自身の東京弁に疑いをもった曾宮一念。

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 いったい「曾宮」という苗字はめったにないらしく、曾宮一念は戦前から“同族”の姓を探して全国にアンテナを張りめぐらしていたらしい。だが、なかなか見つからず、どうやら先祖は九州の豊後か阿蘇地方にいた武家だったらしいことを確認している。
 曾宮一念が養子になる前の旧姓は「下田」だが、新聞記者だった養父の「曾宮」という姓は東京ではめずらしく、自分の親族以外の「曾宮」姓をたどっていくと、九州の阿蘇地域にたどりついたようだ。養父の実家は、豊後佐伯藩(現・大分県佐伯市)の「軽い身分の武家」で、当時でも佐伯郊外の直美村という地域には、「曾宮」姓の人たちがいくらか住んでいたようだ。曾宮一念が、自身の苗字に興味を抱いたのは、50年間で一度も同姓に出会わなかったのが理由だと、1952年(昭和27)に四季社から出版されたエッセイ集『袖の中の蜘蛛』に書いている。
 曾宮一念の家族が、日本橋浜町から大川(隅田川)の河口域に近い霊岸島へ転居したころ、茅場町にあった西洋料理屋「常盤亭」の出前持ちから、深川の木場に「曾宮」という家があることを聞いている。曾宮一念が子どものころのことだが、その時代から自身のめずらしい苗字に興味を抱きはじめていたのだろう。ただし、深川の「曾宮」は実際に確認したわけではなく、子どものことなのでそのままになってしまった。また、発音ではよく「染谷」とまちがえられたため、深川の「そみや」は「そめや」だったのではないかと回顧している。
 また、東京美術学校(現・東京藝大)時代にクラスメイトの鶴見守雄と市電に乗っていたところ、彼が曾宮をつついて向かいに座る男のことを知らせた。男は「曾宮」と書かれた黒蛇ノ目の傘を手にしており、帰ってから養父に話すと豊後佐伯の故郷に近い地方の人だろうということだった。美校を卒業して、しばらく病床にあったころ『古事記』を読んでいたら、「曾の宮」というワードに気づいた。その様子を、上記のエッセイ集に収録された『曾宮はゐないか』より引用してみよう。
  
 祖の宮なら解るが曾の字では解らない。曾といふ字は曾遊などといふ以外には使ひ方を知らない。曾根、曾我、曾田の姓を稀に見るだけである。曾の宮に就て旧師(池内宏氏)にきいたら熊襲の“そ”も阿蘇の“そ”も九州の事さ、とのことであつた。(語源的にはアイヌ語の噴烟の意の転化と後に知つたが) 古事記に出てゐると言へば、ちと物々しいけれども日向、肥後の何処かを記に出てゐる曾の宮の地と考へて、その地名が姓に用ひられたのかも知れない。
  
 曾宮一念は触れていないが、戦後に住んだ富士宮から間近に見える富士山も、「アソ・マ」「アサ・マ」(浅間)と呼ばれていた時期がある。「アソ」「アサ」は、曾宮が書いているとおり噴烟をあげる火山の意だが、「マ」は原日本語(アイヌ語に継承)で聖なる所=「聖域」を意味する名詞だ。各地に散在する浅間社は、富士信仰(富士講)からきていることにも留意したい。
 富士山は、「アソ・マ」「アサ・マ」から不二→富士へと転化したが、「浅間」をそのまま山名あるいは別称に残している山は、現在でも日本各地に見いだすことができる。したがって、九州の阿蘇にちなんだ「曾宮」さんは、中部地方から東北にかけて多い「浅間」さんと、根の深いところで同じような意味あいなのかもしれない。曾宮家に入った養子とはいえ、富士山の麓にある富士宮にアトリエをかまえたのも、偶然とはいいながら面白い符合ではないだろうか。
 その後、曾宮一念は「曾宮」姓をふたり発見している。ひとりは、熊本県から日中戦争へ従軍して戦死した一等兵曹の「曾宮某」と、1951年(昭和26)に発刊された俳句雑誌「馬酔木」12月号に、「曾宮三郎」という人の発句が掲載されたのを見つけている。曾宮一念が見たのは、同号に掲載された「文とゞくポストや萩に隠れをり/曾宮三郎」なのだろう。彼は大津在住となっているが、出身地は九州だろうと感じたので、さっそく「馬酔木」編集部の水原秋桜子にこの人物のことを問い合わせているが、返事がくる前に同エッセイの原稿締め切りがきて出版されてしまった。
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 以上の人々が、曾宮一念が50年間に発見した曾宮姓の人物のすべてだが、「曾宮」という苗字がめずらしいせいか、既述のように発音では「染谷」とまちがえられることがしばしばあった。また、郵便物の書きまちがいも多く、人偏をつけて「僧宮」だったり、土篇をつけて「増宮」だったり、よくある名前に置き換えた「曾根」だったり、會(会)と曾(曽)をまちがえて「會宮(会宮)」になっていたりと、配達される1%ほどが誤記だったようだ。特に最後の誤記は、邪馬壹国(邪馬壱国)と邪馬臺国(邪馬台国)の書きまちがい(『魏志倭人伝』)を想像してしまうが、それでも下落合623番地の曾宮アトリエには、異なる苗字の郵便物がなんとかとどいていたらしい。
 いろいろ調べたところが、結局のところ曾宮氏は九州の阿蘇山周辺で農民のちに武家をしていたか、あるいは社(やしろ)の神主でもしていた家筋であり、全国に分布する鈴木氏とは異なり、最終的には「それにしても甚だしく繁殖の悪い種族である」と結論づけている。そして、最後に電話を介した面白い“空耳”エピソードを紹介している。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 私は会社や病院や取次人のゐる家へ電話はかけない。小宮か富谷としか聞いてくれないからである。下落合に長く住んでゐたので下落合の曾宮と言つたら「さうですか」と電話が通じたので、その家へ行つて今朝電話で参上を約束したと言つても女中さんに要領を得ない。強引に主人に会つたら相撲茶屋の富屋(下落合の曾宮)と聞かされてゐた。かうなると自ら本場と称してゐる私の東京弁にも疑を持つて来る。/(廿七年一月)
  
 これは、その経緯がおおよそ想像できる。おそらく、電話を受けた女中さんは東北地方から東京へやってきたばかりで、電話で訪問を告げた曾宮一念のことを、確かに主人あるいは夫人へちゃんと伝えたはずだ。だが、その発音とイントネーションから、聞いた人には「下落合の曾宮さん」が「相撲茶屋の富屋さん」に聞こえてしまったのだ。「はて、相撲茶屋の富屋なんて知らんけどな」と、主人は不可解に首をひねっていたのだろう。
 曾宮一念は、子ども時代を大川(隅田川)も近い日本橋浜町で育っているので、その“母語”である東京方言(城)下町言葉はかなり自負をもって話していたのだろうが、どうやらこの一件のあと「取次人」のいるところへ電話しなくなるほど、自身の発音に自信がなくなってしまったらしい。
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 曾宮の故郷である日本橋浜町が出たついでに、ちょっと気になっていた長めの余談を書いてみたい。いつだったか、槇本楠郎『文化村を襲った子供』について記事にしたことがある。そこで、槇本が定義していた「ブルジョア」とは、目白文化村など新山手に住みオシャレな広い西洋館で暮らして犬を飼い、ときおりピアノの音色が近隣に響くような街角の住民たちのことだったらしく、彼らを「階級敵」とみなす槇本は、同作で「文化村」の家々を子どもたちに襲わせて、彼の「階級観」から湧きあがる怒りの溜飲を下げていたようだ。同記事では、以下のように書いていた。
  
 ちなみに、ピアノの音色をブルジョア趣味に象徴させているけれど、ピアノは乃手の習いごとや趣味一般であり、下町に流れる三味(しゃみ)の音色と同様の位置づけであることを、どうやら槇本は知らない。ましてや高級な、あるいは名うての三味一式なら、今日のアントニオ・ストラディバリと同様に、当時の家庭用ピアノよりもはるかに値段が高いことも知らないのだろう。高価な楽器=「ブルジョア趣味」と短絡的に規定するなら、当時の神田や日本橋、尾張町(のち銀座)など下町のほうが、よほど「ブルジョア」になってしまうではないか。
  
 槇本は岡山からきたので、江戸東京のことをまったく知らなかったのかもしれないが、大企業の代表取締役よりもはるかに高額な所得を得ていた商家が、上記の街々にはゴマンと存在していた。店構えは、やや繁華な通り筋にあるさして大きくない店舗でも、当時の用語でいえば「百万長者」はあちこちにいた。槇本は、立派な洋館に住んでいるから「ブルジョア」、それほど大きくない店を構えるのは「プチブル」とでも、見た目で判断していたのではないか?
 確かに勤め人や工員、労働者などを雇用する会社組織は企業家が経営しており、彼らの多くは新たに住宅地が形成された、山手線西部の内外に屋敷を建てることが多かったのだが(ただ目白文化村は学者や文化人などが主体で経営者は少数だ)、住宅の外観やピアノの音色ではなく、所得の多さで「ブルジョア」を規定するのであれば、財閥の総帥やカネ持ち華族は論外としても、住宅のサイズや生活スタイルなどで判断していたら、この城下町では大まちがいを犯すことになる。
 極度に発達した市場をもつ商業都市(江戸時代も含めて)の商人たちは、別に三つ揃えを着て一見紳士風な姿をし、わかりやすく葉巻やパイプなどくわえてはいない。基本的にはふつうの市井人と変わらない容姿(なり)で、しかもベースが商人なので横柄でも傲慢でもなく気さくで腰も低いが、所得で比べるならば圧倒的に乃手よりも、(城)下町の商人のほうが高かっただろう。
 たとえば、曾宮一念の故郷である日本橋浜町近くでいえば日本橋横山町や馬喰町界隈には、大阪の船場(せんば)と同様に戦前から繊維問屋街が形成され、大金持ちの人々が住んでいた。彼らは、最盛期にはおそらく名の知られた企業の社長よりも数倍の所得を稼いでいただろう。大磯鎌倉箱根、国府津、湯河原、新興地では軽井沢などに複数の別荘をもち(江戸期であれば本所や向島など大川の東側に拡がる田園地帯に寮=別荘を所有し)、日常勤務のある企業の経営者や取締役などよりも、よほど優雅でゆとりのある暮らしをしていた。槇本楠郎のような、この街に関する根本的な勘ちがいが(およそ欧米式のアップタウンとダウンタウンを想定するような、すなわち丘陵地=経営者街で平地=労働者街というマルクス時代のロンドン風景のような見当ちがいの錯覚が)、最近、いくつかの書籍や資料で散見されたので、改めて念のため余談として書いてみたしだい。
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 戦後になるが、野村芳太郎・監督による『女たちの庭』(松竹/1967年)という映画がある。戦前からつづく、おそらく日本橋あたりの商家を舞台にしたホームドラマだが、やはり繊維関係の仕事をなりわいにしている商店だ。店主役を小沢栄太郎が演じており、扇子を片手に開襟シャツ姿で働く店(たな)の主人なのだが、街を歩けばどこにでもいそうなヲジサンが、乃手で大きな屋敷をかまえる重役たちよりもよほど高収入と聞いたら、いまの若い子たちは信じるだろうか? でも、それが巨大市場を抱える商業が極度に発達した城下町=江戸東京の史的事実であり、浅草っ子の野村芳太郎は熟知していたらしく、商家の町娘たちの豊かで優雅な暮らしぶりをリアルに描いている。

◆写真上:風景を写生中の曾宮一念で、AIエンジンでカラー化してみた。今回の記事では、従来のモノクロ写真をすべてAIで緻密なカラー化を試みている。
◆写真中上は、1921年(大正10)4月ごろに竣工したアトリエ前に立つ曾宮一家。しばらくすると、佐伯祐三が建設中だったアトリエ内部のカラーリングの参考にと、曾宮アトリエを見学しに訪れている。(提供:江崎晴城様) は、残雪の庭に立つ曾宮一念。佐伯祐三が描いたとみられる、背後の『浅川ヘイ』の様子がよくわかる。(提供:江崎晴城様) は、1952年(昭和27)に四季社から出版された曾宮一念『袖の中の蜘蛛』の表紙()と奥付()。
◆写真中下は、1951年(昭和26)に発行された俳句雑誌「馬酔木」12月号(馬酔木発行所)で曾宮一念が見つけた同姓「曾宮三郎」の発句。は、農閑期の用水路のような場所で制作中の曾宮一念。は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『御前崎燈台』。
◆写真下は、タブローの制作中にひと息入れるアトリエの曾宮一念。は、1952年(昭和27)ごろに制作された曾宮一念『桜と海』。は、同じく1952年(昭和27)ごろに制作された『初島』。
おまけ
 1967年(昭和42)に公開された、監督・野村芳太郎による『女たちの庭』(松竹)の宣伝ポスター。わたしの感覚やイメージからすると、いかにも(城)下町の勝気肌で娘気質(かたぎ)っぽい、好きな岡田茉莉子と香山美子ふたりが出演していたので、遅ればせながら先ごろ観賞した作品のひとつ。
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納秀子は死の床の竹久夢二へショコラを贈った。

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 竹久夢二が死の床に就いていた1934年(昭和9)2月、下落合2丁目666番地に住む納三治の連れ合いだった秀子夫人より、富士見高原療養所へ見舞い品としてチョコレートがとどけられた。1月に秀子夫人のもとへとどいた夢二からのうら寂しげな手紙に応えたもので、同年2月10日の『夢二日記』(筑摩書房版)には「ショコラ 納秀子」と、とどいた品が記録されている。
 1934年(昭和9)1月29日消印の、納秀子あて竹久夢二の手紙は以下のような内容だった。
  
 東京都淀橋区下落合六六三(ママ:六六六)   納秀子様
 (印刷された富士見高原療養所へ入院した旨を知らせるあいさつの定型文) / 欲するものが少くなり/欲するものが切になり/たべるものが僅かにたのしみ (カッコ内引用者註)
  
