人がよく死ぬ明治時代。

大久保百人町躑躅園.jpg
 ずいぶん前に読んだ本なのだが、忘れられない物語があった。いや、正確にいえば女性の日記なので、記録(ドキュメント)と呼んだほうがふさわしいのかもしれない。日記を書いた当の女性が発表したものではなく、小泉八雲Click!(ラフカディオ・ハーン)が序文とあとがきを書いて紹介したものだ。日記といっても非常に短いもので、短編ほどのボリュームしかない。なぜなら、この女性は日記を付けはじめてから、わずか4年半で亡くなっているからだ。
 大久保界隈に住んだとみられる女性の日記は、死後、彼女の裁縫箱の中から発見され、近くに住んでいた小泉八雲のもとへとどけられたらしい。日記の書き出しは、女性が結婚する直前の29歳のとき、1895年(明治28)9月25日の日付けからスタートしており、1900年(明治33)3月13~14日で終わっている。最後の記述からおよそ2週間後、同年3月28日に彼女は34歳で亡くなっている。あまり容姿的にはめぐまれていなかったと八雲は書いているけれど、彼女が結婚した相手とは、妻と死別した下級官吏の後添いとしてであり、月給が10円という貧しい暮らしだった。
 わずか4年半の日記が書かれる間、彼女の周囲では実に多くの人々が死んでいる。結婚後に生まれた、彼女の3人の子供たちをはじめ、姉妹や友人など実にあっけないほど次々と鬼籍に入っていく。女性はそのたびに落ちこむのだけれど、歌を詠み、詩を作り、義太夫を詠じてあきらめ、立ち直りながら生きていこうとする。わずか4年間の結婚生活の中で、あたかも一生ぶんの出来事が起きてしまったような、凝縮された時間が流れていく。
 八雲がプライバシーに関する箇所だけを削っただけで、ほとんどそのままの姿で紹介した『ある女の日記』を、わたしは学生時代に読んだのだが、それがどの作品に収録されていたのか、いままでまったく忘れていた。当時、確か小泉八雲全集の何巻かで読んでいたので、この作品が収められた当初の書籍名を憶えていなかったのだ。タイトルさえウロ憶えかつ曖昧で、それがようやくハッキリしたのはたまたまの偶然からだ。『ある女の日記』は、日記を付けていた女性が亡くなった2年後、1902年(明治35)に出版された小泉八雲の『骨董』の中の1編として収録されている。女性は自分の日記に、「むかしばなし」というタイトルを付けていた。
ちくま文学の森15巻.jpg 小泉八雲旧居跡.JPG
 ほとんど仮名で書かれていたとされる文章は読みづらいけれど、それでもこの女性の頭のよさや文才を充分に感じることができる。ところどころ、会話が交わされる様子もそのまま記されており、彼女がおそらく単に防備緑としてではなく、「むかしばなし」というタイトルからも、この日記をのちに誰か(おそらく子供たち)に読ませるために書いていたのではないかと思わせる、ていねいな記述がなされている。たった1行の日もあれば、数ページを費やして短歌や詩を創作している日もあって、わずか30ページ前後のボリュームであるにもかかわらず、かなり読みでのある内容だ。1行だけの日でも、前後の文脈からさまざまなことを想像させるのは、彼女の才能によるものだろう。
 わたしが驚くのは、明治のこの時代、人々はほんとうにいろいろなところを散歩し、よく出歩いているということだ。当時の庶民の間では、乗物を利用するという習慣がまだなく、江戸時代と同様にほとんどが徒歩による行楽だ。もちろん、馬車や俥(じんりき)、汽車は走っていたが、1日の生活費が27~28銭ほどで暮らさなければならなかった彼女のような家庭では、乗物に乗ることなどできなかった。それでも浅草をはじめ、赤坂、水道橋、向島、上野、神田、秋葉原、高輪、本郷、麹町、近所では早稲田、新宿、大久保と東京じゅうを歩きまわっている。往復するのに20kmの散歩も、決してめずらしくはなかっただろう。
浅草寺.JPG 三崎稲荷.JPG
 最近、この『ある女の日記』が独立して収録されている本を見つけた。筑摩書房が1988年(昭和63)に出版した「ちくま文学の森」シリーズの第15巻『とっておきの話』(安野光雅・編)だ。いま、改めてもう一度読み返してみても、明治に生きた女性の姿が眼前に活きいきと甦ってくるのは、やはり彼女の優れた表現力と的確な筆づかいによるものだろう。その生活感や風景のリアリティは、針箱の中へ日記をひそませた貧しい家庭の主婦として、彼女が亡くなる数年前に病没した、樋口一葉が描くフィクションとしての「明治」よりも、手ざわりが確かなように感じるのだ。
 小泉八雲が、原典にどれだけ手を加えているのかは知らないが、女性が書いたナマの日記をぜひ読んでみたいものだ。それとも、彼女の日記はとうに失われてしまったのだろうか?

■写真上:明治末に撮られた大久保百人町のツツジ園で、東京じゅうから行楽客を集めた。
■写真中は、『ある女の日記』がめずらしく収録された『とっておきの話』(筑摩書房/1988年)。は、西大久保に住んでいた小泉八雲の旧邸跡で、女性の日記はここにとどけられたのだろう。
■写真下:彼女がよくお参りをして家族の無事を祈った、浅草寺()と水道橋の三崎稲荷()。

下落合で執筆された『虚無への供物』。

中井英夫旧居跡.JPG 目白2丁目和館.JPG
 アビラ村Click!(芸術村)の目白崖線上に、小説家の中井英夫が住んでいた。中井英夫(塔晶夫)は、夢野久作の『ドグラ・マグラ』や小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』とともに、ミステリーの3大奇書といわれる『虚無への供物』の作者であり、まさに下落合で同作は執筆されている。中井英夫は、『がいこつ亭Vol.35』(2008年4月)の中村惠一著「闇に香る蒼き薔薇」によれば、1958年(昭和33)から1968年(昭和43)まで旧・下落合4丁目2123番地(現・中井2丁目)に住んでおり、そのせいか『虚無への供物』にはあちこちに、目白・下落合界隈の情景が登場している。
 近ごろ、長編小説を読まなくなって久しい。学生時代は、野間宏の『青年の環』でも大西巨人の『神聖喜劇』でも平気で読んでいたのだけれど、最近は辻邦生の『樹の声 海の声』も途中で飽きてしまい放りだす始末だ。でも、『虚無への供物』は最後まで一気に読んでしまった。下落合の近所が登場するので飽きないせいもあるが、ストーリー自体が面白かったからだ。本作は、いちおうミステリーの範疇に分類されることが多いけれど、いわゆる「推理小説」ではない。
 『虚無への供物』は、「純文学」でも「推理小説」でも「風俗小説」でも、「歴史考証小説」でも「科学小説」でも「怪奇小説」でも、はたまた「大衆小説」でもなく、あらかじめカテゴライズされるのを鋭く拒絶するような、そのすべてを兼ね備えた作品という趣きがある。先の『青年の環』のひそみに倣えば、「全体小説」ならぬ「総合小説」とでもいうべき表現となっている。作者自身は本作のことを、ことさらアンチ・ミステリー(反推理小説)と称していたようだ。
 事件が起きる氷沼邸は、学習院のある目白通りの北側、旧・学習院馬場Click!があった裏手の北向き斜面に建っていた設定となっている。『虚無への供物』(講談社版)から引用してみよう。
  
 国電の目白駅を出て、駅前の大通りを千歳橋の方角に向うと、右側には学習院の塀堤が長く続いているばかりだが、左は川村女学院から目白署と並び、その裏手一帯は、遠く池袋駅を頂点に、逆三角形の広い斜面を形づくっている。この斜面だけは運よく戦災にも会わなかったので、戦前の古い住宅がひしめくように建てこみ、その間を狭い路地が前後気ままに入り組んで、古い東京の面影を偲ばせるが、土地慣れぬ者には、まるで迷路へまぎれこんだような錯覚を抱かせるに違いない。(中略)繁り合った樹木が蔽うという具合だが、豊島区目白二丁目千六百**番地の氷沼家は、丁度その自然の迷路の中心に当たる部分に建てられていた。 (同書「序章」より)
  
