雑司ヶ谷で入手した大町桂月『関東の山水』。

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 先年、日本女子大の寮内敷地から近所へ遷座したといわれている、金山稲荷を探して雑司ヶ谷界隈をあちこち散策していたら、古書店を見つけたので入ってみた。古書ばかりでなく、アクセサリーや小物なども扱っている、ちょっと面白い店だった。
 その店の書棚を眺めていたら、めずらしく大町桂月(大町芳衛)の『関東の山水』(博文館/1909年)を見つけたので購入してみた。通常の古書店で買えば、15,000~30,000円ほどする本だが、10分の1以下の値段だったし、明治末の関東各地の様子がわかりそうなのでつい買ってしまった。以前の記事にも書いたけれど、大町桂月は高知県が出自の人物だが、他所(よそ)の土地である江戸東京地方へ子どものころに転居して以来、この街をはじめ関東を小バカにし貶(おとし)めるような文章を書いているので、わたしとしては気に入らない人物のひとりだ。(だったら、なぜここに住むんだよ?) 彼の眼差しには、上方(関西)落語のマクラにさんざん使われた、江戸東京は「伊勢屋に稲荷に犬の糞」と同様のフィルターがかかっている感触をおぼえる。
 しかも、雑司ヶ谷(現・南池袋)の法明寺裏にある古墳および鋳成神の中世における転化かもしれない、稲荷山(稲荷社)のことを「依然として」「東京の愚」と平然と書きしるし(『東京遊行記』大倉書店/1906年)、鬼子母神(きしもじん)の属する法明寺を一貫して「明法寺」と誤記しつづける無神経さには呆れた。このような他所の土地について無知な人間が、入谷や雑司ヶ谷の鬼子母神のことを「きしぼじん」などと、訛って発音しはじめたのではないかとつい疑ってしまう。あっ、なるほど、それを雑司ヶ谷の地元ではよくご存じなゆえに、大町桂月の著作物は棚の隅に置き、二束三文でたたき売りをしていた……という解釈もできそうだ。w
 余談だが、現在の豊島区が刊行する資料をはじめ、東京メトロの雑司ヶ谷駅の案内も、鬼子母神(きしもじん)とルビをふるようになった。東京メトロは、表記に「鬼」のツノまで取っている念の入れようだ。これで相変わらず戦後の出所不明な訛った呼称、鬼子母神=「きし<ぼ>じん」などとしているのは、東京都の交通機関(都バス・都電荒川線)のみとなったわけだ。
 また、与謝野晶子の「きみ死にたまふことなかれ」(「明星」9月号/1904年)を、「乱臣なり賊子なり」「国家の刑罰を加ふべきで罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」(「太陽」10月号/同年)などと、薩長政府教育でアタマの中も眼も曇り、普遍的な人間の心理を探究するはずの文学表現について、「乱心」していたのはどっちだい?……などと思ってしまう。
 そんな雑司ヶ谷を小バカにした人物の本が、当の雑司ヶ谷で売られているのも妙な具合だが、安いのにつられて衝動買いしてしまった。あまりケナしてばかりいてもなんだし、少しは良いところを見つけてみようと、思いたって手に入れた『関東の山水』だけれど、やはり関東の地元から見ればひっかかる文章、あるいは「はぁ?」と思ってしまう記述が散見される。きっと、家庭内での教育や慣習が江戸東京になじむことをせず、「土佐」のままだったのだろう。
 大町桂月は、その昔は「名文家」といわれ(わたしには同時代の文筆家と比較してもそうは思えないが)、著述業界では「権威」だったそうだが、少なくとも自身にとっては他所の地方である基本的な、そして最低限の知識を仕入れてから書いてほしいものだ。そうでないと、現在のどこかの国の大統領のように、「権威」をベースにフェイク情報を乱発することになる。
 そういえば、同書も博文館からの出版だが、以前にトンチンカンな江戸東京の食文化について書いた『大東京写真案内』(1933年)収録の「大東京の味覚」も、同社による出版物だった。博文館の編集部には、「これは絶対おかしいですよ」と指摘したり、ファクトチェックをする地元の人間がひとりもいなかったのだろうか? その土地の地理・地勢や風土、文化、言語、民俗、生活慣習などにはほとんど無頓着で、自身が出自の地方(大町桂月の場合は土佐)、あるいはその家庭内の価値観や思想などを安易にあてはめ、他所(よそ)の土地であるにもかかわらず「おかしい」「変」「愚なり」「妙なり」「怪しき」などと書きとばしたりすると、いかに「変」かつ「怪しき」ことになるか、自身の考えや観察眼が絶対だと自負しているらしい大町桂月は気づいていないようだ。
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 こういう傲慢さを、なんと表現すればいいのだろうか……。先日、拙記事に登場してもらった、子母澤寛も腹にすえかねたらしい、長崎の永見徳太郎と同じ臭いがする。ただし、お断りしておくが、わたしは長崎と同様、土佐に意趣や恨みがあるわけではなく、むしろ太平洋に面したその土地柄や文化、風俗、言語はどちらかといえば好きで親しみをおぼえるし、女性の豪気な点も江戸東京の女子に似て好みなので、わたしには他所の地方である土佐のことを「愚」や「変」などと書く気は毛頭ない。問題は、たまたま高知県出身であるという、この大町桂月という男=人間(主体)についてのみだ。ここに代々暮らす人間からみれば、いくらでも批判したくなる、スキだらけの文章を不用意に書き散らしているから、ついそちらに注意が向いてしまうのだ。
 おっと……、大町桂月の「少しは良いところを見つけて書いてみよう」と、冒頭で思いたったはずなのだが、またまた批判だらけで終わりそうなので、『関東の山水』の中で興味深いあるいは慧眼だと思った紀行文をご紹介していこう。同書には、ニホンオオカミで有名な秩父山系の三峰山が登場して、三峰社に参詣するくだりが描かれている。
 その山道で、とある家族連れと出会い、病気平癒の参詣・祈願をする娘に目をとめている。急峻な山道にへばり気味な父親は、娘のことを「おとっさん」と呼んでいるので、この娘がなにかというと父親を「おとっさん、おとっさん」と頼っている様子がわかる。その口グセから、父親は娘のことを愛情こめて、つい「おとっさん」とあだ名したものだろう。同書より引用してみよう。
  
 一人の男のあへぎあへぎ行くに追ひ付く。三四十間さきには、其妻らしき人と其娘らしき人と導者らしき人と三人連りてゆく。『おとつさん足が早い』と、苦しき声して呼ぶ。あとつさんらしき人なし。よめたり、おとつさんは平生娘が己れを呼ぶより、転じて、こゝには娘の事になりたる也。それも十歳以下の娘なら、わけが聞ゆれど、二十歳を過ぎたる娘には、ちと、へん也。『足は一向平気なれど、胸が苦し。病人は却つて平気なり』とつぶやく。如何なる病気ぞといぶかりつゝ、その娘をも追ひ越す。十人並の顔付なれど、目付は、たゞならず、色青ざめて全く血の気無し。我を見て、忽ち立ちとゞまり、手を額に合せて、しきりに口を開閉すること、魚の噞喁(けんぎょう)するに似たり。いよいよ怪し。病気は、普通の病気にあらずして、精神病なるべし。
  
 時代は明治末だが、精神疾患は「キツネ憑き」だという迷信が、いまだ信じられていたころなのだろう。キツネが憑いているなら、オオカミ(大神)の社へ参拝すれば、キツネがおびえて逃げだし憑きものが落ちると考え、この家族は娘を連れてはるばる三峰社へやってきたと思われる。著者は「導者」と書いているが、関東風にいえば道案内をしているのは三峰社の御師(おし)だろう。三峰社への参詣が機縁で、この娘が正気に返るか暗示にかかり、平癒していればいいのだが。
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 大町桂月は、関東各地を歩いているけれど、どちらかといえば北関東や埼玉、千葉が中心で江戸東京や神奈川は相対的に取材先が少ない。執筆のボリュームからみても、江戸東京と神奈川に関しては、他県の半分あるいは3分の1ほどだ。東京や神奈川についての案内書は、当時からあまた出版されていたせいもあるのだろうが、おそらく彼は山歩きが好きだったらしく、海辺の街々に関する描写は、しごくアッサリとして淡白で少々もの足りない。
 そんな著者の足どりだが神奈川県の海辺、鎌倉長谷の高徳院=鎌倉大仏を訪れたときの印象を書き残している。つづけて、『関東の山水』より引用してみよう。
  
 鎌倉は、関東の古都也。二十年前までは、正岡子規の『鎌倉や畑の中に月一つ』の観ありしが、今は人家たちつゞきて、古意うすらぎたり。長谷に大仏あり。鎌倉第一の美観也。否、日本第一の美観也。奈良の大仏は、更に大きく且つ古けれども、御顔は、江戸時代に出来たるものにて、鎌倉大仏に比すれば、大に劣れり。長谷観音も、亦偉大也。
  
 鎌倉は、史的に朝廷や公家政治の中心である都(みやこ)だったことはただの一度もなく、彼らに口だしをさせない実力を手に入れた、新たな階級である武家(サムライ)の中心地なので、「古都」という表現にはかなりひっかかりをおぼえるけれど、どうやら鎌倉では与謝野晶子の「美男におはす」の観察に、諸手をあげて賛同しているようだ。
 また、相模湾の風光についても、ほんのわずかだが書き残している。おそらく各地の海岸を実際に探訪しているのではなく、汽車の窓から観察したていどの風景もずいぶん含まれているのだろう。ここでは、日本初の海水浴場だった大磯海岸が登場する箇所を引用してみよう。
  
 東京にて内海のみを見なれたるもの、一たび相州に入りて、外洋を見なば、頓(にわか)に目さむる心地するなるべし。真鶴、早川、小田原、酒匂、国府津、大磯、茅ヶ崎明治村、鵠沼、片瀬、鎌倉、逗子、葉山、三崎、松輪、大津など、沿岸到る処に海水浴あり。就中(なかんずく)、大磯を以て第一とす。宏大なる旅館多く、貴顕富豪の別荘も多し。
  
 上記はまったくおっしゃるとおりで、穏やかでなにごともなさそうな東京湾を眺めていると、たまには広大な太平洋を眺めたくなるので、欲求不満が日々堆積してくるのがわかる。でも、海底崩落のせいか安政大地震のときは、江戸湾岸に津波が押しよせたという伝承が地元にはあるのだが。
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 これは、わたしが海街の渚から100m余のところで15歳まで育ったせいだが、土佐の桂浜がなじみの大町桂月も、おそらく同様だったのだろう。はるか彼方から打ち寄せる波や水平線を眺めながら、ひがな1日なにも考えずにボーッとしていたい衝動が年に何度か襲ってくる。いや、たまにはイヌを連れた湘南女子や、ボードを抱えた波乗りガールを観察するのかもしれないけれど。w

◆写真上:雑司ヶ谷(現・南池袋)の法明寺裏に、ひっそりと奉られる威光山稲荷社の塚丘。
◆写真中上は、丘上から眺めたかつて横穴がいくつか見つかった丘麓。中上は、大正末か昭和初期ごろに撮影された秩父の街並み。中下は、ようやく朝からの農霧が晴れた秩父の街並み。は、大町桂月も登攀した秩父と横瀬の境界にある武甲山。
◆写真中下は、1909年(明治42)出版の大町桂月『関東の山水』(博文館/)と著者()。中上は、明治末の片瀬海岸で右端の島影はヨットハーバーができる前の江ノ島東端。中下は、明治末の葉山風景。は、馬入川(相模川)の川岸から眺めた大山。
◆写真下は、長谷の長谷寺境内から眺めた鎌倉の海と逗子・葉山方面。は、葉山の一色海岸から眺めた三浦半島方面。は、大磯の小陶綾(こゆるぎ)ノ浜から眺めた伊豆半島方面。
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 最近は、雑司ヶ谷にしろ入谷にしろ「きし<ぼ>じん」などと訛った発音をする人が急増したせいか、それを正すために書籍も新聞も「きしもじん」とルビをふるようになったようだ。
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おまけ2
 大町桂月は「愚なり」と書きつつ、晩年は気に入ったのか雑司ヶ谷町に住んでいる。自宅は護国寺も近い、雑司ヶ谷町108番地(現・目白台3丁目)だ。山登りをするのだろうか、自宅から旅に出る大町桂月の写真が残っている。この旅姿を、近所の子どもたちは「乞食」と呼んでいたそうだ。
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学生には5ケ折詰めしか買えなかった笹巻鮨。

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 1953年(昭和28)1月から6月まで、読売新聞に連載されたコラム「味なもの」を読んでいると、ときどきわたしの時代と重なる“食いもんや”が登場していて懐かしい。いまは存在しない店もあるが、300年以上にわたってつづく江戸期からの老舗も少なくない。
 わたしの学生時代、早稲田の古書店街を探しても見つからない古本や、高田馬場または新宿の輸入盤店を漁っても見つからないブートレグなどの稀少レコードは、わざわざ駿河台や神田神保町まで足を伸ばしては探し歩いたものだ。運よく目的の本やレコードが見つかればいいが、見つからないときは手もとに用意していたおカネが残るので、かわりに駿河台から神田小川町まで歩き「笹巻けぬき鮨」をお土産に買っては、南長崎の学生アパートで食べていた。
 思いだしてみると、神保町→駿河台→小川町→御茶ノ水駅というコースは、めずらしい本やレコードが見つかる散歩道であるのと同時に、神田にある古くからの“美味(うま)いもん”を食べさせる店が、当時はいまだあちこちにあったことがわかる。学生時代は貧乏だったので、とても老舗の“美味いもん”を食べに寄ることなどできず、「笹巻けぬき鮨」の折詰めをだいじに抱えて帰るのがせいぜいだった。ただし、折詰めは学生の腹満たしには少し足りない量だったので、あとからカップラーメンを食べたりしていたのを憶えている。
 開店は1702年(元禄15)だから江戸中期、今年(2025年)で創業323年を迎える「笹巻けぬき鮨」は、握り鮨が好きだった親父の口にはあまり合わなかったようで、子どものころにこの店で食べさせてもらった記憶はない。したがって、学生時代に口にしたのが初めてだった。きっかけは、「江戸名物」と書かれた暖簾ないしは看板の前で、「どんな鮨なんだろ?」とショウウィンドウの笹の葉を巻いた鮨をしばらくのぞいていたら、店内から割烹着姿の女性が出てきて、「お持ち帰りもできますよ」と声をかけられたのが最初だったと記憶している。
 確か当時の値段は、5ケ入りの折詰めが800~900円、10ケ入りのものが1,500円ぐらいだったと思う。もちろん、学生の身分では5ケ箱しか買えなかったけれど、握り鮨ではなく笹の葉で巻いた独特な製法で、飯に含む甘酢は少し強めだ。握り鮨の新鮮さとはまったく別な、江戸の古い時代ならではの鮨の風味が感じられて美味しい。折詰めで予想された方もあるかもしれないが、「笹巻けぬき鮨」は基本的に食べ物を長もちさせる“保存食”で、江戸期から遠出の花見や遊山のときなどに持参する、昼の弁当がわりなどに用いられた。
 鮨をくるんでいる笹の葉には、細菌の増殖を抑制する滅菌効果があるからで、酢が少し強めなのも鮨を長もちさせるための工夫だ。ネタには、コハダやエビ、コダイ、卵焼き、おぼろ、海苔などが用いられ、季節によっては青身魚や白身魚が加わったように思う。わたしは、青身魚とコダイが好きで、ときどき寄っては買っていた。10ケ箱にしてしまうと、輸入盤のLPレコードが1枚余裕で買えてしまうので、頼むのはいつも5ケの折詰めだった。
 1953年(昭和28)に現代思潮社から出版された読売新聞社会部・編『味なもの』収録の、源氏鶏太「秘伝をついで二百五十年」から引用してみよう。
  
