大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

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 大正末から昭和初期にかけ、ベストセラーの実用書に中目黒にあった出版社・章華舎から刊行されていた、「なるまで叢書」シリーズというのがあった。「なるまで」は、そのまま「〇〇になるまで」という、とある職業の「〇〇」になるための方法論やノウハウを記した内容で、「〇〇」は当時のあこがれで人気があった職業名があてられている。1926年(大正15)現在で、すでに50編の叢書が出版されている。
 たとえば、叢書シリーズには『野球選手になるまで』『博士になるまで』『新聞記者になるまで』『囲碁初段になるまで』『将棋初段になるまで』など、それをめざす人なら明日から参考になりそうな実用書もあるけれど、『美人になるまで』『スタアになるまで』『大臣になるまで』など、本人の努力のみではなかなか困難な職業もあったりする。ちなみに、「美人」になるには多彩な勉強や訓練が必要なようだが、もって生まれた容姿はなかなか変化しないので、「美人に(見えるように)なるまで」という、かなり個人差のありそうな主観的な評価のことらしい。
 「なるまで叢書」シリーズの中より、今回は第3編『名探偵になるまで』について少し内容をご紹介してみよう。まず、「名探偵」と呼ばれる職業には警察官(刑事)と私立探偵とがあるが、私立探偵の場合は男女を問わずに就ける職業だと規定している。日本における私立探偵事務所の設立は、1909年(明治42)に岩井三郎が設立した探偵社が嚆矢とされているが、探偵事務所は元手(資本)がほとんど不要なため、関東大震災の直後から東京府内では急増した職業のひとつだ。当時の推理小説ブームと相まって、大正末の警視庁による調査では100社を軽く超えていたという。
 大正時代の大手探偵事務所としては、衆議院(現・千代田区霞が関)に近接した「明審社」と、牛込原町(現・新宿区原町)の「東京探偵社」が広く知られていた。大正後期の探偵事務所には、すでに10人以上の女性探偵がいたと記録されている。当時の探偵仕事は、人物の素行調査や信用調査、結婚の身許調査、弁護士事務所からの証拠調査、家出人(行方不明者)の捜索、不動産の価格調査などがメインだが、今日ではストレートな個人情報漏洩となるので出版されなくなった、各分野の興信録(紳士録)の編集も手がけていた。
 特に身許調査や信用調査などでは、女性探偵が調査にあたると証人もつい気を許して詳細を話してくれたり、素行調査の尾行などでは女性探偵のほうが気づかれにくいという大きなメリットがあった。探偵社に就職すると、まずは試用期間に男女を問わず尾行のテストを数ヶ月間させられたようで、これがうまく達成できないと「キミは探偵に向かないよ」といわれ、正社員には採用してもらえなかったようだ。
 おもしろいエピソードも紹介されていて、とある独身サラリーマンが毎朝電車でいっしょになる美しい女性が気になり、丸ノ内の丸ビルに入る彼女を目撃して、「勤め先を知りたい!」という依頼が探偵事務所にあった。さっそく、新人の中でも優秀な青年探偵が、彼女を待ちぶせして尾行をはじめたのだが、彼女はなぜか丸ビルの1階からエレベーターには乗らず、丸ビルを小走りで通りぬけ隣りの郵船ビルに入ると階段を一気に駆けあがりはじめた。探偵が急いであとを追うが、途中で清掃夫が彼の前に立ちはだかり、その場でボコボコに殴られてしまった。
 彼女は丸ビルに入ると同時に、1階に連なる店舗の鏡面のようになったショウウィンドウに映る、自分を執拗に尾行してくる怪しい男にすでに気づいており、変質者か変態ストーカーだと判断した彼女は(おそらく過去にもそのような事例を経験をしていたのだろう)、すぐに隣りの郵船ビルに逃げこんで清掃夫らに助けを求めたのだった。丸ノ内のOGに尾行をたやすく見破られ、階段でボコボコにされたこの新人で優秀な青年探偵が、その後も事務所で雇用しつづけてもらえたかどうかはさだかでない。同書では男性探偵よりも、むしろ女性探偵のほうが有望であるとしている。
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 第3編『名探偵になるまで』から、女性探偵について少し引用してみよう。
  
 女探偵は或る場合には男よりも便利であると云はれてゐる。即ち、女の身許を調べるとか、女の家出人を捜すとかいふ場合は女同志(ママ:同士)の方が警戒されず、自然成績も挙るし(ママ)、家出人を匿つた家へ行く場合なども、家族は多く女であるから女同志(ママ)の方が懇意になつて事実を引出すにも便利であり、或る場合は子供を連れて訪問すると、非常に都合がいゝといふ。適任者さへあれば女探偵の仕事は無限にあると云つて差支へない。/一体人間には誰しも探偵的興味のあるものであり、殊に女には男より多いと云はれてゐる位であるし、女は直覚の点では男以上であるから、或る意味に於ては男よりも適任であるかも知れない。日本にも軈(やが)ては女の名探偵が現はれるであらう。(カッコ内引用者註)
  
 著者が、なぜ女性探偵を強く推奨しているのかといえば、実際の探偵業務には小説や映画などにあるようなバイオレンスも、心おどらせるサスペンスも、おどろおどろしいスリリングな場面もほとんどなく、非常に地味で定型的で根気と熱意が必要な仕事だと、あらかじめ同書のはじめで断っているからだ。探偵小説に登場するような、殺人や誘拐、監禁、強盗、傷害などの派手な事件は警視庁の探偵(刑事)の仕事であり、民間の私立探偵が関与できる余地などほとんどないと書いている。ホームズ明智小五郎が活躍する小説を読み、私立探偵にあこがれてなろうとすると、まったく異なる世界であることを読者に納得させたかったのだろう。
 また、元・刑事や警察官も、民間の私立探偵社には「適しない」と書いている。彼らはすぐに「威嚇」をして横柄な態度をとるからで、依頼案件に対する協力者を減らす主因になっていたらしい。「民間探偵として成功するには、最初から民間探偵で行くに限る」とし、男性なら20歳、女性なら18歳ぐらいから修業するのか最適だとしている。
 ちなみに、大正末の私立探偵社の給与は、新人探偵が40円/月ぐらいでベテラン探偵が100円/月ぐらい支給されていたようなので、それほど悪い条件ではなかっただろう。また、依頼者の事案ごとに多少の成功報酬ももらえたようで、経済的に困るような職業ではないとしている。大卒の国家公務員の初任給が50円だった時代であり、ベテランの女性探偵にとってはいい稼ぎになったのではないだろうか。ただし、勤務時間の拘束がないのは警察官といっしょで、依頼があればいつでもどこでも即座に出動しなければならなかった。
 さて、昔の事蹟を調べていると、そんな私立探偵社が足で調べた詳細な資料にぶつかることが多々ある。落合地域について資料を漁っていると、何度となくいきあたるのが「土地評価」のレポート、すなわち不動産価格の現地調査報告書だ。〇〇興信所とか〇〇探偵社が、当該地域の地元不動産屋(周旋屋)や住民(地主など)たちを取材して情報を集めた、おもに地価と周囲の地域環境を記録したレポートだ。落合地域でも、何度となく類似の評価レポートがつくられ、企業や店舗、不動産業者、土地投機家などに活用されていたのだろう。
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 日本橋区坂元町にあった東京興信所が、近衛町目白文化村の販売を開始する1922年(大正11)の3月現在で調べた、「豊多摩郡落合村土地概評価」という報告書が残っている。同報告書では、落合村を上落合・下落合・葛ヶ谷(のち西落合)の大字に分けた章立てで、それぞれの環境と字名ごとの地価を調査しているが、これを参照しながら企業は工場立地などの進出先を、店舗なら開業立地の条件を、不動産業なら開発の可能性を探る検討材料にしていたのだろう。
 その中に、地元不動産屋や住民(地主)たちに取材したとみられる、興味深い記述が残っているのでご紹介したい。それは、同レポートに書かれた落合村の地勢記録だ。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸附近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す) 優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり、北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 下落合の東部を解説している文章だが、明らかに「不動谷」青柳ヶ原の西側にある谷(西ノ谷)として境界設定し、その東側に拡がる地勢を紹介している。興信所の調査員は、必ず現地を訪れて取材調査しているはずで、この地理に関する認識は地元住民たちの共通認識でもあったとみられる。徳川邸谷邸川村邸は不動谷の出口、現在の聖母坂下の近辺にあった邸であり、また浅川邸は曾宮一念アトリエの東隣り、佐伯祐三「浅川ヘイ」を描いた大屋敷だ。
 この時期、箱根土地の堤康次郎郊外遊園地として設置し、ほどなく目白文化村の開発で消滅し同社の庭園名となった「不動園」の名称が、落合地域に浸透していたとは思えず、また江戸期には中井御霊社にあった中井不動尊は、開発の協業地主である小野田家の屋敷内にあった時代であり、前谷戸のことを「不動谷」と呼ぶ住民は当の開発関係者を除き、ほとんどいなかったのではないか。「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部の古老たちがつぶやかれていた疑問は、上記「落合村土地概評価」の調査に応じた地元の不動産業者や住民(地主)たち、そして取材した当時の調査員(探偵)とも共通する疑問だったのではないか。
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 ちなみに、当時の落合地域でもっとも価格の高い土地は、目白通り(旧・清戸道)で南北に分断された、下落合東部にあたる(字)新田の商業地で60円/坪、そのすぐ西側で江戸期から「椎名町」と呼ばれていた目白通り沿いの(字)中原の同じく商業地が50円/坪、目白駅に近く東京土地住宅の常務・三宅勘一近衛町を開発中の(字)丸山が50円/坪、次いで七曲坂をはさみ丸山の西側で鎌倉時代から村落があったとみられる、鎌倉支道が通う(字)本村が45円/坪という評価順だった。

◆写真上:ロンドンで再現された、シャーロック・ホームズの事務所兼自宅アパート。
◆写真中上は、大正期に章華舎から出版された「なるまで叢書」の一部。は、同シリーズ第3編『名探偵になるまで』の表紙()とその奥付()。
◆写真中下:現実の探偵業務には、こんなワクワクするスリリングな場面はほとんどないし()、そんなドキドキして鼻血が出そうになるエロい美女たちにも出逢えないし()、ましてや、あんなオドロオドロしい恐怖の事件現場にも残念ながら遭遇できない()、ひどく地味で根気のいる仕事だ。このような幻想を否定するのも、同書が書かれた趣意のひとつだろうか。上からシャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助の事件現場シーン。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された戦後もっとも有名になった女性探偵の佐藤みどり。戦後、探偵だった父親の仕事をそのまま引き継ぎ日本橋で「佐藤みどり探偵局」を開業しており、事務所で依頼者にわたす調査報告書を作成中のスナップ。は、1922年(大正11)に刊行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の調査報告書()とその奥付()。

上落合で制作された美しい『鳥類写生図譜』。

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 考えてみますと、3月の年度末はバタバタしそうなので、正月休みのうちにこちらへ移動してしまいました。すべての記事を移行するのに丸1日かかりましたが、なんとか全記事を無事に移し終えたようです。操作系もチューニングも、旧ブログとはまったく異なり、途方に暮れることばかりですが、可能な限りこちらへアーティクルをアップしつづけたいと思います。
  
 上落合には戦前、大勢の日本画家が住んでいた。少し挙げただけでも、上落合421番地の土岡泉(のち土岡春郊)をはじめ、、上落合411番地の東山新吉、上落合425番地の小泉勝爾、上落合466番地の田中針水、上落合583番地の大塚鳥月、上落合608番地の関田華堂など、細かく調べればキリがないほどだ。
 その中で、上落合421番地(現・上落合2丁目6番地)在住の土岡泉(春郊)と、上落合425番地(現・上落合1丁目23番地)の小泉勝爾が協同で面白い企画を起ちあげている。それは、日本に棲息あるいは渡来するおもな野鳥を、美術分野だけでなく自然科学(鳥類学など)の領域でも活用できるよう、写真を凌駕する高精細な写生をして定期的に会員へ頒布するという、それまで誰も試みなかった事業だ。小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、そのために当初は上落合407番地(現・上落合2丁目4番地)の土岡泉邸を刊行会事務所にし、鳥類写生図譜刊行会を設立して頒布会の会員を募っていたが、土岡が上落合421番地へ転居すると、上落合407番地はそのまま同刊行会の事務所兼仕事場になっていたようだ。
 1927年(昭和2)7月に、頒布会員へ向けた第1期第1輯「キビタキ/モズ」の刊行を皮きりに、1938年(昭和13)の第4期12輯「ウミネコ/オカメインコ」まで100種の鳥類を紹介しており、約12年間にわたってつづけられた仕事だ。落合地域には、棲息あるいは渡来する野鳥がたくさんいるけれど、『鳥類写生図譜』にはその多くが収録されている。1輯には2種類ずつの野鳥が紹介されており、その各種姿態や生態を描いた画面も付属しているので、100種類の野鳥の紹介には200画面の付図が制作されている。そして、各野鳥には詳細な解説文が添付されており、たいへん地味な仕事だが美しい仕あがりとなった。
 『鳥類写生図譜』刊行の推薦人には、当時の東京美術学校校長の正木直彦をはじめ、同校日本画科教授の川合玉堂、同じく教授の結城素明、帝国美術院の荒木十畝が、また鳥類学会からは日本鳥学会の会頭で鳥の会会長の鷹司信輔、同会役員の黒田長禮などが名前を連ねていた。なお、『鳥類写生図譜』の題字は正木直彦が書き、結城素明が監修役として参画しているが、これは東京美術学校における恩師の結城に相談して、同図譜の刊行を進めているからだろう。刊行ののちも、土岡泉はたびたび結城素明を訪ねてはアドバイスを受けているようだ。
 小泉勝爾は、『野鳥写生図譜』刊行時には東京美術学校の助教授であり、土岡泉(春郊)は鳥の会会員だった。特に土岡は、「鳥の春郊」と呼ばれるほど鳥類の描写に優れており、同図譜に添えられた詳細な解説は、鳥の会会員でもある土岡の仕事だろう。小泉勝爾は1883年(明治16)に荏原郡品川町北品川(現・品川区北品川)生まれだが、土岡泉は1891年(明治24)に福井県武生市(現・越前市)で生まれ、小泉より8歳も年下だった。『鳥類写生図譜』は、鳥好きな土岡が先輩の小泉に協同制作の提案をしたものだろうか。
 土岡泉(春郊)は、1916年(大正5)に東京美術学校日本画科を卒業すると、作品を帝展に出品しつづけている日本画家だ。特に当時は、鳥を描かせたら土岡の右に出る者はないとまでいわれていた。自身も大の鳥好きだったらしく、鳥の会の会合には熱心に出席しており、『鳥類写生図譜』に収録された解説文にみる豊富な野鳥の知識も、同会で学んだ成果なのだろう。ちなみに、土岡泉(春郊)の弟は北陸で独立美術協会展を誘致したり、前衛美術運動を推進した美術評論家の土岡秀太郎だ。
 また、土岡の先輩にあたる小泉勝爾は、1907年(明治40)に東京美術学校日本画科を卒業すると、すぐに美術教師となって茨城県龍ヶ崎中学校へ赴任したが、教職が肌にあわなかったのか翌年には退職している。その後、東京美術学校へともどると1916年(大正5)に助教授に就任し、1917年(大正6)から文展に、翌年からは帝展にほぼ毎年出品しつづけ入選している。1931年(昭和6)の第12回帝展では、『濤の聲』が帝展特選になっている。翌年には帝展無鑑査となり、1934年(昭和9)には帝展審査員となっていた。風景画が得意だったようだけれど、『鳥類写生図譜』では鳥も描いているが、その背景となる草花や樹木などの描写を、おもに担当しているとみられる。
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 刊行会からの頒布がはじまると、『鳥類写生図譜』は国内ばかりでなく海外からも大きな注目を集めている。当時の様子を、1982年(昭和57)に講談社から出版された小泉勝爾・土岡泉『日本鳥類写生大図譜』(原版複写本)の解説文より、少し引用してみよう。
  
