
わたしたちの視界は、従来とは比較にならないほど広大な拡がりを手に入れ、いままで見えなかったものまでが容易に見えるようになった――と意識し感じることが多いのだが、はたしてほんとうにそうだろうか? 手近な例でいえば、いままでは地下鉄・東西線で竹橋まで出かけなければ見られなかった国会図書館の古い資料や、同・日比谷線の広尾駅を降りて訪ねなければならなかった東京中央図書館の貴重な資料が、自宅に居ながらにして閲覧することができる。資料類もそれが稀少本でない限り、ネットで予約すれば最寄りの図書館へとどく。昔日の映像作品も、従来は上映機会を見逃さずに劇場か映画イベントへ足を運ばなければならなかったものが、映画アーカイブによる公開でたやすく自宅で鑑賞できるようになった。
発掘された2万年前の旧石器が見たければ、時間をおかず発掘時のレポートや論文とともに画像を目にすることができるし、100年前に帝国議会で演説した政治家の速記原稿はたちどころに入手でき、自分が住んでいる区の天気予報は1時間単位で知ることができるし、気に入った飲食店の料理はデリバリーで手軽に自宅で味わうことができ、鉄道や航空機、芝居、コンサート、映画などあらゆるチケットは、その気になれば数分で予約することができる。わざわざ旅行へでるのが面倒ならば、国内はおろか世界じゅうの観光地をVRツアーでたどることだって可能だ。その気にさえなれば、わたしたちはICT(最近では量子コンピューティング+AIが主題)の力で、それこそ近未来にはなんでもできてしまうような万能感にとらわれがちだ。
でも、ほんとうのところはどうなのだろうか? 自分が依って立つ地面、自身の位置や足もとはちゃんと見えているのだろうか。大量の情報に流され、端末にとどく自分にとってまったく必要のないデータに振りまわされ、膨大な時間を浪費しているのではないか。従来、手がけていた定型のデスクワークが、プロセスマイニングで効率化されRPA(S/Wロボット)で省力化されて、はたして生じた余暇をそのぶんに見あう「創造的な仕事」に振り向けているのだろうか? 実は、かえって不要な情報の氾濫やデータ漬けに右往左往し、かつてM.エンデが「灰色の男たち」(『MOMO』)と呼んだ、あつかましい時間ドロボーたちに知らず支配されてやしないだろうか。
なんとなく上すべりで、底が浅い情報にふだんから接していると、だんだん自分自身の立脚点が危うく感じられるようになってくる気配を感じる。それは、いまにはじまったことではなく、ずいぶん以前から、そう21世紀に入ってから、拙ブログ(2004年)をはじめたころから感じていた、環境の激変にともなう不安感や危機感だったような気がする。当時は、いまのようにネットスピードも速くなく、大量データの輻輳処理もしごく初歩的で遅延があたりまえのように発生し、スマホのような便利なデバイスは存在しなかったけれど、かつてないほど便利で快適な時代を迎えているという期待感や高揚感と同時に、底知れない危うさや、どこにも安住地がないようなフワフワと浮わついた違和感のようなものを抱いたのも事実だ。
この違和感は、おそらくわたしのアタマがどこまでいっても文系であり、ほんとうは根っからの「アナログ人間」が本質だからなのだろう。そのせいか、自身か感じる不安感あるいはフワフワした違和感や浮遊感(?)が強まれば強まるほど、自分の依って立つ足もとが気になりはじめるようだ。それは、いま自分が住み生活しているこの地域のことであり、いまや神田川の水脈でしかつながらなくなった故郷であり、祖先たちが歩んできたこの土地=城下町について、いったいどれほどのことを知っているのか?……という、やや脅迫めいた焦りの自問につながっていったらしい。




