
前回の記事につづき、今回も野本アルバムより1960年代の下落合風景をご紹介したい。前回は、薬王院の門前に展開していた、空襲から北側がかろうじて焼け残った昭和初期からの商店街写真が中心だったが、今回は商店街を離れ懐かしい下落合の街角をご紹介したい。
まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、雑司ヶ谷道(新井薬師道)=鎌倉支道を歩いて氷川明神社へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の写真⑧から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ、1970年代の半ばには、いまだ正面に見えている板塀の家(島田邸)は建っていたが、ほどなく解体され駐車場になった。薬王院の山門横で、写真の左奥には何度かセメントで塗りなおされている同寺の石塀が見えている。現在は、正面の家の右手(東側)に建っていた住宅(佐藤邸)も解体され、駐車場の面積が拡がっている。ちなみに島田邸の板塀には、またもや「下落合医院」の看板が見えている。
まずは、1961年(昭和36)11月15日に撮影された、雑司ヶ谷道(新井薬師道)=鎌倉支道を歩いて氷川明神社へと向かう、野本家の家族を撮影した冒頭の写真⑧から。この場所は、すぐに特定できた。わたしが下落合を歩きはじめた高校生のころ、1970年代の半ばには、いまだ正面に見えている板塀の家(島田邸)は建っていたが、ほどなく解体され駐車場になった。薬王院の山門横で、写真の左奥には何度かセメントで塗りなおされている同寺の石塀が見えている。現在は、正面の家の右手(東側)に建っていた住宅(佐藤邸)も解体され、駐車場の面積が拡がっている。ちなみに島田邸の板塀には、またもや「下落合医院」の看板が見えている。

写真の右下には、土ぼこりをかぶった大谷石の築垣が見えているが、この基礎部分の大谷石は現在もそのまま残っており、上には別の石材で敷地と道路の境界垣が築かれている。少し前までは、みごとな大輪の菊栽培が印象的だった小井邸で、その手前右手には菓子も販売していたヤマザキパン「ちえこ」だった。わたしの学生時代から、小井邸の向かいには理髪店とキッチン「タカハシ」が開店していて、その南の角地には高田タバコ店が営業していたが、現在はすべて閉店してしまった。薬王院の参道と山門は、写真左手の枠外に見えているはずだ。この道を右折して東へまっすぐ進めば、七曲坂の坂下をへて氷川明神社の境内北側へと抜けられる。


冒頭写真の11月15日の日付からおわかりだと思うが、オシャレなおそろいのベレー帽をかぶって氷川明神社へ参詣するのは、七五三を祝うためだった。写真⑨では、拝殿横で撮影された千歳飴の袋をもつ母子3人がとらえられている。現在は、写真左手の位置にカンザクラ(寒桜)が大きく育ち、落葉している時期でなければこの位置から拝殿を見とおすことはむずかしい。また、十三間通り(新目白通り)が貫通する前なので、撮影者の背後は現在のようにすぐ南側の階段(きざはし)と鳥居ではなく、南側の濃い樹林が境内をとり囲んでいたはずだ。
翌々1963年(昭和38)11月15日に、氷川社で撮影された七五三の写真⑩も残されている。現在は、おそらく位置を変え柵が設置されて保存されている狛犬だが、当時は台座(富士山の溶岩石だろうか)が、かなり高さのあったことがわかる。奥の着物女性の前では、「一袋五十円」で千歳飴が売られている(いや授与されている)。また、現在は拝殿・本殿の横(北側)に舞殿(神楽殿)が建設されて、写真のように見通しがきかない。写真には、七曲坂の下に建っていた家々がとらえられており、そこに右から左へ「神輿蔵」と書かれた文字が見えていて、わたしにとってはめずらしい風景だ。
翌々1963年(昭和38)11月15日に、氷川社で撮影された七五三の写真⑩も残されている。現在は、おそらく位置を変え柵が設置されて保存されている狛犬だが、当時は台座(富士山の溶岩石だろうか)が、かなり高さのあったことがわかる。奥の着物女性の前では、「一袋五十円」で千歳飴が売られている(いや授与されている)。また、現在は拝殿・本殿の横(北側)に舞殿(神楽殿)が建設されて、写真のように見通しがきかない。写真には、七曲坂の下に建っていた家々がとらえられており、そこに右から左へ「神輿蔵」と書かれた文字が見えていて、わたしにとってはめずらしい風景だ。

