
数年前、1926年(大正15)に鉄道連隊によって西武鉄道村山線(地元や当時の新聞雑誌では通称・西武電鉄)が敷設され、翌1927年(昭和2)4月に営業が開始された際、高田馬場駅の「三段跳び」と称する事蹟を、野方町江古田1522番地の須藤家記録からご紹介していた。
1926年(大正15)の年内に、鉄道連隊(千葉鉄道第一連隊の一個大隊)は山手線の土手下まで軌条の敷設を終え、レールの敷設を追いかけるように電柱・電線やホーム、駅舎の建設が進められている。東村山から田無(実際は井荻付近か?)までの線路敷設は8日間、田無から省線(山手線)・高田馬場駅の北方200mの西側土手下までのそれは7日間の、のべ15日間=約2週間で鉄道連隊は演習を終え、1926年(大正15)の年内に千葉県の連隊本部へ帰営している。
須藤家の記録では、鉄道第一連隊の演習本部が置かれていた関係からか、東村山-田無-山手線土手までの軌条敷設は、鉄道第一連隊のみの演習ととらえているようだが、同演習は国立公文書館に残る演習関連文書によれば、1926年(大正15)秋に行われた鉄道第一連隊(千葉)と鉄道第二連隊(津田沼)による、朝鮮鉄道鎮昌線における軌条敷設合同演習の“延長戦”としてとらえられており、田無町の増田家に演習本部を設置し、東村山-田無(実際は井荻付近か?)間の軌条敷設演習を実施したのは、習志野鉄道第二連隊ではないかと想定している。
すなわち、須藤家の記録では東村山-田無-山手線土手下までの軌条敷設は、鉄道第一連隊によるのべ15日間ということになっているが、東村山-田無(鉄道第二連隊)と田無-山手線土手下(鉄道第一連隊)の敷設演習を、競うように同時進行で行ったとすれば、その半分のリードタイム(約1週間)で軌条が敷かれてしまったことになる。朝鮮鉄道の鎮昌線においても、両連隊(千葉鉄道第一連隊298名+習志野鉄道第二連隊303名)はお互い競いあうような演習形態を採用しており、それは4名の殉職者(鉄道第二連隊)を出すほどの熾烈な競争だった。鉄道連隊の演習は、他の陸軍演習と同様に実戦さながらの危険性と背中合わせだった。
1926年(大正15)の年内に軌条敷設を終えた鉄道連隊は、翌1927年(昭和2)1月13日に西武線演習で使用した“新兵器”である、笠原治長工兵曹長(鉄道第一連隊)が発明した「軌条敷設器材」の性能結果を、近衛師団長の津野一輔から陸軍大臣の宇垣一成へ提出している。この報告と申請書は、陸軍における制式採用を前提としたものでもあった。
軌条敷設を終えた西武線だが、ホームや駅舎の建設はともかく、電化(電柱・電線の建設)を終え実際に列車を運行できる状態になったのは、昨年ご紹介したように1927年(昭和2) 2月15日ではないかと思われる。これは、陸軍所沢飛行場に残された史料や記録類をまとめた、1978年(昭和52)刊行の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)に掲載された年譜中、同年2月15日の項目に「西武鉄道、東村山=高田馬場間開通」と記載されていたからだ。
つまり、西武線が乗客を乗せて走る同年4月16日の開業以前、2ヶ月も前に陸軍では西武線が「開通」したと認識しており、この2月15日から4月16日までの約2ヶ月間を利用して、陸軍は多摩湖建設のために建築資材の一大物流拠点となっていた、東村山駅の周辺に蓄積されているセメントや玉砂利などの資材を、多彩な陸軍施設のコンクリート建築計画が目白押しだった戸山ヶ原へせっせと運びこんでいたと思われるのだ。
また、西武鉄道では高田馬場駅から先の市街地へと乗り入れるため、諏訪通りの地下を貫通する地下鉄「西武線」の早稲田までの延長計画を立案していた時期でもあり、大量のセメントや砂利など建築資材の運搬は、同社の重要な優先課題でもあっただろう。
少しあとの時期になるが、西武線・高田馬場駅の南側に隣接して、建築資材をストックしておく「砂利置き場」が設置されたことも、濱田煕のイラストとともにすでにご紹介していた。落合地域の住民たちが、西武線の開業前にもかかわらず、多くの貨物列車が頻繁に往来するのを目撃して不可解に感じていたのは、まさにこの2ヶ月間の出来事だったとみられる。



もちろん、この2ヶ月間に建築資材が運ばれたのは、山手線西側の線路土手下に設置された第一高田馬場仮駅ではなく、操車場が設置され周囲の敷地に余裕があった下落合氷川社前の下落合駅だった。第一高田馬場仮駅では、旧・神田上水(1966年より神田川)をまたぐのは木製の利用客用連絡桟橋(歩道)であり、陸軍の物流トラックは通行できなかった。おそらくこの計画を踏まえたのだろう、氷川社前の下落合駅から栄通りを経由し、早稲田通りへと抜けられる田島橋は、大正末に頑丈な鉄筋コンクリート橋に架け替えられている。
