
前回記事につづき、諸科学の成果による日本史の激変はまだまだある。わたしの世代では、日本列島の「弥生化」はイネの栽培とともに九州から西日本へ徐々に拡がり、やがて中部から関東、東北地方へと浸透していったと習っていた。ところが、弥生期を象徴する環濠(環柵)集落=ムラの形成は、青森や秋田など東北地方がもっとも早かったことがわかってきた。
そのメルクマールが前回写真を掲載した、山形県遊佐町の三崎山遺跡(縄文後期)から発見された青銅製の刀剣だろう。青銅器時代=弥生時代といわれていたのが、「無土器」「打製石器」が指標となっていた旧石器時代と同様に、「イネ」「青銅器」=弥生時代が崩れた瞬間だった。
そのメルクマールが前回写真を掲載した、山形県遊佐町の三崎山遺跡(縄文後期)から発見された青銅製の刀剣だろう。青銅器時代=弥生時代といわれていたのが、「無土器」「打製石器」が指標となっていた旧石器時代と同様に、「イネ」「青銅器」=弥生時代が崩れた瞬間だった。
また、前世紀末の発掘成果だが、弥生前期でもっとも豪華な墳墓が北海道にあったというのも衝撃だった。つまり、弥生文化=「弥生化」は西日本→東日本ではないということだ。これは、古墳時代以降へつづく東西の“家畜”の拡がりについてもいえる。西日本の「牛」文化に対して東日本は「馬」文化なのも、近年の成果をベースにしている日本史の側面だ。飼育する家畜により道具や武器=刀剣の“湾刀化”が進み、東北で「日本刀」が誕生した経緯はすでに記事にしていた。
北海道の釧路市街にある、幣前(ヌサマエ)橋のたもとで前世紀末に見つかった弥生期の共同墓地は、弥生時代の研究者におそらく最大の衝撃を与えただろう。その墓のひとつ89号墳には、わずか9歳ほどで死んだ男の子が埋葬されていたのだが、その副葬品が「ハンパない」ものだったのだ。同時期の日本列島の墳墓では、もっとも豪華な副葬品で彩られていた。琥珀(こはく)のビーズをはじめ、貝殻のビーズ、ベンケイガイやイノシシの牙でつくったペンダント類、各種土器、管玉など、日本各地から集めた素材でこしらえたアクセサリー類で埋まっていた。
上記の幣前橋遺跡に限らず、同じ弥生前期の北海道では豪華な副葬品をともなう墳墓が数多く発見されている。白老(シラオイ)町アヨロ遺跡(墳墓60基)では、出雲地方で産出する碧玉の管玉や、青灰色の磨製斧、琥珀製のビーズ(ペンダント)、色とりどりのアクセサリーや石鏃、磨きあげられたナイフや石銛など、従来の弥生墳墓では考えられなかった豪華絢爛な副葬品が、被葬者の人骨とともに見つかっている。弥生前期にみられる北海道の弥生遺跡について、2007年(平成19)に小学館から出版された松木武彦『日本の歴史/列島創世記』より、少しだけ引用してみよう。
▼
意外に思われるかもしれないが、弥生時代の前半にあたるこの時期で、もっとも華々しい副葬品をもつ墓がたくさん現れる地域は、北海道をおいてほかにない。副葬品の量やバラエティについていえば、後で詳しく述べる西日本弥生文化の代表・北部九州の社会を優にしのぐほどである。
▲
上記の発見は、弥生文化は「西日本→東日本」というこれまでの定説を、根底からくつがえすことになった。わたしが住む関東地方の遺跡、すなわち「弥生」時代という名称の発端となった本郷区(現・文京区)向ヶ丘の弥生町の遺跡をはじめ、ちょうど中間点となる関東の弥生遺跡群は、東北日本と西日本の双方からの影響を受けたシンクレティズム遺構が多いとみられる。
もう一度書くが旧石器時代はともかく、10000年前の縄文期からつづく全国各地の豊饒な日本の歴史を、近畿地方のみに視座をすえ他の地域や住民たちを「まつろわぬもの」や「夷(えびす)」、「蝦夷(えみし/えぞ)」、「土蜘蛛(つちぐも)」、「大蜘蛛」、北の一部は「粛慎(みしはせ)」、はては「国栖(くず)」などと称して蔑視し、文化的にも多彩で奥深く長大な自国の歴史に、泥を塗りつづける薩長政府の皇国史観は、わたしにとっては全的に廃棄したいテーマだ。それは、先述した魏国(中国)が抱く「中華思想」を無批判にサルマネしたミニ「近畿版」にすぎない。
