
1923年(大正12)9月1日の関東大震災から丸1年、1924年(大正13)の秋に営業や操業が復興した企業を調べてリスト化し、『東京・横浜職業別復興調査録』という報告書が同年の暮れに出版されている。横浜市を除き、東京府商工課が調査の主体として実施されており、調査結果を出版したのは日本橋区通2丁目11番地(現・日本橋2丁目)にあった東京商工通信社だった。
ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(=同業組合)に依頼して、各地の詳しい調査を代行してもらっている。したがって、組合に加入していない商工の小企業・店舗は調査対象から外れてしまうため、そこには少なからず誤差が生じ正確さを欠くことは、同書のはじめにも注記されている。だが、おおよその復興の様子やその傾向はつかめるとして、調査書の出版に踏みきったらしい。
大震災から1年めでは、焦土化した東京市街地の復興はまだまだ途上だったが、震動だけで済み大火災をまぬがれた東京の郊外域では、徐々に商工業者の営業や操業が復活していた。ただし、東京の中心部が大きなダメージを受けているため需要回復が遅く、1年たっても商業活動や生産活動はかなり限定的なものだったろう。山手線の目白駅や高田馬場駅のすぐ外側に位置する落合地域も、揺れは激しかったが大火にみまわれなかったため、深刻な被害を受けていない。だが、製造現場の機械類はかなりのダメージを受けたのではないだろうか。
2011年(平成23)3月11日の東日本大震災のとき、東京では震度5+の地域が多かったが、大きな揺れによって精密機器が損傷し、そのままでは使用できなくなった製造現場が数多く発生していた。揺れによるミリ単位の曲りや、小さなシャフトの狂いでも、使用できなくなる機械類を抱えた製造現場は、関東大震災の当時も数多く存在していただろう。しかも、物流や交通が途絶しているので修理には時間がかかった。外観は震災に耐えていても、企業や工場の内部では設備に大きなダメージを受けていた可能性が高い。そのような外観からは把握できない、生産現場における震災被害からの実質的な回復を含めた、東京府による「復興調査」だったとみられる。
では、震災直後にはどのような商工業の復興が早かったのか、同調査書の冒頭から引用しよう。
▼
先づ震災前と比較して組合員数の増加が著しいものを見れば、第一種の如く東京売薬組合を初(ママ)めとして合計十五組合である。而して組合名の示すが如く、此の中に属するものは大体に於て、特に震災後の需要激増に刺戟されたものが多い。即ち建築材料の西洋家具、畳、壁材料、交通運輸のための自転車、諸届出に要する印判、其他売薬、蓄音機、書籍、靴、莫大小、薪炭、料理飲食等几べて災後直接市民の生活に最も必要を痛感された衣食住に関する部分である。そして此等の商工業者中焼失又は破壊された者は比較的多数に上るが、一方新規開業も亦著しく多数である。然も震災前に対する生産及販売歩合を見ると、建築材料に関するものは殆んど悉く災前以上に達しているが其他売薬、自転車は六乃至六割五分を示して居るに過ぎない。
▲
東京市の中心部が破壊されているので、震災後にもっとも復興が早く、また需要も多かったのが建築資材なのは当然だが、特に「西洋家具」の目立つのが興味深い。江戸期あるいは明治期からつづく古い住宅街が焼けてしまい、この際、新しい洋風の住宅やオフィスビルなど燃えにくい構造の建物を建てようとする動きが活発化していたとみられる。
また、「交通運輸のための自転車」というのも特徴的だ。道路の亀裂や段差、法面崩落、車道橋の崩壊、ガソリン不足などでクルマやトラックが使用できなくなり、市内の物流が自転車やリヤカー、大八車などの人力に頼らざるをえなくなった様子が透けて見える。売薬の製造企業や商業の復興が早いのも、病院や医院が壊滅するか、あるいは震災の負傷者であふれているため、外来の患者にまで手がまわらなくなりセルフケアがあたりまえになった状況がうかがえる。
