
先日、大正時代に出版された『日本霊異記』(日本古典全集刊行会)をお借りした野本直揮様より、1960年代の下落合風景が写るアルバムを見せていただいた。さっそく、当時の風景をご紹介したいが、わたしがもっとも興味を惹かれたのは、十三間通りの工事で全的に消えてしまった薬王院の門前町とでもいうべき商店街がとらえられている写真だ。
わたしが初めて下落合(現・中落合/中井含む)に足を踏み入れた高校時代、1970年代半ばにはすでに十三間通り(新目白通り)は貫通しており、そこにあった風景(地形や街並み、道筋など)はすべて消滅していた。したがって地図類や空中写真などでしか、それらをうかがい知ることができず、具体的な風景として脳裏には浮かんでこなかった。かろうじて、竹田助雄が消滅前の1960年代に撮影した、工事前後の目白文化村界隈や下落合駅近くの住宅街の写真は数葉見たことがあるが、さらに東寄りの町並みは空中写真を眺めながら想像するしかなかった。
ところが、野本直揮様のアルバム(以下 野本アルバム)には、十三間通りで消滅してしまった街並みや家々、あるいは後世に建て替えられ姿を変えてしまった街角の風景が随所にとらえられている。中には、いまだ1970年代から1980年代まで残っていた、わたしにも懐かしい街角も見えている。このように、まとまったアルバムというかたちで当時の貴重な街並みの風景が保存されているのは、目白通りでダット乗合自動車のバスガールをされていた、上原とし様のお嬢様である小川薫様が保存されてきたアルバム以来のことだ。
では、アルバムに貼付された写真から具体的に見ていこう。まず、野本様の実家は十三間通りの工事で立ち退きを迫られる以前、「野本糸綿店」を営んでいた。薬王院の門前町とでもいうべき商店街は、西武線が敷設された1927年(昭和2)ごろから形成されはじめていたようだ。当時の様子を、2006年(平成18)に発行された小冊子、杉森一雄『落合昔語り』(非売品)から引用してみよう。
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私が落合に来たころ、このへんはまだまわりの人口も少なくて、あたりは田んぼや空き地ばかりでした。その結果、友達も少なく、先輩もほとんどいない状況でした。/しかしそのうちに、少しずつ家も増えていきました。私の家のある薬王院のあたりを昔は下落合の本村(ほんむら)といっていました。(中略) 村というぐらいですから、当時はまだ何軒かかやぶき屋根の農家も残っていました。(中略) 本村は曲がりなりにもこのあたりの中心地ですから、氷川神社から高田馬場(田島橋)の方向に向かう道筋や、薬王院前の我が家からの前から西坂に向かう道には小さい店が何軒か並んで、いわば商店通りになっていました。/商店通りといっても、今のまち中の商店街などとはおよそ比較にもならない侘しいもので、昔の田舎の村役場前あたりに、小さな店が十何軒か並んでいる様子でも思い浮かべてみれば実物に近いといえるでしょう。小さな土間店に、家族が寝起きするための数畳の部屋がついた程度の、ほんとにちっぽけなお店がほとんどでした。
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著者は、高田馬場駅の東側駅前(現・駅前広場)にあたる諏訪町から、下落合(字)本村875番地へ転居してきており、茅葺き屋根の農家がぽつぽつ残る家並みに、子どもながらさびしい思いをしたようだ。昭和10年代の空中写真でも、いまだ空き地の多い商店街の様子が見てとれる。同小冊子には、昭和初期の薬王院門前にあった商店街を再現する店舗図版が掲載されている。
わたしが初めて下落合(現・中落合/中井含む)に足を踏み入れた高校時代、1970年代半ばにはすでに十三間通り(新目白通り)は貫通しており、そこにあった風景(地形や街並み、道筋など)はすべて消滅していた。したがって地図類や空中写真などでしか、それらをうかがい知ることができず、具体的な風景として脳裏には浮かんでこなかった。かろうじて、竹田助雄が消滅前の1960年代に撮影した、工事前後の目白文化村界隈や下落合駅近くの住宅街の写真は数葉見たことがあるが、さらに東寄りの町並みは空中写真を眺めながら想像するしかなかった。
ところが、野本直揮様のアルバム(以下 野本アルバム)には、十三間通りで消滅してしまった街並みや家々、あるいは後世に建て替えられ姿を変えてしまった街角の風景が随所にとらえられている。中には、いまだ1970年代から1980年代まで残っていた、わたしにも懐かしい街角も見えている。このように、まとまったアルバムというかたちで当時の貴重な街並みの風景が保存されているのは、目白通りでダット乗合自動車のバスガールをされていた、上原とし様のお嬢様である小川薫様が保存されてきたアルバム以来のことだ。
では、アルバムに貼付された写真から具体的に見ていこう。まず、野本様の実家は十三間通りの工事で立ち退きを迫られる以前、「野本糸綿店」を営んでいた。薬王院の門前町とでもいうべき商店街は、西武線が敷設された1927年(昭和2)ごろから形成されはじめていたようだ。当時の様子を、2006年(平成18)に発行された小冊子、杉森一雄『落合昔語り』(非売品)から引用してみよう。
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私が落合に来たころ、このへんはまだまわりの人口も少なくて、あたりは田んぼや空き地ばかりでした。その結果、友達も少なく、先輩もほとんどいない状況でした。/しかしそのうちに、少しずつ家も増えていきました。私の家のある薬王院のあたりを昔は下落合の本村(ほんむら)といっていました。(中略) 村というぐらいですから、当時はまだ何軒かかやぶき屋根の農家も残っていました。(中略) 本村は曲がりなりにもこのあたりの中心地ですから、氷川神社から高田馬場(田島橋)の方向に向かう道筋や、薬王院前の我が家からの前から西坂に向かう道には小さい店が何軒か並んで、いわば商店通りになっていました。/商店通りといっても、今のまち中の商店街などとはおよそ比較にもならない侘しいもので、昔の田舎の村役場前あたりに、小さな店が十何軒か並んでいる様子でも思い浮かべてみれば実物に近いといえるでしょう。小さな土間店に、家族が寝起きするための数畳の部屋がついた程度の、ほんとにちっぽけなお店がほとんどでした。
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著者は、高田馬場駅の東側駅前(現・駅前広場)にあたる諏訪町から、下落合(字)本村875番地へ転居してきており、茅葺き屋根の農家がぽつぽつ残る家並みに、子どもながらさびしい思いをしたようだ。昭和10年代の空中写真でも、いまだ空き地の多い商店街の様子が見てとれる。同小冊子には、昭和初期の薬王院門前にあった商店街を再現する店舗図版が掲載されている。


