
1992年(平成4)に新宿区が出版した写真集『語りつぐ平和への願い―新宿区平和都市宣言5周年記念誌―』には、落合地域で山手大空襲に遭った人たちの証言が掲載されている。その中から、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲と、同年5月25日夜半の第2次山手空襲に遭遇した、おふたりの証言から引用してみたい。
まず、同書の冒頭に「序」として掲載された、当時の新宿区長だった小野田隆の「永遠の平和を願って」(1992年3月15日記)から、その一部を引用してみよう。
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(前略) 世界では今もなお、数多くの人々が戦禍のなかで暮らしています。東西冷戦の解消の後にも、民族、宗教をはじめさまざまな要因で平和が脅かされています。/私たちは尊い生命と財産を犠牲にして、平和のありがたさを身にしみて体験しました。このことは、日本が他国や他国民に多大な損害や迷惑をかけた事実とともに決して忘れてはならないことであり、21世紀を担う次の世代の人々に伝えていかなければならないことです。いいかえれば、今日の豊かな生活が平和によってはじめてもたらされたことを正しく伝えてゆく必要があります。
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まったくおっしゃるとおりで、この文章から35年が経過したいまでも、世界は戦争だらけであり、いつ世界大戦のトリガーになってもおかしくない状況がつづいている。日本が15年間も戦争をつづけて、膨大な犠牲者を国内外に生みながら敗戦を迎え、わずか77年間で国家の滅亡を招来しているのさえ、知らない若い子がいるほどにまで社会観は衰微し堕落した。
それにしても、まったくおっしゃるとおりなのだけれど、同書の10年後、自身が得た所得の税金や相続税を10億円も素知らぬ顔で滞納しつづけ、区長の財産を強制執行(差し押さえ)する新宿税務署の命令書に、自分自身が署名するようなおよそ恥っつぁらしなことは、「他人や区民に多大な損害や迷惑をかけた」ことになるので、たいがいにしてほしいのだが。
同書には、1942年(昭和17)4月18日のドーリットル隊による東京初空襲の被害、ことに早稲田中学校(生徒が直撃弾で死亡)や、ねらい撃ちにされた早稲田の岡崎病院(全焼)の被害と、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で、早稲田大学理工学研究所のある喜久井町の崖地に掘られた防空壕で起きた、300人以上の避難住民が全滅する大惨事について、当時の状況を目撃した証言者へのインタビューをまじえながら詳細に記録している。
ドーリットル隊による東京初空襲は、太平洋戦争がはじまってから半年足らずの、「勝った勝った」で世間が浮かれていた時期の空襲であり、また5月25日夜半の大空襲は軍事目標ではなく、山手の住宅街を焦土化した無差別絨毯爆撃で、中でもこの地域では喜久井町防空壕の大惨事が、人々の強烈な記憶としてとどめられたのだろう。
さて、1945年(昭和20)4月13日(金)夜半の光景を同書に収録された、当時は下落合2丁目(現・下落合4丁目)に住んでいた長谷部進之亟の証言から見てみよう。長谷部進之亟については、拙ブログでも大倉山(権兵衛山)などのテーマをめぐり何度か登場している。当時、彼は動員されて軍需工場で照明弾の弾頭を製造しており、4月13日は父親とともに目白通りの建物疎開(防火帯33号線敷設)で出た木材を利用し、自宅の傷んだ塀を修復していた。その夜、空襲警報のサイレンで起こされると、ラジオの東部軍管区情報ではB29の大編隊来襲が流れていた。B29の爆音と高射砲の砲声、夜空に交叉する探照灯(サーチライト)のなか、長谷部一家の逃避行がはじまった。以下、同書の長谷部進之亟「この目で見た空襲」から引用してみよう。
まず、同書の冒頭に「序」として掲載された、当時の新宿区長だった小野田隆の「永遠の平和を願って」(1992年3月15日記)から、その一部を引用してみよう。
