納秀子は死の床の竹久夢二へショコラを贈った。

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 竹久夢二が死の床に就いていた1934年(昭和9)2月、下落合2丁目666番地に住む納三治の連れ合いだった秀子夫人より、富士見高原療養所へ見舞い品としてチョコレートがとどけられた。1月に秀子夫人のもとへとどいた夢二からのうら寂しげな手紙に応えたもので、同年2月10日の『夢二日記』(筑摩書房版)には「ショコラ 納秀子」と、とどいた品が記録されている。
 1934年(昭和9)1月29日消印の、納秀子あて竹久夢二の手紙は以下のような内容だった。
  
 東京都淀橋区下落合六六三(ママ:六六六)   納秀子様
 (印刷された富士見高原療養所へ入院した旨を知らせるあいさつの定型文) / 欲するものが少くなり/欲するものが切になり/たべるものが僅かにたのしみ (カッコ内引用者註)
  
 下落合663番地は、納邸の北側に隣接する住宅8軒の番地であり、納邸は大正期から変わらず666番地だったが、手紙は無事に秀子夫人のもとへとどけられている。
 納秀子こと旧姓・唐澤ひで(秀子)は、1895年(明治28)10月25日に芝区愛宕町2丁目6番地(現・西新橋3丁目)の家具商だった家に生まれ、愛宕山と芝増上寺にはさまれた江戸期からの繁華な街中で育った。府立第三高等女学校(現・都立駒場高校)へ進むが絵を描くのが好きで、のちに本郷本妙寺坂の女子美術学校へ転校している。さらに、女子美の在学中に演劇に惹かれ、絵画をやめて帝国劇場付属技芸学校の第3期生として入学し、1914年(大正3)11月1日に同校を卒業している。同期には香川玉夜、村田美彌子、静香八千代、四条京子の4人がいた。
 1915年(大正4)1月22日から帝劇で上演されたマチネー(昼公演)で戯曲『女同志』の花嫁「マーチン」役にはじまり、芝居『鳥目の上使(うわづかい)』の妹娘「紅梅姫」役、『良人』では姪の「りん子」役を演じたのが、唐澤秀子の帝劇初舞台となった。新劇女優としての彼女が特異な存在なのは、早くから義太夫節を鶴澤文京に、日本舞踊を水木歌若と花柳徳太郎に師事していたことだ。これは娘時代に、江戸東京育ちの慣習として通わされていた習い事とみられ、尾張町(銀座4丁目)育ちの佐伯米子の日本画や、木村荘八が晩年にいたるまでつづた三味と小唄、日本橋で育ったうちの親父の三味・清元と同質の(城)下町における一般教養だろう。したがって、西洋演劇とともに和芝居もすぐに演じられる素養や所作を、あらかじめ備えていたのではないか。
 帝国劇場付属技芸学校は、1908年(明治41)に川上貞奴が帝国女優養成所として創立しているが、帝国劇場が建設されるとともに同劇場へ経営を委譲、以降は帝劇付属技芸学校として運営されていた。唐澤秀子は、帝劇の舞台に出演するようになると、芸名を「桜井八重子」と名乗っていた。ここで竹久夢二のファンなら、すぐにもピンとくるネームだろう。夢二は、順天堂病院に結核で入院していた笠井彦乃に逢うことがかなわず、その寂しさから雰囲気や面影がどこか似ている帝劇の女優・桜井八重子へ、盛んにアプローチの手紙を書いている。
 竹久夢二と桜井八重子が初めて顔をあわせたのは、彦乃が東京の順天堂病院へ入院し、夢二がそれを追って次男の不二彦とともに東京へもどったあと、1918年(大正7)11月8日に開かれた短歌会「春草会」の“夢二帰京歓迎会”(いま風にいえば同サークルのオフミ)での席上だった。桜井八重子は、以前から夢二ともども春草会の同人で、短歌やエッセイなどを文芸誌に数多く寄稿しており、当時、彼女に冠せられたショルダーは「文学女優」となっている。確かに、1917年(大正6)に新潮社から刊行された「文章倶楽部」1月号には、岡本かの子と並んで短歌を寄せ、同年に一元社から刊行された「日本評論」8月号には、尾崎翠(当時は尾崎みどり子)とともにエッセイを寄稿している。文章表現が上手だったのは、おそらく府立第三高等女学校時代からなのだろう。
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 その歓迎会の席で、桜井八重子は「宵待草」を唄ったという資料が多いけれど、これは夢二が書いた自伝絵画小説『出帆』で演出したフィクションで、実際に彼女が唄ったのは夢二が作詞・装幀を、本居如月が作曲をしたセノオ楽譜(セノオ音楽出版)の第44番「蘭燈」だった。このときから、どこか笠井彦乃に雰囲気が似た桜井八重子に惹かれはじめ、夢二は息子とともに滞在していた本郷菊坂の菊富士ホテルから、桜井八重子あてに意味不明な手紙を頻繁に送りはじめている。春草会の歓迎会から2ヶ月半後、1919年(大正8)1月19日の手紙を引用してみよう。ちなみに、当時の桜井八重子は早稲田大学南門の斜向かい、現在の早大南門通り沿いで早稲田中学校に隣接した、豊多摩郡戸塚町下戸塚稲荷前13番地(現・新宿区戸塚町1丁目)に住んでいた。
  
