自由民権急進派から宮内省傳育官への桑野鋭。

桑野鋭邸跡.jpg
 明治時代には、型にはまらぬ面白い人たちがたくさんいたようだ。肩書がいくつもあると、「どれが本業だか信用できない」などと以前までいわれていたが、現代ではデュアル・スキル(二刀流)の仕事をする人もめずらしく、あまり違和感をおぼえないのではないか。
 拙サイトでも、そんな明治期の「奇人」たちを取りあげてきたが、その代表格といえば紀国昭和天皇に講義をした南方熊楠や、東京帝大法学部の地下に陣どっていた宮武外骨、やや時代が下ると大泉黒石あたりだろうか。つい先だても、下落合(2丁目)819番地に住んでいた伊藤痴遊をご紹介したが、七曲坂の上りきった丘上、下落合363番地には桑野鋭(えい)が暮らしていた。下落合の桑野邸は、すでに1923年(大正12)には同所に確認できるので、大正中期ごろ転居してきて住んでいたとみられ、1929年(昭和4)に死去するまで暮らしていた。
 下落合363番地というと、華族(男)の箕作俊夫邸(下落合330番地)や中華民国公使館官舎(下落合326番地)の北側にあたり、美術の分野でいえば海洲正太郎アトリエ(下落合348番地)の、道路を隔てたすぐ北隣りに接する区画だ。かなり大きめな敷地に建つ屋敷だったらしく、1925年(大正14)に作成された「出前地図」では、敷地のかたちが広めに描かれている。
 桑野鋭については、この人の仕事は「〇〇屋さん」とひとくくりに規定できないほど、さまざまな仕事をしてきている。筑後(現・福岡県)の柳河(柳川)から1874年(明治7)に東京へやってきた当初は、中江兆民らが率いる自由民権運動の「万民平等」を唱える急進派に参画して積極的に活動し、ジャーナリストを志して新聞記者や雑誌の編集業務も手がけ、海外小説をはじめとする英文や漢文の翻訳家もつとめ、薩長政府が自由民権運動の圧力に負けて、1890年(明治23)にようやく議会を開設すると、宮内省付きの大正天皇および昭和天皇の傳育官(ふいくかん)の仕事も引きうけるという、二刀流どころか何刀流もこなす仕事をしてきている。故郷の柳川風景を忘れぬよう、「顧柳散史」という戯号で数多くの文章や訳書を残した。この間、政府の弾圧により逮捕・投獄されること数度におよび、もっとも長い投獄は禁獄3年の実刑判決だった。
 不思議なのは、自由民権運動の急進派、すなわちフランス資本主義革命における政治思想の急進派に共鳴する、「王政打倒・封建主義打倒・共和制移行」を支持し、日本においては「万民平等」思想をベースにした「薩長の藩閥政府転覆・打倒」を唱えた桑野鋭が、なぜ宮内省の傳育官などを引きうけ、大正・昭和の2代にわたる天皇の教育を受け持っていたのかという点だ。明治前期は、戦前の共産党と同じような認識で「過激派」とみられた自由民権運動の急進派だが、明治も末期に近づきデモクラシーの概念が浸透するにつれ、多様な思想もった人物を皇室の“教育係”に任命する重要性を、宮内省側が気づきはじめたのだろうか。このあたり、偶然がいくつか重なり、桑野鋭はやがて東宮主事から皇子傳育官の仕事をするようになる。
 “自由人”とでも表現すべき、明治の「奇人」のひとりだった桑野鋭だが、地元の下落合における印象は薄い。それは、下落合に転居してきた理由が隠居をするためだったせいもあるけれど、大正中期の下落合がいまだ田園風景を抜けきってはおらず、農村特有の地元民によるミクロコスモス(村落共同体)は存在していただろうが、暮らしている住民たちに細かく注意を払うほどの住宅街、つまり新たな住民たちのコミュニティが、あまり形成されていなかったせいもあるのだろう。1934年(昭和9)刊行の宮武外骨・編「公私月報」7月号には、宮武外骨が下落合で取材した、最晩年の桑野鋭本人が語る履歴が紹介されている。『顧柳と号した桑野鋭』より、引用してみよう。
桑野鋭邸1925.jpg
桑野鋭邸1926.jpg
桑野鋭邸1936.jpg
  
 筑後柳川(ママ:柳河)の生家を飛び出して東京へ来たのが明治七年頃十七歳の時であつた、自由民権論にカブレて狂奔し、新聞雑誌記者としては、激越な論文や猥褻な艶文を書いた、後には宮内省に入り、東宮職主事、皇子傳育官などの職を永く勤め、今は楽隠居の身、錦鶏間祇侯といふ名で余生を送つて居る、安政五年の生れで今年七十二歳であるが、此写真(別掲のポートレート参照)は自由党員としてアバレて居た二十五歳の時(明治十五年)党員名簿の中に挿入されたものである、明治八年後十ヶ年間に記者として関係したのは評論新聞、文明新誌、近事評論、江湖新報、東京新誌、春野草誌、東洋自由新聞、自由新聞、自由燈、日本立憲政党新聞、女学叢誌、常総青年、華族同方会雑誌 等(カッコ内引用者註)
  
 新聞・雑誌の仕事に加え、政治運動をつづけて逮捕・禁獄を経験するわけだが、桑野鋭は得意の英語や漢語・漢学の才を活かして翻訳の仕事もこなしている。特に『英国情史・蝶舞奇縁』(1882年)と、『建国遺訓』(1883年)は当時かなり流行ったようだ。明治前期は書店ではなく、江戸期と同様の貸し本屋が主流だったので、流行ったということはよく借りられたということなのだろう。『英国情史・蝶舞奇縁』は、「英国」とタイトルされているが、1848年(嘉永元)に米国フィラデルフィアで出版された小説『アルビニア・一名(ひとり)若き母』が種本とされているけれど、原作者は不明のままだ。また、『建国遺訓』はシラーの戯曲『ウィリアム・テル』(1804年)が原作であり、「王政復古」の天皇を中心とする藩閥・公家独裁による反動・薩長専制政権の圧政に苦しみ自由を求める国民を、スイスの民衆に重ねたものだろう。
 だが、桑野鋭は徐々に自由民権運動へ幻滅を感じはじめている。特に、議会が開設された1890年(明治23)前後になると、自由民権の獲得・実現というよりも、個人の利権を追求する人物が運動内に急増し、本来の活動家が少なくなったことに気づいている。このあたりの事情について、1927年(昭和2)発行の「愛書趣味」5月号に収録された、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。柳田泉もまた、下落合に晩年の桑野鋭を訪ねてインタビューしている。
  
 表面はかう活動してゐるうちにも桑野氏は政治運動や政党に対して内心多大の幻滅を感じ始めた、一致して当れば藩閥政府など直ちに崩れるものを内訌ばかりしてゐて、真の民権のために奮闘する者がいかに少いかといふ点を見て愛想がつきたのである。此の政党や政治運動への愛想づかしが桑野氏の後半生をして意外な運命をたどらしめる第一歩となつた。
  
 さて、桑野鋭が宮武外骨へ語る経歴に列挙されている新聞名や雑誌名の中に、1誌だけ万民平等の自由民権思想とは相いれない、異質な雑誌が掲載されているのにお気づきだろうか。最後に挙げられている、「華族同方会雑誌」(同方会報告/同方会演説集など)だ。華族同方会は、74名の華族が参画して1889年(明治22)に華族会館で発足した組織であり、およそ自由民権運動の活動家と華族会館は似つかわしくない組み合わせだ。だが、これには奇妙な機縁が付随していた。
東京新誌187809.jpg 自由燈189209.jpg
蝶舞奇縁表紙.jpg 奥付.jpg
蝶舞奇縁内扉.jpg 桑野鋭.jpg
 自由民権運動に興味を示したのは、なにも日本の一般庶民ばかりとは限らなかった。華族の中にも、進歩的な新しい思想を吸収しようとする動きが拡がり、徐々に華族同方会の基盤が形成されている。進歩的な学者や研究者を華族会館に招いて講演会を開催したり、選挙や議会制、立憲・民権思想を学ぶために討論会や演説会を開催している。そして、同方会の会報の必要性を感じて発刊しようとしたところ、華族会館の周囲には主宰・編集する人物がいなかった。
 それはそうだろう、特権階級の華族と対立する立憲・自由民権思想の研究雑誌を、華族会館に出入りするような人物に引き受けてもらうのは、ハナから無理な話だった。そこで、古くからの自由民権運動の活動家で、新聞記者や雑誌編集の経験も豊富な桑野鋭を招聘することにした。こうして、万民平等思想の持ち主が華族会館に出入りし、立憲・民権思想などの研究誌「華族同方会雑誌」を発行するという、不可解で皮肉な状況が現出したのだ。
 奇妙な偶然は、さらにつづくことになる。同方会の用事で、幹事の小笠原長育や勘解由小路資承らとともに宮中へ出向したところ、「御教育掛長」(皇子の教育責任者)の曾我祐準と出会い、同郷(筑後柳河)ということで意気投合してしまったらしい。また、曾我祐準も自由民権運動家の桑野鋭をあらかじめ知っていたらしく、初対面なのに「桑野か」と反応している。
 こうして、桑野鋭は曾我祐準に誘われるまま宮内省に勤務することになるのだが、当時は自由民権運動の闘士だろうが逮捕・入獄歴の前科があろうが、あまりうるさいことは問われないおおらかな時代でもあったのだろう。運動や政党に幻滅を感じはじめた桑野鋭にしてみれば、華族たちに進歩的な思想をアピールするのと同様に、宮中でも自由民権思想を教えるいい機会だとでも考えたかもしれない。再び、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。
  
 此の以後は出版界も政治界も一切断念して一意専心御奉公することになつた。初め東宮主事となり、その後引つゞいて今上陛下<昭和天皇>の東宮におはした時も矢張り同じ職を奉じ、後王子傳育官として忠勤をはげまれたわけだが、大正六年肺炎にかゝつてから喘息が持病となつたので、現職を辞退し、爾後悠々高臥して余生を楽む傍ら宮内省の依嘱をうけて、摂政宮(今上陛下)、秩父宮、高松宮、澄宮の御記録編纂に従事してゐる。(< >内引用者註)
  
挿画.jpg
蝶舞奇縁紹介.jpg
華族同方会演説集第2号188809.jpg 華族同方会報告創刊号188910.jpg
 柳田泉は、「出版界も政治界も一切断念」「一意専心御奉公」などと書いているが、宮内省に勤務しつつも桑野鋭は自由新聞の記者を継続している。それは、1891年(明治24)の時点で、新聞に「宮内省五等屬 桑野鋭(自由新聞記者)」と書かれていることからも明らかだ。宮内省に勤務しはじめたのち、桑野鋭の思想的な変遷・変節は詳らかではないが、自由民権や万民平等の思想から遠く離れてしまったか、あるいは大正デモクラシーの中で自身の理想に近い国情および社会がおよそ出現したと肯定的にとらえていたものか、具体的なことは語られていないので不明のままだ。

◆写真上:七曲坂の上にある、下落合363番地の桑野鋭邸跡(右手全体)。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された南北が逆の「出前地図」にみる桑野鋭邸で、かなり大きめな屋敷だったことがわかる。は、翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に記載の同邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下は、桑野鋭が執筆や編集を手がけていた1878年(明治11)発行の「東京新誌」9月号()と、1892年(明治25)に発行された「自由燈」9月号()。は、1882年(明治15)に出版された豪華な桑野鋭・訳『英国情史・蝶舞奇縁』初編・上巻()と奥付()。は、『英国情史・蝶舞奇縁』の鮮やかな中扉()と翻訳者・桑野鋭のポートレート()。
◆写真下は、『英国情史・蝶舞奇縁』の挿画で絵師・伊藤静斎が担当している。は、同書の出版案内。は、桑野鋭が編集主幹を引きうけた1888年(明治21)9月に刊行の『華族同方会演説集』第2号()と、同じく1889年(明治22)10月に刊行された『華族同方会報告』創刊号()。

大正末の箱根土地による土地成金のすすめ。(下)

箱根土地広告地図.jpg
 前回の記事では、箱根土地が第四文化村の販売を準備しつつ、健康で文化的な趣味生活が送れる郊外住宅地という事業スローガンはどこへやら、「土地成金になろう!」などというような、露骨な媒体広告を制作している様子をご紹介した。
 広告のコピーには、関東大震災のことを「昨の大震災」と表現しているので、翌年の1924年(大正13)に制作されたとみられる、「▽東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内 ▽投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズの広告には、あたかも格言のようなふたつのお題目が掲示されている。すなわち、「今日富豪の多くは殆ど土地成金」の見出しのもと、「◇土地の面積に限りあり、人口の増殖に限りなし」、および「◇大都市集中は世界の大勢にして、郊外発展は必然の趨勢なり」がそれだ。
 わずか2年ほどの間に、東京近郊で健康的かつ文化的な趣味生活を送ろう!……というような、箱根土地の存在理由とでもいうべきコンセプト色の強いスローガンから、一転して東京郊外でいまこそ安い土地に投資をして、値上がりを待ち「土地成金」になろう!……などというスローガンに豹変してしまったのは、いったいなぜだろうか? いや、そもそも同社のビジネスの本質が後者のスローガンそのものであり、前者の口あたりのいい表現をした企業理念が、お飾りで「きれいごと」の営業アプローチにすぎないと考えるほうが妥当なのだろう。
 分譲地は、売り抜けしてしまえばこっち(箱根土地)のもので、目白文化村のケースを見ると分譲絵はがきに書かれた、「水道・瓦斯・電熱設備・下水道」の生活インフラが整備されているはずなのだが、都市ガスはついに箱根土地本社が国立へ移転する最後まで引かれることはなかった。したがって、厨房では電気レンジで調理をする家庭が多く、当時は高価な輸入家電だったので、電熱設備と電気代の出費がたいへんだったという証言が残っている。
 さて、同広告では3ヶ所の分譲地、すなわち大泉学園都市と国分寺大学都市、東村山分譲地について、どのようなコピーで販売しようとしていたのだろうか。まず、1924年(大正13)の時点でもっとも注力していたのが、堤康次郎の妻の実家である下落合で協業していた大地主のつながりで、その姻戚筋が住んでいた北豊島郡大泉村東大泉(大泉学園)の開発だった。結果的に見れば、大泉学園にはどこの学校も移転してくることなく誘致に失敗し、分譲地計画(総面積50万坪余)の50%ほどを開発したのみで計画が中止されている。広告で省線電車と武蔵野鉄道をあわせ、東京駅まで約1時間と詠う大泉学園都市を、ではどのようにアピールしていたのだろうか?
  