ここで、氷川明神とその周辺をめぐる戦前の風景を、杉森一雄『落合昔語り』(2006年)より引きつづき引用してみよう。文中には、竹田助雄が書いた『落合小景』からの引用も含まれている。
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落合の郷土史家竹田助雄氏の『落合小景』という文の中に、次のような一節がある。//【高田馬場駅を降りて……父と私は人通りの少ない曲りくねった砂利道を、連れ立って歩いた。/途中に薄気味わるい変電所があり、その前の橋を渡ると川がU字形に彎曲しているところがあった。U字型の此方(こっち)は路肩が崩れ落ち、道路の下をえぐるように渦を巻いて激しく流れていた。(中略) そこから杉木立の生い茂るお宮の前を通り、すこし行くと道は狭くなり、人通りは全く絶えて、絶えたところの森の中に茅葺家が数軒見えた。またすこし行くと鄙びた通りには、八百屋、魚屋、肉屋が一軒ずつあった。】// これは昭和六年の話である。竹田氏も解説しておられるが、この道筋は、高田馬場駅前交番の脇を入り、田島橋を渡って神田川に沿った道路(今より川がはるかに曲がりくねり、道も曲がりくねっていた)を進み、西武線の踏切を渡って氷川神社の脇から薬王院へ、さらにその門前から南に直角に曲がり、また西に向かって下落合駅に出たものだ。八百屋、魚屋、肉屋の通りは、放射七号線(新目白通り)の開通で店も通りもすべてなくなった。
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昭和初期、早稲田通りに面した栄通りの入口には交番があり、「薄気味わるい変電所」はもちろん目白変電所のことだ。興味深いのは、道路が崩れそうな旧・神田上水の渦巻きだろう。江戸期に釈敬順が『十方庵遊歴雑記』に記した、旧・神田上水の田島橋付近で見られた「犀が淵」と同様の急流による渦巻きが、昭和初期にもその近辺で発生していたようだ。ちなみに1931年(昭和6)当時は、下落合駅が前年7月に氷川社前から西(現在地)へ移転したばかりのころだ。
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落合の郷土史家竹田助雄氏の『落合小景』という文の中に、次のような一節がある。//【高田馬場駅を降りて……父と私は人通りの少ない曲りくねった砂利道を、連れ立って歩いた。/途中に薄気味わるい変電所があり、その前の橋を渡ると川がU字形に彎曲しているところがあった。U字型の此方(こっち)は路肩が崩れ落ち、道路の下をえぐるように渦を巻いて激しく流れていた。(中略) そこから杉木立の生い茂るお宮の前を通り、すこし行くと道は狭くなり、人通りは全く絶えて、絶えたところの森の中に茅葺家が数軒見えた。またすこし行くと鄙びた通りには、八百屋、魚屋、肉屋が一軒ずつあった。】// これは昭和六年の話である。竹田氏も解説しておられるが、この道筋は、高田馬場駅前交番の脇を入り、田島橋を渡って神田川に沿った道路(今より川がはるかに曲がりくねり、道も曲がりくねっていた)を進み、西武線の踏切を渡って氷川神社の脇から薬王院へ、さらにその門前から南に直角に曲がり、また西に向かって下落合駅に出たものだ。八百屋、魚屋、肉屋の通りは、放射七号線(新目白通り)の開通で店も通りもすべてなくなった。
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昭和初期、早稲田通りに面した栄通りの入口には交番があり、「薄気味わるい変電所」はもちろん目白変電所のことだ。興味深いのは、道路が崩れそうな旧・神田上水の渦巻きだろう。江戸期に釈敬順が『十方庵遊歴雑記』に記した、旧・神田上水の田島橋付近で見られた「犀が淵」と同様の急流による渦巻きが、昭和初期にもその近辺で発生していたようだ。ちなみに1931年(昭和6)当時は、下落合駅が前年7月に氷川社前から西(現在地)へ移転したばかりのころだ。