大火災に追われ、着のみ着のままで避難した人々が多かったため、「莫大小(メリヤス)」などの布地や「靴」の需要がハネ上がったのもわかるが、「蓄音機」の製造メーカーや「書籍」出版社の復興が早かったのは、震災で精神的に追いつめられた人々の間で、癒しや気晴らし、娯楽などへのニーズが強かったのではないか。また、現代の生活では姿を消してしまったが、役所への届け出や申請書には必ず印鑑が必要だったため、自宅や会社とともに焼けてしまった各種印鑑の需要が急に伸び、家内制手工業の分野では印鑑製造・販売が目立って伸びているのがわかる。
ただし、東京府商工課がそのように大規模なリサーチ能力を備えていたわけではなく、さまざまな事業の準則組合(=同業組合)に依頼して、各地の詳しい調査を代行してもらっている。したがって、組合に加入していない商工の小企業・店舗は調査対象から外れてしまうため、そこには少なからず誤差が生じ正確さを欠くことは、同書のはじめにも注記されている。だが、おおよその復興の様子やその傾向はつかめるとして、調査書の出版に踏みきったらしい。
大震災から1年めでは、焦土化した東京市街地の復興はまだまだ途上だったが、震動だけで済み大火災をまぬがれた東京の郊外域では、徐々に商工業者の営業や操業が復活していた。ただし、東京の中心部が大きなダメージを受けているため需要回復が遅く、1年たっても商業活動や生産活動はかなり限定的なものだったろう。山手線の目白駅や高田馬場駅のすぐ外側に位置する落合地域も、揺れは激しかったが大火にみまわれなかったため、深刻な被害を受けていない。だが、製造現場の機械類はかなりのダメージを受けたのではないだろうか。
2011年(平成23)3月11日の東日本大震災のとき、東京では震度5+の地域が多かったが、大きな揺れによって精密機器が損傷し、そのままでは使用できなくなった製造現場が数多く発生していた。揺れによるミリ単位の曲りや、小さなシャフトの狂いでも、使用できなくなる機械類を抱えた製造現場は、関東大震災の当時も数多く存在していただろう。しかも、物流や交通が途絶しているので修理には時間がかかった。外観は震災に耐えていても、企業や工場の内部では設備に大きなダメージを受けていた可能性が高い。そのような外観からは把握できない、生産現場における震災被害からの実質的な回復を含めた、東京府による「復興調査」だったとみられる。
では、震災直後にはどのような商工業の復興が早かったのか、同調査書の冒頭から引用しよう。
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先づ震災前と比較して組合員数の増加が著しいものを見れば、第一種の如く東京売薬組合を初(ママ)めとして合計十五組合である。而して組合名の示すが如く、此の中に属するものは大体に於て、特に震災後の需要激増に刺戟されたものが多い。即ち建築材料の西洋家具、畳、壁材料、交通運輸のための自転車、諸届出に要する印判、其他売薬、蓄音機、書籍、靴、莫大小、薪炭、料理飲食等几べて災後直接市民の生活に最も必要を痛感された衣食住に関する部分である。そして此等の商工業者中焼失又は破壊された者は比較的多数に上るが、一方新規開業も亦著しく多数である。然も震災前に対する生産及販売歩合を見ると、建築材料に関するものは殆んど悉く災前以上に達しているが其他売薬、自転車は六乃至六割五分を示して居るに過ぎない。
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東京市の中心部が破壊されているので、震災後にもっとも復興が早く、また需要も多かったのが建築資材なのは当然だが、特に「西洋家具」の目立つのが興味深い。江戸期あるいは明治期からつづく古い住宅街が焼けてしまい、この際、新しい洋風の住宅やオフィスビルなど燃えにくい構造の建物を建てようとする動きが活発化していたとみられる。
また、「交通運輸のための自転車」というのも特徴的だ。道路の亀裂や段差、法面崩落、車道橋の崩壊、ガソリン不足などでクルマやトラックが使用できなくなり、市内の物流が自転車やリヤカー、大八車などの人力に頼らざるをえなくなった様子が透けて見える。売薬の製造企業や商業の復興が早いのも、病院や医院が壊滅するか、あるいは震災の負傷者であふれているため、外来の患者にまで手がまわらなくなりセルフケアがあたりまえになった状況がうかがえる。