 発売と同時に内外の反響も大きく「昭和二年秋に来朝されたる仏国鳥学会の権威デラクラー氏(ママ)は、本図譜を見て深く之を賞揚し、遂に著者に嘱して自ら発見したる珍鳥を描かしめたり」、「ベルリンに於ける世界屈指の美術出版業レヲポルドワイス社より本図譜の世界一手頒布権譲受の交渉ありたり」といった記録もあり、昭和六年三月には鳥の会主催の「第十回鳥の展覧会」で名誉賞を授与せられている。(カッコ内引用者註)
  
 現代でも、ヨーロッパ各国の図書館に『鳥類写生図譜』が収蔵されているのは、フランスの鳥類学者ジャン・デラクールが推薦したからだろう。
 6号サイズほどの大判和紙、越前鳥之子紙を採用して印刷しているが、その製版作業は多大な負荷(コストと手間)がかかったらしい。鳥1種目の絵の製版作業で、色校に納得がいくまで2~3ヶ月もかかることがめずらしくなく、出費がかさみつづけて採算度外視の仕事となってしまった。また、ちょうど金融恐慌から大恐慌と重なる時期の仕事となったため、刊行第3期の終わりには一度刊行の継続を断念しかかっている。だが、(財)啓明会からの支援で刊行がつづけられ、残り25種の鳥類を続刊することができた。
 『鳥類写生図譜』は、前述のように100種類の鳥を描いた100作品に、付属の姿態図や部分図100点の計200図版が掲載・印刷されているが、より細かく図版を分類すると鳥の姿態写生が540点に、部分写生が150点の計690点にものぼる膨大な図画点数を描いたことになる。その精密・精緻な描写と正確な色彩から、日本画界はもちろん鳥類学会や生物学会から高い評価を受け、鳥類の図鑑としては「首位としての讃辞を賜はつた事は著者の衷心より満足とする処」だと、のちに土岡泉(春郊)は誇らしげに記している。現代でも、その評価は変わっていないのか、鳥類学者や野鳥サークルのお薦め図譜となっている。
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小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、『鳥類写生図譜』を刊行するにあたり、次の4つのテーマを主軸にすえている。『鳥類写生図譜』第1期1輯(1927年)より引用してみよう。
  
 一、在来の鳥類に関する図譜は余りに絵画化せられて鳥そのものゝ自然の形態、色彩、習性の描写に憾多く、剰へ用筆省略に過ぎ、且つ実物大、実物色のもの少きを以て此等の欠点を補足する為に特に厳密なる写生を基本とすること/一、学術上の参考書は多くは皆一様の標本図にして生気に乏しきを以て、その自然に於ける生活状態及び姿態の運動に依る変化を主眼とすること/一、従来の花鳥参考書が美術上と学術上との研究が併行せず、為に雌雄羽色の差別、幼鳥成鳥老鳥による羽彩の変化、春秋の換羽による相違等を検討不備の為に別種となすが如き誤れる認識を一掃すること/一、其他写生図譜の無味乾燥に流れるの弊を補ふ為に、その鳥と最も密接なる関係にある花卉草木蟲類を配して最も美術的に画き且つ日本画独特の雅致風韻を具備せる花鳥図鑑とすること
  
 要するに、鳥類図鑑としては従来にないほど精密かつ正確にモチーフを表現するが、日本画の美術的な側面も意識して描くので、額装しても軸画にしても鑑賞に耐えうる絵画作品として成立するように制作する……ということだろう。おそらく、何度も色校正が行なわれたであろう越前鳥子紙に印刷された画面は、確かに今日でも色褪せない美しさを保っており、むしろ1982年(昭和57)に講談社から復刻された『日本鳥類写生大図譜』のオフセット印刷のほうが、実際に棲息している鳥類の色彩とは異なる印象を受ける。
 野鳥写生図譜刊行会への入会申込金は2円で、図譜が送られる月ごとの会費は2円50銭だった。したがって、初年はぜんぶで合計32円(送料は別途)ほどが必要だったが、一括で1年分を先払いすると入会申込金は免除され、年間の会費が28円と4円ほど安くなった。当時、どれほどの会員が入会していたのかは不明だが、世の中は金融恐慌から世界大恐慌へ向かっている時期と重なるので、会員数は思うように伸びなかったのではないだろうか。
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 さて、上落合1丁目407番地は光徳寺の北側に位置する三角形の区画で、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、6軒の建物に1ヶ所の空き地を確認できる。おそらく、この中の1軒が刊行会の事務所兼仕事場(元・土岡泉アトリエ)だったのではないだろうか。また、光徳寺の北隣りには同1丁目425番地の小泉勝爾のアトリエが、同寺の西側には同1丁目421番地の土岡泉(春郊)のアトリエがあったので、海外でも話題を呼んだ労作の『鳥類写生図譜』は、上落合のごく限られた街角の一画で制作されていたことになる。

◆写真上:『鳥類写生図譜』の第2期8輯で描かれた、下落合では外出するとほぼ毎日そこいらでつがいを見かけるキジバト(ヤマバト)
◆写真中上は、『鳥類写生図譜』の第1期1輯でいちばん最初に描かれたキビタキとその姿態付図。は、第2期4輯で制作されたホオジロと姿態付図。は、第1期3輯で描かれたコゲラ。いずれも下落合の森や屋敷林ではおなじみの野鳥たちで、特にコゲラは木の幹をコッコッコッと連打する音ですぐにわかる。
◆写真中下は、第3期1輯のバンと姿態付図。神田川や妙正寺川沿いの道でセキレイやカモ、サギ類とともに見かける野鳥。は、落合地域ではヒヨドリオナガとともにポピュラーなメジロと姿態付図。は、相模湾ではおなじみのアオバト。丹沢山塊から群れで湘南海岸の岩場へ飛来し、夕暮れとともに山へ帰る。以前、おとめ山公園にもアオバトが飛来するとうかがって驚いた記憶がある。
◆写真下は、日本画家の小泉勝爾()と土岡泉(土岡春郊/)。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる両画家のアトリエと刊行会事務所があったあたり。下左は、1930年(昭和5)に刊行された『鳥類写生図譜』第2期1輯~12輯の合本。下右は、1982年(昭和57)に講談社から復刻本として出版された『日本鳥類写生大図鑑』。
おまけ
 1945年(昭和20)4月2日に撮影された、第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の上落合の様子で、野鳥写真図譜刊行会と土岡泉(春郊)・小泉勝爾が住んでいた両アトリエ周辺の街並み。
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大空襲の遺体が地表へ這いあがる話。

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 以前、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!について、米軍の偵察機F13Click!が撮影した午前10時30分すぎの写真とともに、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)近くの実家にいた家族たちの避難ルートClick!をご紹介したことがあった。
 同時に、大橋(両国橋)Click!東詰めの本所に住む菊池正浩という方の家族が、自宅から上野公園まで避難する経緯も、関東大震災Click!の大きな川筋における火のまわり方(大火流)Click!とともにご紹介している。また、向島側と浅草側の避難民が衝突して身動きがとれなくなった、言問橋Click!の惨事についても記事にしたばかりだ。本所から大川(隅田川)の大橋をわたり、西へ逃げた菊池家についての本が出ているのを最近知った。2014年(平成26)に草思社から出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』だ。
 著者の一家は、大橋(両国橋)をわたり本所元町や同相生町から南の堅川に架かる一ノ橋をわたった、本所の千歳町10番地(現・墨田区千歳1丁目)に住んでいた。また、母親の実家となる中西家は、大川と堅川に面した本所元町268番地(のち本所区東両国1丁目/現・墨田区両国1丁目)で暮らしていた。菊池家と母親の実家とは、直線距離で200mと離れていない。この2家族が、それぞれの家で東京大空襲の夜を迎えることになる。
 菊池一家も、関東大震災の教訓を知悉している祖父のリードのもと、遮蔽物のない大きな川の近くにいては危険ということで、大橋を西側(日本橋側)へわたったあと柳橋Click!をわたり神田方面へと逃げている。神田のフルーツパーラー「万惣」Click!は祖母の遠い親戚筋にあたるそうだが、「万世橋」(浅草橋Click!の誤記?)から南へ折れ日本橋馬喰町から同小伝馬町、同橋本町、同室町とたどり、日本銀行Click!日本橋三越Click!へ出たあと大手町から千代田城Click!方面へ逃げようと計画したらしい。この避難ルートは、わたしの家族が逃げたルートとも何ヶ所か重なっている。
 だが、ここで菊池家は、万世橋から反対方向の上野をめざして避難することになった。理由は、神田小川町や同淡路町方面に火の手が見えたとのことだが、このとき万世橋を「万惣」の方角へ折れるか、神田川に架かるいずれかの橋をわたり日本橋をめざして急いで南下していれば、うちの家族と同様にそれ以上の危険なめに遭うことはなかっただろう。菊池家は日本橋ではなく、まず知り合いのいる湯島天神をめざして北上していった。
 ところが、黒門町まできたときに、本郷や湯島方面から火の手が上がるのが見えたので、迫る大火災に背を向け、上野広小路の交差点から不忍池へと逃れ、そこから上野山へとようやくたどり着いている。このとき、著者は父親か母親の背中でグッスリ寝ており、3月10日夜の公園内の様子は記憶していない。上野公園は、関東大震災のときと同様に濃い森林が幸いして、各町からの大火流を食い止めていた。著者は、なにもない避難用の広場より、「木が豊かなところが避難場所に適している」と書いている。
 翌朝、起きてみると火災で焼けた道路を歩いてきたせいか、靴裏が破れ足の裏がひどく火傷していることに気づいた。大火災により、空気が急激に膨張して起きる火事嵐=大火流Click!で、道路を炎がなめて焼けていたのだろう。3月10日は著者の誕生日で、小学校に上がる直前の満6歳だった。この夜、空襲で焼き殺されたのは10万人超、いまだ行方不明者がどれぐらいいるかわからないのは、何度か記事Click!に書いてきたとおりだ。
 丸1日を上野公園ですごし3月11日の朝、実家のあった本所千歳町へともどる途中の光景は、著者が「話したくない」と書いているように悲惨のひと言だった。ときに、焼死体を踏まなければ歩けないような凄惨な道程だった。その様子の一端を、2014年(平成26)に出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)から少し引用してみよう。
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 (犠牲者の遺体を)鳶口などで引っ掛けては、大八車やリヤカーへ無造作に積み重ね、埋葬場所へと運ぶ。埋葬場所といっても適当な空地や隅田公園などに大きな穴を掘り、放り込んで埋めるだけである。棺桶などはあるはずもない。ただの土葬である。戦後しばらくして掘り返されたわずかな遺骨は、何人分かをまとめて骨壺に入れられ、震災慰霊堂へ保管された。多くの犠牲者はビルやマンションが建ち並ぶ地下に眠っている。/下町といわれる一帯は、明暦の大火以降、多くの災害で亡くなった数十万の人に支えられてあるといっても過言ではない。(カッコ内引用者註)
  