 (前略) 赤松林の一帯に、坦々たる道路や公園が開かれ新設の東大泉電車停車場からの大道路には自動車が通じて新築の住宅が次第に殖えてゆきます。大泉公園は少納言久保の松林に囲まれベースボール、テニス、弓術場、馬術練習場、児童遊戯等があり幽邃なる東京郊外の新公園として知られて居ります。大泉の水は、最近水質検査の為め内務省衛生局で分析試験を致しましたる処 水道以上によい水として推奨せられました。大泉学園都市は天恵の風致あり電車停車場、道路電燈、日用品マーケツト、乗合自動車、乗馬練習場、公園等の設備があり電車一時間で丸の内に行ける交通機関が有りますから投資物としては元より直ちに居住して市内へ通勤し得る好適の地であります。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
  
大泉学園都市1.jpg
大泉学園都市2.jpg
大泉学園都市3.jpg
 東大泉は、良質な湧き水(地下水)に恵まれていたのだろう。水道水より水質が優れているのは、目白文化村がある下落合も同様で、地下水をポンプで汲みあげた“自家水道”は、戦後の1960年代まで活用されており、おそらく大泉学園でも同じ環境だったろう。当時、武蔵野鉄道の駅名は「東大泉駅」であり、大泉学園駅になるのは1933年(昭和8)からだ。
 住民のために設置される(予定の)、さまざまな施設が紹介されているが、広告が出稿された1924年(大正13)の時点で完成していたのは、掲載写真の遊動円木が写った児童遊戯場のみだったようだ。また、施設の中には住民たちが趣味のサークルなどで集う「倶楽部」がなく、代わりに広大な分譲地を背景に野球場や馬場、テニスコートなどスポーツ施設の多いのが目立つ。だが、これら住民のための施設は最初の宣伝時だけか、建設されたとしてものちに廃止され追加分譲地として販売される経緯をたどったのではなかろうか。箱根土地は、この種の広告には必ずモデルハウスを掲載するはずだが、いまだ完成してなかったのだろう。
 次に、国分寺大学都市の広告を見てみよう。北多摩郡小平村に計画されていた同大学都市は、総面積70万坪と大泉学園よりもかなり広大だ。コピーでは、東京駅から国分寺駅まで約1時間、そこから最新式の電車に乗り3~4分で同大学都市(現・鷹の台駅)に到着と書かれている。特に中央線の便のよさを強調し、「省線電車は一日に六十一往復朝夕特別に五十一往復の通勤電車」が発着すると書かれている。では、国分寺大学都市のコピーをそのまま引用してみよう。
  
 国分寺大学都市には明治大学が移転する契約が出来ました 明治大学には約八千の学生と一万五千の校友とそれに伴ふ多くの商店がありますからスグ繁華な都市になります。女子英学塾もこの隣地に移転すべく既に二万坪の敷地を買収しました。大学都市の道路(幹線八間)はすでに完成し電燈電熱設備、日用品市場、模範小学校、公園運動場、娯楽場、乗合自動車等を設置します。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪九円八拾銭より
  
 この文章を読んで、おかしいと思った方も多いはずだ。学生が8,000人いても、その全員が小平村の大学周辺に住むとは限らないし、卒業生が主体の15,000人の交友は、なにか特別な催しでもない限り、移転した母校のある小平村に用はないはずだし、商店にいたってはいくら大震災で被害を受けたとしても、周辺に他の大学や学校が林立している神田駿河台や神保町界隈を離れ、わざわざ小平村へと移転してくるメリットが見あたらない。結局、2年後の1926年(大正15)に明治大学の移転は学内の猛反対で撤回され、女子英学塾(現・津田塾大学)のみが移転している。
国分寺大学都市1.jpg
国分寺大学都市2.jpg
国分寺大学都市3.jpg
 学校はきたけれど、当初から転居してくるのは学校の関係者や、いくらかの箱根土地社員ばかりで、現地は田畑や原っぱが一面に拡がる風景のままだった。それが解消され、本格的な住宅街が形成されるのは戦後もかなりたってからのことだ。国分寺大学都市の分譲地が、大泉学園都市に比べると東京市街地から遠いにもかかわらず、土地の坪あたりの単価が9円80銭と強気なのは、やはり新宿駅や東京駅へ通う中央線沿線だからだろう。
 最後に、北多摩郡東村山村に開発を予定していた、東村山分譲地のコピーを見てみよう。同分譲地は全体面積も曖昧で、当時は箱根土地の構想・計画レベルの段階だったと思われ、村山貯水池(多摩湖)を大きくフューチャーした「景勝地」であることをことさら強調している。また、「西武電鉄は市内電車早稲田終点及新宿を発し東村山村を縦断して貯水池に到る高速度線の敷設」に着手したと、いまだ影もかたちもない西武鉄道の電車をアピールし、途中で中止になった早稲田への「地下鉄・西武線」や、戦後の1952年(昭和27)になってようやく実現する新宿駅(近くの北側)への延長計画まで、すべて構想・計画レベルを前提にしたうえで分譲地をアピールしている。
  
 東京市が十数年の歳月と五千余万円の巨費を投じた東村山の大貯水池は恐らく東洋一の偉観であると同時に帝都二百万市民の貴重なる源泉地であります。/四面の翠巒を宿し永遠に静寂な碧水は漣波も立てず森林湖沼公園として大東京の恵まれたる清遊地であります。/この環境地に当社は以前より百万坪経営の大計画を立て愈々第一回分譲地拾万坪を発表致しました。/◇坪数一区画三百坪より/◇単価一坪七円弐拾銭より
  
 まるで、村山貯水池(多摩湖)への観光案内のようなコピーだが、掲載されている写真は未開発な森林を通る川沿いとみられる街道筋と、村山貯水池(多摩湖)の堤防風景、それに開発予定の東村山分譲地と国分寺大学都市を描いた地図のみとなっている。他の分譲地のように、具体的な造成地の写真がないところを見ると、当時は手つかずで未開発のままだったのではないだろうか。
東村山分譲地1.jpg
東村山分譲地2.jpg
東村山分譲地3.jpg
 3つの分譲地のなかで、最適な「投資物」として奨励しているのは大泉学園都市のみとなっているが、前ページの見開きではすべてのコピーが「土地投機」「土地成金」のすすめだったので、さすがに分譲地の現地紹介のリアルな文面では表現を抑えたものだろう。特に東村山分譲地に関しては、戦後になっても一面に田畑が拡がる風景のままで、本格的な住宅街が形成されるのは1960年代前後から、いわゆる大規模な「郊外団地」がいくつも建設されてからのことだ。
                                    <了>

◆写真上:国分寺大学都市と東村山分譲地を記載した、1924年(大正13)制作の広告地図。
◆写真中上は、広告掲載の大泉学園都市の現地写真。は、同分譲地の現状。
◆写真中下は、国分寺大学都市の現地写真。は、津田塾大学周辺の住宅地。
◆写真下は、広告に掲載された東村山分譲地の現地写真。は、同分譲地の現状。

大正末の箱根土地による土地成金のすすめ。(上)

箱根土地本社ビル1925.jpg
 下落合の目白文化村にあった箱根土地本社が、国立へと移転する前年の1924年(大正13)に、東京郊外を開発するディベロッパーの本音を、あからさまに表現した媒体広告を制作している。箱根土地(いまだ本社が下落合時代)が制作した、「東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内」の見開き4P広告だ。
 だが、このタイトルにはもうひとつ、「投資物として絶好の土地――」というキャッチフレーズが付随している。目白文化村の販売時には、「住居の改善は人生を至幸至福のものたらしめる」というウィルソンの言葉を引用し、東京市街地の喧騒や空気汚濁を逃れ、健康と趣味生活を基調とした理想的な郊外住宅地の実現が目的と詠い、「倦み疲れた心身に常に新鮮な生気を与え子女の健やかなる発育を遂げる為に」と、東京市民の健康と自然環境、教育環境を憂慮したため、箱根土地は「三万五千坪」の分譲地を提供する……と宣伝していたはずだ。
 目白文化村の分譲絵はがきからわずか2年後、今度は社の理念とする住環境の理想や健康的な生活の建前はどこかへうっちゃり、利殖のための投資物として郊外住宅地は格好の対象だと、土地を購入しても家を建てない“不在地主”を当てこんで推奨する、むき出し媒体広告を制作している。これには、目白文化村の経験が大きな影響を与えているのだろう。
 目白文化村では、第一文化村および第二文化村までは、土地を購入した人物がそのまま家を建て、市街地から転居してくるケースが多かったが(関東大震災の影響も大きかったとみられる)、やや目白駅寄りの第三文化村の販売あたりから、分譲地は早々に契約が進み完売したにもかかわらず、すぐに住宅の建設をスタートする人物が急激に減ったからだ。すなわち、投機目的で第三文化村の分譲地を入手し転売を前提とした市街地に住む“不在地主”が増え、事実、第三文化村は昭和10年代になっても、40%ほどの敷地がいまだ空き地のままだった。
 以前、興信所が調査した下落合の地価(1921年現在)について記事にしているが、関東大震災の直後から山手線西側に近接する住宅地は、非常な勢いで地価が高騰していくことになる。特に目白文化村のある落合地域では、わずか数年のうちに5倍~10倍はあたりまえで、投機目的の“不在地主”にとっては格好の投資対象となっていった。また、落合地域の地主たちもサッサと田畑を耕地整理し、住宅地へと転換しはじめている。箱根土地は、それと同じ現象を東大泉(大泉学園)や国分寺大学都市、そして東村山分譲地でも起こそうと考えていた
 箱根土地本社ビル(冒頭写真)が、いまだ下落合1340番地に建っていた時代であり、また国分寺大学都市には明治大学が移転予定となっているので、おそらく1924年(大正13)の後半期にでも制作された広告なのだろう。冒頭部分のコピーを、少し長めだが引用してみよう。
  
 どういふ土地が投資物として最も適するか……
 およそ土地位安全確実な投資物はありますまい。如何なる災禍盗難にも土地そのものゝ失はれることはありません。/ことに東京市内外の土地は帝都である関係上、全日本的の刺戟と影響をうけて居ますから地方に比して地価の騰貴率は実に予想外で、驚くべき高率を示して居ります。しかし同じ東京の土地でも市内<東京15区>および之に隣接した、既に地価の高くなつて居る土地は騰貴率から見て左程ではありませんが少し離れた近郊の土地、即ちまだ人気によつて地価が押し上げられて居ない土地(坪十円内外)で現在居住に適し尚近き将来必ず騰貴する諸種の原因を持つた土地が投資物として最も有望であります。(中略) 過去十年間<1924年時点より>の統計表によりますと東京市内外の地価の騰貴率は平均年三割七分の利廻りになつて居ります(市外だけなら更にモツトよい利廻りになります)が郵便貯金は五分三厘、一般銀行の定期預金、国庫債券は六分、公債は七分五厘、社債は九分の割合で投資物として土地の有利なることは他の何物も比較になりません。実に土地は子々孫々に伝ふべき万代の宝であります。/本社が特別面積に限つて目下原価以下で売出して居る大泉学園都市、国分寺大学都市、東村山分譲地は投資物としてお買ひになるにこの位よい機会はまたとないことを確信致します。(< >内引用者註)
  
箱根土地広告1924_1.jpg
箱根土地広告1924_2.jpg
広告キャッチフレーズ.jpg
 この広告では、東京市の近郊は土地が高騰しがちだが、いまだ東大泉(大泉学園)や国分寺、東村山の各地域ではそれほどでもないので購入するにはいまがチャンスと、明らかに東京以外も含めた“不在地主”筋をターゲットに、臆面もなく短期販売・短期利益をねらった広告づくりをしている。そこには、郊外住宅地に住む理想的な生活環境はどこか隅に押しやられ、とにかく土地投機が「成金」になるには最短の道筋的な、あられもないコピーが踊っている。
 そして、関東大震災でも郊外の目白文化村は、「流石にこゝは何の被害もありませんでした」と、東京市の震災被害と近郊を差別化し、郊外がいかに安全なのかのアピールを忘れない。確かに落合地域では、江戸期に建設されたとみられる農家の納屋が、2楝倒壊したのみで死者はでていない。そして、コピーの中では特に「今日富豪の多くは殆ど土地成金」というリードのもと、「驚くべき土地騰貴の実例」をいくつか挙げている。その中には、堤康次郎が下落合の目白文化村で行った土地取引の数字まで示して、自身の経験を開示している。
 つづけて、同広告より「目白文化村の土地が十年前は僅かに坪弐円参拾銭」から引用しよう。
  
 本社の堤専務が大正四年に将来坪五円になるだらうといふことを予想して府下豊島郡(ママ:豊多摩郡)落合村の土地を僅かに二円三十銭で数万坪買ひ込んだ。ところが三年後には二十円になり七年後には五十円になり十年後の今日では八十円になつて四万坪の土地が飛ぶやうに売り切れて仕舞ひました。即ち僅に十年位で約二十倍に近い騰貴を見ました。その頃野兎の出没した荒漠たる畑が今では東京郊外の模範的住宅地として誰知らぬものない目白文化村となつて仕舞ひました。/目白文化村に程近く東京海上保険株式会社の大運動場があります。此の運動場は俗に海上グラウンドといつて居ますが運動好きな同社の重役が今から七八年前坪当り八円で社員の為に買入れたものです。(中略) 今日では地価が騰貴して坪八十円でも売らないといふ儲かり方です。海上保険会社では意外なことで知らぬ間に莫大な利益を獲得したわけです。(中略) 今日富豪といはれる程の人の大部分が殆ど土地によつてその富を殖やしたものであることは多くの実例がこれを示して居ます。(カッコ内引用者註)
  
