有島武郎をトランプで占う桜井八重子(納秀子)。

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 少し前の記事で、成瀨無極が京都帝大の講師時代に、桜井八重子と有島武郎が1921年(大正10)4月21日に「宇治の会」で邂逅した様子を小説『塔』に書いたと、『古いアルバムを開いて』(「洛味」55号/1956年)の成瀨本人の記述から引用していた。ところが、『塔』が書かれたのは1913年(大正2)10月であり、同作が収録された短編集『極光』が春陽堂から出版されたのは1914年(大正3)なので、成瀨はなにか大きな思いちがいをしているとも書いていた。
 1921年(大正10)4月21日の「宇治の会」について、成瀨無極が記録しているのは戦後すぐのころ、1947年(昭和22)に北隆館から出版された『面影草』だ。成瀨無極は有島武郎に招かれ、奈良の新薬師寺から足をのばして春日野の地獄谷の石窟仏などを見学したあと、京都へともどり宇治の旅館「花屋敷」に宿泊している。そこで有島武郎の旧友と合流したあと、偶然、同宿に泊まりあわせていた桜井八重子をまじえての懇談会となり、それが夜明けまでつづいた。成瀨は酒を飲んだかもしれないが、桜井八重子は酒を飲まず、有島武郎も酒は苦手だったようなので、いわゆる宴会のようにはならなかったらしい。同書より、ふたりの面白いエピソードを引用してみよう。
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 花屋敷では有島氏の旧友と、その夜偶然泊り合はせた女優桜井八重子と私と四人が膝を交へて雑談した。そのとき八重子は骨牌(トランプ)の占ひをした。有島氏の札にはダイヤとハアトが多く出た。ダイヤは財宝を、ハアトは恋愛を意味する。「あなたは物質に恵まれ、多くの女性に愛されてゐられます。現在も年上の一女性に烈しい恋をされておいでなさいます。」 さう彼女はきつぱり言つた。有島氏はただ微笑してゐたが、私の胸には一々思ひあたる事があつた。
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 桜井八重子は遊びか、半ば冗談でトランプ占いをしたのかもしれないが、成瀨も書いているように、親しい友人同士でしか知らない事実を彼女がいい当てたのに驚いたのだろう。ただし、「文学女優」と呼ばれた桜井八重子は、まさか宇治で本人に出会うなどとは思ってもいなかったかもしれないが、有島武郎の作品は「白樺」時代から目を通していたにちがいない。
 その後、有島武郎はトランプ占いの的中に驚いたのか、歌(短歌)詠みをメインテーマに桜井八重子と文通(約80通)がはじまる。この文通は、唐澤秀子(桜井八重子)が納三治と結婚し、下落合の納秀子になったあとまでつづけられたようだ。また、有島武郎が当時つきあっていた「婦人公論」の記者・波多野秋子も彼女の作歌に惹かれ、会ってみたいと有島に依頼している。したがって、桜井八重子と波多野秋子は有島に紹介され、どこかで顔をあわせているのかもしれない。もちろん、有島武郎は小説などの散文表現がメインで、歌詠みに関しては“素人”だった。
 有島武郎は、唐澤秀子への手紙で「男に取つて女の人のよさは、その人が恋人でない限り、母にも姉にも友達にもなつてくれられることです」(1922年春)と書き送っているので、そもそも最初から彼女は波多野秋子のような恋愛対象ではなかったようだ。そして、ここでも竹久夢二が死去する寸前まで納秀子(唐澤秀子)へ甘えつづけたのと同様に、有島武郎もまた「母にも姉にも」「なつてくれられる」などと、歳がいもなく彼女に甘えている様子が伝わってくる。この手紙が交わされていた1922年(大正11)の時点で、桜井八重子(唐澤秀子)は27歳、有島武郎は44歳と17歳も年下の存在だった。ちなみに、竹久夢二にとっても、桜井八重子は11歳ほど年の離れた女性だった。
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 前回の記事でも触れたが、芝愛宕町育ちの彼女は、どこか江戸東京の町娘らしい性格だったらしく、明朗で行動的でしっかりした気風(きっぷ)の中にも、いたずら好きでおきゃんな側面が顔をのぞかせる、どこかヘゲモニーを発揮しやすい、この街に古くから多い「姉さん」タイプの女性ではなかったろうか。だから、竹久夢二や有島武郎からみれば歳の差など関係なく、「そんなことしちゃダメでしょ」「そんな考えじゃいけませんったら」とか、どこか母や姉のように自身の言動を叱咤・激励してくれる(甘えられる)、自身本来のニュートラルな精神状態にもどしてくれる(気づかせてくれる)規範的な存在として、彼女を位置づけてやしなかったろうか。
 こういうタイプの女性に注意されたり、なにかを指摘されたりすると、たとえかなり年下であっても反発や反感などはほとんど生まれず、逆にうれしく、あるいはありがたく感じたりする男は、この地方にけっこう多いのではないだろうか。また、人間関係の構築や経営のマネジメントがうまく、一族のCEOになる女性が多いのもまた江戸東京地方の特徴のひとつだろう。
 次々と短歌を詠み歌集を出版する桜井八重子を、有島武郎は手紙で「短歌製造会社」と呼び、彼女が代表取締役社長で自分は同社の「監査役」を自任している。彼女が納三治と、結婚を前提に付きあいはじめたあとの手紙にも、「監査役の報告」(有島武郎の感想)が掲載されていて面白い。また、有島の恋人である波多野秋子が、彼女の作品が大好きで一度会いたいといっていることも伝えている。1922年(大正11)3月の有島武郎からの手紙を、1962年(昭和37)に刊行された短歌雑誌「原始林」5月号収録の、中山周三『有島武郎の歌(5)』から少しだけ引用してみよう。