 著者が遺体処理を目撃していたころ、わたしの義父Click!は麻布1連隊(第1師団)のトラックを運転し、大空襲による重傷者(おもに大火傷)を、次々と下落合の聖母病院Click!(1943年より軍部の命令で「国際」を外され単に「聖母病院」となっていた)までピストン輸送していた。国際聖母病院で亡くなった重傷者も、少なからずいたはずだ。
 わたしはよく記事の中で、東京は街全体が「事故物件」であり、そのような環境で「心霊スポット」や「心理的瑕疵物件」などといっているのは滑稽で笑止千万……というようなニュアンスの文章を書いているが、特に(城)下町Click!つづきの東京市街地(旧・大江戸エリアClick!)は、江戸期の初めから東京大空襲まで数えても、足もとにいまだ何万体の遺体が人知れず眠っているか不明なままの、街が丸ごと「心理的瑕疵物件」だ。
 現在でも、東京各地の自治体では東京大空襲による犠牲者の遺骨収集Click!をつづけているが、戦後78年が経過しても発見されている。菊池正浩は「隅田公園」を例に挙げているが、わたしは以前にこんな“怪談”を聞いたことがある。
 自治体では、遺骨収集の計画にもとづいて各地の公園や空き地、学校、公共施設の建て替え、あるいは大規模な道路工事などの際、戦後の記録や生存者の証言などにより発掘調査を行うが、前年に調査・発掘して遺骨を収集した場所でも、再び地表面の近くで少なからぬ遺骨が見つかるという。すでに遺骨を発掘・収集を終えているので、今回はより深く掘削して残りの遺骨を探す計画だったものが、再び地表面近くの同じ位置で遺骨が何度も繰り返し発見されるというのだ。
 つまり、5m以上も深く掘られた穴へ投げこまれた数多くの犠牲者の遺体が、少しでも早く発見してもらいたくて地中を上へ上へと這いあがってきているのではないか?……というのが、東京大空襲にからんで語られる有名な“怪談”のひとつだ。特に卒業式や終業式のため、疎開先からわざわざ東京へ一時的にもどっていた小中学生にとっては、悔やんでも悔やみきれない無念の死だったろう。この話が、人を怖がらせるためだけに作られた荒唐無稽な「怪談」とは異なり、非常にリアルかつ身近に感じるのは、事実として無念の死を迎えた人々の遺体があと何万体(関東大震災なども含め)、この街の足もとに人知れず埋まっているのかがわからず、わたしたちがその上で平然と生活し、歩きまわっているからだろう。
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 余談だが、菊池家は明治期に東京へやってきているそうなので、わたしの親世代や祖父母世代から上の感覚でいうと、同書には違和感をおぼえる記述がいくつかある。大橋の東詰めは本所であって、少なくとも地付きの人々は1960年代ごろまでは「両国」とは呼んでいない。総武線の両国駅があるので、「両国」と呼ばれはじめたのは昭和期に入ってからだ。したがって、女学生たちがヒロポンを注射され風船爆弾Click!製造に動員されていた、そこにある国技館は本所国技館であって、「両国国技館」とは(少なくとも大川の西側からは)呼んでいない。両国国技館は、両国駅の北側にある現代の施設だ。
 大橋の東詰め一帯にある本所松坂町や本所相生町、本所松井町、本所小泉町などから「本所」(一帯は江戸期より「南本所」と呼ばれていた)がとれたのは町名の上に本所区が成立したからで、明治以降に「本所区本所〇〇町」ではクドく感じて面倒だったのは、大橋の西側が日本橋区になり、各町名のアタマから江戸期よりつづいていた「日本橋」を外したのと同じ感覚であり経緯だ。たぶん、わたしの親世代でさえ「東両国〇丁目」というよりは、「本所〇〇町」といったほうがピンときて話が通じやすかっただろう。日本橋区も京橋区と統合され、中央区という名称になっているけれど、町名の上に本来の「日本橋」を復活させる自治体の動きは、めんど臭いのかわたしの知るかぎり存在していない。
 また、以下のような記述がある。同書より、つづけて引用してみよう。
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 深川の思い出といえば八幡祭りが思い出される。/毎年八月十五日を中心に行なわれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他は神田明神と山王日枝神社で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王さま」といわれ、それぞれ百ヵ町村以上の氏子町内を有していた。いずれも「天下祭」という寺社奉行直轄免許の祭礼であり、なかでも八幡宮の祭礼は勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。
  
 上記の文章には、明らかな誤りがあるので指摘しておきたい。深川八幡社(富岡八幡宮)Click!の祭りが、「江戸三大祭り」なのはまちがいないし、同祭が日本最大の神輿(4.5トン)を担ぐ“いなせ”で勇み肌なのも事実だ。ちなみに、日本橋地域のわが家は神田明神Click!の氏子で、氏子町は旧・神田区や旧・日本橋区を中心に八重洲や京橋方面も含め、ゆうに150町(江戸期の町数:昭和期に区域や地名、町名などが統廃合され現在は108町)を超えている。だが、深川八幡祭は史的に「天下祭り」とは呼ばれていない。
 「天下祭り」は、千代田城に山車や神輿が繰りこみ、ときの徳川将軍が観覧する神田明神Click!(北関東は世良田氏=松平・徳川氏の徳阿弥時代<鎌倉末期>からの氏子)と、日枝権現Click!(徳川家の産土神)の2社だけだ。深川八幡祭が「天下祭り」と呼ばれだしたのは、明治以降のことだろう。また、「寺社奉行直轄免許の祭礼」は江戸市中のおもな寺社祭礼には出されていたもので、特に上記の3社に限ったことではない。
 さらに、著者は「江戸城」と書いているが、江戸城は大江戸以外の地方・地域(他藩)から江戸表の同城を呼称するときに使用される名称であり、また江戸城Click!は1457年(康正3/長禄元)の室町期に太田道灌Click!が建てた日本最古クラスの城の呼称であって、それと区別するために地付きの人々が徳川幕府の城を表現するときは、戦前戦後を通じ一貫して単に「お城」、または昔からの地域名をとって「千代田城」と呼称している。
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 同書では、1946年(昭和21)に日本地図(のち日地出版)が刊行した『東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』の詳細を紹介している。確かに、戦後間もない植野録夫社長の仕事には頭が下がる思いだ。けれども、同地図には誤りが多々散見される。戦後、F13が1947~1948年(昭和22~23)にかけ爆撃効果測定用に撮影した空中写真Click!と同地図とを重ねあわせると、特に山手大空襲Click!地域における焼失区域と焼け残った区域とが、かなり異なって一致しないことに、ここ10数年気づかされつづけている。詳細な被害地区を特定するには同地図よりも、米軍の精細な空中写真を参照するほうがより正確な規定ができるだろう。

◆写真上:小名木川出口の、深川芭蕉庵跡から清州橋方向を眺める。大空襲のあった翌朝、大川には無数の犠牲者が浮かび東京湾へと流されていった。
◆写真中上は、一ノ橋から大川へと注ぐ堅川水門を眺めたところ。著者の家は堅川の左手(千歳町)に、母親の実家は川の右手(相生町)にあった。は、空襲がはじまってすぐに避難した同書にも登場している本所回向院の鼠小僧次郎吉の墓と力塚。
◆写真中下:1945年(昭和20)3月10日の午前10時35分から数分間、大空襲の翌朝に東京を撮影した米軍の偵察写真。いまだ各地で、延焼中の煙が見えている。
◆写真下は、1909年(明治42)に竣工した本所国技館。は、夏の深川八幡の祭礼でかつがれる日本最大(4.5トン)の富岡八幡宮神輿。下左は、2014年(平成26)出版の菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)。下右は、戦後間もない1946年(昭和21)に出版された『コンサイス/東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』(日本地図)。
おまけ
 新型コロナ禍で中止されていた神田祭が、ようやく今年は開催された。「天下祭り」Click!の名のとおり、神輿かつぎや山車ひき、先導も含め女子が多いのも同祭の特徴だ。ちなみに神田祭には、昔から男神輿と女神輿の区別がない。もうすぐ創建から1300周年祭を迎える江戸東京総鎮守・神田明神の本神輿や山車は、柴崎村(現・大手町)の旧・神田明神跡(将門首塚)Click!で主柱「将門」を載せたあと、同じく主柱の出雲神オオクニヌシの神輿とともに神田町内を巡行する。神田・日本橋・京橋・八重洲・大手町その他の各町内からは、150基を超える神輿や山車が繰りだす日本最大の祭り(参加氏子総数は200万人前後ともいわれる)だが、神田から御茶ノ水、湯島一帯の交通がマヒしてしまうので、現在では観光客や見物客も多いため、氏子町の全神輿が神田明神下へ勢ぞろいするのはなかなか困難だ。写真は、日本橋筋から神田方向へと進む神輿連。いちばん下の写真は、大川(隅田川)の大橋(両国橋)から柳橋をくぐり神田川を明神下までさかのぼる、東日本橋界隈の舟神輿(舟渡御)。
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まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。

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 少し前、上落合に住みマヴォClick!へ参加していた住谷磐根Click!についてご紹介したが、彼は1970年代の半ばに武蔵野各地を散策・取材し、1974年(昭和49)12月から1978年(昭和53)12月にかけて、地元の武蔵野新聞にエッセイを連載している。
 わたしが高校時代から学生時代にかけ、武蔵野Click!(おもに小金井と国分寺)を歩いていたころとちょうど時期的に重なるため、連載エッセイをまとめてのちに出版された書籍『点描 武蔵野』が手に入ったので、じっくり読むのを楽しみにしていた。同書は、挿画も住谷磐根が担当しており、画文集として当時の懐かしい情景が画家の目をとおして描かれていると思ったからだ。ところが、とんだ期待はずれだった。
 住谷磐根は、当時の「武蔵野」Click!と認識されていた東京近郊の街、すなわち武蔵野市にはじまり昭島市まで18自治体を取りあげ、それとは別に「井の頭公園」「深大寺」「多磨霊園」「大国魂神社」「北多摩の基督教」「多摩地区の郵便」と6つのテーマについて記述している。東京の市街地からそれほど離れていない、当時は宅地開発が盛んだった東京近郊の街々を対象に、武蔵野の面影を訪ねて歩きまわる内容だ……と想像していた。
 わたしは岸田劉生Click!曾宮一念Click!木村荘八Click!織田一磨Click!山田新一Click!小島善太郎Click!鈴木良三Click!村山知義Click!などが書いた、それぞれの画家の視点から風景やテーマ、生活などを見つめるようなエッセイを期待していたのだけれど、住谷磐根が描く「武蔵野」はそれらとはまったく無縁だったのだ。たとえば、わたしが1970年代によく歩いた小金井市についての文章を、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』から、少しだけ引用してみよう。
  
 甲武鉄道(現在の中央線)が開通し、大正十五年(一九二六)武蔵小金井駅が開設されて、東京との交通が便利になり、人口も年月を追って増大し、昭和三十九年九月には東小金井駅が新たに出来てなお一層便利になった。/昭和三十三年十月、市政がしかれ、市の木を「欅」、市の花を「桜」と定めるなど、自然に対する市民の心のよりどころを提唱し、近代思潮に乗って学園都市文化施設の誘導にも力を入れている。/かつて第一次世界大戦の後、貫井北町北部一帯の広大な土地に陸軍技術研究所が出来て、(中略) 終戦後その跡地には郵政省電波研究所が、昭和二十七年八月発足し、(中略) 総て現在及び将来に向って最大限に国民の福祉に活用するための研究がなされている。
  
 わたしがいいたいことは、すでにみなさんにもおわかりだと思う。このような内容は、別に住谷磐根が書かなくても当時の自治体が発行するパンフや市史、今日ならWebを参照すれば即座に入手できる情報であって、わざわざ画家が書く文章世界とは思えない。住谷磐根が、実際に武蔵野のどこを歩き、なにを見て、どのような体験をし、そのモチーフやテーマからなにを感じとり、それについてどう思い、なにを考えたのかが知りたいのであって、自治体が発信する行政報告書の概要を読みたいのではない。
 ところが、ほぼすべての街々についての記述が、このような表現の繰り返しなのだ。連載が武蔵野新聞なので、記事を書くようなつもりで文章を書いたものだろうか。あるいは、編集部から主観をできるだけ排し、「客観的」な記述にしてくれというような注文でもあったのだろうか?(画家の署名入りエッセイなのでそうは思えない) 同書の「あとがき」では、「行く先々で先ず市役所の広報部と教育委員会を訪ねていろいろ伺」ったと書いているが、そもそもアプローチからして画家らしくないと感じるのはわたしだけではあるまい。
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 最初は几帳面な性格から、街の成り立ちや概要から書きはじめないと筆が進まないのかと思ったのだが、ほとんどがこのような記述で埋められているのを読み、僭越ながら彼は情報として得たことをソツなくまとめて記述するのは得意かもしれないが、人間の生活や自己の内面を描く文章表現には、まったく不向きなのではないかと思うにいたった。すなわち、自身が感じたことや体験、思ったこと、そこから想像したことなどの主観がともなわない、まるで学校の“お勉強発表会”のような記述のエッセイなど、いっちゃ悪いが上記の画家たちの文章に比べ、ほとんど意味も価値もないに等しいと感じる。
 それでも、実際に地域に住む人々に出会って話を聞いている箇所は、かろうじてエッセイかルポのようなニュアンスを感じとることができる。わたしが学生時代の1978年(昭和53)に、わずか2ヶ月だけ公開されたときに訪れた(その後非公開となり、翌1979年10月から再整備ののち改めて公開)、滄浪泉園をめぐる文章だ。当時の滄浪泉園は、旧・三井鉱山の社長だった川島家の所有地(別荘)であり、1975年(昭和50)の時点では高層マンションの建設計画が具体化しはじめていたころだった。同書の「滄浪泉園」より、少し引用してみよう。
  
 何とか中へ入ることは出来ぬものかと再び道路の方へ戻った。自動車の頻繁に通る道路に面した方は四階建てのマンションが並んで、この林の一部は既に建物会社に譲渡してしまった様子であった。/マンションの傍の林の中へ通ずる門があって、試みに小門の方から入って行くと、石畳を踏んだ奥に、川島家の身寄りと感じられた住宅があって、そこの若い奥さんに、滄浪園(ママ)に就いてお聞きしてみた。/「近来色々な人が訪ねて見えて、写真を撮らせて欲しいとか林の庭園を見学したいと申込まれるが、いまでは一切お断りしています。」とのお言葉で、筆者も礼を尽して頼んでみたけれど、折悪しく未亡人の川島老夫人は九州方面へ旅行中で、その老婦人(ママ)―母と呼んでいた―が、「在宅ならば或いは話が分るかと思われますが、不在でお取計らいは出来ません」と筆者に気の毒そうに申されるので、残念ながら退去することにした。
  
 わたしが初めて滄浪泉園を訪れたのは、保存が実現して公開された1978年(昭和53)の秋なので、いまだ当初の川島別荘の面影が色濃かったころだ。わたしの印象では、庭園というよりも武蔵野原生林そのままの風情をしており、ハケClick!の中腹や下に横たわる湧水池は、人手が加えられていない原生のままのような姿をしていた。現在のように、本格的な公園あるいは庭園のように整備されるのは、1979年(昭和54)以降のことだ。
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 住谷磐根は、滄浪泉園の一帯を「文士・大岡昇平の『武蔵野夫人』のモデルになった所」と規定して書いているが、わたしが訪れた当時の風景や印象からしても、大岡昇平Click!が描写する大農家だった「『はけ』の荻野長作」の家Click!とその周辺の風情とは、かなり異なった印象を受けている。むしろ、1974年(昭和49)ごろの高校時代にさんざん歩いた、「ハケの道」沿いの雑木林に見え隠れしていた、ちょうど旧・中村研一アトリエあたりの国分寺崖線Click!沿いが、『武蔵野夫人』の物語にピッタリの風情だった。
 わたしがハケの道を歩き、手に入れたばかりの一眼レフカメラにトライXを入れてせっせと撮影していた高校時代(実は武蔵野らしい風情の地域Click!を歩いたのは、親に連れられた子ども時代Click!からずっとなのだが)、大岡昇平が同窓生だったハケの富永邸に寄宿していたころと、周辺の景色や風情にいまだ大きなちがいはなかっただろう。野川沿いに、国分寺・恋ヶ窪の姿見の池Click!(日立の中央研究所敷地内で入れなかった)から、ハケの道を小金井の武蔵野公園あたりまでエンエンと歩きつづけると、中村研一アトリエが建っていた界隈が物語の舞台にもっともふさわしく思えた。事実、戦地からの復員後すぐに大岡昇平が暮らしていた場所(富永邸)は、同アトリエのすぐ東側だ。
 『点描 武蔵野』の「あとがき」で、住谷磐根はこんなことを書いている。
  
