1960年代の下落合を映す家族の肖像。(下)

①1966夏ガボラ.jpg
 前回の記事につづき、冒頭の写真①は、どこかのデパートか遊園地のパビリオンへ遊びにいったときの記念写真だろう。1960年代後半に子ども時代を送った方なら、背後にいる怪獣が『ウルトラマン』に登場した、ウラン怪獣「ガボラ」であることはすぐにおわかりのはずだ。円谷プロダクションと連携した、ウルトラマンイベントにおける記念の1枚だろう。
 当時は怪獣ブームの真っただ中にあり、『ウルトラQ』からはじまる円谷プロが創作した怪獣や宇宙人などを、ひと目見るだけで名前や出現の経緯がいえるほどの“怪獣博士”が、少年の間で全国的に出現していた。いつか、こちらでも母親が有楽町でひどいめに遭った円谷英二のゴジラをご紹介しているけれど、近くの学習院大学を襲った『ウルトラセブン』のプロテ星人もそうだが、TVで放映されたウルトラシリーズは、映画の怪獣ブームよりもはるかに広く深く、子どもたちの間に浸透していった。そんなブームを反映してか、あちこちのデパートや遊園地では怪獣イベントが開かれ、野本家でもそんな催事のひとつに出かけたものだろう。
 また、怪獣によく似ている(いい方が逆立ちしている)恐竜ブームも、怪獣ブームとシンクロするように起きていた。東京国立科学博物館では、1964年(昭和39)に日本で初めてジュラ紀の肉食恐竜アロサウルスの全身骨格が公開され、わたしも真っ黒な恐竜標本を見学しに同年、科学博物館を訪れている。当時のアロサウルスは、少し前までタルボサウルスとマイアサウラの全身骨格標本が置かれていた、中央ホールに展示されていた。初めてアロサウルスの標本を見たとき、「ゴジラより小っちゃいじゃん」と感じたので、わたしもアタマの中が怪獣漬けだったのだろう。
 恐竜イベントでよく出かけたのは、毎年開かれる玉川園(二子玉川)の恐竜展だった。こちらは、博物館ではないので全身骨格などの展示はないが、復元された数多くの恐竜たちを見ることができた。ただ、現在のように恐竜学が未発達な時代なので、肉食恐竜はみんなゴジラのように、直立で歩いて獲物を狙っていたし、竜脚下目のディプロドクスやアパトサウルス(当時はブロントサウルス)は首を垂直に立てて歩行していた。ボートに乗って恐竜を見学するというアトラクションも記憶にあるが、これは玉川園ではなく横浜ドリームランドだったろうか。夏休みの恐竜展も楽しみだったが、もっと楽しみだったのは、もちろんお化け屋敷やスリラーショーだった。
 写真①の、キラキラしている少年たち(手前が野本直揮様)の目を見れば、当時の怪獣ブームを懐かしさとともに思いだされる、元・少年の方々も多いのではないだろうか。
②1963氷川明神.jpg
氷川明神松影道1963.jpg
 写真②は、1963年(昭和38)9月に撮影された、下落合氷川明神社で遊ぶ子どもたちだ。場所は、その昔に「松影道」と名づけられた、同社の西端を南北に通る細道で、現在は子供たちが遊ぶ右手に舞殿(神楽殿)が建てられている。手前の石垣は、十三間通り(新目白通り)の工事の際に、通りに面した石垣も含めてリニューアルされ、現在は大粒の丸い河原石を積みあげる築垣に変わっている。正面には、やや左手(西側)にズレて七曲坂が通っており、左手には地元の建設会社で落合地域の住宅やマンションを建てていた河野建設(少し前まで営業)があり、丁字路の右手に当時は氷川社の神輿蔵(わたしは記憶にない)があったようだ。写真をよく観察すると、境内のあちこちに年齢がパラパラな近所の子どもたちが仲よく遊んでおり、当時はそれがあたりまえの時代だった。
③1965落合公園初夏1.jpg
④1965落合公園初夏2.jpg