 店は小川町にある。店でも食べさせるが、出前が主であるらしい。私はこの店にいって、いちばん興味深かったのは、八代目である八十歳の宇田川しげさんであった。多少、後家のガンバリ的であったが、実に、元気で、わが家に継がれてきた秘伝については、絶対の自信を持っていた。主人には十三年前、七十三歳で亡くなられて、しかも子供がなく、現在は夫婦養子を迎えている。(中略) しげさんは、今でも、鮨をつくる技術は、誰にも負けない自信に満ちている。きたないことの嫌いな性分は、店内によく現れていた。そして、孤独で、きかん気の強いしげさんは、一生、鮨を忘れることはないだろう、と思った。
  
 この「夫婦養子」が、おそらくわたしの学生時代の店主だろう。いまでも、魚をあれこれいじりすぎて風味を落とさないために、細かい小骨はいちいち毛抜きでとっているという。
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 少し前、下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)に住む林芙美子がいきつけの蒲焼き屋は、戦後に評判の根岸「宮川」だとてっきり勘ちがいしていたことを書いたが、灯台もと暗しで、うちの先祖たちの墓がある深川(門前仲町)の深川八幡(富岡八幡)の前、大横川をはさんだ深川の「宮川」だった。残念ながら、現在は閉店してしまったようだが、そこを訪ねているのは下落合3丁目1447番地(現・中落合2丁目)に住んだ洋画家の宮田重雄だ。ちなみに、林芙美子大江賢次を襲ったのはw、浦和のうなぎ屋で深川のいきつけだった「宮川」ではない。
 『味なもの』に掲載された、宮田重雄「粋の本場に風流の店」から少し引用してみよう。
  
 すぐ向こう側が八幡様で、八幡鐘だの、羽織だのと本来、大へん粋なところだが、いまや辰巳芸者もトンコ節を歌わねば生きて行けない。/一体深川というところは昔はうなぎの名所で、うなぎ屋の多かった場所だという。「宮川」という名前は文政のうなぎ屋番付に出ているそうだ。東京にも「宮川」を名乗るうなぎ屋がずいぶん沢山あるらしい。中には「宮川総本家」と名乗る家もあるというが、みんなこの曼魚さんの家とは無関係だとのこと。(中略) 寒菊に霜除けした庭に趣があって、それをいうと主人は秋草の時がいいという。林芙美子さんは、この庭の秋草の風情を好んだそうだ。食べる物の味ばかりでなく、壁の色から床の軸から、投入れた花から、庭の下駄まで、一本神経をとおらせることは大へんなことだと思う。
  
 文中の「八幡鐘」は、江戸期に設置された“刻の鐘”のひとつで、「曼魚さん」は随筆家で江戸研究家でもあった店主の宮川曼魚のことだ。辰巳芸者が歌って弾いていた「トンコ節」は、戦後に流行った当時の歌謡曲で、すでに昔ながらの江戸唄ではないことに気づく。
 わたしは子ども時代も含め、この「宮川」には一度も寄ったことがないと思う。墓参りの帰りに親と寄っていた蒲焼きは、もの心つくころから深川不動前の「大和田」のほうだった。林芙美子が、大横川向こうの牡丹町にあった「宮川」の馴染みになったのは、戦前「女人藝術」「輝ク」のからみで、宮川曼魚と同郷の長谷川時雨あたりに連れてってもらったものだろうか。戦災で焦土と化したあと、戦後は庭もあって風情がよかったようだが、東京オリンピック1964を境に道路の拡幅や倉庫街の進出、河川の汚濁などが進み、「秋草の風情」どころではなくなったのだろう。
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 もうひとつ面白く感じたのは、作家の菊岡久利が紹介している、銀座通りの裏にあった「牛めし屋」だ。『味なもの』に収録の「銀座裏に残る牛めし屋」では、銀座並木通りの尾張町(銀座4丁目)寄り三笠会館近くに開店していた、「天下一牛めし」の俎板看板を掲げていた御飯屋「太公房」という店だ。看板からすると、「牛めし」は当然“和食”の領域だと思われるのだが、これがまったくちがったようなのだ。ひと皿100円で出されていた「牛めし」を、少しだけ引用してみよう。
  
 ブラウン・ソースを入れろといったのは郵船浅間丸で鳴らした南条君、花キャベツを入れろといったのは作曲家の団伊玖磨、トマトとブドウ酒で味付けをし、セロリィで抵抗感を出せといったのは浅草、吉原、新宿追分でそのかみ(ママ)「牛めし学」を専攻していた小生の意見である。日本通の安藤鶴夫が驚倒し、フランス貧乏料理通の鳥海青児画伯舌賛するのもむべなるかなで、店頭の懸額には「温故知新」久保田万太郎、「日に日に新なり」川端康成とある。
  
 これって、上野精養軒(江戸期の旧・築地西洋館ホテル料理部)の林料理長が考案した、ハヤシライスに限りなく近い料理で、まちがっても「牛めし」などと呼ぶ料理じゃないのでは?w 敗戦後の銀座あたりになると、これが「牛めし」になるのかと思うとおかしい。
 文中では、随筆家で仏文学者の辰野隆(ゆたか)が、「牛鍋」や「牛めし」という言葉(見世)が消えてしまったと嘆いていることが紹介されている。けれども、日本の軍閥を「低能無識背徳」で「彼等馬鹿野郎ども」と罵倒した見識をお持ちの頑固な辰野先生に、上記の料理を「牛めしです」と出したら、卓袱台(ちゃぶだい)返しはまちがいないのではないか。
 辰野隆が教授をしていた、本郷あたりの馴染みな学生街では、「牛めし」「牛鍋」は消えてしまったのかもしれないが、神楽坂あたりでは1980年(昭和55)ごろまでは確実に残っていた。わたしの学生時代、神楽坂の毘沙門横丁にあった牛めし屋「牛もん」は、700~800円ほどで牛めし定食を食わせてくれた。友だちといっしょに2階の座敷に上がって待っていると、小さな鉄鍋に牛肉と野菜類を入れた卵つきの膳が運ばれてきた。要するにミニ牛鍋の趣きなのだが、これなら辰野先生はひっくり返さず、おとなしく食べたのではないかと思う。
 もっとも、牛肉は脂身が多く野菜もモヤシがやたら入っていた記憶があるが、学生相手のランチ商売では、価格を抑えるのに四苦八苦していたのだろう。ちなみに「牛もん」=牛門とという店名は、神楽坂の下にあった外濠の向こう側、千代田城牛込御門(牛込見附)のことだ。
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 江戸東京の懐かしい店や、現役の老舗が数多く紹介されている『味なもの』だが、意地きたないわたしにはピッタリな随筆集なのだろう。読んでいてまったく飽きないのは、同時に昔のさまざまな東京の情景がよみがえってくる、“想い出帳”のような味わいがあるからかもしれない。

◆写真上:「牛もん」で昼どきに出されていた、学生相手の牛鍋はこんな感じの具材構成だった。
◆写真中上は、神田小川町にいまも健在な「笹巻けぬき鮨」の入口。は、同店の鮨7ケ定食。は、源氏鶏太が描く同店主の「8代目・宇田川しげ像」。
◆写真中下は、つい最近閉店したかつて一度も食べたことがない深川「宮川」。は、同店のうな重。(いずれも「食べログ」より) は、宮田重雄が描く深川「宮川」。
◆写真下は、銀座並木通りにあったらしい“牛めし屋”を菊岡久利が描いた「太公房」。は、上野精養軒で発明された元祖ハヤシライス。は、三菱銀行(写真右手)と毘沙門天や出世稲荷(同左手)間を西へ入る毘沙門横丁のすぐ1軒目、写真右手の鮨屋のあたりが「牛もん」の店跡。

めずらしく子母澤寛が怒る『味覚極楽』。

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 一昨年の記事につづき、「なにいってやがる」とイラついた人物の話をひとつ。意地きたないので、また食べ物の話になるが……。戦後、子母澤寛大森から神奈川県の藤沢に転居していた。そのころには、『味覚極楽』でインタビューした相手は、ほとんどが物故してこの世にいなかった。だから、戦前の光文社版ではなく、戦後刊行の龍星閣版(1957年)や中央公論社版(全集/1963年)、あるいは新評社版(1977年)などには、インタビュー時のリアルタイムでは書けなかった子母澤寛の率直な感想が、各人物ごと徐々に付属していくことになる。
 その中には、著者がめずらしく立腹している文章がある。東京日日新聞の掲載時には第15回の「長崎のしっぽく」で取材した、自称「南蛮趣味研究家」で「文士」の永見徳太郎だ。この人物については、わたしも読んでムカッ腹(ぱら)が立ったのだが、出身地である故郷の長崎料理について、そのままストレートに「美味しいんだよ」と褒めて推奨すればいいものを、江戸東京における料理や嗜好をいちいちケナしながら、ことさら長崎料理を持ちあげているのだ。東京で食べる料理の一部が、「どれもこれもなっていない」そうなので、今回はひとつ、わたしもこの人物の品格やレベルに相応の表現で書かせてもらおうか。
 こういう人間を、なんと表現すればいいのだろう? 長崎で暮らし地付きの人間として、東京へ旅行した際に味わった料理や食文化と、長崎の地元のそれとを比較して、やはり故郷の長崎料理のほうが水もあうし、その地域のデフォルトとして形成された味覚がいちばんに決まっているし、東京の料理はどうしても口にあわない……というような文脈や経験譚であれば、育った故郷の味覚文化=“母味・母舌”が美味しいと感じるのは当然のことで、しごくもっともなことだと理解でき納得もできるのだが、わざわざ東京地方にやってきては腰をすえて住みつき、当地の料理を「うまくない」と吹聴してまわる、本人にとっては“よその地方”の料理文化を好き勝手にケナし貶めるのは、はたしてどんな神経をしているのだろうか?
 いつかの記事でも書いたが、その逆を考えてみればこの人間にもわかるだろうか。わたしが長崎地方へ勝手に住みつき、刺身を注文して箸をつけたとたん、「なんで醤油が甘いんだよ? どれもこれもなってねえじゃねえか!」などと突っ返したら、長崎人はおそらく「おうち、なしてわざわざ長崎に住んでまで食べよっと!? ほんなこてぇ、故郷に帰って食べれ!!」と激怒するだろう。同じことを、わざわざ東京地方でやっていることに、ご当人はまったく気づかないのだ。自身の故郷の習俗・文化を自慢したいのはわかるし、わたしも故郷が好きなのでたびたびここに“お国自慢”を書いている。だが、よその土地にあえて住みつき、その地方のそれらをけなしながら故郷の食習慣・食文化を褒めそやすのは、どのような脳内構造をしているのだ?
 ふつうのオトナとして、なにが無神経でみっともないかをわきまえる感覚を備えた人間であれば、よその地方へ自身の都合や好みでやってきて住みつきながら、当地の料理や食文化をけなしたりしたら、無分別なガキ同然の人間として、周囲から忌避されるのは当然だろう。子母澤寛は「ガキ」とは書かないが、永見徳太郎を世間知らずで礼儀知らずな「旦那」で「病気」だと皮肉り軽蔑しているのが、感想の「旦那文士」からはありありと透けて見える。
 では、『味覚極楽』の永見徳太郎インタビューから、少し引用してみよう。
  
 東京でも赤坂田町の「ながさき」築地の「たからや」の二つだけがまず長崎料理らしいものを出すけれども、やはり東京人に好くように、だいぶ調子が変わってきている。「ながさき」の方は冬に入ると魚も長崎から取り寄せるし器物もすべて長崎物、板場から女中まですべて長崎ずくめだがそれでもどうも本当の長崎の味は出てこない。(中略) 水たきは博多が本場のようなことをいっているが、実は長崎から移ったもので、東京の水たきは、どれもこれもなっていない。水臭くもあるが、まず鶏が長崎のような訳にはいかないのである。烏森の「海月」、牛込の「川鉄」、銀座うらの「水月」など、感心しなかった。(中略) 江戸っ子が一枚着物を質に入れても食うという鰹は長崎島原にかけて実にうまい。これを大きく皮ごとぶつ切りにして砂糖醤油へ半日から一日つけておいて、それからうすく刺身に下ろして、からし醤油で食べる。東京のようにぴんぴんしたのを、そのままではないが、これもまたなかなかうまいものである。
  
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 東京の店で出す長崎料理は、「長崎料理らしいもの」であってホンモノではなく口にあわないようだし、東京の鶏の水たきは「どれもこれもなっていない」そうだし、せっかく刺し身になるようなカツオを、「砂糖醤油」(!?)に漬けておくのがいちばん美味(うま)い食べ方なのだそうだ。これを、長崎で暮らしている長崎人が現地でいっているのなら、そんな食い方もあるのかとめずらしがって聞き流せるが、それをわざわざ東京地方へ引っ越してきて住みつき、当の地元でケナしまくっているから呆れてひっかかるのだ。地元の人間が聞けば「てめぇ、ケンカ売ってんのか?」(職人言葉で失礼)というようにも受けとれる。
 こういう人間に投げる言葉は、ひとつしかないだろう。「そんなに江戸東京地方の料理が気に喰わなきゃ、故郷に帰って食やいいだろうが。仕事が東京だから? バカをいっちゃいけない。誰かに拉致・誘拐されたわけじゃあるまいし、自から主体的に好きこのんで選択し、気に喰わねえ土地に住んでんのは、どこのどいつだ? おきゃがれ!」。今日的にいえば、好きこのんでやってきて日本に滞在しながら、その料理や文化にケチをつけ傍若無人にふるまう外国人(だったらなぜわざわざ来日するんだ?)と、この地元ではさして変わらない感覚だろう。
 子母澤寛も、インタビュー時から相当アタマにきていたようだ。彼は江戸末期、祖父の代には薩長軍と戦うために江戸から函館まで出向し、子母澤寛の代になってようやく江戸東京へともどってきている幕臣の家柄だ。だから、家庭内で食されていた料理はまちがいなく江戸東京の味覚だったろうし、話されていた言葉は子母澤寛の口調から推察すれば江戸東京方言(城)下町言葉だったろう。永見徳太郎は、それを知ってか知らずか、子母澤寛にとってはことのほか腹の立つインタビューだったにちがいない。
 新聞社の仕事で忙しいさなか、永見徳太郎は子母澤寛を無理やり引っぱり出して長崎料理を押し食いさせている。イヤな「旦那」なので何度か断ったようなのだが、それでもゴリ押しで新聞社から連れだされた。インタビュー相手が推奨する料理については、めったに悪口を書かない著者だが、このエピソードではありのままの経緯や感想をそのままむき出しで書いている。同インタビューへ、戦後になってから付記した「旦那文士」から引用してみよう。
  
