目白文化村に建つ武生郷友会の学舎。

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 箱根土地が1925年(大正14)に作成した「目白文化村分譲地地割図」には、第一文化村のエリアに「福井郷友会殿」と記載された敷地が掲載されている。第一文化村の南東に設置された水道タンクの近く、田邸と古河邸にはさまれたかなり大きな敷地だ。だが、これは「武生郷友会」の誤りであり、「福井郷友会」と表記しては非常にマズイことを、同地割図を作成した箱根土地の担当者は気づかなかったようだ。武生郷友会のメンバーが同地割図を見たとしたら、苦虫を嚙みつぶしたような表情を見せたのではないだろうか。
 武生(たけふ)の街(現・越前市)は、現在では確かに福井県に所属しているのだが、もともと江戸期には本多家が治める2万3千石の府中藩で、松平家が治める福井藩の隣藩だった。しかも、府中藩の本多家はもともと福井松平家の家老格ということで、なにかというと福井藩から蔑視され圧力や圧政に苦しんできた歴史をもっていた。したがって、郷友会には意地でも「福井」の名称は入れず、対外的にも「福井」ではなく「武生」というネームで通していた。
 目白文化村に建設する、東京へ留学する学生たちのための学舎も、あえて「福井」ではなく「武生郷友会会所」と名づけている。おそらく、箱根土地の地割図作成者は「武生」のネームに聞きおぼえがなく、どこの県にある街かを調べたうえで、あえて知名度のある県名の「福井」へと勝手に変えてしまったのだろう。武生郷友会に所属する古老たちが見たら、逆鱗に触れるような記載だったにちがいない。旧・福井藩と旧・府中藩の地域対立は明治以降もつづき、さまざまな事件が起きている。その代表的な「武生騒動」については、1988年(昭和64)に武生郷友会が編纂した『武生郷友会百年史』(百年史編纂委員会)に詳しいので参照されたい。ひょっとすると、同会のメンバーが地割図の誤表記に、箱根土地へクレームを入れているのかもしれない。
 さて、武生郷友会の「会所」(学舎)は当初、世田谷の太子堂に転居した青山6丁目147番地の旧・本多副恭(男)邸跡に置かれていたが、1924年(大正13)4月30日、第一文化村の下落合(3丁目)1321番地に武生郷友会会所が竣工すると、設備や学生たちは下落合へ移転している。その建設時の様子と、その後の経緯について『武生郷友会百年史』より少し長いが引用してみよう。
  
 その頃、土肥慶蔵より新しく開発された目白文化村の土地百坪(三三〇平方メートル)の無償貸与の申出がなされた。二十年貸与という条件であるから、ほとんど寄附に等しい好意であった。しかし、会としても土肥氏個人に甘えることは立場上許されず、購入原価での購入を申出た。氏がそれを快諾されたことは言うまでもない。そして、青山会所を九千円で売却し、約七年間続いた同会所は閉鎖された。/大正十二年(一九二三)八月に目白<下落合>の購入地に会所建設が進められた。平家建三十四坪(約一一二平方メートル)木造の建物である。その年九月一日に関東大震災が起ったため、工事は一時中断された。竣工は同十三年四月<4月30日>と記されている。この文化村の敷地が現在の郷友会の存在する場所であり、当時、豊多摩郡落合町目白第一文化村八号と呼ばれた。最近の全財産目録によると敷地は百八十八・二八坪(約六二一平方メートル)になっており、その後近隣地を買収していったことは明らかである。また、現在は、建物も旧館・新館併せ百七十三・二五坪(約五七一平方メートル)で約五倍に増築されている。(< >内引用者註)
  
