西武線の第二高田馬場仮駅は早稲田通り沿い。

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 数年前、1926年(大正15)に鉄道連隊によって西武鉄道村山線(地元や当時の新聞雑誌では通称・西武電鉄)が敷設され、翌1927年(昭和2)4月に営業が開始された際、高田馬場駅の「三段跳び」と称する事蹟を、野方町江古田1522番地の須藤家記録からご紹介していた。
 1926年(大正15)の年内に、鉄道連隊(千葉鉄道第一連隊の一個大隊)は山手線の土手下まで軌条の敷設を終え、レールの敷設を追いかけるように電柱・電線やホーム、駅舎の建設が進められている。東村山から田無(実際は井荻付近か?)までの線路敷設は8日間、田無から省線(山手線)・高田馬場駅の北方200mの西側土手下までのそれは7日間の、のべ15日間=約2週間で鉄道連隊は演習を終え、1926年(大正15)の年内に千葉県の連隊本部へ帰営している。
 須藤家の記録では、鉄道第一連隊の演習本部が置かれていた関係からか、東村山-田無-山手線土手までの軌条敷設は、鉄道第一連隊のみの演習ととらえているようだが、同演習は国立公文書館に残る演習関連文書によれば、1926年(大正15)秋に行われた鉄道第一連隊(千葉)と鉄道第二連隊(津田沼)による、朝鮮鉄道鎮昌線における軌条敷設合同演習の“延長戦”としてとらえられており、田無町の増田家に演習本部を設置し、東村山-田無(実際は井荻付近か?)間の軌条敷設演習を実施したのは、習志野鉄道第二連隊ではないかと想定している。
 すなわち、須藤家の記録では東村山-田無-山手線土手下までの軌条敷設は、鉄道第一連隊によるのべ15日間ということになっているが、東村山-田無(鉄道第二連隊)と田無-山手線土手下(鉄道第一連隊)の敷設演習を、競うように同時進行で行ったとすれば、その半分のリードタイム(約1週間)で軌条が敷かれてしまったことになる。朝鮮鉄道の鎮昌線においても、両連隊(千葉鉄道第一連隊298名+習志野鉄道第二連隊303名)はお互い競いあうような演習形態を採用しており、それは4名の殉職者(鉄道第二連隊)を出すほどの熾烈な競争だった。鉄道連隊の演習は、他の陸軍演習と同様に実戦さながらの危険性と背中合わせだった。
 1926年(大正15)の年内に軌条敷設を終えた鉄道連隊は、翌1927年(昭和2)1月13日に西武線演習で使用した“新兵器”である、笠原治長工兵曹長(鉄道第一連隊)が発明した「軌条敷設器材」の性能結果を、近衛師団長の津野一輔から陸軍大臣の宇垣一成へ提出している。この報告と申請書は、陸軍における制式採用を前提としたものでもあった。
 軌条敷設を終えた西武線だが、ホームや駅舎の建設はともかく、電化(電柱・電線の建設)を終え実際に列車を運行できる状態になったのは、昨年ご紹介したように1927年(昭和2) 2月15日ではないかと思われる。これは、陸軍所沢飛行場に残された史料や記録類をまとめた、1978年(昭和52)刊行の小沢敬司『所沢陸軍飛行場史』(非売品)に掲載された年譜中、同年2月15日の項目に「西武鉄道、東村山=高田馬場間開通」と記載されていたからだ。
 つまり、西武線が乗客を乗せて走る同年4月16日の開業以前、2ヶ月も前に陸軍では西武線が「開通」したと認識しており、この2月15日から4月16日までの約2ヶ月間を利用して、陸軍は多摩湖建設のために建築資材の一大物流拠点となっていた、東村山駅の周辺に蓄積されているセメントや玉砂利などの資材を、多彩な陸軍施設のコンクリート建築計画が目白押しだった戸山ヶ原へせっせと運びこんでいたと思われるのだ。
 また、西武鉄道では高田馬場駅から先の市街地へと乗り入れるため、諏訪通りの地下を貫通する地下鉄「西武線」の早稲田までの延長計画を立案していた時期でもあり、大量のセメントや砂利など建築資材の運搬は、同社の重要な優先課題でもあっただろう。
 少しあとの時期になるが、西武線・高田馬場駅の南側に隣接して、建築資材をストックしておく「砂利置き場」が設置されたことも、濱田煕のイラストとともにすでにご紹介していた。落合地域の住民たちが、西武線の開業前にもかかわらず、多くの貨物列車が頻繁に往来するのを目撃して不可解に感じていたのは、まさにこの2ヶ月間の出来事だったとみられる。
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 もちろん、この2ヶ月間に建築資材が運ばれたのは、山手線西側の線路土手下に設置された第一高田馬場仮駅ではなく、操車場が設置され周囲の敷地に余裕があった下落合氷川社前の下落合駅だった。第一高田馬場仮駅では、旧・神田上水(1966年より神田川)をまたぐのは木製の利用客用連絡桟橋(歩道)であり、陸軍の物流トラックは通行できなかった。おそらくこの計画を踏まえたのだろう、氷川社前の下落合駅から栄通りを経由し、早稲田通りへと抜けられる田島橋は、大正末に頑丈な鉄筋コンクリート橋に架け替えられている。
 さて、山手線の線路土手(西側)の第一高田馬場仮駅の様子は、省線・高田馬場駅の北方200mの線路土手に沿った位置にあり、旧・神田上水をまたぐ連絡桟橋も含め、1928年(昭和3)に作成された「落合町市街図」に採取されている。また、山手線の高田馬場駅は当時のホームが短かったため、現在とは異なり早稲田通りのやや南側に位置していた。したがって、北側から連絡桟橋を下りて早稲田通りをわたれば、すぐに改札口へ入れたわけではなく、多少の距離を南へ歩いたとみられるのは当時の地図類を参照すれば明らかだ。
 「高田馬場駅の三段跳び」の第一高田馬場仮駅(ホップ)、第二高田馬場仮駅(ステップ)、早稲田通りを高架でまたぎ山手線・高田馬場駅の東側に並行して乗り入れた、最終形の西武高田馬場駅(ジャンプ)のうち、第二高田馬場仮駅(ステップ)の位置のみが、その存在が短期間だったせいか明確な資料も地図も見あたらず場所がハッキリしなかった。
 前回の記事では、山手線をくぐるガードが竣工すると第二高田馬場仮駅は、山手線東側に築かれた「早稲田通り手前の西武線線路土手」のどこかに設置されたと、曖昧な記述のまま終えている。ところが、親しい友人から1984年(昭和59)1月28日に発行された「練馬郷土史研究会会報/第169号」のコピーをいただいた。同会報には、以前の記事でご紹介した『江古田昨今』(中野区江古田地域センター)の執筆者と同じ、鉄道第一連隊の演習本部となった須藤家の、須藤亮作という方が文章を寄せている。同会報の「西武鉄道の開通」より、少し長いが引用してみよう。
  
 工事はレールが布設された方面から電柱、電線が施設され、停車場の諸設備が竣工し全線が整備されて、昭和二年三月末頃には電車の試運転が実施された。/四月十六日には待望の開通式が挙行され、乗客をのせた電車が沿線の居住者に歓迎を受けて走ったのである。/起点になる高田馬場の仮停車場は、山手線の土手下で神田川の北側に設置され、土手の下部を土手に沿って板張りの歩道を設け高田馬場駅前(現今の早稲田道)へ連絡した。板張りの通路をガタガタ音をたてて歩いたのも思い出の一つである。/数年の後、山手線の土手をガードで東側へ抜け、土手に沿って南折し、神田川を鉄橋で渡り山手線に平行して早稲田通まで鉄道が布設され、仮停車場も移行された。/更に数年後には、早稲田通に陸橋が架けられ、ホームも高田馬場駅と並び、駅も構内に新設された。西武線高田馬場駅は三段飛びで定まった。後年、新宿まで延長し名実ともに西武新宿線になったのである。
  
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 この証言によれば、山手線をくぐるガードが竣工したあと、西武線の線路土手上に早稲田通りまでの軌条敷設は終わっていたが、同通りをまたぐ鉄橋の建設が間にあわなかったので、そのすぐ手前にあたる西武線の土手上に第二高田馬場仮駅を設置し、早稲田通りから(おそらく新設した解体しやすい木製階段を伝って)乗降させていたことがうかがえる。
 わたしが前回の記事で想定していたのは、山手線のガードをくぐったすぐ先(築造中の線路土手が完成している地点)に第二高田馬場仮駅を設置し、そこから第一高田馬場仮駅と同様の木造連絡桟橋(歩道)を設けて、利用客を早稲田通りまで導いたのではないかと考えたのだが、どうやら線路土手はすでに早稲田通りまで完成しており、工事中の鉄橋直前に第二仮駅を設け、下を横切る早稲田通りへ利用客を降ろしていた、あるいは早稲田通りから仮駅へ上らせていたということらしい。早稲田通りと接続する第二仮駅の階段は、おそらく神高橋へと通じる東側の道筋ではなく、現在のTAK11ビル(線路土手の西側)に設置されていたのだろう。
 もう少し「練馬郷土史研究会会報/第169号」より、須藤亮作の証言を引用してみよう。
  
 中野区の北部旧野方町内に次の五つの駅が設置された。新井薬師前、沼袋、野方、府立家政、鷺宮であって、現今の駅舎は開通当時の建築であるのもなつかしい。/尚、府立家政(現今都立家政)の駅名は、大正末年まで桃園町(中野三丁目)に府立家政女学校が在って下鷺宮(現今若宮)へ移建され、その名がつけられたのである。/開通当時は、1輛の電車で閑静なローカル線であったが、現今は一〇輌編成でも満員になっている。
  
 西武線の1両電車は、その後もしばらくつづいているが、郊外人口の急増とともに、1930年(昭和5)には高速車両が導入され、運行本数も徐々に増発されていったようだ。
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 須藤家の演習本部には、千葉鉄道第一連隊の少佐(大隊長)に直属の大尉が2名、副官の中尉1名に当番兵4名が常に詰めていたが、残りの200~300名の兵士はどこで仮眠や食事をとっていたのだろう? 鉄道連隊の演習はそもそも“戦闘中”が前提なので、24時間勤務の工事休みなし交代制であり、非番の兵士は敷設中の線路伝いにテントを張って大休止していたものだろうか。

◆写真上:第二高田馬場仮駅の階段があったとみられる、西武線ガードとTAK11ビル(左手)。
◆写真中上は、1928年(昭和3)作成の「落合町市街図」に描かれた山手線西側の第一高田馬場仮駅と木造の連絡桟橋。中上は、1952年(昭和27)に撮影された西武線開通前後に貨物列車をけん引したとみられる電気機関車1形1号。中下は、昭和初期に撮影された1両編成の西武線。下は、山手線西側の線路土手下にあった第一高田馬場仮駅跡。
◆写真中下は、西武線軌条敷設演習後の1927年(昭和2)1月13日に提出された「鉄道敷設器材審査採用ノ件申請」。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる高田馬場駅「三段跳び」の様子。は、1947年(昭和22)の空中写真にみる第二高田馬場仮駅跡の様子。
◆写真下は、1930年(昭和5)導入の西武線高速車両。中上は、1950年(昭和25)前後に撮影の山手線ガードをくぐる西武線モハ311形など。中下は、1956年(昭和31)に西武新宿駅で撮影された501系モハ501などの急行電車。は、わたしの学生時代にはおなじみだった1980年(昭和55)撮影の西武新宿線下落合駅の踏み切り(下落合駅1号)を走る401系で、背後は学徒援護会の学生会館。
おまけ1
 市街地への乗り入れを見こして、地下鉄「西武線」に設置予定の早稲田駅までがイラストに記載された、1927年(昭和2)3月発行のカラー版「西武鉄道沿線御案内」パンフレット。
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おまけ2
 妙正寺川をわたり西へ移動(1930年7月)した下落合駅へと向かう、1936年(昭和11)ごろ撮影された西武線のモハ500形。左手には目白変電所へと向かう、東京電燈谷村線の高圧線鉄塔が見えている。下の写真は、1971年(昭和46)に撮影された下落合駅に入線する西武新宿線の451系。
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どこまでも「新南画」を追求する湯田玉水。