 武蔵野の一隅保谷市に移り住むことになった。近隣の人達とは朝となく昼となく、手まめに道路を清掃し気持よく、近くには芝生畑、栗林、梅林、奇石名石を沢山集めた庭石屋や、既に風格付けの出来た植木を仮植している大きい植木屋があり、玉川上水の暗渠の丘が、真すぐに小金井、小平、青梅方面に伸びていて、四季を通じて散歩に好適であり、西方に麗峰富士山が眺められ、落日には紫紺のシルエットで鰯雲を引いた姿は、情緒を誘う住みよい所である。現在では練馬区大泉辺りから保谷、田無、三鷹、調布の方へかけての線を引いたそのあたりが、東京を背にして西方が武蔵野のおもかげの多い位置ではないかと感じられる。
  
 このような文章を、「あとがき」ではなく冒頭の「はじめに」に書いて、それぞれの地域や街の描写、人々の生活や暮らしの様子を画家の目ですくい取り、綴ってもらいたかったものだ。当局や公的機関が発表する情報をそのまま伝えることを、昔から新聞では「玄関取材」または「クラブ記事」というけれど、そうではなく自由に表現できるエッセイなのだから、画家である住谷磐根の目に、それぞれの地域や街に展開する武蔵野の“現場”がどのように映ったのかを、そしてどのような印象や想いにとらわれたのかを書いてほしかったのだ。
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 著者が「あとがき」で挙げている大泉や保谷、田無、三鷹、調布などの街々には、まがりなりにも武蔵野の面影を知るわたしにしてみれば、すでに市街地であって武蔵野の風情はほとんど見られない。『点描 武蔵野』が出版された時代から、すでに40年余がすぎ去った。

◆写真上:滄浪泉園(旧・川島別荘)にある、ハケの中腹にひっそりと横たわる湧水池。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』()と著者()。は、挿画の「滄浪泉園」と「国分寺」。
◆写真中下:住谷磐根『点描 武蔵野』が出版されたのと同年の1974年(昭和49)に、わたしが小金井の国分寺崖線で撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下は、同じくハケの道沿いの風景。は、金蔵院の墓地周辺に展開していた武蔵野原生林。は、恋ヶ窪にある湧水源の姿見の池から流れでる野川の源流域。
おまけ
 国分寺・恋ヶ窪の日立中央研究所内にある、2014年(平成26)に公開された姿見の池。野川の湧水源であり、大岡昇平が目にした風景がそのまま残されている。この池から流れでた湧水が、上掲のモノクロ写真に写るような野川の源流域を形成していた。近年、研究所内で立入禁止の姿見の池に代わり、観光客用に新「姿見の池」が設置されているようだ。
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東京府知事だった千家尊福の仕事。

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 かなり前、出雲国造(こくぞう)Click!千家尊福(たかとみ)Click!が東京府知事に就任していたのを記事にしたことがある。彼は、明治政府に「武蔵一宮」と規定された大宮・氷川明神社(元神:スサノオ/地主神:アラハバキClick!)のある埼玉県知事や、江戸期における徳川家Click!(世良田氏Click!)の拠点であり出雲社・氷川社が散在する静岡県知事をつとめたあと、江戸東京総鎮守の神田明神Click!(元神:オオクニヌシ=オオナムチ/地主神:平将門Click!)がある東京府知事と、出雲Click!とのつながりが深い地域の知事を歴任している。
 その後、千家尊福の息子で詩人の千家元麿Click!が、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に自邸Click!をかまえて住んでいた関係から、拙サイトでもしばしば記事に取りあげてきたが、父親についてはあまり触れてこなかった。先年、水谷嘉弘様Click!を介して村上邦治様より、著書『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年)をお贈りいただいた。(たいへん貴重な高著を、ありがとうございました。>村上様)
 明治以降、あらゆる神道の教導禁止(布教禁止)の政府布告から、神主は境内の掃除と社(やしろ)の維持管理、そして奉じられた神への祈祓ぐらいしか仕事がなくなってしまった。また、薩長政府による「神社合祀令」のもとで数多くの地主神Click!を奉る社(やしろ)が廃止となり、“日本の神殺し”政策Click!が全国各地で盛んに行われていた時期でもある。千家尊福は、出雲国造や出雲大社宮司から出雲大社教の教主となり、いわゆる伊勢神道中心の正教一体化(戦後用語の「国家神道」化)に強く反対して、貴族院議員となったのちは政治家として神道とは別の地道な活動を展開し、政治から身を引いたあとは東京鉄道株式会社の社長として、東京の私営路面鉄道を東京市へ移譲する仕事をやりとげている。
 きょうの記事は、貴族院議員となり同時に各地の府県知事や、司法相などを歴任した政治分野での活動や業績などについては、上記の『千家尊福伝―明治を駆け抜けた出雲国造―』をぜひ参照していただくことにして、東京府知事だった時代や世相にはどのような案件あるいは課題が存在し、千家府知事はどのように仕事をこなしていたのか、その一端を地域中心のミクロな視野からほんの少しだけ探ってみたい。
 千家尊福が東京府知事に就任していたのは、1898年(明治31)から1908年(明治41)のおよそ10年の期間だった。当時、府県知事を10年も勤めた人物はおらず、たいがいは2年前後のキャリアで別のポジションに異動するのが常だったが、彼は組織をうまく掌握して統率するリーダーシップに優れていたらしく、東京府自体が彼を手放さず、また政府側もその安定した自治実績により、彼を首都東京から異動させたがらなかったらしい。
 千家尊福の府知事時代には日露戦争が勃発し、かろうじて日本は勝利したものの、政府は戦費調達用に発行した外債の償還が困難となり、もはや破産寸前の状態にあった。また、「圧倒的な勝利」と煽情的な報道をつづけたマスコミのせいか、ポーツマス条約に反対する市民が日比谷焼き討ち事件を起こすなど、東京には不穏な世相がつづいていた。東京府も、また中央政府もこれらの困難や課題をうまく調整・解決し、乗り越えられるのは千家尊福しかいないと見ていたようだ。ちなみに、当時の知事は今日のように選挙で選ばれるのではなく、政府による任命制だった。
 国立公文書館の資料を参照すると、千家尊福が東京府知事の在任中にこなしていた、多種多様な業務の様子が見えてくる。まず目につくのは、東京近海で遭難した難破船や行方不明者の捜索と、難破船から逃れたとみられる乗組員たちの保護および送還だ。当時は、民間の船舶が正確な海図を備えていることはほとんどなく、東京近海では座礁・沈没事故が多発していた。また、今日のように気象情報がないので、荒天で遭難する船舶も多かったらしい。千家府知事の在任中は、イギリスやロシア、あるいは東南アジアから来航した船舶とみられる乗組員たちが、東京府所轄の島々などに上陸・避難している。
 そのような船舶には、海外からの輸入品などが積まれていたが、それら物品の輸入可否を政府とともに審議するのも、東京府の重要な仕事だった。また、船の難破でときどき漂流民が上陸していた、東京からはるか南に点在する小笠原諸島(無人島:ぶにんじま)の正確な測量も、陸軍参謀本部の陸地測量部Click!とともに東京府の業務のひとつだった。また、東京府では不足する市街地に近い用地を拡げるために、このころから東京湾の埋め立て事業も盛んに行われている。市街地では、より広い用地を確保するため東京市や政府と協議しながら、千代田城Click!桝形(石垣)Click!の撤去と外濠の埋め立て事業Click!も進められた。
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 千家府知事は、さまざまな建設事業にもかかわっている。市街地化が進んだ地域から火葬場の郊外移転や斎場の新設、府立墓地Click!の新設や拡張造成、千葉県との境を流れる江戸川へ新たな橋梁の建設、政府と協議のうえで各国の公使館や大使館を建設するための敷地確保、電燈線・電力線Click!電話線Click!の系統網の整備、上野公園で予定されていた東京勧業博覧会の準備と日露戦争による中止、そして再び開催のための準備など、おそらく政府や東京市と協議のうえ決裁しなければならない案件が目白押しだったとみられる。
 変わったところでは、府立中学校の体育用に陸軍の旧式銃器(村田銃など)の払い下げ申請や、同中学校による横須賀造船廠(のち横須賀海軍工廠Click!)と停泊する軍艦の社会見学(遠足)申請、日露戦争がらみでは東京湾で行われる海軍凱旋観艦式や陸軍凱旋祝賀会への出席、いまだ東京市の一部で上水道として支管や枡Click!が使われていた、神田上水Click!の廃止と東京府への払い下げ問題、東京各地に残る官有地の府有地への移譲など、明治以降に活発化した教育や都市の近代化への案件が多々見られる。
 また、東京府内へのキリスト教会設置も、当時は府や市による認可制だったため、出雲大社の宮司で神道家だった千家尊福は、複雑な思いで次々と申請される設置許可の決裁書類に署名・捺印していたのではないだろうか。それらキリスト教会との関連が深い、東京府内の居留地Click!に住む滞日外国人のうち、租税を払わず滞納している人物から税金を取り立てるのも、府知事の重要な業務のひとつだった。
 おそらく知事机には毎日、決裁しなければならない書類が山積みにされていたとみられるが、書類に署名・捺印するだけであとは部下に委任してなにもしない、当時の一般的な知事と千家尊福が大きく異なるのは、自身が疑問をもったテーマやなんらかの対立で紛争がらみの案件があると、自身で現場に足を運び当事者たちから直接事情を聞いては判断基準にしていたことだ。登庁時と退庁時のほかは、知事室や庁内から一歩も出ない知事が一般的な時代に、千家府知事の仕事のしかたは破天荒かつ異例だった。
 府知事の姿などかつて一度も見たこともなかった東京市民たちは、あちらこちらの現場で調査・取材をする知事の姿を見かけるようになり、薩長の藩閥政府に猛反発をつづけていた江戸東京市民も、神田明神の主柱であるオオクニヌシの故郷Click!からやってきた千家尊福には親しみをおぼえたにちがいない。東京府内で厄介な行政課題が持ちあがると、多くの現場では千家尊福の姿が見られるようになった。それが対立的な案件であれば、双方から事情聴取をしてできるだけ公平な決裁をするようにしていたようだ。
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 府知事に在任中、千家尊福の頭をもっとも悩ませたのは東京市街を走る私営電気鉄道の統合問題だった。その様子を、いただいた上掲の『千家尊福伝』から引用してみよう。
  
 東京で路面電車の開始・普及が遅れたのは、利権を巡り多くの会社で出願競争が起こり、政府が調整出来なかったことが最大の原因であった。馬車で運行していた東京馬車鉄道(改進党大隈系牟田口元学)、東京電気鉄道(大物実業家日本製粉創業者雨宮敬次郎)、東京電車鉄道(三井系藤原雷太)、東京自動鉄道(政友会星系利光鶴松)、川崎電気鉄道(三菱郵船系)の五社が乱立、一方東京市においても市営化の構想を持っていたため、なかなか認可することができなかった。/この五社から電気鉄道、電車鉄道、自動鉄道の三社がまず合併し、東京市街鉄道(街鉄)となった。馬車鉄道は東京電車鉄道(電車、東電、電鉄などと言われた)に、川崎電気鉄道は東京電気鉄道(外濠線)に改称した。三社に集約されたことで、ようやく路面電車の認可が下り営業を開始、各社路線を伸長させた。
  
 だが、上記3社の間にはなんの協業体制も連絡もなく、東京市内には繁華街中心の統一性のない路線が次々に敷設され、また運賃の値上げ問題も大きな課題となっていった。こうした混乱状況の中、千家府知事と実業家の渋沢栄一は3社合併を勧奨し、1906年(明治39)には合併して東京鉄道(株)が誕生している。だが、新会社の社内にはまったく統一性がなく、経営陣は派閥による内部抗争を繰りひろげ、労働組合さえ別々の活動をするありさまで、内情は3社別々のままだった。株主総会では、会場で殴りあいや刃傷沙汰が発生するなど、混乱はずっと尾を引くことになってしまった。
 西園寺公望内閣の瓦解で、司法大臣を1年間だけつとめた千家尊福だが、1909年(明治42)に意外な話が持ちこまれた。10年間におよぶ東京府知事の経験を活かし、民間企業である東京鉄道の社長に就任してくれという、政府と東京市、さらには東京鉄道の役員会からの要請だった。企業経営などしたこともない彼は、おそらく面食らっただろう。だが、東京の路面電車を円滑に敷設し、運賃問題なども解決しながら公営化をめざすのは、自身が府知事だったころからの宿願だった。千家尊福は社長を引き受けると、府知事時代の仕事のしかたを踏襲し、社内の対立する組織や役員同士の融和や公平な決裁、政治家から持ちこまれる利権がらみの困難でややこしい事業は、交渉のフロントに立って対応した。
 面倒でむずかしい仕事や困難な案件を、社内外でも率先してこなす千家社長を見ていた役員や社員たちの間には、少しずつ一体感が生まれていったようだ。特に重要案件に関しては他人まかせにして責任を回避せず、自ら現場に出かけて粘り強く営業・交渉をつづける社長の姿を見て、社員たちの間に信頼感と社内統一の気運が生じていったのだろう。
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 こうして、府知事時代から懸案だった路面電車の東京市電化は、1911年(明治44)8月に東京鉄道社長の千家尊福と東京市長の尾崎行雄Click!との間で、ついに売買契約と引き継ぎ業務が完了した。東京鉄道の本社入口にあった「東京鐡道」の看板が外され、跡には「東京市電氣局」の看板が架けられた。ようやく東京市電(のち東京都電)が誕生したが、千家尊福は看板を見ながらすでに次のことを考えていた。キリスト教や新興宗教の流行で、徐々に衰退していた出雲大社教を盛り返すために、全国各地を巡教・講演してまわる計画だった。