 東京海上保険の「海上グラウンド」は、長崎村4174番地にあった野球場を含む大きな運動場のことで、現在の豊島区が運営する南長崎スポーツ公園のことだ。
街並みイラスト1.jpg
街並みイラスト2.jpg
箱根土地事業所展開1924.jpg
 箱根土地による目白文化村の土地取得と地価高騰には、もちろん裏のカラクリがあって、下落合にあった堤康次郎の妻の実家(大地主)を巻きこんだ文化村住宅地の開発だったからこそ、土地をかなり安く購入できたのだし、おそらく美味しいことをいわれた周辺の田畑を所有する地主たちもまた、耕作地をかなり廉価で箱根土地に譲ったのだろう。
 はたして、目白文化村の販売で安く土地を手離した地主の中には、坪単価がみるみるうちに値上がりするのを見て、「だまされた!」と感じる人々も少なからずいたにちがいない。第一文化村の土地を多く所有していた、鎌倉時代からつづくとみられる宇田川様のお宅では、「生涯にわたり西武線と西武百貨店は利用しない」を、まるで家訓のように伝承されてきたように、サギまがいでその場限りの調子のいい営業トークや、その後の箱根土地へ売却しない敷地に対する、さまざまな同社の嫌がらせなど、旧家を取材すればさらに多くの逸話が見つかるだろう。
 2見開き4ページにわたる媒体広告は、このあと大泉学園都市と国分寺大学都市、そして東村山分譲地を紹介する見開きページとなるけれど、ほとんどの分譲地が道路を敷設し終えたばかりの状態で、住宅敷地はあまり整備されていない。大泉学園都市では、アカマツ林と草地がほとんどそのままの原野だし、大急ぎで設置したものか丸太を用いた子どもの遊具(遊動円木)が、ポツンとアリバイ的に撮影されているのみだ。
 また、国分寺大学都市では、明治大学のキャンパスが移転してくることを大々的に宣伝しており、分譲地にはモデルハウスとみられる西洋風住宅がすでに数棟建設されている。でも、1926年(大正15)になると明治大学は小平村への移転を白紙撤回しているので、結局、箱根土地の誘致は失敗している。分譲地には、「明治大学建設敷地」の看板が大々的に立てられ、東隣りの小金井で有名な桜堤の名所まで紹介されているが、分譲地は田畑や原っぱが拡がっているだけの情景だった。事実、住宅街と呼べる密な街並みが建設されるのは、戦後の1960年(昭和35)ごろからのことだ。
明治大学建設敷地1925.jpg
神谷邸.jpg
 東村山分譲地にいたっては、森林沿いの街道筋の写真が掲載されているだけで、ほとんどなにも開発していないのがわかる。代わりに、村山貯水池(多摩湖)の写真を大きくフューチャーし、「大東京の恵まれたる清遊地」と詠っている。でも、あまりに市街地から離れすぎているのと、交通の便がいまだ整備されていなかったせいで、販売実績はかんばしくなかった。もちろん、人の口には戸を立てられないので、箱根土地の“やり口”を知った地主たちも警戒していたにちがいない。次回の記事では、1924年(大正13)時点での、3ヶ所の分譲地のコピーについてもご紹介したい。
                                    <つづく>

◆写真上:「不動園」から眺めた、下落合1340番地のレンガ造り2階建てだった箱根土地本社ビル。佐伯祐三連作「下落合風景」で、モチーフに選びそうもない風景のひとつ。
◆写真中上は、関東大震災の翌年1924年(大正13)の制作とみられる箱根土地の「東京近郊の整然たる住宅地――大泉学園都市/国分寺大学都市/東村山分譲地・案内」媒体広告。は、3分譲地広告の露骨な「土地成金」おすすめキャッチフレーズ。
◆写真中下は、同広告のイメージイラスト。どこの街角なのか不明だが、少なくとも目白文化村ではない。は、1924年(大正13)時点での箱根土地の事業所展開。
◆写真下は、「明治大学建設敷地」の看板が目立つ国分寺大学都市の分譲地でモデルハウスがいくつか見えている。は、同広告でも掲載された河野伝設計による第一文化村の神谷邸。
おまけ
 上の写真は、1922年(大正11)の竣工直後とみられる箱根土地本社を北側の落合町役場あたりからとらえたもの。下は、1933年(昭和8)ごろに清水多嘉示が西側の第一文化村の二間道路から撮影した中央生命保険倶楽部時代の同ビル。中央生命が保養施設化のため、湯殿や暖炉などを新設しているせいか煙突が増築されているのがわかる。同社が、1933年(昭和8)に経営不振で吸収合併される直前に撮影されたため、庭や樹木などの手入れがなされておらず、かなり荒廃しているようだ。
箱根土地本社ビル1922.jpg
中央生命保険倶楽部1933頃.jpg

下落合と湯河原を往復しながら描いた表紙画。

194709読書.jpg
 下落合1丁目404番地(の4)にアトリエを構えていた安井曾太郎は、戦後、神奈川県湯河原町にあった2棟のアトリエですごしている。最初は、1949年(昭和24)に湯河原町宮上の天野屋別荘(旧・竹内栖鳳別荘)を借りて、下落合と湯河原町との間を往復している。
 それから5年後、1954年(昭和29)に湯河原町宮上586番地に別邸兼アトリエを新築して移り住んだが、翌1955年(昭和30)に突然の心臓麻痺で死去している。この間の生活は、東京に所用ができると東海道線(湘南電車)で下落合の自邸に帰るか、あるいは東京駅近くのホテル(八重洲のホテルが多かったようだ)を予約して宿泊していた。このころになると、タブローの制作は下落合ではなく、画道具一式を運びこんだ湯河原のアトリエがメインだった。
 そのような生活環境で、安井曾太郎は文藝春秋社より月刊雑誌「文藝春秋」の表紙画を依頼されている。戦後も早くから、たとえば1947年(昭和22)の「文藝春秋」9月号や、翌1948年(昭和23)の同誌3月号の表紙画を描いているが、月ごとに毎号の表紙画を定期的に描くようになったのは、1950年(昭和25)の同誌1月号から以降だった。
 安井曾太郎が表紙画を手がけたのは、これが初めてではない。1931年(昭和6)に、当時のアトリエ(高田町1673番地)の近くにあった婦人之友社から、「婦人之友」の表紙画を依頼されている。このときは、「婦人之友」の1月号から12月号までの1年間だったが、戦後の「文藝春秋」の表紙画は死去する直前まで描きつづけた。「婦人之友」の表紙画に、つい女性の裸体を描いてしまったエピソードが残っている。1954年(昭和29)に文藝春秋新社から刊行された『安井曾太郎表紙画集/第1集』収録の、美術評論家・福島繁太郎「安井先生の表紙絵」から引用してみよう。
  
 この様な奇抜な構図(文春時代)は二十年前の婦人の友(ママ)の表紙には見られない。初めて婦人の友に表紙を描かれた時は、先生も大分面喰はれたらしい。裸体を描いて雑誌社に渡されたところ、どうも之は困りますと云つてつき返されたさうである。当時の社会情勢としてはさもありなんと思ふのだが、先生はこの時、表紙絵は純粋作品とは違ふものだと思はれたと云ふ。だから婦人の友時代は先生は表紙絵に慣れて居られず、幾分の手心を加へられたものの、未だ表紙絵としての特別の配慮は少ない様に思ふ。だから表紙絵も当時の純粋作品の手法とあまり違はない。これに比べると、この頃は表紙絵としての本質を心得て居られると思ふ。(カッコ内引用者註)
  
 「文藝春秋」の仕事は、最初から表紙画として描かれており、自由な構図で奇抜な表現や抽象度も高めだが、戦前の「婦人之友」の仕事はいつものキャンバスに向かうのと、ほとんど変わらない姿勢で描いていたのがわかる。裏返せば、文春時代の表紙画はタブローに描くような形式や気がまえにこだわらず、むしろふだんの“表現ワク”がとり払われ、自由でくだけた美的センスが光る画面が多いということになる。あるいは、ふだんのタブローでは決して描かないような表現や、新たな手法へ試験的かつポジティブに取り組んだ可能性もあるだろうか。
 画材も油絵の具ばかりでなく、クレヨンやグァッシュ、色鉛筆、コラージュ(切絵・貼絵)などバラエティに富んでいておもしろい。表紙画を描いたキャンバスも、表紙のサイズとほぼ同一で製版の際に縮小化はされていないという。サイズの大きな画面に描くと、細部が気になってつい描きこむことになり、それを縮小して印刷すると描きこんだ部分がゴチャゴチャしてしまうからだ。そのような制作手法は、過去に引きうけた表紙画の印刷効果による経験則からきているのだろう。
195006街(数寄屋橋).jpg
194803馬.jpg
194810腰かけた女.jpg
安井曾太郎(下落合)1936.jpg
 また、表紙画の制作にあたって、安井曾太郎はたびたび書店に出かけマーケティングを実施している。雑誌コーナーで全体を観察しながら、どのような表紙画がインパクトがあるのか、読者にアピールし購買欲をそそるのかを研究しつづけたようだ。その様子を、同画集より引用してみよう。
  
 店頭効果も十分に考慮されてゐる。雑誌が店頭に並んだ場合、唯変つてゐるばかりでなく、購買力をそそる様な感じの良さを与へなければならない。先生は時々雑誌屋の店頭に立つて、どういふのがいいかと眺めて考へて居られる事が屡々で、これが先生のことだからなかなか手間がかかる。お連れの夫人など待ちくたびれて閉口なさるさうである。
  
 たびたび繰り返された店頭マーケティングの結果、表紙画は写実性や具象性の高いものは目立たず、注目されやすいのは抽象度が高めな表現だという結論になった。
 わたしが、最初に「おや?」と目をとめたのは、1947年(昭和22)に刊行された「文藝春秋」9月号の『読書』と題された表紙画だった。(冒頭写真) まだ、同誌の表紙を毎号制作する3年前の作品だが、一見して安井曾太郎の作品とは思わなかった。下落合のアトリエで制作されたもので、質の異なる用紙を貼りあわせ、その中に読書をする女性を描いて貼りつけ、右ワクの白い紙に赤いクレヨンで植木のようなフォルムを添えている。敗戦から間もない時期なので、当時の低品質なカラー印刷を考慮したのかもしれないが、色数を抑えた不思議な画面だ。安井曾太郎は、必ずモチーフを観て描く画家なので、誰か下落合にモデルがいるのだろう。
 もうひとつ惹かれた画面は、1950年(昭和25)に刊行された「文藝春秋」6月号の表紙画で、東京の街並みを描いた『街』だ。おそらく、湯河原の天野屋別荘から所用で東京にもどり、八重洲のホテルに連泊していた際に描いたのだろう。当時の風景からして、数寄屋橋界隈の風景をモチーフにしているとみられるが、黄色いキャンバスに赤の絵の具が非常に印象的だ。実景を前に、画家がその昔(戦前)見ていた風景なのか、あるいはリアルタイムに風景を写したものかは不明だが、どこか夢の中でみるモノトーンで懐かしく、逆光でまぶしい東京風景のように感じる。
195109浴後.jpg
195205劇場にて.jpg
195302湘南電車にて.jpg
195404ピアノ.jpg
 口数が少なく、人との交際が苦手だった安井曾太郎は、美術を離れた友人は少なかったようだが、1914年(大正3)の早くから知りあっていた友人に、下落合4丁目1665番地の第二文化村に住んでいた安倍能成がいる。安倍能成は、戦争末期の1944年(昭和19)の冬から初夏にかけ、近衛町の安井アトリエへ100回も通って2点、さらに戦後の天野屋別荘では3点、安井曾太郎に繰り返し肖像画を描いてもらっており、モデルとしてもっとも多く安井と接した友人のひとりだった。特に戦後の1949年(昭和24)、天野屋別荘で3回も肖像画を描いてもらったころが、ちょうど「文藝春秋」の表紙画を毎月制作していた時期と重なる。
 だが、湯河原の安井曾太郎はすでに体力が衰えており、本格的なタブローを仕上げるよりは、小品ながら表紙画をローテーションでこなすほうが楽しかったのではないだろうか。心臓を病んでいた様子を、安倍能成は書きとめている。1956年(昭和31)に文藝春秋新社から出版された『安井曾太郎表紙画集/第2集』収録の、安倍能成『安井曾太郎君の追懐』から引用してみよう。
  
 私のとまつたのは筋向こうの樂山荘で、これも石段が二百に近かつたらうか。君のモデルになる人々もしくは友人は、大抵この宿に泊つたから、君は毎日のやうに、段の途中で幾度か休んでは息を整へつつ、この宿へ上つていつた。石段を上つては下り、家へ帰ると又長い段を上下してアトリエを往復した君は、最後の住家では、又山坂を三十分以上もゆつくりゆつくり上つてゆかねばならなかつた。人よりも甚しく小さい心臓の持主であり、又肺活量が極めて少なかつたといふ君に、その晩年、殊に最後の生涯に、この木段、石段、急な山道を上り下りさせたことは、今から考へると痛ましい感じがする。しかしそれよりも一層痛ましかつたのは、昭和二十二三年の頃の眼病であつた。うつむきがちに痛みを怺へつつ眼をパチクリさせて居た君の顔は、実に正視に堪へなかつた。この病が快方に向つたのは、君にとつても日本の画壇にとつても有難いことであつた。
  
 死去するまで、宿痾の心臓は変わらなかったが、毎月の「文藝春秋」の表紙画を引きうけるころには、怖れていた眼病をようやく克服していた様子がわかる。眼疾が癒えたからこそ、従来の画風にはあまりとらわれず、のびのびと楽し気で奔放な表現ができたともいえそうだ。
195403犬.jpg
195412新築アトリエ(湯河原町宮上586).jpg
安井曾太郎(書斎と茶室).jpg
婦人之友193102.jpg 文藝春秋195304.jpg
 そんな晩年を、湯河原ですごしていた安井曾太郎だが、下落合の自宅兼アトリエにもちょくちょく帰ってきている。作品には、東京と湯河原とを往復する湘南電車(東海道線)の車内を描いた、1953年(昭和28)5月25日制作の『湘南電車にて』という画面も残されている。拙記事では、下落合で制作された表紙画を中心に、1947~1954年(昭和22~29)の作品を10点ほどご紹介したい。

◆写真上:1947年(昭和22)の「文藝春秋」9月号に、単発で描いたコラージュ表紙画『読書』。
◆写真中上は、1950年(昭和25)の同誌6月号の数寄屋橋界隈を描いたとみられる『街』。中上は、1948年(昭和23)の3月号の『馬』。中下は、1948年(昭和23)の10月号の『腰かけた女』。は、1936年(昭和11)に下落合のアトリエで制作する安井曾太郎。
◆写真中下は、1951年(昭和26)の「文藝春秋」9月号に掲載された下落合でのスケッチをもとにした『浴後』。中上は、1952年(昭和27)の5月号で照明が落ちた歌舞伎座の観客席を描いた『劇場にて』。中下は、1953年(昭和28)の2月号に湯河原へ向かう『湘南電車にて』。は、1954年(昭和29)の4月号に下落合の自邸で演奏する孫娘を描いた『ピアノ』。
◆写真下は、1954年(昭和29)の「文藝春秋」3月号で下落合で飼っている愛犬を描いた『犬』。中上は、1954年(昭和29)の12月号で湯河原町宮上586番地に新築した自邸兼アトリエからの眺めを描いた『海の見える風景』。中下は、新築の自邸書斎から窓外を眺める最晩年の安井曾太郎で窓外の建物は茶室。下左は、初めて1年間の表紙画を手がけた1931年(昭和6)の「婦人之友」2月号。下右は、1953年(昭和28)の「文藝春秋」4月号で表紙画のタイトルは『窓外春光』。
おまけ
 1935年(昭和10)ごろ撮影の、近衛町(下落合)のアトリエに置かれた安井曾太郎のモチーフ類。
モチーフいろいろ1935年頃.jpg

