元祖「すずらん通り」に吹いた風。

 久しぶりに「実家」へ行ってきた。といっても、「実家」はとうに60年前の東京大空襲で焼けてしまって、存在しない。でも、急に出かけたくなったのは、『和菓子屋の息子』(小林信彦著/新潮社)を読んだからだ。小林信彦の家は、1943年(昭和18)にわたしの祖母Click!が亡くなるまで住んでいた「実家」の3~4軒先。埋め立てられた薬研堀跡にもほど近い、「村田キセル」の向こう側にあった「立花屋和菓子店」だ。以前にも書いたが、すずらん通りをはさんで斜向かいには、ミツワ石鹸の「丸見屋」本社Click!があった。
 戦前に出版された『兩國浅草橋眞圖』(木村莊八著)を、わたしはずいぶん前に読んでいるが、その中で木村莊八が描いた1900年(明治33)ごろの東日本橋あたりの絵図は、両国橋が川上へ移動する前のもので、まだ「すずらん通り」という名称も付いておらず、わたしにはいまいちピンとこなかった。このイラスト地図は、関東大震災前の両国橋西詰めを描いていて、当時は、まだ日本橋米沢町と呼ばれていたころの様子だ。

 ▲木村莊八のイラスト(関東大震災前の1900年ごろ)
 ところが、『和菓子屋の息子』には、兄の小林信彦と弟のイラストレーター泰彦の合作による、「すずらん通り」沿いの町の様子が詳細に再現されていて、わたしは親父が子供のころに走りまわったであろう近所の様子を、ようやくうかがい知ることができた。戦前の「すずらん通り」界隈は、両国(西両国)という地名で呼ばれていた。現在は、東日本橋2丁目という番地が付いている。ちなみに、東日本橋の「すずらん通り」は、1923年(大正12)にスタートする震災復興事業後に、東京のあちこちに出現した同名の通りのハシリで、名前の由来となった独特なデザイン街灯のいち早い導入とともに、元祖「すずらん通り」として、戦前まで地元では自慢のタネだったようだ。

 ▲小林信彦・泰彦のイラスト(東京大空襲前の1940年ごろ)
 木村莊八と小林信彦のイラストを比べてみると、柳橋の南にあった元柳町が消滅し、両国橋の移動とともに両国広小路の位置が北へとズレている以外は、日本橋金沢町と呼ばれた道筋にあまり変化のないことがわかる。小林イラストでは、関東大震災をはさんでいるとはいえ、江戸期・維新期からつづく表店(おもてだな)は、ほとんどが元の位置でがんばっている。これらの店々は、東京大空襲(1945年3月10日)ですべてが灰になってしまうのだが、大半の店は焼け跡にいち早くもどり、戦後も同じ場所で営業をつづけていた。
 
 この町にトドメを刺したのは、1964年(昭和39)に行われた東京オリンピック前後の再開発と、吐き気をもよおすような異臭を放つ大川(隅田川)の汚濁だった。小林信彦のいう「町殺し」が始まってからも、親父に連れられてこのあたりを散歩すると、そこここの商店から「カクちゃん!」(親父の愛称)と、幼なじみたちがうれしそうに飛び出してきた。でも、すべてがコンクリートで塗り固められ、わずかな緑も消え去った60年代後半から70年代を迎えると、なんとかがんばっていた町の人たちも、ついに「人の住むとこじゃねえや」と言って次々と去っていく。
 
 このあたりに住んでいた人たちは、ほとんどが新宿区、中野区、渋谷区、杉並区、世田谷区と、馴染みのない東京の西部(日本橋育ちの彼らは「郊外へ引っ越す」と言っていた)へと移転していった。まさに、“民族大移動”といったありさまだったのだ。これにより、中央区の人口はほぼ半減することになってしまう。それでも、洋紙を専門に扱った「七條紙店」(戦後は商事)や煎茶の「ほりつ」、料亭「鳥安」などは健在で、いまでも営業をつづけている。
 
 小林信彦の記述で、ひとつ気になるところがある。佃島の「佃政(つくまさ)」に相当する、戦前、日本橋の女親分だった「粋なおかみさんのいた」(42ページ)ところは、「金龍組」ではなく「金柳会」ではなかったろうか? 同じ「きんりゅう」と読みはするが、当時子供だった小林がイラスト化する際に“思い出し”を重ねたのとは違い、わが家に残された大人の記録には「金柳会」Click!として記述されているので、こちらのほうが正しいと思う。
⑧ 
 先日出かけたら、すずらん通り沿いには、姉妹らしいふたりが経営する、いかにも手づくりの小さなカフェがオープンしていた。BGMには、1985年に録音されたマイルスの「Time after time」が流れていた。なぜか、とってもうれしい。

■写真①:すずらん通りに面した実家跡。いまは、数軒の住宅や企業ビルに細分化されている。
■写真②③は『和菓子屋の息子』(新潮文庫)、はいまでも残る、すずらん通りのプレート。
■写真④⑤は大正末か昭和初期のすずらん通り、は現在(2005年)のすずらん通り。現在の左手に見えているビルが、ミツワ石鹸の旧・丸見屋本社跡。いまはカゴメ東京本社となっている。
■写真⑥⑦は、すずらん通りから1本南の通りにあった旧・千代田小学校。震災復興事業の一環として、独特な流線形デザインの不燃校舎として建てられた。東京大空襲で内部は全焼したが、戦後も内装を新たにし、そのまま校舎として使われつづけ、わたしも目にしている。親父の母校だが、5学年下には小林信彦が通っていた。は現在の同所にある、建てかえられた日本橋中学校。
■写真⑧⑨は、和菓子「立花屋」の店舗跡。この街角が、昭和初期のモノクロ写真に写るポストの角に当たる。は廃業した近くの医院。建物は、もちろん戦後のものだ。
日本橋両国1957.jpg

