先年、日本女子大の寮内敷地から近所へ遷座したといわれている、金山稲荷を探して雑司ヶ谷界隈をあちこち散策していたら、古書店を見つけたので入ってみた。古書ばかりでなく、アクセサリーや小物なども扱っている、ちょっと面白い店だった。
その店の書棚を眺めていたら、めずらしく大町桂月(大町芳衛)の『関東の山水』(博文館/1909年)を見つけたので購入してみた。通常の古書店で買えば、15,000~30,000円ほどする本だが、10分の1以下の値段だったし、明治末の関東各地の様子がわかりそうなのでつい買ってしまった。以前の記事にも書いたけれど、大町桂月は高知県が出自の人物だが、他所(よそ)の土地である江戸東京地方へ子どものころに転居して以来、この街をはじめ関東を小バカにし貶(おとし)めるような文章を書いているので、わたしとしては気に入らない人物のひとりだ。(だったら、なぜここに住むんだよ?) 彼の眼差しには、上方(関西)落語のマクラにさんざん使われた、江戸東京は「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同様のフィルターがかかっている感触をおぼえる。
しかも、雑司ヶ谷(現・南池袋)の法明寺裏にある古墳および鋳成神の中世における転化かもしれない、稲荷山(稲荷社)のことを「依然として」「東京の愚」と平然と書きしるし(『東京遊行記』大倉書店/1906年)、鬼子母神(きしもじん)の属する法明寺を一貫して「明法寺」と誤記しつづける無神経さには呆れた。このような他所の土地について無知な人間が、入谷や雑司ヶ谷の鬼子母神のことを「きしぼじん」などと、訛って発音しはじめたのではないかとつい疑ってしまう。あっ、なるほど、それを雑司ヶ谷の地元ではよくご存じなゆえに、大町桂月の著作物は棚の隅に置き、二束三文でたたき売りをしていた……という解釈もできそうだ。w
その店の書棚を眺めていたら、めずらしく大町桂月(大町芳衛)の『関東の山水』(博文館/1909年)を見つけたので購入してみた。通常の古書店で買えば、15,000~30,000円ほどする本だが、10分の1以下の値段だったし、明治末の関東各地の様子がわかりそうなのでつい買ってしまった。以前の記事にも書いたけれど、大町桂月は高知県が出自の人物だが、他所(よそ)の土地である江戸東京地方へ子どものころに転居して以来、この街をはじめ関東を小バカにし貶(おとし)めるような文章を書いているので、わたしとしては気に入らない人物のひとりだ。(だったら、なぜここに住むんだよ?) 彼の眼差しには、上方(関西)落語のマクラにさんざん使われた、江戸東京は「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同様のフィルターがかかっている感触をおぼえる。
しかも、雑司ヶ谷(現・南池袋)の法明寺裏にある古墳および鋳成神の中世における転化かもしれない、稲荷山(稲荷社)のことを「依然として」「東京の愚」と平然と書きしるし(『東京遊行記』大倉書店/1906年)、鬼子母神(きしもじん)の属する法明寺を一貫して「明法寺」と誤記しつづける無神経さには呆れた。このような他所の土地について無知な人間が、入谷や雑司ヶ谷の鬼子母神のことを「きしぼじん」などと、訛って発音しはじめたのではないかとつい疑ってしまう。あっ、なるほど、それを雑司ヶ谷の地元ではよくご存じなゆえに、大町桂月の著作物は棚の隅に置き、二束三文でたたき売りをしていた……という解釈もできそうだ。w
余談だが、現在の豊島区が刊行する資料をはじめ、東京メトロの雑司ヶ谷駅の案内も、鬼子母神(きしもじん)とルビをふるようになった。東京メトロは、表記に「鬼」のツノまで取っている念の入れようだ。これで相変わらず戦後の出所不明な訛った呼称、鬼子母神=「きし<ぼ>じん」などとしているのは、東京都の交通機関(都バス・都電荒川線)のみとなったわけだ。
また、与謝野晶子の「きみ死にたまふことなかれ」(「明星」9月号/1904年)を、「乱臣なり賊子なり」「国家の刑罰を加ふべきで罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」(「太陽」10月号/同年)などと、薩長政府の教育でアタマの中も眼も曇り、普遍的な人間の心理を探究するはずの文学表現について、「乱心」していたのはどっちだい?……などと思ってしまう。
