良質な氷を提供する氷室(ひむろ)ニーズの高まり。

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 落合地域は、目白崖線沿いに入りこむ谷戸地形のバッケ(崖地)から湧く泉や、関東ローム下を流れる地下水の水質が優れていたせいか、大正期から製氷工場や製氷工房が多く、また季節を問わず氷を販売する氷屋(氷室)があちこちに開店していた。拙ブログでは、豊菱製氷会社や山手製氷会社などいくつかの大規模工場をご紹介しているが、隣接する高田地域(現・目白地域)にも、1925年(大正14)現在で飲食の氷店(冷蔵・冷房用の業務氷は除く)だけで5店舗が開業していた。氷のニーズを考えれば、飲食以外の氷店(肉・魚屋など生鮮品の冷蔵用や室内の冷房用の氷柱など)のほうが、むしろ戦前までは需要が多かったのではないかと思われる。
 昭和期に入ると、生鮮食品を保存する冷蔵庫に用いる氷や、冷房用の氷柱などの需要はピークを迎える。電気冷蔵庫はいまだ高価であり、ブロック氷を用いた冷蔵庫が急速に普及していったからだ。そこで用いられた氷は、製氷工場や製氷工房で製造された人造氷を、おもに街中にあった小売の氷屋(氷室)が一般に販売していた。もちろん店頭販売ではなく、契約した家庭や店舗に氷を定期的に(夏季の家庭には通常朝夕の2回)配達するのが業務の中心だった。
 戦前は、氷を莚(むしろ)でくるみ、家庭の前で契約しているサイズにノコギリで切ってから配達していた。戦後は、小型トラック仕様のミゼットなどに氷の塊を積んで配達しており、子どものころは夏場など魚屋の前でノコギリを使う氷屋をよく見かけていた。現在は冷凍車で運ぶのがあたりまえになり、冷凍車両から店舗やホテルなどの冷凍庫へと直接納品しているのだろう。戦後、氷を入れる仕様の冷蔵庫が急減し、氷店(氷室)の存在が危うくなったけれど、飲食店やホテル、セレモニーホールなどでの需要が増えたため、現在では勢いを取りもどしつつあるらしい。かき氷ブームも、追い風となっているのだろう。また戦前とは異なり、氷室(ひむろ)では氷のほかにドライアイスを扱う店舗が増え、食材の宅配などでも需要が増えているようだ。
 以前の記事で、目白2丁目の明治通り沿いにある同志舎外口製氷所本店(外口氷室=地元の通称は「雑司ヶ谷の外口さん」)をご紹介していたが、2018年(平成30)に豊島区立郷土資料館から発行された研究紀要「生活と文化」28号には、同氷室のレポートが証言類も含めてより詳しく掲載されている。1994年(平成6)に豊島区立郷土資料館から刊行された「町工場の履歴書」展図録によれば、下落合の近衛邸や相馬邸、高田町(のち目白町)の戸田邸、尾張徳川邸などへ、いつも多量の氷をとどけていたあの同志舎製氷所の氷室(ひむろ)だ。それらの氷は、冷蔵庫や冷房用の氷柱に使われたり、飲食の際に用いられたのだろう。
 「生活と文化」28号によれば、大正期から昭和初期にかけ氷冷蔵庫を備えた家は、「おカネ持ち」のイメージがあったという。わたしの子どものころは高度経済成長期で、電気冷蔵庫ではなく戦前からの氷冷蔵庫のままの家は、「三種の神器」まであと一歩というような感覚だった。氷冷蔵庫が残っていたお宅は、電気冷蔵庫が買えないというよりも、ほかに欲しい家電やクルマなどを優先させたお宅で、電気冷蔵庫があとまわしになっているという印象だった。氷冷蔵庫の外箱は木製で、内部は冷温が保たれるよう、一面にブリキの貼られている製品が多かった。
 当時は、少しでも新鮮な食材を手に入れるため、「主婦」が毎夕買い物に出かけるのが食生活の習慣となっており、自宅にあるのが氷冷蔵庫だろうが電気冷蔵庫だろうが、あまり不便さを感じなかったせいもあるのだろう。でも、大正期から昭和初期にかけ、電気冷蔵庫を備えていたお宅は超「おカネ持ち」か、どうしても仕事の設備として投資しなければならない対象だったのだろう。
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 氷冷蔵庫は、ご存じの方も多いと思うが、上段に大きな氷塊を収納するボックスがあり、下段のより大きなボックスへ傷みやすい食材を入れて保存していた。冷気は下段へと下がるので、その冷たい空気でさまざまな食品を冷やしていたわけだ。厳密にいえば、生鮮食品を長く保存するための「冷蔵」ではなく、できるだけ腐敗を遅らせる短時間の一時的「冷蔵」にすぎなかった。電気冷蔵庫のように、電気代を気にする必要はなかったが、夏場は上段ボックスへ朝夕の二度の氷の入れ替えがあり、氷代の出費がけっこうたいへんだったろう。その氷塊を、毎日欠かさずに家庭へとどけていたのが、外口氷室のような街の氷屋さんだった。
 「生活と文化」28号収録の、三村宜敬「豊島区の氷販売業忘備録」より引用してみよう。
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 それまでは、(外口)万吉さんがリヤカーに載せた百三十六キロの氷三本を(外口)文祥さんら兄妹が押して販売を手伝っていたという。最盛期は、午前と午後の二回リヤカーで顧客のもとに販売していた。/顧客には氷券を購入してもらい、買った家には氷を販売していた。文祥さん曰く「氷屋はどの家でも裏から入れた」というから、配達のスピードが肝心だった事がわかる。特に氷券は四月頃から売って歩く、(ママ:。) 気温が上がるに従って需要が増加していくためである。しかし、昭和三十六年頃から電気冷蔵庫の普及や製氷機が販売されてきたことから、顧客から「電気にしちゃった」といって注文を受けられないことが増えてきた。(カッコ内引用者註)
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 かつて、豊島区の全体では40軒以上の氷屋があったが、現在はたった4軒に減ってしまったという。その原因は、上記のように1960年代から急速に普及しはじめた電気冷蔵庫のせいだが、それでも氷の需要はなくならなかった。現在は、天然水や良質な水で造った丸氷や角氷、打(ぶ)っかき氷、ドライアイスなどの販売がメインだという。特に昨今のかき氷(フラッペ)ブームは、街中の氷室にとっては需要の追い風となっているのだろう。また、生協をはじめ増えつづける宅配の食材・食品・調理品の団体・企業では、ドライアイスの需要が伸びていそうなのは想像にかたくない。
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 外口氷室の先代となる女将は、埼玉県の飯能で生まれて育ち、1939年(昭和14)6月1日に武蔵野鉄道(現・西武池袋線)に乗って、東京市内の雑司ヶ谷の外山氷室まで嫁いできた。その当時、彼女は花嫁衣裳のまま武蔵野鉄道に揺られてきたという。夫を早くに亡くした彼女は、戦後、息子夫婦とともに氷室を守りつづけてきた。結婚記念日である6月1日は、現在では「氷の日」となっており、よほど氷に縁のある人生だったのだろう。
 外口氷室は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で全焼している。同店の証言によれば、「大正製薬のところに飛行機が落ち」て、延焼が目白2丁目まで徐々に拡がってきたためだという。より正確にいうなら、B29が日本の戦闘機による体当たり攻撃で撃墜されたのは、大正製薬の道路をはさんだ北隣りの国産電機で、拙ブログにも何度か登場いただいた下落合の松尾徳三様が、勤労動員で勤務する航空機用のマグネット工場だった。
 外口氷室は、空襲で店舗が全焼したにもかかわらず、戦後すぐに営業を再開できている。空襲をまぬがれた住宅地からは、氷のニーズが多かったという。同紀要より、つづけて引用してみよう。
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 一年の疎開の後に現在の目白の地に戻った際には、空襲にあっていなかった鬼子母神周辺の地域の住民から氷の需要があったことと、要町の製氷工場が空襲の被害にあっていなかったために、すぐに氷屋を再開することができたのである。当初は畳一畳分の冷蔵庫を作り製氷所から馬が引く荷車で氷を運んでもらった。バラックの店舗の裏には畑を作り、氷の配達の帰りに用意していた木箱に道に落ちている馬糞を拾い、肥料としていたという。肥料が良いためか、たくさんの野菜ができて近所の人にも大変喜ばれたという。/戦後は、駅のキヨスクの売店、西武デパート、東京丸物(現PARCO)、三越などへ氷を配達していた。
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 戦後すぐ1947年(昭和22)の空中写真を参照すると、確かに雑司ヶ谷にある鬼子母神(きしもじん)の周辺は空襲の被害を受けておらず、南西側の住宅街からは氷の注文が多かったのだろう。空襲で焼けだされたあと、「一年の疎開」先は親戚が住んでいた千葉県の幕張だったそうだ。
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 かつて、豊島区に40軒以上もの氷屋があったころは競合が激しく、顧客をめぐって熾烈な値引き競争も行われていたようだが、現在は同業者が結束して東京アイスアカデミーの研究会を設立し、ブランド氷「氷屋純氷」を起ち上げて共存共栄の環境を構築している。特に、消費者の品質がいい氷へのニーズは高く、店舗や家庭を問わず「純氷」によるかき氷人気はウナギのぼりのようだ。

