江戸期からの紙漉きがつづいた落合地域。

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 落合地域へ江戸川沿いから移転してきた工房は、おもに染物業や製氷業だったことは、すでにいくつかの記事に書いてきた。この場合の江戸川は、旧・神田上水の分岐である大洗堰から千代田城の外濠へと流れこむ、舩河原橋までの神田川流域(1966年より神田川)のことで、川の水質や湧水、地下水などが清冽だったことから発達した産業だった。
 ところが、落合地域には染物業や製氷業、製薬業などよりもはるか以前、明治期から下流の江戸川沿いから移転してきた紙漉き工房群が存在していた。製紙業、すなわち江戸期からつづく用語でいえば、和紙を製造する家内制手工業の「紙漉き屋」だ。ご存じかもしれないが、紙漉きも良質な水が不可欠な仕事であり、江戸期から水質に優れた地域で紙漉き業が発達してきた。江戸初期では、和紙製造で有名な田園地帯の浅草が有名だったが、江戸後期になるとより良質な湧水や地下水などを求めて、河川の上流域へと移動している。
 江戸初期の紙漉き業について、1944年(昭和19)に冨山房から出版された関義城『江戸東京紙漉史考』では、延宝年間の岩井守義『浅草地名考』などを引用しながら、次のように解説している。
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 岩井守義述【浅草地名考】中、浅草名物の項に、「連俳武蔵野、寛文四年印本。浅草木綿、同紙、籠耳、貞享四年印本芥子主人蔵」との記述が有る。/延宝四年新版及び天和三年正月版、竝に貞享年間の【江戸絵図】【江戸大絵図】に拠れば、浅草田原町一丁目に続き南の方に「カミスキ町」なる町名が記載せられてゐるのを見る。/貞享四年に刊行された藤田理兵衛の【江戸鹿子】には、/浅草駒形より西筋、東は駒形、西は寺丁まで、三軒町二丁、田原町三丁、紙すき町、茶や町二丁/と有り、又「すきかゑし紙や」として「浅草門跡前、同所はしば」の二個所を記してゐる。/故に寛文、延宝、貞享年代には、已に浅草名物として、製紙業の存在した事が、此等の記録により證明せられ、且つそれが江戸最初の紙漉場所であつた事も判然するやうである。
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 関義城は、「江戸最初の紙漉場所」と書いているが、室町時代にも当然ながら紙の需要はあっただろうから、1400年代に太田道灌が江戸城を築造して、国内でも最大規模の城下町となっていた時点で、江戸の街にはすでに紙漉き屋が開業していたと考えたほうが自然だろう。それは、江戸湊に集積された物資のうち、目白(鋼)など金属類の多さから、刀鍛冶や野鍛冶(道具鍛冶)、金工師たちが集合していたと想定されているのと同様だ。ただし、室町期の和紙の名産地が、浅草とその周辺域だったかどうかまではいまだ不明だ。
 ちょっと余談だが、葛西で収穫した天然海苔や、品川沖で採れた養殖海苔を乾燥させて和紙のように延ばしたものを、江戸初期からの一般名称として「浅草海苔」と呼んでいる。もちろん、浅草地域で製造される浅草和紙を模した工法をヒントに、海苔を長期保存ができる製品として江戸の海苔屋(おもに品川地域)が発明・販売したからで、現代でも海苔の産地を問わず、紙のように乾燥させた海苔の名称は「浅草海苔」と呼ぶのが正しい。よく「韓国海苔」という呼称を聞くが、正確には韓国産の海苔を「浅草海苔」風にしたバリエーション製品だろう。
 さて、江戸川(神田川の一部流域)の周辺にあった紙漉き工房が、よりきれいな水質を求めて上流の高田村や落合村、長崎村へと移転してきたのは、明治期に入りしばらくしてからのことだ。江戸川沿いは桜の名所であり、その水質や湧水、地下水の清冽さから、名物だったうなぎ料理の生け簀や染物業が盛んだったが、水質にことさら敏感な紙漉き工房から郊外への移転がスタートしている。すなわち、のちに染物工房が移転するのと同じ理由で、江戸川沿いの市街地化が進むにつれ徐々に水質の汚濁が進み、明治期には紙漉き用の水としては適さなくなりつつあったからだ。
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 紙漉き工房が東京郊外へ移転するにつれ、業界全体を束ねる同業組合の必要性が生じてきた。大正時代に入るとその動きが活発化して、1920年(大正9)には東京府産紙同業組合が発足している。その様子を、『江戸東京紙漉史考』に収録された、同組合の「沿革」から引用してみよう。
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 東京府産紙同業組合は、東京府北豊島郡、豊多摩郡、荏原郡、南足立郡、及東京市小石川区の四郡壱区内に於ける手漉製紙業者を以て組織し、大正九年十二月二十七日附農商務大臣より設置を認可せらる。現組合員は百十五名にして、大正九年中、其全産額は実に金百弐拾萬円に達し、益々業務の改良発達を企画しつゝあり。(中略) 製品の主要原料は三椏(ミツマタ)を使用し、一般和紙特に江戸川巻紙、同封筒、同辞令用紙等、優良手漉和紙を抄造せり。(カッコ内引用者註)
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 この沿革文でもわかるように、組合員は家内制手工業者すなわち手漉きの製紙業者(和紙製造)がメインの組合で、機械化された工場の経営者は含まれていない。また、ほとんどの紙漉き業者が東京郊外の郡部で操業していたが、唯一東京市内の小石川区(現・文京区の一部)のみが残っているのは、江戸期からつづく江戸川(神田川)の地域が含まれているからだ。
 では、東京府産紙同業組合に登録された、落合地域の紙漉き工房を見ていこう。もっとも多くの業者が集まっていたのは、下落合でも上落合でもなく、当時は落合村葛ヶ谷と呼ばれ宅地開発の手が及んでいなかった、田園地帯の西落合地域だ。このリストを見ると、同業者同士が同じ番地、あるいは近隣に集まって操業していたのがわかる。これは、同業者が資金を出しあって設置した井戸や湧水口の水を、共同で利用していたからだとみられる。以下、落合村葛ヶ谷で操業していた手漉き製紙業者は、1920年(大正9)の時点で18工房を数えることができる。
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 翌1921年(大正10)には2工房ほど増えて、葛ヶ谷(西落合)の紙漉き業者は20工房になっていた。操業していた番地は、特に落合分水や妙正寺川の近くとは限らないので、おそらく井戸水を活用した操業だったろう。なお、★印は1944年(昭和19)現在で操業をつづけている工房だ。
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 つづいて、下落合(現・中落合/中井含む)は1工房、上落合は3工房の紙漉き業者が営業していた。上落合の番地は、前田地区の南側に位置する旧・八幡通り沿いだ。けれども、下落合に3315番地は存在しないので誤植だろうが、とりあえずそのまま記載してみる。下落合2306番地は、目白学園の北東側にあたる番地だ。なお、翌1921年(大正10)になると、上落合には11業者増えて12工房、下落合には1業者増えて4工房の紙漉き業者が操業している。
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 上記と同様に、★印は1944年(昭和19)の時点で操業をつづけていた業者だ。
 また、大正末になると手漉き製紙業者の個人工房ではなく、機械による洋紙・和紙の製紙工場が落合地域にも進出してくる。この傾向は、市街地にあった工場が関東大震災による被害で操業不能となり、郊外へと移転せざるをえなくなったケースも含まれているだろう。近代的な製紙工場は、大正末の時点で下落合に3工場、上落合に1工場、葛ヶ谷(西落合)に2工場が記録されている。
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 紙漉き業者は、東京府産紙同業組合の統計によれば、1922年(大正11)の116工房をピークに漸次減少をつづけている。昭和に入るとわずか48工房に減少し、手漉き和紙の需要が急激に落ちこんでいった様子がうかがえる。1929年(昭和4)になると、産紙同業組合は解散を宣言することになる。

◆写真上:現代でも高級和紙は、手漉きによる個人事業者の工房で製造されている。
◆写真中上:上左は、1944年(昭和19)に出版された関義城『江戸東京紙漉史考』(冨山房)。上右は、文政年間ごろに制作の貞秀『風流職人尽/紙漉』。中上・中下は、1856年(安政3)に出版された菱川師宣『職人尽倭画』(写し)の紙漉き。下は、1853年(嘉永6)に作成された尾張屋清七版の江戸切絵図「今戸箕輪浅草絵図」にみる浅草・田原町(紙漉町)界隈。
◆写真中下:上は、明治期の代表的な和紙「江戸川巻紙」のパッケージ。中上は、1770年(明和7)出版の『彩画職人部類』の「紙」。中下は、1829年(文政12)に出版された貝原益軒『女大学宝箱』の「紙すきや」。下は、九州の有明海産の海苔を加工した「浅草海苔」。
◆写真下:上・中は、昭和初期の手漉き製紙工房。下は、現代もつづく手漉きによる和紙づくり。

吉屋信子を「社員」にする原稿依頼テクニック。

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 出版社の同志社(のち婦人生活社)の社主だった原田常治は、編集者時代の面白いエピソードを書き残している。昔もいまも、よく売れるベストセラー作家から原稿をもらうのは、出版社にとっては至難のわざだった。しかも、ふだんから自誌の予算よりも高額な原稿料で書いている作家を、それより安い稿料で口説き落とすのは不可能に近かっただろう。
 これは、原田常治が大日本雄弁会講談社(現・講談社)の雑誌「婦人倶楽部」編集部でエディターをしていた、1932年(昭和7)に起きた出来事だ。出版予算が限られ、社命で“相場”よりも安い原稿料で書いてくれるよう、口説き落とさなければならなくなったその相手、当時のベストセラー作家とは下落合2108番地に住んでいた吉屋信子だ。作家と編集者は、もちろん表現する作品のテーマについて合意する作業をともなうが、それにも増して稿料をめぐる交渉は一種の闘いでもあっただろう。エージェントが存在しない日本の作家は、直接本人と交渉することになる。
 当時、講談社の「婦人倶楽部」編集部は、主婦之友社が発行するライバル誌「主婦之友」に追いつこうと必死になっていた。「主婦之友」は、既婚女性向けに発行されていた売上げトップを走る雑誌で、1932年(昭和7)になると発行部数は40万部/月をゆうに超えていた。講談社の「婦人倶楽部」編集部では、部員を15~16人に増員して誌面の充実をはかろうとしていたが、「主婦之友」に比べれば編集予算(原稿料)はかなり見劣りするのが現実だった。
 原田が配属された「婦人倶楽部」編集部は、20代の彼よりも部員たち全員が年上で、「この人に書いて貰つたらいゝ」という作家には「全部書いて貰いましよう」、依頼してもどうしても書いてくれないむずかしい作家がいれば、「私が行つて書いて貰つて来ます」と宣言した。おそらく、古参の編集員たちは稿料が他誌に比べて安いのを知っていたので、「この大ボラ吹きの若造が」とでも思ったのかもしれない。そんな大風呂敷を拡げたおかげで、原田は会社からの帰宅が毎日午前2~3時になり、何度も徹夜を繰り返す日常があたりまえになってしまった。
 当時、ライバル誌だった「主婦之友」には、吉屋信子の連載小説が掲載されており、それが評判を呼んで同誌の発行部数はうなぎのぼりだった。吉屋信子は、大正末から「主婦之友」へ寄稿しており、女性向けの連載小説ではほぼ専属作家といってもいい存在だった。昭和初期だけみても、『空の彼方へ』(1927年4月~)や『暴風雨の薔薇』(1930年1月~)がヒットしており、「婦人倶楽部」編集部としてもどうしても執筆してほしい小説家のひとりだった。
 けれども、「主婦之友」の原稿料に比べ、原田が勤める「婦人倶楽部」では原稿料が半分以下で、とても引き受けてくれそうもなかった。それまでも3年間にわたり、編集部では吉屋信子へアプローチをつづけてきたが、400字詰め原稿用紙1枚につき15円を支払う「主婦之友」に対し、「婦人倶楽部」の予算では半値以下の7円しか出すことができなかった。そのような状況のなか、入社した当時の若い原田が部員たちを前にしたあいさつ、書いてくれないむずかしい作家がいれば「私が行つて書いて貰つて来ます」を思いだした編集長から、「おまえ、いってこい」と押しつけられてしまった。大言壮語をした手前、原田も「えゝ行つて見ましよう。私が行けば吉屋先生書いてくれますよ」と引き受けたが、焦った彼はいろいろと知恵をしぼりはじめた。
 原田常治の“生き方”というのは、「人間というものは、切羽つまつて、ギリギリに追いつめられると、ないと思つた力が出る、ない筈の知恵が出て来るもの」というものだった。何ごとにも背水の陣で立ち向かえば、困難な状況でもなんとか打破できる道が見つかるという考え方だ。そして、それが若干20代の彼の“哲学”であり、断崖絶壁の淵に身を置く“修養”でもあったと、彼はのちにエッセイで述懐している。では、吉屋信子の担当者だった同僚K君とともに下落合を訪ねた様子を、1952年(昭和27)に同志社から出版された原田常治『人生相談』より、少し長いが引用してみよう。
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 その翌日、雨の中をK君と、下落合の吉屋先生のお宅へ伺いました。そして、S誌(「主婦之友」)の読者数から、その読者の年齢層、地域分布、こちらの読者の年齢層等、こまかく分析してS誌へ載せて八〇点うける小説なら、こちらへ載せれば一〇〇点うける、先生の小説を欲しがつている読者は一体どつちが多いかということを縷々二時間余り説明して、編集者というものは読者の欲している小説はのせなければならない、と同時に、作家も、自分の小説を欲している読者に与えなくてよいのか――と、どうしても「それでは書こう」という返事しか出来ないところへ話を押しつめたのです。先生もよく了解して、十分に書こうという気持は動いたようでした。しかし、最後に、/「私も、あなたのおつしやる通り、書きたいのですが、何としても、こうして、女所帯で一戸を構えている以上、生活費というものが要ります、せめて一枚十円ぐらいの原稿料を頂かなければ、生活が立つて行きません。又、そのくらい出せない雑誌ではないでしよう」/と、まことに御尤もなお言葉です。これには流石の私も、ちよつと返事に詰つてしまつたが、私の頭にキラリとひらめくものがあつたのです。そこで、「今日はこのくらいにして、K君帰ろう」……(カッコ内引用者註)
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 原田常治がいとまを告げたので、彼女はやはり講談社では10円/枚の原稿料が無理なので、あきらめたのだと解釈しただろう。吉屋信子は、ていねいに玄関まで送りに出てくれたが、原田は靴をはいてから振り返ると、「今日は先生、これで帰りますが、明後日又お伺いします。その時はウンと云つて下さいますね」と、念を押すようにいった。吉屋信子は、てっきり編集者が原稿依頼を断念して帰るところだと思っていたので、「妙なお顔をされ」たようだ。
 ここから、原田常治の「キラリとひらめ」いた工作がはじまった。帰社すると、彼は編集長に吉屋先生は「大丈夫、明後日行けば書きますよ」と報告した。ところが、編集長はまったく信用せず、他の編集部員も彼の報告を「のみ込めない顔」をするばかりだったらしい。だが、原田にはすでに「成算」があり、少しばかり自信さえ湧いてきていた。彼は、吉屋信子が話していた「女所帯で一戸を構えている」というワードに、大きなひっかかりとともにヒラメキを感じていたのだ。
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 さっそく、原田は会計部の予算に厳格なM部長のところへいって、下落合の吉屋邸を訪ねた結果、「先生も快く引きうけて、来月号から書いて下さいます」と報告した。原稿料が折りあわず、吉屋信子がどうしても書いてくれないという、以前からの経緯を知っていたM部長は、もちろんサギ師を見るような怪訝な目つきで彼を眺めて、「原稿料はどうしたい」と訊いた。それに対して原田は、原稿料は出さないことに決めたと答えている。以下、前掲書よりつづけて引用してみよう。
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 「原稿料はどうしたい」/「えゝ、原稿料はあげないことにしました」/「え?」/「その代り、書いている間、月給を差上げることにしました。月三百円、いゝですね。来月から払つて下さいよ」/これには、Mさんも、何だか訳が分らない顔をしていましたが、少しして、/「三百円というと、一枚いくら位になる?」/「そうですね、四十枚として、七円ちよつと位ですか、別に今までの会計案より上げるというのではありません」/「ウン、そんならいゝだろう」/もう、これでこの話は九分通り成功です。
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 そして約束の明後日、下落合の吉屋信子を訪ねた彼は、「婦人倶楽部」に書いてくれている期間は原稿料ではなく、社員と同様に「月給」として月々300円を必ず支払うということで、話がなんとかまとまった。原田常治は、彼女がなによりも生活や収入の安定を求めているのが最優先の課題だと感じとり、吉屋信子は月々40枚書こうが30枚しか書けなかろうが、毎月必ず300円の一定収入があるのを大きな魅力と感じたのだろう。たとえ病気で一時的に書けない月があったとしても、一定の収入が保証されれていれば、安心して生活することができる。
 こうして、吉屋信子を講談社の「社員」化することで、雑誌「婦人倶楽部」に連載がスタートしたのは、彼女の初期代表作で超ベストセラーとなる『女の友情』だった。当初、吉屋信子は自身の原稿料を下げたくなかったせいか、月々の連載枚数を30~35枚ほどにセーブしていたようだが、『女の友情』が空前の大ヒットとなるにつれ、「婦人倶楽部」の発行部数は目に見えて急増し、わずか3ヶ月で彼女の月給は500円に引きあげられている。原田常治はあえて書いていないが、講談社の社主だった野間清治夫妻が、彼女を目白山(椿山)の自邸に招くようになったころ、吉屋信子の「月給」はさらに上がっていただろう。彼女は、講談社の基礎を築いた作家のひとりとなった。
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 作家には、いつもの額の原稿料が欲しい要望があり、出版社側にはそんな予算はないという課題があったわけだが、その解決に正面から取り組んでいては10年たっても解決しないだろう。だが、課題や対立のポイントを少しだけずらし、別の角度から提案をすればすんなり解決してしまうことがある。しかも、「成果(成功)」がおよそ見通せるような場合は、ある程度の結果がでた時点で、作家側も出版社側も双方が満足するような修正ができる。これは別に出版の領域に限らず、あらゆる分野にも適用できるテクニックだろうが、原田常治は35歳をすぎたらこんなムチャをしてはダメだと説いている。若い20歳代の彼だからできたことで、「あの子、何考えてるのかしら?」とか「あいつ、何やってんだ?」と見すごしてくれたけれど、これが中年以上の人間が同じことをしたら、文字どおりサギ師のようないかがわしさが残り、かえって信用をなくすだけということだろう。