さて、山手線の線路土手(西側)の第一高田馬場仮駅の様子は、省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手に沿った位置にあり、旧・神田上水をまたぐ連絡桟橋も含め、1928年(昭和3)に作成された「落合町市街図」に採取されている。また、山手線の高田馬場駅は当時のホームが短かったため、現在とは異なり早稲田通りのやや南側に位置していた。したがって、北側から連絡桟橋を下りて早稲田通りをわたれば、すぐに改札口へ入れたわけではなく、多少の距離を南へ歩いたとみられるのは当時の地図類を参照すれば明らかだ。
「高田馬場駅の三段跳び」の第一高田馬場仮駅(ホップ)、第二高田馬場仮駅(ステップ)、早稲田通りを高架でまたぎ山手線・高田馬場駅の東側に並行して乗り入れた、最終形の西武高田馬場駅(ジャンプ)のうち、第二高田馬場仮駅(ステップ)の位置のみが、その存在が短期間だったせいか明確な資料も地図も見あたらず場所がハッキリしなかった。
前回の記事では、山手線をくぐるガードが竣工すると第二高田馬場仮駅は、山手線東側に築かれた「早稲田通り手前の西武線線路土手」のどこかに設置されたと、曖昧な記述のまま終えている。ところが、親しい友人から1984年(昭和59)1月28日に発行された「練馬郷土史研究会会報/第169号」のコピーをいただいた。同会報には、以前の記事でご紹介した『江古田昨今』(中野区江古田地域センター)の執筆者と同じ、鉄道第一連隊の演習本部となった須藤家の、須藤亮作という方が文章を寄せている。同会報の「西武鉄道の開通」より、少し長いが引用してみよう。
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工事はレールが布設された方面から電柱、電線が施設され、停車場の諸設備が竣工し全線が整備されて、昭和二年三月末頃には電車の試運転が実施された。/四月十六日には待望の開通式が挙行され、乗客をのせた電車が沿線の居住者に歓迎を受けて走ったのである。/起点になる高田馬場の仮停車場は、山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田道)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後、山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し、神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通まで鉄道が布設され、仮停車場も移行された。/更に数年後には、早稲田通に陸橋が架けられ、ホームも高田馬場駅と並び、駅も構内に新設された。西武線高田馬場駅は三段飛びで定まった。後年、新宿まで延長し名実ともに西武新宿線になったのである。
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さて、山手線の線路土手(西側)の第一高田馬場仮駅の様子は、省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手に沿った位置にあり、旧・神田上水をまたぐ連絡桟橋も含め、1928年(昭和3)に作成された「落合町市街図」に採取されている。また、山手線の高田馬場駅は当時のホームが短かったため、現在とは異なり早稲田通りのやや南側に位置していた。したがって、北側から連絡桟橋を下りて早稲田通りをわたれば、すぐに改札口へ入れたわけではなく、多少の距離を南へ歩いたとみられるのは当時の地図類を参照すれば明らかだ。
「高田馬場駅の三段跳び」の第一高田馬場仮駅(ホップ)、第二高田馬場仮駅(ステップ)、早稲田通りを高架でまたぎ山手線・高田馬場駅の東側に並行して乗り入れた、最終形の西武高田馬場駅(ジャンプ)のうち、第二高田馬場仮駅(ステップ)の位置のみが、その存在が短期間だったせいか明確な資料も地図も見あたらず場所がハッキリしなかった。
前回の記事では、山手線をくぐるガードが竣工すると第二高田馬場仮駅は、山手線東側に築かれた「早稲田通り手前の西武線線路土手」のどこかに設置されたと、曖昧な記述のまま終えている。ところが、親しい友人から1984年(昭和59)1月28日に発行された「練馬郷土史研究会会報/第169号」のコピーをいただいた。同会報には、以前の記事でご紹介した『江古田昨今』(中野区江古田地域センター)の執筆者と同じ、鉄道第一連隊の演習本部となった須藤家の、須藤亮作という方が文章を寄せている。同会報の「西武鉄道の開通」より、少し長いが引用してみよう。