◆写真上:王子駅方面へ向かい、飛鳥山電停の近くを走る都電荒川線のレトロ車両。
◆写真中上は、村上邦治『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年/)と晩年の千家尊福()。中左は、1901年(明治34)に神田上水の廃止について時期尚早とした千家尊福の意見書。中右は、1904年(明治37)に“麩”の輸入に関して出された取りはからい要望書。は、1885年(明治18)に撮影された小笠原諸島父島の街並み。
◆写真中下は、1905年(明治38)に東京湾の横浜沖で催された日露戦争海軍凱旋観艦式。は、1907年(明治40)に開催された東京勧業博覧会のポスター。は、1887年(明治20)ごろに撮影された旧・新橋駅前で待機する東京馬車鉄道。
◆写真下上左は、1899年(明治32)に千家尊福から出された市街鉄道建議書。上右は、1908年(明治41)に西園寺内閣が作成した千家尊福の司法大臣任命奏上書。は、上下2枚とも1900年(明治33)に作成された東京市内電気鉄道布設願摘要一覧。このリストは申請企業の一部にすぎず、数多くの企業が電気鉄道事業への参入を申請していた。は、大正初期に撮影された東京鉄道から移行したばかりの東京市電。

陸軍科学研究所の「安達部隊」1933。

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 昨年(2022年)に、従来は「石井部隊」Click!(偽名「東郷部隊」→関東軍防疫(給水部)Click!731部隊Click!)による人体実験と考えられていた、1933~1934年(昭和8~9)の「満洲」における「四平街試験場」(交通中隊内試験場)での出来事は、同部隊ではなく戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所(久村種樹所長時代)から派遣された、「安達部隊」による毒ガス実験であったことが、ふたりの研究者によってほぼ同時に解明されている。
 ふたりの研究者とは、戦後に731部隊の軌跡を徹底して追いつづけている神奈川大学名誉教授の常石敬一と、戸山ヶ原の陸軍軍医学校跡地で発見された人骨の究明に取り組む元・新宿区議の川村一之だ。前者は、高文研から出版された『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(2022年)で、また後者は不二出版から刊行された『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(2022年)で、期せずしてほぼ同時期に陸軍科学研究所の「安達部隊」へとたどり着いている。
 当時の石井部隊は、さまざまな細菌を収集して細菌兵器化へ向けた人体実験をするための準備と、実際に背蔭河へ「五常研究所」を建設し、偽名の「東郷部隊」として進出する準備とに追われていたはずで、「四平街試験場」に駐屯して人体実験をする必然性が感じられない点が、ふたりの研究者に大きな疑問を抱かせたとみられる。しかも、人体実験が細菌ではなく毒ガスだった点も、ことさら研究者たちの注意を引いたのだろう。
 そこで、この課題に対する調査資料となったのが、関東軍参謀本部の遠藤三郎が書いた日記、いわゆる「遠藤日記」を仔細に検討することだった。遠藤三郎は、11歳から91歳まで日々の出来事を記録しつづけており、日記は93冊(約15,000ページ)にまで及んでいる。ふたりの研究者は、ほぼ同時期に「遠藤日記」の記述に注目していた。
 常石敬一の『731部隊全史』から、日記の部分を含めて少し長いが引用してみよう。
  
 それに紛れ込む形で遠藤が安眠できなかった視察についての記載がある。一九三三年一一月一六日の記録だ。記述中の交通中隊が何かは不明だが、同行した安達の経歴が解明の手がかりとなるかもしれない。/(日記引用)一一月一六日(木)快晴 午前八時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実情を視察す。/第二班、毒瓦斯、毒液の試験、第一班、電気の試験等にわかれ各〇〇匪賊二(人)につき実験す。/ホスゲンによる五分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり、青酸一五ミリグラム注射のものは約二〇分間にて意識を失いたり。/二万ボルト電流による電圧は数回実験せると死に至らず、最後に注射により殺し第二人目は五千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。/午後一時半の列車にて帰京(満洲の新京)す。夜、塚田大佐と午後一一時半まで話し床につきしも安眠し得ず。(日記引用終わり)/安達と立花は陸軍科学研究所(略)の所員で二部の安達十九工兵大佐と一部の立花章一工兵中佐だ。(カッコ内引用者註)
  
 関東軍参謀の遠藤三郎が安眠できなくなるほどの、それは凄惨な人体実験だった。
 ここで、「ホスゲン」という毒ガスの名称が登場しているが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所Click!ではこの時期、さまざまな毒ガスの研究を行っていたとみられる。濱田煕Click!が描く戸山ヶ原Click!記録画Click!で、林立する煙突に独特な形状のフィルターが設置されていた情景が思い浮かぶ。同研究所では、ホスゲンを「あを剤」と呼称していた。
 ほかに、肺気腫から心不全を引き起こして死にいたらしめる毒ガスのジフェニルクロロアルシンを「あか剤」、皮膚や内臓に紊乱を起こすイペリット(マスタード)を「きい剤」、呼吸困難から窒息死させる青酸物質使用ガスを「ちゃ剤」などと呼んでいた。さらに、肺水腫を起こして窒息させる三塩化砒素(ルイサイト)、さらにマスタードと三塩化砒素を組み合わせたマスタード=ルイサイトなどの研究開発を行っている。これらの毒ガスは、のちに毒ガス工場で大量生産され実際の中国戦線へ投入されることになる。
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 陸軍科学研究所Click!の第二部は、もともと陸軍軍医学校の陸軍軍陣衛生学教室(のち化学兵器研究室併設)Click!からスタートしている。陸軍軍医学校の写真で、いちばん奥に見える4階建ての目立つビルがそれだ。その西側に位置する、731部隊の防疫研究室とは道路をはさんだ隣り同士で、アジア系とみられる大量の人骨が見つかったのは、軍陣衛生学教室の南側に建っていた標本図書室のすぐ東側だった。
 川村一之の『七三一部隊1931-1940』から、化学兵器研究について引用してみよう。
  
 もともと日本の化学兵器研究は小泉親彦が陸軍軍医学校で始め、毒ガスの基礎研究は陸軍科学研究所に引き継いでいる。石井四郎の細菌兵器研究の母体が陸軍軍医学校防疫部であり、後の防疫研究室であったのに対し、毒ガス研究は陸軍軍医学校の衛生学教室で始まり、化学兵器研究室が引き継ぎ、防毒マスクなどの研究を行なっていた。そのように考えると、石井四郎が毒ガス研究に関心を持つとは考えられない。/「日本陸軍省化学実験所満洲派遣隊」の名称から、考えられるのは陸軍科学研究所でしかない。日本の化学戦舞台であった関東軍化学部(第516部隊)が編成されるのはもう少し後のことになる。/このことから、陸軍科学研究所の「安達大佐」をキーマンとして調査することにした。
  
 実は、陸軍科学研究所第二部の大佐・安達十九と、第一部の中佐・立花章一は、すでに拙ブログへ登場している。1932年(昭和7)8月8日に作成された、下落合2080番地にいた久村種樹所長時代の陸軍科学研究所職員表Click!に両名とも掲載されている。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)について、川村一之は憲兵隊の証言記録からも詳細な“ウラ取り”を行なっている。それによれば、「安達試験場長ら24名」を中心に約60名の部隊が派遣され、多種多様な毒ガス実験が繰り返された。だが、1934年(昭和9)にひとりの被験者が脱走したことで、ジュネーブ議定書違反の毒ガス研究が露見するのを怖れた「安達部隊」は、急いで四平街から撤収している。これは、20名前後の被験者が逃亡した東郷部隊(=石井部隊)の、背蔭河における「五条研究所」の撤収と同様だった。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)からの「安達部隊」撤収は、いっさいの証拠を隠滅して行われ、留置場に監禁されていた残りの中国人被験者を5,000ボルトの電流で殺害あるいは失神させ、焼却炉に投げこんで焼殺している。この四平街における一連の人体実験と、戸山ヶ原の陸軍科学研究所でつづけられた「安達部隊」による研究開発が、既述のさまざまな毒ガス類を大量生産する大久野島の毒ガスプラント建設へと直結していく。
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 瀬戸内海に浮かぶ広島県大久野島は、現在では「うさぎ島」として知られており、数多くの野生ウサギ(1,000羽前後)が観光客からエサをもらってよくなつき、ヨーロッパやアジアからのインバウンドにも人気が高いスポットだ。大久野島は、陸軍の毒ガス製造工場が建設されると「地図から消された島」となり、以降、敗戦までルイサイトやマスタード=ルイサイト(「死の露」と呼ばれていた)、イペリットなどを製造していた。ジュネーブ議定書に署名(批准は1970年5月)していた日本は、それに違反する毒ガス製造の島全体を「なかったこと」にしてしまったのだ。ちなみに、陸軍科学研究所も昭和10年代には「地図から消され」、あたかも百人町の住宅街のように描かれている。
 以下の証言は、2017年(平成29)8月15日に放送されたNEWS23(TBS)の「私は毒ガスの“死の露”を造った」より、綾瀬はるかClick!の先年亡くなった藤本安馬へのインタビューによる。同工場には、工員になれば「給料をもらいながら学習ができる」という宣伝文句で、学業資金に困っていた多くの少年たちが集められ、また戦争末期には動員された女学生たちが数多く働いていた。工場の操業は24時間体制で、常時7,000人近い工員が勤務していた。だが、敗戦時までに毒ガスの漏えいなどで死亡した工員はのべ約3,700名、敗戦後も慢性気管支炎などの後遺症に苦しんだ人たちは約3,000名に及んだという。
 また、同工場に女学生として動員された岡田黎子は、友人が次々に身体を壊し死んでいくのを見ながら、毒ガスの詰められたドラム缶の運搬に従事していた。戦後、その体験を1994年(平成6)に草の根出版会から早乙女勝元・岡田黎子編『母と子でみる17/毒ガス島』と、2022年に22世紀アートから出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争-毒ガス島・ヒロシマ・少国民』として出版している。戦後、生き残った女学生たちは、全員が重度の慢性気管支炎を患っていた。
 番組では、大久野島で造られた毒ガスが中国戦線でどのように使われたのか、中国華北省北勝村での毒ガス弾の使用事例を取材している。同村では日本軍が村まで攻めてきた際、戦闘に巻きこまれないよう女性や子どもを中心に退避する地下壕がいくつか造られていたが、地下壕に次々と投げこまれた毒ガス弾によって約1,000名が死亡している。村の古老が指ししめす、膨大な犠牲者の名前が刻まれた石碑をカメラが追いつつ、いまだに日本への憎悪を抱きつづける古老の表情と言葉をとらえている。
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 少年工員として働いていた藤本安馬は、華北省北勝村に出かけて毒ガス製造に加担してしていたことを告白し、村民へ直接謝罪している。綾瀬はるかに現在の感慨を訊かれると、「毒ガスを造った、中国人を殺した、その事実を曲げることはできません」と答えている。

◆写真上:昭和初期のコンクリート片が随所に散らばる、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真中上は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(高文研/)と、川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(不二出版/)。は、1944年(昭和9)に撮影された戸山ヶ原の陸軍科学研究所。戸山ヶ原の名物だった一本松Click!は伐採され、研究所敷地は北側の上戸塚にある天祖社(旧位置)に迫るほどに拡大している。は、1932年(昭和7)8月8日に作成された陸軍科学研究所職員表。第二部と第一部に、安達十九と立花章一の名前が収録されている。
◆写真中下は、濱田煕の記憶画『戸山ヶ原』(1938年/部分)に描かれた袋状の特殊フィルターが設置された陸軍科学研究所の煙突群。毒ガスなどの開発で使用した器材を焼却する際、有毒な煤煙が住宅街へ流れるのを防ぐためだと思われる。は、1970年代半ばに撮影された旧・陸軍軍医学校の軍陣衛生学教室と防疫研究室の建物。は、1994年(平成6)に出版された早乙女勝元・岡田黎子編『毒ガス島』(草の根出版会/)と、2022年に出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争』(22世紀アート/)。
◆写真下中上は、大久野島に建設された陸軍毒ガス製造工場。中下は、陸軍が各地で実施した毒ガス戦演習。は、2017年(平成29)8月15日放送のNEWS23(TBS)「私は毒ガスの“死の露”を造った」より大久野島の現場で証言する工員だった故・藤本安馬。

