
戦前・戦中には、国策標語や国策スローガンが街角にあふれるほどつくられた。そんな標語やスローガンを集めた書籍が、昨年(2013年)の夏に刊行されている。現代書館から出版された里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』がそれだ。特に、若い子にはお奨めの1冊だ。
当時の政府が、いかに国民から搾りとることだけを考え、すべてを戦争へと投入していったかが当時の世相とともに、じかに感じ取れる「作品」ばかりだ。それらの多くは、今日から見れば国民を虫ケラ同然にバカにしているとしか思えない、あるいは国民をモノか機械扱いにして人間性をどこまでも無視しきった、粒ぞろいの迷(惑)作ぞろいだ。中には、国民をそのものズバリ「寄生虫」や「屑(クズ)」と表現している標語さえ存在している。のちにナラと名づけられた地域へ侵入してきたヤマト朝廷が、自身の出自とは異なる原日本の民族やまつろわぬ者たち、すなわち日本列島の先住者(記紀ではおもに近畿地域における先住「日本人」)たちを、「国巣(クズ)」(あるいは「土蜘蛛(つちぐも)」)と蔑称した、弥生末ないしは古墳時代をほうふつとさせる表現だ。
当時の“洗脳”されていない、少しはまともな眼差しをもった人々が激怒したのも無理はないだろう。(その多くの人々は、別に「主義者」でなくても特高警察Click!や憲兵隊Click!に引っぱられ恫喝や暴力を受けている) むしろ、腹を立てなかった人々の意識こそが大日本帝国を破滅させ、この国を「亡国」寸前の淵へと導いた元凶となる政治観であり社会観だったといえるだろう。この認識(全的な止揚)から出発しなければ、いまだ戦後を引きずる日本に明るい未来は存在しない。
戦時の標語やスローガンというと、「欲しがりません勝つまでは」とか「贅沢は敵だ」などが有名だが、これらの「作品」は比較的まだ出来がいいほうだといえる。そのせいか、新聞や雑誌にも多く取り上げられ、ちまたでも広く知られるようになった「作品」だ。ところが、戦争の敗色が徐々に濃くなり、表現の工夫や語呂あわせなどしている余裕がなくなってくると、なにも考えずにただひたすら絶叫を繰り返すだけの、思考さえ停止したような「作品」が急増していく。これらの「作品」に共通しているのは、国家と個々の国民(人民)とを安易に一体化し、同一主体として(怠惰なことに)やすやすと語られるところが、今日の北朝鮮のスローガンと酷似しているということだ。
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黙って働き 笑って納税 1937年
護る軍機は 妻子も他人 1938年
日の丸持つ手に 金を持つな 1939年
小さいお手々が 亜細亜を握る 1939年
国のためなら 愛児も金も 1939年
金は政府へ 身は大君(おおきみ)へ 1939年
支那の子供も 日本の言葉 1939年
笑顔で受取る 召集令 1939年
飾る体に 汚れる心 1939年
聖戦へ 贅沢抜きの 衣食住 1940年
家庭は 小さな翼賛会 1940年
男の操(みさお)だ 変るな職場 1940年
美食装飾 銃後の恥辱 1940年
りつぱな戦死とゑがほ(笑顔)の老母 1940年
屑(くず)も俺等も七生報国 1940年
翼賛は 戸毎に下る 動員令 1941年
強く育てよ 召される子ども 1941年
働いて 耐えて笑つて 御奉公 1941年
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つまり、それにくくられない人間は「非国民」であり、刑務所や留置場、ゲットーへ送られて当然というスターリニズム下のソ連やナチス・ドイツなどとほぼ同一の、独裁的政治形態上ないしは国家主義的思想の軌跡上に存立している視座だ。これは、別に戦前のみの視座とは限らず、戦後も多くの人々が意識的ないしは無意識にかかわらず、持ちつづけている無神経かつ危うい眼差しだろう。

「1億3千万のニッポン人の熱い願い」(世界選手権でのスポーツ解説者某)、「全都民の願い」(オリンピック招致における元知事某)、「国民の知らぬ間に電力の原発依存が3割」(スペイン講演での小説家某)・・・と枚挙にいとまがない。わたしは、某解説者が中継していた世界選手権大会にほとんど興味はなかったので、1億2千999万9千999人の「ニッポン人」が応援していたかもしれないのが少なくとも事実だし、1964年(昭和39)の東京オリンピックで破壊された、関東大震災Click!の教訓で造られた(城)下町Click!の防災インフラを、ちゃんと人口ぶんにみあう防災施設の復元とともに担保するのが先だと考えているわたしは、なんの疑問もなく5,000万円の札束を受けとる某知事にいわせれば、どうやら東京「都民」ではないらしい。
ましてや、スリーマイル島原発事故のあと、1982年(昭和57)に泊原発の新設と、電力の原発依存3割をめざす政府へ異議を唱えるため、著名人たちが新聞の全15D広告を出す際に某小説家にも声をかけており、少なくとも彼は「3割依存」を大江健三郎や筑紫哲也などの呼びかけを通じて、30年以上も前から知っていたはずだし、わたしでさえ知っていた。つづけて、チェルノブイリ原発事故直後の1987年(昭和62)にも、某小説家に対しては同様の呼びかけを行なっていたはずだ。「国民が知らない間に」とは、内部でどのような主体設定がなされているのだろう?
それを知りつつ、警告の意見広告を出した作家や文化人、ジャーナリストたちは、そしてなによりも80年代の二度にわたる活動を通じて集まった数百万の署名者たちは、丸ごと「国民」ではないのか? ちなみに、某小説家は当時の反核・反原発の呼びかけに対し、一貫してシカトしつづけていた。少なくとも個を尊重する文学者であれば、知っていたはずなのに知らないと称するウソや欺瞞には目をつぶるにしても、「国民が知らぬ間に」ではなく、「“私”が知らぬ間に」の誤りだろう。
個々の主体がもつ価値意識や思想性、社会観、生活観、愛情、感覚、趣味嗜好、欲求などを、きわめて大雑把かつ無神経にすりつぶし、多様性や多角的なモノの見方を不用意かつ安易に踏みつぶしていくところに、やすやすと国家主義的な、ひいては全体主義的な思想を萌芽させる大きな“スキ”があることにこそ、改めて大きな注意を向けたい。
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屠れ米英 われらの敵だ 1941年
節米は 毎日できる 御奉公 1941年
飾らぬわたし 飲まないあなた 1941年
戦場より危ない酒場 1941年
酒呑みは 瑞穂の国の 寄生虫 1941年
子も馬も 捧げて次は 鉄と銅 1941年
遊山ではないぞ 練磨のハイキング 1941年
まだまだ足りない 辛抱努力 1941年
国策に 理屈は抜きだ 実践だ 1941年
国が第一 私は第二 1941年
任務は重く 命は軽く 1941年
一億が みな砲台と なる覚悟 1942年
無職はお国の寄生虫 1942年
科学戦にも 神を出せ 1942年
デマはつきもの みな聞きながせ 1942年
縁起担いで 国担げるか 1942年
余暇も捧げて 銃後の務(つとめ) 1942年
迷信は 一等国の 恥曝(さら)し 1942年
買溜(かいだめ)に 行くな行かすな 隣組 1942年
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かたや「科学戦」や「物量戦」を標榜し、増産増産をスローガンでわめき散らしつつ、縁起かつぎや迷信を「恥曝(さら)し」とバカにしておきながら、その舌の根も乾かぬうちに「神」への依存に傾斜していく愚劣さ、「理屈は抜き」でどうやって「科学戦」を勝ち抜くのか意味不明の不可解さ、英語は敵性言語だから日本語をつかえと規定しておきながら、「ハイキング」は日本語であり英語だとはつゆほども思わないおかしさに、当時の政府当局の愚昧ぶりがあらわになっている。
もはや、政府の一貫したスローガンなど存在せず、その場限りの刹那的かつご都合主義的で無意味なコトバの羅列にすぎなくなっていくのが明らかだ。「デマはつきもの、みな聞きながせ」などは、真っ先に大本営発表へ適用されるべき標語だし、「米英を消して明るい世界地図」にいたっては、消えてしまったのは大日本帝国のほうだ。戦争末期になると国民の不満が鬱積し、「分ける配給、不平をいふな」と、よほどの「忠君愛国」主義者でない限り、特に都市部における政府への反感が噴き出しはじめたのがわかる。「初湯から御楯と願う国の母」にいたっては、わたしの祖母や川田順造の母親Click!から、すぐにも「うちじゃ、そんなこと教えてないよ!」と叱責が飛んできそうだ。
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二人して 五人育てて 一人前 1942年
産んで殖やして 育てて皇楯(みたて) 1942年
日の丸で 埋めよ倫敦(ロンドン) 紐育(ニューヨーク) 1942年
米英を 消して明るい 世界地図 1942年
飾る心が すでに敵 1942年
買溜めは 米英の手先 1943年
分ける配給 不平を言ふな 1943年
初湯から 御楯と願う 国の母 1943年
看板から 米英色を抹殺しよう 1943年
嬉しいな 僕の貯金が 弾になる 1943年
百年の うらみを晴らせ 日本刀 1943年
理屈ぬき 贅沢抜きで 勝抜かう 1943年
アメリカ人をぶち殺せ! 1944年
米鬼を一匹も生かすな! 1945年
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わたしは子どもをふたりしか育てていないので、当時の「非常時」には「御国(みくに)」へ兵士供給の「御奉仕」が足りない、半人前になるのだろう。あげくのはてに、子どものわずかな貯金さえ戦費に巻き上げようとする政府など、もはや末期症状で先が見えている。ロンドンやニューヨークではなく、日本の大都市が連合軍の旗で埋められるまで、あと2年と少ししかない。このころになると、大日本帝国の「亡国」思想は、ひねりも装いも飾りもなく、膨大な数の犠牲者を生みながら、ヒステリックかつムキだしの様相を呈するようになる。
「理屈ぬき」で「科学戦」に勝ち抜こうなどという標語は、戦後も生きのびていた東條英機Click!か、畳の上で死んだインパール作戦の責任者・牟田口廉也がつくったのではないかとさえ思えてくる。1944~45年(昭和19~20)につくられた「作品」は、もはや標語の匂いや体裁さえなしてはいない。ただただ「殺せ!」を絶叫し繰り返すだけの、殺人狂のような標語になり果てていった。