 今日は好い雨です。/やさしい雨が家をめぐつて/私の床をめぐつて降つてゐます。/きつかけがなくちや床を出られないなんて、贅沢を言つたつて、/駄々をきいてくれるんじやないが、/なにしろ好い雨です。/そちらも雨が降つているのでせうか。/八重子様
  
 なんとも形容しがたい、吉屋信子が夢二から受けとった不可解で甘やかな手紙と同様、ラブレターとも近況報告とも、ひとりごとともとれる意味不明な内容だ。「本郷が雨なら、ふつう早稲田も雨降りだろ!」と、凡人が身もふたもないことをいってはいけない。なにしろ相手は抒情詩人で抒情画家の代表的な存在である夢二なので、そこは行間を深読みし、紙面裏にかくれた含意を斟酌しなければならない。入院中の笠井彦乃なら、おそらくそれを斟酌したうえで返事を書いたのではないか。ちょうど、昔なじみの島村抱月の死や、松井須磨子の自裁から10日後の手紙であり、ことさらアンニュイでペシミスティックな気分になっていたようだ。
 ところが、桜井八重子は笠井彦乃に容姿や雰囲気が似ていても、性格は反対だったようだ。本人も、1918年(大正7)に演芸画報社が実施したアンケートに「性質:勝気」と書いているように、控えめでロマンティストの彦乃とは異なり、ポジティブで頭の回転が速く行動的で明朗な性格だったらしく(学歴を見ても想像できる)、さっそく夢二親子のいる菊富士ホテルを訪ねた。そこで「あのお手紙はどういう意味ですの?」と面と向かって訊ねたかどうかは不明だが、「なにがいいたいんだろ?」とちょっと気になってときどき訪問するようになった。桜井八重子も、今日的ないい方をすればホテルに仮住まいする、父子家庭が気がかりだったのではないか。
 だが、夢二自身も遠からず、彼女が彦乃に雰囲気は似ていても、彦乃とはまったく異なる性格なのを認識したのではないか。桜井八重子は、勝ち気でサッパリとした江戸東京育ちの町娘的な性格をしており、この地方の言葉でいえば気風(きっぷ)のいい娘気質(かたぎ)だったと想像できるので、その後の夢二の手紙では、桜井八重子にどこか甘えて寄りかかるような文面へと変化しているようにも感じる。それが、死の床に就く1934年(昭和9)に書いた「欲するものが切になり/たべるものが僅かにたのしみ」という、まるで母親に「なにか美味しいものを見つくろって送ってよ」と、甘えてねだるような文面まで継承されていたのではなかろうか。もっとも夢二の言動からは、いつも女性に依存し寄りかかって生きているような姿勢を感じるのだが。
 ちょっと蛇足だが、帝劇女優の桜井八重子について本名を「納秀子」とする資料がとても多いのだけれど、竹久夢二と交流があった独身時代は「唐澤ひで(唐澤秀子)」が本名であり、納秀子は女優を引退して納三治と結婚したあと、下落合での氏名になる。
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 演芸画報社のアンケートついでに、桜井八重子の回答の一部を『現代俳優鑑』(1918年)から引用してみよう。ちなみに、彼女は当時の女優にしてはめずらしく、酒もタバコも嫌いだったようだ。
  
 身の丈:五尺一寸(約155cm)/体重:十三貫二百匁(49.5kg)/前身:女学生/煙草:喫せず/酒量:飲せず/衣類の生地と色気好:銘仙、お召類、紫が一番すき/好きな物:本をよむこと、芝居をすること、旅、絵をかくこと、おばけの話、食べ物はうなぎ、ひたしもの/嫌ひな物:人参、陽気(賑やか)なところ、自働車、足袋/両親の職業:家具商/兄弟の有無:妹一人、弟一人あり/家庭の人々:父母、自分、妹、弟 (カッコ内引用者註)
  