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工事はレールが布設された方面から電柱、電線が施設され、停車場の諸設備が竣工し全線が整備されて、昭和二年三月末頃には電車の試運転が実施された。/四月十六日には待望の開通式が挙行され、乗客をのせた電車が沿線の居住者に歓迎を受けて走ったのである。/起点になる高田馬場の仮停車場は、山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田道)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後、山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し、神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通まで鉄道が布設され、仮停車場も移行された。/更に数年後には、早稲田通に陸橋が架けられ、ホームも高田馬場駅と並び、駅も構内に新設された。西武線高田馬場駅は三段飛びで定まった。後年、新宿まで延長し名実ともに西武新宿線になったのである。
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この証言によれば、山手線をくぐるガードが竣工したあと、西武線の線路土手上に早稲田通りまでの軌条敷設は終わっていたが、同通りをまたぐ鉄橋の建設が間にあわなかったので、そのすぐ手前にあたる西武線の土手上に第二高田馬場仮駅を設置し、早稲田通りから(おそらく新設した解体しやすい木製階段を伝って)乗降させていたことがうかがえる。
わたしが前回の記事で想定していたのは、山手線のガードをくぐったすぐ先(築造中の線路土手が完成している地点)に第二高田馬場仮駅を設置し、そこから第一高田馬場仮駅と同様の木造連絡桟橋(歩道)を設けて、利用客を早稲田通りまで導いたのではないかと考えたのだが、どうやら線路土手はすでに早稲田通りまで完成しており、工事中の鉄橋直前に第二仮駅を設け、下を横切る早稲田通りへ利用客を降ろしていた、あるいは早稲田通りから仮駅へ上らせていたということらしい。早稲田通りと接続する第二仮駅の階段は、おそらく神高橋へと通じる東側の道筋ではなく、現在のTAK11ビル(線路土手の西側)に設置されていたのだろう。
もう少し「練馬郷土史研究会会報/第169号」より、須藤亮作の証言を引用してみよう。
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中野区の北部旧野方町内に次の五つの駅が設置された。新井薬師前、沼袋、野方、府立家政、鷺宮であって、現今の駅舎は開通当時の建築であるのもなつかしい。/尚、府立家政(現今都立家政)の駅名は、大正末年まで桃園町(中野三丁目)に府立家政女学校が在って下鷺宮(現今若宮)へ移建され、その名がつけられたのである。/開通当時は、1輛の電車で閑静なローカル線であったが、現今は一〇輌編成でも満員になっている。
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西武線の1両電車は、その後もしばらくつづいているが、郊外人口の急増とともに、1930年(昭和5)には高速車両が導入され、運行本数も徐々に増発されていったようだ。
わたしが前回の記事で想定していたのは、山手線のガードをくぐったすぐ先(築造中の線路土手が完成している地点)に第二高田馬場仮駅を設置し、そこから第一高田馬場仮駅と同様の木造連絡桟橋(歩道)を設けて、利用客を早稲田通りまで導いたのではないかと考えたのだが、どうやら線路土手はすでに早稲田通りまで完成しており、工事中の鉄橋直前に第二仮駅を設け、下を横切る早稲田通りへ利用客を降ろしていた、あるいは早稲田通りから仮駅へ上らせていたということらしい。早稲田通りと接続する第二仮駅の階段は、おそらく神高橋へと通じる東側の道筋ではなく、現在のTAK11ビル(線路土手の西側)に設置されていたのだろう。
もう少し「練馬郷土史研究会会報/第169号」より、須藤亮作の証言を引用してみよう。
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中野区の北部旧野方町内に次の五つの駅が設置された。新井薬師前、沼袋、野方、府立家政、鷺宮であって、現今の駅舎は開通当時の建築であるのもなつかしい。/尚、府立家政(現今都立家政)の駅名は、大正末年まで桃園町(中野三丁目)に府立家政女学校が在って下鷺宮(現今若宮)へ移建され、その名がつけられたのである。/開通当時は、1輛の電車で閑静なローカル線であったが、現今は一〇輌編成でも満員になっている。