大火災に追われ、着のみ着のままで避難した人々が多かったため、「莫大小(メリヤス)」などの布地や「靴」の需要がハネ上がったのもわかるが、「蓄音機」の製造メーカーや「書籍」出版社の復興が早かったのは、震災で精神的に追いつめられた人々の間で、癒しや気晴らし、娯楽などへのニーズが強かったのではないか。また、現代の生活では姿を消してしまったが、役所への届け出や申請書には必ず印鑑が必要だったため、自宅や会社とともに焼けてしまった各種印鑑の需要が急に伸び、家内制手工業の分野では印鑑製造・販売が目立って伸びているのがわかる。




では、『東京・横浜職業別復興調査録』に収録されている、地域別の営業・操業を再開している商工リストから、落合地域の企業や商店について見ていこう。まず、「鋳物業及鋳物材料商」では、下落合28番地の東洋金属が操業を再開している。さまざまな機械の部品や、生活用具に必要な鋳物材の需要はかなり高かったのだろう。同工場は、雑司ヶ谷道(新井薬師道)の南側、山手線の線路際で操業していた。また、「建築材」の各種石材やセメント、砂利、材木などを販売していた下落合637番地の高田商店も、震災需要が急増していた商店だ。同店は目白通り沿いの木村横丁、現在でいえば聖母坂の入口あたりで営業していた店舗だ。
「歯磨、石鹸、化粧品商」では、下落合9番地の愛久洗料製造工場が操業を再開している。洗料とは、おそらく洗濯用の石鹸のことだろう。その隣りの下落合8番地で営業していた、「馬力(荷馬車)運搬業」の石屋義行という人物も営業を再開している。市街地の道路が寸断されていたせいもあるが、クルマはガソリンが流通しないと役に立たないため、再び馬車による物資の輸送が復活していた。ただし、馬の飼料(穀物など)がないと営業できないため、「馬糧商」や「馬具及蹄鉄商」も同時に復活してリストに多くの名前を連ねている。いずれの事業所とも、現在の十三間通り沿いにある下落合クリニックあるいは新宿清掃事務所のあたりで営業していた。
「荷造材料商(縄莚叺)」の縄や莚(むしろ)、叺(かます)は物流に欠かせない材料だ。今日でいう梱包材のことで、荷を効率的に運搬するには必須の製品だった。下落合48番地の川瀬梅吉という人が、それらの素材を扱う商店を経営していた。現在の、錦松梅工場の道路を隔てた西隣りあたりで営業している。下落合906番地のアポロ鉄工場も、大きな被害を受けずに操業を再開している。同工場の再開が早いのは、製品に「喞筒及消防機械」を製造していたからだ。東京の市街地では、消防署や付属する消防設備がほぼ壊滅していたため、消防喞筒(ポンプ)や消火栓など新たな発注が相次いでいたのではないか。片山廣斗が開発したミニ文化村「愛隣園」では防災設備が充実していたが、彼の工場が消防・防災機器を製造していたからだろう。
さまざまな機械製造には欠かせない、ボールベアリングや鋼材の製造・販売も早くから復興している。下落合184番地の山本螺旋の伸銅工場も、操業をリスタートしている。同社は大正末に下落合45番地へ移転し、本社機能とより大規模な工場を建設していると思われるが、震災後の需要急増で経営が拡大しているのだろう。医療分野で使用する「衛生材料」の需要も、震災後は急増している。市街地の病院や物流倉庫が焼けてしまったため、増産に次ぐ増産だったのではないか。衛生綿を製造していた下落合35番地の指田製綿工場や、包帯を製造していた下落合20番地の石倉商店工場も、設備に大きな損害はなかったのか操業を再開している。
震災後は、食糧の流通も大きな課題となっており、特に主食の米穀は最優先のテーマだった。政府や東京府、東京市も食料品の安定した供給を最大の課題としており、ことに「米穀商」の復興が重視されている。落合地域では、被害があまりなかった下落合1528番地の小野田八重次郎が経営していた小野田米穀店が営業していた。この住所は、現在の目白通りに面した小野田製油所と同じ番地だ。同米店は、店舗を目白学園近くに移転して、つい最近まで営業していた。また、「土木建築工事」の領域では、大正期の早くから営業していた下落合768番地(のち765番地)の服部政吉が経営する、服部建築土木が事業を再開している。今世紀に入り、緑深い自宅兼事務所と屋敷林が、保存を求めるタヌキの森として知られた敷地だ。
