
長崎村前高松162番地(現・豊島区高松2丁目)に住んだ長島豊太郎は、以前にご紹介した『日本霊異記』(日本古典全集)などの出版事業と、農業を両立させる共同事業体として、長崎村に「曠野社(こうやしゃ)」という名称で「新しき村」を開村している。長崎村に転居してくる以前、資産家の長島は「新しき村」運動の会計を担当していて、神田区大和町17番地(現・千代田区岩本町2丁目)に住んでおり、長島家は「新しき村」の東京支部を兼ねていた。
おそらく長崎村の曠野社でも、経理を中心に経営全般を担当していたのだろう。その様子は、「日本古典全集」の出版を開始する前年、1924年(大正13)に書かれた長島豊太郎『曠野社の仕事』(新しき村出版部)に詳しくつづられている。新しき村出版部もまた、長崎村前高松162番地の長島邸に置かれていたようだ。そこでは、「新しき村叢書」シリーズが刊行されており、武者小路実篤をはじめ長島豊太郎、石山徹郎、長与善郎、永島直昭らの著作が出版されていた。長島豊太郎の『曠野社の仕事』は、同叢書の第13篇にあたる。
同書は、出版事業すなわち執筆や編集の仕事から、版下をつくりモーターをまわしての印刷・製本の仕事、野菜や果樹(イチゴなど)、観賞用の草花を育てる農業まで、曠野社に関わる事業をその業務内容とともに詳しく紹介している。その経営理念には、人々が幸福に暮らす共同体としての理想像があり、確とした生活基盤を築く個人の自立と、精神生活を豊かにする文化事業(出版)を両立させるための方針が示されている。この経営ビジョンは、新しき村が掲げた「新しき村の精神」をベースに想定されているとみられる。以下、「新しき村の精神」を少し長いが引用してみよう。
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新しき村の精神/村の精神を簡単に書くと/ 一、全世界の人間が天命を全ふし、各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。/ 一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。/ 一、その為に自己を正しく生かすやうにする。自分の快楽、幸福、自由の為に、他人の天命と正しき要求を害してはいけない。/ 一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとることで、全世界の人間が同じく義務を果せ、自由を楽しみ、正しく生きられ、天命(個性ふくむ)を全ふすることが出来る道を歩くやうに心がける。/ 一、かくの如き生活をしやうとするもの、かくの如き生活の可能を信じ、それを全世界の人が実行することを祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である。我等の兄弟姉妹である。/ 一、されば我等は国と国との争ひ、階級と階級との争ひせずに、正しき生活にすべての人が入ることによつて、入らうとすることによつて、それ等の人が本当に協力することによつて、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
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この短い文章の中にも、自家撞着がすでに表れている。個々人の「自我」をはじめ、「快楽、幸福、自由」を尊重し「害してはいけない」としながら、「全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとること」を前提とし、他者の内面(自我)へ自分たちの思想が共有されればという仮定のもとで理想郷が語られていく。無理やり自分たちの思想を押しつける組織や集団よりは、はるかにマシで高尚だとは思うが、ではどうするかという方法論がまったく存在せず、最後は「祈る」「望む」「信ずる」で終わる典型的な観念論の世界だ。
長島豊太郎『曠野社の仕事』では、事業が自分の思いどおりに進まない、業務が思うようにはかどらない(「兄弟姉妹」が思いどおりに働いてくれない)、「外の社会」つまり一般社会の「渦巻」=利潤を追求する資本主義経済との軋轢、「兄弟姉妹」の住む家が絶対的に足りないなどなど、“グチ”がそこかしこにあふれている。w でも、長島豊太郎がえらいところは、それらの不満をグッと飲みこんでは堪えに堪え、できるだけ明日へのプラス思考に変えようとしている点だろうか。