 「いや今日はぜひ君に食べさせたいものがある」/といって、はっきり覚えていないが赤坂へつれていかれて、御馳走になったのが、前の記事にもある鰹を皮のまま大きく三枚に下ろして、前の晩から砂糖醤油へ漬けておいたのを料理人が目の前でぶつぶつ切りの刺身におろして、とろりとしたからし醤油で食べさせる。/ 「どうだ、こんなうまいものはないだろう」 「いやあまりうまくない」 「そうか、おかしいね、君の舌はどうかしてるな」 「甘ったるくてね」/といったら、いきなり料理人を、/ 「これ少々砂糖が利きすぎてるじゃあないか」/と大声で叱りつけた。残った髪が白くて頭の真ん中の禿げた料理人であったが、/ 「へえ、相すみません」/と、ぺこぺこ謝った。永見さんはこの家の上得意だったらしい。そうそう、暖簾にひょうたんが斜めに染めぬいてあった家だ。
  
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 「こんなうまいものはないだろう」と、うまさを無理やり押し売りしているのが長崎地方ではなく、東京地方でやっているのだからもはや救いがたい。料理人を客の前で、これ見よがしに叱ってみせるのもキザ(気障り)で野暮で嫌味だが、江戸東京舌の人間に砂糖の入った甘い醤油に漬けた刺し身(江戸東京のヅケは生醤油に漬けたマグロの赤身にワサビ)を食わせること自体が、そもそもケタ外れでメチャクチャなことに、永見徳太郎は東京で暮らしていながら気づかないのだ。あるいは知ってても知らないフリをしたのか、それとも子母澤記者に無理やり「うまい」といわせたかったものだろうか。
 「せっかくの新鮮な刺し身ガツオを、甘い砂糖醤油なんぞに漬けやがって、なに考えてやがるこの大べらぼうが!」となる、そんな味覚の地方にやってきてうまさの押し売りをするから不可解千万なのだ。子母澤寛も、「人(料理人)のせいにすんじゃねえや、地方の味覚や食文化が丸ごとまちがってんだよ!」と、ノド元まで出かかったにちがいない。
 ことさら避けたいイヤな人物に、とびっきりマズイ「刺身」を食わされただけではなく、取材当時から腹の虫がおさまらなかったらしい子母澤寛は、永見徳太郎が「迷惑人間」で「病気」だったことを隠さず、あからさまに軽蔑をこめた文章を残している。
 つづけて、「旦那文士」から皮肉たっぷりな一節を引用してみよう。
  
 よく「なにか食べに行きましょう」と誘う。御馳走になるのはいいが、こっちは迷惑だったことが多い。交際しているうちに永見さんは妙にこう著作家扱いをされたがる人だなということが次第にわかってきた。世に「旦那文士」というのがある。ろくに物も書きもしないで、それで食ってでもいるようなゼスチュアをしたり、旅行をして宿屋へ泊ると宿帳に職業を「小説家」などとやっつける。無理にも文士交際をしたがりたい人がよくあるでしょう。私の知ってる人でも同じ風なのが二、三人いる。立派に財産があって、ねてても食えるというのになにを好んで文士仲間などに入りたいのか。わざわざ名刺に「伝奇作家」などという肩書をつけている人もいるし、文士の会などというとどこをどうするのか率先出席して一席ぶったりする。一種の病気だろうが、実に気の毒な病人があるものである。
  
 取材からおよそ30年ほどたっているが、子母澤寛は永見徳太郎への怒りを忘れていなかったようだ。“よその地方”へフラッとやってきては、そこに根をはり代々の骨を埋める覚悟もなく傍若無人にふるまい、その土地のさまざまなものをケナしては、居心地が悪くなるといつの間にか行方不明になっていなくなる。こういう不マジメで卑怯な輩はいつの時代にもいるもので、戦時中の寺々にいた「敵前逃亡」坊主たちではないが、昔ながらの「大江戸(おえど)の恥はかき捨て」、いま風にいえば他所で「持続不可能」な言動をやらかしては都合が悪くなるとトンヅラする、没主体的でいい加減な人間の典型を、子母澤寛は見いだしていたのかもしれない。
 確かに、長崎地方からわざわざ東京地方へやってきて住みつき、砂糖醤油の刺身を「こんなうまいものはないだろう」と地元の食文化で育った舌の人間に押し食いさせたりするのは、まったくもってあまりにも地域の食習慣に無知なのか、江戸東京地方の“食”を丸ごと無視してないがしろにしているものか、あるいは上記「旦那文士」のたとえでいえば、ほとんどビョーキの世界だろう。
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 その後、永見徳太郎は「どれもこれもなっていない」東京を引きあげて、温泉地の湯河原(神奈川県)や熱海(静岡県)に移り住んでいるが、そこでも旅館や料理屋に「文士」の名刺を配りながら、この地域には「うまい料理屋がない」と吹聴してまわり、料理人を叱っていたのだろうか? それほど関東あたりの食文化や味覚が不満なら、なぜ長崎へとっとと帰らないんだ? この男は晩年まで故郷には帰らず、最後は文字どおり行方不明になって終わっている。

◆写真上:永見徳太郎のような人間が、江戸東京の料理をけなしながら長崎料理を賞揚すると、長崎料理の品位が大きく下がると思うので蛇足を。長崎料理の東坡肉(とうばに)で、中国料理の東坡肉(トンポウロウ)に似ているが、まちがいなく美味だ。
◆写真中上は、大正期の撮影らしい永見徳太郎。は、「どこをどうするのか」「文士交際したがり」で参加したらしい記念写真。右から左へ「旦那文士」永見徳太郎、マジメな経済学者・武藤長蔵、マジメな小説家・芥川龍之介、マジメな小説家で編集者・菊池寛。
◆写真中下は、サルではなくイヌと写る若き日の子母澤寛。は、いまでも手に入りやすい中公文庫版の子母澤寛『味覚極楽』1983年版()と2004年版()。
◆写真下は、和食・中華・洋食が混ざりあった異国情緒が楽しめる長崎料理屋の卓袱(しっぽく)料理。江戸東京方言では、蕎麦にのせる長崎風の具とからめ「しっぽこ」と発音されることが多い。は、これもコクがあってまちがいなくうまい本場の長崎カステラ。

地域で忘れられた推理作家・本間田麻誉。

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 敗戦から間もない時期に、わずか5編の作品を書いただけで消息不明になった推理小説家がいる。江戸川乱歩が、1950年(昭和25)に雑誌「宝石」1月号(岩谷書店のち宝石社)誌上で作品を賞賛しているので、推理小説ファンの間ではよく知られた名前なのだろう。わずか、4年間しか執筆しなかったのは本間田麻誉(ほんまたまよ)だ。
 敗戦後、日本では空前の推理小説ブームが起きている。戦前も、推理小説の人気は高かったが、戦後のブームはそれに輪をかけたような一大ブームであり、次から次へと推理小説を載せた専門雑誌が発刊されている。それらは、本格的な推理作品を掲載するものから、エログロをベースとした推理小説もどきのお粗末なカストリ雑誌にいたるまで、玉石混交さまざまだった。1960~1970年代に活躍する推理作家の多くが、この時期にデビューしている。もはや伝説となっている本間田麻誉も、そんな推理作家のひとりだった。
 本間田麻誉は出身地も年齢も不明で、また住所もハッキリとはせず、職業は洋服の行商をしていたというのが伝わっているが、営業で外出している間に自宅から出火して全焼し、その後はまったく消息不明になったということらしい。ちなみに、1951年(昭和26)に刊行された『探偵小説年鑑1951』および翌年の1952年版では、本間田麻誉の住所は「埼玉県大里郡花園村小前田2601番地 大久保辰四郎方」となっているが、これは通信の連絡先である可能性が高そうだ。4年間に、わずか5編のみしか作品を残していない本間だが、小説の舞台には戸塚4丁目(現・高田馬場4丁目)や下落合、戸山ヶ原、諏訪町、高田馬場駅など近辺のネームが登場するので、おそらく戦前から戦後にかけ、このあたりのどこかに自宅があったのではないだろうか。
 中でも、1949年(昭和24)5月刊行の「宝石」に掲載された中編『猿神の贄』は、江戸川乱歩が激賞したことで今日まで推理小説の全集や選集に入れられる機会が多いようだ。『猿神の贄』は、戦前から戸塚4丁目のアトリエに住んでいた女流画家「毛利篠女(しのめ)」の告白記録を中心に、下落合に住み上野の博物館に勤務し戦後はデパートに勤めている男「西脇」、諏訪町(現・高田馬場1丁目)の下宿に住み国文学の学生で戦後は新聞記者をしている男「津田」、そして最終的に謎を解き明かす警察医の男「久我」の4者が、それぞれ主体を入れ替えながら展開する「スリラー小説」だ。ちょっと余談だが、戸塚3~4丁目あたりの女流画家といえば、拙ブログではすぐにも戸塚3丁目866番地にアトリエをかまえていた藤川栄子を想起してしまう。本間田麻誉も、どこかで彼女のことを意識して書いたものだろうか?
 1945年(昭和20)5月25日の夜半、第2次山手空襲の中を勤務先から家へもどろうとする毛利篠女と、新宿にあった国文学の師宅から小滝橋通りを歩いて下落合の家へもどろうとする西脇、そして百人町にいた友人の久我宅から諏訪町の下宿へもどろうとする津田、この3者が戸山ヶ原にあった空襲下の陸軍技術本部(陸軍科学研究所)あたりの防空壕で、期せずして交叉することから発生した、おぼろげな「謎」を推理していくという展開で物語は進む。その際の描写や、空襲後の焼け跡風景を表現する著者の本間田麻誉は、少なくとも戦前までは確実にこのあたりに住んでいたと思われる。また、実際に同日の空襲を、これらの地域で経験しているのかもしれない。
 空襲のさなかに一瞬だけ交叉した、相手の容貌もおほろげで名前もわからない男女の物語というと、なにやら菊田一夫『君の名は』の数寄屋橋的でロマンチックな雰囲気が漂うようだが、『猿神の贄』は空襲下の戸山ヶ原で毛利篠女が失神している間に犯され、子どもを身ごもってしまうというパニックから事件がスタートする。
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 この界隈の地名が頻出する箇所を、1949年(昭和24)に刊行された「宝石」5月号収録の、本間田麻誉『猿神の贄』より少し引用してみよう。篠女が戦後に勤務する、銀座のとあるデパートの美術部で、同じデパートに勤務する西脇が彼女に初めて声をかけるくだりだ。
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 「毛利君――君は戦争前、毎日、高田馬場から田端まで省線で通ってやしなかった?」/「まア、よく御存じですのね。画の勉強に通っていたのですけれど……」(中略) 「実は、僕ね、丁度大学を卒て、上野の博物館へ勤めたばかりの頃でね。家は下落合に在ったものだから、高田馬場で西武線を乗換え省線を利用していたのだが、終始君を見かけ、だんだん君が好きになっていたんですよ」(中略) 「空襲で、お家、焼かれましたの?」/「うむ! 下落合の兄貴の家に同居してたんだけど、綺麗薩張りまる焼けさ。誰も死んだ者が無かっただけ、めっけものだったがね。然し、本だけは惜しかったなア」/「ほんとねえ、でも、下落合で罹災なすったのでしたら、五月二十五日ね、わたくしもその日に罹災したんですの。戸塚の四丁目にいたのですから……」/「戸塚四丁目? なんだ、じァ僕んとこの直き傍じゃないか。時計会社の周囲が四丁目だろう。(略)」
  
 毛利篠女は、「下落合で罹災なすったのでしたら、五月二十五日ね」と断定的にいっているが、その前に1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲でも、駅の周囲や幹線道路沿い、河川沿いの工業地域を中心に、下落合は激しい爆撃にさらされている。また、会話に登場する「時計会社」は、早稲田通り沿いにあったシチズン時計株式会社のことで、つい先ごろ解体されたシチズンプラザの敷地に戦前から建っていた。
 下落合に住んでいた「西脇」だが、西武線を利用しているところをみると下落合駅か中井駅の周辺、すなわち1960年代以前の住所でいえば、下落合2丁目(現・下落合4丁目/下落合1丁目の一部/中落合1~2丁目の一部)の下落合駅寄りから下落合3~4丁目(現・中落合/中井)に「兄の家」があったことになる。下落合1丁目(現・下落合1~3丁目)および下落合2丁目(現・下落合4丁目)の東側は、西武線・下落合駅まで歩き電車を待って乗るよりも、山手線の目白駅か高田馬場駅へ歩いたほうがよほど早いからだ。
 あまりネタバレすると、これから『猿神の贄』を読もうと思われる方が、ガッカリするのでほどほどにしておくが、事件の推理には当時の最先端だった法医学分野の血液学、判定方法のABO式・MN式・Q式・S式が引用され、さらに因子型分類および遺伝学的血球分類なども持ちだされて推理が進められていく。また、色覚異常(赤緑色盲)やホクロに関する遺伝の法則(1940年代の医学水準)や、戦前からブームだったフロイトによる精神分析学や記憶喪失などが織りこまれている。
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 特にフロイトの手法や、色弱などによる盲点を応用したトリックや「犯人」さがしは、ときに戦前の推理小説作品にも見られるので別にめずらしくないが、これらの医学的な判定技術や心理学をベースとして、徐々に「犯人」があぶり出されていく過程は、いまでも面白く感じるので、当時の読者は新鮮で新しい表現だと感じたのではないか。
 余談だが、同作に登場する戦時中は国文学の大学生で、諏訪町に下宿していた新聞記者の「津田」は赤緑色覚異常なのだが、うちの親父もまったく同様の色覚異常だった。当時、日本人男性の4.5%が赤緑色覚異常だったというから、それほど驚きはしないが、わたしには遺伝していないので親父の代で色覚異常は終わったことになる。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲を日本橋の実家で体験した親父は、諏訪町の下宿先から学校(途中から勤労動員先)に通っていたが、同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手大空襲にも遭遇し、不運なことに東京における大空襲の“フルコース”を体験している。「津田」の下宿は焼けてしまうが、親父の下宿はかろうじて焼け残り、戦後もそこから大学へ通いつづけた。『猿神の贄』で描かれた山手大空襲の情景は、おそらく逃げまどう親父の目にも焼きついていた、この一帯のありさまだろう。
 『猿神の贄』が「宝石」5月号に掲載されてから7ヶ月後、江戸川乱歩は1950年(昭和25)刊行の「宝石」1月号で、ようやく読んだ同作に関して『「猿神の贄」について』と題し感想を記している。その賞賛ぶりを、同誌より少しだけ引用してみよう。
  