 登場している土肥慶蔵は武生出身の医師で、皮膚科が専門だった。東京帝大医学部の教授に就任し、日本皮膚科学会を設立して会頭をつとめていた人物だ。
 武生郷友会は、東京における武生出身者の拠点であると同時に、東京に学ぶ学生たちの負担を減らすために学生寮の役割を担っていた。その公的な目的のため、1923年(大正12)には「財団法人寄附行為起草委員会」が設立され、1925年(大正14)12月には財団法人の認可が下りて、「財団法人 武生郷友会」としての活動基盤が整えられている。また、東京へ留学する学生たちのために奨学資金の募金活動も行われ、奨学金貸与制度が設けられている。この募金活動では、途中の金融恐慌から世界大恐慌の困難な時期をはさみながら、1930年(昭和5)までに在京の武生出身者からは8,240円、地元の在住者から1,770円の計10,010円の資金が集まった。
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 こうして、目白文化村には武生出身の学生たちが、戦前戦後を通じて集うことになったのだが、1945年(昭和20)の山手大空襲の際には、学生たちによる必死の消火活動で第一文化村にもかかわらず、武生郷友会会所および学舎は延焼をまぬがれている。しかも、同会所の記録には、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で火災が迫り、消火(防火)活動を行ったと記録されている。ここで想起されるのは、1945年(昭和20)5月17日に米軍の偵察機F13から撮影された、爆撃の焼け跡も生々しい下落合一帯の空中写真だ。
 目白文化村は、同年4月13日夜半の空襲で大半が焼けたとする資料がかなり多いのだが、また事実そのように罹災した方の証言類も残されているが、米国の国防総省が前世紀末に公開したとみられる先の偵察写真では、確かに落合府営住宅から第一文化村の北端は焦土化しているものの、弁天社のある前谷戸をはさんだ南側は焼け残っているように見える。すなわち、目白文化村の空襲による罹災は、4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたっているのではないかということだ。それが戦後、4月13日夜半の空襲で焼けだされた人々の証言のみが採取された時点で、「目白文化村の空襲は4月13日」とされてきたのではないか。
 武生郷友会会所の学舎で記録された、「昭和二十年」の項目よりそのまま引用してみよう。
  
 (前略) 五月二十五日、米軍のB29は約十二万個の焼夷弾を投下、山の手から多摩地区を火の海に変えた。/下落合一帯もたちまち火に包まれた。在舎の学生たちはバケツリレーで必死の消火作業に当たった。学舎は奇跡的に類焼を免れた。
  
 すなわち、第一文化村の南側は1945年(昭和20)4月13日夜半ではなく、5月25日夜半の第2次山手空襲で危機的な状況を迎えていたのは明らかだろう。したがって、目白文化村の空襲は4月13日夜半の罹災家屋と、5月25日夜半の罹災家屋が混在していたことになる。それが、1ヶ月ほどの短期間のタイミングで受けた壊滅的な空襲禍のため、戦後の部分的な証言をベースに「目白文化村の空襲は4月13日」へと集約されていったのではないか。
 換言すれば、偵察機F13が撮影した同年5月17日の偵察写真、つまり5月25日夜半に計画されていた空襲の8日前に撮影された第一文化村の姿は、やはり焼け残っていた家々もとらえられているということだろう。そして、8日後に実施された第2次山手空襲で、なんとか焼け残っていた家々も延焼してしまったというのが正確な経緯なのではないか。事実、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真では、第一文化村の南側で延焼をまぬがれているのは唯一、武生郷友会の建物のみだった。学生たちが必死で消火作業を行ったのは、近隣の家々からの延焼を防ぐためであり、それまでは近隣の家々も4月13日夜半の空襲では焼けずに建っていたということになる。
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 さて、『武生郷友会百年史』には、戦時中を同学舎で送った人の手記も掲載されている。その中から、田中壽という人の書いた『私と郷友会』というタイトルの手記を少し長いが引用しよう。
  
 目白通りを黄バスが走り、椎名町のバス停から少し入った所に「目白文化村」があった。そこは安倍能成、末高信、関口存男、奥村鶴吉など当時の錚々たる学者たちの表札が並ぶ閑静な高級住宅地であった。その一角に、「文化村」のイメージとは凡そ程遠い、いわば場違いなオンボロ家屋「武生郷友会所」があった。(中略) 敗戦直後のこの一年間の在舎生活は、停電、燃料払底、食糧不足等々、惨憺たるものであった。新宿や池袋などのヤミ市でよく飢えを凌いだものである。/思えば、今から四十年以前の下落合三丁目界隈は谷あり坂あり緑濃く田園牧歌的な自然環境に恵まれていた。こうした環境のなかで、詰め襟の学生服を着て板割り草履?か下駄を鳴らして通学し、風体いささかも構わず意気浩然として闊歩した青春の学舎時代に、よき先輩後輩を知り得たのは幸であった。/しかし、軍事一色の時代、科学研究は戦争遂行を唯一絶対の目標とされたため、学問の自由は抑圧され、逼塞した大学では軍事教練や体練?が幅を利かし、社会科学の基礎的学習が全く出来なかったことは今もって痛恨の思いとなっている。
  