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 きょうは、大久保作次郎アトリエと同じ住所の下落合540番地にアトリエをかまえていた、日本画家の湯田玉水について書いてみたい。ただし、湯田邸の敷地は1932年(昭和7)以降に、アトリエの番地が下落合1丁目541番地へと変更されている。
 「日本美術年鑑」(東京朝日新聞社)や興信録などの資料を見ていて改めて気づいたことだが、目白通りの北側へ相模湾の海岸から眺めた伊豆大島のようなかたちに張りだした、下落合500番地台(現・下落合3丁目)のエリアには、日本画家たちが数多く住んでいた。湯田玉水邸は、大久保作次郎アトリエから3軒めの南側に建っていた。
 湯田玉水は、1919年(大正8)にアトリエを建設して下落合の同所にやってきた大久保作次郎より、目白駅も近いことから、もう少し早い時期に下落合へきていた可能性がある。下落合793番地につづき、近衛旧邸の北側エリアの下落合436番地に、大正初期から住んでいた日本画と洋画の双方をこなす夏目利政よりはあとの転居だとみられる。湯田玉水は「美術年鑑」によれば、1916年(大正5)まで牛込区馬場下町45番地(現・新宿区馬場下町9番地)に住んでおり、同年に下落合464番地にアトリエが完成した中村彝の転居と、ほぼ同時期ではないだろうか。
 大正期の早くから下落合にいたとみられる湯田玉水は、1926年(大正15)の時点で荏原郡松沢村(現・世田谷区北西部)にアトリエを建てているようだ。だが、美術誌には建設中の告知がなされているものの、その後、アトリエが竣工して転居した情報がつづかない。なんらかの不都合が生じアトリエの建設を中止したものか、1928年(昭和3)には下落合から荏原郡碑衾町(ひぶすままち)(現・目黒区)に転居しているのが判明している。健康上の理由かなにかで、転居先を松沢村から急遽、碑衾町に変更したものだろうか? 湯田玉水は、翌1929年(昭和4)に52歳で死去しているので、その可能性が高いようにも感じる。
 湯田玉水は、日本画のなかでも南画(中国の南宗画に由来する日本画の流派)をベースに制作をつづけた画家で、下落合時代が制作のピークだったと思われる。玉水は、日本画の美術団体「日本南画院」に所属していたが、江戸期から明治期にかけての決まりきった、平凡で惰性的な“お約束”にもとづく表現に明け暮れるのとは異なり、大正期は定型的なモチーフや画題、構図などを離れて、比較的自由な表現が可能になっており、湯田玉水が属する日本南画院もまた、そのような方向性をめざす日本画家グループだった。
 南画の出発点である、表現を「高尚にする烈しい心持をもつて居た高眼達識の士が、その凛々たる風韻を伝へんが為」に制作していたものが、今日の画家たちは惰性的で、平俗的な表現に満足してしまっていると、玉水は批判している。1928年(昭和3)に刊行された「藝術」9月号(大日本藝術協会)収録の、湯田玉水『南画と自己鑑別』から少し引用しよう。
  
 まことに物の表裏は一枚であると云ふが、南画的に於て志す「高尚」なる其裏はおのづから「平俗」への通り抜けの危険を含んでゐたのであつた、(ママ:。以下同) 一筆草々の早仕事が、たとへどうでもまだ南画本来の意志と連絡のある迄はよいが、遂には筆のたくみから筆の芸へと落ちてしまつた、これはわづかに其一例に過ぎない、数へれば此南画道が近世に於て、芸術的に盲目な境地へ沈んで行つた因果の関係は、或は日に日を足しても足りないかもしれない、/私はその事で一番恐ろしいと感ずるのは、南画道にいはゆる「ナニ、南画だから此位の……」と称される所の、「ぞんざい」と「不用意」とが、公々然と許された形で横行した事の姿である、/今日、南画道に於ては、最早その「ぞんざい」と「不用意」とは決して許されはしない、然し「南画だから、ナニ構つた事はない、此位の……」といふ概念的の或示唆が、事実に於てまだ多分に働きかけをする、/真に南画の芸術を取戻す為には、この示唆こそ、実に悪魔の囁きにもまさつて恐るべき、南画興隆の妨害的大邪魔物である、
  
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 この「大邪魔物」を退治するには、画家自身の主体性において、制作に「此位の……」というような安易な妥協をせず、どこまでも自身にきびしく芸術的な表現精神を鍛え、「自己鑑別」力を身につけなければならないとしている。かなり激しい表現だが、それほど当時の日本画家、とりわけ南画を基盤とする画家には、通俗的で惰性的、ありきたりで「平俗」的な画面があふれていたのだろう。そもそも出発点の精神性を忘却し、小手先の筆技術・技法のみによりかかった表現に、湯田玉水は若いころからガマンがならなかったのではないか。
 湯田玉水は、福島県南会津郡の田島町(現・南会津町)の出身で、いまだ会津戦争の記憶も生々しい1879年(明治12)に生まれている。大森南岳と川端玉章のふたりに師事し、日本南画院が主宰する展覧会を中心に出品しつづけている。また、個展も頻繁に開いており、晩年に近い時期には日本橋白和堂での定期開催が確認できる。「玉水」のほか別号を「会津山人」と名のり、山水などを中心とする風景の軸画を得意としていた。
 また、日本南画院は1921年(大正10)10月に創立された画会で、本部は京都市御幸町三条下ル海老屋町(現・中京区御幸町通三条下る海老屋町)に置かれていた。日本南画院の同人には、湯田玉水をはじめ池田桂仙、矢野橋村、小室翠雲、水田竹圃、石川寒厳、服部五老、安田半圃、矢野鐵山、山口八九子、河野秋邨、赤松雲嶺、幸松春浦、水田硯山、水越松南、白倉二峯、人見少華などが集っていた。毎年、東京をはじめ京都、大阪、福岡、熊本で展覧会を開催している。
 では、日本南画院とその同人たちがめざしていた新しい南画表現とは、どのようなものであったのだろうか? 当時の作品を見た評論家たちは、彼らの作品に「表現派」あるいは「自由画」というようなレッテルを貼ったらしい。1925年(大正14)に大日本藝術協会から発行された「藝術」10月号には、玉水本人が語る「新しい南画」論が収録されている。同誌より、湯田玉水『南画展所感』より少し引用してみよう。
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 生み出すといふからとて、何も無理して変つたものを作るといふのではなく、南画の極めて自由な精神に基いてで、換言すれば、故を温ねて新しきを知る意味で、新しい南画を生んで行きたいと思ふのである、(ママ:。以下同) 南画とさへ云へば、従来あまり形式的に走り過ぎて居つたので、斯の如きもののみが南画であるやうに誤解されて居つたのであるから、我々はその誤解を解いて、南画の本然の精神に復らねばならぬ次第である、/南画院の作品を見て、これは南画と云ふよりも表現派と云ふが善いの、いや自由画といふが適当だとか云ふ人もあるが、我々は矢張南画といふ方が東洋的でよいと思ふ、歴史的の名称といふものゝ中に、また得も云はれぬ懐しさもあるので、これは捨てたくないものである。
  
 伝統や過去の表現手法に寄りかかる芸術にはありがちな悩みだと思われるが、昔日の技術や手法を用いて従来にはない現代的で新たな表現をめざすのは、非常な困難と努力とをともなうものの、ある意味では表現者が挑戦してみたくなる高い障壁の魅力があり、またそれが近代絵画としての日本画(新南画)を模索するダイナミズムでもあったのかもしれない。湯田玉水が、それに成功しているかいないかは別にしても、美術に限らず音楽や演劇、文学、工芸などさまざまな分野でも、同様の試みは過去に何度も繰り返し行われている。
 拙サイトでも、前世紀の初めに伝統的なフランス心理小説を踏襲した作品(R.ラディゲ)と、その手法を戦後文学に取り入れた大岡昇平の作品例をご紹介していた。小説の冒頭で「時代遅れであろうか?」と問いかける大岡昇平は、別に言葉どおりフランスの伝統的な心理小説を模して、時代遅れな作品を書こうとしていたわけではなく、心理小説という表現手法のリーチが時代を超えて、どこまで伸ばせるのかを実験するためにつぶやいた言葉だったろう。
 それは、いまだ同手法で表現しきれていない領域(世界)があることを、手つかずの表現(少なくとも日本では)があることを常々感じていたからこそではないか。また、奈良期の乾漆彫刻の技法を現代彫刻によみがえらせた、山本豊市のルネサンス事例なども同様だろうか。
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 岡倉天心は、東京美術学校を開設する際に、あえて南画の科目を設置しなかったらしい。あまりに型どおりの“お約束”から離れない形式主義や伝統表現に陥り、そこに新たな美を追求する芸術の積極性や前進性、自由闊達さなどがなかったためだと思われるが、同時に狩野芳崖橋本雅邦など北画(中国の北宗画に由来する日本画)の分野に、新しい表現を厳しく追求する気鋭の画家たちがそろっていたという事情もあったのかもしれない。現代の東京藝術大学美術学部の日本画科では、北画でも南画でも学生たちが自由かつ好きに選択し、学べるようになっているにちがいない。

◆写真上:下落合540番地にあった、湯田玉水アトリエ跡の現状(路地右手)。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「出前地図」にみる湯田玉水邸。同地図は、大ざっぱかつ不正確で番地や道筋の採取をまちがえており、当時は路地の突きあたりに建っていた大久保作次郎アトリエの敷地にふさがれ、北側の目白通りへは通り抜けができなかったはずだ。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる湯田玉水アトリエ跡。1932年(昭和7)を境に、番地が下落合540番地から下落合1丁目541番地に変更されている。
◆写真中下は、1925年(大正14)に撮影された日本南画院同人の記念写真。は、1928年(昭和3)に制作された湯田玉水『対牛弾琴』。
◆写真下:制作年は不詳だが、湯田玉水による軸画『山腹の宿場図』。どこか江戸期の浮世絵にみられる、安藤広重あたりの風景画を想起させる表現は、画家の意図したところだろうか。

紙にものを書かなくなった机と書斎はいつまで?

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 わたしの机はいま使っているものが、これまででいちばん粗末でボロいだろうか。両袖には引出しもなく、天板と同じ幅の合板脚が左右に付属し、背後にはそれを支える太い幕板が2枚(合板)付属している。天板は合板の厚いもので、机というよりは頑丈な置き台のようだ。
 もう30年近くも使っているので、ところどころ表面の板目を装ったコーティングが剥がれ、中身の安っぽい生の合板が見えている。ときどきミシッとかピキッとか妙な音を立てるが、おそらく季節ごと温湿度の高低多寡によるのだろう。横の幅だけは長く、改めて測ってみたら150cmほどはありそうだ。ニトリやAmazonで調べてみたら、だいたい1万円前後の価格帯のもので、いまでも安く手に入りそうだ。考えてみれば、これまでわたしが使ってきたものの中では、いまの机がいちばん武骨で粗末であり安モノではないかと思う。
 小学校から中学時代まで使っていた机は、壁際の書棚や引出しと一体化した折り畳み式のもので、4畳半サイズだったわたしの部屋では、机を折りたたんでから蒲団を敷いて寝ていた。親が大工か指物師に頼みオリジナルでつくらせたのだろうが、合板ではなく無垢材(材質は憶えていない)でつくられており、表面は滑らかなニスが濃い色に塗られていた。壁につくり付けにするのだから、大工か指物師の手間賃も含めれば、けっこう値も張ったのではないだろうか。
 高校から大学時代に使っていたのは、ありがちな合板机だったけれど、かなり重たくてツヤツヤしており、親がけっこう高めな机を買ってくれたのだろう。「これでしっかり勉強しろ」ということだったと思うが、わたしは隠れて好きな本を読みふけりヒマなときは絵ばかり描いていた。机の左横には大きめな引き出しが4つほど付いていたが、ほとんど整理をしないせいか文房具類を乱雑に入れっぱなしにしており、行方不明のモノを探すのがたいへんだった。
 学生時代の後半は、親から独立して学生アパートで暮らしたが、机はほとんど使わなくなり、机上は物置きか平積みの本棚と化していった。そのかわり、なにもかも電気ゴタツと座イスで済ますようになり、食事も勉強も読書もみんなコタツ(夏はコタツ掛けなし)で用を足していた。座イスさえ倒せば、いつでも寝られる気楽なひとり暮らしの生活は、わたしにとっては新鮮で天国だった。この電気ゴタツと座イスは、忘れもしない目白通りと山手通りの交差点角にあった、いまも場所を少し北に移して営業中のリサイクルショップで安く手に入れたものだ。
 大学を卒業してマンション暮らしになると、当時はバブル経済の真っただ中で徹夜仕事もめずらしくなかったため、自宅の机はますます使わなくなり、結婚する前後に処分してしまった。そのかわり、16ビットPCが発売されてしばらくすると、従来の机の半分ほどのサイズだったPCラックを買った憶えがある。当時のPCは大きく、ラックはけっこうな面積を占領した。NECがPC-98シリーズやPC-100、富士通がFMシリーズ、Appleがマッキントッシュを発売して間もなくのころだった。マンションはカーペットを敷いた洋間仕様だったが、学生時代からのコタツはそのまま使っていたので、机がなくてもそれほど不自由は感じなかったのだ。
 戦前、落合地域に建てられた西洋館の書斎には、必ずおしゃれなスタンドとともに洋風の机やイスが置かれていた。和館にも書斎の間はしつらえられて、丈の低い書きもの机(文机)が置かれていた。ものを書くには必須だった書斎や机だが、上落合553番地に住んだ吉川英治は外出からもどると、まずは書斎机の前に座りホッとひと息入れることで落ち着いたと書いている。1936年(昭和11)に新英社から出版された、『草思堂随筆』収録の『ゴシップ』から引用してみよう。
  
 永い習性といふのか、家に帰ると、私はすぐ、有るべき所にあるものが帰つたやうに、机の前に、坐りこむ。/机と私、私と机。/おそろしいやうな宿縁だ。/やむを得ない私用か、或は、夜更けて、酒席からのがれて来た晩なども、これから、ペンがとれないほど疲れてゐても、いちどは、机の前に、坐つてみないと、気がすまないのである。ほんとに、家へ落着いた気がしない。
  
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 吉川英治にとっては、机の前が自分の居場所であるといいたいのだろうが、それにしてはよく原稿用紙を手に、やす夫人の前から姿を消しては旅館や温泉場などへ出かけている。この文章が書かれたのは、やす夫人との離婚寸前にあたるので、いつヒステリーを起こすかわからない夫人を気にしつつ、自宅の机はそれほど落ちつける場所ではなかったのではないか。
 上落合2丁目829番地の“なめくじ横丁”、次に下落合5丁目2069番地の“もぐら横丁”に住んでいた尾崎一雄は、机の素材から形状にまでかなりこだわっていたようだ。1971年(昭和46)に、俳句雑誌「馬酔木」10月号に執筆されたエッセイ『四角な机丸い机』では、そんな机ヲタクぶりを披露している。かなり細かなこだわりがあったようだが、抜粋して引用してみよう。
  