また、東日本の縄文のついた弥生式土器(宮ノ台式土器など)は知られていたが、西日本でも明らかに縄文文化への回帰(ルネサンス)とみられる、あえて縄文を復活させた弥生式土器が多数発掘されている。弥生期の近畿地方の人々は、先祖から受け継がれた自分たちのアイデンティティを改めて確認したかったものか、盛んに縄文のついた弥生式土器を焼いている。すなわち、昔日の教科書にも見られた「弥生人」が渡来し、「縄文人」を圧倒しつつ弥生時代を創造したのではなく、日本列島にいた多くの住民たちが弥生文化を受け入れたが、先祖から受け継がれた文化をどこかに宿していたたため、縄文ルネサンス現象が全国の東西各地で起きているということのようだ。
北海道の釧路市街にある、幣前(ヌサマエ)橋のたもとで前世紀末に見つかった弥生期の共同墓地は、弥生時代の研究者におそらく最大の衝撃を与えただろう。その墓のひとつ89号墳には、わずか9歳ほどで死んだ男の子が埋葬されていたのだが、その副葬品が「ハンパない」ものだったのだ。同時期の日本列島の墳墓では、もっとも豪華な副葬品で彩られていた。琥珀(こはく)のビーズをはじめ、貝殻のビーズ、ベンケイガイやイノシシの牙でつくったペンダント類、各種土器、管玉など、日本各地から集めた素材でこしらえたアクセサリー類で埋まっていた。
上記の幣前橋遺跡に限らず、同じ弥生前期の北海道では豪華な副葬品をともなう墳墓が数多く発見されている。白老(シラオイ)町アヨロ遺跡(墳墓60基)では、出雲地方で産出する碧玉の管玉や、青灰色の磨製斧、琥珀製のビーズ(ペンダント)、色とりどりのアクセサリーや石鏃、磨きあげられたナイフや石銛など、従来の弥生墳墓では考えられなかった豪華絢爛な副葬品が、被葬者の人骨とともに見つかっている。弥生前期にみられる北海道の弥生遺跡について、2007年(平成19)に小学館から出版された松木武彦『日本の歴史/列島創世記』より、少しだけ引用してみよう。
▼
意外に思われるかもしれないが、弥生時代の前半にあたるこの時期で、もっとも華々しい副葬品をもつ墓がたくさん現れる地域は、北海道をおいてほかにない。副葬品の量やバラエティについていえば、後で詳しく述べる西日本弥生文化の代表・北部九州の社会を優にしのぐほどである。
▲
上記の発見は、弥生文化は「西日本→東日本」というこれまでの定説を、根底からくつがえすことになった。わたしが住む関東地方の遺跡、すなわち「弥生」時代という名称の発端となった本郷区(現・文京区)向ヶ丘の弥生町の遺跡をはじめ、ちょうど中間点となる関東の弥生遺跡群は、東北日本と西日本の双方からの影響を受けたシンクレティズム遺構が多いとみられる。
もう一度書くが旧石器時代はともかく、10000年前の縄文期からつづく全国各地の豊饒な日本の歴史を、近畿地方のみに視座をすえ他の地域や住民たちを「まつろわぬもの」や「夷(えびす)」、「蝦夷(えみし/えぞ)」、「土蜘蛛(つちぐも)」、「大蜘蛛」、北の一部は「粛慎(みしはせ)」、はては「国栖(くず)」などと称して蔑視し、文化的にも多彩で奥深く長大な自国の歴史に、泥を塗りつづける薩長政府の皇国史観は、わたしにとっては全的に廃棄したいテーマだ。それは、先述した魏国(中国)が抱く「中華思想」を無批判にサルマネしたミニ「近畿版」にすぎない。
また、東日本の縄文のついた弥生式土器(宮ノ台式土器など)は知られていたが、西日本でも明らかに縄文文化への回帰(ルネサンス)とみられる、あえて縄文を復活させた弥生式土器が多数発掘されている。弥生期の近畿地方の人々は、先祖から受け継がれた自分たちのアイデンティティを改めて確認したかったものか、盛んに縄文のついた弥生式土器を焼いている。すなわち、昔日の教科書にも見られた「弥生人」が渡来し、「縄文人」を圧倒しつつ弥生時代を創造したのではなく、日本列島にいた多くの住民たちが弥生文化を受け入れたが、先祖から受け継がれた文化をどこかに宿していたたため、縄文ルネサンス現象が全国の東西各地で起きているということのようだ。



