自宅の庭先に古墳があるというのは、どのような気分なのだろうか。わたしなどは、なんとなく歴史的なロマンを想像してワクワクし、庭先を見るたびにウキウキした気分になりそうだが、昔日の落合地域がそんな環境に近かったのではないかと想像している。
「今度クルマを買うから車庫を造ろう」と、大谷石の築垣を壊して庭先の急斜面を掘ったら、羨道からつづく玄室がポッカリと口を開け、中には被葬者の副葬品として鉄刀や勾玉が眠っていたので、玉砂利の上の人骨は見なかったことにしてソッと埋めもどしたりとか、庭先の「落合富士」が実は小規模な古墳の上に富士山の溶岩で築かれたもので、うちには江戸期の富士講である月三講社が築いた「富士山があるんだぞ!」と自慢していたら、1500年前の古墳時代の墳墓だとわかって少し薄気味悪く感じたり……とか、人それぞれ受けとめ方や感じ方が異なるのだろう。わたしのようにワクワクしてしまうのは、少数派なのかもしれない。
庭先に古墳がある不動産広告は、どのようなコピー表現だったのだろうか? 想像するだけで楽しい。落合地域ではほとんどの古墳が破壊され、いまや戦後に認定された古墳のみしかカウントされていないが、東京には古墳群のまん真ん中に住宅街を開発してしまった地域がかなりある。そんな街の広告は、たとえば箱根土地あるいは東京土地住宅の宣伝コピー風に表現すると……。
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🏠古墳時代からつづく瀟洒な高燥住宅地🏠
新緑の風薫る当地は、古墳時代の面影がいまに漂う高台の日当り良好な敷地で、武蔵野の恵まれた風致をそのまま残す、古墳の端に位置しております。古墳群のさらに下層には、旧石器時代から縄文、弥生の住まいが陸続と眠っております。毎日、古墳を眺めてすごす趣味と健康を兼ねた生活は、倦み疲れた心身へ常に新鮮な生気と夢を与えてくれます。庭先から出土する、稀少な形象埴輪はお庭のオーナメントに、また円筒埴輪は花卉の植木鉢かお玄関の傘立てに、勾玉や管玉はお子様の玩具に最適で、ときおり出土する人骨は、ご家族の活力とロマンを掻き立て明日への鋭気を養うには最適な刺激となることでしょう。ときに「お~い、やっほー!」と叫べば、「お~い、やっほー!」と返してくれます。こだまでしょうか、いいえ1600年前の人々も健勝で元気な武蔵野丘陵の高台「古墳文化村」へ、ぜひ一度ご見学にお出かけください。なお、不動産投資をお考えのお客さまには、当社が「はにわファンド」サービスをご提供しております。
「今度クルマを買うから車庫を造ろう」と、大谷石の築垣を壊して庭先の急斜面を掘ったら、羨道からつづく玄室がポッカリと口を開け、中には被葬者の副葬品として鉄刀や勾玉が眠っていたので、玉砂利の上の人骨は見なかったことにしてソッと埋めもどしたりとか、庭先の「落合富士」が実は小規模な古墳の上に富士山の溶岩で築かれたもので、うちには江戸期の富士講である月三講社が築いた「富士山があるんだぞ!」と自慢していたら、1500年前の古墳時代の墳墓だとわかって少し薄気味悪く感じたり……とか、人それぞれ受けとめ方や感じ方が異なるのだろう。わたしのようにワクワクしてしまうのは、少数派なのかもしれない。
庭先に古墳がある不動産広告は、どのようなコピー表現だったのだろうか? 想像するだけで楽しい。落合地域ではほとんどの古墳が破壊され、いまや戦後に認定された古墳のみしかカウントされていないが、東京には古墳群のまん真ん中に住宅街を開発してしまった地域がかなりある。そんな街の広告は、たとえば箱根土地あるいは東京土地住宅の宣伝コピー風に表現すると……。
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🏠古墳時代からつづく瀟洒な高燥住宅地🏠
