
今年の冬から春にかけ、武蔵国分寺跡の近くに残る鎌倉街道の上道(かみつみち)界隈を散策してきた。鎌倉街道の主要コースのひとつである上道は、鎌倉から横浜の瀬谷を通り、府中から久米川へと抜ける街道だ。ちなみに、鎌倉街道の下道(しもつみち)は鎌倉から川崎の丸子を通り、渋谷、江戸、浅草(湊)、松戸へと貫通する街道だった。
そして、下道の途中にある渋谷から分岐し、中野から王子、岩槻へと抜ける道筋が中道(なかつみち)と呼ばれる街道で、以上の3道が中世の鎌倉街道と呼ばれた基幹の大道路ということになる。中野の東にあたる落合周辺や、浅草以西の地域にも「鎌倉街道」と呼ばれる道筋が何本か存在しているけれど、それらは鎌倉街道から枝分かれした「鎌倉支道」とでもいうべき道筋らしいことが、近ごろの研究から明らかになりつつある。近くでは、戸山から下戸塚を通り雑司ヶ谷方面へと抜ける「鎌倉街道」が有名だが、その意味合いは「鎌倉時代に開かれた道筋」というニュアンスの名称であり、今日的にいうなら鎌倉支道のひとつということになるのだろう。
鎌倉街道のひとつである、上道(かみつみち)の現場を見たくなったので武蔵国分寺尼寺まで出かけてみた。これは、1回目の散策から帰宅後であと追いの知識となったが、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺のあった地点には8世紀ごろ拓かれた東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)も通っており、鎌倉街道上道と交叉する地点であることも知った。東山道武蔵路は、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺との間を割くように、南北に通っていた幅約10~12mで側溝も備えた直線状の大道路だが、鎌倉街道上道はほぼ現在の府中街道や武蔵野線沿いに敷設されていたとみられる。
東山道武蔵路は、現在の茅ヶ崎あたりから北上し、浜田(海老名)から店屋(町田)、国分寺(府中)を経由して足利氏の故地である足利、または分岐して徳川氏の故地である新田(世良田)方面へと抜けていく大道路だった。けれども、東山道武蔵路はその多くが消滅して一部しか現存しておらず、幹線道路としてはのちの鎌倉街道の開拓を待たねばならなかった。鎌倉街道は、今日では宅地化や農地化のせいで幅の狭い道筋になっている箇所が多いが、鎌倉を中心に坂東の騎馬武者軍団が迅速かつ容易に通行できるほどの規模は備えていたとみられる。
さて、武蔵国分尼寺跡の近くに残る鎌倉街道上道(かみつみち)だが、学術的な調査による街道の想定と、地元に伝わってきた街道の位置は必ずしも一致していない。地元で伝承されてきた街道筋は、「伝鎌倉街道」という名称がつけられ、発掘や出土物の分析など人文科学にもとづく正式な規定ではないことがわかる。鎌倉期には国分寺の伽藍はことごとく焼失していたので、武蔵国分尼寺の境内の南側から北側へ突っ切るように、伝鎌倉街道は拓かれていたことになる。武蔵国分尼寺の先には、いかにも鎌倉の山を開拓した切り通し状の道筋が丘陵を貫通しており、予備知識なしにそれだけ観察しても「鎌倉街道っぽい」という印象を受けただろう。
だが、この道筋がほんとうに鎌倉街道上道(かみつみち)なのか、それとも室町期以降に拓かれた新しい道筋で、のちに鎌倉街道上道と混同された“伝鎌倉街道”なのかは不明だが、地図や空中写真でこの道路を観察しているときに改めて気がついた。武蔵国分尼寺の北側にある、小丘を切り拓いた先には現在、集合住宅が何棟か建っているのだが、この一帯も武蔵台東遺跡として注目を集めている。下落合の落合遺跡と同じように、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代とつづく、人が住みつづけた複合遺跡(重層遺跡)として知られている。その遺跡地点を、戦後すぐのころの空中写真で眺めていたときだ。整然とした、幾何学的なフォルムが目についた。
