊島区の北西隣りに位置する練馬地域で、江戸時代の初期から「清戸道」と呼称している事例を見つけることができた。それは、練馬区教育委員会が保存しているとみられる、1674年(延宝2)に作成された「関村検地帳」(井口家文書)だ。同帳が収録されていたのは、1961年(昭和56)に練馬区から出版された『近世練馬諸家文書抄』だった。おそらく、わたしが参照した資料も同記録からの引用だったのだろう。
 「関村検地帳」には、全部で12ヶ所に「清戸道」の記録が登場し、そのうちの10ヶ所および追記の1ヶ所の、計11ヶ所が幕府(勘定所配下の代官所)による検地の記録だ。
  
 清戸道/下畑九畝廿九歩  弐拾八間半/拾間半  久太郎
 同所/下畑八畝拾三歩  拾一間/弐拾壱間  同人
 同所/下畑壱畝歩  拾間/三間  同人
 同所/下々畑壱反七畝拾弐歩  弐拾七間半/拾九間  同人
 同所/下々畑壱反四畝七歩  拾四間/三拾間半  同人
 同所/下々畑壱反三畝拾六歩  弐拾九間/拾四間  同人
 同所/下々畑壱反三畝拾歩  弐拾間/弐拾間  同人
 同所/下々畑弐反壱畝廿壱歩  四拾弐間/拾五間半  同人
 同所/下々畑九畝拾歩  弐拾八間/拾間  同人
 同所/下々畑壱反六畝拾五歩  拾八間/弐拾七間半  同人
 清戸道/下々萱弐反壱畝歩  拾八間/三拾五間  久太郎 (追記)
  
 この中で、最下段の清戸道下々萱耕作地2反1畝歩が、同年による検地帳の追記ということになる。関村の久太郎という人物は、清戸道沿いの耕作地からはやや離れているとみられ、差配や小作人に田畑をまかせた大農家だったか、家業が商家で所有地を人に貸していたかのいずれかだろう。あるいは、鷹狩り場(御留山・御留場)の「筋」表現と同様に、地域を貫く街道「筋」の捉え方で書かれており、清戸道に通じる村内の道筋をそう表現していたか、あるいはこの道も「せいとばれえ」が行なわれる関村の道筋そのもので、そう呼ばれていたのかもしれない。
 あるいは、江戸初期には神送りの火祭り=せいとばれえ(どんど焼き=左義長)を実施する道筋が、一般名称として関東各地でそのように呼ばれていたとすれば、ほかの地域にも「せいと」にさまざまな漢字を当てはめた道路(街道筋)が存在していてもおかしくないし、別の漢字を当てはめられている地域も気になる。たとえば、落合地域の近くでいえば、清戸道の街道筋から分岐し雑司ヶ谷の神田久保の谷間を抜け、護国寺へと向かう道筋が「清土道(せいとどう)」や「清土村」なら、目白台の斜面にあるのも「清戸坂(せいどざか)」だということに気づく。
 江戸時代の初期、1600年代から呼称される「清戸道」だが、この当時の発音が「きよとみち」だったか「せいどどう(せいとみち)」だったのかは不明だ。おそらく、延宝年間に突然「清戸道」と呼ばれだしたのではなく、そのずっと以前、室町期より練馬から江戸城(1457年に太田道灌が江戸岬に建設した城郭)の城下町へと抜ける街道は、「清戸道」と呼ばれていたように思われる。もっとも、「清戸」と「せいと」祓いを結びつけて考えるわたしは地名や道名も含め、さらにもっとずっと以前から、さまざまな漢字を当てはめられて「清戸」ケースに限らず、関東各地で「せいと」と呼ばれていたのではないかと考えている。
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 さて、井口家文書には、幕府に提出した村方書上(かきあげ)とみられる記録を収集した、1720年(享保5)の「村明細帳」も残されている。同文書は、旗本で天領(幕府領)の代官だった会田伊右衛門あてに提出された、練馬地域の各種農作物に関する収穫高を報告した書上で、その中に同地域を通過している街道筋を紹介する一文が記録されている。その中にも「清戸道」は登場しており、すでに書上の提出先である幕府勘定所でも、また練馬の地元でも、江戸川橋から目白坂を上り、小石川村から下高田村(高田村)、下落合村、長崎村を経由して練馬方面へと抜ける街道筋は、「清戸道」と認識されていたのがわかる。
 『近世練馬諸家文書抄』収録の村方書上より、再び引用してみよう。
  
 関邨道筋の儀は青梅道・保谷道・清戸道・小榑道外作付道之寸九尺道と定置候、且大道筋之寸弐間三尺、小榑道九尺右道筋之儀関村拾弐筋道ニ書上仕候、松平九郎左衛門様出役之節申上置候/名主 歌右衛門/年寄 久兵衛
  
 この時期、天領の関村を担当する幕府勘定所の代官が、大旗本の松平九郎左衛門だったことが判明している。また、当時「清戸道」を含む「大道筋」が2間3尺(約4.5m)ほどの道幅だったことが記録されている。これは、明治以降の住宅地にメインロードとして敷設される三間道路よりも、まだ1m弱ほど狭い街道筋だったこともわかる。
 もうひとつ、徳川家の鷹狩りについて調べていた際、先述の検地帳から4年後の1678年(延宝6)に作成された『御鷹場絵図』という図版を、どこかの資料で参照している。同資料のメモは残るが、それが掲載されていた資料名を失念している。きっと、夜中に眠くなってスキャニングするのが面倒になり、そのまま寝てしまったわたしの怠惰な性格のせいだろう。これは練馬区の資料ではなく、同絵図は徳川将軍の鷹狩り「六筋」について書かれたものだったと思うが、その中に「清戸海道(街道)」というネームが挿入されていたのを憶えている。これも、江戸時代の初期に記録された「清戸道」なのだが、後日に国会図書館を調べても原典を見つけることができなかった。
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 江戸初期なので、(城)下町からそれほど離れてはいない鷹狩りの御留場(御留山)絵図が描かれていたと思うのだが、「戸田筋」(長崎・練馬地域側)か「中野筋」(目白・下高田・落合側)かもハッキリしない。ひょっとすると、近くでは最大規模の早大図書館か、東京中央図書館の資料なのかもしれないが、どなたか原典の『御鷹場絵図』(1678年)が収録された書籍、あるいは掲載された地誌本をご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。

◆写真上:練馬区教育委員会が設置した、千川通り(栄町)沿いの「清戸道」記念碑。
◆写真中上は、幕末か明治初期の江戸川橋を想定し1932年(昭和7)に描かれた川瀬巴水『暮るゝ雪・江戸川』。中上は、1935年(昭和10)に撮影された鉄筋コンクリートでリニューアルされた江戸川橋。中下は、江戸川橋の現状。は、1932年(昭和7)撮影の練馬志木街道。清戸道も同様に、このような風情だったと思われる。
◆写真中下中上は、1674年(延宝2)作成の「関村検地帳」と同検地帳追記に掲載された「清戸道」。中下は、目白坂と記念プレート。文京区教育委員会が設置したプレートだが、江戸川橋を起点とする「清戸道」の解説が見える。
◆写真下は、清戸道が北西(右手)へと向かう目白通りと南長崎通りの分岐点。中上は、長崎地域を練馬方面へ向けて貫く南長崎通り(清戸道)。中下は、冒頭写真の「清戸道」記念碑の解説プレート。は、「桜の碑」とサクラ並木がつづく千川通り(清戸道)。
おまけ1
 現在の神田川流域の「江戸川」と、東京都と千葉県の境を流れる「江戸川」とを史的に混同されている方が多いので、蛇足ながら付記したい。江戸川橋(の手前の大洗堰=現在の大滝橋のある江戸川公園あたり)から、千代田城の外濠にでる舩河原橋までの神田川は、江戸時代より1966年(昭和41)まで江戸川と呼ばれていた。現在の東京都と千葉県の境を流れる大河は、江戸東京の市街側からは「太井川(ふといがわ)」または「太日川(おおいがわ)」と呼ばれ、神田上水の下流域名だった江戸川とは混同されていない。写真は、葛飾区の金町あたりの現・江戸川(太井川or太日川)。
江戸川金町取水搭.jpg
おまけ2
 1918年(大正7)に正月の海辺で描かれた、有島生馬の『どんど焼き』(せいとばれえ)。有島武郎の一家とともに、鎌倉町泉ヶ谷(いずみがやつ)へ避寒していた際に描いたもの。
有島生馬「どんど焼き」1918.jpg

