
明治時代には、型にはまらぬ面白い人たちがたくさんいたようだ。肩書がいくつもあると、「どれが本業だか信用できない」などと以前までいわれていたが、現代ではデュアル・スキル(二刀流)の仕事をする人もめずらしく、あまり違和感をおぼえないのではないか。
拙サイトでも、そんな明治期の「奇人」たちを取りあげてきたが、その代表格といえば紀国で昭和天皇に講義をした南方熊楠や、東京帝大法学部の地下に陣どっていた宮武外骨、やや時代が下ると大泉黒石あたりだろうか。つい先だても、下落合(2丁目)819番地に住んでいた伊藤痴遊をご紹介したが、七曲坂の上りきった丘上、下落合363番地には桑野鋭(えい)が暮らしていた。下落合の桑野邸は、すでに1923年(大正12)には同所に確認できるので、大正中期ごろ転居してきて住んでいたとみられ、1929年(昭和4)に死去するまで暮らしていた。
下落合363番地というと、華族(男)の箕作俊夫邸(下落合330番地)や中華民国公使館官舎(下落合326番地)の北側にあたり、美術の分野でいえば海洲正太郎アトリエ(下落合348番地)の、道路を隔てたすぐ北隣りに接する区画だ。かなり大きめな敷地に建つ屋敷だったらしく、1925年(大正14)に作成された「出前地図」では、敷地のかたちが広めに描かれている。
桑野鋭については、この人の仕事は「〇〇屋さん」とひとくくりに規定できないほど、さまざまな仕事をしてきている。筑後(現・福岡県)の柳河(柳川)から1874年(明治7)に東京へやってきた当初は、中江兆民らが率いる自由民権運動の「万民平等」を唱える急進派に参画して積極的に活動し、ジャーナリストを志して新聞記者や雑誌の編集業務も手がけ、海外小説をはじめとする英文や漢文の翻訳家もつとめ、薩長政府が自由民権運動の圧力に負けて、1890年(明治23)にようやく議会を開設すると、宮内省付きの大正天皇および昭和天皇の傳育官(ふいくかん)の仕事も引きうけるという、二刀流どころか何刀流もこなす仕事をしてきている。故郷の柳川風景を忘れぬよう、「顧柳散史」という戯号で数多くの文章や訳書を残した。この間、政府の弾圧により逮捕・投獄されること数度におよび、もっとも長い投獄は禁獄3年の実刑判決だった。
不思議なのは、自由民権運動の急進派、すなわちフランス資本主義革命における政治思想の急進派に共鳴する、「王政打倒・封建主義打倒・共和制移行」を支持し、日本においては「万民平等」思想をベースにした「薩長の藩閥政府転覆・打倒」を唱えた桑野鋭が、なぜ宮内省の傳育官などを引きうけ、大正・昭和の2代にわたる天皇の教育を受け持っていたのかという点だ。明治前期は、戦前の共産党と同じような認識で「過激派」とみられた自由民権運動の急進派だが、明治も末期に近づきデモクラシーの概念が浸透するにつれ、多様な思想もった人物を皇室の“教育係”に任命する重要性を、宮内省側が気づきはじめたのだろうか。このあたり、偶然がいくつか重なり、桑野鋭はやがて東宮主事から皇子傳育官の仕事をするようになる。
“自由人”とでも表現すべき、明治の「奇人」のひとりだった桑野鋭だが、地元の下落合における印象は薄い。それは、下落合に転居してきた理由が隠居をするためだったせいもあるけれど、大正中期の下落合がいまだ田園風景を抜けきってはおらず、農村特有の地元民によるミクロコスモス(村落共同体)は存在していただろうが、暮らしている住民たちに細かく注意を払うほどの住宅街、つまり新たな住民たちのコミュニティが、あまり形成されていなかったせいもあるのだろう。1934年(昭和9)刊行の宮武外骨・編「公私月報」7月号には、宮武外骨が下落合で取材した、最晩年の桑野鋭本人が語る履歴が紹介されている。『顧柳と号した桑野鋭』より、引用してみよう。
拙サイトでも、そんな明治期の「奇人」たちを取りあげてきたが、その代表格といえば紀国で昭和天皇に講義をした南方熊楠や、東京帝大法学部の地下に陣どっていた宮武外骨、やや時代が下ると大泉黒石あたりだろうか。つい先だても、下落合(2丁目)819番地に住んでいた伊藤痴遊をご紹介したが、七曲坂の上りきった丘上、下落合363番地には桑野鋭(えい)が暮らしていた。下落合の桑野邸は、すでに1923年(大正12)には同所に確認できるので、大正中期ごろ転居してきて住んでいたとみられ、1929年(昭和4)に死去するまで暮らしていた。