人文地理学にみる東京市街と郊外の境界。

長崎村大和田(大正初期).jpg
 冒頭の写真は、清戸道(現・目白通り)の北側にあたる長崎村へと入り、小学校の隣りにある長崎村役場(長崎町西向2883番地)へと向かう道筋を改修中の様子を、大正初期(1918年以前)に撮影したものだ。撮影したのは、付近を研究観察する人文地理学者の小田内通敏だった。
 写真は、田畑のなかを通う道筋に多摩川の砂利をまいて人力で固めているところだが、画面の中央を右から左へ横切っているのは、荷役用だった軽便鉄道時代の武蔵野鉄道(現・西武池袋線)で、線路向こうの右手に見える大きめな建物は、大正初期の長崎尋常小学校(のち長崎第一尋常小学校)の校舎だと思われる。武蔵野鉄道をわたり、カーブがつづく道をそのまま北東へ向かうと、左手に長崎尋常小と長崎村役場が建っている。当時は耕地整理の前なので、江戸期からつづく街道筋や農道がほぼそのまま残っていた時代だ。
 撮影されている道路は、耕地整理後に碁盤の目のような道筋へと変えられているので、現在では消滅して存在しない。当時の住所や番地でいうなら、長崎村大和田2108~2117番地(現・南長崎2丁目)界隈ということになる。あと数年もすれば、このあたりに足立慶造が安達牧場を開業し、牛込区と小石川区などの住宅街を中心にキングミルクを供給しはじめている。
 明治末から大正初期のころ、学術分野では人文地理学というのが隆興していた。それは、全国各地に都市が形成され、人口の増加とともに都市が郊外へと拡大しはじめていた時期とシンクロしている。人文地理学のなかでも、街の拡がりや物流・流通、新たなコミュニティの形成など、都市地理学や経済地理学、社会地理学の分野が脚光を浴びていたようだ。特に経済地理学などでは、交通・物流などのテーマが色濃くなるので、陸軍との結びつきも生じている。
 長崎村の冒頭写真は、1918年(大正7)に大倉研究所から出版された小田内通敏『帝都と近郊』に収録の1葉だが、ほかにも大正初期に撮影されたとみられる写真やスケッチが数多く掲載されている。当時、人文地理学者である小田内通敏は、牛込区喜久井町36番地(現在も地名・番地変更なし)に住み、カメラ片手に東京の西郊各地を歩きまわって撮影していた。これまで、東京西郊にみられた明治末から大正初期にかけての風景は、織田一磨三宅克己などの画面を通じてご紹介してきたが、当時の写真はめずらしくて貴重だ。以前、東京郊外ばかりを写した『武蔵野風物写真集』をご紹介したが、同写真集は昭和初期のものだ。
 小田内通敏が、自宅付近(牛込区+戸塚村)を観察した著作に、1914年(大正3)に地人学舎から出版された共著『都市と村落』がある。同書の論文『郊外戸塚村の変遷』のなかで、彼は自身の研究する人文地理学のメインテーマについて書いているので、少しだけ引用してみよう。
  ▼
 是(これ)年々かゝる郊外の町村に移住する東京人が、移住すると共に其処を東京化するばかりか地主や屋主(ママ:家主)も其処を東京化して移住者を吸集(ママ:吸収)するやうにするからで、郊外の農村はかくして漸次都会化するのである。郊外の都会化の研究は都市対村落の経済問題としても重要な題目であるのみならず、人文地理学の新思潮と称せらるゝ聚落研究の方面からしても最も肝要な問題である。(カッコ内引用者註)
  
 いわゆる伝統的な町と農村の境界は、従来はハッキリと区分けされていたにもかかわらず、都市化が進んだ町と村落の場合は境界が曖昧化し、しかもそれが徐々に郊外へと拡がりつづけていくところで、従来の町と村落との関係概念が通用しなくなっていくというのが小田内の研究におけるメインテーマだった。それは地理的な要因なのか、経済的な理由からか、それとも政治的あるいは文化的な要因なのかを探るのが人文地理学の課題ということになる。
 小田内通敏は、のちの1927年(昭和2)に大久保町西大久保459番地(現・新宿区歌舞伎町2丁目)へと転居しているが、大久保町も市街地(四谷区・牛込区)と郊外の境界線上にある地域なので、先の戸塚村と同様に自身の研究観察や、調査取材にはもってこいの場所だったのだろう。
1万分の1地形図1918.jpg
下落合斜面スケッチ1918.jpg
小田内通敏「帝都と近郊」1918.jpg 小田内通敏.jpeg
 では、豊富な写真入りの小田内通敏『帝都と近郊』より、落合地域に関する記述について順次見ていこう。旧・神田上水(1966年より神田川)に沿った村落を扱うなかでは、やはり明治期から華族の別荘地として拓けていた落合村下落合(現・中落合/中井含む)が取りあげられている。著者は、水源地(井ノ頭池)近くの上流から下流へとたどりながら、周辺の地形や村落を観察している。旧・神田上水の北側に連なる、急峻な目白崖線の地形に触れたうえで、次のように記述している。
  
 野方村より落合村に入るに従ひ両岸大地の高度及傾斜著しく増し、殊に南面せる左岸落合村大字下落合に於ては、水田より高さ十米(m)内外を示し、且其位置南面するを以て近年好住宅地区となり、近衛公・相馬伯(ママ:子)・大島大将(子)等の邸宅を見るに至る。(カッコ内引用者註)
  
 また、下落合村では畔隙(畦畔と同意)が残る田畑について詳細に観察している。畔隙とは、住宅の屋敷林や森林と田畑の境目、あるいは道路沿いの並木と田畑の境目などに設けられた土手や隙間地のことだ。屋敷林や森の場合は、田畑がその日陰になってしまうため、耕作しても収穫率が低いのであえて余地(畔隙)を残しておく。また、道路における並木と田畑の境目は、並木の根が田畑へ張りだしたり日陰になったりしないように設けられていた。
 だが、郊外の宅地化が進み森林が伐採されたり、幅員の拡張で道路沿いの並木が伐られたりすると、田畑と森林や道路を隔てる畔隙の意味がなくなり、従来は耕作しなかった畔隙の位置まで、田畑を隅々に拡げる事例が多かったようだ。同書より、つづけて引用してみよう。
  
 下落合村の椎名町より長崎村役場に赴く途中、東側の農家の屋敷林の樹影が西側の畑地にまで及ぼし、為に畔隙を耕地に変じても何等の效なき所に於ては、今日なほ其遺物を見るを得れども、然らざる所にては殆んど道路沿の並木を伐採して畔隙を耕地に変ぜし所多し。
  
 大正初期の清戸道(およそ現・目白通り)沿いの街は、南側は「下落合の椎名町」と呼ばれ、北側は「長崎の椎名町」と江戸期から変わらない呼称が用いられていた様子がうかがえる。このとき、旧・神田上水沿いをたどってきた小田内通敏は、急傾斜の西坂あたりから崖線を上り、徳川義恕邸を右手に見ながら、長崎尋常小学校の東隣りにある長崎村役場をめざしたものだろうか。
低地水田斜面畑地.jpg
旧神田上水流域.jpg
中野駅周辺耕地整理.jpg
 その昔、拙サイトで興信所が調べた地価の記事を載せたことがあったけれど、やはり時代ごとの地価動向は都市と郊外の境目を反映する、象徴的な数値として同書でも取りあげられている。
  
 試に落合村の三大字各所(上落合・下落合・葛ヶ谷の3地域)に就きて詳に土地の価格を見るに、下落合の院電山手線目白駅附近は地価最も高く、村内の西端に位する葛ヶ谷に至れば最も低し。左表(略)中注目すべきは、畑地と山林との価格の差少なきのみならず、畑地の価格が宅地と同格の所少なからざる事にて、是住宅地区として価格を示すものなり。(カッコ内引用者註)
  
 近衛町目白文化村アビラ村(芸術村)もいまだ影もかたちもない、華族の邸宅や別荘、農家、商店などが建ち並んでいた落合村だが、すでに山手線の目白駅周辺の地価が山林や農地、宅地など地目の種類を問わず、ほとんど同じような価格だったことがわかる。すなわち、小田内通敏のいう「都市化」「東京化」の波が、大正初期にはすでに落合地域へと押し寄せてきており、宅地化を前提に土地の価格が決定されていた様子が見てとれる。
 また、都市化=新たな住宅地化に関連し、地層・地質との関連にも触れている。川沿いというと、一見、湿地や水田、溜池などが多く宅地には適さないように思われるが、現場の地質によっては水はけがよいため、かえって水田よりも畑地へ、畑地から住宅地への転換が容易な土地があるという。小田内通敏は、妙正寺川沿いの地質を例に、宅地への転換が容易なことにも触れている。
  
 野方村の東部より落合村にかけての妙正寺川沿の如く、底に砂利層が近く横はれる関係上、排水宜しく 為に麦・馬鈴薯等の二毛作をなすに適し、従つて(水田を)干して畑となし、更に住宅地となすにも容易なり。中野町桐ケ谷附近の田畑も底に砂利層が近く横はれるが故に排水宜しく、為に其処の畑に栽培せる梨は風味宜しといへり。(カッコ内引用者註)
  
 文中の「中野町桐ケ谷附近」とは、妙正寺川ではなく旧・神田上水沿いの流域で、現在の中央線・東中野駅の南側、神田川沿いにあたる中野区東中野1丁目あたりの地域を指している。
代々幡町中西邸(あめりか屋).jpg
高田馬場駅東側1914.jpg
神高橋1936.jpg
 人文地理学の経済や社会の分野ばかりでなく、別の角度からも観察することができる。たとえば、上記の住宅に適した土地については、人文地理学のなかでも歴史地理学でおもしろい傾向が表面化しそうだ。たとえば、古代の遺跡が多く発見された地域や、埋蔵文化財包蔵地に指定されている土地は、現在でも「住宅地となすにも容易」で「好住宅地区」である可能性が高い。地理学や地質学など存在しなかった古代~近世以前の人々は、経験則とその伝承によって住まいや集落(中世以降は「本村」と呼ばれた字名の土地)など、暮らしの好適地を見きわめていたにちがいない。

◆写真上:大正初期に撮影された、多摩川の砂利で道路を改修する長崎村大和田の風景。
◆写真中上は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる撮影場所。は、小田内通敏がスケッチした『帝都と近郊』収録の下落合風景。どこの情景かは特定できないが、南向きの斜面は野菜畑で、谷底の湿地帯には植木園が拡がっている。は、1918年(大正7)に出版された小田内通敏『帝都と近郊』(1974年の有峰書店版/)と著者()。
◆写真中下は、同書収録の斜面が畑地で低地が水田の典型風景。は、旧・神田上水沿いの湿地帯風景。は、中野駅南側で耕地整理が終わった造成地。
◆写真下は、同書収録の代々幡町にあめりか屋が建設した西洋館・中西邸。は、1914年(大正3)発表の小田内通敏の論文『郊外戸塚村の変遷』に掲載された高田馬場駅周辺の戸塚村風景。手前に1両編成の山手線が見え、東向きに撮影しているので戸塚村諏訪あたりの景色だろうか。は、著作とは関係ない1936年(昭和11)に撮影された高田馬場駅の北側に架かる神高橋。旧・神田上水をわたる手前の鉄橋が西武線で、その向こうに見えるガードが山手線。
おまけ1
 昭和初期(1931年以前)に陸軍航空隊によって撮影された大磯。1931年(昭和6)出版の小田内通敏『日本・風土と生活形態』(鉄塔書院)に「保養別荘地」の典型例として掲載されたもので、左端に大磯駅の跨線橋が見えている。大磯港はいまだ建設されておらず、眼下には千畳敷山(のちに湘南平)へと向かう山道までが精細にとらえられ、現存する明治・大正・昭和初期の建築群がいくつも確認できる。「故郷以外に住みたい街は?」と訊かれたら、わたしはまちがいなくもの心つくころから馴染みのこの街だ。東海道では日本橋から8つめの宿場町で、明治以降は松本順がスポットを当てたのだが、下落合と同様に旧石器時代から現代まで、途切れることなく人が住みつづけた、特に古墳だらけで鎌倉期の遺構も多い落ち着きのある街並みはいまも変わらない。
保養別荘地大磯1931陸軍航空隊.jpg
おまけ2
 陸軍参謀本部は、大正時代から日本各地の空中写真を撮影しており、その成果をまとめた資料類もいくつか刊行されている。写真は、1940年(昭和15)ごろに撮影された、空中写真用カメラを搭載した九九式軍偵察機と、より大型の偵察機から空中写真を撮影する搭乗員。
九九式軍偵察機.jpg
陸軍空中写真カメラ1942.jpg

雑誌「若い広場」で“天才”を定義する小堀杏奴。

佐伯アトリエ洋間窓.JPG
 森鴎外の次女である小堀杏奴は、拙記事につごう三度ほど登場している。中でも、ヴァイオリニストの林龍作川瀬もと子とパリでいっしょだった佐伯祐三佐伯米子について、のちに結婚するふたりからさまざまなエピソードを聞かされている。
 佐伯祐三の作品にも数多く接していたようで、彼のことを日本でもっとも好きな画家だと書いている。また、夫人の佐伯米子については、容赦のない辛辣な批判を何度か文章にしている。けれども、小堀杏奴は佐伯祐三・米子夫妻には一度も会ったことがなく、すべては林龍作や川瀬もと子からの伝聞をもとに記述しており、特に佐伯米子についての嫌悪感を漂わせた批判は、きちんと本人に会って“ウラ取り”の確認をしたほうがいいのでは?……と危惧するほどだ。小堀杏奴の米子批判は、そもそも川瀬もと子の嫌悪感に影響されたものだろう。
 パリでのそんな様子を、少しだけ書いたのが以前の拙記事だが、1980年(昭和55)に求龍堂から出版された小堀杏奴『追憶から追憶へ』より、佐伯祐三についてもう少し引用してみよう。
  
 変な例かも知れないが、亡くなつた佐伯祐三氏などは天才と呼ばれるタイプの一人で、伝統とかかはりなく、それこそ湯川(秀樹)氏式表現を用ふれば、パッと己証してしまつたやうなところがある。かうした型の人は殆んどの場合若くして死ぬが、少くとも巴里を描かせたら佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感があり、やはり私の大好きな画家の一人である。かうした種類の問題になると、私たち夫婦は夢中になり、楽しい議論をはじめ、二人共留まるところを知らないのである。(カッコ内引用者註)
  