 写真③④⑤⑥は、1964年(昭和39)から上落合1丁目100番地で稼働をしはじめた落合下水処理場(現・落合水再生センター)に、できたばかりの「落合中央公園」で遊ぶ野本一家を記録したものだ。1965年(昭和40)6月の初夏に撮影されたもので、芝庭や花壇、テニスコートは完成していたようだが、野球場は1971年(昭和46)の時点でもまだ工事中だった。
 余談だが、当時の下落合東部では、落合中央公園を略して「落合公園」と呼ぶことが一般化していたようだ。でも落合公園は、1960年(昭和35)に下落合5丁目802番地(現・中井1丁目)にオープンしており、東部の略称「落合公園」とで多少混乱していたらしい。現在では、落合中央公園は落合を略して、単に「中央公園」と呼ばれることが多くなった。また、落合下水処理場の北側、上落合1丁目122番地で操業していた東京護謨工場がなくなり、跡地には東京都下水道局が買収して公園化した「せせらぎの里公苑」ができているので、上落合の東部(前田地区)は戦前の工場地帯から一変し、公園やスポーツ施設の多いエリアとなっている。
 写真③は、ドッジボールで遊ぶ野本家のお父様だが、同公園から南東を向いて撮影された背景には、戸塚町4丁目から3丁目にかけて(現・高田馬場3丁目)の丘陵に建てられた住宅群が写っている。1980年代以降は高いビルやマンションが急増し、写真にとらえられた戸塚地域に限らず、上落合地域でも丘陵が目立たなくなっているが、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの戸塚町側に形成された段丘地形を、ハッキリとらえためずらしい写真だ。
 写真④は、家族の背後に東京都下水道局の事務所ビルが写っており、同ビルはこれまでリフォームを繰り返し現在でも使用されている。ただし、手前の芝庭や花壇は、いまでは「ちびっこ広場」(児童遊園)や「犬の広場」(ドッグラン公園)へと衣替えしている。また、事務所ビルの左手、遠景に見えているグリーンベルトが、下落合3丁目(現・中落合)あたりの目白崖線だろう。
⑤196506落合公園1.jpg
⑥196506落合公園2.jpg
落合中央公園1966.jpg
 写真⑤は、同公園から南東側を向いて撮影されたもので、旧・神田上水が流れる対岸には、戸塚地域の丘陵一帯がとらえられている。また、写真⑥は公園からほぼ東を向いて撮影されたもので、旧・神田上水の対岸には集合住宅が見えている。これらは、久保前橋を戸塚町側へわたった左手(北側)、茶道会館のさらに北側に建っていた戸塚町4丁目505番地の都営アパート群だろう。現在は、新宿区営の集合住宅で高田馬場3丁目の「高田馬場コーポラス」になっている。
⑦19660101辰巳橋1.jpg
⑧19660101辰巳橋2.jpg
 写真⑦は、辰巳橋を背景に東南東を向いて、1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。下を流れるのは、神田川と合流する直前の妙正寺川だ。辰巳橋の向こう側には、妙正寺川をわたる西武新宿線の鉄橋があるはずだが辰巳橋に隠れ、かろうじて鉄橋の橋脚のみが川の中に見えている。橋の向こう側には、戦後の工場街が拡がるが、左手(北側)が富士化成KK工場であり、中央に見える煙突の右手(南側)が旭洋印刷落合工場だろう。遠くにビル状の建物が見えているが、大世学院政治経済科および富士女子短期大学の校舎だとみられる。
 写真⑧も、1966年(昭和41)1月1日に妙正寺川の辰巳橋を写したものだが、ほぼ真東を向いてシャッターが切られている。この位置までくると、西武線の鉄橋の橋脚が、辰巳橋の下にハッキリと確認できる。野本家のお父様が歩く左手のコンクリート塀は、(株)正人刃物製作所の大きな建屋であり、新たに正面左手に見えている凸型のビル状の建屋は、屋上に干し場も備えたツバメドライクリーニング工場の一部ではないだろうか。
⑨19660101三楽ホテル.jpg