新緑の風薫る当地は、古墳時代の面影がいまに漂う高台の日当り良好な敷地で、武蔵野の恵まれた風致をそのまま残す、古墳の端に位置しております。古墳群のさらに下層には、旧石器時代から縄文、弥生の住まいが陸続と眠っております。毎日、古墳を眺めてすごす趣味と健康を兼ねた生活は、倦み疲れた心身へ常に新鮮な生気と夢を与えてくれます。庭先から出土する、稀少な形象埴輪はお庭のオーナメントに、また円筒埴輪は花卉の植木鉢かお玄関の傘立てに、勾玉や管玉はお子様の玩具に最適で、ときおり出土する人骨は、ご家族の活力とロマンを掻き立て明日への鋭気を養うには最適な刺激となることでしょう。ときに「お~い、やっほー!」と叫べば、「お~い、やっほー!」と返してくれます。こだまでしょうか、いいえ1600年前の人々も健勝で元気な武蔵野丘陵の高台「古墳文化村」へ、ぜひ一度ご見学にお出かけください。なお、不動産投資をお考えのお客さまには、当社が「はにわファンド」サービスをご提供しております。

※羨道や玄室を、ワインセラーや寝室に改造するのは文化財保護法で固く禁止されております。
※地下から人声のすることがありますが、空耳ですのでお気になさらずお過ごしください。
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もう、古墳住宅街へのあこがれから、妄想が止まらない。巨大な前方後円墳の麓の住宅より、あたかも庭先の築山のように眺められる小型のかわいい古墳のほうが、生活に密着できて楽しそうだ。かつて田園調布の住宅街が、確認されているだけで52基の古墳だらけだったように、落合地域の住宅街も似たようなものだったのではないだろうか。鳥居龍蔵と守谷源次郎は、上落合と下落合のおもに斜面で37基の古墳を確認しているが、下落合の丘上一帯および西落合エリアは未調査のままだったので、膨大な古墳数を想定できそうだ。
戦後、東京都内には古墳群のなかに宅地を開発し、しかも古墳を破壊せずにそのまま庭先へ残した住宅街も存在している。「物件写真」を見て感動したので、さっそく現地を訪ねてみることにした。場所は、戦後に宅地化が進んだ、府中市分梅町や美好町の界隈だ。換言すれば、開発が大正期や戦前ではなく、戦後だったからこそ古墳の文化財としての重要性が認識され、あえて住宅街のなかにいくつかの古墳を、そのまま残すという開発法がとられたのだろう。
冒頭写真は、わたしがいちばんうらやましく感じた、4棟の住宅に囲まれたかわいいサイズの「高倉塚古墳」。分梅町や美好町に拡がる周囲27基の古墳群は、多くが住宅街の下になってしまったけれど、6世紀前半に築造された直径20mほど円墳(後円部?)とされる高倉塚古墳は、「高倉古墳群」と呼ばれた古墳群の中心あたりに位置していたらしい。整備される前は、4棟の庭先の築山のような風情をしており、東側には分梅町の公会堂が設置されている。同墳および周辺からは、銀象嵌太刀や太刀四振り、土師器、直刀、鉄鏃・玉類などが発掘されている。
ここで、以前にも記事に書いたが、従来は「円墳」とされていた関東の古墳が、最新の発掘再調査では前方後円墳に訂正される事例が続出している。江戸期の特に関東地方では、田畑に開拓しやすい前方部が崩されがちで、大量の土砂が堆積している後円部は残されるか、あるいはなんらかの謂れ(禁忌伝承や屍家伝説)が伝わり、墳頂へ祠が設置されたりした場合には、開墾から外されたケースが多々見られるからだ。したがって、円墳とされているものの、本来は前方後円墳だったのではという意味あいをこめ、「円墳(後円部?)」とする記述で文章を進めたい。





次は、高倉塚古墳の北270mほどのところに位置する高倉古墳群27号墳、通称「首塚古墳」がある。こちらも住宅の庭先といっていい位置に面しているが、住民の方は古墳ギライだったのか、南面立地にもかかわらず住宅の窓のない外壁だけが、古墳の残滓側に向いている。また、同墳は破壊前の空中写真を見ると、30mほどの円墳(後円部?)サイズだったと思われるが、現在は築土がすべて取り払われており、墳頂に奉られていたとみられる小さな稲荷社のみが残っている。副葬品としては銅製品が出土しており、時代も6世紀前半ごろと推定されている。