 下落合663番地は、納邸の北側に隣接する住宅8軒の番地であり、納邸は大正期から変わらず666番地だったが、手紙は無事に秀子夫人のもとへとどけられている。
 納秀子こと旧姓・唐澤ひで(秀子)は、1895年(明治28)10月25日に芝区愛宕町2丁目6番地(現・西新橋3丁目)の家具商だった家に生まれ、愛宕山と芝増上寺にはさまれた江戸期からの繁華な街中で育った。府立第三高等女学校(現・都立駒場高校)へ進むが絵を描くのが好きで、のちに本郷本妙寺坂の女子美術学校へ転校している。さらに、女子美の在学中に演劇に惹かれ、絵画をやめて帝国劇場付属技芸学校の第3期生として入学し、1914年(大正3)11月1日に同校を卒業している。同期には香川玉夜、村田美彌子、静香八千代、四条京子の4人がいた。
 1915年(大正4)1月22日から帝劇で上演されたマチネー(昼公演)で戯曲『女同志』の花嫁「マーチン」役にはじまり、芝居『鳥目の上使(うわづかい)』の妹娘「紅梅姫」役、『良人』では姪の「りん子」役を演じたのが、唐澤秀子の帝劇初舞台となった。新劇女優としての彼女が特異な存在なのは、早くから義太夫節を鶴澤文京に、日本舞踊を水木歌若と花柳徳太郎に師事していたことだ。これは娘時代に、江戸東京育ちの慣習として通わされていた習い事とみられ、尾張町(銀座4丁目)育ちの佐伯米子の日本画や、木村荘八が晩年にいたるまでつづた三味と小唄、日本橋で育ったうちの親父の三味・清元と同質の(城)下町における一般教養だろう。したがって、西洋演劇とともに和芝居もすぐに演じられる素養や所作を、あらかじめ備えていたのではないか。
 帝国劇場付属技芸学校は、1908年(明治41)に川上貞奴が帝国女優養成所として創立しているが、帝国劇場が建設されるとともに同劇場へ経営を委譲、以降は帝劇付属技芸学校として運営されていた。唐澤秀子は、帝劇の舞台に出演するようになると、芸名を「桜井八重子」と名乗っていた。ここで竹久夢二のファンなら、すぐにもピンとくるネームだろう。夢二は、順天堂病院に結核で入院していた笠井彦乃に逢うことがかなわず、その寂しさから雰囲気や面影がどこか似ている帝劇の女優・桜井八重子へ、盛んにアプローチの手紙を書いている。
 竹久夢二と桜井八重子が初めて顔をあわせたのは、彦乃が東京の順天堂病院へ入院し、夢二がそれを追って次男の不二彦とともに東京へもどったあと、1918年(大正7)11月8日に開かれた短歌会「春草会」の“夢二帰京歓迎会”(いま風にいえば同サークルのオフミ)での席上だった。桜井八重子は、以前から夢二ともども春草会の同人で、短歌やエッセイなどを文芸誌に数多く寄稿しており、当時、彼女に冠せられたショルダーは「文学女優」となっている。確かに、1917年(大正6)に新潮社から刊行された「文章倶楽部」1月号には、岡本かの子と並んで短歌を寄せ、同年に一元社から刊行された「日本評論」8月号には、尾崎翠(当時は尾崎みどり子)とともにエッセイを寄稿している。文章表現が上手だったのは、おそらく府立第三高等女学校時代からなのだろう。
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 その歓迎会の席で、桜井八重子は「宵待草」を唄ったという資料が多いけれど、これは夢二が書いた自伝絵画小説『出帆』で演出したフィクションで、実際に彼女が唄ったのは夢二が作詞・装幀を、本居如月が作曲をしたセノオ楽譜(セノオ音楽出版)の第44番「蘭燈」だった。このときから、どこか笠井彦乃に雰囲気が似た桜井八重子に惹かれはじめ、夢二は息子とともに滞在していた本郷菊坂の菊富士ホテルから、桜井八重子あてに意味不明な手紙を頻繁に送りはじめている。春草会の歓迎会から2ヶ月半後、1919年(大正8)1月19日の手紙を引用してみよう。ちなみに、当時の桜井八重子は早稲田大学南門の斜向かい、現在の早大南門通り沿いで早稲田中学校に隣接した、豊多摩郡戸塚町下戸塚稲荷前13番地(現・新宿区戸塚町1丁目)に住んでいた。
  
 今日は好い雨です。/やさしい雨が家をめぐつて/私の床をめぐつて降つてゐます。/きつかけがなくちや床を出られないなんて、贅沢を言つたつて、/駄々をきいてくれるんじやないが、/なにしろ好い雨です。/そちらも雨が降つているのでせうか。/八重子様
  
 なんとも形容しがたい、吉屋信子が夢二から受けとった不可解で甘やかな手紙と同様、ラブレターとも近況報告とも、ひとりごとともとれる意味不明な内容だ。「本郷が雨なら、ふつう早稲田も雨降りだろ!」と、凡人が身もふたもないことをいってはいけない。なにしろ相手は抒情詩人で抒情画家の代表的な存在である夢二なので、そこは行間を深読みし、紙面裏にかくれた含意を斟酌しなければならない。入院中の笠井彦乃なら、おそらくそれを斟酌したうえで返事を書いたのではないか。ちょうど、昔なじみの島村抱月の死や、松井須磨子の自裁から10日後の手紙であり、ことさらアンニュイでペシミスティックな気分になっていたようだ。
 ところが、桜井八重子は笠井彦乃に容姿や雰囲気が似ていても、性格は反対だったようだ。本人も、1918年(大正7)に演芸画報社が実施したアンケートに「性質:勝気」と書いているように、控えめでロマンティストの彦乃とは異なり、ポジティブで頭の回転が速く行動的で明朗な性格だったらしく(学歴を見ても想像できる)、さっそく夢二親子のいる菊富士ホテルを訪ねた。そこで「あのお手紙はどういう意味ですの?」と面と向かって訊ねたかどうかは不明だが、「なにがいいたいんだろ?」とちょっと気になってときどき訪問するようになった。桜井八重子も、今日的ないい方をすればホテルに仮住まいする、父子家庭が気がかりだったのではないか。
 だが、夢二自身も遠からず、彼女が彦乃に雰囲気は似ていても、彦乃とはまったく異なる性格なのを認識したのではないか。桜井八重子は、勝ち気でサッパリとした江戸東京育ちの町娘的な性格をしており、この地方の言葉でいえば気風(きっぷ)のいい娘気質(かたぎ)だったと想像できるので、その後の夢二の手紙では、桜井八重子にどこか甘えて寄りかかるような文面へと変化しているようにも感じる。それが、死の床に就く1934年(昭和9)に書いた「欲するものが切になり/たべるものが僅かにたのしみ」という、まるで母親に「なにか美味しいものを見つくろって送ってよ」と、甘えてねだるような文面まで継承されていたのではなかろうか。もっとも夢二の言動からは、いつも女性に依存し寄りかかって生きているような姿勢を感じるのだが。
 ちょっと蛇足だが、帝劇女優の桜井八重子について本名を「納秀子」とする資料がとても多いのだけれど、竹久夢二と交流があった独身時代は「唐澤ひで(唐澤秀子)」が本名であり、納秀子は女優を引退して納三治と結婚したあと、下落合での氏名になる。
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 演芸画報社のアンケートついでに、桜井八重子の回答の一部を『現代俳優鑑』(1918年)から引用してみよう。ちなみに、彼女は当時の女優にしてはめずらしく、酒もタバコも嫌いだったようだ。
  
 身の丈:五尺一寸(約155cm)/体重:十三貫二百匁(49.5kg)/前身:女学生/煙草:喫せず/酒量:飲せず/衣類の生地と色気好:銘仙、お召類、紫が一番すき/好きな物:本をよむこと、芝居をすること、旅、絵をかくこと、おばけの話、食べ物はうなぎ、ひたしもの/嫌ひな物:人参、陽気(賑やか)なところ、自働車、足袋/両親の職業:家具商/兄弟の有無:妹一人、弟一人あり/家庭の人々:父母、自分、妹、弟 (カッコ内引用者註)
  
 好きなものは、「おばけの話」(怪談)やウナギの蒲焼きで、嫌いなものは足袋で裸足(おそらく塗り下駄を履くの)がいいと、健康な町娘の性格そのまま全開の桜井八重子に、夢二はすっかりアテが外れたのではないだろうか。アンケートからは、妹や弟からもなにかと頼りにされていそうな、「姉(ねえ)さん」の姿や雰囲気が感じられる。大人しく言葉少なに控えめで、好きな男へなよっとしなだれかかるような女性を夢想していた夢二は、早くからその見立てちがいに気づいていたように思える。夢二が彼女から、「我がまゝがすぎますよ」とでも叱られ諭されるような場面でもあったのだろうか、1919年(大正8)2月3日付けで「いつぱしの我がまゝものゝようにおもはれる私なぞは損をしてゐる」などと、母親あるいは姉に甘えるような手紙も投函している。
 さて、桜井八重子が有島武郎と知りあったのは、有島の書簡によれば1921年(大正10)4月21日の京都「宇治の会」の席上でだった。ドイツ文学の研究者で翻訳家、京都帝大講師だった成瀨無極も同席しており、「宇治の会」のメンバーは徹夜で当時の世相や文学などについて語りあったらしい。その思い出は、戦後の1956年(昭和31)に発行された「洛味」55号に、『古いアルバムを開いて』というタイトルで成瀨無極が詳細をつづっているが、このような席でも議論や話題についていける桜井八重子は、かなりの読書家で勉強熱心な「文学女優」だったのだろう。
 成瀨無極は、のちに『塔』という小説を発表し、有島武郎と桜井八重子の邂逅の様子を描いているとしているが、これは成瀨本人の思いちがいだった可能性が高い。小説『塔』は、1913年(大正2)10月に執筆され翌年に発表されているので、有島武郎と桜井八重子が知りあう8年も前の作品だ。また、桜井八重子(唐澤秀子)と知りあってからの2年間で、有島武郎はこまめに80通もの手紙を彼女あてに書いているので、それほど彼女の存在や言動が気にかかっていたのだろう。
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 ところで、下落合にあったとみられる「重役夫人」邸から盗まれた夢二屏風をめぐって、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎と、同3丁目1470番地の第三文化村のアパート「玉翠荘」に住む宮地嘉六とが関係し、ちょっとした騒動が巻き起こった事件については以前記事にしていた。この泥棒が入った「重役夫人」邸の蔵とは、下落合2丁目666番地の納邸(秀子夫人邸)のことではないか。そのことを、秀子夫人の孫にあたる澤田康治様に訊ねてみたが不明とのことだ。また、自邸の新築工事であいさつにきた納夫妻へ、画家だった東隣りの隣人が「あのな~、わし~肖像画も得意なんですわ。ヴィーナス八重子はん描かしてくれへんやろか?」と頼んだかはさだかでない。佐伯米子はもちろん、尾張町(銀座)の娘時代に帝劇で桜井八重子の芝居を観ていただろう。桜井八重子と有島武郎の邂逅と、その頻繁に交わされた往復書簡について、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大正らしいモダンな柄で、好きな紫色の銘仙を着ている桜井八重子(AI着色)。
◆写真中上は、学生時代の撮影とみられる唐澤秀子。は、1920年(大正9)撮影の帝国劇場。は、1917年(大正6)ごろ撮影の桜井八重子ブロマイド(AI着色)。いずれのAI処理でも、桜井八重子の着物は紫と判断しておりアンケートの「紫が一番すき」を裏づけているようだ。
◆写真中下は、1917年(大正6)に東京堂書店から出版された桜井八重子歌集『自画像』の内扉()と奥付()。奥付の著作者には、本名の唐澤ひでと記載されている。中上は、1918年(大正7)11月の読売新聞に掲載された春草会の作品。中下は、桜井八重子歌集『夢に咲く華』に寄せた竹久夢二の挿画「EX-LIBRIS」。ラテン語で蔵書票(ブックプレート)のこと。は、1919年(大正8)に開かれた短歌会「第3回春草会」。窪田空穂や岡本かの子、生田花世が見えるが右端でカッコよくポーズをとっているのが竹久夢二。ハレーション気味で、桜井八重子がわからない。
◆写真下は、1916年(大正5)に日本橋白木屋でショッピングを楽しむ桜井八重子(左端)と親族とみられる一行。中上は、1918年(大正7)に演芸画報社が桜井八重子へ送付したアンケートの回答。中下は、1917年(大正6)に出版された「文章倶楽部」1月号(新潮社)の広告。春草会の同人だった岡本かの子と短歌作品を寄せている。は、1917年(大正6)に出版された「日本評論」8月号(一元社)の広告。尾崎翠(当時は尾崎みどり子)の『思郷』とともに随筆『夏愁』を寄稿している。
おまけ
 佐伯祐三が、めずらしく親族以外の人物をモチーフにしたタブロー。1920~23年(大正9~12)ごろに、光徳寺の古くからの檀家で、東京へ転居した大谷家に下宿していた佐伯が同家の人々を描いたもので(おそらく1920年制作が有力だろうか)、『大谷安兵衛像』(左)と『大谷さく像』(右)。
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東京美術学校で短歌を詠む佐伯祐三。

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 佐伯祐三の一般的な年譜には、どこにも書かれていないが、彼は東京美術学校で1920年(大正9)の冬から春ごろにかけ短歌部に入部していた。短歌部には、同級生だった山田新一も所属しており、どちらかが誘って入部したのかもしれない。山田のほうが、佐伯よりも長く「校友会月報」に作品を寄せているので、誘ったのは山田新一だろうか。
 東京美術学校に創設された短歌部について、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載の、和田茂生(西洋画科)が書いた文章から引用してみよう。
  
 (前略) 短歌部は文芸部に付属した短歌練磨の機関とします。そして月々会合を催して、会員の交誼を厚くし且つ意見を交換して斯道の向上を計つてゆきたいと思つてゐます。/何分創設間もない事ですから今の所会員も少なく、此際多数の入会者を希望して居ります。有志の方は私又は他の文芸部委員に迄御申込下さい。尚会への希望或は有益なる事柄は御好意に私に御洩し願たいと望んで居ります。(和田茂生)
 ◎短歌会開催の時日場所等は生徒控所に適時掲示しますから其節は奮つて御来会下さい。
  
 この文章から、美校の短歌部は同年の初めごろより、文芸部から独立して創設されたことがわかる。上記の文章を書いている和田茂生が責任者だったようだが、大分出身の彼は美校を卒業すると、大阪で画業をはじめ装丁、漫画、グラフィックデザインなどさまざまな仕事をしている。短歌部が創設されるのとほぼ同時に、佐伯と山田は入部しているのだろう。
 佐伯祐三と山田新一が、東京美術学校でできたばかりの短歌部に所属していたのを知ったのは、つい最近のことだ。わたしがたまたま東京藝術大学が出版していた、芸術研究振興財団・編『東京藝術大学百年史./東京美術学校篇』第3巻を読んでいたとき、佐伯が『死の國』『行く年』『冬のある曇れる日』の3篇を、短歌部に寄稿していることがわかった。同書によれば、短歌部は田辺孝次と森田亀之助が主催する美術史研究会の、文芸部茶話会の席で同部の創設が決まり、短歌部委員(部長)に和田茂生が選ばれたのだという。さっそく、東京藝大の美術部卒の友人に無理をいって、佐伯が投稿した校友会月報を探していただいたところ、マイクロフィルムに記録された「東京美術学校校友会月報」第19巻第1号(1920年4月号)であることがわかった。
 佐伯祐三の短歌3篇は、それぞれ連載形式で月報に寄稿されているのではなく、「東京美術学校校友会月報」4月号のみに集中して、3篇7首が収録されていることもわかった。山田新一の作品は、その後も連続して月報に掲載されているが、佐伯祐三はこの月の号のみ掲載で、あとの月報には作品が見られない。おそらく、テキストでの内面表現が性にあわないと感じて早々にやめてしまったか、急に創作熱が冷めて飽きちゃったのではないか。
 文芸部では、ほかにも新たなサークルを次々に創設しており、音楽を鑑賞するレコードコンサートを開催したのをきっかけに蓄音器部が創設されている。蓄音器部には、音楽(クラシック)愛好家たちが集まり、美校の部活動ではかなりの人気を博したようだ。佐伯がヴァイオリンに傾倒したのも、この文芸部の一連の活動に刺激されきっかけになった可能性がある。
 もうひとつ、文芸部の顧問的な位置にいた森田亀之助と佐伯がわりと親しかったのは、単純に師弟関係のみで懇意だったわけでなく、学内の短歌部(文芸部)などのサークル活動を通じて、お互いに気心が知れ親しくなったのではないかと想定できる。佐伯祐三が下落合にアトリエ建設を決めたのも、周辺の環境や立地も含め、森田亀之助の助言があったのではないか。下落合630番地の森田亀之助邸と同666番地の佐伯アトリエは、わずか120mほどしか離れていない。
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 では、1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」4月号に収録された、佐伯祐三の短歌3篇をご紹介しよう。ちなみに、歌作は前年1919年(大正8)の暮れから新年にかけてだと思われる。
  