 この机――現にその上でこれを書いてゐる欅の真四角な机は、一辺がかつきり八十糎(cm)ある。大きさは手頃だが、高さがちよつと不足なのは、身体の小さかつた母が、自分に合ふ寸法にさせたのか、と想像されたりして面白い。但し、使ひにくいので、書きもの机として常用はしてゐない。(中略) もう一つの方(伐採された松材)は、直径八十五糎、厚さ十二糎で、この断面には傷がない。昨年十月に伐られた木の、地上十三米(m)の部分の断片である。私はこの無傷の方を机につくらせ、書きもの用にするつもりだ。半年ぐらゐ陽かげで乾かせとの注意で、廊下にずつとたてかけて置いたが、やはりヒビが入つた。しかしかまはず机にするつもりだ。すでにある職人と約束済みである。その老職人は、「お宮の松の木」で机を作ることに大きな興味を抱いてゐる。脚にするための、同じ樹の太い枝も貰つてある。(カッコ内引用者註)
  
 尾崎一雄は、祖父の代まで神官をつとめていた社(やしろ)の老松が伐られるのを見て、その一部を譲り受け、早くから書きもの机にしようと計画していた。
 これほど「机」を気にし、こだわる作家たちだけれど、現代の多くの著述家の机上には原稿用紙や文房具などないのではないか。置かれているのはPCのみで、それもSaaS上のソフトウェアを活用して手もとにはなにも置かない、小型で軽量なTHINクライアントのみかもしれない。あるいは、WiFi/WiMAX環境を設定したノートPCで、別に書斎にあるデスク上に限らず、いつでもどこでも原稿が書けるような創作環境の人も多いのだろう。そうなると、あえてデスクも不要になり、寝室や居間、喫茶店、ファミレス、取材先、ホテルと、どこでも自在に執筆できてしまう。
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 わたしも、机の上で書きものをする機会がほとんどなくなった。もともと字がヘタなので、ずいぶんと助かっている。それでも、前世紀の古い人間なので万年筆文房具一式にはこだわりがあっていちおう保存している。でも、実際には“紙”へ字を書く機会はないに等しい生活だ。せいぜい、いただいた手紙やハガキに返事を書くか、あるいはワープロで打った手紙に署名するかしか、あえてペンを握ることはなくなった。
 いま、家の机上に乗っているのは、正面に大きなモニターとキーボードが、右手にやや小さめなモニターとキーボードが、机の左下には大きめなデスクトップPC本体(メインマシン)と外付けのストレージが、右下にはサブマシン(冗長化バックアップ)用の小さめな本体が置いてあり、ほかにワイヤレス固定電話とA4サイズのスキャナ、それにスマホとLEDスタンドがあるだけだ。デスクサイドには、どこへでも携帯できるA4サイズのノートPCが置いてあり、少し離れた机(というか台)の上にはTHINクライアント化した予備PCが乗っている。つまり、先述のように書斎の“机”ではなく各種デバイスを設置する、単なる“台”と化してしまっているのだ。
 これらデバイスは、いずれもFATクライアント(アプリケーションやSSD/HDDがインクルードされている、ネット環境がなくても仕事ができる仕様)だが、すべての仕事はネット上のアプリケーションで処理し、ネット上のストレージへ蓄積するのがあたりまえになっている。それでもFATマシンを棄てずTHINクライアントにしないのは、いまひとつネット環境が信用できず、「みんな手もとでできるよう備えておかないと、なにがあるかわからない」と考えてしまう、ICT黎明期を経験した古臭い人間だからだろう。なんでもかんでも揃っているFATクライアントのほうが、なぜか安全で安心できる気分の問題なのかもしれない。
 上落合や下落合のアビラ村(芸術村)に、短期間だが住んでいた高群逸枝は、1949年(昭和24)に『机のちり』というエッセイを書いている。その中で、書斎の屑かごに書きつけた俳句(川柳?)のようなものとして、「わが家は机の塵ぞたのもしき」という句を紹介している。日々、さまざまな活動へ積極的に参加しつづける彼女にとっては、机に積もったほこりが「ちゃんと行動できている」という証しだったのだろうか。机上に塵がないきれいな状態だと、自分はポジティブに活動できていないのではないかと、ことさら不安になったのかもしれない。
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 机上のPCに塵が積もりはじめたとき、おそらく全国すべての地域で10Gbps以上のワイヤレスネットAPが整備され、スマホではなく複雑な仕事ができる新時代のクライアントが開発されているのだろう。ウェアラブルなグラス方式かもしれないし、どこでも速入力が可能な投影型キーボードを装備しているのかもしれない。机はおろか、書斎さえ不要な時代がそこまでやってきている。

◆写真上:あめりか屋が下落合415番地の近衛町に建設した、旧・杉邸2階の書斎。
◆写真中上:上は、吉川英治の書斎と机。中上は、尾崎一雄の書斎と机。中下は、AI着色した下落合時代の吉屋信子の書斎と机。は、鎌倉長谷の吉屋信子の書斎と机。
◆写真中下は、下落合から井荻町下井草の新居へ転居したあとの外山卯三郎の書斎と机。中上は、下落合に住んだ蕗谷虹児の書斎と机だが実質はアトリエ中下は、葛ヶ谷(西落合)ののち第三文化村に住んだ宮地嘉六の書斎と机。は、下落合の船山馨の書斎と机。
◆写真下は、本の山に埋もれた高群逸枝の塵が積もる書斎と机。は、五ノ坂下の西洋館に住んだころの林芙美子の書斎と机。は、四ノ坂下の自邸で暮らした林芙美子の書斎と机。
おまけ
 落合地域の東南、大久保村西大久保133番地に住んだ国木田独歩は、随筆『机は部屋の置物』の中で、ほとんど机は使わないことを吐露している。(上写真) 書きものや読書は、もっぱら寝床か畳に寝そべりながら、あるいは柱に寄りかかってするので、机がなくても不自由しない生活をしていた。また、下の写真は下落合753番地に住んだ九条武子の書斎と文机。(AI着色)
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昭和初期も大型店舗の進出に悩む商店街。

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 わたしが親もとから独立して住んだ学生向けアパートの近くには、商店や小型スーパーがたくさん開店していた。よく利用したのは、そのときの名称でいえば目白通り沿いの新豊商栄会、ニコニコ商店会、ときに聖母坂沿いの中通り商店会の店々だろうか。
 たいがいは、アパートにひとつしかないガスコンロで調理して食べる食材類で、ニコニコ商店会にあった魚屋や青物屋、肉類は目白通り沿いにあった小型スーパーで価格の安かった丸正、食器や生活道具類は目白通りに面した瀬戸物屋や金物屋など、パンは聖母坂の神田精養軒と契約していたケーキ屋か、十三間通り(新目白通り)に面していた神田精養軒本社1Fの店舗などで、学校からの帰りにブラブラ散歩がてら立ち寄っては買って帰った。
 特に肉類は、その日のうちに塩コショウや醤油・味醂などで濃いめな味つけをして調理してしまい、5日分ぐらいを冷凍庫で凍らせ、小分けにしてはいろいろな料理に使っていたのを思いだす。これらの工夫は、どこの出版社だかは忘れたが、「ひとり暮らしの料理」(学生援護会?)とかいう本からヒントをもらって、まめに実行していたのを記憶している。そうすると、外食に比べて食費が驚くほど浮くので、そのぶんをレコードや本に費やすことができたのだ。
 自分のほしいモノが商店街で手に入らないと、面倒だったが椎名町駅の西側にある大型スーパーのサミットストアか、下落合のピーコックストアまで買いにいっていた。もっとも、当時のピーコックストアは高級志向の品ぞろえで、学生の身分には痛い出費になるから、アルバイト料の残りが入った財布とよく相談しながら、覚悟を決めて出かけていたように思う。
 これらの商店街は、夕方になるとドッと人が集まって混むので、できるだけ早めに出かけるか、あるいは商品が安くなる夕食時をねらって出かけていたけれど、いつごろからか食事どきが近くなっても混まなくなってしまった。1980年代から90年代にかけ、あちこちに大型スーパーやコンビニが開店したのとシンクロして、商店街の人出は減少していったのだろう。わたしがいきつけだった店も、目に見えて次々と閉店していった。当時は、人手不足で跡継ぎがいなかったというよりも、狂乱地価で固定資産税が高額化し、小さな商いではとても払えなくなったケースも多かったのではないか。地上げ屋に、立ち退きを迫られた店もあったかもしれない。
 わたしが学生だったころ、さんざん利用した商店街のかなり昔の姿が写っている、1932年(昭和7)の目白通り(椎名町大通り)をとらえた記念絵はがきを以前ご紹介しているが、戦前の東京にあった特に賑やかな商店街の状況を、細かく取材・調査してまとめたレポートが残されている。1936年(昭和11)に東京商工会議所から出版された『東京市内商店街ニ関スル調査』だが、この報告書は同年2月の早い時期に出版されており、実際に取材した商店街の状況あるいは写真は、前年の1935年(昭和10)12月現在ということになっている。
 残念ながら、落合・目白・長崎地域の商店街は取りあげられていないが、この地域近辺の商店街としては新宿商店街、神楽坂商店街、高円寺商店街の3ヶ所が紹介されている。同レポートは、商工省の小売業改善調査委員会から依頼されて実施したものだ。東京商工会議所が編集しているので、おそらく店舗数や売上データなどをチェックしながら、賑やかな「主要ナルモノ十七」商店街をピックアップしているのだろう。上記の新宿、神楽坂、高円寺のほか、銀座や日本橋人形町、神田小川町、浅草雷門、佐竹本通り、上野広小路、亀戸、初音坂下、十条、巣鴨、渋谷道玄坂、武蔵小山、蒲田、小松川春日町の17商店街となっている。
 中でも新宿商店街の様子を、同レポート(原文カタカナ→ひらがな)より引用してみよう。
  
 震災後省線新宿駅改築の結果、商店街の中心地帯は一旦、新宿追分より省線新宿駅前へ移動せしも、其の後百貨店の移転、新設、環状線道路の完成等により三越支店、伊勢丹附近が最も繁華となれり、尚新宿商店街全体としては西方淀橋方面へ向つて発展の傾向にあり(略) 散歩街化の傾向最も濃厚なり、附近一帯娯楽機関の増加傾向著し、店頭設備の現代化取扱商品の専門家傾向も著し(略) 震災後、背後住宅地の増加、百貨店の新設等に因り繁栄を辿れり(略) 一般的不況の影響に因り景気は幾分低下の傾向にあり (原文カタカナ)
  
 文中の「環状線道路」とは、震災復興で敷かれたばかりの明治通り=環状五号線のことだ。
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 新宿商店街に見られる特徴は、落合地域とその周辺で見られるそれと同じような傾向を示していたのではないか。1935年(昭和10)以降になると、目白通り沿いに設置されていた公設市場がデパート化していき、東京府市場協会が経営していた大規模な目白市場椎名町百貨店は、地元の商店街と競合するデパートレベルにまでに発展していた。
 特に関東大震災後は、稠密だった市街地の住宅街から郊外への転居が爆発的に増え、消費市場の急激な拡大とともに商店街も発展していった。以前、東京府市場協会が運営していた淀橋市場についてご紹介したが、1938年(昭和13)以降になると、大型百貨店化した淀橋市場の売り上げが、伊勢丹や新宿三越のデパートを上まわるようになっていく。
 一方、関東大震災のあと市街地のなかなか復興しないエリア(深川地域が多かっただろうか?)から、置き屋や茶屋、料理屋、料亭などが次々と移転し、華街としてリスタートした神楽坂商店街の様子はどうだったろう。1935年(昭和10)の同報告書では、「慰安化傾向著シ」として「震災後漸次不振トナレリ」という状況で、華街のせいか昭和初期の不況をまともにかぶるかたちになり、景気は「最近一般的不況ノ為メ特ニ悪シ」と活気のない姿が報告されている。
 高円寺商店街も、不況のために似たような状況だった。つづけて、報告書より引用してみよう。
  
 取扱商品の専門化及び現代化の傾向多少あり(略) 震災後附近住宅地の増加に伴ひ急発展せり(略) 数年来景気低下の傾向あり、蓋し一般不況の影響及び新宿商店街の発展に因る、尚附近小売市場の影響も相当大なるものゝ如し (原文カタカナ)
  
 「附近小売市場」とは、急激にスーパーマーケットやデパートのように大型店舗化をつづける、東京府市場協会の公設市場のことだ。高円寺の住民は、散歩がてら交通の至便な大久保や新宿に出て、大規模な市場やデパートで買い物することが多くなったのだろう。1935年(昭和10)ともなると、近隣への大型店舗の進出で商店街がすでに多少の影響を受けていた様子がわかる。特にターミナル駅だった新宿駅の周辺地域では、その傾向が顕著だったろう。
 さて、話はわたしの学生時代にもどると、やはり落合地域のどこの商店街でも、次々と進出する大型スーパーに悩まされていた様子がうかがえる。山手線の主要ターミナル駅で起きていた大型商業施設の進出が、戦後は各駅の駅前や幹線道路沿いに拡散していった様子がうかがえる。
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 1981年(昭和56)に、新宿区商店会連合会から出版された『商業の街・新宿』より、わたしが利用していた落合地域の懐かしい商店街の様子を、少し長めに抜粋してみよう。
  