 この作をつい読まないでいたところが、幽鬼太郎の評を見るとなかなか面白そうだし、又別にこの作の優れていることを直接私に教えてくれた人もあって、数日前にやっと一読することが出来た。そして、「猿神」は私の想像したような意味ではなく、精神分析学上の言葉として使われていることも分り、私の毛嫌いは解消し、非常に惹入られて読了した。今年(1949年)に入ってから、これほど感銘を受けた作品はほかになかったと云っていい。(中略) 女主人公の告白と自己分析が中心になっているが、この自己分析は心理的スリラアの上乗なるもの、この部分だけについて云えば、英米の優れた心理スリラア作品に比べても、決して見劣りがしない。精神分析のほかに法医学が取入れられているが、これも作品の構成上必然のものであって、必ずしも目触り(ママ:障り)ではなく、むしろプラスの作用をしていると云ってよいであろう。(カッコ内引用者註)
  
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 西脇は、新宿の恩師の自宅から下落合の兄の家へ帰る途中、小滝橋で空襲に遭い記憶喪失症になるのだけれど、戦前に山手線の車内で見かけていた「絵具箱を肩に掛けた美しい君の姿」の記憶だけが、いちばん最初にもどった……などと調子のいいことをいう男を、毛利篠女さん、安易に信用しちゃダメでしょ。西脇は、調子がいいだけでもともと善良な性格なのだが、都合よく記憶喪失にひっかけるあたりが韓ドラにも似て、現代ではリアリティがやや稀薄なのが難点だろうか。

◆写真上:戸山ヶ原の西側に位置し、陸軍技術本部の建屋群があった跡地の現状。
◆写真中上上左は、1949年(昭和24)に本間田麻誉『猿神の贄』が掲載された「宝石」5月号(宝石社)。上右は、1950年(昭和20)に江戸川乱歩『「猿神の贄」について』が掲載された「宝石」1月号。下左は、阿知波五郎が主宰していた同人誌「メドウサ」Ⅱ号で創刊号には本間田麻誉が寄稿している。下右は、いまでも手にしやすい1974年(昭和49)に出版された『宝石推理小説傑作選/第2巻』(いんなあとりっぷ社)で『猿神の贄』を収録している。
◆写真中下は、1945年(昭和20)4月13日の第1次山手空襲の直前4月2日に撮影された戸山ヶ原とその周辺域。は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲の直前5月17日に撮影された下落合の東部地域。4月13日の空襲で、鉄道や幹線道路沿いにかなりの被害が見える。
◆写真下は、1945年(昭和20) 5月25日夜半の第2次山手空襲直前の5月17日に撮影された戸山ヶ原と戸塚4丁目界隈。は、戦後の1947年(昭和22)に爆撃効果測定用として撮影された戸塚3~4丁目から戸山ヶ原、百人町にまたがる焼け野原。

大正期の「名探偵になるまで」のノウハウ本。

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 大正末から昭和初期にかけ、ベストセラーの実用書に中目黒にあった出版社・章華舎から刊行されていた、「なるまで叢書」シリーズというのがあった。「なるまで」は、そのまま「〇〇になるまで」という、とある職業の「〇〇」になるための方法論やノウハウを記した内容で、「〇〇」は当時のあこがれで人気があった職業名があてられている。1926年(大正15)現在で、すでに50編の叢書が出版されている。
 たとえば、叢書シリーズには『野球選手になるまで』『博士になるまで』『新聞記者になるまで』『囲碁初段になるまで』『将棋初段になるまで』など、それをめざす人なら明日から参考になりそうな実用書もあるけれど、『美人になるまで』『スタアになるまで』『大臣になるまで』など、本人の努力のみではなかなか困難な職業もあったりする。ちなみに、「美人」になるには多彩な勉強や訓練が必要なようだが、もって生まれた容姿はなかなか変化しないので、「美人に(見えるように)なるまで」という、かなり個人差のありそうな主観的な評価のことらしい。
 「なるまで叢書」シリーズの中より、今回は第3編『名探偵になるまで』について少し内容をご紹介してみよう。まず、「名探偵」と呼ばれる職業には警察官(刑事)と私立探偵とがあるが、私立探偵の場合は男女を問わずに就ける職業だと規定している。日本における私立探偵事務所の設立は、1909年(明治42)に岩井三郎が設立した探偵社が嚆矢とされているが、探偵事務所は元手(資本)がほとんど不要なため、関東大震災の直後から東京府内では急増した職業のひとつだ。当時の推理小説ブームと相まって、大正末の警視庁による調査では100社を軽く超えていたという。
 大正時代の大手探偵事務所としては、衆議院(現・千代田区霞が関)に近接した「明審社」と、牛込原町(現・新宿区原町)の「東京探偵社」が広く知られていた。大正後期の探偵事務所には、すでに10人以上の女性探偵がいたと記録されている。当時の探偵仕事は、人物の素行調査や信用調査、結婚の身許調査、弁護士事務所からの証拠調査、家出人(行方不明者)の捜索、不動産の価格調査などがメインだが、今日ではストレートな個人情報漏洩となるので出版されなくなった、各分野の興信録(紳士録)の編集も手がけていた。
 特に身許調査や信用調査などでは、女性探偵が調査にあたると証人もつい気を許して詳細を話してくれたり、素行調査の尾行などでは女性探偵のほうが気づかれにくいという大きなメリットがあった。探偵社に就職すると、まずは試用期間に男女を問わず尾行のテストを数ヶ月間させられたようで、これがうまく達成できないと「キミは探偵に向かないよ」といわれ、正社員には採用してもらえなかったようだ。
 おもしろいエピソードも紹介されていて、とある独身サラリーマンが毎朝電車でいっしょになる美しい女性が気になり、丸ノ内の丸ビルに入る彼女を目撃して、「勤め先を知りたい!」という依頼が探偵事務所にあった。さっそく、新人の中でも優秀な青年探偵が、彼女を待ちぶせして尾行をはじめたのだが、彼女はなぜか丸ビルの1階からエレベーターには乗らず、丸ビルを小走りで通りぬけ隣りの郵船ビルに入ると階段を一気に駆けあがりはじめた。探偵が急いであとを追うが、途中で清掃夫が彼の前に立ちはだかり、その場でボコボコに殴られてしまった。
 彼女は丸ビルに入ると同時に、1階に連なる店舗の鏡面のようになったショウウィンドウに映る、自分を執拗に尾行してくる怪しい男にすでに気づいており、変質者か変態ストーカーだと判断した彼女は(おそらく過去にもそのような事例を経験をしていたのだろう)、すぐに隣りの郵船ビルに逃げこんで清掃夫らに助けを求めたのだった。丸ノ内のOGに尾行をたやすく見破られ、階段でボコボコにされたこの新人で優秀な青年探偵が、その後も事務所で雇用しつづけてもらえたかどうかはさだかでない。同書では男性探偵よりも、むしろ女性探偵のほうが有望であるとしている。
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 第3編『名探偵になるまで』から、女性探偵について少し引用してみよう。
  
 女探偵は或る場合には男よりも便利であると云はれてゐる。即ち、女の身許を調べるとか、女の家出人を捜すとかいふ場合は女同志(ママ:同士)の方が警戒されず、自然成績も挙るし(ママ)、家出人を匿つた家へ行く場合なども、家族は多く女であるから女同志(ママ)の方が懇意になつて事実を引出すにも便利であり、或る場合は子供を連れて訪問すると、非常に都合がいゝといふ。適任者さへあれば女探偵の仕事は無限にあると云つて差支へない。/一体人間には誰しも探偵的興味のあるものであり、殊に女には男より多いと云はれてゐる位であるし、女は直覚の点では男以上であるから、或る意味に於ては男よりも適任であるかも知れない。日本にも軈(やが)ては女の名探偵が現はれるであらう。(カッコ内引用者註)
  
 著者が、なぜ女性探偵を強く推奨しているのかといえば、実際の探偵業務には小説や映画などにあるようなバイオレンスも、心おどらせるサスペンスも、おどろおどろしいスリリングな場面もほとんどなく、非常に地味で定型的で根気と熱意が必要な仕事だと、あらかじめ同書のはじめで断っているからだ。探偵小説に登場するような、殺人や誘拐、監禁、強盗、傷害などの派手な事件は警視庁の探偵(刑事)の仕事であり、民間の私立探偵が関与できる余地などほとんどないと書いている。ホームズ明智小五郎が活躍する小説を読み、私立探偵にあこがれてなろうとすると、まったく異なる世界であることを読者に納得させたかったのだろう。
 また、元・刑事や警察官も、民間の私立探偵社には「適しない」と書いている。彼らはすぐに「威嚇」をして横柄な態度をとるからで、依頼案件に対する協力者を減らす主因になっていたらしい。「民間探偵として成功するには、最初から民間探偵で行くに限る」とし、男性なら20歳、女性なら18歳ぐらいから修業するのか最適だとしている。
 ちなみに、大正末の私立探偵社の給与は、新人探偵が40円/月ぐらいでベテラン探偵が100円/月ぐらい支給されていたようなので、それほど悪い条件ではなかっただろう。また、依頼者の事案ごとに多少の成功報酬ももらえたようで、経済的に困るような職業ではないとしている。大卒の国家公務員の初任給が50円だった時代であり、ベテランの女性探偵にとってはいい稼ぎになったのではないだろうか。ただし、勤務時間の拘束がないのは警察官といっしょで、依頼があればいつでもどこでも即座に出動しなければならなかった。
 さて、昔の事蹟を調べていると、そんな私立探偵社が足で調べた詳細な資料にぶつかることが多々ある。落合地域について資料を漁っていると、何度となくいきあたるのが「土地評価」のレポート、すなわち不動産価格の現地調査報告書だ。〇〇興信所とか〇〇探偵社が、当該地域の地元不動産屋(周旋屋)や住民(地主など)たちを取材して情報を集めた、おもに地価と周囲の地域環境を記録したレポートだ。落合地域でも、何度となく類似の評価レポートがつくられ、企業や店舗、不動産業者、土地投機家などに活用されていたのだろう。
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 日本橋区坂元町にあった東京興信所が、近衛町目白文化村の販売を開始する1922年(大正11)の3月現在で調べた、「豊多摩郡落合村土地概評価」という報告書が残っている。同報告書では、落合村を上落合・下落合・葛ヶ谷(のち西落合)の大字に分けた章立てで、それぞれの環境と字名ごとの地価を調査しているが、これを参照しながら企業は工場立地などの進出先を、店舗なら開業立地の条件を、不動産業なら開発の可能性を探る検討材料にしていたのだろう。
 その中に、地元不動産屋や住民(地主)たちに取材したとみられる、興味深い記述が残っているのでご紹介したい。それは、同レポートに書かれた落合村の地勢記録だ。
  
 神田上水以北、不動谷以東の高台。此の区域は当村の東部三分の一を占め西郊より目白台を経て東京市と通ずる要路筋に当り目白(東端より約一丁)高田馬場(大島邸附近即ち俗称七曲りより約四丁)の両駅の便あり 最も古くより而して最も発展せる地域にして高台の南部は幾多の窪地を挟みて突出し何れも南面して見晴しを有し(場所によりては西及び東の眺望を兼有す) 優れたる邸宅地となり 此処に相馬邸、近衛邸(字丸山) 大島邸、徳川邸(字本村) 谷邸、川村邸(字不動谷)等あり、北部にも字新田の舟橋邸、中原の浅川邸等あり
  
 下落合の東部を解説している文章だが、明らかに「不動谷」青柳ヶ原の西側にある谷(西ノ谷)として境界設定し、その東側に拡がる地勢を紹介している。興信所の調査員は、必ず現地を訪れて取材調査しているはずで、この地理に関する認識は地元住民たちの共通認識でもあったとみられる。徳川邸谷邸川村邸は不動谷の出口、現在の聖母坂下の近辺にあった邸であり、また浅川邸は曾宮一念アトリエの東隣り、佐伯祐三「浅川ヘイ」を描いた大屋敷だ。
 この時期、箱根土地の堤康次郎郊外遊園地として設置し、ほどなく目白文化村の開発で消滅し同社の庭園名となった「不動園」の名称が、落合地域に浸透していたとは思えず、また江戸期には中井御霊社にあった中井不動尊は、開発の協業地主である小野田家の屋敷内にあった時代であり、前谷戸のことを「不動谷」と呼ぶ住民は当の開発関係者を除き、ほとんどいなかったのではないか。「不動谷は、どうして西へいっちゃったんでしょうね?」という、下落合東部の古老たちがつぶやかれていた疑問は、上記「落合村土地概評価」の調査に応じた地元の不動産業者や住民(地主)たち、そして取材した当時の調査員(探偵)とも共通する疑問だったのではないか。
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 ちなみに、当時の落合地域でもっとも価格の高い土地は、目白通り(旧・清戸道)で南北に分断された、下落合東部にあたる(字)新田の商業地で60円/坪、そのすぐ西側で江戸期から「椎名町」と呼ばれていた目白通り沿いの(字)中原の同じく商業地が50円/坪、目白駅に近く東京土地住宅の常務・三宅勘一近衛町を開発中の(字)丸山が50円/坪、次いで七曲坂をはさみ丸山の西側で鎌倉時代から村落があったとみられる、鎌倉支道が通う(字)本村が45円/坪という評価順だった。

◆写真上:ロンドンで再現された、シャーロック・ホームズの事務所兼自宅アパート。
◆写真中上は、大正期に章華舎から出版された「なるまで叢書」の一部。は、同シリーズ第3編『名探偵になるまで』の表紙()とその奥付()。
◆写真中下:現実の探偵業務には、こんなワクワクするスリリングな場面はほとんどないし()、そんなドキドキして鼻血が出そうになるエロい美女たちにも出逢えないし()、ましてや、あんなオドロオドロしい恐怖の事件現場にも残念ながら遭遇できない()、ひどく地味で根気のいる仕事だ。このような幻想を否定するのも、同書が書かれた趣意のひとつだろうか。上からシャーロック・ホームズ、明智小五郎、金田一耕助の事件現場シーン。
◆写真下は、1955年(昭和30)に撮影された戦後もっとも有名になった女性探偵の佐藤みどり。戦後、探偵だった父親の仕事をそのまま引き継ぎ日本橋で「佐藤みどり探偵局」を開業しており、事務所で依頼者にわたす調査報告書を作成中のスナップ。は、1922年(大正11)に刊行された東京興信所による「豊多摩郡落合村土地概評価」の調査報告書()とその奥付()。

上落合で制作された美しい『鳥類写生図譜』。

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 考えてみますと、3月の年度末はバタバタしそうなので、正月休みのうちにこちらへ移動してしまいました。すべての記事を移行するのに丸1日かかりましたが、なんとか全記事を無事に移し終えたようです。操作系もチューニングも、旧ブログとはまったく異なり、途方に暮れることばかりですが、可能な限りこちらへアーティクルをアップしつづけたいと思います。
  