拙ブログでは、関東の古墳あるいは古墳時代について、また奈良~鎌倉期のエピソードについてはつれづれ記事にしているので、ここは鎌倉時代直後の武家社会にまで時代をグッと下げて書いてみよう。バズワードでいえば、いわゆる「サムライ」の世界だ
古い書籍や資料などには、北関東の足利氏や新田・世良田氏(のち徳川氏)によって関東の中心地だった鎌倉幕府が滅亡したあと、足利氏が関東ではなく京の室町に幕府を開いたため、関東は再び静寂な武蔵野の風情や原野にもどったかのように、従来の「日本史」では語られてきた。たとえば、2008年(平成20)に未来社から刊行された宮本常一『私の日本地図⑩武蔵野・青梅』(執筆時点は1970年ごろ)には、関東の鎌倉街道や鎌倉支道について次のような記述が見えている。
▼
この道すじ(鎌倉街道沿い)には中山道や東海道とはちがった文化が存在していたことが推定せられる。しかし、それがどのようなものであるかということについての解明はまだなされていない。/関東平野の人びとが鎌倉との縁がきれて、南北の道を歩くことが少なくなってもそこに何かが残り、また醸成されていったはずである。(カッコ内引用者註)
▲
鎌倉幕府の滅亡後、関東をタテヨコに結ぶ各鎌倉街道は「歩くことが少なくな」るどころか、むしろ鎌倉期以上に人々の往来が激しくなることを、当時の宮本常一は知るよしもなかった。1970年以降まで語られることが少なかった、あるいは薩長政府によって消去され「なかったこと」にされていた、鎌倉幕府の崩壊からしばらくして日本を二分する、関東と近畿の30年戦争「亨徳の乱」がほどなく勃発していた。そして、それにともない江戸や川越、小田原、岩槻などの大規模な城下町が形成され、軍事・物流・商業ルートとしての街道筋の重要性は急速に増していく。
よく、「戦国時代」の幕開けは京で起きた応仁・文明の乱などといわれてきたが、これも近畿地方を視座の中心にすえた皇国史観の一例だろう。応仁・文明の乱は、亨徳の乱への対応に関する室町幕府内の対立から派生した局地戦にすぎない。戦国時代のはじまりは、明らかに「下剋上」あるいは「上剋下」をともなう関東の亨徳の乱からスタートしている。
家臣が主君を裏切って権力を奪取する「下剋上」はもちろん、力をつけて主君の勢力を上まわるようになった家臣を、事前に謀殺する「上剋下」が亨徳の乱では続出している。連戦連勝で無敗のまま大規模な江戸城を建設した太田道灌は、川越城を本拠としていた主君の関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の勢力をしのぐようになり、「下剋上」を怖れられて暗殺されている。亨徳の乱は、関東地方はおろか駿河の今川氏や甲斐の武田氏、伊豆の伊勢氏(後北条氏)、越後・越中の長尾氏、さらには東北勢の各国まで巻きこんだ東日本全域の大規模な戦乱であり、戦闘の範囲や規模も局地戦の応仁・文明の乱とはケタちがいだった。
足利幕府は、もちろん出自の北関東ではなく京の室町にあったのだが、関東の足利氏の拠点は「鎌倉公方」という形式のもと鎌倉にあった。だが、鎌倉公方は関東全域さらには東北などの武家社会全体の統率者であり、鎌倉公方=室町時代の「鎌倉幕府」と位置づけたほうが理解が早いだろうか。すなわち、京にあった足利氏の室町幕府と、同族の足利氏による「鎌倉幕府」との分割支配体制=東西対立が、亨徳の乱という大規模な東西30年戦争の本質だろう。2017年(平成29)に講談社から出版の峰岸純夫『亨徳の乱-中世東国の「三十年戦争」』より、少し長いが引用してみよう。
▼