 目白通り新豊商栄会/限られた消費者を対象に営々として商業を守り続けており、現在、購買者に買物の魅力・意欲を起こさせるよう努力している。恒例の中元・歳末の連合売出し、新宿区商業観光まつりの積極参加、一部会員のディスカウントセール、月2回の定期特別セールの実施、大型店の進出に対処して、消費者のニーズを把握し、購買力を守るべく対応策を模索して商業活動を守り、会員の意識向上を図っている。 目白通りニコニコ商店会/中元・歳暮共同売出し、夏期子安地蔵祭りに夜店など、地元密着のニコニコチェーン店によるチケットなど定期的サービスを実施。目白通りは、激化するスーパー合戦の谷間に落ち込み、打撃は深刻。生鮮三品の店揃えもままならない。これまでの商店街親睦会的なものからの脱皮が課題だが、様変わりする顧客ニーズには、散歩しながらショッピングを楽しめ、良い品を安心して買える街づくりで対応中。 中落合中通り商店会/豚カツ、化粧品、肉、ケーキ、果物、酒、クリーニング、米屋よりなる商店会は、スーパーがあるにもかかわらず、良い品を厳選して販売することをモットーに日夜努力し、サービスの向上を考え、次代の若者にバトンタッチを望むこじんまりとした商店会である。
  
 目白通りニコニコ商店会が指摘するように、当時の商店会は「親睦会的なものからの脱皮」が最大のテーマであり、商店同士が(ときに商店会同士が)結束・連携して、大型店に対抗しなければならない時代を迎えていたことがわかる。ちょうど1935年(昭和10)すぎごろから、大手デパートや大規模な公設市場の進出に悩んでいた新宿駅周辺の小売店の課題が、戦後は東京じゅうに拡がっていたのだろう。ただし、1981年(昭和56)はいまだコンビニの乱立現象は起きておらず、現代ではさらに深刻な打撃を商店街(の専門店)に与えているとみられる。
 ちなみに、中落合中通り商店会(冒頭写真)=聖母坂沿いに連なっていた商店街では、学生時代に国際聖母病院の北側角の豚カツ屋とケーキ屋(先述した神田精養軒のパン)、酒屋、米屋を利用したことがある。いまでも健在なのは酒屋とクリーニング屋、床屋、および鮨屋ぐらいだろうか。
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 『商業の街・新宿』(新宿区商店会連合会)には、ほかに中落合四丁目文化村商店会が掲載されているけれど、わたしはこの商店街にほとんど馴染みがない。目白通りを東へ歩き、途中のどこかで目白崖線を上下して登下校していたせいか、買い物はやはり目白通りで済ませ、目白文化村沿いの商店街は利用していない。また、「上落合銀座」と呼ばれる上落合二丁目商盛会と、西落合旭通り商店会が掲載されているが、同様に大型スーパーや宅配生協の脅威を挙げているものの、1981年(昭和56)当時は、まだそれほど深刻な影響を受けていなかった様子がうかがえる。

◆写真上:1981年(昭和56)に撮影された、聖母坂沿いの中落合中通り商店会の店々。国際聖母病院の見舞い用に開店していたとみられるフルーツ店の左手が、神田精養軒と契約して食パンを販売していたケーキ店。また、フルーツ店の右手に見える角地のタバコ屋の手前が酒店で、その間の細い路地を入ると当時の佐伯祐三を記念した「佐伯公園」がある。
◆写真中上は、1932年(昭和7)の絵はがき「大東京(豊島区)長崎町本通下」用に撮影された目白通り(AI着色)。中上は、同じ場所の現状。中下は、1935年(昭和10)12月に撮影された新宿商店街。新宿通りを東から西を向いて撮影しており、右手に増改築中の伊勢丹、左手に三越新宿支店、正面遠景には二幸のビルが見えている。は、同商店街の見取図。
◆写真中下は、1935年(昭和10)に坂下から撮影された神楽坂商店街。は、同商店街の見取図。は、同年撮影の駅をはさみ南北に伸びる高円寺商店街。
◆写真下は、1981年(昭和56)に撮影された目白通り新豊商栄会の商店街の一画。は、同年に撮影された目白通りニコニコ商店会の商店街の一画。は、1980年(昭和55)ごろ大売出し中に撮影された上落合二丁目商盛会(現・上落合銀座商盛会)の賑わい。
おまけ1
 1981年(昭和56)に新宿区商店会連合会が撮影した、上から下へ西落合の商店街の一画、高田馬場駅前から早稲田へとつづく商店街の一画、早大正門の近くにあった商店街の一画。
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おまけ2
 1970年代の早い時期に撮影されたとみられる、目白通りの富士銀行目白支店の前歩道。
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販売直後の第二文化村を走る仙吉。

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 1924年(大正13)の6月から8月にかけて撮影された、社会教育劇『街(ちまた)の子』(監督:畑中蓼坡/後援:文部省)は、目白文化村落合第二府営住宅でロケが行われている。そのシーンの中に、一面の花が咲いた草原を仙吉(小島勉)がスローモーションで疾走する場面が登場する。きょうの記事は、このシーンがどこで撮影されたのかを探ってみたい。
 以前、このシーンをAIエンジンでカラー変換した際、AIは手前の花を白色、奥の花を黄色と判断していた。したがって、手前の花は撮影が6月だとすればヒメジオンで、奥がアブラナ科のいずれかの花だろうと判断していた。ところが、新たに別のAIエンジンを用いて着色すると、全体が黄色い花々が咲いている風景として認識した。もし、後者のAIの判断が正確だとすれば、8月の終わりごろに野草のオミナエシが、いっせいに開花する時期を待って撮影された可能性もありそうだ。仙吉や他の俳優の服装からして、6月でも8月末でも不思議ではない。陽光は右手上空の高い位置から射しており、夏らしくかなり強そうだ。
 また、モノクロでは気づきにくかったが、中央のハーフティンバーが目立つ大きな西洋館のさらに奥に、もう1棟の家屋らしいかたちがとらえられていることに気がついた。レンズのピントがあっていないせいかぼやけているが、シーンのコマによっては陽光による屋根の反射が強く、外壁はベージュないしはクリーム色、主棟は画面の左右に長く見え切妻は右手に見えるようだ。階数は不明だが、手前の西洋館がカメラ目線の先で2階部をとらえているところを見ると、奥の住宅も2階建てなのかもしれない。なお、新たに試してみたAIエンジンによるカラー化では、中央の大きな西洋館の光を反射する屋根は、“赤”だと認識しているようだ。
 画面全体の地形を観察すると、手前の地面のほうが奥の屋敷が建つ位置よりもやや高めであり、画面の左手は平地のようだが、画面の右側に映る地面は、右手に向けてゆるやかに傾斜しているように見える。また、左手の樹間には、風が吹いて周囲の樹木が大きく揺れても、まったく動かないなんらかの構造物があるように見える。この構造物は、住宅のようには見えず灰色をしており、細くてかなり高度のある物体状のものだ。このように、画面にとらえられた周囲の地形や家々、あるいは構造物らしきものを細かく観察して総合すると、1924年(大正13)夏の時点で、目白文化村の中でもおのずと撮影場所が絞られてきそうだ。
 左手の樹間に映る構造物を、下落合1642番地に建っていた第二文化村の水道タンクだとすれば、タンクの左手の樹木に隠れている敷地は、箱根土地が建設を予定していた社宅建築敷地(本社ビルの国立への移転で社宅建設は中止)であり、三間道路をはさんだ屋敷群が建っている奥の敷地、および手前の敷地の大部分が、映画『街の子』(1924年)が撮影された前年の、1923年(大正12)から販売がスタートしていた第二文化村ということになる。第二文化村が販売されはじめてから、映画の撮影までわずか1年ほどしかたっておらず、多くの敷地が売れてはいただろうが、住宅の建設は進んでいない。草原に生えた花々で見えないが、中央の西洋館が建つ敷地と手前の少し高めな敷地との間には、画面を横切る二間道路が敷設されていたはずだ。電燈・電力線は地下共同溝に埋設されており、電柱がまったく見えない点にも留意したい。
 第二文化村が開発される以前の地図を参照すると、たとえば1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図には、地面の東北東側が平地に近く、南南西側に向けて少しずつ傾斜していく等高線が描かれている。水道タンクが設置された道路沿い、すなわち第二文化村の三間道路は、もともと途中がクラックしていた農道を、できるだけ直線状にして拡幅していった様子がわかる。そして、同地図には当該の道路沿いに、境界の畔あるいは囲みのある、なんらかの畑地跡とみられる草原が採取されている。この畑地跡を花畑、すなわち油を採取するためのアブラナ科の植物を植えた跡だとすれば、耕地整理が終わり畑の手入れがされなくなったあと、その種子が周囲に飛散して画面に映る一面の花畑を形成している可能性があるかもしれない。
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 このように画面を分析してみると、カメラマンの背後には大きなカシの木がそびえている、下落合1674番地の旧家・宇田川邸の建物群があったはずであり、画面右手の上部および下部に映る樹木の枝葉は、同邸の屋敷林の一部かもしれない。また、右手の下り気味な緩斜面の終端、すなわち第二文化村の敷地が終わる境界には、大谷石による築垣がほどこされて、できるだけ地面を水平に保つ整地工事が終了していたはずだ。そして、その2年後の1926年(大正15)9月24日、境界の石垣上あたりから宇田川邸のある丘上の方角を向いて描かれたのが、佐伯祐三「下落合風景」シリーズの1作『かしの木のある家』だ。
 そして、第二文化村の境界築垣の西側にある広い草原は、昭和初期を通じてそのままの状態が長くつづくが、1940年(昭和15)1月より勝巳商店地所部による、その名も箱根土地のネーミングをそのまま踏襲(盗用?)した、昭和版「目白文化村」の販売がスタートすることになる。おそらく、この勝巳商店による分譲地開発の経緯が、目白文化村の「第五文化村」伝説のはじまりではないかと思われる。箱根土地による目白文化村は、国立(くにたち)へ本社移転する直前の1925年(大正14)、第四文化村の販売開始を伝える媒体広告と、販売後の分譲地地割図(販売済みスタンプ押印)が最後の資料であり、「第五文化村」関連の資料は存在していない。残っているのは、勝巳商店地所部による1940年の「目白文化村」資料のみだ。
 さて、左寄りの樹間にとらえられた構造物が第二文化村の水道タンクだとすると、中央の大きな西洋館は下落合1665番地に建つ松葉養太郎邸ということになる。その右手の敷地は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の時点でも販売済みになってはおらず、しばらく空き地のままの状態がつづく。この空地が売れて清水玄邸が建設されるのは、大正末から昭和初期にかけてのころだ。少し前に書いた記事でご紹介している、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲時に、海上グラウンドへ避難したあの清水家だ。
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 そして、画面中央の松葉邸の右奥に見えている住宅は、位置的に見て下落合1665番地の桜木富蔵邸、ないしは西隣りに建っていた下落合1712番地の土肥幸太郎邸だろう。手前の大きな松葉邸の右側面(西側面)の見え方からして、桜木邸の可能性が高そうに思える。桜木邸の左隣り、すなわち東隣りには安倍能成邸が建っているという位置関係だ。これらの邸を、1936年(昭和11)の空中写真で観察すると、建物群がよく照合しているのに気づく。
 『街の子』の撮影から12年後の空中写真であり、多少の増改築はあるかもしれないが、基本的に建物の位置は変わらないと思われる。ただし、住民のほうは多少の入れ替わりがあったかもしれず、1925年(大正14)の箱根土地作成による「目白文化村分譲地地割図」の土地購入者名と、1938年(昭和13)作成の「火保図」に採取された目白文化村の住民名とでは、一致しない邸も少なくない。これは、昭和初期に起きた経済危機=金融恐慌から大恐慌の影響で、屋敷や土地を手離した家庭、あるいは住宅を貸家にして転居した家庭も多いとみられる。
 1936年(昭和11)の空中写真をベースに考察すると、カメラマンは下落合1674番地の宇田川邸敷地に繁る屋敷林の東端あたりから、ほぼ真東を向いて撮影したと思われ、仙吉少年は左手から右手へ半円を描くように、下落合1662~1663番地あたりの敷地を駆け抜けていることになる。当時の住宅敷地は、『街の子』記事のシーンでもご紹介したように、住宅を湿気から遠ざけ乾燥させるために、道路面から1m以上盛り上げて整地するのが通例であり、草花が繁る原っぱ(住宅敷地)の間に敷設された、三間道路や二間道路は隠れていて見えない。これは、佐伯祐三の『かしの木のある家』でも書いたことだが、この大幅な盛り土が撤去され、道路と水平になるような住宅建築が増えていくのは、各家庭に自家用車が普及しはじめ、路面がアスファルトやコンクリートで舗装されて車庫の必要性が生じたあとの時代だ。
 このように見てくると、『街の子』の撮影クルーたちはロケ現場として、第一文化村をはじめ落合第二府営住宅、そして販売をほぼ終えたばかりの第二文化村の敷地を選んでおり、映画の最後にブランコなどの遊具とともに登場する洋館2邸も、目白文化村内のどこかである可能性が高いように思う。映画が撮られた1924年(大正13)という年は、第三文化村を販売していた最中であり、やはり上記の2邸は第一文化村、ないしは第二文化村の可能性が高いように思うのだ。
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 もうひとつ、『街の子』を見ていて気づくことがある。現代では、住宅敷地を購入するとすぐに家を建てはじめるケースがほとんどだが、当時は土地を早めに購入し、数年後にようやく建てはじめる事例もめずらしくなかった。それは、今日のように誰でも利用できる便利な住宅ローンの仕組みが未整備であり、基本的には資金がたまってから、あるいは銀行からの融資が承認されてからの建設となるため、住宅建設における資金繰りはいまよりもよほど不便だったせいだろう。