戦前の落合地域に住んでいた華族は36家。

大島邸乃木邸麹町区紀尾井町.jpg
 以前、明治期には別荘地だった落合地域に住む、華族たちについてご紹介した記事を書いていた。『落合町誌』(落合町誌刊行会/1932年)をはじめ、戦前の資料類には頻繁に華族が登場するので、改めて地元の資料を参照しながらまとめてみた記事だった。その記事では、落合地域に住んだ15家ほど(雑司ヶ谷旭出=目白町の戸田邸/徳川邸は除く)をご紹介しているが、実はその倍以上の数の華族家が下落合や上落合、葛ヶ谷(西落合)に住んでいたことが判明した。
 明治後期から戦前の華族に、ことさら関心があるわけではないが、下落合775番地の七曲坂に建ち独特なデザインをしていた大島久直邸の、大正期ではなく昭和期の写真がないかどうか探していた際、やたら住所が落合地域の華族たちが目についたからだ。ついでに、それらの華族家をメモしておいたのだが、みるみるその数が増えつづけ、以前の記事でご紹介した15家どころではないことに気がついた。改めて意識的に調べてみると、なんと以前の15家にプラスして21家も住んでいたことが判明している。
 落合地域の地域別に見ると、新たに下落合だけで+15家、上落合で+4家、西落合(葛ヶ谷)で+2家の都合21家だ。また、大正期から昭和初期にかけて落合町葛ヶ谷(西落合)に住んでいたが、途中で下落合に転居してきている家庭もあり、落合地域内での転居も確認できる。やはり、子育て環境としては学習院も近いし、関東大震災を経験して東京郊外のほうがなにかと安全だし、また市街地の喧騒や不健康な環境もないし、明治期から華族たちが住みついた土地で「仲間」が多いから安心だ……というような感覚でもあったのだろうか? わたしの調べるかぎり、落合地域だけで15家+21家で36家の華族邸を確認することができた。これらの家々は、数年でよそへ転居している華族もいれば、戦後まで住みつづけていた家庭も含まれている。
 さすがに、追加の21家について個別に紹介するのは負荷が高いので、それぞれ興味のある方は別途、各家系について調べていただきたいが、まずは一覧表のリストで概観してみよう。やはり、徳川家と藤原家の関連華族が多いだろうか。ちなみに、このリストには以前にご紹介している落合地域×15家+目白地域×2家は含まれていない。また、前回は含めていなかった九条武子邸を、いちおう加えてカウントしている。『華族大観』(華族大観刊行会)や『華族名簿』(華族会館)、『華族銘鑑』(各社)などでは、下落合753番地の九条邸を建前上「九条良致邸」としているが、転居当初から別居中の九条武子のみが住んでいる。なお、華族邸の調査期間は大正末から1940年(昭和15)前後までとしており、明治前期から大正前期ごろまで住んだ華族については、改めて調べていない。また、権兵衛山(大倉山)に伝わる伊藤博文邸は、明らかに後世の誤伝だと思われるので含めていない。
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 リストの中で、飛鳥井雅信邸と藤枝雅脩邸とが同一住所だが、藤枝家が飛鳥田邸に同居していたことによる。下落合1540番地は、目白通り沿いに建つ落合第三府営住宅の中であり、目白文化村の北西側に位置している。下落合505番地の松平親義邸は、目白福音教会平和幼稚園の東側に近接し、村田綱太郎邸と東三条公博邸の下落合1281番地は、前谷戸に造成された第四文化村の南側に位置する敷地だ。下落合330番地の伊藤一郎邸は、同じ華族(男)の箕作俊夫邸と同一住所(現・落合中学校校庭)であり、敷地の一部に自邸を建設したのだろうか。
 下落合473番地の堀田正路邸は、明治末か大正初期に建設された浅田知定邸の広大な敷地内で、敷地が再開発された昭和初期に邸を建設しているのだろう。同敷地内に建っていた、上原桃畝アトリエと同一番地だ。下落合604番地の土井利孝邸は、のちに牧野虎雄アトリエが建設される区画と同じ住所だが、土井邸は佐伯祐三が描いた「浅川ヘイ」の浅川秀次邸が転居したあとに建設された広大な屋敷で、曾宮一念アトリエの道をはさんだ東隣りにあたる。下落合339番地の有馬純尚邸は、現在は落合中学校の北側敷地に含まれているとみられるが、下落合370番地にあった竹久夢二アトリエのすぐ南側に位置している。
 次に、下落合451番地の水谷川忠麿邸は、近衛家の所有地だった広い目白中学校跡地の一部に建っていた。下落合421番地の芳川三光邸は、近衛町通りに面した区画で、同通りにある古くからの交番のすぐ北側にあたる番地だ。下落合1701番地の太秦康光邸は、金山平三アトリエから北側の上ノ道へと出て、勝巳商店地所部が昭和期に開発する「目白文化村」の西隣りに接する敷地だ。下落合830番地の岡春雄邸は、薬王院西側の丘上区画で、下落合800番台に展開した「アトリエ村」のやや南側に位置している。
 つづいて、下落合1218番地の東三条公博邸は、鎌倉支道の雑司ヶ谷道(新井薬師道)沿いの北側に建っていた大きな屋敷だ。同番地の南斜面には、谷千城邸(子)も隣接して建っていた。斜向かいには、外山卯三郎の実家だった外山秋作邸佐々木久二邸があり、東へ140mほど歩けば西坂と徳川義恕邸(男)の丘下へ出ることができた。下落合1207番地の三宅直胖邸は、先の東三条公博邸の西並びであり、三宅邸の道路をはさんだ真ん前が佐々木久二邸という位置関係になる。最後に、下落合753番地の九条良致名義になっていた、オバケ坂(バッケ坂)上の九条武子邸は、これまで何度もご紹介してきているので省略したい。
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 さて、上落合468 番地の千田嘉平邸は、吉武東里邸の東並びの道筋に位置する敷地で、向かいは古代ハスを育成した大賀一郎邸で、2軒北隣りが神近市子邸という位置関係だ。上落合671番地の勸修寺末雄邸は、吉武東里邸の西へと入る細い路地の北側に位置する敷地で、東隣りが古川ロッパ邸(現・上落合公園)だ。同一住所の石河光遵邸は、勸修寺邸に同居していたか、あるいは広めな区画なので同じ敷地内に邸を建てて住んでいたのだろう。先の千田邸とともに、上落合を流れる妙正寺川の北向き段丘上に位置する地形だ。上落合514番地の石山基弘邸は、昭和通り(現・早稲田通り)から公楽キネマの西側にある道を北へ入ると、すぐ左手に建っていた大きな屋敷だ。この住所は、二二六事件の蹶起将校のひとりである竹嶌継夫中尉の実家と同一番地だ。
 次に、大正期までは葛ヶ谷と呼ばれ、昭和初期の耕地整理が終わると地名が西落合に変更されたエリアを見てみよう。まず、華族関連の資料によって、片岡和雄邸は「下落合5丁目15番地」などと書かれているけれど、1932年(昭和7)以降に誕生する下落合5丁目に15番地は存在しない。多くの資料では、落合町葛ヶ谷15番地となっているので「下落合5丁目」は誤記だと思われる。葛ヶ谷(西落合)15番地には、ほかに片岡鉄兵宮地嘉六が住んでおり、時期がズレれていれば、いずれかの住宅に片岡和雄がいた可能性が高い。また、葛ヶ谷15番地は、佐伯祐三が描く『看板のある道』の右手に見えている敷地で、富永哲夫が開業した富永医院へと通じている道筋だ。
 さらに、西落合1丁目281番地の松平賴庸邸は、以前に鬼頭鍋三郎の関連記事でも登場している敷地で、松下春雄アトリエ(のち柳瀬正夢アトリエ)や鬼頭鍋三郎アトリエの、道路を隔てた斜向かいにあたる大屋敷だ。松平家は戦前まで住んでいたようだが、戦後しばらくすると跡地は本田技研工業の本田宗一郎邸が建設されている。
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 こうして見てくると、ポツンと離れている華族邸は別にしても、なんとなく親しい友人同士で連絡を取りあい、近隣に寄り集まって住んでいたような印象を受ける。東京郊外の近所で売りに出ている土地、あるいは貸地があるから近くに越してこないか?……というような“ご近所情報”が、特に関東大震災後の華族会館などで交わされていたのではないだろうか。

◆写真上:下落合への転居前、赤坂離宮の近く麹町区紀尾井町にあった大島久直邸。現在は上智大学のキャンパスになっているが、大島邸の手前の瓦屋根は乃木希典邸で、1940年(昭和15)に藤沢市片瀬の目白山にある湘南白百合学園へ移築されている。ちなみに、片瀬にある目白山も庚申塚(元は荒神塚?)の展開から、タタラ遺跡が眠る可能性が高そうだ。
◆写真中上:下落合の東部および中・西部に展開した華族邸。
◆写真中下:上落合および西落合(葛ヶ谷)に展開した華族屋敷。
◆写真下:これまであまりご紹介してこなかったが、第1次山手空襲で全焼する直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合604番地の土井利孝邸()。空襲から焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された西落合1丁目281番地の松平賴庸邸()。

のべ2,500万人のご訪問ありがとうございます。

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 あけまして、おめでとうございます。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。拙ブログがスタートしてから今年で20年めに入りますが、旧年の暮れに、これまでのご訪問者数がのべ2,500万人を超えました。20年余にわたり拙記事をお読みいただき、ありがとうございます。ssブログが3月に終了するそうですので、あと少しの間ですがこちらでお付きあいください。Seesaaブログへ移行する方が増え、だんだん寂しくなるssブログの年明けですが、きょうは拙記事を書いていて、ときどき受けるご質問について……。
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 「落合地域には、どんな人たちが多く住んでいたのですか?」と、ときどき訊かれる。また、「落合地域に住んでいた画家には、誰がいますか?」とか、「落合地域の作家や、文学関係者には誰がいたんですか?」とかもよく受ける質問だ。
 それにお答えして、いちいち説明するのがそろそろ面倒になってきたので、「この拙記事をご参照ください」とURLをお伝えするだけで済ませられる、怠けグセのついた不精なページを用意しておきたい。すでに拙サイトに登場している人物たちを中心に、まだ記事にしていない人たちを含め、思いつくまま列挙してリスト化しておきたいと思う。検索窓に名前を入力いただければ、いずれかの記事にひっかかるのではないかと思う。ただし、いまだ記事にしていない人物に関しては検索できないけれど……。
 もうひとつ、ここにリストアップした美術関連や文学関連の人々は、ごくごく一部にすぎないことをあらかじめお断りしておきたい。わたしが、いまだ気づいていない画家や作家は大勢いるだろうし、特に美術関連に限ってみれば、明治末から2025年の現代まで、一時滞在者を含めればおそらく1,000人をゆうに超えているのではないかと思う。
 さて、漠然と「落合地域」といっても、大きく分けて3つの地域に分かれる。「下落合地域」Click!(中落合・中井を含む江戸期の下落合村)、「上落合地域」Click!(江戸期の上落合村)、「西落合地域」Click!(江戸期の葛ヶ谷村)の3地域だ。ただし、厳密には江戸期の当時とは異なるエリアもあることをお断りしておきたい。たとえば、葛ヶ谷村の飛び地の田畑だった目白崖線下に拡がる「(字)御霊下」は、のちに「下落合5丁目」(現・中井1丁目)になっていたりする。3地域の特色をおしなべていえば、落合地域には全体にわたり画家をはじめとする美術関係者や、作家をはじめとする文学関係者、大学や教育機関の教授・教師などの“文化人”が、戦前から数多く住んでいた(現在も住んでいる)が、皇族や華族、大企業の経営者・役員、陸海軍の将官クラスの屋敷もあちこちに建っていた。
 美術関連と文学関連に絞れば、おおよそ下落合は「芸術派」の画家や作家たちが多く住み、上落合には「プロレタリア派」(アナキスト含む)の画家や作家たちが数多く住んでいたといえるだろうか。これには、昭和初期の上落合に全日本無産者芸術連盟(ナップ)Click!をはじめ、前衛芸術家同盟、国際文化研究所Click!、日本プロレタリア文化連盟(コップ)、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)、戦旗社Click!左翼劇場Click!、日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)、黒色戦線社Click!サンチョクラブClick!など、各種の左翼系芸術本部が多数設置されていた関係から、プロレタリア派の芸術家が集まりやすかったという事情がある。そのボリュームは、美術・文学の関連分野では膨大な人数になると思う。ちなみに、大正から昭和にかけ日本美術年鑑などを参照していると、洋画家に輪をかけて落合地域に多くのアトリエをかまえていたのが日本画家だったことに気づく。
 もちろん例外もあり、下落合に住んだ「プロレタリア派」の作家たち(たとえば片岡鉄兵Click!秋山清Click!)もいれば、上落合に住んだ「芸術派」の作家たち(たとえば檀一雄Click!吉川英治Click!)もいるし、下落合に住んだ画家に竹中英太郎Click!もいれば、上落合に住んだ林武Click!もいるように、いちがいに地域だけでくくることはできない。また、下落合から西落合、あるいは上落合から下落合など落合地域内をあちこち転居しているケースもあるが、話が複雑になるのでそのような人物はいずれかの地域に分類している。
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 各地域ごとに、思いつくまま目立つ人物を挙げると次のようになる。名前から拙記事へのリンクは高負荷なので、気になる方はサイドメニューの窓から検索いただきたい。なお、記事へ書いたのに漏れている芸術家もいると思うし、美術関連の〇〇が抜けてるよとか、文学関連の〇〇がいないとか、お気づきの点があればご教示いただきたい。下記の“名簿”は、あくまで記事に登場している人々、あるいはいまだ記事にはしていないが気になる人々、ときどき知人や読者から訊かれた人々……ぐらいの感覚でご覧いただければと思う。
  