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(前略) 世界では今もなお、数多くの人々が戦禍のなかで暮らしています。東西冷戦の解消の後にも、民族、宗教をはじめさまざまな要因で平和が脅かされています。/私たちは尊い生命と財産を犠牲にして、平和のありがたさを身にしみて体験しました。このことは、日本が他国や他国民に多大な損害や迷惑をかけた事実とともに決して忘れてはならないことであり、21世紀を担う次の世代の人々に伝えていかなければならないことです。いいかえれば、今日の豊かな生活が平和によってはじめてもたらされたことを正しく伝えてゆく必要があります。
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まったくおっしゃるとおりで、この文章から35年が経過したいまでも、世界は戦争だらけであり、いつ世界大戦のトリガーになってもおかしくない状況がつづいている。日本が15年間も戦争をつづけて、膨大な犠牲者を国内外に生みながら敗戦を迎え、わずか77年間で国家の滅亡を招来しているのさえ、知らない若い子がいるほどにまで社会観は衰微し堕落した。
それにしても、まったくおっしゃるとおりなのだけれど、同書の10年後、自身が得た所得の税金や相続税を10億円も素知らぬ顔で滞納しつづけ、区長の財産を強制執行(差し押さえ)する新宿税務署の命令書に、自分自身が署名するようなおよそ恥っつぁらしなことは、「他人や区民に多大な損害や迷惑をかけた」ことになるので、たいがいにしてほしいのだが。
同書には、1942年(昭和17)4月18日のドーリットル隊による東京初空襲の被害、ことに早稲田中学校(生徒が直撃弾で死亡)や、ねらい撃ちにされた早稲田の岡崎病院(全焼)の被害と、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲で、早稲田大学理工学研究所のある喜久井町の崖地に掘られた防空壕で起きた、300人以上の避難住民が全滅する大惨事について、当時の状況を目撃した証言者へのインタビューをまじえながら詳細に記録している。
ドーリットル隊による東京初空襲は、太平洋戦争がはじまってから半年足らずの、「勝った勝った」で世間が浮かれていた時期の空襲であり、また5月25日夜半の大空襲は軍事目標ではなく、山手の住宅街を焦土化した無差別絨毯爆撃で、中でもこの地域では喜久井町防空壕の大惨事が、人々の強烈な記憶としてとどめられたのだろう。
さて、1945年(昭和20)4月13日(金)夜半の光景を同書に収録された、当時は下落合2丁目(現・下落合4丁目)に住んでいた長谷部進之亟の証言から見てみよう。長谷部進之亟については、拙ブログでも大倉山(権兵衛山)などのテーマをめぐり何度か登場している。当時、彼は動員されて軍需工場で照明弾の弾頭を製造しており、4月13日は父親とともに目白通りの建物疎開(防火帯33号線敷設)で出た木材を利用し、自宅の傷んだ塀を修復していた。その夜、空襲警報のサイレンで起こされると、ラジオの東部軍管区情報ではB29の大編隊来襲が流れていた。B29の爆音と高射砲の砲声、夜空に交叉する探照灯(サーチライト)のなか、長谷部一家の逃避行がはじまった。以下、同書の長谷部進之亟「この目で見た空襲」から引用してみよう。

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「ここは危ない!」と内心思った私は、咄嗟に家に戻り、重要物資を土間の防空壕に投げ込んだ。両親と姉と弟と、防空頭巾をかぶって逃げる用意をした瞬間! 既に焼夷弾が付近一帯に落ちはじめていた。私はお米を5升抱え、姉が衰弱の母を背負って逃げ、弟と父は、無我夢中で目白駅方面に逃げたのではぐれてしまった。(中略) どこをどう逃げたのか、目白5丁目の住宅地に立ち竦んでいた。命からがらの逃走で、お米はどこかへ捨ててしまっていたのだった。周囲を見ると、お屋敷の屋根に油脂焼夷弾が落ち、近所の家々に類焼し始めている。道にもいたる所に焼夷弾が火を吹き、それを避けながら逃げると池袋方面の炎は、天を焦がす勢いで燃え広がっていた。
