INDEXページの全リンク先の修復を完了。

富士山(武田英紀様).jpg
 正月明けから、深夜にINDEXページのリンク修復作業を少しずつしていたら、BGMの合い間にヌエ(トラツグミ)の鳴く声が聞こえてきた。最初は、坂を下る自転車のブレーキ音かと思っていたが、規則的にいつまでも聞こえるし、日付が変わった真夜中なのでヌエ(トラツムギ)の声だと気づいた。冬になり山から低地に下りてきて、下落合に立ち寄ったのだろう。下落合の森にはフクロウも確認されているようだし、ヌエがいてもおかしくない環境だ。
 その昔、横溝正史の映画だったろうか、「鵺(ヌエ)の鳴く夜は恐ろしい」というキャッチフレーズがあったけれど、午前2時近くにURLの張りなおし作業をしながら、ヌエの鳴き声を聞いているのは、「オレ、なにをしてるんだ?」と、わが身を顧みて確かに恐ろしいことにちがいない。
トラツグミ(ヌエ)三鷹市.jpg
 さて、以下のINDEXページに掲載している、すべての拙記事のURLは張りなおしが完了した。これらのページをポータルに、任意の記事へジャンプしてご覧いただけるようになったので、改めてご報告がてら更新したしだい。もし、なにかお気づきの点があれば、ご連絡をいただきたい。
わたしの落合町誌.jpg
目白文化村.jpg
高田町の暮らし1925.jpg
 ただし、So-net時代に書いた古い記事の、ページ本文中に設定していたリンクは、いまや数千ヶ所にもおよぶので、残念ながらそれらをすべて設定し直すのは、いくら時間があっても足りないので実質的に不可能だ。そこで、「どうしても以前のように、ページ内からリンク先の当該ページへ飛べなきゃダメ!」とか、「INDEXページで当該記事を見つけるのは面倒でキライ!」とか、または「Googleやブログなどの検索窓に複数ワードを入力して探すのは疲れるしヤダ!」という方のためにw、ちょっと“裏ワザ”的で単純な操作をご紹介しておきたい。少し面倒な操作だけれど、慣れてしまえば古い元記事から正確にリンク先をたどることができる。
 So-netブログ時代のリンクが廃止されたといっても、当時のURLの一部が実はSeesaaブログへそのまま引き継がれて設定されているのにお気づきだろうか? So-net時代に設定されたページURLのドメイン部分、つまり「http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp」はもちろん廃止され消えてしまっているわけだが、記事のURL末尾に含まれていたアップロードの日付けは、そのままSeesaaブログの新しいURLへと継承されている。
 つまり、ブラウザの上部に表示される古い時代のURLに、Seesaaブログのドメイン+フォルダ名をそのまま単純にかぶせ、末尾に「.html」を付け加えてあげれば、リンク切れになった昔の古い記事でも、わざわざ検索エンジンで面倒な遠まわりをして探さず、すぐにも読むことができるのだ。以下、具体的な昔の記事例を挙げて、その方法を実際にやってみよう。
佐伯祐三のイーゼルは現存している記事.jpg
 たとえば、「佐伯祐三のイーゼルは現存している」という、2009年12月27日にアップした記事がある。So-net時代に書いたずいぶん古い記事だが、当然、文中に設定されたClick!のリンク先はSo-net時代のままなので、関連記事にジャンプして読むことができない。
 例を挙げると、文中に書かれた相馬邸の「『黒門』の移築Click!」をクリックしても、ブラウザによって表示はさまざま異なると思うが、下の画面のように「このサイトにアクセスできません」(Google Chrome)や、「申し訳ございません。このページに到達できません」(Microsoft Edge)などの一文が表示されて、リンク先に設定されている昔の「黒門」記事にはたどり着けない。
佐伯祐三のイーゼルは現存している記事本文.jpg
ページ表示不可Chrome.jpg
ページ表示不可Edge.jpg
 そこで、古いSoーnet時代のURLの部分に注目していただきたい。廃止されたSo-net時代のリンク先を見ると、下のようなURLになっていると思う。つまり、リンクが切れた先の当該の「黒門」記事は、いまから17年前の2009年6月24日にアップされていたことがわかる。そこで、次のように古いURLへSeesaaブログのドメイン部をコピーしてかぶせてあげ、さらに末尾に「.html」(ドット・エイチティーエムエル)を追加すれば、移行したあと新たにSeesaaブログ内へ収容されている、リンク先に設定されていた「黒門」記事へとジャンプすることができるのだ。
URL修正前.jpg
URL修正後.jpg
 Seesaaブログのドメインを直接、そのままブラウザの上部のURL表示へコピー&ペーストし、末尾に「.html」を付けるだけで、リンク切れになっている記事へジャンプすることができる。
 http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2009-06-24 (ジャンプ先のリンク切れ記事)
   
 https://tsune-atelier.Seesaa.net/article/2009-06-24 (Seesaaドメイン部をコピー&ペースト)
   
 https://tsune-atelier.Seesaa.net/article/2009-06-24.html (末尾に「.html」を付加)
 すると、文中ではリンク切れになっていた、「下落合からたどる『黒門』物語。(上)」の記事(下画面)を、すぐに表示させることができる。ブログやGoogleの検索窓から記事を探すより、こちらのほうが圧倒的に早いケースもあるので、お困りの際にはぜひお試しいただきたい。
URL修正後表示.jpg
 さて、リンクの再設定を繰り返していたら、昔の拙記事をついつい読んでしまった。そこには、すっかり忘れていたテーマもあれば、深掘りしたい課題、いまならこうは書かないだろうなと思われる記事などが散見された。けれども、長く取材や調査を重ねに重ねたうえで、現在につながる記事が書けているわけだから、そのプロセスはやはり認識経路や思考過程の記録なので、いまとなっては恥ずかしい文章もあるけれど、そのままソッと残しておきたいと思う。
 最後に余談だが、リンクの再設定という退屈で単純な作業のため、BGMとしてJAZZを聴きながら作業を進めることにした。ただ漫然と聴いていても面白くないので、Miles DavisがCBS/Columbiaレーベルへ録音し、これまで発売された全アルバム『The Complete Columbia Album Collection』(1949年5月から死後の2009年までの全66枚でブートレグは除外)を、いちばん古い『IN PARIS FESTIVAL INTERNATIONAL DE JAZZ』(1949年)から聴きはじめ、年代順にどこまで聴けるかを試してみた。(退屈な作業には、こんな気晴らししか思いつかなかった)
マイルスCOLUMBIA.JPG
 BE-BOP革命期からクール、ハード・パップ、モード(フリーは含まず)、エレクトリック(ファンク)、そして現代へとつづくコンテンポラリーJAZZへとたどり、およそ戦後60年余にわたるJAZZを概観(聴)できる気晴らしBGMだったのだが、深夜とあって書斎に置いた小型のオーディオ装置の音量をかなり絞らざるをえなかったのが残念だ。作業しつつ、1949年から聴きつづけた結果、10日め、つまりいま聴いているのは『DARK MAGUS』(1974年)の2枚目。結局、Columbiaレーベルでの最後の録音作品である『AURA』(1985年)までたどり着かずに、ようやく作業を終えた。

◆写真上:下落合の丘上から眺めた、冬の夕暮れにみる富士山。(撮影:武田英紀様)
◆写真中:冬になると、山から街へとやってくるヌエ(トラツグミ)。(「三鷹市役所」サイトより)
◆写真下:紙ジャケットCDに興味津々なうちのネコで、ときどきかじってるから油断ならない。
おまけ1
 ついでに、『The Complete Columbia Album Collection』には画家としてのマイルス・デイヴィスも、フランスのFrédéric Goatyの解説により紹介されているので、その作品を2点ほど。
Miles Davis A.jpg
Miles Davis B.jpg
Miles Davis.jpg
おまけ2
 先日、江古田を散歩していたら、かつて第一文化村にあった水道タンクによく似た、背の高い塔状の水道タンクを見つけた。工事中の透明養生越しなので、ピンボケなのが残念だが雰囲気は伝わるだろうか。目白文化村の水道タンクは、もう少し直径が大きく大容量だったように見える。
水道タンク.JPG

テニスコートから見る林泉園の古島安二邸。

林泉園1935頃.jpg
 先月、目白ヶ丘教会のオープンチャーチデーで、キリスト教とは縁のないわたしが落合地域の土地柄を美術に絡めてお話させていただいた。もっとも、話ベタが災いしてか後半の落合の建築と建築家については、時間配分がマズかったため割愛させていただいたけれど……。
 下落合(現・中落合/中井含む)の中部と西部には、落合第一地域センターおよび落合第二地域センターがあり、多彩な催しが行われ多くの文化的なサークルが活動しているが、目白駅近くの下落合東部にはそのようなスペースがない。ぜひ、地域のコミュニティが形成できるような催しを、今後とも継続して開催いただけたらと願う。さて、お話をさせていただいた当日に、参加者の方たちから旧Soーnetブログ時代のリンクが切れて、INDEXページからもたどれない記事があるとご指摘をいただいた。わたしも以前から気づいていたのだが、古いSo-net時代のリンクが今夏ごろに廃止され、ssブログ時代からのリンクしか利かなくなっている。そこで、せめて「わたしの落合町誌」「目白文化村」「高田町の暮らし1925年」の3メニュー内だけでもリンクを復旧させたいので、少しお時間をいただければと思う。また、最近ドライアイがひどくなっており、上記の作業も含め取材や記事の更新をしばらくお休みさせていただきたい。それでは読者のみなさん、よいお年を!
  
 東邦電力の社史を調べているある方から、中村彝アトリエの前に口を開ける1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、林泉園の写真をご教示いただいた。掲載されていたのは、1962年(昭和37)に経済往来社から出版された『東邦電力史』(東邦電力史刊行会)だ。
 同社は1922年(大正11)6月、名古屋にあった本社屋を東京へ移転する決定をしている。東京では事前に、社宅建設地を物色していたのだろう、同年7月には下落合で新たな分譲住宅地として華々しく売りにだされていた近衛新町のほぼ全域を、隣接する近衛町を開発中だった東京土地住宅から購入している。これは、東京土地住宅が1922年(大正11)7月29日に東京朝日新聞へ掲載した、近衛新町の分譲中止広告の時期と一致している。
 同社の松永安左衛門は、近衛新町を共同で開発していた近衛家と東京土地住宅三宅勘一に話をつけて購入したものだろう。近衛家では、中村彝アトリエの前にある湧水池や濃い緑が繁る谷戸を、「落合遊園地」として近隣の住民やハイカーたちに開放していた。早稲田に下宿し、ほとんど「引きこもり」のような生活を送っていた若山牧水が、郊外散歩をして「落合遊園地」を発見しているエピソードは、ずいぶん前に随筆『東京の郊外を想ふ』とともにご紹介している。若山牧水は、目白通り(ほぼ清戸道)から左折して近衛家の敷地を散策している。
 東邦電力は、近衛新町全域を購入した直後から、湧水が豊富で池のある「落合遊園地」のことを、「林泉園」と新たに名づけている。当時の様子を、『東邦電力史』より引用してみよう。
  
 敷地は省線目白駅を去ること僅か3、4丁にして、新開の通称近衛町並に相馬子爵邸と相対し、付近には宏壮の邸宅及び文芸美術家等の住家多く、鬱蒼たる樹木に富み、東京近郊には珍しき閑佳の一廓にして住み心地の快き事真に無類にて、丸ノ内本店までは省線電車にて50分を要せずして達し得らるべく、又敷地内の東北部に当る窪地には桜其他の老樹繁茂し、其間に楚々たる小川流れるなど、幽邃にして巴里郊外に於ける森林公園の如き観あり。
  
 上記の文中には、相馬孟胤邸をはじめ中村彝アトリエ前のサクラ並木や、湧水源からほとばしり出る清冽で豊かな泉水の様子が記録されている。また、山手線の目白駅から東京駅までは、当時の電車で50分ほどかかっていた様子がうかがえる。ちなみに、現在では山手線の外回り電車に乗れば、およそ25分と半分ほどの時間で東京駅に到着する。
 買収した近衛新町の約6,500余坪のうち、460坪を東邦電力の実質的な経営者だった副社長・松永安左衛門に売却し、約1,295坪に重役宅や社宅を建設している。その内訳は、一戸建て住宅が10棟、4軒つづきのテラスハウスが5棟、3軒つづきのテラスハウスが2棟、独身寮が1棟という構成だった。そのほか、共同浴場やテニスコート、ビリヤード場などを併設している。また、テニスコートの東側には、子どもたち用に鉄棒やブランコを設置した児童遊園も設けている。テニスコートから北東を向き、児童遊園を撮影したのが冒頭写真だ。
 その後、社員の人数が増えるにつれ、社宅が不足してきたため増築を繰り返し、独身者には新たに合宿所「清和寮」をテニスコートの西側、落合家庭購買組合の東隣りに建設している。また、社宅の建設からしばらくすると、社内のサークル活動が盛んになり、松永邸で社内音楽会を開催したり、清和寮で家庭製作品(裁縫・料理など)の講習会を開いたりしている。以前、目白林泉園庭球部と目白中学校庭球部が試合をした様子も、こちらの記事でご紹介していた。
 1923年(大正12)の関東大震災では、丸ノ内の海上ビル内にあった本社オフィスが破壊され、約半月間も使用できなくなった。そのため、本社機能を下落合へ移し、松永邸のなかに臨時オフィスを設けて事業を継続している。そこでは、事業・実務の継続ばかりでなく、罹災社員とその家族への救護をはじめ、食糧の配給や電信・電話による通信環境の確保、林泉園住宅地の夜警などが行われた。下落合の林泉園オフィスは、同年9月21日に海上ビルが復旧するまで存続した。
林泉園開発図.jpg
林泉園1926.jpg
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 さて、冒頭写真にとらえられた林泉園風景について詳しく見ていこう。まず、カメラマンがいるのは林泉園の突きあたり、湧水源の上に造成されたテニスコートだ。そこから、隣接するすべり台やブランコのある児童遊園ごしに、林泉園の谷間方面を撮影している。正確にいえば、林泉園の池がある東の方角ではなく谷戸の北側崖地沿い、すなわち東北東を向いてシャッターを切っている。この児童遊園は、昭和初期にはなかったもので家々の配置や様子、そして落合第四小学校に通う生徒とみられる子どもたちの服装(洋装が多い)からして、おそらく1935年(昭和10)前後の撮影ではないだろうか。この児童遊園の地面の下、柵が見えているやや南寄り(写真では右手)の小崖の下に、水量がたいへん豊富な林泉園の湧水源があった。
 この場所を、1928年(昭和3)にフランス留学から帰国したばかりの画家が、林泉園の南側から北西を向いて写生している。中村彝の死後、中村画室倶楽部として保存されていた下落合463番地の中村彝アトリエを、おそらく5年ぶりに訪れた清水多嘉示だ。同年に描いたとみられる『風景(仮)』(OP595)という作品だが、林泉園の谷間に設置されたテニスコートと、その上に建つ東邦電力の社宅群、そして手前の谷底には湧水源とみられる白く噴出する水流が描かれている。だが、この時点でテニスコートの東側に児童遊園は見られない。1929年(昭和4)には、中村彝アトリエを購入した鈴木誠が転居してくるので、その前年に見られていた光景だ。
 林泉園北側の崖の中腹に見える、2階(屋根裏を含め3階?)建ての西洋館は、下落合1丁目450番地(旧・下落合367番地)の古島邸だ。鎌倉山住宅地と名古屋桟橋倉庫の代表取締役だった古島安二について、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
  