 上落合には戦前、大勢の日本画家が住んでいた。少し挙げただけでも、上落合421番地の土岡泉(のち土岡春郊)をはじめ、、上落合411番地の東山新吉、上落合425番地の小泉勝爾、上落合466番地の田中針水、上落合583番地の大塚鳥月、上落合608番地の関田華堂など、細かく調べればキリがないほどだ。
 その中で、上落合421番地(現・上落合2丁目6番地)在住の土岡泉(春郊)と、上落合425番地(現・上落合1丁目23番地)の小泉勝爾が協同で面白い企画を起ちあげている。それは、日本に棲息あるいは渡来するおもな野鳥を、美術分野だけでなく自然科学(鳥類学など)の領域でも活用できるよう、写真を凌駕する高精細な写生をして定期的に会員へ頒布するという、それまで誰も試みなかった事業だ。小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、そのために当初は上落合407番地(現・上落合2丁目4番地)の土岡泉邸を刊行会事務所にし、鳥類写生図譜刊行会を設立して頒布会の会員を募っていたが、土岡が上落合421番地へ転居すると、上落合407番地はそのまま同刊行会の事務所兼仕事場になっていたようだ。
 1927年(昭和2)7月に、頒布会員へ向けた第1期第1輯「キビタキ/モズ」の刊行を皮きりに、1938年(昭和13)の第4期12輯「ウミネコ/オカメインコ」まで100種の鳥類を紹介しており、約12年間にわたってつづけられた仕事だ。落合地域には、棲息あるいは渡来する野鳥がたくさんいるけれど、『鳥類写生図譜』にはその多くが収録されている。1輯には2種類ずつの野鳥が紹介されており、その各種姿態や生態を描いた画面も付属しているので、100種類の野鳥の紹介には200画面の付図が制作されている。そして、各野鳥には詳細な解説文が添付されており、たいへん地味な仕事だが美しい仕あがりとなった。
 『鳥類写生図譜』刊行の推薦人には、当時の東京美術学校校長の正木直彦をはじめ、同校日本画科教授の川合玉堂、同じく教授の結城素明、帝国美術院の荒木十畝が、また鳥類学会からは日本鳥学会の会頭で鳥の会会長の鷹司信輔、同会役員の黒田長禮などが名前を連ねていた。なお、『鳥類写生図譜』の題字は正木直彦が書き、結城素明が監修役として参画しているが、これは東京美術学校における恩師の結城に相談して、同図譜の刊行を進めているからだろう。刊行ののちも、土岡泉はたびたび結城素明を訪ねてはアドバイスを受けているようだ。
 小泉勝爾は、『野鳥写生図譜』刊行時には東京美術学校の助教授であり、土岡泉(春郊)は鳥の会会員だった。特に土岡は、「鳥の春郊」と呼ばれるほど鳥類の描写に優れており、同図譜に添えられた詳細な解説は、鳥の会会員でもある土岡の仕事だろう。小泉勝爾は1883年(明治16)に荏原郡品川町北品川(現・品川区北品川)生まれだが、土岡泉は1891年(明治24)に福井県武生市(現・越前市)で生まれ、小泉より8歳も年下だった。『鳥類写生図譜』は、鳥好きな土岡が先輩の小泉に協同制作の提案をしたものだろうか。
 土岡泉(春郊)は、1916年(大正5)に東京美術学校日本画科を卒業すると、作品を帝展に出品しつづけている日本画家だ。特に当時は、鳥を描かせたら土岡の右に出る者はないとまでいわれていた。自身も大の鳥好きだったらしく、鳥の会の会合には熱心に出席しており、『鳥類写生図譜』に収録された解説文にみる豊富な野鳥の知識も、同会で学んだ成果なのだろう。ちなみに、土岡泉(春郊)の弟は北陸で独立美術協会展を誘致したり、前衛美術運動を推進した美術評論家の土岡秀太郎だ。
 また、土岡の先輩にあたる小泉勝爾は、1907年(明治40)に東京美術学校日本画科を卒業すると、すぐに美術教師となって茨城県龍ヶ崎中学校へ赴任したが、教職が肌にあわなかったのか翌年には退職している。その後、東京美術学校へともどると1916年(大正5)に助教授に就任し、1917年(大正6)から文展に、翌年からは帝展にほぼ毎年出品しつづけ入選している。1931年(昭和6)の第12回帝展では、『濤の聲』が帝展特選になっている。翌年には帝展無鑑査となり、1934年(昭和9)には帝展審査員となっていた。風景画が得意だったようだけれど、『鳥類写生図譜』では鳥も描いているが、その背景となる草花や樹木などの描写を、おもに担当しているとみられる。
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 刊行会からの頒布がはじまると、『鳥類写生図譜』は国内ばかりでなく海外からも大きな注目を集めている。当時の様子を、1982年(昭和57)に講談社から出版された小泉勝爾・土岡泉『日本鳥類写生大図譜』(原版複写本)の解説文より、少し引用してみよう。
  
 発売と同時に内外の反響も大きく「昭和二年秋に来朝されたる仏国鳥学会の権威デラクラー氏(ママ)は、本図譜を見て深く之を賞揚し、遂に著者に嘱して自ら発見したる珍鳥を描かしめたり」、「ベルリンに於ける世界屈指の美術出版業レヲポルドワイス社より本図譜の世界一手頒布権譲受の交渉ありたり」といった記録もあり、昭和六年三月には鳥の会主催の「第十回鳥の展覧会」で名誉賞を授与せられている。(カッコ内引用者註)
  
 現代でも、ヨーロッパ各国の図書館に『鳥類写生図譜』が収蔵されているのは、フランスの鳥類学者ジャン・デラクールが推薦したからだろう。
 6号サイズほどの大判和紙、越前鳥之子紙を採用して印刷しているが、その製版作業は多大な負荷(コストと手間)がかかったらしい。鳥1種目の絵の製版作業で、色校に納得がいくまで2~3ヶ月もかかることがめずらしくなく、出費がかさみつづけて採算度外視の仕事となってしまった。また、ちょうど金融恐慌から大恐慌と重なる時期の仕事となったため、刊行第3期の終わりには一度刊行の継続を断念しかかっている。だが、(財)啓明会からの支援で刊行がつづけられ、残り25種の鳥類を続刊することができた。
 『鳥類写生図譜』は、前述のように100種類の鳥を描いた100作品に、付属の姿態図や部分図100点の計200図版が掲載・印刷されているが、より細かく図版を分類すると鳥の姿態写生が540点に、部分写生が150点の計690点にものぼる膨大な図画点数を描いたことになる。その精密・精緻な描写と正確な色彩から、日本画界はもちろん鳥類学会や生物学会から高い評価を受け、鳥類の図鑑としては「首位としての讃辞を賜はつた事は著者の衷心より満足とする処」だと、のちに土岡泉(春郊)は誇らしげに記している。現代でも、その評価は変わっていないのか、鳥類学者や野鳥サークルのお薦め図譜となっている。
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小泉勝爾と土岡泉(春郊)は、『鳥類写生図譜』を刊行するにあたり、次の4つのテーマを主軸にすえている。『鳥類写生図譜』第1期1輯(1927年)より引用してみよう。
  
 一、在来の鳥類に関する図譜は余りに絵画化せられて鳥そのものゝ自然の形態、色彩、習性の描写に憾多く、剰へ用筆省略に過ぎ、且つ実物大、実物色のもの少きを以て此等の欠点を補足する為に特に厳密なる写生を基本とすること/一、学術上の参考書は多くは皆一様の標本図にして生気に乏しきを以て、その自然に於ける生活状態及び姿態の運動に依る変化を主眼とすること/一、従来の花鳥参考書が美術上と学術上との研究が併行せず、為に雌雄羽色の差別、幼鳥成鳥老鳥による羽彩の変化、春秋の換羽による相違等を検討不備の為に別種となすが如き誤れる認識を一掃すること/一、其他写生図譜の無味乾燥に流れるの弊を補ふ為に、その鳥と最も密接なる関係にある花卉草木蟲類を配して最も美術的に画き且つ日本画独特の雅致風韻を具備せる花鳥図鑑とすること
  
 要するに、鳥類図鑑としては従来にないほど精密かつ正確にモチーフを表現するが、日本画の美術的な側面も意識して描くので、額装しても軸画にしても鑑賞に耐えうる絵画作品として成立するように制作する……ということだろう。おそらく、何度も色校正が行なわれたであろう越前鳥子紙に印刷された画面は、確かに今日でも色褪せない美しさを保っており、むしろ1982年(昭和57)に講談社から復刻された『日本鳥類写生大図譜』のオフセット印刷のほうが、実際に棲息している鳥類の色彩とは異なる印象を受ける。
 野鳥写生図譜刊行会への入会申込金は2円で、図譜が送られる月ごとの会費は2円50銭だった。したがって、初年はぜんぶで合計32円(送料は別途)ほどが必要だったが、一括で1年分を先払いすると入会申込金は免除され、年間の会費が28円と4円ほど安くなった。当時、どれほどの会員が入会していたのかは不明だが、世の中は金融恐慌から世界大恐慌へ向かっている時期と重なるので、会員数は思うように伸びなかったのではないだろうか。
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 さて、上落合1丁目407番地は光徳寺の北側に位置する三角形の区画で、1938年(昭和13)に作成された「火保図」を参照すると、6軒の建物に1ヶ所の空き地を確認できる。おそらく、この中の1軒が刊行会の事務所兼仕事場(元・土岡泉アトリエ)だったのではないだろうか。また、光徳寺の北隣りには同1丁目425番地の小泉勝爾のアトリエが、同寺の西側には同1丁目421番地の土岡泉(春郊)のアトリエがあったので、海外でも話題を呼んだ労作の『鳥類写生図譜』は、上落合のごく限られた街角の一画で制作されていたことになる。

◆写真上:『鳥類写生図譜』の第2期8輯で描かれた、下落合では外出するとほぼ毎日そこいらでつがいを見かけるキジバト(ヤマバト)
◆写真中上は、『鳥類写生図譜』の第1期1輯でいちばん最初に描かれたキビタキとその姿態付図。は、第2期4輯で制作されたホオジロと姿態付図。は、第1期3輯で描かれたコゲラ。いずれも下落合の森や屋敷林ではおなじみの野鳥たちで、特にコゲラは木の幹をコッコッコッと連打する音ですぐにわかる。
◆写真中下は、第3期1輯のバンと姿態付図。神田川や妙正寺川沿いの道でセキレイやカモ、サギ類とともに見かける野鳥。は、落合地域ではヒヨドリオナガとともにポピュラーなメジロと姿態付図。は、相模湾ではおなじみのアオバト。丹沢山塊から群れで湘南海岸の岩場へ飛来し、夕暮れとともに山へ帰る。以前、おとめ山公園にもアオバトが飛来するとうかがって驚いた記憶がある。
◆写真下は、日本画家の小泉勝爾()と土岡泉(土岡春郊/)。は、1938年(昭和13)に作成された「火保図」にみる両画家のアトリエと刊行会事務所があったあたり。下左は、1930年(昭和5)に刊行された『鳥類写生図譜』第2期1輯~12輯の合本。下右は、1982年(昭和57)に講談社から復刻本として出版された『日本鳥類写生大図鑑』。
おまけ
 1945年(昭和20)4月2日に撮影された、第1次山手空襲(4月13日夜半)直前の上落合の様子で、野鳥写真図譜刊行会と土岡泉(春郊)・小泉勝爾が住んでいた両アトリエ周辺の街並み。
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大空襲の遺体が地表へ這いあがる話。

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 以前、1945年(昭和20)3月10日未明の東京大空襲Click!について、米軍の偵察機F13Click!が撮影した午前10時30分すぎの写真とともに、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校Click!)近くの実家にいた家族たちの避難ルートClick!をご紹介したことがあった。
 同時に、大橋(両国橋)Click!東詰めの本所に住む菊池正浩という方の家族が、自宅から上野公園まで避難する経緯も、関東大震災Click!の大きな川筋における火のまわり方(大火流)Click!とともにご紹介している。また、向島側と浅草側の避難民が衝突して身動きがとれなくなった、言問橋Click!の惨事についても記事にしたばかりだ。本所から大川(隅田川)の大橋をわたり、西へ逃げた菊池家についての本が出ているのを最近知った。2014年(平成26)に草思社から出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』だ。
 著者の一家は、大橋(両国橋)をわたり本所元町や同相生町から南の堅川に架かる一ノ橋をわたった、本所の千歳町10番地(現・墨田区千歳1丁目)に住んでいた。また、母親の実家となる中西家は、大川と堅川に面した本所元町268番地(のち本所区東両国1丁目/現・墨田区両国1丁目)で暮らしていた。菊池家と母親の実家とは、直線距離で200mと離れていない。この2家族が、それぞれの家で東京大空襲の夜を迎えることになる。
 菊池一家も、関東大震災の教訓を知悉している祖父のリードのもと、遮蔽物のない大きな川の近くにいては危険ということで、大橋を西側(日本橋側)へわたったあと柳橋Click!をわたり神田方面へと逃げている。神田のフルーツパーラー「万惣」Click!は祖母の遠い親戚筋にあたるそうだが、「万世橋」(浅草橋Click!の誤記?)から南へ折れ日本橋馬喰町から同小伝馬町、同橋本町、同室町とたどり、日本銀行Click!日本橋三越Click!へ出たあと大手町から千代田城Click!方面へ逃げようと計画したらしい。この避難ルートは、わたしの家族が逃げたルートとも何ヶ所か重なっている。
 だが、ここで菊池家は、万世橋から反対方向の上野をめざして避難することになった。理由は、神田小川町や同淡路町方面に火の手が見えたとのことだが、このとき万世橋を「万惣」の方角へ折れるか、神田川に架かるいずれかの橋をわたり日本橋をめざして急いで南下していれば、うちの家族と同様にそれ以上の危険なめに遭うことはなかっただろう。菊池家は日本橋ではなく、まず知り合いのいる湯島天神をめざして北上していった。
 ところが、黒門町まできたときに、本郷や湯島方面から火の手が上がるのが見えたので、迫る大火災に背を向け、上野広小路の交差点から不忍池へと逃れ、そこから上野山へとようやくたどり着いている。このとき、著者は父親か母親の背中でグッスリ寝ており、3月10日夜の公園内の様子は記憶していない。上野公園は、関東大震災のときと同様に濃い森林が幸いして、各町からの大火流を食い止めていた。著者は、なにもない避難用の広場より、「木が豊かなところが避難場所に適している」と書いている。
 翌朝、起きてみると火災で焼けた道路を歩いてきたせいか、靴裏が破れ足の裏がひどく火傷していることに気づいた。大火災により、空気が急激に膨張して起きる火事嵐=大火流Click!で、道路を炎がなめて焼けていたのだろう。3月10日は著者の誕生日で、小学校に上がる直前の満6歳だった。この夜、空襲で焼き殺されたのは10万人超、いまだ行方不明者がどれぐらいいるかわからないのは、何度か記事Click!に書いてきたとおりだ。
 丸1日を上野公園ですごし3月11日の朝、実家のあった本所千歳町へともどる途中の光景は、著者が「話したくない」と書いているように悲惨のひと言だった。ときに、焼死体を踏まなければ歩けないような凄惨な道程だった。その様子の一端を、2014年(平成26)に出版された菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)から少し引用してみよう。
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 (犠牲者の遺体を)鳶口などで引っ掛けては、大八車やリヤカーへ無造作に積み重ね、埋葬場所へと運ぶ。埋葬場所といっても適当な空地や隅田公園などに大きな穴を掘り、放り込んで埋めるだけである。棺桶などはあるはずもない。ただの土葬である。戦後しばらくして掘り返されたわずかな遺骨は、何人分かをまとめて骨壺に入れられ、震災慰霊堂へ保管された。多くの犠牲者はビルやマンションが建ち並ぶ地下に眠っている。/下町といわれる一帯は、明暦の大火以降、多くの災害で亡くなった数十万の人に支えられてあるといっても過言ではない。(カッコ内引用者註)
  