下落合363番地というと、華族(男)の箕作俊夫邸(下落合330番地)や中華民国公使館官舎(下落合326番地)の北側にあたり、美術の分野でいえば海洲正太郎アトリエ(下落合348番地)の、道路を隔てたすぐ北隣りに接する区画だ。かなり大きめな敷地に建つ屋敷だったらしく、1925年(大正14)に作成された「出前地図」では、敷地のかたちが広めに描かれている。
桑野鋭については、この人の仕事は「〇〇屋さん」とひとくくりに規定できないほど、さまざまな仕事をしてきている。筑後(現・福岡県)の柳河(柳川)から1874年(明治7)に東京へやってきた当初は、中江兆民らが率いる自由民権運動の「万民平等」を唱える急進派に参画して積極的に活動し、ジャーナリストを志して新聞記者や雑誌の編集業務も手がけ、海外小説をはじめとする英文や漢文の翻訳家もつとめ、薩長政府が自由民権運動の圧力に負けて、1890年(明治23)にようやく議会を開設すると、宮内省付きの大正天皇および昭和天皇の傳育官(ふいくかん)の仕事も引きうけるという、二刀流どころか何刀流もこなす仕事をしてきている。故郷の柳川風景を忘れぬよう、「顧柳散史」という戯号で数多くの文章や訳書を残した。この間、政府の弾圧により逮捕・投獄されること数度におよび、もっとも長い投獄は禁獄3年の実刑判決だった。
不思議なのは、自由民権運動の急進派、すなわちフランス資本主義革命における政治思想の急進派に共鳴する、「王政打倒・封建主義打倒・共和制移行」を支持し、日本においては「万民平等」思想をベースにした「薩長の藩閥政府転覆・打倒」を唱えた桑野鋭が、なぜ宮内省の傳育官などを引きうけ、大正・昭和の2代にわたる天皇の教育を受け持っていたのかという点だ。明治前期は、戦前の共産党と同じような認識で「過激派」とみられた自由民権運動の急進派だが、明治も末期に近づきデモクラシーの概念が浸透するにつれ、多様な思想もった人物を皇室の“教育係”に任命する重要性を、宮内省側が気づきはじめたのだろうか。このあたり、偶然がいくつか重なり、桑野鋭はやがて東宮主事から皇子傳育官の仕事をするようになる。
“自由人”とでも表現すべき、明治の「奇人」のひとりだった桑野鋭だが、地元の下落合における印象は薄い。それは、下落合に転居してきた理由が隠居をするためだったせいもあるけれど、大正中期の下落合がいまだ田園風景を抜けきってはおらず、農村特有の地元民によるミクロコスモス(村落共同体)は存在していただろうが、暮らしている住民たちに細かく注意を払うほどの住宅街、つまり新たな住民たちのコミュニティが、あまり形成されていなかったせいもあるのだろう。1934年(昭和9)刊行の宮武外骨・編「公私月報」7月号には、宮武外骨が下落合で取材した、最晩年の桑野鋭本人が語る履歴が紹介されている。『顧柳と号した桑野鋭』より、引用してみよう。



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筑後柳川(ママ:柳河)の生家を飛び出して東京へ来たのが明治七年頃十七歳の時であつた、自由民権論にカブレて狂奔し、新聞雑誌記者としては、激越な論文や猥褻な艶文を書いた、後には宮内省に入り、東宮職主事、皇子傳育官などの職を永く勤め、今は楽隠居の身、錦鶏間祇侯といふ名で余生を送つて居る、安政五年の生れで今年七十二歳であるが、此写真(別掲のポートレート参照)は自由党員としてアバレて居た二十五歳の時(明治十五年)党員名簿の中に挿入されたものである、明治八年後十ヶ年間に記者として関係したのは評論新聞、文明新誌、近事評論、江湖新報、東京新誌、春野草誌、東洋自由新聞、自由新聞、自由燈、日本立憲政党新聞、女学叢誌、常総青年、華族同方会雑誌 等(カッコ内引用者註)
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新聞・雑誌の仕事に加え、政治運動をつづけて逮捕・禁獄を経験するわけだが、桑野鋭は得意の英語や漢語・漢学の才を活かして翻訳の仕事もこなしている。特に『英国情史・蝶舞奇縁』(1882年)と、『建国遺訓』(1883年)は当時かなり流行ったようだ。明治前期は書店ではなく、江戸期と同様の貸し本屋が主流だったので、流行ったということはよく借りられたということなのだろう。『英国情史・蝶舞奇縁』は、「英国」とタイトルされているが、1848年(嘉永元)に米国フィラデルフィアで出版された小説『アルビニア・一名(ひとり)若き母』が種本とされているけれど、原作者は不明のままだ。また、『建国遺訓』はシラーの戯曲『ウィリアム・テル』(1804年)が原作であり、「王政復古」の天皇を中心とする藩閥・公家独裁による反動・薩長専制政権の圧政に苦しみ自由を求める国民を、スイスの民衆に重ねたものだろう。