◆写真上:原田常治(上)と吉屋信子(下)の、瞬間的な表情のマッシュアップ。
◆写真中上:上は、1952年(昭和27)出版の原田常治『人生座談』(同志社/左)と、著者の原田常治(右)。中は、1950年(昭和25)出版の吉屋信子『女の友情/童貞』(講談社/左)と、著者の吉屋信子(右)。下は、門馬千代と暮らした下落合2108番地の吉屋信子邸(AI着色)。
◆写真中下:上は、打ち合わせ中の原田常治。中は、めずらしく着物姿の吉屋信子。(いずれもAI着色) 下は、昭和初期に下落合の自邸庭で撮影された門馬千代(右)と吉屋信子。
◆写真下:上は、下落合の自邸ポーチで編み物をする吉屋信子(AI着色)。中は、1948年(昭和23)出版の吉屋信子『女の友情』(新潮社版)。下は、目白崖線東端の音羽通り沿いにある講談社の現状。

上落合の卓袱台でグルグルまわる徳永直。

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 1935年(昭和10)7月、東京美術学校の彫刻科に在学中だった彫刻家(の卵)が、上落合のアトリエで徳永直の胸像に取り組んでいた。徳永直に上落合のアトリエまで実際にきてもらい、3日+1日かけて胸像を仕上げている。徳永直は、毎日午後2時から午後4時ぐらいまでの2時間、モデル台がないため卓袱台(ちゃぶだい)の上に胡坐をかいてモデルをつとめた。
 1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がそのまま身体を回転させていた。粘土による肉づけを終えるころ、詩人の「O氏」が来訪してふたりを前に、創作方法などのおしゃべりが止まらない。よほどヒマだったのか、彫刻家も「天馬空を翔けるが如く彼饒舌(しゃべ)る」と記している。彼が帰るころには、天窓がないアトリエは薄暗くなり制作中止となった。
 2日目は、駆けだしの彫刻家へ、徳永直は茶菓として饅頭を買ってきてくれた。ところが創作をはじめようとしたら、漫画家の「K夫妻」が茶菓をもって訪ねてきた。つづいて、画家の「S、W、K各氏」の3人、翻訳家の「M氏」、おまけに隣家の「N夫人」までがやってきた。当時、上落合はヒマ人ばかりだったのだろうか。こんな喧噪で仕事ができるのかと思うが、おしゃべりは来客同士にまかせて作業を進めていたらしい。おまけに、近所で野球チームを結成しようということになり、客たちの相談がまとまったところで、この日の作業を終えたようだ。
 夜になると、筋向いに住んでいる差配のジイさんがやってきて、家賃を滞納するなら「立退いて貰ふ」といってきた。上落合の借家に南京虫が出たので、彫刻家は家賃の支払いをしぶっていたらしい。「南京虫は、こちらで退治するから」、早々立ち退いてくれという。この差配のジイさんは耳が遠く、ほぼ筆談なのだが2時間ぐらい退去するしないで押し問答をつづけ、ジイさんは「貴殿も人は好いようだが時代が違ふ」といった。なぜか、徳永直がモデルに通ってきているのを知っており、「わしは、これで徳永さんのものは好んで読んでゐます」などという話になり、彫刻家が造りかけの胸像を見せると、話がウヤムヤになってジイさんは引きあげていった。
 3日目は、農民出身の詩人「D氏」がやってきて、卓袱台の上にいる徳永直に話しかけるので、頭部がたびたび動いて仕事がしづらかった。モデル最後の日なので、徳永直には卓袱台の上でグルグルまわってもらって制作を急いだが、ついに完成の域には達しなかった。これから旅行に出るという徳永直に、モデルの続行は不可能だった。
 そこへ、翻訳家の「M氏」が来訪して、日本のプロレタリア美術について議論となる。翻訳家は、「これまでのものは一般に、田舎臭い気がする」といい、美術領域でも資本主義発達史的な検討が必要で、新興美術を含めての検討が不可欠のように思うといった。美術分野に、社会科学の講座派と労農派の発達史論争がどうかかわりがあるのか不明だが、ふたりとも話好きだったらしく議論は長めにつづいた。夜になって、「同僚」(おそらく東京美術学校彫塑科の同級生)の「S、M」の2名がやってきて、造りかけの徳永直像について「親切な批判」を受けた。
 こうたびたび来訪者があっては仕事が片づくはずもなく、彫刻家は徳永直が旅行から帰るころを見はからって、もう一度だけモデルになってくれと依頼する手紙を書いている。徳永はそれに快く応じたようで、「徳永氏に深く労を謝して」とこのエッセイを終えている。同文が掲載されたのは、1935年(昭和10)にナウカ社刊行の「文学評論」9月号で、『胸像制作週間』と題した日記風のエッセイを書いたのは「佐田四郎」だった。もちろん、上落合の佐田四郎などという彫刻家は聞きおぼえはないが、彼は戦後に造形・立体美術の表現者として活躍する入江比呂(入江弘)のことだ。
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佐田四郎「小林多喜二レリーフ像」1935.jpg 岡本唐貴「小林多喜二の像」1933.jpg
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 佐田四郎こと入江比呂は当時、ゴーリキー像や秋田雨雀像、小林多喜二レリーフ像などを制作していた。ナウカ社では、同レリーフ像を1円30銭で頒布しており、書斎における小林多喜二の写真をモデルにしたもので、「ナウカ社の『多喜二全集』と共に、これを座右に飾つて、故人の文学的業績を偲んで下さい」と広告している。レリーフを見ると、岡本唐貴が描いた素描の小林多喜二にも酷似しているので、彼もまた写真からスケッチしているのではないか。
 その岡本唐貴だが、プロレタリア美術運動が政府に圧殺されていった戦前・戦中の期間を通じて精力的に制作していたが、佐田四郎こと入江比呂は同じ期間にほとんど仕事をしていない。それは、作家とちがって美術家は特高や憲兵隊から激しく弾圧はされても、強いて「転向」は迫られず挫折感をともなわなかったという事情があるからだろうという見方がある。このテーマについて、1981年(昭和56)に入江比呂作品集刊行会から出版された『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』に収録の、門田秀雄『美術前衛の闘いとリアリズム絵画の運命』から少し引用してみよう。
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 しかし一方で、プロレタリア美術運動の解体を岡本唐貴らリーダーと全くちがう受けとめ方をした美術作家(たち)もいたのである。例えばそれは、プロレタリア美術展の頂点といわれる1930年の第3回展<プロレタリア美術大展覧会>にはじめて美校在学中に出品した彫刻家・入江比呂であった。「PP(日本プロレタリア美術家同盟)はもっていた唯物弁証法的創作方法と共に崩壊した。支柱を無くした私は敗戦までほとんど内発的な仕事をしていない」(1976年、個展案内状)。/これに反して、岡本唐貴は戦中期におそらく、全生涯を通じてすら、最も豊饒であり、二人の戦争期の過ごし方は際立った対照を見せている。この差異はまた、戦後において、岡本唐貴の緩慢に風解してゆくリアリズムと入江比呂の立体作家としての群を抜くラディカルな軌跡との――前衛としての蘇生との――鋭い対照となって再び歴史のなかにあらわれる。(< >引用者註)
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 興味深いのは、当局の徹底した弾圧があったにもかかわらず、ほとんど「挫折感」を見せずポジティブに制作を継続していた岡本唐貴が、敗戦とともに表現の「自由」が保障されたとたん、作品の精彩を徐々になくしていったのとは反対に、美術運動の徹底した挫折感を味わった(とみられる)入江比呂は、敗戦まで制作意欲をまったく喪失していたにもかかわらず、戦後を迎えるとのびのびとした創作意欲が回復し、造形・立体美術家としてフロントに踊りでてきたということだろう。
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 カントではないけれど、空気抵抗があるからハトは速く翔ぶことができないが、空気抵抗さえなくしてしまえばもっと速く翔べると考えるハトがいるとすれば、たちまち墜落して二度と翔べなくなってしまうだろうという逸話が思い浮かぶ。現実に当局の激しい抑圧や弾圧があったせいで、岡本唐貴は生きいきとした表現をつづけられたのかもしれず、そのタガが外れた戦後は精彩さを欠き、表現を前進させることが困難になっていった……というような経緯だろうか。
 ちょっと恥ずかしい余談だけれど、上記の「翔べないハト」の逸話を、わたしは以前にどこかでサルトルが引用していると書いた憶えがある。これは明らかにわたしの拙い誤記憶で、カントの『純粋理性批判』が正しい引用元だ。サルトルが『自由への道』など著作のどこかで再引用していたのを、誤って記憶していたのかもしれない。改めて、ここで訂正させていただきたい。
 その岡本唐貴自身も、『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』(1981年)の出版にあわせ、入江作品に対する『まづしい感想』という一文を寄せている。同文より、少しだけ引用してみよう。
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 しかし社会主義レアリズムにおける政治の優位性というドグマに進路を歪められた。それがこの道の破産の主な条件であった。いまにおいてもこのことにかわりはない。/ところで戦後においてはダダはシュールに吸収された。このことは本来従兄弟関係の様なもので、定着しようと思えばシュールになるのが自然である。戦後にはシュールとアブストレーという大筋の多数な分岐が花と咲いている。ネオ・ダダもその一つであろう。/入江君の仕事が立体造型により、社会主義レアリズムからダダめいたものに移行しながら、実はシュールめいたものにも見えるのは、社会主義レアリズムの本質的死めつと無関係ではないのだと思う。これは一種の批判的レアリズムの現代風な表現行為なのだとも考えられる。/製作年代を追って内容と形式を検討してゆけば更に面白いものがあると思うが、いまそのヨユウはない。/君はぼくの逆の道を歩んでいるようだな。
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 入江比呂が、インパクトのある作品を堰を切ったように生みだす戦後の姿を、どこか羨んでいる感触が行間から滲むような文章だ。岡本は同文で、入江の作品を「シュール」や「ダダ」と同列へ収斂しようとするが、入江自身はもちろん、彼が属していた「前衛美術会」はダダもシュルレアリズムも超克する地平に立とうとする、現実社会の変革をめざす表現者集団ではなかったろうか。
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 当時の入江比呂のアトリエは、上落合2丁目619番地の吉岡方にあった。この「吉岡」という人物は不明だが、専属の差配がいるので付近の地主が敷地内に建てた貸家だろうか。位置的には、なめくじ横丁の上落合銀座通りをはさんだ南東側ということになる。戦後は、しばらく練馬区下石神井2丁目1657番地にいたが、鎌倉は佐助稲荷の裏側(西側)にあたる笛田にアトリエをかまえていた。