 新潟県人山崎正八氏の二男にして明治十五年一月を以て生れ後先代古島理策氏の養子となり明治四十年家督を相続す、先是三十八年早稲田大学政治経済科を卒業し業界に入り現時前掲会社の重役たる外 矢作開墾会社取締役、東邦證券保有、三信鉄道、河津川水力電気、伊豆水力電気、新潟電力、長浦海園土地、名岐自動車道各会社取締役、矢作素道会社監査役等に任ず。夫人ヨシ子は同郷玉川覚平氏の長女である。
  
清水多嘉示「風景」仮op595.jpg
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記念写真19240527.jpg
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 上記の役職に加え、古島は東邦電力の理事も兼任しているので、松永安左衛門に奨められて林泉園に自邸を建設しているのだろう。林泉園の開発当初から、古島邸は林泉園に家をかまえていたとみられ、大正末ごろ写真に見える新邸を建てているようだ。
 古島邸の北側、すなわち崖上には林泉園に沿って二間道路が通っているが、その道路沿いには江戸桜のソメイヨシノが植えられ並木が形成されていた。古島邸の裏、少し高い位置につづく並木がそれだ。このサクラ並木は、中村彝アトリエからも撮影されており、中村彝が死去するおよそ半年前、1924年(大正13)5月27日に開かれた園遊会の記念写真にも、人々が並ぶ背後にソメイヨシノが大きな枝葉を繁らせている。すなわち古島邸の斜向かい、写真の左枠外には下落合1丁目464番地の中村彝アトリエ(当時は鈴木誠アトリエ)が建ち、古島邸の左側の高い位置に見えている住宅が、二間道路をはさんだ下落合1丁目462番地の吉村邸だろう。
 古島安二邸にスポットを当てると、1922年(大正11)にスケッチされた曾宮一念『落合ニテ』には、建て替え前(仮住まいの暫定邸?)とみられる古島邸の低い屋根がとらえられている。同スケッチは、中村彝アトリエとその東隣りに建つ福川別邸を、裏側すなわち北西側から写したものだが、林泉園の谷戸にはおそらく当時は平家だったとみられる低い屋根が見えている。さらに、先の中村彝アトリエで開かれたパーティー記念写真の背後にも、古島邸(新邸)の屋根がとらえられている。この時点で、かなり屋根の位置が高くなっているので、建設中の古島邸あるいは竣工後の新邸は、1924年(大正13)ごろと類推することができそうだ。
 また、中村彝自身も、東邦電力による林泉園住宅地を描いている。1923年(大正12)ごろにスケッチされた『林泉園風景』(鈴木良三がタイトルを付加しているのだろう)がそれだ。中村彝は、アトリエの南側に口を開けた林泉園の周辺に、次々と建設されていく赤い屋根に白い壁の洋風住宅群やテラスハウスに惹かれ、スケッチブックを手に病む身体をおして写生に出ているのだろう。
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 『東邦電力史』に掲載された写真の撮影時期だが、児童遊園に植えられたサクラとみられる樹木に花が咲いているので春なのだろう。けれども、崖上のサクラ並木にはあまり花が残っていないようなので、花見の季節を終えて林泉園がやや静寂を取りもどした時期、4月の初旬から中旬にかかる季節のようにも思える。中村彝アトリエ前のサクラ並木だが、老樹が1本だけ残されて花をつけていた。だが、幹の空洞化が進み倒木の怖れがあるということで、少し前に伐採されている。

◆写真上:1935年(昭和10)ごろの撮影とみられる、林泉園の児童遊園と古島安二邸。
◆写真中上は、東邦電力が作成した林泉園住宅地の開発地割図。中上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」の林泉園だが、フリーハンドで描かれているため位置関係が不正確だ。中下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる林泉園界隈。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる林泉園界隈。
◆写真中下は、1928年(昭和3)ごろに制作された清水多嘉示『風景(仮)』(OP595)。中上は、1924年(大正13)5月27日に中村彝アトリエで開かれた園遊会の記念写真。左から右へ岡崎興、伊藤成一、鶴田吾郎、高野正哉が写る背後に小島邸の屋根が見えている。中下は、同日の園遊会で前列左から前田慶三、遠山五郎、鈴木良三、後列左から右へ堀進二、本郷惇、福原達朗、長谷部英一、酒井億尋たちの背後にとらえられたサクラ並木。は、1935年(昭和10)撮影の林泉園で写生する落合第四小学校の生徒たち。(提供:堀尾慶治様)
◆写真下は、冒頭写真にとらえられた古島安二邸の拡大。中上は、1922年(大正11)に曾宮一念が描いたスケッチ『落合ニテ』。中下は、1923年(大正12)ごろに中村彝が描いたスケッチ『林泉園風景』。は、2013年(平成25)4月に撮影したサクラ並木の最後のソメイヨシノ老木だが、2016年(平成28)ごろに倒木の怖れがあるということで伐採されている。
掲載されている清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によります。
おまけ
 戦後の1947年(昭和22)に撮影された林泉園の空中写真で、緑が濃かったため空襲による延焼被害をあまり受けていない様子がわかる。テニスコートと児童遊園は、戦時中の食糧増産のため畑地にされていた。下の写真は、ともに下落合の住民だった松永安左衛門(右)と石橋湛山(左)。
林泉園1947.jpg
石橋湛山と松永安左衛門1956.jpg

官舎「落合住宅」から眺めた下落合風景。

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 新宿区のおとめ山公園が2013年(平成25)に大きく拡張された際、おとめ山通り(御留坂)をはさみ公園の北側に建っていた、大小6棟の公務員宿舎(落合住宅)がいっせいに解体された。これらの集合住宅群は戦後、東邦生命(旧・第一徴兵保険)から大蔵省(現・財務省)が買収した国有地に建設されており、各省庁の官僚と家族たちが暮らしていた。
 そこに住んだ国家公務員とその家族たちは、生涯にわたって住むわけではなく、地方への転勤や異動もあったとみられることから、長めな居住でも十数年の単位だったのだろう。彼らには、一時滞在的な集合住宅で永住地ではなかったけれど、下落合ではどのような景色が見えていたのだろうか。きょうの記事は、一時的な住まいだった官僚が目にした下落合(おもに東部)は、どのような街に映っていたのかをご紹介してみたい。
 当時の運輸省(現・国土交通省)につとめていた豊田実という人物が、1985年(昭和60)に書いたエッセイから、当時の様子をかいま見てみよう。ちなみに、著者は1985年(昭和60)の時点で、下落合での暮らしは9年目を迎えていることから、1976年(昭和51)ごろに「落合住宅」へ引っ越してきたことになる。わたしが高校時代に、TVドラマに映る緑が多い下落合の風景に惹かれて、近辺を歩きはじめていた2年後ぐらいの時期だった。
 エッセイのタイトルも、そのものずばり『下落合風景』となっている。執筆の当時、著者は運輸省の運輸政策局政策課長のポストに就いていた。なお、この方は1990年代に入って運輸省事務次官をへたあと、2001年(平成13)に62歳で急死している。TVや雑誌など、マスコミにも登場しているようなので、ご記憶の方もおられるのではないだろうか。
 1980年代は、1970年代に比べれば森林や屋敷林に繁っていた樹木の緑が、大幅に減退していたとはいえ、いまだ新宿区の他の街々よりは地域全体が圧倒的に青々としていた時代だった。その様子を、1985年(昭和60)に交通公論社から出版された、村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』収録の、豊田実のエッセイ『下落合風景』から順次引用してみよう。
  
 山手線に乗って高田馬場駅から目白駅に向かい、神田川を渡ると、すぐ左側の車窓に樹木におおわれた台地が現れる。この台地一帯が下落合である。落合という地名は、二つの川が落ち合うところから起こっている。(中略) この台地は大昔から住み心地が良かったのか、縄文時代より前の住居跡が見つかったりする。高台なので天気の良い日には丹沢や秩父の連山を一望することが出来る。もっとも最近は、新宿方面に高層ビルが次々とそびえ視界を遮ぎり始めている。雪化粧をした富士山を眺めながら古代の人々は、いったい何に思いをめぐらしていたのだろうか。
  
 エッセイの冒頭から、どうやら下落合での暮らしがかなり気に入っていた様子がうかがえる。娘を通わせていたのは落合第四小学校で、「♪みのを借らんと、言う人に、花をささげて文の道~」と校歌を紹介し、江戸城を築いた太田道灌の事蹟にも触れている。ただし、あえて神奈川県にも同じ伝説があると書き添えている。神奈川県の「山吹の里」は、現在の横浜市の金沢地域、つまり鎌倉のすぐ東側に伝承されてきた。豊田実は、神奈川県の出身だ。
 このあと、落合住宅が建つ「御留山」はもともと将軍の鷹狩り場であり、江戸名所図会の紹介とともに旧・神田上水の一帯がホタルの名所だった、江戸後期の様子が記述されている。つづけて、新宿区の落合ホタル復活事業についても書いているので、再び引用してみよう。
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 区役所の方でも何とか蛍を復活させようと、おとめ山の清流に目をつけた。公園の一画に小屋をつくり、蛍を幼虫から生育することに取り組み、数年がかりで遂に成功した。毎年、夏になると数日間ではあるが、公園で蛍の鑑賞会が催される。だんだん世間に知られるようになって、今ではかなりの人が遠方から楽しみに出掛けて来るようで、期間中は大変な人出になる。都内のホテルが田舎から成虫をもってきて放すのとは違い、その光には一段と趣きがある。近くにある古刹・瑠璃山薬王院の牡丹と並んで下落合の風物詩になったようだ。この「おとめ山公園」の清流には、かつて「清水蟹」と呼ばれるカニが生息していたという。残念ながら今では見られなくなってしまったが、こんこんと湧き出る清水、数えきれない種類の樹木や四季折々の草花、群れ遊ぶ鳥たち。
  
 いまも基本的に変わらない情景だが、登場しているホタルを放つ「ホテル」とは、同じ目白崖線沿いで落合地域の東側にある椿山荘を意識してのことだろう。ただし、1980年代と現在とでは、大きく異なる点がある。文中に書かれている「清水蟹」(サワガニ)が、いまでは湧水流に復活しているし、オニヤンマやクロスジギンヤンマ、カブトムシ、クワガタなど大型昆虫も飛びまわり、夜になれば樹々のこずえではフクロウが鳴いている。
 1980年代の半ばでは、1960~70年代の高度経済成長期にもたらされた空気・土壌汚染や、河川汚濁の影響がまだ色濃く残っていたとみられるが、21世紀に入ってからの東京各地の環境は劇的に変化した。大川(隅田川)多摩川日本橋川をサケが遡上し、神田川にはアユなど数多くの川魚が生息しており、東京湾では江戸期からおなじみの浅草海苔の養殖事業がリスタートしているのを聞いたら、著者は目をまるくして驚くだろうか。
 次いで、明治期からの近衛邸や大正初期の相馬邸など華族屋敷について触れたあと、大正期から数多くの住宅が建ち並ぶようになったと紹介し、「新興住宅地とは違った落ち着き」がある街だと書いている。朝のラジオ体操には、お年寄りの姿が多く見られるのも、新しい街とは異なる特徴だとして挙げている。このラジオ体操は、夏休みに落合第四小学校の校庭で行われていた催しに、彼自身も参加したものだろうか。豊田実は、下落合2丁目21番地の4に建っていた、「落合住宅RA-14」に住んでいたので、落合第四小学校へは歩いて数分だったろう。上記の住所は、現在は拡張されたおとめやま公園の「みんなの原っぱ」にあたる区画だ。
 つづいて、下落合のお年寄りたちが開いていた教室が紹介されている。わたしも、1970年代から街の随所で目にしていたが、下落合には習いごとの教室がことのほか多かった。絵画教室やピアノ教室、生花教室、絵画教室、書道教室、着物教室、裁縫教室、茶道教室、陶芸教室、謡曲教室、詩吟教室、算盤教室など、街を歩けば個人邸の前に掲げられた、手作りの小さな看板が目についた。わたしが聖母坂に住んでいたときは、お隣りに三味の音色も江戸東京らしく小唄教室まであった。著者は、娘をピアノや習字の教室に通わせていたようだ。つづけて、引用してみよう。
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 子供がピアノの稽古や習字の手習いでお世話になった先生方は、片や七十七歳、片や八十五歳という高齢であった。たまたま幼稚園児の娘をピアノの先生宅に連れて行くように頼まれた。日頃から厳しい先生だと吹き込まれているので恐る恐るドアを開けると、開口一番「お父さんも聞いていきなさい」と先手を打たれてしまった。坂本龍一を鍛えたということが自慢の一つで、この日もヨーロッパで活躍している教え子からの手紙を紹介しながら厳しい練習が続いた。習字の先生も厳しさは同様であったようだ。(中略) この先生方のように現役で活躍されている高齢者は近所にまだまだ大勢いる。高齢化社会花開くである。
  