『高田町史』と『落合町誌』の間に。


 下落合・目白界隈を調べる基礎資料として、『落合町誌』(1932年・昭和7)と『高田町史』(1933年・昭和8)がある。もうひとつ、『戸塚町誌』(1931年・昭和6)も不可欠なのだが、発行部数があまりに少なすぎて現在ではなかなか手に入らない。この10年ほど『戸塚町誌』を探しているのだが、たまに古書店で出物があっても、最近はべらぼうに高くて手がとどかない。『戸塚町誌』のみは手元に置けず、これからも図書館で参照するしかなさそうだ。そのほか、『豊多摩郡誌』や『豊島郡史』があるが、こちらは出版がさらに古いにもかかわらず安価なので、すぐに入手できた。
 『落合町誌』は、現在の下落合・中落合・上落合・中井・西落合界隈の歴史や地勢が書かれた地誌本。『高田町史』はいまの目白・高田・雑司ケ谷界隈、そして『戸塚町誌』は高田馬場・早稲田界隈の同書・・・ということになる。それぞれ、編集・出版には「刊行委員会」が結成されているが、これは純粋に町役場の公的な委員会というわけではなさそうだ。現在の「区史」とは異なり、町が用意した予算のほか、広告を掲載したり、住民からの寄付(特に人物誌掲載料として)をあてにしているらしい様子がうかがえるので、半官半民の刊行委員会だったようだ。これらの地誌本は、1930年(昭和5)から1933年(昭和8)にかけ、新宿区の北部で“ブーム”となりいっせいに出版された。
 なぜ町誌(史)ブームになったのかというと、1932年(昭和7)、東京市の郊外にあった5郡82町村が、東京市へといっせいに編入された時期と重なるからだ。同時に、東京市は従来の15区体制から35区体制へと一気に拡大し、いわゆる「大東京」時代を迎えることになる。区制に編入されて消滅してしまう、地域としての「町」の歴史や伝承、風情を後世に記録しておこうと、東京市近郊の地元町村ではこぞって企画を立てたのだ。もっとも、最初に町役場へ企画を持ちこんだのは、時流に目端のきく抜け目ない出版社だったのかもしれない。どの町誌(史)も非売品だが、あらかじめ購読者を募り、出版部数を決めてからの刊行だったのだろう。いずれにしても、この時期の詳細な記録が書きとめられたことは、のちに地元の歴史や“物語”を掘り起こす側にしてみれば、かけがえのない貴重な資料を残してくれたことになる。
 
 手元にある『高田町史』と『落合町誌』を比較すると、ずいぶん対照的なのが面白い。山手線や目白通りをはさんで、お隣り同士の町(いまの新宿区下落合と豊島区目白・高田の境界)なのだけれど、お互いに当時は対抗意識でもあったのだろうか。『高田町史』がきわめて豪華なのに対し、『落合町誌』は当時の一般的なハードカバー本の作りとなんら変らない。『高田町史』は、紙質から装丁、印刷・製本にいたるまで、おカネをふんだんにかけているのが歴然としている。出来あがった当初は、それほど気にならなかったのかもしれないが、刊行から70年以上が経過したいま、その差が歴然と表れている。
  現在、『落合町誌』は用紙が変色して黄ばみ、ところどころにシミが浮き出て、製本もややゆるみ気味なのに対し、『高田町史』に使われた厚手の高級紙は、経年による変色が見られず、シミもほとんど見あたらない。ページの縁に付けられた金箔こそ薄れたけれど、製本はまるで出版されたばかりのようにしっかりしている。ことさら高級感を醸しだすためにデザインされたのか、装丁の赤い綴じ紐の飾りもいまだ鮮やかだ。印刷にも気を配ったらしく、活字のインクがかすれがちな『落合町誌』に対し、『高田町史』の文字はまったく褪せていない。掲載写真の鮮明さも、製版や用紙の違いからか『高田町史』のほうが優れている。
 時系列的にみて、前年に『落合町誌』が出版されたあと、「あれよりも良いものを」・・・と出版社に注文したのが『高田町史』なのだろうが、それにしてもこの落差は大きい。いまの印刷費の感覚でいうと、『高田町史』の刊行には『落合町誌』の2~3倍のおカネをかけているようだ。もっとも、印刷部数によって単価は大きく変わるので、単純に比較はできないが・・・。おそらく、『高田町史』のほうが購入予定者も多く、また町役場の予算や寄付額も多かったのではないか。高田町は学習院を抱えているので、学校当局やOBからの潤沢な寄付が集まったのかもしれない。

 1932年(昭和7)10月1日、豊多摩郡の落合町と戸塚町は淀橋区へと編入され、北豊島郡高田町は豊島区へと編入されて、いずれも町名は消滅した。そのころの地誌本を手にとると、当時の「わが町」に対する愛惜や気概がことさら強く感じられて、時間を忘れて読みふけることになる。

■写真は豪華な装丁の『高田町史』(1933年・昭和8)、は函押しもなくシンプルな『落合町誌』(1932年・昭和7)の表紙と、飾り気のない中扉。は、『高田町史』刊行当時の学習院。