◎戦国時代は応仁・文明の乱より十三年早く、関東から始まった/◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである/この内乱(関東の大乱)は、単に関東における古河公方(元・鎌倉公方)と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに一九六〇年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「十五世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。/(足利)成氏は(室町)幕府方と交戦する二十八年間に、享徳以降、康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と、六度も改元されたにもかかわらず、中央政権への抵抗という意味で享徳年号を連続して使用しつづけた。(カッコ内引用者註)
▲
つまり、東日本の古河公方(元・鎌倉公方)側は、京の幕府による改元を拒否して30年近くも「享徳」年号を使いつづけ、東日本は一種の独立国のような体をなしていた。換言すれば、古河(鎌倉)公方側へ味方した関東の領主や一揆(武士団)たちは、書状(手紙)のタイムスタンプに「享徳〇〇年」を記しつづけている。これまで見つかっている書状の中で、もっとも新しいタイムスタンプのものは享徳27年4月7日の「安保氏康文書」だが、さらに後年のものもあるかもしれない。ちなみに、「一揆」というワード本来の意味は、同じ目的をもって行動する団体あるいは組織のことで、享徳の乱で頻出する「一揆」は関東のサムライ集団のことだ。
享徳年間は、西日本では1452~1455年の3年間(享徳3年から康正元年)にすぎないが、関東の鎌倉公方(古河公方)側では実に1478年(享徳27)まで、そのまま享徳元号を使いつづけたことが確認されている。1478年の西日本では、すでに「文明10年」となっていた。京にある室町幕府の動揺とともに、大規模な畿内と関東(+東北)地方との東西30年戦争は、朝廷のある京を視座の中心にすえる皇国史観がベースの薩長政府にすれば、元号の二重化も含め日本史上でも「なかったこと」あるいは小さな「内乱」程度にまで、あくまでも矮小化しておきたかった史実のひとつなのだろう。
古い書籍や資料などには、北関東の足利氏や新田・世良田氏(のち徳川氏)によって関東の中心地だった鎌倉幕府が滅亡したあと、足利氏が関東ではなく京の室町に幕府を開いたため、関東は再び静寂な武蔵野の風情や原野にもどったかのように、従来の「日本史」では語られてきた。たとえば、2008年(平成20)に未来社から刊行された宮本常一『私の日本地図⑩武蔵野・青梅』(執筆時点は1970年ごろ)には、関東の鎌倉街道や鎌倉支道について次のような記述が見えている。
▼
この道すじ(鎌倉街道沿い)には中山道や東海道とはちがった文化が存在していたことが推定せられる。しかし、それがどのようなものであるかということについての解明はまだなされていない。/関東平野の人びとが鎌倉との縁がきれて、南北の道を歩くことが少なくなってもそこに何かが残り、また醸成されていったはずである。(カッコ内引用者註)
▲
鎌倉幕府の滅亡後、関東をタテヨコに結ぶ各鎌倉街道は「歩くことが少なくな」るどころか、むしろ鎌倉期以上に人々の往来が激しくなることを、当時の宮本常一は知るよしもなかった。1970年以降まで語られることが少なかった、あるいは薩長政府によって消去され「なかったこと」にされていた、鎌倉幕府の崩壊からしばらくして日本を二分する、関東と近畿の30年戦争「亨徳の乱」がほどなく勃発していた。そして、それにともない江戸や川越、小田原、岩槻などの大規模な城下町が形成され、軍事・物流・商業ルートとしての街道筋の重要性は急速に増していく。
よく、「戦国時代」の幕開けは京で起きた応仁・文明の乱などといわれてきたが、これも近畿地方を視座の中心にすえた皇国史観の一例だろう。応仁・文明の乱は、亨徳の乱への対応に関する室町幕府内の対立から派生した局地戦にすぎない。戦国時代のはじまりは、明らかに「下剋上」あるいは「上剋下」をともなう関東の亨徳の乱からスタートしている。