余談だが、同書の挿画を担当しているのは清重伸之と依田秀稔のふたりで、皮肉や揶揄に満ちた出来のいいイラストが多いのだけれど、わたしとしては現代書館の書籍類では学生時代からなじみ深い、故・貝原浩Click!に描いてほしかった。あと10年ほど長生きしてくれたら、『黙つて働き笑つて納税』のような本の挿画は、彼の独壇場だっただろう。
◆写真上:1944年(昭和19)1月31日、淀橋区内の小学校における授業風景。(新宿歴史博物館蔵) 右手に、「一億一心」と「これからだ/出せ一億の底力」の標語が見える。
◆写真中上:左は、市ヶ谷の陸軍参謀本部前の焼け野原。参謀本部に勤務していた中井英夫Click!は、当時の日記で陸軍の存在を「いつさい無価値」であると規定していた。右は、里中哲彦『黙つて働き笑つて納税―戦時国策スローガン傑作100選―』(現代書館)。
◆写真中下:「迷信は一等国の恥曝し」(左)と「儲けることより奉仕の心」(右)。
◆写真下:「強く育てよ召される子ども」(左)と「無職はお国の寄生虫」(右)の挿画。
江戸東京の匂いがせえへんのや。
たとえば、わたしが大阪で40年暮らし、ひたすら大阪の歴史や文化、言語、風俗習慣を学習して、地域のテーマ本を書いたとする。かなり微にいり細にいり、突きつめて取材し研究し、小さなところまでこだわって調べ表現したとする。でも、「よう勉強してはりまんな。そやけど、どっかちゃうねん。どこがどうゆうわけやないけどな、なんや知らん、ちゃうねんな。大阪の匂いがせえへんのや。大阪やないねん、どっかよその街みたいやで。・・・さよか、あんた日本橋(にっぽんばし)やのうて東京のほうでっかいな」と突き放していわれてしまうだろう。いや、これは別に大阪に限らず、全国のどのような街や地域でも同じことだろう。わたしにとって、江戸東京をテーマにした多くの書籍は、実はこんな感じのものが多い。江戸東京の匂いがしないのだ。
そんな本が、ちまたやネットの書店にあふれている中で、久しぶりに「あっ、ちゃんと地場の感覚で書いてるな」・・・という本に出会った。といっても、江戸東京ブームにのった流行りの地域本ではなく、人文科学ないしは社会科学的な側面から、江戸とヨーロッパとの「市民社会」について比較・考察しようと試みている、文化人類学者による学術書ということになるのだろうか。2011年に岩波書店から出版された、川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』がそれだ。久しぶりに、江戸東京の「地に足がついた」本を手にしたような感触だ。
明治維新により、街の環境や風情が激変したのは山手の武家社会であり、実はいわゆる旧市街地、東京の(城)下町Click!には、400年以上にわたる人や街の歴史が、連綿と現在にいたるまでつづいている。また、幕末の混乱や明治維新で激変した乃手でさえも、明治から大正期へとしばらく時代がすぎると、もともと住んでいた旧幕臣たちが続々ともどりはじめ、成功した人物は先祖の屋敷があった乃手の敷地を、わざわざ買いもどして住んでいたりする。こちらでも、上落合の吉武東里Click!らとともに国会議事堂Click!を設計した、やはり上落合在住で祖父が旗本だった大熊喜邦Click!が、ふるさとの番町の屋敷跡へもどっている事例をご紹介した。
著者の川田順造は、わたしのふるさととは反対の大川(隅田川)をはさんで辰巳の方角、深川の小名木川(女木川)に架かる高橋(たかばし)のたもとで、代々暮らしてきた家に育っている。わたしの祖父母以前の人々が眠る深川の墓とは、わずか500mほどしか離れておらず、古い町名でいうなら深川海辺大工町という街だ。ちなみに、うちの墓は深川閻魔Click!も近い旧・深川万年町にある。深川の浅瀬が埋め立てられ、寺社がいっせいに引(し)っ越してきて寺町を形成した江戸初期に、おそらく先祖は墓を移転させるか建てるかしているのだろう。著者は、小名木川(女木川)を行き交う川舟(おもに房州の物資を運ぶ小型船)を見ながら、幼少時代をすごしている。
本書の冒頭は、徹底した地域の人たちへの長年にわたる取材(インタビュー)で構成されている。その対象者は、やはり若い子から年寄りまで女性が圧倒的に多い。別に、長生きしてるのは女性が多いからではない。わたしは、ときどき城下町の生活を中国や朝鮮半島から輸入され、新モンゴロイド系北方民族によって形成された儒教思想に象徴的な生活観の影響をほとんど受けていない、街には政治(まつりごと)の巫女と生活(たつき)の巫女とがつい戦前まで生きていた、古モンゴロイド系ポリネシア民族の生活文化が色濃い原日本の匂い、すなわち、あたかも琉球弧のような「女性に巻きついて」暮らす感覚・・・という表現をしてきたが、著者の身体にはまさしく、その地霊(ゲニウスロキ)が染みわたっている。
これは、別に江戸東京地域の南関東のみならず、北関東や東北地方の各地域についても当てはまることだろう。ちょうど、少し前にご紹介した「九州男児」である薩摩の八島太郎Click!とは、正反対の社会規範であり生活観Click!だと思われる。ちなみに、邪馬壱国の卑弥呼(日巫女)やナグサトベClick!、ヌナカワClick!など古代日本の各地に展開した女王国(原日本)の時代以来、聖域や社(やしろ)の主は巫女=女性が大勢であり、それが制度的に神主=男のみへと強制的に限定され、巫女の地位が“助手”へと転落させられたのは、中国や朝鮮半島の思想・信条規範に忠実な明治政府による、たかだかこの100年ほどのことだ。横道にそれるが、江戸東京の代表的な社のひとつである愛宕権現社Click!に女性神主が誕生したのは素直によろこばしい。以下、同書から引用しよう。