(1)下落合地域
■美術関連
 中村彝、鶴田吾郎、大久保作次郎、満谷国四郎、佐伯祐三、鈴木誠、曾宮一念、安井曾太郎、里見勝蔵、前田寛治、小島善太郎、川口軌外、松本竣介、吉田博、吉田としを、吉田遠志、吉田穂高、金山平三、牧野虎雄、鈴木良三、鈴木金平、長野新一、有岡一郎、有岡好子、三上知治、椿貞雄、一木弴、南風原朝光、仲嶺康輝、山元恵一、笹岡了一、林明善、大城皓也、江藤純平、片多徳郎、小松益喜、竹久夢二、蕗谷虹児、甲斐仁代、中出三也、竹中英太郎、刑部人、島津一郎、伊藤応久、小山昇、林唯一、森田亀之助、水谷(近衛)忠麿、笠原吉太郎、二瓶等(徳松)、田口省吾、熊岡美彦、青柳暢夫、高橋五山、岡不崩、本多天城、奥原輝子、高木保之助、進來哲、島津良蔵、小林喜代吉、梶本恒子、緒方亮平、大内章正、一木弴、友田陽國、田中忠雄、武井直也、橘作次郎、森田但山、八木皎羊、井澤蘇水、永地秀太、新海覚雄、酒井亮吉、岡田七蔵、坂口右左視、田河水泡(高見沢忠太郎)、小谷津任牛、福田久也、戸田達雄、浮田克躬、中村忠二、阿部展也、夏目利政、志賀直哉(文士廃業時)、上原桃畝、渡辺玉花、海洲正太郎、手塚緑敏、笠尾浩道、小山硬、藤井将太郎、一ノ瀬万里子、森山隆平、丸野豊司、川村勇、貝原浩、遠藤ふみ、伊勢正義、堀潔、彼末宏、三井高義、坂手譲、大久保婦久子、村田丹下……(他多数)
■文学関連
 吉屋信子、林芙美子、十返千鶴子、十返肇、九条武子、会津八一、松居松翁、武者小路実篤、真杉静枝、外山卯三郎、高群逸枝、矢田津世子、舟橋聖一、船山馨、片岡鉄兵、秋山清、辻山春子、安倍能成、龍膽寺雄、中井英夫、土屋文明、池谷信三郎、萩原恭次郎、小野十三郎、大泉黒石、宮地嘉六、沖野岩三郎、板垣鷹穂、板垣直子、伊藤貴麿、気駕君子、中原綾子、丹羽文雄、帆足理一郎、佐藤義美、森山啓、伴敏子、竹田助雄、佐藤義美、新津澄子、宮下安太郎、津村節子……(他多数)
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(2)上落合地域
■美術関連
 林武、林重義、村山知義、住谷磐根、吉岡憲、今西中通、八島太郎(岩松惇)、飯野農夫也、本多京、三浦東三、矢橋公麿、小林和作、大村麿紅、中村善策、土岡泉(春郊)、小泉勝爾、東山新吉、關田華堂、大塚鳥月、田中針水、園部邦香、吉田卓、桑原清明、松本俊喬、江見岬樹、山口耕司、遠藤紫園、桜井慶治、菊地秀一、戸川ふみ子、加藤充久……(他多数)
■文学関連
 辻潤、村山籌子、宮本(中条)百合子、大田洋子、林房雄、中野重治、中野鈴子、蔵原惟人、鹿地亘、尾崎一雄、川口浩、佐々木孝丸(兼俳優)、尾崎翠、吉川英治、松下文子、川路柳虹、壺井栄、壺井繁治、神近市子、山田清三郎、上野壮夫、小坂多喜子、藤森成吉、立野信之、久坂栄二郎、槙本楠郎、武田麟太郎、江口渙、森本薫、野川隆、大江賢次、今野大力、平林彪吾、芹沢光治良、今野賢三、貴司山治、黒島伝治、富小路禎子、小宮山明敏、那珂孝平、永田一脩、半田良平、武田雪男、藤沢桓夫、畔上賢造、細野考二郎、堀田昇一、松本義一、水野成夫……(他多数)
  
(3)西落合地域(昭和初期以前は葛ヶ谷地域)
■美術関連
 柳瀬正夢、松下春雄、平塚運一、鬼頭鍋三郎、大内田茂士、料治熊太、大澤海蔵、日野耕之祐など
■文学関連
 千家元麿、平林たい子、飯田徳太郎、瀧口修造など
  
 ちなみに、目白通りの北側には長崎に造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所)があったせいか、昭和初期にはプロレタリア派の画家・美術家たちが多く通ってきた。上落合の八島太郎(岩松惇)Click!が、マンガ講座Click!の講師として教えていたのも、下落合に住んだ小林多喜二Click!の妻・伊藤ふじ子Click!が通ったのも同研究所だ。また、プロレタリア画家だった岡本唐貴Click!松山文雄Click!黒澤明Click!(のち映画監督)なども通ってきている。
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 小熊秀雄Click!による詩「池袋モンパルナス」における象徴的な、長崎各地に点在する「長崎アトリエ村」群Click!の貧乏で尖鋭的な画家たちも、1935年(昭和10)以降には長崎へ集合している。下落合の目白文化村Click!には、「のらくろ」の田河水泡(高見沢忠太郎)Click!も住んでいたが、戦後、目白通りをはさんだ向かい側の椎名町(1964年より南長崎)には、ご存じのように手塚治虫Click!や寺田ヒロオ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫Click!、鈴木伸一、水野英子など、トキワ荘を中心とした「マンガ村」が形成されていた。

◆写真上:下落合の丘から眺めた、富士山の山頂に沈む夕陽(撮影:武田英紀様)。
◆写真中上:下落合の道筋に多い森林の風景。
◆写真中下:上落合のちょっと気になる風景。
◆写真下:西落合のいつでも印象的な風景。

小刀で自宅の柱を削る二瓶徳松(二瓶等)。

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 今年も拙サイトをご訪問いただき、ありがとうございました。年末に鼻風邪をひいてしまいましたが、みなさまもお身体に気をつけて、よいお年をお迎えください。
  
 少し前に、夏目利政Click!が借地権をもつ敷地にアトリエを建設した、曾宮一念Click!による『風景』Click!(1920年)について書いた記事で引用したが、洲崎義郎Click!あてに中村彝Click!が1920年(大正9)7月21日付けで書いた手紙の中に、下落合584番地へアトリエClick!を建設して住んでいた二瓶徳松(のち二瓶等・二瓶等観)Click!について触れた箇所がある。
  
 曾宮君は夏目君が借地権を持つて居る地所を借り受けて、そこへ画室を立(ママ:建)てることになりました。二瓶君の画室の少し先の谷の上で大変眺望のいゝ処です。
  
 「二瓶君」こと二瓶徳松は、中村彝『芸術の無限感』Click!には何度か登場し、下落合804番地の鶴田吾郎Click!や下落合800番地の鈴木良三Click!とも親しかった様子が、洲崎義郎あての手紙(1920年4月20日付け)に記録されている。
 中村彝や満谷国四郎Click!を師と仰いだ、文展・帝展系の画家たちと交流した二瓶徳松だが、同時に佐伯祐三Click!とも親しく佐伯アトリエにも頻繁に出入りしており、彼は同アトリエで開かれたクリスマスパーティーClick!にも参加Click!している。佐伯祐三と二瓶徳松は、1918年(大正7)に東京美術学校西洋画科へ入学した級友同士であり、ほかに下落合1599番地の江藤純平Click!山田新一Click!とも同級生だった。
 下落合584番地(のち下落合2丁目584番地)に建っていた二瓶アトリエだが、下落合464番地の中村彝アトリエよりも、かなり大きな建築であることが以前から気になっていた。二瓶徳松は北海道札幌の出身で、北海中学校(現・北海高等学校)を卒業したあと、東京へやってきて美校へ入学しているが、かなり裕福な家庭環境だったのだろうと想像していた。そこで、二瓶徳松の子ども時代のことを、少し詳しく調べてみたくなった。
 1897年(明治30)に札幌で生まれた二瓶徳松は、父親から絵画(というかポンチ絵=漫画)の手ほどきを受けている。祖父も父親も絵画が好きで、正月に揚げる1畳サイズほどの凧(たこ)や、祭りの雪洞(ぼんぼり)などに絵を添えては評判になるほどだったという。そんな親たちの影響を受け、二瓶徳松も幼いころから絵や版画などに親しんで育った。そのころの絵の具は、薬局で売っている顔料(粉絵の具)のみしかなく、それを5~6色ほど手に入れて小皿に水で溶いては画用紙に塗っていた。
 二瓶少年は、家にいるときは絵を描いているか、木板に版画を刻んでいるか、壁にクギを使って“壁画”を描いているか、あるいは小刀で自宅の柱に彫刻するかしてすごしていた。もちろん、壁にキズをつける“壁画”や、柱を削る“彫刻”は親からこっぴどく叱られたが、いくら叱られてもまったく止めなかったため、しまいには親も呆れてなにもいわなくなったという。柱を小刀で削っているとき、もう少しで失明しそうになった事故も起きていた。1940年(昭和15)に新天地社から刊行された「新天地」10月号収録の、二瓶等観『絵画を初める迄で-或る回想』から引用してみよう。
  