 著者が遺体処理を目撃していたころ、わたしの義父Click!は麻布1連隊(第1師団)のトラックを運転し、大空襲による重傷者(おもに大火傷)を、次々と下落合の聖母病院Click!(1943年より軍部の命令で「国際」を外され単に「聖母病院」となっていた)までピストン輸送していた。国際聖母病院で亡くなった重傷者も、少なからずいたはずだ。
 わたしはよく記事の中で、東京は街全体が「事故物件」であり、そのような環境で「心霊スポット」や「心理的瑕疵物件」などといっているのは滑稽で笑止千万……というようなニュアンスの文章を書いているが、特に(城)下町Click!つづきの東京市街地(旧・大江戸エリアClick!)は、江戸期の初めから東京大空襲まで数えても、足もとにいまだ何万体の遺体が人知れず眠っているか不明なままの、街が丸ごと「心理的瑕疵物件」だ。
 現在でも、東京各地の自治体では東京大空襲による犠牲者の遺骨収集Click!をつづけているが、戦後78年が経過しても発見されている。菊池正浩は「隅田公園」を例に挙げているが、わたしは以前にこんな“怪談”を聞いたことがある。
 自治体では、遺骨収集の計画にもとづいて各地の公園や空き地、学校、公共施設の建て替え、あるいは大規模な道路工事などの際、戦後の記録や生存者の証言などにより発掘調査を行うが、前年に調査・発掘して遺骨を収集した場所でも、再び地表面の近くで少なからぬ遺骨が見つかるという。すでに遺骨を発掘・収集を終えているので、今回はより深く掘削して残りの遺骨を探す計画だったものが、再び地表面近くの同じ位置で遺骨が何度も繰り返し発見されるというのだ。
 つまり、5m以上も深く掘られた穴へ投げこまれた数多くの犠牲者の遺体が、少しでも早く発見してもらいたくて地中を上へ上へと這いあがってきているのではないか?……というのが、東京大空襲にからんで語られる有名な“怪談”のひとつだ。特に卒業式や終業式のため、疎開先からわざわざ東京へ一時的にもどっていた小中学生にとっては、悔やんでも悔やみきれない無念の死だったろう。この話が、人を怖がらせるためだけに作られた荒唐無稽な「怪談」とは異なり、非常にリアルかつ身近に感じるのは、事実として無念の死を迎えた人々の遺体があと何万体(関東大震災なども含め)、この街の足もとに人知れず埋まっているのかがわからず、わたしたちがその上で平然と生活し、歩きまわっているからだろう。
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 余談だが、菊池家は明治期に東京へやってきているそうなので、わたしの親世代や祖父母世代から上の感覚でいうと、同書には違和感をおぼえる記述がいくつかある。大橋の東詰めは本所であって、少なくとも地付きの人々は1960年代ごろまでは「両国」とは呼んでいない。総武線の両国駅があるので、「両国」と呼ばれはじめたのは昭和期に入ってからだ。したがって、女学生たちがヒロポンを注射され風船爆弾Click!製造に動員されていた、そこにある国技館は本所国技館であって、「両国国技館」とは(少なくとも大川の西側からは)呼んでいない。両国国技館は、両国駅の北側にある現代の施設だ。
 大橋の東詰め一帯にある本所松坂町や本所相生町、本所松井町、本所小泉町などから「本所」(一帯は江戸期より「南本所」と呼ばれていた)がとれたのは町名の上に本所区が成立したからで、明治以降に「本所区本所〇〇町」ではクドく感じて面倒だったのは、大橋の西側が日本橋区になり、各町名のアタマから江戸期よりつづいていた「日本橋」を外したのと同じ感覚であり経緯だ。たぶん、わたしの親世代でさえ「東両国〇丁目」というよりは、「本所〇〇町」といったほうがピンときて話が通じやすかっただろう。日本橋区も京橋区と統合され、中央区という名称になっているけれど、町名の上に本来の「日本橋」を復活させる自治体の動きは、めんど臭いのかわたしの知るかぎり存在していない。
 また、以下のような記述がある。同書より、つづけて引用してみよう。
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 深川の思い出といえば八幡祭りが思い出される。/毎年八月十五日を中心に行なわれ、江戸三大祭りの一つに数えられている。他は神田明神と山王日枝神社で「神輿の深川、山車の神田、だだっ広いが山王さま」といわれ、それぞれ百ヵ町村以上の氏子町内を有していた。いずれも「天下祭」という寺社奉行直轄免許の祭礼であり、なかでも八幡宮の祭礼は勇み肌祭礼として、勇壮な神輿振りで庶民に人気があった。
  
 上記の文章には、明らかな誤りがあるので指摘しておきたい。深川八幡社(富岡八幡宮)Click!の祭りが、「江戸三大祭り」なのはまちがいないし、同祭が日本最大の神輿(4.5トン)を担ぐ“いなせ”で勇み肌なのも事実だ。ちなみに、日本橋地域のわが家は神田明神Click!の氏子で、氏子町は旧・神田区や旧・日本橋区を中心に八重洲や京橋方面も含め、ゆうに150町(江戸期の町数:昭和期に区域や地名、町名などが統廃合され現在は108町)を超えている。だが、深川八幡祭は史的に「天下祭り」とは呼ばれていない。
 「天下祭り」は、千代田城に山車や神輿が繰りこみ、ときの徳川将軍が観覧する神田明神Click!(北関東は世良田氏=松平・徳川氏の徳阿弥時代<鎌倉末期>からの氏子)と、日枝権現Click!(徳川家の産土神)の2社だけだ。深川八幡祭が「天下祭り」と呼ばれだしたのは、明治以降のことだろう。また、「寺社奉行直轄免許の祭礼」は江戸市中のおもな寺社祭礼には出されていたもので、特に上記の3社に限ったことではない。
 さらに、著者は「江戸城」と書いているが、江戸城は大江戸以外の地方・地域(他藩)から江戸表の同城を呼称するときに使用される名称であり、また江戸城Click!は1457年(康正3/長禄元)の室町期に太田道灌Click!が建てた日本最古クラスの城の呼称であって、それと区別するために地付きの人々が徳川幕府の城を表現するときは、戦前戦後を通じ一貫して単に「お城」、または昔からの地域名をとって「千代田城」と呼称している。
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 同書では、1946年(昭和21)に日本地図(のち日地出版)が刊行した『東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』の詳細を紹介している。確かに、戦後間もない植野録夫社長の仕事には頭が下がる思いだ。けれども、同地図には誤りが多々散見される。戦後、F13が1947~1948年(昭和22~23)にかけ爆撃効果測定用に撮影した空中写真Click!と同地図とを重ねあわせると、特に山手大空襲Click!地域における焼失区域と焼け残った区域とが、かなり異なって一致しないことに、ここ10数年気づかされつづけている。詳細な被害地区を特定するには同地図よりも、米軍の精細な空中写真を参照するほうがより正確な規定ができるだろう。

◆写真上:小名木川出口の、深川芭蕉庵跡から清州橋方向を眺める。大空襲のあった翌朝、大川には無数の犠牲者が浮かび東京湾へと流されていった。
◆写真中上は、一ノ橋から大川へと注ぐ堅川水門を眺めたところ。著者の家は堅川の左手(千歳町)に、母親の実家は川の右手(相生町)にあった。は、空襲がはじまってすぐに避難した同書にも登場している本所回向院の鼠小僧次郎吉の墓と力塚。
◆写真中下:1945年(昭和20)3月10日の午前10時35分から数分間、大空襲の翌朝に東京を撮影した米軍の偵察写真。いまだ各地で、延焼中の煙が見えている。
◆写真下は、1909年(明治42)に竣工した本所国技館。は、夏の深川八幡の祭礼でかつがれる日本最大(4.5トン)の富岡八幡宮神輿。下左は、2014年(平成26)出版の菊池正浩『地図で読む東京大空襲』(草思社)。下右は、戦後間もない1946年(昭和21)に出版された『コンサイス/東京都35区区分地図帖-戦災焼失区域表示-』(日本地図)。
おまけ
 新型コロナ禍で中止されていた神田祭が、ようやく今年は開催された。「天下祭り」Click!の名のとおり、神輿かつぎや山車ひき、先導も含め女子が多いのも同祭の特徴だ。ちなみに神田祭には、昔から男神輿と女神輿の区別がない。もうすぐ創建から1300周年祭を迎える江戸東京総鎮守・神田明神の本神輿や山車は、柴崎村(現・大手町)の旧・神田明神跡(将門首塚)Click!で主柱「将門」を載せたあと、同じく主柱の出雲神オオクニヌシの神輿とともに神田町内を巡行する。神田・日本橋・京橋・八重洲・大手町その他の各町内からは、150基を超える神輿や山車が繰りだす日本最大の祭り(参加氏子総数は200万人前後ともいわれる)だが、神田から御茶ノ水、湯島一帯の交通がマヒしてしまうので、現在では観光客や見物客も多いため、氏子町の全神輿が神田明神下へ勢ぞろいするのはなかなか困難だ。写真は、日本橋筋から神田方向へと進む神輿連。いちばん下の写真は、大川(隅田川)の大橋(両国橋)から柳橋をくぐり神田川を明神下までさかのぼる、東日本橋界隈の舟神輿(舟渡御)。
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まったく面白くない住谷磐根の武蔵野散歩。

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 少し前、上落合に住みマヴォClick!へ参加していた住谷磐根Click!についてご紹介したが、彼は1970年代の半ばに武蔵野各地を散策・取材し、1974年(昭和49)12月から1978年(昭和53)12月にかけて、地元の武蔵野新聞にエッセイを連載している。
 わたしが高校時代から学生時代にかけ、武蔵野Click!(おもに小金井と国分寺)を歩いていたころとちょうど時期的に重なるため、連載エッセイをまとめてのちに出版された書籍『点描 武蔵野』が手に入ったので、じっくり読むのを楽しみにしていた。同書は、挿画も住谷磐根が担当しており、画文集として当時の懐かしい情景が画家の目をとおして描かれていると思ったからだ。ところが、とんだ期待はずれだった。
 住谷磐根は、当時の「武蔵野」Click!と認識されていた東京近郊の街、すなわち武蔵野市にはじまり昭島市まで18自治体を取りあげ、それとは別に「井の頭公園」「深大寺」「多磨霊園」「大国魂神社」「北多摩の基督教」「多摩地区の郵便」と6つのテーマについて記述している。東京の市街地からそれほど離れていない、当時は宅地開発が盛んだった東京近郊の街々を対象に、武蔵野の面影を訪ねて歩きまわる内容だ……と想像していた。
 わたしは岸田劉生Click!曾宮一念Click!木村荘八Click!織田一磨Click!山田新一Click!小島善太郎Click!鈴木良三Click!村山知義Click!などが書いた、それぞれの画家の視点から風景やテーマ、生活などを見つめるようなエッセイを期待していたのだけれど、住谷磐根が描く「武蔵野」はそれらとはまったく無縁だったのだ。たとえば、わたしが1970年代によく歩いた小金井市についての文章を、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』から、少しだけ引用してみよう。
  
 甲武鉄道(現在の中央線)が開通し、大正十五年(一九二六)武蔵小金井駅が開設されて、東京との交通が便利になり、人口も年月を追って増大し、昭和三十九年九月には東小金井駅が新たに出来てなお一層便利になった。/昭和三十三年十月、市政がしかれ、市の木を「欅」、市の花を「桜」と定めるなど、自然に対する市民の心のよりどころを提唱し、近代思潮に乗って学園都市文化施設の誘導にも力を入れている。/かつて第一次世界大戦の後、貫井北町北部一帯の広大な土地に陸軍技術研究所が出来て、(中略) 終戦後その跡地には郵政省電波研究所が、昭和二十七年八月発足し、(中略) 総て現在及び将来に向って最大限に国民の福祉に活用するための研究がなされている。
  
 わたしがいいたいことは、すでにみなさんにもおわかりだと思う。このような内容は、別に住谷磐根が書かなくても当時の自治体が発行するパンフや市史、今日ならWebを参照すれば即座に入手できる情報であって、わざわざ画家が書く文章世界とは思えない。住谷磐根が、実際に武蔵野のどこを歩き、なにを見て、どのような体験をし、そのモチーフやテーマからなにを感じとり、それについてどう思い、なにを考えたのかが知りたいのであって、自治体が発信する行政報告書の概要を読みたいのではない。
 ところが、ほぼすべての街々についての記述が、このような表現の繰り返しなのだ。連載が武蔵野新聞なので、記事を書くようなつもりで文章を書いたものだろうか。あるいは、編集部から主観をできるだけ排し、「客観的」な記述にしてくれというような注文でもあったのだろうか?(画家の署名入りエッセイなのでそうは思えない) 同書の「あとがき」では、「行く先々で先ず市役所の広報部と教育委員会を訪ねていろいろ伺」ったと書いているが、そもそもアプローチからして画家らしくないと感じるのはわたしだけではあるまい。
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 最初は几帳面な性格から、街の成り立ちや概要から書きはじめないと筆が進まないのかと思ったのだが、ほとんどがこのような記述で埋められているのを読み、僭越ながら彼は情報として得たことをソツなくまとめて記述するのは得意かもしれないが、人間の生活や自己の内面を描く文章表現には、まったく不向きなのではないかと思うにいたった。すなわち、自身が感じたことや体験、思ったこと、そこから想像したことなどの主観がともなわない、まるで学校の“お勉強発表会”のような記述のエッセイなど、いっちゃ悪いが上記の画家たちの文章に比べ、ほとんど意味も価値もないに等しいと感じる。
 それでも、実際に地域に住む人々に出会って話を聞いている箇所は、かろうじてエッセイかルポのようなニュアンスを感じとることができる。わたしが学生時代の1978年(昭和53)に、わずか2ヶ月だけ公開されたときに訪れた(その後非公開となり、翌1979年10月から再整備ののち改めて公開)、滄浪泉園をめぐる文章だ。当時の滄浪泉園は、旧・三井鉱山の社長だった川島家の所有地(別荘)であり、1975年(昭和50)の時点では高層マンションの建設計画が具体化しはじめていたころだった。同書の「滄浪泉園」より、少し引用してみよう。
  