おそらく長崎村の曠野社でも、経理を中心に経営全般を担当していたのだろう。その様子は、「日本古典全集」の出版を開始する前年、1924年(大正13)に書かれた長島豊太郎『曠野社の仕事』(新しき村出版部)に詳しくつづられている。新しき村出版部もまた、長崎村前高松162番地の長島邸に置かれていたようだ。そこでは、「新しき村叢書」シリーズが刊行されており、武者小路実篤をはじめ長島豊太郎、石山徹郎、長与善郎、永島直昭らの著作が出版されていた。長島豊太郎の『曠野社の仕事』は、同叢書の第13篇にあたる。
同書は、出版事業すなわち執筆や編集の仕事から、版下をつくりモーターをまわしての印刷・製本の仕事、野菜や果樹(イチゴなど)、観賞用の草花を育てる農業まで、曠野社に関わる事業をその業務内容とともに詳しく紹介している。その経営理念には、人々が幸福に暮らす共同体としての理想像があり、確とした生活基盤を築く個人の自立と、精神生活を豊かにする文化事業(出版)を両立させるための方針が示されている。この経営ビジョンは、新しき村が掲げた「新しき村の精神」をベースに想定されているとみられる。以下、「新しき村の精神」を少し長いが引用してみよう。
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新しき村の精神/村の精神を簡単に書くと/ 一、全世界の人間が天命を全ふし、各個人の内にすむ自我を完全に成長させることを理想とする。/ 一、その為に、自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない。/ 一、その為に自己を正しく生かすやうにする。自分の快楽、幸福、自由の為に、他人の天命と正しき要求を害してはいけない。/ 一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとることで、全世界の人間が同じく義務を果せ、自由を楽しみ、正しく生きられ、天命(個性ふくむ)を全ふすることが出来る道を歩くやうに心がける。/ 一、かくの如き生活をしやうとするもの、かくの如き生活の可能を信じ、それを全世界の人が実行することを祈るもの、又は切に望むもの、それは新しき村の会員である。我等の兄弟姉妹である。/ 一、されば我等は国と国との争ひ、階級と階級との争ひせずに、正しき生活にすべての人が入ることによつて、入らうとすることによつて、それ等の人が本当に協力することによつて、我等の欲する世界が来ることを信じ、又その為に骨折るものである。
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この短い文章の中にも、自家撞着がすでに表れている。個々人の「自我」をはじめ、「快楽、幸福、自由」を尊重し「害してはいけない」としながら、「全世界の人間が我等と同一の精神をもち、同一の生活方法をとること」を前提とし、他者の内面(自我)へ自分たちの思想が共有されればという仮定のもとで理想郷が語られていく。無理やり自分たちの思想を押しつける組織や集団よりは、はるかにマシで高尚だとは思うが、ではどうするかという方法論がまったく存在せず、最後は「祈る」「望む」「信ずる」で終わる典型的な観念論の世界だ。
長島豊太郎『曠野社の仕事』では、事業が自分の思いどおりに進まない、業務が思うようにはかどらない(「兄弟姉妹」が思いどおりに働いてくれない)、「外の社会」つまり一般社会の「渦巻」=利潤を追求する資本主義経済との軋轢、「兄弟姉妹」の住む家が絶対的に足りないなどなど、“グチ”がそこかしこにあふれている。w でも、長島豊太郎がえらいところは、それらの不満をグッと飲みこんでは堪えに堪え、できるだけ明日へのプラス思考に変えようとしている点だろうか。




ことに流動資本(事業の運転資金)が、いつも赤字つづきで足りず、それをかき集めるにはどうすればいいのかという深刻な課題が、経理畑の人だったらしい長島豊太郎には常につきまとい、いちばんの気がかりだったようだ。運転資金がなければ生産事業は成立せず、人々の生活(文字どおり寝食)を保障することができない。その心配事の一端を、同書より少しだけ引用してみよう。
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普通一定の畑地を耕作し、捲種し、施肥し、収穫し、更にそれを処理して収益を手にするまでには凡半ヶ年は最少限度で要すると思はなければなるまい。その間の経費の依持(ママ:維持)、その大部分は生活費である処のものを、現在の曠野社の力では負担しきれないのである。殊にそれが一時に数人の場合は一層困難である。更にそれらの兄弟は決して農事に専門的な知識や経験を持つてゐるとは予期出来ない。或る失敗は計上されなければならない。かくてこの仕事は現在の曠野社が、頻りに希望しつゝ実現し得ない理由がはつきりして来る。(カッコ内引用者註)