金属の「銅鉄商」としては、震災で市街地にあった本社機能が喪失してしまったため、下落合にあった企業経営者の自宅が臨時の本社となっているケースが多い。以前にも書いたが、東邦電力の丸ノ内にあった本社が震災で破壊されたため、その経営者である下落合367番地の松永安左衛門邸が臨時本社となっていた経緯と同様だ。下落合不動谷1226番地の三宅於利蔵邸(鉄鋼問屋)と、同番地の水橋義之助邸(野田屋)も臨時の本社となっていた。ただし、日本橋小伝馬町2丁目3番地にあった水橋の野田屋は、すでに社屋を建設して営業を再開していたようだ。この2邸とも、西坂を上がる途中の左手と丘上の左手にあった。さらに、「織物業」の東亜製綿工業も下落合761番地で営業を再開している。この地番は、七曲坂を上がった丘上の左手敷地、ちょうど清水厚邸のあたりなので、役員邸に本社機能を移転していたとみられる。
目白文化村を開発中だった箱根土地と、同ビル内にあった強羅土地も早々に事業を継続している。目白文化村に目立った被害はなく、また箱根土地本社ビルもそれほどダメージを受けていない。また、「化学工業」の分野では、下落合224番地の池田化学工業が操業を再開している。池田化学工業は、のちに下落合71番地と表記されることが多いが、224番地も同じ敷地内の番地だ。下落合482番地の佐藤化学研究所も、下落合(現・中落合/中井含む)の東部住宅街の中に位置しており、被害はほとんどなかったのか、震災後も事業をすぐに継続できているようだ。
「歯磨、石鹸、化粧品商」では、下落合9番地の愛久洗料製造工場が操業を再開している。洗料とは、おそらく洗濯用の石鹸のことだろう。その隣りの下落合8番地で営業していた、「馬力(荷馬車)運搬業」の石屋義行という人物も営業を再開している。市街地の道路が寸断されていたせいもあるが、クルマはガソリンが流通しないと役に立たないため、再び馬車による物資の輸送が復活していた。ただし、馬の飼料(穀物など)がないと営業できないため、「馬糧商」や「馬具及蹄鉄商」も同時に復活してリストに多くの名前を連ねている。いずれの事業所とも、現在の十三間通り沿いにある下落合クリニックあるいは新宿清掃事務所のあたりで営業していた。
「荷造材料商(縄莚叺)」の縄や莚(むしろ)、叺(かます)は物流に欠かせない材料だ。今日でいう梱包材のことで、荷を効率的に運搬するには必須の製品だった。下落合48番地の川瀬梅吉という人が、それらの素材を扱う商店を経営していた。現在の、錦松梅工場の道路を隔てた西隣りあたりで営業している。下落合906番地のアポロ鉄工場も、大きな被害を受けずに操業を再開している。同工場の再開が早いのは、製品に「喞筒及消防機械」を製造していたからだ。東京の市街地では、消防署や付属する消防設備がほぼ壊滅していたため、消防喞筒(ポンプ)や消火栓など新たな発注が相次いでいたのではないか。片山廣斗が開発したミニ文化村「愛隣園」では防災設備が充実していたが、彼の工場が消防・防災機器を製造していたからだろう。
さまざまな機械製造には欠かせない、ボールベアリングや鋼材の製造・販売も早くから復興している。下落合184番地の山本螺旋の伸銅工場も、操業をリスタートしている。同社は大正末に下落合45番地へ移転し、本社機能とより大規模な工場を建設していると思われるが、震災後の需要急増で経営が拡大しているのだろう。医療分野で使用する「衛生材料」の需要も、震災後は急増している。市街地の病院や物流倉庫が焼けてしまったため、増産に次ぐ増産だったのではないか。衛生綿を製造していた下落合35番地の指田製綿工場や、包帯を製造していた下落合20番地の石倉商店工場も、設備に大きな損害はなかったのか操業を再開している。
震災後は、食糧の流通も大きな課題となっており、特に主食の米穀は最優先のテーマだった。政府や東京府、東京市も食料品の安定した供給を最大の課題としており、ことに「米穀商」の復興が重視されている。落合地域では、被害があまりなかった下落合1528番地の小野田八重次郎が経営していた小野田米穀店が営業していた。この住所は、現在の目白通りに面した小野田製油所と同じ番地だ。同米店は、店舗を目白学園近くに移転して、つい最近まで営業していた。また、「土木建築工事」の領域では、大正期の早くから営業していた下落合768番地(のち765番地)の服部政吉が経営する、服部建築土木が事業を再開している。今世紀に入り、緑深い自宅兼事務所と屋敷林が、保存を求めるタヌキの森として知られた敷地だ。