 何とか中へ入ることは出来ぬものかと再び道路の方へ戻った。自動車の頻繁に通る道路に面した方は四階建てのマンションが並んで、この林の一部は既に建物会社に譲渡してしまった様子であった。/マンションの傍の林の中へ通ずる門があって、試みに小門の方から入って行くと、石畳を踏んだ奥に、川島家の身寄りと感じられた住宅があって、そこの若い奥さんに、滄浪園(ママ)に就いてお聞きしてみた。/「近来色々な人が訪ねて見えて、写真を撮らせて欲しいとか林の庭園を見学したいと申込まれるが、いまでは一切お断りしています。」とのお言葉で、筆者も礼を尽して頼んでみたけれど、折悪しく未亡人の川島老夫人は九州方面へ旅行中で、その老婦人(ママ)―母と呼んでいた―が、「在宅ならば或いは話が分るかと思われますが、不在でお取計らいは出来ません」と筆者に気の毒そうに申されるので、残念ながら退去することにした。
  
 わたしが初めて滄浪泉園を訪れたのは、保存が実現して公開された1978年(昭和53)の秋なので、いまだ当初の川島別荘の面影が色濃かったころだ。わたしの印象では、庭園というよりも武蔵野原生林そのままの風情をしており、ハケClick!の中腹や下に横たわる湧水池は、人手が加えられていない原生のままのような姿をしていた。現在のように、本格的な公園あるいは庭園のように整備されるのは、1979年(昭和54)以降のことだ。
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 住谷磐根は、滄浪泉園の一帯を「文士・大岡昇平の『武蔵野夫人』のモデルになった所」と規定して書いているが、わたしが訪れた当時の風景や印象からしても、大岡昇平Click!が描写する大農家だった「『はけ』の荻野長作」の家Click!とその周辺の風情とは、かなり異なった印象を受けている。むしろ、1974年(昭和49)ごろの高校時代にさんざん歩いた、「ハケの道」沿いの雑木林に見え隠れしていた、ちょうど旧・中村研一アトリエあたりの国分寺崖線Click!沿いが、『武蔵野夫人』の物語にピッタリの風情だった。
 わたしがハケの道を歩き、手に入れたばかりの一眼レフカメラにトライXを入れてせっせと撮影していた高校時代(実は武蔵野らしい風情の地域Click!を歩いたのは、親に連れられた子ども時代Click!からずっとなのだが)、大岡昇平が同窓生だったハケの富永邸に寄宿していたころと、周辺の景色や風情にいまだ大きなちがいはなかっただろう。野川沿いに、国分寺・恋ヶ窪の姿見の池Click!(日立の中央研究所敷地内で入れなかった)から、ハケの道を小金井の武蔵野公園あたりまでエンエンと歩きつづけると、中村研一アトリエが建っていた界隈が物語の舞台にもっともふさわしく思えた。事実、戦地からの復員後すぐに大岡昇平が暮らしていた場所(富永邸)は、同アトリエのすぐ東側だ。
 『点描 武蔵野』の「あとがき」で、住谷磐根はこんなことを書いている。
  
 武蔵野の一隅保谷市に移り住むことになった。近隣の人達とは朝となく昼となく、手まめに道路を清掃し気持よく、近くには芝生畑、栗林、梅林、奇石名石を沢山集めた庭石屋や、既に風格付けの出来た植木を仮植している大きい植木屋があり、玉川上水の暗渠の丘が、真すぐに小金井、小平、青梅方面に伸びていて、四季を通じて散歩に好適であり、西方に麗峰富士山が眺められ、落日には紫紺のシルエットで鰯雲を引いた姿は、情緒を誘う住みよい所である。現在では練馬区大泉辺りから保谷、田無、三鷹、調布の方へかけての線を引いたそのあたりが、東京を背にして西方が武蔵野のおもかげの多い位置ではないかと感じられる。
  
 このような文章を、「あとがき」ではなく冒頭の「はじめに」に書いて、それぞれの地域や街の描写、人々の生活や暮らしの様子を画家の目ですくい取り、綴ってもらいたかったものだ。当局や公的機関が発表する情報をそのまま伝えることを、昔から新聞では「玄関取材」または「クラブ記事」というけれど、そうではなく自由に表現できるエッセイなのだから、画家である住谷磐根の目に、それぞれの地域や街に展開する武蔵野の“現場”がどのように映ったのかを、そしてどのような印象や想いにとらわれたのかを書いてほしかったのだ。
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 著者が「あとがき」で挙げている大泉や保谷、田無、三鷹、調布などの街々には、まがりなりにも武蔵野の面影を知るわたしにしてみれば、すでに市街地であって武蔵野の風情はほとんど見られない。『点描 武蔵野』が出版された時代から、すでに40年余がすぎ去った。

◆写真上:滄浪泉園(旧・川島別荘)にある、ハケの中腹にひっそりと横たわる湧水池。
◆写真中上は、1980年(昭和55)に武蔵野新聞社から出版された住谷磐根『点描 武蔵野』()と著者()。は、挿画の「滄浪泉園」と「国分寺」。
◆写真中下:住谷磐根『点描 武蔵野』が出版されたのと同年の1974年(昭和49)に、わたしが小金井の国分寺崖線で撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下は、同じくハケの道沿いの風景。は、金蔵院の墓地周辺に展開していた武蔵野原生林。は、恋ヶ窪にある湧水源の姿見の池から流れでる野川の源流域。
おまけ
 国分寺・恋ヶ窪の日立中央研究所内にある、2014年(平成26)に公開された姿見の池。野川の湧水源であり、大岡昇平が目にした風景がそのまま残されている。この池から流れでた湧水が、上掲のモノクロ写真に写るような野川の源流域を形成していた。近年、研究所内で立入禁止の姿見の池に代わり、観光客用に新「姿見の池」が設置されているようだ。
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東京府知事だった千家尊福の仕事。

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 かなり前、出雲国造(こくぞう)Click!千家尊福(たかとみ)Click!が東京府知事に就任していたのを記事にしたことがある。彼は、明治政府に「武蔵一宮」と規定された大宮・氷川明神社(元神:スサノオ/地主神:アラハバキClick!)のある埼玉県知事や、江戸期における徳川家Click!(世良田氏Click!)の拠点であり出雲社・氷川社が散在する静岡県知事をつとめたあと、江戸東京総鎮守の神田明神Click!(元神:オオクニヌシ=オオナムチ/地主神:平将門Click!)がある東京府知事と、出雲Click!とのつながりが深い地域の知事を歴任している。
 その後、千家尊福の息子で詩人の千家元麿Click!が、落合町葛ヶ谷640番地(現・西落合2丁目)に自邸Click!をかまえて住んでいた関係から、拙サイトでもしばしば記事に取りあげてきたが、父親についてはあまり触れてこなかった。先年、水谷嘉弘様Click!を介して村上邦治様より、著書『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年)をお贈りいただいた。(たいへん貴重な高著を、ありがとうございました。>村上様)
 明治以降、あらゆる神道の教導禁止(布教禁止)の政府布告から、神主は境内の掃除と社(やしろ)の維持管理、そして奉じられた神への祈祓ぐらいしか仕事がなくなってしまった。また、薩長政府による「神社合祀令」のもとで数多くの地主神Click!を奉る社(やしろ)が廃止となり、“日本の神殺し”政策Click!が全国各地で盛んに行われていた時期でもある。千家尊福は、出雲国造や出雲大社宮司から出雲大社教の教主となり、いわゆる伊勢神道中心の正教一体化(戦後用語の「国家神道」化)に強く反対して、貴族院議員となったのちは政治家として神道とは別の地道な活動を展開し、政治から身を引いたあとは東京鉄道株式会社の社長として、東京の私営路面鉄道を東京市へ移譲する仕事をやりとげている。
 きょうの記事は、貴族院議員となり同時に各地の府県知事や、司法相などを歴任した政治分野での活動や業績などについては、上記の『千家尊福伝―明治を駆け抜けた出雲国造―』をぜひ参照していただくことにして、東京府知事だった時代や世相にはどのような案件あるいは課題が存在し、千家府知事はどのように仕事をこなしていたのか、その一端を地域中心のミクロな視野からほんの少しだけ探ってみたい。
 千家尊福が東京府知事に就任していたのは、1898年(明治31)から1908年(明治41)のおよそ10年の期間だった。当時、府県知事を10年も勤めた人物はおらず、たいがいは2年前後のキャリアで別のポジションに異動するのが常だったが、彼は組織をうまく掌握して統率するリーダーシップに優れていたらしく、東京府自体が彼を手放さず、また政府側もその安定した自治実績により、彼を首都東京から異動させたがらなかったらしい。
 千家尊福の府知事時代には日露戦争が勃発し、かろうじて日本は勝利したものの、政府は戦費調達用に発行した外債の償還が困難となり、もはや破産寸前の状態にあった。また、「圧倒的な勝利」と煽情的な報道をつづけたマスコミのせいか、ポーツマス条約に反対する市民が日比谷焼き討ち事件を起こすなど、東京には不穏な世相がつづいていた。東京府も、また中央政府もこれらの困難や課題をうまく調整・解決し、乗り越えられるのは千家尊福しかいないと見ていたようだ。ちなみに、当時の知事は今日のように選挙で選ばれるのではなく、政府による任命制だった。
 国立公文書館の資料を参照すると、千家尊福が東京府知事の在任中にこなしていた、多種多様な業務の様子が見えてくる。まず目につくのは、東京近海で遭難した難破船や行方不明者の捜索と、難破船から逃れたとみられる乗組員たちの保護および送還だ。当時は、民間の船舶が正確な海図を備えていることはほとんどなく、東京近海では座礁・沈没事故が多発していた。また、今日のように気象情報がないので、荒天で遭難する船舶も多かったらしい。千家府知事の在任中は、イギリスやロシア、あるいは東南アジアから来航した船舶とみられる乗組員たちが、東京府所轄の島々などに上陸・避難している。
 そのような船舶には、海外からの輸入品などが積まれていたが、それら物品の輸入可否を政府とともに審議するのも、東京府の重要な仕事だった。また、船の難破でときどき漂流民が上陸していた、東京からはるか南に点在する小笠原諸島(無人島:ぶにんじま)の正確な測量も、陸軍参謀本部の陸地測量部Click!とともに東京府の業務のひとつだった。また、東京府では不足する市街地に近い用地を拡げるために、このころから東京湾の埋め立て事業も盛んに行われている。市街地では、より広い用地を確保するため東京市や政府と協議しながら、千代田城Click!桝形(石垣)Click!の撤去と外濠の埋め立て事業Click!も進められた。
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 千家府知事は、さまざまな建設事業にもかかわっている。市街地化が進んだ地域から火葬場の郊外移転や斎場の新設、府立墓地Click!の新設や拡張造成、千葉県との境を流れる江戸川へ新たな橋梁の建設、政府と協議のうえで各国の公使館や大使館を建設するための敷地確保、電燈線・電力線Click!電話線Click!の系統網の整備、上野公園で予定されていた東京勧業博覧会の準備と日露戦争による中止、そして再び開催のための準備など、おそらく政府や東京市と協議のうえ決裁しなければならない案件が目白押しだったとみられる。
 変わったところでは、府立中学校の体育用に陸軍の旧式銃器(村田銃など)の払い下げ申請や、同中学校による横須賀造船廠(のち横須賀海軍工廠Click!)と停泊する軍艦の社会見学(遠足)申請、日露戦争がらみでは東京湾で行われる海軍凱旋観艦式や陸軍凱旋祝賀会への出席、いまだ東京市の一部で上水道として支管や枡Click!が使われていた、神田上水Click!の廃止と東京府への払い下げ問題、東京各地に残る官有地の府有地への移譲など、明治以降に活発化した教育や都市の近代化への案件が多々見られる。
 また、東京府内へのキリスト教会設置も、当時は府や市による認可制だったため、出雲大社の宮司で神道家だった千家尊福は、複雑な思いで次々と申請される設置許可の決裁書類に署名・捺印していたのではないだろうか。それらキリスト教会との関連が深い、東京府内の居留地Click!に住む滞日外国人のうち、租税を払わず滞納している人物から税金を取り立てるのも、府知事の重要な業務のひとつだった。
 おそらく知事机には毎日、決裁しなければならない書類が山積みにされていたとみられるが、書類に署名・捺印するだけであとは部下に委任してなにもしない、当時の一般的な知事と千家尊福が大きく異なるのは、自身が疑問をもったテーマやなんらかの対立で紛争がらみの案件があると、自身で現場に足を運び当事者たちから直接事情を聞いては判断基準にしていたことだ。登庁時と退庁時のほかは、知事室や庁内から一歩も出ない知事が一般的な時代に、千家府知事の仕事のしかたは破天荒かつ異例だった。
 府知事の姿などかつて一度も見たこともなかった東京市民たちは、あちらこちらの現場で調査・取材をする知事の姿を見かけるようになり、薩長の藩閥政府に猛反発をつづけていた江戸東京市民も、神田明神の主柱であるオオクニヌシの故郷Click!からやってきた千家尊福には親しみをおぼえたにちがいない。東京府内で厄介な行政課題が持ちあがると、多くの現場では千家尊福の姿が見られるようになった。それが対立的な案件であれば、双方から事情聴取をしてできるだけ公平な決裁をするようにしていたようだ。
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 府知事に在任中、千家尊福の頭をもっとも悩ませたのは東京市街を走る私営電気鉄道の統合問題だった。その様子を、いただいた上掲の『千家尊福伝』から引用してみよう。
  
 東京で路面電車の開始・普及が遅れたのは、利権を巡り多くの会社で出願競争が起こり、政府が調整出来なかったことが最大の原因であった。馬車で運行していた東京馬車鉄道(改進党大隈系牟田口元学)、東京電気鉄道(大物実業家日本製粉創業者雨宮敬次郎)、東京電車鉄道(三井系藤原雷太)、東京自動鉄道(政友会星系利光鶴松)、川崎電気鉄道(三菱郵船系)の五社が乱立、一方東京市においても市営化の構想を持っていたため、なかなか認可することができなかった。/この五社から電気鉄道、電車鉄道、自動鉄道の三社がまず合併し、東京市街鉄道(街鉄)となった。馬車鉄道は東京電車鉄道(電車、東電、電鉄などと言われた)に、川崎電気鉄道は東京電気鉄道(外濠線)に改称した。三社に集約されたことで、ようやく路面電車の認可が下り営業を開始、各社路線を伸長させた。
  