だが、桑野鋭は徐々に自由民権運動へ幻滅を感じはじめている。特に、議会が開設された1890年(明治23)前後になると、自由民権の獲得・実現というよりも、個人の利権を追求する人物が運動内に急増し、本来の活動家が少なくなったことに気づいている。このあたりの事情について、1927年(昭和2)発行の「愛書趣味」5月号に収録された、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。柳田泉もまた、下落合に晩年の桑野鋭を訪ねてインタビューしている。
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表面はかう活動してゐるうちにも桑野氏は政治運動や政党に対して内心多大の幻滅を感じ始めた、一致して当れば藩閥政府など直ちに崩れるものを内訌ばかりしてゐて、真の民権のために奮闘する者がいかに少いかといふ点を見て愛想がつきたのである。此の政党や政治運動への愛想づかしが桑野氏の後半生をして意外な運命をたどらしめる第一歩となつた。
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さて、桑野鋭が宮武外骨へ語る経歴に列挙されている新聞名や雑誌名の中に、1誌だけ万民平等の自由民権思想とは相いれない、異質な雑誌が掲載されているのにお気づきだろうか。最後に挙げられている、「華族同方会雑誌」(同方会報告/同方会演説集など)だ。華族同方会は、74名の華族が参画して1889年(明治22)に華族会館で発足した組織であり、およそ自由民権運動の活動家と華族会館は似つかわしくない組み合わせだ。だが、これには奇妙な機縁が付随していた。
筑後柳川(ママ:柳河)の生家を飛び出して東京へ来たのが明治七年頃十七歳の時であつた、自由民権論にカブレて狂奔し、新聞雑誌記者としては、激越な論文や猥褻な艶文を書いた、後には宮内省に入り、東宮職主事、皇子傳育官などの職を永く勤め、今は楽隠居の身、錦鶏間祇侯といふ名で余生を送つて居る、安政五年の生れで今年七十二歳であるが、此写真(別掲のポートレート参照)は自由党員としてアバレて居た二十五歳の時(明治十五年)党員名簿の中に挿入されたものである、明治八年後十ヶ年間に記者として関係したのは評論新聞、文明新誌、近事評論、江湖新報、東京新誌、春野草誌、東洋自由新聞、自由新聞、自由燈、日本立憲政党新聞、女学叢誌、常総青年、華族同方会雑誌 等(カッコ内引用者註)
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新聞・雑誌の仕事に加え、政治運動をつづけて逮捕・禁獄を経験するわけだが、桑野鋭は得意の英語や漢語・漢学の才を活かして翻訳の仕事もこなしている。特に『英国情史・蝶舞奇縁』(1882年)と、『建国遺訓』(1883年)は当時かなり流行ったようだ。明治前期は書店ではなく、江戸期と同様の貸し本屋が主流だったので、流行ったということはよく借りられたということなのだろう。『英国情史・蝶舞奇縁』は、「英国」とタイトルされているが、1848年(嘉永元)に米国フィラデルフィアで出版された小説『アルビニア・一名(ひとり)若き母』が種本とされているけれど、原作者は不明のままだ。また、『建国遺訓』はシラーの戯曲『ウィリアム・テル』(1804年)が原作であり、「王政復古」の天皇を中心とする藩閥・公家独裁による反動・薩長専制政権の圧政に苦しみ自由を求める国民を、スイスの民衆に重ねたものだろう。
だが、桑野鋭は徐々に自由民権運動へ幻滅を感じはじめている。特に、議会が開設された1890年(明治23)前後になると、自由民権の獲得・実現というよりも、個人の利権を追求する人物が運動内に急増し、本来の活動家が少なくなったことに気づいている。このあたりの事情について、1927年(昭和2)発行の「愛書趣味」5月号に収録された、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。柳田泉もまた、下落合に晩年の桑野鋭を訪ねてインタビューしている。
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表面はかう活動してゐるうちにも桑野氏は政治運動や政党に対して内心多大の幻滅を感じ始めた、一致して当れば藩閥政府など直ちに崩れるものを内訌ばかりしてゐて、真の民権のために奮闘する者がいかに少いかといふ点を見て愛想がつきたのである。此の政党や政治運動への愛想づかしが桑野氏の後半生をして意外な運命をたどらしめる第一歩となつた。