虚無への供物上.jpg 権兵衛坂.JPG
 また、この事件を「解決」に導く牟礼田の家は、下落合の氷川明神を見おろす目白崖線の中腹、地元では通称「権兵衛山」と呼ばれる斜面に通う、権兵衛坂Click!沿いに建っていたことになっている。先年亡くなったばかりの、十返千鶴子Click!の自宅が建っているあたりだ。
  
 高田馬場の駅前から、交番の横の狭い商店街に車を乗り入れ、橋を渡っていくらも行かぬ小さな神社の前で降り立つと、久生は手をあげて、崖の中腹に見えている白塗りの家を指さした。南に向いて、アトリエ風な大きいガラス窓の部屋がせり出し、辛子色のカーテンの傍に、黒い人影が動いている。/「ここからまた、ぐるっと狭い坂道を廻って上ってゆくの。ねえ、ここでならあの“犯人自身が遠方から殺人行為を目撃する”っていうトリックが出来そうでしょう」 (同書「第二章」より)
  
 書かれている「交番横の狭い商店街」とは1950年代半ばの栄通りのことで、「橋」はその先の目白変電所Click!に面した田島橋Click!、「小さな神社」が下落合の氷川明神社Click!、「崖の中腹」が権兵衛山(または大倉山とも)の斜面、「狭い坂道を廻って」の坂道は権兵衛坂のことだ。十三間通り(新目白通り)は、いまだ計画中で存在していない。
 あまり内容について詳しく書くと、ネタバレになってしまうのでひかえるけれど、作者の広範な知識と取材力とには驚嘆するばかりだ。推理をつづければつづけるほど、どんでん返しで裏切られていくという意外性。東京の下町と乃手Click!が交叉し、「薔薇」に「シャンソン」に「五色不動」に「不思議の国のアリス」、はたまたアイヌ民族のカムイ・ユカルまでが織りこまれ、何重にも張りめぐらされた伏線と綾なす物語の繊維とが重なり合い、息をもつかせずに展開していく。
権兵衛山山頂.JPG 東京都全住宅案内帳1960.jpg
 物語の中で気になったのは、アイヌ民族のトンコリ(五弦琴)が道南の洞爺湖周辺で奏でられていたように書かれているけれど、トンコリはカラプト(樺太)アイヌ独特の楽器であって、渡嶋アイヌとその周辺域には存在しなかっただろう。ちなみに、中井は金田一京助Click!の関連資料を参考にしているようだ。また、江戸の五色不動は、その中のいくつかが当初の建立位置と明治以降とでは大きく異なっており、それらを結ぶレイ・ラインを今日的なポイントで結ぶと、本来の意味とは異なるかたちが形成されてしまう。目白不動Click!を例にとれば、関口にあった本来の位置から金乗院のある西へ1,000m近くも移動している。
 物語のエンディングも、北側の崖線(バッケ)斜面に牟礼田邸が見える下落合の氷川明神だ。この牟礼田の性格が、実はわたしは大の苦手だ。もったいぶった話しぶりと、じれったく思わせぶりな態度とで、読んでいてしきりにイライラさせられる。他の登場人物は、それなりに好ましく描かれているのだけれど、中途から登場するフランス帰りの牟礼田だけが、どうしようもなく野暮で嫌味なヤツなのだ。(ネタバレ注意!) 最後、久生にふられるのは気味(きび)のいい結末。
住宅表示新旧対照案内図1965.jpg 中井英夫.jpg
  
 いつもの神社の前までくると、二人はいっせいに牟礼田の家を見上げた。ガラス戸のところに立って、こちらを見おろしているのは、蒼司だといい切れるほどにはっきりはしないが、確かに牟礼田ではない。それでは蒼司はやはりあの家にいて、いましがたの喪服パーティの模様も、陰できいていたのだろうか。(中略)なんとか見定めようとするうちにその黒い影は、別れをいうように手をのばして、カーテンの飾り紐を引いた。 (同書「終章」より)
  
 「推理小説」(とりあえずこう呼ぼう)で、落ちやネタがわかっているにもかかわらず、もう一度プロローグにもどって読み返したくなる作品は稀有なことにちがいない。1,200枚を超える小説を一気に読み通すというのは、全体のプロットの出来もさることながら、登場人物が魅力的なのも大きな柱だ。わたしが好きなのは、主要人物の中で唯一の女性である久生のキャラクターだ。でも、三島由紀夫が久生ファンだと聞いて、ちょっとガックリきたような気もする。

■写真上は、アビラ村西部の旧・下落合4丁目2123番地の中井英夫邸があったあたり。は、目白通りの北側には空襲による延焼をまぬがれた家々がいまでも点在している。
■写真中上は、もっとも新しい版の『虚無への供物』(講談社)。は、下落合の権兵衛坂。
■写真中下は、権兵衛坂を上りきった権兵衛山の山頂。は、1960年(昭和35)の「東京都全住宅案内帳」(住宅協会/人文社)にみる旧・下落合4丁目2123番地あたりで、「植物園」と記載されているのが中井邸と思われる。父親の影響で園芸好きな彼は、バラ園も造成していただろう。
■写真下は、1965年(昭和40)に作成された「住宅表示新旧対照案内図」にみる中井英夫邸。は、1980年代ごろの中井英夫。戦時中、帝大生だった中井は陸軍の作戦中枢である市ヶ谷の参謀本部へ勤務していたが、そのときの日記を最後に引用したい。
  
 この存在(軍隊)はいつさい無価値であり、「世々天皇のしろしめし給ふところ」の軍隊は、単に一個の軍閥と呼んで何等差支へはないのだ。ましてそれが臭気ふんぷんたる資本主義と手を結び、南方に帝国主義的な進駐を開始するに到つた昭和十六年某日よりの行動は、革命の日もつとも指弾し、全面的に責任を問ふべき醜悪なる事実である。

安政大地震タイプが危ない落合地域。

 

 太平洋の海底に起因する、プレート型の地震だった1923年(大正12)の関東大震災Click!が下落合界隈を襲ったとき、その被害は東京の下町Click!に比べてはるかに軽かった。倒壊した家屋はわずか2棟のみ、それも江戸期あるいは明治初期に建てられたかなり古い建築だったとみられる。目白文化村では、ほとんど被害らしい被害がみられなかった。でも、神田川や妙正寺川の河岸段丘である目白崖線は、それより70年ほど以前、1855年(安政2)に起きた安政大地震のときはどのような揺れ方をしたのだろうか。
 いま、東京における震災対策の多くは、関東大震災時の被害Click!を前提としている。それは、同震災の時代が新しく、データ類や証言が数多くいまに伝えられているからだ。少し前まで東京の大地震は、安政大地震から関東大震災までの周期(69年周期説)が重視され、おもに太平洋のプレート型地震へと目が向けられてきた。ところが、安政大地震と関東大震災とでは、地震のタイプがまったく異なっていた可能性が、かなり以前から指摘されてきている。
 目白崖線付近における関東大震災の揺れ方は、東京の旧・城下町の揺れに比べれば確実に小さかった。しかし、安政大地震のときの揺れは、関東大震災のときとはまったく様相が異なっていたようだ。安政大地震は、どうやら地下活断層のズレによる、大江戸(おえど)の直下型地震だったらしいことがわかってきている。関東大震災のとき、津波は太平洋沿岸の町村に次々と押し寄せたが、安政大地震のときは外洋ではなく、東京湾内を津波が襲っている。地震の揺れも、山手は下町に比べて同等か、それ以上だった印象を受けるのだ。
 
 落合地域における安政大地震の揺れ方について、貴重な伝承を見つけた。中野区教育委員会がまとめた、『続中野の昔話・伝説・世間話』(口承文芸調査報告書)の中に、安政大地震と関東大震災の双方を経験した、お年寄りによる証言の聞き書きが採集されている。
  