『死の國』
 ◇彼女(か)の母は生くる我が兒に説く如く 泣きふためきてあり死にし子の前
 ◇明るきや暗きを知らで死に行きし はかなき運命(さだめ)を我はいとしむ
 ◇佛前に並べる霊(みたま)よ安かれと 願ふ心のあつくも冷し
『行く年』
 ◇夢と思へば夢にともあれど過ぎし年 あまりに心を使ひてありき
 ◇今日この頃すぎしこの年かへり見れば 我(われ)我が身の如見えずもなりぬ
『冬のある曇れる日』
 ◇ながむればながむる程に芭蕉の葉 恐ろしきまでに冬枯れてけり
 ◇めいる如と降るや降らずの寒空を 背にして立てり淋しき冬枯れ
  
 詠まれた季節が冬のせいか、いずれも暗い情景が目に浮かぶ歌ばかりだが、画家的な観点から視覚的な作品ばかりかというとそうでもない。画面らしい光景が鮮明に浮かぶのは、『冬のある曇れる日』ぐらいだろうか。また、『死の國』などは、のちの佐伯祐三やその家族がたどった物語の結末を知っている今日から見れば、意味深長に感じてしまう歌作なのはしかたないだろう。
 1919年(大正8)は、佐伯が東京美術学校2年生(21歳)だった年で、『死の國』は冬休みに大阪の実家・光徳寺へもどった際に、子どもの葬儀でも目撃して詠んだ作品だろうか。この年、光徳寺の古くからの檀家で、東京の本郷に住んでいた大谷菊枝から、尾張町(現・銀座4丁目)の池田象牙店の娘・池田米子を紹介されている。佐伯が山田新一らへ、盛んに「ヴィーナスはん」と興奮して話していた時期と重なる。そして、『行く年』の「夢にともあれど」や「あまりに心を使ひて」、「我が身の如見えずもなりぬ」などは、その湧きあがる思いや激しい感情を顧みての作歌だろうか。
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 これら陰鬱な歌が詠まれた翌1921年(大正10)、戸山ヶ原近くの上戸塚(現・高田馬場4丁目)から本郷の弥生町へと転居するが、3月には従兄の浅見憲雄が心臓病で急死し、7月には弟の佐伯祐明が結核性肺炎で入院(翌年死去)、父親の佐伯祐哲が9月に死去、同じく9月には檀家で友人の大谷菊枝(24歳)が自裁と、新年度の校友月報に掲載された歌が、まるで予知していたかのような暗い1年となった。ただし、父親に許され11月に池田米子築地本願寺で結婚し、アトリエが竣工するまでの仮住まいとして下落合に家を借りたのが、唯一の明るいエピソードだったのではないか。周囲に、「ボク、三十三になったら死ぬねん」といいはじめたのも同年のことだ。
 同号の短歌部には、山田新一の以下の作品も1首だけだが掲載されている。
  
『かじめとり』
 ◇その磯にかじめとりつゝ人間の 貧しさ知らずすぐすよろしき
  
 どこか、前田夕暮が詠じた作品のようにも感じるが、浜辺で写生をしているとき、波に打ちあげられたカジメを採る漁師の娘でも見かけたのだろうか。なんの問題も抱えず、深い悩みもなく素朴に暮らしている人間はとても美しい……というような意味になりそうだ。翌1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号にも、山田新一は『氷雨』という題で2首の短歌を寄せている。
  
『氷雨』
 ◇口笛は人気(ひとけ)絶えたる砂浜の 潮(うしお)の音に吸はれゆくかな
 ◇思出は磯打つ浪の音ににて 寂しき胸に絶えて潮(うしお)す
  
 今度は、石川啄木風の作品だが、かなりロマンティストな彼にもなにか深い悲しい出来事があったのだろうか。浜辺で「潮す」=泣き暮れる様子は、少くとも尋常でない。あるいは、青春の想像力をふくらませた、悲劇の主人公になった疑似体験でも詠んでいるのだろうか。
 このあと、山田新一は「校友会月報」6月号に『たましひの墓』のタイトルで3首、5月に開かれた第1回短歌会の席上で1首(同6月号掲載)、6月に開かれた第2回短歌会の席上で1首(同7月号掲載)、同8月号には『ほのお』の題で4首、また10月に開かれた第3回短歌会の席上で1首(同11月号掲載)と、その後もたびたび開かれる短歌会には出席し、短歌部への作品投稿も長くつづけている。
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 山田新一の作品のほうが、直截的な佐伯祐三よりも表現にふくらみや余韻があり、こなれていて上手なのが目立つ。山田は、現代短歌(当時)について勉強したのだろう。一方の佐伯は、刹那的な激情で作歌を試みたけれど、テキストでは内面や感情をうまく表現しきれないとあきらめたか、そもそも短歌には興味がなく飽きてしまったのだろうか。また、彼の周囲の出来事を追いかければ、激動の時期ともいえる1920年(大正9)で、歌詠みどころではなかったのかもしれない。山田新一の作品群や、文芸部で大人気だったレコードコンサートについて、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1920年(大正9)ごろ、東京美術学校2~3年生のときに制作された佐伯祐三『帆船』。
◆写真中上は、1919年(大正8)ごろにコンテで描かれた佐伯祐三『自画像』。は、「東京美術学校校友会月報総目録」(東京藝術大学)に掲載された短歌部の佐伯祐三と山田新一。は、1919年(大正8)ごろにペンで描かれた佐伯祐三『自画像』。
◆写真中下は、1920年(大正9)に刊行された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載された佐伯祐三と山田新一の短歌作品。は、1920年(大正9)ごろに制作された佐伯祐三『椿』。は、1920年(大正9)に制作された同『戸山ヶ原風景』。
◆写真下は、1920年(大正9)に行われた父・佐伯祐哲の葬儀における佐伯祐三(左からふたりめ)で、右端には法衣姿の佐伯祐正が写っている。は、同年11月に築地本願寺で行われた佐伯祐三と池田米子の結婚式記念写真。は、1921年(大正10)ごろに制作された佐伯祐三『静物りんご』。

1960年代の下落合を映す家族の肖像。(下)

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 前回の記事につづき、冒頭の写真①は、どこかのデパートか遊園地のパビリオンへ遊びにいったときの記念写真だろう。1960年代後半に子ども時代を送った方なら、背後にいる怪獣が『ウルトラマン』に登場した、ウラン怪獣「ガボラ」であることはすぐにおわかりのはずだ。円谷プロダクションと連携した、ウルトラマンイベントにおける記念の1枚だろう。
 当時は怪獣ブームの真っただ中にあり、『ウルトラQ』からはじまる円谷プロが創作した怪獣や宇宙人などを、ひと目見るだけで名前や出現の経緯がいえるほどの“怪獣博士”が、少年の間で全国的に出現していた。いつか、こちらでも母親が有楽町でひどいめに遭った円谷英二のゴジラをご紹介しているけれど、近くの学習院大学を襲った『ウルトラセブン』のプロテ星人もそうだが、TVで放映されたウルトラシリーズは、映画の怪獣ブームよりもはるかに広く深く、子どもたちの間に浸透していった。そんなブームを反映してか、あちこちのデパートや遊園地では怪獣イベントが開かれ、野本家でもそんな催事のひとつに出かけたものだろう。
 また、怪獣によく似ている(いい方が逆立ちしている)恐竜ブームも、怪獣ブームとシンクロするように起きていた。東京国立科学博物館では、1964年(昭和39)に日本で初めてジュラ紀の肉食恐竜アロサウルスの全身骨格が公開され、わたしも真っ黒な恐竜標本を見学しに同年、科学博物館を訪れている。当時のアロサウルスは、少し前までタルボサウルスとマイアサウラの全身骨格標本が置かれていた、中央ホールに展示されていた。初めてアロサウルスの標本を見たとき、「ゴジラより小っちゃいじゃん」と感じたので、わたしもアタマの中が怪獣漬けだったのだろう。
 恐竜イベントでよく出かけたのは、毎年開かれる玉川園(二子玉川)の恐竜展だった。こちらは、博物館ではないので全身骨格などの展示はないが、復元された数多くの恐竜たちを見ることができた。ただ、現在のように恐竜学が未発達な時代なので、肉食恐竜はみんなゴジラのように、直立で歩いて獲物を狙っていたし、竜脚下目のディプロドクスやアパトサウルス(当時はブロントサウルス)は首を垂直に立てて歩行していた。ボートに乗って恐竜を見学するというアトラクションも記憶にあるが、これは玉川園ではなく横浜ドリームランドだったろうか。夏休みの恐竜展も楽しみだったが、もっと楽しみだったのは、もちろんお化け屋敷やスリラーショーだった。
 写真①の、キラキラしている少年たち(手前が野本直揮様)の目を見れば、当時の怪獣ブームを懐かしさとともに思いだされる、元・少年の方々も多いのではないだろうか。
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 写真②は、1963年(昭和38)9月に撮影された、下落合氷川明神社で遊ぶ子どもたちだ。場所は、その昔に「松影道」と名づけられた、同社の西端を南北に通る細道で、現在は子供たちが遊ぶ右手に舞殿(神楽殿)が建てられている。手前の石垣は、十三間通り(新目白通り)の工事の際に、通りに面した石垣も含めてリニューアルされ、現在は大粒の丸い河原石を積みあげる築垣に変わっている。正面には、やや左手(西側)にズレて七曲坂が通っており、左手には地元の建設会社で落合地域の住宅やマンションを建てていた河野建設(少し前まで営業)があり、丁字路の右手に当時は氷川社の神輿蔵(わたしは記憶にない)があったようだ。写真をよく観察すると、境内のあちこちに年齢がパラパラな近所の子どもたちが仲よく遊んでおり、当時はそれがあたりまえの時代だった。
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 写真③④⑤⑥は、1964年(昭和39)から上落合1丁目100番地で稼働をしはじめた落合下水処理場(現・落合水再生センター)に、できたばかりの「落合中央公園」で遊ぶ野本一家を記録したものだ。1965年(昭和40)6月の初夏に撮影されたもので、芝庭や花壇、テニスコートは完成していたようだが、野球場は1971年(昭和46)の時点でもまだ工事中だった。
 余談だが、当時の下落合東部では、落合中央公園を略して「落合公園」と呼ぶことが一般化していたようだ。でも落合公園は、1960年(昭和35)に下落合5丁目802番地(現・中井1丁目)にオープンしており、東部の略称「落合公園」とで多少混乱していたらしい。現在では、落合中央公園は落合を略して、単に「中央公園」と呼ばれることが多くなった。また、落合下水処理場の北側、上落合1丁目122番地で操業していた東京護謨工場がなくなり、跡地には東京都下水道局が買収して公園化した「せせらぎの里公苑」ができているので、上落合の東部(前田地区)は戦前の工場地帯から一変し、公園やスポーツ施設の多いエリアとなっている。
 写真③は、ドッジボールで遊ぶ野本家のお父様だが、同公園から南東を向いて撮影された背景には、戸塚町4丁目から3丁目にかけて(現・高田馬場3丁目)の丘陵に建てられた住宅群が写っている。1980年代以降は高いビルやマンションが急増し、写真にとらえられた戸塚地域に限らず、上落合地域でも丘陵が目立たなくなっているが、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの戸塚町側に形成された段丘地形を、ハッキリとらえためずらしい写真だ。
 写真④は、家族の背後に東京都下水道局の事務所ビルが写っており、同ビルはこれまでリフォームを繰り返し現在でも使用されている。ただし、手前の芝庭や花壇は、いまでは「ちびっこ広場」(児童遊園)や「犬の広場」(ドッグラン公園)へと衣替えしている。また、事務所ビルの左手、遠景に見えているグリーンベルトが、下落合3丁目(現・中落合)あたりの目白崖線だろう。
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 写真⑤は、同公園から南東側を向いて撮影されたもので、旧・神田上水が流れる対岸には、戸塚地域の丘陵一帯がとらえられている。また、写真⑥は公園からほぼ東を向いて撮影されたもので、旧・神田上水の対岸には集合住宅が見えている。これらは、久保前橋を戸塚町側へわたった左手(北側)、茶道会館のさらに北側に建っていた戸塚町4丁目505番地の都営アパート群だろう。現在は、新宿区営の集合住宅で高田馬場3丁目の「高田馬場コーポラス」になっている。
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 写真⑦は、辰巳橋を背景に東南東を向いて、1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。下を流れるのは、神田川と合流する直前の妙正寺川だ。辰巳橋の向こう側には、妙正寺川をわたる西武新宿線の鉄橋があるはずだが辰巳橋に隠れ、かろうじて鉄橋の橋脚のみが川の中に見えている。橋の向こう側には、戦後の工場街が拡がるが、左手(北側)が富士化成KK工場であり、中央に見える煙突の右手(南側)が旭洋印刷落合工場だろう。遠くにビル状の建物が見えているが、大世学院政治経済科および富士女子短期大学の校舎だとみられる。
 写真⑧も、1966年(昭和41)1月1日に妙正寺川の辰巳橋を写したものだが、ほぼ真東を向いてシャッターが切られている。この位置までくると、西武線の鉄橋の橋脚が、辰巳橋の下にハッキリと確認できる。野本家のお父様が歩く左手のコンクリート塀は、(株)正人刃物製作所の大きな建屋であり、新たに正面左手に見えている凸型のビル状の建屋は、屋上に干し場も備えたツバメドライクリーニング工場の一部ではないだろうか。
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 写真⑨は、下落合駅前の西ノ橋の北詰めで、同じく1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。どうやら、正月の空いている街中をお父様は散策されていたようだ。背景に見えているのは、以前の記事にも登場した「三楽ホテル」のファサードだ。独特な唐破風の屋根と赤いベンガラの手すりに、ホテルという名称のアンバランスさがなんともいえない味わいを醸しだしている。正月のせいか、軒下には紅白の幕が張りめぐらされているようだ。
 あとで知ったことだが、三楽ホテルは東京における労働組合の運動史には頻繁に登場してくる場所で、同ホテルで組合結成の決起集会が開かれたり、活動方針が話し合われる会合がもたれたり、各地の組合の代表や幹部を集めて協議会を開いたりと、労働運動では有名なホテルだったらしい。山手線からひとつめの駅で、しかも駅から徒歩1分以内という地の利がよかったせいだろう。
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 写真⑩は、十三間通りの工事計画が進捗して、立ち退く日も迫りつつあったため、野本家では下落合に新たな地所を手に入れ、自宅兼店舗を新築している風景だ。1967年(昭和42)10月12日の撮影で、背後は緑が濃い武蔵野の雑木林の名残りが見られる環境だ。現在でも、北側の風情はなんとか失われずかろうじて残っている。わたしは背後のアパートに、人がいるのを見たことがない。
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 次の写真⑪⑫は、わたしにも記憶がある。1969年(昭和44)3月4日、東京では戦後初めて気象庁から大雪警報が発令された日だ。都心(霞が関周辺)の積雪は19cmだったが、下落合では40cm近くまで積もったという。コンクリートやアスファルトで固められ交通量の多い都心と、土面が多く残る下落合との気温差が、当時はそれだけあったのだろう。わたしは、いまだ平塚にいたのだが、にわかの大雪にビックリして鮮明な記憶として残っている。相模湾の海街では、東京や横浜が降雪でも藤沢から小田原にかけては雨の場合が多い。だが、このときの降雪は半端ではなく、庭に設置していた野鳥の餌付け台の上には、20cm以上の雪が積もっていた。
 写真⑪は、同日に薬王院の門前商店街があったあたり、十三間通り(新目白通り)の工事で家屋がすべて解体された跡の空き地に立つ、野本兄弟を写したもの。背後にある小山は、工事用の土砂を堆積したものだろう。兄弟の頭上背後に見えている大きなビルは、アリミノ化学の本社ビル、左手に見えているビルは位置からすると昭光精機の本社あたりで、その背後が移転して間もない神田精養軒の本社ビル、そして遠景にうっすらと見えている鉄骨と下部が養生に覆われているように見える建築中のビルが、1964年(昭和39)ごろに移転した大黒葡萄酒(三楽オーシャン)の跡地に建てられはじめた、高層分譲アパートの高田馬場住宅(1971年ごろ入居開始)だろうか。
 写真⑫は、同じ位置から走る西武新宿線をとらえたもので、大雪の当日は東京じゅうの電車のダイヤが乱れ、間引き運転がされていた。企業も早めの帰宅をうながして、同日のラッシュアワーは午後3時ごろにピークを迎えたらしい。右端に見えているビルは、富士女子短期大学(現・東京富士大学)の校舎の一部だろうか。また、中央に見えている煙突は岡村製綿工場のあたりだ。
 最後に、わたしがのけぞってしまったのは、野本アルバムに大磯海岸での海水浴の写真が数多く貼られていたことだ。国の重要無形民俗文化財で日本では最大級のどんど焼き(せいとばれえ=左義長)が行われる、北浜海岸で撮影されたものだ。まったく同時期に、夏休みの北浜海岸ではよく泳いでいたので、わたしがどこかに写っていないかどうか、アルバムを真剣に探してしまった。
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 時代が前後するが、1963年(昭和38)8月6日に撮影された写真⑬は、渚に近い兜岩(かぶといわ)など、関東大震災で海底からより高く浮上してきた岩礁がとらえられている。わたしの子ども時代、この兜岩まで泳いでいき、そこから海面へ逆さまにダイビングするのが「ちゃんと泳げる男子」の証明だった。この砂浜の写真は、早稲田の松本順が1882年(明治15)10月に日本初の海水浴場に指定してから、今日にいたるまでほとんど変わらない情景だ。
 サーファーたちは、もちろん当時もいたのだけれど、波乗り兄ちゃん姉ちゃんたちは、北浜海岸のもう少し東のオオイソポイントか、花水川の河口域であるハナミズポイント、あるいは大磯港のある照ヶ崎から西につづく小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)の西端、血洗川の河口域であるチアライポイントあたりに集まっていて、海水浴客とはきれいに棲み分けていた。
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 写真⑭も同日の撮影だが、工事中でいまだ未開通のままの西湘バイパスが背景にとらえられている。ユーホー道路(湘南遊歩道路=国道134号線)の交通量が急増し、大磯から西へ敷設された西湘バイパスが竣工すると、浜辺に近いエリアには魚群が寄りつかなくなり、湘南海岸の地曳き網はふるわなくなって、観光用の地曳きを除き急速に衰退していった。
 現在、野本夫妻が座っている左手、大磯港の手前には津波の避難タワーが建設されている。ただし、大磯はすぐ北側に山を背負っているので、津波が到達するまで10~15分ほどの余裕があれば、海岸線から十分に山側へ避難することができるだろう。高い丘陵がなく避難タワーが随所に必要なのは、むしろ平塚から藤沢にかけての海岸線だ。1498年(明応7)に起きた、鎌倉の大仏殿を破壊しさらっていったといわれる明応大地震クラスのプレート型巨大地震(津波の高さは30mと推定されている)が起きたら、湘南海岸の全域で大きな被害が生じそうなことはいうまでもない。
                                    <了>
◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。
おまけ
 1966年(昭和41)には、西落合の目白通りから目白文化村へ十三間通りが迫っていた。安倍能成邸が、第二文化村と東側の十三間通り筋とで、2軒に分かれているのが記録されためずらしい地図。下の写真は2023年6月の梅雨どきに津波避難タワーから撮影した、引き潮でかなり露出した北浜海岸の兜岩と遠景は潮流観測所に烏帽子岩江の島、および防音壁が設置された西湘バイパス
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1960年代の下落合を映す家族の肖像。(上)

