ニャアと鳴くせりふ間あいの大江戸芝居。

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 わたしが両親とともに芝居を最後に観たのは、中学生のころだったと思う。この「最後」は、子ども時代を通じての「最後」という意味で、学生時代以降の大人になってからの観劇は除く。小学校低学年のころから、芝居であれば歌舞伎座か国立劇場、新派であれば明治座新橋演舞場へときどき通い、その舞台の価値をほとんど理解しないまま育った。
 両親とともに観た最後の芝居は、歌舞伎座の興行で17代目・中村勘三郎6代目・中村歌右衛門が出演していた。勘三郎の『俊寛』が印象深いので、調べてみると1971年(昭和46)11月の「吉例顔見世大歌舞伎」だったろう。昼の部には勘三郎の『俊寛』が、夜の部には歌右衛門の『時雨西行(江口の君)』が含まれている。この日の舞台は、『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょう・くるわにっき)』にはじまり、親父の好きそうな将門がらみの『忍夜恋曲者(しのびよる・こいはくせもの)―将門―』、『平家女護島(へいけにょごのしま)―俊寛―』、そしてわたしの好きな黙阿弥の『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・めおのしらなみ)』とつづいている。
 親父が、フグ毒に当たって急死した8代目・坂東三津五郎とは知りあいだったので、大和屋が主演した『双蝶々曲輪日記』は確実に観ていると思うのだが、情けないことにわたしはまったく記憶にない。なぜか、足が悪くなり素早い立ち振る舞いができずにモタついていた17代目・勘三郎の演技と、花道の“スッポン”からせり上がってきて身長が低かったにもかかわらず、その舞踊が子ども心に見惚れるほど美しかった6代目・歌右衛門が強く印象に残っている。歌舞伎座のデータベースを調べると、当日は上記役者のほか13代目・片岡仁左衛門、7代目・守田勘弥、7代目・尾上梅幸、17代目・市村羽左衛門、5代目・坂東玉三郎(8代目・大和屋養子)…etc.と、のちの活躍も含めればほとんどみな「人間国宝」だらけのような舞台だったことに気づく。1960~70年代は大正末から昭和初期以来の歌舞伎黄金期で、芝居にまったく興味などがなかった、幼いわたしを無理やり引っぱってでも、親たちは伝説になる舞台を観ておきたかったのだろう。
 上記の「白浪五人男」=『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』では、この日とは別の7代目・音羽屋(当時はまだ4代目・尾上菊之助だったろう)が、弁天小僧菊之助を演じた舞台のほうが鮮烈な印象に残っている。こちらは、調べてみるといつもの歌舞伎座ではなく明治座でかけられた1968年(昭和43)の出し物だ。もちろんわたしはまだ小学生で、弁天小僧の居直りセリフ「浜松屋の場」を、なぜか暗記したのは少したってからのことだろう。この日、曽我兄弟の大磯における湯場の対面や松本順がセリフに登場する、黙阿弥『夜討曽我』も演じられているが、ふがいないことにまったく記憶がない。舞台が明治座だから、当時から食い意地の張っていたわたしは、きっと観劇後に立ち寄るかもしれない薬研堀の「鳥安」か、あるいは大橋東詰めの「豊田屋(ももんじ屋)」が気になって、舞台はほとんど上の空だったのだろう。ちなみに、夏になると歌舞伎役者がそろって大磯の別荘か旅館へ避暑と海水浴に出かけてしまい、江戸東京の芝居小屋では幕が開けられなくなったのは、大正の初めぐらいまでだろうか。
 親父の書棚の、ほぼ半分近くを占めていた芝居の書籍や資料だが、そのほとんどを親父の死後に処分してしまったのが、いまさら惜しくてしかたがない。そのほか書棚を占めていた観世流の能楽関連の書籍やレコードは惜しいとは感じないし、建築・土木が専門だった親父の寺社建築や仏教美術に関する大量の書籍や資料もそれほど惜しくはない。もっとも、母親が親父とともに鑑賞して歩いた仏教美術の資料の一部は、未整理のままどこかの段ボールに入ったままだと思うのだが……。わたしとしては、芝居本がそのまま残っていればと、いまになって後悔しきりだ。
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豊国「中村座内外乃図(内)」1817.jpg
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 ただ、親父の芝居本のうち、たった4冊だけだが手もとに残っている。これは、ページ内に親父の書きこみがあり、本棚から抜きとって形見にしたものだ。そのうちの2冊、1953年(昭和28)に第一書店から出版された『名せりふさわり集』と、1954年(昭和29)に同社から刊行された『芝居せりふ集』は、すでに以前の記事でご紹介していた。残りの2冊とは、1953年(昭和28)に白水社から出版された戸板康二の『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』と、1958年(昭和33)に同社から刊行された戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』だ。わずかにこの4冊だけで、残りの数百冊はおそらく母親が古書店を呼んで処分したものだろう。
 特に後者の2冊は、親父が実際に歩いた街や地域には赤〇印と書きこみがあり、『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』は1ヶ所を除いて全地域を歩いている。歩かなかった1ヶ所とは、いわずもがなだが「三田薩摩邸跡」だ。もちろん、幕末の大江戸(おえど)で市中の世情不安を引き起こすためだけの目的で、まったく「敵」でもなく罪も落ち度もない女子どもへの辻斬りや、商家への火付け盗賊を繰り返した、同藩の益満休之助(配下は500名といわれる)らテロリストたちが巣くっていた凶悪な犯罪者アジトなので、ことさら忌避して寄りつかなかったのだろう。
 『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』の「あとがき」で、戸板康二は次のように書いている。
  