◆写真上:『街の子』(1924年)の、第二文化村敷地を走る仙吉のシーン。(別AIによる着色)
◆写真中上は、樹間に見える水道タンクとみられる構造物の拡大。中上は、1926年(大正15)10月14日制作の第二文化村の水道タンクを描いた佐伯祐三『タンク』。中下は、とらえられた屋敷群の拡大。は、1921年(大正10)作成の1/10,000地形図。
◆写真中下:第二文化村の敷地を疾走する、仙吉のスローモーション連続シーン。
◆写真下は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」の第二文化村水道タンクの周辺。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる第二文化村の当該エリア。は、1926年(大正15)9月24日に制作された佐伯祐三『かしの木のある家』(宇田川邸)。

下落合界隈のアタマが痛い身の上相談。

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 戦前、平凡社が出版していた『家庭百科全書』には、人生や家庭で起きる多種多様な問題を相談する、「身の上相談」ページが設けられていた。同書の1936年(昭和11)版には、下落合やその近辺に住む人たちが手紙でとどく悩みを読み、それぞれ回答を寄せている。
 同書で読者からの身の上相談にのっていたのは、下落合1丁目404番地(現・下落合2丁目)の帆足理一郎と、下落合2丁目680番地(現・中落合2丁目)の高良とみ(高良富子)、そして目白町3丁目3630番地(現・西池袋2丁目)の宮崎燁子(柳原白蓮)の3人だった。それぞれの思想や宗旨、経験などを反映してか、身の上相談に対して三者三様の回答を寄せているのが興味深くて面白い。帆足理一郎は宗教的かつ観念的な論旨を展開し、高良とみは論理的かつ合理的な回答であり、宮崎燁子は自身の体験を通じて得た経験主義的な事例を紹介している。
 まず、古くて新しい悩みを相談した、とある30歳前後と思われる男性の悩みから見ていこう。彼は、高校時代に学友に誘われ左翼運動に身を投じて、警視庁から要注意人物としてマークされ、とある争議団の支援に出向いたときついに逮捕された。数ヶ月のちの裁判では執行猶予で釈放され、スターリニズム下のソ連の実情などを知るにおよび、左翼運動をやめて家業を継ごうと郷里へ帰ったのだが、今度は「満洲事変」が起きたため「愛国熱が俄かに燃上がつて」、思想的に「フアツシヨ転向」=ファシストになった。「闘争的精神」へ火が点き、家業を放り出して陸軍の軍事探偵(スパイ)として大陸にわたり、「満洲」の広野に骨を埋める覚悟でいたのだが、「他国の軍権に支配されてゐる異民族の憐れさ」を痛感して、ものの一面しか見ていなかった自身を恥じ、「神経衰弱」になり陸軍の軍事探偵をやめて帰国することになった。
 実家で療養しつつ、「自分の不甲斐なさ」と不徹底さに「どこかに欠陥がある」と思いこみ、いまでいう鬱状態になってしまった。世間には「滔々私利を求めて生きる者多く」、いくら社会運動に身を捧げたところで、搾取の手が緩められて生活が楽になれば、「一般大衆」は物的享楽に狂奔するのみで、結局、人間はただ生きているだけのつまらない動物ではないか。相談者の母親は寺の娘だったが、仏教の本質は無神無霊魂でマルキシズムに近く、入信したところで「弥陀の本願」など方便か神話にすぎず、キリスト教の「罪」や「復活」、「昇天」などは理解不能で、近代科学の目から見ればまったくの「迷信」にすぎない。「奉仕奉仕」と要求するが、「神」は一種の封建君主と同類ではないか。人生は夢だと悟っても、快楽は否定できるが苦悶は「真実相」として残る。とすれば、「人間は何の為に活きてゐるのでせう?」という、しごく面倒な相談だった。
 これに回答を寄せているのは、自由主義的キリスト者で当時は早大教授だった帆足理一郎だ。さまざまなテーマを4つに分けて回答しているが、その結論部分を同書より引用してみよう。
  
 要するに、神は宇宙環境に内在する霊的生命として全宇宙の善美化、聖霊化に奉仕する想像力であります。人間は神から派生したものか、そこは分りませんが、神の如く宇宙を対象として、その向上発展に奉仕する。これ即ち人間の固的生命(ママ)をして神と共働せしむるものです。神と理想を同じうし目的を同じうして、その滅悪創善の道徳的事業に参加する。それは、吾々の一挙手一投足に宇宙的な永遠の意味を付与するものであります。宇宙的生命の存続する限り、吾等が五十年の生涯を捧げて奉仕したその努力は、永遠に失はれることはないと信じます。繰返へして云ひます。それは奉仕ではなく、自我の成長其物であります。
  
 やや高揚気味な帆足理一郎の回答文だけれど、この帆足流観念論で、思想的な思考回路の相談者が納得したとは到底思えない。少しあとの時代になるが、「神などあってもなくてもいい存在」であり、信念をもちながら理想に向けて主体的に自己投企する(働きかける)のが、その結果がどうであろうと「人間」であり「活きてゐる」ことだとする実存主義的な、あるいは主体性論的な回答のほうが、この相談者にはより響いたのではないだろうか。
 宇宙に内在する「霊的生命」の「神」や、仏教の無心無霊魂が基盤の「弥陀の本願」など、別にイヤなら気にせず無視してもいいことであり、要は自分自身が(思想であれ宗教であれ)なにを考え、なにを「理想」あるいは「目的」として働きかけるのか(生きるのか)が、「人間」存在の本質であり人生そのものだ……というような回答のほうが、相談者の「神経衰弱」を多少なりとも和らげられたのではないかと感じてしまう。
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 さて、「あなたの主体性はどこにあるのか?」と怒気をはらんでいるのが、次の相談者に対する高良とみ(富子)の回答だ。相談者は当時の「職業婦人」で、妻子ある男性Kと恋に落ちてしまい、愛人となって部屋をあてがわれ生活費をもらうようになるが、やがて子どもができてしまう。すると、Kは別の男Aを紹介し、この男と結婚してくれと懇願する。出産したら結婚を考えてもいいと答えると、会ったこともないAが突然訪ねてきて、すぐに結婚してくれといわれズルズルと結婚してしまう。結婚後も、Kからの生活費はつづいてとどき、産まれた子ども(男子)はKの家で引きとることになり、すぐにどこかへ里子に出されてしまった。結婚した彼女のもとに、相変わらずKは通ってきており、生活費をもらっているので断り切れなかった。
 ここまででもかなりドロドロの状況だが、さらに輪をかけて彼女は泥沼にはまっていく。Kが通ってきているのが夫のAに知られてしまい、Kから手切れ金を取ってこいといわれ、そのとおりにするとカネは夫が3分の2ほど自分の借金返済に当て、彼女には3分の1しか渡さなかった。そして、なにかというと「出ていけ!」としじゅう暴言・暴力をふるうようになる。同時に、Aが花柳病(梅毒)に罹患していることが判明し、ふたりで病院通いをするハメになってしまった。夫は、いまでは身体も不自由になり不憫なので看病しているが、いっそ別れて職業婦人にもどったほうがいいかどうか、「何卒々々良き智恵を御与へ下さいませ」という相談だった。
 これに対し高良とみは、「あなたいったい何やっているの!」という叱責の回答を寄せている。
  
 初めはKが妻君(ママ:細君)を離縁するかも知れないといふ気が薄々あつたにせよ、自分が妊娠しても、子だけは引取ると云ふ様子なら、その時に、「この男にだまされたナ、自分はこんな馬鹿だつたか」と大いに立腹して、歯をくひしばり、「もうこの男の云ふ事は一つも信用しないゾ」といふ決心がつかねばなりません。ましてやあなた自身も自分の弱かつた為めであるとチヤンと知つて居られ、「一度ならず二度迄も失敗したくない」と思つて居られたのに、その折角の決心も反抗も、くじけて、そのしたくない事をズルズルとするやうになるあなたは、全く唯弱いといふだけではない、自分が全くないと云つてよい位、何と云つていゝかわからぬ弱さです。
  
 合理的な思考回路の高良とみは、このような同性をいい加減で歯がゆく見ちゃいられないと感じたのだろう、きつい口調は最後までつづく。「全く何と云つてよいかわからない位、馬鹿な事」と叱責し、特に手離した実子については、簡単に人にあげてしまえるほど愛情がなかったのかと攻めている。その子を探しだし、もとは自立した生活をしていたのだから「その子を連れて、職業婦人として更生の生涯を御はじめになつたら」、どんなに立派だろうと書いている。現在の夫Aとのことは、どこまでいっても「あなた自身」と相手の心しだいだとし、あえて突き放している。
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 宮崎燁子(柳原白蓮)は、ふたりの相談者に回答を寄せているが、ひとりは上記のケースに似て妻子のいる医師に恋した看護婦の相談なので割愛し、もうひとりの家庭内で孤立する後妻からの相談を見てみよう。妻と死に別れた男性のもとへ嫁いだ、35歳の元・教師からの相談だった。妻と対立して離婚した家庭ではなく、愛しい妻と死に別れた家庭に入り、姑と夫と14歳になる娘からことあるごとに仲間外れにされ、相手にされない悩みを相談している。
 「何うして私はこんな所へ嫁いだかと今ではつくづく後悔してゐるので御座います」ではじまる、「ゆか子」と名のる相談者は、娘の世話は姑がすべてとり仕切っており、新しい母親はなにもさせてもらえず、ことあるごとに「継子いじめ」や「なさぬ仲」のイジワル話を娘にいい聞かせ、継母には近づかないように仕向けていた。元・教師ということで、学校の教科だけは見てあげていたようだが、勉強のことで少しでも注意や小言をいおうものなら、継子(ままこ)の娘はすぐに姑や父親にいじめられたと泣きついたらしい。すると、夫や姑は「継子いじめは止してくれ」などと露骨なことをいい、「子供を中心にして姑と夫と三人が仲よく談笑したり」していると、なぜ自分がここにいるのかわからないくらい疎外感をおぼえるというような相談だった。
 宮崎燁子は、「行き跡には嫁くとも死に跡には嫁くな」という昔ながらの格言をもちだしながら、知り合いの面白い解決策を紹介している。その知り合いの家庭も、早くに先妻を病気で亡くし後妻として結婚した、相談者と同じような環境だったが継子は男の子だった。相談者と同様に疎外され、ずいぶんイヤなこともいわれたようだが、それらをすべて先妻の亡霊のせいにしてしまったというのだ。だから、亡霊が夫に憎らしいことをいわせたり、継子と自分との間を険悪にするよう仕向けたりしていると、あえて信じるようにしたという。
 継子が反抗するときは、亡霊が乗り移って表情が先妻の顔に変貌し(親子だから似ているのは当然だが)、夫が文句をいうときは先妻の亡霊が妬んで憑依し、自分と家族の仲を裂こうとたくらんでいると考えるようにした。そして、仏壇にある先妻の位牌へ盛んに文句をいうのだという。
  
 「私はこの家に縁あつて後妻として嫁いで来たものであります。私は云はゞ貴女の代りに来たもの、その私を苦しめるといふことは後に残つた子供の為めにも夫の為めにも決して幸ひにはなりません」(中略) さうすると先づ自分の気持がすつかり落ちついてしまふのださうです。それから又夫にしろ子供にしろ、何か自分の腹の立つやうな事を云はれたりすると、すぐに又亡妻の祭つてある仏壇のところへ行つて怒るのださうです。
  
 このようなことを繰り返しているうちに、自分の気持ちが軽くなったばかりでなく、家庭内の雰囲気がガラリと変わり、夫や継子ともうまくゆくようになったという事例を紹介している。
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 でも、考えてみれば仏壇に収められた先妻の位牌に向かって腹を立て、文句を並べたてて大声で怒鳴りちらす後妻の姿を見たら、夫も継子も姑も「マジか、ガチヤバくね?」と少なからず不安や危機感をおぼえ、3人とも彼女をことさら刺激しないよう急にニコニコと笑顔で接するようになり、まるで腫れ物にでもさわるような扱いになりそうなことは想像に難くない。彼女がなにか悪い霊に憑依されたんじゃないかと心配してるのは、実は夫や継子や姑のほうではなかったろうか。

◆写真上:落合界隈の執筆者が揃った、『家庭百科全書』のお悩み身の上相談。
◆写真中上は、1926年(大正15)に撮影された下落合は近衛町の帆足理一郎・帆足みゆき夫妻と子どもたち。は、下落合1丁目404番地の帆足邸。
◆写真中下は、1933年(昭和8)ごろに撮影された高良とみ(富子)・高良武久夫妻。背後の書棚に置かれた、戦後に焼失する法隆寺金堂の壁画レプリカがめずらしい。は、1940年(昭和15)に創設された高良武久の森田療法で有名な高良興生院の記念写真。
◆写真下は、1921年(大正10)に撮影された宮崎燁子(柳原白蓮/右)と宮崎龍介(左)のカップル。は、いまも目白町3丁目3630番地に残る宮崎邸。