 1980年代には、いまだ上記のように習いごと教室が数多く見られたが、21世紀に入ってからは街中で個人教授の看板を見ることが少なくなった。
 家の近所での習いごとが下火になり、なにかを習うなら専門学校に付属する教室へ……というのが増えたせいだろうか。また、楽器の習いごと教室が個人宅で減ったのは、明らかに大手楽器メーカーによるチェーン教室化の影響だろう。習いごとに企業がからむと、標準的(マニュアル的)な教授が中心になり、教師ごとの個性や教え方の特徴が消えていく。
 上記の、「坂本龍一を鍛えた」先生のいるピアノ教室が下落合のどこにあったのかは不明だが、習字教室の家にはブルドーザーがやってきて壊してしまった経緯を記録している。
  
 習字の先生のお宅は戦前からある木造家屋で、生け垣に囲まれた緑の庭には先生の思い出が浸みわたっているようだった。そのお宅が突然、それこそあっと言う間にブルトーザ(ママ)で取り払われてしまった。一体どうしたのだろうと心配していると「病院に勤務していた息子さんが定年退官して開業するため医院を建てるらしい」というニュースが入ってきた。かねがねお年寄の一人ぐらしを気に掛けていたのでその話に安堵した。
  
 これは、1980年代も現在も変わらない、街の姿を少しずつ変えていく建て替えの情景だ。
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村上富士登・編「運輸官僚らくがき帖」1985交通公論社.jpg 豊田實.jpg
 豊田実は、『下落合風景』を書いてからしばらくすると、異動で海上保安庁次長に就任している。それにともない、住まいも品川区の官舎「上大崎住宅」(現在の日刊競馬新聞社界隈)へと転居している。大崎駅のすぐ東側だが、下落合に比べて緑が少なくガッカリしたのではなかろうか。

◆写真上:おとめ山公園の北側、下落合2丁目21番地に建っていた「落合住宅」。2008年(平成20)の撮影で、手前に並ぶ石は保存された相馬孟胤邸七星礎石
◆写真中上は、1975年(昭和50)に撮影された空中写真にみる落合住宅6棟。中上中下は、2007年(平成19)から2008年(平成20)にかけて撮影した同住宅。
◆写真中下は、2010年(平成22)の解体寸前に撮影した落合住宅と七星礎石は、保存されていた相馬邸の庭石。は、落合住宅が建っていた跡の「みんなの原っぱ」雪景。
◆写真下は、1979年(昭和54)に撮影された下落合東部。は、2019年(平成31)撮影の同地域。樹木の緑が、大幅に減退している様子が見てとれる。は、1985年(昭和60)に出版された村上富士登・編『運輸官僚らくがき帖』(交通公論社/)と、『下落合風景』の著者・豊田実()。
おまけ
 御留山のオニヤンマとカブトムシ。カブトムシクワガタなどの虫たちは網戸にくることが多く、何度かこちらでもご紹介している。なお、クロスジギンヤンマは写真を撮り損ねている。
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下落合を描いた画家たち・小野末。

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 下落合1丁目404番地(近衛町6号)にアトリエをかまえていた安井曾太郎は、弟子をとらないことで知られていた。そこへ、新潟師範学校を卒業したばかりで、二科の研究所に通いながら画家志望の小野末(すえ)という青年が、安井の知人を介して訪れてきた。当然すぐに断られたが、何度か絵を見てもらっているうちに師範学校を出ているということで、はま夫人が助け舟をだし子どもの家庭教師兼書生として、なんとか安井家に置いてもらえるようになった。近衛町安井アトリエが竣工したばかりのころ、1934年(昭和9)のことだ。
 それから7年間、安井家に寄宿することになる小野末だが、安井曾太郎は「良い絵ができたら見せるように」といったきり、自身の制作で手いっぱいだったようだ。たまに研究所で描いたデッサンを見せると、かなりやかましく批評された。ことに形と明暗の調子のつけ方に対し、「これは線になって見える。線ではなく、身体の一部として見えなければ」と厳しくいわれた。ただし、作品を見せた当初は「ああ、いいね」と、誰の作品についてもいっていたようで、これは相手を傷つけないためにまずはそういい、そのあとで悪いところを徹底的に指摘するという批判のしかただったらしい。つまり、「ああ、いいね」が出たらそれは悪い作品だということだった。
 小野末は、安井曾太郎の規則正しい1日のスケジュールを記録している。朝は8時に起床し、朝食後9時にはアトリエに入って仕事、昼食後の1時から2時までは午睡、2時からアトリエにこもって7時に夕食、夜はアトリエに入らず挿画の仕事や手紙などアトリエ以外の仕事をこなしている。安井曾太郎は、この生活の一定したリズムを壊されるのを、来客や用事などで乱されるのをなによりも嫌った。小野末が、なぜ夜にアトリエで仕事をしないのかを訊いたところ、「夜の電灯の明りと昼の光線との違いが制作の調子を崩すから」と答えている。
 安井曾太郎は、人に制作中の様子を見られるのが大キライだったせいか、アトリエにはめったに人を入れず、アトリエに他人が入るときは仕事の手を止めていた。また屋外写生では人があまり通らないところにイーゼルを立てていたという。1979年(昭和54)に日本経済新聞社から出版された画集『安井曾太郎』に収録の、小野末『安井先生の制作』からその証言を聞いてみよう。
  
 先生が写生に行かれた時、鉛筆でスケッチをするのでも、傍に人が居ると描かなかったそうだ。野外で描いたことがある人なら、誰でも経験することだと思うが、画架を立てたりすると必ず、どこからともなく人が寄ってくる。そうなると誰でもちょっと嫌な気がするものだが、慣れてくると、私などは、もう構わずに描いてしまうが、先生は、あのくらいの大家になられても、人が居ると、絵具箱を開けたり閉めたり、あるいは、横にちょっと歩いてみたりして、決して描こうとされなかった。(中略) 人が来ると、立ち去るまで中断したり、人が来ないような場所を探して制作されていたようだ。
  
 落合地域で画家がイーゼルを立てていると、たくさんのギャラリーが集まった様子を以前記事でご紹介していたが、こんなところにも安井曾太郎が近所の「下落合風景」をほとんど描かなかった原因があるのかもしれない。たまに描いた『落合風景』は、自邸の敷地西側から林泉園谷戸つづきの深い谷間の、しかも雪景色でありギャラリーなど誰ひとりいない環境だった。
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小野末.jpg 今日的な具象・県人作家三人展図録1979新潟県美術博物館.jpg
 安井家で7年間をすごしたあと、小野末は1941年(昭和16)にすぐ近所に家を借りて自身のアトリエにしている。近衛町の北側、安井アトリエから直線距離で150mほどの下落合1丁目435番地で暮らすようになった。舟橋了助舟橋聖一邸や、近衛新邸に隣接した、南西側のエリアだ。1938年(昭和13)より、創立者のひとりとして安井曾太郎が属していた一水会へ参加し、1943年(昭和18)には一水会賞を受賞、戦後の1946年(昭和21)には一水会会員に推挙されている。安井曾太郎の死後、安井賞展評議員をつとめるが1959年(昭和34)に国際具象派協会を創立、1972年(昭和47)に一水会を退会している。この間、ヨーロッパ各国をはじめ東南アジアやエジプト、ギリシャ、米国、メキシコ、スイスなどを訪れては、各地で作品を仕上げている。
 さて、ちょうど安井家から独立する直前、1940年(昭和15)に制作したのが小野末『落合風景』だ。(冒頭写真) 『落合風景』が、安井アトリエから「卒業」する実質の「卒制」だったのかもしれない。小野末が、安井家に寄宿していたころの作品なので、それほど遠出ができず近衛町も近い、下落合東部の風景を描いた画面だと思われる。中央には、それほど幅が広くない、二間前後の少し曲がりくねった道路が奥へとつづいている。その道路を照らして、光線はほぼ真上にあるようで、夏に近い季節の光景だろうか。左手は高い崖地になっており、崖上の樹木と右側の垣根に沿った樹々とで、画家がイーゼルを立てている位置は日陰になっている。
 左手の高い崖は、少し先へいくと崩落防止の杭が打たれた低めな崖地になっており、日当たりがいいことから上が住宅敷地になっていそうなのがうかがえる。また、左手の地形に比べて右手の地面がやや下がっており、下落合の南へと下る斜面の道筋を描いている可能性が高い。その低めな位置には、大きな洋風とみられる建築物が見えている。この建物には、なにやら離れて付属する物置や焼却施設、あるいは受変電設備のような小さな建物がいくつか描かれており、かなり規模の大きな建築であることを想像させる。また、道路の正面には、空がほとんど隠れるほどの背の高い樹々が密生して繁る、深い森が描かれているようだ。
 1940年(昭和15)の時点で、わたしはこの風景に一致する下落合の場所はたったひとつしか知らない。右手に描かれた、少し低い敷地に建つ大きな建築は、1939年(昭和14)12月に竣工したばかりの、落合第四尋常小学校新校舎だ。それまでの校舎では、入学してくる生徒が収容しきれなくなったため、急遽、北側に大きな校舎を新たに建設している。
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 また、道路の左手に描かれている崖地は、いまは道路の拡幅とともにコンクリートの擁壁で覆われており、その上には落合中学校が建っている。左手の崖地の上は、1940年(昭和15)の時点ではともに住宅敷地として開発され、特に奥の低い崖地の上には家々が建設されていたが、戦後になると落合中学校を建設するために新宿区が買収している。そして、正面に見えているのは旧・相馬孟胤邸御留山(当時は第一徴兵保険東邦生命による1940年からスタートした住宅開発地)であり、奥へつづく道と丁字路でぶつかるのが相馬坂だ。
 小野末は、近衛町の安井アトリエのある袋小路を出ると北へ向かい、近衛町から相馬邸前へとつづく三間道路を左折すると西へ向かった。途中、まだ福岡の香椎中学校へと移設されていない黒門(相馬邸正門)を左手に見て、突きあたりを左折するとほどなく相馬坂の右手に落合第四尋常小学校が見えてきただろう。完成したばかりの大きな校舎は、太陽の強い光をあびて輝いていたかもしれない。その新校舎の手前の道を西へ右折すると、すぐに描画ポイントの場所へとたどり着く。安井アトリエから歩いて、およそ5~6分ほどの距離しか離れていない。
 小野末は、長く安井アトリエで暮らしていたせいで、安井曾太郎の制作の様子や生活の詳細を貴重な記録として書き残している。家庭教師の仕事のほかに、筆洗いなど画道具の手入れや準備も手伝っていた。手製のキャンバスづくりは、一度だけ張らせてもらったが釘の打ち方が等間隔ではないということで、すぐにお役御免となった。筆洗いはつづけたらしいが、安井曾太郎は筆が傷まないよう石鹸で洗うのを常としていた。小野末『安井先生の制作』から、つづけて引用してみよう。
  
 先生が使っておられた筆は、丸筆がほとんどで、柔らかい貂毛が主だった。貂毛は、私もほしいと思ったが非常に高価なものだった。他に豚毛も使っておられた。その筆に付いた絵具を洗い落とすのが筆先洗いの仕事だった。先生は、洗わずに放っておくことは、一日たりともなかったので、毎日必ずしなければならなかった。筆を傷めないということで、テレピン油ではなく、石鹸で洗っていた。洗うのは、先生や家族の入浴が済んでから、私の番のときにしていた。時には、来客などで、先生の入浴が遅くなることがあり、私が入るのが一時頃になってしまうことがあった。
  
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 冬になると、安井アトリエの石炭ストープに火を点け、あらかじめ暖めておくという仕事も加わった。そこでは、見ることを拒絶するように裏返しにされたキャンバスをそっとのぞいて、安井曾太郎が日々加えていく絵筆の様子を垣間見ることができた。小野末は、その様子を克明に日記につけておくことで、自身のタブロー制作の参考にしていた。しばらくすると、はま夫人から「先生が裏返しにしている絵は、見てはいけませんよ」と注意されている。制作中の盗み見は、とうにバレていたのだ。だが、少したつとなにもいわれなくなり、事実上の「黙認」になっていたらしい。

◆写真上:安井アトリエで暮らしていた、1940年(昭和15)制作の小野末『落合風景』。
◆写真中上は、谷間の向かいに住宅が見えるので戦後に撮影されたとみられる安井曾太郎アトリエ。は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる近衛町の北側にあった下落合1丁目435番地の小野末アトリエ界隈。下左は、小野末のポートレート。下右は、1979年(昭和54)に新潟県美術博物館で開かれた「今日的な具象・県人作家三人展」図録。
◆写真中下は、『落合風景』が描かれたあたりの現状で左手の擁壁上が落合中学校敷地。中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる描画ポイント。中下は、1939年(昭和14)12月の竣工時に旧校舎側から撮影された落合第四尋常小学校の新校舎。は、1939年(昭和14)の1/10,000地形図にみる安井曾太郎アトリエから描画ポイントまでの小野末の写生コース。
◆写真下は、1948年(昭和23)に制作された小野末『華街展望』。中上は、1960年(昭和35)に制作された同『荒地』。中下は、1964年(昭和39)制作の同『隠岐の朝暾(ちょうとん)』。は、1973年(昭和48)制作の同『幼い闘牛』。小野末は闘牛が好きだったものか、牛の絵を多く描いている。
おまけ
 このところ、紀文のミカン船からミカンづいているが、山で自然に採れた紀州ミカンにつづいて、下落合の庭で採れたミカンが売っていたので購入してみた。いまは静岡・伊豆ミカンが市場に多く出まわる時期だが、もちろん下落合にミカン農家があるわけではなく、昔から庭に植えられていたものをそのまま収穫したものだ。これぞ、ほんとうの意味での地産地消。下落合産のミカンは、以前に食べた山のなかの自然環境で育った紀州ミカンと同様、甘さ一辺倒ではなく甘さにくるまれた適度な酸味が美味しく、ミカン本来の香りがそのまま残るわたし好みの風味だった。
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上落合に住んでいた松浦総三の仕事。