▲
上記の文章から、曠野社の構成員が一定ではなく、常に流動的だった様子が伝わってくる。入社したと思ったら、早くも翌日にはいなくなっていたとか、楽園を夢見てやってきたら理想と現実は大ちがいで1週間ともたずに去っていった(逃げ出した)とか、今日よく見られるらしい没主体的な新入社員wのような人たちも、数多くいたのではないだろうか。
農業の知見や技術のまったくない人々が、翌日から畑地で農作物を栽培しようとしても、無理なのは目に見えていただろう。曠野社が、「頻りに希望しつゝ実現し得ない理由」は、長島豊太郎でさえ当初から理解していたのではないだろうか。経理の知識やノウハウがないのに、経理担当を任されたら経営がどのような結果になるか、長島自身が想像できないはずはない。それでも「新しき村」の活動に参画したのは、武者小路実篤たちの理想に多大な共感を抱いたからだろう。だが、それは具体的な方法論の道筋も不確かで、実現性の希薄な理想論の世界だった。長島豊太郎も、自身の資産を切り崩しながらの経営だったのだろう。
したがって、長島豊太郎は「出版部」の事業を拡大して運転資金を稼ぎ、それを生活費や農業に振り向けて、曠野社の経営を安定させようとしている。そこで企画されたのが、岸田劉生らが装丁や挿画を手がけたさまざまな本の数々であり、先の「日本古典全集」シリーズだったのだ。「日本古典全集」は、1944年(昭和19)の第266巻までつづいたようだが、自給自足を実現するための農業は、早くから挫折してしまったらしい。長島自身も、「東京近郊の目覚しい都会化、その中にこの美しい自然を持つ土地が取残されるわけは無いのである」と早くから予見していたように、借地だった畑地は地主が宅地開発に乗りだし、早々に縮小してしまったようだ。1936年(昭和11)の空中写真では、長島邸の前は耕地整理が行われ道路が敷設されて住宅が建ち並びはじめている。
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普通一定の畑地を耕作し、捲種し、施肥し、収穫し、更にそれを処理して収益を手にするまでには凡半ヶ年は最少限度で要すると思はなければなるまい。その間の経費の依持(ママ:維持)、その大部分は生活費である処のものを、現在の曠野社の力では負担しきれないのである。殊にそれが一時に数人の場合は一層困難である。更にそれらの兄弟は決して農事に専門的な知識や経験を持つてゐるとは予期出来ない。或る失敗は計上されなければならない。かくてこの仕事は現在の曠野社が、頻りに希望しつゝ実現し得ない理由がはつきりして来る。(カッコ内引用者註)
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上記の文章から、曠野社の構成員が一定ではなく、常に流動的だった様子が伝わってくる。入社したと思ったら、早くも翌日にはいなくなっていたとか、楽園を夢見てやってきたら理想と現実は大ちがいで1週間ともたずに去っていった(逃げ出した)とか、今日よく見られるらしい没主体的な新入社員wのような人たちも、数多くいたのではないだろうか。
農業の知見や技術のまったくない人々が、翌日から畑地で農作物を栽培しようとしても、無理なのは目に見えていただろう。曠野社が、「頻りに希望しつゝ実現し得ない理由」は、長島豊太郎でさえ当初から理解していたのではないだろうか。経理の知識やノウハウがないのに、経理担当を任されたら経営がどのような結果になるか、長島自身が想像できないはずはない。それでも「新しき村」の活動に参画したのは、武者小路実篤たちの理想に多大な共感を抱いたからだろう。だが、それは具体的な方法論の道筋も不確かで、実現性の希薄な理想論の世界だった。長島豊太郎も、自身の資産を切り崩しながらの経営だったのだろう。
したがって、長島豊太郎は「出版部」の事業を拡大して運転資金を稼ぎ、それを生活費や農業に振り向けて、曠野社の経営を安定させようとしている。そこで企画されたのが、岸田劉生らが装丁や挿画を手がけたさまざまな本の数々であり、先の「日本古典全集」シリーズだったのだ。「日本古典全集」は、1944年(昭和19)の第266巻までつづいたようだが、自給自足を実現するための農業は、早くから挫折してしまったらしい。長島自身も、「東京近郊の目覚しい都会化、その中にこの美しい自然を持つ土地が取残されるわけは無いのである」と早くから予見していたように、借地だった畑地は地主が宅地開発に乗りだし、早々に縮小してしまったようだ。1936年(昭和11)の空中写真では、長島邸の前は耕地整理が行われ道路が敷設されて住宅が建ち並びはじめている。