別に、自分が住んで生活している地域ばかりではない。わたしの街(東京)のあちこちにも、少し気にとめて観察すると不思議に感じる場所や道筋、建物、地名、地形、境界、伝承・伝説などがゴロゴロ眠っているのに気づかされる。何気なくすごしている街角に、いつも通りすぎる道端に、勤め先や仕事ででかけたビルの傍らに、それらの物語は身をひそめながらソッと横たわっている。その物語とは、わずか100年前のものもあれば、1万年も昔の出来事かもしれない。それら日常に眠る物語は、決して自ら主張しないし発見されようなどとも思ってはおらず、いつまでも眠っているだけだ。こちらが働きかけでもしなければ、決して顔をのぞかせることはない。
でも、ひとたび隠れていた物語を見いだし、その経緯をたどっていくと、それまで何気なく見ていた街や道端、川筋、建物などが、以前とはガラリとちがった姿や風景に見えてくることがままある。いつだったか、拙サイトの記事を読まれることで、「街角の風景が、いつもとちがって見える」と感じられるようになったとすれば、その記事は僭越ながら「大成功」にちがいないと書いた。この思いは、長い時間が経過したいまも変わっていない。ふだんから日常的に目にしていた風景が、まったく異なる様相や色あいを帯びながら次々と描き替えられていく。
わたし自身、そんな経験を落合地域の随所で、または江戸東京地方の各地で、これまで数えきれないほど重ねてきており、それが自身の依って立つ“足もと”を見つめ、改めて確認し、「この地ならでは」の魅力の再発見を促しつつ、地域・地方に根ざす「その地ならでは」のアイデンティティを形成するために必須となりそうな、立脚点の“基盤”形成につながるのではないかと考えている。




なにも知らない人間が、土壌や環境に大きく左右される農作物(成果物)を育てられないのと同様に、自身が生活する地域や街の基盤(そこに営々と築かれた人々の生活や文化)について知らなければ、当然ながらアイデンティティは育まれないし郷土愛も生まれない。その地域、その街ならではの連綿とつづく生活史や社会史を知らなければ、自分がいまどのような場所や位置、あるいはコミュニティに生きているのかも知りえない。これは、わたしも何度か失敗を重ねているが、ときに街中でトンチンカンな発言をして、失笑をかうこともまれではない。
街の環境が、生活に便利でありさえすればいいという人がいるとすれば、その街に対し「愛着」はおぼえるかもしれないが、より深い「愛情」は生まれないように思う。その「愛情」とは、街のイヤな面もまた美点も、街で過去に起きた嫌悪すべき出来事もまた讃嘆すべき出来事も、「なかったこと」と顔をそむけることなく丸ごと吞みこんでこそ、そこにこそ初めておぼえる感情ではなかろうか。それには、街が見せた過去の姿をていねいにたどって知らなければ、心に抱きようのない感覚・感情のように思える。そして、その感性的な認識基盤の有無が、自身とその土地(街)とを結ぶ“自己同一性”や“自分らしさ”の形成には、不可欠な役割をはたしているように思えるのだ。




◆写真中上:上・中上は、1929年(昭和4)に撮影された日本橋と、日本橋三越前を通行する円太郎バス。中下は、1893年(明治26)に柳橋から撮影された大川(隅田川)に架かる江戸期のままの大橋(両国橋)。下は、1929年(昭和4)に撮影された歌舞伎座。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)の夏に鎌倉の海岸で撮影された日本橋白木屋(のち東急百貨店)のイメージガールたち。中上は、1929年(昭和4)撮影の日本大通りの神奈川県庁(本庁舎)と横浜地方裁判所(手前)。中下は、1930年代撮影の横浜山手本通り沿いの住宅街で右手に写る西洋館群や教会は現存している。下は、1937年(昭和12)に高麗山から千畳敷山(湘南平)を背景にカラー撮影された大磯から平塚にかけてのユーホー道路(湘南道路=国道134号線)。
◆写真下:上は、1974年(昭和49)に撮影された汚染がピークの神田川。中上は、1975年(昭和50)に撮影された高戸橋の付近を通過する都電・荒川線。中下は、1980年代に南側のビルから撮影された日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮)。下は、1979年(昭和54)撮影の四ノ坂を下りる目白学園の女生徒たち。これら写真が撮られた時代の落合風景は、わたしがリアルタイムで目にしていた情景だ。

