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このあと、「弟と父」とはぐれた一家は目白通りへともどったが、両側の商店街も猛火に包まれていた。その通り沿いで、ひとりの陸軍将校が抜刀しながら「逃げるな!逃げるな!」と叫んでいたようだが、防火ハタキやバケツリレーで消火できるレベルの火災ではなく、筆者も陸軍将校を「狂人のよう」と表現しているところをみると、周囲の状況に対して冷静に判断をくだす理性を失い、ただ恐怖の感情にまかせ叫んでいただけなのではないか。
このとき、目白駅の方角から戦車5台がやってくるのを、筆者は猛火のなかで目撃している。おそらく、戸山ヶ原の陸軍施設から、B29の空襲を避けて退避してきた戦車小隊だと思われるが、目白通りが火の海だったのを見てすぐにいずこかへ引き返していった。「周囲は火の海で、消火作業でバケツで水をかける姿もあったが、そんな努力で猛火が消せる筈もな」いため、筆者は逃げるのに精いっぱいで、消火活動に協力することはなかった。以下、同書より引用してみよう。
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平和幼稚園の防空壕に逃げ込んだ時、それまで青い顔で押し黙っていた母が、「義雄(弟)や父はどうなったか?」と、しきりに問い始めた。それに答えるすべもなく、今度は落合第四小学校(当時は落合第四国民学校)へ向かって逃げた。学校の講堂は避難者で溢れていたが、その中に捜している父や弟の姿はなかった…。/高台の校庭から遠望すると新宿も高田馬場も、早稲田も牛込も火の海。その光景は、とうてい筆舌で表現できない地獄の図。時は14日の払暁であり、空襲は終わっていた。/父や弟は行方不明のままで不安の続く中、午後になって弟と父が硝煙の中を落合第四小学校に現れ、再会を果たすことができ、お互いの無事を喜びあった。弟の話によって、弟と父は薬王院に避難して、同じように私たちの身を案じていたことがわかった。(カッコ内引用者註)
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同夜の空襲で、下落合2丁目(現・下落合4丁目)の長谷部邸は全焼している。
「ここは危ない!」と内心思った私は、咄嗟に家に戻り、重要物資を土間の防空壕に投げ込んだ。両親と姉と弟と、防空頭巾をかぶって逃げる用意をした瞬間! 既に焼夷弾が付近一帯に落ちはじめていた。私はお米を5升抱え、姉が衰弱の母を背負って逃げ、弟と父は、無我夢中で目白駅方面に逃げたのではぐれてしまった。(中略) どこをどう逃げたのか、目白5丁目の住宅地に立ち竦んでいた。命からがらの逃走で、お米はどこかへ捨ててしまっていたのだった。周囲を見ると、お屋敷の屋根に油脂焼夷弾が落ち、近所の家々に類焼し始めている。道にもいたる所に焼夷弾が火を吹き、それを避けながら逃げると池袋方面の炎は、天を焦がす勢いで燃え広がっていた。
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このあと、「弟と父」とはぐれた一家は目白通りへともどったが、両側の商店街も猛火に包まれていた。その通り沿いで、ひとりの陸軍将校が抜刀しながら「逃げるな!逃げるな!」と叫んでいたようだが、防火ハタキやバケツリレーで消火できるレベルの火災ではなく、筆者も陸軍将校を「狂人のよう」と表現しているところをみると、周囲の状況に対して冷静に判断をくだす理性を失い、ただ恐怖の感情にまかせ叫んでいただけなのではないか。
このとき、目白駅の方角から戦車5台がやってくるのを、筆者は猛火のなかで目撃している。おそらく、戸山ヶ原の陸軍施設から、B29の空襲を避けて退避してきた戦車小隊だと思われるが、目白通りが火の海だったのを見てすぐにいずこかへ引き返していった。「周囲は火の海で、消火作業でバケツで水をかける姿もあったが、そんな努力で猛火が消せる筈もな」いため、筆者は逃げるのに精いっぱいで、消火活動に協力することはなかった。以下、同書より引用してみよう。