艦上の理性は曇っていなかった。

 小学生のころ、図書室へ入ると真っ先に駆けつける本棚があった。棚には偕成社だか筑摩書房、あるいは秋田書店だったかが出版していた、『少年少女世界のノンフィクション』(確かそんなシリーズ名だった)がそろっていたからだ。「空とぶ円盤のなぞ」とか「ネス湖のかいじゅう」とか、「ヒマラヤの雪男」とか「さまよえる湖」とか、とにかく男の子が喜びそうなタイトルが並んでいた。雨が降って外で遊べないときは、そんな本を読みながら日が暮れるまですごしていた。
 その中に、「戦艦大和のさいご」というのがあった。吉田満原作の『戦艦大和ノ最期』を、子供向けに口語体でやさしく書き直したものだ。いまでは、内容も挿絵もほとんど憶えていないのだが、なぜ強く印象に残っているのかというと、この本を読んでからしばらくして親父の書棚を見たときに、同じ著者の『戦艦大和』(角川文庫版/1968年)が目についたからだ。もちろん、大人向けの本なので読みはしなかったし、ましてや所収の『戦艦大和の最期』(角川文庫版はカタカナではなくひらがな表記)は文語調で書かれていて小学生には歯が立たなかった。でも、中扉の次に掲載された図版に、なぜか強く惹きつけられたのだ。
 それは、東京駅と戦艦「大和」を比較したもので、全長263mの「大和」と正面から見た東京駅とが重なって描かれている図版だった。喫水下まで描かれている「大和」のかたちは、東京駅の形状から大きくはみ出していて、当時、「こんなにデカかったのか」・・・と改めて驚いたのを憶えている。そしてもうひとつ、ほとんど同じ時期に小学校の映画上映会にやってきた作品というのが、偶然にも吉田満・原作の『戦艦大和』(監督・阿部豊/1953年)だった。なぜ、この大人向けで難解な作品が小学校で上映されたのか、いまでも判然としないのだが、小学生の脳裏に「せんかんやまと」というワードを刻みつけるには充分だった。
 
 作戦と呼ぶのもおこがましい、「必敗」の「天号作戦」に直面した乗組員たちは、なぜ死ななければならないのか?・・・を連日自問し、議論しつづけることになる。自からの死をムダ死にとして捉えることを拒否するために、そこへなんらかの歴史的な意味・理由づけ、“レゾンデートル”が必要なのだ。その眼差しは、驚くほどクールかつ冷ややかだった。「御国のため」とか「家族を守るため」、「天皇陛下バンザイ!」とか、叙情的・感情的かつ抽象的な“想い”は捨象され、流れ去る歴史の中の必然的な“論理”として、個々の主体を必死に位置づけようと試みている。とうに日本が戦争に負けることを前提とした、それは絶望的な議論だった。その末に行きついた「結論」らしき、21歳になる「臼淵大尉の持論」が象徴的だ。
  
 「進歩のない者は決して勝たない 負けて目ざめることが最上の道だ/日本は進歩ということを軽んじ過ぎた 私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた 敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか 今目覚めずしていつ救われるか 俺たちはその先導になるのだ 日本の新生にさきがけて散る まさに本望じゃないか」(「作戦発動」より)
  
 感情に目がくらまず、まるでヘ翁(ヘーゲル/当時の学生呼称)の弁証法のような論議がつづけられたのは、高等教育を受けた士官が集まる煙草盆(休憩室)だったからであり、下級の兵員たちの様相とはまったく異なっていた・・・という評論を目にすることがある。確かにそうだろう。より隷属させられていた兵員たちは、「御国の光」と「銃後の家族」を守ることだけをせいいっぱい考え、あるいは今日的な表現をするなら、あたかも「将軍様マンセー!」に近い感情を抱いていた者も少なからずいたかもしれない。でも・・・と思うのだ。

 男女群島の南130kmで撃沈された「大和」の中に、死に瀕してこれだけのことを連日議論しつづけた理性が、少なからず残っていたことにこそ救いがあり、わたしたちの時代にとって非常に大きな意味があるのだと思う。学校の校門で毎日「御真影」に最敬礼させられつづけようが、「小雨にけぶる神宮外苑」で一糸乱れぬ分列行進をさせられようが、どれほど「大本営陸海軍部」からウソで糊塗した発表を繰り返し聞かされようが、ついに彼らの理性を曇らせることはできなかったのだ。そして、吉田満は生還し、かけがえのない記録文学を残した。
 戦艦「大和」が表現されるたび、撃沈された季節柄、ちょうどサクラの花弁が散る“滅びの美”的なありさまとともに、ことさら情緒的かつ感傷的な“想い”ばかりクローズアップされるのが、とても気になっている。文字どおり、生命を賭した“自己否定”の上に、未来の“肯定”を見いだし築こうと試みた、理性的かつポジティブな彼らに対し、失礼ではないのか。

■写真上:戦艦「大和」と東京駅(近未来)。「大和」の前檣楼トップが白く塗られ、サイドの副砲が撤去されていないので、1942年(昭和17)夏ごろの柱島泊地かトラック島の艦姿だろう。翌年、旗艦設備を備えた「大和」よりも排水量がやや大きな、同型艦の「武蔵」に聨合艦隊旗艦が移っている。
■写真中は、『戦艦大和』吉田満(角川文庫/1968年)。は、米軍機より撮られた空襲直前の「大和」。白いウェーキーが大きく、爆弾や魚雷を避けるため最大戦速で、右へ急速回頭中のようだ。
■写真下:男女群島の南130km、北緯30度43分・東経128度04分、水深350m海底の「大和」。(艦首部) 1999年(平成11)8月20日の「朝日新聞」より。

生理学教室研究者の放生会。

 少し前に、泉鏡花の『婦系図』Click!について書いたから、ついでに花柳小説『日本橋』についても書いてみたい。もっとも、『婦系図』が近代小説の“ピカレスクロマン”なのに対し、『日本橋』はグッと古めかしい講談調の表現が多くなる。そこかしこに、江戸東京の芝居や講談の常套句や“お約束”が顔を出し、原典を知らないとなにが書いてあるのかよくわからない。講談が好きじゃないわたしは、正直かなり退屈する。たとえば、忠臣蔵がらみの・・・
  