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 前回の野本直揮様よりお借りした野本アルバムの記事では、おもに1960年代前半に撮影された写真がメインだった。つづくアルバムでは、1960年代後半の情景が多い。したがって、写真にとらえられた下落合の風景も、それにしたがって徐々に変わりはじめている。
 いちばん異なっているのは、風景の中にビルあるいはマンションなど高い建築物が、ちらほら目立ちはじめていることだ。また、人々の服装がわたしにも既視感のある子ども時代の装いに変わり、上落合には1964年(昭和39)に東京都の落合下水処理場(現・落合水再生センター)が竣工して、広々とした落合中央公園やテニスコートなどが次々にオープンしている様子がわかる。だが、1970年(昭和45)の時点では野球場がまだ工事中だった。
 おそらく、当時の下水処理場と現在の水再生センターでは、下水・汚水の処理法がずいぶん異なっていると思われるが、当時は河川の水質汚染・汚濁がひどかった「公害」がピークの時代だった。今日のように、同処理場が水再生センターと名称を変え、いまやアユが棲息して毎年子どもたちの遊泳イベント(神高橋の親水テラス)も可能になった神田川をはじめ、水質が劇的に改善しつづけている渋谷川や古川、目黒川の主要な“源流”のひとつになるなど誰も想像できなかった時代だ。東京都の発表(2026年5月)によれば、多摩川の下流域だけで65万尾のアユの遡上が推定されている。ひいては東京湾の水質も改善しつづけ、現在では江戸期からつづく海苔の養殖が再開されるなど、当時の人々が聞いたら「ご冗談でしょ」としか思えないだろう。
 余談だが、新宿区にはゴミ焼却場が存在しない。新宿区で出るゴミは、豊島区をはじめ他の自治体が引き受けて焼却している。その理由は、東京都の下水処理場(水再生センター)が新宿区の落合地域に建設されたからだ。新宿区をはじめ中野区や世田谷区、渋谷区、杉並区、豊島区、練馬区から排出される下水や汚水を、落合水再生センターが一括で浄化している。したがって、東京西部の下水処理は新宿区が、その代わり新宿区のゴミは各自治体が手分けして処理する仕組みが1960年代に確立されたものだろう。このような“持ちつ持たれつ”の関係は、荒川区には水再生センターは存在するが、ゴミ焼却場が存在しないのと同じ理由からだ。
 野本アルバムには、一家が各地へ旅行する姿も記録されている。1960年代の半ばから、新幹線の開通や「マイ・カー」(自家用車のこと)の普及とともに、空前の全国的な「レジャー・ブーム」が到来している。高度経済成長のはじまりとともに、休日には遊園地や観光地が人々でごった返すようになった。また、おカネに余裕のある家庭は、1964年(昭和39)4月より海外への観光旅行が解禁されたので、香港やハワイ、台湾などへ出かける家族も少なくなかった。
 さて、冒頭の写真①から見てみよう。1965年(昭和40)1月2日に、野本糸綿店の店前で撮影された家族の集合写真だ。カラーフィルムが広く普及していった時期だが、当時のフィルムや印画紙はいまだ技術が成熟していなかったせいか、時間が経過すると変色してしまうという課題があった。わが家のアルバムに残る、1960年代のカラー写真も同様で、まるでセピア調のモノクロ写真のように変色したものが少なくない。当時のカラーポジフィルムは、たいして変色していないが、印画紙に焼きつけるネガフィルムは、技術的な課題がまだまだあったのだろう。
 写真手前の右側に立つのが、野本直揮様だ。薬王院の門前商店街には注連縄が張りめぐらされ、正月らしい松竹飾りが店舗ごとに見えている。写真②も、同日のバリエーション写真だ。枝の節痕があちこちに残る、懐かしい木製の電柱が右端に見えており、相変わらず「下落合医院」のブリキ看板が電柱に貼られているのがわかる。商家らしく、上に向けてスクスク伸びる、背の高い竹竿が店前に大きく立てられ(売上増の商売繁盛を祈念するもの)、松は竹の根もとに飾られている。
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 時代は前後するが、1962年(昭和37)に野本糸綿店を正面からとらえたのが写真③だ。空襲をまぬがれているので、戦前に建てられた東京商家の様子がわかる貴重な写真だ。戦前と異なるのは、戦後設置とみられる、店先に日陰をつくるための張りだしテント(オーニング)だろうか。店の左側には、ミゼット(オート三輪)のフロント部分が見えている。ダイハツが発売したミゼットは、国内だけで30万台以上(輸出も含めると50万台以上)も販売された同社の超ヒット車種であり、特に荷物や商品などを手軽に運べることから、全国の店舗に広く普及していった。
 そのミゼットの荷台に乗って、得意げな表情をしている子どもたちが写真④だ。ミゼットは、ちょうど野本糸綿店の向かいにあった船木精米所のもので、残念ながらカメラのピントが子どもたちにあっていない。そのおかげで、背後に写る商店街の様子が克明にとらえられている。右側の「小川硝子店」は、野本糸綿店から西へ4軒めの店舗で、その手前には魚屋の「魚緑」が店開きをしていたはずだ。小川硝子の西隣りは、1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」(住宅協会)では商店名がない「片桐」邸となっており、細い路地をはさんで「パーマミハル」の看板が出ているのが平岡美容院、そのさらに西隣りが「薬局フタバ」という順に並んでいると思われる。
 画面左手(商店街の南側)は、船木精米所の西隣りが「高橋氷店」、その隣りが「ツバメドライクリーニング」工場という順番で並んでいた。いつかの記事で、着物の需要が減るにつれ、神田川や妙正寺川沿いに展開していた染物工場が、その設備を応用してクリーニング工場に衣替えするケースをご紹介したが、ツバメドライクリーニングももとは古くからある染物工場のひとつだったのかもしれない。田島橋の北詰めにあった三越染物工場が、戦後は染物工程を残しつつ、半分がクリーニング事業に転換していたのと同じ経緯ではないだろうか。
 1965年(昭和40)に撮影された写真⑤も、店舗の造りがよくわかる1枚だ。店の中にいる野本兄弟の左側に、ちょっとかわいい女の子が座っているが、遊びにきた「久美ちゃん」だそうだ。
⑥196604落四小1年生.jpg
⑦196711家族の肖像.jpg
 時代は進み、1966年(昭和41)4月に店前で撮影された、野本直揮様(右端)が小学校へ入学するときの記念が写真⑥。ピッカピカの1年生なのだが、背後の壁に「手をあげて横断歩道を渡ろうよ」のポスターが貼られている。子どもたちの背後に、トラックの接近するのが見えているが、この商店街の通りは十三間通り(新目白通り)が敷設される以前、聖母坂通り(補助45号線)から戸塚(現・高田馬場)や目白方面へと抜けるメインストリート(新井薬師道の道筋)だった。したがって、時代をへるにしたがってクルマの往来が頻繁になり、先のポスターも貼られたのだろう。
 写真⑦は、1967年(昭和42)11月に撮影された家族の肖像で、左側の着物姿のお姉さんは「正子ちゃん」とのことだ。晩秋の穏やかな情景だが、十三間通りの工事が近づき、家からの立ち退きが迫っている時期に撮影されたものだ。野本家では、すでに下落合の近所に別の敷地を入手して、新しい自邸および店舗を建設している最中だった。
 東隣りの中華料理店「香蘭」は営業しているようだが、電柱に貼られていた「下落合医院」の看板が外されている。やはり、十三間通りの工事で全敷地がひっかかる同医院は、ちょうどこのころにどこかへ移転したものだろう。奥に写る「香蘭」の、西側の壁面が見えているが、昭和初期に建てられた店舗建築なのでだいぶ傷みがきているのがわかる。戦後20年以上がたち、戦前も含めると30年以上が経過している建物だ。十三間通り(新目白通り)の敷設計画が、商店街では視野に入っていたためリフォームをせず、我慢をして立ち退く日を待ちつづけていたと思われる。
⑧196303落合第四幼稚園ひなまつり.jpg
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⑩19651001秋の運動会1.jpg
⑪19651001秋の運動会2.jpg
落合第四小学校1966.jpg
 落合第四幼稚園と、落合第四小学校の写真類も数多く撮られている。写真⑧は、1963年(昭和38)3月に撮影された、落合第四幼稚園の卒園式をとらえた1枚だ。先の小学校へ上がるピッカピカの1年生の、約1か月前に撮られたもので野本直揮様が写っている。
 つづいて写真⑨は、1964年(昭和39)の落合第四小学校における運動会を撮影したものだ。落合第四小学校から眺める新宿一帯の風景は壮観で、当時は高いビルやマンションなどがほとんどない時代なので、戸山ヶ原集合住宅から新宿駅西口の淀橋浄水場あたりまでが、よく見えたのではなかろうか。写真左手には、中野方面の遠望風景がとらえられている。
 写真⑩写真⑪は、1965年(昭和40)10月1日に行われた、落合第四小学校の運動会をとらえた2枚だ。このころになると、木造の校舎が鉄筋コンクリートの校舎へ、徐々に建て替えられているのがわかる。前年の1964年(昭和39)に、第1期改築鉄筋3階建校舎=北校舎の建て替えが終了していたが、運動会を撮影した1965年(昭和40)には、第2期改築鉄筋3階建校舎(西側校舎)と体育館が春先に竣工したばかりだった。
 1966年(昭和41)の空中写真を参照すると、いちばん北側の北校舎と体育館は建て替えられているが、北寄りにあった木造校舎は解体されて空き地(のちに校庭を拡張)になっており、また校庭の南西にある校舎は古い木造建築のままなのがわかる。すべての校舎の建て替えが終了し、現在の姿になるのは中央校舎が落成した、1976年(昭和51)11月になってからのことだ。また、御留山を見ると、相変わらず武蔵野原生林そのままの「落合秘境」だが、北側には大蔵省が買収したあと、公務員宿舎「落合住宅」の竣工している様子が見えている。
⑫196304下校0.jpg
⑬196304下校1.jpg
 さて、子どもたちが小学校から下校する風景も撮影されている。子どもたちが通る町並みは、十三間通りの工事で全的に消えてしまった街角もとらえられていて貴重だ。1963年(昭和38)4月に撮影された連続写真で、ここはドキュメント風に順を追ってご紹介していこう。写真⑫は、まさに落合第四小学校の北側校舎(木造時代)の昇降口を出て、下校する生徒たちをとらえたものだ。写真⑬は、小学校を出ていつも登下校する道筋(雑司ヶ谷道=新井薬師道)へと向かう子どもたちで、左手の下見板張りの外壁は、校庭の南西側にあった戦前からの古い校舎だ。
 写真⑭は、野本家のお祖父ちゃんが迎えにきたようで、大倉山(権兵衛山)に通う権兵衛坂の下あたりを歩く子どもたちだ。わたしの学生時代には、この左手に薪炭屋が営業をつづけていた。そういえば、写真⑪には校庭から西を眺める体育館と校舎との間に、大倉山のピーク界隈がとらえられている。写真⑮は、いまでは見られない風景で、雑司ヶ谷道(新井薬師道)から南へ折れて昔日には八重垣道と名づけられていた道筋へ入り、最初の曲がり角を右折(西折)するところをとらえたものだ。正面に見えている踏み切りは、西武新宿線の現在は西武高田馬場駅から4つめになってしまった「馬6」踏み切りで、右手のシヤッターを閉めている建物は「今泉製作所」だと思われる。
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⑮196304下校3.jpg
 写真⑮には、兄を迎えにきた野本直揮様(右端)も写っているが、右手の大谷石の縁石に築かれた塀が、氷川明神社の南東角地だったとみられる。すなわち、この角地の手前から「馬6」踏み切りのあたりまで、現在は十三間通り(新目白通り)が貫通していて、すべて消滅してしまった風景だ。この道を右折(西折)すると、恵比寿屋酒店の前を通って商店街の通りへと抜けることができた。
                                  <つづく>

◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。なお1966年(昭和41)の空中写真は、十三間通り工事前の門前商店街をとらえた最後の姿とみられる。
おまけ
 写真に撮られた子どもたちの下校コースを、1963年(昭和38)撮影の空中写真でたどってみた。下の写真は、1963年(昭和38)に撮影された下校コースの現状。写真⑬の落四小からの下校近道は現在、落合第四幼稚園の敷地内になっていて利用しにくい。写真⑭の雑司ヶ谷道(新井薬師道)は、なんとなく面影が残っている。写真⑮の氷川明神東側の「八重垣道」は、十三間通りに断ち切られ昔の面影は皆無だ。いちばん下の写真は、門前商店街跡の現状。
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⑭雑司ヶ谷道.jpg
⑮氷川明神八重垣道.jpg
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長島豊太郎が推進した長崎村版「新しき村」。

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 長崎村前高松162番地(現・豊島区高松2丁目)に住んだ長島豊太郎は、以前にご紹介した『日本霊異記』(日本古典全集)などの出版事業と、農業を両立させる共同事業体として、長崎村に「曠野社(こうやしゃ)」という名称で「新しき村」を開村している。長崎村に転居してくる以前、資産家の長島は「新しき村」運動の会計を担当していて、神田区大和町17番地(現・千代田区岩本町2丁目)に住んでおり、長島家は「新しき村」の東京支部を兼ねていた。
 おそらく長崎村の曠野社でも、経理を中心に経営全般を担当していたのだろう。その様子は、「日本古典全集」の出版を開始する前年、1924年(大正13)に書かれた長島豊太郎『曠野社の仕事』(新しき村出版部)に詳しくつづられている。新しき村出版部もまた、長崎村前高松162番地の長島邸に置かれていたようだ。そこでは、「新しき村叢書」シリーズが刊行されており、武者小路実篤をはじめ長島豊太郎、石山徹郎、長与善郎、永島直昭らの著作が出版されていた。長島豊太郎の『曠野社の仕事』は、同叢書の第13篇にあたる。
 同書は、出版事業すなわち執筆や編集の仕事から、版下をつくりモーターをまわしての印刷・製本の仕事、野菜や果樹(イチゴなど)、観賞用の草花を育てる農業まで、曠野社に関わる事業をその業務内容とともに詳しく紹介している。その経営理念には、人々が幸福に暮らす共同体としての理想像があり、確とした生活基盤を築く個人の自立と、精神生活を豊かにする文化事業(出版)を両立させるための方針が示されている。この経営ビジョンは、新しき村が掲げた「新しき村の精神」をベースに想定されているとみられる。以下、「新しき村の精神」を少し長いが引用してみよう。
  
 新しき村の精神/村の精神を簡単に書くと/ 、全世界の人間が天命を全ふし、各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。/ 、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。/ 、その為に自己を正しく生かすやうにする。自分の快楽、幸福、自由の為に、他人の天命と正しき要求を害してはいけない。/ 、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとることで、全世界の人間が同じく義務を果せ、自由を楽しみ、正しく生きられ、天命(個性ふくむ)を全ふすることが出来る道を歩くやうに心がける。/ 、かくの如き生活をしやうとするもの、かくの如き生活の可能を信じ、それを全世界の人が実行することを祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である。我等の兄弟姉妹である。/ 、されば我等は国と国との争ひ、階級と階級との争ひせずに、正しき生活にすべての人が入ることによつて、入らうとすることによつて、それ等の人が本当に協力することによつて、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
  
 この短い文章の中にも、自家撞着がすでに表れている。個々人の「自我」をはじめ、「快楽、幸福、自由」を尊重し「害してはいけない」としながら、「全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとること」を前提とし、他者の内面(自我)へ自分たちの思想が共有されればという仮定のもとで理想郷が語られていく。無理やり自分たちの思想を押しつける組織や集団よりは、はるかにマシで高尚だとは思うが、ではどうするかという方法論がまったく存在せず、最後は「祈る」「望む」「信ずる」で終わる典型的な観念論の世界だ。
 長島豊太郎『曠野社の仕事』では、事業が自分の思いどおりに進まない、業務が思うようにはかどらない(「兄弟姉妹」が思いどおりに働いてくれない)、「外の社会」つまり一般社会の「渦巻」=利潤を追求する資本主義経済との軋轢、「兄弟姉妹」の住む家が絶対的に足りないなどなど、“グチ”がそこかしこにあふれている。w でも、長島豊太郎がえらいところは、それらの不満をグッと飲みこんでは堪えに堪え、できるだけ明日へのプラス思考に変えようとしている点だろうか。
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 ことに流動資本(事業の運転資金)が、いつも赤字つづきで足りず、それをかき集めるにはどうすればいいのかという深刻な課題が、経理畑の人だったらしい長島豊太郎には常につきまとい、いちばんの気がかりだったようだ。運転資金がなければ生産事業は成立せず、人々の生活(文字どおり寝食)を保障することができない。その心配事の一端を、同書より少しだけ引用してみよう。
  
 普通一定の畑地を耕作し、捲種し、施肥し、収穫し、更にそれを処理して収益を手にするまでには凡半ヶ年は最少限度で要すると思はなければなるまい。その間の経費の依持(ママ:維持)、その大部分は生活費である処のものを、現在の曠野社の力では負担しきれないのである。殊にそれが一時に数人の場合は一層困難である。更にそれらの兄弟は決して農事に専門的な知識や経験を持つてゐるとは予期出来ない。或る失敗は計上されなければならない。かくてこの仕事は現在の曠野社が、頻りに希望しつゝ実現し得ない理由がはつきりして来る。(カッコ内引用者註)
  
 上記の文章から、曠野社の構成員が一定ではなく、常に流動的だった様子が伝わってくる。入社したと思ったら、早くも翌日にはいなくなっていたとか、楽園を夢見てやってきたら理想と現実は大ちがいで1週間ともたずに去っていった(逃げ出した)とか、今日よく見られるらしい没主体的な新入社員wのような人たちも、数多くいたのではないだろうか。
 農業の知見や技術のまったくない人々が、翌日から畑地で農作物を栽培しようとしても、無理なのは目に見えていただろう。曠野社が、「頻りに希望しつゝ実現し得ない理由」は、長島豊太郎でさえ当初から理解していたのではないだろうか。経理の知識やノウハウがないのに、経理担当を任されたら経営がどのような結果になるか、長島自身が想像できないはずはない。それでも「新しき村」の活動に参画したのは、武者小路実篤たちの理想に多大な共感を抱いたからだろう。だが、それは具体的な方法論の道筋も不確かで、実現性の希薄な理想論の世界だった。長島豊太郎も、自身の資産を切り崩しながらの経営だったのだろう。
 したがって、長島豊太郎は「出版部」の事業を拡大して運転資金を稼ぎ、それを生活費や農業に振り向けて、曠野社の経営を安定させようとしている。そこで企画されたのが、岸田劉生らが装丁や挿画を手がけたさまざまな本の数々であり、先の「日本古典全集」シリーズだったのだ。「日本古典全集」は、1944年(昭和19)の第266巻までつづいたようだが、自給自足を実現するための農業は、早くから挫折してしまったらしい。長島自身も、「東京近郊の目覚しい都会化、その中にこの美しい自然を持つ土地が取残されるわけは無いのである」と早くから予見していたように、借地だった畑地は地主が宅地開発に乗りだし、早々に縮小してしまったようだ。1936年(昭和11)の空中写真では、長島邸の前は耕地整理が行われ道路が敷設されて住宅が建ち並びはじめている。
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 曠野社の畑地(約1,500坪)は、やや変形ぎみな長方形をしていて、北西の道路に面した位置には2棟の工場と3棟の住宅が、南の端には曠野社の創立当初に建てられた小屋があったはずだが、そのような畑地は空中写真には見えない。1936年(昭和11)撮影の空中写真の、豊島区長崎東3丁目162番地(旧・前高松162番地)には、ほぼ正方形に近い空き地(畑地?)が残っており、その北西側の道路端には住宅らしい建物が建設されている。だが、この空き地も1940年(昭和15)を迎えるころには、すべて住宅で埋めつくされている。
 また、農業だけでなく出版業のほうも、新しき村の「兄弟姉妹」の数は減っていき、そのうち全員が賃労働で働く一般の社員と変わらない組織になっていった。当時の様子を、『新しき村五十年史』収録の、曠野社メンバーだった脚本家の柳井隆雄『「曠野社」のこと』から引用してみよう。
  
 この辺から曠野社の性格は新しき村の出版とも、古典全集刊行会、つまり長島豊太郎個人の仕事ともはっきり区別のつかない曖昧なものになっていったのである。印刷所の職工は全部雇人であり、その中に村の人たちも一緒になって働き、私等もモノタイプの技術があったので、職工並みに月給を貰うようになり、なんとなく二重人格的な存在になった。というのも実際にもその頃は、いわゆる村の人達は松崎君たち二三名しか残っておらず、刊行会の事務所では、長島家の昔の雇人だった人達や、新たに雇われた女事務員たちが働いているだけだったのであある。
  
 これは大正末ごろの情景なので、すでに新しき村のメンバーは2~3人しかおらず、出版事業は通常の出版社と変わらない社員たちが賃労働で働いていたことになる。
 長崎村で結成された曠野社=新しき村は、1983年(昭和58)出版の『豊島区史 通史編2』(豊島区)が辛辣に評しているように、「空想的社会主義」のまま「独立の現実的可能性はきわめて少なかったといえる」ようだ。また、大正末には赤字つづきで賃金未払いが発生し、とうとう労働争議にまで発展した。「階級と階級との争ひせず」とうたった新しき村の精神だが、その足もとで階級対立の争議が起きたのはなんとも皮肉なことだった。どうしても給与が払えず、職工たちは賃金がわりに工場の印刷機と活字などの設備類を持ち去っている。
 そして、1927年(昭和2)に曠野社は膨大な負債を抱えながら解散した。その後の長島豊太郎は、豊島区高松2丁目14番地10号(旧・豊島区長崎東3丁目162番地/1956年ごろの番地変更で現在は高松2丁目42番地界隈だと思われる)に住みつづけながら、新しき村の運動からも脱会し、自身のライフワークとなった「日本古典全集」シリーズの出版をなんとか継続している。
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 日本の古典作品を総ざらえするような、長島豊太郎の「日本古典全集」だったが、1927年(昭和2)12月26日に内務省警保局から発禁処分を受けている。『西鶴全集 第4巻』収録の井原西鶴『諸艶大鑑』が猥褻だということで差し止められた。翌年には、早くも改訂版を出版しているが、当時は借金まみれだった長島豊太郎には、製本済みだった同書の廃棄は大きな痛手だったろう。

◆写真上:1954年(昭和29)に「日向新しき村」を訪れた、武者小路実篤と村民の記念写真。
◆写真中上は、1919年(大正8)時点での「新しき村」所在地。長島豊太郎はいまだ神田大和町にいるが、この直後に長崎村へ転居してきている。中上は、1922年(大正11)作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸。中下は、開村直後に撮影した曠野社の記念写真。は、1924年(大正13)時点での曠野社による「新しき村叢書」の刊行ラインナップ。
◆写真中下は、新しい村叢書の武者小路実篤『自分の人生観』(1920年/)と、長与善郎『余の宗教への前提』(1924年/)。中上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる長島豊太郎邸と曠野社。中下は、1932年(昭和7) 作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸と曠野社跡。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所。
◆写真下は、新しき村叢書の第13篇だった長島豊太郎『曠野社の仕事』の表紙()と奥付()。中左は、1928年(昭和3)に出版された「日本古典全集」シリーズの1冊『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の中扉。中右は、前年に出版したものが発禁処分を受けた経緯と原文削除の報告をする巻頭の前書き。は、『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の挿画で描いているのは廣川松五郎。

