下落合を描いた画家たち・銭痩鉄。(続)

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 戦前、日本に滞在した中国の文人に、江蘇省無錫出身で上海に住んでいた南画家で書家、篆刻(てんこく)家の銭痩鉄(本名:銭厓)がいる。書画や篆刻を学んだあと、上海美術専科学校の画師(教師)に就任。1923年(大正12)の春に橋本関雪の招きで初来日し、関東大震災後の同年秋まで滞在している。この間、銀座の松屋デパートで個展を開いている。
 翌1924年(大正13)には、銭痩鉄や橋本関雪を含む日中の画家7人が合同で画会「解衣社」を結成し、日本で第1回展覧会を開催した。また、関東大震災の救援活動として「日中文化展覧会」に参加し、売り上げを救援金として寄付している。昭和に入ると、書画・篆刻に凝っていた会津八一と知りあい、互いの文人気質にことさら親しみをおぼえたのか、以後、篆刻に関しては作品を評価しあう仲になった。また、谷崎潤一郎ら文学者とも親しくなり、東京・大阪の松坂屋デパートなど、各地で日本画家とのコラボ展覧会を開いている。
 1931年(昭和6)には、上海美術公司出版の雑誌「美術生活」の主任編集員となったが、1935年(昭和10)に家族をともなって再来日し、会津八一の支援で新潟で個展を開催するなど、精力的な創作活動をつづけている。また、三省堂の客員顧問や編集委員をつとめ、同社の書雑誌「書苑」を創刊している。だが、1937年(昭和12)に日中戦争がはじまると、同年8月7日に「中国のスパイ」として特高に逮捕され、1941年(昭和16)5月15日までの3年半、中野にあった豊多摩刑務所に投獄された。出獄後、銭痩鉄は家族が待つ上海へ帰国している。
 東京における銭痩鉄の住所で、よく知られているのは「豊島区巣鴨1丁目3277番地」だが、これは明らかにおかしい。巣鴨1丁目には当時、このような3000番台の多数ケタ番地は存在しないし、そもそも巣鴨7丁目でさえ1700番台までの番地しかない。昭和10年代の豊島区で、3277番地が存在するのは西巣鴨1丁目であり、上記の住所は「豊島区西巣鴨1丁目3277番地」が正しいのだろう。現在の住所でいうと、池袋サンシャインシティ(当時は巣鴨刑務所)のすぐ東側、都電荒川線沿いにあたる東池袋4丁目36~37番地界隈だ。
 もうひとつ知られている“住所”は、「中野区新井町336番地」だが、これはいわずと知れた数多くの思想犯を収容する、悪名高い豊多摩刑務所(のち中野刑務所)だ。銭痩鉄は、獄中からの手紙の差出人に、同住所と名前だけを記載している。「中国のスパイ」としての容疑は、中華民国の革命家で親日家だった郭沫若を、日本から中国へ脱出させたために「治安維持法違反」に問われたとされるが、これは当時の駐日中国大使からの資金提供による依頼だった。彼は孫文による三民主義を支持しており、共産主義とは無縁のはずだったが、駒込警察署の特高取調室でひどい仕打ちを受けた彼は、ついにキレて取り調べの特高刑事を殴ってしまう。
 戦後、事件の担当検事だった望月武夫が、「中国のスパイ」は特高のデッチ上げ事件だったことを暴露しているので、彼の証言が事実なのだろう。したがって、望月検事は銭痩鉄をおもに特高刑事への暴行傷害罪で起訴している。以下、1965年(昭和40)に法曹会から刊行された「法曹」1月号収録の長めのエッセイ、望月武夫『銭痩鉄氏のことども』から少しだけ引用してみよう。
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 銭厓氏は紙片に(特高刑事への)暴行の理由として「自分は篆刻の名家として万人の尊敬を受けているに拘らず、某警部は自分に対し跪拝せよと命じた、自分はこの屈辱に堪えるより寧ろ彼を殺して自らも死のうと思った」と書いて差出した。斯様な事故のため事後の取調べは検事が直接当ることとなり私がその事案の主任を命ぜられた。私は約二〇日位連日駒込警察署に通い通訳を通じて銭氏の取調べを行った、(中略) 彼は孫文の三民主義を信奉するもので共産主義者ではない、篆刻においては東洋の三鉄と称せられるものの一人であり、橋本関雪画伯に招かれて両三度来日し、秩父宮の印章も彼の篆刻にかかるものであるとのことであった、(中略) 以上、銭痩鉄こと銭厓氏の事件で、伝えられているように所謂スパイ事件でも又逃走のため警察官に暴行を加えたものでもない、(カッコ内引用者註)