◆写真上:入江比呂の代表作のひとつ、1974年(昭和49)制作の『ロッカーマリア』(部分)。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)に上落合で制作された佐田四郎(入江比呂)『徳永直氏像』。上右は、戦後の鎌倉の笛田アトリエ時代に撮影された入江比呂。中左は、1935年(昭和10)ごろ制作された同『小林多喜二レリーフ像』。中右は、1933年(昭和8)制作の岡本唐貴『小林多喜二の像』。下は、1958年(昭和33)に制作された入江比呂『外来者』。
◆写真中下:上は、1970年(昭和45)に制作された入江比呂『玉遊び』。下は、1971年(昭和46)に制作された同『ひも』。いずれも『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』より。
◆写真下:上は、1977年(昭和52)制作の入江比呂『貴種連結』。下は、1979年(昭和54)制作の『食目人』。作品は屋外に置かれることが多く、展示中に風雨にさらされて経年変化が激しいものもある。工場の廃材や廃棄された大量消費材などを、アッサンブラージュという手法で寄せ集め、白セメントなども使用しているためクラックや腐食が起きやすいが、風化にまかせるという肯定的な発想も含まれている。大量生産・大量消費社会から出るゴミや廃材をあえて使う、フランスのヌーヴォーレアリズムや米国のジャンク・アートなど、当時は「反芸術運動」の主流となっていた。

下落合を描いた画家たち・銭痩鉄。(続)

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 戦前、日本に滞在した中国の文人に、江蘇省無錫出身で上海に住んでいた南画家で書家、篆刻(てんこく)家の銭痩鉄(本名:銭厓)がいる。書画や篆刻を学んだあと、上海美術専科学校の画師(教師)に就任。1923年(大正12)の春に橋本関雪の招きで初来日し、関東大震災後の同年秋まで滞在している。この間、銀座の松屋デパートで個展を開いている。
 翌1924年(大正13)には、銭痩鉄や橋本関雪を含む日中の画家7人が合同で画会「解衣社」を結成し、日本で第1回展覧会を開催した。また、関東大震災の救援活動として「日中文化展覧会」に参加し、売り上げを救援金として寄付している。昭和に入ると、書画・篆刻に凝っていた会津八一と知りあい、互いの文人気質にことさら親しみをおぼえたのか、以後、篆刻に関しては作品を評価しあう仲になった。また、谷崎潤一郎ら文学者とも親しくなり、東京・大阪の松坂屋デパートなど、各地で日本画家とのコラボ展覧会を開いている。
 1931年(昭和6)には、上海美術公司出版の雑誌「美術生活」の主任編集員となったが、1935年(昭和10)に家族をともなって再来日し、会津八一の支援で新潟で個展を開催するなど、精力的な創作活動をつづけている。また、三省堂の客員顧問や編集委員をつとめ、同社の書雑誌「書苑」を創刊している。だが、1937年(昭和12)に日中戦争がはじまると、同年8月7日に「中国のスパイ」として特高に逮捕され、1941年(昭和16)5月15日までの3年半、中野にあった豊多摩刑務所に投獄された。出獄後、銭痩鉄は家族が待つ上海へ帰国している。
 東京における銭痩鉄の住所で、よく知られているのは「豊島区巣鴨1丁目3277番地」だが、これは明らかにおかしい。巣鴨1丁目には当時、このような3000番台の多数ケタ番地は存在しないし、そもそも巣鴨7丁目でさえ1700番台までの番地しかない。昭和10年代の豊島区で、3277番地が存在するのは西巣鴨1丁目であり、上記の住所は「豊島区西巣鴨1丁目3277番地」が正しいのだろう。現在の住所でいうと、池袋サンシャインシティ(当時は巣鴨刑務所)のすぐ東側、都電荒川線沿いにあたる東池袋4丁目36~37番地界隈だ。
 もうひとつ知られている“住所”は、「中野区新井町336番地」だが、これはいわずと知れた数多くの思想犯を収容する、悪名高い豊多摩刑務所(のち中野刑務所)だ。銭痩鉄は、獄中からの手紙の差出人に、同住所と名前だけを記載している。「中国のスパイ」としての容疑は、中華民国の革命家で親日家だった郭沫若を、日本から中国へ脱出させたために「治安維持法違反」に問われたとされるが、これは当時の駐日中国大使からの資金提供による依頼だった。彼は孫文による三民主義を支持しており、共産主義とは無縁のはずだったが、駒込警察署の特高取調室でひどい仕打ちを受けた彼は、ついにキレて取り調べの特高刑事を殴ってしまう。
 戦後、事件の担当検事だった望月武夫が、「中国のスパイ」は特高のデッチ上げ事件だったことを暴露しているので、彼の証言が事実なのだろう。したがって、望月検事は銭痩鉄をおもに特高刑事への暴行傷害罪で起訴している。以下、1965年(昭和40)に法曹会から刊行された「法曹」1月号収録の長めのエッセイ、望月武夫『銭痩鉄氏のことども』から少しだけ引用してみよう。
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 銭厓氏は紙片に(特高刑事への)暴行の理由として「自分は篆刻の名家として万人の尊敬を受けているに拘らず、某警部は自分に対し跪拝せよと命じた、自分はこの屈辱に堪えるより寧ろ彼を殺して自らも死のうと思った」と書いて差出した。斯様な事故のため事後の取調べは検事が直接当ることとなり私がその事案の主任を命ぜられた。私は約二〇日位連日駒込警察署に通い通訳を通じて銭氏の取調べを行った、(中略) 彼は孫文の三民主義を信奉するもので共産主義者ではない、篆刻においては東洋の三鉄と称せられるものの一人であり、橋本関雪画伯に招かれて両三度来日し、秩父宮の印章も彼の篆刻にかかるものであるとのことであった、(中略) 以上、銭痩鉄こと銭厓氏の事件で、伝えられているように所謂スパイ事件でも又逃走のため警察官に暴行を加えたものでもない、(カッコ内引用者註)
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 担当検事がここまでいうからには、その取り調べは堂々としたものだったのだろう。供述のウラ取りでも矛盾は見いだせなかったようで、望月検事は彼を供述どおりの内容で起訴している。また、望月武夫は戦後、日本橋三越で開かれた銭痩鉄作品展にも足を運んでいる。
 豊多摩刑務所へ収監された銭痩鉄は、監房内で篆刻の仕事をしたいと希望して、特別に許可されている。これには、会津八一や橋本関雪、谷崎潤一郎たちからの強力なバックアップがあったのだろう。房内に彫刻刀を持ちこむなど、通常では考えられないことだった。
 銭痩鉄は、獄中で制作した篆刻を世話になった知人たちに贈っている。会津八一のもとにも、かなりの篆刻が保存されていたが、お互い篆刻を制作すると批評しあっていたようだ。目白文化村の文化村秋艸堂(下落合1321番地)を訪ねた大鹿卓が、それらの作品を鑑賞している。1948年(昭和23)刊行の「桃源」11月号(吉昌社)収録の、大鹿卓『銭痩鉄氏のこと』から引用してみよう。
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 帰りの途々私は黄包車にゆられながら、下落合の会津先生の秋草堂を思ひ出してゐた。いつの頃であつたか私は嘗つてその二階の書斎で、先生自身常用の夥しい刻印をとり出して印譜を作られるのに、松下英磨君とともに同座したことがあつた。手鈐(しゅけん)されたのちこれは山田寒山、これは銭痩鉄と筆をとつて記入されるのを見てゐると、銭さんの刻は実に数十顥に及んでゐた。私はそのとき初めて銭痩鉄の名を知り、併せて支那近代の巨匠呉昌碩の遺髪をつぐ篆刻家であることを知つた。私はもとよりその道に暗く審美眼も持ち合わせてゐないのだが、どことなくその作品に雅趣があり気魄があつて力量のなみなみでないことが頷かれた。これらは銭さんが事に累され獄中に在つたとき特に許されて刀を振つたもので、当時会津先生は一箇の刻が出来るごとに一々その批評を書き送つて、これを鼓舞鞭撻したのだといふ。
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 会津八一は、獄中の銭痩鉄を励ましつづけたのかもしれないが、おそらく篆刻の腕や技量は銭痩鉄のほうが上だったのではないだろうか。銭痩鉄は、篆刻の本場で「東洋三鉄」と呼ばれるほどの腕を磨いている。また、彼が獄中にあった3年半、会津八一はあらゆる伝手(つて)やコネを使って早期釈放の運動をしている。駒込警察の特高刑事への重大な暴行傷害だったにもかかわらず、3年半の服役で済んだのは会津をはじめ、さまざまな方面からの釈放運動があったことをうかがわせる。
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 豊多摩刑務所からの釈放後だろうか、銭痩鉄は会津八一を中国に招待している。1963年(昭和38)に会津八一先生伝刊行会から出版された、吉池進『会津八一伝』から少し引用してみよう。
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 「会津先生と銭痩鉄」の対談が残されているが、その中で銭痩鉄は、平和が恢復して世の中が落着いたなら一度是非先生を中国の古美術旅行に招待し、その折は遠く西陲甘粛省の敦煌莫高窟(とんこう・ばっこうくつ)の古蹟へ案内したいといっているが、その後中国の状勢も一変し、先生身辺の事情も許さず遂に実現を見ずにしまった。先生の中国美術行脚の旅は幾度か計画されたが中止されてしまったのは残念なことであった。大正末年の朝鮮旅行の計画など料治熊太と同行の予定で準備もすっかり出来上ったのに出発の前の日に中止してしまった。
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 会津八一の旅行計画に、西落合1丁目31番地に住んでいた版画家で古美術研究家の料治熊太が、一枚嚙んでいたのが面白い。銭痩鉄の中国招聘と古美術旅行が実現していたら、おそらく会津と連れ立って料治熊太も同行したのではないだろうか。
 戦後1947年(昭和22)に、銭痩鉄は三度目の来日をはたしている。中華民国の代表団のひとりとして、東京・元麻布にあった同大使館につとめているが、同年秋に会津八一のいる新潟をわざわざ訪ねている。そして、ふたりで酒を酌み交わしながら、「亡国」の憂き目をみた会津八一は、銭痩鉄へ次のように語っている。『会津八一日記』(中央公論社/1969)より、少しだけ引用してみよう。
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 中国と日本には長い間にはいろいろの事があって、一度ならず戦いもした。しかし東洋に軒を並べている以上、日本として昔からどこの国より親しい関係で切っても切れぬものは中国だということを忘れてはならない。これは日本人ばかりでなく、あちらでもやはりそんな風に、よくあとさきの事を考えて物をして貰いたいものだ。私は先年、一盃を銭君に勧めながら、これを繰返し繰返し主張して別れた。(昭和二十二年十二月一日記)
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 わたしの手もとに、中国へ旅行した友人からいただいた篆刻がある。大理石に彫られた、おそらく上海で制作されたものだと思うが、わたしの名前が刻まれている。わたしは書画を嗜まないので、篆刻などいただいてもブタに真珠なのだが、できるだけ手紙などには使うようにしてきた。少し前から、名前でなく改めて「落合道人」と刻みなおしてもらおうかと、少なからず悩んでいる。

◆写真上:1948年(昭和23)8月に制作された、銭痩鉄の南画『落合山荘』。下落合1296番地の霞坂にあった、会津八一の秋艸堂を描いている。
◆写真中上:上は、若き日の銭痩鉄(銭厓)。中上は、銭痩鉄『雲門峰』(制作年不詳/以下同)。中下は、同『果盆』。下は、1957年(昭和32)6月に制作された同『牛石』。
◆写真中下:上は、霞坂沿いにあった会津八一の秋艸堂。トンビを着てステッキをもっている手前の人物が、会津八一本人。中は、銭痩鉄『紅梅』。下は、上海のアトリエで篆刻を制作する銭痩鉄。戦前は、日本で「中国のスパイ」のデッチ上げ事件で逮捕されたが、戦後1960年代には中国で文化大革命の影響から右派=「日本のスパイ」のレッテルを貼られて弾圧された。
◆写真下:上は、日本の書画家・小川観斎が使用した銭痩鉄の篆刻。中上は、同じく銭痩鉄の篆刻作品。中下・下は、わたしの手もとにある友人からいただいた篆刻で彫刻は龍の透かし彫り。
★おまけ
 2016年(平成28)に、戦災から焼け残った雑司ヶ谷鬼子母神(しきもじん)の堂が、国の重要文化財(建第2646号)に指定された。境内には、それを記念して石碑が建立されたが、外国人観光客向けに記載された英文表記には、もちろん鬼子母神は「Kishimojin」と表記されている。
 豊島区や東京メトロが、地元の読みである「きしもじん」としているように、また都バス停留所の韓国語(ハングル)が「키시모진(きしもじん)」と正しく表記しているように、東京のバスや都電は「きし【ぼ】じん」などという、おかしな得体のしれない訛った呼称や表記をただちにやめてもらいたい。地元である江戸東京の、とてつもない恥さらし以外のなにものでもないからだ。
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有島武郎をトランプで占う桜井八重子(納秀子)。