つづいて、高倉塚古墳の西北西170mほどのところに築かれた、天王塚古墳について見てみよう。同墳は八雲社の本殿裏に位置しており、名称の「天王」はもちろん牛頭天王=スサノオにちなんでのことだ。6世紀後半に築造された15m前後の小さな円墳(後円部?)ということだが、本格的な調査はなされておらず、玄室の様子や副葬品の有無は確認されていない。同墳も、西側には住宅が建設されているので、当初は庭つづきの小山だったようだ。
その天王塚古墳から、北へ220mほどのところには高倉古墳群20号墳がある。当初は、畑のなかにポツンとある古墳だったものが、現在は物流倉庫と個人宅に接しているため、立ち入ることができない。同墳は、隣接するお宅の私有地との情報もあり、事実だとすれば文字どおり庭に古墳のある戸建て住宅ということになる。高倉20号墳は、6世紀後半の築造とされ、直径が20m弱の円墳(後円部?)で、周壕(濠)跡も発掘されている。副葬品としては土師器類が発掘されているようだが、盗掘に遇ったのか刀剣類や玉類などは発見されなかったようだ。同墳の南側には、高倉古墳群21号墳があったそうだが、いまでは住宅街の下になっている。
高倉20号墳から西へ620mほどのところ、JR南武線・西府駅の駅前には御嶽塚古墳(正式名称は御嶽塚古墳群5号墳)が現存している。6世紀前期から中期にかけて築造された円墳(後円部?)で直径は25m、周濠(壕)の幅は7mということだ。同墳は公園化されているので、周囲に住宅は存在していない。出土品としては、円筒埴輪や石室に納められた圭頭大刀、金銅製の耳飾などが発掘されている。御嶽塚古墳の周囲からは、数多くの円墳(後円部?)が発見されているので、西府町も古墳群のなかの住宅街といえそうだ。
また、JR南北線の西府駅あたりには、かつて御嶽塚古墳群16号墳があり、埴輪や土師器が数多く出土している。御嶽塚古墳の真北460mほどのところには、以前に拙サイトでもご紹介した7世紀築造とみられる、国内最大級の上円下方墳・武蔵府中熊野神社古墳が位置している。
つづいて、高倉塚古墳の西北西170mほどのところに築かれた、天王塚古墳について見てみよう。同墳は八雲社の本殿裏に位置しており、名称の「天王」はもちろん牛頭天王=スサノオにちなんでのことだ。6世紀後半に築造された15m前後の小さな円墳(後円部?)ということだが、本格的な調査はなされておらず、玄室の様子や副葬品の有無は確認されていない。同墳も、西側には住宅が建設されているので、当初は庭つづきの小山だったようだ。
その天王塚古墳から、北へ220mほどのところには高倉古墳群20号墳がある。当初は、畑のなかにポツンとある古墳だったものが、現在は物流倉庫と個人宅に接しているため、立ち入ることができない。同墳は、隣接するお宅の私有地との情報もあり、事実だとすれば文字どおり庭に古墳のある戸建て住宅ということになる。高倉20号墳は、6世紀後半の築造とされ、直径が20m弱の円墳(後円部?)で、周壕(濠)跡も発掘されている。副葬品としては土師器類が発掘されているようだが、盗掘に遇ったのか刀剣類や玉類などは発見されなかったようだ。同墳の南側には、高倉古墳群21号墳があったそうだが、いまでは住宅街の下になっている。
高倉20号墳から西へ620mほどのところ、JR南武線・西府駅の駅前には御嶽塚古墳(正式名称は御嶽塚古墳群5号墳)が現存している。6世紀前期から中期にかけて築造された円墳(後円部?)で直径は25m、周濠(壕)の幅は7mということだ。同墳は公園化されているので、周囲に住宅は存在していない。出土品としては、円筒埴輪や石室に納められた圭頭大刀、金銅製の耳飾などが発掘されている。御嶽塚古墳の周囲からは、数多くの円墳(後円部?)が発見されているので、西府町も古墳群のなかの住宅街といえそうだ。