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 社会評論家であり、本来の意味でのジャーナリストだった松浦総三は、上落合1丁目25番地に住んでいた。1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」を参照すると、すでに松浦邸が採取されているので、敗戦後まもなく上落合に自邸を建設して住んでいるのだろう。大規模な地名・番地の変更が行われた、1960年代後半までは上落合1丁目461番地だった敷地だ。
 松浦総三というと、まず真っ先に思い浮かぶのは戦時中の東京大空襲ならびに山手大空襲を、生涯にわたって早乙女勝元らとともに調査・記録しつづけた仕事だろうか。また、戦後の米軍による謀略事件の事実究明を含め、連合軍占領下の日本から押収した資料類の公開や米軍資料、特に空襲記録の開示、あるいは戦前・戦中を通じて言論弾圧の特高資料類の公開・閲覧、戦後のGHQによる思想弾圧記録の開示などを、米国の公文書館や国防総省など関連組織に要求しつづけ、その公開や開示を実現した人物として知られている。
 その一部の資料については、拙サイトでも東京大空襲の関連資料をはじめ、戦前・戦中を通じての検挙・起訴記録である「特高月報」、あるいは敗戦間近な時期に記録されていた検挙記録である「思想旬報」などをご紹介している。中でも、戦時中に特高がありもしない事件をデッチあげた事例については、生涯にわたってこだわりつづけ、特に雑誌や出版社をねらい撃ちにした戦争末期の「横浜事件」についての記述は多い。1977年(昭和52)に鳩の森書房から出版された松浦総三『太平洋戦争末期の市民生活』から、「あのときのわたし」座談会より松浦の発言を引用してみよう。
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 横浜事件というのは、神奈川県警が東京周辺の文化人、学者、革新官僚、官僚など、ジャーナリストをかたっぱしから捕えて横浜の警察に留置したから横浜事件といいます。その中心は、満鉄の調査部の嘱託であった細川嘉六が「世界史の動向と日本」という論文を「改造」に載せた。当時は校正刷りのときに内務省とか、情報局の検閲課に出す。検閲課でオーケーということになって出版できるようになる。検閲は通った。それで「世界史の動向と日本」は出たわけです。ところが発行後二ヵ月もたった九月になって陸軍の報道部の矢荻華雄中佐が、これは共産主義の論文だと、読売新聞に書きました。すぐ発禁になり、細川さんが逮捕された。細川さんの友だちは昭和塾の人が捕えられた。昭和塾というのは近衛(文麿)さんのブレーンの研究団体ですね。それから細川さんの交友関係で満鉄調査部の連中が捕まる。その後総合雑誌「改造」「中央公論」の編集者たちが捕る。それがエスカレートして五十何人が捕って、拷問で二人は死んで、あとの二人は戦争が終わって解放されてから死んだ。都合四人が拷問で殺された。(カッコ内引用者註)
  
 現在、横浜事件の全貌が明らかになったところでは、拷問による死者が4人、解放後に1名が死亡、重軽傷者30名以上となっている。逮捕者は60名以上で、取り調べ対象者は100名近いともいわれている。また、同時期には大阪商大事件が起きており、50名近い逮捕者を出している。両事件とも、出版界や学術分野をねらい撃ちにした典型的な弾圧事件だ。
 細川嘉六の『世界史の動向と日本』という論文は、1942年(昭和17)現在の日本軍が占領した地域の状況を踏まえ、現地住民に高い教育をほどこして「日本の良さ」を学ばせ、欧米の「愚民支配」から民族を独立させなければならない……というような主旨だった。いってみれば、「大東亜共栄圏」思想の焼きなおしにすぎないのだが、それを特高は「共産主義」思想だと決めつけ出版社を中心に逮捕者60名以上、死者5名を出す大きな治安維持法「違反」事件になった。ちなみに、戦後は松浦総三との共著や対談など、ともに活動することが多くなる中央公論社の編集員だった青地晨も、横浜事件で1944年(昭和19)に逮捕され投獄されている。
 「大東亜共栄圏」的な思想が「共産主義」思想に通じるなら、同様の主旨で太平洋戦争をはじめた政治家や軍人たちを、軒並み治安維持法違反で逮捕しなければ論理的に整合性がとれないだろう。なお、このデッチあげ弾圧事件は、陸軍の東條英機を中心とする一派が、文中にも登場している日米英との開戦に動揺し、和平工作に動きそうな近衛文麿を牽制しようとする陰謀だったとする説もあるようだが、そのような具体的な証言がないので事実かどうかはさだかでない。
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 わたしは学生時代、大学のシンポジウムに呼ばれた松浦総三の講演……というか、参加学生が50名ほどだったのでほとんど教室の講義かゼミのような雰囲気でお話を聞いたことがある。その情報量と知識たるや圧倒的で、特に戦前・戦後を通じて国内における思想・宗教の統制・弾圧や、空襲被害の伝承にかけては、改めて第一人者的な存在であることを認識させられた。それらに関する著作も多く、書籍化されていない評論や記録類も含めると膨大な量になるだろう。
 国立国会図書館の蔵書には、松浦総三の著作や共著、編著、書籍化されず雑誌に掲載されたままの文章、あるいは彼に関連した論文や引用した書籍類が、実に5,000冊以上も収蔵されているのを見ても、その生涯にわたる旺盛な執筆活動の軌跡がうかがえる。面白いことに、その国立国会図書館のあり方についても、松浦総三は真正面から注文をつけている。「国立国会図書館を考える会」の事務局長になり、1979年(昭和54)に白石書店から出版された松浦総三・編著『国立国会図書館の課題』から、同図書館の職員組合が起草した「よびかけ」より引用してみよう。
  
 国立国会図書館は『真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和に寄与することを使命として』設立されました(中略) ところが最近その理念も次第に色褪せつつあります。その最大の原因は、草創期の館長、副館長なきあと、後任館長の選任にあたった両院議院運営委員会が衆・参両院事務総長経験者を交互に館長に就任させるという慣習をつくったことにあります。国立国会図書館法によると、館の任務として納本制度を基礎に内外の図書館資料を網羅的に収集し、国権の最高機関である国会に奉仕するとともに、司法・行政および国民にも広く奉仕することがうたわれています。(中略) 館長の任期四年という慣行のために、国会や国民の要望に応え、数十年先を見通した大構想をもち、地道な館運営をするということが殆ど不可能になっています。職員の声はおろか、図書館界の声をも真剣に聞こうとせず、官僚的、独善的な業務運営が日常化し、国立国会図書館はこれでよいのかという声が世論になっています。
  
 要するに、国会図書館の館長のイスが、官僚の天下り先ポストのひとつとして“利用”され、図書館事業に無知な人間が責任者となるため、図書館運営の将来的なビジョン(思想)や、一貫した業務姿勢が存在しなくなったということを嘆く職員たちの文章だ。
 これはそのとおりで、海外では一度図書館の責任者(図書館運営に精通したプロのポジション)に就いたならば、そのビジョンや事業的なコンセプトが実現するまで、30~40年は変わらないのが通例だ。それによって、図書館の機能進化や時代あるいは社会の変化に沿った、一貫した仕組みづくりをしていく。同書でも、欧米の議会図書館の館長・副館長が、30~40年周期で決定される事例をあげて指摘している。ところが、国会図書館では4年ごとに官僚天下りの人物が館長に就任し、しかも図書館に関してはまったくの素人だった。この悪弊は実に2007年(平成19)までつづき、以降、大学の学者が就任するようになったが、一時の腰かけ的な4年任期は現在も変わっていない。
昭和特高弾圧史1太平出版社1975全8巻.jpg ドキュメント太平洋戦争1975汐文社・全5巻.jpg
松浦総三の仕事3ジャーナリストとマスコミ全3巻1985大月書店.jpg 現代ジャーナリズム事件誌1977白川書院.jpg
週刊誌を斬る1980幸洋出版.jpg 清水幾太郎と大宅壮一1978世界政治経済研究所.jpg
 松浦総三は上落合で、晩年にいたるまで一貫して執筆や記録をやめなかった人物だ。また、黒柳徹子や山田洋次、西田敏行らとともに、日中友好協会が主宰する「平和のための戦争展」の呼びかけ人になるなど社会活動にも熱心だった。そこまで彼を衝き動かし反戦や平和、言論弾圧にこだわりつづけたのは、自身が学生時代に合法的な書籍をもとに友人たちと読書会を開いていたところ、1941年(昭和16)に特高から摘発され、徹底的な取り調べを受けたのが契機となったとみられる。横浜事件と同様に、当時の特高による典型的なデッチあげ「事件」だった。
 当時の様子を、前出の松浦総三『太平洋戦争末期の市民生活』(座談会)から引用してみよう。
  
 特高は「その読書会は共産党再建のための秘密読書会だろう」というのです。私は、むろん否定しました。そんなたいそれた(ママ)ことは全然身に覚えはなかったからです。/ところが、特高は、それを認めないと、「一年でも二年でも、家に帰さないぞ」といいました。そして「共産党再建のための読書会をやりました」という文書を警察の書記が書いて「これに署名して母印を押せ」というのです。拒否すると「お前なんか天皇に反対するヤツは殺してもよいことになっている」といっておどかすのです。/一九四一年春に、このとおりですから、戦争が旗色がわるくなると、もっとヒドくなりました。「敗けているらしい」といえば、アカということで逮捕されました。/昭和十九年の十月の東京新聞は、月産三千機の飛行機をつくれ、という社説を書いて、その三千機というのが軍の機密を漏えいしたということで、新聞は発禁になった。/もっとヒドいのは、新名又夫という毎日新聞の記者は、竹槍では勝てぬ、飛行機をつくれ、と書いてその新聞は発禁です。おまけに新名記者は四十歳なのに兵隊として徴兵され、危うく外地へ送られるところでした。
  
 部課の“業績”を上げるため、あるいは大卒のエリートが気にくわないため(横浜事件ではそう陳述した元・特高もいたとか)、もはや滅茶苦茶な“ナンクセ”をつけて、「事件」をデッチあげていった様子がうかがえる。ほとんど正気の沙汰とは思えない、弾圧組織の人間たちは解離性障害に近い精神状態だったのではと思えるほど、戦争末期には追いつめられ錯乱していったように映る。
太平洋戦争末期の市民生活1977鳩の森書房.jpg 天皇裕仁と東京大空襲1994大月書店.jpg
国立国会図書館の課題1979白石書店.jpg 戦時下の言論統制1975白川書院.jpg
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 松浦総三は、敗戦直後から改造社へ入社し、1955年(昭和30)に同社が解散すると同時にフリーの評論家やジャーナリストとしての活動に入っている。「東京空襲を記録する会」代表をはじめ、さまざまな組織・団体の代表や事務局長をつとめてきた。いま、世の中がもっとも必要としているのは、戦前・戦中を通じた「亡国」思想を真っ向から批判する、このような人物たちの存在だろう。

◆写真上:上落合1丁目25番地にあった、松浦総三邸跡の現状(道路右手)。
◆写真中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる松浦総三邸。は、1975年(昭和50)の空中写真にみる上落合の松浦邸。
◆写真中下上左は、1975年(昭和55)出版の『昭和特高弾圧史』全8巻(太平出版社)。上右は、同年に並行して出版された『ドキュメント太平洋戦争』全5巻(汐文社)。中左は、1985年(昭和60)出版の『松浦総三の仕事』全3巻(大月書店)。中右は、1977年(昭和52)出版の『現代ジャーナリズム事件誌』(白川書院)。下左は、1980年(昭和55)出版の『週刊誌を斬る』(幸洋出版)。下右は、1978年(昭和53)出版の『清水幾太郎と大宅壮一』(世界政治経済研究所)。
◆写真下上左は、1977年(昭和52)に出版された『太平洋戦争末期の市民生活』(鳩の森書房)。上右は、1994年(平成6)出版の『天皇裕仁と東京大空襲』(大月書店)。中左は、1979年(昭和54)出版の『国立国会図書館の課題』(白石書店)。中右は、1975年(昭和50)出版の『戦時下の言論統制』(白川書院)。下左は、松浦総三のプロフィール。下右は、松浦とのコラボ仕事が多かった青地晨。