いつごろ耕作地化されたか門前稲荷塚。

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 これも1876年(明治9)10月10日、薩長政府が発令した「官令達 乙部第百廿号」によって破壊された(耕作地化された)、東京府を中心とした関東地方の大型古墳のひとつだろうか。東久留米にある旧・落合村エリアを訪問するとき、事前に検証していた空中写真にとらえられた大きな鍵穴型のフォルムについて、きょうは及ばずながら記事にしてみたい。
 空中写真にとらえられていたフォルムは、旧・落合村ではなくその北側に隣接した旧・門前村の黒目川(久留米川)河畔だ。ただし、当時の黒目川の流路や川幅(河川敷含む)は、1970年代の整流化工事のため現在のものとはかなり異なっている。おそらく鍵穴フォルムの北側が、流れの修正と川の拡幅で大きく削られ、祠(ほこら)もあったとされる稲荷塚は消滅した。
 どうやら祠は、現在も行方不明のままのようだが、この稲荷塚とされた部分はフォルム北側のくびれに近い位置にあり、各地の古墳に共通する祭祀が行われていた造り出しに近い位置にあった。たとえば、下練馬で見つけた巨大なフォルムの、造り出しに近接した位置にも稲荷社が奉られていた。江戸期になると、古墳から出現する羨道や玄室などの地下空間を、キツネの棲み穴だと想像して、キツネが眷属の稲荷を奉る事例が多い。全国各地に点在する、稲荷山古墳稲荷塚古墳の下部や墳丘上に建立された、稲荷の社や祠が好例だろう。
 では、戦前戦後を通じて空中から独特なフォルムが確認できる、旧・門前村の概略や地勢について、以前も参照していた東久留米市教育委員会が刊行した『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)の図録から引用してみよう。なお、解説文中の稲荷塚の場所については、本記事の別掲「門前村(字)稲荷塚」地引絵図に、赤丸の囲みで示した位置にあたる。
  
 川と平行に、東西に通る道が現在の幹線道路(東京道)。そこから南に入る道が今の東久留米駅北口に続く商店街となる。昔、稲荷塚(絵図右側中央薄墨色の所と推定)があったことから字名を稲荷塚という。大門大橋は絵図の時は木製で、一九二八年(昭和三年)に石造りとなった。(中略) 大門大橋の北側。現在の氷川台一・二丁目。北へ向かう中央の道は門前氷川神社付近から急坂で、その先は高台になる。昔、神社の入り口は南側にあった。道は途中で三叉路になり、角に享保一九年(一七三四年)の庚申塔がある。(市指定文化財) 昔ここに金山神社<ママ>があり、字名の由来となっているが、今は氷川神社境内に金山神社の碑が残る。(< >内引用者註)
  
 文中に「金山神社」という表現がでてくるが、社(やしろ)のことを「神社」と呼称しはじめたのは薩長政府による明治以降のことで、本来は「金山〇〇社」と呼ばれていただろう。
 『東久留米の古地図』の門前村のページには、1953年(昭和28)に撮影された整流化工事の前の黒目川と大門大橋を写した写真が掲載されているが、その右手遠景にこんもりとした森がとらえられている。角度からして、この森が「稲荷塚」のあった黒目川南岸だろう。戦前戦後を通じた空中写真を見ても、稲荷塚をはじめ一帯は濃い森林地帯だったこととがうかがえる。
 おそらく明治以降だろうか、その一部(おもに後円部)を崩して耕作地が造られ、農家が何軒か建てられている。稲荷塚から、さらに南側にあたる一帯だ。明治期に作成された門前村の「地引絵図」にも、境界線の様子からその痕跡がうかがえる。そして、明治以降から1940年代の戦前までこの状況はあまり変わらず、1941年(昭和16)に撮影された空中写真を参照しても、いまだ鍵穴型のフォルムを容易に識別することができる。なぜ開墾が進まなかったのかは、やはり稲荷塚とそこで伝承されてきた由来譚によるのではなかろうか。なお、東久留米地域では東京市街地とその周辺域で撮影された、陸軍航空隊による1936年(昭和11)の空中写真は残念ながら存在しないようだ。
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 稲荷塚は、黒目川の拡幅と整流化工事で全的に破壊されたとみられるが、黒目川に架かる稲荷橋にその名をとどめている。ただし、稲荷橋の位置は稲荷塚があった位置よりかなり上流であり、前方部の先端とみられるあたりに架橋されている。これは、稲荷塚そのものにちなんでいるというよりも、門前村の字名となっていた稲荷塚の名称を意識したものだろう。現地を歩いてみると、空中写真に見えるかたちの何ヶ所かで、昔日の地面のふくらみを薄っすらと確認できる。稲荷塚のあった地形は黒目川の北向き斜面にあたるが、川の拡幅で削りとられた南岸の地形を観察すると、斜面の一部に盛り土のような突起の残っているのが興味深い。
 また、稲荷塚があったとみられる位置に接して墓地が設けられているのも、昔日に伝承されていた同塚にまつわるなんらかのフォークロアを感じさせる。同エリアは、西武池袋線の東久留米駅から230~300mほどの位置にあたるが、いまだ住宅が建てこまず畑地が多く残っている。鍵穴型の全長は、1941年(昭和16)や戦後の黒目川の整流化工事前に撮影された1968年(昭和43)の空中写真などから推定すると、およそ200~250mほどだろうか。
 ちょっと横道にそれるけれど、以前、野方から江古田にかけての古墳について書いたとき、古代の古墳と中世の豊島氏vs太田道灌で生じた戦死者を埋めた塚墓を、ゴッチャにしているといわれたことがある。けれども、もう少し史的に深く考えてみてほしい。戦(いくさ)で何十人何百人の死骸を処理するとき、「あんたんとこの畑の横が空き地だから、そこへ埋めんべえ」とか、「隣り村の丘上がちょうど草原だから、そこへ埋(い)けちまおう」とかいって、大量の遺骸を埋めることなどありえない。村落(ミクロコスモス)に住む住民たち全員の合意が得られ、利害関係や所有関係などで異議や異論などが出にくい、土地や地点を選んで埋葬するのが自然だろう。
 いつか記事に書いた、群馬県の梁瀬首塚古墳と梁瀬二子塚古墳がそうだったように、当時から大昔の墓域だと認識されていた場所、屍家(しんや・しいや)伝承が残る土地、昔から禁足地あるいは禁忌伝承がある場所、あるいは怪談タタリ譚が語り継がれてきた人が寄りつかない土地などへ葬られている例は枚挙にいとまがない。したがって、中世の戦死者とみられる遺体が多く見つかったからといって、そこが中世のみの墓所だとは決して限らないのだ。さらに深く発掘をつづけると、古代の遺跡が出現することもめずらしくない。視点を変えれば、埋葬地として選ばれている土地自体は、そもそも「なんだったのか?」という問題意識に通じるテーマなのだ。以前、近代の事例で青山墓地や青山脳病院が建造されたエリアについても記事にしたことがある。江戸期から青山地域では寺町と墓域が形成され、そこから数多くの怪談・奇譚が生まれているのは偶然だろうか。
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 さて、黒目川沿いの大きな鍵穴型のフォルムだが、河岸段丘上に近接して築造された事例として、こちらでは関東大震災の直後に東京帝大の鳥居龍蔵が調査した隅田川沿いの待乳山古墳や、多摩川沿いの田園調布に連なる亀甲山古墳をはじめとする多摩川台古墳群、等々力渓谷の谷沢川沿いに築造された等々力古墳群などをご紹介してきたが、河川規模の大小を問わず、沿岸の崖線や段丘斜面の古墳はめずらしくない。流路が渓流のような小規模なものは、古墳のまわりに掘削される周壕(濠)などに見立てられているケースもありそうだ。
 黒目川に沿った、稲荷塚を含む大きな鍵穴型の痕跡を観察しているときには気づかなかったが、この200~250mほどある巨大な痕跡の南側150mほどのところに、もうひとつの大きな鍵穴型のフォルムがあることに気づいた。1941年(昭和16)や戦後すぐの空中写真ではわからなかったが、宅地化が進む戦後に撮影された空中写真を参照していて、改めて気づいたかたちだ。しかも、後円部とみられる円形の中心に近い位置には稲荷社が奉られており、後円部のすぐ北側の位置にも門前稲荷社が鎮座している。そして、宅地化が進んだ現在でも、道路(以前は畑地の畦道だったろう)のかたちが、およそ鍵穴型のまま残っている。
 また、後円部の中央を東久留米駅東口の駅前広場から直線でつづく、浄牧院通りの大道路が貫通しており、黒目川の北斜面へとつづく後円部にわずかなふくらみが残るだけで、現在では全体が平地化されている。だが、いまでも道路(畔)の形状がそのまま鍵穴状に残っているのは、下練馬の大規模な痕跡とまったく同様で、ここでもいまだに畑地が宅地化されずに多く残っている。さらに、この鍵穴フォルムのすぐ西側に位置する湧水源には門前弁天社が奉られており、その流路を活用し北側にあたる後円部の周壕(濠)に見立てられていたものだろうか。いずれにしても、黒目川沿いに見つけた古墳を想起させる大きなフォルムは、近くを流れる落合川や立野川の沿岸部でも、同様の痕跡があるのではないかという想像をふくらませる。この2地点に限らず、東久留米地域に伝わる関連のありそうなフォークロアや、古老たちが語る昔話などが残ってやしないだろうか。
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稲荷塚公園.jpg
門前弁天社.jpg 山崎丈「東久留米の古地図」2020.jpg
 黒目川は、東久留米市内を抜けると埼玉県の新座市に入る。現在でも、開発などで多くの古墳が見つかる埼玉(さきたま)地方だが、黒目川が新河岸川やがては荒川へと合流するまでの間に、考古学的な発見があるだろうか。あまり意識してこなかったエリアだけれど、少し注意してみたい。

◆写真上:稲荷塚のあった北向き斜面の一部だが、現在は墓域や空き地となっている。
◆写真中上は、明治期に作成された門前村地引絵図の一部で、赤丸の囲みが稲荷塚のあった位置だとみられている。中上中下は、上から順番に1941年(昭和16)、1947年(昭和22)、1968年(昭和43)の空中写真にみる稲荷塚と鍵穴フォルム。
◆写真中下は、1953年(昭和28)に大橋側から撮影された稲荷塚。中上は、1975年(昭和50)撮影の空中写真にみる黒目川の拡幅・整流化工事で消滅した稲荷塚とその周辺。中下は、わずかなふくらみが確認できる稲荷塚のあった鍵穴フォルムの現状。
◆写真下中上は、1979年(昭和54)と2007年(平成19)撮影の空中写真にとらえられた、上記の鍵穴フォルムから150mほど南にあるやや小型の鍵穴フォルム。中下は、同フォルムの西側にある稲荷塚公園。下左は、稲荷塚公園の北側に隣接した湧水源の門前弁天社。下右は、東久留米市教育委員会刊行の『東久留米の古地図―明治時代地引絵図を中心として―』(2020年)。
おまけ
 稲荷橋の北詰から眺めた対岸の鍵穴フォルムの方向で、わずかながら地面の盛りあがりが確認できる(上)。そのやや上流から眺めた風景で、写っている橋は稲荷橋(下)。黒目川の拡幅・整流化工事で、稲荷塚を含む北側が削られているとみられ、北斜面には墳丘の跡がほぼ見られない。
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佐伯祐三が最後に見ていた納邸の下落合風景。

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 佐伯祐三アトリエの西隣り、下落合666番地の納三治邸が竣工した直後の記念写真を入手した。貴重な写真をお送りいただいたのは、納三治のご子孫である澤田康治様だ。1927年(昭和2)に完成したとみられる同邸だが、意匠は和洋折衷の豪華かつ巨大な屋敷で、おそらく下落合では華族邸を除けば最大クラスの建築だったとみられる。
 その中の1枚に、納邸の南側にある庭園から北東を向いて撮影し、佐伯祐三アトリエがとらえられた写真がある。1927年(昭和2)という時期を考えれば、佐伯祐三はつい先だてまでこの屋根の下で仕事をしており、「下落合風景」シリーズを制作しに落合地域を歩いていた時期とストレートに重なる。すなわち、佐伯祐三がシベリア鉄道で第2次滞仏に向かう直前、彼が最後に見た下落合の風景が、納家のアルバムには残されているということだ。
 納三治は当初、高田町の字池谷戸浅井原(のち雑司ヶ谷953番地)で、毛糸生産を専門にしていた曙工場を経営していた。その後、石綿の需要が急増したため同工場で生産するようになり、1929年(昭和4)には曙石綿工業(株)を設立している。以下、当時の興信録より引用してみよう。
  
 納三治 曙石綿工業(株)社長/岡山県籍
 岡山県 尚順の三男にして明治六年九月出生す 同三十六年紐育(ニューヨーク)コーネル大学機械科を卒業し神戸川崎浦賀各造船所勤務 英国ロイド技師毛織物工場経営を経て昭和四年曙石綿工業を設立し社長に就く [趣]作詩 [宗]基督教(略) 東京市淀橋区下落合二ノ六六六
  