 金三郎じいさんや、ぼくのおやじが、よく言ってましたよ。井戸がね、昔は、木のね、四角の枠がこうなってて、あれがね、三尺動いたっていうの。安政の大地震は。三尺ね、あれからこっちに動いちゃってるんですって。/そこへくると、まだね、こないだの大正十二年の震災は、そんなほどでない。安政は、きっとね、マグニチュード何だなんて、わからないだ。こないだ東京で七度っていうから、もっとそれ以上かもしれないねぇ。そう言ってましたよ。金三郎じいさんが、そう言ってた。/安政の地震はねっ、こんなもんじゃないんだと。もっとね、今でも昔の家でもこう四角いつるべでやってたですけど、そのあれが三尺動いたと。三尺っていうと、このぐらい動いちゃったんでしょうねぇ、横に。ええ、言ってましたよ。 (同書「世間話」より)
  
 頑強に組まれた井戸の井桁が飛び出し、90cm以上も横にズレている様子が伝えられている。重要なのは、安政大地震を経験した「金三郎じいさん」や「おやじ」さんが、関東大震災に遭遇して安政型は「こんなもんじゃないんだ」と証言している点だ。つまり、安政大地震と関東大震災とでは、揺れ方がまったく違っていたことの直接証言ということになる。
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 関東大震災は長く激しいヨコ揺れによる破壊だったが、安政大地震は激しいタテ揺れによる破壊を示唆している。東京湾に津波が押し寄せたのも、真下を走る活断層のズレを直感させる。東京における「郊外住宅地」や「田園都市」の形成は、関東大震災による下町人口の流入という側面が大きい。つまり、住宅が密集して揺れの激しかった「危険地帯」を逃れ、揺れの少ない「安全地帯」への流れのはずだった。ところが、新山手を形成する「郊外住宅地」の多くは、安政大地震タイプの震災をまったく経験していないことになる。
 地元界隈に伝わる安政大地震の記憶をたどると、少なくとも目白崖線界隈の落合地域では、関東大震災タイプよりも安政タイプのほうが、はるかに危険かつ怖い揺れ方をするのではないか。

■写真上は、安政大地震の直後に数多く描かれた、地震封じの鯰絵(なまずえ)。は、本所の復興記念館に残る、地震計の針が振り切れた関東大震災の激しい横揺れ。
■写真中は、中野区教育委員会が1989年(平成元)に発行した『口承文芸調査報告書/続中野の昔話・伝説・世間話』。は、安政大地震による被害の様子を伝える読売(瓦版)。
■写真下は、いまでも下落合のあちこちに残る井戸。安政大地震の直前、水位の急激な変化はみられたのだろうか? は、数万年かかって堆積した段丘の目白崖線。地盤が固いのは、海底プレート型のヨコ揺れには強いようだが、直下型の活断層型のタテ揺れ地震にはどうだろうか。

蛍狩りの茶番はキツネに化けて。

 「茶番」という言葉がある。「茶番劇」なんて言葉もあるけれど、江戸の街中で行われていたそれが、どのようなものだったのかは、案外知られていない。大震災にも大空襲にも遭わなかった、江戸期からのお宅には、ときどき茶番道具が伝わっていることがある。茶番で用いる品々を売る、コスプレ屋さんまでがあった江戸の街角、はたして茶番とはどのようなものだったのだろうか? 
 茶番には、おおまかに分けて「野茶番」(外茶番)と、「仕方茶番」(口上茶番)とがあった。野茶番とは、文字どおり野外で行われる茶番劇であり、仕方茶番とは室内で行われるものだった。たとえば、野茶番はどこかの混雑する街角で、いきなり敵討ちの場面が幕開けとなる。水茶屋に腰かけた武家に対して、娘と少年がいきなり「とうとう見つけたり、おまえこそ亡き父上の敵(かたき)!」などと言って、刀の柄に手をかけて双方がにらみ合う。街を歩いている人々は、ほんとうの敵討ちが始まったのだと思い、当然のことながら黒山の人だかりとなってしまう。
 ところが、さんざん敵同士が名乗り合って口上を述べたあげく、いざ斬り合いへと鯉口をきりそうな刹那、見物人たちに混じった“さくら”のメンバーが三味線の音とともに踊り出し、ついでに敵同士がいきなり踊り出し・・・と、ここでようやく野次馬たちは、これが茶番劇だったことに気づき呆れてさっさと立ち去るか、あるいは一緒にうかれて街角で踊りまくるという寸法だ。
 野茶番に対して仕方茶番は、料理屋や茶屋、寮(別荘)などの室内で行われるもので、街角でどっきりハプニング的な、一般の人たちを巻きこんだ出たとこ勝負のような要素はまったくない。あらかじめ茶番の寄り合いという“お約束”ができていて、いろいろな道具を使ってシャレ飛ばしたり、物まねや落語のような口上自慢・洒落自慢を繰り広げるものだった。たとえば、「きょうは河岸で活きのいい鱸(すずき)を仕入れたはずなんだが、生簀へ入れといたら澄んだ水でこうなりやした」・・・と、皿に載せた薄(すすき)を出したりする。だから、野茶番のような緊張感もゲリラ演劇的な攻撃性もなく、いたって穏健な遊びだった。
 
 岩波文庫に、このような茶番をなによりも楽しみにしている人々を描いた、瀧亭鯉丈の『花暦八笑人』がある。江戸中後期に書かれたもので、1942年(昭和17)に岩波文庫へ収められたが、現在は絶版となっている。「八笑人」とは、もちろん陰陽道の「八将神」をもじったシャレだが、遊び好きでオバカな茶番好きが8人集まって、江戸の随所で茶番劇を繰りひろげる。わたしが子供のころ、この本の面白さをまったく理解できなかったが、いまではニヤニヤしながら読めるようになった。ときどき寝転んでクスクスする、わたしの好きな1冊となっている。
 面白いのは、フィクションとしての茶番劇が、現実に追いこされ、ついには呑みこまれてしまうということ。敵討ちの茶番を演じていたら、助太刀を申し出る武家が現れて追いかけまわされたり、両国橋から大川への身投げ茶番では、止めに入った人との間で悶着が起きたりする。つまり、虚構としての茶番がリアル=現実に、一貫して“復讐”されてしまうというストーリーなのだ。最後にはドタバタ劇となってしまい、くだらないお決まりのオチなのだけれど、フィクションを超えて現実が介入してしまう予定不調和な筋立てを描く、これまたフィクションとしての『花暦八笑人』が、なんともいえずおかしいのだ。この感覚、たとえば斬り合いのまっ最中に、「ええい控え控え、控えおろ~! この紋所が目に入らぬか!? このお方をどなたと心得る!」と、葵紋入りの印籠をかざすちょっとイカレた3人組に、「しゃらくせえ、とっととやっちまいな!」と、水戸黄門に助さん格さんが斬られて死んでしまうおかしさ・・・とでも表現すればいいのだろうか?
 
 その1篇に、神田上水の高田を舞台にしようとする、蛍狩りの茶番が登場する。この本は文化文政時代に書かれているから、江戸市街の蛍狩りといえば、姿見橋Click!や幕府の馬場Click!があった高田界隈であり、天保以降とみられるさらに上流の下落合や上落合の名物「落合蛍狩り」は、いまだブームになってはいない。蛍狩りついでに野茶番を企画するのだが、そんな田舎で茶番劇をやって、いったいどこの誰が見物するの?・・・と、ハタと気がつくオバカな8人組なのだ。
 茶番の舞台は、「野(外)」ではなく近くの料理屋へと移され、羽織のお尻にキツネの尻尾を下げて出かけ、店じゅうを化かしてやろうとくわだてるが、計画倒れになって実現しない。かわりに舞台となったのは、雑司ヶ谷(目白駅の内外)にある大名下屋敷での忠臣蔵茶番だった。ちなみに本書の記述では、高田あたりにはキツネや大神(ニホンオオカミ)が出没していたことになっている。下落合界隈でキツネが目撃されたのは戦前で、下落合駅付近から上落合にかけてが最後のようだ。わたしの知る限り、「大神」様の伝承とともにニホンオオカミについての記録は見あたらない。
 『花暦八笑人』の著者・瀧亭鯉丈は、幕末から明治にかけて活躍した台本作家の河竹新七(のちの黙阿弥)が、ひそかに私淑していたことでも知られている。『花暦八笑人』は、若いころに放蕩をつづけた黙阿弥の愛読書だった。黙阿弥の複雑重層的で皮肉で、それでいて洒脱でユーモアあふれる筋立てや筆運びは、鯉丈のオバカ茶番が出発点だったようだ。