◆写真上:近年の都内では、天然水や良質な水による空前のかき氷ブームとなっている。
◆写真中上:上は、わたしの子どものころには現役で見かけた氷冷蔵庫。下は、レストランやバーなど飲食業には欠かせないアイスピックでつくる打(ぶ)っかき氷。
◆写真中下:上は、氷屋さんではデフォルトの角氷。中は、目白2丁目で営業をつづける外口氷室。下は、敗戦直後1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる雑司ヶ谷界隈。
◆写真下:上は、人気のアイスボールでウィスキーなどのオンザロックには最適だ。中は、結婚披露宴やイベント会場などで見かける氷アート。下左は、2018年(平成30)発行の研究紀要「生活と文化」(豊島区立郷土資料館)。下右は、1861年(文久元)の江戸期に創業の巣鴨「福島屋」のかき氷。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年08月23日 19:05
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    最近、近所のカレー屋にはまってまして、ときどきランチに通ってます。
    2026年08月23日 20:14
  • Florencia Coelho

    Hi! I'm a journalist from Argentina and I'm researching about Ryōnen Gensō
    Would like to talk about the photos

    ◆写真下:目黒不動に隣接した海福寺にいまも残る、泰雲寺の山門(左)と扁額「泰雲」(右)。
    2026年08月25日 01:47

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