そんな雑司ヶ谷を小バカにした人物の本が、当の雑司ヶ谷で売られているのも妙な具合だが、安いのにつられて衝動買いしてしまった。あまりケナしてばかりいてもなんだし、少しは良いところを見つけてみようと、思いたって手に入れた『関東の山水』だけれど、やはり関東の地元から見ればひっかかる文章、あるいは「はぁ?」と思ってしまう記述が散見される。きっと、家庭内での教育や慣習が江戸東京になじむことをせず、「土佐」のままだったのだろう。
大町桂月は、その昔は「名文家」といわれ(わたしには同時代の文筆家と比較してもそうは思えないが)、著述業界では「権威」だったそうだが、少なくとも自身にとっては他所の地方である基本的な、そして最低限の知識を仕入れてから書いてほしいものだ。そうでないと、現在のどこかの国の大統領のように、「権威」をベースにフェイク情報を乱発することになる。
そういえば、同書も博文館からの出版だが、以前にトンチンカンな江戸東京の食文化について書いた『大東京写真案内』(1933年)収録の「大東京の味覚」も、同社による出版物だった。博文館の編集部には、「これは絶対おかしいですよ」と指摘したり、ファクトチェックをする地元の人間がひとりもいなかったのだろうか? その土地の地理・地勢や風土、文化、言語、民俗、生活慣習などにはほとんど無頓着で、自身が出自の地方(大町桂月の場合は土佐)、あるいはその家庭内の価値観や思想などを安易にあてはめ、他所(よそ)の土地であるにもかかわらず「おかしい」「変」「愚なり」「妙なり」「怪しき」などと書きとばしたりすると、いかに「変」かつ「怪しき」ことになるか、自身の考えや観察眼が絶対だと自負しているらしい大町桂月は気づいていないようだ。
また、与謝野晶子の「きみ死にたまふことなかれ」(「明星」9月号/1904年)を、「乱臣なり賊子なり」「国家の刑罰を加ふべきで罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」(「太陽」10月号/同年)などと、薩長政府の教育でアタマの中も眼も曇り、普遍的な人間の心理を探究するはずの文学表現について、「乱心」していたのはどっちだい?……などと思ってしまう。
そんな雑司ヶ谷を小バカにした人物の本が、当の雑司ヶ谷で売られているのも妙な具合だが、安いのにつられて衝動買いしてしまった。あまりケナしてばかりいてもなんだし、少しは良いところを見つけてみようと、思いたって手に入れた『関東の山水』だけれど、やはり関東の地元から見ればひっかかる文章、あるいは「はぁ?」と思ってしまう記述が散見される。きっと、家庭内での教育や慣習が江戸東京になじむことをせず、「土佐」のままだったのだろう。
大町桂月は、その昔は「名文家」といわれ(わたしには同時代の文筆家と比較してもそうは思えないが)、著述業界では「権威」だったそうだが、少なくとも自身にとっては他所の地方である基本的な、そして最低限の知識を仕入れてから書いてほしいものだ。そうでないと、現在のどこかの国の大統領のように、「権威」をベースにフェイク情報を乱発することになる。
そういえば、同書も博文館からの出版だが、以前にトンチンカンな江戸東京の食文化について書いた『大東京写真案内』(1933年)収録の「大東京の味覚」も、同社による出版物だった。博文館の編集部には、「これは絶対おかしいですよ」と指摘したり、ファクトチェックをする地元の人間がひとりもいなかったのだろうか? その土地の地理・地勢や風土、文化、言語、民俗、生活慣習などにはほとんど無頓着で、自身が出自の地方(大町桂月の場合は土佐)、あるいはその家庭内の価値観や思想などを安易にあてはめ、他所(よそ)の土地であるにもかかわらず「おかしい」「変」「愚なり」「妙なり」「怪しき」などと書きとばしたりすると、いかに「変」かつ「怪しき」ことになるか、自身の考えや観察眼が絶対だと自負しているらしい大町桂月は気づいていないようだ。

