昔習った「日本史」の知識が追いつかない。(上)

飾り櫛.jpg
 今回は、夏休みの宿題=「自由研究」めいたテーマで、やや長めの連載記事を書いてみたい。
 わたしが高校生まで習っていた「日本史」と、21世紀の今日、認識されている「日本史」とはずいぶん異なることに愕然とすることがある。拙ブログでも、東京や関東を中心によく取りあげる大・中型古墳(跡)の被葬者だが、地域あるいは地方によっては首長の3~5割が女性だと聞いたら、昔の「日本史」を習ったわたしなら「ご冗談でしょ」と笑ってしまっただろう。
 だが、直刀や刀剣、湾刀など当時の古墳刀の武器類が、副葬品として埋葬されていた古墳の主の多くが、女性だった例が多々存在していることがわかってきた。戦前なら、いや戦後でさえも遺伝子学がそれほど発達していない時代であれば、武器類が副葬品として埋葬されていれば「武人」「男王」ないしは地方・地域を統治した「(男性)首長」の墳墓として、なんの疑問も抱かれずに規定されていた。特に戦前は、薩長政府の儒教思想にもとづくフィルターおよび皇国史観のもと、武器とともに埋葬された首長・王は、即座に例外なく「男」と規定されてきた。女性が権力を掌握することに「ありうべからざること」という“アレルギー”をもつ、中国や朝鮮半島の儒教思想(修身)にとことん忠実な薩長政府は、戦前に発見された古墳の被葬者を、副葬品に武器類が存在したというだけの根拠で、ほぼすべてのジェンダーを「男」と断定している。
 しかし、史的事実はまったくちがっていたのだ。これまで発見された古墳のうち、残された骨の欠片などからDNAを採取して性別を調べてみれば、かなりの確率で副葬品に刀剣などの武器類をともなう被葬者でも、女性だったケースが少なくない。日本の古墳のうち、3~5割の被葬者が女性だとすれば、そこに副葬品として添えられた武器は、なんらかの儀礼用か祭祀用として用いられたものだと想定されがちだが、この想定もすぐにひっくり返されている。前世紀末から今世紀にかけ、考古学上で発見された発掘の成果や新たな事実は、戦前まではあたりまえだった男王=ジェンダー・ハイアラーキー(性差的階級支配)が崩壊する過程でもあったのだ。
 大正の一時期、下落合の五ノ坂をのぼる丘上のアビラ村に住んだ高群逸枝は、古代における男女のジェンダーロール(役割分担)を、おそらく弥生後期の巫女王・卑弥呼のイメージが強かったせいか、「ヒメ」=巫術祭祀(象徴統治)で「ヒコ」=審神者(さにわ/実務政治)という「ヒメ・ヒコ論」=男女共同統治論(二重王権論)を展開した。だが、卑弥呼がいた邪馬壱国(邪馬台国)ではたまたまそうだったのかもしれないが、他のクニグニには前線で武装して闘った女性首長(女王)も確実にいたらしい。まるで、アニメのヒロインに登場する女性戦士のような姿だが、大型古墳の被葬者だった女性で、刀剣など武器類が副葬品として埋葬されている場合は、その可能性が少なからずあるようだ。すぐにも九州から侵略してくる「神武」を迎撃した紀国の女王・ナグサトベや、古志(越)の女王・ヌナカワを想像してしまうのは、わたしだけではないだろう。
 大規模な古墳の女性被葬者について、2000年(平成12)に小学館から出版された『古代史の論点②女と男、家と村』収録の、菱田(藤村)淳子『男女の分業の起源』から、少しだけ引用してみよう。
  ▼