「日本心霊学会」のスムーズな転身。

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 以前、上落合にある(財)日本心霊科学協会Click!について記事にしたことがある。大正時代の中期から後期にかけ、日本は「心霊」ブームのさなかにあった。それは、今日のようにオカルト的な視点からの「心霊」現象ばかりでなく、目に見えない存在あるいは目に見えない力に対する、自然科学や人文科学の視座からのアプローチによるもので、あくまでも不思議な現象をさまざまな仮説を立てて、科学的に検証しようとした時代だった。
 この点をよく念頭に置き、当時の「心霊」関連の団体や活動を見ないと足もとをすくわれることになる。先にご紹介した上落合の日本心霊科学協会は、おもに「霊界(幽霊)」の存在を肯定する立場からの活動だったが、同時期に京都で産声をあげた今回ご紹介する「日本心霊学会」の「心霊」は、その唯心論的な立場からおもに「霊力」、すなわち未知の「精神力」「治癒力」「自然力」の存在について科学的に究明する団体だった。
 だから、現在の精神分析医が用いる催眠術も、当時は「心霊」による効果(精神・治療力)現象としてとらえられており、パラサイコロジー(超心理学)分野のテーマであって、今日のオカルティズムやスピリチュアリズムとはかなり趣きが異なる点を考慮しないと、大きな勘ちがいを生じることになる。すでに原子や電子(素粒子)の存在は知られており、目に見えないそれらの「運動(力)」によってあらゆる世界や宇宙が存在・成立しているということは、人間の内部にも目に見えない力=「心霊(力)」Click!が存在している可能性が高い……と仮定した、科学的な追究であり証明へのプロセス(頓挫するが)だった。
 そう考えてくると、下落合356番地Click!に住んだ岡田虎二郎Click!「静坐法」Click!も、また下落合617番地に住んでいた「光波のデスバッチ」Click!で患者を治す劇作家の松居松翁Click!も、今日の目から見ればたいへん奇異に映るが、当時ははるかに社会へ説得力をもって受け入れられていたのだろうし、また本人たちも大マジメで治療あるいは施術を行なっていたのだろう。「病は気から」であり、身体の「元気」や「気力」が弱まれば「病気」がとりついて身体がむしばまれていくという考え方が、現在よりははるかに科学的な仮説やテーマとして語られていた時代だった。
 たとえば、「真怪」Click!(科学的に説明不能な現象)以外の幽霊話・妖怪譚・迷信などを全否定する、落合地域の西隣りに接する井上哲学堂Click!井上円了Click!は、ことさら催眠術や異常心理学に興味をしめしつづけたが、「病は気から」や「元気の素」など古来からいわれている有神論的な精神主義を、科学的な「心理療法」のなせるわざとして研究しつづけた人物でもあった。つまり、当時の言葉でいえば科学的な「心霊(精神)」力をもってすれば、病気の治療Click!には心理学的にたいへん有効かも……ということになる。
 ちょっと余談だけれど、井上円了Click!は英国のテーブルターニング理論を応用して、日本の「こっくりさん」を徹底して調査・研究し、生理的あるいは心理的な作用による現象のひとつだと解明(『妖怪玄談』など論文多数)していたはずだが、いまでは彼の科学的理論などとうに忘れ去られ、相変わらず「こっくりさん」や「ウィジャボード」は子どもたちを中心に好かれ、21世紀の今日でさえ「不思議」で「不可解」なおキツネさん現象などとして素直に受け入れられている。
 科学的な解明が、とうに行なわれているようなテーマであっても、人がそれを「受け入れたくない」「分かりたくない」あるいは「不思議大好き」というような心理が大きく働けば、科学がいかに“無力”であり「心霊」=精神の力が大きく作用するかの見本のような“遊び”だろう。つまり、目に見えない原子や電子が宇宙規模で存在して法則的な運動をしているのなら、いまだ科学的に解明されていないだけで、目に見えない「心霊」力=精神力を構成する微小物体の法則だっていつか見つかるはずだというのが、大正後期から昭和初期までつづく「心霊」ブームを支えていた共通認識であり、科学的な仮定にもとづく「一般論=世界観」だったのだ。この文脈を押さえないで、「ほんとにあった怖い話」とか「呪いの心霊ビデオ」の「心霊」と同一視すると、大きな勘ちがいをおかすことになる……ということだ。
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 だからこそ、岡田虎二郎の静坐法や藤田霊齋の息心調和法、松居松翁の光波のデスバッチなどが、それほどマユツバでウサン臭く見られもせず、むしろ知識人や芸術家、実業家、官僚、教育者など論理的な思考回路を備えているはずの人々に案外たやすく浸透し、数多くの信奉者(あるいは信者)を獲得できていったとみられる。すなわち、宗教の教理や礼拝環境もまた「心理療法」の一種だととらえれば、あながちマト外れではないのだろう。古くから治療のことを「手当て」というが、患部に手を当てただけで痛みが緩和する「気」がする、その「気」(心霊)について研究していたのが京都に本部を置く日本心霊学会だった。
 2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究』から、渡邊藤交による日本心霊学会の創立時の様子について引用してみよう。
  
 渡邊藤交(久吉)は明治四〇年前後に精神療法を学び、「心霊治療」を掲げて日本心霊学会を創始した。(中略) 当時、多数出現した霊術団体の中でも特に大規模な団体として知られていた。東京帝国大学心理学助教授で千里眼実験Click!や心霊研究で知られる福来友吉Click!、福来の協力者でもあった京都帝国大学精神科初代教授の今村新吉、日本の推理小説文壇の成立に貢献した医学者の小酒井不木などとも交流があり、仏教僧侶を中心に会員を増やしていった。大正期には「心霊」が社会を風靡した時代であり、文芸への影響も大きなものがあったが、その一角を担っていたのが、この日本心霊学会だったのである。
  
 また、大正期は民俗学の創生プロセスとも重なっており、日本心霊学会出版部の機関誌「日本心霊」には柳田國男Click!折口信夫Click!、西田直二郎らの研究も少なからず紹介されている。つまり、「心霊」治療を標榜する団体ではあっても、常にアカデミズムの自然科学や人文科学の諸分野とも結びつき、基盤のところで科学的な研究姿勢を崩さなかった側面が、同学会を大きく成長させた要因なのだろう。
 さらに、京都という地域の利をいかして薩長政府による廃仏毀釈以来、経営や事業に四苦八苦Click!しつづけていた仏教寺院の坊主Click!たちを、檀家や信徒たちに対する「心霊」治療の施術者として、全国的に取りこんでいった点にも、渡邊藤交をはじめ同学会出版部のターゲット設定とともに、優れたマーケティング戦略を感じる。
 1927年(昭和2)になると突然、日本心霊学会出版部は社名を変更している。この社名変更について、警視庁が隆盛をきわめた「心霊術」を取り締まる「療術講ニ関スル取締規則」を公布したからだとされているようだが、同規則の公布は1930年(昭和5)であって直接的には関係がないものと思われる。むしろ、大学を中心としたよりアカデミックな学術分野と結びつくためには、出版社の社名が「日本心霊学会」ではかなりマズイと考えたからだろう。
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日本心霊学会編「現在及将来の心霊研究」1918.jpg 今村新吉「神経衰弱に就て」1925.jpg
福来友吉「観念は生物なり」1925.jpg 福来友吉「精神統一の心理」1926.jpg
 日本心霊学会の病気患者に対する治療術について、同書より少し引用してみよう。
  
 まず、活元呼吸という特殊な呼吸法をおこなって「丹田に八分の程度で気力を湛えると、一種の波動的震動を起す」。「これが光波震動である。この震動と共に病気を治してやろうとする目的観念を旺盛たらしめねばならぬ。目的観念とは予め構成したる腹案を念想する、つまり一念を凝せば腹案は遂に力としての観念となるものである。而して此観念が術者の全身に伝わり指頭を通じて弱者、即ち病人の疾患部に光波として放射集注するのである。之が終って又呼気を新たにし光波震動を起し病者の心身に光波感応する。此刹那の感応が人心光波の交感である。福来博士の所謂観念力一跳の境である、心霊学者の所謂交霊であり心電感応の現象である」。
  
 なにをいっているのか、意味不明のチンプンカンプンで思考を停止せざるをえないが、この施術で檀家や信者からいくばくかの謝礼をもらえるとすれば、檀家の少ない寺や墓をもたない寺には、副収入のいいアルバイトぐらいにはなっただろう。
 さて、拙ブログをお読みの方々は、どこかで日本心霊学会の本をすでに読まれているのではないかと思う。哲学や思想関連でいえば、版権独占のサルトルあるいはボーヴォワールの全集や著作集は、この出版社からしか前世紀には刊行されていなかったし、さまざまな専門諸分野の書籍や文芸書、少しかためな学術書や研究書などで同出版社はおなじみだ。大学の教科書や必読書、参考資料に指定されることも少なくなく、わたしは学生時代にサルトルの『自由への道』や『嘔吐』、ボーヴォワールの『第二の性』などを読んでいる。そう、日本心霊学会の出版部は、そのままイコール人文書院だったのだ。
 日本心霊学会の機関誌「日本心霊」は、1915年(大正4)から1939年(昭和14)まで発行されているので、同誌を編集し発行していたのは人文書院ということになる。人文書院では、「心霊」ブームが下火になることを見こしてか、昭和期に入ると学術書や文芸書を積極的に出版していくことになる。戦前に執筆している人物には、既出の心霊学者たちはもちろん、拙サイトへ登場している人物だけでも佐々木信綱Click!金田一京助Click!中河與一Click!岸田国士Click!前田夕暮Click!岡本かの子Click!円地文子Click!相馬御風Click!古畑種基Click!太宰治Click!若林つやClick!室生犀星Click!真杉静枝Click!舟橋聖一Click!などなど、いちいち挙げきれないほどの人々が執筆している。
 人文書院が自ら出版した『「日本心霊学会」研究』(2022年)だが、掲載あるいは挿入されている出版書籍の広告にサルトルの『嘔吐』やS.アーメッドの『フェミニスト・キルジョイ』、W.ブラウン『新自由主義の廃墟で』、B.エリオ『中島敦文学論』、野村真理『ガリツィアのユダヤ人』、C.ブリー『レイシズム運動を理解する』などが紹介されているのに、思わず噴きだしてしまった。同書は、日本心霊学会について真摯な研究論文としてまとめ、テーマや課題別に整然と掲載しているのだけれど、真摯でマジメに論じれば論じるほど、どこかユーモラスな雰囲気がにじみ出てくるような気がしないでもない。
野村瑞城「霊の神秘力と病気」1924.jpg 野村瑞城「霊の活用と治病」1925.jpg
日本心霊学会編「『病は気から』の新研究」1926.jpg 小酒井不木「慢性病治療術」1927.jpg
サルトル「自由への道」1978.jpg 人文書院『「日本心霊学会」研究』2022.jpg
 日本心霊学会は、スマートかつ見事に学術専門のアカデミックな出版社へと脱皮し、戦後も順調に事業を継承してきた。それは、『漱石全集』を出すことで神田の古書店から学術出版社へと変貌した、岩波書店のように鮮やかだ。でも、日本心霊学会=人文書院と聞いてもいまだに消化しきれず、「ほんまに、たいがいにおしやす」の部分が残るのだけれど。w

◆写真上:病気の患者を心霊治療中の、日本心霊学会に所属する施術師。
◆写真中上は、日本心霊学会のバイブルだった1925年(大正14)出版の渡邊藤交『心霊治療秘書』()と渡邊藤交()。は、機関紙「日本心霊」の膨大な封入作業。は、壁一面に積み上げられた機関誌「日本心霊」の入った封筒。
◆写真中下は、荷馬車による機関誌「日本心霊」の郵便発送作業。中左は、1918年(大正7)に出版された日本心霊学会編『現在及将来の心霊研究』。中右は、1925年(大正14)出版の今村新吉『神経衰弱に就て』。は、1925年(大正14)に出版された福来友吉『観念は生物なり』()と、1926年(大正15)出版の同『精神統一の心理』()。
◆写真下は、1925年(大正13)に出版された野村瑞城『霊の神秘力と病気』()と、1925年(大正14)に出版された同『霊の活用と治病』()。中左は、1926年(大正15)に出版された日本心霊学会・編『「病は気から」の新研究』。中右は、1927年(昭和2)に出版された小酒井不木『慢性病治療術』。下左は、1978年(昭和53)に人文書院から出版されたサルトル『自由への道 第一部/分別ざかり』。下右は、2022年に人文書院から出版された栗田英彦・編『「日本心霊学会」研究―霊術団体から学術出版への道―』。