こういう傲慢さを、なんと表現すればいいのだろうか……。先日、拙記事に登場してもらった、子母澤寛も腹にすえかねたらしい、長崎の永見徳太郎と同じ臭いがする。ただし、お断りしておくが、わたしは長崎と同様、土佐に意趣や恨みがあるわけではなく、むしろ太平洋に面したその土地柄や文化、風俗、言語はどちらかといえば好きで親しみをおぼえるし、女性の豪気な点も江戸東京の女子に似て好みなので、わたしには他所の地方である土佐のことを「愚」や「変」などと書く気は毛頭ない。問題は、たまたま高知県出身であるという、この大町桂月という男=人間(主体)についてのみだ。ここに代々暮らす人間からみれば、いくらでも批判したくなる、スキだらけの文章を不用意に書き散らしているから、ついそちらに注意が向いてしまうのだ。
おっと……、大町桂月の「少しは良いところを見つけて書いてみよう」と、冒頭で思いたったはずなのだが、またまた批判だらけで終わりそうなので、『関東の山水』の中で興味深いあるいは慧眼だと思った紀行文をご紹介していこう。同書には、ニホンオオカミで有名な秩父山系の三峰山が登場して、三峰社に参詣するくだりが描かれている。
その山道で、とある家族連れと出会い、病気平癒の参詣・祈願をする娘に目をとめている。急峻な山道にへばり気味な父親は、娘のことを「おとっさん」と呼んでいるので、この娘がなにかというと父親を「おとっさん、おとっさん」と頼っている様子がわかる。その口グセから、父親は娘のことを愛情こめて、つい「おとっさん」とあだ名したものだろう。同書より引用してみよう。
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一人の男のあへぎあへぎ行くに追ひ付く。三四十間さきには、其妻らしき人と其娘らしき人と導者らしき人と三人連りてゆく。『おとつさん足が早い』と、苦しき声して呼ぶ。あとつさんらしき人なし。よめたり、おとつさんは平生娘が己れを呼ぶより、転じて、こゝには娘の事になりたる也。それも十歳以下の娘なら、わけが聞ゆれど、二十歳を過ぎたる娘には、ちと、へん也。『足は一向平気なれど、胸が苦し。病人は却つて平気なり』とつぶやく。如何なる病気ぞといぶかりつゝ、その娘をも追ひ越す。十人並の顔付なれど、目付は、たゞならず、色青ざめて全く血の気無し。我を見て、忽ち立ちとゞまり、手を額に合せて、しきりに口を開閉すること、魚の噞喁(けんぎょう)するに似たり。いよいよ怪し。病気は、普通の病気にあらずして、精神病なるべし。
▲
時代は明治末だが、精神疾患は「キツネ憑き」だという迷信が、いまだ信じられていたころなのだろう。キツネが憑いているなら、オオカミ(大神)の社へ参拝すれば、キツネがおびえて逃げだし憑きものが落ちると考え、この家族は娘を連れてはるばる三峰社へやってきたと思われる。著者は「導者」と書いているが、関東風にいえば道案内をしているのは三峰社の御師(おし)だろう。三峰社への参詣が機縁で、この娘が正気に返るか暗示にかかり、平癒していればいいのだが。
おっと……、大町桂月の「少しは良いところを見つけて書いてみよう」と、冒頭で思いたったはずなのだが、またまた批判だらけで終わりそうなので、『関東の山水』の中で興味深いあるいは慧眼だと思った紀行文をご紹介していこう。同書には、ニホンオオカミで有名な秩父山系の三峰山が登場して、三峰社に参詣するくだりが描かれている。
その山道で、とある家族連れと出会い、病気平癒の参詣・祈願をする娘に目をとめている。急峻な山道にへばり気味な父親は、娘のことを「おとっさん」と呼んでいるので、この娘がなにかというと父親を「おとっさん、おとっさん」と頼っている様子がわかる。その口グセから、父親は娘のことを愛情こめて、つい「おとっさん」とあだ名したものだろう。同書より引用してみよう。
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一人の男のあへぎあへぎ行くに追ひ付く。三四十間さきには、其妻らしき人と其娘らしき人と導者らしき人と三人連りてゆく。『おとつさん足が早い』と、苦しき声して呼ぶ。あとつさんらしき人なし。よめたり、おとつさんは平生娘が己れを呼ぶより、転じて、こゝには娘の事になりたる也。それも十歳以下の娘なら、わけが聞ゆれど、二十歳を過ぎたる娘には、ちと、へん也。『足は一向平気なれど、胸が苦し。病人は却つて平気なり』とつぶやく。如何なる病気ぞといぶかりつゝ、その娘をも追ひ越す。十人並の顔付なれど、目付は、たゞならず、色青ざめて全く血の気無し。我を見て、忽ち立ちとゞまり、手を額に合せて、しきりに口を開閉すること、魚の噞喁(けんぎょう)するに似たり。いよいよ怪し。病気は、普通の病気にあらずして、精神病なるべし。