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 少し前の記事で、成瀨無極が京都帝大の講師時代に、桜井八重子と有島武郎が1921年(大正10)4月21日に「宇治の会」で邂逅した様子を小説『塔』に書いたと、『古いアルバムを開いて』(「洛味」55号/1956年)の成瀨本人の記述から引用していた。ところが、『塔』が書かれたのは1913年(大正2)10月であり、同作が収録された短編集『極光』が春陽堂から出版されたのは1914年(大正3)なので、成瀨はなにか大きな思いちがいをしているとも書いていた。
 1921年(大正10)4月21日の「宇治の会」について、成瀨無極が記録しているのは戦後すぐのころ、1947年(昭和22)に北隆館から出版された『面影草』だ。成瀨無極は有島武郎に招かれ、奈良の新薬師寺から足をのばして春日野の地獄谷の石窟仏などを見学したあと、京都へともどり宇治の旅館「花屋敷」に宿泊している。そこで有島武郎の旧友と合流したあと、偶然、同宿に泊まりあわせていた桜井八重子をまじえての懇談会となり、それが夜明けまでつづいた。成瀨は酒を飲んだかもしれないが、桜井八重子は酒を飲まず、有島武郎も酒は苦手だったようなので、いわゆる宴会のようにはならなかったらしい。同書より、ふたりの面白いエピソードを引用してみよう。
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 花屋敷では有島氏の旧友と、その夜偶然泊り合はせた女優桜井八重子と私と四人が膝を交へて雑談した。そのとき八重子は骨牌(トランプ)の占ひをした。有島氏の札にはダイヤとハアトが多く出た。ダイヤは財宝を、ハアトは恋愛を意味する。「あなたは物質に恵まれ、多くの女性に愛されてゐられます。現在も年上の一女性に烈しい恋をされておいでなさいます。」 さう彼女はきつぱり言つた。有島氏はただ微笑してゐたが、私の胸には一々思ひあたる事があつた。
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 桜井八重子は遊びか、半ば冗談でトランプ占いをしたのかもしれないが、成瀨も書いているように、親しい友人同士でしか知らない事実を彼女がいい当てたのに驚いたのだろう。ただし、「文学女優」と呼ばれた桜井八重子は、まさか宇治で本人に出会うなどとは思ってもいなかったかもしれないが、有島武郎の作品は「白樺」時代から目を通していたにちがいない。
 その後、有島武郎はトランプ占いの的中に驚いたのか、歌(短歌)詠みをメインテーマに桜井八重子と文通(約80通)がはじまる。この文通は、唐澤秀子(桜井八重子)が納三治と結婚し、下落合の納秀子になったあとまでつづけられたようだ。また、有島武郎が当時つきあっていた「婦人公論」の記者・波多野秋子も彼女の作歌に惹かれ、会ってみたいと有島に依頼している。したがって、桜井八重子と波多野秋子は有島に紹介され、どこかで顔をあわせているのかもしれない。もちろん、有島武郎は小説などの散文表現がメインで、歌詠みに関しては“素人”だった。
 有島武郎は、唐澤秀子への手紙で「男に取つて女の人のよさは、その人が恋人でない限り、母にも姉にも友達にもなつてくれられることです」(1922年春)と書き送っているので、そもそも最初から彼女は波多野秋子のような恋愛対象ではなかったようだ。そして、ここでも竹久夢二が死去する寸前まで納秀子(唐澤秀子)へ甘えつづけたのと同様に、有島武郎もまた「母にも姉にも」「なつてくれられる」などと、歳がいもなく彼女に甘えている様子が伝わってくる。この手紙が交わされていた1922年(大正11)の時点で、桜井八重子(唐澤秀子)は27歳、有島武郎は44歳と17歳も年下の存在だった。ちなみに、竹久夢二にとっても、桜井八重子は11歳ほど年の離れた女性だった。
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 前回の記事でも触れたが、芝愛宕町育ちの彼女は、どこか江戸東京の町娘らしい性格だったらしく、明朗で行動的でしっかりした気風(きっぷ)の中にも、いたずら好きでおきゃんな側面が顔をのぞかせる、どこかヘゲモニーを発揮しやすい、この街に古くから多い「姉さん」タイプの女性ではなかったろうか。だから、竹久夢二や有島武郎からみれば歳の差など関係なく、「そんなことしちゃダメでしょ」「そんな考えじゃいけませんったら」とか、どこか母や姉のように自身の言動を叱咤・激励してくれる(甘えられる)、自身本来のニュートラルな精神状態にもどしてくれる(気づかせてくれる)規範的な存在として、彼女を位置づけてやしなかったろうか。
 こういうタイプの女性に注意されたり、なにかを指摘されたりすると、たとえかなり年下であっても反発や反感などはほとんど生まれず、逆にうれしく、あるいはありがたく感じたりする男は、この地方にけっこう多いのではないだろうか。また、人間関係の構築や経営のマネジメントがうまく、一族のCEOになる女性が多いのもまた江戸東京地方の特徴のひとつだろう。
 次々と短歌を詠み歌集を出版する桜井八重子を、有島武郎は手紙で「短歌製造会社」と呼び、彼女が代表取締役社長で自分は同社の「監査役」を自任している。彼女が納三治と、結婚を前提に付きあいはじめたあとの手紙にも、「監査役の報告」(有島武郎の感想)が掲載されていて面白い。また、有島の恋人である波多野秋子が、彼女の作品が大好きで一度会いたいといっていることも伝えている。1922年(大正11)3月の有島武郎からの手紙を、1962年(昭和37)に刊行された短歌雑誌「原始林」5月号収録の、中山周三『有島武郎の歌(5)』から少しだけ引用してみよう。
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 歌はといへばあなたの多産を羨ましくさへ思ひます。納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方に数へられたものだと記憶しますが、あなたの眼と心とには何もかも恋の姿で立現はれると思ふとあなたの持つ世界がまた羨まれます。短歌製造会社監査役の報告によれば、/手を胸に。しづやかに人の泣くらむ。あるかなく。恋死なば。いとつよきジン。千筋なす。うつくしう。野に咲ける。さりげなく。など胸に沁みました。其中最初の分は感銘に少し曇りが起るようですけれども。/緋だりをの。われをのみ。/などの歌は監査役には空虚にひびきます。/沢山恋歌を読むと私も作りたいような気分は出ますが歌にはなりません。唯の言葉にさへもなりません。
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 唐沢秀子は、いずれかの歌集1冊でも有島武郎へ贈ったものだろうか。おかしいのは、当時は恋人時代だったと思われる唐澤秀子と納三治だが、「納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方へ数へられた」のには、つい噴きだしてしまった。納三治は、ニューヨークのコーネル大学機械科卒業だから、おそらく短歌や文学とはずいぶん遠いところにいた理系の人物なので、彼女の位置づけとしては「かなり下の方に数へ」ていたのだろう。w
 このころ、唐澤秀子にあてた短歌や日記につづっていた作品には、次のようなものがある。
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(唐澤秀子あて)
 松を吹く風の行衛を追ひ居れば われとしもなき我れに遇ひぬ
 砂に居て佐渡を見ゐれば涙しぬ かそけくなげく我れにやは似る
 佐渡ケ島暗き波路の末にしも 顔打そむけひとりあるかな
 信濃尻の湖の水底ににじみ入る 雲の行手に物をこそ思へ
 信濃路は悲しかりけり真夏にも 妄執のごと雪の残れば
 人なみの寄せては返す東京の ちまたに立てば物のさびしき
 おぼつかな幾年経なばおほらかに 悔いなき我れを尋ねあつべき
(有島武郎日記)
 佐渡が島二重に煙り細々と 大梅雨空の下にあるかな
 さみだれの淡き晴れ間の夕空を さながらひたす信濃川の水
 砂に生ふるくみにかくれてさみだれの 越後の海を飽かず見しかな
 大空は今さみだれて信濃川 静かに水のふくらみ流る
 ガンジスの大川隅にうつしたる 影かもこれや古沼の蓮
 信濃路を今朝越え来れば時雨して はるけき目路の峰はもみじぬ
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 有島武郎が唐澤秀子あてに送った歌は、素人のわたしが見ても叙事的で底の浅い、単なる風景描写の表現が多く、つい立ちどまって味わうような深みのある心情(心境)歌はかなり少ない。散文的な頭の発想から、どうしても叙事的にとらえてしまう情景描写が増えてしまうのだろう。このころの有島武郎は、東京の生活で強い孤独を強く感じていたらしく、彼女あての手紙には「歌は下手でもこの頃この心持が段々きびしくなって行くやうです」と書き添えていた。
 1923年(大正12)3月、「おぼつかな幾年経なば~」の歌が唐澤秀子に送られたころ、有島武郎は麹町区下六番町にあった大邸宅を処分し、ふつうの一般市民としての生活を送ろうとしていたようだが、すでに生きていく気力を失いはじめていた。人妻だった波多野秋子の夫に恋愛がバレて、脅迫されたのも追いつめられた要因だろう。同年6月9日、軽井沢の別荘「浄月荘」でふたりは心中している。有島武郎は遺詠として、10首の歌を短冊につづり自宅の書斎に残していた。
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(遺詠歌)
 世の常のわが恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき
 幾年の命を人は遂げんとや 思ひ入りたるよろこびも見で
 修禅する人の如くに世にそむき 静かに恋の門にのぞまむ
 道はなし世に道は無し心して 荒野の土に汝が足を置け
 さかしらに世に立てりける我かこれ 神に似るまで愚かしき今
 生れ来る人は待たすなわがうけし 悲しき性とうれはしき道
 雲に入るみさごの如き一筋の 恋とし知れば心は足りぬ
 蝉一つ樹をば離れて地に落ちぬ 風なき秋の静かなるかな
 明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出づらむあぢさゐの花
 命絶つ笞しあらば手に取りて 世の見る前に我を打たまし
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 有島武郎と波多野秋子の情死を知った唐澤秀子(納秀子)は、おそらく驚愕しただろう。つい死の直前まで、彼女に「短歌製造会社監査役」として、有島は作品の率直な感想や意見を寄せていたからだ。2年前、彼女が占ったカードには、スペードやババはめくられていなかったはずだった。
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 有島武郎から唐澤秀子(納秀子)あての書簡が公開されたのは、もっとも早い時期では1924年(大正13)に叢文閣から出版された『有島武郎全集』第10巻があり、それに目を通した納三治は、「おれ、プライオリティとしては、かなり下の方だったのかぁ」と、思わず苦笑していたにちがいない。

◆写真上:駆け出しの帝劇時代、頒布されたらしい桜井八重子のブロマイド(部分/AI精細処理)。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)ごろ撮影の短歌会「嬰児」の同人メンバーで右上が桜井八重子。中は、1923年(大正12)に撮影された有島武郎(左)と、女優時代の桜井八重子(右)。下は、1947年(昭和22)に出版された成瀨無極『面影草』(北隆館)の邂逅シーン。
◆写真中下:上は、中山周三『有島武郎の歌』が連載された1962年(昭和37)発行の短歌誌「原始林」5月号(左)と6月号(右)。中は、1922年(大正11)7月4日に唐澤秀子あて「短歌製造会社監査役」に就任した有島武郎の手紙。下は、生前最後の写真とされる1923年(大正12)撮影の有島武郎(左)と、唐澤秀子と面識があったかもしれない情死相手の波多野秋子(右)。
◆写真下:上は、有島武郎と波多野秋子の心中事件を報道する1923年(大正12)7月8日発刊の東京日日新聞。下は、1933年(昭和8)に私立児童衛生研究所から出版された岡田道一『花ざくら』。冒頭には、与謝野晶子と宮崎白蓮、そして桜井八重子(納秀子)の序詠歌が寄せられている。

