
1935年(昭和10)7月、東京美術学校の彫刻科に在学中だった彫刻家(の卵)が、上落合のアトリエで徳永直の胸像に取り組んでいた。徳永直に上落合のアトリエまで実際にきてもらい、3日+1日かけて胸像を仕上げている。徳永直は、毎日午後2時から午後4時ぐらいまでの2時間、モデル台がないため卓袱台(ちゃぶだい)の上に胡坐をかいてモデルをつとめた。
1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がそのまま身体を回転させていた。粘土による肉づけを終えるころ、詩人の「O氏」が来訪してふたりを前に、創作方法などのおしゃべりが止まらない。よほどヒマだったのか、彫刻家も「天馬空を翔けるが如く彼饒舌(しゃべ)る」と記している。彼が帰るころには、天窓がないアトリエは薄暗くなり制作中止となった。
2日目は、駆けだしの彫刻家へ、徳永直は茶菓として饅頭を買ってきてくれた。ところが創作をはじめようとしたら、漫画家の「K夫妻」が茶菓をもって訪ねてきた。つづいて、画家の「S、W、K各氏」の3人、翻訳家の「M氏」、おまけに隣家の「N夫人」までがやってきた。当時、上落合はヒマ人ばかりだったのだろうか。こんな喧噪で仕事ができるのかと思うが、おしゃべりは来客同士にまかせて作業を進めていたらしい。おまけに、近所で野球チームを結成しようということになり、客たちの相談がまとまったところで、この日の作業を終えたようだ。
夜になると、筋向いに住んでいる差配のジイさんがやってきて、家賃を滞納するなら「立退いて貰ふ」といってきた。上落合の借家に南京虫が出たので、彫刻家は家賃の支払いをしぶっていたらしい。「南京虫は、こちらで退治するから」、早々立ち退いてくれという。この差配のジイさんは耳が遠く、ほぼ筆談なのだが2時間ぐらい退去するしないで押し問答をつづけ、ジイさんは「貴殿も人は好いようだが時代が違ふ」といった。なぜか、徳永直がモデルに通ってきているのを知っており、「わしは、これで徳永さんのものは好んで読んでゐます」などという話になり、彫刻家が造りかけの胸像を見せると、話がウヤムヤになってジイさんは引きあげていった。
3日目は、農民出身の詩人「D氏」がやってきて、卓袱台の上にいる徳永直に話しかけるので、頭部がたびたび動いて仕事がしづらかった。モデル最後の日なので、徳永直には卓袱台の上でグルグルまわってもらって制作を急いだが、ついに完成の域には達しなかった。これから旅行に出るという徳永直に、モデルの続行は不可能だった。
そこへ、翻訳家の「M氏」が来訪して、日本のプロレタリア美術について議論となる。翻訳家は、「これまでのものは一般に、田舎臭い気がする」といい、美術領域でも資本主義発達史的な検討が必要で、新興美術を含めての検討が不可欠のように思うといった。美術分野に、社会科学の講座派と労農派の発達史論争がどうかかわりがあるのか不明だが、ふたりとも話好きだったらしく議論は長めにつづいた。夜になって、「同僚」(おそらく東京美術学校彫塑科の同級生)の「S、M」の2名がやってきて、造りかけの徳永直像について「親切な批判」を受けた。
こうたびたび来訪者があっては仕事が片づくはずもなく、彫刻家は徳永直が旅行から帰るころを見はからって、もう一度だけモデルになってくれと依頼する手紙を書いている。徳永はそれに快く応じたようで、「徳永氏に深く労を謝して」とこのエッセイを終えている。同文が掲載されたのは、1935年(昭和10)にナウカ社刊行の「文学評論」9月号で、『胸像制作週間』と題した日記風のエッセイを書いたのは「佐田四郎」だった。もちろん、上落合の佐田四郎などという彫刻家は聞きおぼえはないが、彼は戦後に造形・立体美術の表現者として活躍する入江比呂(入江弘)のことだ。
1日目は、心棒へおおまかに粘土をつけていく作業だった。卓袱台には回転台がついていないため、彫刻家が「もう少し左に」というと、徳永自身がそのまま身体を回転させていた。粘土による肉づけを終えるころ、詩人の「O氏」が来訪してふたりを前に、創作方法などのおしゃべりが止まらない。よほどヒマだったのか、彫刻家も「天馬空を翔けるが如く彼饒舌(しゃべ)る」と記している。彼が帰るころには、天窓がないアトリエは薄暗くなり制作中止となった。