 好きなものは、「おばけの話」(怪談)やウナギの蒲焼きで、嫌いなものは足袋で裸足(おそらく塗り下駄を履くの)がいいと、健康な町娘の性格そのまま全開の桜井八重子に、夢二はすっかりアテが外れたのではないだろうか。アンケートからは、妹や弟からもなにかと頼りにされていそうな、「姉(ねえ)さん」の姿や雰囲気が感じられる。大人しく言葉少なに控えめで、好きな男へなよっとしなだれかかるような女性を夢想していた夢二は、早くからその見立てちがいに気づいていたように思える。夢二が彼女から、「我がまゝがすぎますよ」とでも叱られ諭されるような場面でもあったのだろうか、1919年(大正8)2月3日付けで「いつぱしの我がまゝものゝようにおもはれる私なぞは損をしてゐる」などと、母親あるいは姉に甘えるような手紙も投函している。
 さて、桜井八重子が有島武郎と知りあったのは、有島の書簡によれば1921年(大正10)4月21日の京都「宇治の会」の席上でだった。ドイツ文学の研究者で翻訳家、京都帝大講師だった成瀨無極も同席しており、「宇治の会」のメンバーは徹夜で当時の世相や文学などについて語りあったらしい。その思い出は、戦後の1956年(昭和31)に発行された「洛味」55号に、『古いアルバムを開いて』というタイトルで成瀨無極が詳細をつづっているが、このような席でも議論や話題についていける桜井八重子は、かなりの読書家で勉強熱心な「文学女優」だったのだろう。
 成瀨無極は、のちに『塔』という小説を発表し、有島武郎と桜井八重子の邂逅の様子を描いているとしているが、これは成瀨本人の思いちがいだった可能性が高い。小説『塔』は、1913年(大正2)10月に執筆され翌年に発表されているので、有島武郎と桜井八重子が知りあう8年も前の作品だ。また、桜井八重子(唐澤秀子)と知りあってからの2年間で、有島武郎はこまめに80通もの手紙を彼女あてに書いているので、それほど彼女の存在や言動が気にかかっていたのだろう。
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 ところで、下落合にあったとみられる「重役夫人」邸から盗まれた夢二屏風をめぐって、下落合3丁目1507番地に住む沖野岩三郎と、同3丁目1470番地の第三文化村のアパート「玉翠荘」に住む宮地嘉六とが関係し、ちょっとした騒動が巻き起こった事件については以前記事にしていた。この泥棒が入った「重役夫人」邸の蔵とは、下落合2丁目666番地の納邸(秀子夫人邸)のことではないか。そのことを、秀子夫人の孫にあたる澤田康治様に訊ねてみたが不明とのことだ。また、自邸の新築工事であいさつにきた納夫妻へ、画家だった東隣りの隣人が「あのな~、わし~肖像画も得意なんですわ。ヴィーナス八重子はん描かしてくれへんやろか?」と頼んだかはさだかでない。佐伯米子はもちろん、尾張町(銀座)の娘時代に帝劇で桜井八重子の芝居を観ていただろう。桜井八重子と有島武郎の邂逅と、その頻繁に交わされた往復書簡について、それはまた、別の物語……。

◆写真上:大正らしいモダンな柄で、好きな紫色の銘仙を着ている桜井八重子(AI着色)。
◆写真中上は、学生時代の撮影とみられる唐澤秀子。は、1920年(大正9)撮影の帝国劇場。は、1917年(大正6)ごろ撮影の桜井八重子ブロマイド(AI着色)。いずれのAI処理でも、桜井八重子の着物は紫と判断しておりアンケートの「紫が一番すき」を裏づけているようだ。
◆写真中下は、1917年(大正6)に東京堂書店から出版された桜井八重子歌集『自画像』の内扉()と奥付()。奥付の著作者には、本名の唐澤ひでと記載されている。中上は、1918年(大正7)11月の読売新聞に掲載された春草会の作品。中下は、桜井八重子歌集『夢に咲く華』に寄せた竹久夢二の挿画「EX-LIBRIS」。ラテン語で蔵書票(ブックプレート)のこと。は、1919年(大正8)に開かれた短歌会「第3回春草会」。窪田空穂や岡本かの子、生田花世が見えるが右端でカッコよくポーズをとっているのが竹久夢二。ハレーション気味で、桜井八重子がわからない。
◆写真下は、1916年(大正5)に日本橋白木屋でショッピングを楽しむ桜井八重子(左端)と親族とみられる一行。中上は、1918年(大正7)に演芸画報社が桜井八重子へ送付したアンケートの回答。中下は、1917年(大正6)に出版された「文章倶楽部」1月号(新潮社)の広告。春草会の同人だった岡本かの子と短歌作品を寄せている。は、1917年(大正6)に出版された「日本評論」8月号(一元社)の広告。尾崎翠(当時は尾崎みどり子)の『思郷』とともに随筆『夏愁』を寄稿している。
おまけ
 佐伯祐三が、めずらしく親族以外の人物をモチーフにしたタブロー。1920~23年(大正9~12)ごろに、光徳寺の古くからの檀家で、東京へ転居した大谷家に下宿していた佐伯が同家の人々を描いたもので(おそらく1920年制作が有力だろうか)、『大谷安兵衛像』(左)と『大谷さく像』(右)。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年07月09日 22:02
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    そろそろ、モモの季節ですね。この季節、ピーチパイが好物なのです。
    2026年07月09日 22:24

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