1962年(昭和37)の春に撮影された、その下落合駅の写真⑪も残されている。家族の背後に写る切符切りの駅員がいる改札の向こうには、当時の西武新宿線の電車が停車しているのが見える。また、古い写真類ではお馴染みの、柵沿いに設置された公衆電話ボックスも見えている。この駅舎は、わたしが落合地域を散策しはじめた1970年代半ばも変わらない風情だった。
写真⑫は、同時期に隣りの中井駅のホームで撮影されたものだ。ホームの南東側から、北西を向いてシャッターが切られており、ホームベンチの形状や、線路の北側に近接するアパートらしい家々の様子が懐かしい。また、鉄道広告の「宮田家具」も今日では見かけない看板だ。1962年(昭和37)の当時、宮田家具の総本店は中野にあり、中井駅の周辺にも支店を展開していたものだろうか。「横丁で地理的不便の為め!/都内随一の安売り/宮田家具」は、時代を感じさせるキャッチフレーズだ。不便な場所に開店しているから安くするよ……というのは、配達が前提の家具店にはそぐわないコピーだろう。「都内随一」は、現代なら広告コードにひっかかる禁止表現だ。
写真⑫は、同時期に隣りの中井駅のホームで撮影されたものだ。ホームの南東側から、北西を向いてシャッターが切られており、ホームベンチの形状や、線路の北側に近接するアパートらしい家々の様子が懐かしい。また、鉄道広告の「宮田家具」も今日では見かけない看板だ。1962年(昭和37)の当時、宮田家具の総本店は中野にあり、中井駅の周辺にも支店を展開していたものだろうか。「横丁で地理的不便の為め!/都内随一の安売り/宮田家具」は、時代を感じさせるキャッチフレーズだ。不便な場所に開店しているから安くするよ……というのは、配達が前提の家具店にはそぐわないコピーだろう。「都内随一」は、現代なら広告コードにひっかかる禁止表現だ。




落合第四小学校で開かれる運動会の写真は、ほぼ毎年撮影されている。写真⑬は1962年(昭和37)10月に撮影された秋の運動会、写真⑭は1963年(昭和38)撮影の春の運動会、写真⑮は1964年(昭和39)に撮影された春の運動会の画面だ。わたしが下落合を歩きはじめたころ、落合第四小学校の校舎は鉄筋コンクリート仕様(つまり現在の姿)になっており、写真に写る下見板張りの木造2階建て校舎は存在しなかった。同小学校は、二度にわたる山手大空襲からも焼け残り、写真にとらえられている校舎は1932年(昭和7)からつづいている建築だ。
写真⑮のPTAフォークダンスには、背景に樹木が鬱蒼と繁る御留山の濃い緑が見えている。この時期、御留山はいまだ公園化されておらず、敷地は東邦生命(旧・第一徴兵保険)のち大蔵省が所有して公務員宿舎「落合住宅」の建設予定地になったままだった。竹田助雄が前年(1962年)の夏、落合新聞の一面トップに「落合の秘境」と書いて報じていた時代とそのままシンクロする、リアルタイムの情景だ。木々は手入れがなされておらず、伸び放題だった様子が見てとれる。
写真⑮のPTAフォークダンスには、背景に樹木が鬱蒼と繁る御留山の濃い緑が見えている。この時期、御留山はいまだ公園化されておらず、敷地は東邦生命(旧・第一徴兵保険)のち大蔵省が所有して公務員宿舎「落合住宅」の建設予定地になったままだった。竹田助雄が前年(1962年)の夏、落合新聞の一面トップに「落合の秘境」と書いて報じていた時代とそのままシンクロする、リアルタイムの情景だ。木々は手入れがなされておらず、伸び放題だった様子が見てとれる。