そしてもうひとつ、わたしが薬王院門前の商店街に惹かれていたのは、下落合の目白通り沿いや上落合の旧・八幡通沿いとは異なり、三間通りの北側がほとんど空襲の被害を受けておらず、昭和初期に形成された商店街の風情がそのまま戦後まで継承されていた点だ。他の幹線道路沿いや鉄道沿いの商店街は、激しい空襲にみまわれほぼ焦土と化しているが、薬王院門前の商店街北側は、上空から観察した限りでは奇跡的に被害を受けていない。
したがって、十三間通りの工事で消滅する以前、アルバムにとらえられている1960年代の商店街や家々は、戦後に形成された同時代の商店街の姿ではなく、昭和初期(戦前)に形成された下落合の商店街の面影を、色濃く残している風景の片鱗ということになる。すなわち、「下落合風景」シリーズの制作であちこち歩きまわる佐伯祐三も、いつもの『散歩道』や『墓のある風景』の丘上から久七坂を下り、この形成されはじめていた門前商店街の様子を眺めていた可能性が高いのだ。
したがって、十三間通りの工事で消滅する以前、アルバムにとらえられている1960年代の商店街や家々は、戦後に形成された同時代の商店街の姿ではなく、昭和初期(戦前)に形成された下落合の商店街の面影を、色濃く残している風景の片鱗ということになる。すなわち、「下落合風景」シリーズの制作であちこち歩きまわる佐伯祐三も、いつもの『散歩道』や『墓のある風景』の丘上から久七坂を下り、この形成されはじめていた門前商店街の様子を眺めていた可能性が高いのだ。