下落合にあった創立時の新興美術院。

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 旧態然として、表現に不自由な日本美術院に嫌気がさし、新しい日本画をめざす画家たちが集まって、1937年(昭和12)9月に結成された新興美術院の事務局が、創立当初は下落合にあった。下落合1554番地に建っていた、日本画家・小林三季(丈之進)のアトリエだ。
 下落合4丁目1554番地(現・中落合3丁目29番地)は、落合第三府営住宅の西側エリアで、目白通りから35mほど南へ入った住宅街の中だ。西へ約50mあまり進めば、隣りの西落合との境界があり、葛ヶ谷街道添いの渋沢農園分譲地も近い。10年以上の時代的なズレがあるが、小林三季アトリエの近く、南側の区画には佐伯祐三も立ち寄っていたとみられる、下落合1560番地で暮らしていた前田寛治のアトリエ跡もある。だが、新興美術院の事務局は小林三季アトリエから、ほどなく下谷区竹町95番地(現・台東区台東3丁目)へ移転している。
 なお、1937年(昭和12)前後という時期は、下落合にふられた番地が微調整で少しずつズレるか、変更されたタイミングにかぶっていると思われる。新興美術院の創立時、下落合4丁目1554番地だった小林三季アトリエは、翌1938年(昭和13)作成の「火保図」によれば、下落合4丁目1559番地になっており、1554番地は目白通り沿いの狭い区画にふられている。ところが、戦後になると1554番地は、再びアトリエを含む位置にまで拡大されているのが確認できる。
 新興美術院は、1941年(昭和16)に三鷹町へ研究所を新設している。所在地は、三鷹町牟礼井之頭公園池水門343番地の7で、通称「井之頭研究所」と呼ばれた。戦後になると、新興美術院研究所は目白に移転してくる。1954年(昭和29)に、同研究所は目白町3丁目3559番地(現・目白3丁目19番地)に新設され、通称「目白研究所」と呼ばれていたようだ。この研究所は、現在の豊島区立目白庭園のすぐ南側にあり、戦災で多くの住宅が焼失したエリアだ。
 少し余談だけれど、戦後の新興美術院には目白文化村の第一文化村にアトリエをかまえていた、日本画家・渡辺玉花も参画している。1956年(昭和56)の入選を皮きりに、1972年(昭和47)には文部大臣奨励賞、1988年(昭和63)には同院の理事長に就任している。
 新興美術院は、茨木衫風をはじめ保尊良朔、吉田澄舟、田中案山子、内田青薫、小林三季、小林巣居、鬼原素俊、芝垣興生、森山麥笑ら12名の日本画家たちが集まって創立した美術団体だった。従来の日本美術院の体質や、院展の選考などに不満をもつ画家たちが結集したようだが、すかさず日本美術院による切り崩し工作があったのだろう、12名のうち早くも2名が脱落して院展にもどっており、1938年(昭和13)に東京府美術館で開催された第1回新興展では、10名の画家たちによる14作品と、一般公募で入選した34点の作品が展示されている。
 新興美術院について、1987年(昭和62)に山口県立美術館から刊行された『日本画・昭和の熱き鼓動』収録の、菊屋古生「昭和初期 新日本画運動についての一試論」より引用してみよう。
  
 この団体の特徴となると、なかなかひとくちではとらえにくい。雑誌の図版や絵葉書などで見るかぎりにおいては、その画風は多岐に及んでいる。形態や構図に新感覚を発揮しながら、そのいっぽうで南画的趣向をもつ小林(巣居)、田中、茨木。王朝風俗の雰囲気をふくんだ歴史画を描く小林(三季)。温雅な花鳥画を得意とする吉田、内田。あるいは抒情性豊かな動物画の芝垣。現代風俗をもりこむ人物画の鬼原。さらに形態を立体主義的にとらえる森山、保尊など、多種多様な作風をこの新興展はとりこんでいたようである。戦後、この団体の理事長となる中島健蔵も、「同人諸子の画業が、外面的な類似によってつながってゐるどころかむしろ各々の独自性によってグループを意味づけてゐること」を、この団体の大きな特徴のひとつとしてあげている。
  
 中島健蔵の言葉にならえば、数多くの“お約束”が多く、「やってはいけない」表現やモチーフ選びのタブーだらけたった日本美術院=院展では、なにか新しい独創的で個性的な表現を試みようとすると、展覧会(院展)には決して入選できないという、保守的な姿勢に愛想をつかした日本画家たちが脱退し、現代的な表現をめざして新たに結成したのが新興美術院ということになる。
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 もっとも、日本美術院=院展自体も出発点は、それまでの日本画には見られない革新的な表現を産みだしていたはずであり、本来は昭和初期のような保守的かつ官僚的な美術団体ではなかったはずだという無念の思いも、新興美術院を結成した画家たちの間にはあったと思われる。彼らの眼には、旧態然とした日本画ばかりを生産する日本美術院は過去の日本画であり、1930年代にふさわしい作品には見えないという感覚も強かったのだろう。
 新興美術院の会員たちが、日本美術院の存在自体を否定していないのは、彼らが新興美術院を結成した際、岡倉天心横山大観たちが新たな表現に挑み苦闘した、茨城県五浦(いづら)の“聖地”を訪れていることからもうかがえる。彼らは、1930年代の日本美術院=院展にアンチを唱えているのであり、日本美術院の出発点や思想を否定しているわけではなかった。
 新興美術院のメンバー7人が、結成から約2年後の1939年(昭和14)9月に訪れた茨城県の五浦の様子について、小林三季が美術誌にエッセイを残している。1939年(昭和14)に刊行された「阿々土」10月号(阿々土社)に掲載の、小林三季『五浦行』から少し引用してみよう。
  
 海の水平線はその庭園よりみられ、其の日は暗紫色のトボリをたれ、波は近く岩を嚙み霧立のぼり、都熱を洗ふに充分の響を私達の神経に伝へてくれた。/或る意味に於て五浦は、私の憧れの地、一度はこゝへ来てみたいと思ふこと久しきものがあつたが院展の作家となつて十年、遂にその念願を果し得ず、院を去りて今日こゝに来たる、そこには云ひ知れぬ感情が私の胸にせまりくるのを覚えた。/翌日、岡倉天心先生の墓前にぬかづく私達七人の心情は粛として暫声なし、碧したゝる梢のゆらめき心にしみて何かしら浄められたような深い感銘を得た。/傍のあづまやの風致、あざやかに咲く八仙花タゴール弔霊の松風韻々と袖をうるほし、五浦の海は美しく望められた。道数十歩の間に横山先生の御別邸あり、余りの懐かしきにこのまゝ立ち去り兼ね…(以下略)
  
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 小林三季は埼玉県の羽生で生まれ育っているが、前出の菊屋古生が書いた「試論」にある「王朝風俗」の歴史画が得意だというよりも、古今東西の物語や民話、説話などを題材に発想を自由に拡げ、それを日本画の手法で表現していくのが得意だったようだ。
 彼は、かなりのロマンティストだったらしく、絵巻物のような「王朝風俗」ばかりでなく、まるで洋画を思わせる西洋の物語をテーマにした作品や、昔の生活における風俗、街角などを描いた記憶画なども得意としていた。たとえば、その作品には『サンタ・マリア雪の祝日』(1939年)や『なみ姫物語』(1940年)、『たけくらべ』(1941年)などがみられる。
 また、小林三季は羽生の三田ヶ谷村にある弥勒尋常高等小学校を卒業しているが、そのときに教えを受けていた同校の教師が小林秀三だった。文学好きの方ならピンとくるかもしれないが、小林秀三は田山花袋が彼の日記を参照しながら、小説『田舎教師』のモデルにした人物で、1909年(明治42)に同作を発表している。のちに、小林三季は田山花袋の『田舎教師』をテーマとして、小林秀三とすごした弥勒小学校時代の光景を、『田舎教師絵巻』(1960年)の“記憶画”として発表し、同年の秋に日本橋三越で展覧会を開催している。
 『田舎教師絵巻』に描かれた「弥勒小学校」には、小林三季のキャプションが添えられている。
  
 生徒等は皆な運動場に出て遊んだ。ぶらんこに乗るものもあれば、鬼事(おにごっこ)をするものもある。女生徒は男生徒とはおのずから別に組をつくつて、綾を取つたり、お手玉を弄んだりしている。運動場を縁取つて、白楊の緑葉が疎らに並んでいるが、その間からは広い青い野が見えた。
  
 『田舎教師絵巻』には、ほかに「みろくへの道」や「つつじヶ丘」、「中田の宿」、「成願寺の雪」、「羽生の雨」、「みろく野の幻想」、「美穂子の家」などの“記憶画”が描かれている。
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 ところが、しばらくすると羽生にある建福寺へ、『田舎教師絵巻』を奉納したいからつづきを描いてくれと、とある人物から依頼された。そこで、小林三季は続編『田舎教師絵巻』として仕上げ、「田作蔵」や「弥勒高等小学校」、「弥勒野の白昼夢」、「勘兵衛松」、「中田遊郭」、「東京音楽学校」、「父母」、「建福寺」など小説関連の情景を描いている。作品を散見すると、小説や物語の挿画家としても活躍できたのではないかと思うのだが、実際に挿画を描いたかどうかはさだかでない。

◆写真上:1939年(昭和14)に、下落合のアトリエ付近で撮影された小林三季。
◆写真中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる空襲をまぬがれた小林三季アトリエ。中上は、1960年(昭和35)作成の「東京都全住宅案内帳」にみる同アトリエ。中下は、1937年(昭和12)に発表された新興美術院結成の同人10名。は、1938年(昭和13)に東京府美術館で開催された第1回新興展と新興美術院メンバーたちの記念写真。
◆写真中下は、1939年(昭和14)に茨城県五浦の“聖地”を訪れた新興美術院の一行7人による旧・岡倉天心邸前での記念写真。中上は、1941年(昭和16)に井之頭公園池水門343番地に新設された新興美術院研究所。中下は、戦後の1954年(昭和29)に目白町3丁目3559番地へ再び開設された新興美術院研究所。は、下落合で撮影された晩年の小林三季。
◆写真下は、1939年(昭和14)に制作の小林三季『サンタ・マリア雪の祝日』。中上は、1940年(昭和15)に制作された同『なみ姫物語』。中下は、1941年(昭和16)に制作された同『たけくらべ』。は、1960年(昭和35)に制作された同『田舎教師絵巻』収録の「弥勒小学校」。
おまけ
 小林三季は、街角の“記憶画”もよく描いている。下の画面は、1938年(昭和13)に制作された『記憶にのこる神田大時計図』で、外神田にあった京屋本店の時計塔(明治風景)を描いたもの。
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大泉黒石宅の周囲をウロつく騎乗の憲兵隊。

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 大泉黒石の転居先の住所が、もうひとつ判明した。1926年(大正15)に長崎町大和田2028番地(現・南長崎1丁目)から、下落合744番地(現・下落合4丁目)へ転居してきたあと、再び山手線の内側へともどり、1932年(昭和7)の時点で記録にみえる、また書籍などでも昭和初期の住所として頻出する高田町鶉山1501番地(現・目白2丁目)、ちょうど目白警察署の裏あたりへもどっているのではないかと考えてきた。
 ところが、1928年(昭和3)現在で高田町雑司ヶ谷679番地にいたことが、1928年(昭和3)に時事通信社から刊行された『時事年鑑 昭和四年版』を見るとわかる。つまり、1926年(大正15)9月に下落合744番地へ転居してきた大泉一家は、ほんの2年ほど暮らしただけで、以前から住んでいた高田町へ再びもどっていることになる。雑司ヶ谷679番地は、法明寺威光稲荷のすぐ北側で、本立寺との間に位置する現在の南池袋2丁目19番地あたりだ。当時は、雑司ヶ谷の市街地から北へと伸びる、田畑をつぶした新興住宅地だったろう。ほとんど数年に一度、短いところでは6ヶ月で転居するという、大泉黒石は聞きしにまさる引っ越し魔だ。
 1921年(大正10)に東京帝大近くの本郷から、高田町雑司ヶ谷442番地に転居して以来、関東大震災をはさみ長崎村五郎窪→長崎町大和田→落合町下落合、そして再び高田町雑司ヶ谷679番地と、6~7年ぶりに雑司ヶ谷地域にもどっていることになる。大泉黒石が、雑司ヶ谷地域に親近感をおぼえるのは、彼が親しみをこめて「雨ノ雀(あまのじゃく)さん」と呼んだ秋田雨雀をはじめ、友人知人が多く住んでいたせいもあるのだろう。
 大泉黒石は、雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)の境内のすぐ北側にあたる、雑司ヶ谷22番地に住んでいた秋田雨雀についてこんな表現で書き残している。1972年(昭和47)に桃源社から出版された、大泉黒石『人間廃業』(初出は文禄社の同書で1926年)から引用してみよう。
  
 雑司ヶ谷の雨の雀(あまのじゃく)さんみたいに、田舎娘の足袋地にする縞目の荒い(ママ:粗い)コールテンの袋をかぶった大正詩人の風態を見ると、日本だから構わんようなものの、毛唐の巡査に言わせたら、本署まで来いだろうと思ったことがある。(カッコ内引用者註)
  
 黒石が雑司ヶ谷にもどったころ、秋田雨雀は日本社会主義同盟に加わる社会主義者、エスペランティスト、国際文化研究所の所長、小説家、詩人、劇作家、童話作家など、さまざまな顔をもつ雑司ヶ谷地域の文化をになう中心的な位置にいただろう。ついでに、街の“顔役”的な存在として、地元・雑司ヶ谷町会の副会長もつとめている。ときの政府に異議・反対を唱える社会運動家が、町会の幹部をつとめるなど、戦後はともかく戦前は異例だった。
 それだけ、秋田雨雀は町民からいち目置かれる、あるいは町民を惹きつける魅力のある人物だったとみられる。そういえば以前、秋田雨雀邸から数軒ほど離れた南西隣りの雑司ヶ谷24番地に住み、大正末に『大日本帝国御皇統体系図』(三才社)を出版した江副弘忠をご紹介していた。江副はガチガチの「皇国史観」の持ち主にもかかわらず、親しく秋田雨雀邸へ頻繁に出入りし、1929年(昭和4)に出版した『高田の今昔』(三才社)には序文まで書いてもらっている。
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 さて、少し時代はさかのぼるけれど、黒石が雑司ヶ谷442番地に住んでいたころ、東京地方を中心にマグニチュード7.9の関東大震災が襲った。雑司ヶ谷地域はほとんど被害がなく死者も記録されておらず、住宅の屋根瓦が落ちる程度で済んだようなので、大泉宅もおそらく無事だったのだろう。1923年(大正12)9月1日、震災直後の雑司ヶ谷の様子を1978年(昭和53)に青蛙房から「シリーズ大正っ子」の1冊として出版された、森岩雄『大正・雑司ヶ谷』より引用してみよう。
  