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「下町」という言葉から何を連想するか。私など真っ先に「女」という言葉を思い浮かべてしまう。意気地、侠(きゃん)、伝法(でんぽう)、なさけ、いさみ・・・これらの言葉は、ウーマンリブなどということを人が口にするようになるより遥か前から、私たちの江戸=東京にはあった。いや、下町女によって生きられていた。めっぽう気が強いくせに涙もろい。人に頼まれるといやといえない。意気=心のおしゃれを大切にする。そして何よりも行動派だ。「下町女」という言葉は、何と坐りがいいのだろう。そして初夏の川風のようにさわやかだ。
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第3章の冒頭を読んで、「この本はホンモノだぜ。信用して読むことができる」と、わたしはすぐさま感じとることができた。膨大な江戸東京ブーム本には、細かな生活の感覚や暮らしの機微、きちんとした地場の歴史や記憶の地層、実生活の気配や心情に裏打ちされた「思想」(というとオーバーだが)、男女関係や近所づきあい、人間関係の妙味などのリアルな記述が、ほとんど存在していないことに、江戸東京ファンの方々はとっくに気づかれているだろう。「よう勉強してはるけどな、大阪の匂いがせえへんのや」の感覚、地域の“キモ”の部分だ。
また、日本橋と深川とで家庭内における「教育」や環境も、非常に似通っていることに気づく。著者の母親とうちの祖母Click!とは、同一人物なのではないかと思うくらいだ。「小雨にけぶる神宮外苑・・・」の学徒出陣Click!が行なわれた、親父が学生時代の1943年(昭和18)ごろ、開戦の直前まで米国映画を日本橋で楽しんでいた(おそらく祖母もだが)親父が、「(日本が)アメリカに勝てるわけがねえや」と口にしたのを誰かに密告され、交番に引っぱられておそらく巡査に殴られている。このエピソードは記事Click!にも書いたけれど、このような言葉は当時の政治や社会的風潮からは距離を置いて「斜」に眺め、冷静かつクールな観察眼を育むような家庭環境でないと、なかなか出てきはしないだろう。太平洋戦争中に語られた、著者の母親の言葉を引用してみよう。
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(前略) 太平洋戦争末期にラジオで毎日のように聞かされ、私も「国民学校」で歌わされていた「勝ち抜く僕ら少国民/天皇陛下の御為に/死ねと教えた父母の/赤い血潮を受け継いで/心に決死の白襷/掛けて勇んで突撃だ」という歌を、うっかり家で歌って、気性の激しい母親から「うちじゃ、そんなこと教えていないよ」と厳しく叱られたことがある。
すでに繰り返し書いたように、現世享楽型の下町娘として育った母は、戦争には初めから反対。昭和十五年(一九四〇)に内務省布告によって制度化された隣組が騒々しく動員され、実際の役に立たないバケツ・リレーなどをやらされる「防空演習」も、心から軽蔑していた。高等女学校を出ただけで特に教育もなかったし、「反戦の思想」があったわけではない。ただ芝居にも行かれなくなり、食べる物も不自由になる国家の戦争が嫌いという、当時のお上の言葉でいえば“非国民”だったに過ぎない。その厭戦振りは徹底したもので、ハワイ奇襲攻撃やイギリス東洋艦隊殲滅の戦果がはなばなしく報じられたり、香港やマニラやシンガポール陥落の祝賀ムードで、提灯行列が催されたりした状況でも、母の厭戦は変わらず、「はじめの勝ちは、嘘っ勝ちだ」、「本当にアメリカやイギリスに勝てるわけがない」と言っていた。
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まさに、親父の言葉とは二重写しであり、二二六事件で警備兵に向かって「邪魔するんじゃないよ、どきな!」と怒鳴った祖母の面影Click!とのダブルイメージだ。ひょっとすると、「アメリカに勝てるわけがないじゃないのさ」と家の中でいっていたのは、祖母自身だったのかもしれない。そして事実、そのとおりになってしまい、「亡国」思想の権化であった大日本帝国は破滅した。下町では、家庭内における「教育」や、家族単位としての暮らしの「思想」、“家”としての姿勢や構えは、女性がヘゲモニーを掌握してリードするのが自然であたりまえの環境であり、それが連綿とつづいてきたこの城下町・江戸東京を形成する伝統や生活習慣の基盤でもある。
数百年も前から、世界で最大クラスの都市だったこの街、わたしの江戸東京の「市民社会」が、グローバルな史的視野からみてどのような意味や位置づけ、学術的な普遍性をもつものかどうか、著者はこれからも継続して深く追究していくとして本書の文章を結んでいる。
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だがいうまでもなく、江戸=東京下町文化の、歴史研究の視野におけるモデルとしての意味を問うためには、この説の初めに述べた、「ソシアビリテ論」が原初に、現代の歴史研究のあり方に対して提起した問題意識を参照すべきだ。その時まず問われるのは、江戸=東京下町文化が、日本の歴史変動において果たした役割であろう。本書のこれまでの叙述では、明治維新という国民国家の形成とそれに伴う国家レベルでの変動と断絶に対して、江戸=東京下町の地域文化の連続性を私は強調してきた。そのような視点からは、変動に注目する歴史研究において、変動に対してはむしろ否定的に働いた力、否定的であったことによって「変動」においてそれなりの意味をもったモデルとして、捉えられるべきであるかも知れない。
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隅田川や深川の掘割りを、レヴィ=ストロース夫妻と小舟を浮かべてたどりながら、著者は深川に住んでもいいという、東京下町がお気に入りだった夫妻の言葉に耳を傾ける。薩長の明治維新でも、「亡国」思想による破滅的な戦災でも断絶していない(城)下町の、今度はどんな風景や姿を見せてくれるのか、あるいはマクロ的な視野から江戸東京の城下町(市民社会)とは世界的にどのような位置にあり、どのような意味づけが展開しえるものなのか、川田順造の今後の仕事が楽しみだ。そういえば、川田家で大切に保存されていた大量の浮世絵が、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!ですべて灰になったのも、うちの経緯Click!とそっくりなことに気づくのだ。
◆写真上:深川の代表的な堀割りのひとつ、海辺橋から眺めた仙台堀。
◆写真中上:左は、高橋のひとつ下で隅田川も間近な万年橋を描いた安藤広重『名所江戸百景』のうち第56景「深川萬年橋」。右は、2011年に岩波書店から出版された川田順造『江戸=東京の下町から-生きられた記憶への旅-』の表紙。
◆写真中下:上は、深川のとある商店街。下左は、尾張屋清七版の切絵図「本所深川絵図」にみる高橋と海辺大工町界隈。下右は、同切絵図「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」にみる両国橋西詰めのわたしの実家界隈で、日本橋米沢町や薬研堀の記載が見える。
◆写真下:上は、深川の街並みと雪吊りが行われている清澄庭園。下左は、安藤広重『名所江戸百景』のうち第5景「両ごく回向院元柳橋」。本所回向院側から隅田川をはさみ、現在の東日本橋界隈を眺めた風景で、中央やや右手に描かれている元柳橋が現在の日本橋中学校Click!のあたり。下右は、同じく第98景「両国花火」で遠方には深川が見え両国橋西詰めは画面右手。
非「動」的な本とリンゴ本大作戦。
昨年3月末に買った、当時はクラス最薄・最軽量(2012年7月に発売されたNECのLavieZに、現在はその座を奪われているのだろう)のウルトラブックが、暮れの仕事がいちばん忙しい時期に壊れた。1,000gちょっとのCore i7+4GB+SSD(102GB)を搭載したWindows7マシンで、どこへ出るにも手軽に持ち歩け、処理スピードにもまったく不満はなかったのだが、購入してからわずか8ヶ月でおかしな“ふるまい”を起こす製品は、長いPC生活の中では初めての経験だ。
やっぱり餅は餅屋で、家電系のメーカーではなく、ちゃんとICT専門のベンダー製品にしておけばよかったかな?・・・という思いが、さっそく頭をよぎった。これまで、自作したPC×3台を除き、会社でも家庭でも導入した製品は、大型コンピュータからネットワーク、携帯端末にいたるまですべての事業分野をカバーしている、技術の蓄積が豊富な専門のICTベンダー製品ばかりだった。ところが、このウルトラブックだけはその軽さや機能性、デザインなどに惹かれて、つい例外的に家電系の製品を選んでしまったのだ。導入後、わずか8ヶ月でおかしくなるとは思いもよらなかった。
さっそく、サポートセンターに連絡を入れて修理を依頼した。いまだ1年以内の保証期間中なので、当然、どのような不具合でも無償修理だと思っていたのが、そもそもまちがいのもとだった。今回の症状は、PCがECOモードでスリープ状態になった場合、それを元にもどそうとするとログイン画面にもどらず、また強制的に終了(リブート)しようとするとそれもできない・・・という、使う側にとっては手の打ちようがないものだった。PCはそのまま、スリーブ状態が恒常的につづく状態となる。おそらく、電源プログラムのどこかにバグがある・・・と思われるふるまいだ。
ところが、サポートセンターへ修理を依頼するだけで、ただそれだけで保証期間中に4,200円を請求されるとは思ってもみなかった。しかも、「そのような症状はみられなかった」・・・などというコメントがとどき、ついでに「基板に水をかぶった痕跡があるので、マザーボードを交換したほうがいい」などという“診断”結果がとどいて、じゃあ保証期間中なのだから無償で交換してくれるのかと思ったら、交換には約9万円近くかかるのだそうだ。マザーボード交換は、保証の対象には入っていないという。9万円あれば、DELLあたりで同性能の機種がもう1台買えるじゃんか。(爆!)
ちなみに、わたしはPCにコーヒーを飲ませたことも、水をかけたことも、風呂に浸かりながら極楽PC操作をしたことも、プールでウルトラブックを背負いながら泳いだことも、ましてや雨の中をPC片手に「雨に歌えば」を踊った憶えもない。仕事のデスク上で、あるいは打ち合わせの会議室のテーブル上で使用してきただけで、まったく腑に落ちないのだ。これはいったい、どういうことだろうか? 別の箇所の重大な不具合を、ひそかにリコールしようとしていると勘ぐられてもしかたないだろう。
保証期間中なら、どのような症状でも無償で診てくれる、ごくふつうのICT専門ベンダーの製品を使いなれていたせいか、この家電メーカーの対応にはあっけにとられた・・・というか、つくづく呆れてしまった。いつだったか、このメーカーの製品(なんの家電だったのかは忘れた)について納得ができないので電話を入れた顧客が、いつの間にかクレーマーの常習犯のような扱われ方をされ、そのような印象がマスコミを通じて流布された・・・という出来事があったけれど、これでは別にクレーマー常習犯じゃなくても、文句の電話のひとつやふたつ、かけてやりたくなるのもわかるような気がするのだ。もちろん、保証期間中にもかかわらず部品+作業費+サポート料で約9万円のマザーボード交換などとんでもない、そのまますぐに返送してもらった。
いまのところ、電源まわりのおかしなふるまいは再発していないけれど、いずれまた近いうちに起きるのかもしれない。次に起きたら、まちがいなく早々に廃棄処分にしてやろう。そして、重要なデータは、すべてクラウド上のストレージへ逃がしておこう。やっぱり、次は国内・海外製の別なく、コンピュータ専門のちゃんとしたシステムベンダー製品にもどることにしよう。
もうひとつ、昨年のクリスマスに知人から意外なプレゼントをいただいた。MacOS Xを搭載した、なんとMacBook Proだ。最新のマシンを購入したので、従来の製品を惜しげもなくプレゼントしてくれたわけだけれど、2010年に発売された仕様やデザインともに最新の機種に近い製品だ。
わたしは、Basic→DOS→WindowsないしはLinux(Ubuntu)と使ってきているので、アップル社のMacにはこれまでまったく縁がなかった。アップル社の製品で使っていたのは、学生時代を終えるころからBasicベースのせいぜいAppleⅡcとAppleⅡeぐらいまでで、ちょうど初代Macが発売されるころ、わたしはNECの日本語DOSマシン、8ビット機(PC-8801)あるいは16ビット機(PC-9801)を使用していた。また、1983年(昭和58)には、DOSマシンPC-9800シリーズの上をいくPC-10000(PC-98を凌駕するPC-100と呼ばれていた)が、NECの98開発部隊とはまったく異なる事業部の研究開発で発売され、さっそくそれも会社で購入して使っていた。


1983年(昭和58)の早々に発表され、発売されたPC-100(正式型番はPC-10000)は、いまや伝説化しているけれど、ほとんどすべての操作がマウスだけで完結できる16ビットPCであり、のちに発売されるMacやWindowsのコンセプトを先取りした、世界初の革命的なマシンだったと思う。当時としては超高解像度だった720×512picのディスプレイを、タテにしてもヨコにしても使える仕様で、日本語ワープロを利用するときはタテで、表計算ではヨコというように、MacやWindowsが登場する前夜の、次の時代を見すえた最先端マシンだった。JS-WordやMultiplanなどを標準で搭載し、バンドルされたアプリケーションでほぼふつうの仕事が完結できる性能を備えていた。わたしは、その圧倒的な高解像度からPC-100にグラフィックソフトを入れて使っていた憶えがあるが、仕事をせずに標準添付のロードランナーもずいぶん楽しんだ。
そんなDOS→(PC-100)→WindowsないしはLinuxのわたしに、Macをポンと気前よく贈呈していただけたのは、「Macのほうがすっごくいいよ~」なのか「Mac党になれば楽しいよ」なのか、はたまた「たまには気分を変えてイタズラしてみたら~」なのか、「MacじゃなきゃPCじゃねえ! 人間じゃねえ!」なのかは不明なのだけれどw、マシンを前に「ウ~~ン」・・・と腕組みをしてまった。操作がまったくわからないので、面くらったのだ。コンピュータは、もちろんDOS/WindowsやUNIX/Linuxを問わず汎用機のはずなのだが、こんな言い方ができるとすれば、Macは「パソコン専用機」なのだ。これまでの感覚やカンが、多くの操作で通用しない。クリックボタンがひとつしかないのも、なれてしまえばなんでもないことなのだろうけれど、メニュー表示にいちいち困惑する。

ドキュメント作成系のアプリケーションが入っていないので、クラウドのSaaSでこっそりOfficeを動かそうとしたら、さっそく冷えびえとした画面硬直とともに、「おとつい来やがれてんだ」とはじき出されてしまった。おそらく、クラウド側から「あんた、あたしたちの仲間じゃないよね? なりすましてるよね!」と叱られたのだろう。.NET(ドットネット) FrameworkがMac内に存在しないせいなのだが、さて、Javaあたりで動作するOffice互換のドキュメント作成SaaSあたりが、どこかでサポートされていないだろうか? いまのところ、こたつに入ってみかんを食べながらWeb活用しかできていないのだけれど、それだけではせっかくの高性能マシンがあまりにももったいないのだ。それにしても、Mac OSベースのブラウザSafariを通じて開くさまざまなWebサイトは、Mac搭載のわたしに馴染みのない日本語フォント依存も手伝って、これほど印象やレイアウトがちがって見えるのかぁ・・・と、改めてしみじみ実感している。もうひとつ、いただいといてなんですが、日本語IME(古い表現なら日本語FEP)「ことえり」の使いにくさは、なんとかならないものだろうか?
◆写真上:買って間もないウルトラブック(左)と、いただいたばかりのMacBook Pro(右)。
◆写真中上:保障期間中に修理センターへ送っただけで、4,200円を請求されたウルトラブック。保証対象外のメンテナンス作業や部品交換は保証書にちゃんと書いてあると、「読まないほうが悪い」と言わんばかりの対応だった。まるで、契約書をかざして損害を小さく小さく見積もる損害保険屋さんみたいで、技術に誇りと責任を持つITベンダーの姿はなかった。
◆写真中下:上は、Basicの勉強に使っていたAppleⅡc(左)と、PC操作にイノベーションを起こしたNECのDOSマシンPC-100(右)。下は、いままで縁がなかったモノめずらしいMacBook Pro。
◆写真下:Web閲覧しか使ってもらえないので、ちょっと怒りっぽくなっているMacBook Pro君。
五月のそよ風はゼリーにできない。