そして、下道の途中にある渋谷から分岐し、中野から王子、岩槻へと抜ける道筋が中道(なかつみち)と呼ばれる街道で、以上の3道が中世の鎌倉街道と呼ばれた基幹の大道路ということになる。中野の東にあたる落合周辺や、浅草以西の地域にも「鎌倉街道」と呼ばれる道筋が何本か存在しているけれど、それらは鎌倉街道から枝分かれした「鎌倉支道」とでもいうべき道筋らしいことが、近ごろの研究から明らかになりつつある。近くでは、戸山から下戸塚を通り雑司ヶ谷方面へと抜ける「鎌倉街道」が有名だが、その意味合いは「鎌倉時代に開かれた道筋」というニュアンスの名称であり、今日的にいうなら鎌倉支道のひとつということになるのだろう。
鎌倉街道のひとつである、上道(かみつみち)の現場を見たくなったので武蔵国分寺尼寺まで出かけてみた。これは、1回目の散策から帰宅後であと追いの知識となったが、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺のあった地点には8世紀ごろ拓かれた東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)も通っており、鎌倉街道上道と交叉する地点であることも知った。東山道武蔵路は、武蔵国分寺と武蔵国分尼寺との間を割くように、南北に通っていた幅約10~12mで側溝も備えた直線状の大道路だが、鎌倉街道上道はほぼ現在の府中街道や武蔵野線沿いに敷設されていたとみられる。
東山道武蔵路は、現在の茅ヶ崎あたりから北上し、浜田(海老名)から店屋(町田)、国分寺(府中)を経由して足利氏の故地である足利、または分岐して徳川氏の故地である新田(世良田)方面へと抜けていく大道路だった。けれども、東山道武蔵路はその多くが消滅して一部しか現存しておらず、幹線道路としてはのちの鎌倉街道の開拓を待たねばならなかった。鎌倉街道は、今日では宅地化や農地化のせいで幅の狭い道筋になっている箇所が多いが、鎌倉を中心に坂東の騎馬武者軍団が迅速かつ容易に通行できるほどの規模は備えていたとみられる。
さて、武蔵国分尼寺跡の近くに残る鎌倉街道上道(かみつみち)だが、学術的な調査による街道の想定と、地元に伝わってきた街道の位置は必ずしも一致していない。地元で伝承されてきた街道筋は、「伝鎌倉街道」という名称がつけられ、発掘や出土物の分析など人文科学にもとづく正式な規定ではないことがわかる。鎌倉期には国分寺の伽藍はことごとく焼失していたので、武蔵国分尼寺の境内の南側から北側へ突っ切るように、伝鎌倉街道は拓かれていたことになる。武蔵国分尼寺の先には、いかにも鎌倉の山を開拓した切り通し状の道筋が丘陵を貫通しており、予備知識なしにそれだけ観察しても「鎌倉街道っぽい」という印象を受けただろう。
だが、この道筋がほんとうに鎌倉街道上道(かみつみち)なのか、それとも室町期以降に拓かれた新しい道筋で、のちに鎌倉街道上道と混同された“伝鎌倉街道”なのかは不明だが、地図や空中写真でこの道路を観察しているときに改めて気がついた。武蔵国分尼寺の北側にある、小丘を切り拓いた先には現在、集合住宅が何棟か建っているのだが、この一帯も武蔵台東遺跡として注目を集めている。下落合の落合遺跡と同じように、旧石器時代から縄文、弥生、古墳、奈良、平安時代とつづく、人が住みつづけた複合遺跡(重層遺跡)として知られている。その遺跡地点を、戦後すぐのころの空中写真で眺めていたときだ。整然とした、幾何学的なフォルムが目についた。