 下落合3丁目(現・中落合3丁目)の武生郷友会所の学生は、中井駅から高田馬場駅へ、またバスで目白駅へ出て通学していた。ターミナル駅の新宿と池袋の双方に近いため、学校への通学には便利だったろうが、上掲の手記にもあるように、いちばん学ぶ必要がある貴重な時代を戦争で台なしにされたことは、うちの親父ともども「痛恨」のきわみだったろう。
 戦後は、目白文化村の東側を斜めに貫通する改正道路(山手通り)の敷設で、交通量の増加とともにかなり騒音に悩まされたと思われる。現在は、山手通り沿いにマンション風の武生郷友会所および学舎が完成し、入寮者はかなり快適な学生生活を送れているのではないだろうか。
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 5月25日夜半の空襲から焼け残ったということは、1924年(大正13)に竣工した西洋館風の学舎がそのまま戦後まで建っていたことになる。むしろ、その建築をリフォームしつづけていたほうが、いくら「オンボロ」になったとはいえ、目白文化村らしい風情を残す学舎だったのではないだろうか。戦後、しばらくしてから建てられた学舎の写真を見ると、わたしが住んでいた学生下宿に近い「オンボロ」アパートのようで、文化村のイメージとは「凡そ程遠い」外観だと思うのだけれど。

◆写真上:現在も目白文化村の第一文化村にある、(財)武生郷友会の会所および学舎。
◆写真中上は、1925年(大正14)に箱根土地が作成した「目白文化村分譲地地割図」にみる「福井郷友会殿」。中上は、1924年(大正13)4月30日に竣工した武生郷友会会所(学舎)の記念写真。目白文化村の建築らしい、最初はしゃれた西洋館風の学舎だった。中下は、1925年(大正14)に撮影された同会所前の記念写真。背後の樹間には、西隣りの西洋館だったとみられる田邸が見えているのがめずらしい写真だ。は、大正末ごろに撮影された同会所で、上の写真と同様に西隣りの2階建てだったらしい田邸の屋根がとらえられている。
◆写真中下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる武生郷友会会所。中上は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同会所で、延焼が北側から迫っていた様子がわかる。中下は、旧・会所の敷地も含め東側に拡張された同会所。1952年(昭和27)11月9日に竣工しているが、ふつうのアパートと変わらず文化村らしくないデザインの建物になった。は、1960年代に撮影された武生郷友会の学舎祭(寮祭)が開かれている写真で、手前の道路が山手通り(環六)。
◆写真下は、1988年(昭和64)に撮影された武生郷友会会所(学舎)。中上中下は、同学舎内部の個室と廊下。は、1980年代とみられる同学舎祭(寮祭)の催しで目白文化村のかけっこ。こんな若者たちが文化村を疾走してたら、犬が吠えるぐらいでは済まず通報されたかもしれない。
おまけ1
 1963年(昭和38)の空中写真にみる、東へ拡張された武生郷友会会所(学舎)。2枚目は、1987年(昭和62)11月14日に撮影された同会所の外観で突きあたりが山手通り。3枚目は1988年(昭和63)に斜めフカンから撮影された同会所。左上には、十三間通り(新目白通り)が写っている。
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おまけ2
 下落合の氷川明神社近くで見かけた、いまだ体表に子ども時代の模様が薄っすら残る若いアオダイショウの個体。1.5mほどで、わが家の周辺に出没する2mをゆうに超える美しいアオダイショウよりも小ぶりだが、そのぶん敏捷で動きがすばやい。人間の近くで静かに暮らし、ネズミなどの害獣やゴキブリなど害虫、ときにゴミ漁りのカラスなども捕食してくれる頼りになる益獣だ。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (# ̄  ̄)σ・・・Nice‼です♪
    2026年08月02日 20:44
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    今朝はめずらしく、アブラやミンミンではなくクマゼミの声で目が醒めました。
    気温が高いので、年々北上しているみたいですね。
    2026年08月02日 20:55

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