 東京には、江戸時代から舞台を通じて人々に親しまれた町や橋や神社仏閣が少なくない。これらの旧蹟は、大正十二年の震災と、昭和二十年の戦災と、二度の火の洗礼によつて、多くは変貌してしまつてゐる。/しかし、芝居の中には、レパートリイが繰り返されるものが多いので、土地の人は、口づたへにでも、住んでゐる周辺の場所を、芝居にむすびつけて知つてゐる。区民の誇りと思つてゐるかどうかはわからないが、とにかくそれは「名所」なのである。
  
 「とにかく」、わたしもそう思う。芝居の舞台になった街や川は、それだけで歴史の地層や物語がとても分厚いと感じるし、江戸期からつづく舞台の情景が浮かべば、現実の風景へ書割(かきわり)がまぼろしのように重なって見える。YouTubeなどで、昔の写真や浮世絵と現在の風景を透過して見せるコンテンツが流行っているようだが、まさにあれと同じような感触を憶える。落合地域や、その周辺域が舞台になった芝居や新派の舞台は、これまで機会があるごとに再三ご紹介してきた。
岸田劉生「新古細工銀座通・歌舞伎座附近」1927.jpg
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 もう1冊の『芝居名所一幕見―諸國篇―』は、芝居の舞台となった日本全国の地域を紹介する内容だが、こちらも9割がた訪問した赤〇印がついている。北は十和田湖(新派『湖の聲』)から南は長崎(新派『於蝶夫人』)まで、芝居や新派を問わずよくこれだけ踏破したものだと思う。おそらく、仕事で地方への出張が入るたびに、1日休暇をとるか週末にひっかけて各地をめぐり歩いたものだろう。それを母親が許していたのは、現地発送のぶんも含め、お土産がかなりたくさんあったからにちがいない。小学生のとき、出張先からもらった阿蘇山が火口湖から大噴火にいたるまでの人着による連続絵はがきを、わたしはまだどこかに持っていると思う。同じく活火山である箱根連山を抱える神奈川県では、火山災害対策も課題のひとつだった。
 さて、わたしが子どものころに連れ歩かれた歌舞伎座や国立劇場、明治座、新橋演舞場は、建て替えが本決まりとなり閉館したまま再開のめどが立たない国立劇場を除き、すべてが昔の姿を消している。外見は似ているものもあるが、内部はわたしが子どものころとはまったくの別物だ。裏返せば、それだけ芝居の需要がいまだに多く、建て替える資金に困らないということなのだろう。唯一、建て替えが中断している国立劇場は、入札不調が原因と聞いている。わたしが子どものころの舞台は、いまだ江戸期の名残りをどこかに残していたものだろうか。
 江戸の中期、芝居小屋は葺屋町の市村座、堺町の中村座、木挽町の森田座の3ヶ所(江戸三座)あった。当初の芝居小屋は3階建てで、庶民が観賞する一般の桟敷席には屋根がなく、舞台と両袖の観劇料が高価な芝居茶屋がらみの桟敷席のみ屋根が葺かれていた。芝居小屋がすべて屋根で覆われる「全蓋式」になるのは、1720年代のことだそうだ。のち、これら三座は浅草の猿若町に集められ、安藤広重『名所江戸百景』(猿わか町よるの景)にも登場している。