学生時代の友人が今年(2012年3月1日)、日本文学館から本を出した。題して『鬱病は治らない~一鬱病患者の一生態~』。タイトルからすると、最近はやりの鬱病本のようだが、内容はまったく異なる。かといって小説でもない。すべてが実話であり、登場する人物たちもすべて実名だ。後半に鬱病の治療現場がいろいろ登場するけれど、精神医療の最前線を描いたルポルタージュでもない。あえていえば、「自伝」ないしは「半生記」というところだろうか。
「自伝」と名のつく本で、過去に面白いと感じたのは『マルコムX自伝』(1965年)と『マイルス・デイビス自伝』(1991年)ぐらいのもので、「自伝」=つまらないという先入観があるのだが、本書は誤解を怖れずにいうなら“面白かった”部類に属する。きわめて個人的な体験を綴っているにもかかわらず、「鬱病<が>治らない」ではなく「鬱病<は>治らない」と普遍化したのは、出版社の意向だろうか? 助詞の<が>を<は>にしたのは、「<が>では絶対に売れないぜ」という編集者の読みがあったのかもしれない。タイトルの助詞ひとつで、売れいきが大きくちがう出版界だ。
著者の大草眞理子(旧姓・喜田眞理子)とわたしが知り合ったのは、大学2年のころだろうか。記憶力の悪いわたしは、彼女との邂逅をハッキリ憶えてはいないのだが、非常にアタマのよい女性だということは、話していてすぐに気がついた。わたしがアタマがいいと感じるのは、別に学歴でも学校のお勉強ができることでもない。人の考えや心の中身を先読みし、他者への気配りや数歩先までの会話がスピーディかつフレキシブルにできる人間のことだ。だから、アタマのいい人というのは聞き上手であると同時に、解釈や表現がたいへん的確で上手でもある。
本書に登場する、某大学病院の精神科医やインターンたち、患者が教科書どおりの治療成果をあげないと、あるいはお勉強したテーゼどおりの反応を見せないと、ヒステリックに怒鳴りちらしたり、患者を強引に「治療済み」として早く通院をやめさせたがるエリート医師たちは、おこがましく患者を治療する以前に人としての基本的な学習と、教条的でなく回転の速い柔軟なアタマのよさとが絶望的に不足していると感じる。患者である彼女が、逆に医師たちの弱点の“治療”に手を貸してあげていたのでは?・・・と思われるシチュエーションが登場するので、何度か噴き出してしまった。
大草眞理子はアタマのいい人だが、多面性をもつべき性格にはずいぶん偏りがあると思う。くだいていうなら、ものごとを悪いほうへ悪いほうへと解釈しがちなマイナス志向なのだ。わたしは友人とはいえ学部が異なるので、たまに文学部キャンパスなどで会うだけにすぎなかったのだけれど、その後の手紙やメールのやり取りは30年後の今日にまでおよんでいる。大学以前の彼女の生活を知ったのは、本書を読んでからなのだが、ものごとを多角的にとらえられる「複眼」をもちながら、こと自分自身の課題になると「単眼」的な“視野狭窄症”となり、没主体的で受動的な姿勢になるのは、幼いころから家庭環境で育まれ形成された性格からだろうか? 彼女の父親は、謹厳実直な裁判官だ。
本書には、わたしの知り合いも何人か登場してくるのだが、そのうちのひとり森真理子が「誰だって不安や憂鬱になるよ。そんなの当たり前の感情じゃない」といい放つ線の太さが、同じ名前をもつ大草眞理子にはない。他者に対しては、いろいろな角度から先読みができ、すばやい分析ができるはずの彼女は、自身のことになると「誰だって・・・」という鳥瞰視点や一般化をする想像力が萎えてしまうようだ。換言すれば、そのような性格をもつ人間性に多々みられるように、他者の欠点や「イヤな面」はよく透過できるクールな眼差しをもっていると感じる。
彼女は文学畑なので、本書には作家の好きキライも数多く登場している。少し紹介してみよう。
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司馬遼太郎さんの書くものも、実をいうと好きではない。女を性の対象としか描いていないからである。/ついでにいうと芥川龍之介も嫌いだ。彼のものを読んでいて、娼婦と寝ながら「生きることは苦しいね」と言いあったという件(くだり)があって大嫌いになった。娼婦は貞操を金で売って生きている。そんな、人間としての尊厳を踏みにじられて生きなくてはならぬものの苦しみと、芥川の形而上学的な苦しみとはまるで質が違う。(中略)/さらにいうと、柴田翔も嫌いだ。いつも女にばかり決断させたり行動させて、自分は後で「想い」を抱くだけで卑怯な男だ。それでも男か。/太宰治も嫌いだ。「生まれてきて済みません」と言いながら、あちこちで私生児を拵(こしら)える。済まぬと思うなら、そんな、生まれてきても済まないような人間の子孫をたくさん生まれさすな。(中略) それに女と心中なんて、なんて情けない死に方をするのだ。死ぬなら一人で死ね。/三島由紀夫も嫌いだ。・・・(後略)/一九七六年に『限りなく透明に近いブルー』で村上龍が二十四歳の若さで芥川賞を受賞し、文学に重きを置く連中が羨ましがっていたが、私にはこの人の本は理解不能の世界。/翌年には三田誠広が『僕って何』で芥川賞を受賞。これはあまりにも内容がなく「これって何」って感じ。・・・
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わたしも司馬遼太郎Click!がキライだが、それは本書で彼女が別のところに書いている、「絶対自己肯定型の人は自信満々で迷いがないから出世する」、つまり多くの人間を踏み台にし、ためらいもなく犠牲にするような人物を“英雄”に仕立てあげて顕彰するような戦前の古びた史観臭さ、現実の人文科学ないしは社会科学における歴史学とは無縁な「講談」の臭気を、司馬作品のどこかに強く感じるからだ。「ボク」ちゃんこと三田誠広Click!についてもまったく同感なのだが、本書を読んでいたら彼女が批判する、そして、わたしもあまり得意ではない太宰治Click!の小説の風味を、期せずしてうっすらと想い浮かべてしまった。こんなことを書くと、この記事を読んでいるのだろう本人から、猛烈な反発をくらうのかもしれないのだが・・・。
「恥多き人生」を歩いた太宰治と大草眞理子は、まったく異なる性格であり性質だとは思うのだが(そもそも性さえ異なるのだが)、自意識が過剰でプライドがケタちがいに高い点で、両者の「私小説」と「自伝」という装いの相違はあるものの、どこかで通底する内向きの共通項を感じてしまうのだ。どこか、同じ肌ざわりとユーモア感覚さえおぼえてしまうのだ。
最後の章で、現在の連れ合いさんや姑、あるいは義姉義妹を痛罵しているけれど、離婚騒動にならないのであれば、連れ合いさんは本質的に彼女の“味方”だ。もっとも、世間体を気にして懐が深いように見せかけ、陰でメメしく文句やグチや悪口を吐くような人物であるのなら、とっとと彼女のほうから願いさげにするはずなのだが、自身のことについては文学評のように清々しく、キッパリと見とおせないところが、大草眞理子たるゆえんなのかもしれない。
わたしが、ガールフレンドを連れて彼女の下宿を訪ね、料理がとびきりうまい大草眞理子のランチだかディナーだかを食べながら、横にいるガールフレンドの「焼きそば」を褒めたかどうかまではよく憶えていないけれどw、続編(が出るとすれば)では実名で登場しないことを祈るばかりだ。わたしの学生時代の失敗を、いろいろと暴かれるのではないかとヒヤヒヤしている。でも、すでに30年もの歳月が流れ、本書にも登場している立原道造ではないけれど、新緑の香がまじる遠い「五月のそよ風をゼリーにして持って」くるのは、すでに手おくれで興ざめすること請けあい・・・だからなんだけどね。
◆写真上:2012年3月に日本文学館から出版された、文庫版の大草眞理子『鬱病は治らない』。
◆写真中上:ときどき、大草邸の庭先でなる柑橘系のフルーツを送っていただいているが、これはみずみずしくて見事なハッサク。(ごちそうさまでした、とても美味しかった)
◆写真中下・下:某大学の文学部キャンパスとその周辺の現状。現在はキャンパス全体がリニューアル工事に入っており、大草眞理子が歩いた当時の面影は希薄だ。立原道造の「五月のそよ風」ではなく、「六月の空は誇りに満ちみちていた」・・・と詠んだ詩人もいたけれど、誰だか忘れた。
欧米の発明家を称揚する『日本鉄道物語』。

1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』という単行本がある。日本における鉄道敷設の経緯や、陸軍鉄道連隊Click!の資料類として目を通した1冊だ。日本に鉄道が導入されてから、1943年現在にいたるまで、鉄道システムの概要を記録した良書だと思う。蒸気機関の発明にはじまり、当時計画中だった東海道線と並行して走る予定の、「夢の超特急列車」の計画までが紹介されている。
本書は、中学生以上から大人までが楽しめる内容となっており、客車や貨物車の車両記号や重量記号の詳細から、ダイヤや運行管理の実際、機関車や車両内外の機構、信号機や踏み切り、転轍器などのしくみ、鉄橋やトンネルなどあらゆる鉄道設備に関する解説にいたるまで、鉄道ファンにはおそらくたまらない内容だろう。まるで、鉄道員養成のための初級テキストのような趣きだ。図面や図版類も豊富に掲載され、本書を読むことで単に鉄道を抽象的に理解するのではなく、その機構やシステムまでが具体的に理解できる入門書となっている。
ところが、この本を読んでいて奇異に感じたことがある。そのひとつめは、鉄道の設計や開発、運用管理で当時世界をリードしていたイギリスや米国、フランスなどの発明家や技術者たちの才能や努力を、ためらわずに称揚している点だ。もちろん、1943年(昭和18)といえば、日本は「鬼畜米英」「撃チテシ止マム」の太平洋戦争の真っ最中であり、英米仏は敵国にあたる。ましてや、敵国の発明家や技術者が開発あるいは改良した鉄道技術を、否定的にとらえるのではなく彼らの名前を出して称揚する内容は、どう考えても「時局に合わない」のだ。
たとえば、米国の技術者ジャニーが発明した自動連結器については、次のように解説している。
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この自動連結器は、西暦一八七〇年に米国人ジャニーが初めて作つたもので、それをだんだん改良して、今日のような立派なものにしたのです。我国では、最初米国製のシャロン式、アライアンス式、日本製の坂田式を採用しましたが、今日ではその後に出来ました柴田式が一番多く使はれてゐます。
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本書では、いくら鉄道がイギリス生まれとはいえ、ドイツの技術はほんのわずか(1~2箇所)しか紹介されておらず、ほとんどが英米の技術にシフトした内容で書かれているのも、「時局」を考慮すればとても不思議な感触だ。『日本鉄道物語』が出版されたのは1943年(昭和18)11月、つまり、年明け早々にはガダルカナル島から撤退し、やがてアッツ島の守備隊は全滅してキスカ島からは撤退、本書が店頭に並ぶころにはタラワ島の守備隊が全滅と、戦況は不利になる一方だった。そのような時期に、本書は当局による検閲をパスして出版されていることになる。