最後の写真⑯は、しばらく考えてみてからわかった。右手に見えているのは、下落合駅前に建っていた「三楽ホテル」の一部であり、2階窓の手すりは赤いベンガラで塗られていただろう。画面の右上隅には、大きなシュロ(棕櫚)の葉の一部が見えている。現在、このシュロは伐られイチョウの大木のみが残されている。左手には、氷川明神の神輿か太鼓山車(曵太鼓)が見えており、三楽ホテルの前には宮元睦会によるお神酒所が設置されているのだろう。この正円形にカーブする道を奥へ進むと、関東バスが通う聖母坂通り(補助45号線)へと抜けられる、大正期まで小名「摺鉢山」と呼ばれたエリアだ。撮影者の左には宮沢製作所があり、下落合駅を利用するとき溶接の火花をよく目にした。左手には妙正寺川が流れ、西ノ橋をわたれば目の前が下落合駅だ。
下の子がカブスカウトに加入し活動していたため、三楽ホテルにはずいぶんお世話になっている。ホテルの前には、「〇〇学校修学旅行御一行様」というような、黒い板に白文字の手書きプレートが頻繁に立てられていたけれど、「宿泊は新宿のホテルだってよ!」と喜び勇んでやってくる修学旅行生たちには、ちょっとかわいそうな気がしていたのも正直なところだ。生徒たちは、きっと新宿駅西口あたりのパークハイアットやキンプトン、ハイアットリージェンシー、京王プラザのようなホテルをひそかにイメージしながら、ウキウキとやってきたのではないだろうか……。(汗)
下の子がカブスカウトに加入し活動していたため、三楽ホテルにはずいぶんお世話になっている。ホテルの前には、「〇〇学校修学旅行御一行様」というような、黒い板に白文字の手書きプレートが頻繁に立てられていたけれど、「宿泊は新宿のホテルだってよ!」と喜び勇んでやってくる修学旅行生たちには、ちょっとかわいそうな気がしていたのも正直なところだ。生徒たちは、きっと新宿駅西口あたりのパークハイアットやキンプトン、ハイアットリージェンシー、京王プラザのようなホテルをひそかにイメージしながら、ウキウキとやってきたのではないだろうか……。(汗)

ほかにも、野本様より貴重なアルバム4冊もお預かりしているので、十三間通り(新目白通り)工事が行われる以前、薬王院門前の商店街や氷川明神社の周辺に展開していた下落合の風景を、再びご紹介したいと考えている。また、わたしが写っていても不思議ではない、なんと夏の大磯で撮られた同時代の写真もあるので楽しみだ。貴重なアルバムをありがとうございました。>野本直揮様
<了>
<了>
◆写真:文中の空中写真以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。
★おまけ
1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として保存が決定する6年前の御留山の鳥瞰写真と、竹田助雄が「落合の秘境」として報じた落合新聞の1962年(昭和37)7月12日号。
★おまけ
1969年(昭和44)に「新宿区立おとめ山公園」として保存が決定する6年前の御留山の鳥瞰写真と、竹田助雄が「落合の秘境」として報じた落合新聞の1962年(昭和37)7月12日号。


この記事へのコメント
sakura
「宮田家具」どこかで聞いたような・・・?
と、確認したところ、1970年代池袋西口みずき通り、現在のパセラに「宮田家具」がありました。
また、池袋東口のキンカ堂並びにありました。どうりで!ですw
たぶん系列?支店だったのでしょうね。城北地区で手広く展開していたのでしょうね。
落合道人
中野を中心に、その近隣地域へ広く展開していた家具店のようですね。現在でも、がんばって営業をつづけているようですが。
中井駅の看板は、ヤマブキ色に近い黄色をベースに、黒と白の文字で構成されていたのではないでしょうか。看板によっては、黄色ベースの黒い太帯の中に、白抜き文字で大きく宮田家具と書いたものもあったように記憶しています。1980年ごろの家具店の看板を、色彩まで憶えているということは、学生だったわたしは何か家具調度を探してたのでしょうかね。w
てんてん
落合道人
そういえば若いころ、2級小型船舶免許を取得しようと思ったことがありました。
NO14Ruggerman
当時の氷川神社はご指摘の通り現在の新目白通りで削られてしまった部分には濃い樹林が存在していてそこでカブトムシを捕まえたことを思い出しました。
また缶蹴りで遊ぶには隠れるのに都合良く、なので鬼となってしまった時は厄介だった事もトラウマとして記憶が蘇りました笑
落合道人
わたしも、缶蹴りは死ぬほどやりました。当時は、フルーツ缶詰の缶が比較的高めで蹴りやすかったのですが、ときどきわざとクジラの大和煮缶とかサバの水煮缶、サケ缶とかを持ってくるヤツがいて、背が低く蹴りにくい缶も使っていたのを憶えています。鬼と駆けっこの競争になり、背の低い缶をあわてていて蹴りそこなうと、鬼に名前を呼ばれて缶を踏まれてしまいますので、スリルがほんの少しだけ上がりました。
第2弾の拙記事は、6月末からの連載予定で書いています。ご笑覧ください。