かなり大きな鍵穴のフォルムは、東側がJR武蔵野線の工事で一部崩されているが、後円部の直径が約110mほど、前方部とみられるフォルムを含めると全長215mほどの前方後円墳のかたちをきれいに残している。羨門部は北北西を向いており、その丘上には「祥應寺」という寺院が建立されていたという伝承が残っている。これは『新編武蔵風土記稿』にも掲載されていて、かなり以前からつづいていた地元の伝承とみられる。なお、祥應寺は国分寺市本多に現存する黄檗宗の禅寺で、二度にわたり伝祥應寺跡を発掘したところ鎌倉期とみられる建物跡が確認されたため、丘上の遺跡は移転以前の元祥應寺跡ではないかと推定されるようになった。
現在、後円部の中央には伝鎌倉街道(上道)とされる道筋が、両側が崖状に切り立った切り通しのように貫いており、丘全体が武蔵国分尼寺つづきの緑地公園のようなかたちで保存されている。厳密にいつの時代かは不明だが、伝鎌倉街道の切り通しが拓かれただけで、後円部とみられる墳丘がよく保存されているのは、自治体による緑地保存や文化財保存の施策ゆえんだろう。武蔵国分尼寺からつづく、古くからあると思われる道筋(元は農道?)は、この墳丘をまわりこむように南西側の正円形をなぞりながら北上している。それは、ちょうど下落合駅前にあった摺鉢山の小名を囲むように残る、北上する半円の道筋と非常によく似ている。
また、前方部とみられる低めな丘は、比較的地面が平坦つづきなせいか、戦後すぐのころから早くも宅地開発が進んでいたようで、1947年(昭和22)の米軍F13が爆撃効果測定用に撮影した空中写真には、すでに格子状の道路が敷設されているのが確認できる。現在は、その上に府中武蔵台二丁目第2アパートの3階建て集合住宅群が建設されている。墳丘を貫通する切り通し=伝鎌倉街道が、江戸期以前に敷設されたものであるなら、おそらく羨道や玄室の石材、あるいは石棺やそこに納められていたとみられる副葬品は、とうに散逸してしまっただろう。
さて、武蔵国分尼寺の北側にある上記のフォルムを、鎌倉街道上道(かみつみち)がらみで観察していたら、武蔵野線と府中街道をはさんだ東側にも、大きな正円の盛り上がりがあるのに気づいた。こちらは、鎌倉時代ではなく8世紀ごろに造成された、東山道武蔵路がらみのハケ(崖線)沿いに位置している。ただし、この大きな正円のふくらみは宅地開発の前までは確認できるが、ここに住宅街が形成されてからはほとんど姿を消してしまっている。すなわち、1950年代初期のころから徐々に地形を変える宅地造成が進捗して住宅が建ちはじめ、1960年代の初期にはすでに住宅街と呼んでもいいほど建物が密に建ち並んでいる。
上空から見える大きなサークルは、直径が約140mほどもあり、上記の鍵穴型フォルムの後円部よりもさらに大きい。そして、大きな正円形の盛り上がりの西南西の方角には、それに寄り添うように突起がもうひとつ見えている。これが主墳の端に築かれた陪墳なのか、それとも大きな古墳らしいサークルの一部なのかは不明だ。なぜなら、大きなサークルと陪墳のように見える突起との間には、先述した奈良期の東山道武蔵路が通っていたのであり、のちの伝鎌倉街道ほど深く切り立った切り通し開拓ではないが、地面が凹状に掘られた形跡が発掘調査で判然としているからだ。
現在、後円部の中央には伝鎌倉街道(上道)とされる道筋が、両側が崖状に切り立った切り通しのように貫いており、丘全体が武蔵国分尼寺つづきの緑地公園のようなかたちで保存されている。厳密にいつの時代かは不明だが、伝鎌倉街道の切り通しが拓かれただけで、後円部とみられる墳丘がよく保存されているのは、自治体による緑地保存や文化財保存の施策ゆえんだろう。武蔵国分尼寺からつづく、古くからあると思われる道筋(元は農道?)は、この墳丘をまわりこむように南西側の正円形をなぞりながら北上している。それは、ちょうど下落合駅前にあった摺鉢山の小名を囲むように残る、北上する半円の道筋と非常によく似ている。