本書の検閲は、1943年(昭和18)の前半に行われているものと思われ、いまだ前年の「連戦連勝」気分がどこかに残っていたころではないかと思われる。出版における検閲や規制も、切羽詰まった戦争末期に比べれば相対的に緩やかだったのではないか。
あるいは、当局による検閲の“網の目”が戦争末期ほど厳密ではなく、そんな“網の目”をくぐり抜けて出版されてしまったのが本書なのだろうか。わたしのみならず、欧米人の社会や文化、生活、習慣までをも全的に否定するのがあたりまえだった当時、本書をリアルタイムで手にした読者たちも、「おや?」と首をかしげたのではないだろうか。
もちろん、「大東亜戦争」遂行に関して肯定的に触れた箇所もあるのだが、本書のボリュームからすればきわめて少ない。しかも、とってつけたオマケ的な表現となっている。わたしが通読した限り、「大東亜戦争」に関する勇ましい記述は「はしがき」と「あとがき」を除くと、わずか数箇所しか見あたらない。たとえば、1942年(昭和17)の関門トンネル開通にからみ、東京駅から長崎駅あるいは鹿児島駅まで特急列車が走るようになった経緯を、次のようなニュアンスで記述している。
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遠い昔の人でなくとも、誰がこの海底をくゞる旅行ができると考へたことでせう。しかも大東亜戦争といふ今まで考へも及ばなかつたやうな大戦争中に、赫々たる戦果をあげながら、又このやうな大工事をなしとげました日本人の偉さに、今更ながら驚くではありませんか。
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この謙虚さをなくした自惚れが高じて、のちに壊滅的で「亡国」寸前のひどい目に遭うのだが、うがった見方をすれば、本書は1941年(昭和16)12月8日以前から企画されているのであり、脱稿したときには、すでに英米を相手に無謀な戦争をはじめてしまっていた・・・ということなのかもしれない。でも、鉄道の発明やさまざまな優れた改良技術に関しては、英米仏の記述を削除してしまうわけにはいかない。そこで、「はしがき」と「あとがき」へ時局に合うような文言を並べ、本文中には「大東亜戦争」遂行のお題目と国威発揚の文章をほんの少し付け加え、当局の検閲官を説き伏せて出版してしまったのではないだろうか。
もうひとつ、本書を読んでいて奇異に感じたのは、鉄道のさまざまな設備や、それが動作するしくみと意味、旅客列車や貨物列車に連結された車両の識別のしかた、列車運行システムに関する実際、すでに自動化が行われていた各種装置の内容など、こと細かに記述されている点だ。本書を参考に、線路へ設置された自動信号装置や転轍装置を破壊すれば、部隊移動や物流の動脈を少なからず混乱させることができる。つまり、「スパイ」にとってはまことに好都合な資料として、また破壊工作用の参考書として、役立ちそうな情報を満載しているということだ。
本書の「あとがき」には、文字どおり取って付けたような以下の文章が記載されている。
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鉄道は、今や決戦下日本の大動脈として、戦争に必要な物資や人の輸送に、すばらしい大活躍をしてゐるのです。この戦時輸送の大任を果すためには、何十万といふ鉄道従業員が、夜も昼も休みなく、あらん限りの力を出して働きつゞけてゐるのです。
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換言すれば、「これらの情報がスパイに悪用される怖れがある」というような検閲官による判断、あるいは出版社による自主規制がいまだ強烈に働かない時期に、本書は企画され、書かれ、出版されてしまったのかもしれない。おそらく、日米開戦前後から執筆がスタートし、「連戦連勝」の浮かれ気分が冷めやらないうちに検閲をパスし、1943年(昭和18)に店頭へ並んだのではないだろうか。
◆写真上:1943年(昭和18)に同盟出版社から出版された、井原豊明・著の『日本鉄道物語』。
◆写真中上:左は、当時の最新式蒸気機関車C59。右は、東京から下関へ向かう特急「さくら」。
◆写真中下:左は、操車場内の三位式場内信号機。右は、線路に設置された空冷式転轍器。
◆写真下:左は、車両重量の記号と列車編成時の記号記載による表現例。右は、深い渓谷へ線路を通すバランスド拱構橋による鉄橋工事の様子。
あまりにもリアルな貝原浩『風しもの村』。

この文章を書こうか書くまいか迷ったが、やはり、いまだからこそここへ書きとめておきたい。わたしが、いま置かれている“現在地”を確認する意味でも、記録に残しておきたいのだ。
1985年(昭和60)の夏から秋にかけ、わたしはシベリア鉄道に乗って途中下車を繰り返しながら、ロシア(ゴルバチョフ政権下の旧・ソ連)にいた。佐伯祐三Click!の中国ハルピン経由とは異なり、ウラジオストックから乗車したかったのだが、当時は立入禁止の軍港都市としていまだ開放されておらず、空路でハバロフスクまで飛んで乗りこんだ。途中まで、抑留者墓地の慰霊を行なうシベリア墓参団といっしょになり、クラスノヤルスクまで同行することになった。
当時のロシアは、旧・ソ連の共産党政権下といっても開放感がかなり拡がっており、シベリア鉄道では迷彩を施した戦車を50台ほど乗せた長い長い貨物列車が通りかかり、カメラを向けても特に咎められない時代に入っていた。軍人の一団へ向けてシャッターを切れば、笑顔で手をふるような時代に変貌していたのだ。シベリア墓参団に付き添っていたロシア人通訳によれば、「別に、どこをどのように撮られてもかまいません。ご自由に」と、国内鉄道の時刻表(少し前ならマル秘資料)までくれる変貌ぶりで、こちらがかえってとまどうほどだった。
シベリア鉄道の旅では、もちろん終点モスクワで下車して、現在のベラルーシ共和国の首都ミンスク(当時はソ連西部の大都市)などに寄り道しながら、フィンランド湾に面したペテルブルグ(当時はレニングラード)へモスクワから「レッドアロー」号でたどり着き、やがて東ヨーロッパへと抜けていった。いまもつづいているらしいが、当時もロシアは日本語学習ブームのただ中にあり、街を散歩していると軍人や市民を問わず、あちこちから「すみません、ライターを貸してください」とか、「こんにちは、いま何時ですか?」などと日本語で声をかけられた。わずか6ヶ月ほどののち、その穏やかだった街角や風景を一変させる、ロシアは未曾有の危機にみまわれることになる。
1986年(昭和61)4月26日、ウクライナ共和国(当時はウクライナ地方)の、チェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた、史上最悪の爆発事故だ。この事故では、硬直化した共産党政権の組織が円滑に機能せず、情報の遅れや隠蔽により厖大な数の被曝者を出してしまった。
いまだに、同原発の周囲は高濃度の放射線に汚染されたまま、立入禁止区域があちこちに拡がっている。事故から数年後、放射線測定器を片手に現地入りしたジャーナリスト・広河隆一の報告を、確かスタートしたばかりのTBS「筑紫哲也のニュース23」で見た記憶がある。原発からかなり離れているにもかかわらず、カウンターが強い警告音を立てて反応する中、取材をつづける姿が衝撃的だった。そして、さらに驚いたのは立入禁止区域の村へともどり、農牧業を再開しながら「ふつう」の生活をしている村人たちの姿だった。彼らは故郷の家と、親しい知人たちと、自分たちの土がなければ、生きてはいけなかったのだ。広河隆一はいま、放射線カウンターを手にして福島にいる。


昨年、貝原浩Click!の下落合風景Click!を探していたとき、展覧会などをまわっている際、知人から1冊の画集をいただいた。2010年に出版された貝原浩画文集『風しもの村―チェルノブイリ・スケッチ―』(パロル舎)だ。貝原浩は、事故から7年後にベラルーシを訪れている。子どもたちへの医療支援などをつづける、日本チェルノブイリ連帯基金(JCF)のメンバーとともに現地を二度にわたって訪れ、帰国後、わずか2ヶ月ほどの間にチェルノブイリ・スケッチを仕上げている。大判和紙10枚に描かれた作品は、貝原浩の生前、本格的な大判画集になることはなかった。
チェルノブイリ原発事故の際、風下になってしまったベラルーシでは事故後、医師たちが避難してしまって足りなくなり、また医薬品の不足が深刻化していった。1991年より、日本からの本格的な支援活動が、医師を中心とした市民レベルのJCFによって行なわれている。そのせいだろうか、ベラルーシ共和国はとうにロシアから独立しているが、今回の東日本大震災ではロシアの反応は早く、同国としては最大クラスの救援隊を組織して派遣している。同画集の巻末に昨年寄稿された、JCFの神谷さだ子事務局長による、「チェルノブイリは語り続ける」から引用してみよう。
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湖と森が散在するこの地区は、かつては、サナトリウムがあり、保養地だったと言う。しかし、ほかの地域の放射能マークが、いつの間にか無くなっていく中で、この地には、いたるところに危険を報せる看板がある。汚染の無いほかの地域に移住していった医者達も多い。子ども達の甲状腺がんは、一九九五年以降、欧米レベルに戻ったが、四六歳以上の大人の甲状腺がんは右肩上がりで、増え続けている。子どもの時に、甲状腺を摘出した青年達が、ホルモン剤を飲み続けることで、問題が出ないだろうか、と懸念される。女性達は、汚染地に暮らし続けていることで、出産に不安を抱えている。/事故後の緊急支援の時は過ぎたが、放射能の半永久的被害についての解明が、長崎大学・京都大学で続けられている。現地の人々は、私達を“広島・長崎を経験した日本人”として、信頼と共感を寄せてくれる。汚染の大地に住み続ける人々と共に歩むことが、今という時代を共有していることなのかもしれない。/私達は、四半世紀前の事故から、今の暮らしの有り様について、問い返し学ぶことができる。
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「今の暮らしの有り様」をもう一度問い返せないうちに、今回の東日本大震災に起因する取り返しのつかない、「想定外」の大事故は起きてしまった。TVでは盛んに、「チェルノブイリ原発の事故とはちがう」ことが強調されていたけれど、原子炉の構造やしくみ、事故の要因や形態こそまったく異なってはいても、大気中へ決して漏れてはならない大量のセシウムやヨウ素などの放射性同位元素がバラまかれるという、いまこの国で現象化している状況は、まったく同じなのだ。3号炉の建屋が水素爆発を起こしてふっ飛んだ時点で、原子力資料室で会見した元・原発設計者の後藤政志工学博士が言及していたように、「レベル5」などではなく「レベル6.5」の深刻さであり、チェルノブイリ事故の「レベル7」に限りなく近いという規定は正しかったように思う。
祖父の世代が経験した関東大震災や、1995年に起きた先の阪神・淡路大震災がそうであるように、猛烈な自然災害は時代の経過とともに「過去」の悲惨で哀しい、そして口惜しい記憶として心の中に織りこまれ語り継がれていくが、原発の放射能事故は、どこまでいっても「現在進行形」のままになるのが、なんとしてもやり切れない。それは、「広島」や「長崎」を経験しているわたしたちが、世界の国々のどこよりも、いちばん熟知していたことではなかったか。
1990年代の半ば、わたしの文章をロシア語に訳してくれた翻訳家が来日した。すでにソ連は存在せず、多様な国々が誕生していた時代だ。阪神・淡路大震災の話題からチェルノブイリ原発事故のことへ話が及ぶと、当時、彼女は事故現場から800km以上離れたモスクワ大学にいたのだそうだ。それでも、「日本語ができますでしょ、だから日本へ一時避難しようかと真剣に考えてましたのよ」と、目白の喫茶店でコーヒーを飲みながら、ちょっと古風な山手言葉で語っていたのを思い出す。