 今も残つてゐる眉の傷もこの悪戯の名残だ。其日は丁度夕方から父も母も用事で外出して家には祖母と下男と三人だけだつた。退屈でもありそろそろ例の悪戯が初まつて、柱の節の所が面白いので其廻りを小刀で削り出した。節が堅いので小刀が滑つてなかなか思ふ様に行かない、(ママ:。以下同) 祖母は危いからと再三留めたが、一向きかずに、尚もやつて居る内、下から上に削り上げた途端手もとが狂つて、どう滑つたか、自分の眉毛の少し上の所へ、ぶすつとやつてしまつた。小刀を投げ出して両手でさつと傷を押へたが、血がたらたらと流れてくる、全く驚いた、それこそもうちよつと下つたら、目は遠永(ママ:永遠)に光を感ずる事が出来なかつたわけだ。(カッコ内引用者註)
  
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 祖母は驚き、あわてて台所に張っていたクモの巣を集めてきて、それを二瓶少年の傷口に貼り包帯をしてくれた。クモの巣が止血にきくとは、ギリシャ時代から世界各地で伝承された民間療法で、実際にクモ糸のタンパク質が血液の凝固作用を促すことが今日の医学でも確認されている。もっとも、清潔で無毒なクモの糸に限られるようだが。
 祖母が大急ぎで集めたクモの糸は、台所の竈(かまど)の上に張っていたものらしく糸には煤(すす)がついていて、傷口から侵入した真っ黒な煤で、眉毛の上には刺青(いれずみ)のような傷跡が残ってしまったという。この大ケガのときは、さすがに両親からひどく怒られ、柱を小刀で削るのを少しは控えるようになったようだ。
 二瓶徳松は、なにかに集中すると周囲の声が聞こえなくなる性格Click!のようで、絵を描いているとき半鐘の音がするので、「また町のどこかで火を出したな」と気にせずに制作をつづけていると、血相を変えた母親が飛びこんできて、二瓶少年を家から外へつまみだした。外へでてみると、自宅の2~3軒隣りが火事だったという逸話が残っている。
 二瓶少年が洋画と接したのは、北海中学校へ進学したあと、北海道帝国大学に「黒白会」という絵画団体があり、その展覧会を観てからだった。その展覧会には、北大予科で教授をしていた有島武郎Click!や弟の有島生馬Click!三宅克己Click!らの作品が展示されており、彼は油彩画に大きな衝撃と感動を受けたと書いている。
 それまで盛んに描いていた水彩画が色褪せて見え、油彩の画道具一式が欲しくなった。当時、札幌にあったいちばん大きな書店のショウウィンドウには、油絵の具(フランス製)が展示されていたが、中学生にはとんでもなく高価で買えなかった。そこで、カネ持ちだった友人に絵筆や油絵の具を買わせ、二瓶徳松は友人も買ったから自分も欲しいと親にせがみ、とうとう油絵の具と絵筆、三脚など画道具一式を手に入れている。このエピソードからしても、二瓶家は札幌でかなり裕福な生活をしていた家庭だと想定できる。
 画道具を手に入れた二瓶少年は、さっそく友人とともにそれらを風呂敷に包んで札幌郊外へ写生に出かけ、気に入った風景を前にして三脚をすえている。けれども、油絵の具を使ったことがない彼らは、水彩絵の具が油絵の具に変わっただけだと「たかをくゝつて」考えていた。だから、描くのは水彩と同じ画用紙であり、布製のキャンバスのことなど知らなかった。そのときの様子を、前記の『絵画を初める迄で』から引用してみよう。
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 サツと色をつけては見たが、油が紙に吸ひ込んで絵具が少しも伸びない。これではいかんと思つてゴテツト絵具を筆に附けてやつて見たがやはり思ふ様に行かない、しようがないから水彩式に水筒の水を入れた、油に水を入れたからたまらない、絵具がブツブツになつて収拾出来なくなつた。実際閉口した、なんとか亦水分を取らなければ筆にも附かない、そこで亦水彩式に、ペロリと筆を舐めたからたまらない、口中油具く(ママ:臭く)なつていくら吐出しても、口を濯いでも駄目だ。今から考へると全く滑稽を通り越して馬鹿げた話だが、其時は大真面目だ、笑ふ所か泣き出しそうだ、二人共すつかりシヨゲて、ろくろく口もきかずに帰つてしまつた。(カッコ内引用者註)
  
 絵の具をペロリと舐めた二瓶少年だが、どうやら猛毒な重金属系の絵の具ではなかったらしく、その後、体調はなんともなかったようだ。
 当時、北海中学校には油絵を描く生徒はひとりもおらず、図画を教えていた教師は日本画が専門だった。また、洋画クラブ「黒白会」のある北大には知り合いもいないし、フランス製の油絵の具を売っていた書店に訊いても、使い方までは誰も知らなかった。せっかく手に入れた油絵の具を抱え、彼らはすっかり途方に暮れてしまった。
 ようやく、油絵の具の使い方が判明したのは、別のクラスにいた生徒の兄が東京で洋画の勉強をしていることを知り、その人物にあてて使い方を手紙で問い合わせ、ようやくとどいた返事を読んでからのことだ。こうして、油絵の具は溶剤となるオイルを用いて薄めることや、画用紙ではなく画布や板へ描くことなどを知ることができた。
 おそらく、それから溶剤やキャンバスを手に入れるために、二瓶少年たちは再び苦労をしたのではないかと思われるが、文章は油絵の具の使い方が判明したところで終わっている。もちろん、いちばん苦労したのは、親を説得して少なからぬおカネをださせることだったにちがいない。また、絵の具を飾っていた書店では売っていなかったらしい溶剤やキャンバスを、どこからか取り寄せることだったろう。
 下落合の二瓶等アトリエは、二度にわたる山手大空襲からも延焼をまぬがれ、戦後もそのままの姿で建っていた。一時期は、目白中学校Click!の美術教師だった清水七太郎Click!の紹介で、萬鉄五郎Click!が茅ヶ崎から転居してくる予定だったが病状の急激な悪化でかなわなかった。もし、萬鉄五郎が下落合に住んでいたら、二瓶等アトリエの柱のあちこちに、やたら小刀による彫刻がほどこされ、壁にはクギで描いた細かな線画が描かれていたのを発見しただろうか。それとも、二瓶徳松の妙な性癖は、中学時代のケガに懲りて消えていただろうか?
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 さて、二瓶徳松(二瓶等)の子どものころの逸話を聞かされた佐伯祐三が、「小刀はあかんで、柱ぎょうさん削んならカンナやないとあカンナ~」と自身のアトリエへ連れていき、細身になった柱Click!を自慢げに見せたかどうか、記録が見あたらないのでさだかでない。

◆写真上:1938年(昭和13)に中国で制作された、二瓶等観『秋(大連風景)』。
◆写真中上は、東京美術学校(現・東京藝術大学美術部)の卒制で描かれた二瓶徳松『自画像』。は、同アトリエ跡の現状。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる下落合584番地の二瓶アトリエ。西隣りまで、延焼の迫っていた様子がわかる。
◆写真中下は、カンナで削られた佐伯アトリエの屋根を支える柱束と方杖。は、1955年(昭和30)制作の二瓶等観『加賀山由子像』。は、戦後に新世紀展へ出品された二瓶等『瓊容像』。戦後は、再び二瓶等観から二瓶等へともどっているようだ。
◆写真下は、1976年(昭和51)にエクアドルで発行された野口英世の記念切手。原画は二瓶等で、角度を変えたバリエーション作品の『野口英世像』Click!を制作していたとみられる。中左は、1940年(昭和15)に発行された二瓶等観のエッセイが載る「新天地」10月号(新天地社)。中右は、二瓶等が挿画を担当した代表的な童話でE.マルロー・著/楠山正雄・訳『少年ルミと母親』(富山房)。は、同童話で数多く描かれた挿画の1枚。

村瀬泰雄証言にみる下落合の近衛町空襲。

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 先日、目白ヶ丘教会へおじゃまし牧師・野口哲哉様Click!からいただいた資料に、近衛町Click!の空襲についての証言記録があったので、きょうは同資料をもとに1945年(昭和20)の4月から5月にかけての惨禍を中心に書いてみたい。証言されているのは、目白ヶ丘教会の牧師館向かいに住んだ村瀬泰雄という方だ。
 落合地域は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲Click!の二度にわたるB29の空襲(いわゆる「山手大空襲」Click!)にさらされている。4月13日から翌日未明にかけての空襲では、鉄道駅(目白駅や高田馬場駅など)や幹線道路(目白通りや早稲田通りなど)沿いに形成された繁華街、あるいは河川(旧・神田上水や妙正寺川)の両岸に集中していた工場地帯を目標に爆撃している。そこから燃え広がった火災が延焼をつづけ、落合地域の住宅街を徐々に焼いている。だが、二度目の5月25日から翌日未明にかけての空襲は、まがりなりにも目標を定めた「精密爆撃」Click!ではなく、東京大空襲Click!と同様の無差別な絨毯爆撃だった。
 両日の空襲の様子を、上掲の村瀬証言から引用してみよう。
  
 目白や下落合の大空襲は四月十五日(ママ)と五月二十五日です。四月の大空襲は江戸川橋あたりから目白・下落合方面に向かって焼けてきて、落合もほとんど丸焼けになりました。ただ目白通りから焼けてきた火が、わが家の三軒前で止まり、学習院昭和寮(現在の日立目白クラブ)を含め、十軒ほどが焼け残ったのです。/五月二十五日の大空襲は南方向の高田馬場方面から焼けてきました。日本軍の高射砲は高空を飛ぶ敵機まで届かず、下の方で破裂していましたが、日本の戦闘機がB29に体当たりして撃墜し、それが今の大正製薬あたりに墜落したのです。大きな敵機の光と小さな日本の戦闘機の光が体当たりする場面まで、よく見えたのを覚えています。
  