まず、冒頭の写真①から見ていこう。薬王院門前にあたる、東西につづく商店街を西から東を向き、1961年(昭和36)12月に撮影されたものだ。三間道路沿いで割烹着姿の女性ふたりが立ち話をしており、小さな子どもがふたり遊んでいる店舗が「野本糸綿店」(下落合2丁目875番地)の店先だ。小さな子どもの左側が、野本アルバムをお貸しいただいた野本直揮様ご本人だ。タイトルは「日向ぼっこ」とあるので、初冬のよく晴れた午前中の情景だろう。野本糸綿店の左(西)隣りは「橋本ブリキ(板金)店」、右(東)隣りは1960年(昭和35)作成の「全住宅案内帳」では「香蘭」となっているが中華料理の店舗だったようだ。その先が茂手木邸で、「上敷・ゴザ」の看板が見えているのが「中村畳店」、その先が恵比寿屋(下記の酒屋と同一?)、杉森瓦店とつづいている。
正面に見えているのは、「各種瓦販売工事請負/杉森瓦店」の大看板だが、戦前から戦後にかけ、この位置には消防分署と火の見櫓が設置されていた。1960年(昭和35)の「全住宅案内帳」には、写真の奥を南北に横切る薬王院山門前からの道路沿いに、「下落合消防署寮」(下落合2丁目876番地)が採取されている。そして杉森瓦店の大看板のある位置は、すでに同店の敷地となっており、消防署寮と杉森瓦店の間は山崎邸と記録されている。
「カルピス」の看板を背に、男女ふたりの人物が下落合駅方面へ歩いているが、カルピスを販売していたのは「伊藤酒店恵比寿屋」(少し前まで営業をつづけていた)、その向こうに見えている2階家が郷田邸(手前)と鈴木邸(奥)だ。ふたりの人物が歩く角地には、角にあたる敷地が蛭川邸、「調剤/クスリ」という看板が出ているのが「林薬局」(少し前まで開店していた)、その手前の西隣りが岡邸および羽島邸、さらに西隣りが有馬洋服店という並びで家並みがつづいていた。
正面に見えているのは、「各種瓦販売工事請負/杉森瓦店」の大看板だが、戦前から戦後にかけ、この位置には消防分署と火の見櫓が設置されていた。1960年(昭和35)の「全住宅案内帳」には、写真の奥を南北に横切る薬王院山門前からの道路沿いに、「下落合消防署寮」(下落合2丁目876番地)が採取されている。そして杉森瓦店の大看板のある位置は、すでに同店の敷地となっており、消防署寮と杉森瓦店の間は山崎邸と記録されている。
「カルピス」の看板を背に、男女ふたりの人物が下落合駅方面へ歩いているが、カルピスを販売していたのは「伊藤酒店恵比寿屋」(少し前まで営業をつづけていた)、その向こうに見えている2階家が郷田邸(手前)と鈴木邸(奥)だ。ふたりの人物が歩く角地には、角にあたる敷地が蛭川邸、「調剤/クスリ」という看板が出ているのが「林薬局」(少し前まで開店していた)、その手前の西隣りが岡邸および羽島邸、さらに西隣りが有馬洋服店という並びで家並みがつづいていた。


写真②は、翌1962年(昭和37)5月5日の子どもの日に店の前で撮影されたもので、昭和初期の店舗の様子がわかって興味深い。看板にもチラリと見えているように、寝具の布団づくりや布団の打ちなおしなどをメインに手がける店舗だったそうだ。写真③は、今度は店前から西を向いて撮影された記念写真だが、当時のトラックやミゼットらしい小型三輪自動車が停車している。トラックの停まっているいる向こう側あたりが「ツバメドライクリーニング」工場(やはり少し前まで営業をつづけていた)あたり、その先に見えているのが「崎京商事KK」、さらにその西隣りは「富田電気製作所KK」だろうか。ちなみに、手前の三輪車に乗っているのが野本直揮様だ。



写真④は、翌1963年(昭和38)の正月に店前で撮影された記念写真。再び、西側から東を向いてシャッターが切られている。時代はどんどんめぐり、高度経済成長時代を迎え、街角の風景から敗戦後の痕跡が急速に払拭されていく。写真⑤は、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)1月1日の元旦に店前で撮影された、一家勢揃いの記念写真。写真⑥も、同年の新学期がスタートしたばかりの4月16日に、店前で撮影された兄弟ふたりの記念写真だ。