新潮社と平凡社の社長邸に縁ある吉田慶子。

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 下落合(現・中落合/中井含む)に住んでいた、面白い随筆を残している女性がいる。俳句雑誌「暖流」の同人で、俳人および随筆家の吉田慶子だ。娘時代に、たまたま自宅があったごく近く、あるいは引っ越した先の隣りの家に、のちの大手出版社となる社長たちが偶然住んでいた。当時は、そんなに大きな出版社になるなど思いもよらなかったようだ。
 まず、牛込矢来町3番地中ノ丸(現・新宿区矢来町3番地)に、吉田桂子の叔母夫婦が住んでいた。当時、自宅から歩いて5分ほどのこの家に、彼女は毎日入りびたっていた。自宅にいるよりも、子どもがいなかった叔母夫婦の家にいるほうが、なにかとかわいがられたので居心地がよかったらしい。この叔母の家の前隣りに、大きめな門構えの住宅があり、門を入ると左側には印刷の町工場が建っていた。この家のオジサンは出版の仕事をしていて、身長が低く丸顔で、いつも羽織袴の姿で来客を愛想よく玄関まで送りに出てきた。
 対照的にオバサンは、オジサンよりもはるかに背が高く、「馬のように長い顔をして」いた。この小さな出版社の子どもたちは、女子も男子もみんなオバサンに似ていた。その家の女の子に誘われ、彼女は二度ほど遊びにいっている。家に入ると、子ども心にも地味で優しい雰囲気のオバサンが、普段着をキチンと着てお菓子を出してくれた。この出版社は新潮社といい、小柄で丸顔のオジサンが初代社長の佐藤義亮だと知ったのは、かなりたってからのことだった。
 吉田慶子は戦後、近くへ用事にきたついでに故郷の矢来町3番地中ノ丸界隈を、久しぶりに散策している。すると、新潮社の前で立ちどまったまま茫然としてしまった。佐藤家のあった敷地に、新潮社の大きなビルディングが建ち、横丁の隣りにあった祖父の家や、隣家の「オサムちゃん」の家が跡形もなくなり、新潮社の巨大な倉庫ビルになっていた。
 彼女は、女学校の2年生(13~14歳ごろ)まで矢来町ですごしていたが、やがて東京府住宅協会が下落合の目白通り沿いに建設した、落合第二府営住宅へと転居してくる。関東大震災が起きる以前、1919年(大正8)ごろのことだ。当時の様子を、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号収録の、吉田慶子の随筆『新潮社と平凡社』から引用してみよう。
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 東京府豊多摩郡落合村下落合の畠の中に建った百軒余りの府営住宅の一つに住むことになった。裏の家に入居した落合小学校の教員の家族と親しくなり、留守勝の父と病身の母のいる私達子供はどれ程世話になったことか。その一家は四年ばかりで中井の落合第二小学校長になって、学校の側に越してしまった。/そのあとに元学校の教員で今神田の方で出版業をしているという人が越して来た。夫婦で話し合う時は相当地方訛りのある言葉を使っていた。数えの十七歳位の長女は、まるで名画からぬけ出したような美人で、年の大分離れた弟妹の世話をよくしていた。
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 おそらく彼女の一家は、落合第二府営住宅が竣工した直後に入居しているのだろう。いまだに、目白文化村も第三府営住宅も、目白通りから南へ200mほど入った第四府営住宅も存在せず、一面が田畑や箱根土地による郊外遊園地の「不動園」だった時代だ。
 「裏の家」に住んだ落合(第一)尋常小学校教員の家は、おそらく駒村という苗字だったろう。以前にも書いたが、落合第二尋常小学校の設立準備は1921年(大正10)以前からスタートしており、建設場所まで予定されていながら東京府からストップがかかって、より広い敷地を選び直している最中だった。1923年(大正12)には、具体的な創立の趣意書までが落合村から東京府に提出されている。その際、予定されている校長の名前も記載されていただろう。妙正寺川をはさんで、中井駅の南に落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)が開校するのは1925年(大正14)になってからで、2年も前に「裏の家」から転居していった教師は、同小学校の初代校長・駒村徳寿だろう。
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 このあと、震災直前に駒村家が転居した空き家へ引っ越してきたのが、神田神保町で出版業を営んでいる、ふだんの生活では秋田弁だったらしい下中彌三郎だ。だが、下中家の2階には小説家志望の若い男たちが働かずにブラブラたむろしており、以前の駒村家とは異なり、彼女の家では下中家の評判はあまりよろしくなかったらしい。『新潮社と平凡社』から、つづけて引用しよう。
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 此の朴訥な堅実な一家に不似合な、何とも自堕落な感じの若者が数名何時も二階の六畳の間にたむろしていた。昼日中和服着流しの男が、何んとも得体の知れぬ女と肩寄せ合って家の前をブラブラ行ったり来たりしている。真面目人間の私の両親にとっては不愉快極り無い事であったらしい。これが作家の卵らしいと聞いて、父母は小説家たらんと志していた私からペンも原稿用紙も取り上げてしまった。(中略) 其のあとに子無しの叔母夫婦が、下中氏より権利を譲り受けて越して来た。/つまり叔母は新潮社の前から(尤も其の頃は横寺町に移っていたが)平凡社主の家にと越して来たのである。
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 吉田慶子は、隣家の「何とも自堕落な感じの若者」たちのせいで、とんだとばっちりを受けたことになる。文筆家を志望していたのに両親から禁じられてしまったが、のちに俳人あるいは随筆家になっているので、当初の夢は半ばかなっているのだろう。
 落合府営住宅は、台所(8畳大)や浴室(3畳大)、納戸、トイレ×2などを除き6~7室の大きな家が多く、文学志望の若い子たちを下宿がわりに置いてやることができたのだろう。2階の6畳間を若者たちに占領されたとしても、ほかに2階には8畳サイズの客間があり、1階には8畳の居間、6畳の食堂兼茶の間、4.5畳の隠居部屋、同じ広さの予備室、3畳の女中部屋などがあり、スペース的にはかなり余裕のある生活だったと思われる。ただし、「名画からぬけ出したような美人」の娘をもつ親の身としては、多少心配だったかもしれないが。
 下中彌三郎は、1924年(大正13)ごろまで下落合1515番地、すなわち落合第二府営住宅10号に住んでおり、そのあとに入居したのが横寺町から転居してきた叔母夫婦ということになると、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、子どもがいない叔母夫婦の姓はおそらく「早川」だろう。この早川邸を「裏の家」と書く、女学生だった吉田慶子の自宅は、二間道路に面している同番地の東隣り、落合第二府営住宅5号の須崎邸(下落合1515番地)か、あるいは二間道路をはさんだ繁華な目白通り寄りに建つ、同府営住宅9号の若林邸(同1518番地)のどちらかとみられる。
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 もし、彼女の自宅が同府営住宅5号の須崎邸だとすれば、当時の彼女の家を実際に目にすることができる。1924年(大正13)に東京シネマ商会が製作した社会教育映画『街(ちまた)の子』には、5号の須崎邸がとらえられている。ちょうど「むさしや」の前でロケが行われたシーンのうち、二間道路のいちばん奥に建つ2階建ての和館が須崎邸だ。同邸の西隣り、画面では上林邸(4号)と大江邸(3号)が建ち並んで見えないが、須崎邸の左隣りが下中彌三郎一家が住んでいた10号の2階建て住宅だ。しかも、同映画は1924年(大正13)と同時代の製作なので、ご当人たちが住んでいたリアルタイムの情景ということになる。ただし、江戸期から椎名町と呼ばれて賑やかだった目白通り側を「表」とするなら、若林邸(9号)が著者の家ということになるのだが。
 さて、彼女にはもうひとつ面白い逸話がある。矢来町時代に、祖父の隣家に住んでいた「オサムちゃん」だ。彼女は子ども時代に、オサムちゃんとはキャッチボールをして遊んだ仲だった。1971年(昭和46)発行の「暖流」5月号に収録された、吉田慶子『はたちの頃』より引用してみよう。
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 やはりその頃の或る日、私は牛込矢来町の祖父の家を尋ねた(ママ)。すると隣の滝沢家から突然「アッハハハハ」と、とてつもない大きな笑い声がした。それは驚くべし、同じ調子で止め度もなく続くのである。私は吃驚して、祖父に訊くと、「次男坊のオサムが築地小劇場に入ったそうだよ。毎日アレだ。」と苦い顔をした。祖父の家も滝沢家も、まあ大邸宅の方だった。その庭の片隅、つまり祖父の家寄りに小さな家が建っていて、これが子供部屋になっていた。オサムちゃんは小学校の頃から、そこで勉強していた。ずうっと年のかけ離れたお兄さんがいて、一風変った若者が出入して一寸した梁山泊だった。兎に角、或る時は怒号だったり、囁きだったり、泣き声だったり、それが遠慮もなく、あたりへ響き渡るのである。今日の滝沢修の土台はその時に出来たのであろう。個人的には子供時代に何度かキャッチボールをした位の間柄なのに、今でもテレビに滝沢修の顔が写ると、私は、「アッ、オサムちゃんだ!!」と、なつかしくて声を上げるのである。
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 滝沢修は、築地小劇場から村山知義らが結成した東京左翼劇場、つづいて新協劇団に参加している。その後、劇団民藝を宇野重吉らと結成し、のちに舞台で大ヒットする『炎の人』のゴッホ役だが、大向こうから「オサムちゃん!!」の声がかかったら、どんな顔をしただろうか。w
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 最後に、俳人で随筆家だった吉田桂子の詠草を、いくつか選んでご紹介しておきたい。
  枯れしもの惜しみおく庭春立ちぬ (1959年4月)
  金借りに来しオーバーの豪華さよ (1970年2月)
  農婦来て冷夏の愚痴も置いてゆく (1980年10月)
  若き娘等は聞えぬという鉦叩<カネタタキ> (1982年12月)
  初詣氏子九人の祠まで (1991年3月)
 俳句ではなく、やや斜に構えた川柳を詠んでもうまそうな風刺の眼差しが楽しい彼女の作品だ。

◆写真上:第二府営住宅の吉田慶子の自邸や、下中彌三郎邸があったあたりの現状。正面に見える中落合社宅の棟の敷地あたりが、第二府営住宅10号跡界隈。
◆写真中上:上は、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号(左)と、1971年(昭和46)刊行の「暖流」5月号(右)。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる10号界隈。吉田慶子の自宅は、若林邸(9号)か須崎邸(5号)と思われる。
◆写真中下:上は、矢来町にある新潮社の創業者・佐藤義亮(左)と、神田にある平凡社の創業者・下中彌三郎(右)。中は、『街の子』(1924年)にとらえられた落合第二府営住宅の5号邸・須崎邸。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる第二府営住宅10号界隈。
◆写真下:上は、下中彌三郎の呼びかけで1955年(昭和30)に結成された「世界平和アピール七人委員会」の会合。中央左側の白髪が下中彌三郎で、右側が日本女子大の上代タノ。また、下中彌三郎の左側が京大の湯川秀樹で上代タノの右側が日本YMCAの植村環だが、日本婦人団体連合会の平塚らいてうは欠席している。下は、大ヒットした民藝の舞台『炎の人』でゴッホ役を演じた滝沢修。
★おまけ
 わたしは、舞台『炎の人-ゴッホ小傳-』を1980年代末に観ているが、映画好きには1966年(昭和41)に公開された監督・山本薩夫の『白い巨塔』(大映)に出演した、医療過誤裁判で浪速大学の外科教授・財前五郎(田宮二郎)を激しく弾劾するが、結局は無罪を主張して浪速大学にたっぷりと恩を売り、ひそかにポスト人事の「植民地」化をたくらむ、東都大学の船尾教授が印象的だろうか。
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大震災から復興する落合地域の企業・店舗。