金属の「銅鉄商」としては、震災で市街地にあった本社機能が喪失してしまったため、下落合にあった企業経営者の自宅が臨時の本社となっているケースが多い。以前にも書いたが、東邦電力の丸ノ内にあった本社が震災で破壊されたため、その経営者である下落合367番地の松永安左衛門邸が臨時本社となっていた経緯と同様だ。下落合不動谷1226番地の三宅於利蔵邸(鉄鋼問屋)と、同番地の水橋義之助邸(野田屋)も臨時の本社となっていた。ただし、日本橋小伝馬町2丁目3番地にあった水橋の野田屋は、すでに社屋を建設して営業を再開していたようだ。この2邸とも、西坂を上がる途中の左手と丘上の左手にあった。さらに、「織物業」の東亜製綿工業も下落合761番地で営業を再開している。この地番は、七曲坂を上がった丘上の左手敷地、ちょうど清水厚邸のあたりなので、役員邸に本社機能を移転していたとみられる。
目白文化村を開発中だった箱根土地と、同ビル内にあった強羅土地も早々に事業を継続している。目白文化村に目立った被害はなく、また箱根土地本社ビルもそれほどダメージを受けていない。また、「化学工業」の分野では、下落合224番地の池田化学工業が操業を再開している。池田化学工業は、のちに下落合71番地と表記されることが多いが、224番地も同じ敷地内の番地だ。下落合482番地の佐藤化学研究所も、下落合(現・中落合/中井含む)の東部住宅街の中に位置しており、被害はほとんどなかったのか、震災後も事業をすぐに継続できているようだ。




住宅建材でもうひとつ、瓦やスレート、トタンなど屋根の建築材を手がける「瓦業及屋根工事」の領域では、下落合559番地で小日向健司という人物が経営していた小日向商店が営業をリスタートさせている。瓦やスレートなどの建材が、ようやく市場に出まわりはじめたのだろう。小日向商店は、目白通りに面した現在のちょうど目白病院の敷地にあった。「玩具業」では、八島嘉一という人が浅草区柳原町で経営していた玩具店の工場が、下落合632番地で操業を再開している。おそらく家内制手工業のような工場で、消しゴムやゴムまり、ゴム人形など子供用品を製造していた。ちょうど、銭湯「福の湯」の南側、森田亀之助邸の北側にあたる敷地だ。柳原町は壊滅しているため、同工場は郊外に移転して臨時に建てられた施設なのだろう。
「洋酒商」では、下落合10番地の甲斐産商店大黒葡萄酒工場が健在だったが、東京府に運び入れる鉄道貨物は建築材および衣食住が最優先されたため、嗜好品である葡萄酒(ワイン)樽の優先順位はそれほど高くなかったのではないか。「毛織物」分野では曙毛織物工業が雑司ヶ谷949番地(のち953番地)で操業を再開しているが、本社機能は下落合506番地の納三治邸となっている。ちょうど、能舞台があった観世喜之邸の西隣りにあたる敷地で、下落合666番地に新邸を建設する以前、1924年(大正13)の時点での納三治邸は同所にあったとみられる。「電燈電力業」の領域では、下落合508番地にあった東京電燈下落合派出所が営業を再開している。目白通りに面した敷地で、目白平和幼稚園の2軒東隣りの敷地だ。
「材木商」では、目白通り沿いの下落合484番地にあった松尾材木店が営業を継続している。松尾恒八という人が経営しており、そのご子孫である松尾徳三様には、下落合の貴重な資料収集でずいぶんお世話になった。松尾様は、竹田助雄たちとともに御留山の保存および公園化に尽力された方だ。もう1軒、上落合162番地にあった福室清という人物が経営する伏見屋材木店も、ほとんど被害がなかったのかそのまま営業をつづけているようだ。上落合の南辺を通る、現在の早稲田通り沿いにあり、都バス小滝橋車庫の西隣りにあたる敷地だ。
「紡績業」では、下落合229番地(のち67番地)にあった市村(中村の誤記?)紡績という会社が営業していた。同工場も、市街地から移転してきた工場かもしれない。大正末になると、中村紡績工業という株式組織の大きめな工場になっているようだ。現在の神田川沿い、ICBF東京中央チャーチがあるあたりの敷地だ。「自動車業」の分野では、下落合568番地の小泉自動車商会が営業をしていた。現在は新宿下落合四郵便局が建っている、東寄りの敷地にあった。もうひとつ、小兒牛乳自動車部という会社が営業していたようだが、下落合とあるだけで番地が収録されていない。この会社も、市街地が壊滅したため臨時に近郊へ事業部を移転したものだろうか。