2日目は、駆けだしの彫刻家へ、徳永直は茶菓として饅頭を買ってきてくれた。ところが創作をはじめようとしたら、漫画家の「K夫妻」が茶菓をもって訪ねてきた。つづいて、画家の「S、W、K各氏」の3人、翻訳家の「M氏」、おまけに隣家の「N夫人」までがやってきた。当時、上落合はヒマ人ばかりだったのだろうか。こんな喧噪で仕事ができるのかと思うが、おしゃべりは来客同士にまかせて作業を進めていたらしい。おまけに、近所で野球チームを結成しようということになり、客たちの相談がまとまったところで、この日の作業を終えたようだ。
夜になると、筋向いに住んでいる差配のジイさんがやってきて、家賃を滞納するなら「立退いて貰ふ」といってきた。上落合の借家に南京虫が出たので、彫刻家は家賃の支払いをしぶっていたらしい。「南京虫は、こちらで退治するから」、早々立ち退いてくれという。この差配のジイさんは耳が遠く、ほぼ筆談なのだが2時間ぐらい退去するしないで押し問答をつづけ、ジイさんは「貴殿も人は好いようだが時代が違ふ」といった。なぜか、徳永直がモデルに通ってきているのを知っており、「わしは、これで徳永さんのものは好んで読んでゐます」などという話になり、彫刻家が造りかけの胸像を見せると、話がウヤムヤになってジイさんは引きあげていった。
3日目は、農民出身の詩人「D氏」がやってきて、卓袱台の上にいる徳永直に話しかけるので、頭部がたびたび動いて仕事がしづらかった。モデル最後の日なので、徳永直には卓袱台の上でグルグルまわってもらって制作を急いだが、ついに完成の域には達しなかった。これから旅行に出るという徳永直に、モデルの続行は不可能だった。
そこへ、翻訳家の「M氏」が来訪して、日本のプロレタリア美術について議論となる。翻訳家は、「これまでのものは一般に、田舎臭い気がする」といい、美術領域でも資本主義発達史的な検討が必要で、新興美術を含めての検討が不可欠のように思うといった。美術分野に、社会科学の講座派と労農派の発達史論争がどうかかわりがあるのか不明だが、ふたりとも話好きだったらしく議論は長めにつづいた。夜になって、「同僚」(おそらく東京美術学校彫塑科の同級生)の「S、M」の2名がやってきて、造りかけの徳永直像について「親切な批判」を受けた。
こうたびたび来訪者があっては仕事が片づくはずもなく、彫刻家は徳永直が旅行から帰るころを見はからって、もう一度だけモデルになってくれと依頼する手紙を書いている。徳永はそれに快く応じたようで、「徳永氏に深く労を謝して」とこのエッセイを終えている。同文が掲載されたのは、1935年(昭和10)にナウカ社刊行の「文学評論」9月号で、『胸像制作週間』と題した日記風のエッセイを書いたのは「佐田四郎」だった。もちろん、上落合の佐田四郎などという彫刻家は聞きおぼえはないが、彼は戦後に造形・立体美術の表現者として活躍する入江比呂(入江弘)のことだ。



佐田四郎こと入江比呂は当時、ゴーリキー像や秋田雨雀像、小林多喜二レリーフ像などを制作していた。ナウカ社では、同レリーフ像を1円30銭で頒布しており、書斎における小林多喜二の写真をモデルにしたもので、「ナウカ社の『多喜二全集』と共に、これを座右に飾つて、故人の文学的業績を偲んで下さい」と広告している。レリーフを見ると、岡本唐貴が描いた素描の小林多喜二にも酷似しているので、彼もまた写真からスケッチしているのではないか。
その岡本唐貴だが、プロレタリア美術運動が政府に圧殺されていった戦前・戦中の期間を通じて精力的に制作していたが、佐田四郎こと入江比呂は同じ期間にほとんど仕事をしていない。それは、作家とちがって美術家は特高や憲兵隊から激しく弾圧はされても、強いて「転向」は迫られず挫折感をともなわなかったという事情があるからだろうという見方がある。このテーマについて、1981年(昭和56)に入江比呂作品集刊行会から出版された『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』に収録の、門田秀雄『美術前衛の闘いとリアリズム絵画の運命』から少し引用してみよう。