 だが、上記3社の間にはなんの協業体制も連絡もなく、東京市内には繁華街中心の統一性のない路線が次々に敷設され、また運賃の値上げ問題も大きな課題となっていった。こうした混乱状況の中、千家府知事と実業家の渋沢栄一は3社合併を勧奨し、1906年(明治39)には合併して東京鉄道(株)が誕生している。だが、新会社の社内にはまったく統一性がなく、経営陣は派閥による内部抗争を繰りひろげ、労働組合さえ別々の活動をするありさまで、内情は3社別々のままだった。株主総会では、会場で殴りあいや刃傷沙汰が発生するなど、混乱はずっと尾を引くことになってしまった。
 西園寺公望内閣の瓦解で、司法大臣を1年間だけつとめた千家尊福だが、1909年(明治42)に意外な話が持ちこまれた。10年間におよぶ東京府知事の経験を活かし、民間企業である東京鉄道の社長に就任してくれという、政府と東京市、さらには東京鉄道の役員会からの要請だった。企業経営などしたこともない彼は、おそらく面食らっただろう。だが、東京の路面電車を円滑に敷設し、運賃問題なども解決しながら公営化をめざすのは、自身が府知事だったころからの宿願だった。千家尊福は社長を引き受けると、府知事時代の仕事のしかたを踏襲し、社内の対立する組織や役員同士の融和や公平な決裁、政治家から持ちこまれる利権がらみの困難でややこしい事業は、交渉のフロントに立って対応した。
 面倒でむずかしい仕事や困難な案件を、社内外でも率先してこなす千家社長を見ていた役員や社員たちの間には、少しずつ一体感が生まれていったようだ。特に重要案件に関しては他人まかせにして責任を回避せず、自ら現場に出かけて粘り強く営業・交渉をつづける社長の姿を見て、社員たちの間に信頼感と社内統一の気運が生じていったのだろう。
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 こうして、府知事時代から懸案だった路面電車の東京市電化は、1911年(明治44)8月に東京鉄道社長の千家尊福と東京市長の尾崎行雄Click!との間で、ついに売買契約と引き継ぎ業務が完了した。東京鉄道の本社入口にあった「東京鐡道」の看板が外され、跡には「東京市電氣局」の看板が架けられた。ようやく東京市電(のち東京都電)が誕生したが、千家尊福は看板を見ながらすでに次のことを考えていた。キリスト教や新興宗教の流行で、徐々に衰退していた出雲大社教を盛り返すために、全国各地を巡教・講演してまわる計画だった。

◆写真上:王子駅方面へ向かい、飛鳥山電停の近くを走る都電荒川線のレトロ車両。
◆写真中上は、村上邦治『千家尊福伝~明治を駆け抜けた出雲国造から』(2019年/)と晩年の千家尊福()。中左は、1901年(明治34)に神田上水の廃止について時期尚早とした千家尊福の意見書。中右は、1904年(明治37)に“麩”の輸入に関して出された取りはからい要望書。は、1885年(明治18)に撮影された小笠原諸島父島の街並み。
◆写真中下は、1905年(明治38)に東京湾の横浜沖で催された日露戦争海軍凱旋観艦式。は、1907年(明治40)に開催された東京勧業博覧会のポスター。は、1887年(明治20)ごろに撮影された旧・新橋駅前で待機する東京馬車鉄道。
◆写真下上左は、1899年(明治32)に千家尊福から出された市街鉄道建議書。上右は、1908年(明治41)に西園寺内閣が作成した千家尊福の司法大臣任命奏上書。は、上下2枚とも1900年(明治33)に作成された東京市内電気鉄道布設願摘要一覧。このリストは申請企業の一部にすぎず、数多くの企業が電気鉄道事業への参入を申請していた。は、大正初期に撮影された東京鉄道から移行したばかりの東京市電。

陸軍科学研究所の「安達部隊」1933。

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 昨年(2022年)に、従来は「石井部隊」Click!(偽名「東郷部隊」→関東軍防疫(給水部)Click!731部隊Click!)による人体実験と考えられていた、1933~1934年(昭和8~9)の「満洲」における「四平街試験場」(交通中隊内試験場)での出来事は、同部隊ではなく戸山ヶ原Click!の陸軍科学研究所(久村種樹所長時代)から派遣された、「安達部隊」による毒ガス実験であったことが、ふたりの研究者によってほぼ同時に解明されている。
 ふたりの研究者とは、戦後に731部隊の軌跡を徹底して追いつづけている神奈川大学名誉教授の常石敬一と、戸山ヶ原の陸軍軍医学校跡地で発見された人骨の究明に取り組む元・新宿区議の川村一之だ。前者は、高文研から出版された『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(2022年)で、また後者は不二出版から刊行された『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(2022年)で、期せずしてほぼ同時期に陸軍科学研究所の「安達部隊」へとたどり着いている。
 当時の石井部隊は、さまざまな細菌を収集して細菌兵器化へ向けた人体実験をするための準備と、実際に背蔭河へ「五常研究所」を建設し、偽名の「東郷部隊」として進出する準備とに追われていたはずで、「四平街試験場」に駐屯して人体実験をする必然性が感じられない点が、ふたりの研究者に大きな疑問を抱かせたとみられる。しかも、人体実験が細菌ではなく毒ガスだった点も、ことさら研究者たちの注意を引いたのだろう。
 そこで、この課題に対する調査資料となったのが、関東軍参謀本部の遠藤三郎が書いた日記、いわゆる「遠藤日記」を仔細に検討することだった。遠藤三郎は、11歳から91歳まで日々の出来事を記録しつづけており、日記は93冊(約15,000ページ)にまで及んでいる。ふたりの研究者は、ほぼ同時期に「遠藤日記」の記述に注目していた。
 常石敬一の『731部隊全史』から、日記の部分を含めて少し長いが引用してみよう。
  
 それに紛れ込む形で遠藤が安眠できなかった視察についての記載がある。一九三三年一一月一六日の記録だ。記述中の交通中隊が何かは不明だが、同行した安達の経歴が解明の手がかりとなるかもしれない。/(日記引用)一一月一六日(木)快晴 午前八時半、安達大佐、立花中佐と共に交通中隊内試験場に行き試験の実情を視察す。/第二班、毒瓦斯、毒液の試験、第一班、電気の試験等にわかれ各〇〇匪賊二(人)につき実験す。/ホスゲンによる五分間の瓦斯室試験のものは肺炎を起こし重体なるも昨日よりなお、生存しあり、青酸一五ミリグラム注射のものは約二〇分間にて意識を失いたり。/二万ボルト電流による電圧は数回実験せると死に至らず、最後に注射により殺し第二人目は五千ボルト電流による試験をまた数回に及ぶも死に至らず。最後に連続数分間の電流通過により焼死せしむ。/午後一時半の列車にて帰京(満洲の新京)す。夜、塚田大佐と午後一一時半まで話し床につきしも安眠し得ず。(日記引用終わり)/安達と立花は陸軍科学研究所(略)の所員で二部の安達十九工兵大佐と一部の立花章一工兵中佐だ。(カッコ内引用者註)
  
 関東軍参謀の遠藤三郎が安眠できなくなるほどの、それは凄惨な人体実験だった。
 ここで、「ホスゲン」という毒ガスの名称が登場しているが、戸山ヶ原の陸軍科学研究所Click!ではこの時期、さまざまな毒ガスの研究を行っていたとみられる。濱田煕Click!が描く戸山ヶ原Click!記録画Click!で、林立する煙突に独特な形状のフィルターが設置されていた情景が思い浮かぶ。同研究所では、ホスゲンを「あを剤」と呼称していた。
 ほかに、肺気腫から心不全を引き起こして死にいたらしめる毒ガスのジフェニルクロロアルシンを「あか剤」、皮膚や内臓に紊乱を起こすイペリット(マスタード)を「きい剤」、呼吸困難から窒息死させる青酸物質使用ガスを「ちゃ剤」などと呼んでいた。さらに、肺水腫を起こして窒息させる三塩化砒素(ルイサイト)、さらにマスタードと三塩化砒素を組み合わせたマスタード=ルイサイトなどの研究開発を行っている。これらの毒ガスは、のちに毒ガス工場で大量生産され実際の中国戦線へ投入されることになる。
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 陸軍科学研究所Click!の第二部は、もともと陸軍軍医学校の陸軍軍陣衛生学教室(のち化学兵器研究室併設)Click!からスタートしている。陸軍軍医学校の写真で、いちばん奥に見える4階建ての目立つビルがそれだ。その西側に位置する、731部隊の防疫研究室とは道路をはさんだ隣り同士で、アジア系とみられる大量の人骨が見つかったのは、軍陣衛生学教室の南側に建っていた標本図書室のすぐ東側だった。
 川村一之の『七三一部隊1931-1940』から、化学兵器研究について引用してみよう。
  
 もともと日本の化学兵器研究は小泉親彦が陸軍軍医学校で始め、毒ガスの基礎研究は陸軍科学研究所に引き継いでいる。石井四郎の細菌兵器研究の母体が陸軍軍医学校防疫部であり、後の防疫研究室であったのに対し、毒ガス研究は陸軍軍医学校の衛生学教室で始まり、化学兵器研究室が引き継ぎ、防毒マスクなどの研究を行なっていた。そのように考えると、石井四郎が毒ガス研究に関心を持つとは考えられない。/「日本陸軍省化学実験所満洲派遣隊」の名称から、考えられるのは陸軍科学研究所でしかない。日本の化学戦舞台であった関東軍化学部(第516部隊)が編成されるのはもう少し後のことになる。/このことから、陸軍科学研究所の「安達大佐」をキーマンとして調査することにした。
  
 実は、陸軍科学研究所第二部の大佐・安達十九と、第一部の中佐・立花章一は、すでに拙ブログへ登場している。1932年(昭和7)8月8日に作成された、下落合2080番地にいた久村種樹所長時代の陸軍科学研究所職員表Click!に両名とも掲載されている。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)について、川村一之は憲兵隊の証言記録からも詳細な“ウラ取り”を行なっている。それによれば、「安達試験場長ら24名」を中心に約60名の部隊が派遣され、多種多様な毒ガス実験が繰り返された。だが、1934年(昭和9)にひとりの被験者が脱走したことで、ジュネーブ議定書違反の毒ガス研究が露見するのを怖れた「安達部隊」は、急いで四平街から撤収している。これは、20名前後の被験者が逃亡した東郷部隊(=石井部隊)の、背蔭河における「五条研究所」の撤収と同様だった。
 「四平街試験場」(交通中隊内試験場)からの「安達部隊」撤収は、いっさいの証拠を隠滅して行われ、留置場に監禁されていた残りの中国人被験者を5,000ボルトの電流で殺害あるいは失神させ、焼却炉に投げこんで焼殺している。この四平街における一連の人体実験と、戸山ヶ原の陸軍科学研究所でつづけられた「安達部隊」による研究開発が、既述のさまざまな毒ガス類を大量生産する大久野島の毒ガスプラント建設へと直結していく。
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 瀬戸内海に浮かぶ広島県大久野島は、現在では「うさぎ島」として知られており、数多くの野生ウサギ(1,000羽前後)が観光客からエサをもらってよくなつき、ヨーロッパやアジアからのインバウンドにも人気が高いスポットだ。大久野島は、陸軍の毒ガス製造工場が建設されると「地図から消された島」となり、以降、敗戦までルイサイトやマスタード=ルイサイト(「死の露」と呼ばれていた)、イペリットなどを製造していた。ジュネーブ議定書に署名(批准は1970年5月)していた日本は、それに違反する毒ガス製造の島全体を「なかったこと」にしてしまったのだ。ちなみに、陸軍科学研究所も昭和10年代には「地図から消され」、あたかも百人町の住宅街のように描かれている。
 以下の証言は、2017年(平成29)8月15日に放送されたNEWS23(TBS)の「私は毒ガスの“死の露”を造った」より、綾瀬はるかClick!の先年亡くなった藤本安馬へのインタビューによる。同工場には、工員になれば「給料をもらいながら学習ができる」という宣伝文句で、学業資金に困っていた多くの少年たちが集められ、また戦争末期には動員された女学生たちが数多く働いていた。工場の操業は24時間体制で、常時7,000人近い工員が勤務していた。だが、敗戦時までに毒ガスの漏えいなどで死亡した工員はのべ約3,700名、敗戦後も慢性気管支炎などの後遺症に苦しんだ人たちは約3,000名に及んだという。
 また、同工場に女学生として動員された岡田黎子は、友人が次々に身体を壊し死んでいくのを見ながら、毒ガスの詰められたドラム缶の運搬に従事していた。戦後、その体験を1994年(平成6)に草の根出版会から早乙女勝元・岡田黎子編『母と子でみる17/毒ガス島』と、2022年に22世紀アートから出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争-毒ガス島・ヒロシマ・少国民』として出版している。戦後、生き残った女学生たちは、全員が重度の慢性気管支炎を患っていた。
 番組では、大久野島で造られた毒ガスが中国戦線でどのように使われたのか、中国華北省北勝村での毒ガス弾の使用事例を取材している。同村では日本軍が村まで攻めてきた際、戦闘に巻きこまれないよう女性や子どもを中心に退避する地下壕がいくつか造られていたが、地下壕に次々と投げこまれた毒ガス弾によって約1,000名が死亡している。村の古老が指ししめす、膨大な犠牲者の名前が刻まれた石碑をカメラが追いつつ、いまだに日本への憎悪を抱きつづける古老の表情と言葉をとらえている。
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 少年工員として働いていた藤本安馬は、華北省北勝村に出かけて毒ガス製造に加担してしていたことを告白し、村民へ直接謝罪している。綾瀬はるかに現在の感慨を訊かれると、「毒ガスを造った、中国人を殺した、その事実を曲げることはできません」と答えている。

◆写真上:昭和初期のコンクリート片が随所に散らばる、陸軍科学研究所跡の現状。
◆写真中上は、2022年に出版された常石敬一『731部隊全史-石井機関と軍学官産共同体-』(高文研/)と、川村一之『七三一部隊1931-1940-「細菌戦」への道程-』(不二出版/)。は、1944年(昭和9)に撮影された戸山ヶ原の陸軍科学研究所。戸山ヶ原の名物だった一本松Click!は伐採され、研究所敷地は北側の上戸塚にある天祖社(旧位置)に迫るほどに拡大している。は、1932年(昭和7)8月8日に作成された陸軍科学研究所職員表。第二部と第一部に、安達十九と立花章一の名前が収録されている。
◆写真中下は、濱田煕の記憶画『戸山ヶ原』(1938年/部分)に描かれた袋状の特殊フィルターが設置された陸軍科学研究所の煙突群。毒ガスなどの開発で使用した器材を焼却する際、有毒な煤煙が住宅街へ流れるのを防ぐためだと思われる。は、1970年代半ばに撮影された旧・陸軍軍医学校の軍陣衛生学教室と防疫研究室の建物。は、1994年(平成6)に出版された早乙女勝元・岡田黎子編『毒ガス島』(草の根出版会/)と、2022年に出版された岡田黎子『絵で語る子どもたちの太平洋戦争』(22世紀アート/)。
◆写真下中上は、大久野島に建設された陸軍毒ガス製造工場。中下は、陸軍が各地で実施した毒ガス戦演習。は、2017年(平成29)8月15日放送のNEWS23(TBS)「私は毒ガスの“死の露”を造った」より大久野島の現場で証言する工員だった故・藤本安馬。