家臣が主君を裏切って権力を奪取する「下剋上」はもちろん、力をつけて主君の勢力を上まわるようになった家臣を、事前に謀殺する「上剋下」が亨徳の乱では続出している。連戦連勝で無敗のまま大規模な江戸城を建設した太田道灌は、川越城を本拠としていた主君の関東管領・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の勢力をしのぐようになり、「下剋上」を怖れられて暗殺されている。亨徳の乱は、関東地方はおろか駿河の今川氏や甲斐の武田氏、伊豆の伊勢氏(後北条氏)、越後・越中の長尾氏、さらには東北勢の各国まで巻きこんだ東日本全域の大規模な戦乱であり、戦闘の範囲や規模も局地戦の応仁・文明の乱とはケタちがいだった。
足利幕府は、もちろん出自の北関東ではなく京の室町にあったのだが、関東の足利氏の拠点は「鎌倉公方」という形式のもと鎌倉にあった。だが、鎌倉公方は関東全域さらには東北などの武家社会全体の統率者であり、鎌倉公方=室町時代の「鎌倉幕府」と位置づけたほうが理解が早いだろうか。すなわち、京にあった足利氏の室町幕府と、同族の足利氏による「鎌倉幕府」との分割支配体制=東西対立が、亨徳の乱という大規模な東西30年戦争の本質だろう。2017年(平成29)に講談社から出版の峰岸純夫『亨徳の乱-中世東国の「三十年戦争」』より、少し長いが引用してみよう。
▼
◎戦国時代は応仁・文明の乱より十三年早く、関東から始まった/◎応仁・文明の乱は「関東の大乱」が波及して起きたものである/この内乱(関東の大乱)は、単に関東における古河公方(元・鎌倉公方)と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府=足利義政政権が古河公方打倒に乗り出した「東西戦争」である。しかし、これほどの大乱なのに一九六〇年代初頭までまともな名称が与えられておらず、「十五世紀後半の関東の内乱」などと呼ばれていた。/(足利)成氏は(室町)幕府方と交戦する二十八年間に、享徳以降、康正→長禄→寛正→文正→応仁→文明と、六度も改元されたにもかかわらず、中央政権への抵抗という意味で享徳年号を連続して使用しつづけた。(カッコ内引用者註)
▲
つまり、東日本の古河公方(元・鎌倉公方)側は、京の幕府による改元を拒否して30年近くも「享徳」年号を使いつづけ、東日本は一種の独立国のような体をなしていた。換言すれば、古河(鎌倉)公方側へ味方した関東の領主や一揆(武士団)たちは、書状(手紙)のタイムスタンプに「享徳〇〇年」を記しつづけている。これまで見つかっている書状の中で、もっとも新しいタイムスタンプのものは享徳27年4月7日の「安保氏康文書」だが、さらに後年のものもあるかもしれない。ちなみに、「一揆」というワード本来の意味は、同じ目的をもって行動する団体あるいは組織のことで、享徳の乱で頻出する「一揆」は関東のサムライ集団のことだ。
享徳年間は、西日本では1452~1455年の3年間(享徳3年から康正元年)にすぎないが、関東の鎌倉公方(古河公方)側では実に1478年(享徳27)まで、そのまま享徳元号を使いつづけたことが確認されている。1478年の西日本では、すでに「文明10年」となっていた。京にある室町幕府の動揺とともに、大規模な畿内と関東(+東北)地方との東西30年戦争は、朝廷のある京を視座の中心にすえる皇国史観がベースの薩長政府にすれば、元号の二重化も含め日本史上でも「なかったこと」あるいは小さな「内乱」程度にまで、あくまでも矮小化しておきたかった史実のひとつなのだろう。



享徳の乱の全貌がほぼ明らかになったのは、京や関東のさまざまな文献や資料を掘り下げ組み合わせていった1960~70年代ごろのことで、それまでの日本史の教科書ではあくまでも近畿視点のみで応仁・文明の乱が「戦国時代」の幕開けと教えられてきた。最近の教科書では、ようやく同乱は関東の享徳の乱が派生して起きた、一内乱という記述がされてきている。