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 1923年(大正12)9月1日の関東大震災から丸1年、1924年(大正13)の秋に営業や操業が復興した企業を調べてリスト化し、『東京・横浜職業別復興調査録』という報告書が同年の暮れに出版されている。横浜市を除き、東京府商工課が調査の主体として実施されており、調査結果を出版したのは日本橋区通2丁目11番地(現・日本橋2丁目)にあった東京商工通信社だった。
 ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(=同業組合)に依頼して、各地の詳しい調査を代行してもらっている。したがって、組合に加入していない商工の小企業・店舗は調査対象から外れてしまうため、そこには少なからず誤差が生じ正確さを欠くことは、同書のはじめにも注記されている。だが、おおよその復興の様子やその傾向はつかめるとして、調査書の出版に踏みきったらしい。
 大震災から1年めでは、焦土化した東京市街地の復興はまだまだ途上だったが、震動だけで済み大火災をまぬがれた東京の郊外域では、徐々に商工業者の営業や操業が復活していた。ただし、東京の中心部が大きなダメージを受けているため需要回復が遅く、1年たっても商業活動や生産活動はかなり限定的なものだったろう。山手線の目白駅や高田馬場駅のすぐ外側に位置する落合地域も、揺れは激しかったが大火にみまわれなかったため、深刻な被害を受けていない。だが、製造現場の機械類はかなりのダメージを受けたのではないだろうか。
 2011年(平成23)3月11日の東日本大震災のとき、東京では震度5+の地域が多かったが、大きな揺れによって精密機器が損傷し、そのままでは使用できなくなった製造現場が数多く発生していた。揺れによるミリ単位の曲りや、小さなシャフトの狂いでも、使用できなくなる機械類を抱えた製造現場は、関東大震災の当時も数多く存在していただろう。しかも、物流や交通が途絶しているので修理には時間がかかった。外観は震災に耐えていても、企業や工場の内部では設備に大きなダメージを受けていた可能性が高い。そのような外観からは把握できない、生産現場における震災被害からの実質的な回復を含めた、東京府による「復興調査」だったとみられる。
 では、震災直後にはどのような商工業の復興が早かったのか、同調査書の冒頭から引用しよう。
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 先づ震災前と比較して組合員数の増加が著しいものを見れば、第一種の如く東京売薬組合を初(ママ)めとして合計十五組合である。而して組合名の示すが如く、此の中に属するものは大体に於て、特に震災後の需要激増に刺戟されたものが多い。即ち建築材料の西洋家具、畳、壁材料、交通運輸のための自転車、諸届出に要する印判、其他売薬、蓄音機、書籍、靴、莫大小、薪炭、料理飲食等几べて災後直接市民の生活に最も必要を痛感された衣食住に関する部分である。そして此等の商工業者中焼失又は破壊された者は比較的多数に上るが、一方新規開業も亦著しく多数である。然も震災前に対する生産及販売歩合を見ると、建築材料に関するものは殆んど悉く災前以上に達しているが其他売薬、自転車は六乃至六割五分を示して居るに過ぎない。
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 東京市の中心部が破壊されているので、震災後にもっとも復興が早く、また需要も多かったのが建築資材なのは当然だが、特に「西洋家具」の目立つのが興味深い。江戸期あるいは明治期からつづく古い住宅街が焼けてしまい、この際、新しい洋風の住宅やオフィスビルなど燃えにくい構造の建物を建てようとする動きが活発化していたとみられる。
 また、「交通運輸のための自転車」というのも特徴的だ。道路の亀裂や段差、法面崩落、車道橋の崩壊、ガソリン不足などでクルマやトラックが使用できなくなり、市内の物流が自転車やリヤカー、大八車などの人力に頼らざるをえなくなった様子が透けて見える。売薬の製造企業や商業の復興が早いのも、病院や医院が壊滅するか、あるいは震災の負傷者であふれているため、外来の患者にまで手がまわらなくなりセルフケアがあたりまえになった状況がうかがえる。
 大火災に追われ、着のみ着のままで避難した人々が多かったため、「莫大小(メリヤス)」などの布地や「靴」の需要がハネ上がったのもわかるが、「蓄音機」の製造メーカーや「書籍」出版社の復興が早かったのは、震災で精神的に追いつめられた人々の間で、癒しや気晴らし、娯楽などへのニーズが強かったのではないか。また、現代の生活では姿を消してしまったが、役所への届け出や申請書には必ず印鑑が必要だったため、自宅や会社とともに焼けてしまった各種印鑑の需要が急に伸び、家内制手工業の分野では印鑑製造・販売が目立って伸びているのがわかる。
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 では、『東京・横浜職業別復興調査録』に収録されている、地域別の営業・操業を再開している商工リストから、落合地域の企業や商店について見ていこう。まず、「鋳物業及鋳物材料商」では、下落合28番地の東洋金属が操業を再開している。さまざまな機械の部品や、生活用具に必要な鋳物材の需要はかなり高かったのだろう。同工場は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)の南側、山手線の線路際で操業していた。また、「建築材」の各種石材やセメント、砂利、材木などを販売していた下落合637番地の高田商店も、震災需要が急増していた商店だ。同店は目白通り沿いの木村横丁、現在でいえば聖母坂の入口あたりで営業していた店舗だ。
 「歯磨、石鹸、化粧品商」では、下落合9番地の愛久洗料製造工場が操業を再開している。洗料とは、おそらく洗濯用の石鹸のことだろう。その隣りの下落合8番地で営業していた、「馬力(荷馬車)運搬業」の石屋義行という人物も営業を再開している。市街地の道路が寸断されていたせいもあるが、クルマはガソリンが流通しないと役に立たないため、再び馬車による物資の輸送が復活していた。ただし、馬の飼料(穀物など)がないと営業できないため、「馬糧商」や「馬具及蹄鉄商」も同時に復活してリストに多くの名前を連ねている。いずれの事業所とも、現在の十三間通り沿いにある下落合クリニックあるいは新宿清掃事務所のあたりで営業していた。
 「荷造材料商(縄莚叺)」の縄や莚(むしろ)、叺(かます)は物流に欠かせない材料だ。今日でいう梱包材のことで、荷を効率的に運搬するには必須の製品だった。下落合48番地の川瀬梅吉という人が、それらの素材を扱う商店を経営していた。現在の、錦松梅工場の道路を隔てた西隣りあたりで営業している。下落合906番地のアポロ鉄工場も、大きな被害を受けずに操業を再開している。同工場の再開が早いのは、製品に「喞筒及消防機械」を製造していたからだ。東京の市街地では、消防署や付属する消防設備がほぼ壊滅していたため、消防喞筒(ポンプ)や消火栓など新たな発注が相次いでいたのではないか。片山廣斗が開発したミニ文化村「愛隣園」では防災設備が充実していたが、彼の工場が消防・防災機器を製造していたからだろう。
 さまざまな機械製造には欠かせない、ボールベアリングや鋼材の製造・販売も早くから復興している。下落合184番地の山本螺旋の伸銅工場も、操業をリスタートしている。同社は大正末に下落合45番地へ移転し、本社機能とより大規模な工場を建設していると思われるが、震災後の需要急増で経営が拡大しているのだろう。医療分野で使用する「衛生材料」の需要も、震災後は急増している。市街地の病院や物流倉庫が焼けてしまったため、増産に次ぐ増産だったのではないか。衛生綿を製造していた下落合35番地の指田製綿工場や、包帯を製造していた下落合20番地の石倉商店工場も、設備に大きな損害はなかったのか操業を再開している。
 震災後は、食糧の流通も大きな課題となっており、特に主食の米穀は最優先のテーマだった。政府や東京府、東京市も食料品の安定した供給を最大の課題としており、ことに「米穀商」の復興が重視されている。落合地域では、被害があまりなかった下落合1528番地の小野田八重次郎が経営していた小野田米穀店が営業していた。この住所は、現在の目白通りに面した小野田製油所と同じ番地だ。同米店は、店舗を目白学園近くに移転して、つい最近まで営業していた。また、「土木建築工事」の領域では、大正期の早くから営業していた下落合768番地(のち765番地)の服部政吉が経営する、服部建築土木が事業を再開している。今世紀に入り、緑深い自宅兼事務所と屋敷林が、保存を求めるタヌキの森として知られた敷地だ。
 金属の「銅鉄商」としては、震災で市街地にあった本社機能が喪失してしまったため、下落合にあった企業経営者の自宅が臨時の本社となっているケースが多い。以前にも書いたが、東邦電力の丸ノ内にあった本社が震災で破壊されたため、その経営者である下落合367番地の松永安左衛門邸が臨時本社となっていた経緯と同様だ。下落合不動谷1226番地の三宅於利蔵邸(鉄鋼問屋)と、同番地の水橋義之助邸(野田屋)も臨時の本社となっていた。ただし、日本橋小伝馬町2丁目3番地にあった水橋の野田屋は、すでに社屋を建設して営業を再開していたようだ。この2邸とも、西坂を上がる途中の左手と丘上の左手にあった。さらに、「織物業」の東亜製綿工業も下落合761番地で営業を再開している。この地番は、七曲坂を上がった丘上の左手敷地、ちょうど清水厚邸のあたりなので、役員邸に本社機能を移転していたとみられる。
 目白文化村を開発中だった箱根土地と、同ビル内にあった強羅土地も早々に事業を継続している。目白文化村に目立った被害はなく、また箱根土地本社ビルもそれほどダメージを受けていない。また、「化学工業」の分野では、下落合224番地の池田化学工業が操業を再開している。池田化学工業は、のちに下落合71番地と表記されることが多いが、224番地も同じ敷地内の番地だ。下落合482番地の佐藤化学研究所も、下落合(現・中落合/中井含む)の東部住宅街の中に位置しており、被害はほとんどなかったのか、震災後も事業をすぐに継続できているようだ。
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 住宅建材でもうひとつ、瓦やスレート、トタンなど屋根の建築材を手がける「瓦業及屋根工事」の領域では、下落合559番地で小日向健司という人物が経営していた小日向商店が営業をリスタートさせている。瓦やスレートなどの建材が、ようやく市場に出まわりはじめたのだろう。小日向商店は、目白通りに面した現在のちょうど目白病院の敷地にあった。「玩具業」では、八島嘉一という人が浅草区柳原町で経営していた玩具店の工場が、下落合632番地で操業を再開している。おそらく家内制手工業のような工場で、消しゴムやゴムまり、ゴム人形など子供用品を製造していた。ちょうど、銭湯「福の湯」の南側、森田亀之助邸の北側にあたる敷地だ。柳原町は壊滅しているため、同工場は郊外に移転して臨時に建てられた施設なのだろう。
 「洋酒商」では、下落合10番地の甲斐産商店大黒葡萄酒工場が健在だったが、東京府に運び入れる鉄道貨物は建築材および衣食住が最優先されたため、嗜好品である葡萄酒(ワイン)樽の優先順位はそれほど高くなかったのではないか。「毛織物」分野では曙毛織物工業が雑司ヶ谷949番地(のち953番地)で操業を再開しているが、本社機能は下落合506番地の納三治邸となっている。ちょうど、能舞台があった観世喜之邸の西隣りにあたる敷地で、下落合666番地に新邸を建設する以前、1924年(大正13)の時点での納三治邸は同所にあったとみられる。「電燈電力業」の領域では、下落合508番地にあった東京電燈下落合派出所が営業を再開している。目白通りに面した敷地で、目白平和幼稚園の2軒東隣りの敷地だ。
 「材木商」では、目白通り沿いの下落合484番地にあった松尾材木店が営業を継続している。松尾恒八という人が経営しており、そのご子孫である松尾徳三様には、下落合の貴重な資料収集でずいぶんお世話になった。松尾様は、竹田助雄たちとともに御留山の保存および公園化に尽力された方だ。もう1軒、上落合162番地にあった福室清という人物が経営する伏見屋材木店も、ほとんど被害がなかったのかそのまま営業をつづけているようだ。上落合の南辺を通る、現在の早稲田通り沿いにあり、都バス小滝橋車庫の西隣りにあたる敷地だ。
 「紡績業」では、下落合229番地(のち67番地)にあった市村(中村の誤記?)紡績という会社が営業していた。同工場も、市街地から移転してきた工場かもしれない。大正末になると、中村紡績工業という株式組織の大きめな工場になっているようだ。現在の神田川沿い、ICBF東京中央チャーチがあるあたりの敷地だ。「自動車業」の分野では、下落合568番地の小泉自動車商会が営業をしていた。現在は新宿下落合四郵便局が建っている、東寄りの敷地にあった。もうひとつ、小兒牛乳自動車部という会社が営業していたようだが、下落合とあるだけで番地が収録されていない。この会社も、市街地が壊滅したため臨時に近郊へ事業部を移転したものだろうか。
 「醤油及味噌商」では、松原繁雄という人物が経営していた、上落合231番地の松原商会という会社ないしは店舗が記載されている。扱っていた製品が、醤油なのか味噌なのかは不明だが、現在は落合水再生センターの下になってしまった旧・八幡通りに面した会社だった。また、下落合1480番地の福室米蔵という個人名しか記載されていないが、こちらは福室醤油醸造所のことだ。場所は、八島さんの前通り(星野通り)から北の目白通りへと抜けた左手にあった。
 「写真器械及材料商」では、もちろん落合町葛ヶ谷660番地の菊地東陽が創立した、オリエンタル写真工業が収録されている。精密機器を生産する工場なので、震災では少なからず被害を受け部品調達も困難だったと思うのだが、1年後には操業をなんとか再開していた。最後に「製粉業」では、下落合501番地の佐久間増太郎という個人名が収録されている。これは、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に掲載された、同番地の佐久間製粉所のことだ。扱っていたのは小麦粉か蕎麦粉かは不明だが、目白平和幼稚園の東隣りに位置するかなり大きな製粉工場だった。
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 こうして震災から1年目、落合地域で営業や操業を再開していた企業や工場、店舗などを見てくると、ほとんどが下落合での事業だったことに気づく。当時の上落合は、田畑が随所に残り地主による耕地整理が進んでいる最中で、多くの企業や工場が進出する前の時代であり、葛ヶ谷(西落合)にいたってはほとんどが田畑のままの田園地帯だった。けれども、落合地域の牧歌的な風景は関東大震災までで、大震災後は市街地からの住民が大挙して押し寄せる新興住宅地となっていく。

◆写真上:大震災の直後に撮影された、余震がつづく銀座通りのめずらしい写真。人々はいまだ茫然自失の状態だが、このあと大火が襲い銀座の街は全滅する。
◆写真中上:上は、魚河岸(市場)から写した日本橋の惨状。中上は、全焼した日本橋三越。屋上の三圍稲荷は店員たちが運びだして無事だったが、店内の商品はすべて灰になった。中下は、倒壊直後の日本橋白木屋。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」の立て看板も空しく、生き埋めになった人たちは迫る大火で焼死した。下は、延焼で全滅した日本橋人形町。
◆写真中下:上は、炎上したが崩落はまぬがれた大橋(両国橋)。中上は、揺れで崩落した大川橋(吾妻橋)。中下は、5万人の避難者が押しかけた上野公園の森。下は、1924年(大正13)出版の『東京・横浜職業別復興調査録』(東京商工通信社)の中扉(左)と奥付(右)。
◆写真下:上は、東海道線の線路づたいに避難する罹災者たち。中上は、崩落した馬入川(相模川)の東海道線鉄橋。茅ヶ崎側からの撮影で、遠景に見えている山影は大磯の高麗山。中下は、崩壊した平塚の相模紡績工場で女工144人が圧死した。下は、地面の隆起により平塚-大磯間で脱線転覆した東海道線74号列車。背後に見えているのは、千畳敷山(湘南平)へとつづく高麗山。
★おまけ
 竹は地面に根を張るので、竹藪に避難すると揺れが小さいという迷信から竹林で野宿する人々。下は、松並木のある東海道(国道1号線)へ倒れかかった松の巨木。樹木に限らず、建物などが倒壊したため道路が封鎖・寸断され、自動車が通行できずに人力による輸送が中心となった。
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鶴田吾郎と大久保作次郎の実用図画教授法。