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さて、桑野鋭が宮武外骨へ語る経歴に列挙されている新聞名や雑誌名の中に、1誌だけ万民平等の自由民権思想とは相いれない、異質な雑誌が掲載されているのにお気づきだろうか。最後に挙げられている、「華族同方会雑誌」(同方会報告/同方会演説集など)だ。華族同方会は、74名の華族が参画して1889年(明治22)に華族会館で発足した組織であり、およそ自由民権運動の活動家と華族会館は似つかわしくない組み合わせだ。だが、これには奇妙な機縁が付随していた。



自由民権運動に興味を示したのは、なにも日本の一般庶民ばかりとは限らなかった。華族の中にも、進歩的な新しい思想を吸収しようとする動きが拡がり、徐々に華族同方会の基盤が形成されている。進歩的な学者や研究者を華族会館に招いて講演会を開催したり、選挙や議会制、立憲・民権思想を学ぶために討論会や演説会を開催している。そして、同方会の会報の必要性を感じて発刊しようとしたところ、華族会館の周囲には主宰・編集する人物がいなかった。
それはそうだろう、特権階級の華族と対立する立憲・自由民権思想の研究雑誌を、華族会館に出入りするような人物に引き受けてもらうのは、ハナから無理な話だった。そこで、古くからの自由民権運動の活動家で、新聞記者や雑誌編集の経験も豊富な桑野鋭を招聘することにした。こうして、万民平等思想の持ち主が華族会館に出入りし、立憲・民権思想などの研究誌「華族同方会雑誌」を発行するという、不可解で皮肉な状況が現出したのだ。
奇妙な偶然は、さらにつづくことになる。同方会の用事で、幹事の小笠原長育や勘解由小路資承らとともに宮中へ出向したところ、「御教育掛長」(皇子の教育責任者)の曾我祐準と出会い、同郷(筑後柳河)ということで意気投合してしまったらしい。また、曾我祐準も自由民権運動家の桑野鋭をあらかじめ知っていたらしく、初対面なのに「桑野か」と反応している。
こうして、桑野鋭は曾我祐準に誘われるまま宮内省に勤務することになるのだが、当時は自由民権運動の闘士だろうが逮捕・入獄歴の前科があろうが、あまりうるさいことは問われないおおらかな時代でもあったのだろう。運動や政党に幻滅を感じはじめた桑野鋭にしてみれば、華族たちに進歩的な思想をアピールするのと同様に、宮中でも自由民権思想を教えるいい機会だとでも考えたかもしれない。再び、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。
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此の以後は出版界も政治界も一切断念して一意専心御奉公することになつた。初め東宮主事となり、その後引つゞいて今上陛下<昭和天皇>の東宮におはした時も矢張り同じ職を奉じ、後王子傳育官として忠勤をはげまれたわけだが、大正六年肺炎にかゝつてから喘息が持病となつたので、現職を辞退し、爾後悠々高臥して余生を楽む傍ら宮内省の依嘱をうけて、摂政宮(今上陛下)、秩父宮、高松宮、澄宮の御記録編纂に従事してゐる。(< >内引用者註)
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それはそうだろう、特権階級の華族と対立する立憲・自由民権思想の研究雑誌を、華族会館に出入りするような人物に引き受けてもらうのは、ハナから無理な話だった。そこで、古くからの自由民権運動の活動家で、新聞記者や雑誌編集の経験も豊富な桑野鋭を招聘することにした。こうして、万民平等思想の持ち主が華族会館に出入りし、立憲・民権思想などの研究誌「華族同方会雑誌」を発行するという、不可解で皮肉な状況が現出したのだ。
奇妙な偶然は、さらにつづくことになる。同方会の用事で、幹事の小笠原長育や勘解由小路資承らとともに宮中へ出向したところ、「御教育掛長」(皇子の教育責任者)の曾我祐準と出会い、同郷(筑後柳河)ということで意気投合してしまったらしい。また、曾我祐準も自由民権運動家の桑野鋭をあらかじめ知っていたらしく、初対面なのに「桑野か」と反応している。