■写真上:絶版になって久しい、岩波文庫の瀧亭鯉丈『花暦八笑人』(白213/1942年)。
■写真中は、当時は蛍狩りの名所だった高田にある「高田富士」の山頂。は、大橋(両国橋)から大川へ身投げ茶番をし、間が悪くスイカ売りの舟へ落ちて大怪我をしてしまうマヌケぶり。
■写真下は、落合の蛍狩りを描いた三代豊国/二代広重合作による『江戸自慢三十六景(興)・落合ほたる』(新宿歴史博物館蔵)。二代広重が描く背景の丘が、下落合の目白崖線だ。は、瀧亭鯉丈に大きな影響を受けたとみられる、1878年(明治11)に撮られた河竹黙阿弥のポートレート。

大正期の東京が匂う曾宮一念『東京回顧』。

 1967年(昭和42)に出版された曾宮一念の『東京回顧』(創文社)は、東京の下町界隈の様子が画家の目を通して細かく描かれていて、同じく東日本橋にあった「いろは牛肉店」の洋画家・木村荘八Click!の著作とともに、わたしにとってはとても楽しい本だ。曾宮は、日本橋産まれの霊岸島育ち。創文社は校正部が弱かったのか、そこかしこに誤字や脱字があるのだけれど、つい惹き込まれて読んでしまうのは、彼の文章が味わい深くて秀逸だからだろう。
 曾宮一念の作風は、中村彝Click!に兄事していたころとは異なり、戦後は大きく変わった。特に山を描くことが多くなり、娘の曾宮夕見様Click!らとともに山を歩いたり、山麓のエッセイを雑誌へ連載したりした。本書の巻頭にも、油彩作品の『八ヶ岳夕雲』が収録されている。黒々とした描線が、まるで書のような勢いをもつようになり、彩色もいたって淡白になった。また、油絵を描くことが少なくなり、水彩や素描が増えている。これは、彼の緑内障が悪化したことと、深く関係しているのかもしれない。のちに、画家にとっては美の窓口ともいえる視力を失うことになる。
 曾宮は、明治末~大正期の江戸っ子らしく、幕末~明治期の三田村鳶魚と同様に「江戸前」の規定や記述にこだわっている。きっとふたりとも、食いもんにもうるさかったにちがいない。
  
 江戸前という語を近年は江戸伝来とか、東京仕込みとかの意味に使う。けれども本来の意味は江戸のスグ前つまり、芝なら芝浦から品川台場へん、京橋なら隅田川口からせいぜい浦安へんでとれた魚のことであった。私は通な料亭のことは知らないが霊岸島では夕河岸を養母と永代橋際へ買いに行った。西日を帆に受け、又は日が暮れてから小舟が品川や浦安から着くのをその場で買う。昼には首に瘤のあるボテフリ(略してボテ)が来た。(中略)
 明治に有って今無くなった物は多い。ほんの一、二を挙げると正月の餅は白の他に粟餅、所によって黍餅をついた。近年粟、黍、餌胡麻、麻の実は米より高くなった。明治四十年から大正初年まで東京至る所粟餅(粟の牡丹餅)の店が赤暖簾を張った。それがいっせいに消えた。嗜好の移りよりも粟を作らなくなったからからであろう。
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 この「江戸前」の概念は、今日の農水省が東京湾で獲れた魚に規定する「江戸前」とほぼ同様で、おもに大正期の概念を踏襲している。明治前半の「江戸前」=うなぎ、あるいは三田村鳶魚が記録しているように江戸時代の「江戸前」=御城下町=下町Click!という概念よりは、およそ50~60年ほど時代がくだった解釈だ。
 
 また、東京を離れて静岡県の富士宮市へ移住してしまった彼には、たやすく手に入らなくなってしまったのかもしれないけれど、お正月に白餅のほか、粟餅や黍餅、餌胡麻餅を食べる習慣は、わが家ではずっとつづいていた。江戸の昔と変わらず、いまでもこれらの餅はなくなってはいない。健康ブームが高まる中、むしろスーパーや生協の注文リストにも、これらの雑穀餅を見かける機会が多くなった。特に粟餅に黍餅、玄米餅などは付け焼きにすると香ばしく美味しいので、わが家の正月には欠かせない食材となっている。
 さらに、明治末の東京郊外の様子を、こんなふうに書いている。きっと、当時の多くの画学生がそうしたように、曾宮もスケッチブック片手に郊外を歩きまわったのだろう。
  
 樹木で最も武蔵野を思わせた欅の大木はこれも名物のからっ風が吹くと高い枯れた梢が大きく揺れて冬空を箒で掃いているように見えた。一般に武蔵野と思われた地域は山手線の外側の田畑と林をいうようで、大正初年まだは山手線の内側にも面影はしのばれた。早稲田田圃の稲穂を踏みわけてコトンコトンと廻る水車を描き、面影橋下の水を水彩用に掬った。鬼子母神の銀杏の黄葉を描き、尾花の木菟を買った。(中略)
 東京郊外には幾つも野川があり、たずねると湧泉がある。井之頭も涸れそうだが、石神井、三宝寺の池、それらが上水になり、染物用になったりした。私の住んだ落合は二つの川の合流点が地名になった。この川筋は立派な歩く公園としてお茶の水までできるのに今は臭くて川に近寄れない。隅田川は更に東京風景を締めくくる大物なのに金物までサビるひどさだという。
  
 この「臭くて川に近寄れない」というのが、わたしが物心つくころの隅田川や神田川の姿だ。ちょうど同書が出版された時期、1960年代後半はその汚染がピークClick!に達していた。当時に比べたら、鮎が見られる神田川の現状Click!が、にわかに信じられないくらいだ。あのころ、東京オリンピックの前後あたりから、東京はどこか壊れていったのだろう。

 『東京回顧』は、曾宮一念がすごした明治末から戦前にかけての、東京の風情が活写されていて面白い。妙に“通人”ぶっていない記述もよく、人生の大半をすごしたふるさと東京の想い出を、淡々と記述している。もちろん、画家仲間との交流も書かれているけれど、このエッセイが書かれた時点で70歳を超えていた彼の筆致は、熱すぎず冷たすぎず、少しばかり突き放したクールな味わいに満ちている。曾宮はこのあと、眼疾が悪化したとはいえ90歳すぎまで健在だった。

■写真上:曾宮一念『東京回顧』(創文社)の表紙装丁。
■写真中は、1967年(昭和42)作と思われる『八ヶ岳夕雲』。は、73歳の自画像マンガ。
■写真下:1922年(大正11)に撮影された、曾宮一念とその仲間たち。左から、牧野虎雄、熊岡美彦、鈴木良三、油屋達、吉村芳松、曾宮一念、高間惣七、横山精一、大久保作次郎。目白・下落合界隈では、お馴染みの顔ぶれが見える。