 写真⑨は、下落合駅前の西ノ橋の北詰めで、同じく1966年(昭和41)1月1日に撮影されたものだ。どうやら、正月の空いている街中をお父様は散策されていたようだ。背景に見えているのは、以前の記事にも登場した「三楽ホテル」のファサードだ。独特な唐破風の屋根と赤いベンガラの手すりに、ホテルという名称のアンバランスさがなんともいえない味わいを醸しだしている。正月のせいか、軒下には紅白の幕が張りめぐらされているようだ。
 あとで知ったことだが、三楽ホテルは東京における労働組合の運動史には頻繁に登場してくる場所で、同ホテルで組合結成の決起集会が開かれたり、活動方針が話し合われる会合がもたれたり、各地の組合の代表や幹部を集めて協議会を開いたりと、労働運動では有名なホテルだったらしい。山手線からひとつめの駅で、しかも駅から徒歩1分以内という地の利がよかったせいだろう。
⑩19671012自宅建設.jpg
 写真⑩は、十三間通りの工事計画が進捗して、立ち退く日も迫りつつあったため、野本家では下落合に新たな地所を手に入れ、自宅兼店舗を新築している風景だ。1967年(昭和42)10月12日の撮影で、背後は緑が濃い武蔵野の雑木林の名残りが見られる環境だ。現在でも、北側の風情はなんとか失われずかろうじて残っている。わたしは背後のアパートに、人がいるのを見たことがない。
⑪19690304大雪1.jpg
⑫19690304大雪2.jpg
十三間通り工事1971.jpg
 次の写真⑪⑫は、わたしにも記憶がある。1969年(昭和44)3月4日、東京では戦後初めて気象庁から大雪警報が発令された日だ。都心(霞が関周辺)の積雪は19cmだったが、下落合では40cm近くまで積もったという。コンクリートやアスファルトで固められ交通量の多い都心と、土面が多く残る下落合との気温差が、当時はそれだけあったのだろう。わたしは、いまだ平塚にいたのだが、にわかの大雪にビックリして鮮明な記憶として残っている。相模湾の海街では、東京や横浜が降雪でも藤沢から小田原にかけては雨の場合が多い。だが、このときの降雪は半端ではなく、庭に設置していた野鳥の餌付け台の上には、20cm以上の雪が積もっていた。
 写真⑪は、同日に薬王院の門前商店街があったあたり、十三間通り(新目白通り)の工事で家屋がすべて解体された跡の空き地に立つ、野本兄弟を写したもの。背後にある小山は、工事用の土砂を堆積したものだろう。兄弟の頭上背後に見えている大きなビルは、アリミノ化学の本社ビル、左手に見えているビルは位置からすると昭光精機の本社あたりで、その背後が移転して間もない神田精養軒の本社ビル、そして遠景にうっすらと見えている鉄骨と下部が養生に覆われているように見える建築中のビルが、1964年(昭和39)ごろに移転した大黒葡萄酒(三楽オーシャン)の跡地に建てられはじめた、高層分譲アパートの高田馬場住宅(1971年ごろ入居開始)だろうか。
 写真⑫は、同じ位置から走る西武新宿線をとらえたもので、大雪の当日は東京じゅうの電車のダイヤが乱れ、間引き運転がされていた。企業も早めの帰宅をうながして、同日のラッシュアワーは午後3時ごろにピークを迎えたらしい。右端に見えているビルは、富士女子短期大学(現・東京富士大学)の校舎の一部だろうか。また、中央に見えている煙突は岡村製綿工場のあたりだ。
 最後に、わたしがのけぞってしまったのは、野本アルバムに大磯海岸での海水浴の写真が数多く貼られていたことだ。国の重要無形民俗文化財で日本では最大級のどんど焼き(せいとばれえ=左義長)が行われる、北浜海岸で撮影されたものだ。まったく同時期に、夏休みの北浜海岸ではよく泳いでいたので、わたしがどこかに写っていないかどうか、アルバムを真剣に探してしまった。
⑬19630806大磯1.jpg