 1945年(昭和20)5月17日、4月13日夜半の空襲から約1ヶ月後、5月25日夜半の空襲の9日前に、米軍の偵察機F13Click!によって撮影された空中写真を見ると、下落合1丁目406番地(近衛町45号)の村瀬邸から4軒北側の海東邸(近衛町12号)で、延焼が止まっているのがわかる。また、「十軒ほど」と証言されているが、この時点で近衛町Click!のエリアでは30軒超の家々が焼け残っているのが見てとれる。また、5月25日夜半の空襲後でも、学習院昭和寮Click!を含めて近衛町では村瀬邸も入れ丘上の25軒ほどが延焼をまぬがれている。ここでは、村瀬邸の周辺に建っていた「十軒ほど」の建物のことだろう。
 また、日本の戦闘機が体当たりして撃墜したB29は、当時、松尾徳三様Click!が勤労動員で勤務し飛行機のマグネットを製造していた、学習院下の高田南町2丁目723番地(現・高田3丁目36番地)で操業していた国産電機工場Click!で、現状でいうと大正製薬本社の道路を隔てた北側にあたる敷地に墜落している。一方、体当たりした戦闘機は椎名町6丁目4130番地(現・南長崎4丁目2番地)の銭湯「仲の湯」のち「久の湯」Click!の釜場に墜落しているとみられ、パイロットは脱出したのか搭乗していなかった。
 当時の迎撃戦闘機は、20mmや12.7mmの機関砲では巨大なB29の機体をなかなか撃墜できないため、搭乗した戦闘機をB29に向けて体当たりさせ、パイロットは衝突する直前に操縦席からすばやく脱出して、パラシュートで降下するというきわどい戦法が用いられていた。熟練パイロットは即席で養成できないため、戦闘機は犠牲にしてもパイロットは生還させるという苦肉の策だった。戦後、下落合4丁目2108番地(現・中井2丁目)の旧・吉屋信子邸Click!に住んだ、元・陸軍航空隊飛行244戦隊の隊長で“B29撃墜王”の小林照彦少佐Click!が、同戦法について詳しい証言を残している。
 だが、体当たり攻撃では戦闘機の消耗が激しく、戦争末期には予定されていた「本土決戦」に備えて戦闘機を温存するために、機体の体当たりによるB29の迎撃戦も禁止されている。なお、同夜の空襲では下落合上空につづき、大久保上空でもB29が連続して撃墜され、機体は麹町区麹町1丁目(現・千代田区一番町)へと墜落している。
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 つづけて、村瀬証言から空襲の様子を引用してみよう。
  ▼ 
火が坂下からわが家のある高台の方に燃えてきたので、「女、子供は逃げろ。中学生以上の男は残って火を消せ」という命令でしたが、火を消そうにも消防自動車までボンボン燃えているので消しようがありません。町内会の「防空演習」で教わった「集中注水」「拡散注水」どころか、熱くてかなわないので、防空頭巾の上から防火用水の水をかぶってしのいだのです。大火災というのは空気をひどく乾燥させ、防空頭巾も洋服もあっという間に乾いてしまうのです。
  
 この教訓はわが家にも伝わっており、関東大震災Click!あるいは東京大空襲Click!の際には、大火災のそばにいると衣服が極端に乾燥し、飛んできた火の粉が付着しただけで一瞬のうちに火だるまClick!になった犠牲者が何人もいたという。
 それを防ぐためには、大火災から少しでも早く遠ざかるか、防火水槽があればその水をかぶってから逃げた。また、さえぎるものがない場所での大火災は、急激な空気の膨張による大火流(火事嵐)Click!が起きやすいため、可能なかぎり早く大火災の現場から遠ざかる必要があった。落合地域の近くでは、5月25日夜半の空襲時に付近住民の避難先だった池袋東口の根津山Click!で、人が巻きあげられるほどの火事嵐が発生しているとみられる。
 貴重な村瀬証言から、つづけて5月25日夜半の様子を引用してみよう。
  
 先に避難した母や姉妹たちが心配で、ようすを見に行ったところ、今の下落合三丁目交番や、近くの道路の真ん中にある二本の大ケヤキ(現在は一本のみ残る)あたりの四月の空襲の焼け跡に、目白ヶ丘教会の熊野(ゆや)牧師の奥様やお嬢様の順子さん、その他大勢の婦女子の皆さんと一緒に、憔悴しきった顔をして地べたにぺたんと座っていたのを見て、本当にホッとしたものです。/幸い、坂の下から焼き尽くしてきた火は、学習院昭和寮(現在日立目白クラブ)敷地内の森に移ってそこで止まったので、四月の空襲で焼け残った昭和寮をはじめ、わが家一帯の十軒ほどは、今度も焼けずに助かったのでした。
  
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 近衛町通りにあった、近衛旧邸Click!の馬車廻しに植えられた2本の大ケヤキは、現在も同じ通りで健在だ。当初は、馬車廻しにあった双子の大ケヤキだが、1955年(昭和30)ごろ西側のケヤキに落雷Click!して樹勢が急激に衰えたため、樹の勢力を回復させるために東側のケヤキを残し、馬車廻しから20mほど南の道端へ移植している。(冒頭写真)
 また、落雷したロータリーの位置に残された東側のケヤキには、雷神の神威が示される幸運にめぐまれた樹木Click!(関東解釈)、ないしは菅公(天神)の怒りがどこまでも近衛家(藤原氏)を追いかけてくる「最凶」のケヤキ(関西解釈)としてw、その後、注連縄が張られることが多くなった。なお、双子の樹木はもちろんケヤキなのだが、なぜか戦前から通称で「二本エノキ」と呼びならわされていたことが伝わている。
 さて、村瀬家の被害はどうだったのだろうか。以前にも証言を一部引用しているが、改めて村瀬邸の向かいにあたる目白ヶ丘教会牧師館の被害も含めて見てみよう。
  
 もちろん、焼夷弾はわが家にも落ちましたが、幸運にもこれは不発弾でした。機関銃の弾は二階の屋根を通して畳で止まり、家族に怪我はありませんでした。さらにB29が撃墜する直前に投下したものか、250キロ爆弾が、先ほど述べた下落合三丁目交番近くの道路の真ん中にある二本の大ケヤキのそばに落ち、その爆風で大きな庭石がわが家のお向かいの目白ヶ丘教会牧師館の庭まで飛んできました。幸い怪我人はなかったんですが、もし人間に当たっていたらおしまいという大石でした。
  
 前回も書いたが、この250キロ爆弾は旧・藤田本邸Click!敷地(近衛町2号)の南隣りに建っていた、下落合1丁目417番地の深田謙介邸(近衛町9号)を直撃し、一家は疎開中だったのだろう、留守居をまかされていたとみられる女中さんがひとり爆死している。その威力はすさまじく、深田邸と牧師館は直線距離で170mも離れているにもかかわらず被害を受けている。また、深田邸から2軒西隣りにあたる藤田孝様Click!(近衛町7号)の邸も強烈な爆風にさらされたが、設計が頑丈な造りだったために倒壊をせずにすんだというエピソードは、すでに初期の拙記事Click!でもご紹介していた。
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 250キロ爆弾の被害については、下落合1丁目404番地(近衛町5号)に住んだ高橋蔦枝という方も記録している。“落合の昔を語る集い”による文集『私たちの下落合』(2006年)に収録された高橋蔦枝「思い出すことあれこれ」によれば、「『二本エノキ』(双子ケヤキ)のすぐ前の深田邸には爆弾が落ち、あとには大きな穴があきました。私の家でも、爆弾の爆風の通り道になった窓のガラスは割れ、障子やふすまが全部倒されました」と証言している。爆弾が着弾した深田邸から高橋邸(田村邸)までは、直線距離で100m弱ほどは離れていた。

◆写真上:近衛町に残る、近衛旧邸の馬車廻しに植えられた双子の大ケヤキ(通称:二本エノキ)。1955年(昭和30)ごろに西側のケヤキに落雷して衰弱したため、同ケヤキが20mほど南の近衛町通り沿いへ移植されている。以来、落雷地点のロータリーに残る大ケヤキには、神威が宿る樹とされたものか注連縄が張られている。
◆写真中上は、1945年(昭和20)5月25日夜半に下落合上空で戦闘機の体当たり攻撃を受け、学習院下の国産電機へ墜落するB29。小石川に住んでいたカメラマンが、たまたま同夜に撮影していた。は、1931年(昭和6)に撮影された竣工直後の国産電機工場。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛町。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月2日に偵察機F13から撮影された空襲前の最後とみられる近衛町の姿。は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された近衛町の状況。は、敗戦後の1947年(昭和22)撮影の近衛町。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された双子ケヤキ。落雷した西側ケヤキに、枝葉の勢いがなく枯死しかけているのがわかる。中左は、下落合1丁目492番地にある日本聖書神学校Click!の寮内に住んでいた堀潔Click!の描く双子のケヤキと目白ヶ丘教会(制作年不詳)。中右は、2006年(平成18)に出版された“落合の昔を語る集い”の文集『私たちの下落合』。は、村瀬邸の向かいに位置する目白ヶ丘教会牧師館(近衛町35号)の現状。
おまけ
 上から下へM69集束焼夷弾、250キロ爆弾(不発弾)、1トン爆弾。焼夷弾と250キロ爆弾はおもに住宅街へ投下されたが、1トン爆弾は工業地帯の空襲に用いられた。なお、下落合では焼夷弾からバラまかれた六角形の燃え殻を、花立てClick!にされていたお宅もあった。
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小石川駕籠町から下落合への目白ヶ丘教会。

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 先日、目白ヶ丘教会Click!の牧師・野口哲哉様にお声がけいただき、同教会の100周年記念で出版された資料類などをいただいた。当日は教会開放の「オープンチャーチ」の日で、模擬店なども出てたいへん賑やかだったが、所用があったのでうしろ髪を引かれながら目白駅へと向かった。ずいぶん以前、遠藤新Click!設計による教会内部を拝見させていただいたが、資料を拝見すると古賀公一牧師の時代だったろうか。
 目白ヶ丘教会の前身は、1911年(明治44)に小石川区(現・文京区の一部)西原町39番地の民家で小石川バプテスト教会(のち日本バプテスト小石川教会)として誕生している。1921年(大正10)に小石川区駕籠町58番地に会堂用の敷地を確保すると、教会堂や幼稚園舎、宣教師館、牧師館、学舎(寄宿舎)などを建設している。関東大震災Click!をへて、戦時色が強まるキナ臭い昭和期に入ると言論・出版・集会の自由がなくなり、各地のキリスト教会と同様に、小石川教会も当局からさまざまな圧力や嫌がらせを受けることになった。1941年(昭和16)に、全国のキリスト教会が再編されると、日本バプテスト小石川教会はカタカナなしの日本基督教団小石川駕籠町教会へと改名している(させられている)。
 日米戦がはじまると、駕籠町の教会に隣接していた理化学研究所より、兵器増産のために教会敷地を提供するよう迫られている。教会は個人の所有物ではないので、代替地を用意してくれればすぐに移転すると回答したが、移転の話が進まないうちに理化学研究所側は教会敷地へ侵入し、勝手に学舎(寄宿舎)などを占拠しはじめている。しばらくすると、同教会へ特高Click!がやってきて、さっそく恫喝をはじめた。
 その様子を、2013年(平成25)に日本バプテストキリスト教 目白ヶ丘教会から出版された、『宣教100周年記念文集』収録の熊野すま子「思い出すままに」より。
  