 「大高、旨いぞ。」と一人が囃す。
 「おっと任せの、千崎弥五郎。」
 矮小が、心得、抜衣紋の突袖で、据腰の露払。早速に一人が喜助と云う身で、若い妓の袖に附着く、前後にずらりと六人、列を造って練りはじめたので、あわれ、若い妓の素足の指は、爪紅が震えて留まる。
 此奴不見手、と笹の葉の旗を立てて、日本橋あたり引廻しの、陽炎揺るる影法師。日南に蒸れる酢の臭に、葉も花片も萎えんとす。(筑摩書房版『全集』より)
  
 ・・・と、まあこんな調子が延々とつづく。同じ花柳小説でも、平山藘江のほうがまだこなれていて読みやすいかもしれない。それでも、この小説に惹かれるのは、わたしの知らない昔日の日本橋の姿が、そこらじゅうにチラチラ映るからなのだろう。芸妓でヒロインの清葉とお孝による、女の意地の張り合いがメインテーマなのだが、ヒーローである葛木晋三が登場する、「河童御殿」の西河岸町は一石橋のシーンが、他の講談調の文章とはまったく異なり、変にリアリティあふれる表現なのが妙といえば妙なのだ。
 雛祭りに供えた、生きた栄螺と蛤を一石橋から日本橋川へ“放生会”している最中に、葛木は巡査の不審尋問にあう。(舞台では一文雛を流すことになっている) この薩摩出の巡査の尋問が、まるで井上光晴の小説に登場する取調室の病的で粘着気質な刑事のようにネチネチと、とことん執拗でいやらしく描かれている。地場の男たちの喋りとは、まさに対照的だ。このシーンだけが、やたらリアリズムが濃いのだ。鏡花も、同様の嫌な経験をして怨みがあるのかもしれない。
 

 常磐橋御門から一石橋、そして日本橋あたりの日本橋川西岸、呉服町や檜物町界隈が小説の舞台なのだが、頻繁に登場する風景に「西河岸のお地蔵様」というのがある。いまも残る日本橋西河岸地蔵寺(正徳院)は、創建が奈良時代といわれる古刹だ。行基作と伝えられる地蔵菩薩が安置され、享保年間に駿河から日本橋へ移転してきた。誠心誠意お参りをすれば、短期間で願いごとがかなうという、気短かな江戸っ子にはまことにありがたい「日限延命地蔵」なのだが、戦前戦後を通じて日本橋芸者の信仰を一身に集めていた。
  
 「あら、姉さん、肖ていたって、西河岸のお地蔵様じゃないんですか。私は直接に見たことはありませんけれど、・・・でしょうと思いましたから。で、なくって、誰に肖ていましたの、姉さん」
 「まあ、お千世さん、肖たってのはその事なの。・・・じゃ、やっぱり、気の迷いだったんだよ。」とうっかりしたように色傘を支く。(中略)
 飴屋が名代の涎掛を新しく見ながら、清葉は若い妓と一所に、お染久松がちょっと戸迷いをしたという姿で、火の番の羽目を出て、も一度仲通へ。どっちの家へも帰らないで、---西河岸の方へ連立ったのである。けれども、いずれそのうち、と云った、地蔵様へ参詣をしたのではない。そこに、小紅屋と云う苺が甘そうな水菓子屋がある。
  
 「西河岸のお地蔵様」は、いまでこそビルに囲まれた鉄筋コンクリートの不粋な風情だが、鏡花の『日本橋』が書かれた大正期(1914年ごろ)には、震災前なので江戸期からつづく水菓子屋などが建ち並ぶ表店の中にあったのがわかる。
 芸者衆がちょいとお参りし、帰途には甘味やフルーツ、アイスクリームを食べられる店が並んでいたのだろう。「小紅屋」の甘そうな苺とは、江戸期から有名な神楽坂の畑で採れた、“神楽坂イチゴ”だったのかもしれない。そういえば、『日本橋』が書かれた同年には、離婚した妻たまきのために、竹久夢二が「港屋絵草紙店」を開店している。ちょうど、西河岸地蔵寺の真裏あたりだ。

 『日本橋』を読むと、いま昔も、この地域がいかにアンビバレンツな風景を形成していたのかがよくわかる。江戸期の風習をそのまま残しながら、最先端のビジネス(商売)が成立している街。因習がきびしい花柳界や商仲間と、日銀や生き馬の眼を抜く証券取引所が並存している街。帝大生理学教室の葛木晋三が、一石橋から栄螺と蛤を“放生会”している姿が、なによりも“日本橋”の姿を象徴しているのかもしれない。

■写真上:ビルに囲まれた、現在の日本橋西河岸地蔵寺(正徳院)。
■写真中は、昭和20年代の「西河岸延命地蔵」。は、新派の『日本橋』より、初代・水谷八重子のお千世。(こちらも戦後すぐのころ)
■写真下
:一石橋の西詰めに残る「迷ひ子の志るべ」。悪戯されないよう、フェンスで囲われているのが情けない。金座がすぐ目の前のため、後藤家が南北に屋敷を構えてたから、五斗+五斗=一石橋と名づけられたといわれて川柳にも詠まれるが、町場お得意の洒落とばしだろう。江戸の最初期に、永楽銭を市中から駆逐するために、ここで銭束と米を一石単位で交換した・・・といういわれのほうがリアルに感じる。

元神はいったい誰だったのか?