また、JR南北線の西府駅あたりには、かつて御嶽塚古墳群16号墳があり、埴輪や土師器が数多く出土している。御嶽塚古墳の真北460mほどのところには、以前に拙サイトでもご紹介した7世紀築造とみられる、国内最大級の上円下方墳・武蔵府中熊野神社古墳が位置している。




さて、周濠(壕)域まで住宅群に囲まれた古墳ということで、全国のさまざまなケーススタディを眺めていたら、大阪の貝塚市地蔵堂にある丸山古墳の空中写真を見つけた。それを目にしたとたん、この光景は東京のどこかでも見たことがあると気づき、記憶の糸をたぐりながら画像ファイルを眺めていると、渋谷区の鉢山地域にも同じようなフォルムがあるのを見つけていた。鉢山という摺鉢山と同様に、いかにも古墳がかつて存在したらしい字名にも惹かれる。
鉢山にピンとこない方には、代官山駅の北側エリアといえばわかりやすいだろうか。以前、拙記事で岡崎キイの物語にからめ、水戸徳川家の屋敷があった猿楽町と猿楽塚古墳をご紹介していた。あるいはドラマ好きには、かつて1979年(昭和54)に放映された『ちょっとマイウェイ』のレストラン「ひまわり」がある線路をはさんだ北側、または1995年(平成7)に放送された『王様のレストラン』のロケ地で、フレンチレストランの「Belle Équipe(ベル・エキュプ)」(実際は「Madame Toki(マダム・トキ)」)のある街角の直近といえば通りがいいだろうか。
上空から見た貝塚市地蔵堂の丸山古墳は、鍵穴型の原っぱが拡がり、その周囲を住宅がグルリと取り囲むような風情をしているが、渋谷の鉢山地域のほうは戦前から、北側の後円部の一部が整地されて宅地開発が徐々に進捗するが、他の部分は森や原っぱのままで、戦後は空襲で焼けた一部も含め、原っぱを取り囲むように住宅が建てられていく。貝塚市地蔵堂の丸山古墳は全長72mほどだが、渋谷の鉢山にある鍵穴型のフォルムは、全長260mあまりのサイズだ。昭和初期から宅地開発が進んでいるとみられ、おそらく発掘調査の記録は皆無だろう。
戦前は、東京あるいは関東地方でこのような大王クラスの大型古墳らしいフォルムを見つけたとしても、薩長政府による「官令達 乙部第百廿号」と皇国史観の徹底により、大きな古墳はすべて破壊して開墾するか河川の堤防用の土砂として「活用」され、坂東は中小の古墳しか存在しない坂東夷が跋扈する辺境エリアという“神話”が、マッチポンプ式に結果論として形成されていった。だが、薩長政府の通達に逆らうか無視した地域、ことに千葉県や群馬県などでは戦後、自然科学の多彩な手法を用いた調査により、全国でトップクラスの古墳密集地域であることが判明している。
鉢山にピンとこない方には、代官山駅の北側エリアといえばわかりやすいだろうか。以前、拙記事で岡崎キイの物語にからめ、水戸徳川家の屋敷があった猿楽町と猿楽塚古墳をご紹介していた。あるいはドラマ好きには、かつて1979年(昭和54)に放映された『ちょっとマイウェイ』のレストラン「ひまわり」がある線路をはさんだ北側、または1995年(平成7)に放送された『王様のレストラン』のロケ地で、フレンチレストランの「Belle Équipe(ベル・エキュプ)」(実際は「Madame Toki(マダム・トキ)」)のある街角の直近といえば通りがいいだろうか。
上空から見た貝塚市地蔵堂の丸山古墳は、鍵穴型の原っぱが拡がり、その周囲を住宅がグルリと取り囲むような風情をしているが、渋谷の鉢山地域のほうは戦前から、北側の後円部の一部が整地されて宅地開発が徐々に進捗するが、他の部分は森や原っぱのままで、戦後は空襲で焼けた一部も含め、原っぱを取り囲むように住宅が建てられていく。貝塚市地蔵堂の丸山古墳は全長72mほどだが、渋谷の鉢山にある鍵穴型のフォルムは、全長260mあまりのサイズだ。昭和初期から宅地開発が進んでいるとみられ、おそらく発掘調査の記録は皆無だろう。
