新潮社と平凡社の社長邸に縁ある吉田慶子。

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 下落合(現・中落合/中井含む)に住んでいた、面白い随筆を残している女性がいる。俳句雑誌「暖流」の同人で、俳人および随筆家の吉田慶子だ。娘時代に、たまたま自宅があったごく近く、あるいは引っ越した先の隣りの家に、のちの大手出版社となる社長たちが偶然住んでいた。当時は、そんなに大きな出版社になるなど思いもよらなかったようだ。
 まず、牛込矢来町3番地中ノ丸(現・新宿区矢来町3番地)に、吉田桂子の叔母夫婦が住んでいた。当時、自宅から歩いて5分ほどのこの家に、彼女は毎日入りびたっていた。自宅にいるよりも、子どもがいなかった叔母夫婦の家にいるほうが、なにかとかわいがられたので居心地がよかったらしい。この叔母の家の前隣りに、大きめな門構えの住宅があり、門を入ると左側には印刷の町工場が建っていた。この家のオジサンは出版の仕事をしていて、身長が低く丸顔で、いつも羽織袴の姿で来客を愛想よく玄関まで送りに出てきた。
 対照的にオバサンは、オジサンよりもはるかに背が高く、「馬のように長い顔をして」いた。この小さな出版社の子どもたちは、女子も男子もみんなオバサンに似ていた。その家の女の子に誘われ、彼女は二度ほど遊びにいっている。家に入ると、子ども心にも地味で優しい雰囲気のオバサンが、普段着をキチンと着てお菓子を出してくれた。この出版社は新潮社といい、小柄で丸顔のオジサンが初代社長の佐藤義亮だと知ったのは、かなりたってからのことだった。
 吉田慶子は戦後、近くへ用事にきたついでに故郷の矢来町3番地中ノ丸界隈を、久しぶりに散策している。すると、新潮社の前で立ちどまったまま茫然としてしまった。佐藤家のあった敷地に、新潮社の大きなビルディングが建ち、横丁の隣りにあった祖父の家や、隣家の「オサムちゃん」の家が跡形もなくなり、新潮社の巨大な倉庫ビルになっていた。
 彼女は、女学校の2年生(13~14歳ごろ)まで矢来町ですごしていたが、やがて東京府住宅協会が下落合の目白通り沿いに建設した、落合第二府営住宅へと転居してくる。関東大震災が起きる以前、1919年(大正8)ごろのことだ。当時の様子を、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号収録の、吉田慶子の随筆『新潮社と平凡社』から引用してみよう。
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 東京府豊多摩郡落合村下落合の畠の中に建った百軒余りの府営住宅の一つに住むことになった。裏の家に入居した落合小学校の教員の家族と親しくなり、留守勝の父と病身の母のいる私達子供はどれ程世話になったことか。その一家は四年ばかりで中井の落合第二小学校長になって、学校の側に越してしまった。/そのあとに元学校の教員で今神田の方で出版業をしているという人が越して来た。夫婦で話し合う時は相当地方訛りのある言葉を使っていた。数えの十七歳位の長女は、まるで名画からぬけ出したような美人で、年の大分離れた弟妹の世話をよくしていた。
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 おそらく彼女の一家は、落合第二府営住宅が竣工した直後に入居しているのだろう。いまだに、目白文化村も第三府営住宅も、目白通りから南へ200mほど入った第四府営住宅も存在せず、一面が田畑や箱根土地による郊外遊園地の「不動園」だった時代だ。
 「裏の家」に住んだ落合(第一)尋常小学校教員の家は、おそらく駒村という苗字だったろう。以前にも書いたが、落合第二尋常小学校の設立準備は1921年(大正10)以前からスタートしており、建設場所まで予定されていながら東京府からストップがかかって、より広い敷地を選び直している最中だった。1923年(大正12)には、具体的な創立の趣意書までが落合村から東京府に提出されている。その際、予定されている校長の名前も記載されていただろう。妙正寺川をはさんで、中井駅の南に落合第二尋常小学校(現・落合第五小学校)が開校するのは1925年(大正14)になってからで、2年も前に「裏の家」から転居していった教師は、同小学校の初代校長・駒村徳寿だろう。