モスクワの南に滞在しているとき、毎朝、郊外で採れたての野菜や果物を売りにくるお婆さんがいた。料理するまでもなく、細くてかわいいニンジンは生でかじっても驚くほど柔らかで甘く、三角に折った新聞紙に詰めてくれるベリー(コケモモ=ハックルベリーだろうか?)は、日本に持ち帰ってパイにしたいほどの美味しさだった。それから半年後、あのお婆さんもおそらく政府の放射線情報など気にもとめずに、生まれ育った大地で森のめぐみを採集し、畑を耕しつづけていたにちがいない。
★貝原浩作品展/「風しもの村」原画展
-「チェルノブイリ原発事故から25年、もう一度、考えてみたい大切なこと」(仮題)-
・日程:2011年4月19(火)~5月1日(日) 月曜定休
火曜~土曜11:30~23:00/日曜11:30~18:00(変更の可能性あり)
・場所:space & cafe ポレポレ坐Click!
〒164-0003 東京都中野区東中野4-4-1-1F space & cafe ポレポレ坐
・詳細/最新情報:「絵描き・貝原浩」公式サイトClick!
◆写真上:貝原浩画文集『風しもの村-チェルノブイリ・スケッチ-』に描かれた少女。これらの作品画像は、連れ合いさんの世良田律子様からご了解を得て掲載している。(写真類を除く)
◆写真中上:上左は、昨年(2010年)夏に出版された、貝原浩画文集『風しもの村』表紙。上右は、ロシアの平原になかなか沈まない初秋の弱々しい太陽。下は、貝原浩画文集『風しもの村』より。
◆写真中下:貝原浩画文集『風しもの村』の部分画像。上右は、平原で放牧される牛の群。下は、現在では廃炉になった旧・チェルノブイリ原子力発電所だが、コンクリートの「石棺」で覆われた原子炉からの放射線漏えいはいまだ止まらず、逆にコンクリートの劣化とともに増大している。
◆写真下:美味しい野菜や果物を売りにきたお婆さん(左)と、シベリア鉄道勤務で乗務員のおねえさん(右)。言葉がなかなか通じにくい旅の途中で、気が合ったふたりの女性。
「標準語」は東京弁じゃないってば。

江戸東京方言(およそ町ごとに異なる多彩な東京弁)と、「標準語」とが同じものだと思っている人が多いのに、改めて愕然としてしまう。少し前、「OPALな日々」のOPALさんClick!も書かれていたので、さっそくコメントを書かせていただいたのだけれど、東京方言と「標準語」とは、用語やアクセント、イントネーションなどもろもろの特徴を含めて、まったく異なる別モノだ。「標準語」を“母語”とする地域などこの世に存在しないし、江戸東京地方には当然のことながら江戸東京方言が代々、生活言語として存在している。数多くの先達や、山手と下町とを問わず現在でも多くの地付きの人々が証言しているように、わたしも“母語”感覚Click!や育ちからいえば、「標準語」は正体不明のおかしなしゃべり言葉で、随所で「訛って」いるように聞こえてしまうのだ。
「標準語」は当初、薩長の明治政府肝煎りで、江戸東京方言でも旧山手の言葉(士族言葉)をベースに人工的に作られたものだから、それと同一だと思われている方もいたりする。わたしが山手言葉について書くのも妙だけれど、両者はまったくちがう。代々生っ粋の乃手人に訊けば、すぐに激しくクビを横にふられるだろう。その“ちがい”さ加減は、時代劇に登場する下町Click!の町人たちが、そろいもそろって職人言葉(しかもたいがい品のない)を話しているのにも似て、事実とフィクションとでは大ちがい・・・なほどの“ちがい”なのだ。どこか無骨な感覚が宿る乃手弁に比べ、商業ベースで発達し洗練された下町弁のほうが、音韻もやさしく美しいとさえ感じることがある。
「標準語」に比べれば、山手言葉も下町言葉もおよそ美しくてやさしい。もっとも、これは東京地方のみの感覚なので、外側から見たらここの方言はキツイと感じる地方の方もいらっしゃるかもしれない。ブツブツと、まるで打ちの足りない蕎麦を食っているような「標準語」は、たとえばTVやラジオのアナウンサーがしゃべるのを長く聞いていると、耳がグッタリと疲れてくる。江戸東京の各地で代々話されている生活言語と「標準語」とは、もう一度繰り返すがまったく異質だ。明治以来、今日まで近代国家の統一をめざして学校で教えられ(戦前に学校で東京弁をしゃべり、教師に怒られて訂正された経験をお持ちの方がたくさんいらっしゃる)、戦後はおもに放送局のアナウンサーがしゃべる人工語が「標準語」であって、江戸東京方言とは似て非なるものだ。
もっとも、乃手にしろ下町にしろ、家庭内で東京弁をしゃべる人の数が徐々に少なくなり、あるいは近所づきあいで地付きの人々との交流が徐々に減り、代わってマスメディアから「標準語」がたれ流されているがゆえに、戦前からの東京地方以外で生まれ育った人々の大量流入と相まって、この地方の方言が衰退していることは間違いなさそうだ。ここでも何度か取り上げているけれど、東京ではアイヌ語講座Click!が盛んだが、ほどなくその隣りに江戸東京方言講座(旧山手コース/新山手コース/神田コース/下谷コース/深川コース/日本橋コース/本所・向島コース・・・)などというのが、どこかの市民大学講座か文化センターで開講するやもしれない。w
だから、東京地方以外のみなさん、よく「東京弁が地方の方言文化を侵食し、破壊している」・・・なんて人聞きの悪いおかしげな話を聞くけれど、それは根本的な錯誤であり認識不足なのだ。地域の特色ある生活言語を侵食しているのは、東京方言ではなく明治政府に根のある「標準語」なのであって、まちがいなく東京方言の山手言葉および下町言葉もその侵食の“被害者”だ。文句があるのなら、薩長の明治政府とその施策を止めようとしない文科省、あるいは放送局に言っとくれ。

OPAL管理人さんと、どうしたら江戸東京方言の妙味をわかりやすく伝えられるのだろうか?・・・とお話してたら、ちょっと面白い本を見つけたのでご紹介したい。子母澤寛という作家がいたが、昭和初期に新聞記者をしていた時代、東京各地や近郊に住むさまざまな階層の人たちへインタビューした、聞き書き集『味覚極楽』(1927年/解題1957年)という作品を残している。華族から役者、料理人、駅長、医者、僧侶など登場する人たちも多彩で、彼らが当時しゃべっていた言葉を、できるだけすくい取って記しているのが面白い。華族といっても、みな乃手言葉を話しているかというと、中には下町言葉で話したのだろうと思われる聞き書きもある。そういえば明治以降、勝安芳もさかんに下町言葉をしゃべっていたのが記録されている。もちろん、録音データ起こしなどない時代だから、当人がしゃべった正確な記録ではないのだが、子母澤はできるだけニュアンスをつかみ取って文章化していると思われる。たとえば、役者の尾上松助のインタビューはこんな具合いだ。
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ちっとばかり辛いかナと思う位に醤油を入れて、こわ目に茶飯を炊いてよく食べる、一日おき位にはやるんでげすよ。これへ大鯛の生きのいいのを、ぶつ切りの刺身にして、薬味を入れないおしたじ、亀甲萬Click!がいい。別にいい茶の熱いのを汲んで、これをつまりお椀代わりにしていただくんです。それあうまい。この刺身が鮪となると、ちょっとまた調子が変わって来て、べとりと舌へ残るあぶらあじと、茶めし(ママ)の味とが、どうもぴたりッと来ない。矢張り、茶めしには鯛、これがなかったらまず平目でげしょうかな。 (「大鯛のぶつ切り」尾上松助氏の話より)
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役者はちゃんと下町言葉ベースの「芸人言葉」(江戸後期に花柳界で流行した幇間言葉に近い)をしゃべり、牛込区河田町の伯爵・小笠原長幹はいかにも旧山手の無骨な言葉にちょっと崩した下町弁の混じった様子で、“うまいもん”をあーでもないこーでもないと楽しそうにしゃべっている。下落合と東日本橋のミツワ石鹸Click!=三輪善兵衛Click!は、日本橋言葉とも山手言葉ともつかない微妙な言いまわし(実際、子母澤にはそう聞こえたのかもしれないが)で天ぷらを語り、根っからの地付きである高村光雲は美しい下町言葉(光雲は下谷弁だろう)を話し、同じく根っからの東京舌の大倉久美子は、美しい山手弁で東京の食べ物を絶賛する。これらのインタビューが、音声として残されていないのがいかにも残念だ。音声で聞きさえすれば、東京方言と「標準語」とが発音、アクセント、イントネーション等々、すべての面においていかに異なるかが一聴瞭然だったろう。
ちなみに、いまわたしが興味をおぼえているのは、外出から帰った家族を出迎える言葉として、「おかいんなさい」あるいは「おかいり」という地域と、「おかえりなさい」「おかえり」という地域が、旧市街のどのあたりの境界で変化していくのかな?・・・というテーマだ。もちろん、前者がおもに(城)下町言葉で後者がおもに山手言葉なのだが、案外クッキリと残っているのではないかと想像している。そして、「標準語」では山手言葉である後者が採用されているようだ。
おしなべて、子母澤寛は山手弁の表現があまり得意ではなかったらしく、下町言葉になると俄然、文章が活きいきとしてくる。北海道生れの子母澤だが、先祖代々が江戸生まれで、戊辰戦争の際には薩長軍と戦うために江戸から北海道へ向かった家柄なのだから、家庭内で話されていたのはまちがいなく江戸方言、それも祖父の言葉づかいから判断するといずれかの下町弁だったと思われる。ついでに、宮内省厨司長の秋山徳蔵が面白い話をしているので、ご紹介しておきたい。
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東京は器物をそこへおいたまま箸で食物をつまみ上げてたべる。関西は器物を手にもって、すぐ口のそばまで運んできて食べる。従って関西はおつゆがたっぷりついて舌の上へ来るし、東京はつゆは置き去りにして物だけが来る。/関西はこんなことから古来おつゆにしっかり味がついていて、ふくみ併せたべて、本当の味が出るようになっており、東京はつゆはいわばおまけで、「物」へしっかりと味がついている。東京の人が関西のをたべて、よく「少し塩味が足りない」というが、これは食べ方を知らないのである。関西の人もまた東京のをたべて、つゆをたっぷり含ませてやるから、「少し塩が強い」という、これも間違っている。東京人は関西のものの、味の半分だけしか舌へのせず、関西人は江戸っ子料理の、添え物まで舌へ持って来ているのである。
(「料理人不平話」秋山徳蔵氏の話より)
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上記の文章の「東京」を、「関東」と言い直してもほぼ間違いないだろう。なるほど・・・と、思い当たることがままある。わが家の食習慣だが、食事中いちいちおかずの小皿や小鉢を手にとって、口もとへなど運ばない。むしろ、そんなことをすれば親から「お行儀が悪い! 品のないことするんじゃありません。ちゃんと器を置いて、お箸でつまんでお食べなさい。お箸はなんのためにあるんです?」と、すぐさま叱られてしまうだろう。秋山が書く「食べ方を知らない」からではなく、行儀が悪くて食事の作法としてはマズイからだ。手に持つのは、飯茶碗と汁椀ぐらいのもので、おかずの皿や鉢の上を箸がタテヨコへと滑っていく・・・というような動作。食文化による味覚の本質的なちがいももちろんあるのだろうが、食習慣や作法が異なるために味わい方のちがいも、またかなり大きそうだ。