 いまでは、ネットを検索すれば簡単に入手できるが、1990年代初めぐらいまではなかなか手に入らなかった本だった。1962(昭和37)に刊行され、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)ごろまで何度か増刷されたが、その後ほどなく絶版となり、二度と出版されることはなかった。わたしは、神保町で足を棒にして探したが、見つからなかった。ところが、高田馬場から早稲田を散歩していたら、手近な古書店街で難なく手に入ったのを憶えている。
 『神社名鑑』は、日本全国の神社情報の詳細を網羅した「大事典」で、神社本庁のキモ入りで出版された。この「大事典」のよいところは、明治政府によって現在、十把ひとからげに「神社(じんじゃ)」と命名されてしまった、明神、天神、稲荷、八幡、権現、弁天など全国のさまざまな社(やしろ)や聖域について、摂社や宝物、氏子の戸数や参詣者数など詳細なデータが網羅されているばかりでなく、由来沿革の項ではかなり率直に「神さま」の人為的な移動を記録している点だ。つまり、明治政府の教部(文部)官僚によって恣意的に入れ替えられ、勝手に編成しなおされて奉られた神が、どの神であるのかをほぼ掌握できることだ。
 うちは享保以前から家が代々、江戸総鎮守・神田明神Click!の氏子ということになっているから、わたしは明治政府の「意向」には反感を持ちこそすれ、まったく好意的ではない。『神社名鑑』を見ることで、もともと、そこに奉られていた神(元神/地主神)は、ほんとうはどの神であって、明治官僚が無理やり勧請させ、あるいは合祀させた「場違い」の神を推定することができる。すなわち、本来の社の姿を、不十分ながらうかがい知る手がかりになる。このへん、国家神道的な匂いが残る神社本庁の出版にもかかわらず、日本古来の神々を好き勝手に「いじった」経緯については、意外に正直といえるだろう。驕慢でバチ当たりな明治官僚に、日本の神々の天罰よ下れ。(遅かったか・・・)
 近所を見わたせば、たとえば下落合の氷川明神は女体宮であって、江戸時代までは櫛稲田姫(クシナダヒメ)のみ一柱が奉られていた。ところが、おそらく1873年(明治6)から数年にかけ同じ出雲神とはいえ、なぜか素戔鳴(スサノオ)と大国主(オオクニヌシ/オオナムチ)が合祀されている。同じことが、高田の氷川明神男体宮だった素戔鳴(スサノウ)一柱の社にもいえる。大宮にある氷川明神を『神社名鑑』で調べてみると、神紋は出雲の「八雲」紋で、大宮の氷川明神にも神田川流域と同様に、女体宮(クシナダヒメ)と男体宮(スサノオ)があったことがわかる。

 さて、それ以上のことを識ろうとすると、『神社名鑑』ではまったくの役不足だ。そこで、各地に奉られた「神」の真相とは、いったいどのようなものであったのかを突っ込んで調べるには、谷川健一・編による『日本の神々-神社と聖地-』全13巻(白水社)が最適だ。これを超える著作は、21世紀になった現在でも出現していない。たとえば、先の大宮にある氷川明神には、摂社として「荒脛巾(アラハバキ)」社が存在することがわかる。アラハバキ神は片目で片足が萎えてしまい、たたらを踏みながら歩く特別な地主神で、きき足きき目によるフイゴ踏みと熔炉の火吹き作業で障害を負った、大鍛冶(タタラ)の奉じた産鉄神だといわれている。いまでは摂社となってはいるが、これが本来の元神の柱のひとつではないのか?・・・という疑いが強くなったりする。
 社(やしろ)を、そのまま神話的に捉える視点に加え、その聖域のさまざまな伝承や地勢、風俗、風習、地名、遺跡成果物なども踏まえ、民俗学的なアプローチを試みる視点が盛んになった。すると、見えなかった歴史、隠されてしまった歴史が、まるで目のくもりを払うようにパッと眼前に出現したりする。『神社名鑑』は、明治政府の「意向」をそのまま引きずりつつも、江戸期以前より、遥かいにしえの原日本へとたどる社の姿、本来の聖域が意味するものを探る、ファーストステップになりえる資料として貴重だ。

■写真は神社本庁『神社名鑑』(初版/1962年)。は谷川健一・編『日本の神々-神社と聖地-』全13巻(1984年・白水社)の第13巻「南西諸島」編。

そんなものになりたくて、追悼・杉浦日向子。

 隠居したあとは気ままに、つれづれ思いのままに江戸東京のことを書きつづけた。それから12年、濹東へ落ち着いたほんとうのご隠居のように、杉浦日向子は7月22日(金)、スッと消えるように逝ってしまった。
 京橋の呉服屋に生まれ、短い46年の生涯のうち、彼女の残した作品は決して多いとはいえない。多くはないが、中身がとても濃い。いや、濃いというよりも、表現が的確でピタりと言い当てて絶妙だから、短い文章からもたっぷりと思う存分に、江戸東京の情緒を味わうことができる。しかも、「荒事」「和事」を問わず絵や語り口が見事で、とても心豊かで素敵な娘時代を過ごしたのではないか・・・と、わたしはひそかに想像していた。

 

 
  
 江戸の娘とは性(しょう)が合う。合うといっても、相手方の意見を聞いた訳じゃないから、正確には、江戸の娘の性が好きだ、というべきだろう。
 見る間にコロコロと表情が変わる。こちらが怪訝な顔付きをすれば、向うも眉をひそめる。こちらが声を掛けると、ハイと振り向いた時には微笑んでいる。他人から悲しい噂を聞けば、たちまち瞳をうるませ、からかわれれば両頬をぷうっとふくらませる。マア、その目まぐるしいこと、まるで小鳥である。
 江戸の女の全てがソウではないが、とにかく、感情が豊かだ。ある人は、それを「子供っぽい」という。けれど、子供のあどけなさとは、どこか違う。もっと、したたかだし、いざとなれば、男が顔色を失う位に大胆である。直情的かといえば、ひどく婉曲的な表現を好む。ウブではない清純ではない、けれどすれっからしでもなく不良でもない。
 娘の日のとりとめのなさを、私達は十代後半で忘れてしまうけれど、江戸の女は妻となり母となり老いて尚、忘れないように見える。(「両国薬研堀」より)
  