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 このあと、震災直前に駒村家が転居した空き家へ引っ越してきたのが、神田神保町で出版業を営んでいる、ふだんの生活では秋田弁だったらしい下中彌三郎だ。だが、下中家の2階には小説家志望の若い男たちが働かずにブラブラたむろしており、以前の駒村家とは異なり、彼女の家では下中家の評判はあまりよろしくなかったらしい。『新潮社と平凡社』から、つづけて引用しよう。
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 此の朴訥な堅実な一家に不似合な、何とも自堕落な感じの若者が数名何時も二階の六畳の間にたむろしていた。昼日中和服着流しの男が、何んとも得体の知れぬ女と肩寄せ合って家の前をブラブラ行ったり来たりしている。真面目人間の私の両親にとっては不愉快極り無い事であったらしい。これが作家の卵らしいと聞いて、父母は小説家たらんと志していた私からペンも原稿用紙も取り上げてしまった。(中略) 其のあとに子無しの叔母夫婦が、下中氏より権利を譲り受けて越して来た。/つまり叔母は新潮社の前から(尤も其の頃は横寺町に移っていたが)平凡社主の家にと越して来たのである。
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 吉田慶子は、隣家の「何とも自堕落な感じの若者」たちのせいで、とんだとばっちりを受けたことになる。文筆家を志望していたのに両親から禁じられてしまったが、のちに俳人あるいは随筆家になっているので、当初の夢は半ばかなっているのだろう。
 落合府営住宅は、台所(8畳大)や浴室(3畳大)、納戸、トイレ×2などを除き6~7室の大きな家が多く、文学志望の若い子たちを下宿がわりに置いてやることができたのだろう。2階の6畳間を若者たちに占領されたとしても、ほかに2階には8畳サイズの客間があり、1階には8畳の居間、6畳の食堂兼茶の間、4.5畳の隠居部屋、同じ広さの予備室、3畳の女中部屋などがあり、スペース的にはかなり余裕のある生活だったと思われる。ただし、「名画からぬけ出したような美人」の娘をもつ親の身としては、多少心配だったかもしれないが。
 下中彌三郎は、1924年(大正13)ごろまで下落合1515番地、すなわち落合第二府営住宅10号に住んでおり、そのあとに入居したのが横寺町から転居してきた叔母夫婦ということになると、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」によれば、子どもがいない叔母夫婦の姓はおそらく「早川」だろう。この早川邸を「裏の家」と書く、女学生だった吉田慶子の自宅は、二間道路に面している同番地の東隣り、落合第二府営住宅5号の須崎邸(下落合1515番地)か、あるいは二間道路をはさんだ繁華な目白通り寄りに建つ、同府営住宅9号の若林邸(同1518番地)のどちらかとみられる。
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 もし、彼女の自宅が同府営住宅5号の須崎邸だとすれば、当時の彼女の家を実際に目にすることができる。1924年(大正13)に東京シネマ商会が製作した社会教育映画『街(ちまた)の子』には、5号の須崎邸がとらえられている。ちょうど「むさしや」の前でロケが行われたシーンのうち、二間道路のいちばん奥に建つ2階建ての和館が須崎邸だ。同邸の西隣り、画面では上林邸(4号)と大江邸(3号)が建ち並んで見えないが、須崎邸の左隣りが下中彌三郎一家が住んでいた10号の2階建て住宅だ。しかも、同映画は1924年(大正13)と同時代の製作なので、ご当人たちが住んでいたリアルタイムの情景ということになる。ただし、江戸期から椎名町と呼ばれて賑やかだった目白通り側を「表」とするなら、若林邸(9号)が著者の家ということになるのだが。
 さて、彼女にはもうひとつ面白い逸話がある。矢来町時代に、祖父の隣家に住んでいた「オサムちゃん」だ。彼女は子ども時代に、オサムちゃんとはキャッチボールをして遊んだ仲だった。1971年(昭和46)発行の「暖流」5月号に収録された、吉田慶子『はたちの頃』より引用してみよう。