 ご存じの方は多いだろうが、小堀杏奴の夫は洋画家の小堀四郎だ。
 『追憶から追憶へ』では、もう佐伯祐三に対する最上級の誉め言葉が並んでいる。彼女が好きな天才的芸術家は、音楽家では林龍作、小説家では太宰治、そして洋画家では佐伯祐三の3人だと断言してはばからない。もっともパリ風景はともかく、わたしは落合地域の風景をタブローに仕上げた画家たちは、過去にあまた存在し少しずつ紹介してきているけれど、よりによって開発中・工事中のキタナイ場所ばかりを選んで描いた連作「下落合風景」については、「佐伯祐三の前に佐伯祐三無く、佐伯祐三の後に佐伯祐三無しの感」を強くしている。
 小堀杏奴がつかう「天才」という言葉の定義は、たとえば芸術分野でいうと、いくら幼いころからカネをふんだんに注ぎこんで勉強やレッスンに通わせても、才能がなければそこそこのレベルで止まってしまい、“努力の人”とは呼べるだろうが天才ではない。物質(カネ)がいくら豊かでも、天才は人工的・後天的につくることができない人間であり能力のことだ……ということになる。この定義は、若い人たち向けに書いた彼女のエッセイ『才能と物質』に登場している。ちなみに、クラシックの作曲家ではモーツァルトとシューベルト、それにショパンが「天才」で、ベートーヴェンは「努力家」の匂いがするとして、彼女は「天才」には含めていない。
 『才能と物質』をはじめ、小堀杏奴のエッセイが掲載されていたのは、1957年(昭和32)7月の創刊号から1969年(昭和44)12月まで刊行された若い広場社による月刊「若い広場」だ。「若い広場」といってもNHKの教育番組とはまったく関係なく、同誌を刊行した若い広場社は目白台にあった。1961年(昭和36)刊行の「若い広場」12月号より、小堀杏奴のエッセイから引用してみよう。
小堀杏奴.jpg
若い広場195707.jpg 若い広場196901.jpg
若い広場196807目次.jpg
  
 (天才とは)われわれのような平凡な人間と違い天賦の才能を誇らず、絶えざる忍耐とも勇気を以って永い年月勉強した後、やっとめざましい芸術の華を咲かせることができるのである。与えられた才能がなければ、人工的にどんなに力を尽しても及び難いというところに私はなんともいえぬおもしろみを感じるし、そうして多くの天才たちは、そのほとんどが世間から認められず、不遇のうちに世を去って行ったのだが、世間的な眼から見ると、恵まれず不幸にさえ見えるそれ等の人々もおそらく自分自身非常に幸せを感じていたに相違ない。なぜならば、彼等は、天から特別な恵みを受けていることをはっきり自覚していたからである。この自覚がなければ貧しさや、人々の侮蔑の眼を耐えることができなかったであろう。(カッコ内引用者註)
  
 ちょっと横道にそれるけれど、小堀杏奴が2ページほどの短めなエッセイを連載し、読者の若い子たちが応募してくる創作文の選定・評価をしていた「若い広場」という雑誌が、少なからずおもしろい。若い広場社の本社と編集部は、創刊時は音羽通りに面した文京区音羽7丁目(現・関口3丁目)にあったが、つづいて目白台3丁目5番地16号(現行住所)、ちょうど桂林寺境内の西側に接した住宅街のなかに移転している。
 「若い広場」は、現代的な表現をすれば若い子たちの表現作品(文章・イラスト・写真など)の発表の場である同人誌的な存在であり、政治経済から芸術までを解説するジャーナル誌でもあり、コンサートや映画・芝居などのスケジュールを紹介する昔日の「ピア」のようなイベント情報誌であり、連載小説が掲載された文芸誌のようでもあり、悩みごとをぶつける人生相談誌であり、男女が知りあう出会い系雑誌(文通)のようでもあり、アルバイトやリクルートの情報誌でもあるという、若い子たちが興味を惹かれそうなテーマ満載の総合誌となっている。
 また、「若い広場の唄」(作詞・丸山すみを/作曲・萩原哲晶)をつくって読者に唄わせていたようだ。その歌詞をはじめ誌面を読むと、1960年代の吉永小百合や和泉雅子の青春映画(わたしはリアルタイムでは知らない)をイメージするような内容で、「明るく伸びやかで健気でひたむき」な青春群像をイメージして編集方針が練られていたように感じる。だが、「若い広場」が刊行された1950年代末から60年代末にかけては、国会前各大学の“広場”が抗議やシュプレヒコールをあげる、反戦・反安保の若者たちで埋めつくされた時代と重なり、「若い広場」は漸次発行部数を減らしていったのではないか。廃刊が1969年(昭和44)というのも、どこか象徴的なような気がするのだ。
森鴎外邸池之端1.jpg
森鴎外邸池之端2.jpg
森鴎外邸池之端3.JPG
 さて、小堀杏奴にもどろう。彼女はキリスト教のカトリック教徒だったが、「龍兄」と慕う林龍作といっしょに目白界隈で受洗している。小堀杏奴の代母は、もともとカトリック教徒だった林龍作の妻・川瀬もと子だった。ちなみに、ヴァイオリニストの林龍作は閉店してしまった池袋芳林堂や、高田馬場駅前などで営業をつづける芳林堂書店の息子だ。佐伯祐三や里見勝蔵小泉清西村叡らが結成した「池袋シンフォニー」は、池袋にあった里見の借家が練習場に使われたのだが、近くにはパリでいっしょになる林龍作も住んでいたことになる。
 受洗の帰り道、小堀杏奴・小堀四郎夫妻は、林龍作・川瀬もと子夫妻と「夕暮の混雑を極めた目白駅」から山手線に乗るが、このあたりの記憶をたどっているうちに、下落合に住んでいた佐伯祐三を思いだしたようだ。エッセイ『追憶から追憶へ』より、つづけて引用してみよう。
  
 書き忘れたが下落合の佐伯の家は、何時の頃か新聞にも出てゐたやうだが、あの家は一回目の(滞仏からの)帰国の時、二科賞を得て金銭的にも恵まれた頃建てたもので、一番最初の頃の家は、佐伯自身手作りの家ださうである。さう言へば彼は器用貧乏などとも言ふが、カンヴァスなども手製のものと聞いたことがあるし、この最初の家は、(川瀬)もと子さんの記憶では、たしか下落合六百番地であつたと言ふ。/自分で壁塗りから、何から何迄やつたもので、庭と言つても、なんでもない原つぱみたいなものの真中に、池とも言へぬ水たまりがあるかと思ふと、竜舌蘭などが植わつてゐたり、なんとなく、異国的な風情があつた。(カッコ内引用者註)
  
 小堀杏奴は、一度も佐伯祐三アトリエを訪れたことがないはずで、やはりちゃんと“ウラ取り”取材や資料を参照し、確認してから書くべきだったろう。
 佐伯アトリエは1921年(大正10)の夏以降、第1次渡仏前に建てられたもので、なんらかのつながりで知りあった大磯の大工が母家およびアトリエを建設し、佐伯は母家から廊下つづきの洋間のみを、自身で「手作り」している。この家は、「最初の家」ではなく下落合では仮住まいを除くと最後の家となり、住所も下落合600番地ではなく661番地(の2)だ。
 佐伯祐三が、二度と下落合へもどることがなかった第2次渡仏時に、佐伯夫妻から留守番を依頼され、佐伯アトリエを一家で借りうけていた鈴木誠だが、1928年(昭和3)制作の作品に『初秋の庭』(『初夏の庭』とする資料もあり)というのがある。画面には、庭に植えられたリュウゼツランが2株ほど描かれている。ひょっとすると、手前が当時の佐伯アトリエの庭先で、庭師の手入れがゆきとどいた植木の見える奥の庭と建物が酒井億尋の家だろうか。いずれの敷地も、近接する農家だった山上喜太郎(下落合655番地)の所有地で、少し前まで地目は「畑地」だった。
小堀四郎「妻の像」1949.jpg
佐伯アトリエ洋間.jpg
鈴木誠「初秋の庭」1928.jpg
 小堀杏奴よりも、わたしには森鴎外の長女・森茉莉のほうが、どこかトボケていて人間的におもしろい女性のように映る。東北帝大教授の佐藤彰と結婚して仙台に住むが、「ここには銀座や三越(日本橋)がない」からつまんないとこぼし、夫に「実家に帰って芝居でも観ておいで」といわれたので東京にもどったら、追いかけて離縁状がとどいたというような、どこか大ボケかましのような雰囲気が漂う女性だ。旧・山手の“お嬢様”を地でいっていたのが、森茉莉だったように思う。

◆写真上:佐伯アトリエの西側に付属する、佐伯祐三が「手作り」した洋間の窓。
◆写真中上は、若き日の小堀杏奴。は、小堀杏奴が若者向けにエッセイを連載していた総合雑誌「若い広場」(若い広場社)で、1957年(昭和32)7月号()と1969年(昭和44)1月号()。は、廃刊前年の1968年(昭和43)に刊行された「若い広場」7月号の目次。
◆写真中下:上野池之端に現存する、1890年(明治23)の『舞姫』が執筆された森鴎外邸
◆写真下は、1949年(昭和24)制作の小堀四郎『妻の像』。は、佐伯自身が漆喰塗りまでした洋間。は、1928年(昭和3)に制作された佐伯アトリエで留守番中の鈴木誠『初秋の庭』。
おまけ1
 1955年(昭和30)に大川(隅田川)の川開き、両国花火大会を描いた小堀四郎『花火』。画面を横切るのは両国橋で、消防署による尺玉規制がなかったせいか巨大な花火が開花している。
小堀四郎「花火」1955.jpg
おまけ2
 根津権現に移築される前、池之端水月ホテルで保存されていた時代の鴎外荘。(コメント参照)
鴎外荘01.JPG
鴎外荘02.JPG
鴎外荘03.JPG
鴎外荘04.JPG
鴎外荘05.JPG
鴎外荘06.JPG
鴎外荘07.JPG
鴎外荘08.JPG
鴎外荘09.JPG
鴎外荘10.JPG

落合地域の高名な日本画家アトリエ1940年。

高木保之助アトリエ跡.jpg
 戦前、おそらく画商や骨董商向けに出版されていたとみられる、美術倶楽部出版部が刊行していた清水澄・編『現代畫家番附/標準價格付(ママ)』というのがある。この冊子は、ある程度の価格以上で売れる、つまり利益が上がって商売になる現役の日本画家を中心とした名簿なのだが、おおよその市場取引価格(おもに軸画が中心)まで掲載されている。また、基本的に自身の邸宅+アトリエをかまえている中堅以上の日本画家、ある程度名前が知られて受賞実績の多い人物や、院展・帝展などの常連画家のみが掲載されているようだ。
 そこで、面白いことを思いついた。同書を使えば、たとえば1940年(昭和15)の時点で、落合地域には高名な日本画家、すなわち画商がその作品価格から進んで扱いたがる日本画家が何人住んでいたのかを、定点で規定することができるのだ。ただし、駆けだしの日本画家や受賞歴の少ない画家、借家住まいで自身のアトリエをもたない画家などは含まれず、また住みこみや周囲に住んでいたとみられる弟子筋も掲載されていない。あくまでも、大手美術展の常連で入選を繰り返すような画家が、どれぐらいの密度で住んでいたかを知ることができる。
 わたしは、明治末から現代にいたるまで、落合地域には1,000人を超える美術関係者が住んでいたと想定している。この中には、友人の家に寄宿・居候しつづけた画家たち(彫刻家や工芸家たちを含む)や、ほんの短い期間だけ住み、ほどなく引っ越していった画家たち、あるいは師と仰ぐ画家のアトリエ近くに住み、その死去後あるいは転居後に落合地域を離れた画家たちなど、すべてを含めた落合地域における美術関係者たちの想定人数だ。
 裏返せば、そのような一時滞在や短期滞在、当時はそれほど高名ではなかった画家たちを除き、1940年(昭和15)の時点でどのような日本画家たちが落合地域にアトリエをかまえていたのか、これまではさんざん洋画家にスポットをあててご紹介してきたので、今回は日本画家のみに絞って、そのアトリエとともにご紹介してみたい。参照するのは、1940年(昭和15)に刊行された『現代畫家番附/標準價格付』で、当時の高名な日本画家が全国レベルで網羅されている。
 同書をめくると、まずは当時から有名な日本画家の落款や、軸画などに記される署名が数多く掲載されており、画商や骨董商が贋作を見分けやすいような工夫がなされている。以下、1940年(昭和15)の時点で下落合に住み、アトリエをかまえていた有名な日本画家の密度を見てみよう。
■下落合.jpg
 この中で、浅田知定邸跡の一画にアトリエをかまえた上原桃畝や、目白文化村のアトリエをご紹介していた渡辺玉花、下落合のあちこちに画家たちのアトリエを設計していたとみられる夏目利政(寸土)、その多彩な仕事をご紹介している岡不崩岡不崩とともに狩野芳崖四天王のひとり本多天城のアトリエなどは、すでに拙サイトでも記事にしている。
 まず、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)に収録の、下落合1丁目404番地(近衛町41号)に大正期からアトリエを建てていた高木保之助について引用してみよう。
  
 邦画家 高木保之助  下落合四〇四
 東京府人高木利八氏の二男にして明治二十四年七月本郷区に於て生る 大正八年東京美術学校を卒業し常夏荘に入り新興大和絵画を興す 傍ら東臺邦画会々員として今日に至る 帝展入選の主なるものに(伊豆の春)(奔端) 特選に(はまなすの浜)等あり。夫人田鶴子は熊本県人石橋正人氏の長女にして双葉高女の出身。
  