 ある日、特高という名の厳しい目つきの人が玄関に現れて、「一日も早く、家を理研に明け渡しなさい」と言いました。「私個人の者(ママ:物)ではない土地と家なのですが、こうした時だから替わりをくだされば引っ越します」と申しますと、「この国賊め、国の命令に従わん奴!」等と、大変な罵詈雑言でした。ところが、急に声をやわらげての「あんたには骨折り料として幾らか貰ってあげる」云々に、今度は熊野(清樹牧師)が声を厳しく「何と言うことですか、そんな不正なことをする人々を取り締まる役があなたの仕事でしょう。わかりました。私の兄の親友で、海軍少将の人が海軍省におられるので、早速訪ねて、相談してきます」と申しますと、急に態度が代わり、「理研と話し合ってきます」と言って立ち去りました。熊野は、早速、海軍省に出かけて、面会を申し込み、幸いお会いして話をする事が出来、「そんなことを国から命令することはない」と伺って、安心して帰宅しました。(カッコ内引用者註)
  
 このあと、熊野夫妻は教会の移転先を探して東京各地を歩きまわるが、最終的には目白駅も近い近衛町35号Click!、すなわち下落合1丁目415番地に建っていた旧・今井清七邸に落ち着くことになった。移転は、戦時下なのでトラックが手配できず、引っ越し荷物を牛車に載せては何度も往復しながら、駕籠町から淀橋区(現・新宿区の一部)下落合へと運んでいる。移転作業は1944年(昭和19)4月7日にスタートし、4月17日にようやく作業が終了するなど10日間もかかった。この近衛町の今井清七について、1932年(昭和7)に刊行された『落合町誌』Click!(落合町誌刊行会)では、次のように紹介されている。
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 今井商店/今井醸造(株)取締役 今井清七  下落合四七五(ママ:四一五)
 新潟県人今井武七氏の三男にして明治十七年十一月を以て出生、昭和四年家督を相続す、先是明治四十一年長崎高等商業学校を卒業し爾来前掲各会社を主宰す、家庭夫人タイ子は同県人師尾市太郎氏の長女である。
  
 今井商店が起こした会社で、もっとも有名なのは北海道出身の方ならピンとくる、道内各地のデパート丸井今井だろう。『落合町誌』には今井清七しか収録されていないが、同邸には父親の今井武七もいっしょに住んでいた。邸内には蔵があり、室内の窓にはステンドグラスがいくつか用いられた、近衛町でもオシャレな洋館だった。ちなみに、同邸は以前から拙記事で詳しくご紹介してきた、あめりか屋Click!がライト風に設計・施工した杉卯七邸Click!(近衛町33号)の南隣りにあたる敷地だ。
 熊野夫妻は、ようやく下落合に落ち着き旧・今井邸を教会堂および牧師館とし、当初の教会名を「日本基督教団目白近衛町教会」と名づけている。だが、敗色が濃い新年を迎えると、二度にわたる山手大空襲Click!の日々が迫っていた。1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲では、目白駅Click!と目白通り沿いが爆撃され、同年5月17日に米軍の偵察機F13Click!が撮影した空中写真を参照すると、当時の教会位置(旧・今井邸)から北へ4軒めまで、延焼が迫っていた様子を確認できる。また、北北西側では近衛町通りをはさみ、現在の目白ヶ丘教会が建っている敷地手前まで全焼している。このとき、M69集束焼夷弾Click!の1発が教会の庭に落ちたが不発弾だったらしく、現在でも庭に埋まったままだという。
 二度にわたる山手大空襲Click!の様子を、前出の『宣教100周年記念文集』に収録された、村瀬泰雄「目白ヶ丘教会の思い出」より、少し引用してみよう。
  
 一九四五年四月の空襲も五月の空襲も熊野先生、奥様、順子さんと共に燃え盛る炎を防空頭巾の頭から水をかぶり衣服に引火するのを防ぎながら逃げ歩いた鮮明な記憶がございます。幸い二度の空襲で十軒ばかり焼け残った中に牧師館も拙宅も入りました。周囲は全部丸焼です。四月の空襲で現在の教会近くの道路上の大きな家や欅の横のお宅に二百五十キロ爆弾が落ち、その爆風で一メートル四方もある大きな庭石が牧師館に飛んできて屋根を破り床まで落ちたそうです。拙宅にも機関銃の弾や焼夷弾が落ちましたが幸い不発でした。
  
 上記の文中で、「欅の横のお宅」とは大きな旧・藤田本邸Click!の南隣り、下落合1丁目417番地の深田謙介邸のことで、空襲では旧・藤田本邸寄りの北側に250キロ爆弾が直撃し、留守居をしていた女中さんがひとり爆死している。また、深田邸の2軒西隣りにあたる1923年(大正12)築の藤田孝様Click!の和洋折衷館は、強烈な爆風を受けたにもかかわらず大きな被害がなかったとうかがっている。なお、上記の同じ著者による空襲のより詳しい資料も、野口牧師よりいただいているので、次回にでも再度詳細な記事を書いてみたい。
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 敗戦直後から、目白ヶ丘教会は活動を再開している。日本基督教団を離脱した目白ヶ丘教会は、1949年(昭和24)に総会を開き日本バプテスト連盟に加盟することを決議した。また、このころから手狭になった旧・今井邸を牧師館とし、本格的な教会堂を建設する計画が始動している。1949年(昭和24)12月に、下落合1丁目416番地の敷地が用意でき、同年12月18日には起工式が行われている。敷地面積が442.3坪、会堂建坪1階が91.3坪、2階が13.5坪、延べ面積が104.8坪という設計計画だった。また、会堂とは別に教育館71.6坪も同時に建設されている。
 同教会堂を設計したのは、F.L.ライトClick!の弟子のひとり遠藤新Click!だった。鹿島建設が工事を手がけ、総経費が約1.180万円(現代の価値換算で1億円弱)ほどかかったという。その費用を捻出するため、米国からの献金のほか日本バプテスト連盟からの借入金、教会員からの寄付などがあてられた。それでも足りないため、徳川義親邸Click!の講堂を借りて音楽会を開催し、その収益金を建築費にまわしている。
 教会堂の工事中、設計監理にやってきた遠藤新に会った人物の証言が残っている。同じく、『宣教100周年記念文集』に収録された伊藤信夫「思いだすままに」より。
  
 一九五〇年のある日建築中の教会の写真を撮っていると、人力車で建築設計者の遠藤新さんが来られました。早速建築中の会堂をバックに写真撮影をお願いした処、快く応じて下さり、付いて来た方が新さんの服装を整え、後ろに下がって行かれました。後で分かった事ですが、この付き人は、新教育館を設計した新さんの次男の遠藤楽さんだったのです。遠藤新さん、楽さん、後に教育館建設委員となる私と三人で一緒に写真になっていたら面白かった、と新教育(ママ:館)建築中に遠藤楽さんとお話しをしました。
  
 この拙記事では、目白ヶ丘教会堂を建築中のモノクロ写真×2葉を掲載しているが、いずれも上記の著者が撮影したものだ。会堂の竣工後、教会の名称は「日本バプテスト基督教 目白ヶ丘教会」に変更されたが、ほどなく「基督」が読みにくいということで「キリスト」とカタカナ表記にして現在にいたっている。なお、設計者の遠藤新は、翌1951年(昭和26)6月に心臓病で死去しており、自身が設計した目白ヶ丘教会で初の葬儀が行われている。
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 教会堂が竣工するまで、バプテスマ(浸礼・洗礼)用のプールがなかったため、多摩川や丹沢山塊の渓流でバプテスマ式が行われている。教会堂が完成する少し前、1950年(昭和25)3月には積雪の丹沢山塊Click!を流れる渓流で行われたらしいが、まるで深山で行われる山伏の荒行と変わらない。雪中行軍Click!ならぬ雪中バプテスマで、「天は我々を……」と風邪を引かれた方がいなかったかどうか、ちょっと心配だ。w ともあれ、メリー・クリスマス!

◆写真上:1950年(昭和25)に撮影された、下落合に建設中の目白ヶ丘教会。
◆写真中上は、移転前の駕籠町にあった目白バプテスト小石川教会。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる今井邸。中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる目白ヶ丘教会。下左は、2012年(平成24)刊行の『目白ヶ丘教会宣教100年記念誌』。下右は、2013年(平成25)刊行の『宣教100周年記念文集』。
◆写真中下は、F.L.ライトとともに写る遠藤新(左から2人目)。は、目白ヶ丘教会堂と教育館の平面図。は、建築中の目白ヶ丘教会と設計者・遠藤新。
◆写真下は、1950年(昭和25)の竣工直後に撮影された目白ヶ丘教会。は、目白ヶ丘教会堂の現状。は、旧・今井清七邸の跡に建つ目白ヶ丘教会牧師館の現状。
おまけ
 今年は暖かいのだろう、下落合の森のモミジは多くが色づかずに青いままだ。
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ダット乗合自動車の停留所1935年。