いくつになっても古書店めぐり。

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 わたしが通っていた大学の周囲には、50~60軒ほど古本屋が店をかまえていた。大学の教科書や、新刊本を扱う大小書店は最寄りの駅まで歩くと6~7軒はあったと思う。大学の出版部が刊行した学術書のみを扱う専門店もあったが、この店はおそらく大学の直営だったのだろう。学生時代には、軒を並べる古書店にずいぶんお世話になった。
 大学の講義で使う教科書は、たいがいその教授や講師が著した本を用いるので、講義がスタートする4月には揃えておかなければならない。最初の講義では、「教科書はこれを使うので、成〇堂で手に入れておくように」とかなんとか、実物を手にして書店を指定するのでマジメな学生はちゃんと新刊本を購入していた。わたしは、教科書に3,000円も払うのがもったいないので(そんなおカネがあれば好きな本やレコードが買えるのだ)、畢竟、古書店めぐりをすることになる。
 前年に受講した学生が、不要になった教科書を近くの古書店に売るのはめずらしくなかったので、何軒かまわるうちにたいがい見つかる。だが、古本屋の親父のほうでもその需要を見こんでいて、ちょっとボロでも半額ならうれしかったが、定価より2割ほど安いぐらいが関の山だった。毎年、講義で同じ教科書を使う先生ならいいが、中には「今年は、この教科書を使います。出版したばかりだからね、古本屋にいっても置いてないよ」と、年度が変わるごとにちがう教科書を指定する印税稼ぎのセコイ先生もいて、泣く泣く2,500円(LPレコード1枚の値段)だかを払って買った憶えもある。
 現在でも、大学の周辺にある主要な古書店は健在のようだが、当時に比べれば店舗数は半減しているように思う。新しくオープンした店は知らないが、いまでも営業をつづけている店は30軒前後だろうか。そういえば、わたしが入学した1970年代の半ばすぎに、古書店を舞台にしたドラマを大学近くの店舗で撮影していた。確かユニオン映画の作品だったと思うが、あちこちでロケをしていたような記憶がある。その古書店を探してみたら、相変わらず健在だったのがうれしい。
 この年になってもネットの古書店を巡回することが多いが、できるだけ安く本を手に入れるというよりも、調べものの資料探しという目的がほとんどだ。江戸期から大正中期ぐらいまでの本は、すでに著作権が切れているので国会図書館をはじめ、各種のデジタルデータやアーカイブのサイトで閲覧・ダウンロードすることができるけれど、大正末から昭和にかけての本は、古書店めぐりをしなければ手に入らないし読むことができない。
 新刊本の本屋でも古本屋でも、わたしは本屋が大好きだが、初めて書店に入ったのはいつごろだろうか。もっとも古い記憶は、海街Click!に住んでいた子どものころ(幼稚園時代だろう)、駅近くの大型書店(確かサクラ書店とかいった)で、ディズニーの豪華絵本Click!を母親に買ってもらったあたりだ。確か『ぺりとポロ』『シンデレラ』、それに『ダンボ』は憶えているが、男の子がこんな本を喜んで読むはずもなく放置され、少女時代に戦時中の「英米文化排斥」の中で育った母親の欲求充足で終わったにちがいない。
 小学生になると、その大型書店が毎月配達してくれる小学館の『少年少女世界の名作文学』全50巻をあてがわれたが、半分も読んでいないのではないだろうか。それでも印象に残っている作品といえば、ヴェルヌ『十五少年漂流記』『海底二万里』『八十日間世界一周』、ルブラン『綺巌城』、ファーブル『昆虫記』、ディケンズ『クリスマス=カロル』、トウェイン『トムソーヤの冒険』、ドイル『シャーロック=ホームズの冒険』、スチーブンソン『宝島』、ポー『こがね虫』『盗まれた手紙』……ぐらいだろうか。そもそも、同全集の第1回配本が第11巻のオルコット『若草物語』だったので、しょっぱなから読む気が失せて眠くなった。小学生の男子に、『若草物語』はどう考えても退屈きわまりない作品だろう。それに、「名作文学」などよりよほど面白いものがあったのだ。
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 そう、いわずとしれたマンガだ。当時は、カッパ・コミクス(光文社)になっていた『鉄腕アトム』と『鉄人28号』、「少年サンデー」(小学館)や「少年キング」(少年画報社)、「少年マガジン」(講談社)などをむさぼるように読んでいた。これらのマンガ類も、わざわざ書店へ買いにいかずに、配達員がとどけてくれたのを憶えている。そのうち、『おそ松くん』や『オバケのQ太郎』が連載されていた「少年サンデー」をよく読むようになったが、それも小学5~6年生になるころには飽きてしまった。それに代わって、俄然、興味がわいてきたのが推理小説と冒険・オカルト本Click!の類だ。
 わたしは、学校の図書室に入りびたりになり、今度は『世にもふしぎな物語』とか『まぼろしの怪獣』、『空とぶ円盤の謎』『幽霊を見た!』『恐怖の幽霊』『ネス湖の怪獣』……などなど、不思議な話や怖い話に惹きつけられた。これらの本は、子どもの本を多く出版していた偕成社や小学館のものが多かったように思う。冒険やSF、オカルトなどがブームになった背景には、怪奇・怪獣ブームに火を点けた円谷プロの「ウルトラQ」や「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」などが流行ったからだろうか。
 また、推理小説はご想像のとおりドイルの「ホームズ全集」やルブランの「ルパン全集」を、片っ端から読んでいった。これらの作品は、家にあったのを何度か読み返しているので、学校の図書室から借りだしたのではなく、いつもの書店からとどけてもらっていたように思う。当時は、ハヤカワ・ミステリ文庫やハヤカワ・ポケットミステリ(ともに早川書房)の全盛期で、推理小説ブームでもあったのだろう。中学時代を通じて、推理小説のマイブームはつづくことになる。
 推理小説を読んで刺激され、暗号をつくって解読しあう“暗号遊び”も、友だち同士でずいぶん流行った。期末試験が迫って忙しい、オトベ君の家に暗号をこしらえてもっていったら、試験勉強中だったらしく「そんなことしてる時間ないんだよう」と、迷惑顔されたのをいまでも憶えている。わたしは、期末試験でも忙しくないので(要するに学校のお勉強が大キライなので)、フラフラ遊びながら好きな本を読んでは妄想をふくらませていた。おそらく、子ども用に出版されていたドイルやルブランの作品は、すべて読みつくしていると思う。
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 以前、わたしが初めて書店で買った日本文学の作品は、旺文社文庫版の夏目漱石Click!『吾輩は猫である』Click!と書いたが、どこが面白いのかサッパリわからなかった(いまでもわからない)。推理小説では、東大の安田講堂事件があったころ初めて書店で手にした、創元推理文庫(東京創元社)で改版したての分厚いコリンズの『月長石』だった。確か友人に奨められたと思うのだが、あまりに長すぎて途中で投げだしたのを憶えている。
 その後、創元推理文庫はずいぶん読んだけれど、このころには江戸川乱歩Click!など日本の推理・怪奇作家の作品にも目を向けだしていた。近くの本屋さんへいくと、春陽文庫(春陽堂)のピンクも目に鮮やかな「江戸川乱歩名作集」がズラリと並び、少しエロチックで怪しげな装丁にも誘われて全巻を読んだ記憶がある。ついでに、「兄に頼まれたんですけどぉ~」とかなんとかいって、終刊間近な「ボーイズライフ」(小学館)を買って帰ったのも憶えている。金髪でビキニのお姉さんたちが、あちこちに登場する同誌だったが、残念ながら1970年ごろに廃刊になった。もちろん、わたしに兄などいない。
 「ボーイズライフ」は、おそらく高校生から少し上ぐらいまでの年齢層をターゲットにした、ハイティーン向けの総合雑誌だったのだろうが、当時の高校生はといえば毎週発刊される「週刊プレイボーイ」(集英社)や「平凡パンチ」(平凡出版)などのほうに流れ、おとなしい「ボーイズライフ」など買わなかったのだろう。確かにビキニのお姉さんよりは、裸のお姉さんのほうがいいに決まっている。ちょうど「少年チャンピオン」(秋田書店)が発刊されたころ、推理小説や冒険・SF小説のほうがよほど面白く感じていたわたしは、荒唐無稽で子どもっぽいマンガにまったく興味を失った。
 小学生のとき以来、いまでもマンガはほとんどまったく読まないのだが、いつだったか「なぜ読まないの? 大人が読んでも、読みごたえのある作品はたくさんあるよ」と訊かれ、答えに窮したことがあった。単に「つまんないから」では、ちょっとマンガ好きな相手に対して失礼になるので、「情景が規定されて面白くない」と答えたように思う。
 確かに、テキストの世界は想像をどこまでも野放図に拡げられ、物語をベースに自分自身ならではの世界を、頭の中へ自由自在に描きだし構築することができるが、マンガはどうしても描かれたイメージが先行してあらかじめ情景が規定・限定され、好き勝手に場面を想像できる余地が狭いかほとんどないに等しい。つまり、どのようなストーリーであるにせよ、自分で好き勝手に想像できず、舞台や場面を押しつけられるのが「つまんない」要因なのかもしれないな……と、すっかり“テキスト脳”になってしまったわたしは考えている。
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 書店で単行本が無理なく買えるようになったのは大学生のころからで、それまでは毎月の小遣いの中から捻出して、おもに文庫本を買っていた。高校1年生の夏休み、「倫理社会」の課題図書でパッペンハイムの『近代人の疎外』を買ったことがある。古くから岩波新書に入っている1冊で、このとき初めて新書本を手にしたのだと思う。でも、パッペンハイムさん(および翻訳者さん)には申しわけないが、「つまんない本におカネをつかってしまった、古本屋で買えばよかった」と、むしょうに腹が立って後悔したのを憶えている。(爆!)

◆写真上:古本屋の店先で、平積みの中に思わぬ貴重本が眠っていることもある。
◆写真中上は、小学生時代にあてがわれた「少年少女世界の名作文学」(小学館)第1回配本のオルコット『若草物語』。出鼻をくじかれた少女趣味の作品だが、同時に収録されたポーの作品は面白かった。中左は、長すぎて途中で投げだした中学生時代のコリンズ『月長石』(創元推理文庫)。中右は、「兄」に頼まれてたまに買った月刊「ボーイズライフ」(小学館)。は、懐かしい大学近くにあったかつての古書店街。
◆写真中下は、いかにも怪しげな装丁に惹かれた「江戸川乱歩名作集」(春陽文庫)。は、マンガより面白くなった「少年少女世界のノンフィクション」(偕成社)。は、いまだに電話番号の局番が3桁の同じく懐かしい古書店街の一画。
◆写真下上左は、小学生時代の「名探偵ホームズ」全集(偕成社)。上右は、懐かしい同時代の『怪盗ルパン』(講談社)。中左は、高校1年の夏休み課題図書だったパッペンハイム『近代人の疎外』(岩波新書)。いまなら面白く読めるのかもしれないが、当時は「つまんない」本の代表だった。中右は、同じ岩波新書でも面白かった杉浦明平のルポルタージュ『台風13号始末記』。は、学生時代にドラマのロケをしていた学生街の古書店。いつの間にリニューアルしたのか、当時とは比べものにならないほどキレイな店舗になっている。

もっとも早い時期の「武蔵野」写真集。

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 時代が大正期から昭和期に入ると、大震災の影響もあって東京郊外に残っていた武蔵野Click!の風情は、急速に姿を消していった。戦後になると、山手線の内外は住宅が密集し、もはや武蔵野と呼べるような風景は東京23区の外周域に後退していった。こちらでも、武蔵野については折りにつけ、その植生Click!織田一磨Click!『武蔵野風景』シリーズClick!、文学に登場する「武蔵野」Click!などさまざまな角度から触れてきている。
 そんな姿を消しつつあった武蔵野を、まとめて写真で記録しようとする動きが1932年(昭和7)に企画されている。それまでは、いわゆる「武蔵野」の農村地帯は東京郊外に出ればどこでも見られる、ありふれた日常風景だった。画道具を抱えた洋画家が、ときたま風景画を制作Click!するため写生に訪れるぐらいだったろう。そんな風景を、個人的に撮影していた人物はいたかもしれないが、急速に変貌しつつある武蔵野の風情を、組織的な企画で大勢のカメラマンがいっせいに撮影してまわったのは、このときが初めてだったろう。
 組織名は「日本写真会」といい、セミプロやアマチュアの写真家たちが集うカメラ愛好家組織だった。日本写真会は、月ごとに例会を開催していたが、ときに撮影するテーマを決めては作品を持ち寄って、お互いに批評しあうような活動もしていた。1932年(昭和7)11月の例会では、「失はれ行く武蔵野及郷土の風物」というテーマが出題された。
 同年から翌年にかけ、多くの会員たちは東京の郊外へ出かけて、急速に宅地化が進んで消滅しつつある武蔵野風景を撮影し記録しつづけた。そして、1933年(昭和8)には合評会が開かれているのだろうが、持ち寄られた膨大な武蔵野の写真は特に写真集にするでもなく、そのまま“お蔵入り”となった。これらの写真作品が、再び写真集として陽の目を見るのは10年後、戦時中で新たな出版企画が立てにくくなった1943年(昭和18)のことだった。ただし、写真集の編集は1942年(昭和17)春ごろには終了しており、出版まで時間がかかったのは用紙とインクの配給が戦時で思うように進まなかったせいだろう。
 1932年(昭和7)現在で、「武蔵野」の風情が色濃く残る地域といわれているのは、わたしの世代で「武蔵野」Click!らしいと認識していたエリアよりもかなり内側、東京市街地に近い山手線からそれほど離れていない外側の一帯だ。すなわち、1932年(昭和7)に東京35区制Click!へ移行した自治体の名称でいえば、中野区をはじめ目黒区、杉並区、世田谷区、練馬区、板橋区、葛飾区、蒲田区(現・大田区の一部)、さらに三鷹、調布といった地域だ。
 1943年(昭和18)に靖文社から出版された『武蔵野風物写真集』より、その編者であり日本写真会の幹事だった福原信三の「はしがき」から引用してみよう。
  
 武蔵野には武蔵野の風物があります。自然にも人世にも、そして此の人世といふ中にも、信仰や、衣食住や、職業、行為、其の他百般の人間の作つたもの等々……。しかも此れらは急テムポを以て淘汰されつゝあります。今日に於て是れらの記録を結集して置かなければ、幾年かの後には、地上から全く跡を絶つて、復た再び想像する事すら不可能となるのは言を俟ちません。敢て百年後の史家のみとは云はず、僅か五年の後、我等の予言の適中我等自ら驚く事がないとは誰にも断言し得ない處でありませう。
  
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 戦時中にもかかわらず、非常に質のよい半光沢のある用紙を使い(78年後の現在もほとんど褪色せず傷んでいない)、写真製版もきわめて精緻で高品質だ。これら武蔵野の鮮明な写真が撮影されてから、2021年でおよそ90年が経過しているが、ここに記録された風景のほぼすべてが消滅してしまった。かろうじて、それらしい姿をとどめているのは、日本写真会のカメラマンがさらに足を伸ばして撮影した、府中地域から以西や埼玉県の南西部、千葉県の西北部ぐらいだろうか。
 また、わたしが高校生のころに「武蔵野」と認識し撮影して歩いたエリアの風情も、そのほとんどが1980年代を境にたちまち姿を消していった。現在では、公園や緑地帯として保存された一部の例外的な区画に、かろうじて昔日の面影をとどめるだけだ。でも、それはごく狭いエリアに押しこめられた風景であり、雑木林の木々を透かして見えるのは、高層マンションや高速道路の高架、またはどこまでも連なる住宅街だったりする。
 写真集が出版された当時、世田谷区の成城に住んでいた柳田國男Click!は、同写真集の「序」で武蔵野の開発の様子をこんなふうに書いている。
  
 今日はもはやその昔の片影も残るまいと思つて居ると、稀にはまだ敏感なる技術家に見出されて後の世に伝へられるやうな、しほらしい場面もあつたといふことを知つたのである。私の今住んで居る西南郊外の丘陵地などは、ちやうど同じ大きな変化がまさに始まつて、すばらしい勢ひでそれが進行して居る。一週に一度ぐらゐは必ずこの間をあるきまはつて居るので、却つて以前とのちがひに心づくことが少ないが、静かに考へて見ると今あるいて居るのは皆新道で、それが両側の石垣生垣と共に、僅かな歳月のうちに尤もらしく落ちついてしまひ、一方にはそれと併行する榛(はん)の並木の細路が、段々に崩れてたゞの畔みたやうにならうとして居る。林がつて居たうちは必要であつた多くの路しるべの石塔も、拓かれて畠となつて見とほしがきくやうになれば、もはや不用だから知らぬ間に片付けられる。
  
 同写真集には、武蔵野の各地域にある特産物や名物、名品なども登場している。たとえば、豊島区では雑司ヶ谷鬼子母神Click!の茶屋で出されていた里芋の味噌田楽やすすきみみずくClick!、練馬のダイコン、深大寺Click!蕎麦Click!などだが、わたしが意外だったのは目黒のタケノコや竹林が何度も登場していることだ。写真を数えてみたら、目黒の竹林が3枚も収録されていた。同じ地域で同じテーマの写真が3枚は、同写真集でもめずらしい。
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 目黒村は、江戸時代からタケノコの名産地として知られているが、昭和初期になってもいまだ孟宗竹の竹林で採れるタケノコが、市場へ出荷されていたようだ。武蔵野の中でも、めずらしく昔から竹林(薮=やぶ)が多かった目黒では、開業する医者もことごとく薮ばかりと書いたのは、目黒川は太鼓橋の近くに住んでいた随筆家の磯萍水Click!(いそひょうすい)だ。「笑ひごとぢやない」と書いているので、過去に目黒の医者にかかってひどい目にあわされた、苦々しい経験でもあったのだろうか。
 写真集と同じ年、1943年(昭和18)に青磁社から出版された磯萍水『武蔵野風物志』から引用してみよう。ちなみに、このころには目黒の竹藪もだいぶ減少していたらしい。
  
