東京美術学校で短歌を詠む佐伯祐三。

佐伯祐三「帆船」1920頃.jpg
 佐伯祐三の一般的な年譜には、どこにも書かれていないが、彼は東京美術学校で1920年(大正9)の冬から春ごろにかけ短歌部に入部していた。短歌部には、同級生だった山田新一も所属しており、どちらかが誘って入部したのかもしれない。山田のほうが、佐伯よりも長く「校友会月報」に作品を寄せているので、誘ったのは山田新一だろうか。
 東京美術学校に創設された短歌部について、1920年(大正9)に発刊された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載の、和田茂生(西洋画科)が書いた文章から引用してみよう。
  
 (前略) 短歌部は文芸部に付属した短歌練磨の機関とします。そして月々会合を催して、会員の交誼を厚くし且つ意見を交換して斯道の向上を計つてゆきたいと思つてゐます。/何分創設間もない事ですから今の所会員も少なく、此際多数の入会者を希望して居ります。有志の方は私又は他の文芸部委員に迄御申込下さい。尚会への希望或は有益なる事柄は御好意に私に御洩し願たいと望んで居ります。(和田茂生)
 ◎短歌会開催の時日場所等は生徒控所に適時掲示しますから其節は奮つて御来会下さい。
  
 この文章から、美校の短歌部は同年の初めごろより、文芸部から独立して創設されたことがわかる。上記の文章を書いている和田茂生が責任者だったようだが、大分出身の彼は美校を卒業すると、大阪で画業をはじめ装丁、漫画、グラフィックデザインなどさまざまな仕事をしている。短歌部が創設されるのとほぼ同時に、佐伯と山田は入部しているのだろう。
 佐伯祐三と山田新一が、東京美術学校でできたばかりの短歌部に所属していたのを知ったのは、つい最近のことだ。わたしがたまたま東京藝術大学が出版していた、芸術研究振興財団・編『東京藝術大学百年史./東京美術学校篇』第3巻を読んでいたとき、佐伯が『死の國』『行く年』『冬のある曇れる日』の3篇を、短歌部に寄稿していることがわかった。同書によれば、短歌部は田辺孝次と森田亀之助が主催する美術史研究会の、文芸部茶話会の席で同部の創設が決まり、短歌部委員(部長)に和田茂生が選ばれたのだという。さっそく、東京藝大の美術部卒の友人に無理をいって、佐伯が投稿した校友会月報を探していただいたところ、マイクロフィルムに記録された「東京美術学校校友会月報」第19巻第1号(1920年4月号)であることがわかった。
 佐伯祐三の短歌3篇は、それぞれ連載形式で月報に寄稿されているのではなく、「東京美術学校校友会月報」4月号のみに集中して、3篇7首が収録されていることもわかった。山田新一の作品は、その後も連続して月報に掲載されているが、佐伯祐三はこの月の号のみ掲載で、あとの月報には作品が見られない。おそらく、テキストでの内面表現が性にあわないと感じて早々にやめてしまったか、急に創作熱が冷めて飽きちゃったのではないか。
 文芸部では、ほかにも新たなサークルを次々に創設しており、音楽を鑑賞するレコードコンサートを開催したのをきっかけに蓄音器部が創設されている。蓄音器部には、音楽(クラシック)愛好家たちが集まり、美校の部活動ではかなりの人気を博したようだ。佐伯がヴァイオリンに傾倒したのも、この文芸部の一連の活動に刺激されきっかけになった可能性がある。
 もうひとつ、文芸部の顧問的な位置にいた森田亀之助と佐伯がわりと親しかったのは、単純に師弟関係のみで懇意だったわけでなく、学内の短歌部(文芸部)などのサークル活動を通じて、お互いに気心が知れ親しくなったのではないかと想定できる。佐伯祐三が下落合にアトリエ建設を決めたのも、周辺の環境や立地も含め、森田亀之助の助言があったのではないか。下落合630番地の森田亀之助邸と同666番地の佐伯アトリエは、わずか120mほどしか離れていない。
佐伯祐三自画像1919頃コンテ.jpg
東京美術学校校友会月報総目録.jpg
佐伯祐三「自画像」1919頃ペン.jpg
 では、1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」4月号に収録された、佐伯祐三の短歌3篇をご紹介しよう。ちなみに、歌作は前年1919年(大正8)の暮れから新年にかけてだと思われる。
  
『死の國』
 ◇彼女(か)の母は生くる我が兒に説く如く 泣きふためきてあり死にし子の前
 ◇明るきや暗きを知らで死に行きし はかなき運命(さだめ)を我はいとしむ
 ◇佛前に並べる霊(みたま)よ安かれと 願ふ心のあつくも冷し
『行く年』
 ◇夢と思へば夢にともあれど過ぎし年 あまりに心を使ひてありき
 ◇今日この頃すぎしこの年かへり見れば 我(われ)我が身の如見えずもなりぬ
『冬のある曇れる日』
 ◇ながむればながむる程に芭蕉の葉 恐ろしきまでに冬枯れてけり
 ◇めいる如と降るや降らずの寒空を 背にして立てり淋しき冬枯れ
  