 江戸東京の女性を、これほどストンと腑に落ちるよう的確に表現した文章を、わたしは明治以降のあまた排出している地元作家の中で、まずはほとんど知らない。35歳で隠居したとはいえ、あとたっぷり40年ほどは生きて、書きつづけてほしい女(ひと)だったのだ。

 ちょっと・・・というか、ひどくめげてしまったので、「怪談」シリーズはこれでお仕舞い。代わりに、杉浦日向子の怪談集『百物語』(1993年/新潮社)でも、お読みいただければと思う。

■図絵左上は「文化三年六月一日・両国薬研堀」、右上は「弘化元年十一月二十三日・柳橋」、左下は「文化十三年五月二十四日・門前仲町」、右下は「文化十四年八月十六日・聖天町」、いずれも『江戸アルキ帖』(1988年/新潮社)より。

「みずすましの街」と猫。

 都心から“水たまり”が消えてから、どのぐらいになるだろう。雨が降ると、必ず舗装されていない凸凹の道には、大きな水たまりがいくつもできていた。そんな水たまりには、シオカラトンボやアオスジアゲハが寄ってきては水を飲んでいた。どこからやってくるのか、みずすまし(アメンボ)がいることさえあった。雨上がりのよく晴れた日には、水たまりの中に青空が映っていて、淵に立つとめまいがして怖かった憶えがある。
 ときどき家の建てかえや、マンションの建設予定地などで地面がむき出しになると、懐かしい水たまりに出会うことがある。この空き地も、いまは泥んこで大きな水たまりができているけれど、いずれはビルが建ってしまうのだろうが、それまではとんぼや蝶、みずすましたちの憩いの場になる。猫たちだって、土が香るところが好きなようだ。寄ってくる虫たちを観察しながら、ウトウトするのが気持ちいいのかもしれない。
 小林信彦の短編小説に、『みずすましの街』というのがある。通りの名前までは書かれていないが、戦前、東日本橋(薬研堀)にあった「すずらん通り」界隈の情景を描く下町の物語だ。すずらん通りは、まっつぐ行くと日本橋本町へと抜けられるが、いまでは通り名さえ残っていない。主人公は、「みずすましの清さん」こと清治という、地廻りヤクザの子分のひとりを描いた作品。いちおう小説という形態になってはいるが、これ、ほとんど実話である。
 「みずすましの○ちゃん」(「さん」ではない)は名前こそ異なるが実在した人で、わたしの親父とも知り合いだった。みずすましの○ちゃんに赤紙が来て戦争へ行くときにもらったものが、なぜかうちの押入れの行李にいつまでも残っていた。(いまでも探せばあるのかもしれない) 同じ千代田小学校(現・日本橋中学校)の出身なのかな? 同じような情景は、三木のり平の『のり平のパーッといきましょう』にも登場する。三木のり平も千代田小学校で、親父のひとつ上の先輩。女の子の袂にカエルを放りこんで遊んだ、ともに東日本橋のワルガキ仲間だった。ただし、三木のり平はイメージとは裏腹に喜劇を好まず、非常に生真面目で真摯な性格の人だった。
 

 ところで、みずすましの○ちゃん(小説では清さん)、物語にも出てくるが周囲からは「(ヤクザにしては)お上品な人たち」と呼ばれていた、すずらん通りの地廻りヤクザ組は、太平洋戦争が始まるとともに組員を片っぱしから戦場にとられて瓦解してしまう。ついでに、東京大空襲Click!でトドメをさされてしまった。それまでは、みずすましの○ちゃんがスイッスイッと街中をすべって歩くほどに、たとえあぶれ者ややっかい者にさえ、日本橋はとても住みやすく暮らしやすい街だったわけだ。街中に、渡って歩きやすい“みずたまり”のゆとり・・・があったのだろう。
 戦前の地廻りヤクザは、お金持ちの旦那相手の賭場も開くが、街の半端者・あぶれ者=不良を吸収して迷惑にならぬよう「更正」させる(仕込む)家裁+少年院のような役割、話がこじれたときの仲裁人あるいは代言人、便利屋、公証人、コンサルタント、さらには町内会長のような役割をも担っていた。佃島における「佃政」のような存在で、現在のいわゆる「暴力団」とは異質のものだ。小説では伏せられて登場しないが、このすずらん通りにあった一家は「金柳会」といって、両国広小路から人形町、大伝馬町、小伝馬町、浜町、柳橋、浅草橋、蔵前、南浅草、さらに東両国まで縄張りを持つ、東京でも屈指の大きな一家だった。小林信彦が執筆した当時は関係者も残っていたろうが、もう戦後60年も経過しているのだから、大っぴらにしたっていいだろう。東京で同じような会は、いまではTVでドキュメンタリーにもなった、浅草界隈の女親分の一家しか存在していない。
 みずすましが気持ちよさそうに渡れる、水たまりのある町。水たまりの脇で、ネコが気持ちよさそうに昼寝のできる街、そんな許容範囲が広く度量の深い街が、暮らしやすさの条件なのかもしれない。なんだか、「気になる猫」だか「気になる本」だか、わけのわからない記事になってしまった。