絶版になった親父座右の本2冊。

 親父がいつも身近に置いていた本のひとつに、1969年(昭和44)発行の『東京生活歳時記』(社会思想社)がある。東京各地に残る風俗や習慣、祭事、行事、暮らし、地誌などを大著にせず、コンパクトにまとめたわかりやすい「江戸東京・暮らしの手帖」のような本だ。数日に一度、この本を開いては確認して出かけていたので、きっと仕事の合い間にでもどこかへ立ち寄っては、東京各地の風物誌を楽しんでいたものだろう。
 この本が出る前によく開いていたのは、1936年(昭和11)に出版された『大東京史蹟名勝地誌』(地人社)だ。1960年代半ばまで使っていたようだが、東京オリンピック前後に記述の古さが気になったのだろう、『東京生活歳時記』に変えている。ちなみに、『大東京史蹟名勝地誌』は紹介する現地を徹底取材して書かれており、その中で淀橋区下落合(当時)の氷川明神が紹介されている。そして、「奇稲田姫を祀る」と書かれているのが興味深い。戦前においてさえ、クシナダヒメ1柱の明神社として認識されており、明治以後の他の神2柱は登場していない。
 なぜ、60年代末に『大東京史蹟名勝地誌』を書庫入りにして、新たに『東京生活歳時記』を買いなおしたのかといえば、東京オリンピックを境に東京の町名や地名が大きく変ってしまい、使い勝手にかなりの不便さを感じたからだ。戦後、東京35区が23区に変っただけで、各地の地名や町名はもとのままだった。旧区名を23区名に置き換えるだけで、特に不便は感じなかったのだろう。ところが、新たに買い直した『東京生活歳時記』もすぐに古びてしまう。たとえば、1月の項目で、新宿区の御霊神社の「おびしゃ」祭りClick!が写真入りで紹介されるが、1969年(昭和44)の時点では中井御霊神社Click!とは書かれていない。もちろん、「下落合御霊神社」だ。葛ヶ谷御霊神社に対して、下落合の丘上にある同社は当然のことながら下落合御霊神社だった。町名が変更されたばかりの2年後に出版されたので、昔からの呼称をそのまま踏襲して記載したものだろう。
 
 東京オリンピックの2年前、1962年(昭和37)に施行された国の法に「住居表示に関する法律」がある。この法律により、東京から数多くの町名や地名が消滅、あるいは変更されていった。施行のおもな理由は、オリンピックで来日する外国人に対して、細々とした地名や住居表示が存在するのが「わかりにくいし恥ずかしい」から・・・というものだった。わたしは、この法律を推進した当時の為政者の心根のほうが、よっぽど恥ずかしいし情けない。東京弁でいえば、「恥っつぁらし」な連中だ。自分の地域または街の謂われや歴史が営々とこもる名称を、ことさら貶しめ蔑視してはばからない彼らを、心底「恥ずかしい」と思う。
 東京では、町名の56%が変えられたところで、その作業がピタリと止まった。当然のことながら、住民たちがさすがに堪忍袋の緒を切って怒りだし、各地の自治体が抗議の嵐にさらされたからだ。すると、1983年(昭和58)に当時の自治省は手のひらを返したように、「住民の意見を尊重し、みだりに従来の町の区域を改変したり、町名を全面的に変更することがないよう指導」することになった。各自治体の態度もコロリと豹変し、「町名尊重」などと言い出すことになる。
 地名・町名変更に対する抵抗が、もともと都内でも大きかった新宿区でさえ、角筈や柏木、花園といった重要な町名が消滅している。このとき、すでに下落合の地名は大きくいじられ、その西部が「中落合」や「中井2丁目」という不可解な地名に改変されてしまっていた。だから、先の御霊神社はもちろん、石橋湛山、安倍能成、佐伯祐三、松本竣介、金山平三、会津八一、刑部人、川口軌外・・・などなど各邸や各アトリエが、下落合に「存在しない」ということになってしまった。
 
 先日も、中井2丁目の方とお話しているとき、「ここは下落合で、中井なんて町名じゃない」ことを再三強調されていた。当然のことだろう。下落合教会も下落合みどり幼稚園も、そのまま「中落合」で健在だ。おそらく、千年近くもつづいていた地域名を、役人の机上の思いつきでお手軽勝手に変えられたのだから、40年近くたっても怒りが収まらないのだ。自宅の表札横の住所表記Click!を改めないばかりか、新たにマンションが建てられると、下落合の旧番地を名称にした建物Click!さえある。わたしは、このサイトの「気になる下落合」という分類に、当初から「中落合」と「中井2丁目」のエリア、つまり本来の下落合全域を含めている。佐伯祐三が散策していた時代、「下落合」と認識されていたエリアすべてをカバーしたい。
 歴史や民俗が豊かにやどる町名あるいは地域名を、国外に対して「恥ずかしい」と思う感覚、わたしには逆立ちしてもとうてい理解できない性根だ。旧・下落合全域にお住まいのみなさん、40年前の為政者のオバカな妄想などうっちゃって、もう一度ちゃんとした元の町名・地域名にもどしませんか? 10年前なら、郵政省や区内の郵便局がこぞって抵抗したかもしれないが、いまなら代わりに宅配便がキチンととどけてくれるだろう。

■写真上:1969年(昭和45)に出版された『東京生活歳時記』(社会思想社)。何度か改版が重ねられたが、ほどなく絶版となった。当時の価格で800円だから、やや高価な本だった。
■写真中は、1936年(昭和11)に出版された『大東京史蹟名勝地誌』(地人社)。豪華な函入り装丁で、5円とかなり高価だった。は、下落合4丁目(現・中落合4丁目)の石橋湛山邸。
■写真下は、下落合4丁目(現・中井2丁目)の林芙美子邸。は、その建築中の様子。

人間交差点『聖母病院の友人たち』。

 

 わたしの家族は、わたしひとりを除き全員が聖母病院への入院経験がある。オスガキたちが産まれたのも聖母病院なら、肺炎やインフルエンザ、喘息などで入院したのもこの病院だ。だから、わたしはなにかというとセーボ(地元の通称)へ通いつづける、見舞いの常連といったところだろうか。残念ながら、わたしは聖母病院へ泊まったこともなければ、飯を食べたこともない・・・というのはウソで、患者の横からちゃっかり食事をつまんでは賞味していた。はたして、セーボの食事は学校給食の味を思い出してしまい、わたしの口に合わずマズイ。正確には、1986~96年ぐらいまでセーボで出されていた食事は美味しくなかった・・・と書くべきだろう。その後、聖母病院は大改築が行われており、おそらく厨房設備も一新されているのだろうから、食事の味も大きく変化したのかもしれないが、わたしは幸か不幸かまだ味わったことがない。
 これまで、このサイトでは聖母病院Click!のことを数多く取り上げてきたけれど、その内部についてはあまり書いてはこなかった。入院したことのないわたしには、細かな病院内の様子までわからないからだ。いまから25年前、セーボの内部の様子を詳しいルポルタージュにまとめた方がいる。1981年(昭和56)に半年間ほど肝炎で入院した、上落合に住む時事通信社の記者が書いた本だ。絶版になってしばらくたつ、藤原作弥が書いた『聖母病院の友人たち』(新潮社→社会思想社/1982年)。わたしはこの本を買ってから15年間ほど、本棚で眠らせたままだった。なぜ放っておいたのかといえば、入院患者による病院内部の記録・・・という印象が強くて、読むのをあとまわしにしたまま、そのうち棚の奥へと埋もれてしまったというしだい。
 先日、本棚を整理していたら、久しぶりに本書が出てきた。パラパラめくっていると、「下落合風景」という章が目についたので読む気になったのだ。著者は海外特派員の経験が長く、上落合へ越してくるまでは横浜に住んでいた。上落合へ落ち着いてから1年そこそこで、聖母病院へ入院することになる。だから、下落合のことはあまりご存じない。旧・落合町の下落合としての概念から、中井2丁目(旧・下落合4丁目)が丸ごと抜け落ちているし、逆に現在の住所表記に引きずられてか、当時の東京府風致地区だった葛ヶ谷(西落合)が下落合の一部として解釈されていたりする。下落合に住んだ画家たちをめぐる記述も不正確だ。
  
 中村屋の美人パトロンのサロンに集まった昭和初期の芸術家群像は、それぞれドラマチックな芸術と生活を追い求めるあまり、短い時間で青春を燃焼させてしまった。佐伯祐三三十歳、荻原守衛三十一歳、中村彝三十八歳、岸田劉生三十九歳。私に画才があれば、この療養の機会に病窓から見える聖堂と修道院のある庭をスケッチするのだが――。
 中村彝のアトリエはもう跡形もないが、佐伯祐三のアトリエと居所は「佐伯公園」の形で保存、管理されている。しかし、冬の日の夕暮れ間近に訪れる人は一人、二人。 (同書「下落合風景」より)
  