 寔(まこと)に昔の目黒は栗の木と竹藪の天地、栗飯筍飯が名物だつたのも故ある哉であつた。その亡された筍の怨念か、未だに目黒の医者は薮ばかり、恐らくこの祟りは、目黒の名物は筍と、その噂の消えない限り、永久に、百年でも二百年でも、扁鵲(へんじゃく=古代中国の春秋戦国時代にいたとされる優れた医者)と雖も目黒で看板をかければ、忽然と薮にある、笑ひごとぢやない、何とも恐しい事ではないか。(カッコ内引用者註)
  
 目黒の“枕詞”はタケノコという、慣用的な表現がこの世から消滅しない限り、その祟りである医者の“薮”化は数百年はおろか永久につづくだろうとしているが、およそ1980年代には早くも自然消滅し、目黒の名産はタケノコだと聞けば、「ウッソ~ッ!」という人が大多数になったろう。だが、磯萍水が嘆息する薮医者の数も減ったかどうかは、1967年(昭和42)に死去した彼の追跡エッセイがないので、さだかではない。
 『武蔵野風物写真集』が特異なのは、同写真集を刊行したのが東京ではなく大阪の出版社だったことだ。靖文社は、天王寺区夕陽丘町20番地にあった会社だが、この手の書籍は東京でかなり売れるだろうと見こんだ、あえて戦略的な出版だったのだろうか。それとも、通常なら地元の出版社に持ちこむこのような企画だが、写真集に見あう用紙やインクの配給先(出版社)が東京では見つからず、大阪でようやく探し当てることができたからだろうか。
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 いずれにせよ、きわめて貴重な武蔵野の記録を残してくれたわけで、今日から見れば靖文社様々というところだろう。なぜなら、このあとの大空襲により、日本写真会の会員たちが東京に保管していたネガや写真の多くが、この世から永久に消滅してしまっただろうから。

◆写真上:埼玉県南部の志木付近で見つけた、昔日の武蔵野らしい風景の一画。
◆写真中上:以下、『武蔵野風物写真集』より1932年(昭和7)に記録された貴重な武蔵野風景のほんの一部をご紹介したい。からへ、世田谷区の砧、同じく下北沢に通う林間の小道、同じく瀬田の陸稲畑、同じく等々力、杉並区の西荻窪駅付近、同じく阿佐ヶ谷駅の付近、中野区の鷺宮の芋畑に設置されたネズミ除けの狐絵馬。
◆写真中下からへ、豊島区雑司ヶ谷の落ち葉焚き、板橋区の徳丸ヶ原、蒲田区(現・大田区)は下丸子の街道茶屋、葛飾区の水郷金町の池にみる水難除けの水神牛札、練馬区名物の大根干し、同じく練馬を貫通する清戸道Click!から志木街道への連続。
◆写真下からへ、目黒区大岡山は東京工業大学周辺のススキ原、同区名物の竹林3葉、三鷹駅近くの「四谷丸太」製造林、調布は深大寺参道の蕎麦屋。
おまけ
 同写真集には、残念ながら落合風景は収録されていないが、めずらしい風景も記録されている。1932年(昭和7)の当時、倒壊寸前だった千代田城Click!は和田倉門の最後の姿だ。関東大震災Click!で大きな被害を受けた和田倉門は、このあとほどなく解体されている。
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1年で心を入れかえた(?)『長崎町政概要』。

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 7年ほど前に、「『長崎町誌』に感じてしまう違和感」Click!という記事を書いたことがある。周辺の町々、たとえば、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』Click!をはじめ、1919年(大正8)の『高田村誌』Click!、1930年(昭和5)の『高田町政概要』Click!、1933年(昭和8)の『高田町史』Click!、1931年(昭和6)の『戸塚町誌』Click!、1933年(昭和8)の『中野町誌』Click!などと比べ、あまりに内容がなさすぎて貧弱だった。
 町役場の町長や幹部連をはじめ、長崎町の有力者、各学校の校長、郵便局長、青年団長、在郷軍人会長、椎名町町会長、国粋会などの地域ボス、なぜか他地域のお呼びでない区会議員(日本橋区会議員なのが恥ずかしい)、町誌の執筆者などが巻頭のグラビア全ページを飾り、それぞれ個人的な紹介と顕彰ばかりを本文中でも繰り返し、「町誌」とタイトルしてはいるが、まるで自己顕示欲充足メディアか選挙用の宣伝媒体パンフレットのような内容と化していた。きわめつけは巻末の町役場全職員名簿で、いったい町の様子や町民の暮らしはどこにいったのだ?……というような、非常にお寒いコンテンツだった。
 周辺地域の町誌史に比べ、あまりにもひどい内容なので上記の記事となったわけだが、『長崎町誌』の出版から1年足らずで、長崎町はもう一度『長崎町政概要』という名の書籍を出版している。そして、「町政概要」と名づけてはいるが、『長崎町誌』ではなぜかほとんど無視されていた長崎町の北部(町誌では長崎町の南部が中心)も含め、町の名所旧跡や伝承、行事なども町の地図などを挿入しながら詳しく紹介している。こちらのほうがよほど町誌らしい構成や体裁であり、事実『長崎町誌』とほとんど重複する記述(概要、地理、沿革、人口と戸数、行政財政、教育など)も多々みられるのだ。
 なぜ、2年つづけて「町誌」を出版するような、こんなムダなことをしているのだろうか? 最初は、『長崎町誌』ではいまだ長崎町2887番地に計画中だったとみられる、町政が注力していたライト風デザインClick!の新・長崎町役場が存在せず(『長崎町誌』出版時は、新庁舎予定敷地に隣接する日本家屋が仮庁舎だった)、その竣工を記念して『長崎町政概要』を改めて作成しているのかと思ったが、正式な町役場庁舎の竣工時期はあらかじめ計画当初から判明していたはずだ。そのタイミングで『長崎町誌』を出版すれば、わずか11ヶ月ほどのズレでなんら問題はなかったはずだ。
 おそらく、町民たちから「なんだ、あの町誌は? 面(つら)洗ってつくり直せ!」という、少なからぬ不満の声が上がったのではないだろうか。「世界大恐慌で暮らしが厳しいというのに、あんなものに町民の血税を協賛出費したのか!?」という声が高まり、ついでに「この苦難の時代に、ライトを真似たオシャレな新庁舎を建設するカネがあるなら、町民の暮らしに還元しろ!」、「豪華なモダン新庁舎をつくるために、税金払ってんじゃねえぞ!」とかなんとか、住民たちの不満が爆発したのではなかろうか。事実、『長崎町政概要』は前年の『長崎町誌』とはまったく異なり、人物写真がただの1点もなければ、歯の浮くような美辞麗句を並べて町の有力者やボスたちを顕彰する文章も皆無となっている。
 なぜ、町民たちからの強い不満や抗議を感じるのかというと、『長崎町政概要』に「長崎町役場敷地並庁舎坪数及工費額調」という、別刷りのリーフレットが付録のように挿みこまれているからだ。つまり、今日でいうなら地上2階・地下1階の新庁舎建設に関する、建設総工費の項目別詳細報告書を情報公開したといったところだろう。
 町民から、「贅沢な新庁舎の建設に関して、われわれの税金がどのようにつかわれたのか明細を見せろ!」とか、「戸数も人口も多く、税収が倍近くもある隣りの落合町は、住宅に毛の生えたようなボロい町役場のまんまなのに、なんで長崎町はライトの自由学園Click!みたいな豪華庁舎が必要なんだよ!?」とか、怒りや不満が町役場にドッと寄せられたせいで、急遽、新庁舎建設にかかった経費概要を一般に公開せざるをえなくなり、急いでリーフレットを別刷りして『長崎町政概要』に挿みこんでいる……、そんな気配が濃厚なのだ。
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 これら町民の抗議や不満を意識したのか、『長崎町政概要』にはいわずもがなの「序」が、長崎町長の鴨下六郎によって書かれている。同概要より引用してみよう。
  
 町民相集つて、長崎町といふ一家を形成し、家族である町民が一致協力して、一家である本町は興る。換言すれば、我長崎町が完全に成長して行く為には何と云つても全町民の愛町心に愬へなければならぬ。/自分の住む郷土を尊敬し、愛護し、公共の為めには労苦をも惜まぬ町民の覚悟があつて初めて、大長崎町建設の目的は達しられる。
  
 要するに「愛だよ愛、それに犠牲精神」と、不満や抗議の声をつまらない感情論でかわそうとしているようだが、前年の『長崎町誌』を目にし建設中の豪華なライト風町役場を目の当たりにした町民たちは、こんな子どもだましの文章に納得できはしなかっただろう。町役場がなにをしようが、「ムダづかいを黙って見てるのが郷土愛なのか? おきゃがれてんだ!Click!」……と、かえって町民たちから強い反発を招いたのではないだろうか。
 『長崎町政概要』には、もうひとり協賛会長の岩崎満吉の「序」がつづくが、ライト風の新庁舎建設に関して、いいわけがましい文章がつづく。再び引用してみよう。
  
 昭和五年二月、町会に於て、役場庁舎改築の議を決し、木造二階建本館及付属建物総延坪二百四十八坪七合二勺の設計に基き四月十七日より工事を起し、茲に落成の運びに至つたことは、御同様慶賀に堪えない。殊に此の改築は、町債を起すことなく、全町民の自力を以て、之が実現を見たのであつて、より一層衷心より祝福するところである。只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾ありと雖比較的理想に近いものとして諒とすべきである。而も町費を以て及ばざる施設の一部を援助するの目的を以て、茲に協賛会が組織されたのであるが、これ又、町内有志諸賢の熱誠なる御協賛を辱ふし、相当の成果を挙げ得たことは、燃ゆるが如き愛町心の発露を雄弁に物語るものであり、当事者として、感謝に辞なきところである。(赤文字引用者註)
  
 長崎町役場の庁舎は、まったくの新築だったはずなのに、あえて「改築」などと言い換えている点にも留意したい。モダンでオシャレな新庁舎なのに、いくら「改築」だと言葉だけ変えても町民の目はごまかされず、まったく納得も了解も得られなかったのではないか。
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 この一文で、コトのなりゆきがなんとなく透けて見えてくる。町議会で、町債の発行を前提とせず町費のキャパシティを超えるような、新庁舎の予算が計上されることなどありえない。当初に予定されていた膨大な建設予算が、町民たちからの抗議や異議申し立てのせいで、途中から見直さざるをえず減額縮小されたのだ。そのため急遽、町の有力者で構成された「協賛会」を設置せざるをえなくなった。この協賛会自体も、豪華な庁舎建設を推進した町長や、長崎町議会議員たちが重ねて名前を連ねているのだろう。
 「只予算の関係上、時代の進運に添はざる憾あり」とは、その設計や意匠から建物の構造が当初は庁舎全体、あるいはその大部分を鉄筋コンクリート造りにする計画だったと思われる。なぜなら、基礎工事から地下室の建設まで、すべての工程がRC(鉄筋コンクリート)構造で進められていたからだ。ところが、工事がスタートしてしばらくしてから、「なぜ、そんな豪華な町役場が必要なのか?」という声が、町のあちこちから強まりだしたのだろう。そこで、上部の2階建ての庁舎は木造モルタル構造(大谷石外壁)に変更して予算を緊縮し、それでも足りない経費は「協賛会」を組織して募金しているように見える。
 また、新庁舎問題とは別に、前年の『長崎町誌』に対する不平不満も、住民たちから数多く寄せられたにちがいない。「金剛院や長崎神社が載ってるのに、なんで天祖神社や五郎窪稲荷神社を無視しゃがるんだよ!?」と、各社の町内氏子連はこぞって抗議の声を上げただろうし、長崎富士Click!を掲載してるのに「なんで粟島弁天社や千川上水の史跡や、地蔵堂や観音堂を素どおりするんだよ!?」と、長崎町の中北部からは不満の声が頻々と聞こえてきただろう。『長崎町政概要』には、ようやく町内全体をなんとかカバーできる主だった旧跡・史蹟・石碑などが、地図とともに紹介されている。ただし、五郎窪(五郎久保)稲荷社Click!はなぜか今回も取りあげられていない。
 『長崎町政概要』(長崎町役場)のライターは、『長崎町誌』(国民自治会)と同じく長崎町大和田2118番地の塩田忠敬だが、今回は自身のポートレートを巻頭グラビアにちゃっかり1ページ挿入して掲載などしていない。w 町誌が出てから半年もたたないのに、再びオーダーを受け「また書くんですか? ほう、今度は町政と町の歴史や史蹟を中心にですね」と引き受けた彼は、1929年(昭和4)の暮れから1930年(昭和5)の前半期にかけて町内で起きた、さまざまな動向や騒動のたぐいを熟知していただろう。「1年足らずで町誌を二度も書けて、ギャラをもう一度もらえるんだから、ま、いっか」とホクホク顔だったのかもしれない。
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 豪華でオシャレな新・長崎町役場については、竣工直後の鮮明な外観や建物内部の写真が手に入ったので、『長崎町政概要』に挿みこまれた工費報告書と併せ、近いうちにご紹介したい。「おたくは自由学園か!」と周囲から突っこみを入れられそうなほど、ファサードから窓枠のデザインまで、自由学園の付属施設だと思うぐらいソックリなのだ。

◆写真上:こちらのほうが町誌らしい体裁の、1930年(昭和5)出版の『長崎町政概要』。
◆写真中上:『長崎町政概要』の目次で、折りこまれた全町の地図には公共施設や名所旧跡が記載されている。目次の内容は、前年の『長崎町誌』とほとんど変わらないが、町内の歴史や史蹟、伝承・伝説などのページが増加している。
◆写真中下は、実質の町誌らしく長崎町全域にわたって町内の公共施設や名所・旧跡が紹介された折りこみ「長崎町地図」。は、『長崎町政概要』の奥付。は、町誌らしい構成や記述が増えた『長崎町政概要』本文の一部。
◆写真下は、前年の『長崎町誌』ではパスされていた粟島社(粟島弁天社)。は、同じくパスされていた目白天祖社(長崎天祖宮)。は、著者の自宅からそれほど離れていないのに今回もなぜか取りあげられていない五郎窪(五郎久保)稲荷社。