 坂を登ると、町並はだいぶ静かになり、大塚近辺は何事もなかったような感じであった。私は歩きながら、これは喰べものに困ることになりはしないかと直感し、見つけた団子屋に入って持てるだけ団子を仕入れて、護国寺を経て、やっとの思いで雑司ヶ谷の家にたどりついた。この辺は全く平静で、わが家も二階の瓦が二、三枚落ちた程度で何事もなく、やれやれという思いで、皆で団子を喰べた。/ところが夜になると、様子はまるで変わってしまった。雑司ヶ谷から見る東京の空は赤く燃えて四方は炎につつまれていた。これは大変なことになったと思った (後略)
  
 ここでもまた、雑司ヶ谷から東京市街地を眺めたとき、あえて「東京の空」と書いている点が興味深い。裏返せば、大正当時の意識では北豊島郡高田町雑司ヶ谷は「東京の空」ではないということになる。高田町より西側の、落合地域中野地域に住んでいた人たちは、およそ新宿駅東口の伊勢丹デパートあるいは四谷大木戸跡から先を「東京」と意識していたらしいことが記録されているが、雑司ヶ谷ではどこから先を「東京」と呼んでいたのだろうか?
 大震災から数日後、秋田雨雀邸の周囲を、騎乗の憲兵たちがウロついていたのが記録されている。震災直後から、陸軍の憲兵隊による共産主義者や社会主義者、アナキスト、労働運動家たちに対する検束や暴力、恫喝、抑圧がはじまっていた。6歳の橘宗一を含む、大杉栄や伊藤野枝を虐殺した憲兵隊による「大杉事件」や「亀戸事件」が発生したのも同時期のことだ。昭和に入って思想弾圧の中心となる特高は、いまだ存在していない。
 雑司ヶ谷鬼子母神の裏、雨雀邸の周囲をウロついていた憲兵は、なぜか雑司ヶ谷442番地の大泉黒石宅の周辺も騎乗で徘徊しては、「社会主義者」の大泉宅はどこかを探して聞きこみしている。大泉黒石が「社会主義者」だったとは、大正の当時もいまも初耳だが、このひと言で憲兵隊では彼の著作などロクに調べても読んでもおらず、政府の意向に反するような言葉を記した人物は、すべて大雑把に「社会主義者」か「無政府主義者」と規定していたらしいことがわかる。戦前の、資本主義の政治思想基盤である自由主義や民主主義を口にしただけで、「アカ」と呼ばれた状況にとてもよく似ている。このような連中の姿に、大日本帝国をわずか77(ひちじゅうひち)年で滅亡に追いこんだ、「亡国」論者の原型が透けて見えるようだ。
 震災直後に見られた大泉宅の様子を、桃源社版(1972年)の『人間廃業』から引用してみよう。
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 かくて僕のために只一ツあるものは、(震災時に)日本政府がくれる消化不良の玄米と、一と口で恐れ入る鯨の缶詰のまえに兜をぬがざるを得ざるの止むなきに到った空腹にすぎないまでた。贅沢だと云うなら一ツ如何です? とは云うものの、とは云うもののだ。よござんすか? あの痛快な露西亜革命のみぎり、国外へ逃げそこなった僕の同業者のレオニド・アンドレエフやアルツィンバシェフなどが、一切のパンをつくるために憂身をやつして麦粉を探し廻った実際から見れば、楽も大楽だ。そのアンドレエフみたいに兵隊から附狙われる心配もない。もっとも、あの奇怪なるアナアキスト夫婦が殺されようとするとき、「この村に、こう云う社会主義者が居る筈だが、家はどこか?」と尋ねて村の駐在所へやって来た騎兵大尉どもがあることはあった。騎兵大尉どもは、この一篇を読んで大いに悟れ! 折角その素敵にいい頭で判断して、本人の僕には一言のことわりもなく社会主義者にしたのだろう。(カッコ内引用者註)
  
 文中の登場するレオニド・アンドレーエフとミハイル・アルツィバーシェフは、1905年のロシア第一次革命時代に執筆していた作家たちだ。
 「よござんすか?」と、噛んで含めるように「素敵にいい頭」(大べらぼー)の憲兵たちへ、ちゃんと日本語を読解しているのかと「騎兵大尉ども」へいい聞かせる、大泉黒石の文章は同作のなかでは白眉の調子で痛烈だ。だが、意外なことに憲兵隊を引きあげさせたのは、雑司ヶ谷にある高田警察署の駐在所にいた「Kという」巡査だった。黒石はその経緯を、彼を心配してやってきた毎夕新聞の記者から聞いて知った。駐在所の警官は、「大泉さんは、この際そんな活躍するような文学者ではありません」と憲兵隊に告げて引きとらせていた。そして、あとで心配になったのか、K巡査は大泉宅に寄って「例の騎兵だか憲兵だか此の四五日、お宅のまわりを角袖でブラついているようです」と、こちらも黒石に注意をうながす報告を入れている。昭和に入り、特高が創設されてからの警察とは、ずいぶん印象が異なるのがわかる大正期のエピソードだ。
 『人間廃業』の中で、大泉黒石は震災直後の流言も記録している。それらは、東京市や府内に伝わった流言ではなく、東京近県で流れたウワサ話だ。ひとつは、震災で火事に追われ東京を脱出した学生が、筑波山麓まで逃げてふり返ったところ、「東京全市が水底に沈み去」ったというものだ。水面には、浅草の十二階(凌雲閣)の先がちょっとだけ見えていたというのだが、この学生は方向音痴だったものか霞ヶ浦を水没した東京と見誤ったらしい。
 また、長野県では東京が大地震で壊滅したと聞き、山に登って東の方角を見わたすと、東京は海嘯(つなみ)に襲われて白い波が渦巻いていたというものだ。白い波まで見えたということなので、望遠鏡か双眼鏡を手に山へ登ったとみられるが、おそらく相模湾か東京湾をのぞいて錯覚し、先の学生と同様に水底に沈んでしまったと誤認したのだろう。大泉黒石は、これらの流言に対し「顛倒性も烈しく、ピントも、あまりに狂い過ぎる」と、そのバカバカしさを嘆じている。
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 大震災の混乱のなか、さまざまな人間模様をクールに観察しつづけた大泉黒石は、3年後の1926年(大正15)に出版された同書『人間廃業』でこんなことをいっている。「日本人が幾ら不逞思想の洋服を着て、危険哲学の靴をはいて、舶来の問題に熱中しようと、一と肌脱げば、先祖代々の魂があらわれて、鼻の穴から吹き颪す神風に、思想の提灯も哲学の炬火も、消えてなくなるにきまっているんだから世話はない」。20年後の国家破産と「亡国」を、まるで見透かすような黒石の預言だ。

◆写真上:下落合744番地から転居した、雑司ヶ谷679番地(現・南池袋2丁目)界隈の現状。
◆写真中上は、1926年(大正15)に作成された「高田町北部住宅明細図」に収録の高田町雑司ヶ谷679番地界隈。は、雑司ヶ谷679番地の北側に位置する本立寺の門前。は、雑司ヶ谷679番地の南側にあたる法明寺の本堂。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」に記載された雑司ヶ谷442番地界隈。は、雑司ヶ谷442番地界隈の現状(道路左手)で、正面の緑地は雑司ヶ谷公園こども広場。下左は、1972年(昭和47)に出版された大泉黒石『人間廃業』(桃源社)。下右は、1978年(昭和53)に出版された森岩雄『大正・雑司ヶ谷』(青蛙房)。
◆写真下は、1923年9月1日に雑司ヶ谷から撮られた関東大震災による東京市街地の大火災積雲(AI着色)。は、学生時代に撮影された大泉黒石(同)。 は、小平霊園に眠る大泉黒石の墓碑
おまけ
 都バスの停留所「鬼子母神前」で、とてもおかしな表記を見つけた。鬼子母神は、江戸東京の地元の方なら「きしもじん」と発音するのは自明のことだが、なぜか都バスや都営地下鉄の交通機関に限り、どこの発音だか知らないが訛って「きしぼじん」と呼称し、またそのように不可解なルビがふられている。ローマ字表記も、「Kishibojin」と、地域性が不明なルビになっている。ところが、ローマ字に併記されているハングル文字は、ちゃんと正しく「키시모진(きしもじん)」とふられており、「기시보진(きしぼじん)」などというおかしな名称にはなっていない。「きしぼじん」などという神は、この世に存在しない。東京メトロ豊島区の資料類のルビなどは、すべて正しく「きしもじん」となっているが、東京都の表記だけハングル文字が正しく、日本語の発音およびルビやローマ字の表記が誤っていることになる。これって、すごく恥ずかしいことじゃないか?
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下落合を描いた画家たち・鈴木良三。(2)

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 1936年(昭和11)の当時、江古田(えごた)に住んでいた鈴木良三の作品に『風景』という画面がある。(冒頭写真) 一見して、江古田と西落合の境界にある、野方配水塔を描いているのがわかる。配水塔の凸部(階段室)の向きからして、手前の畑地は西落合エリアのものだ。ヤフオクに出品されていたのを、pinkichさんよりご教示いただいた。
 当時は高層の建物がなく、また西落合から江古田にかけては田畑も多かったため、中野区江古田931番地の鈴木良三アトリエからは、荒玉水道の野方配水塔がよく見えていただろう。江古田931番地は、ちょうど中野療養所(江古田療養所/現・江古田の森公園)の北側、現代でいえば大江戸線・新江古田駅の西、豊多摩東小学校のやや西側にあたる敷地だ。
 野方配水塔は1929年(昭和4)に竣工しているが、荒玉水道が落合地域一帯へ通水したのは、前年の1928年(昭和3)からだった。しかし、落合地域では水道の普及率が低く、目白崖線の関東ローム下の礫層から湧きでる清冽で美味な泉水や井戸水が、その後も長く使われつづけている。現在でも、当時からの井戸は落合地域の各所で見られる。
 鈴木良三は、おそらく武蔵野鉄道を利用していない。アトリエから見える野方配水塔をめざして、徒歩で写生地に向かっているのだろう。江古田931番地のアトリエから野方配水塔まで、直線距離で1,500mほどしか離れていない。画家は、野方配水塔をグルリと廻りこむようにして歩き、階段室の見え方からして西落合1丁目190番地(現・西落合3丁目)あたりに、イーゼルを立てて描いているのだろう。およそ平安期ごろから「妙見山」と呼ばれた丘陵の、ちょうど北側斜面下の麓あたりだ。画面を観察すると、地形が左手(南側)に向かって盛りあがっているのが確認できる。この傾斜が、画家の描画地点からいって妙見山の北斜面の一部だとみられる。
 ただし、描かれた風景にはおかしな点もある。1936年(昭和11)に制作された作品にしては、画面に西落合の住宅が少なすぎるのだ。野方配水塔の階段室がこの角度で見える前面に、これほど畑地が広く開けて見通しがきき、配水塔までの間に住宅が見えない風景は、1936年(昭和11)の時点ではありえないからだ。それは、同年に撮影された西落合の空中写真からも明らかなことだ。また、昭和初期から進む耕地整理の過程で、西落合には広めな三間道路が碁盤の目のような敷かれていたはずだが、そのような様子も画面の風情からは感じられない。キャンバスの裏には、「昭和十一年/鈴木良三」の貼り紙があるようなのだが……。
 1936年(昭和11)という画面の不自然さについて、考えられることは3つほどあるだろうか。ひとつは、制作年が誤認されているケースだ。この画面が、大正末から昭和初期にかけての葛ヶ谷風景(1932年までは落合町葛ヶ谷で同年10月より淀橋区西落合)だとしたら、まだ納得できるかもしれない。けれども、野方配水塔の竣工は1929年(昭和4)だ。また、鈴木良三は1928年(昭和3)5月から1931年(昭和6)12月まで、フランスを中心にヨーロッパに滞在しており日本にはいない。帰国後、江古田にアトリエをかまえるのだが、たとえば制作年が誤りで帰国の翌年、1932年(昭和7)に描かれた作品だとしても、住宅の数が少なすぎるように感じる。
 ふたつめの可能性としては、鈴木良三の“構成”画面ではないかということだ。すなわち、手前にパラパラと見えているはずの住宅群はすべてカットし、野方配水塔の階段室まで見通せる空間を、葛ヶ谷時代からつづく畑地として描いている。すなわち、遠景に見えるアパートや牧舎のような建築(配水塔の東側に通う道路沿いの建物だろう)のみを、選択して描いているのではないかという可能性だ。このようなコラージュ作品が、鈴木良三が制作した同時期の風景画にも存在しているかいないかは不明だが、当時としてはそれほどめずらしくない制作手法だったろう。
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 3つめの可能性は、そもそも描かれている配水塔が野方配水塔ではなく、同塔とは“双子”の存在である板橋区の大谷口配水塔ではないかという疑念だ。けれども、これは1936年(昭和11)に撮影された大谷口配水塔の空中写真を参照すると、すぐにもありえないことがわかる。大谷口配水塔の階段室がある側の一帯は、すでに住宅が密集して建設されており、このような風景は野方配水塔の周辺以上に想定しにくいからだ。また、鈴木良三のアトリエが江古田にあり、その同じ町内の東端にある配水塔をモチーフにして描いたと考えるほうが自然だろう。
 強いて挙げるなら、もうひとつの可能性は、同作が1936年(昭和11)の西落合に拡がる実景をよく知らずに描いた、誰かの贋作ではないかという疑義だ。だが、画面のタッチやマチエールは鈴木良三が描いたといえば不自然ではないし、キャンバスを張った木枠もそれなりの年代を経ていて、1936年(昭和11)制作の雰囲気に合致している。さらに、それ以前の課題として、かなりの手間ヒマかけて贋作するほど、鈴木良三の作品が市場で高額に取引されているかという疑問も頭をもたげる。わたしの感触としては、ふたつめの可能性、すなわち野方配水塔を遠景に、手前のなにもない畑地は画家による実景から外れた“構成”のように思われる。
 さて、1935年(昭和10)前後になると、野方町江古田151番地に建つロマネスク調の野方配水塔を、モチーフにする画家が急増している。約34mもある同塔は、画家たちが多く住んでいた落合地域からもよく見えたためで、早い作品は竣工直後から制作されはじめている。たとえば、1929年(昭和4)に宮本恒平が描いた『落合風景』がもっとも早い画面だろうか。樹間から眺めた風景の遠景に、完成したばかりの白く輝く野方配水塔がとらえられている。おそらく、自性院境内の西側崖地あたりから、配水塔が見える西北西を向いて描いたものだろう。
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 1932年(昭和7)には、近くに住む平塚運一『野方配水塔』という作品で、同塔をモチーフに写生をしている。前面に広い畑地を入れ、茅葺き農家と新築とみられる郊外住宅が入り混じった、耕地整理が進む当時の西落合の様子がよくとらえられた画面だ。やはり、階段室が正面近くに見える東側(西落合側)から描いており、鈴木良三『風景』の描画位置にかなり近い視点であることがわかる。また、平塚運一は1935年(昭和10)にも、木版画の『落合点描』で野方配水塔をモチーフにしている。こちらは、かなり塔に近づいてからの描写だ。
 昭和10年代と思われるが、松本竣介『野方配水塔』を描いている。のちに、尾形亀之助の詩集『美しい街』(夏葉社/2017年)の挿画に使われているスケッチだが、同じ落合地域の住民とはいえ時代がズレているので、両者に交流はなかったとみられるのは以前の記事にも書いたとおりだ。松本竣介は、同塔の階段室が正面に見える、東側の葛ヶ谷街道(現・新青梅街道)あたりから西北西を向いて描いていると思われる。この画面でも、やはり手前に茅葺き農家と近代住宅が入り混じった、当時の西落合の随所で見られた風情がとらえられている。
 戦後も、野方配水塔は画家たちの格好のモチーフになった。たとえば、1964年(昭和39)5月に描かれた三上知治『吉田博アトリエ』は、国際聖母病院の屋上から西を向いてスケッチしているが、手前に第三文化村に建っていた吉田博アトリエを入れ、はるか彼方に野方配水塔がポツンと描かれているのがわかる。このように、落合地域の少し高い建物や高台に上れば、野方配水塔はどこからでも遠望できた様子がうかがえる。同スケッチは、1964年(昭和39)5月20日に発行された、竹田助雄『落合新聞』のために描かれたものだ。
 同じく1964年(昭和39)9月にも、西落合にアトリエをかまえていた大内田茂士が、『給水塔』というタイトルのスケッチを残している。野方配水塔を、すぐ近くの樹間(おそらく現・みずのとう公園)付近からとらえたもので、スケッチブックを片手に近所へ写生に出たものだろう。この素描作品もまた、1964年(昭和39)9月10日に発行された『落合新聞』の挿画用に描かれている。
松本竣介「野方配水塔」不詳.jpg
三上知治「吉田博アトリエ」19640520.jpg
大内田茂士「給水塔」19640910.jpg
鈴木良三「滞欧作品展」193203日本橋三越.jpg
 昭和初期、西落合に接した野方配水塔を描いたのは、上記でご紹介した画家たちばかりではないだろう。同塔の完成から2年後、下落合に国際聖母病院が竣工するが、高い建物がなかった当時、これらふたつの目立つ構造物は周辺の画家たちにとって格好のモチーフだったにちがいない。