 画家たちの没年が満と数えでゴッチャなのが気になるし、中村彝のアトリエClick!はしっかり現存しており、佐伯アトリエと並び下落合の丘上で保存される日をいまかいまかと待っている。聖母病院が建設されたのは「昭和四年」ではなく、正確には竣工・開業は1936年(昭和6)で、「昭和四年」は着工とともにフィンデルの本館のみが完成した年だ。・・・と、落合界隈の文化関連の記述には、つい“赤”を入れて校正したくなってしまう本なのだけれど、それでも知らず読み進んでしまうのは、内容がことさら面白いからだ。
 
 吉田満の著作に、『戦中派の死生観』という作品がある。本書でも紹介されているが、『戦艦大和ノ最期』Click!を読んだカトリック神父から吉田は対談を求められ、「欺されまい」洗脳されまい・・・と決意して対談に望んだ話は有名だ。ところが、この神父はキリスト教の神のことなど一言も触れずに、吉田と徹夜で対談をした。その夜をきっかけに、吉田はキリスト教(カトリック)へ入信することになる。藤原も最初は、「欺されまい」と気負いながら聖母病院へと入院する。でも、「下落合風景」と名づけられた日記代わりのノートは、キリスト教と関係のあるなしにかかわらず院内で起きる面白いエピソードで、多くのページが埋められていくことになる。
 早朝から、盛んに大声で念仏を唱える妙なヲジサンがいるかと思えば、病院の中でも特に上品で尊敬されている原節子似の洗練された山手のシスターが、「てめエ、なんか、文句あんのかよ」と下町の職人言葉で啖呵を切る場面が登場するなど、キリスト教系の病院らしからぬ風情に、著者は反対にカトリックへの興味を深めていくのが面白い。
 藤原は入院当時、たまたま聖母病院に勤務していた洋画家・鈴木良三Click!の子息である医師「鈴木先生」から中村彝の画集や著作を借り、また佐伯祐三の没後五十年記念展の図録を病室に持ちこんで、特に佐伯の「下落合風景」シリーズ2作品の描画ポイントの特定を試みている。
  
 画集には二枚の「下落合風景」が収められていた。その一枚は、電柱のある道の風景で、目白通りから聖母病院にいたる住宅地のたたずまいのようだった。
 もう一枚は、なだらかな、陽の当る坂道を一人の男が登ってくる。坂の曲り角に電柱が一本立っている。坂は切り通しのような土手を左に傾斜して下っていく。左手の竹垣の屋敷にはこんもりと木が繁っているが、道の右手の土手からは緑の丘陵が広がっていて、その丘は段々畑の感じの勾配で下っている。いまの聖母病院の丘に似ている。 (中略)この絵は、明らかにいまの聖母病院の場所から、西武新宿線下落合駅や小滝橋方面を見おろして描いた絵だ。 (同章)
  
 この2点の「下落合風景」のうち、前者は「八島さんの前通り」Click!のことだ。当時は存在しない聖母病院建設予定地の丘Click!へと抜ける道ではなく、第三文化村の横から西坂の徳川邸へと抜ける通りを南側から描いたもの。後者は、「下落合駅や小滝橋方面を見おろして描いた」と断定しているけれど、下落合駅Click!中井駅Click!も存在していない1926年(大正15)の時点で、二ノ坂上Click!から新宿東口のほていやデパート方面を見下ろして描いた、アビラ村Click!風景作品の1枚だ。著者はまだこの時点で、中井2丁目が旧・下落合だとは気づいていないようなので描画場所を誤ったのだろう。気になる記述はまだあるのだけれど、これぐらいに・・・。
 
 
 「欺されまい」という思いで入院した無宗教者、強いていえば広義の仏教徒を自認する著者が、退院してしばらくすると聖母病院のクリスマスイブ・ミサへ出席し、そのあとのココアパーティで数多くの「友人」たちと再会する「あとがき」は読んでいて楽しい結末だ。「下落合風景」には事実誤認(ウラとり取材不足/爆!)の記述がたくさんあり、女性を見るとつい「美人美人」と書きたがるヲヤジ表現の古さは感じるのだけれど、読後感のさわやかな本書は、下落合にお住まいのみなさんに限らず、またキリスト教者と非キリスト教者を問わず、お奨めしたいドキュメンタリー作品のひとつなのだ。

■写真上は、藤原作弥『聖母病院の友人たち』(社会思想社/1992年)。は、セーボの玄関。
■写真中は、同じく聖母病院の正面。は、ちょうど太陽が十字架の上にかかったマリアの宣教者フランシスコ修道会の聖堂。今年(2007年)は、解体・リニューアルが予定されている。
■写真下:聖堂周辺の風情と、補助45号線として丘を深く掘削して建設された聖母坂。

絵の中の気になる女たち。

   

 浮世絵の風景画を観ていると、画中の人物へ目が釘づけになることがある。さまざまな作者の絵の中に、どうしても気になる男や女が登場してくる。広重や北斎の風景画中にさえ、景色の一部としてはあまり馴染まず溶けこまない、言わず語らずなにかを主張していそうな人物が描かれていることがある。その人物だけ、画面からポッと浮き上がって見えるのだ。
 清親のいくつかの作品は、その最たるものだろう。赤い裾元を蹴だして白い小股を見せながら、蛇の目をさした女がうしろ向きで歩いていく。作家の杉本章子ならずとも、誰でも視線が集中して気になってしまう女性だ。清親の「東京名所図」のほか、「武蔵百景」などにも気になる人物が多々描きこまれている。
 小林清親(1847~1915年・弘化4~大正4)は、御蔵屋敷勘定方をつとめていた幕臣だが、明治維新で当然のことながら失業してしまった。一時期は、生活のために駿府へと母親を連れて出稼ぎに行っているが、ほどなくふるさとの江戸、いや維新直後の東京(とうけい)へともどり好きな絵を描きはじめる。のちに、「光線派」あるいは「光線画」と呼ばれるようになった作品群だ。彼は、変りつつある江戸東京の姿を描きとめた“最後の浮世絵師”とよく呼ばれているけれど、月岡芳年の門から移ってきた弟子の井上安治が「光線画」を描き継いでいるし、手法は違うが巴水や柏亭もいるので、厳密には“最後の絵師”とは呼べないのではないか。
 
 清親の作品の女性を、彼の慕い人だったと考えるのは、1988年に出版された杉本章子の『東京新大橋雨中図』(新人物往来社)の読後印象が強烈だからだ。杉本はこの女性を、清親が思いを寄せる兄嫁の“佐江”だとしている。でも、わたしには女の蛇の目(「東京新大橋雨中図」中)のさし方や脚運びなどから、のちに自裁するような楚々とした元・武家娘の“佐江”のうしろ姿には見えず、もっと別の、たとえば清親と“わけあり”な町娘のように見えてしまう。物語でいえば、後半に登場する“延世志(お芳)”のような女性だ。
 『東京新大橋雨中図』が出たとき、わたしはさっそく購入して読んだ憶えがある。1枚の絵から、これだけの物語が紡ぎだせるものかと、作者の想像力に舌を巻いた。そしてもうひとつ、江戸ではなく明治の東京を舞台にした小説で、そのまま地元に暮らしてきた市井の人々の視座から時代をとらえている点に、ほかの作品にはない新鮮さを感じて惹かれたからにちがいない。明治政府がこしらえた史観による、妙な「偉人」や「英雄」がひとりも登場しないのが、地域史として親の世代まで受け継がれてきた説話やイメージとぴったり重なり、ストンと腑に落ちた・・・そんな気がした。
 
 
 ザラザラとしたわざとらしい官製の「明治史」などではなく、リアルな地域史としての、地に根の生えた「東京史」を追体験できたような感覚をおぼえたものだ。いつかここでご紹介した亀甲萬の茂木七郎左衛門Click!ではないけれど、田辺聖子が本作の書評でピタリと言い当てているように、「彰義隊で死んだ男たちは精神的な身内」というところから出発している東京の地盤感覚。そして、少し長めのスパンで見る角度を変えれば、会津における「白虎隊」の記憶よりも、およそ執拗で徹底していて、さらに実力行使的で執念深い記憶なのかもしれない。将門が神田明神から追い出されたとき、従来の宮司を即座にクビにして末裔を宮司に迎え、将門を主神へともどすのに1世紀をかけた土地柄だ。杉本章子は、実にうまくその手ざわりを内包させながら本作を描き切っている。
 小林清親と月岡芳年が、踏みにじられ荒さみきった人の心を想って嘆き、街角でおそらく明治官吏を乗せた傍若無人な俥に跳ね飛ばされそうになったとき、ふたりは思わずこう叫んでしまう。
  