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時代は明治末だが、精神疾患は「キツネ憑き」だという迷信が、いまだ信じられていたころなのだろう。キツネが憑いているなら、オオカミ(大神)の社へ参拝すれば、キツネがおびえて逃げだし憑きものが落ちると考え、この家族は娘を連れてはるばる三峰社へやってきたと思われる。著者は「導者」と書いているが、関東風にいえば道案内をしているのは三峰社の御師(おし)だろう。三峰社への参詣が機縁で、この娘が正気に返るか暗示にかかり、平癒していればいいのだが。




大町桂月は、関東各地を歩いているけれど、どちらかといえば北関東や埼玉、千葉が中心で江戸東京や神奈川は相対的に取材先が少ない。執筆のボリュームからみても、江戸東京と神奈川に関しては、他県の半分あるいは3分の1ほどだ。東京や神奈川についての案内書は、当時からあまた出版されていたせいもあるのだろうが、おそらく彼は山歩きが好きだったらしく、海辺の街々に関する描写は、しごくアッサリとして淡白で少々もの足りない。
そんな著者の足どりだが神奈川県の海辺、鎌倉長谷の高徳院=鎌倉大仏を訪れたときの印象を書き残している。つづけて、『関東の山水』より引用してみよう。
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鎌倉は、関東の古都也。二十年前までは、正岡子規の『鎌倉や畑の中に月一つ』の観ありしが、今は人家たちつゞきて、古意うすらぎたり。長谷に大仏あり。鎌倉第一の美観也。否、日本第一の美観也。奈良の大仏は、更に大きく且つ古けれども、御顔は、江戸時代に出来たるものにて、鎌倉大仏に比すれば、大に劣れり。長谷観音も、亦偉大也。
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鎌倉は、史的に朝廷や公家政治の中心である都(みやこ)だったことはただの一度もなく、彼らに口だしをさせない実力を手に入れた、新たな階級である武家(サムライ)の中心地なので、「古都」という表現にはかなりひっかかりをおぼえるけれど、どうやら鎌倉では与謝野晶子の「美男におはす」の観察に、諸手をあげて賛同しているようだ。
また、相模湾の風光についても、ほんのわずかだが書き残している。おそらく各地の海岸を実際に探訪しているのではなく、汽車の窓から観察したていどの風景もずいぶん含まれているのだろう。ここでは、日本初の海水浴場だった大磯海岸が登場する箇所を引用してみよう。
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東京にて内海のみを見なれたるもの、一たび相州に入りて、外洋を見なば、頓(にわか)に目さむる心地するなるべし。真鶴、早川、小田原、酒匂、国府津、大磯、茅ヶ崎明治村、鵠沼、片瀬、鎌倉、逗子、葉山、三崎、松輪、大津など、沿岸到る処に海水浴あり。就中(なかんずく)、大磯を以て第一とす。宏大なる旅館多く、貴顕富豪の別荘も多し。
▲
上記はまったくおっしゃるとおりで、穏やかでなにごともなさそうな東京湾を眺めていると、たまには広大な太平洋を眺めたくなるので、欲求不満が日々堆積してくるのがわかる。でも、海底崩落のせいか安政大地震のときは、江戸湾岸に津波が押しよせたという伝承が地元にはあるのだが。
そんな著者の足どりだが神奈川県の海辺、鎌倉長谷の高徳院=鎌倉大仏を訪れたときの印象を書き残している。つづけて、『関東の山水』より引用してみよう。
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鎌倉は、関東の古都也。二十年前までは、正岡子規の『鎌倉や畑の中に月一つ』の観ありしが、今は人家たちつゞきて、古意うすらぎたり。長谷に大仏あり。鎌倉第一の美観也。否、日本第一の美観也。奈良の大仏は、更に大きく且つ古けれども、御顔は、江戸時代に出来たるものにて、鎌倉大仏に比すれば、大に劣れり。長谷観音も、亦偉大也。