 時代が前後するが、1963年(昭和38)8月6日に撮影された写真⑬は、渚に近い兜岩(かぶといわ)など、関東大震災で海底からより高く浮上してきた岩礁がとらえられている。わたしの子ども時代、この兜岩まで泳いでいき、そこから海面へ逆さまにダイビングするのが「ちゃんと泳げる男子」の証明だった。この砂浜の写真は、早稲田の松本順が1882年(明治15)10月に日本初の海水浴場に指定してから、今日にいたるまでほとんど変わらない情景だ。
 サーファーたちは、もちろん当時もいたのだけれど、波乗り兄ちゃん姉ちゃんたちは、北浜海岸のもう少し東のオオイソポイントか、花水川の河口域であるハナミズポイント、あるいは大磯港のある照ヶ崎から西につづく小淘綾ノ浜(こゆるぎのはま)の西端、血洗川の河口域であるチアライポイントあたりに集まっていて、海水浴客とはきれいに棲み分けていた。
⑭19630806大磯2.jpg
 写真⑭も同日の撮影だが、工事中でいまだ未開通のままの西湘バイパスが背景にとらえられている。ユーホー道路(湘南遊歩道路=国道134号線)の交通量が急増し、大磯から西へ敷設された西湘バイパスが竣工すると、浜辺に近いエリアには魚群が寄りつかなくなり、湘南海岸の地曳き網はふるわなくなって、観光用の地曳きを除き急速に衰退していった。
 現在、野本夫妻が座っている左手、大磯港の手前には津波の避難タワーが建設されている。ただし、大磯はすぐ北側に山を背負っているので、津波が到達するまで10~15分ほどの余裕があれば、海岸線から十分に山側へ避難することができるだろう。高い丘陵がなく避難タワーが随所に必要なのは、むしろ平塚から藤沢にかけての海岸線だ。1498年(明応7)に起きた、鎌倉の大仏殿を破壊しさらっていったといわれる明応大地震クラスのプレート型巨大地震(津波の高さは30mと推定されている)が起きたら、湘南海岸の全域で大きな被害が生じそうなことはいうまでもない。
                                    <了>
◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。
おまけ
 1966年(昭和41)には、西落合の目白通りから目白文化村へ十三間通りが迫っていた。安倍能成邸が、第二文化村と東側の十三間通り筋とで、2軒に分かれているのが記録されためずらしい地図。下の写真は2023年6月の梅雨どきに津波避難タワーから撮影した、引き潮でかなり露出した北浜海岸の兜岩と遠景は潮流観測所に烏帽子岩江の島、および防音壁が設置された西湘バイパス
目白文化村1966.jpg
兜岩2023.jpg
西湘バイパス2023.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年07月03日 22:51
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    急に猫たちがいなくなると、ちょっと心配になりますね。
    2026年07月04日 00:15
  • NO14Ruggerman

    1枚目の写真を兄に見てもらったら撮影場所は「大丸デパート」だそうです時期は1966年の夏のようです。怪獣は「ガボラ」の他に「ゲスラ」と
    「ドドンゴ」が居たと証言しています。
    斯く言う兄は怪獣大好き人間でしたが私は興味が薄かったですw
    2026年07月04日 11:03
  • 落合道人

    NO14Ruggermanさん、コメントをありがとうございます。
    開催は「大丸」でしたか。他の2頭の怪獣で、「ゲスラ」はいかにもゲスラという顔つきをしていましたが、「ドドンゴ」は子ども心にかなり違和感をおぼえた怪獣でした。あとから思い返してみますと、円谷プロの製作部が「今度はどんな怪獣を創作しよう?」と企画会議を開いて悩んでいたとき、たまたまその席でキリンビールを飲んでいたのではないかと思います。w
    2026年07月04日 11:24

この記事へのトラックバック