さて、最後に江戸時代にあったとされた「士農工商」という身分制度については、すでに2008年(平成20)に小学館から刊行された平川新『日本の歴史・第12巻-江戸時代/十九世紀-開国への道』とともに記事にしているが、江戸期の行政史料にも司法史料にもどこにも存在していない「士農工商」が、あたかも厳しい身分制度として存在していたかのように表現してきたのは、またしても薩長政府による「日本史」だ。最近の教科書における「士農工商」の記述について、2017年(平成29)に平凡社から出版された平井上総『兵農分離はあったのか』から、少しだけ引用しよう。
▼
ところが現在では、士農工商という概念の使用には、慎重な姿勢を示す研究者が多い。高校の日本史教科書でも、たとえば、山川出版社の『詳説日本史B』の二〇一一年版を見ると、支配身分としての武士と被支配身分としての百姓・職人・町人を説明したのちに、こうした社会秩序を士農工商と「呼ぶこともある」と説明しており、士農工商が幕府の作った制度であったとは記していないのである。日本史教科書の記述の変化を取り扱った書籍が最近出版されているが、そこでも変化の一つとして、士農工商という言葉が取り上げられている[高橋ら二〇一六]。
▲
すなわち、そのような身分制度が江戸期に規定されていたわけではなく、今日ではそう「呼ぶこともある」だけという表現に変化してきているのがわかる。そう呼んでいたのは、中国や朝鮮半島の儒教思想(修身)をベースにした「修身書」だったのは、以前にも記したとおりだ。それを、薩長政府の「日本史」では、あたかも江戸幕府が「士農工商」という身分制度を規定し、厳しく適用していたかのように歪曲して記述している。「士農工商」は、紀元前の中国春秋戦国時代から存在するワードであり、儒教書あるいは中国史書に登場するそれを、封建制をことさら強調するためか、あたかも江戸幕府が身分制度として取り入れていたかのように捏造していたわけだ。
また、明治以降につかわれる江戸期は「鎖国」時代という言葉もかなり微妙だ。江戸幕府の抱え刀工だった越前康継一派は、アジア諸国や中国などから輸入した、イギリスの東インド会社が製造する“南蛮鉄”(インド産の鉄鉱石由来の鋼)を和鉄(日本産の目白)に混合させ、江戸期が終わる幕末まで盛んに鍛刀している。初代・康継から南蛮鉄の混合が見られるので、慶長の江戸初期から幕末まで一貫している。ヨーロッパ各国の文化や製品は、ネザーランド(オランダ)を通じて常に国内へもたらされており、中国や朝鮮、アジア諸国との貿易や交流も盛んに行われている。
「鎖国」というのは、対外的な国交や貿易をほぼ完全にシャットアウトすることで、近現代でいえばチベットやアルバニア、ポル・ポトが率いたクメール・ルージュのカンボジアなどがとった政策のことだ。日本では公式のものだけでも、長崎口(出島=対・ヨーロッパ/中国)や対馬口(対・朝鮮半島)、薩摩口(対・琉球列島/東南アジア)、松前口(対・アイヌ民族/沿海州=ロシア)と、実質的に4か所もの貿易港を備えた政治体制を「鎖国」とは呼べないだろう。
さて、最後に江戸時代にあったとされた「士農工商」という身分制度については、すでに2008年(平成20)に小学館から刊行された平川新『日本の歴史・第12巻-江戸時代/十九世紀-開国への道』とともに記事にしているが、江戸期の行政史料にも司法史料にもどこにも存在していない「士農工商」が、あたかも厳しい身分制度として存在していたかのように表現してきたのは、またしても薩長政府による「日本史」だ。最近の教科書における「士農工商」の記述について、2017年(平成29)に平凡社から出版された平井上総『兵農分離はあったのか』から、少しだけ引用しよう。
▼
ところが現在では、士農工商という概念の使用には、慎重な姿勢を示す研究者が多い。高校の日本史教科書でも、たとえば、山川出版社の『詳説日本史B』の二〇一一年版を見ると、支配身分としての武士と被支配身分としての百姓・職人・町人を説明したのちに、こうした社会秩序を士農工商と「呼ぶこともある」と説明しており、士農工商が幕府の作った制度であったとは記していないのである。日本史教科書の記述の変化を取り扱った書籍が最近出版されているが、そこでも変化の一つとして、士農工商という言葉が取り上げられている[高橋ら二〇一六]。