戦前は、東京あるいは関東地方でこのような大王クラスの大型古墳らしいフォルムを見つけたとしても、薩長政府による「官令達 乙部第百廿号」と皇国史観の徹底により、大きな古墳はすべて破壊して開墾するか河川の堤防用の土砂として「活用」され、坂東は中小の古墳しか存在しない坂東夷が跋扈する辺境エリアという“神話”が、マッチポンプ式に結果論として形成されていった。だが、薩長政府の通達に逆らうか無視した地域、ことに千葉県や群馬県などでは戦後、自然科学の多彩な手法を用いた調査により、全国でトップクラスの古墳密集地域であることが判明している。




けれども、江戸東京の市街地(朱引き墨引き内エリア)では早くから宅地化や農地化が進み、どれだけの古墳が寺社の境内や宅地・農地の下になってしまったのかは不明のままだ。渋谷区の鉢山地域に残るフォルムは、たまたまここに内藤家の下屋敷があり、古墳の後円部の半ばから前方部にかけてが、同屋敷の庭園となっていたため、後世までよく保存されていたケースだろう。
◆写真上:住宅に隣接した、分梅町に位置する高倉古墳群のひとつ高倉塚古墳の墳丘。
◆写真中上:2000年(平成12)ごろまで、高倉塚古墳はほんとうに庭先の古墳だったようだ。高倉古墳群からは、みごとな銀象嵌の丸鐔が残る太刀などが出土している。
◆写真中下:上から下へ、稲荷社が奉られた首塚古墳に八雲社の天王塚古墳、高倉20号墳、西府町の御嶽塚古墳。空中写真はいずれも1974~75年(昭和49~50)撮影。
◆写真下:上は、大阪の貝塚市地蔵堂にある丸山古墳。下は、渋谷区鉢山地域の巨大な鍵穴フォルムをとらえたもので、1936年(昭和11)、1944年(昭和19)、1947年(昭和22)撮影の空中写真。
★おまけ
1979年(昭和54)撮影の渋谷区鉢山地域のフォルムで、前方部には高価そうな住宅街が建設されている。プール付きの大きめな邸宅も確認できるので、文字どおり「古墳文化村」だったのだろう。下は、大型古墳とみられるフォルムのすぐ南西側にあるフレンチレストラン「Madame Toki」。
◆写真中上:2000年(平成12)ごろまで、高倉塚古墳はほんとうに庭先の古墳だったようだ。高倉古墳群からは、みごとな銀象嵌の丸鐔が残る太刀などが出土している。
◆写真中下:上から下へ、稲荷社が奉られた首塚古墳に八雲社の天王塚古墳、高倉20号墳、西府町の御嶽塚古墳。空中写真はいずれも1974~75年(昭和49~50)撮影。
◆写真下:上は、大阪の貝塚市地蔵堂にある丸山古墳。下は、渋谷区鉢山地域の巨大な鍵穴フォルムをとらえたもので、1936年(昭和11)、1944年(昭和19)、1947年(昭和22)撮影の空中写真。
★おまけ
1979年(昭和54)撮影の渋谷区鉢山地域のフォルムで、前方部には高価そうな住宅街が建設されている。プール付きの大きめな邸宅も確認できるので、文字どおり「古墳文化村」だったのだろう。下は、大型古墳とみられるフォルムのすぐ南西側にあるフレンチレストラン「Madame Toki」。


この記事へのコメント
英ちゃん
私は府中市に住んでますが分倍河原の方に古墳が点在してたのは知りませんでした(^_^;)
まぁ、分倍河原の方はあまり馴染みもないからね。
しかし、古墳も今は密かなブームになってるらしいですね。
私は興味はありませんが💧
落合道人
府中地域は、古墳の宝庫ですね。武蔵の国府が置かれるはるか以前から、
かなりの人口密集地ではなかったかと思います。
分梅町や美好町の北、北府中と西国分寺の間には、大きな前方後円墳の
フォルムがそのまま現代まで残っているエリアもありますので、農地化
や宅地化が進む以前、大小の古墳が散在していた地域ではないかと考え
ています。
てんてん
落合道人
台湾の混ぜ麺、うまそうですね。ピリ辛なのでしょうか。