■写真上:水たまりと昼寝猫。後楽の神田川沿いあたり。
■写真下は『みずすましの街』所収の小林信彦『侵入者』(文春文庫)、は三木のり平『のり平のパーッといきましょう』(小学館)

岩波文庫の大好きNo.1。

 

 以前、岩波文庫の「復刻」だか「大きな活字による再版」だったか、読者が選ぶ人気作品の第1位は、中勘助の『銀の匙』だった。「岩波文庫の100冊」の企画でも、『銀の匙』は確か夏目漱石の作品に次いで、読者が選ぶ好きな作品の第3位にランクインしていたと思う。中勘助は、漱石山房の「木曜会」にはほとんど出席しなかったようだが、漱石が「子供の世界の描写として未曽有のものである」・・・と激賞していたことを、のちに和辻哲郎が書きとめている。
 だが、同じ子供時代の世界を描いた作品としては、わたしは『銀の匙』よりも、長谷川時雨の『旧聞日本橋』のほうが圧倒的に好きだ。理由は、しごくカンタン明瞭。中勘助の子供世界は、山手に漂うわたしにとって「異文化」の匂いがするが(また憧れもするけれど)、長谷川時雨の描く世界はどっぷりと日本橋の空気が漂う、すなわち本来の「大江戸→東京」の匂いがするからだ。そう、長谷川時雨は通油町に産まれ育った。わたしの実家があった日本橋米沢町/薬研堀界隈から、わずか400mほどしか離れていない。いま風にいえば、彼女は日本橋大伝馬町、わたしは東日本橋の産でほとんど同じ町内同士というわけだ。
 長谷川時雨(1879~1941)の子供時代のあだ名は、安本丹(アンポンタン)=(愛情がこもったニュアンスの)おバカさん。なにかに興味を持つと、とことん最後まで観察して調べないと気がすまない凝り性の性格から、おそらく「よい加減というもんを知らねえおまえは、アンポンタンだ」と周囲から言われたのだろう。小学校しか出ていない彼女だが、同時代の女性でこれほどアタマがよく、勘の鋭い人はほかにいないのではないかと、わたしはひそかに思っている。学歴の高さとアタマの良さが、必ずしも比例しないのはいつの世でも同じことだ。アンポンタン時雨は、日本橋界隈の景色や風情、人々の機微にいたるまで作品へ見事に活写している。
 さて、長谷川時雨がすごいのは、「婦人解放」の専門誌『女人藝術』を発行して自ら作品を発表したのにとどまらず、数多くの新人作家を発掘したことだ。ときに、女の“夏目漱石”と言われるゆえんだろう。そして、その新人たちの多くは、なんと下落合とその周辺に在住していた作家や評論家が多い。平林たい子、神近市子、宮本百合子、矢田津世子、大田洋子、中本たか子、円地(上田)文子、山川菊枝、林芙美子・・・と、彼女が世に送り出した作家や評論家は、「目白文化村」シリーズClick!で顔を見せた下落合界隈の人々が目につく。稼いだカネは、惜しげもなく『女人藝術』へ注ぎこんで、新人たちへ作品発表のメディアを提供しつづけた。
 
 オツにすましてはいるが、我がとても強く癇も強そうな彼女のポートレートを見るたびに、わたしはうちの古いアルバムに残る、セピアに変色した祖母の写真を思い出す。ことさら遊びと美味(うま)いもんに目がなく、野暮天とヘビが大嫌いで、ふだんは寛容でふところは深いのだが一度キレたら「マジこわ」の、典型的な東京の町場女性の顔をしている。どこか可憐さを備えている、本郷のアイドルが樋口一葉で、下落合のアイドルが九条武子Click!(東京女性じゃないが)だとすると、日本橋のアイドルは間違いなく長谷川時雨だ。
 父親(代言人=弁護士)の隠居とともに、油町からこれまた独特の磁気をおびた佃島の“別荘”へ引っ越ししているのも、うらやましい限りだ。もっとも、戦前当時の日本橋なり佃島だから、わたしはうらやましく感じるのだが・・・。長谷川時雨よりも20歳あまり年下だったうちの祖母と同様、東京大空襲を知らずに亡くなったのは、かえって幸せだったのかもしれない。

■写真上は『旧聞日本橋』(岩波文庫)と、は50歳ごろの長谷川時雨。
■写真下は山手の“異文化”が香る『銀の匙』(岩波文庫)と、は金鱗堂・尾張屋清七版「日本橋北・内神田・両国浜町明細絵図」1863年(文久3)。