 芳年は俥を避けようとしてよろめき、清親に支えられながらも、きっとなって、
 「この、明治野郎っ」
 と罵声をあびせかけた。
 「なんです、それは」
 きょとんとして清親は訊ねた。
 「気に入らねえ野郎どものことを、おれはそう呼ぶのさ」
 芳年は裾前の埃を払いながら、言った。
 「なるほど」
 痛快な罵詈に、清親は思わず笑った。(中略)
 自分の描いた明治の三傑の顔を思い出しながら、土埃をたてて走り去る俥の背に向かって、清親は大声で呼ばわった。
 「この、明治野郎っ」             (同所「根津神社秋色」より)
  
 
 清親の木版「光線画」は、より安価な石版画の普及とともに衰退していく。通常の錦絵であれば、板木(板下)は15枚前後で済むところ、清親の「光線画」はボカシや滲みの手法が多用されるため、25枚前後も板木が必要となる。手間ヒマのかかる「光線画」はコストが見あわなくなり、版元からの注文は徐々に途絶えていった。
 都内を散歩をしていると、狭い道を背後からクラクションを鳴らしながら走り抜けるクルマがある。人に接触しながら、歩道を全力疾走する自転車がある。ついでに、自然や景観や地元の声を無視して、やりたい放題の破壊をしては売り逃げしていく建設業者がいる。こういう同じ穴のムジナたち、現代型「明治野郎」Click!には、どのような罵詈雑言を浴びせてやればいいのだろうか?

■写真上:清親の作品にたびたび登場する、傘をさしながら背を向けて歩み去る女たち。
■写真中上は、いまでも入手可能な『東京新大橋雨中図』(文春文庫版)。は、小林清親『五本松雨中』(1880年・明治13)。よく観ると、画面の中央にも傘をさしたうしろ姿の女性がいる。
■写真中下左上から右下へ、『海運橋(第一銀行雪中)』(1876年・明治9)、『東京新大橋雨中図』(同年)、『駿河町雪(三井組)』(制作年不詳)、『大伝馬町大丸』(1879年・明治12)。
■写真下は、『隅田川夜』(1877年・明治10)。この絵からも、なにやら人物たちの囁きが聞こえてくる。は、言問橋から眺めた隅田川上流。清親が描く待乳山は、写真のすぐ左手にある。

そして、山口智子『反省文ハワイ』の次は?

 わたしが行ったことのない、いやあまり行きたくない「観光地」のひとつに、ハワイ諸島がある。たとえば、浦安へ散歩に出かけ、「青べか」の残り香や「浦安鉄筋家族」(爆!)の風情は楽しんでも、ディズニーランドへは出かけないのと同じような感覚だろうか? または、お気軽にはしゃぎまわって、なにも考えず無心に遊ぶことができない北海道や沖縄と、どこか共通するうしろめたい感覚がひそんでいるからかもしれない。
 山口智子の『反省文ハワイ』(rockin’on)を読んでいたら、そんな感覚がどこからか呼び覚まされてきたようだ。ハワイ(正確にはハヴァイイ)の「観光地」は、この本の中にはほとんどまったく登場しない。なぜ、ハワイの踊りでもない「フラダンス」が、ハワイで踊られているのか? なぜハワイ語による会話が、長い間にわたって禁じられてきたのか? 軍隊に抑圧され、資本に押しつぶされた先住民の歴史描写は、そのまま日本の「単一民族国家」観の過去へと直結してくる。
 彼女は、ハワイの古老たちの話をたんねんに採集しては、記録しつづけていく。古老から古老へ、紹介者からそのまた紹介者へ、彼女の取材はこの本に限らず、徹底して地元の語り部がつむぎ出す物語を、たどりつづける方法論に徹してきている。
  
 「(前略)ペレという女神がカヌーに乗り、サメをお供にハワイにやって来た。
 サメは島を求め突き進む男の象徴。そして、女神ペレこそ初の女性ナビゲーターと言えるかもしれない。ペレがやって来て、ハワイの島々が誕生していった。ハワイ諸島の地図を見てごらん。ペレが横たわった形に見えるよ。
 そうだ、君の国、日本のアイヌも、海洋民族だったと言われているよね、知ってるかい?」
 フランシスの話は、三六〇度の方角から飛んで来るボールみたいだ。ぐるっと神経を張り巡らせていないと、うっかりつかみ損ねてしまう。彼の一球一球は、直球あり変化球あり。受けとめるのに息がきれるが、ハッとするような見事なストライクだ。
  
 ポリネシア系古モンゴロイドに共通する神話、中国大陸や朝鮮半島に展開した新モンゴロイドの間には見られない、日本にも通底する神々の物語=女神による国産み神話だ。もうひとつ、わたしは江戸後期に蝦夷地を克明にルポしてまわった、松浦武四郎の膨大な仕事を思い出した。アイヌ語を学び番屋から番屋へ、そしてコタン(村落)の古老から古老へと訪ね歩いた幕府の役人であるはずの彼は、松前藩と大坂商業資本のあまりの暴虐ぶりにキレて、しまいにはなにもしない無策な幕府を批判して役人を辞めた人物だ。取材をつづけていく松浦は、ある時点を境にメーターの針がレッドゾーンへと大きく振り切れ、物の見方や考え方がクルリと180度ひっくり返ってしまう。
 
 ハワイを見つめる山口の眼が、180度ひっくり返ってしまった特異点は、なにがきっかけだったのだろう? 若いころ、雑誌のモデルでハワイの「名所」や「観光地」を訪れてはグラビアの撮影をしていた。でも、それらの“ハワイ”が、本来のものとはなんの関係もない商業資本による“ディズニーランド”だと気づいたとき、「反省文」をしたため始めようと思いたった。「ほんとうにごめんなさい。知らなくてごめんなさい。たいへん失礼いたしました」・・・これが、この本に通底する一貫した姿勢だ。
 いや、彼女の眼差しは“ハワイ”よりもずっと以前から、もっとマクロな視界を持っていたのだろう。文明が衝突を繰り返し争いが絶えなかった西アジアの国々、マゼランやコロンブス、クックらが「発見」した大陸や島をめぐるルポルタージュ。したり顔で説教するキリスト教の宣教師の次には、必ず軍隊が送り込まれて先住民を抑圧あるいは虐殺していく世界各地のそんな図式の中、山口はそれ以前の世界を知る語り部を求めて、丹念に歩きまわりながら記録していったようだ。
 これらの仕事(ドキュメンタリー)は、衛星放送で流れはしたけれど、観た人は非常に少なかったに違いない。わたしも、すべてのシリーズを観たわけではないし、『反省文ハワイ』が初めて読んだ彼女の著作だ。そのシリーズの最後(?)が、日本にもっとも「近い」ハワイだったというところに、彼女の意識の中で日本への回帰現象が徐々にはじまっているのを感じてしまう。「じゃあその先の、母国である日本の状況はどうなのか? 自分自身はどうなのか?」・・・。本書を読むと、常にその問いかけが山口の頭の中で、繰り返しグルグル反芻されているのが伝わる。
  
 壁やビルやスケジュールに埋もれた狭い世界で、どんよりとその日その日を過ごし、すぐ手にとれる御褒美ばかりを追っていると、大きなものが、どんどん見えなくなる。私も、車や人の波に慣れ、酸素の純度に麻痺しっぱなしで随分生きてきた。自然と共に在ることを忘れてきたせいか、ますます気が短くなったことにも気づかなかった。すぐ手にとれる利潤確保が第一。目標はいつも、短期的で短絡的。何十年先、何百年先の世代のことまで、考えを巡らせたこともなかった。今この瞬間の先に、未来が生まれる。今の責任を免れても、そのつけは、何百年後に何千倍にも膨れあがるだろう。そう分かっていても、今日と明日の快楽が最優先。気づけば、この無責任、無感覚が、巡り巡って人の心を傷つけている。その現実を突き付けられて、やっと、もぞもぞと何かを感じ始める。
 知ろうとしてこなかった自分。なんだか、のっぺらぼうみたいなモンスターだ。「知らない」という身軽な立場があまりに気楽で、目も耳も自ら喜んでどこかへ置き忘れてきた。
  