ここで、「野本糸綿店」と中華料理「香蘭」の前にある、いつも記念写真にはその一部が写りこんでいる電柱の看板、「下落合医院」が気になってくる。数枚の写真から看板を子細に観察すると、「内科・小児科/外科・レントゲン/下落合医院/此の先氷川様/西武線踏切際」と書かれている。年代とともに、看板の文字が濃くなったり薄くなったりしているので、何度も塗り直されているのだろう。氷川明神の大鳥居前から、西武新宿線に向かって道なりに歩いた先にある踏み切りは、西武高田馬場駅から数えて現在は3つめとなっている「馬5」踏み切りだ。先述の「全住宅案内帳」(1960年)を参照すると、下落合1丁目85番地に下落合医院を見つけることができる。
当時の医院は、あまり専門領域には分かれず、内科でも外科でもなんでも診てくれていた憶えがある。わたしが子ども時代にかかっていた中村先生(中村医院)も、内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科など、どんな患者でも診察して器用に治療していた印象がある。下落合医院も、そんな街中の医者だったのではないだろうか。同医院は十三間通りの工事で全敷地がひっかかり、移転先は不明だ。いまは歩道橋が架かる、ちょうど南東側階段の下あたりが下落合医院の敷地だった。
当時の医院は、あまり専門領域には分かれず、内科でも外科でもなんでも診てくれていた憶えがある。わたしが子ども時代にかかっていた中村先生(中村医院)も、内科・外科・小児科・皮膚科・泌尿器科など、どんな患者でも診察して器用に治療していた印象がある。下落合医院も、そんな街中の医者だったのではないだろうか。同医院は十三間通りの工事で全敷地がひっかかり、移転先は不明だ。いまは歩道橋が架かる、ちょうど南東側階段の下あたりが下落合医院の敷地だった。

写真⑦は、やはり野本糸綿店前で野本様(右)と、近くの消防署寮に住む親友を撮影した落合第四幼稚園へ通う記念写真だ。店前から西を向いて撮影しており、ちょうど通りかかった女性が運転する1960年代の、フェンダーミラーが懐かしい自家用車もとらえられている。
1964年(昭和39)4月の撮影で、工事の騒音が街のあちこちで響く、東京五輪を半年後に控えた時期だ。多くの家庭では家電の「三種の神器」(TV・冷蔵庫・洗濯機)が普及し、余裕のある家庭では写真に見えるような自家用車の購入がブームになっていた。風景を観察すると、ややカーブ気味な道路の正面奥にとらえられている町工場のような建物は、富田電気製作所KKあるいは(有)食品落合営業所あたりの建屋だろうか。人物の影が西へ伸びているので、これも春の午前中の撮影だろう。


今回は、戦災をまぬがれ昭和初期に形成された商店街の雰囲気が残る、薬王院門前の東西通りにあった野本糸綿店と、その周辺に拡がる貴重な街角風景をご紹介してきたが、アルバムには十三間通りに削られる以前の氷川明神社の境内をはじめ、落合第四小学校の校庭、三楽ホテル、下落合駅、中井駅などの姿がとらえられている。それら貴重な風景は、次回の記事でご紹介したい。
<つづく>
<つづく>
◆写真:空中写真や図版以外は、すべて1960年代の野本アルバム(提供:野本直揮様)より。
★おまけ
1963年(昭和38)の空中写真を西寄り別角度から。店舗や家々が少し立体的に見えるだろうか。

この記事へのコメント
てんてん
落合道人
蕎麦は「金ざる」でも「竹ざる」で、とにかく茹でたてがうまいですね。
NO14Ruggerman
昨日のことはすぐ忘れる年齢に差し掛かりましたが60年前の記憶が鮮明に掘り起こされて感激に浸っております。次回もまた愉しみです。
なお恥ずかしながら写真⑦の右側が私本人で隣は消防署の家族寮に住まわれていた親友です。
落合道人
杉森様とは、確かカフェ「杏奴」で一度お会いしたことがあったかと思います。わたしの手もとにあります、『私たちの下落合』(落合の昔を語る集い/2006年)に収録された杉森様の「落合昔語り」には、昭和初期の商店街を描いた図版が掲載されていていませんでしたので、いただいた資料に収録されていた同図版はたいへん貴重に感じました。
今回の拙記事とは別に、第2弾としてもう一度アルバムに写る風景を、後日、ご紹介させていただければ幸いです。そこには現在は消えてしまった、あるいは目立たなくなってしまった落合風景が横溢していてたいへん貴重です。
写真⑦の件、たいへん失礼しました。かわいらしいので、近所の女の子だと思ってしまいました。(汗爆!) 文章をちょっとだけ修正しておきます。
英ちゃん
NO14Ruggermanさんからの紹介で寄らせてもらいました。
下落合は、私も少しだけ縁があります。
今から30年くらい前に勤務してた会社が下落合にありました。
今はもうその会社もなくなりましたけどね。
NO14Ruggermanと私はブログのオフ会で何度もお会いしてて親しくさせてもらってます。
落合道人
はじめまして。つい先月、NO14Ruggermanさんと知り合いまして、十三間通りが貫通する以前の貴重なアルバムをお貸しいただいています。落合地域というと、現在は住宅街のイメージが強いようですが、けっこういろいろな企業の本社が点在していましたね。
今後も、どうぞよろしくお願いいたします。