▲
すなわち、そのような身分制度が江戸期に規定されていたわけではなく、今日ではそう「呼ぶこともある」だけという表現に変化してきているのがわかる。そう呼んでいたのは、中国や朝鮮半島の儒教思想(修身)をベースにした「修身書」だったのは、以前にも記したとおりだ。それを、薩長政府の「日本史」では、あたかも江戸幕府が「士農工商」という身分制度を規定し、厳しく適用していたかのように歪曲して記述している。「士農工商」は、紀元前の中国春秋戦国時代から存在するワードであり、儒教書あるいは中国史書に登場するそれを、封建制をことさら強調するためか、あたかも江戸幕府が身分制度として取り入れていたかのように捏造していたわけだ。
また、明治以降につかわれる江戸期は「鎖国」時代という言葉もかなり微妙だ。江戸幕府の抱え刀工だった越前康継一派は、アジア諸国や中国などから輸入した、イギリスの東インド会社が製造する“南蛮鉄”(インド産の鉄鉱石由来の鋼)を和鉄(日本産の目白)に混合させ、江戸期が終わる幕末まで盛んに鍛刀している。初代・康継から南蛮鉄の混合が見られるので、慶長の江戸初期から幕末まで一貫している。ヨーロッパ各国の文化や製品は、ネザーランド(オランダ)を通じて常に国内へもたらされており、中国や朝鮮、アジア諸国との貿易や交流も盛んに行われている。
「鎖国」というのは、対外的な国交や貿易をほぼ完全にシャットアウトすることで、近現代でいえばチベットやアルバニア、ポル・ポトが率いたクメール・ルージュのカンボジアなどがとった政策のことだ。日本では公式のものだけでも、長崎口(出島=対・ヨーロッパ/中国)や対馬口(対・朝鮮半島)、薩摩口(対・琉球列島/東南アジア)、松前口(対・アイヌ民族/沿海州=ロシア)と、実質的に4か所もの貿易港を備えた政治体制を「鎖国」とは呼べないだろう。
江戸時代を、ことさら閉鎖的で封建的な時代だったと規定したいがため、その「厳しさ」のみを強調し、実態としての町村自治を前提とした“触書政治”などにはいっさい触れず、薩長政府がこしらえた明治以降のイメージが先行しているのだろう。だが、日常生活における風俗や思想・表現の取り締まりは、全国的に網羅された警察組織がいきわたる明治期のほうがよほど厳格でシビアだった。政府や地方施策への不満がもとで、農民も含めた庶民(百姓)の一揆が急増するのは、江戸期よりも明治期のほうの発生件数が多かったことは、ずいぶん以前の記事にも書いていた。



江戸幕府が外交や貿易を制限したのは、キリスト教布教による国内の不安定化を避けるためと、なによりもそのあとにつづく欧州各国による軍隊派遣のリスクを避けるためで、「鎖国」ではなく選択的外交・交易と呼ぶべきだろう。ネザーランド(オランダ)のみがキリスト教の布教は行わないと誓約したため、幕府は国交・貿易を許可している。「鎖国」という規定も、江戸時代をことさら閉鎖的だったとイメージさせるために、薩長政府が多用した用語だ。しかも幕末には「開国」しており、それを時代に逆行した「鎖国」へもどそうとしたのは、明治政府の主体となる薩長を中心とした、「攘夷」思想であったことも忘れてはならない史実だろう。
こうして、前世紀末から今世紀にかけ新たな発見や研究成果が続々とつづいているにもかかわらず、そしてこれらの史実や成果物が次々と公開・報道されているにもかかわらず、縄文時代は旧石器時代のような原始時代、弥生時代は西から東へ、平安時代の貴族文化が日本文化の基礎、鎌倉幕府の滅亡後の関東以北は文化の遅れた原野、徳川家が関東へもどるまで江戸は草茫々の原っぱ、江戸幕府は「士農工商」のガチガチな身分社会……等々、10000年余におよぶ自国の文化史や技術史も含めた豊饒な歴史を、意図的におとしめ卑しめて泥を塗りつづける、薩長政府がこしらえた「自虐」的な「日本史」をいまだに信じる人がいる。これらの人々は、「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」や「七五三は日本古来の伝統」と同様、ガリレオがいくら「それでも地球は回転している」といっても理解せず、なにをいってもムダな史実や諸科学を認めない宗教者たちなのだろうか。