「醤油及味噌商」では、松原繁雄という人物が経営していた、上落合231番地の松原商会という会社ないしは店舗が記載されている。扱っていた製品が、醤油なのか味噌なのかは不明だが、現在は落合水再生センターの下になってしまった旧・八幡通りに面した会社だった。また、下落合1480番地の福室米蔵という個人名しか記載されていないが、こちらは福室醤油醸造所のことだ。場所は、八島さんの前通り(星野通り)から北の目白通りへと抜けた左手にあった。
「写真器械及材料商」では、もちろん落合町葛ヶ谷660番地の菊地東陽が創立した、オリエンタル写真工業が収録されている。精密機器を生産する工場なので、震災では少なからず被害を受け部品調達も困難だったと思うのだが、1年後には操業をなんとか再開していた。最後に「製粉業」では、下落合501番地の佐久間増太郎という個人名が収録されている。これは、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に掲載された、同番地の佐久間製粉所のことだ。扱っていたのは小麦粉か蕎麦粉かは不明だが、目白平和幼稚園の東隣りに位置するかなり大きな製粉工場だった。
「洋酒商」では、下落合10番地の甲斐産商店大黒葡萄酒工場が健在だったが、東京府に運び入れる鉄道貨物は建築材および衣食住が最優先されたため、嗜好品である葡萄酒(ワイン)樽の優先順位はそれほど高くなかったのではないか。「毛織物」分野では曙毛織物工業が雑司ヶ谷949番地(のち953番地)で操業を再開しているが、本社機能は下落合506番地の納三治邸となっている。ちょうど、能舞台があった観世喜之邸の西隣りにあたる敷地で、下落合666番地に新邸を建設する以前、1924年(大正13)の時点での納三治邸は同所にあったとみられる。「電燈電力業」の領域では、下落合508番地にあった東京電燈下落合派出所が営業を再開している。目白通りに面した敷地で、目白平和幼稚園の2軒東隣りの敷地だ。
「材木商」では、目白通り沿いの下落合484番地にあった松尾材木店が営業を継続している。松尾恒八という人が経営しており、そのご子孫である松尾徳三様には、下落合の貴重な資料収集でずいぶんお世話になった。松尾様は、竹田助雄たちとともに御留山の保存および公園化に尽力された方だ。もう1軒、上落合162番地にあった福室清という人物が経営する伏見屋材木店も、ほとんど被害がなかったのかそのまま営業をつづけているようだ。上落合の南辺を通る、現在の早稲田通り沿いにあり、都バス小滝橋車庫の西隣りにあたる敷地だ。
「紡績業」では、下落合229番地(のち67番地)にあった市村(中村の誤記?)紡績という会社が営業していた。同工場も、市街地から移転してきた工場かもしれない。大正末になると、中村紡績工業という株式組織の大きめな工場になっているようだ。現在の神田川沿い、ICBF東京中央チャーチがあるあたりの敷地だ。「自動車業」の分野では、下落合568番地の小泉自動車商会が営業をしていた。現在は新宿下落合四郵便局が建っている、東寄りの敷地にあった。もうひとつ、小兒牛乳自動車部という会社が営業していたようだが、下落合とあるだけで番地が収録されていない。この会社も、市街地が壊滅したため臨時に近郊へ事業部を移転したものだろうか。
「醤油及味噌商」では、松原繁雄という人物が経営していた、上落合231番地の松原商会という会社ないしは店舗が記載されている。扱っていた製品が、醤油なのか味噌なのかは不明だが、現在は落合水再生センターの下になってしまった旧・八幡通りに面した会社だった。また、下落合1480番地の福室米蔵という個人名しか記載されていないが、こちらは福室醤油醸造所のことだ。場所は、八島さんの前通り(星野通り)から北の目白通りへと抜けた左手にあった。