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平和幼稚園の防空壕に逃げ込んだ時、それまで青い顔で押し黙っていた母が、「義雄(弟)や父はどうなったか?」と、しきりに問い始めた。それに答えるすべもなく、今度は落合第四小学校(当時は落合第四国民学校)へ向かって逃げた。学校の講堂は避難者で溢れていたが、その中に捜している父や弟の姿はなかった…。/高台の校庭から遠望すると新宿も高田馬場も、早稲田も牛込も火の海。その光景は、とうてい筆舌で表現できない地獄の図。時は14日の払暁であり、空襲は終わっていた。/父や弟は行方不明のままで不安の続く中、午後になって弟と父が硝煙の中を落合第四小学校に現れ、再会を果たすことができ、お互いの無事を喜びあった。弟の話によって、弟と父は薬王院に避難して、同じように私たちの身を案じていたことがわかった。(カッコ内引用者註)
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同夜の空襲で、下落合2丁目(現・下落合4丁目)の長谷部邸は全焼している。



つづいて、同年5月25日(金)夜半の大空襲を上落合で体験した、当時は西落合1丁目に住んでいた小池キヨという女性の証言を聞いてみよう。この方は、同年3月10日の東京大空襲で深川の親戚一家が全滅している。もともと(城)下町出身の女性らしく、上落合へ避難してきて住んでいたものだろうか。わたしの親父もそうだが、東京大空襲で自宅が焼失し、当時は空襲をまぬがれていた山手線の西部へ避難していた人々も多かっただろう。
親父の場合は、東京大空襲前の学生時代から諏訪町の下宿に住んでいたので、同大空襲後にあわてて住まいを探さなくても済んだが、そのかわり東京大空襲と二度にわたる山手大空襲の「フルコース」を体験することになってしまった。本人は笑いながら、「大空襲のフルコース」といっていたが、諏訪町の下宿先を含め家族・親戚が無傷だったのはほとんど奇跡的にちがいない。この土地のゲニウスロキ(地霊)へ、代々参詣していたご利益だろうか。
だが、上落合に住んでいた小池キヨという方は家族を喪っている。同書より、引用してみよう。
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5月25日。上落合も焼夷弾攻撃をうけ、運悪く家に直撃。その頃大学生だった私の弟も死亡。次の弟も顔や手に皮のむける大やけどをしましたが、治療も手当も受けられず、ずいぶん長い間苦しみました。燃えくすぶる焼け跡に立つと、目白の方まで見渡せる焼け野原。その時は涙も出ず、女子供とて何も出来ずに途方にくれるのみでした。/乳児疎開で少しばかりの荷物を送った栃木の方へ行っても、列車や人家を狙ってつばめのように降下してくる、飛行機の機銃掃射におびやかされました。竹やぶに隠れて、小型機の去るのを待った事も幾度か。リヤカーを引いて、お芋の配給を取りに国道を歩いていて機銃掃射にあい、里芋畑に伏せて逃れた事もありました。
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B29のM69集束焼夷弾による攻撃は、直撃か至近弾でさえなければ避難する余裕はなんとかあったろうが、機銃掃射は爆音と機銃音が響いた次の瞬間に被弾するので、より脅威度が高かったのではないか。当時の米戦闘機(戦爆機)には、12~15mmほどの機関銃が複数装備されており、もし人体に命中すれば肉体は瞬時に四散しただろう。人体に銃創をうけるというようなレベルの被害ではなく、被弾と同時に四肢が弾け飛ぶような状況だったにちがいない。
親父の場合は、東京大空襲前の学生時代から諏訪町の下宿に住んでいたので、同大空襲後にあわてて住まいを探さなくても済んだが、そのかわり東京大空襲と二度にわたる山手大空襲の「フルコース」を体験することになってしまった。本人は笑いながら、「大空襲のフルコース」といっていたが、諏訪町の下宿先を含め家族・親戚が無傷だったのはほとんど奇跡的にちがいない。この土地のゲニウスロキ(地霊)へ、代々参詣していたご利益だろうか。
だが、上落合に住んでいた小池キヨという方は家族を喪っている。同書より、引用してみよう。