 
 なにかを感じ、なにかを知り、それについて発言するということは、必ず巡りめぐってわが身にハネ返ってくる・・・という鉄則。言いっぱなしのまま、自身ではなにもしないし動かないヒョーロン家人間やコメンテイター人間がやたら多いこのごろ、山口のあたりまえでポジティブな姿勢が、ことさら貴重で頼もしく思えてしまうゆえんだろうか?
 「言ったら動け」・・・主体性の基本だけれど、久しぶりに考えながら感じながらグングンと突き進む、勇敢でいさぎよい女性を見たような気がする。ふだん、彼女はしゃべりが苦手なようだけれど、文章や写真はきわめて豊かで饒舌だ。

■写真:山口智子『反省文ハワイ』(ロッキング・オン/2004年)より。写真撮影も彼女。

東京市街から見た文化村イメージ。

 昭和初期の春陽堂を代表する小説家に、佐々木邦(1883~1964年)がいる。学生時代から小説を書いているので、明治末からの作品が数多く残っている。戦後は『ユーモアクラブ』を創刊して、いわゆるユーモア小説の分野を切り拓いた第一人者だ。大正期から昭和初期にかけて、当時の“勤め人”(サラリーマン)を主人公にした作品が多く、この流れは戦後、源氏鶏太らへと受け継がれていった。わたしはあまり面白いとは思えず、読んでもほとんど笑えないのだけれど、当時の人たち、特に当時のサラリーマンには身につまされる話も多く、たいへん人気があったようだ。
 そんな佐々木邦の作品の中に、『文化村の喜劇』という作品がある。1926年(大正15)に書かれた作品で、のちに1931年(昭和6)出版の『佐々木邦全集』(全8巻/大日本雄弁会講談社)の第3巻にも収められているので、当時はかなり人気のあった作品だと思われる。その後、娯楽に飢えていた戦時中、1942年(昭和17)に『文化村綺談』(長隆舎書店)とタイトルだけ変えて、中身はほとんどそのまま再出版されているのだから、よほど読者の記憶に残ったのだろう。
 佐々木が本作を書いたころは、1922年(大正11)から箱根土地によって売り出されていた「目白文化村」が、第四文化村までの販売を終えたころ、つまり目白文化村の全貌が姿を現した時期と一致している。のちに、「荻窪文化村」も誕生することになるのだが、おそらく著者は目白文化村を横目でチラチラ眺めつつ『文化村の喜劇』を書いていったのではないだろうか? ただ、実際に目白文化村で取材して書いたかどうかは、ちょっと疑わしい。文化村=西洋館だけの街並み・・・という先入観があるようで、半分は和建築だったといわれる文化村の実情とは一致しない。また、生活描写もハイカラな文化村の生活にしては、やや古臭い感じがする。
 目白文化村は、目白と名前が付くにもかかわらず、目白駅からは遠い。徒歩だと15~20分、バスだと6~7分はかかる。当時のトロトロ走るダット乗合自動車だったら、10分以上はかかったかもしれない。だから、目白駅近くではなく下落合の西部だということで、地元では「落合文化村」と呼ばれることも多かった。『文化村の喜劇』は、こんな出だしで始まる。
  
 山岸君が去年の暮に工を竣つて移り住んだ文化村は、
 『駅から十分です。近いです。』
 という申合せになつてゐるが、実は可なり遠いのである。山岸君も工事中幾度も計つて見たが、駈け出さない限りは十五分たつぷりかゝつたから、矢張り運動の為めにはこれぐらゐある方が好いと諦めた。山岸夫人は二十分かゝると言つてゐる。
 『それも急いでよ。』
 とあるから、しやなりしやなりと蓮歩をお移しになれば、二十五分はかゝる。
  
  
 当時は、道が舗装されていないので、雨が降るとぬかるみになってたいへんだったようだ。物語でも、「山岸君」が帰宅途中でぬかるみに足を取られ、泥の中に靴がはまり込んで取れず、奥さんに「発クツ調査」を依頼する場面が出てくる。また、文化村の人はステッキを手放さず、夜は追いはぎに備え、昼間は狂犬をたたき伏せるために使うのだ・・・などということが、まことしやかに語られていく。目白文化村でステッキが流行ったなどということは、聞いたことがない。
 文化村の住民たちは、東京市街から少しでも同僚や友人達たちを文化村へと引っ越させ、「不便さを共有」させようともくろんでいる。休日というと、文化村へ招待しては便利な生活を宣伝して、少しでも多くの人たちが文化村へ住むよう、まるで不動産屋のような活動をしている。実際の目白文化村は、第一文化村は1年以内に、第二~第四文化村も2~3年で売り切れているので、小説とは異なりかなり人気が高かった。でも、便利な東京の市街から見て、当時の郊外だった文化村をイメージすると、きっとこのように映っていたのだろう。
  
 文化村へ差しかゝつた時、
 『まあ、西洋建築ばかりでございますわね。』
 と小栗夫人は驚異の眼を見張つた。青葉を背景にして区々別々の形状と色彩の西洋館が建ち並んでゐる文化村は実際目立つ。最初から申合せたやうに日本家は一軒もない。同じ値段なら誰しも最近流行の新型の方へ手の出るのが人情、まして純日本式より安上りとあれば、皆文化住宅を拵える。
 『万事市内よりも、此方の方が進歩してゐる。山岸君、台所は電熱だらう?』
 と小栗君はもう決心がついて、細君を納得させに連れて来たのらしかつた。
 『然うですよ。瓦斯よりも余程便利だと言つて妻は喜んでゐます。台所だけは自慢ですから、何うぞ御覧下さい。』
 と山岸君は要領が好い。奥さんに直接答へてゐた。細君を説き落すには台所が急所だといふことを経験上承知してゐる。
  
 
 わたしが、クスクスと笑ってしまったのが2箇所ほどある。ひとつは、「一品会」という骨董の集まりを文化村で開くことになり、代々伝わる家宝を持ち寄って自慢大会を開こうという場面だ。新興住宅地である当時の文化村に、伝来の骨董品などおいそれと眠っているわけがない。住民たちは、関東大震災で火をくぐった古道具を買いに、あわてて下町まで出かけて行き、「旧藩主から拝領した品々」をそろえていく。
 もうひとつは、文化村が嵐にみまわれる場面。東京市街から「山岸君」宅へ、文化村への移住を勧めている奥様たちが集まっていて、豪雨と雷の大嵐に遭遇してしまった。「私、家が心配になりますわ」としきりに不安がるお客に、ふだんは東京まで近い近いと言っているのに、つい「東京は大丈夫でございますわ。遠いんですもの」と慰めてしまうシーンだ。
 『文化村の喜劇』は、実際の住民と物語中の住民との階層設定にズレがある。本作に描かれたような、当時の大卒だった普通のサラリーマンは、親が資産家でもない限り目白文化村へ家など建てられなかっただろう。目白文化村の場合、会社勤めの住民は意外に少なく、また実際に住んでいたのは会社勤めでも役員クラスの階層だった。
 でも、大正当時の(御城)下町Click!の人々が、東京西部の山手線内外に形成された“新山手”を、どのようなイメージで見ていたかがわかる、『文化村の喜劇』は興味深い作品だ。

■写真上:『佐々木邦全集』第3巻の巻頭に描かれた、ちょっとアンニュイな“文化村夫人”。
■写真中が、1931年(昭和6)出版の『佐々木邦全集』(大日本雄弁会講談社)。が、まったく同内容で再出版された、1942年(昭和17)の『文化村綺談』(長隆舎書店)。
■写真下:『文化村の喜劇』に掲載された、河盛久夫の挿絵。が、奥さんが鍬をふるう「発クツ現場」。は、家の中に入ってくるヘビを撃退する女中。ヘビClick!は、いまでもやってくるが・・・。