また、前方部とみられる低めな丘は、比較的地面が平坦つづきなせいか、戦後すぐのころから早くも宅地開発が進んでいたようで、1947年(昭和22)の米軍F13が爆撃効果測定用に撮影した空中写真には、すでに格子状の道路が敷設されているのが確認できる。現在は、その上に府中武蔵台二丁目第2アパートの3階建て集合住宅群が建設されている。墳丘を貫通する切り通し=伝鎌倉街道が、江戸期以前に敷設されたものであるなら、おそらく羨道や玄室の石材、あるいは石棺やそこに納められていたとみられる副葬品は、とうに散逸してしまっただろう。
さて、武蔵国分尼寺の北側にある上記のフォルムを、鎌倉街道上道(かみつみち)がらみで観察していたら、武蔵野線と府中街道をはさんだ東側にも、大きな正円の盛り上がりがあるのに気づいた。こちらは、鎌倉時代ではなく8世紀ごろに造成された、東山道武蔵路がらみのハケ(崖線)沿いに位置している。ただし、この大きな正円のふくらみは宅地開発の前までは確認できるが、ここに住宅街が形成されてからはほとんど姿を消してしまっている。すなわち、1950年代初期のころから徐々に地形を変える宅地造成が進捗して住宅が建ちはじめ、1960年代の初期にはすでに住宅街と呼んでもいいほど建物が密に建ち並んでいる。
上空から見える大きなサークルは、直径が約140mほどもあり、上記の鍵穴型フォルムの後円部よりもさらに大きい。そして、大きな正円形の盛り上がりの西南西の方角には、それに寄り添うように突起がもうひとつ見えている。これが主墳の端に築かれた陪墳なのか、それとも大きな古墳らしいサークルの一部なのかは不明だ。なぜなら、大きなサークルと陪墳のように見える突起との間には、先述した奈良期の東山道武蔵路が通っていたのであり、のちの伝鎌倉街道ほど深く切り立った切り通し開拓ではないが、地面が凹状に掘られた形跡が発掘調査で判然としているからだ。

武蔵野市教育委員会によって行われた調査では、第37次・第49次・第135次・第699次・第704次の計5回にわたって、この地点およびハケ(崖)下を発掘しているが、できるだけ道路の高低をなくし坂の傾斜角を緩めるために、崖線および丘上を掘削しているのが明らかになった。また、住宅地となった現在でも、その凹状の掘削跡をハッキリと確認することができる。したがって、陪墳なのか大きなサークルすなわち主墳の一部なのかは現状では判断できない。ただし、西南西にある小さな突起が大きなサークルの一部だとすれば、面白いかたちが現れる。
現在の住宅地に敷設されている道路も、この突起に沿った面影を残しているが、大きなサークルと小さな突起を一体化して考えると、羨門を西南西に向けた前方後円墳で、しかも前方部が三味のバチ型をしているのがわかる。古墳ファンならおわかりだろうが、三味のバチ型をした古墳は3世紀末から4世紀初期にかけて築造された、もっとも古い時代の前方後円墳とみられているフォルムだ。しかも、南側の後円部と前方部の接合部には、造り出しとみられる突起も空中写真から見てとれる。ただし、現地を歩いてみたが現在の道筋は三味のバチ型を残してはおらず、また造り出しらしい突起部も大規模な宅地造成で姿を消している。この事例も、関東地方に大型古墳が数多く存在していてはマズイと考える史観・思想の薩長政府による、「官令達 乙部第百廿号」通達によって破壊され、急速に農地化が進められた古墳のひとつだろうか。
もうひとつの考え方は、2013年(平成25)に行われた第704次発掘調査の報告では、大きなサークル横の切れこみ(凹状地形)を東山道武蔵路の開拓跡とは別に、国分寺崖線の形成時における自然渓谷=開析谷(かいせきこく)の跡が含まれると規定している。換言すれば、開析谷に沿って東山道武蔵路は拓かれたと考察している。したがって、大きなサークルと西南西側の突起はそれぞれ独立した存在ということになり、先述の主墳と陪墳の関係が有力になるだろうか。ただし、その場合は大きな正円状の突起が円墳なのか、前方後円墳あるいはホタテ貝式古墳なのかが不明だ。もし前方部があるとすれば、地形からいって北側になるのではないだろうか。以下、第704次調査報告の概略を、2017年(平成29)に国分寺市教育委員会から出版された、『古代道路を掘る―東山道武蔵路の調査成果と保存活用―』から、少しだけ引用してみよう。