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しかし一方で、プロレタリア美術運動の解体を岡本唐貴らリーダーと全くちがう受けとめ方をした美術作家(たち)もいたのである。例えばそれは、プロレタリア美術展の頂点といわれる1930年の第3回展<プロレタリア美術大展覧会>にはじめて美校在学中に出品した彫刻家・入江比呂であった。「PP(日本プロレタリア美術家同盟)はもっていた唯物弁証法的創作方法と共に崩壊した。支柱を無くした私は敗戦までほとんど内発的な仕事をしていない」(1976年、個展案内状)。/これに反して、岡本唐貴は戦中期におそらく、全生涯を通じてすら、最も豊饒であり、二人の戦争期の過ごし方は際立った対照を見せている。この差異はまた、戦後において、岡本唐貴の緩慢に風解してゆくリアリズムと入江比呂の立体作家としての群を抜くラディカルな軌跡との――前衛としての蘇生との――鋭い対照となって再び歴史のなかにあらわれる。(< >引用者註)
▲
興味深いのは、当局の徹底した弾圧があったにもかかわらず、ほとんど「挫折感」を見せずポジティブに制作を継続していた岡本唐貴が、敗戦とともに表現の「自由」が保障されたとたん、作品の精彩を徐々になくしていったのとは反対に、美術運動の徹底した挫折感を味わった(とみられる)入江比呂は、敗戦まで制作意欲をまったく喪失していたにもかかわらず、戦後を迎えるとのびのびとした創作意欲が回復し、造形・立体美術家としてフロントに踊りでてきたということだろう。
その岡本唐貴だが、プロレタリア美術運動が政府に圧殺されていった戦前・戦中の期間を通じて精力的に制作していたが、佐田四郎こと入江比呂は同じ期間にほとんど仕事をしていない。それは、作家とちがって美術家は特高や憲兵隊から激しく弾圧はされても、強いて「転向」は迫られず挫折感をともなわなかったという事情があるからだろうという見方がある。このテーマについて、1981年(昭和56)に入江比呂作品集刊行会から出版された『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』に収録の、門田秀雄『美術前衛の闘いとリアリズム絵画の運命』から少し引用してみよう。
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しかし一方で、プロレタリア美術運動の解体を岡本唐貴らリーダーと全くちがう受けとめ方をした美術作家(たち)もいたのである。例えばそれは、プロレタリア美術展の頂点といわれる1930年の第3回展<プロレタリア美術大展覧会>にはじめて美校在学中に出品した彫刻家・入江比呂であった。「PP(日本プロレタリア美術家同盟)はもっていた唯物弁証法的創作方法と共に崩壊した。支柱を無くした私は敗戦までほとんど内発的な仕事をしていない」(1976年、個展案内状)。/これに反して、岡本唐貴は戦中期におそらく、全生涯を通じてすら、最も豊饒であり、二人の戦争期の過ごし方は際立った対照を見せている。この差異はまた、戦後において、岡本唐貴の緩慢に風解してゆくリアリズムと入江比呂の立体作家としての群を抜くラディカルな軌跡との――前衛としての蘇生との――鋭い対照となって再び歴史のなかにあらわれる。(< >引用者註)
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興味深いのは、当局の徹底した弾圧があったにもかかわらず、ほとんど「挫折感」を見せずポジティブに制作を継続していた岡本唐貴が、敗戦とともに表現の「自由」が保障されたとたん、作品の精彩を徐々になくしていったのとは反対に、美術運動の徹底した挫折感を味わった(とみられる)入江比呂は、敗戦まで制作意欲をまったく喪失していたにもかかわらず、戦後を迎えるとのびのびとした創作意欲が回復し、造形・立体美術家としてフロントに踊りでてきたということだろう。