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 やはりその頃の或る日、私は牛込矢来町の祖父の家を尋ねた(ママ)。すると隣の滝沢家から突然「アッハハハハ」と、とてつもない大きな笑い声がした。それは驚くべし、同じ調子で止め度もなく続くのである。私は吃驚して、祖父に訊くと、「次男坊のオサムが築地小劇場に入ったそうだよ。毎日アレだ。」と苦い顔をした。祖父の家も滝沢家も、まあ大邸宅の方だった。その庭の片隅、つまり祖父の家寄りに小さな家が建っていて、これが子供部屋になっていた。オサムちゃんは小学校の頃から、そこで勉強していた。ずうっと年のかけ離れたお兄さんがいて、一風変った若者が出入して一寸した梁山泊だった。兎に角、或る時は怒号だったり、囁きだったり、泣き声だったり、それが遠慮もなく、あたりへ響き渡るのである。今日の滝沢修の土台はその時に出来たのであろう。個人的には子供時代に何度かキャッチボールをした位の間柄なのに、今でもテレビに滝沢修の顔が写ると、私は、「アッ、オサムちゃんだ!!」と、なつかしくて声を上げるのである。
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 滝沢修は、築地小劇場から村山知義らが結成した東京左翼劇場、つづいて新協劇団に参加している。その後、劇団民藝を宇野重吉らと結成し、のちに舞台で大ヒットする『炎の人』のゴッホ役だが、大向こうから「オサムちゃん!!」の声がかかったら、どんな顔をしただろうか。w
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 最後に、俳人で随筆家だった吉田桂子の詠草を、いくつか選んでご紹介しておきたい。
  枯れしもの惜しみおく庭春立ちぬ (1959年4月)
  金借りに来しオーバーの豪華さよ (1970年2月)
  農婦来て冷夏の愚痴も置いてゆく (1980年10月)
  若き娘等は聞えぬという鉦叩<カネタタキ> (1982年12月)
  初詣氏子九人の祠まで (1991年3月)
 俳句ではなく、やや斜に構えた川柳を詠んでもうまそうな風刺の眼差しが楽しい彼女の作品だ。

◆写真上:第二府営住宅の吉田慶子の自邸や、下中彌三郎邸があったあたりの現状。正面に見える中落合社宅の棟の敷地あたりが、第二府営住宅10号跡界隈。
◆写真中上:上は、1976年(昭和51)に暖流俳句会から刊行された「暖流」10月号(左)と、1971年(昭和46)刊行の「暖流」5月号(右)。下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる10号界隈。吉田慶子の自宅は、若林邸(9号)か須崎邸(5号)と思われる。
◆写真中下:上は、矢来町にある新潮社の創業者・佐藤義亮(左)と、神田にある平凡社の創業者・下中彌三郎(右)。中は、『街の子』(1924年)にとらえられた落合第二府営住宅の5号邸・須崎邸。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる第二府営住宅10号界隈。
◆写真下:上は、下中彌三郎の呼びかけで1955年(昭和30)に結成された「世界平和アピール七人委員会」の会合。中央左側の白髪が下中彌三郎で、右側が日本女子大の上代タノ。また、下中彌三郎の左側が京大の湯川秀樹で上代タノの右側が日本YMCAの植村環だが、日本婦人団体連合会の平塚らいてうは欠席している。下は、大ヒットした民藝の舞台『炎の人』でゴッホ役を演じた滝沢修。
★おまけ
 わたしは、舞台『炎の人-ゴッホ小傳-』を1980年代末に観ているが、映画好きには1966年(昭和41)に公開された監督・山本薩夫の『白い巨塔』(大映)に出演した、医療過誤裁判で浪速大学の外科教授・財前五郎(田宮二郎)を激しく弾劾するが、結局は無罪を主張して浪速大学にたっぷりと恩を売り、ひそかにポスト人事の「植民地」化をたくらむ、東都大学の船尾教授が印象的だろうか。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年09月13日 22:05
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    インフルA型に罹ってしまい、食欲がなくて困っています。(汗)
    2026年09月14日 09:33

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