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 戦前、高等女学校で行われていた美術授業では、美育振興会による『女子実用図画』という教科書が使われていた。教科書なので、一般の図書館などには収蔵されていないが、教育関連の資料室や古書店ではときどき見かける赤い表紙の美術教本シリーズだ。
 教科書のタイトルに「女子」と付いていることから、『男子実用図画』もあるのかと思うと、男子の場合は『中学実用図画』というように、特に「男子」とは付加せず学校段階(教育過程)の名称を付けて編集されていたようだ。今日ではありえないが、戦前・戦中の美術授業では女子と男子の教育内容が大きく異なっていた。もちろん、素描(デッサン)からはじまり「人物画」や「風景画」、「静物画」などの絵画の基本的実習を含むのは共通しているが、描く対象=モチーフ選びも異なれば、グラフィックデザインやパターンデザインでは男女で大きく異なっている。
 おしなべて、男子は科学的・技術的な図画を多く取り入れ、将来的な夢を描きやすい、また将来に就くであろう職業を想起させるような内容だったのに対し、女子の美術教育は家庭に入って主婦業にいそしむ、「良妻賢母」をイメージさせるコンテンツが多かった。中国や朝鮮半島の儒教思想を踏襲した、薩長政府由来の教部省(のち文部省)による「女修身」が、わずか80年ほど前までそのまま活きていたが、美術面においても家庭内を「豊か」にし「明るく」する、生活的で実用的なグラフィックやパターンなど裁縫・服飾のデザインが重視されている。
 いつの時代の教科書にも、それを教えるにあたっての教科書にそのまま沿った、教師用の授業参考書=“虎の巻”とでもいうべき本が用意されている。『女子実用図画』の教科書にも、同じ美育振興会が編集し1934年(昭和9)に出版された、『女子実用図画教授備考』(晩成処)という“虎の巻”が用意されていた。それだけなら、取り立ててめずらしいことではないのだけれど、この“虎の巻”には、落合地域やその周辺域にアトリエをかまえていた画家たちが、それぞれ図画の課題やテーマ別に、具体的な教授内容を執筆しているのがめずらしい。
 たとえば、下落合(現・中落合/中井含む)西部にあたるアビラ村(芸術村)にあった金山平三アトリエ(アビラ村24号)の、西隣り(下落合2080番地)にアトリエをかまえるはずだった南薫三をはじめ、下落合804番地に夏目利政に依頼してアトリエを建てて住んでいた鶴田吾郎、目白通りの北側の下落合540番地にアトリエをかまえていた大久保作次郎、上落合425番地に住んだ日本画家の小泉勝爾など、当時の文展・帝展画家を中心に同書は執筆されている。
 そのほか、拙ブログにはときどき登場する画家として、山本鼎や伊原宇三郎、清水良雄、中澤弘光、結城素明、山村耕花、杉浦非水、小柴錦侍、白川一郎など「教授」陣の名前がみえるが、帝国美術院(帝展)以外の美術団体に所属していた画家たちのネームがないのは、芸術といえども国家(文部省)が管理・採用する国定教科書だからだろう。
 これら教授陣のなかから、きょうは下落合に住んでいた洋画家の鶴田吾郎と大久保作次郎のふたりの教授法を取りあげてみたい。鶴田吾郎は、下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念とともに、1921年(大正10)から3年弱の間、画塾「どんたくの会」(第1次)を開いて近所の住民や学生たちに教えていたし、大久保作次郎もまたアトリエで画塾を開き、近所だった牧野虎雄らも巻きこみながら、大勢の生徒たちに教えていた。
 まず、鶴田吾郎は教科書『女子実用図画』に、富士登山口の吉田で飼われていた登山用馬を描いて掲載している。図画のテーマは「獣類画」だが、ウマやウシ、ヒツジ、イヌなど学校の近くで都合よく見つかるとは限らないから、家から連れてきたウサギやネコでもいいとしている。でも、ウサギやネコの場合は写生している間、ジッと動かずに黙って静止しているわけもないので、「針金製の籠にでも入れてモデルにするがよい」と注釈を入れている。それでもダメな場合は、いっそのこと「止むを得ず剥製標本にしてもよい」と書いているが、学校に都合よく動物の標本もない場合は、自分(鶴田吾郎)が制作した富士登山用の『馬』の画面を手本画にしてもよいとしている。
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 「獣類を鉛筆にて正確に描く練習を行はしめる」という、鶴田吾郎が引き受けた教授テーマには、写生に際しての注意点として、教師向けに次に挙げる5つの課題を記述している。
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 一、手本に就きその構図・表現を十分説明してこれが画趣を知らしむると共に、之れが鑑賞を行ひ、然る後臨画又は写生にとりかゝらしむべきである。/二、獣類の如きものは其の形の正不正は何人にも容易に看取出来るものであるから、各部の比例大さに就いては十分留意せしめなければならぬ。/三、常に大体を重んじて部分に捉はれず、要点を掴んで左程でもない部分は省略するやう心掛けしむべきである。/四、出来るだけ写実を重んじて、絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい。/五、背景や地面の如き部分は成る可く手を省いて、只馬を立体的に実在感を出す程度に止めしむるがよい。
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 さすが官展の画家らしく、あくまでもモチーフの写実を重視し、「絵の面白さといふが如きものを求めしめないがよい」などと書いているが、1935年(昭和10)前後の当時でさえ、他の美術集団の画家たちから見れば、自由に描ける「絵の面白さ」を子どもたちに教えないで、いったい美術のなんの魅力を授業で教えるんだよ?……と、批判を浴びそうな「注意点」だ。
 一方、大久保作次郎は、『女子実用図画教授備考』には二度登場しており、「本と本立」および「人形」の写生を担当している。ともに静物であり、生徒たちがデッサン力や色彩感覚を身につけるための授業用に書かれたものだろう。このうち、「本と本立との形の変化を知らしめ、鉛筆彩色画の練習を行はしめる」の教授法を見てみよう。
 用意するのは本立てと書籍なのだが、大久保作次郎の指定する本がやたら細かくて具体的だ。本は、サイズの小さいものから大きいものへ順番に立てかけ、最後に本を1冊寄りかからせるとしている。これら本立てに並べる本は、手前から黄色い背表紙の『立志伝』、次は赤い背表紙の『和英新辞典』、3冊目は緑色の背表紙の『万葉集』とし、最後の斜めに寄りかからせる本は青色の本(おそらく辞書か何か)と規定している。このモチーフを、4Bのやわらかい鉛筆で正確に形や陰影をなぞり、鉛筆の線を消さないていどに水彩で淡い彩色をほどこすとしている。
 また、描く絵のめざす方向性として、「全体に落ち着いた変化のある構図で、その表現はリアリスチツクで、しつかりとして派手で元気相な感じを与へる」ような作品が望ましいとしている。全体に落ち着いた構図や画面でありながら、派手で元気そうな感じを与える表現というのは、なかなか難しい教育要領だけれど、現場の美術教師たちも少なからず悩んだのではないだろうか。
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 さて、実際の写生に関する留意点としては、先の本立てに並べたかなり具体的なモチーフ類の指示は、とりあえずどこかに棚あげされ、生徒が持参した適当な本を2冊を重ねて写生する、本立てが存在しない構図になっている。以下、『女子実用図画教授備考』から引用してみよう。
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 一、生徒各自に書籍を持参せしめてモデルとせしめる。/二、本は二冊位を適当に重ねて主体とし、若しそれだけで単調ならば鉛筆、ペン軸、洋紙切(洋バサミのこと)の類を配せしむるもよい。/三、本は紙面に大きく図取り、その形の透視を誤らないやうにせはめなければならぬ。殊に背文字或は表紙面にある模様文字の類は透視の関係を兎角失念して描き易いものである。/四、鉛筆にて十分正確丁寧に写生せしめ、彩色は単にその気持を現はすに止まる程度に施さしむるがよい。/五、机面及びバツクは強て描かしめず、図画に勝れた特殊の生徒或は早く描き上げた者などに簡単に色を使用せしめてもよい。(カッコ内引用者註)
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 文中に、「透視」というワードがいくつか出てくるが、これは美術における「透視図法」の意味で、立体物を平面に写す際の、視覚的な「遠近感」(パースペクティブ)を正確にということだ。なお、大久保作次郎が最初に細かく規定し例示したモチーフ「本と本立」は、「相当の技術と可成りの時間とを要する」ので、それを手本として描いてもよいとしている。
 大久保作次郎はデッサンに加え、同書では「人形」をモチーフにした水彩画も担当している。「女児が愛玩する人形を描かしめて、人形の顔面、頭髪、手足、着物などの水彩画による描写練習を行はしめる」としているが、女学校とはいえ校内には人形など置いてないのが通常なので、女生徒たちに自宅から持ってくるよう指導している。
 その場合、日本人形と西洋人形のどちらでもよいとしているが、複雑な細工や作りの人形、あるいは凝った衣装を着た人形を持参した場合を考慮してか、「余り細かい部分に拘泥して全体の色調を誤らないやうに」と注意書きを添えている。だが、なかには人形などキライな女生徒もいたと思われるので、その場合はクラスメイトが持参した人形を仲よくいっしょに描いたものだろう。
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 けれども、女学校の生徒たちが人形で遊んでいた時期は、おそらく10年ほど前のことなので、自宅から持参する人形はかなりボロボロでくたびれていただろう。中には女子たちの念がこもりすぎて、夜になると廊下を走りまわるとか、目が動いて首の角度が変わるとか、見るからに気味の悪い、いわく付きの人形を持ってきてしまった場合を考慮してか、それをいかにも写実的に描いてしまうとあとで怪異が起こりそうなので、注釈に「生徒の嗜好技術の如何によつては甚しい陰影を施さない」と、人形の状況によってはリアルに描かず簡易で平面的に描いてもよいとしている。w

◆写真上:1935年(昭和10)出版の『女子実用図画』(美育振興会)で、学年ごとに用いる教科書が異なっていたのか第1巻から第4巻までの分冊構成となっている。
◆写真中上:上は、『女子実用図画』第3巻の表紙(左)と、同じく1935年(昭和10)に刊行された男子用の教科書『中学実用図画』(美育振興会/右)。中は、『女子実用図画』第3巻の中扉。下は、同教科書に掲載されている伊原宇三郎の『静物』作品例。
◆写真中下:上は、1928年(昭和3)撮影の鶴田吾郎(左)と、1932年(昭和7)撮影の大久保作次郎(右)。中・下は、鶴田吾郎による獣類写生の「牛」と「兎」の作画例。
◆写真下:上・中は、大久保作次郎による「本と本立」作画例。下は、同じく「人形」作画例。
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佐伯祐三のキタナイ風景と二瓶等のキレイな風景。

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 下落合584番地にアトリエをかまえた、二瓶等(二瓶徳松・二瓶等観)の個展が1927年(昭和2)10月に札幌で開催されている。渡欧するため、「欧遊告別洋画展覧会」とタイトルされた個展は、同年の10月22日(土)から26日(水)までの5日間のスケジュールで開かれた。展示されていたのは、下落合415番地の近衛町に住んだ今井武七・今井清七親子が経営していた、札幌の今井呉服店(今井デパート本店)の5階にある展示会場だった。
 二瓶等の渡欧で留守となった二瓶アトリエには、当初、目白中学校の美術教師だった清水七太郎の紹介で、茅ヶ崎で療養中の萬鉄五郎が入居する予定だったが、萬が急死したため落合第三府営住宅24号(下落合1599番地)に住んでいた江藤純平が、1927年(昭和2)から借りて住んでいる。江藤純平は1931年(昭和6)まで住んだが、同年からは手島貢がアトリエを借りて制作していた。
 二瓶等(二瓶徳松)は、下落合にアトリエを建てて転居してきた当初は、中村彝のアトリエへ足しげく通い、『女の像(少女像)』(鈴木良三の証言によれば俊子ちゃん像)を購入していたようだが、下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念や、東京美術学校で1年間だけ同級生だった佐伯祐三が、下落合661番地にアトリエを建てて転居してくると、彼らのもとにも頻繁に顔を見せている。特に同輩だった佐伯とは親しく、佐伯家の女中だった「アキや」をモデルに、米子夫人を意識する彼女を考慮してか、おそらく二瓶アトリエで裸像を描いている。
 1923年(大正12)の前半に描かれたとみられる、豊満な「アキや」をモデルにした人物画だが、上記の「欧遊告別洋画展覧会」目録を見ると、同年にはそれらしい作品の『女』と『裸女(一)』の2点が掲載されている。ただし、翌1924年(大正13)の第5回帝展に入選していた作品に『裸女(二)』(価格も600円と目録の中ではとび抜けて高い)があるので、前年の『裸女(一)』が同一モデルによるバリエーション作だとすれば、「アキや」をモデルに描いた人物像は、もう1作の『女』のほうではないかという気がする。1924年(大正13)には、すでに佐伯祐三は渡欧してフランスに滞在しており、「アキや」は暇をだされて下落合には不在だったろう。
 当時の北海道札幌市で開かれていた美術展覧会について、1981年(昭和56)に札幌市教育委員会が編纂した『札幌の絵画(さっぽろ文庫/17巻)』がある。同書より、少しだけ引用してみよう。
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 当時の個展を列挙してみると、「平澤大暲個展」(昭和二年、今井呉服店)、「二瓶等渡欧告別展」(同二年、今井呉服店)、「上野春香氏渡欧送別展」(同三年、札幌商工会議所)、「上野山清貢氏歓迎展覧会」(同四年、農業館)、「久保守氏渡欧告別展」(同四年、豊平館)、「二瓶等渡仏後の作品展」(同四年、札幌商工会議所)、「上野春香氏滞欧洋画作品展」(同五年、今井記念館)などがある。その後も、熊勢真美、山崎省三、三岸好太郎、澤枝重雄、山田正、高木黄史、菊池精二、田中忠雄、桜庭彦治、長谷川昇、小川マリ、小山昇らが次々と個展を開いている。
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 この記録でもわかるように、二瓶等は故郷の北海道で機会があれば頻繁に展覧会を開いていたのがわかる。なお、上記の画家たちのなかで、春陽会の山田正は近くの戸塚町(現・高田馬場)に住み『落合風景』(1926年)を描いているが、いまだ発見できていない作品のひとつだ。また、平澤大暲は「帝銀事件」のテンペラ画家・平沢貞通のことで、戦後すぐのころ下落合4丁目2015番地(現・中井2丁目)界隈に住んでいたとみられる、鎌田りよの自伝とともに拙サイトでもご紹介していた。
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 二瓶等の「欧遊告別洋画展覧会」目録を眺めていると、もうひとつ面白いことに気づく。佐伯祐三は、現存する作品を確認するかぎり、1926年(大正12)の8月以前から、「下落合風景」シリーズの制作に取り組んでいるのが判然としているが(1926年9月1日に撮影された東京朝日新聞の記者会見写真)、二瓶等もまた、1926年(大正15)の後半期から、下落合の風景画を制作しはじめている点だ。「欧遊告別洋画展覧会」目録には、1926年(大正15)の作品として8点のタイトルが挙げられているが、この作品目録が制作順だとすれば(二瓶等自身がリストをつくっていると思われ、タイトルの季節感からその可能性が高い)、同年の暮れから急に風景画を制作しはじめている。同年の末尾に挙げられている、『東京近郊の冬(一)(二)』の2点がそれだ。
 それまでの二瓶等は、おもに静物画か人物画が主体だったにもかかわらず、急に風景画に取り組みはじめたのは、第1次滞仏からもどった佐伯の影響が強かったのではないかと思えてならない。二瓶は佐伯アトリエを訪ね、さっそく滞仏作品や制作をスタートしていた「下落合風景」シリーズを観ているのではないか。上記の『東京近郊の冬』というタイトルから、自身のアトリエがある下落合を中心に、その周辺域をモチーフにして描いているとみられる。
 だが、この15年近く探しつづけているけれど、二瓶等が描いた連作「下落合風景」らしき作品は、その画面の痕跡すら見つけることができない。少なくとも、「欧遊告別洋画展覧会」では各作品に値がつけられ販売されているので、札幌かその周辺域で購入されれば保存されているのではないかと思われるのだが、ついにそれらしい情報は得られなかった。
 二瓶等は、中村彝に師事していたので、それまではルノワールやセザンヌなどの表現に近い画面を制作しているとみられるが、1926年(大正15)の暮れあたりから描きはじめた風景画を観察できれば、フランス帰りのフォーヴィズムの洗礼を受けた佐伯祐三からの影響も確認できると思われるのだ。同年から翌1927年(昭和2)にかけ、風景画とみられる作品はおよそ13点も数えることができ、にわかに風景画家になってしまったような感さえある。しかも、アトリエ近辺を描いていることはタイトルからもうかがえ、『早春の目白』や『近衛町(東京)』などが含まれている。
 作品のタイトルから想定すれば、二瓶等の風景画は自身のアトリエがある目白駅に近いエリア、すなわち下落合(現・中落合/中井含む)の中部や西部に比べ市街地化が相対的に早かった、下落合の東部を描いている可能性の高いことがわかる。そこには、華族の大邸宅をはじめ、大正中期から開発がスタートした愛隣園や、近衛町などに象徴的な西洋館群が建ち並んでいた。
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 また、中村彝アトリエの南側一帯、ことに東邦電力が開発した林泉園界隈には、洋風のオシャレなテラスハウスや大きめな洋風住宅が見られただろう。二瓶等が目にしていた近衛町などの洋風住宅は、そのいくつかを「惹かれる建物の邸内拝見」でもご紹介しているので、よく似た邸宅をモチーフにしている絵画にお気づきの方(特に北海道在住の方?)は、コメント欄へご連絡いただければと思う。清水多嘉示のケースと同様に、滞仏作品だと思われていた西洋館を含む風景作品が、実は下落合の風景だったという可能性も大いに考えられるからだ。
 佐伯祐三は、おもに下落合(現・中落合/中井含む)の中部から西部、大正末から昭和初期にかけ特に工事中や造成中だった、通常の画家なら選びそうもない「絵にならない風景」=“キタナイ”場所ばかりをモチーフに選んで制作している。だが、二瓶等は佐伯の「下落合風景」とあえて差別化するためだろうか、豪華で“キレイ”な住宅街として落ち着きを見せはじめていた、下落合の東部を中心に描いているように思われる。それは、彼が中国にわたってから描いた風景作品(特に建築物が描かれた画面)を観ても、およそ想定できる眼差しではないか。
 上掲の札幌市教育委員会が作成した資料のように、二瓶等が頻繁に札幌で展覧会を開いていたのは、彼が1914年(大正3)の北海中学校(現・北海高等学校)の美術部時代に、仲間と結成した美術クラブ「団栗会」(現・どんぐり会)の存在、および同会の展覧会が毎年札幌で開かれていたからだ。団栗会については、以前の記事で二瓶等(当時は二瓶等観)自身の文章をご紹介していたが、今回は1986年(昭和61)に北海百年史編集委員会から出版された、『北海百年史』から引用してみよう。
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 一九一五(大正四)年九月三日から五日にかけて、北一条西六丁目のローリー館で北中の美術部にあたる団栗会(のち、どんぐり会)の第一回校外展が開かれた。「団栗画会」と題する新聞報道によれば、「昨三日より本日午後五時迄開催の同会は出品数約百点以上にて盛況なるが尚岡、林、平澤、小寺、船木、故浅井、有島、竹久諸氏の特別出品もあり本日は日曜のことなれば定めし盛会なるべし<中略>」とある。文中、「岡」は岡精一<略>、「林」は林竹治郎<略>、「平澤」は平澤大暲<略>、「小寺」は小寺健吉<略>、「有島」は有島武郎<略>、「竹久」は竹久夢二<略>と思われる。一〇〇点を越える出品数の多さや当代一流の画家たちの特別出品があったことなどから推して、北中団栗会は周辺の絵画グループとのかなり広い交流とそれが可能なだけのレベルを維持していたといえるであろう。(< >内引用者註)
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 北海道は、もともと美術展が盛んに開かれていた地域で、昔から美術ファンが多かった土地がらのようだ。そのような家庭のどこかに、「これは曽祖父ちゃんが札幌で買った、二瓶等という画家が描いたフランス風景だよ」というような伝承とともに、西洋館の描かれたキレイな風景画が壁に架けられてやしないだろうか。それは、ひょっとすると昭和初期の「下落合風景」かもしれない。