カントではないけれど、空気抵抗があるからハトは速く翔ぶことができないが、空気抵抗さえなくしてしまえばもっと速く翔べると考えるハトがいるとすれば、たちまち墜落して二度と翔べなくなってしまうだろうという逸話が思い浮かぶ。現実に当局の激しい抑圧や弾圧があったせいで、岡本唐貴は生きいきとした表現をつづけられたのかもしれず、そのタガが外れた戦後は精彩さを欠き、表現を前進させることが困難になっていった……というような経緯だろうか。
ちょっと恥ずかしい余談だけれど、上記の「翔べないハト」の逸話を、わたしは以前にどこかでサルトルが引用していると書いた憶えがある。これは明らかにわたしの拙い誤記憶で、カントの『純粋理性批判』が正しい引用元だ。サルトルが『自由への道』など著作のどこかで再引用していたのを、誤って記憶していたのかもしれない。改めて、ここで訂正させていただきたい。
その岡本唐貴自身も、『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』(1981年)の出版にあわせ、入江作品に対する『まづしい感想』という一文を寄せている。同文より、少しだけ引用してみよう。
▼
しかし社会主義レアリズムにおける政治の優位性というドグマに進路を歪められた。それがこの道の破産の主な条件であった。いまにおいてもこのことにかわりはない。/ところで戦後においてはダダはシュールに吸収された。このことは本来従兄弟関係の様なもので、定着しようと思えばシュールになるのが自然である。戦後にはシュールとアブストレーという大筋の多数な分岐が花と咲いている。ネオ・ダダもその一つであろう。/入江君の仕事が立体造型により、社会主義レアリズムからダダめいたものに移行しながら、実はシュールめいたものにも見えるのは、社会主義レアリズムの本質的死めつと無関係ではないのだと思う。これは一種の批判的レアリズムの現代風な表現行為なのだとも考えられる。/製作年代を追って内容と形式を検討してゆけば更に面白いものがあると思うが、いまそのヨユウはない。/君はぼくの逆の道を歩んでいるようだな。
▲
入江比呂が、インパクトのある作品を堰を切ったように生みだす戦後の姿を、どこか羨んでいる感触が行間から滲むような文章だ。岡本は同文で、入江の作品を「シュール」や「ダダ」と同列へ収斂しようとするが、入江自身はもちろん、彼が属していた「前衛美術会」はダダもシュルレアリズムも超克する地平に立とうとする、現実社会の変革をめざす表現者集団ではなかったろうか。
ちょっと恥ずかしい余談だけれど、上記の「翔べないハト」の逸話を、わたしは以前にどこかでサルトルが引用していると書いた憶えがある。これは明らかにわたしの拙い誤記憶で、カントの『純粋理性批判』が正しい引用元だ。サルトルが『自由への道』など著作のどこかで再引用していたのを、誤って記憶していたのかもしれない。改めて、ここで訂正させていただきたい。
その岡本唐貴自身も、『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』(1981年)の出版にあわせ、入江作品に対する『まづしい感想』という一文を寄せている。同文より、少しだけ引用してみよう。
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しかし社会主義レアリズムにおける政治の優位性というドグマに進路を歪められた。それがこの道の破産の主な条件であった。いまにおいてもこのことにかわりはない。/ところで戦後においてはダダはシュールに吸収された。このことは本来従兄弟関係の様なもので、定着しようと思えばシュールになるのが自然である。戦後にはシュールとアブストレーという大筋の多数な分岐が花と咲いている。ネオ・ダダもその一つであろう。/入江君の仕事が立体造型により、社会主義レアリズムからダダめいたものに移行しながら、実はシュールめいたものにも見えるのは、社会主義レアリズムの本質的死めつと無関係ではないのだと思う。これは一種の批判的レアリズムの現代風な表現行為なのだとも考えられる。/製作年代を追って内容と形式を検討してゆけば更に面白いものがあると思うが、いまそのヨユウはない。/君はぼくの逆の道を歩んでいるようだな。