◆写真上:1936年(昭和11)制作の、野方配水塔をモチーフにした鈴木良三『風景』。
◆写真中上は、『風景』の部分拡大。中上中下は、東側から見た野方配水塔(現・野方給水所)と階段室。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる描画ポイント。
◆写真中下は、西落合にある「妙見山」の北側斜面に見られる下り坂。中上は、1929年(昭和4)に制作された宮本恒平『落合風景』。中下は、1932年(昭和7)制作の平塚運一『野方配水塔』。は、1935年(昭和10)に制作された同じく平塚運一の木版画『落合点描』。
◆写真下は、制作年が不詳の松本竣介『野方配水塔』。中上は、1964年(昭和39)制作の三上知治『吉田博アトリエ』。中下は、同年制作の大内田茂士『給水塔』。2点とも、『落合新聞』の挿画スケッチ。は、1932年(昭和7)3月に日本橋三越で開かれた「滞欧作品展」と鈴木良三。
おまけ1
 より鮮明な1947年(昭和22)の空中写真にみる、鈴木良三『風景』の描画ポイント界隈。下の画面は、佐伯祐三が『肥後橋風景』(1926年)に描く唯一の中之島にあった配水塔。もし、野方配水塔が佐伯祐三の生存中に竣工していたとしても、「下落合風景」シリーズにみられる強いテーマ性から見て、白亜のロマネスク建築物は決してモチーフには選ばれなかっただろう。
野方配水塔1947.jpg
佐伯祐三「肥後橋風景」1926.jpg
おまけ2
 貴重な写真を忘れていた。1935年(昭和10)ごろ撮影の空中写真だ。ちょうど井上哲学堂の西、片山地域あたりの上空から東を向いて撮影されたもので、真下に野方配水塔がとらえられている。
野方配水塔1935年頃.jpg

アビラ村(芸術村)の西端にあるアトリエ集合地。

臼井剛夫「草枕絵巻」1926.jpg
 下落合(現・中落合/中井含む)の美術分野について調べていると、ときどき画家たちが好んで集まる一画を見つけることができる。下落合の東部でいえば、下落合800番地台のエリアがそれで、おそらく夏目利政がプロデュースしたとみられるアトリエ群が建っていた。
 下落合の中部でいうと、古くから金山平三アトリエを中心に蘭塔坂(二ノ坂)から四ノ坂にかけ、画家のアトリエが集中していた。これは、東京土地住宅三宅勘一によるアビラ村(芸術村)の開発計画と、1925年(大正14)以降に、そのコンセプトを引き継いだとみられる島津家事業のせいだろう。そして、画家たちが集まっていた場所が、アビラ村(芸術村)の西端、中井御霊社の南側にも小規模ながらあることに気がついた。
 以前にご紹介していた、佐伯祐三が描く『洗濯物のある風景』の描画ポイントの周辺には、和洋を問わず画家たちのアトリエがあり、しかも洋画家のアトリエのほうはバッケが原から井上哲学堂方面へ散歩に出かける、画家たちの拠点のような場所になっていたようだ。洋画家のアトリエとは、下落合4丁目2162番地の林明善アトリエであり、その留守をあずかった仲嶺康輝アトリエ、そして日本画家のアトリエは帝展の臼井剛夫アトリエだ。
 そして、1955年(昭和30)に新宿区が刊行した『落合/新宿区落合遺跡調査報告』に収録の、バッケが原から東を向いて撮影された写真には、林明善・仲嶺康輝アトリエ跡の屋根と臼井剛夫アトリエの一部が見えているようだ。もう一度、拡大写真を振り返ってみよう。画面の右側、変圧器を載せた電柱と重なって見えるアトリエ建築とみられる建物は、戦前は東京帝大の生理学教授だった井上清恒邸だが、おそらく戦後に建て替えられ写真が撮影された当時は小梶邸になっていた。だが、この位置に住んだ小梶という画家をわたしは知らない。
 左寄りにある、屋根の主軸を南北に向けた白く光る屋根が、寺尾元彦邸の敷地内に建っていた林明善アトリエ、のち仲嶺康輝アトリエの跡だろう。戦災をまぬがれたエリアなので、“跡”ではなく同一の建物かもしれない。寺尾元彦は早大の法学部長をつとめていたが、自邸内には2棟の借家を建てている。そして、西側の家には林明善(仲嶺康輝)が、寺尾家の母家をはさんで真ん中の家には、声楽家で東京音楽学校(現・東京藝大音楽部)の教授だった渡辺光子(月村光子)が住んでいた。月村邸および寺尾邸の母家は、アトリエの屋根に隠れて見えていない。
 アトリエ建築と仲嶺康輝アトリエ跡の間に、白く光って見えているのは佐久間邸だが、その向こう側に突きでている2階部の建物が、日本画家の臼井剛夫アトリエだとみられる。臼井剛夫は、1943年(昭和18)に病没しているが、戦後もそのまま遺族が住みつづけており、写真が撮影された1955年(昭和30)の時点でも臼井邸は建て替えられず、そのままだった可能性が高い。この一帯に建つ住宅の住所は、すべて下落合4丁目2162番地(現・中井2丁目)であり、拙ブログでは林明善と仲嶺康輝、月村光子、そして佐伯祐三の『洗濯物のある風景』で頻出している番地だ。洋画家たちについては、これまで何度も書いてきているので、今回は長野県出身の日本画家で女子学習院の美術教授だった、臼井剛夫にスポットを当ててみよう。
 1989年(昭和64)に郷土出版社から刊行された、『長野県歴史人物大事典』から引用してみよう。
  
 臼井剛夫 うすい・たけお/日本画家。一八九〇年(明治二三)~一九四三年(昭和一八)。
 下水内郡豊井村(現豊田村)で一六人兄妹の三男に生まれる。旧制飯山中学を出て、高田連隊に一年志願兵として入営後、上京して絵を学ぶ。東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業し、女子学習院の助教授から教授となる。(中略) 松岡映丘に師事してその影響を受けたが、一方では結城素明の助言を受けた。第七回帝展に『春はゆく』が初入選、第八回『山かげ』、第一一回『御とづれ』などが続けて入選する。新宿区下落合(現中井二丁目)にアトリエを構え、官展系日本画家として知られた。日本橋の高島屋で個展を開いた。(以下略)
  
 下落合にアトリエをかまえる前は、同じ豊多摩郡の下渋谷に住んでおり、東京35区制が施行される以前、豊多摩郡落合町下落合2162番地の時代にアトリエを建設している。
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臼井アトリエ1938.jpg
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 『長野県歴史人物大事典』では、おもに戦前の帝展入選作品が紹介されているけれど、夏目漱石がお好きな方なら臼井剛夫というネームを見たら、まずは『草枕』を想起するのではないだろうか。戦後も、岩波文庫の漱石『草枕』とともに『草枕絵巻』については出版各社から、何度か美術本や絵巻の解説本が刊行されている。岩波書店でいえば、1987年(昭和62)に出版された川口久雄『漱石世界と草枕絵』が代表的な書籍だろう。
 漱石ファンなら、改めて解説する必要などないと思うが、『草枕』は1906年(明治39)の7月26日から8月9日にかけ、当時、漱石が住んでいた千駄木の自宅で執筆され、文芸誌「新小説」9月号に掲載された作品だ。この『草枕』に描かれた小説の情景を、日本画家たちが絵巻物にしてみようと企画したのが、1926年(大正15)から制作が開始される『草枕絵巻』だ。企画したのは松岡映丘で、門下生だった山口逢春や岩田正巳、山本丘人、臼井剛夫など映丘が主宰する新興大和絵会に加入していた27人の日本画家が協力している。ちょっと余談だが、松岡映丘が下落合の中村彝アトリエの路地をはさんだ西隣りに、アトリエを建てて転居してくるというウワサが、下落合で一時まことしやかに流れたことがあり、中村彝もそれを耳にしている。
 『草枕絵巻』は、1926年(大正15)7月11・12日の2日間、築地本願寺で「草枕絵巻展」として公開され、かなりの人気を呼んだようだ。そして、臼井剛夫が描いたのは、洋画家である『草枕』の主人公が「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」などと想いながら山路を逍遥し、雨でズブ濡れになりながらたどり着いた、印象的な峠の茶屋のシーンだった。『草枕絵巻』に添えられた茶屋の一節を、『草枕』より引用してみよう。
  
 「おい」と声を掛けたが返事がない。/軒下から奥を覗くと煤けた障子が立て切つてある。向う側は見えない。五六足の草鞋が淋しさうに庇から吊されて、屈託気にふらりふらりと揺れる。下に駄菓子の箱が三つ許り並んで、そばに五厘銭と文久銭が散らばつて居る。/「おい」と又声をかける。土間の隅に片寄せてある臼の上に、ふくれてゐた鶏が、驚ろいて眼をさます。クゝゝ、クゝゝと騒ぎ出す。敷居の外に土竃が、今しがたの雨に濡れて、半分程色が変つてる上に、真黒な茶釜がかけてあるが、土の茶釜か、銀の茶釜かわからない。幸ひ下は焚きつけてある。
  
夏目漱石「草枕」岩波文庫1987.jpg 川口久雄「漱石世界と草枕絵」.jpg
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臼井剛夫「山荘のはつなつ(初夏)」1929.jpg
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 『草枕』から、この部分を抜き出して絵にするのが臼井剛夫に与えられた仕事だった。小説では、このあと峠茶屋の「婆さん」が出てきて、濡れネズミになった主人公を火のそばへいざない、彼は画家の眼で周辺の景色や風物を眺める……というような展開になっている。臼井剛夫は、この一節の情景を忠実に再現して描いているのがわかる。(冒頭写真)
 ここでちょっとだけ再度の余談だが、主人公の画家は茶屋に着いて呼びかける際に「おい」と声をかけている。夏目漱石旧・乃手育ちなので、「おい」という言葉が性に合っていたのだろうが、町場で育った主人公(を想定する)なら、「もし」あるいは「もうし」と呼びかけただろう。この育ちのちがいは、いつか「もしもし」と「おいおい」の記事で書いた憶えがある。現代のシーンにたとえれば、訪ねて誰もいない場合によくつかわれる呼びかけ言葉は、「すみませ~ん!」(山手言葉)と「すいませ~ん」(町言葉)に通じる相違と同じような感覚だろうか。
 さて、以前から登場している洋画家・林明善だが、仲嶺康輝ほどには詳述してこなかったので、ご紹介しておきたい。1899年(明治32)に名古屋で生まれた彼は、智山大学を卒業後、川端画学校や同舟舎へ通いながら洋画を学び、下落合734番地にアトリエをかまえた片多徳郎へ師事している。第一美術協会に所属し、帝展・新文展に作品を出展しつづけ入選を繰り返していた。林明善は、実家が寺だったせいか僧籍を継承するために名古屋へもどり、空いた下落合4丁目2162番地のアトリエを仲嶺康輝に貸していたという経緯だ。
 仏教が身近にある環境で育ったせいか、佐伯祐三の“美意識”=「無有好醜」と同じような眼差しをもっていたのがわかる。1919年(大正8)の「智山学報」6号に、林明善は「表紙画の説明にかへて」(1919年6月7日執筆)という文章を残している。少しだけ引用してみよう。
  