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 担当検事がここまでいうからには、その取り調べは堂々としたものだったのだろう。供述のウラ取りでも矛盾は見いだせなかったようで、望月検事は彼を供述どおりの内容で起訴している。また、望月武夫は戦後、日本橋三越で開かれた銭痩鉄作品展にも足を運んでいる。
 豊多摩刑務所へ収監された銭痩鉄は、監房内で篆刻の仕事をしたいと希望して、特別に許可されている。これには、会津八一や橋本関雪、谷崎潤一郎たちからの強力なバックアップがあったのだろう。房内に彫刻刀を持ちこむなど、通常では考えられないことだった。
 銭痩鉄は、獄中で制作した篆刻を世話になった知人たちに贈っている。会津八一のもとにも、かなりの篆刻が保存されていたが、お互い篆刻を制作すると批評しあっていたようだ。目白文化村の文化村秋艸堂(下落合1321番地)を訪ねた大鹿卓が、それらの作品を鑑賞している。1948年(昭和23)刊行の「桃源」11月号(吉昌社)収録の、大鹿卓『銭痩鉄氏のこと』から引用してみよう。
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 帰りの途々私は黄包車にゆられながら、下落合の会津先生の秋草堂を思ひ出してゐた。いつの頃であつたか私は嘗つてその二階の書斎で、先生自身常用の夥しい刻印をとり出して印譜を作られるのに、松下英磨君とともに同座したことがあつた。手鈐(しゅけん)されたのちこれは山田寒山、これは銭痩鉄と筆をとつて記入されるのを見てゐると、銭さんの刻は実に数十顥に及んでゐた。私はそのとき初めて銭痩鉄の名を知り、併せて支那近代の巨匠呉昌碩の遺髪をつぐ篆刻家であることを知つた。私はもとよりその道に暗く審美眼も持ち合わせてゐないのだが、どことなくその作品に雅趣があり気魄があつて力量のなみなみでないことが頷かれた。これらは銭さんが事に累され獄中に在つたとき特に許されて刀を振つたもので、当時会津先生は一箇の刻が出来るごとに一々その批評を書き送つて、これを鼓舞鞭撻したのだといふ。
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 会津八一は、獄中の銭痩鉄を励ましつづけたのかもしれないが、おそらく篆刻の腕や技量は銭痩鉄のほうが上だったのではないだろうか。銭痩鉄は、篆刻の本場で「東洋三鉄」と呼ばれるほどの腕を磨いている。また、彼が獄中にあった3年半、会津八一はあらゆる伝手(つて)やコネを使って早期釈放の運動をしている。駒込警察の特高刑事への重大な暴行傷害だったにもかかわらず、3年半の服役で済んだのは会津をはじめ、さまざまな方面からの釈放運動があったことをうかがわせる。
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 豊多摩刑務所からの釈放後だろうか、銭痩鉄は会津八一を中国に招待している。1963年(昭和38)に会津八一先生伝刊行会から出版された、吉池進『会津八一伝』から少し引用してみよう。
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 「会津先生と銭痩鉄」の対談が残されているが、その中で銭痩鉄は、平和が恢復して世の中が落着いたなら一度是非先生を中国の古美術旅行に招待し、その折は遠く西陲甘粛省の敦煌莫高窟(とんこう・ばっこうくつ)の古蹟へ案内したいといっているが、その後中国の状勢も一変し、先生身辺の事情も許さず遂に実現を見ずにしまった。先生の中国美術行脚の旅は幾度か計画されたが中止されてしまったのは残念なことであった。大正末年の朝鮮旅行の計画など料治熊太と同行の予定で準備もすっかり出来上ったのに出発の前の日に中止してしまった。