 こうした性別の分かる被葬者の例を集めた先駆的研究が今井堯の「古墳時代前期における女性の地位」である。また、近年の例を精力的に集積し、副葬品にみられる性差の問題を明らかにしたのが、川西宏幸・辻村純代「古墳時代の巫女」、轟次雄「刀子と鉄鏃の副葬関係」、清家章「副葬品と被葬者の性別」などである。/これらの研究から現在確実に言えることは、大規模な古墳であっても女性の被葬者には甲冑と鉄鏃は伴わないという事実である。しかし、それ以外の武器、農工具、あるいは石製品などの装身具については、確実に被葬者の性別を判断する手がかりとはならないことが明らかになった。特に刀などは全く性別判断の基準にはならない。/また、鉄鏃についても北郷泰道は「武装した女性たち」という刺激的なタイトルで、宮崎県の地下式横穴墓で確実に女性人骨に鉄鏃が伴う例を示し、実践的戦闘要員としての女性の存在を示唆している。
  ▲
ホゾ組.jpg
赤漆塗りケヤキ木椀.jpg
青銅製短刀縄文後期.jpg
 ちょうど卑弥呼がいた弥生後期の事例だが、九州の長崎県平戸島にある根獅子遺跡から、戦闘がもとで死亡した女性首長の遺骨が見つかっている。つまり、戦闘の最前線で指揮をとって戦い、剣が頭部に刺さって負傷した女性が、クニ元の首長古墳へ葬られた事例だ。
 しかも、戦闘の最前線から帰還した彼女(女性首長=姫?)は、遺骨の様子から10日以上はなんとか生存していたとみられている。なにやら、アニメに登場しがちな最前線で剣をふるう美少女戦士を想起してしまうのだが、まぎれもなく弥生後期ないしは古墳初期に起きていた史的事実だ。彼女の墳墓の周囲には、石棺が5基、土壙墓が9基ほど彼女に寄り添うように陪葬されているが、これら14体の墳墓は女王(姫?)だった彼女といっしょに戦った配下の兄弟や戦士、陪臣たちなのだろう。彼らは同時期に埋葬されたとは限らず、のちに老齢化で死去してからも、生命をかけて仕えた彼女の傍らに埋葬されたがった元・戦士たちもいたにちがいない。
 先土器時代や打製石器時代などと呼ばれた旧石器時代だが、日本から次々と初期の土器片や磨製石器が見つかり、現在ではそうは呼べなくなってしまったことは以前の記事にも書いた。英国でもそのようなケースが見つかったものか、いまでは日英考古学の共同研究テーマとなっている。その次の時代、縄文時代については前世紀末から今世紀にかけて、ショッキングな発見が連続して起きているので、強烈な印象を抱かれた方も多いのではないだろうか。わたしが学校で習った縄文時代とは、まったく異なるコペルニクス的な転換となった。
 イネやオオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなど畑での栽培を前提とする穀類、ヤマイモやムカゴ、クリ、クルミ、エゴマ、ドングリ、ゴボウ、カンピョウ、各種豆類などの栽培品や採集品、カキやハマグリ、スズキ、ブリ、ウイナメ、アジ、イワシなど加工した魚介類を保存しておく、高床式倉庫までが建設されていることが明らかになった。わたしの世代では、ネズミなどの害獣や穀物を喰い荒らす害虫などを防ぐ高床式倉庫は、弥生時代からと教わっていた。
 しかも、高床式倉庫などの建築工法は現代の住宅における大工の技術と同様、「貫穴」(ぬきあな)や「桟穴」(えつりあな)、「渡腮仕口」(わたりあごしぐち)など、複雑なホゾ組が用いられていることも驚きだった。わたしの世代では、金具などをいっさい使わないで建てられたホゾ組による建築は、前世紀末まで斑鳩(いかるが)の法隆寺が嚆矢などと教わっていた。そういえば日本にイエネコが登場したのは、平安京にいた貴族が中国からわざわざ輸入したのが最初などという「史実」も教えられた。では、縄文遺跡のあちこちから見つかる、イエネコの骨はいったいなんなのだろうか?