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 以前、1937年(昭和12)現在の、目白通りを走る東京環状乗合自動車Click!停留所Click!や、小滝橋通りから聖母坂上の終点「椎名町」へと通う関東乗合自動車Click!の停留所について記事にしたことがあった。この時代に、目白通りを走っていたのは東環乗合自動車だが、その少し前、合資会社ダット自動車商会が走らせていた、ダット乗合自動車Click!時代の各停留所名が判明したので、その様子を記事にしてみたい。
 今日、バスの停留所名が変わるのは、ルート変更などよほどのことがない限りまれだが、当時は個人経営の私設バスClick!が企業に買収されたり、バス停の名前にしていた施設や店舗が移転したり消滅したりするので、バス停名は頻繁に変更されている。1935年(昭和10)に、帝国鉄道協会から発行された東京府内の乗合自動車路線一覧を参照すると、目白駅から練馬へと向かうダット乗合自動車のバス停名がわかって興味深い。同年は、(合)ダット自動車商会が王子環状乗合自動車(のち東京環状乗合自動車)に買収される直前であり、ダット乗合自動車が運行されていた時代の、最後の停留所名ということになる。
 たとえば、起点である目白駅前を出発した東環乗合自動車は、1937年(昭和12)に目白通りを走ると、目白駅前-貯金銀行前-家庭組合前-落合交番前-東京パン前-郵便局前-中央薬局-椎名町百貨店前-椎名町-松竹館前-青物市場前-五郎窪車庫前-海上グランド前-東長崎……と停車していった。ところが、大正期から運行をつづけてきたダット乗合自動車は1935年(昭和10)現在で、目白駅前-聖公会前-落合交番前-水道部出張所前-郵便局前-中央薬局前-ライオンガレーヂ前-椎名町-松竹館前-青物市場前-海上グランド前-南町交番前-東長崎……という順番で停車している。
 かなりバス停の名称が変わっているが、おそらくバス停の場所はその名称から、同じ位置で動いていないとみられる。ただし、ダット乗合自動車時代には存在した「聖公会前」が、東環乗合自動車時代に変わるとなくなり、代わりに「貯蓄銀行前-家庭組合前」とふたつの停留所に増えている。これは、大正末から昭和初期になると目白駅西側の商業地域が急速に発達し(それ以前は高田四ッ家~雑司ヶ谷界隈が高田町の商業中心地)、金融機関がこぞって駅前に進出しビルを建てはじめたからで、目白聖公会Click!手前の商店街つづきにもうひとつバス停を増やす需要が生じたためとみられる。また、落合家庭購買組合Click!目白中学校Click!の跡地へ開設されており、このころから同中学校跡地Click!の開発(宅地化)が本格化しているからだろう。
 また、ダット乗合自動車時代には東京府の「水道部出張所前」だった停留所が、東環乗合自動車時代では池袋に大きな工場があった東京パン株式会社Click!の提携店舗である「東京パン前」へ、ダット時代には拙記事でもご紹介済みの河合鑛Click!が経営していた「ライオンガレーヂ前」から、東環時代には昭和に入って早々に公設市場Click!としてスタートした椎名町百貨店Click!が開設されたので、「椎名町百貨店前」へと停留所名が変更されている。また、大正期の落合府営住宅Click!目白文化村Click!の開設から、同様に商店街が急速に発達した長崎バス通り(現・南長崎通り)沿いには、ダット時代の「青物市場前-海上グランド前」の間に、東環時代は「五郎窪車庫前」停留所が新設されている。
 目白駅の東側、大正期から川合清次郎が個人運営していた目白駅-江戸川橋間の乗合自動車が、1930年(昭和5)にダット自動車商会に吸収されダット乗合自動車が走りはじめると、新たな停留所が設置されている。当時の目白駅から東京市街へと抜けるには、東京市電が通う江戸川橋または早稲田へと出るのが短絡で効率的だった。
 また、ダット乗合自動車は川合清次郎の私設バスを買収すると、今日の都バス白61系統のように、江戸川橋から練馬まで一気通貫で乗合自動車を走らせてはいない。あくまでも起点は目白駅前であり、目白駅前-練馬駅前(-豊島園)の路線と、目白駅前-江戸川橋の路線をそれぞれ別々に運行している。つまり、目白駅前停留所は両路線の中継点として存在していた。これは、当時の傾斜がきつい新目白坂を上るには、かなり馬力のでる乗合自動車が必要だったが、目白駅から西側はそれほどの急坂はなく相対的に平坦だったので、路線によって乗合自動車の車種を変えていたのかもしれない。
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 さて、1935年(昭和10)現在のダット乗合自動車が走った目白駅前-江戸川橋間のバス停名をたどってみると、目白駅前-学習院前-目白警察前-千登世橋-鬼子母神前-高田本町-豊川町-女子大前-細川邸通用門-高田老松町-胸突坂-関口台町-音羽九丁目-江戸川橋……という順序だ。今日の都バス白61系統に比べ、やたらバス停が多く細かいことに気づくが、当時は高田本町や雑司ヶ谷、目白台、音羽地域の市街地化が進み、今日と大差ないような住宅街が形成されており、東京市電の江戸川橋電停へ出るために乗降客も多かったとみられる。通勤・通学者が東京市街地から江戸川橋で市電を降り、そこから目白山Click!を上って丘上の目白台や雑司ヶ谷、高田方面へと抜けるには、かなりの体力を要しただろうから、ダット乗合自動車の運行は朗報だったにちがいない。
 ちなみに、今日の都バス白61系統の停留所を目白駅前から挙げると、目白駅前-目白警察署前-鬼子母神前-高田一丁目-日本女子大前-目白台三丁目-ホテル椿山荘東京前-江戸川橋と、8停留所しか存在しない。戦前の14停留所に比べればおよそ半減となっている。ちょっと横道へそれるが、現在の都バスに乗ると「鬼子母神前」の社内アナウンスが、「きし<ぼ>じんまえ」と訛って流されている。標準語Click!の影響からか、あるいは戦後になってそう読めなくなった人たちが増えたものか、江戸東京の鬼子母神は下谷Click!も雑司ヶ谷も同様で、豊島区の各種資料がわざわざルビをふっているように、500年前から「きしもじん」なので都バスのアナウンスも、ぜひ訂正してほしい。
 ついでに、1935年(昭和10)当時の目白駅前から西へつづくダット乗合自動車のバス停も、終点までご紹介しておこう。目白駅前-聖公会前-落合交番前-水道部出張所前-郵便局前-中央薬局前-ライオンガレーヂ前-椎名町-松竹館前-青物市場前-海上グランド前-南町交番前-東長崎-水道局-江古田市場前-二又-武蔵高等学校前-三枚橋-練馬駅前-城南住宅地-豊島園前……という順番だった。この中で、太田道灌Click!江戸城Click!(1457年築)と同じ1400年代に築城されたとみられる、豊島城(練馬城)=豊島園Click!の南側に位置する1924年(大正13)に開発された城南住宅地Click!にも、住宅が増加したのかバス停が設置されていた様子がわかる。
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 今日の都バス白61系統も、だいたい同じような道筋を走っているが、バス停の名称はずいぶん変わっている。目白駅前-下落合三丁目-下落合四丁目-聖母病院入口-目白五丁目-南長崎二丁目-落合南長崎駅前-南長崎五丁目-江原町中野通り-江原町一丁目-新江古田駅前-南長崎三丁目-東長崎駅通り-南長崎六丁目-練馬総合病院入口-江古田二又-武蔵大学前-練馬車庫前-桜台駅前-練馬駅前……。バス停の数は20停留所で同じだが、大きく異なるのは現在の都バスのルートが途中で長崎バス通り(南長崎通り)と十三間通りClick!(西落合1丁目の交差点から新目白通り→目白通り)とに分かれる点だろう。
 練馬から江戸川橋まで走る東環乗合自動車は、その後、さらに路線を延長し、ついには新橋駅まで乗り入れることに成功している。その様子を、1954年(昭和29)に東洋書館から出版された三鬼陽之助『五藤慶太伝』から、少しだけ引用してみよう。
  
 昭和九年三月、東京高速鉄道が設立され、彼(五藤慶太)がその常務取締役として建設に当っていた頃、河西豊太郎がもっていた資本金二百万円の東京環状乗合自動車、通称「黄バス」といって市民に親しまれていたが、これが、椎名町から省線目白駅、女子大学前、音羽通り、江戸川橋、牛込柳町、佐内町(ママ:牛込左内町)から市ヶ谷見附に出て麹町平河町を経、議事堂横を通って新橋駅に至る営業をなしていた。当時としては、いわゆる市内乗入線でもなかなかいい成績を挙(ママ:上)げていた。社長は、いま山梨交通の社長をしている河西の長男の河西俊夫であった。(カッコ内引用者註)
  
 目白駅前から、江戸川橋で東京市電に乗り換えず、そのまま一気に市街地の中心部を通過して新橋駅へと出られるルートは、当時としては画期的で便利だったろう。特に、当時の繁華街だった銀座や日本橋へ向かうにはもってこいの路線だ。
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 帝国鉄道協会刊行の乗合自動車路線一覧(1935年)には、停留所とともに各停留所間の距離(単位km)や料金なども掲載されているので、当時の停留所位置を厳密に規定されたい方には参考になるだろう。わたしにはそこまでの元気がないので、どなたかにお任せしたい。

◆写真上:1941年(昭和16)撮影の目白駅前で、停留所は人が行列している駅舎左手。
◆写真中上:全国を走っていたバスいろいろ。は、1922年(大正11)撮影のフォード製とみられる乗合自動車。は、関東大震災Click!後に800台を緊急輸入したフォードT型東京市営乗合自動車。は、1927年(昭和2)撮影の乗合自動車。
◆写真中下は、1931年(昭和6)撮影と1933年(昭和8)撮影の乗合自動車。は、1935年(昭和10)現在のダット乗合自動車停留所(練馬方面)。
◆写真下は、1937年(昭和12)撮影の乗合自動車。は、1935年(昭和10)のダット乗合自動車停留所(江戸川橋方面)。は、1936年(昭和11)撮影の鉄道省営乗合自動車。
おまけ
 家の知人より、高原に生えるめずらしいハックルベリーの砂糖煮をいただいた。外見はブルーベリーに似ているが、大きさも風味もかなり異なり酸味がやや強い。これはチェリーパイと同様、パイにはぴったりな素材なのでクリスマスにでもこしらえてみようかな。
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戦後はまったく忘れられた洋画家・村田丹下。