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 会津八一の旅行計画に、西落合1丁目31番地に住んでいた版画家で古美術研究家の料治熊太が、一枚嚙んでいたのが面白い。銭痩鉄の中国招聘と古美術旅行が実現していたら、おそらく会津と連れ立って料治熊太も同行したのではないだろうか。
 戦後1947年(昭和22)に、銭痩鉄は三度目の来日をはたしている。中華民国の代表団のひとりとして、東京・元麻布にあった同大使館につとめているが、同年秋に会津八一のいる新潟をわざわざ訪ねている。そして、ふたりで酒を酌み交わしながら、「亡国」の憂き目をみた会津八一は、銭痩鉄へ次のように語っている。『会津八一日記』(中央公論社/1969)より、少しだけ引用してみよう。
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 中国と日本には長い間にはいろいろの事があって、一度ならず戦いもした。しかし東洋に軒を並べている以上、日本として昔からどこの国より親しい関係で切っても切れぬものは中国だということを忘れてはならない。これは日本人ばかりでなく、あちらでもやはりそんな風に、よくあとさきの事を考えて物をして貰いたいものだ。私は先年、一盃を銭君に勧めながら、これを繰返し繰返し主張して別れた。(昭和二十二年十二月一日記)
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 わたしの手もとに、中国へ旅行した友人からいただいた篆刻がある。大理石に彫られた、おそらく上海で制作されたものだと思うが、わたしの名前が刻まれている。わたしは書画を嗜まないので、篆刻などいただいてもブタに真珠なのだが、できるだけ手紙などには使うようにしてきた。少し前から、名前でなく改めて「落合道人」と刻みなおしてもらおうかと、少なからず悩んでいる。

◆写真上:1948年(昭和23)8月に制作された、銭痩鉄の南画『落合山荘』。下落合1296番地の霞坂にあった、会津八一の秋艸堂を描いている。
◆写真中上:上は、若き日の銭痩鉄(銭厓)。中上は、銭痩鉄『雲門峰』(制作年不詳/以下同)。中下は、同『果盆』。下は、1957年(昭和32)6月に制作された同『牛石』。
◆写真中下:上は、霞坂沿いにあった会津八一の秋艸堂。トンビを着てステッキをもっている手前の人物が、会津八一本人。中は、銭痩鉄『紅梅』。下は、上海のアトリエで篆刻を制作する銭痩鉄。戦前は、日本で「中国のスパイ」のデッチ上げ事件で逮捕されたが、戦後1960年代には中国で文化大革命の影響から右派=「日本のスパイ」のレッテルを貼られて弾圧された。
◆写真下:上は、日本の書画家・小川観斎が使用した銭痩鉄の篆刻。中上は、同じく銭痩鉄の篆刻作品。中下・下は、わたしの手もとにある友人からいただいた篆刻で彫刻は龍の透かし彫り。
★おまけ
 2016年(平成28)に、戦災から焼け残った雑司ヶ谷鬼子母神(しきもじん)の堂が、国の重要文化財(建第2646号)に指定された。境内には、それを記念して石碑が建立されたが、外国人観光客向けに記載された英文表記には、もちろん鬼子母神は「Kishimojin」と表記されている。
 豊島区や東京メトロが、地元の読みである「きしもじん」としているように、また都バス停留所の韓国語(ハングル)が「키시모진(きしもじん)」と正しく表記しているように、東京のバスや都電は「きし【ぼ】じん」などという、おかしな得体のしれない訛った呼称や表記をただちにやめてもらいたい。地元である江戸東京の、とてつもない恥さらし以外のなにものでもないからだ。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年09月22日 22:05
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    うちの親父が風呂で、ときどき第九をドイツ語で歌っていました。
    2026年09月22日 22:31

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