古代史の論点2女と男2000小学館.jpg 古代史をひらくⅡ・古代人の一生2023岩波書店.jpg
日本の歴史1列島創世記2007小学館.jpg 日本の歴史2・日本の原像2008小学館.jpg
 ついでに、富山県桜町の縄文遺跡や北海道の垣ノ島縄文遺跡からは、さまざまな漆塗りの製品が出土している。ケヤキ製の朱塗り椀(わん)や、女性が髪を飾る朱漆塗りの櫛(くし/冒頭写真)など、およそ中世以降の遺跡(江戸期の大名屋敷遺跡)と見まごう漆器製品が出土している。
 いまだにクイズ番組などでは、現代考古学の科学的・実証的な成果にもとづく日本史ではなく、薩長政府がこしらえた近畿地方を中心とする上記のような、ホゾ組の最初=法隆寺、イエネコの歴史=平安貴族の中国からの輸入、畳(たたみ)=平安時代の貴族屋敷で用いられた敷き物が嚆矢……を「正解」とするなど、皇国史観をベースに近畿地方へすべてを集約したエセ「日本史」による、日本の技術・文化の矮小化・短絡化が平然と行われている。先の漆器類についていえば、わたしの時代には正倉院の収蔵漆器や、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)あたりが最古などと教えられていた。けれども、実際の日本の技術史あるいは文化史における漆の食器や装飾品への活用は、それよりも9000年ほど古かったわけだ。
 このような、薩長政府による“しがらみ”で、現代の科学や歴史学の成果を信じたくない人々が、いまだに大勢いるということなのだろうか? この課題について、2023年に岩波書店から出版された3人の歴史学者による編著『シリーズ古代史をひらくⅡ/古代人の一生』より引用してみよう。
  ▼
 「この国古来の伝統」という言葉によって語られる言説の中には、歴史学の観点から即座に否定されるようなものも多々みられる。ファクトチェックを受けるまでもないような説であっても(たとえば上記のような立証された明確な事例)、それに学問的な反論をすることは非常な労力を要し、研究者としてはそれを無視せざるを得ない場合もある。「夫婦同姓は日本の伝統、家族の絆」といった言説に対し、夫婦同姓は明治以降の欧米の影響を受けた制度であり、(中略) ……などの事実を提示しても、その訴求力はどの程度あるだろうか。(カッコ内引用者註)
  ▲
 歴史学者たちが嘆息する、薩長政府が推進した「伝統的」制度という虚偽や、多彩な史観の矮小化や視野狭窄化の課題、日本の古代史を破壊し「なかったこと」にする、明治政府の官令達などによるさまざまなマッチポンプ施策は、とりあえず置くにしても、自国の歴史を近畿地方(特にナラと京)というごく狭い地域に集約し、先述のような10000年にものぼる自国の高度な技術や文化の“深み”のある長大な歴史を「皇民化」以前の原始時代として、「自虐」的にたかだか2000年ほどの歴史に短絡化し、どこまでもおとしめ卑しめる薩長政府がこしらえた皇国史観は、先端の科学成果の積みあげで21世紀にはぜひとも止揚したい。それは使者を送った女王の名に、ことさら卑賎な「卑弥呼」などという漢字を当てる魏(中華思想)と同じ視座だからだ。
 余談だが、ネットを見てたらハレ着で社(やしろ)などへ七五三(ひちごさん)詣りするのは「日本古来からの伝統」なのだそうだ。これって、この地元では「ざんす言葉は山手言葉」と同様に笑止千万なフェイク「伝統」だ。日本橋駿河町の呉服店・三井越後屋(現・三越)が企画・宣伝し、便乗して同平松町の白木屋(現・COREDO日本橋)や神田の伊勢丹波屋(現・伊勢丹)が、大江戸(おえど)の街へ広めたイベントが全国に根づいたということだろう。江戸の慣習を「日本古来」と呼ぶのは勝手だが、三越が江戸市民へ向けたSP戦略はおよそ大成功だったことになる。
 もうひとつ余談気味になるけれど、先年、大阪の堺市にある大山古墳(大仙陵古墳)の外周域から、5世紀後半から6世紀初めぐらいにかけて造られた、ヨコハケメ(横刷毛目)の入る円筒埴輪が発掘されたことは記事にしていた。それ以前、1960年代だったか台風の影響で土砂崩れを起こした大山古墳(大仙陵古墳)から見つかった、女性埴輪(宮内庁書陵部蔵)の頭部(巫女)の写真を入手した。5世紀中葉あたりに、もっとも製造された人物埴輪だとみられるが、同時に墳丘の崩落から男性埴輪の脚部、馬、犬などの埴輪の一部も見つかっていたはずだ。
 ヨコハケメ入り円筒埴輪とあわせ、大山古墳(大仙陵古墳)が4世紀から5世紀の初期にかけて生存した(とされる?)、「仁徳天皇陵」などでないのは自明のことだろう。しかし、いまだに薩長政府の史観の呪縛がとけない人々は、同墳を平然と「仁徳天皇陵」などと規定しつづけている。それは、もはや21世紀の科学でも歴史学でもなく、薩長政府がこしらえた空想を信じる宗教にちがいない。