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入江比呂が、インパクトのある作品を堰を切ったように生みだす戦後の姿を、どこか羨んでいる感触が行間から滲むような文章だ。岡本は同文で、入江の作品を「シュール」や「ダダ」と同列へ収斂しようとするが、入江自身はもちろん、彼が属していた「前衛美術会」はダダもシュルレアリズムも超克する地平に立とうとする、現実社会の変革をめざす表現者集団ではなかったろうか。


当時の入江比呂のアトリエは、上落合2丁目619番地の吉岡方にあった。この「吉岡」という人物は不明だが、専属の差配がいるので付近の地主が敷地内に建てた貸家だろうか。位置的には、なめくじ横丁の上落合銀座通りをはさんだ南東側ということになる。戦後は、しばらく練馬区下石神井2丁目1657番地にいたが、鎌倉は佐助稲荷の裏側(西側)にあたる笛田にアトリエをかまえていた。
◆写真上:入江比呂の代表作のひとつ、1974年(昭和49)制作の『ロッカーマリア』(部分)。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)に上落合で制作された佐田四郎(入江比呂)『徳永直氏像』。上右は、戦後の鎌倉の笛田アトリエ時代に撮影された入江比呂。中左は、1935年(昭和10)ごろ制作された同『小林多喜二レリーフ像』。中右は、1933年(昭和8)制作の岡本唐貴『小林多喜二の像』。下は、1958年(昭和33)に制作された入江比呂『外来者』。
◆写真中下:上は、1970年(昭和45)に制作された入江比呂『玉遊び』。下は、1971年(昭和46)に制作された同『ひも』。いずれも『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』より。
◆写真下:上は、1977年(昭和52)制作の入江比呂『貴種連結』。下は、1979年(昭和54)制作の『食目人』。作品は屋外に置かれることが多く、展示中に風雨にさらされて経年変化が激しいものもある。工場の廃材や廃棄された大量消費材などを、アッサンブラージュという手法で寄せ集め、白セメントなども使用しているためクラックや腐食が起きやすいが、風化にまかせるという肯定的な発想も含まれている。大量生産・大量消費社会から出るゴミや廃材をあえて使う、フランスのヌーヴォーレアリズムや米国のジャンク・アートなど、当時は「反芸術運動」の主流となっていた。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)に上落合で制作された佐田四郎(入江比呂)『徳永直氏像』。上右は、戦後の鎌倉の笛田アトリエ時代に撮影された入江比呂。中左は、1935年(昭和10)ごろ制作された同『小林多喜二レリーフ像』。中右は、1933年(昭和8)制作の岡本唐貴『小林多喜二の像』。下は、1958年(昭和33)に制作された入江比呂『外来者』。
◆写真中下:上は、1970年(昭和45)に制作された入江比呂『玉遊び』。下は、1971年(昭和46)に制作された同『ひも』。いずれも『彫刻家入江比呂のアッサンブラージュ』より。
◆写真下:上は、1977年(昭和52)制作の入江比呂『貴種連結』。下は、1979年(昭和54)制作の『食目人』。作品は屋外に置かれることが多く、展示中に風雨にさらされて経年変化が激しいものもある。工場の廃材や廃棄された大量消費材などを、アッサンブラージュという手法で寄せ集め、白セメントなども使用しているためクラックや腐食が起きやすいが、風化にまかせるという肯定的な発想も含まれている。大量生産・大量消費社会から出るゴミや廃材をあえて使う、フランスのヌーヴォーレアリズムや米国のジャンク・アートなど、当時は「反芸術運動」の主流となっていた。
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