▼
第704次調査区北側の開析谷(かいせきこく)は、谷頭から麓の湧水源に向かって緩やかに傾斜しており、測量地形図から算出される角度は推定で7.6度です。国分寺崖線側の開析谷を取り入れた狙いは、大規模な切り通し工事の労力を省く目的があったと考えられます。/東山道武蔵路のルート設定の際は、水を得られる場所、自然の地形、道路の直進性、作業効率など、様々な要素について検討されたことでしょう。(カッコ内引用者註)
▲
ただし、関東ロームの地下を流れる水脈は、ときどきルートを変えることがある。もし、数百年単位の時間が流れ、国分寺崖線の高台に深い掘削作業(羨道および玄室の設置)を含む、大規模な工事によって築造された古墳の下で、地下水脈の流路が変わり湧水が噴出するような変化が起きれば、おそらく羨道の石材は流出するか玄室は水没し、築造した古墳の墳丘土砂を削りとり、あるいは土砂崩れを起こしながら、自然谷戸のように見える開析谷が形成された可能性はないだろうか。換言すれば、地下水の流路が古墳期の崖地掘削工事で変わり、湧水が噴き出して形成された新しい谷戸、あるいは土砂崩れ跡を東山道武蔵路のルートとして利用した可能性はないだろうか。
現在の住宅地に敷設されている道路も、この突起に沿った面影を残しているが、大きなサークルと小さな突起を一体化して考えると、羨門を西南西に向けた前方後円墳で、しかも前方部が三味のバチ型をしているのがわかる。古墳ファンならおわかりだろうが、三味のバチ型をした古墳は3世紀末から4世紀初期にかけて築造された、もっとも古い時代の前方後円墳とみられているフォルムだ。しかも、南側の後円部と前方部の接合部には、造り出しとみられる突起も空中写真から見てとれる。ただし、現地を歩いてみたが現在の道筋は三味のバチ型を残してはおらず、また造り出しらしい突起部も大規模な宅地造成で姿を消している。この事例も、関東地方に大型古墳が数多く存在していてはマズイと考える史観・思想の薩長政府による、「官令達 乙部第百廿号」通達によって破壊され、急速に農地化が進められた古墳のひとつだろうか。
もうひとつの考え方は、2013年(平成25)に行われた第704次発掘調査の報告では、大きなサークル横の切れこみ(凹状地形)を東山道武蔵路の開拓跡とは別に、国分寺崖線の形成時における自然渓谷=開析谷(かいせきこく)の跡が含まれると規定している。換言すれば、開析谷に沿って東山道武蔵路は拓かれたと考察している。したがって、大きなサークルと西南西側の突起はそれぞれ独立した存在ということになり、先述の主墳と陪墳の関係が有力になるだろうか。ただし、その場合は大きな正円状の突起が円墳なのか、前方後円墳あるいはホタテ貝式古墳なのかが不明だ。もし前方部があるとすれば、地形からいって北側になるのではないだろうか。以下、第704次調査報告の概略を、2017年(平成29)に国分寺市教育委員会から出版された、『古代道路を掘る―東山道武蔵路の調査成果と保存活用―』から、少しだけ引用してみよう。
▼
第704次調査区北側の開析谷(かいせきこく)は、谷頭から麓の湧水源に向かって緩やかに傾斜しており、測量地形図から算出される角度は推定で7.6度です。国分寺崖線側の開析谷を取り入れた狙いは、大規模な切り通し工事の労力を省く目的があったと考えられます。/東山道武蔵路のルート設定の際は、水を得られる場所、自然の地形、道路の直進性、作業効率など、様々な要素について検討されたことでしょう。(カッコ内引用者註)
▲