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西武線の1両電車は、その後もしばらくつづいているが、郊外人口の急増とともに、1930年(昭和5)には高速車両が導入され、運行本数も徐々に増発されていったようだ。




須藤家の演習本部には、千葉鉄道第一連隊の少佐(大隊長)に直属の大尉が2名、副官の中尉1名に当番兵4名が常に詰めていたが、残りの200~300名の兵士はどこで仮眠や食事をとっていたのだろう? 鉄道連隊の演習はそもそも“戦闘中”が前提なので、24時間勤務の工事休みなし交代制であり、非番の兵士は敷設中の線路伝いにテントを張って大休止していたものだろうか。
◆写真上:第二高田馬場仮駅の階段があったとみられる、西武線ガードとTAK11ビル(左手)。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)作成の「落合町市街図」に描かれた山手線西側の第一高田馬場仮駅と木造の連絡桟橋。中上は、1952年(昭和27)に撮影された西武線開通前後に貨物列車をけん引したとみられる電気機関車1形1号。中下は、昭和初期に撮影された1両編成の西武線。下は、山手線西側の線路土手下にあった第一高田馬場仮駅跡。
◆写真中下:上は、西武線軌条敷設演習後の1927年(昭和2)1月13日に提出された「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる高田馬場駅「三段跳び」の様子。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる第二高田馬場仮駅跡の様子。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)導入の西武線高速車両。中上は、1950年(昭和25)前後に撮影の山手線ガードをくぐる西武線モハ311形など。中下は、1956年(昭和31)に西武新宿駅で撮影された501系モハ501などの急行電車。下は、わたしの学生時代にはおなじみだった1980年(昭和55)撮影の西武新宿線下落合駅の踏み切り(下落合駅1号)を走る401系で、背後は学徒援護会の学生会館。
★おまけ1
市街地への乗り入れを見こして、地下鉄「西武線」に設置予定の早稲田駅までがイラストに記載された、1927年(昭和2)3月発行のカラー版「西武鉄道沿線御案内」パンフレット。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)作成の「落合町市街図」に描かれた山手線西側の第一高田馬場仮駅と木造の連絡桟橋。中上は、1952年(昭和27)に撮影された西武線開通前後に貨物列車をけん引したとみられる電気機関車1形1号。中下は、昭和初期に撮影された1両編成の西武線。下は、山手線西側の線路土手下にあった第一高田馬場仮駅跡。
◆写真中下:上は、西武線軌条敷設演習後の1927年(昭和2)1月13日に提出された「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる高田馬場駅「三段跳び」の様子。下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる第二高田馬場仮駅跡の様子。
◆写真下:上は、1930年(昭和5)導入の西武線高速車両。中上は、1950年(昭和25)前後に撮影の山手線ガードをくぐる西武線モハ311形など。中下は、1956年(昭和31)に西武新宿駅で撮影された501系モハ501などの急行電車。下は、わたしの学生時代にはおなじみだった1980年(昭和55)撮影の西武新宿線下落合駅の踏み切り(下落合駅1号)を走る401系で、背後は学徒援護会の学生会館。
★おまけ1
市街地への乗り入れを見こして、地下鉄「西武線」に設置予定の早稲田駅までがイラストに記載された、1927年(昭和2)3月発行のカラー版「西武鉄道沿線御案内」パンフレット。

★おまけ2
妙正寺川をわたり西へ移動(1930年7月)した下落合駅へと向かう、1936年(昭和11)ごろ撮影された西武線のモハ500形。左手には目白変電所へと向かう、東京電燈谷村線の高圧線鉄塔が見えている。下の写真は、1971年(昭和46)に撮影された下落合駅に入線する西武新宿線の451系。