 クルマや電車など乗り物や交通機関に詳しい方なら、もうお気づきではないだろうか。同社は、石綿の生産から乗り物の制御装置、すなわちブレーキの製造をはじめるようになる。曙ブレーキ工業(株)はいまも健在で、自動車はもちろん鉄道やリニアモーターカーのブレーキまで手がける先端企業となっている。納三治は、その基礎を築いた創業者だ。
 さて、納家のアルバムにもどろう。澤田様よりお送りいただいた画像は、小さめなサイズだったので、拡大するとピンボケになる可能性が高かったため、サイズを大きくする際にはAIエンジンをかませて、被写体の忠実な再現・精細化を試みている。まず、冒頭の写真①から見ていこう。納邸の玄関のある西側ウィングの、南に面したサンルーム前から東に張りだす棟を撮影したもので、木立ちの向こう側に佐伯アトリエがとらえられている。樹林の様子から、撮影されたのは1927年(昭和2)の秋だろうか、すでに佐伯一家は旅立ち鈴木誠が留守番をしていただろう。
 ここで気づくのは、佐伯アトリエの屋根に天窓が穿たれていないことだ。解体直前のアトリエの屋根写真と比較すると、西側に面した屋根に天窓がなく、佐伯祐三が生きていた時代にはこの窓は存在しなかったということになる。おそらく、アトリエの内部を少しでも明るくするために、米子夫人が戦後になってから大工へ屋根の改築を依頼したものだろうか。また、アトリエの屋根は石綿による「布瓦」ではなく、瓦屋根のままのように見える。アトリエの石綿を素材とする布瓦は、隣人の納三治に勧められて米子夫人が佐伯の死後に、改めて葺き替えたものだろうか。
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 写真②は、西側の三間道路すなわち「八島さんの前通り」に面した、納邸の門を撮影したものだ。この光景は、佐伯祐三も渡仏直前に目にしていただろう。納邸の敷地が整地され、縁石が設置されて屋敷が建てられていく様子を、佐伯は「下落合風景」シリーズの何点かの作品に残している。納邸の敷地内には、別棟かあるいは貸家かは不明だが、日本家屋が建っているのが見えている。また、道路を隔てた南側の第三文化村には、いまだ吉田博・ふじをアトリエは建てられておらず、大塚邸のままだった。大塚邸は、屋根の形状からして西洋館だろう。
 右端にとらえられた電柱は、佐伯祐三が『八島さんの前通り』の納邸敷地前に描いた電柱の実物そのものだ。この電柱の先を左折(東折)すると、不動谷(西ノ谷)への下り坂となり、青柳邸の前に拡がる青柳ヶ原、現在の国際聖母病院北側の接道につづいている。また、右手前の隅に見えている植えこみは、道をはさんだ納邸の西隣りにあたる、下落合1449番地に建つ第三文化村の山口邸の一部だろう。門前に張りだした、植栽の角でもとらえたものだろうか。写真③は、納邸の玄関を写したもので、どことなく武家屋敷の構えを思わせる意匠だ。
 写真④は、南側の庭園から西側のウィングを写したもので、池の水位が低いことから一連の写真が、納邸の竣工後間もない時期に撮影された様子が見てとれる。手前の松の陰には、納邸の敷地内に建つ離れのような和館が透けて見えていただろう。また、撮影者の背後は佐伯祐三が『テニス』をプレゼントした、落合第一小学校の教諭・青柳辰代が住む青柳邸だ。
 写真⑤は、納邸の南庭から北を向き、納三治の家族や親戚一同を撮影した記念写真だ。応接室とみられる洋館部の手前には、シュロ(棕櫚)の木が何本も植えられ、この一画だけが西洋館の風情を漂わせている。応接室とみられる細い窓も凝ったデザインをしており、一部に色ガラスが嵌められていたのではないだろうか。ちなみに、記念写真に写る人々のうち最前列の右からふたりめの着物姿の少女が、貴重な写真をお送りいただいた澤田康治様のお母様だ。納邸の屋根瓦の色が、北隣りの八島知邸と同様に赤だったのは、佐伯の描く「下落合風景」作品から判明している。また、AIによるカラー化の判断では、納邸の屋根は赤、南側の大塚邸の屋根は青または緑と認識している。
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⑦佐伯祐三「目白風景」1926頃.jpg
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 これらの貴重な写真類をベースに、佐伯祐三の「下落合風景」シリーズに描かれた納邸を、敷地の整地から竣工前後までを見ていこう。まず、「八島さんの前通り」(星野通り)を大塚邸のある南側から北を向いて描いた画面は、いまのところ4点が発見されているが、その制作過程では納邸敷地の雑草だらけだった空き地が、草が刈られ整地されていく様子が順番に確認できる。そして、1926年(大正15)の晩秋ごろには大谷石とみられる縁石が設けられ、納邸の建設を待つばかりの状態になっていた。(作品⑥) 同年の冬か、1927年(昭和2)の新年ごろに描かれた『目白風景』(作品⑦)では、青柳ヶ原の西側に入りこむ不動谷(西ノ谷)の突きあたり、青柳邸と並ぶ西隣りに、建設中で養生が張りめぐらされているとみられる大きな納邸がとらえられている。
 そして、再び「八島さんの前通り」にもどり、今度はこの通りがクラックする直前、北側の内藤邸の前あたりから南を向いて描いた2点の作品が残っている。1点はエチュードのようにラフな画面(作品⑧)だが、サインの入ったもう1点(作品⑨)のほうは緻密に描かれており、それぞれの住宅の住民名まで特定することができる。これらの作品は、1927年(昭和)の夏に近い時期に描かれている。なぜなら、八島邸の向こう側(南側)には、納邸の赤い大きな屋根が見えており、同邸が竣工する前後の時期に描かれているからだ。作品⑨の画面は、1927年(昭和2)6月17日(金)から30日(木)まで2週間にわたって開催された、1930年協会第2回展に出品されているので、画面の樹木などの様子から、その直前に描かれているものと思われる。
 そして、もうひとつ面白い事実がある。佐伯祐三が雑司ヶ谷西谷戸大門原1126番地(現・西池袋2丁目)あたりに設置された、山手線の踏み切りを描いた作品に『踏切』(作品⑩)がある。正面に見えている、武蔵野鉄道のレンガガードをくぐり道なりに北へと進めば、5分ほどで納三治が経営する曙工場(当時は毛糸生産)にたどり着けたはずだ。描かれた線路土手の草地の青さや、やがて隣家となる納家との事前交流(建設時の挨拶など)で、佐伯祐三が納三治のいる曙工場を訪ねている可能性があるのは、1927年(昭和2)になってからのことだろうか。
 再度フランス行きの資金を稼ぎたかった佐伯は、納三治の執務室にでも架けられそうな作品を手に、経営している曙工場へ出かけやしなかっただろうか。納家に佐伯家の作品が残っていたかどうかは、残念ながら不明だ。納三治の工場にしろ自邸にしろ、佐伯作品が架けられていたとしても、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失してしまった可能性が高い。
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 納邸のアルバムがきわめて貴重なのは、佐伯祐三が生きていた時代のアトリエ直近の風景を、そのまま目にすることができるという点だ。従来は、佐伯の画面からしかうかがい知れなかった「八島さんの前通り」(星野通り)の情景を、実際に目にすることができるからだ。佐伯と同時代のこの風景は、わたしが想像していたよりもキレイに整備されている印象で、佐伯はわざと鄙びた様子に描いているのではないかとさえ思える。貴重な写真をありがとうございました。>澤田康治様

◆写真:納三治邸の写真①~⑤は、同家のアルバムから竣工直後のもの。(提供:澤田康治様)
◆写真下:モノクロ写真は、1929年(昭和4)撮影の曙石綿工業高田馬場本社と晩年の納三治。
おまけ1
 1927年(昭和2)の夏、二度目の渡仏前に佐伯祐三が実際に目にしていた、アトリエ西側の「八島さんの前通り」(星野通り=1931年までの補助45号線)をAIでカラー化してみた。納邸の屋根は赤、南の第三文化村の西洋館だった大塚邸は青ないし緑の屋根と認識している。2葉めの写真は、いただいた画像を単純拡大したもの。佐伯アトリエの屋根は、石綿製の「布瓦」ではなく通常の瓦が葺かれているように見える。下の写真は、1945年(昭和20)5月17日の空中写真にみる下落合666番地の納邸。母家は全焼しているようだが、敷地の南西角にある緑に囲まれた別棟は焼け残っているようだ。また、濃い屋敷林に囲まれた佐伯アトリエは、延焼からまぬがれているのがわかる。
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納邸19450517.jpg
おまけ2
 おそらく空襲により山本發次郎邸で焼け、戦前の画集にモノクロ画像でしか残されていない佐伯祐三の『目白風景』を、AIエンジンでカラー化してみた。1926~27年(大正15~昭和2)にかけての冬期に制作されたとみられ、口を開けた不動谷(西ノ谷)と青柳ヶ原の冬枯れ風景が姿を現した。
<追記>土色を、ちゃんと「関東ローム」の色にしてと命じたら、より佐伯らしくなった。(下)
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佐伯祐三「目白風景」1926頃.jpg

鎌倉街道と東山道武蔵路の交叉に見えるもの。

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 今年の冬から春にかけ、武蔵国分寺跡の近くに残る鎌倉街道の上道(かみつみち)界隈を散策してきた。鎌倉街道の主要コースのひとつである上道は、鎌倉から横浜の瀬谷を通り、府中から久米川へと抜ける街道だ。ちなみに、鎌倉街道の下道(しもつみち)は鎌倉から川崎の丸子を通り、渋谷、江戸、浅草(湊)、松戸へと貫通する街道だった。
 そして、下道の途中にある渋谷から分岐し、中野から王子、岩槻へと抜ける道筋が中道(なかつみち)と呼ばれる街道で、以上の3道が中世の鎌倉街道と呼ばれた基幹の大道路ということになる。中野の東にあたる落合周辺や、浅草以西の地域にも「鎌倉街道」と呼ばれる道筋が何本か存在しているけれど、それらは鎌倉街道から枝分かれした「鎌倉支道」とでもいうべき道筋らしいことが、近ごろの研究から明らかになりつつある。近くでは、戸山から下戸塚を通り雑司ヶ谷方面へと抜ける「鎌倉街道」が有名だが、その意味合いは「鎌倉時代に開かれた道筋」というニュアンスの名称であり、今日的にいうなら鎌倉支道のひとつということになるのだろう。
 鎌倉街道のひとつである、上道(かみつみち)の現場を見たくなったので武蔵国分寺尼寺まで出かけてみた。これは、1回目の散策から帰宅後であと追いの知識となったが、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺のあった地点には8世紀ごろ拓かれた東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)も通っており、鎌倉街道上道と交叉する地点であることも知った。東山道武蔵路は、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺との間を割くように、南北に通っていた幅約10~12mで側溝も備えた直線状の大道路だが、鎌倉街道上道はほぼ現在の府中街道や武蔵野線沿いに敷設されていたとみられる。
 東山道武蔵路は、現在の茅ヶ崎あたりから北上し、浜田(海老名)から店屋(町田)、国分寺(府中)を経由して足利氏の故地である足利、または分岐して徳川氏の故地である新田(世良田)方面へと抜けていく大道路だった。けれども、東山道武蔵路はその多くが消滅して一部しか現存しておらず、幹線道路としてはのちの鎌倉街道の開拓を待たねばならなかった。鎌倉街道は、今日では宅地化や農地化のせいで幅の狭い道筋になっている箇所が多いが、鎌倉を中心に坂東の騎馬武者軍団が迅速かつ容易に通行できるほどの規模は備えていたとみられる。
 さて、武蔵国分尼寺跡の近くに残る鎌倉街道上道(かみつみち)だが、学術的な調査による街道の想定と、地元に伝わってきた街道の位置は必ずしも一致していない。地元で伝承されてきた街道筋は、「伝鎌倉街道」という名称がつけられ、発掘や出土物の分析など人文科学にもとづく正式な規定ではないことがわかる。鎌倉期には国分寺の伽藍はことごとく焼失していたので、武蔵国分尼寺の境内の南側から北側へ突っ切るように、伝鎌倉街道は拓かれていたことになる。武蔵国分尼寺の先には、いかにも鎌倉の山を開拓した切り通し状の道筋が丘陵を貫通しており、予備知識なしにそれだけ観察しても「鎌倉街道っぽい」という印象を受けただろう。
 だが、この道筋がほんとうに鎌倉街道上道(かみつみち)なのか、それとも室町期以降に拓かれた新しい道筋で、のちに鎌倉街道上道と混同された“伝鎌倉街道”なのかは不明だが、地図や空中写真でこの道路を観察しているときに改めて気がついた。武蔵国分尼寺の北側にある、小丘を切り拓いた先には現在、集合住宅が何棟か建っているのだが、この一帯も武蔵台東遺跡として注目を集めている。下落合の落合遺跡と同じように、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代とつづく、人が住みつづけた複合遺跡(重層遺跡)として知られている。その遺跡地点を、戦後すぐのころの空中写真で眺めていたときだ。整然とした、幾何学的なフォルムが目についた。
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 かなり大きな鍵穴のフォルムは、東側がJR武蔵野線の工事で一部崩されているが、後円部の直径が約110mほど、前方部とみられるフォルムを含めると全長215mほどの前方後円墳のかたちをきれいに残している。羨門部は北北西を向いており、その丘上には「祥應寺」という寺院が建立されていたという伝承が残っている。これは『新編武蔵風土記稿』にも掲載されていて、かなり以前からつづいていた地元の伝承とみられる。なお、祥應寺は国分寺市本多に現存する黄檗宗の禅寺で、二度にわたり伝祥應寺跡を発掘したところ鎌倉期とみられる建物跡が確認されたため、丘上の遺跡は移転以前の元祥應寺跡ではないかと推定されるようになった。
 現在、後円部の中央には伝鎌倉街道(上道)とされる道筋が、両側が崖状に切り立った切り通しのように貫いており、丘全体が武蔵国分尼寺つづきの緑地公園のようなかたちで保存されている。厳密にいつの時代かは不明だが、伝鎌倉街道の切り通しが拓かれただけで、後円部とみられる墳丘がよく保存されているのは、自治体による緑地保存や文化財保存の施策ゆえんだろう。武蔵国分尼寺からつづく、古くからあると思われる道筋(元は農道?)は、この墳丘をまわりこむように南西側の正円形をなぞりながら北上している。それは、ちょうど下落合駅前にあった摺鉢山の小名を囲むように残る、北上する半円の道筋と非常によく似ている。
 また、前方部とみられる低めな丘は、比較的地面が平坦つづきなせいか、戦後すぐのころから早くも宅地開発が進んでいたようで、1947年(昭和22)の米軍F13が爆撃効果測定用に撮影した空中写真には、すでに格子状の道路が敷設されているのが確認できる。現在は、その上に府中武蔵台二丁目第2アパートの3階建て集合住宅群が建設されている。墳丘を貫通する切り通し=伝鎌倉街道が、江戸期以前に敷設されたものであるなら、おそらく羨道や玄室の石材、あるいは石棺やそこに納められていたとみられる副葬品は、とうに散逸してしまっただろう。
 さて、武蔵国分尼寺の北側にある上記のフォルムを、鎌倉街道上道(かみつみち)がらみで観察していたら、武蔵野線と府中街道をはさんだ東側にも、大きな正円の盛り上がりがあるのに気づいた。こちらは、鎌倉時代ではなく8世紀ごろに造成された、東山道武蔵路がらみのハケ(崖線)沿いに位置している。ただし、この大きな正円のふくらみは宅地開発の前までは確認できるが、ここに住宅街が形成されてからはほとんど姿を消してしまっている。すなわち、1950年代初期のころから徐々に地形を変える宅地造成が進捗して住宅が建ちはじめ、1960年代の初期にはすでに住宅街と呼んでもいいほど建物が密に建ち並んでいる。
 上空から見える大きなサークルは、直径が約140mほどもあり、上記の鍵穴型フォルムの後円部よりもさらに大きい。そして、大きな正円形の盛り上がりの西南西の方角には、それに寄り添うように突起がもうひとつ見えている。これが主墳の端に築かれた陪墳なのか、それとも大きな古墳らしいサークルの一部なのかは不明だ。なぜなら、大きなサークルと陪墳のように見える突起との間には、先述した奈良期の東山道武蔵路が通っていたのであり、のちの伝鎌倉街道ほど深く切り立った切り通し開拓ではないが、地面が凹状に掘られた形跡が発掘調査で判然としているからだ。
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武蔵国分寺文化財資料展示室.JPG
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 武蔵野市教育委員会によって行われた調査では、第37次・第49次・第135次・第699次・第704次の計5回にわたって、この地点およびハケ(崖)下を発掘しているが、できるだけ道路の高低をなくし坂の傾斜角を緩めるために、崖線および丘上を掘削しているのが明らかになった。また、住宅地となった現在でも、その凹状の掘削跡をハッキリと確認することができる。したがって、陪墳なのか大きなサークルすなわち主墳の一部なのかは現状では判断できない。ただし、西南西にある小さな突起が大きなサークルの一部だとすれば、面白いかたちが現れる。
 現在の住宅地に敷設されている道路も、この突起に沿った面影を残しているが、大きなサークルと小さな突起を一体化して考えると、羨門を西南西に向けた前方後円墳で、しかも前方部が三味のバチ型をしているのがわかる。古墳ファンならおわかりだろうが、三味のバチ型をした古墳は3世紀末から4世紀初期にかけて築造された、もっとも古い時代の前方後円墳とみられているフォルムだ。しかも、南側の後円部と前方部の接合部には、造り出しとみられる突起も空中写真から見てとれる。ただし、現地を歩いてみたが現在の道筋は三味のバチ型を残してはおらず、また造り出しらしい突起部も大規模な宅地造成で姿を消している。この事例も、関東地方に大型古墳が数多く存在していてはマズイと考える史観・思想の薩長政府による、「官令達 乙部第百廿号」通達によって破壊され、急速に農地化が進められた古墳のひとつだろうか。
 もうひとつの考え方は、2013年(平成25)に行われた第704次発掘調査の報告では、大きなサークル横の切れこみ(凹状地形)を東山道武蔵路の開拓跡とは別に、国分寺崖線の形成時における自然渓谷=開析谷(かいせきこく)の跡が含まれると規定している。換言すれば、開析谷に沿って東山道武蔵路は拓かれたと考察している。したがって、大きなサークルと西南西側の突起はそれぞれ独立した存在ということになり、先述の主墳と陪墳の関係が有力になるだろうか。ただし、その場合は大きな正円状の突起が円墳なのか、前方後円墳あるいはホタテ貝式古墳なのかが不明だ。もし前方部があるとすれば、地形からいって北側になるのではないだろうか。以下、第704次調査報告の概略を、2017年(平成29)に国分寺市教育委員会から出版された、『古代道路を掘る―東山道武蔵路の調査成果と保存活用―』から、少しだけ引用してみよう。
  