 自分は太陽を賛美する時にも、土の塊を見つめる時にも、塵箱の一隅をのぞく時にも、少くとも無限の美と無限の変化とを思はせられずには居られない。
  
 あらゆるもの、それはキタナイものにでも無限の“美”は認められ、流転や変化をつづけると書く林明善の眼は、どこかで佐伯祐三の眼差しと重なるところが多分にありそうで面白い。
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 林明善は、洋画家であると同時に僧を生業としたせいか仏教彫刻に惹かれ、後年、創作版画の分野で仏像をモチーフにした作品を数多く残している。また、廃寺などで処分される予定だった仏像を引きとったりもしていたようだ。1938年(昭和13)に、わずか40歳の若さで死去している。

◆写真上:1926年(大正15)に制作された、『草枕絵巻』に収録の臼井剛夫「峠の茶屋」(部分)。
◆写真中上は、『落合/新宿区落合遺跡調査報告』(1955年)に収録の写真拡大。(AI着色) 中上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる下落合4丁目2162番地界隈。中下は、1947年(昭和22)の空中写真にみる各邸。は、臼井剛夫アトリエ跡の現状(左手)。
◆写真中下は、岩波書店から出版された夏目漱石『草枕』(岩波文庫版/)と、同じく川口久雄『漱石世界と草枕絵』(1987年/)。中上は、1926年(大正15)制作の臼井剛夫『春はゆく』。中下は、1929年(昭和4)制作の同『山荘のはつなつ(初夏)』。は、制作年不詳の同『水無月の旅』で「おくのほそ道」に出立したばかりの松尾芭蕉と河合曾良を描いたようだ。
◆写真下は、1927年(昭和2)制作の林明善『盛果之図』。中上は、1928年(昭和3)制作の同『無題』。中下は、寺尾邸と臼井アトリエが並んで建っていた(右手)八ノ坂。は、寺尾元彦邸跡で手前から寺尾家母家、渡辺光子(月村光子)邸、林明善・仲嶺康輝アトリエ跡の現状(左手)。

自由民権急進派から宮内省傳育官への桑野鋭。

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 明治時代には、型にはまらぬ面白い人たちがたくさんいたようだ。肩書がいくつもあると、「どれが本業だか信用できない」などと以前までいわれていたが、現代ではデュアル・スキル(二刀流)の仕事をする人もめずらしく、あまり違和感をおぼえないのではないか。
 拙サイトでも、そんな明治期の「奇人」たちを取りあげてきたが、その代表格といえば紀国昭和天皇に講義をした南方熊楠や、東京帝大法学部の地下に陣どっていた宮武外骨、やや時代が下ると大泉黒石あたりだろうか。つい先だても、下落合(2丁目)819番地に住んでいた伊藤痴遊をご紹介したが、七曲坂の上りきった丘上、下落合363番地には桑野鋭(えい)が暮らしていた。下落合の桑野邸は、すでに1923年(大正12)には同所に確認できるので、大正中期ごろ転居してきて住んでいたとみられ、1929年(昭和4)に死去するまで暮らしていた。
 下落合363番地というと、華族(男)の箕作俊夫邸(下落合330番地)や中華民国公使館官舎(下落合326番地)の北側にあたり、美術の分野でいえば海洲正太郎アトリエ(下落合348番地)の、道路を隔てたすぐ北隣りに接する区画だ。かなり大きめな敷地に建つ屋敷だったらしく、1925年(大正14)に作成された「出前地図」では、敷地のかたちが広めに描かれている。
 桑野鋭については、この人の仕事は「〇〇屋さん」とひとくくりに規定できないほど、さまざまな仕事をしてきている。筑後(現・福岡県)の柳河(柳川)から1874年(明治7)に東京へやってきた当初は、中江兆民らが率いる自由民権運動の「万民平等」を唱える急進派に参画して積極的に活動し、ジャーナリストを志して新聞記者や雑誌の編集業務も手がけ、海外小説をはじめとする英文や漢文の翻訳家もつとめ、薩長政府が自由民権運動の圧力に負けて、1890年(明治23)にようやく議会を開設すると、宮内省付きの大正天皇および昭和天皇の傳育官(ふいくかん)の仕事も引きうけるという、二刀流どころか何刀流もこなす仕事をしてきている。故郷の柳川風景を忘れぬよう、「顧柳散史」という戯号で数多くの文章や訳書を残した。この間、政府の弾圧により逮捕・投獄されること数度におよび、もっとも長い投獄は禁獄3年の実刑判決だった。
 不思議なのは、自由民権運動の急進派、すなわちフランス資本主義革命における政治思想の急進派に共鳴する、「王政打倒・封建主義打倒・共和制移行」を支持し、日本においては「万民平等」思想をベースにした「薩長の藩閥政府転覆・打倒」を唱えた桑野鋭が、なぜ宮内省の傳育官などを引きうけ、大正・昭和の2代にわたる天皇の教育を受け持っていたのかという点だ。明治前期は、戦前の共産党と同じような認識で「過激派」とみられた自由民権運動の急進派だが、明治も末期に近づきデモクラシーの概念が浸透するにつれ、多様な思想もった人物を皇室の“教育係”に任命する重要性を、宮内省側が気づきはじめたのだろうか。このあたり、偶然がいくつか重なり、桑野鋭はやがて東宮主事から皇子傳育官の仕事をするようになる。
 “自由人”とでも表現すべき、明治の「奇人」のひとりだった桑野鋭だが、地元の下落合における印象は薄い。それは、下落合に転居してきた理由が隠居をするためだったせいもあるけれど、大正中期の下落合がいまだ田園風景を抜けきってはおらず、農村特有の地元民によるミクロコスモス(村落共同体)は存在していただろうが、暮らしている住民たちに細かく注意を払うほどの住宅街、つまり新たな住民たちのコミュニティが、あまり形成されていなかったせいもあるのだろう。1934年(昭和9)刊行の宮武外骨・編「公私月報」7月号には、宮武外骨が下落合で取材した、最晩年の桑野鋭本人が語る履歴が紹介されている。『顧柳と号した桑野鋭』より、引用してみよう。
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 筑後柳川(ママ:柳河)の生家を飛び出して東京へ来たのが明治七年頃十七歳の時であつた、自由民権論にカブレて狂奔し、新聞雑誌記者としては、激越な論文や猥褻な艶文を書いた、後には宮内省に入り、東宮職主事、皇子傳育官などの職を永く勤め、今は楽隠居の身、錦鶏間祇侯といふ名で余生を送つて居る、安政五年の生れで今年七十二歳であるが、此写真(別掲のポートレート参照)は自由党員としてアバレて居た二十五歳の時(明治十五年)党員名簿の中に挿入されたものである、明治八年後十ヶ年間に記者として関係したのは評論新聞、文明新誌、近事評論、江湖新報、東京新誌、春野草誌、東洋自由新聞、自由新聞、自由燈、日本立憲政党新聞、女学叢誌、常総青年、華族同方会雑誌 等(カッコ内引用者註)
  
 新聞・雑誌の仕事に加え、政治運動をつづけて逮捕・禁獄を経験するわけだが、桑野鋭は得意の英語や漢語・漢学の才を活かして翻訳の仕事もこなしている。特に『英国情史・蝶舞奇縁』(1882年)と、『建国遺訓』(1883年)は当時かなり流行ったようだ。明治前期は書店ではなく、江戸期と同様の貸し本屋が主流だったので、流行ったということはよく借りられたということなのだろう。『英国情史・蝶舞奇縁』は、「英国」とタイトルされているが、1848年(嘉永元)に米国フィラデルフィアで出版された小説『アルビニア・一名(ひとり)若き母』が種本とされているけれど、原作者は不明のままだ。また、『建国遺訓』はシラーの戯曲『ウィリアム・テル』(1804年)が原作であり、「王政復古」の天皇を中心とする藩閥・公家独裁による反動・薩長専制政権の圧政に苦しみ自由を求める国民を、スイスの民衆に重ねたものだろう。
 だが、桑野鋭は徐々に自由民権運動へ幻滅を感じはじめている。特に、議会が開設された1890年(明治23)前後になると、自由民権の獲得・実現というよりも、個人の利権を追求する人物が運動内に急増し、本来の活動家が少なくなったことに気づいている。このあたりの事情について、1927年(昭和2)発行の「愛書趣味」5月号に収録された、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。柳田泉もまた、下落合に晩年の桑野鋭を訪ねてインタビューしている。
  
 表面はかう活動してゐるうちにも桑野氏は政治運動や政党に対して内心多大の幻滅を感じ始めた、一致して当れば藩閥政府など直ちに崩れるものを内訌ばかりしてゐて、真の民権のために奮闘する者がいかに少いかといふ点を見て愛想がつきたのである。此の政党や政治運動への愛想づかしが桑野氏の後半生をして意外な運命をたどらしめる第一歩となつた。
  
 さて、桑野鋭が宮武外骨へ語る経歴に列挙されている新聞名や雑誌名の中に、1誌だけ万民平等の自由民権思想とは相いれない、異質な雑誌が掲載されているのにお気づきだろうか。最後に挙げられている、「華族同方会雑誌」(同方会報告/同方会演説集など)だ。華族同方会は、74名の華族が参画して1889年(明治22)に華族会館で発足した組織であり、およそ自由民権運動の活動家と華族会館は似つかわしくない組み合わせだ。だが、これには奇妙な機縁が付随していた。
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 自由民権運動に興味を示したのは、なにも日本の一般庶民ばかりとは限らなかった。華族の中にも、進歩的な新しい思想を吸収しようとする動きが拡がり、徐々に華族同方会の基盤が形成されている。進歩的な学者や研究者を華族会館に招いて講演会を開催したり、選挙や議会制、立憲・民権思想を学ぶために討論会や演説会を開催している。そして、同方会の会報の必要性を感じて発刊しようとしたところ、華族会館の周囲には主宰・編集する人物がいなかった。
 それはそうだろう、特権階級の華族と対立する立憲・自由民権思想の研究雑誌を、華族会館に出入りするような人物に引き受けてもらうのは、ハナから無理な話だった。そこで、古くからの自由民権運動の活動家で、新聞記者や雑誌編集の経験も豊富な桑野鋭を招聘することにした。こうして、万民平等思想の持ち主が華族会館に出入りし、立憲・民権思想などの研究誌「華族同方会雑誌」を発行するという、不可解で皮肉な状況が現出したのだ。
 奇妙な偶然は、さらにつづくことになる。同方会の用事で、幹事の小笠原長育や勘解由小路資承らとともに宮中へ出向したところ、「御教育掛長」(皇子の教育責任者)の曾我祐準と出会い、同郷(筑後柳河)ということで意気投合してしまったらしい。また、曾我祐準も自由民権運動家の桑野鋭をあらかじめ知っていたらしく、初対面なのに「桑野か」と反応している。
 こうして、桑野鋭は曾我祐準に誘われるまま宮内省に勤務することになるのだが、当時は自由民権運動の闘士だろうが逮捕・入獄歴の前科があろうが、あまりうるさいことは問われないおおらかな時代でもあったのだろう。運動や政党に幻滅を感じはじめた桑野鋭にしてみれば、華族たちに進歩的な思想をアピールするのと同様に、宮中でも自由民権思想を教えるいい機会だとでも考えたかもしれない。再び、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。
  
 此の以後は出版界も政治界も一切断念して一意専心御奉公することになつた。初め東宮主事となり、その後引つゞいて今上陛下<昭和天皇>の東宮におはした時も矢張り同じ職を奉じ、後王子傳育官として忠勤をはげまれたわけだが、大正六年肺炎にかゝつてから喘息が持病となつたので、現職を辞退し、爾後悠々高臥して余生を楽む傍ら宮内省の依嘱をうけて、摂政宮(今上陛下)、秩父宮、高松宮、澄宮の御記録編纂に従事してゐる。(< >内引用者註)
  
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蝶舞奇縁紹介.jpg
華族同方会演説集第2号188809.jpg 華族同方会報告創刊号188910.jpg
 柳田泉は、「出版界も政治界も一切断念」「一意専心御奉公」などと書いているが、宮内省に勤務しつつも桑野鋭は自由新聞の記者を継続している。それは、1891年(明治24)の時点で、新聞に「宮内省五等屬 桑野鋭(自由新聞記者)」と書かれていることからも明らかだ。宮内省に勤務しはじめたのち、桑野鋭の思想的な変遷・変節は詳らかではないが、自由民権や万民平等の思想から遠く離れてしまったか、あるいは大正デモクラシーの中で自身の理想に近い国情および社会がおよそ出現したと肯定的にとらえていたものか、具体的なことは語られていないので不明のままだ。

◆写真上:七曲坂の上にある、下落合363番地の桑野鋭邸跡(右手全体)。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された南北が逆の「出前地図」にみる桑野鋭邸で、かなり大きめな屋敷だったことがわかる。は、翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に記載の同邸。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下は、桑野鋭が執筆や編集を手がけていた1878年(明治11)発行の「東京新誌」9月号()と、1892年(明治25)に発行された「自由燈」9月号()。は、1882年(明治15)に出版された豪華な桑野鋭・訳『英国情史・蝶舞奇縁』初編・上巻()と奥付()。は、『英国情史・蝶舞奇縁』の鮮やかな中扉()と翻訳者・桑野鋭のポートレート()。
◆写真下は、『英国情史・蝶舞奇縁』の挿画で絵師・伊藤静斎が担当している。は、同書の出版案内。は、桑野鋭が編集主幹を引きうけた1888年(明治21)9月に刊行の『華族同方会演説集』第2号()と、同じく1889年(明治22)10月に刊行された『華族同方会報告』創刊号()。