 詠まれた季節が冬のせいか、いずれも暗い情景が目に浮かぶ歌ばかりだが、画家的な観点から視覚的な作品ばかりかというとそうでもない。画面らしい光景が鮮明に浮かぶのは、『冬のある曇れる日』ぐらいだろうか。また、『死の國』などは、のちの佐伯祐三やその家族がたどった物語の結末を知っている今日から見れば、意味深長に感じてしまう歌作なのはしかたないだろう。
 1919年(大正8)は、佐伯が東京美術学校2年生(21歳)だった年で、『死の國』は冬休みに大阪の実家・光徳寺へもどった際に、子どもの葬儀でも目撃して詠んだ作品だろうか。この年、光徳寺の古くからの檀家で、東京の本郷に住んでいた大谷菊枝から、尾張町(現・銀座4丁目)の池田象牙店の娘・池田米子を紹介されている。佐伯が山田新一らへ、盛んに「ヴィーナスはん」と興奮して話していた時期と重なる。そして、『行く年』の「夢にともあれど」や「あまりに心を使ひて」、「我が身の如見えずもなりぬ」などは、その湧きあがる思いや激しい感情を顧みての作歌だろうか。
東京美術学校校友会月報19200419巻1号.jpg
佐伯祐三「椿」1920頃.jpg
佐伯祐三「戸山ヶ原風景」1920.jpg
 これら陰鬱な歌が詠まれた翌1921年(大正10)、戸山ヶ原近くの上戸塚(現・高田馬場4丁目)から本郷の弥生町へと転居するが、3月には従兄の浅見憲雄が心臓病で急死し、7月には弟の佐伯祐明が結核性肺炎で入院(翌年死去)、父親の佐伯祐哲が9月に死去、同じく9月には檀家で友人の大谷菊枝(24歳)が自裁と、新年度の校友月報に掲載された歌が、まるで予知していたかのような暗い1年となった。ただし、父親に許され11月に池田米子築地本願寺で結婚し、アトリエが竣工するまでの仮住まいとして下落合に家を借りたのが、唯一の明るいエピソードだったのではないか。周囲に、「ボク、三十三になったら死ぬねん」といいはじめたのも同年のことだ。
 同号の短歌部には、山田新一の以下の作品も1首だけだが掲載されている。
  
『かじめとり』
 ◇その磯にかじめとりつゝ人間の 貧しさ知らずすぐすよろしき
  
 どこか、前田夕暮が詠じた作品のようにも感じるが、浜辺で写生をしているとき、波に打ちあげられたカジメを採る漁師の娘でも見かけたのだろうか。なんの問題も抱えず、深い悩みもなく素朴に暮らしている人間はとても美しい……というような意味になりそうだ。翌1920年(大正9)の「東京美術学校校友会月報」5月号にも、山田新一は『氷雨』という題で2首の短歌を寄せている。
  
『氷雨』
 ◇口笛は人気(ひとけ)絶えたる砂浜の 潮(うしお)の音に吸はれゆくかな
 ◇思出は磯打つ浪の音ににて 寂しき胸に絶えて潮(うしお)す
  
 今度は、石川啄木風の作品だが、かなりロマンティストな彼にもなにか深い悲しい出来事があったのだろうか。浜辺で「潮す」=泣き暮れる様子は、少くとも尋常でない。あるいは、青春の想像力をふくらませた、悲劇の主人公になった疑似体験でも詠んでいるのだろうか。
 このあと、山田新一は「校友会月報」6月号に『たましひの墓』のタイトルで3首、5月に開かれた第1回短歌会の席上で1首(同6月号掲載)、6月に開かれた第2回短歌会の席上で1首(同7月号掲載)、同8月号には『ほのお』の題で4首、また10月に開かれた第3回短歌会の席上で1首(同11月号掲載)と、その後もたびたび開かれる短歌会には出席し、短歌部への作品投稿も長くつづけている。
佐伯祐哲葬儀192009.jpg
佐伯祐三結婚式192011.jpg
佐伯祐三「静物りんご」1921頃.jpg
 山田新一の作品のほうが、直截的な佐伯祐三よりも表現にふくらみや余韻があり、こなれていて上手なのが目立つ。山田は、現代短歌(当時)について勉強したのだろう。一方の佐伯は、刹那的な激情で作歌を試みたけれど、テキストでは内面や感情をうまく表現しきれないとあきらめたか、そもそも短歌には興味がなく飽きてしまったのだろうか。また、彼の周囲の出来事を追いかければ、激動の時期ともいえる1920年(大正9)で、歌詠みどころではなかったのかもしれない。山田新一の作品群や、文芸部で大人気だったレコードコンサートについて、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1920年(大正9)ごろ、東京美術学校2~3年生のときに制作された佐伯祐三『帆船』。
◆写真中上は、1919年(大正8)ごろにコンテで描かれた佐伯祐三『自画像』。は、「東京美術学校校友会月報総目録」(東京藝術大学)に掲載された短歌部の佐伯祐三と山田新一。は、1919年(大正8)ごろにペンで描かれた佐伯祐三『自画像』。
◆写真中下は、1920年(大正9)に刊行された「東京美術学校校友会月報」4月号(第19巻第1号)に掲載された佐伯祐三と山田新一の短歌作品。は、1920年(大正9)ごろに制作された佐伯祐三『椿』。は、1920年(大正9)に制作された同『戸山ヶ原風景』。
◆写真下は、1920年(大正9)に行われた父・佐伯祐哲の葬儀における佐伯祐三(左からふたりめ)で、右端には法衣姿の佐伯祐正が写っている。は、同年11月に築地本願寺で行われた佐伯祐三と池田米子の結婚式記念写真。は、1921年(大正10)ごろに制作された佐伯祐三『静物りんご』。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年07月06日 22:11
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    ピザトースト、うまそうですね。こちらの朝食はチーズにチキン+マヨのトーストサンドでした。
    2026年07月07日 10:00

この記事へのトラックバック