 「常夏荘」とは、松岡映丘が自邸で主宰していた“新大和絵”をめざす日本画塾のことだ。なお、下落合では中村彝アトリエの西隣りに、松岡映丘がアトリエを建てて転居してくるというウワサが立っていたことを、曾宮一念のスケッチにからめてご紹介している。
高木保之助アトリエ1926.jpg
現代画家番付1940.jpg 落款・篆刻・署名.jpg
渡邊玉花アトリエ跡.JPG
 日本画家たちがかまえていたアトリエの住所を見ると、下落合4丁目(現・中落合3丁目/中井2丁目)が多いことに気づかれるだろう。中には、目白文化村の大澤恒躬や渡辺玉花、落合府営住宅や隣接地に住んだ小林三季や川原洽たちもいるが、多くはさらにその西側、当初は東京土地住宅の常務取締役・三宅勘一が企画し、のちに島津源吉らが開発を引き継いだとみられるアビラ村(芸術村)のエリアに、数多く日本画家たちが住んでいた様子が見てとれる。特に、五ノ坂の西は日本画家のアトリエ村のような雰囲気で、下落合2130番地に住んだ五ノ坂の中ほど大泉黒石邸の北西側に近接し、下落合4丁目2133番地に住んだ林芙美子・手塚緑敏邸の北側に位置していた、山田義雄という日本画家の存在が目をひく。
 六ノ坂から八ノ坂沿いにも、日本画家たちはアトリエをかまえているが、槙野比佐緒の「下落合2524番地」は明らかにおかしい。下落合の番地は2300番台が最大で、この番地は自性院の西側にあった下落合の飛び地にふられていた。おそらく番地の誤記だと思われるが、「2524番地」を「2丁目524番地」と読み替えても、このような住所は存在しない。下落合524番地は、下落合1丁目に相当する番地だ。また、槙野呉喬と槙野比佐緒は夫婦ないしは肉親だろうか? ふたりとも住所を明かせない、なんらかの事情があったのかもしれない。
 1940年(昭和15)の時点のみに限ると、下落合には21人の日本画家が住んでいたことになる。ただし、これらは名の知られた画商が積極的に扱いたい画家たちであって、日本画家をめざしている駆けだしの画家たちや、画家の家に寄宿していたとみられる弟子たち、画家歴は長いがあまり知られていない画家たちは、当然ながらリストには含まれていない。『現代畫家番附/標準價格付』は、あくまでも画商が喜んで市場に持ちこめる日本画家が中心であり、下落合に住んでいた日本画家の実数(1940年時点)は、おそらく21人よりは多いだろう。
 つづいて、1940年(昭和15)現在で上落合に住んでいた、高名な日本画家を列挙してみよう。
■上落合.jpg
 この中で、卓越した写生で現代でも通用する『鳥類写生図譜』を描きつづけてきた、小泉勝爾と土岡春郊はすでに拙サイトでご紹介している。
大澤恒躬邸1938.jpg
大澤恒躬邸跡.jpg
山田義雄アトリエ1938.jpg
山田義雄アトリエ跡.jpg
 気になるのは、400番地台の住所が多いことだ。上落合の光徳寺を中心に、その周辺へ日本画家たちが集まっていた様子が見てとれる。上記の小泉勝爾と土岡春郊は親しく、同一の目的で仕事をしていたので近所同士なのは当然としても、ほかのふたり、蓮尾辰雄や佐藤光堂とも親しかったか、あるいはなんらかの交流があったのではないか。また、片岡京二と古川北華の600番地台は、南側を早稲田通りが貫通する上落合の西端区画で、松井医院やアパート静風園の西側に近接した位置なので、こちらもなんらかのつながりを感じる。
 下落合に展開した日本画家のアトリエは、1丁目から4丁目まで比較的まんべんなく散在していたのに対し、上落合のアトリエは400番地台と600番地台に限られて集中しており、画家仲間が寄り集まって、または寄り添って住んでいたような印象を受ける。1940年(昭和15)の時点で、上落合に住み制作していた当時の有名画家は6人だった。
 東京美術学校や画家の団体・グループなどで、同級生や先輩・後輩が住んでいる地域へ画家たちが集合しがちになるのは、日本画も洋画も問わず共通して起きる現象だ。しかも、日本画家の場合は洋画界とは異なり、師弟関係という江戸期からつづく厳然とした“身分”関係が存在しており、そのような現象が起きやすかったのかもしれない。換言すれば、これら名の知られた日本画家の周囲には、弟子筋や後輩たちが集合して住んでいた可能性もありそうだ。
 つづいて、同年現在で西落合(旧・葛ヶ谷)に住んでいた高名な日本画家たちを列挙してみよう。
■西落合.jpg
 この中で面白いのは、小林観爾と山口勝弘(現代美術の前衛作家とは別人)が同一の住所に住んでいたという点だ。西落合1丁目129番地という敷地は、旧・葛ヶ谷の妙見山と呼ばれていた南側の急斜面の中途にあたり、その南隣りには夫から結婚前に「東京からきたって顔は絶対しないで」といわれてしまった、乃手(山手)の麹町区三番町が出身の貫井冨美子(西落合1丁目132番地)が住む貫井邸(新邸で米国帰りの夫が建てたおそらく西洋館)が建っていた。
 1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、採取されている家主名、つまり門の表札は「小林」となっているので、小林観爾のアトリエに山口勝弘がいっしょに住んで制作していたか、あるいは「火保図」には住民名が記載されていない、隣接する129番地のいずれかの住宅をアトリエにしていたかのどちらかなのだろう。
 いずれにしても、同じ番地に住む日本画家同士ということで、出身校が同じで同窓生か先輩・後輩、あるいは帝展仲間の親しい友人だった可能性がある。ちなみに、小林観爾は京都市立美術工芸学校の絵画科出身だった。1940年(昭和15)の時点で、西落合で仕事をしていた画商が注目する市場価値の高い日本画家は、計4人ということになるのだろう。
佐藤光堂アトリエ1938.jpg
佐藤光堂アトリエ跡.jpg
小林観爾アトリエ1938.jpg
小林観爾アトリエ跡.JPG
 こうして見てくると、1940年(昭和15)の時点でのみ調べてみても、世間に名の知られた日本画家で、落合地域にアトリエをかまえていた人物は合計31人ということになる。ただし、明治末から戦後にいたるまで『現代畫家番附/標準價格付』には掲載されない画家たち、すなわち同年の時点では市場価値がそれほど高くない画家や、すでに物故して市場における価格が流動せず固定化している画家を含めると、相当数の日本画家が落合地域で制作していた可能性を推測できる。それは、落合地域に住んでいた洋画家たちの、かつての密度や動向を見ても自明のことだろう。

◆写真上:下落合1丁目404号(近衛町41号)にあった、高木保之助のアトリエ跡。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる高木保之助アトリエ。中左は、1940年(昭和15)に刊行された清水澄・編『現代畫家番附/標準價格付』(美術倶楽部出版部)。中右は、日本画家の落款や篆刻、署名などを載せた同書グラビア。は、下落合4丁目1605番地(第一文化村)の渡辺玉花アトリエ。
◆写真中下は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる下落合3丁目1321番地(第一文化村)の大澤恒躬アトリエ。中上は、大澤恒躬邸アトリエ跡の現状(道路左手)。中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる下落合4丁目1233番地(アビラ村)の山田義雄アトリエ。は、路地の突きあたりの敷地に建っていた山田義雄アトリエ跡(正面奥)。
◆写真下は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる上落合1丁目481番地の佐藤光堂アトリエ。中上は、佐藤光堂アトリエ跡の現状(道路右手)。中下は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる西落合1丁目129番地の小林観爾アトリエ。は、小林観爾アトリエ跡の現状(道路左手)。

秋になればドングリだらけの下落合。

どんぐり+落ち葉.jpg
 この夏から、旧So-netブログ時代の古い記事(ssブログ時代のリンクは活きています)の本文中に設定していたリンクが、転送サービスを終了したのかリンク切れになっています。古い記事を参照される場合は、Seesaaブログ内へ新たに構築しているINDEXページをご利用ください。
INDEXページ.jpgClick!
 2004年(平成16)のスタート時より、別サイトに構築して設置していたINDEXページですが、分類は従来のかたちをそのまま踏襲していますので、以前からINDEXページを参照されていた方々は、検索フォームを利用するよりも当該記事を容易に見つけることができるかと思います。
  
 子どもが小さかったころ、よく下落合でドングリを集めては、楊枝でコマや人形を作っていたのを思いだす。ときに、集めたドングリの中に虫がいて家の中で騒ぎになったこともあるが、虫を殺すには煮沸するかフライパンで炒るのが手っとり早い。
 いまでもドングリは、秋になると下落合のあちこちに落ちているが、昔は現在とは比較にならないほど、大量のドングリが落ち葉に混じって落下していたのだろう。狭義で通称「ドングリ」というと、昔から一般的にクヌギやカシの木の実を指すことが多いようだが、ほかにもコナラやカシワ、ミズナラなどの樹木がある。また、カシにもアカガシ、アラカシ、シラカシ、ウラジロガシといろいろ種類があるので、その区別は葉っぱを確認しない限りむずかしい。
 子供のころ、なぜかシイやマテバシイの実はドングリとは呼ばず、「シイの実」と呼んでいたのを思いだす。おしなべて、細長い実がシイの実と呼ばれていたように思うが、マテバシイの実は細長いものの、ほんとうのシイの実はドングリと同じような形状をしているのでややこしい。また、ウラジロガシも細長くシイの実に似ているので、誤ってそう呼んでいたかもしれない。さらに、クリの実もドングリの仲間だというのを、子どもの植物図鑑から知った。
 子ども向けの図鑑には、ドングリについて次のように説明されている。保育社から出版されていた理科教育研究委員会・編『秋の野草(ポケット図鑑4)』より、少しだけ引用してみよう。
  
 ドングリのなかまドングリとは、クヌギの実だけをいったり、カシの実をいう地方もあります。カシのなかまは大きい木になり、木の質ががかたいので、有用木材となって利用します。葉の形がちがうので区別します。
  
 下落合には、さまざまな形状のドングリが落ちているが、その種類をいちいち調べたことはない。上階にいると、ときどき風の強い日など屋根の上に硬い小石のようなものがコツンと当たる音がするが、近くの雑木林から吹き飛ばされてきたドングリなのだろう。屋根職人に雨どいの掃除をしてもらうと、たまに枯れ葉に混じってドングリが見つかったり、ベランダや裏庭で朽ちはて変色したドングリを見かけるので、あのコツンというのはやはりその音なのだろう。
 子どものころ、ドングリを大量に集めて持ち帰り、母親に「食べられる?」と訊くと、「食べるとドモリ(吃音)になるからダメよ」といわれた。これは、ずいぶん昔からいわれていた迷信のようで、古い本を読んでいるとときどき出てくる話題だ。たとえば、1943年(昭和18)に青磁社から出版された礒萍水(いそひょうすい)『武蔵野風物志』収録の、「野人の暦(秋)」から引用してみよう。
ドングリ03.jpg
ドングリ.jpg
どんぐりころころ.jpg
  
 凱郎が縁側で、何か転がして遊んでゐる。(中略) 団栗だ。団栗を転がして遊んでゐたのだ。(中略) 「あら、それ団栗ぢやないの、凱郎ちやん、食べたら大変よ、吃音になるから」/「吃音」、不可解な顔をする。/「お口がきけなくなるの、お話ができなくなるの、ね、大変でせう。だから食べちや不可ませんよ、ね、きつと」/「これ食べない、その代わり、何か頂戴」
  
 礒萍水の孫に、娘の母親が注意している場面だが、戦時中のエッセイなのでそろそろ配給が乏しくなり、食糧事情に翳りが見えはじめていたころで、子どもが腹を空かしてドングリを口にするかもしれないと、母親も危惧するような時期の会話なのだろう。
 学校の音楽の時間に教わったのか、母親が教えてくれたのかは忘れたけれど、『どんぐりころころ』(作詞・青木存義/作曲・梁田貞)という大正時代の童謡があった。1921年(大正10)に発表されたそうだが、下落合では曾宮一念佐伯祐三アトリエを建てていたころのことで、そんな大昔の童謡だとは知らなかった。わたしが唄っていた歌詞は、「♪どんぐりコロコロ どんぐり子」だったが、子どもを育てているとき「♪どんぐりコロコロ ドンブリコ」と指摘されて恥ずかしかった憶えがある。「ドンブリコ」は、池に落ちたときの音なのだろう。
 この歌は“空耳”だらけで、そもそも池に落ちた音が「ポッチャン」だとばかり、わたしは当初から思いこんでいた。「♪ポッチャン いっしょに遊びましょう」というわけだが、これは早めに気がついて恥をかく前に「坊ちゃん」と唄うようになった。けれども、「ドンブリコ」にはいまも馴染めない。「どんぐり子」が池に落ちたので、ドジョウが「坊ちゃん」と呼びかけていると解釈したほうが、歌詞がスッキリと通るような気がするのだ。じゃあ、「どんぐり子」ってなに?……と問われると、「さあ?」としか答えられないが、熟す前の小さな青いドングリだろうか。
 食べものとしてのドングリは、日本の北から南まで別にめずらしくないテーマだ。ドングリを食べるというと縄文時代を想起しがちだけれど、近年、実は弥生遺跡からも大量に見つかっている。わたしの子ども時代、縄文時代は狩猟採集で弥生時代は稲作中心と教わったが、これがまったく通用しなくなっており、縄文時代の後期には稲作がすでにスタートしており、弥生時代の遺跡から大量の狩猟採集による痕跡が見つかることもめずらしくなくなっている。
 昔は、朝鮮半島から大量の渡来人とともに稲作が伝えられたと教わったけれど、北からの稲作ルートが確認されて以来、イネの伝播は縄文時代となった。「稲作」を主題に縄文・弥生の時代区分を規定しようとする歴史学者は、弥生時代をどんどん遡上させようとしている。また、弥生遺跡だからといって稲作中心ではなく、ドングリやクリ、クルミなどの果実を常食していた遺跡も数多い。逆に縄文土器が出土しているのに、稲作の痕跡が色濃い遺跡もある。
 静岡県や奈良県、大阪府、福岡県にある弥生時代の遺跡を研究し、ドングリやシイの実などを含む木の実がどのぐらいの割合で食べられていたのかを綿密に検討した、中山武吉の論文「古代食の知恵(1)」を、1995年(平成7)発行の「食生活研究」11月号より引用してみよう。
どんぐりと落ち葉2.jpg
どんぐりと落ち葉3.jpg
谷内六郎「どんぐりと山ねこ」1968大日本図書.jpg
  
 これを裏付けているのが最近の遺跡などからの発掘された木の実食の痕跡である。表-3(略)にも見られるように弥生土器文化時代の遺跡からも多くの炭化した木の実類が発掘されている。渡辺誠の調査によるとクルミの実が136遺跡、ドングリの実が65遺跡、クリの実が61遺跡、トチの実が29遺跡、カヤの実が10遺跡、ヤマモモの実が7遺跡、ツバキ・ヒシの実が4遺跡、イフガヤ・サンショの実が3遺跡から、他にブナやハスなど多くの種子が出土していて、こういった木の実が食用にされていたという証拠となると報告されている。
  
 著者は、これらの中部から西日本の地域で暮らしていた弥生人の、食生活の50%以上がイネではなく野山で採集した木の実だったと推論している。
 その昔、ドングリを食べてみるイベントなどには、「縄文人の食生活体験」などとタイトルされていたけれど、現代ではちょっと史的様相が異なってきている。でも、ドングリなどの木の実を食べるには、“あく”を抜く面倒な作業が不可欠となる。味覚にダメージを与えたり、健康を損なう可能性がある“あく”の除去は、古代人の食生活でも大きな課題だったはずで、食べたときのえぐい味や苦味、渋味をとる処理が不可欠だったろう。著者は、古代人は“あく”が健康を損なうことを経験則から知っており、“あく”抜きの方法を熟知していたと書いている。
 “あく”抜きは、たとえばドングリやカシの実は流水にしばらくさらすだけで除去できるが、ミズナラの実は湯に浸しておかなければ除去できず、トチの実の場合は湯に浸すとともに、灰汁を加えて除去しなければならない。古代人は、これらの方法を経験則から学んで知っており、木の実の種類に応じた“あく”抜きの処理を行っていたとしている。
 戦時中に書かれた礒萍水のエッセイ「野人の暦(秋)」より、再び引用してみよう。
  