「写真器械及材料商」では、もちろん落合町葛ヶ谷660番地の菊地東陽が創立した、オリエンタル写真工業が収録されている。精密機器を生産する工場なので、震災では少なからず被害を受け部品調達も困難だったと思うのだが、1年後には操業をなんとか再開していた。最後に「製粉業」では、下落合501番地の佐久間増太郎という個人名が収録されている。これは、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」に掲載された、同番地の佐久間製粉所のことだ。扱っていたのは小麦粉か蕎麦粉かは不明だが、目白平和幼稚園の東隣りに位置するかなり大きな製粉工場だった。




こうして震災から1年目、落合地域で営業や操業を再開していた企業や工場、店舗などを見てくると、ほとんどが下落合での事業だったことに気づく。当時の上落合は、田畑が随所に残り地主による耕地整理が進んでいる最中で、多くの企業や工場が進出する前の時代であり、葛ヶ谷(西落合)にいたってはほとんどが田畑のままの田園地帯だった。けれども、落合地域の牧歌的な風景は関東大震災までで、大震災後は市街地からの住民が大挙して押し寄せる新興住宅地となっていく。
◆写真上:大震災の直後に撮影された、余震がつづく銀座通りのめずらしい写真。人々はいまだ茫然自失の状態だが、このあと大火が襲い銀座の街は全滅する。
◆写真中上:上は、魚河岸(市場)から写した日本橋の惨状。中上は、全焼した日本橋三越。屋上の三圍稲荷は店員たちが運びだして無事だったが、店内の商品はすべて灰になった。中下は、倒壊直後の日本橋白木屋。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」の立て看板も空しく、生き埋めになった人たちは迫る大火で焼死した。下は、延焼で全滅した日本橋人形町。
◆写真中下:上は、炎上したが崩落はまぬがれた大橋(両国橋)。中上は、揺れで崩落した大川橋(吾妻橋)。中下は、5万人の避難者が押しかけた上野公園の森。下は、1924年(大正13)出版の『東京・横浜職業別復興調査録』(東京商工通信社)の中扉(左)と奥付(右)。
◆写真下:上は、東海道線の線路づたいに避難する罹災者たち。中上は、崩落した馬入川(相模川)の東海道線鉄橋。茅ヶ崎側からの撮影で、遠景に見えている山影は大磯の高麗山。中下は、崩壊した平塚の相模紡績工場で女工144人が圧死した。下は、地面の隆起により平塚-大磯間で脱線転覆した東海道線74号列車。背後に見えているのは、千畳敷山(湘南平)へとつづく高麗山。
★おまけ
竹は地面に根を張るので、竹藪に避難すると揺れが小さいという迷信から竹林で野宿する人々。下は、松並木のある東海道(国道1号線)へ倒れかかった松の巨木。樹木に限らず、建物などが倒壊したため道路が封鎖・寸断され、自動車が通行できずに人力による輸送が中心となった。
◆写真中上:上は、魚河岸(市場)から写した日本橋の惨状。中上は、全焼した日本橋三越。屋上の三圍稲荷は店員たちが運びだして無事だったが、店内の商品はすべて灰になった。中下は、倒壊直後の日本橋白木屋。「中ニ数十人居マス助ケテ下サイ」の立て看板も空しく、生き埋めになった人たちは迫る大火で焼死した。下は、延焼で全滅した日本橋人形町。
◆写真中下:上は、炎上したが崩落はまぬがれた大橋(両国橋)。中上は、揺れで崩落した大川橋(吾妻橋)。中下は、5万人の避難者が押しかけた上野公園の森。下は、1924年(大正13)出版の『東京・横浜職業別復興調査録』(東京商工通信社)の中扉(左)と奥付(右)。
◆写真下:上は、東海道線の線路づたいに避難する罹災者たち。中上は、崩落した馬入川(相模川)の東海道線鉄橋。茅ヶ崎側からの撮影で、遠景に見えている山影は大磯の高麗山。中下は、崩壊した平塚の相模紡績工場で女工144人が圧死した。下は、地面の隆起により平塚-大磯間で脱線転覆した東海道線74号列車。背後に見えているのは、千畳敷山(湘南平)へとつづく高麗山。
★おまけ
竹は地面に根を張るので、竹藪に避難すると揺れが小さいという迷信から竹林で野宿する人々。下は、松並木のある東海道(国道1号線)へ倒れかかった松の巨木。樹木に限らず、建物などが倒壊したため道路が封鎖・寸断され、自動車が通行できずに人力による輸送が中心となった。


この記事へのコメント
てんてん
落合道人
こちらはタヌキですが、そちらはアナグマがいるのですね。
ちょっと気が強そうです。w