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鎌倉は、史的に朝廷や公家政治の中心である都(みやこ)だったことはただの一度もなく、彼らに口だしをさせない実力を手に入れた、新たな階級である武家(サムライ)の中心地なので、「古都」という表現にはかなりひっかかりをおぼえるけれど、どうやら鎌倉では与謝野晶子の「美男におはす」の観察に、諸手をあげて賛同しているようだ。
また、相模湾の風光についても、ほんのわずかだが書き残している。おそらく各地の海岸を実際に探訪しているのではなく、汽車の窓から観察したていどの風景もずいぶん含まれているのだろう。ここでは、日本初の海水浴場だった大磯海岸が登場する箇所を引用してみよう。
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東京にて内海のみを見なれたるもの、一たび相州に入りて、外洋を見なば、頓(にわか)に目さむる心地するなるべし。真鶴、早川、小田原、酒匂、国府津、大磯、茅ヶ崎明治村、鵠沼、片瀬、鎌倉、逗子、葉山、三崎、松輪、大津など、沿岸到る処に海水浴あり。就中(なかんずく)、大磯を以て第一とす。宏大なる旅館多く、貴顕富豪の別荘も多し。
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上記はまったくおっしゃるとおりで、穏やかでなにごともなさそうな東京湾を眺めていると、たまには広大な太平洋を眺めたくなるので、欲求不満が日々堆積してくるのがわかる。でも、海底崩落のせいか安政大地震のときは、江戸湾岸に津波が押しよせたという伝承が地元にはあるのだが。
これは、わたしが海街の渚から100m余のところで15歳まで育ったせいだが、土佐の桂浜がなじみの大町桂月も、おそらく同様だったのだろう。はるか彼方から打ち寄せる波や水平線を眺めながら、ひがな1日なにも考えずにボーッとしていたい衝動が年に何度か襲ってくる。いや、たまにはイヌを連れた湘南女子や、ボードを抱えた波乗りガールを観察するのかもしれないけれど。w
◆写真上:雑司ヶ谷(現・南池袋)の法明寺裏に、ひっそりと奉られる威光山稲荷社の塚丘。
◆写真中上:上は、丘上から眺めたかつて横穴がいくつか見つかった丘麓。中上は、大正末か昭和初期ごろに撮影された秩父の街並み。中下は、ようやく朝からの農霧が晴れた秩父の街並み。下は、大町桂月も登攀した秩父と横瀬の境界にある武甲山。
◆写真中下:上は、1909年(明治42)出版の大町桂月『関東の山水』(博文館/左)と著者(右)。中上は、明治末の片瀬海岸で右端の島影はヨットハーバーができる前の江ノ島東端。中下は、明治末の葉山風景。下は、馬入川(相模川)の川岸から眺めた大山。
◆写真下:上は、長谷の長谷寺境内から眺めた鎌倉の海と逗子・葉山方面。中は、葉山の一色海岸から眺めた三浦半島方面。下は、大磯の小陶綾(こゆるぎ)ノ浜から眺めた伊豆半島方面。
◆写真中上:上は、丘上から眺めたかつて横穴がいくつか見つかった丘麓。中上は、大正末か昭和初期ごろに撮影された秩父の街並み。中下は、ようやく朝からの農霧が晴れた秩父の街並み。下は、大町桂月も登攀した秩父と横瀬の境界にある武甲山。
◆写真中下:上は、1909年(明治42)出版の大町桂月『関東の山水』(博文館/左)と著者(右)。中上は、明治末の片瀬海岸で右端の島影はヨットハーバーができる前の江ノ島東端。中下は、明治末の葉山風景。下は、馬入川(相模川)の川岸から眺めた大山。
◆写真下:上は、長谷の長谷寺境内から眺めた鎌倉の海と逗子・葉山方面。中は、葉山の一色海岸から眺めた三浦半島方面。下は、大磯の小陶綾(こゆるぎ)ノ浜から眺めた伊豆半島方面。
★おまけ1
最近は、雑司ヶ谷にしろ入谷にしろ「きし<ぼ>じん」などと訛った発音をする人が急増したせいか、それを正すために書籍も新聞も「きしもじん」とルビをふるようになったようだ。


★おまけ2
大町桂月は「愚なり」と書きつつ、晩年は気に入ったのか雑司ヶ谷町に住んでいる。自宅は護国寺も近い、雑司ヶ谷町108番地(現・目白台3丁目)だ。山登りをするのだろうか、自宅から旅に出る大町桂月の写真が残っている。この旅姿を、近所の子どもたちは「乞食」と呼んでいたそうだ。




























































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