盆栽老人とその周辺。

 わたしの母方の祖父は一時期、盆栽にものすごく凝っていた。家に遊びに行くと、100鉢以上もの盆栽が庭にズラリと並んでいたのを憶えている。いつごろから始めたのかは知らないが、死ぬまでつづけていた趣味のひとつだった。江戸期の染井地区(現・駒込/日暮里あたり)に、世界最大のフラワーセンター(幕末の英国人フォーチュン報告)が存在したせいで、町辻いたるところに花木や鉢植えがいきわたっていた。いちばん有名なのは、ここで山桜と在来桜をかけあわせて品種改良された、ピンクも鮮やかな江戸桜ソメイヨシノだが、さまざまな鉢植えも江戸の町辻へと供給していた。文字どおり「花の大江戸」といわれるゆえんだが、“鉢植え文化”はいまだ健在だ。でも、わたしは盆栽のどこがそんなに面白いのか、いまでもわからない。盆栽というと、老人の趣味というイメージがあるが、それがとんだ間違いだと知ったのは、深沢七郎の小説『盆栽老人とその周辺』からだ。
 深沢七郎というと、あまりにも『楢山節考』や『笛吹川』が突出して有名で、どこか暗く陰惨なイメージがつきまとうのだが、もともとジャズギタリストであり小説家でもある彼の作品は、思わず噴き出してしまうようなとぼけた作品がかなり多い。長編『盆栽老人とその周辺』の中で、ある老人がこんなことを言うシーンがある。「盆栽は最低10年ぐらいやらなければダメですから、やるなら、50鉢ぐらいやらなければツマラないですよ、10鉢や、20鉢で、5年も、10年も育ててはツマラないでしょう」。10年で初心者、50年ほどつづけて、ようやく一人前になる世界が盆栽の趣味なのだそうだ。つまり、引き算をすれば、20歳あたりで盆栽を始めても、ようやく鉢が人さまに見せても恥ずかしくない作品に仕上がるのは、70歳ごろということになる。60歳で盆栽を始めたりしたら、初心者のまま亡くなってしまう人も少なくないに違いない。こんな趣味はめずらしい。10年もひとつの趣味に没頭すれば、かなりのベテランになるのが普通じゃなかろうか。
 祖父は何十年つづけていたのか知らないが、『盆栽老人とその周辺』には次のような台詞も出てくる。「あの3百万の松なども、5千円で買ったんだよ」・・・。植木市で5千円で買った盆栽が、ちょいと手を加えることで翌年には3百万円で売れたというのだ。これが盆栽趣味のもうひとつの側面、ほとんど詐欺に近いような商売の醍醐味があるようなのだ。5千円が、わずか1年で3百万円になるのだから、紙きれのどんな株よりも植木の株のほうがはるかに効率がいい。この方面に“趣味”を求める人には、たまらないのかもしれない。“いい枝ぶり”というのが非常に主観的なものだから、個人の好みによっては千円の鉢が百万円に化けたりもする。小説の主人公も、わけのわからない人々にふりまわされつづけ、最後まで目を白黒させて終わってしまう。
 祖父が死んだとき、形見分けに大きな梅の盆栽をもらった。巨大な鉢に入った高さ1mぐらいの、みごとな枝ぶりの老梅で、幹には洞などもあって150年は経過している鉢だと言われた。でも、気の短いわたしがもちろん手入れをするはずもなく、鉢から地面に移したら、剪定されないものだからアッというまに倍以上の背丈に伸びてしまった。おそらく、もらった当初は3百万円したかもしれないが、いまではきっと5千円なのだろう。

『盆栽老人とその周辺』(深沢七郎集第四巻・小説4/筑摩書房)

意思表示 せまり声なき こえを背に・・・。

 

 意思表示せまり声なきこえを背に ただ掌の中でマッチ擦るのみ

 「オレ最近、感性が鈍磨してダメになってるな」、あるいは「年取ったかな?」・・・と感じたときに、本棚からゴソゴソと探し出しては開くのが、岸上大作の短歌集『意思表示』だ。そして、1960年4月-10月「意思表示」の最初の1首が、「意思表示 せまり声なき こえを背に・・・」。
 時代は60年安保のさなか、岸上大作はその敗北から白けきった“大雪崩”へと移る情況を生きた歌人であり、わたしにはまったく記憶にない時間の、とうに「歴史教科書」に整理されてしまった時代の作品だ。だから、学生時代に本書を手にしたときは、「ああ、いちおう読んでおこうか」ぐらいの気持ちだった。ところが、第一首めからゾワーッときた。本を持った両手が、鳥肌だったのを憶えている。

 かきあげている額の髪言いきらん 言葉は語尾より憎しみを生む

 なぜ、それほど惹かれたのか、いまでもはっきりとはわからない。岸上大作は、60年安保に挫折して自ら21歳の生命を絶った・・・のでは決してなく、ある女性に失恋したことに絶望して自裁したのは明らかだ。いや、「失恋」するほどにまで関係は築かれてなくて、単なる一方的な片想いだったようなのだ。その女性に対する当てつけからか、恨みがましい絶筆「ぼくのためのノート」を残し、吸いかけのハッカ煙草(メンソールタバコ)「みどり」を残し、どこからか盗ってきた灰皿を残し・・・「受けとってくれますか?」などと、未練がましくいろいろなモノを残しながら逝った。「残された」側の女性は、さぞ迷惑だったことだろう。

 つながらぬ電話にながきこだわりも 顔くらくせぬチャペルセンター前

 そのどうしようもない女々しさ(差別的です/失礼)やヒ弱さ、ガラス細工のように脆弱な神経と“線”の細さ、自意識過剰の狭量さや自分勝手さに、わたしは嫌悪感をおぼえる反面、なぜか作品には強く惹かれていってしまう。鉛筆削りを最細にしたときの尖んがりのような感覚、折れやすく曇りのない感性の中に、自分がついぞ持ったことのない「何か」を見るからなのか・・・。

 耳うらに先ず知る君の火照りにて その耳かくす髪のウェーブ

 わたしの知らない時代の、とても反りが合いそうにない男が残した言葉なのだが、なぜか心にじわじわと沁みてくる。たまに『意思表示』を取り出して読むのは、少しはあったかもしれない感性の尖がったころの自分を、論理性を最優先していたころの偏狭な自分を、期せずして思い出させてくれるからなのかもしれない。そして、ちょっぴりあのころの“新鮮”な自分を、取りもどせたような気になるから・・・なのかもしれない。

 夏服の群れにひしめき女学生 たちまち坂を鋭くさせる

 「さらば論理の純潔よ」と詠ったのは、キッド・アイラック・ホールの福島泰樹だったろうか? わたしはもう、岸上大作の2倍以上の年月を生きている。

■写真:『意思表示』(角川書店)。『現代文学の発見15巻-青春の屈折・下巻-』にも収録されていたが、ともに絶版となっている。