 吾々人間は、まして平民は、これから以後、何を食べさせられるか知れない。いや食べさせられる物のある内はいいが、もし何かの都合で、大旱とか、大戦とかで、食べ物が行渡らない時がないとは云へない。その時になつて、金魚ぢやあるまいし、水ばかり飲んではゐられない。食べる物はないか、食べる物はないかと、木の皮を甜(ママ:舐)め、草の根を噛つて、白蟻や野鼠を呆れせるよりも、事前に其覚悟と研究とを用意しておきたい。何は食べられる、何は食べられない、何は奈何(ママ:如何)して食べれば咽喉に通る、何は如何すれば無毒になつて食用になる。
  
 これは、戦争末期に書かれた食糧難時代を予測するエッセイだが、事実、敗戦前後を通じて全国で膨大な餓死者が生じてしまう、わずか2年ほど前の文章だ。食糧の確保、すなわち草木でも食べられるものは研究してなんでも食べようというのは、戦争末期の国策でもあったので、ドングリに絡めたこのような情けない文章でも、特高の検閲をパスして出版できたのだろう。1944年(昭和19)11月から、実際に全国各地でドングリ採集がはじまり、500万石が国家目標とされた。敗戦前後の数年間、日本は縄文・弥生時代に(まことに情けないことに)回帰していたわけだ。
しだみ団子(ドングリ団子)岩手.jpg
多摩どんぐりパスタ&クッキー(多摩).jpg
どんぐりクッキー(千葉県).jpg
 礒萍水のエッセイは「戦争」が底流だが、これを「地球温暖化」といい換えるといまでもシリアスに通じるテーマといえるのではないか。急激な気象変動で、農作物の生育に多大な影響が出はじめているのは、日々の報道でも歴然としている。今年穫れた農作物が、来年も約束どおり収穫できるとは限らない。食糧自給率47%(農水省/2023年)の現在、食糧難は昔の話では終わらない課題を突きつけている。食べものに困ったら、また昔のようにドングリなど木の実を食べようとしても、植生自体が急変してしまうので、それらが実るのかどうかも不確実な時代を迎えている。

◆写真上:ドングリは、どこかユーモラスな響きがあるせいか、グループ・団体名にも採用されている。こちらでは、二瓶等の記事にからめ「団栗会」をご紹介していた。
◆写真中上は、まだ青い小さなドングリと落ちる寸前のドングリ。は、『どんぐりころころ』(作詞・青木存義/作曲・梁田貞)の楽譜と歌詞。
◆写真中下は、よく見かける落ち葉に混じるドングリ。は、1968年(昭和43)に谷口六郎が描いた宮沢賢治『どんぐりと山ねこ』(大日本図書/部分)。
◆写真下は、岩手県の土産品「しだみ団子(ドングリ団子)」。は、東京都の多摩地区で最近作られている「多摩どんぐりパスタ&クッキー」。は、千葉県の「どんぐりクッキー」。全国に似たようなドングリ食品や名産物があるが、高知県の郷土料理「どんぐり豆腐」がちょっと気になる。
おまけ
 9月も半ばになると、御留山には小さなクリほどもあるドングリがたくさん落ちてくる。ついでにヤマカガシも出没しているようで、相馬坂沿いには注意書きの看板が掲示された。ヤマカガシというと、うちの下の子が小学2年生のとき、成体になる前のやや小ぶりなヤマカガシを、湘南平(千畳敷山)で追いかけまわしていたのを思いだす。アオダイショウのように人馴れせず、たいへん臆病なヘビなので逃げ足(?)がことのほか速く、ふいを突いてよほど驚かさなければ噛まれることはないし、毒牙は口の奥にあるので深く噛まれなければ害がないため、子どもはそのまま遊ばせておいた。下落合に自然が残っている証拠なので、できればこのまま棲息しつづけてほしい。
御留山どんぐり.jpg
ヤマカガシ注意.jpg

佐伯祐三『洗濯物のある風景』と落合遺跡。

洗濯物1955(拡大).jpg
 1955年(昭和30)の3月、下落合4丁目(現・中落合4丁目/中井2丁目)の丘上にある目白学園とその周辺域で、かねてより発掘調査が行われていた「落合遺跡」のレポートが、新宿区より『落合/新宿区落合遺跡調査報告』として刊行された。
 落合遺跡は、旧石器時代から現代までとつづく重層遺跡で、特に群馬県の岩宿遺跡の発見からわずか5年後に、落合遺跡の関東ロームからも旧石器が次々と発掘され、旧石器人が東京の新宿にもいたと、当時のマスコミで大々的に報道されたことでも有名だった。落合遺跡は、自治体や早稲田大学による正式な発掘調査は戦後だが、戦前から同遺跡およびその周辺域から石器や土器片などさまざまな遺物が発見されていた。
 特に注目を集めたのは、1935年(昭和10)前後を通じて行われた妙正寺川の改修、すなわち蛇行する川筋を直線状に整流化し、洪水を防止する護岸工事が実施されたころからで、目白崖線の斜面にかかる工事現場から貝殻や土器片が多数発見されていた。したがって、下落合4丁目の斜面および丘上に遺跡が眠っていることは、地元の住民や淀橋区(現・新宿区の一部)では周知の事実だったのだ。戦後、初めて行われた発掘調査について、同報告書の序より引用してみよう。
  
 かつて、下落合を流れる妙正寺川の改修を行なつたときに、その川底から、数千年前のものと思われる貝殻や土器の破片が発見されたことがあつた。/それ以来、この附近が考古学的に一般人の関心をよんでいた。/たまたま、一昨年春からはじめた新宿区史の編集にあたつて、古代のわが区の文化態様を尋ねるとともに、区史の記述を実証ずける(ママ:づける)ため、昨夏この地すなわち下落合4丁目御霊神社ならびに、目白学園附近の高台に、トレンチの鍬を入れた。
  
 落合遺跡の発見が、『新宿区史』(1955年版)の編纂と連動して進められたことがわかる。また、戦前から「考古学的に一般人の関心」を集めていた様子も記録されている。
 これらの下落合における考古学ブーム(当時は旧石器・縄文時代を「原始時代」と呼んでいた)を踏まえ、大正末から昭和初期にかけて武蔵野文化協会のメンバーだった大里雄吉は、下落合の丘上で石器や土器の発掘調査をしていたのであり、また月見岡八幡社守谷源次郎は考古学者・鳥居龍蔵らを招聘し、発掘調査チームとともに旧石器や縄文・弥生とは時代が異なるが、おもに落合地域の南部で37基の古墳を確認・発掘調査しているのだろう。
 さらに、大正末より急速な宅地化が進んだ下落合では、遺物が出土する周辺の住民がそれらを“趣味”で発掘したり、自宅の建設や改修中に遺物を発見したりするケースが急増したものと思われる。わたしの手もとにある、古くからの住民よりお譲りいただいた旧・新石器や出雲の碧玉勾玉、いまだ湾曲した日本刀になる以前の古墳刀(直刀)などは、いずれも戦前の考古学ブームあるいは戦時中の改正道路(山手通り=環六)工事の際に発見された中井遺跡、さらには戦後の落合遺跡の発見とも連動して起きた考古学ブームの「成果」なのだろう。
 同報告書には、たいへん興味深い図版も収録されている。戦時の山手通り工事で発見されたが、非常時なので満足な調査や記録もなされなかったとみられる「中井遺跡」が、空中写真をベースに特定され赤丸囲みで規定されている。中井遺跡は、目白崖線につづく大規模なタタラ製鉄遺跡だったとみられ、大量の金糞・鐵液(かなぐそ:スラグ)が出土したと伝えられるが、太平洋戦争が間近な社会状況だったせいか、満足な調査もなされないまま山手通りの工事で消滅してしまった。
下落合の一角1955.jpg
妙正寺川1955.jpg
中井遺跡と落合遺跡1955.jpg
新宿区落合遺跡報告「落合」1955.jpg 制作メモ1926.jpg
 中井遺跡は、矢田坂と一ノ坂にはさまれた目白崖線の斜面、下落合(4丁目)1982番地の旧・矢田津世子邸を含む南側一帯ということになる。つまり、山手通り工事にひっかかる矢田津世子邸は、1940年(昭和)6月に仮住まいの下落合2015番地の借家へ転居し、翌1941年(昭和16)3月に敷地を西へ移動した下落合1985番地(のち番地変更で1982番地)の新邸へともどっているが、いまでは山手通りの崖上となってしまった矢田邸の南東の斜面一帯に、大鍛冶のタタラ跡とみられる中井遺跡があったことになる。矢田津世子は、この遺跡発見の経緯を目撃していると思われるが、その様子を書いたエッセイにはいまだ出あえていない。
 また、下落合1296番地のちに下落合(3丁目)1321番地の第一文化村に住んだ会津八一も、あちこちの畑や崖地で石器や土器片を目にしていたことが伝えられている。同報告書に掲載の、落合地域に住んでいた早稲田大学文学部考古学研究室の滝口宏の文章を引用してみよう。
  
 恩師会津八一先生が、目白から落合に移られ、武蔵野の風趣をのこす林間に秋草堂を定められたころ、落合の台にはまだ点々と畑があり、折にふれて石器や土器が行く人の眼にうつり遠い昔を偲ばせたものであつた。先生のお話によると、そのころ勝俣詮吉郎先生(早大名誉教授)が、遺跡の発掘調査を先生にすすめられたとのこと、いま私たちがこうして調査をする機会を得たことは、30年も経つ両先生のお話しにつながる心持して力強くはげみになつている。/落合に住む私として、この台上のあちこちにある遺跡にはたえず心ひかれるものがあつたが、たまたま新宿区で区史を編纂する運びになり、(中略) たまたま鎮守御霊神社の磯部芳直氏が1個の壺を持来されたことに強い刺戟を受け、研究室の全力を挙げて調査に従つたのである。
  
 中井御霊社の周辺では、すでに土器類や石器類が発見されていたことが、上記の文章からうかがえる。“考古学ブーム”は戦前、それもずいぶん以前から下落合でつづいていたのだろう。
落合遺跡遠景1955新宿区落合遺跡調査報告.jpg
中井遺跡と落合遺跡1955(右半分).jpg
洗濯物のある風景(カラー).jpg
洗濯物のある風景19260921.jpg
 さて、『落合/新宿区落合遺跡調査報告』にはもうひとつ、おもしろい写真が掲載されている。中野区の上高田に拡がるバッケが原から東を向き、中井御霊社や目白学園を含めた目白崖線の全体を撮影したパノラマ写真だ。おそらく、バッケが原を移動しながら3回(以上)に分割して撮影した写真を、のちに貼りあわせてパノラマのような連続写真に仕上げているのだろう。写真の右手には中井御霊社の杜が、中央から左手にかけては「目・白・学・園」の白い大きな看板を含め、同学園のキャンパスが拡がる丘陵の全体がとらえられている。
 興味深いのは、このパノラマ写真の右端に写っている住宅風景だ。佐伯祐三が、1926年(大正15)9月21日に描いたとみられる、「下落合風景」シリーズの1作『洗濯物のある風景』の29年後の情景が偶然とらえられている。もちろん、大正期の作業着を干す農家などは残っておらず、多くの住宅は建て替えられているとみられるが、住宅の切妻の向き、すなわち南側を住宅の表にして北側が裏とし、切妻を東西に向ける建築の仕様は変わっていない。
 しかも、『洗濯物のある風景』に描かれた農家の跡に建っているのは、北側に大きな窓を設けたアトリエ建築のようだ。同年の空中写真で確認しても、北側に屋根ごと目立ってせり出した、大きな採光窓を備えたアトリエ付き住宅のように見える。わたしは1950年代のころ、この位置(下落合4丁目2157番地)に住んだ洋画家を知らないが、なんらかの美術関係者ないしは美術愛好家(絵画趣味)の人物が住んでいた可能性が高いように思う。ちなみに、このアトリエ住宅の裏側(東南側)、下落合4丁目2162番地には日本画家の臼井剛夫がアトリエをかまえていた。
 AIエンジンでカラー化を試みたが、遠景でピンボケのため、はっきりとした色彩はわからない。だが、下見板張りらしい焦げ茶色の外壁に、赤い屋根瓦を載せたアトリエ付き住宅だったのではないだろうか。佐伯が『洗濯物のある風景』に描いた農家よりもはるかに建坪が大きく、敷地を南側へ延ばした、屋根裏部屋のある2階建ての西洋館のように見える。
 そして、同住宅の前には小型の変圧器を載せた電柱が見てとれる。下落合西端にあたるこの一帯は、空襲の被害をほとんど受けていないので、佐伯の『洗濯物のある風景』と同一の電柱の可能性さえあるが、30年近くが経過しているので建て替えられたかもしれない。だが、その形状は佐伯が描いた電柱とほぼ同一だ。電柱の設置位置が、戦前戦後を通じてほとんど変わらないのは、今日でもしばしば確認できる。公道であれ私道であれ、東京電燈(戦後は東京電力)が借地して設置した電柱は、地主へのわずかな借地料の支払いとともに動くことが少ない。
 『洗濯物のある風景』の時代は、いまだ農地あるいは区画整理を終えたばかりの草原が多かったとみられる周辺だが、1950年代になると中井御霊社の南側の斜面や平地には、住宅がぎっしりと建てこんでいる。佐伯の画面背後に描かれた、どこか戦後によく見られた平屋の区営住宅のような姿の家々は、戦災を受けていないせいか戦後の空中写真でも何軒か残っているように見える。大きく姿を変えたのは、妙正寺川の流路と川幅、そして埋め立てられた田畑用の灌漑用水の流れだろう。1956年(昭和31)の空中写真を見ると、妙正寺川の旧流路の跡をいまだ見つけることができる。
北原橋1955.jpg
洗濯物1956.jpg
洗濯物1956(拡大).jpg
 『落合/新宿区落合遺跡調査報告』には、もちろん落合遺跡の各発掘現場のトレンチや、そこから出土した石器や土器類、あるいは住居跡の写真も数多く掲載されているが、1955年(昭和30)当時の下落合風景もとらえられているのが貴重だ。同報告書には、中井遺跡の位置が明確に規定されているが、その当時までなんらかの調査資料が戦災で焼失することなく、存在していた可能性が高いように思う。新宿区あるいは早稲田大学の資料なのか、今後とも探しつづけてみたい。