曠野社の畑地(約1,500坪)は、やや変形ぎみな長方形をしていて、北西の道路に面した位置には2棟の工場と3棟の住宅が、南の端には曠野社の創立当初に建てられた小屋があったはずだが、そのような畑地は空中写真には見えない。1936年(昭和11)撮影の空中写真の、豊島区長崎東3丁目162番地(旧・前高松162番地)には、ほぼ正方形に近い空き地(畑地?)が残っており、その北西側の道路端には住宅らしい建物が建設されている。だが、この空き地も1940年(昭和15)を迎えるころには、すべて住宅で埋めつくされている。
また、農業だけでなく出版業のほうも、新しき村の「兄弟姉妹」の数は減っていき、そのうち全員が賃労働で働く一般の社員と変わらない組織になっていった。当時の様子を、『新しき村五十年史』収録の、曠野社メンバーだった脚本家の柳井隆雄『「曠野社」のこと』から引用してみよう。
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この辺から曠野社の性格は新しき村の出版とも、古典全集刊行会、つまり長島豊太郎個人の仕事ともはっきり区別のつかない曖昧なものになっていったのである。印刷所の職工は全部雇人であり、その中に村の人たちも一緒になって働き、私等もモノタイプの技術があったので、職工並みに月給を貰うようになり、なんとなく二重人格的な存在になった。というのも実際にもその頃は、いわゆる村の人達は松崎君たち二三名しか残っておらず、刊行会の事務所では、長島家の昔の雇人だった人達や、新たに雇われた女事務員たちが働いているだけだったのであある。
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これは大正末ごろの情景なので、すでに新しき村のメンバーは2~3人しかおらず、出版事業は通常の出版社と変わらない社員たちが賃労働で働いていたことになる。
長崎村で結成された曠野社=新しき村は、1983年(昭和58)出版の『豊島区史 通史編2』(豊島区)が辛辣に評しているように、「空想的社会主義」のまま「独立の現実的可能性はきわめて少なかったといえる」ようだ。また、大正末には赤字つづきで賃金未払いが発生し、とうとう労働争議にまで発展した。「階級と階級との争ひせず」とうたった新しき村の精神だが、その足もとで階級対立の争議が起きたのはなんとも皮肉なことだった。どうしても給与が払えず、職工たちは賃金がわりに工場の印刷機と活字などの設備類を持ち去っている。
そして、1927年(昭和2)に曠野社は膨大な負債を抱えながら解散した。その後の長島豊太郎は、豊島区高松2丁目14番地10号(旧・豊島区長崎東3丁目162番地/1956年ごろの番地変更で現在は高松2丁目42番地界隈だと思われる)に住みつづけながら、新しき村の運動からも脱会し、自身のライフワークとなった「日本古典全集」シリーズの出版をなんとか継続している。
また、農業だけでなく出版業のほうも、新しき村の「兄弟姉妹」の数は減っていき、そのうち全員が賃労働で働く一般の社員と変わらない組織になっていった。当時の様子を、『新しき村五十年史』収録の、曠野社メンバーだった脚本家の柳井隆雄『「曠野社」のこと』から引用してみよう。
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この辺から曠野社の性格は新しき村の出版とも、古典全集刊行会、つまり長島豊太郎個人の仕事ともはっきり区別のつかない曖昧なものになっていったのである。印刷所の職工は全部雇人であり、その中に村の人たちも一緒になって働き、私等もモノタイプの技術があったので、職工並みに月給を貰うようになり、なんとなく二重人格的な存在になった。というのも実際にもその頃は、いわゆる村の人達は松崎君たち二三名しか残っておらず、刊行会の事務所では、長島家の昔の雇人だった人達や、新たに雇われた女事務員たちが働いているだけだったのであある。
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これは大正末ごろの情景なので、すでに新しき村のメンバーは2~3人しかおらず、出版事業は通常の出版社と変わらない社員たちが賃労働で働いていたことになる。
長崎村で結成された曠野社=新しき村は、1983年(昭和58)出版の『豊島区史 通史編2』(豊島区)が辛辣に評しているように、「空想的社会主義」のまま「独立の現実的可能性はきわめて少なかったといえる」ようだ。また、大正末には赤字つづきで賃金未払いが発生し、とうとう労働争議にまで発展した。「階級と階級との争ひせず」とうたった新しき村の精神だが、その足もとで階級対立の争議が起きたのはなんとも皮肉なことだった。どうしても給与が払えず、職工たちは賃金がわりに工場の印刷機と活字などの設備類を持ち去っている。