地方分権の流れとともに、地域色をより強めるためにか各地の自治体が方言の復活へ取り組んだり、授業へ方言教育を積極的に取り入れるところが増えている。地域専用の日本語IMEが開発され、方言変換が容易になったというニュースも聞く。東京弁がちゃんと変換されないIMEに、しょっちゅうイライラさせられているので、もちろん大賛成だ。わたしも東京弁ばかりでなく、島根弁や大阪弁、熊本弁が大好きで、ここでもずいぶん記事の中へいい加減だが書いてきた。気味(きび)の悪い「標準語」ではなく、きれいな江戸東京方言の復活のために、東京でも小学校で方言教育をしたらどうだろう。(英語よりよほど重要だと思うのだが) そうすれば、「マジ」Click!というような若者の新造語は聞き苦しい・・・などといっている、地域文化に鈍感で疎いヒョーロン家も少しは減るやもしれない。地方の言葉や文化を尊重したいと考えてる日本各地のみなさん、得体の知れない「標準語」から方言文化を守る運動があれば、東京地方からも協力しますよ。わたしも、地域の方言を大切にして話していきたいし、残していきたいから。だからこそ、「標準語」=東京弁だと思っているらしい大まちがいの意識から、まず徹底的に変革してほしい。この錯誤自体が、江戸東京方言をないがしろにする明治政府以来の「標準語」の存在と、まったく同質の意識だからだ。
もっとも、江戸東京は地域的にも広大で、幕末には2,000町をゆうに超えていたわけだから、乃手と下町のちがいばかりでなく、おそらく旧35区いずれの地域でも生活言語が少しずつ異なっていたはずだ。広いモシリ(大地)のアイヌ語に、道南からカラプト(樺太)にいたるまで、さまざまな方言が存在するのと同様だ。それには、まずはちゃんとした地域ごとに特色のある東京方言を、きれいにしゃべれる先生の確保からスタートしなければならない・・・のかな?^^;
◆写真上:左は、エテ公が大好きな子母澤寛。右は、1927年(昭和2)に東京日日新聞(現・毎日新聞)の記者をしていた際、著名人から聞き書きをしてまとめた『味覚極楽』(中央公論社)。
◆写真中上:左は、本書にも登場している牛込・河田町(現・新宿区)に住んだ小笠原長幹伯爵の子どもたち。後列左が小笠原松子、右が忠幸、前列右から左へ順番に、忠統、忠如、福子、元彦。右は、同写真が撮られた若松河田に現存する小笠原伯爵邸の庭先。
◆写真中下:左は、本書に登場する男爵・大倉喜七郎の夫人・大倉久美子(華桂)で、伯爵・溝口家で育った生っ粋の旧乃手人。結婚式の招待客にお酌をしてまわった彼女は、明治期の「お嬢様」としては考えられない“革命的”な行為でマスコミにも取り上げられた。右は、下落合の別名・大倉山の名前が残る権兵衛山の坂道(権兵衛坂)。大倉財閥の所有地だったことから「大倉山」とも呼ばれ、明治の早い時期には伊藤博文の下落合別荘が建っていたという伝承が残る。※
※その後、おそらく誤伝であることが判明している。
◆写真下:左は、1927年(昭和2)の夏に撮影された長谷川時雨一家で、左手に座るのが押しかけ亭主の三上於菟吉。時雨の口から、すぐにもキレのいい日本橋弁Click!が聞こえそうだ。右は、頭上の高速道路を取っぱらったあとの日本橋川Click!に架かる橋々の景観予想計画図。
「橘」薫る東日本橋の風。

2007年に文藝春秋から出版された、小林信彦Click!の『日本橋バビロン』を面白く読んだ。わたしが実際に目撃し、知っている時代は物心がついた1960年代も後半、つまり本書では最終章あたりに登場してくる東日本橋時代なのだが、一度も目にしたことのない戦中や戦前の情景でも、どこか懐かしく感じるのは、親父にさんざん話Click!を聞かされて育ったからだろう。
すずらん通りClick!の小林家、江戸期からの老舗和菓子店・立花屋さんがなぜ「立花」なのか、本書で初めて知った。同家の家紋が、「橘」だったのだ。「橘」家紋は、「丸に橘」でも「亀甲に橘」でも、また「五瓜の橘」でもなく、シンプルな「橘」そのものだったようだ。本書の上品な濃紺の装丁にも、「橘」が淡いブルーグレイで描かれている。この「橘」家紋では、地域性とからめて面白い現象が見られる。実は、わたしの家の家紋もたどれる限り、江戸期から「丸に橘」なのだ。
日本橋界隈の寺や、川向こうの本所・深川の墓地を歩くと、やたら「橘」家紋が多いことに気づかれた方はいるだろうか? ただの「橘」もあれば、「丸に橘」「亀甲橘」「向かい橘」「鐶(たまき)橘」「五瓜橘」・・・といろいろなのだけれど、中には「橘」マークだらけの墓地さえある。代々の先祖が眠る、うちの深川の墓地でも「橘」家紋がとても目につく。そして、それらの多くが江戸期から日本橋地域、戦前では日本橋区(現・中央区の一部)と呼ばれた地域で暮らしてきた人々の墓のようだ。江戸時代のどこかで、立花屋さんは享保年間、うちは寛永年間なのだが、下町Click!の間で「橘」紋様を家紋にする大流行があったのではないだろうか?

柳橋Click!の川舟料理屋(井筒屋)で毎年、舟遊び会を開いてきた柳派(落語家の柳家一門Click!)だが、なぜ川が汚れて異臭がたちこめ、「金属がどんどん変色して腐食する」と言われ、大川(隅田川)Click!の汚濁が最悪Click!だった60年代から70年代にかけても、頑固に川遊びをやめなかったのかが本書の記述でわかったような気がする。演芸というと、いまや(というか戦前からだろう)浅草か上野と相場はあらかた決まっていたのに、またわたしもそのような感覚でいたのに、本書には落語家の言葉として「あたしは親父にね、浅草で終っちゃいけねえ、日本橋に出ていかなきゃ駄目だ。と何度も言われたものです」という証言が収録されている。現在では、たいして寄席の数もない地域なのに、落語家にとっての「日本橋」は特別な意味があったのだ。
親父が話してくれていたエピソードと合致しているのが、パンと牛乳を売る千代田小学校近くの「太田ミルクホール」だ。小学校の弁当など作らなかった祖母Click!は、1日に50銭銀貨Click!(当時としては大金だったろう)を1枚握らせて、これで1日なんとかすごしといで・・・と(遊びに)忙しかった家を追い出した。太田ミルクホールは、「太田牛乳」が経営していた昼食向けにパンを売る店で、健全なミルクホールだ。ところが、親父は違う「ミルクホール」Click!にも出入りしていたらしく、女給さんに宿題を見てもらっていたなどと、のちに不埒なことも証言している。地域のつながりが色濃く、みなどこか顔馴染みで気心が知れていた時代だったから、特別に許されていたことなのだろう。

小林信彦と下落合が、あちこちで繋がっているのも面白い。すずらん通りの大川寄り角地に建っていたミツワ石鹸Click!の社長Click!との交流も興味深いが、小林の父親が入院して亡くなるのが当時の「目白の病院」すなわち聖母病院Click!だったのも、下落合と東日本橋との因縁を感じてしまう。
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----電話をして、目白の病院に向う途上の風景は歪み、歩いている実感が奇妙なほど欠如した彎曲した道を走ると、目まいが続き、両側の家が私めがけて吸い寄せられてくる。(どうして、こんな目に、あわなきゃ、ならないんだ。おやじも、おれたちも、なにも、悪いこと、してないのに!)/深夜の病院に駈け込み、息を弾ませている私を、待ち受けていた初老の医師は興味深げに見た。/「新潟の叔父様からも連絡を貰いました。たまたま、当直で良かった」(中略)/六月二十三日は雨だった。/午前六時五分に父は永眠した。半通夜、告別式は翌日だった。/ミツワ石鹸の社長が足を運んでくれた上に、「あたくし、戦前のおたくの茶通が好きでした」と小声で私に言った。私は涙を浮かべたかも知れない。 (同書「第四部 崩れる」より)
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聖母病院の担当だった「初老の医師」は、大磯Click!から通ってくる医者だった。
わたしは、故郷の東日本橋と現住所の下落合とが直結するラインとして、神田川(水源から大堰のある関口までは御留川=神田上水Click!、関口から飯田橋までは江戸川Click!で、東京オリンピックの翌々年1966年に神田川で正式に統一された)が気になり、「気になる神田川」シリーズとして少しずつ川沿いの風景を拾ってきた。でも、人と人との交流や重なりも、ていねいに拾っていけばもっとたくさんありそうな様子が垣間見える。大江戸を代表する下町の日本橋界隈と、東京の大正期以降では有数な乃手の目白・落合界隈と、今度はどのような物語で結ばれてゆくのか、とても楽しみだ。
■写真上:2007年に出版された、小林信彦『日本橋バビロン』(新潮社)の表紙カバー。
■写真中上:左は、本書の中表紙に描かれたというよりは、藍で染め抜かれたと表現したほうがピッタリな「橘」家紋。右は、神田川の出口に架かる柳橋から眺めた両国橋。
■写真中下:上左は、かろうじて残る「すずらん通り」のプレート。上右は、門前でべったら市Click!が立って賑わった薬研堀不動。下左は、両国橋Click!の「地球儀」橋柱。下右は、本書にも登場する「鳥安」Click!で、戦前のわが家は雑煮Click!用の鴨肉は、この料理屋で分けてもらっていた。
■写真下:左は、三越近くのビル上から日本橋本石町(金座→日本銀行)をのぞいてみる。右は、日本橋通油町Click!の商店が少なくなった通りで、左手が長谷川時雨Click!の生家跡。
縮まらない佐伯像の齟齬やズレ。