◆写真上:1955年(昭和30)の写真にとらえられた、佐伯祐三『洗濯物のある風景』の写生位置。
◆写真中上は、1955年(昭和30)の撮影とみられる下落合の街角。中上は、同年に北原橋の下流から撮影された妙正寺川。左手高台の上高田422番地には、耳野卯三郎アトリエが建っていた。中下は、調査報告書に収録の空中写真へ記載された落合遺跡と中井遺跡の位置関係。下左は、1955年(昭和30)に出版された『落合/新宿区落合遺跡調査報告』(新宿区)。下右は、佐伯祐三が1926年(大正15)9月~10月に残した「下落合風景」の「制作メモ」
◆写真中下は、上高田のバッケが原から東を眺めて撮影された目白崖線の西端。中央左寄りには、「目・白・学・園」の大きな看板が見える。中上は、AIでカラー化した上掲写真の右半分(南側)の拡大。中下は、上掲写真の右端をさらに拡大した画面。は、「制作メモ」によれば1926年(大正15)9月21日に描かれたとみられる佐伯祐三『洗濯物のある風景』。
◆写真下は、1955年(昭和30)の空中写真にみる妙正寺川と北原橋の周辺。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『洗濯物のある風景』の区画と中井御霊社や落合遺跡などとの位置関係。『洗濯物のある風景』のエリアには、妙正寺川の流れを修正した旧流路の跡がいまだハッキリと残っている。は、同年の空中写真にみる佐伯祐三がモチーフに選んだ農家のあった区画の拡大。
おまけ1
 『落合/新宿区落合遺跡調査報告』に収録された、落合遺跡の空中写真と出土した旧石器類。旧石器は、空中写真のピンク色の部分から出土した。旧石器時代は、「打製石器時代」「先土器時代」などと呼ばれてきたが、21世紀に入りそれらの史的定義を覆す発見が相次いでいる。
落合遺跡発掘現場1955.jpg
落合遺跡旧石器1955.jpg
おまけ2
 今年は、多摩川に推定132万尾ものアユが遡上したというが、上掲の妙正寺川にははたしてアユは遡上しているだろうか? 写真は、神田川に棲息するアユとモツゴ。
神田川アユ・モツゴ.jpg
コメント関連画像
葛橋から御霊坂.jpg
洗濯物のある風景跡.jpg
電柱の現状.jpg
中井御霊社神輿.jpg

山手線に近すぎた上屋敷駅と初代・下落合駅。

上屋敷駅1939モハ1321.jpg
 池袋駅の南西側には、江戸期からつづく「上屋敷(あがりやしき)」という小名が残っていた。江戸期には雑司ヶ谷村上屋敷、1878年(明治11)からは雑司ヶ谷村(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷、1889年(明治22)からは高田村(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷、1920年(大正9)からは高田町(大字)雑司ヶ谷(字)西谷戸大門原(小名)上屋敷となった。
 そして、東京35区制が施行され豊島区が成立すると、1932年(昭和7)からは豊島区雑司ヶ谷6丁目(一部は目白町3丁目)、そして現在は豊島区西池袋2丁目(一部は目白3丁目)というややこしい経緯をたどっている。もちろん、1932年(昭和7)までは「高田町上屋敷XXXX番地」、それ以降の敗戦までは「豊島区上屋敷XXXX番地」という住所の宛先でも、基本的に番地には大きな変更がなくほぼそのままだったので、古くから住む家なら郵便物はふつうにとどいていただろう。戦後、西池袋2丁目になってからは配達不能で返送されただろうか。
 なぜ、戦時中まで「豊島区上屋敷XXXX番地」でも郵便物が配達されていたかといえば、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の池袋駅-椎名町駅間に、1945年(昭和20)2月3日まで「上屋敷駅」のネームが残っており、また地元の郵便局員には、雑司ヶ谷6丁目の一部が上屋敷という小名だったことを知悉している人間が、いまだ多く残っていたからだ。
 武蔵野鉄道の上屋敷駅は、1929年(昭和4)5月25日に開設され、16年後の1945年(昭和20)2月3日に営業を停止、1953年(昭和28)には廃止されている。理由は単純で、あまりに山手線の目白駅や池袋駅に近すぎたため、乗降客が少なかったのだ。武蔵野鉄道のほかの駅に比べ、上屋敷駅は半分以下という利用客数だった。たとえば、『豊島区史』(1941年版)を参照すると、1日の乗降客数は1932年(昭和7)が855人、1933年(昭和8)が880人、1934年(昭和9)が961人、1935年(昭和10)が1,167人と、当時のほかの駅が1日に数千人規模の利用客があったにもかかわらず、上屋敷駅の利用客はあまり伸びなかった。
 面白いエピソードも残っている。武蔵野鉄道は当初、駅を設置した地域の小名をそのまま採用して上屋敷駅と名づけ、そう表記もしていたが、多くの人が「かみやしき」と読んでしまったのだろう、のちにわざわざ「上り屋敷駅」と「り」の送り仮名を挿入している。大名の住居である上屋敷と、上り屋敷とではまったく意味が異なるが、小名の成立は以下のような故事にちなんでいる。1971年(昭和46)に豊島区から出版された、『豊島風土記』(区立豊島図書館編)より引用してみよう。
  
 このあたりは将軍家の放鷹の場所にも指定されていたようで、享保二年(一七一七)に、本郷弓町にあった御鷹部屋が雑司谷に移されたことが、「徳川実記」にみえる。そして将軍吉宗はこの狩の折の休憩所として、今の婦人之友社あたりに上り屋敷を設けたのも、この頃のことという。昭和四年より二十年まで、西武線に上り屋敷駅というのがあったのは、それに因んで付けられた駅名である。鼠山という名のおこりは、源頼朝の奥州征伐から帰られた折、物見の兵をここに出した。彼らは夜も寝ないで番をしたので、不寝見と名付けられたという。太田道灌であるという説もある。
  
 「婦人の友社」は婦人之友社で、「西武線」は武蔵野鉄道だが、ここで面白いのが、千代田城の主だった徳川吉宗の上屋敷(幕府抱屋敷)についてだ。吉宗は、中野筋だった落合地域の御留山を中心に、記録によれば都合20回の狩りをしているが、戸田筋の鼠山で狩りをした際、休息した屋敷は側用人の著作によれば「長崎村抱屋敷」だった。この上屋敷は、いまにも朽ち果てそうなほどボロボロで、縁の下からノミの襲撃を受けたと同行した側用人・如鷃舎千伯(筆名)が記録している。
武蔵野鉄道1924デハ100.jpg
上屋敷1921.jpg
上屋敷駅1932.jpg
 婦人之友社界隈にあった雑司ヶ谷村の抱え屋敷も、やはりかなり傷んでいたのではないだろうか。質素倹約で緊縮財政を推進する、あたかも大名行列のような儀礼的な狩りを嫌い、少人数で騎馬による実戦的な巻狩りを好んだ慣例破りで質実剛健な徳川吉宗にしてみれば、抱え屋敷の修繕など真っ先に経費削減の対象だったろう。如鷃舎千伯が著した『江戸櫻』では、鼠山で疾走する馬上から鉄砲を撃つ「上」(吉宗)の姿が活写されている。なお、上(り)屋敷は雑司ヶ谷村や鷹場組合など地元側からの呼称であり、幕府側からは抱(え)屋敷と呼ばれている。
 余談だが、源頼朝が「奥州征伐」の帰途に斥候を出したから「不寝見(ねずみ)」の山は、明らかにおかしいだろう。本拠の鎌倉を目前に、物見を放つ意味が不明だし、留守をあずかる迎えの軍勢も鎌倉から繰りだしていただろう。そのような謂れがあるとすれば、豊島氏と対峙し各地で戦闘を繰り広げていた太田道灌の時代ではないだろうか。
 さて、上屋敷駅にはもうひとつ面白い逸話がある。武蔵野鉄道の利用客で、山手線を利用する人々は上屋敷駅で降りて、目白駅まで歩くのが常態化していたようだ。確かに、上屋敷駅で降り省線・目白駅まで歩いても、ほんの600m足らずなので5~6分もあればたどり着けてしまう。その様子を、1987年(昭和62)に新宿区教育委員会から出版された『地図で見る新宿区の移り変わり/索引編』収録の、中田易直『「落合」の移り変わり』から引用してみよう。
  
 (ダット乗合自動車の路線と) これと並行して私鉄の武蔵野鉄道(西武池袋線)が通っていて、池袋駅から上り屋敷駅、椎名町駅、東長崎駅、江古田駅、練馬駅……となっていた。私どもが市内に出る時には池袋駅まで出ないで、上り屋敷駅で下車して徒歩で省線の目白駅に出て新宿駅方面に向うといったコースが一般に利用されていた。(カッコ内引用者註)
  
 著者は中央大学教授だが、もともと下落合1丁目473番地の浅田知定邸の敷地跡に開発された住宅地に住んでいたが、のちに西落合3丁目へ転居しているので、利用したのは東長崎駅だろう。山手線が近すぎたため池袋駅まで乗ってもらえず、山手線の内回りを利用する乗客たちは、みんな上屋敷駅で降りてしまった様子がうかがえる。また、当初から利用客が少ないため、武蔵野鉄道では早くから事業計画の失敗ととらえていた可能性も高い。1945年(昭和20)の営業停止の理由は「戦時の混乱のため」だが、本音は赤字つづきの駅だったからではないか。
上屋敷駅跡.jpg
武蔵野鉄道時刻表1929.jpg
豊島風土記1971.jpg 写真でみる豊島区50年のあゆみ1982.jpg
 同じような事象が、西武鉄道の山手線からひとつめの駅でも起きている。ホップ・ステップ・ジャンプの「高田馬場駅の三段跳び」記事でも書いたが、下落合氷川明神社の南にあった1927年(昭和2)4月16日開業の西武線の初代・下落合駅は、あまりに山手線の高田馬場駅に近いため、地元住民からの強い要請で、270mほど西へ移動している。初代・下落合駅も、駅を降りてから田島橋で旧・神田上水をわたり、栄通りを斜めに経由して早稲田通りをわたれば、上屋敷駅と同様に省線・高田馬場駅までは600mほどしかなく、あまり意味がなかったからだ。特に下落合(現・中落合/中井含む)の東部住民にしてみれば、1時間に数本の電車をホームで待つよりも、山手線の目白駅か高田馬場駅まで歩いたほうがよほど早かったろう。
 わたしが下落合を歩きはじめた高校時代には、下落合氷川社の周囲にいまだ駅前商店街の名残りがあり、駅前交番こそ聖母坂の下へ移動していたと思うが、八百屋や魚屋、床屋、菓子屋、食堂、蕎麦屋、スナックなどが健在だった。現在は床屋を残し、すべてが閉店して住宅街になってしまった。駅前商店街として繁華になるはずが、初代・下落合駅の開業後わずか3年余で駅自体が引っ越してしまうとは、当時の商店主たちは考えてもいなかったろう。
 下落合駅の現在地への移転について、西への移転誘致運動も含め、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、少し長いが引用してみよう。
  
 西武電鉄
 (前略) 沿線は所謂武蔵野情緒に富み、殊に村山線は風光明媚の地にて其四季の眺めは確かに近郊第一の勝地であらう。本線は高田馬場-川越間延長四五.七粁、町内に中井及び下落合の両駅を置設す。/中井駅の現今乗降客は一日平均五千余人、売上げは百七十円乃至二百三四十円と云ふ。/下落合駅は本線開通当時は氷川神社際にあつたが、高田馬場駅に近接して殆んど用途にならず、偶々内田助五郎、福室郷次の両氏先達となり石崎輝彦、橋本幾次郎、中村半三郎、中村鍬次郎、福室鏻太郎、北原正幸、西田梅吉、中村銀太郎、宇田川鐵五郎、有泉治一、佐久間五郎、渡邊明の諸氏等現駅地附近に開駅を目論見、之が設置運動に従事する処ありて、昭和五年七月三日果然会社は打算上より旧駅を閉鎖して現在地に移転、業務を執ることゝなつたものである。現今乗降客一日平均二千余名、売上げは八十五六円内外を算す。
  
下落合駅平面図.jpg
落合町市街図(地形図)1927.jpg
下落合駅跡.jpg
 移設運動のメンバーを見ると、上落合の東部住民が誘致の中心だったのがわかる。青柳ヶ原に聖母坂が拓かれ、補助45号線に指定される以前だが、国際聖母病院の建設計画は耳にしていただろう。また、田島橋を経由して早稲田通りへと抜ける予定の放射第7号線=十三間通り(現・新目白通り/当時は頻繁にルート変更が行われていた)の敷設計画も、既知の情報だったにちがいない。上落合の東端に接する現在地に、下落合駅を移設させたかったものとみられる。

◆写真上:1939年(昭和14)撮影の、上屋敷駅に停車する武蔵野鉄道モハ1321形。(提供:炭谷太郎様) 左端に踏み切りが見えるので、中間停車場の北側ホームを写している。
◆写真中上は、1924年(大正13)の武蔵野鉄道が電化されたときに撮影された最初期の車両デハ100形。は、1921年(大正10)に作成された1/10,000地形図にみる小名「上屋敷」。は、1932年(昭和7)に作成された豊島区地図にみる上屋敷駅。
◆写真中下は、上屋敷駅跡の現状。は、1929年(昭和4)現在の武蔵野鉄道時刻表。(提供:炭谷様) 下左は、1971年(昭和46)に出版された『豊島風土記』(豊島区立豊島図書館編)。下右は、1982年(昭和57)出版の『写真でみる豊島区50年のあゆみ』(豊島区)。
◆写真下は、西武鉄道に残る島状停車場と中間停車場の平面図。初代・下落合駅は島状ホームだったが、現在の下落合駅は中間ホーム型。は、1927年(昭和2)作成の「落合町市街図(地形図)」に描かれた氷川明神に南接する初代・下落合駅。は、初代・下落合駅跡の現状。
おまけ1
 東京35区制が施行された、1932年(昭和7)ごろに撮影された空中写真にみる両駅。上は中間駅の上屋敷駅がとらえられているが、その下に見えている屋敷が戸田康保邸(のち徳川義親邸)と思われるのがめずらしい。下は西へ移動した聖母坂下の下落合駅(現在地)が見えるが、下落合氷川社前の旧駅の跡には、島状ホームの痕跡がいまだ顕著に残っている。
上屋敷駅1932頃.jpg
下落合駅1932頃.jpg
おまけ2
 郊外ハイキングのブームで、1929年(昭和4)に西東社から出版された『東京近郊日帰りの手引』。初代・下落合駅が氷川明神前にあったので、薬王院が「北二丁」とあるが、実際には「北西二丁」(220mほど)。気になるのは、御霊社が中井駅より「西二丁」とあるけれど、たっぷり750mほどは歩かなければたどり着けないので、正確には中井駅から「西北西約七丁」が正しいだろう。
東京近郊日帰りの手引1929西東社.jpg