<了>
◆写真上:太田道灌が1457年(長禄元)に築いた、約600年にものぼる日本最古クラスの江戸城の様子も明らかになりつつある。江戸城が、これまで想定された以上に大規模なことも判明してきた。また、形成された(城)下町も、国内の一大拠点になりうるほど都市化が進んでいたこともわかりつつある。イラストの河川は、現在の神田川と日本橋川あたりを流れ江戸湾に注ぐ小石川(旧・平川)で両岸には城下町が、城郭の南側には漁師町や物流拠点の湊(江戸港)が拓かれた。中世1400年代の城下町では、国内で最大クラスだったとみられる江戸の街だ。
◆写真中上:上は、北海道釧路市の幣舞(ヌサマエ)橋で発見された弥生時代前期の共同墓地・89号墳。9歳前後の男の子を葬った墳墓で、同時期の国内墳墓ではもっとも豪華な副葬品が出土している。同墳のほか、同時代では北海道の弥生文化がもっとも進み豊饒だったことが明らかになった。中は、南関東から出土する縄文の入った弥生式土器(千葉県宮ノ台遺跡出土)。下は、近畿地方から出土する縄文ルネサンスの弥生式土器における地域別縄文特性。
◆写真中下:上左は、2017年に出版された峰岸純夫『享徳の乱』(講談社)。上右は、2015年に出版された山田邦明『享徳の乱と太田道灌』(吉川弘文館)。中左は、2023年に出版された佐藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(戒光祥出版)。中右は、2008年に出版された葛城明彦『決戦』(風早書林)。室町中・後期にかけ、足利氏の幕府(京)とその故地である関東の足利氏との東西30年戦争の全貌を描く書籍類だ。下左は、2008年に出版された宮本常一『私の日本地図10/武蔵野・青梅』(未来社)。下右は、2017年に出版された平井上総『兵農分離はあったのか』(平凡社)。
◆写真下:上は、室町中期を想定した江戸地域で、すでに神田や日本橋地域の一部が形成されつつあるのがわかる。中は、北区赤羽の静勝寺に残る太田道灌像。下左は、2015年出版の第5次『岩波講座日本歴史14/近世5』(岩波書店)。下右は、2008年に出版された『日本の歴史12』(小学館)。
◆写真中上:上は、北海道釧路市の幣舞(ヌサマエ)橋で発見された弥生時代前期の共同墓地・89号墳。9歳前後の男の子を葬った墳墓で、同時期の国内墳墓ではもっとも豪華な副葬品が出土している。同墳のほか、同時代では北海道の弥生文化がもっとも進み豊饒だったことが明らかになった。中は、南関東から出土する縄文の入った弥生式土器(千葉県宮ノ台遺跡出土)。下は、近畿地方から出土する縄文ルネサンスの弥生式土器における地域別縄文特性。
◆写真中下:上左は、2017年に出版された峰岸純夫『享徳の乱』(講談社)。上右は、2015年に出版された山田邦明『享徳の乱と太田道灌』(吉川弘文館)。中左は、2023年に出版された佐藤一美『太田道灌と武蔵・相模』(戒光祥出版)。中右は、2008年に出版された葛城明彦『決戦』(風早書林)。室町中・後期にかけ、足利氏の幕府(京)とその故地である関東の足利氏との東西30年戦争の全貌を描く書籍類だ。下左は、2008年に出版された宮本常一『私の日本地図10/武蔵野・青梅』(未来社)。下右は、2017年に出版された平井上総『兵農分離はあったのか』(平凡社)。
◆写真下:上は、室町中期を想定した江戸地域で、すでに神田や日本橋地域の一部が形成されつつあるのがわかる。中は、北区赤羽の静勝寺に残る太田道灌像。下左は、2015年出版の第5次『岩波講座日本歴史14/近世5』(岩波書店)。下右は、2008年に出版された『日本の歴史12』(小学館)。

























































































.jpg)