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5月25日。上落合も焼夷弾攻撃をうけ、運悪く家に直撃。その頃大学生だった私の弟も死亡。次の弟も顔や手に皮のむける大やけどをしましたが、治療も手当も受けられず、ずいぶん長い間苦しみました。燃えくすぶる焼け跡に立つと、目白の方まで見渡せる焼け野原。その時は涙も出ず、女子供とて何も出来ずに途方にくれるのみでした。/乳児疎開で少しばかりの荷物を送った栃木の方へ行っても、列車や人家を狙ってつばめのように降下してくる、飛行機の機銃掃射におびやかされました。竹やぶに隠れて、小型機の去るのを待った事も幾度か。リヤカーを引いて、お芋の配給を取りに国道を歩いていて機銃掃射にあい、里芋畑に伏せて逃れた事もありました。
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B29のM69集束焼夷弾による攻撃は、直撃か至近弾でさえなければ避難する余裕はなんとかあったろうが、機銃掃射は爆音と機銃音が響いた次の瞬間に被弾するので、より脅威度が高かったのではないか。当時の米戦闘機(戦爆機)には、12~15mmほどの機関銃が複数装備されており、もし人体に命中すれば肉体は瞬時に四散しただろう。人体に銃創をうけるというようなレベルの被害ではなく、被弾と同時に四肢が弾け飛ぶような状況だったにちがいない。
なお、彼女が住んでいた上落合の住宅街は、その全域が同夜の攻撃で焦土と化し壊滅している。



「もう少し早くこの戦争が終わっていたら、沢山の人の命を失わずに済んだのに」と小池キヨは書いているが、一度戦争をはじめてしまうと膨大な犠牲者を生みつつ、エスカレーションが止まらずに終結させるのが困難なのは、世界各地で起きている現実の戦争を見れば自明のことだ。彼女は、空襲の直撃弾で死んだ弟を思いながら、「戦争は絶対に起こしてはならない」と結んでいる。
◆写真上:戸塚町1丁目565番地(現・西早稲田1丁目4番地界隈)で撮影された、戸塚第一郵便局前の歩道に設置された路上の防空壕で、少年が顔をのぞかせている。
◆写真中上:上は、早稲田中学校・高等学校にある東京初空襲で犠牲になった生徒を弔う「いのり」の碑。中は、喜久井町の崖地防空壕で犠牲になった300人余の被災者を弔う「戦災者供養観音像」。下は、1940年(昭和15)ごろ新宿駅前で行われた防空演習。
◆写真中下:上は、新宿区が作成した落合地域の戦災地図。ピンクのエリアが、二度にわたる空襲で焦土と化した地域。中は、戦後の1947年(昭和22)に高高度から撮影された落合地域。下は、1945年(昭和20)5月17日撮影の空中写真にみる長谷部家の避難経路。
◆写真下:上は、昭和の最初期に撮影された代々木練兵場の全景で左下が原宿駅。中は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木練兵場と原宿一帯。原宿駅は右端上だが、集束焼夷弾の炸裂光で見えない。下は、1945年(昭和20)8月15日に新宿駅の付近を低空で威嚇飛行するB29。
◆写真中上:上は、早稲田中学校・高等学校にある東京初空襲で犠牲になった生徒を弔う「いのり」の碑。中は、喜久井町の崖地防空壕で犠牲になった300人余の被災者を弔う「戦災者供養観音像」。下は、1940年(昭和15)ごろ新宿駅前で行われた防空演習。
◆写真中下:上は、新宿区が作成した落合地域の戦災地図。ピンクのエリアが、二度にわたる空襲で焦土と化した地域。中は、戦後の1947年(昭和22)に高高度から撮影された落合地域。下は、1945年(昭和20)5月17日撮影の空中写真にみる長谷部家の避難経路。
◆写真下:上は、昭和の最初期に撮影された代々木練兵場の全景で左下が原宿駅。中は、1945年(昭和20)5月25日夜半に空襲を受ける代々木練兵場と原宿一帯。原宿駅は右端上だが、集束焼夷弾の炸裂光で見えない。下は、1945年(昭和20)8月15日に新宿駅の付近を低空で威嚇飛行するB29。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしも、親父が東京大空襲と山手大空襲の双方を経験していますので、
子どものころからさんざん聞かされました。