ただし、関東ロームの地下を流れる水脈は、ときどきルートを変えることがある。もし、数百年単位の時間が流れ、国分寺崖線の高台に深い掘削作業(羨道および玄室の設置)を含む、大規模な工事によって築造された古墳の下で、地下水脈の流路が変わり湧水が噴出するような変化が起きれば、おそらく羨道の石材は流出するか玄室は水没し、築造した古墳の墳丘土砂を削りとり、あるいは土砂崩れを起こしながら、自然谷戸のように見える開析谷が形成された可能性はないだろうか。換言すれば、地下水の流路が古墳期の崖地掘削工事で変わり、湧水が噴き出して形成された新しい谷戸、あるいは土砂崩れ跡を東山道武蔵路のルートとして利用した可能性はないだろうか。


武蔵野線の西側にある鍵穴型は、現地を歩いてみると見事に保存されているのがわかるが、鉄道をはさんだ東側の小突起や大きなサークルは、宅地造成で全的に崩され削りとられていた。かろうじて面影を残しているのは、サークルに沿うように敷設された道筋のカーブだけになっている。
◆写真上:敷設前の武蔵野線と府中街道をはさみ、東西に見える古墳らしい大きなフォルム。
◆写真中上:上は、墳丘とみられる後円部を貫通する伝鎌倉街道。中上は、切り通し上から見下ろした伝鎌倉街道(写真下の左右道路)で、正面の階段は丘上に建立されていたと伝わる元祥應寺跡への登り口。中下・下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。伝鎌倉街道が、前方部東側の墳丘下に沿って拓かれている様子がよくわかる。
◆写真中下:上は、墳丘上に築かれたとみられる伝祥應寺跡の現状。中上は、前方部とみられる丘を開発・整地して建てられている府中武蔵台二丁目第2アパート群。中下は、武蔵国分寺文化財資料室に展示されている伝鎌倉街道と東山道武蔵路(黄線)との位置関係。下は、武蔵野線や府中街道の東側に見える大きなサークルがあった国分寺崖線を南側から。
◆写真下:上・中上は、1947年(昭和22)に撮影された武蔵野線(敷設前)や府中街道の東側に見える大きなサークルや西南西の突起地形。中下は、道路が凹状に落ちこんでいる東山道武蔵路の敷設跡。下は、現在でもかろうじて道筋のカーブを見ることができる大きなサークルの痕跡。正面の遠景に見える丘陵は、武蔵野線の西側にある伝鎌倉街道が通う鍵穴フォルムの後円部。
★おまけ
国分寺崖線沿いでも、目白崖線と同様にタタラ(大鍛冶)遺跡が発掘されている。鉄滓(スラグ=鐵液・金糞)をはじめ、溶炉に付属して使用された鞴(ふいご)の大きな羽口も出土している。
◆写真中上:上は、墳丘とみられる後円部を貫通する伝鎌倉街道。中上は、切り通し上から見下ろした伝鎌倉街道(写真下の左右道路)で、正面の階段は丘上に建立されていたと伝わる元祥應寺跡への登り口。中下・下は、1947年(昭和22)撮影の空中写真にみる同所。伝鎌倉街道が、前方部東側の墳丘下に沿って拓かれている様子がよくわかる。
◆写真中下:上は、墳丘上に築かれたとみられる伝祥應寺跡の現状。中上は、前方部とみられる丘を開発・整地して建てられている府中武蔵台二丁目第2アパート群。中下は、武蔵国分寺文化財資料室に展示されている伝鎌倉街道と東山道武蔵路(黄線)との位置関係。下は、武蔵野線や府中街道の東側に見える大きなサークルがあった国分寺崖線を南側から。
◆写真下:上・中上は、1947年(昭和22)に撮影された武蔵野線(敷設前)や府中街道の東側に見える大きなサークルや西南西の突起地形。中下は、道路が凹状に落ちこんでいる東山道武蔵路の敷設跡。下は、現在でもかろうじて道筋のカーブを見ることができる大きなサークルの痕跡。正面の遠景に見える丘陵は、武蔵野線の西側にある伝鎌倉街道が通う鍵穴フォルムの後円部。
★おまけ
国分寺崖線沿いでも、目白崖線と同様にタタラ(大鍛冶)遺跡が発掘されている。鉄滓(スラグ=鐵液・金糞)をはじめ、溶炉に付属して使用された鞴(ふいご)の大きな羽口も出土している。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
しばらく墓参りをさぼっていますので、そろそろ参らなければ。