光徳寺とは家同士が親しく往来し、中津尋常小学校に入学したときから佐伯祐三Click!と親密にしていた、同窓生たちの貴重な証言が残されている。深谷三治という方は、中学校も佐伯と同じ北野中学校Click!へ進学している。彼はテニス部に入部し、同じ運動部だったせいか野球部Click!に属していた佐伯の様子も、かなり鮮明に憶えていた。1994年9月20日に発行された、北野中学校の同窓会報「六稜会報」No.28から引用してみよう。
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彼は高等1年修了後、明治45年北野中学に入学し、僕は翌大正2年に入学した。当時の北野中学は、阪急線を隔てて直線距離200メートル位南にあった。/彼は野球部に、僕はテニス部に入った。彼は、ピッチャーとしては素晴らしい強球(ママ)を投げるかと思うと、時にはホームベースにたたきつけるような暴投もした。バッターとしても大物を飛ばすかと思うと、大きく空振りすることもしばしばあった。(中略)後に聞いたことだが、バッターボックスに立った時、来る球をあれこれとゆっくり考える余裕などはない、ここぞと思った時に全身の力をこめて打つ。絵を描く時も、いろいろ構図を考えた時よりも、急に頭に閃いたインスピレーションにより一気呵成に描いた時の方が快心の作ができたということである。 (深谷三治「佐伯祐三のこと」より)
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このような、佐伯の少年時代の逸話や証言、身近にいた人々が記録した資料が出てくるたびに、ある書籍に描かれた「佐伯」像が浮き上がっていく。佐伯について、エピソードの“ウラ取り”や取材をすればするほど、その本の「佐伯」像との齟齬は埋まらないばかりか、ますます広がって乖離していくように感じるのだ。佐伯が東京へ出てきて川端画学校へと通いはじめて以来、東京美術学校からパリで死ぬまで親友だった、洋画家・山田新一Click!の証言を聞いてみよう。1980年(昭和55)に出版された、山田新一『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版)からの引用だ。
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しかし、こんな彼がまったく運動神経のない学生であったかというと、実はそうではない。殊に佐伯は北野中学校時代「ズボ」という渾名で、絵を熱心に描く以外は、勉強も運動もしない、佐伯が野球の選手であったということは嘘で、絶対にしたことはない、と書かれた書物(その著者は佐伯生存中、大変な親友であったように言っているが、最近会った佐伯の妻、米子の妹は、はっきりパリでも見なかったし、下落合時代の交友は全くなかったと断言していた)もあるが、これは思い違いで、勿論、その頃は昨今のようにプロやアマの野球熱の凄い時代に比べようもなかったが、学生野球は全国的に澎湃として湧き起り、ブームとなっていた。 (同書「野球」より)
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「書かれた書物」とは、1970年(昭和45)刊の阪本勝『佐伯祐三』(日動出版)のことだ。山田新一は、『素顔の佐伯祐三』の後半でもパリで佐伯が死ぬ直前の様子やエピソードについて、阪本の同書を名指しで明らかに誤っていると指摘している。山田は、佐伯が死ぬまで当のパリの“現場”で一緒にいたが、阪本は下落合でもパリでも、佐伯の周囲にいた事実をほとんど目撃されてもいなければ、また周囲へ「佐伯の親友」という印象も残していない。

このほかにも、佐伯の身近にいたいろいろな方の証言や、残された資料類をていねいに見ていくと、阪本の記述はどこかが少しずつズレており、ときにはかなりおかしいと感じる。すでに、このサイトでも触れているClick!けれど、1926~27年(大正15~昭和2)現在の目白・下落合界隈の描写も、まったくこの地域や“現場”を知らないとしか思えない見当はずれな記述を繰り返し、「?」マークだらけになってしまうほどの錯誤が見うけられる。この地域の、基本的な知識さえ持ち合わせているとは思えない阪本が語る『下落合風景』Click!は、当時の実景を見たことのない(写真や資料類でしか知らない)わたしでさえ、大きな違和感を感じる内容となっている。
阪本勝は、北野中学で佐伯と同期(30期)だった。(確かに同窓会名簿にも掲載されている) 帝大に通っていたときは、ほんの一時的にせよ上落合に「下宿」していたのかもしれない。また、佐伯が下落合にアトリエを建てる際、同期のよしみでその様子を見物に行っているのかもしれない。しかしながら、佐伯の「親友」となったのは、彼がパリで死去したのちのことではないか?
念のため、阪本勝『佐伯祐三』の初版から引用してみよう。なぜ“初版”かというと、同書は頻繁に改訂が行われ、そのたびに記述や掲載図版が変わっているからだ。
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私は東大在学中、転々と下宿をかえたが、一時上落合で自炊生活をしていた。自炊生活といっても男一人でできるものではなく、だれかとの共同生活を必要とした。その相手は、仙台二高の先輩で、現在同志社大学総長の住谷悦治君の実弟、住谷磐根だった。彼は私よりもっと若い画家だったが、人柄のよい人物だったから、仲よく自炊生活をしたものである。ところがわが家の近所に佐伯が家庭をもったときいて驚いた。 (同書「新家庭」より)
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「東大卒」と「兵庫県知事」、そして「佐伯の親友」をあちこちで連発するこの人物を、佐伯の親友・山田新一が強い違和感やいかがわしさとともにウサン臭く感じたように、下落合で佐伯の足跡をできるだけ丹念にたどろうとしているわたしもまた、まったく同様の感覚をおぼえるのだ。
次回、記事にする予定でいるけれど、明治末から大正期を通じて関西野球界Click!は、「佐伯」選手だらけだったことがあった。もし、佐伯祐三の近くに身をおいていたとしたら、市岡中学から早稲田大学に進学したもっとも有名な「佐伯」選手(当時、関西の青少年たちにはヒーローだったはずで、戦後は全国高等学校野球大会の会長を長くつとめている)、対戦相手の平安中学にもいた同世代の「佐伯」選手、さらには野球部のキャプテンをつとめた佐伯祐三が卒業したあと、北野中学にさえ登場してくるもうひとりの「佐伯」選手と、この印象的な野球界の状況をまったく知らなかったらしい阪本は、いったいどの位置にいて野球好きな佐伯の「親友」だったというのだろう?
■写真上:カフェ杏奴でカレーを食べる佐伯一家・・・と書いても不自然には感じられない、非常にリアルなスナップ写真。第2次渡仏時にモランのホテルで食事をする佐伯祐三と米子、弥智子。
■写真中:左は、1980年(昭和55)ごろにパリで撮影されたらしい山田新一。右は、山田新一が池袋1125番地に住んだころ、佐伯祐三が大阪中津から書いた手紙。
■写真下:左は、山田新一が書いた『素顔の佐伯祐三』(中央公論美術出版/1980年)。右は、佐伯伝としてよく読まれているらしい阪本勝『佐伯祐三』(日動出版/1970年)。下落合で佐伯を追いかけているわたしは、同書が不可解でしかたがない。
『落合文士村・目白文化村コース』改訂版が出た。

以前、尾崎翠の旧居=上落合三輪850番地をめぐり、彼女の全集や書籍など資料類のほとんどが、住居跡を誤って比定し掲載していることを記事Click!にしたことがあった。その記事を読まれた籠谷典子様が、『東京10000歩ウォーキング文学と歴史を巡る/落合文士村・目白文化村コース』(真珠書院/明治書院)の改訂版を、わざわざお送りくださった。上落合と下落合を散歩するには格好のハンドブックなので、改めてこちらでもご紹介したい。本書の目次を見ると、このサイトでおなじみの画家や作家、学者など「文化人」たちの名前がズラリと並んでいる。
わたしは、この『東京10000歩ウォーキング』シリーズが発売された2003年ごろ、初回に出版された『半蔵門・日比谷コース』や『谷中霊園・三崎坂コース』からの愛読者だ。当初は、編集・発売元が真珠書院のみで、現在のように明治書院はいまだ参画してはいなかった。何年間もの長期にわたるシリーズ本の発行にはつきものだけれど、同書は装丁デザインも数年前から微妙に変化してきている。このハンドブックを手に、親父が愛用していた『東京生活歳時記』Click!(社会思想社/1969年)を参照しながら、わたしにはなじみの薄い地域や街を歩くことも少なくない。
以下、『落合文士村・目白文化村コース』の目次を掲載しておきたい。価格も840円と安いので、江戸東京の街歩きには最適なハンディ資料といえる。


ひとつ、わたしもサイトの記事に訂正を加えなければならない。記事の内容ではなく、撮影して掲載した写真のほうだ。以前、三島由紀夫の『宴のあと』Click!にからみ、「近衛町」Click!の有田八郎邸跡としてご紹介した写真がそれだ。大谷石の築垣が残る邸宅を、有田邸跡としてご紹介しているが、実はこの写真の位置は有田邸の東隣りの敷地であって有田邸跡ではない。記事を書いたあと、しばらくしてから気づいていたのだけれど、不精なわたしはそのままにしていた。(爆!)
本来の有田邸は、この大谷石の垣が残る敷地に接した西隣りの区画で、現在は低層マンションとなっている。写真を撮りなおすのは簡単なのだが、「近衛町」が造成された当初の面影を残した貴重な大谷石の造作なので、「ま、いいか~」と当時の風情を感じさせる風景写真として、外さずに掲載したままだ。この築垣も、いつかは消えてコンクリートになってしまうかもしれないので、もったいなくて消せなかったのだ。写真の説明へ、ひとこと註釈を加えておかなければならない。
『落合文士村・目白文化村コース』の中には、もちろん佐伯祐三Click!の『下落合風景』Click!も登場している。その中の1作、1926年(大正15)10月23日の「セメントの坪(ヘイ)」Click!に描かれた邸宅で、唯一いまに残る和館が、最近、往時の姿を残して修復された。古民家再生手法による、傷んだ部材の補修・差し換えと耐震強度を高めるリフォームで、大正期に建築された当時の意匠のままの姿で、久七坂の道筋沿いに甦っている。
※「セメントの坪(ヘイ)」には、制作メモに残る15号のほかに曾宮一念が証言する40号サイズと、1926年(大正15)8月以前に10号前後の作品Click!が描かれた可能性が高い。
■写真上:左は、『東京10000歩ウォーキング文学と歴史を巡る/落合文士村・目白文化村コース』(真珠書院/明治書院)の2009年改訂版。右は、中村彝アトリエの紹介ページ。
■写真中:落合地域ゆかりの人物たちが紹介された、同書のコンテンツ。下右は、昨年の暮れに拙文「尾崎翠が見ていた落合風景」を書かせていただいた、年刊誌『尾崎翠フォーラムin鳥取2008報告集・No.8』(尾崎翠フォーラム実行委員会刊)。
■写真下:佐伯が「セメントの坪(ヘイ)」に描いた、再生前(左)と再生後(右)のT邸。