東京郊外に設置された住宅街の水道タンク。

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 子どものころ、横浜に住む母方の祖父の家へ向かうとき、坂道をのぼっていると丘上に水道タンクが見えたのを思いだす。横から見ると三味のバチのような、上部へいくほど末広がりになっており、コンクリート製で白いタイル貼りの意匠をしていた。当時の水道は圧力も低く、丘上の住宅街へ配水の安定化をめざし設置されたものだろう。親たちは道すがら「ウォータータンク」と呼んでいたが、横浜は起伏の多い街並みのためタンクは随所にあったのだろう。
 また、郊外などに「〇〇団地」と呼ばれた、4~5階建てのアパート群がまとめて建てられると、さまざまな形状の水道タンクが設置されている。これも、建物の高層階へ水道水をスムーズに配水するための施設だった。地域によって、水道タンクのデザインが多種多様なため、それを観察するのも面白かった。地面からニョキッと生えた、ツクシかキノコのようなかたちをした水道タンクは、どこか子ども心を強く惹きつけるデザインであり構造物だった。
 西落合に接した、すぐ隣りにある荒玉水道野方配水塔も独特なかたちをしていて、わたしは近くを通るたびついカメラを向けたくなる。1931年(昭和6)に竣工しているが、下落合への通水は3年ほど早い1928年(昭和3)からだった。この野方配水塔も、目白崖線の丘上にある住宅街へ水道水を安定して供給するための施設だった。タンク内に大量の水を貯め、重力によってかかる圧力を活用して配水する、いわゆる「自然流下法」による仕組みだ。でも、下落合に荒玉水道はなかなか普及せず、より美味な地下水を使うお宅が戦後までつづいた。
 現代では水道水の圧力が高く、丘上の住宅地でも水道タンクをニョキッと建てる必要性は低いだろうし、超高層マンションは地下に埋設されたポンプ付きの大型水槽から圧力をかけ、高層階まで配水しているのだろう。(だから武蔵小杉ケースのように停電時や災害時には脆弱で、大きなリスクをともなうのだが) また、東京郊外などでたまに見かける水道タンクを設置した住宅は、地下水をポンプで汲みあげて貯水しているとみられる。東京の水道水は、前世紀に比べれば飛躍的に「美味しく」はなったが、地下水のほうがより美味しいと感じる方もいるにちがいない。ちなみに、関東ロームの下から汲みあげる下落合の井戸水は、いまの水道水よりも美味しい。戦後も、ずっと水道水を使わなかった、住民のみなさんのこだわりが理解できる。
 少し前に、山口諭助の『下落合風景』との関連で、下落合に設置されていた第一文化村の水道タンクについて記事にしたが、きょうはもう少し詳しくこれらの水道タンクについて書いてみたい。大正期から昭和初期にかけ、下落合の住宅街で見られた水道タンクは、もちろん水道水のものではない。井戸に設置されたポンプで地下水を汲みあげ、それをタンクに貯水して自然流下法により配水する方式だった。したがって、タンクの配水エリアに住宅の数が増え、水道の利用家庭が急増するにつれて、水道水の圧力が減衰するためタンクの位置をより高くするか、あるいはより大規模な水道タンクに建て替える必要が生じただろう。
 当時の水道タンクについて、その配水方式を解説する1931年(昭和6)に文精社から出版された木代嘉樹『上水道』より、少しだけ引用してみよう。
  
 配水ノ方法ヲ大別シテ次ノ二ツトス。
 (1)自然流下法
 (2)喞筒(ポンプ)送水法
 自然下流法トハ高キ所ヨリ低キ所ニ重力ニヨリテ送水スル方法ニシテ喞筒送水法トハ之ト反対ニ低キ所ノ水ヲ高キ所ニ送ル方法ニシテ之ニハ喞筒ヲ使用シテ行フ。/自然下流法ハ多ク低地ノ給水ヲ行ヒ、喞筒(ポンプ)送水法ハ高地ノ給水ヲ行フ、然シ地勢ニ応ジテ適当ニ取捨スルヲ要ス。/喞筒式ノ運転費ハ水道ノ維持費中最モ多額ニ上ル故ニ可成自然下流法ニヨルヲ可トスレドモソノ為メニ水路ノ延長甚シク長クナルトキハ両方ノ工費ヲ比較シテ決定スルモノトス。(カッコ内引用者註)
  
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 昭和初期の当時、ポンプによる送水法はコストもかかり、自然流下法に比べあまり推奨されていなかった様子がうかがえる。したがって、当初は水道が引かれていなかった東京郊外の住宅地では、井戸から地下水をポンプで汲みあげ、高さのあるタンクへ一度貯水することで、あとは自然流下法による配水設備を整備していったのだろう。
 また、市街地で水道が引かれてはいても、アパートなど集合住宅の多棟建設により戸数が一気に増えるケースなどでは、各家庭への配水圧力が不足するため、街中の団地などでも専用の水道タンクが設置されていた。それらは、多種多様なデザインや意匠をしており、タンクや組みあげた鉄骨がむき出しのものもあれば、それらを覆い隠しまるで中世ヨーロッパの尖塔のような形状のものまでさまざまだった。だから、ことさら子どもの目を惹いたのだろう。
 大正期から昭和初期にかけ、各地で建設された水道タンク(配水塔)の意匠について、1934年(昭和9)に淀屋書店から出版された加藤恒雄『上水工学』の、「配水塔」から引用してみよう。
  
 配水塔(Elevated tank)
 竪管の下方部は水圧の為めには效用少いから,下部を剛鉄或は混凝土(コンクリート)の基礎脚となし上部に水槽を置いたものである,水槽も主に剛鉄或は混凝土にてつくられ幅或は径に対して,高さは少し大にする,底部は半円或は楕円形とするのが普通で,又は拱形(きょうけい=アーチ)とすることもある。(カッコ内引用者註)
  
 以前にご紹介した第一文化村の水道タンクは、第二文化村の水道タンクに比べてかなり背が高い。1923年(大正12)の夏に、埋め立てを完了した第一文化村の前谷戸部だが、箱根土地本社の並びに建設された住宅群は少し高い位置にあるので、それだけ配水圧力を必要としていたのだろう。
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 また、目白文化村のエリアに住宅が増えるにつれ、水道の圧力が減衰してきた事情があるのかもしれない。1925年(大正14)に松下春雄が制作した『五月野茨を摘む』に描かれている第一文化村の水道タンクと、1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された同水道タンクとでは、高さが異なっているようにも感じる。後者のほうが、タンクの位置がかなり高いように見えるし、またタンク自体もサイズが大きくなっているように思えるのだ。もしかしたら、昭和初期に入ると目白文化村には住宅がさらに増えつづけ、各戸への配水圧力が弱まったため、水道タンクの大型化とともにより高い位置へ設置する必要性が生じたのではないだろうか。もっとも、松下春雄が構図のバランスを考え、やや低めに描いた可能性も否定はできないが。
 第一文化村の水道タンクに比べ、第二文化村の水道タンクは同じ高さを保っているように見える。これは、同エリアに高い敷地へ給水する必要がなかったからで、むしろ下り斜面(振り子坂など)に建つ住宅を考慮すれば、それほど配水圧の心配がいらなかったからだろう。また、第三文化村にも水道タンクがあったと、かなり以前に古老からうかがっていたが、斜めフカンの空中写真では目白会館文化アパートの南東側に見えている、なんらかの細めな突起物がそれだろうか。地図で確認しても、この位置に火の見櫓は設置されていなかったはずだ。
 水道タンクでは、もうひとつ若いころの思い出がある。大学を卒業してすぐのころ、1982年(昭和57)からしばらく住んでいた下落合のマンションで、水道に細かな黒い鉄錆が混じることがあった。契約業者が、屋上にある水槽の定期清掃をサボっているのではないかと住民の間でウワサになり、なぜかわたしが屋上へ上がり、球体の水槽に設置された梯子を登って確認してくることになった。山ではけっこう高所まで平気で登るくせに、ビルなど人工物の高いところが苦手なわたしは、水槽の上まで登って尻がムズムズし、足がすくんでしまったことを憶えている。
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 屋上の縁には、30cmほどの段差があるだけで柵もなく、足を踏み外せば15~16m下の聖母坂まで真っさかさまに落下しないともかぎらない。まあ、万一なにかあっても、目の前が救急も受け入れる大規模な国際聖母病院なので、すぐに担ぎこまれ治療を受けられるのでなんとかなるなどと、のんきに考えていた憶えがある。15~16mの落下では、どうにもならなかったと思うのだが。

◆写真上戸山アパートなどの集合住宅に設置されていた、かなりの高さのある水道タンク。
◆写真中上は、1925年(大正14)制作の山口諭助『下落合風景』(部分)に描かれた第一文化村の水道タンク。中上は、同年の松下春雄『五月野茨を摘む』(部分)の同タンク。中下は、同年の松下春雄『風景』(部分)に描かれた同タンク。は、1926年(大正15)ごろ「下落合風景」シリーズとして制作された佐伯祐三『雪景色』(部分)の同タンク。
◆写真中下は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三『タンク』(部分)に登場する第二文化村の水道タンク。は、昭和初期には一般的だった住宅地に設置される水道タンクの側面図。は、茨城県水戸市に残る住宅街の水道タンク。
◆写真下は1974年(昭和49)に撮影された空中写真にみる戸山アパートの水道タンク。は、1927年(昭和2)に竣工した新潟県長岡市の浄水場に設置された水道タンク()とその設計図()。は、戦後に埼玉県浦和市(現・さいたま市)の住宅街にに建設された水道タンク。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろに斜めフカンから撮影された。第一文化村の水道タンク×2葉。松下春雄が描く水道タンクよりもいくらか高そうに見えるので、目白文化村の住宅が急増した昭和初期に、流下圧を向上させるためにかさ上げ工事をしているのかもしれない。
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大正期の下落合には薬局がわずか3店舗。

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 わたしの学生時代から、落合地域には薬屋(薬局・ドラックズトア)がやたら多いと感じていたが、このところさらに増えているようで、大きめな通り沿いにはほぼ100~200mおきぐらいに薬局があるのではないかとさえ思えてくる。いつか、歯科医院の多さを記事にしたことがあったけれど、薬屋も同様に地元ではかなり数が多い店舗だ。
 たとえば下落合(現・中落合/中井含む)には、救急対応の大型病院が国際聖母病院と目白病院のふたつもあるので、処方箋薬局が多いのは当然なのだが、市販薬のみを扱うチェーン店の数も多い。これに昔ながらの「薬屋さん」を加えると、コンビニ同様あちこちに開店しているのに気づく。高齢化社会を迎えて増加しているせいもあるのだろうが、もちろん店舗をかまえる薬屋のほかに、各戸訪問で救急箱を補填する「富山の薬売り」はいまも健在だ。
 いまから、100年以上前の落合地域(落合村の時代)には、薬屋はたった3店舗しかなかった。それも、3店とも下落合(現・中落合/中井含む)の目白駅寄りの東部にあり、下落合の西部や上落合、葛ヶ谷(西落合)には1店舗もなかったとみられる。もっとも、上落合の場合は東中野駅前からつづく商店街があり、また小滝橋のすぐ南側、戸山ヶ原の西端には1902年(明治35)以来、大型の豊多摩病院が開設されていたので、小滝橋通り沿いなどの周辺には薬局があったかもしれない。また、当時は個人経営の医院でも医薬品を扱うところが多かっただろう。
 東京じゅうの薬局を網羅する、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』が残されている。当初、わたしはアトリエを建設したばかりの曾宮一念佐伯祐三が、ちょっとした調合薬や市販薬を購入するのに、どこの薬局を利用していたのかが気になっていた。曾宮一念は、季節により微熱や頭痛がつづく体調不良にみまわれ、アトリエに付属して「静臥小屋」とも「寝小屋」とも呼ばれる部屋を自身で設計して増築している。また、佐伯祐三は風邪をひきやすい体質だったものか、1926年(大正15)秋の「制作メモ」を参照すると、月に5日間ほどは“病気”のために休養して屋外写生へ出かけていない。
 このふたりの画家が、ちょっとした頭痛や熱、風邪などで市販薬を求める際、どこの薬局を利用していたのかが気になり、大正期の落合村(1924年より町制が敷かれ落合町)に開店していた薬局を調べてみたくなったのだ。そして見つけたのが、1922年(大正11)現在で開店していた東京市内の薬局をリスト化した、前述の『東京薬局会会員名簿』だった。なお、1922年(大正11)といえば中村彝がいまだ存命だった時期であり、彝もまた同居する岡崎キイや近くの友人たちに頼み、カルピスの飲みすぎによる征露丸などw、なんらかの市販薬を買ってきてもらったのかもしれない。
 1922年(大正11)の時点で、豊多摩郡落合村に記録された薬局は次の3店舗だ。
 ・豊青堂薬局  下落合516番地  経営者:青山道雄
 ・増井薬局   下落合524番地  経営者:増井正男
 ・中央薬局   下落合642番地  経営者:森田司吉
 この中で、「増井薬局」は山手線・目白駅も近い、目白通りに面した近衛町の入口付近にあった店舗で、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りを蕎麦屋「長寿庵」と東隣りを糸生地屋「池田メリヤス」とにはさまれて開店していた。目白駅で下車した勤め帰りの人たちが、ちょっと立ち寄るのに便利な薬局だったろう。ちょうど、大正期は萬鳥園種禽場の目白通り側(北側)に接する位置にあり、佐伯祐三が仮住まいをしていたかもしれない借家から、わずか100mほど歩いた目白通り沿いだ。
 つづいて「豊青堂薬局」は、「増井薬局」から目白通りをさらに西へ180mほど歩いたところ、ちょうど目白中学校のキャンパスが途切れたあたりに開店していた。「下落合事情明細図」を参照すると、西隣りが「八十四銀行」の大きな建物で、東隣りが「有田〇〇屋」という業種が不明な店舗にはさまれていた。「豊青堂薬局」の角を南へまがると、すぐに観世喜之邸と付属する能舞台が建っていた。中村彝が、なにか市販薬の購入を頼んだとしたら、アトリエから歩いて280mほどでたどり着けるので、おそらくこの薬局だろう。
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 次に「中央薬局」は、現在では聖母坂通りの貫通で消えてしまった木村横町の入口に近い、目白通りに面して開店していた。目白駅から約1.1kmと少し離れており、下落合の中部(現在の中落合)に住んでいた人たちがよく利用した薬局だろう。1925年(大正14)に作成された「出前地図」(「下落合及長崎一部案内図」)を参照すると、西隣りを「並木金物屋」と東隣りを小野邸にはさまれた位置に開店していた。そして、1931年(昭和6)ごろ聖母坂が拓かれると同時に、同薬局は目白通りへと出る角地に開店して営業を継続している。
 なお、「中央薬局」は大正期からの上記3店では唯一現存していて、「クスリ中央」と屋号を変え営業をつづけており、わたしもたまに佐伯祐三アトリエのついでなどに利用している。1921年(大正10)の創業で、今年で創業104年を迎える下落合ではもっとも古い薬局の老舗だ。佐伯アトリエや曾宮一念アトリエの建設と同年に開業した「中央薬局」(現・クリス中央)は、佐伯アトリエから歩いて約200m余、曾宮アトリエからも歩いて約300m余なので、両画家とも利用していた店舗だろう。ただし、曾宮一念は中村彝の存命中は頻繁に彝アトリエを訪問していたので、ついでに「豊青堂薬局」へも立ち寄っているのかもしれない。
 1922年(大正11)に刊行された『東京薬局会会員名簿』からは、当時の医薬品に関するさまざまな課題が透けて見える。同会の「規定」によれば、東京在住の薬剤師の資格をもつ人物が経営する薬局を網羅するとしており、薬剤師の資格がない“モグリ薬局”は除外している。裏返せば、市販薬の急増とともに薬剤の知識がない薬局経営者も出はじめていた時期で、同会ではそれらの素人が経営する薬局を排除する目的もあったのだろう。
 また、薬局の設備がバラバラでは均一の薬剤を調合できないため、同会所属の店舗では最新設備による統一化を努力目標にかかげ、調剤に使用する薬品(原材料)の調達も統一することで、薬剤の品質向上と効能の安定化をめざしていたようだ。また、薬局によっては価格がバラバラだった薬品の値段を一定にし、店舗の目立つところに公示することで、顧客に不満や不信感を与えないよう留意するなど、かなり細かな規定を設けていた。特に、A薬局で薬品を購入すると50銭で済んでいたのが、B薬局では1円を請求されるなど利用者からの苦情も多かったらしく、薬価が不統一だったのを是正するのが喫緊の課題だったのだろう。
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 ちなみに、当時の薬局に掲げられた東京薬局会による「調剤薬価規定」は、以下のとおりだ。
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 また、処方箋を要する薬剤については、その処方箋の発行に関し、医師会や医師個人に対して「交渉ヲ為スモノトス」、つまり意見をいえると規定している。これは、医師のいいなりに薬剤を処方すると、患者に対してなんらかの影響(薬害)が出る場合などを想定しているのだろう。いまでも問題となっているように、マイナ保険証や“薬手帳”などない時代なので、複数の薬を飲みあわせることで身体にダメージを与えかねない場合は、医師に通達して薬剤を変更させるなどのアドバイスができるとしたのだろう。
 さらに、同会では「従業員紹介部」という部署を設け、薬局に勤務する従業員の斡旋・紹介、すなわちリクルートも行っていたようだ。「東京薬局会規定」の、第7条から引用してみよう。
  