 また、照明やスポットライトなどない時代なので自然光を利用していたため、採光は天井近くに設けられた横長の明かりとり(窓)の「窓番」によって場面ごとに調節されていた。だから、窓から野良ネコが屋根づたいに入りこむことも多く、1746年(延享3)ごろに刷られた鳥居清忠の浮世絵『浮絵劇場図』には、芝居小屋の天井近くに入りこんだ白黒ぶちの野良ネコがわがもの顔で歩いている。せりふ途中の絶妙な間あいで「しばらく、しばらく、あいやし~ば~ら~くぅ…(ニャーオ)」と、見得を切るちょうどいい間あいで鳴かれたら鎌倉権五郎はどうするのだろうか。w もっとも、江戸後期には龕灯(がんどう)などを用いて、舞台の照明がかなり工夫されたようなのだが。
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 こういう芝居の歴史や舞台の仕掛け、書割、道具、風俗などにやたら詳しい専門家に、元・国立劇場主席芸能調査役(おそらく定年で退職)の石橋健一郎がいる。2018年(平成30)9月28日~10月16日にかけ、日本経済新聞に連載の『江戸の芝居小屋十選』は面白く読ませてもらった。わたしよりひとつ上の生年になるが、両親から芝居だ新派だと連れ歩かれ、親ともども遊んでばかりいて勉強も宿題もロクすっぽせず、しょっちゅう教師に怒られ、連絡がいっていたらしい親からも叱られていた子どものころ、石橋君はわたしとはまったく対照的で超優秀な小学校の同級生だった。

◆写真上:江戸中期の芝居小屋には、天井近くの明かりとりから「窓番」の目を盗み野良ネコが入りこんだ。解体される直前、旧・歌舞伎座で撮影した天井近くの桟敷席。
◆写真中上は、1817年(文化14)制作の豊国(初代)『中村座内外乃図』(部分)の芝居小屋外観。さまざまな身分の人々が、中村座へ押しかけているのが描かれている。中上は、同じく『中村座内外乃図』(部分)の小屋内観。中下は、1923年(大正12)の関東大震災の直後に撮影された旧・歌舞伎座。は、1926年(大正15)に撮影された旧・歌舞伎座。
◆写真中下は、1927年(昭和2)に制作された「新古細句銀座通」シリーズのうち岸田劉生『歌舞伎座附近』。は、1929年(昭和4)に撮影された旧・歌舞伎座。は、親父の本棚から1953年(昭和28)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―舞台の上の東京―』(白水社/)と、1958年(昭和33)出版の戸板康二『芝居名所一幕見―諸國篇―』(白水社/)。
◆写真下は、1746年(延享3)ごろに制作された鳥居清忠『浮絵劇場図』。天井近くの「窓番」が、障子を外すか立てようとする刹那、野良ネコが場内に入りこんだ情景が描かれている。は、リニューアル直前の旧・歌舞伎座。は、リニューアル前の旧・歌舞伎座の内観で手前が花道。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年07月12日 22:12
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    このところ、アイスバーが恋しい気温がつづいています。
    2026年07月13日 10:02

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