 第704次調査区北側の開析谷(かいせきこく)は、谷頭から麓の湧水源に向かって緩やかに傾斜しており、測量地形図から算出される角度は推定で7.6度です。国分寺崖線側の開析谷を取り入れた狙いは、大規模な切り通し工事の労力を省く目的があったと考えられます。/東山道武蔵路のルート設定の際は、水を得られる場所、自然の地形、道路の直進性、作業効率など、様々な要素について検討されたことでしょう。(カッコ内引用者註)
  
 ただし、関東ロームの地下を流れる水脈は、ときどきルートを変えることがある。もし、数百年単位の時間が流れ、国分寺崖線の高台に深い掘削作業(羨道および玄室の設置)を含む、大規模な工事によって築造された古墳の下で、地下水脈の流路が変わり湧水が噴出するような変化が起きれば、おそらく羨道の石材は流出するか玄室は水没し、築造した古墳の墳丘土砂を削りとり、あるいは土砂崩れを起こしながら、自然谷戸のように見える開析谷が形成された可能性はないだろうか。換言すれば、地下水の流路が古墳期の崖地掘削工事で変わり、湧水が噴き出して形成された新しい谷戸、あるいは土砂崩れ跡を東山道武蔵路のルートとして利用した可能性はないだろうか。
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 武蔵野線の西側にある鍵穴型は、現地を歩いてみると見事に保存されているのがわかるが、鉄道をはさんだ東側の小突起や大きなサークルは、宅地造成で全的に崩され削りとられていた。かろうじて面影を残しているのは、サークルに沿うように敷設された道筋のカーブだけになっている。

◆写真上:敷設前の武蔵野線と府中街道をはさみ、東西に見える古墳らしい大きなフォルム。
◆写真中上は、墳丘とみられる後円部を貫通する伝鎌倉街道。中上は、切り通し上から見下ろした伝鎌倉街道(写真下の左右道路)で、正面の階段は丘上に建立されていたと伝わる元祥應寺跡への登り口。中下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。伝鎌倉街道が、前方部東側の墳丘下に沿って拓かれている様子がよくわかる。
◆写真中下は、墳丘上に築かれたとみられる伝祥應寺跡の現状。中上は、前方部とみられる丘を開発・整地して建てられている府中武蔵台二丁目第2アパート群。中下は、武蔵国分寺文化財資料室に展示されている伝鎌倉街道と東山道武蔵路(黄線)との位置関係。は、武蔵野線や府中街道の東側に見える大きなサークルがあった国分寺崖線を南側から。
◆写真下中上は、1947年(昭和22)に撮影された武蔵野線(敷設前)や府中街道の東側に見える大きなサークルや西南西の突起地形。中下は、道路が凹状に落ちこんでいる東山道武蔵路の敷設跡。は、現在でもかろうじて道筋のカーブを見ることができる大きなサークルの痕跡。正面の遠景に見える丘陵は、武蔵野線の西側にある伝鎌倉街道が通う鍵穴フォルムの後円部。
おまけ
 国分寺崖線沿いでも、目白崖線と同様にタタラ(大鍛冶)遺跡が発掘されている。鉄滓(スラグ=鐵液・金糞)をはじめ、溶炉に付属して使用された鞴(ふいご)の大きな羽口も出土している。
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十三間通りで消えてしまった門前商店街。(下)

⑧氷川社参詣19611115.jpg
 前回の記事につづき、今回も野本アルバムより1960年代の下落合風景をご紹介したい。前回は、薬王院の門前に展開していた、空襲から北側がかろうじて焼け残った昭和初期からの商店街写真が中心だったが、今回は商店街を離れ懐かしい下落合の街角をご紹介したい。
 まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、雑司ヶ谷道(新井薬師道)=鎌倉支道を歩いて氷川明神社へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の写真⑧から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ、1970年代の半ばには、いまだ正面に見えている板塀の家(島田邸)は建っていたが、ほどなく解体され駐車場になった。薬王院の山門横で、写真の左奥には何度かセメントで塗りなおされている同寺の石塀が見えている。現在は、正面の家の右手(東側)に建っていた住宅(佐藤邸)も解体され、駐車場の面積が拡がっている。ちなみに島田邸の板塀には、またもや「下落合医院」の看板が見えている。
薬王院参道前1963.jpg
 写真の右下には、土ぼこりをかぶった大谷石の築垣が見えているが、この基礎部分の大谷石は現在もそのまま残っており、上には別の石材で敷地と道路の境界垣が築かれている。少し前までは、みごとな大輪の菊栽培が印象的だった小井邸で、その手前右手には菓子も販売していたヤマザキパン「ちえこ」だった。わたしの学生時代から、小井邸の向かいには理髪店とキッチン「タカハシ」が開店していて、その南の角地には高田タバコ店が営業していたが、現在はすべて閉店してしまった。薬王院の参道と山門は、写真左手の枠外に見えているはずだ。この道を右折して東へまっすぐ進めば、七曲坂の坂下をへて氷川明神社の境内北側へと抜けられる。
⑨氷川社七五三19611115.jpg
⑩氷川社七五三19631115.jpg
 冒頭写真の11月15日の日付からおわかりだと思うが、オシャレなおそろいのベレー帽をかぶって氷川明神社へ参詣するのは、七五三を祝うためだった。写真⑨では、拝殿横で撮影された千歳飴の袋をもつ母子3人がとらえられている。現在は、写真左手の位置にカンザクラ(寒桜)が大きく育ち、落葉している時期でなければこの位置から拝殿を見とおすことはむずかしい。また、十三間通り(新目白通り)が貫通する前なので、撮影者の背後は現在のようにすぐ南側の階段(きざはし)と鳥居ではなく、南側の濃い樹林が境内をとり囲んでいたはずだ。
 翌々1963年(昭和38)11月15日に、氷川社で撮影された七五三の写真⑩も残されている。現在は、おそらく位置を変え柵が設置されて保存されている狛犬だが、当時は台座(富士山の溶岩石だろうか)が、かなり高さのあったことがわかる。奥の着物女性の前では、「一袋五十円」で千歳飴が売られている(いや授与されている)。また、現在は拝殿・本殿の横(北側)に舞殿(神楽殿)が建設されて、写真のように見通しがきかない。写真には、七曲坂の下に建っていた家々がとらえられており、そこに右から左へ「神輿蔵」と書かれた文字が見えていて、わたしにとってはめずらしい風景だ。
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 ここで、氷川明神とその周辺をめぐる戦前の風景を、杉森一雄『落合昔語り』(2006年)より引きつづき引用してみよう。文中には、竹田助雄が書いた『落合小景』からの引用も含まれている。
  
 落合の郷土史家竹田助雄氏の『落合小景』という文の中に、次のような一節がある。//【高田馬場駅を降りて……父と私は人通りの少ない曲りくねった砂利道を、連れ立って歩いた。/途中に薄気味わるい変電所があり、その前の橋を渡ると川がU字形に彎曲しているところがあった。U字型の此方(こっち)は路肩が崩れ落ち、道路の下をえぐるように渦を巻いて激しく流れていた。(中略) そこから杉木立の生い茂るお宮の前を通り、すこし行くと道は狭くなり、人通りは全く絶えて、絶えたところの森の中に茅葺家が数軒見えた。またすこし行くと鄙びた通りには、八百屋、魚屋、肉屋が一軒ずつあった。】// これは昭和六年の話である。竹田氏も解説しておられるが、この道筋は、高田馬場駅前交番の脇を入り、田島橋を渡って神田川に沿った道路(今より川がはるかに曲がりくねり、道も曲がりくねっていた)を進み、西武線の踏切を渡って氷川神社の脇から薬王院へ、さらにその門前から南に直角に曲がり、また西に向かって下落合駅に出たものだ。八百屋、魚屋、肉屋の通りは、放射七号線(新目白通り)の開通で店も通りもすべてなくなった。
  
 昭和初期、早稲田通りに面した栄通りの入口には交番があり、「薄気味わるい変電所」はもちろん目白変電所のことだ。興味深いのは、道路が崩れそうな旧・神田上水の渦巻きだろう。江戸期に釈敬順が『十方庵遊歴雑記』に記した、旧・神田上水の田島橋付近で見られた「犀が淵」と同様の急流による渦巻きが、昭和初期にもその近辺で発生していたようだ。ちなみに1931年(昭和6)当時は、下落合駅が前年7月に氷川社前から西(現在地)へ移転したばかりのころだ。
⑪下落合駅1962春.jpg
下落合駅1963.jpg
⑫中井駅1962春.jpg
中井駅1963.jpg
 1962年(昭和37)の春に撮影された、その下落合駅の写真⑪も残されている。家族の背後に写る切符切りの駅員がいる改札の向こうには、当時の西武新宿線の電車が停車しているのが見える。また、古い写真類ではお馴染みの、柵沿いに設置された公衆電話ボックスも見えている。この駅舎は、わたしが落合地域を散策しはじめた1970年代半ばも変わらない風情だった。
 写真⑫は、同時期に隣りの中井駅のホームで撮影されたものだ。ホームの南東側から、北西を向いてシャッターが切られており、ホームベンチの形状や、線路の北側に近接するアパートらしい家々の様子が懐かしい。また、鉄道広告の「宮田家具」も今日では見かけない看板だ。1962年(昭和37)の当時、宮田家具の総本店は中野にあり、中井駅の周辺にも支店を展開していたものだろうか。「横丁で地理的不便の為め!/都内随一の安売り/宮田家具」は、時代を感じさせるキャッチフレーズだ。不便な場所に開店しているから安くするよ……というのは、配達が前提の家具店にはそぐわないコピーだろう。「都内随一」は、現代なら広告コードにひっかかる禁止表現だ。
⑬落四小幼稚園運動会196210.jpg
⑭落四小運動会1963春.jpg
⑮落四小御留山1964春.jpg
落合第四小学校1963.jpg
 落合第四小学校で開かれる運動会の写真は、ほぼ毎年撮影されている。写真⑬は1962年(昭和37)10月に撮影された秋の運動会、写真⑭は1963年(昭和38)撮影の春の運動会、写真⑮は1964年(昭和39)に撮影された春の運動会の画面だ。わたしが下落合を歩きはじめたころ、落合第四小学校の校舎は鉄筋コンクリート仕様(つまり現在の姿)になっており、写真に写る下見板張りの木造2階建て校舎は存在しなかった。同小学校は、二度にわたる山手大空襲からも焼け残り、写真にとらえられている校舎は1932年(昭和7)からつづいている建築だ。
 写真⑮のPTAフォークダンスには、背景に樹木が鬱蒼と繁る御留山の濃い緑が見えている。この時期、御留山はいまだ公園化されておらず、敷地は東邦生命(旧・第一徴兵保険)のち大蔵省が所有して公務員宿舎「落合住宅」の建設予定地になったままだった。竹田助雄が前年(1962年)の夏、落合新聞の一面トップに「落合の秘境」と書いて報じていた時代とそのままシンクロする、リアルタイムの情景だ。木々は手入れがなされておらず、伸び放題だった様子が見てとれる。
⑯氷川社祭礼196409.jpg
 最後の写真⑯は、しばらく考えてみてからわかった。右手に見えているのは、下落合駅前に建っていた「三楽ホテル」の一部であり、2階窓の手すりは赤いベンガラで塗られていただろう。画面の右上隅には、大きなシュロ(棕櫚)の葉の一部が見えている。現在、このシュロは伐られイチョウの大木のみが残されている。左手には、氷川明神の神輿か太鼓山車(曵太鼓)が見えており、三楽ホテルの前には宮元睦会によるお神酒所が設置されているのだろう。この正円形にカーブする道を奥へ進むと、関東バスが通う聖母坂通り(補助45号線)へと抜けられる、大正期まで小名「摺鉢山」と呼ばれたエリアだ。撮影者の左には宮沢製作所があり、下落合駅を利用するとき溶接の火花をよく目にした。左手には妙正寺川が流れ、西ノ橋をわたれば目の前が下落合駅だ。
 下の子がカブスカウトに加入し活動していたため、三楽ホテルにはずいぶんお世話になっている。ホテルの前には、「〇〇学校修学旅行御一行様」というような、黒い板に白文字の手書きプレートが頻繁に立てられていたけれど、「宿泊は新宿のホテルだってよ!」と喜び勇んでやってくる修学旅行生たちには、ちょっとかわいそうな気がしていたのも正直なところだ。生徒たちは、きっと新宿駅西口あたりのパークハイアットやキンプトン、ハイアットリージェンシー、京王プラザのようなホテルをひそかにイメージしながら、ウキウキとやってきたのではないだろうか……。(汗)
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 ほかにも、野本様より貴重なアルバム4冊もお預かりしているので、十三間通り(新目白通り)工事が行われる以前、薬王院門前の商店街や氷川明神社の周辺に展開していた下落合の風景を、再びご紹介したいと考えている。また、わたしが写っていても不思議ではない、なんと夏の大磯で撮られた同時代の写真もあるので楽しみだ。貴重なアルバムをありがとうございました。>野本直揮様
                                          <了>

◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。
おまけ
 1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として保存が決定する6年前の御留山の鳥瞰写真と、竹田助雄が「落合の秘境」として報じた落合新聞の1962年(昭和37)7月12日号。
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