 第七條 本会ハ薬局従業員ノ補足ニ付 会員ノ便宜ヲ図ルモノトス
     但シ薬局従業員紹介部規定ハ別ニ之レヲ定ム
  
 そして、最後の規定では、会員の薬局になんらかの問題が生じた場合には、薬剤・薬品以外の案件でも、同会が緊密に相談に乗るとしている。たとえば、親が開店した薬局を子どもが継ごうとせず後継者がいないとか、郊外住宅地ブームで建設業者から立ち退きを迫られているとか、病院や医院が近くにないので誘致できないかとか、多種多様な相談ごとにも対応したのだろう。
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 当時の豊多摩郡に属した地域では、ほかに渋谷町中渋谷、同町下渋谷、代々幡町、千駄ヶ谷町、淀橋町、大久保町、戸塚町、中野町、野方村に開店していた薬局が網羅されているが、いまだ「村」だったのは落合村と野方村のみで、野方村には新井地域に2店の薬局が開店していた。

◆写真上:1921年(大正10)創業の、今年で104年を迎える老舗「クスリ中央」(旧・中央薬局)。
◆写真中上中上は、豊多摩郡では最大の医療機関だった1902年(明治35)創立の豊多摩病院の全景と中庭を囲む病棟の一部。中下は、1931年(昭和6)に下落合670番地に設立された国際聖母病院。は、1967年(昭和42)に下落合1丁目662番地に設立された目白病院。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合524番地の増井薬局。は、同じく「下落合事情明細図」にみる下落合516番地の豊青堂薬局。は、1925年(大正14)作成の「出前地図」にみる下落合642番地の「中央薬局」。
◆写真下は、大正期に製薬会社が出稿した医薬品の媒体広告。は、1922年(大正11)に東京薬局会から刊行された『東京薬局会会員名簿』の表紙()と奥付()。
おまけ
 昭和初期に、濱田増治が描いた薬局のモダン店舗デザイン。「光丹」は(森下)仁丹で「ミツワ薬局」はミツワ石鹸のパロディだが、すでに入口のドアの上には「DRUGSTORE(ドラッグストア)」の看板文字が見えている。なお、このようなモダン薬局で、わたしも欲しい「バカナオール」が売られていたかどうかはさだかでない。
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下落合を描いた画家たち・日野耕之祐。

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 今回は、従来の「下落合風景」画面に比べ、ついこの間まで見られたかなり新しい風景作品だ。落合地域にお住まいの方なら、あるいは美術ファンの方なら、画面をご覧になった瞬間にどこを描いたかがおわかりだろう。1989年(平成元)に制作された、佐伯祐三のアトリエを描く日野耕之祐のスケッチ『佐伯公園』だ。(冒頭写真)
 わたしが初めて佐伯アトリエを見たのは、1974年(昭和49)の高校生のときだった。1972年(昭和47)に米子夫人が死去した2年後のことで、当時はいまだ公園化はおろか、アトリエにつづく母家や米子夫人の居間がそのまま残っているような状態で、当然、内部は公開されていなかったように思う。1980年(昭和55)に、NHKで放映された『襤褸と宝石』に登場するアトリエ内部の展示施設もなく、濃い屋敷林に囲まれた薄暗い、ちょっと不気味な印象しか残っていない。
 その後、新宿区がアトリエ内部を展示室にして公開していたようだが、わたしはこの時期に佐伯アトリエを訪れていない。そして、1985年(昭和60)ごろに老朽化した母家と、南側に増築されていた米子夫人の居間が解体され、アトリエのみがポツンと残る「佐伯公園」になった。わたしは、1982年(昭和57)に南長崎の学生アパートから、下落合の聖母坂沿いのマンションへ転居してきているが、母家の解体工事の光景はまったく記憶にない。
 もっとも、当時はバブル景気とICTシステム(C=ネットワークは原始的なものだった)が浸透しはじめたまっただ中で、土・日・祝(休日)がなく会社への泊まりこみや徹夜はあたりまえ、とても周囲を散策して風景を楽しんだり何かを調べたりする余裕などなかった。この喧騒は、1990年代末のいわゆる「ITバブル」がはじけ、ようやく沈静化するまでつづいていた。そんな毎日がつづく状況で、いつだったか子どもを連れて地域センター(新旧どちらの出張所だったかが曖昧だ)を訪れた際、佐伯祐三の『テニス』が展示されていたのを憶えている。
 現在のきれいに修復された画面ではなく、随所にクラックや絵の具の剥脱が目立つ50号の傷んだ画面だったが、下落合のどこを描いた風景なのかが気になった。佐伯の「下落合風景」シリーズに対する興味を植えつけられたのは、おそらくこのときの『テニス』との初対面が最初だったろう。高校時代から、下落合(現・中落合/中井含む)のあちこちを歩きまわっていたわたしは、佐伯がどこを描いた風景なのかを、いつか突きとめてみたくなったのだと思う。
 1980年代の後半に佐伯アトリエを訪れると、母家が解体されたあとアトリエだけがポツンと残る、緑が濃い「佐伯公園」として生まれかわっていた。佐伯公園の風情は、その後ずいぶん長くつづくことになるが、2008年(平成20)4月5日(土)の朝早めに佐伯公園を訪れると、近所のおばあさん(お名前をうかがいそこねていて残念だ)とみられる方が、換気のために佐伯アトリエのドアや窓をすべて開け放して、公園内を清掃をされているまっ最中だった。内部を見せてもらってもいいかどうか訊ねると、カメラをもったわたしを見て「写真もどうぞ」といってくれた。このとき、初めて佐伯アトリエの内部を見学することができた。
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 「どちらから、おいでになったの?」と訊かれたので「下落合の地元です」と答えると、おばあさんは気を許したものか、佐伯アトリエに関することや近所の話題をいろいろと話してくれた。アトリエで、20分ほど取材や世間話をさせていただいたろうか、このとき佐伯アトリエの南隣りに建っていた青柳邸、つまり佐伯祐三から『テニス』をプレゼントされた落合第一尋常小学校の教師・青柳辰代が住んでいた邸の前に拡がる、国際聖母病院が建設される以前の丘陵および原っぱを、昔から「青柳ヶ原」と周辺の住民たちが呼んでいたことを知った。また、現在では「西ノ谷」と呼ぶことが多くなったが、昔は佐伯アトリエの前に口を開けた谷戸は、大正以前の古くから「不動谷」と呼ばれていたことも確認できた。
 これは、このご親切なおばあさんに限らず、下落合東部に昔から住む多くの住民たちと同じ認識、当時の興信所各社が調べた土地評価の「不動谷」周辺のレポートと同様の認識、つまり「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」と不可解な表情を浮かべた、下落合東部の古老たちと同様の共通認識であることも確かめられた。すなわち、郊外遊園地「不動園」につづき目白文化村を開発した、箱根土地(および協力地主)によるSP戦略上の、意図的な「地名操作」を強く疑いだす瞬間でもあったのだ。佐伯祐三は、クリスマスツリー用の木を伐りだした“洗い場”のある谷戸を、周辺の住民たちと同様に「不動谷」と認識していただろう。
 日野耕之祐の『佐伯公園』にもどろう。画面には、アトリエを訪れた美術ファンだろうか、ベンチに座る赤いバッグをもつ女性が描かれており、その近くをネコがゆっくりと歩いているようだ。佐伯アトリエが公園化されて以来、ここは周辺に住む野良ネコたちの集会場、あるいは日向ぼっこをするテラスとなっており、わたしもしばしばネコたちを撮影しに同公園を訪れている。多いときには、5~6匹のネコたちが陽射しのなかで寝そべっており、特に、アトリエのドアの下に置かれた庭石や、コンクリートブロックのたたきが温かい特等席で、ネコたちはそこに集まってはニャゴニャゴとなにやら話していることが多かった。
 さて、日野耕之祐は、異色の画家といえるだろうか。もともとは新聞の美術記者だったのだが、光風会展へ作品を展示する光風会の会員であり、美術文化協会展へも作品を出品している。1925年(大正14)に福岡県で生まれた日野耕之祐は、1948年(昭和23)に日本美術学校を卒業すると、福沢諭吉が創立した時事新報社の美術部へ就職している。新聞の名称が、産経新聞に変わってからも美術記者をつづけ、15年間も新聞社で働いていた。その後、40歳を目前に記者を辞めて画業に専念し、1967年(昭和42)には作品が日展の特選になり、1976年(昭和51)には日展審査員に就いている。
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 また、記者時代の文章力を活かし、『美を探る』や『具象ノート』など多くの美術エッセイ類を残しており、中でも1967年(昭和42)に三彩社から出版された絵画随筆『東京百景』と、1971年(昭和46)に日本美術社から出版された写真随筆『美を訪ねて』が、もっとも知られている書籍だろうか。日野耕之祐の『佐伯公園』は、1989年(平成元)に刊行された財務省の広報誌「ファイナンス」5月号に掲載された、絵画とエッセイによる「美の季節」シリーズのために描かれた水彩画だ。この時期、日野耕之介はすでに杉並区高円寺4丁目528番地の新しいアトリエに住んでいただろうが、それまでは西落合1丁目5番地にアトリエをかまえており、落合地域には豊富な土地勘があったと思われる。「ファイナンス」より、日野耕之祐の文章を少し引用してみよう。
  
 ぼくは佐伯に会ったことはないが、米子夫人が二紀会の画家であったことと、ぼくの家と近かったことで、このアトリエで米子夫人とよく会った。いまはアトリエだけになってしまっているが、アトリエにくっついて小さな2階屋と平屋があった。アトリエの壁にはペンで描いた佐伯の自画像がかかっていた。/久し振りにここをおとずれた。通りから細い路地を入ったつきあたりで、足の悪かった米子夫人は、外出のときは車が入らないのでいつも困っていた。ぼくがこの絵を描く1時間ばかりのあいだ、この公園に入ってきたのは、学生と、病院の若い看護婦さんらしい人が本を読みにきただけだった。あとは近所のネコたちのちょうどよいたまり場になっていた。
  