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 歌はといへばあなたの多産を羨ましくさへ思ひます。納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方に数へられたものだと記憶しますが、あなたの眼と心とには何もかも恋の姿で立現はれると思ふとあなたの持つ世界がまた羨まれます。短歌製造会社監査役の報告によれば、/手を胸に。しづやかに人の泣くらむ。あるかなく。恋死なば。いとつよきジン。千筋なす。うつくしう。野に咲ける。さりげなく。など胸に沁みました。其中最初の分は感銘に少し曇りが起るようですけれども。/緋だりをの。われをのみ。/などの歌は監査役には空虚にひびきます。/沢山恋歌を読むと私も作りたいような気分は出ますが歌にはなりません。唯の言葉にさへもなりません。
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 唐沢秀子は、いずれかの歌集1冊でも有島武郎へ贈ったものだろうか。おかしいのは、当時は恋人時代だったと思われる唐澤秀子と納三治だが、「納さんがあなたの所有物の中のかなり下の方へ数へられた」のには、つい噴きだしてしまった。納三治は、ニューヨークのコーネル大学機械科卒業だから、おそらく短歌や文学とはずいぶん遠いところにいた理系の人物なので、彼女の位置づけとしては「かなり下の方に数へ」ていたのだろう。w
 このころ、唐澤秀子にあてた短歌や日記につづっていた作品には、次のようなものがある。
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(唐澤秀子あて)
 松を吹く風の行衛を追ひ居れば われとしもなき我れに遇ひぬ
 砂に居て佐渡を見ゐれば涙しぬ かそけくなげく我れにやは似る
 佐渡ケ島暗き波路の末にしも 顔打そむけひとりあるかな
 信濃尻の湖の水底ににじみ入る 雲の行手に物をこそ思へ
 信濃路は悲しかりけり真夏にも 妄執のごと雪の残れば
 人なみの寄せては返す東京の ちまたに立てば物のさびしき
 おぼつかな幾年経なばおほらかに 悔いなき我れを尋ねあつべき
(有島武郎日記)
 佐渡が島二重に煙り細々と 大梅雨空の下にあるかな
 さみだれの淡き晴れ間の夕空を さながらひたす信濃川の水
 砂に生ふるくみにかくれてさみだれの 越後の海を飽かず見しかな
 大空は今さみだれて信濃川 静かに水のふくらみ流る
 ガンジスの大川隅にうつしたる 影かもこれや古沼の蓮
 信濃路を今朝越え来れば時雨して はるけき目路の峰はもみじぬ
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 有島武郎が唐澤秀子あてに送った歌は、素人のわたしが見ても叙事的で底の浅い、単なる風景描写の表現が多く、つい立ちどまって味わうような深みのある心情(心境)歌はかなり少ない。散文的な頭の発想から、どうしても叙事的にとらえてしまう情景描写が増えてしまうのだろう。このころの有島武郎は、東京の生活で強い孤独を強く感じていたらしく、彼女あての手紙には「歌は下手でもこの頃この心持が段々きびしくなって行くやうです」と書き添えていた。
 1923年(大正12)3月、「おぼつかな幾年経なば~」の歌が唐澤秀子に送られたころ、有島武郎は麹町区下六番町にあった大邸宅を処分し、ふつうの一般市民としての生活を送ろうとしていたようだが、すでに生きていく気力を失いはじめていた。人妻だった波多野秋子の夫に恋愛がバレて、脅迫されたのも追いつめられた要因だろう。同年6月9日、軽井沢の別荘「浄月荘」でふたりは心中している。有島武郎は遺詠として、10首の歌を短冊につづり自宅の書斎に残していた。
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(遺詠歌)
 世の常のわが恋ならばかくばかり おぞましき火に身はや焼くべき
 幾年の命を人は遂げんとや 思ひ入りたるよろこびも見で
 修禅する人の如くに世にそむき 静かに恋の門にのぞまむ
 道はなし世に道は無し心して 荒野の土に汝が足を置け
 さかしらに世に立てりける我かこれ 神に似るまで愚かしき今
 生れ来る人は待たすなわがうけし 悲しき性とうれはしき道
 雲に入るみさごの如き一筋の 恋とし知れば心は足りぬ
 蝉一つ樹をば離れて地に落ちぬ 風なき秋の静かなるかな
 明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出づらむあぢさゐの花
 命絶つ笞しあらば手に取りて 世の見る前に我を打たまし
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 有島武郎と波多野秋子の情死を知った唐澤秀子(納秀子)は、おそらく驚愕しただろう。つい死の直前まで、彼女に「短歌製造会社監査役」として、有島は作品の率直な感想や意見を寄せていたからだ。2年前、彼女が占ったカードには、スペードやババはめくられていなかったはずだった。
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岡田道一「花ざくら」1933私立児童衛生研究所.jpg
 有島武郎から唐澤秀子(納秀子)あての書簡が公開されたのは、もっとも早い時期では1924年(大正13)に叢文閣から出版された『有島武郎全集』第10巻があり、それに目を通した納三治は、「おれ、プライオリティとしては、かなり下の方だったのかぁ」と、思わず苦笑していたにちがいない。