そして、1927年(昭和2)に曠野社は膨大な負債を抱えながら解散した。その後の長島豊太郎は、豊島区高松2丁目14番地10号(旧・豊島区長崎東3丁目162番地/1956年ごろの番地変更で現在は高松2丁目42番地界隈だと思われる)に住みつづけながら、新しき村の運動からも脱会し、自身のライフワークとなった「日本古典全集」シリーズの出版をなんとか継続している。



日本の古典作品を総ざらえするような、長島豊太郎の「日本古典全集」だったが、1927年(昭和2)12月26日に内務省警保局から発禁処分を受けている。『西鶴全集 第4巻』収録の井原西鶴『諸艶大鑑』が猥褻だということで差し止められた。翌年には、早くも改訂版を出版しているが、当時は借金まみれだった長島豊太郎には、製本済みだった同書の廃棄は大きな痛手だったろう。
◆写真上:1954年(昭和29)に「日向新しき村」を訪れた、武者小路実篤と村民の記念写真。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)時点での「新しき村」所在地。長島豊太郎はいまだ神田大和町にいるが、この直後に長崎村へ転居してきている。中上は、1922年(大正11)作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸。中下は、開村直後に撮影した曠野社の記念写真。下は、1924年(大正13)時点での曠野社による「新しき村叢書」の刊行ラインナップ。
◆写真中下:上は、新しい村叢書の武者小路実篤『自分の人生観』(1920年/左)と、長与善郎『余の宗教への前提』(1924年/右)。中上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる長島豊太郎邸と曠野社。中下は、1932年(昭和7) 作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸と曠野社跡。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所。
◆写真下:上は、新しき村叢書の第13篇だった長島豊太郎『曠野社の仕事』の表紙(左)と奥付(右)。中左は、1928年(昭和3)に出版された「日本古典全集」シリーズの1冊『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の中扉。中右は、前年に出版したものが発禁処分を受けた経緯と原文削除の報告をする巻頭の前書き。下は、『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の挿画で描いているのは廣川松五郎。
◆写真中上:上は、1919年(大正8)時点での「新しき村」所在地。長島豊太郎はいまだ神田大和町にいるが、この直後に長崎村へ転居してきている。中上は、1922年(大正11)作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸。中下は、開村直後に撮影した曠野社の記念写真。下は、1924年(大正13)時点での曠野社による「新しき村叢書」の刊行ラインナップ。
◆写真中下:上は、新しい村叢書の武者小路実篤『自分の人生観』(1920年/左)と、長与善郎『余の宗教への前提』(1924年/右)。中上は、1926年(大正15)作成の「長崎町事情明細図」にみる長島豊太郎邸と曠野社。中下は、1932年(昭和7) 作成の1/10,000地形図にみる長島豊太郎邸と曠野社跡。下は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真にみる同所。
◆写真下:上は、新しき村叢書の第13篇だった長島豊太郎『曠野社の仕事』の表紙(左)と奥付(右)。中左は、1928年(昭和3)に出版された「日本古典全集」シリーズの1冊『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の中扉。中右は、前年に出版したものが発禁処分を受けた経緯と原文削除の報告をする巻頭の前書き。下は、『西鶴全集 第4巻<改訂版>』の挿画で描いているのは廣川松五郎。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
わたしもいい歳をして時間がなく、なかなかSoーnet時代から拝読して
いるブログを訪問できていません。(汗)