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 戦後は、軍部へ意志的に協力しなかった、または協力に消極的だった画家や、特高Click!あるいは憲兵隊Click!によりその反戦的な表現で、監獄に打(ぶ)ち込まれていた画家たちから激しい批判を浴び、その名が忘れ去られた洋画家に村田丹下がいる。村田丹下は、1936年(昭和11)10月から下落合1丁目501番地に住んでいた。
 村田丹下が激しい批判を浴びたのは、政府や軍部からの執拗な圧力、あるいは画材配給を止めるなどの脅迫で、やむをえず協力したというような消極姿勢ではなく、当初から積極的かつ主体的に軍国主義思想と侵略戦争に共鳴し、軍部との密接な関係を先頭に立って構築していったからだ。当時は日本の植民地だった朝鮮半島や台湾、「満洲」への植民政策と連動し、日本植民通信社や海外社を通じて絵画や随筆による植民促進の「広報活動」を展開するという、のちの敗戦とともに国家の滅亡と「亡国」状況の招来へ加担した最前線の位置にいた画家だったからだ。しまいには、1942年(昭和17)に当時首相だった東條英機Click!の肖像画を制作するなど、その政治思想を直截的に反映した仕事(美術的ではなく)や、「亡国」思想を体現する一貫した活動を展開していたからだろう。
 だが、村田丹下が取り組んだもうひとつの側面として、北海道の大雪山系あるいは層雲峡などをテーマに、さまざまな広報・宣伝活動を行ったことでも、特に地元の北海道では知られていたようだ。この宣伝活動は、彼が南米や中国の「満洲」あるいは朝鮮半島・台湾などで、植民地への移民を促進するために行った宣伝手法を応用した、観光客や登山家などの誘致活動ともいえるべきもので、美術はもちろん文学や音楽など当時のメディアを総動員した、一大PR活動であり観光誘致のプロモーションだった。
 村田は、当時の流行作家や音楽家などを招いては、大雪山系と周辺域をみずから案内してまわり、その景観を小説や随筆に、あるいは歌や音楽に取りあげてもらおうと企画している。同時に、自身は大雪山界隈の風景画を多作し、多くの人々の目にとまるようアピールしつづけた。中でも有名なエピソードは、野口雨情を層雲峡に案内し、いまでも語り草になっているらしい『層雲峡小唄』をつくらせたことだろうか。
 これほど大雪山系+層雲峡の宣伝に熱心な村田丹下だが、彼は北海道の生まれではない。1896年(明治29)に、岩手県磐井郡花泉町で生まれた彼は、1906年(明治39)の10歳のとき北海道旭川町へと移住している。18歳で東京へとやってきて、和田英作Click!満谷国四郎Click!に師事して画家をめざしている。1924年(大正13)に朝鮮旅行をし、現地の京成日報社の協力で個展を開くなど、このころから植民地への興味が湧いていたものか、「植民地通信」のようなエッセイを書きはじめている。1925年(大正14)になると南半球旅行に出発し、特に日本人移民が多かった南米に長く滞在しているようだ。
 1926年(大正15)に帰国後、北海道を訪れる機会が増えたものか、大雪山系や旭川の層雲峡をモチーフにした作品を描きはじめている。北海道への観光誘致(入植誘致も含む?)に、注力しはじめたのもこのころからだ。1930年(昭和5)には、野口雨情を招き大雪山系の雄大な景色や、層雲峡から黒岳を案内して「黒岳石室」に宿泊させたりしている。また、同年には台湾へ旅行し、朝鮮につづき同地でも個展を開催している。
 話が前後するが南米からの帰国後、村田丹下が住んでいたのは1927年(昭和2)現在で赤坂区丹後町103番地(現・港区赤坂4丁目)で、ほどなく小石川区宮下町22番地(現・文京区千石3~4丁目)に転居している。この住居も短く、1933年(昭和8)には豊島区巣鴨3丁目27番地(現・北大塚2丁目)へと転居しているが、ここも2年余しか住んでおらず、すぐに戦前の最終的な住居となる淀橋区下落合1丁目501番地(現・下落合3丁目)に引っ越してきている。
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 このころの村田丹下の芸術観……というよりは、彼の政治思想あるいは社会思想をよく表した文章が残っている。1939年(昭和14)に詩と美術社から出版された「詩と美術」12月号に掲載された、村田丹下によるエッセイ『思ひ出す儘に』から少し引用してみよう。
  
 此の時に当たり、文壇の一流どこころ(ママ)の諸氏に依つて、「文芸報国」なる新団体が過般満ビルアジアで結成された。明皇紀二千六百年建国祭を期して、文芸道に一転機を齎さうとしてゐる。現に可成り文壇各層の人々が、時局物を紹介され国策線に添へる仕事をして来たのだが、更に力強く、層一層現文壇界に傑出した新時流の文芸を造り出さうと努めつゝあるのは誠に時宜を得た企てなりと微笑ましく思ふのである。/翻つて我が画壇にも、文壇に比して遅れ走せ乍ら、「美術報国」新団体を、華々しく結成して、新時局に適応した仕事をドシドシやらかしては何うかと願ふ次第である。/最も(ママ)是迄には、事変を反映した物を、さしゑ画家や従軍作家群が社界的(ママ)に紹介に努めて来たのだが、然し実際は今後の新段階に入つて、更に一段と飛躍して報国的な依り(ママ)よい絵画を創作せねば成らぬであらふ事を痛切に希ふ者(ママ)である。
  
 なんだか、東條英機の演説草稿を読んでいるような気がしてくるが、要するに芸術は政治(軍部)、あるいはそれによってもたらされた時局(軍国主義)に徹底して隷属しなければならぬという、古くからの独裁国家で繰り返されたプロパガンダを改めて唱えているわけだ。いまの若い子たちにもわかりやすくいえば、現代の中国や北朝鮮における芸術全般の表現環境といえば、およそ理解が早いだろうか。裏返せば、政府や時局に反する表現や作品を創造した芸術家は、発表機会をなくすか配給を止められるか、さらには検挙されて拷問・起訴のうえ監獄へ放りこまれてもしかたがない……ということだ。
 このころから、村田丹下は洋画の画壇では中堅画家としての地位が定着したものか、あるいは当局や軍部の肝いりかは不明だが、国内の個展でも多くの観客を呼べるようになっていく。1938年(昭和13)には、日本橋白木屋Click!(のち日本橋東急百貨店)で「リオデジャネイロ風景画」展を開催している。そして翌1940年(昭和15)になると、みずから率先して従軍画家を志願し中国へ「出征」している。また、個展も国内各地で開催し、東京だけでも丸ビルや三越、銀座「村の茶屋」などが発表の舞台となっている。
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 1941年(昭和16)になると、政府や軍部主導の文化翼賛会に参画し、また在京岩手文化促進会の発足を主導している。同時に、「満洲」の新京では関東軍の肝いりで「日満支親善風景画」展を開催。そして、中国への「出征」からもどった翌1942年(昭和17)には、首相だった東條英機の肖像画を制作している。
 さて、この時期に住んでいた下落合1丁目501番地の村田丹下アトリエは、目白福音教会Click!の東に隣接する区画の住宅だった。自身のアトリエとして、古家を解体し下落合へ新築したものか、それとも一般の住宅(貸家?)を借りたものかはさだかでないが、空中写真で上空から見るかぎりは、屋敷林に囲まれた洋館仕様だったようだ。目白通りから、路地を少し南へ入ったところの右手(西側)に建っていたアトリエで、同アトリエの前からこの路地を道なりに140mほど南へ歩いていくと、中村彝アトリエClick!(当時は鈴木誠アトリエClick!)の前にでて、林泉園Click!への谷戸へと突きあたる。
 村田丹下が、なぜ目白通り沿いのこの位置にアトリエを設定したかは不明だが、恩師だった満谷国四郎Click!を訪ねる際にでも、下落合の街並みになじみができたのだろうか。だが、彼が下落合に転居してきたのは、満谷国四郎Click!が死去した1936年(昭和11)7月から3ヶ月後の、同年10月のことだった。それとも、画家のアトリエが集中していた当時の下落合へ、自身もアトリエをかまえたくなったという単純な理由からだろうか。けれども、画家同士が緊密に交流していた下落合の町内だが、村田丹下の影はきわめて薄い。これまで調べてきた、各時代を通じての多種多様な地元に関する資料にも、「下落合の村田丹下アトリエ」というワードは一度も見かけなかった。
 外地(日本の植民地)や北海道旭川、岩手などへ、しじゅう出かけていた村田丹下は、下落合に住んだ数多くの画家たちには、きわめて影の薄い印象しか与えなかったものだろうか。それとも、芸術至上主義やプロレタリア美術の関係者が多かった落合地域では、政府と密着した軍国主義思想をもつ彼の存在は、周囲の画家たちからことさら忌避され煙たがられて、あるいは強い反感をかい、意識的にオミットされて語り継がれることがなかったのかもしれない。北海道の旭川新聞社にいた、池袋モンパルナスの小熊秀雄Click!流にいえば、「死んでも溶けることを欲しない」(『夜の床の歌』)と、村田丹下は死んでも反抗・抵抗Click!してやりたくなるような人物だったように映る。
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 1945年(昭和20)4月13日夜半の、鉄道駅や幹線道路沿いをねらった第1次山手空襲Click!で、目白通り沿いの村田丹下アトリエは廃塵に帰した。敗戦とともに東京を離れ、岩手県で山岳風景画家あるいは静物画家として制作活動をつづけ、北海道の大雪山系の風景も盛んに描いている。敗戦直後の1947年(昭和22)には、なにごともなかったかのように一関町の福原デパート(現・ふくはら)で個展を開催。1975年(昭和50)には、花巻町から文化功労者として表彰されているようだ。戦争で文化財を破壊し国家滅亡へ扶翼した「亡国」論者が、なぜ「文化功労者」なのかまったく意味不明で理解不能だが、再び東京にもアトリエをかまえたようで、1982年(昭和57)に死去するまで世田谷区代田2丁目883番地に住んでいた。

◆写真上:下落合1丁目501番地、目白通り沿いの村田丹下アトリエ跡(右手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)に制作された村田丹下のイラスト『セレナード』。中上は、1929年(昭和4)制作の村田丹下『静物』。中下は、1929年(昭和4)にエッセイに添えられた同『朝鮮風景』。は、戦前の制作とみられる同『室蘭』。
◆写真中下は、1930年(昭和5)に野口雨情(右)を層雲峡から黒岳石室に案内した村田丹下(左)。中上、戦後の1960年(昭和35)に制作された村田丹下『静物』。中下は、戦後の同『大雪山黒岳』(制作年不詳)。は、同『大雪山』(制作年不詳)。
◆写真下は、昭和初期の村田丹下()と晩年()。中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる村田丹下アトリエ。中下は、1945年(昭和20)4月2日にF13Click!から撮影された村田アトリエ。は、1945年(昭和20)5月17日撮影の村田アトリエ。建物が残っているように見えるが、4月13日夜半の第1次山手空襲で延焼しているとみられる。