 そもそも、佐伯アトリエは多くの画集や図録の年譜にあるように、1921年(大正10)の「年頭」あるいは「早い時期」に建設されているのではないと考えている。長男が生まれるのを待って、同年3月末に下落合623番地の新築アトリエへ転居してきた曾宮一念の証言にもあるように、建設途上のアトリエに塗るペンキのカラーリングの参考にと、そのときが初対面だった曾宮一念アトリエを佐伯が訪問したのは、同年4月以降のことだ。曾宮一念が、1921年(大正10)の早い時期に淀橋町柏木128番地から動いていないのは、同年正月にパトロンだった福島県白河町に住む伊藤隆三郎あての年賀状でも、また同年1月16日付け野田半三あての手紙でも確認できる。
 曾宮一念は、綾子夫人が1921年(大正10)3月21日に長男・俊一を出産すると、母体の恢復と新生児が落ち着くのを柏木の仮住まいで待ち、3月末か4月の頭にようやく下落合へ転居してくるのであって、佐伯祐三が曾宮アトリエを訪ねアトリエのカラー塗りを見学したのはそれ以降のことだ。また、佐伯アトリエを建設していた大工の棟梁が、竣工後に大工道具一式(カンナはその中のひとつだったろう)をもって挨拶にくるのが、“中元”ではなく“歳暮”だった点にも留意したい。1921年(大正10)の「初め」あるいは「早い時期」にアトリエが竣工していたら、大工道具は中元としてとどけられていたはずだ。佐伯アトリエは、少なくとも同年の6月以降に竣工しているものと思われる。
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 「佐伯公園」化から約25年、老朽化した佐伯アトリエは2009年(平成21)に解体工事がはじまり、翌年には佐伯祐三アトリエ記念館としてリスタートしている。ネコばかりが集まって無人だった佐伯公園だが、現在では記念館のスタッフが常駐して、さまざまなガイダンスをしてくれる。

◆写真上:1989年(平成元)に制作された、日野耕之祐の水彩画『佐伯公園』。
◆写真中上:2007年(平成19)の春に撮影した、リニューアル前の佐伯祐三アトリエの外観。
◆写真中下:2008年(平成20)4月5日にたまたま撮影できた、佐伯公園の佐伯アトリエの内観。
◆写真下は、母家からつづく廊下の正面が便所で左手が洋間への入口。中上は、佐伯自身が設計・建築したアトリエ西側の洋間。中下は、いつもアトリエ前で見かけたネコ集会。は、日野耕之祐()と1971年(昭和46)出版の日野耕之祐『美を訪ねて』(日本美術社/)。
おまけ
 上記の日野耕之祐による写真随筆『美を訪ねて』に掲載された、下落合氷川社の鳥居前に保存されている庚申塔。1816年(文化13)に建立されたもので、青面金剛の下に三猿が刻まれている。道標を兼ねた庚申塔で右手に「ぞうしが屋」(雑司ヶ谷)、左手に「くずが屋」(葛ヶ谷)と刻まれており、地元の通称「雑司ヶ谷道」の由来となったとみられる道しるべだ。撮影は1960年代末と思われるが、以前から露天に置かれているため現在では表面の浸食風化がかなり進んでいる。
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江戸期に落合地域で栽培された稲の品種。

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 江戸期には、落合地域で具体的にどのような農作物が栽培されていたのだろうか? これまで、おもに明治以降から戦前まで栽培されていた麦類や野菜(ダイコン)、果実(カキ)などについては折にふれ記事にしているが、米についてはほとんど触れてこなかった。
 そこで、1826年(文政9)に天領(幕府直轄領)の上落合村から幕府に提出された、「村差出明細書上帳」という史料を参照してみよう。同史料は、戦後になって月見岡八幡社に奉納されたもので、それまでは氏子の中村家が保存していた関係から、「中村家文書」とするのが正確なのかもしれない。いわゆる「村方書上(むらかたかきあげ)」と総称される同書上帳は、おそらく代官所(幕府)へ提出した本帳の下書きあるいは草稿とみられ、ところどころの項目に追記が見られる。上落合村の「村差出明細書上帳」は、その内容が1988年(昭和53)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区文化財総合調査報告書 4』に収録されている。
 けれども、おそらく調査報告書の収録時に転記ミスがあったのだろう、わたしは同書の収録には項目に漏れがあることを知り、全文は1994年(平成6)に上落合郷土史研究会の岸辰夫という方が独自に編集した、『解説村差出明細書上帳』(私家版)に収録されていることがわかった。そこで、いちおう双方の資料を比較・参照しながら、上落合村で栽培されていた農作物、特に米(稲)について見ていきたい。おそらく、同時期の天領(幕府領)だった下落合村や葛ヶ谷村(ほぼ西落合エリア)でも、おおよそ大差ない作付けだったと思われる。
 「村差出明細書上帳」原本と、『新宿区文化財総合調査報告書 4』(新宿区教育委員会)との差異は、たとえば44項の「油使用人」の「用」の字が教育委員会の資料では脱落していたり、最後に近い84項目めの「本尊釈迦仏 日蓮宗火葬場 法界寺」とその関連文が丸ごと欠落していたりと、おそらく原本を原稿化する際に転記ミスが生じたものだろう。したがって、原本の記述は上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』のほうを尊重したい。ただし、同研究会の岸辰夫という方の原文解釈にも、現代の江戸史研究から見ると、明らかに誤解釈ではないかとみられる箇所が散見されるので、あくまでも「村差出明細書上帳」の原本記述を中心に考察してみたい。
 まず、江戸期の「五穀」について見ていこう。五穀は、全国の地方地域によって異なるが、江戸期の関東地方における五穀とは、米・麦(大麦・小麦)・粟・稗・黍または米・麦・粟・稗・豆(刈豆=大豆のこと)の5種類だ。上落合村では、「黍」と「豆」のどちらを五穀に含めていたかは不明だが、作付けしている農作物について、五穀以外の産物に「刈豆」を含めていること、明治以降も黍は落合地域で栽培されていたことなどから、同村では「黍」が五穀に含まれていたのではないかと想定できる。上落合村の「村差出明細書上帳」には、次のような記述が見えている。
   五穀之外格別多作出候者無御座候
 「五穀のほか特別に多く栽培している穀物はない」と幕府に報告しているが、米については別に項目を立ててその品種まで詳しく記述している。
   稲草種之名 白志げ 蟹あけ くろ志け めくろゑちご
 「白志げ」は、明らかに江戸期に全国で栽培されていた、「白髭(しろひげ)」と名づけられた米種のことだろう。「髭」とは、稲穂の先につく刺のような芒(のぎ)のことで、大麦・小麦の麦穂につくトゲトゲの形状とまったく同様のものだ。現在では、芒のつく稲はほとんど見られないが、江戸期にも芒なしの稲は栽培されており、そちらは「坊」とか「坊主」「法師」などの名称がつけられていた。したがって、現代の米はほとんどが「坊主」「法師」種ということになる。
 ここで面白いのは、江戸東京方言をそのまま稲の品種名として書きとめていることだろう。「白髭(しろひげ)」を「白志げ(しろしげ)」、「黒髭(くろひげ)」を「くろ志け(くろしげ)」と、村役人(名主)が発音したままの名称で文章化している。「村差出明細書上帳」は、上落合村の名主・重右衛門が提出者となっているが、実際の執筆は重右衛門から依頼された、幕府への提出書類の様式(フォーム)に精通する、専門の“公事師(くじし)”が代筆しているとみられる。公事師は、おそらく町住まいなので稲の品種のことなどわからず、いわれるままに「白志げ」「くろ志け」と書きとめたのだろう。「白髭」「黒髭」の色彩は、もちろん稲穂の先に突きでる芒(のぎ)の色から名称化されたもので、ほかに当時は「赤」や「青」という名の稲種も栽培されていた。
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 さて、次に「蟹あけ」という品種の米だが、この名称はいろいろ調べてもわからなかった。ただし、公事師が聞き取りをまちがえたか、あるいは「蟹あけ」という名称がそもそも誤って(転訛して)上落合(というか関東南部)で用いられていた可能性もありそうだ。そのような前提で「蟹あけ」を考えると、江戸期の稲種名に多い「赤」という色彩を、「あけ」と誤って(訛って)用いられていたのではないか。すると、江戸期には数多く栽培されていた赤米が想定でき、蟹の赤色に近い色あいをした赤米のことではないかと思いあたる。稲の品種に「赤」とつく地方は、江戸期には東北・北陸・中部地方が圧倒的に多かったので、これらの地方から稲種が伝わるうちに、どこかで「蟹赤」が「蟹あけ」に転訛したのかもしれない。
 つづいて、「めくろゑちご」について見てみよう。これは明らかに、「ゑちご」=越後が発祥の稲種なのがわかる。そして「めくろ」については、江戸期「めくろ」「めぐろ」「芽黒」「目黒」などさまざまな字があてられて、同一品種あるいは同一系統品種だったことがわかる。江戸期の稲種については、日本農業研究所が発刊している「農業研究」第36号(2023年)に収録された、西尾敏彦の論文『水稲在来品種名から垣間みた江戸時代の稲作と農民の姿』に詳細が記述されている。
  
 「目黒・めぐろ」
 中世から続く中国地方の田植え唄(註番号略)にも登場する品種名で、「やろく」に次いで東北から九州まで多くの史料でみられる。「芽黒」(『北越新発田~』)と記したものもあり、『農稼録』(同前)には<籾の芽少し黒し>と記されている。芒が黒ずんでいたのだろう。「糯」とする史料が多い。
  
 「糯(もちごめ)」に分類される資料が多いそうなので、今日でいうもち米の一種かもしれない。同論文では、江戸期に栽培されていた稲種を、当時の史料の中から6,390種も探索し、さまざまな分類を試みている点で画期的な仕事だ。上落合村で作付けされていた「めくろゑちご」は、越後すなわち現在の米どころ新潟県が発祥の、品種改良された「芽黒」だった可能性が高い。
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 当時もいまも、農業従事者は稲の品種や生育にはきわめて敏感であり、収穫量が多くて天候の変化に強く、安定した栽培が期待できる品種を常に求めていたと思われるので、栽培種の最後に書かれている「めくろゑちご」は、当時の農業技術で品種改良が進んだ最先端の稲種(もち米)を、導入している最中だったのかもしれない。
 つづいて、五穀以外の農産物(おもに野菜)を挙げている項目を引用してみよう。
   五穀之外大根芋茄子白瓜牛蒡刈豆にん志ん江戸江商ひ出申候
 これによると、畑ではダイコンやサトイモあるいはサツマイモ、ナス、シロウリ、ゴボウ、大豆、ニンジンなどの野菜類を栽培していたのがわかる。これらの野菜は、落合地域の周辺域でも江戸期からほぼ同様の種類が栽培されており、南関東では多く見られた土壌にあう野菜の作付けなのだろう。すでに名産地も登場しており、ダイコンは練馬・落合、ナスは寺島(向島)、シロウリは中野、ゴボウとニンジンは滝野川、ミョウガは早稲田・神楽坂というように、江戸市中の市場や食通の間では生産地までこだわるようになっていた。
 ちなみに「芋」は、「里芋」と「薩摩芋」のどちらのことだろうか。明治以降の落合地域では、双方の「芋」が畑で栽培されているので判然としないが、ここで落合地域の旧家で食べられていた、正月の雑煮を思いだしてほしい。雑煮は、先祖代々その地域を象徴する「食文化」として具材が決められており、江戸東京は広いので地域ごとに江戸期から雑煮の具材が細かく異なっている。以前、下落合村で江戸期からつづく旧家では、男がつくる雑煮にサトイモが入れられていたのをご紹介していた。したがって、隣接する上落合村でも、同様の雑煮が江戸期から食されていたのではないか。そう考えると、先の田圃に植えられた「めくろゑちご」(もち米)とともに、畑で栽培されていた「芋」はサトイモではなかっただろうか。
 上落合村の「村差出明細書上帳」には、戦前まで落合名物だった水菓子(フルーツ)のカキ(柿)栽培が記載されていないが、これはあえて書かなかったのではないかとみられる。うっかり書上帳に記載し、カキも生産物(名産)のひとつとして幕府に認知され、年貢あるいは献上の対象とされてはかなわないので、農作物から省いたのではないだろうか。秋にカキを収穫し、甘い干し柿にして江戸市中の水菓子屋(フルーツ店)へ卸すのは、上落合村の農民にとっては、野菜を市場へ運んで行う商いとともに、現金収入の大きな柱だったとみられる。
 上落合郷土史研究会の『解説村差出明細書上帳』を読んでいると、やはり21世紀の今日では違和感をぬぐえない。同書は、江戸期に「士農工商」という身分制度があったという前提で記述されているが、そのような身分制度は江戸期の行政史料にも司法史料にも、その他あらゆる史料にも見あたらず、中国や朝鮮の儒教書のみに記載された(つまり同国々でかつて施行されていたとみられる)身分制度だったことが判明している。
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 今日では、明治期に薩長政府が江戸時代をことさら封建的かつ過酷で窮屈な身分制度が存在していた時代だとイメージづけるために、他国の儒教書から引用して捏造したものとして全否定されている。今世紀に入り、ようやく「日本史」の教科書からは削除されつつあり、一般向けの歴史書(一例を挙げれば2008年に小学館から刊行された平川新・著『日本の歴史・第12巻-江戸時代/十九世紀-開国への道』など)でも、その全否定の経緯が紹介されるようになった。

◆写真上:江戸期のような芒(のぎ)のない、現代の田圃に植えられた「坊主」の稲穂。
◆写真中上は、上落合村「村差出明細書上帳」の表紙()と本文()。は、現代でも芒が顕著な麦穂。は、1916年(大正5)現在の落合村で栽培されていた野菜。
◆写真中下は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『にんじん』と『野菜』。『野菜』は1925年(大正14)ごろの制作とされているが、ザルの上に置かれた蔬菜類は落合の青物ではないだろうか。は、下落合の畑で撮影した江戸期からつづく「落合ダイコン」。
◆写真下は、いまでも実る先年いただいた甘い落合ガキ。は、下落合で採れたカキを軒下に吊るして干し柿にする下落合(字)本村のお宅。は、本文とは関係ないが上落合に住んだ壺井栄原作の映画『柿の木のある家』(芸研/1955年)。高峰三枝子や上原謙などが出演しているが、ロケーションは下落合のアビラ村(芸術村)に通う目白崖線下の中ノ道(下の道)で行われている。