◆写真上:明治末に撮影されたとみられる、北海中学校の校舎と生徒たち。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)の東京美術学校入学者名簿。入学時は佐伯祐三と同級だが、二瓶等(二瓶徳松)はほどなく退学し翌1919年(大正8)に再入学している。中左は、1927年(昭和2)10月開催の「欧遊告別洋画展覧会」目録。中右は、1915年(大正4)9月5日に撮影された二瓶徳松(二瓶等)。下は、下落合584番地の二瓶アトリエ跡。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)制作の第5回帝展に入選した二瓶等『裸女(二)』。中は、「欧遊告別洋画展覧会」目録の1923年(大正12)制作の展示作品。下は、同目録の1926年(大正15)から1927年(昭和2)の制作リストにみる下落合の風景画らしい作品群。
◆写真下:上は、昭和初期にフランスへ遊学した際に描かれたとみられる二瓶等『ポンヌフ橋』。中は、1901年(明治34)ごろに撮影された創立まもない北海中学校の新築校舎。下は、1943年(昭和18)に札幌の三越デパートで開催された第34回・団栗会展の会場風景。

わたしは異界からのサインをキャッチできない。

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 現代日本のフォークロア集『現代民話考』全12巻(筑摩書房)をはじめ、児童文学やエッセイなどの分野で膨大な仕事を残した、作家で民俗研究家だった松谷みよ子の、今年は生誕100周年にあたるそうだ。拙ブログでは、渡仏中に佐伯祐三一家の夢にでてきた化け猫がらみで、彼女が全国から採取した猫の怪談などをご紹介していた。
 神田出身の松谷みよ子だが、結婚後に長く住んだ金町浄水場の近くの葛飾区金町39番地、あるいは死去するまで住んでいた日銀牧場近くの練馬区東大泉町257番地の42(現・東大泉6丁目)の住まいのほうが、地元ではかなり有名だろうか。この地域との関連でいえば、彼女は西巣鴨町(大字)池袋の第五尋常小学校を卒業している。いまの地図でいえば、池袋の立教大学キャンパスのすぐ北側にあたる、現在の立教中学・高等学校の敷地にあった小学校だ。戦前、松谷みよ子は池袋駅の西側、目白町の北側で子ども時代を送っているのだろう。
 松谷みよ子は、「人間には異界からのサインをキャッチできるひとと、したくてもできないひとと、二種類あるように思う」と、2004年(平成16)に筑摩書房から出版された『異界からのサイン』に書いている。松谷みよ子自身は「したくてもできないひと」、つまり「霊感」のない人だったようで、彼女が収集した日本全国の怖い民話=怪談のほぼすべてが、他者に取材しているエピソードだ。このあたり、柳田國男へ岩手県の遠野地方に伝わる昔話を収集・提供した佐々木喜善や、東北で昔話を集めた美術界の森口多里に近しい存在なのかもしれない。
 わたしも、「したくてもできないひと」に分類されると思うので、よけいにそのような不思議話や怪談に惹かれるのだろう。わたし自身、「異界からのサインをキャッチ」するアンテナをもちあわせていないが、わたしの祖父はそのようなアンテナがあったものか、さまざまな怪異を経験していたようだ。こちらでは、下落合の丘に連なる「狐火」をご紹介しているが、祖父も丘陵に連なる「狐火」を目撃している。まるで街路灯が灯る現代の道路のように、丘の中腹に等間隔で光が順番に灯り、それが再び順番に消えていく明滅を繰り返す不可解な現象だ。
 祖父は火の玉も見ている。暗い夜道を歩いていたら、大きな火の玉がどこからともなくフワフワと飛んできて、それが高い杉の木のてっぺんにぶつかり、細かな火花が散って弾け飛んだという。いまから考えれば、それは住宅地がまだ暗い闇に包まれていた時代によく見えた、プラズマ現象かなにかでは?……と思うのだが、祖父は「人魂」だと断定的に語っていた。
 わたしが祖父の怪談でいちばん怖かったのは、「死者からの知らせ」だろうか。親戚の誰か(ここは憶えていない)が息を引きとった夜、祖父の家の玄関が叩かれたので来訪者かと思い、返事をして戸を開けてみたら、目の前で橙色の炎が高く燃えあがってすぐに消えたというものだ。熱は、まったく感じなかったという。そして、追いかけるように電報がとどき、親戚の誰かが死んだことを知って、「死者からの知らせ」に改めてゾッとしたという話だった。
 この話を聞いたあと、親戚の親しい誰かが死ねば玄関がノックされ、ドアを開けると炎が一瞬高く燃えあがるのかもしれないと、怖さ半分に期待半分でいたけれど、そんなことは一度も起きなかったし、そもそも祖父が他界したときもなにも起こらず、伯父からの電話による一報だけだった。
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 わたしはこれまで、怖い経験や不思議な体験をほとんどしていないが、一度だけ丹沢山塊でキャンプしたときの「山の怪談」は、ずいぶん前になるが拙サイトでもご紹介している。だが、テントの中で聞いたハッキリとした足音は、なんらかの物理的な現象であって、真夜中の山中では不思議なことだが、ことさら霊的なサインだとは思えない。また、なにかを目撃するのではなく音だけなので、子どもだった当時はすぐに怪談と結びつけてゾッと鳥肌を立てたけれど、いまとなっては山で起きるなんらかの音響現象ではないかと疑っている。
 わたし自身には、「異界からのサインをキャッチ」できる能力はないようだが、わたしのデジカメにはあるようだ。肉眼では確認できなくても、機械が写しとる対象物なのだから、なんらかの物理的な存在がそこにはあるのだろうが、それがなんなのかはいまだに不明だ。撮影した写真でいちばん多いのは、光源が不明な漂う光の球体だった。その光の怪(あやかし)は、白いときもあれば青いケースもある。最初は、屋内外を舞う塵埃かと思っていたのだが、それにしては同じ条件下で写ったり写らなかったりと明らかにおかしな“ふるまい”だし、あるいは塵埃にしてはたったひとつか数個と、数があまりに少なすぎて理屈にあわないのだ。また、明らかに移動している光跡を引いたものもあり、よけい不可解な物体のように感じている。別に空を漂っているわけではないが、地上に近い空間や屋内を浮遊するUFO(未確認飛行物体)にはちがいない。
 最初に、「なんだこれ、おかしいな?」と感じたのは、鎌倉の祇園山ハイキングコースを歩いて、東勝寺跡から葛西ヶ谷へ抜けようとしていたときだった。鎌倉をご存じの方なら、「ああ、あそこね、わかった」と、もうお気づきだろう。東勝寺跡の裏山にも、数多くのやぐらが眠っているが、その中のひとつに鎌倉幕府が滅亡する際、北条高時が切腹したと伝わるやぐらがある。でも、高時が切腹したのは焼失した東勝寺の伽藍内であって、やぐらじゃないでしょ……と史実を持ちだしてみても、昔から「腹切やぐら」と呼ばれているのだからいたしかたない。
 そこで写した画面には、白い球体状の光が遠近あわせて10個ほどとらえられていた。塵埃なら数が少なすぎるし、光線によるレンズのいたずらなら数が多すぎる。また、同じ場所で同時に同条件で撮影したほかの写真には、こんなものは写っていない。ちょうど同時期に、井上円了や小熊虎之助などの資料を調べていたので、このふたりならどのような見解をお持ちなのか訊いてみたいものだと思ったのを憶えている。だが、これがきっかけとなったのか、わたしが撮影する写真には次々とおかしな、正体不明の光の球が登場してくることになる。
 下落合の古いお屋敷で、蔵の中を撮影させていただいているとき、カメラを構えるわたしのすぐ手前で、虹色のワクがついた光の球がとらえられているのに気づいた。このときはフラッシュを使っているので、塵埃が反射したのかとも思ったが、たったひとつだけ写るというのが論理的に説明できない。蔵内に舞う塵埃をとらえたのであれば、もっとたくさん写るのが自然だろう。ひとつだけというのが、どうしても説明のつかない現象なのだ。このあたりから、わたしの写真にはこのような光の球が、それこそ無遠慮に画面のあちこちへ写りはじめるようになった。
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 きわめつけは、小日向の崖線へ墓参りに出かけたときの写真だ。花曇りの日で、うちの墓を手前に入れて広めに墓地を撮影したときだ。シャッターを切るときはまったく気づかなかったが、帰宅して画面を確認したらのけぞってしまった。白い発光体が、墓地から光の尾を引きながら上昇していく様子がとらえられていた。もちろん屋外なので、フラッシュは使用しておらず、光の球自体が発光しているとしか思えない写りだ。このころになると、周囲の人たちから「カメラになにか憑いてるんじゃない?」などといわれはじめた。けれども、これらの写真には不思議と怖さを感じない。古い屋敷や墓地を撮れば、「まあ、こんなこともあるよね」ぐらいの感覚だ。
 このような光の球が、シャッターを切るたびどこかに写るようになっていたが、もっとも印象的だったのは、保存をめざしていたときに訪問していた中村彝アトリエ(1929年より鈴木誠アトリエ)だ。鈴木照子様のご厚意で、5回ほど内部を見学させていただき、写真を撮らせていただいた。アトリエ側では、ほとんど不可解なものは写らなかったが、中村彝が寝部屋に使っていた南向きの“居間”では、毎回必ず光の球が1つないしは数個とらえられていた。もちろん従前どおり、撮影現場では肉眼で確認することができなかった。
 初回の訪問時から、撮影していた写真にとらえられていたのは、開け放ったドアから入ってきたとみられる、美しいブルーに光る大きな球体だった。いつもは、白っぽく写るのがふつうだったが、中村彝の寝部屋でとらえられたものは青く発光しているように見える。その後、訪問させていただいた際は、必ず南庭に面した寝部屋を撮影したが、それらの写真にも必ずこの光の球は現れている。ただし、ブルーに光っていたのは初回の訪問時だけだった。
 鈴木様にも見ていただいたが、「あら、なにかしらね?」と不思議に思われていたようだ。この現象に、「異界からのサインをキャッチできるひと」であれば、いかようにでも理由がつけられるだろう。いわく、アトリエ保存へ向けた活動が具体化しはじめたので、生前にそれを強く望んでいた鈴木正治様がエールを送りに現れたのだろうとか、いや中村彝がいまだにアトリエの寝部屋をさまよっているのだろうとか、いやいや、中村彝を看病しアトリエの管理をしていた岡崎キイが、怪しい人物が入ってきたので「あんた誰? 出ていけ!」と怒ってるのだとかw、それらしい理由はいくらでもつけられる。だが、わたしはただ不思議な現象だと首をひねるばかりだ。
中村彝アトリエ1.JPG
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 ちなみに、中村彝アトリエ記念館が竣工したあと、わたしのカメラでいくら撮影しても、これらの現象は皆無になった。ひとつ法則性を挙げるとすれば、おおよそ古いお屋敷や邸宅で撮影した画面には、どこかに必ず光の球が写っているが、新しい住宅で撮影しても決して写らないという事実だ。そういう意味では、築100年前後の邸宅を訪問することの多いわたしは、このような現象をとらえてしまう機会が多いということになるのだろう。けれども、北条高時の切腹やぐらや小日向の墓地のように、突然、屋外でなんの前ぶれもなく写りこむ現象は、わたしの想像を超えている。

◆写真上:今年は生誕100年にあたる、膨大な仕事をなしとげた松谷みよ子。
◆写真中上:上は、1986年(昭和61)に出版された松谷みよ子『現代民話考』第4巻(筑摩書房/左)と、2004年(平成16)に出版された同『異界からのサイン』(筑摩書房/右)。下は、祇園山ハイキングコース沿い東勝寺跡の裏山にある北条高時切腹やぐら。
◆写真中下:上は、築100年超の古い蔵の内部を撮影したもの。下は、彼岸に撮影した墓地。
◆写真下:上・下は、ともに中村彝アトリエ(鈴木誠アトリエ)南側の居間(寝部屋)にて。
★おまけ1
 先ごろ訪れた古い西洋館の室内で、自然光のままの撮影でも球体状のものが写ることを確認した。カメラではなく、そもそもわたしがなにかに憑かれてるとか? 誰かにとり憑かれるおぼえはないけれど、この地域で書いて記録して欲しい昔の方々がまわりに集まってきてるとか。(爆!)
西洋館(自然光).jpg
★おまけ2
 暑めの日がつづくので、今年に入ってから撮影した下落合のちょっと涼しい風景を2景。噴水が枝葉にかかり氷柱(つらら)になっているのは、暖かい東京都心ではめずらしい光景だろう。
つらら.jpg
降雪.jpg