向野田古墳(熊本県宇土市)86m.jpg
堺市鳥の山古墳200m.jpg
大山古墳・女性埴輪(巫女).jpg
大山古墳・ヨコハケメ円筒埴輪.jpg
 日本の歴史を、いかに狭隘な視野で限定的に見せられ、きわめて偏向した視座から学ばされていたのかを痛感する、前世紀末から今世紀にかけての諸科学による発見・成果は、まだまだ数えきれないほど存在している。時代は飛びとびになるが、次回は縄文時代の次の弥生時代を見てみよう。
                                 <つづく>

◆写真上:石川県三方町にある縄文時代の鳥浜遺跡から発掘された、全体が朱の漆塗りでつくられた女性の髪を飾る櫛。まるで、江戸期の遺構から見つかる漆製品のようだ。
◆写真中上:上は、富山県小矢部市の桜町にある縄文遺跡から出土した、穀物・栽培樹木・加工品などを保存する多彩なホゾ組による4000年前(縄文後期)の高床式倉庫。中は、同時期にケヤキの木をくり抜いて製造した朱漆塗りの椀。同遺跡からは、竹を精巧に編んだザル、植物繊維でこしらえた限りなく畳に近似した敷き物、ツルを編んでこしらえたカゴなども見つかっている。いわずもがなだが、畳のルーツは奈良・平安貴族の屋敷で用いられた“敷き物”などではなく、現時点では4000年前の縄文時代からだ。(下写真/桜町遺跡) 下は、山形県にある縄文時代の三崎山遺跡から出土した内反りの短刀(青銅製)。沿海州からの輸入品とみられ「日本刀」とは呼べないが、東北地方の各地が後世に日本刀を産みだす発祥地となるのを予感させる縄文期の刀剣だ。いまだ鍛刀技術が未熟で、まっすぐな短刀に鍛えるはずが刀工の意図に反し、焼き入れの際に内側へ反ってしまった典型例だと思われる。これは、後世の目白(鋼)による日本刀の短刀でも見られる現象だ。
富山県小矢部市桜町遺跡「畳」.jpg
◆写真中下:上左は、2000年出版の『古代史の論点2/女と男、家と村』(小学館)。上右は、2023年に出版された『シリーズ古代史をひらくⅡ/古代人の一生―老若男女の暮らしと生業―』(岩波書店)。下左は、2007年出版の『日本の歴史1/列島創世記』(小学館)。下右は、2008年に出版された『日本の歴史2/新視点古代史・日本の原像』(小学館)。21世紀になるとともに各社から「日本史」のシリーズ本が出版されたが、現代の発見や成果はさらに進んでいる。
◆写真下:上は、熊本県宇土市に築かれた中規模の前方後円墳の遺構地形(墳長86m)と、刀4振り・剣・4振りなどの武器類とともに埋葬されていた女性首長(30~40歳で死去した女王?)の想像図。中上は、奈良県川西町にある大規模な前方後円墳・鳥の山古墳(墳長200m)で、武器類などとともに装飾品が数多く見つかったため被葬者は女性(女王ないしは姫?)の可能性が高いとされている。中下は、大山古墳(大仙陵古墳)から台風による墳丘の土砂崩落で見つかった女性埴輪(巫女)の頭部。下は、大山古墳(大仙陵古墳)の外周域の試掘から先年見つかったヨコハケメの入る円筒埴輪。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年09月07日 20:28
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    今年の、うちの玄関にあったプランターは枝豆でした。
    2026年09月09日 09:15
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。皇室典範の改正に関して、男系男子にこだわる議員さん方に何の批判もしないマスコミには失望しました。古代の日本では、女性の地位が想像以上に高かったのかもしれませんね。
    2026年09月20日 19:24
  • 落合道人

    Pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    中国や朝鮮半島の思想が及ばない、あるいは影響力が希薄だった、いわゆる「原日本」の文化が色濃い社会や地域では、おそらくジェンダーロールはまったく異なっていた可能性がありますね。もっとも、現代でさえも歴史的に「原日本」色の強い地域では、儒教思想や薩長政府の「修身」とはまったく異なる社会や文化が、そのまま継続しているようにも思えますが。
    2026年09月20日 19:59

この記事へのトラックバック