こうして、桑野鋭は曾我祐準に誘われるまま宮内省に勤務することになるのだが、当時は自由民権運動の闘士だろうが逮捕・入獄歴の前科があろうが、あまりうるさいことは問われないおおらかな時代でもあったのだろう。運動や政党に幻滅を感じはじめた桑野鋭にしてみれば、華族たちに進歩的な思想をアピールするのと同様に、宮中でも自由民権思想を教えるいい機会だとでも考えたかもしれない。再び、柳田泉『「蝶舞奇縁」の訳者・桑野鋭氏の伝記』から引用してみよう。
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此の以後は出版界も政治界も一切断念して一意専心御奉公することになつた。初め東宮主事となり、その後引つゞいて今上陛下<昭和天皇>の東宮におはした時も矢張り同じ職を奉じ、後王子傳育官として忠勤をはげまれたわけだが、大正六年肺炎にかゝつてから喘息が持病となつたので、現職を辞退し、爾後悠々高臥して余生を楽む傍ら宮内省の依嘱をうけて、摂政宮(今上陛下)、秩父宮、高松宮、澄宮の御記録編纂に従事してゐる。(< >内引用者註)
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柳田泉は、「出版界も政治界も一切断念」「一意専心御奉公」などと書いているが、宮内省に勤務しつつも桑野鋭は自由新聞の記者を継続している。それは、1891年(明治24)の時点で、新聞に「宮内省五等屬 桑野鋭(自由新聞記者)」と書かれていることからも明らかだ。宮内省に勤務しはじめたのち、桑野鋭の思想的な変遷・変節は詳らかではないが、自由民権や万民平等の思想から遠く離れてしまったか、あるいは大正デモクラシーの中で自身の理想に近い国情および社会がおよそ出現したと肯定的にとらえていたものか、具体的なことは語られていないので不明のままだ。
◆写真上:七曲坂の上にある、下落合363番地の桑野鋭邸跡(右手全体)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に作成された南北が逆の「出前地図」にみる桑野鋭邸で、かなり大きめな屋敷だったことがわかる。中は、翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に記載の同邸。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下:上は、桑野鋭が執筆や編集を手がけていた1878年(明治11)発行の「東京新誌」9月号(左)と、1892年(明治25)に発行された「自由燈」9月号(右)。中は、1882年(明治15)に出版された豪華な桑野鋭・訳『英国情史・蝶舞奇縁』初編・上巻(左)と奥付(右)。下は、『英国情史・蝶舞奇縁』の鮮やかな中扉(左)と翻訳者・桑野鋭のポートレート(右)。
◆写真下:上は、『英国情史・蝶舞奇縁』の挿画で絵師・伊藤静斎が担当している。中は、同書の出版案内。下は、桑野鋭が編集主幹を引きうけた1888年(明治21)9月に刊行の『華族同方会演説集』第2号(左)と、同じく1889年(明治22)10月に刊行された『華族同方会報告』創刊号(右)。
◆写真中上:上は、1925年(大正14)に作成された南北が逆の「出前地図」にみる桑野鋭邸で、かなり大きめな屋敷だったことがわかる。中は、翌1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」に記載の同邸。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸。
◆写真中下:上は、桑野鋭が執筆や編集を手がけていた1878年(明治11)発行の「東京新誌」9月号(左)と、1892年(明治25)に発行された「自由燈」9月号(右)。中は、1882年(明治15)に出版された豪華な桑野鋭・訳『英国情史・蝶舞奇縁』初編・上巻(左)と奥付(右)。下は、『英国情史・蝶舞奇縁』の鮮やかな中扉(左)と翻訳者・桑野鋭のポートレート(右)。
◆写真下:上は、『英国情史・蝶舞奇縁』の挿画で絵師・伊藤静斎が担当している。中は、同書の出版案内。下は、桑野鋭が編集主幹を引きうけた1888年(明治21)9月に刊行の『華族同方会演説集』第2号(左)と、同じく1889年(明治22)10月に刊行された『華族同方会報告』創刊号(右)。


















































































