◆写真上:駆け出しの帝劇時代、頒布されたらしい桜井八重子のブロマイド(部分/AI精細処理)。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)ごろ撮影の短歌会「嬰児」の同人メンバーで右上が桜井八重子。中は、1923年(大正12)に撮影された有島武郎(左)と、女優時代の桜井八重子(右)。下は、1947年(昭和22)に出版された成瀨無極『面影草』(北隆館)の邂逅シーン。
◆写真中下:上は、中山周三『有島武郎の歌』が連載された1962年(昭和37)発行の短歌誌「原始林」5月号(左)と6月号(右)。中は、1922年(大正11)7月4日に唐澤秀子あて「短歌製造会社監査役」に就任した有島武郎の手紙。下は、生前最後の写真とされる1923年(大正12)撮影の有島武郎(左)と、唐澤秀子と面識があったかもしれない情死相手の波多野秋子(右)。
◆写真下:上は、有島武郎と波多野秋子の心中事件を報道する1923年(大正12)7月8日発刊の東京日日新聞。下は、1933年(昭和8)に私立児童衛生研究所から出版された岡田道一『花ざくら』。冒頭には、与謝野晶子と宮崎白蓮、そして桜井八重子(納秀子)の序詠歌が寄せられている。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年09月16日 21:49
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    無花果は、そろそろ“秋果”が出まわるころですね。
    2026年09月16日 21:55
  • pinkich

    papaさん いつも楽しみに拝見しております。山田五郎さんが亡くなられてから、パソコンから遠ざかっておりました。有島武郎の情死などは有名ですが、それは不倫などに不寛容な当時の世相、不倫を許さない当時の環境が、当事者を苦しめたわけですね。不倫のドラマばかりの現代からは想像できませんが、、
    2026年09月20日 19:13
  • 落合道人

    Pinkichさん、コメントをありがとうございます。
    「不倫」には、不寛容かつ厳しく姦通罪(特に女性には)が適用されるのに、男の「妾」や「二号」さんには「男の甲斐性」だとして寛容で、しかも「吉原」に象徴的な女性の売春は合法という、まるで「儒教思想」的な昔日の中国や朝鮮半島の社会観をそのまま移植したような、薩長政府のジェンダー・ハイアラーキー観は、今後とも徹底的に批判されるべきだと思います。現代でさえ、その影響を完全に払拭しきれていないと感じることがありますね。
    2026年09月20日 20:14

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