佐伯祐三のキタナイ風景と二瓶等のキレイな風景。

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 下落合584番地にアトリエをかまえた、二瓶等(二瓶徳松・二瓶等観)の個展が1927年(昭和2)10月に札幌で開催されている。渡欧するため、「欧遊告別洋画展覧会」とタイトルされた個展は、同年の10月22日(土)から26日(水)までの5日間のスケジュールで開かれた。展示されていたのは、下落合415番地の近衛町に住んだ今井武七・今井清七親子が経営していた、札幌の今井呉服店(今井デパート本店)の5階にある展示会場だった。
 二瓶等の渡欧で留守となった二瓶アトリエには、当初、目白中学校の美術教師だった清水七太郎の紹介で、茅ヶ崎で療養中の萬鉄五郎が入居する予定だったが、萬が急死したため落合第三府営住宅24号(下落合1599番地)に住んでいた江藤純平が、1927年(昭和2)から借りて住んでいる。江藤純平は1931年(昭和6)まで住んだが、同年からは手島貢がアトリエを借りて制作していた。
 二瓶等(二瓶徳松)は、下落合にアトリエを建てて転居してきた当初は、中村彝のアトリエへ足しげく通い、『女の像(少女像)』(鈴木良三の証言によれば俊子ちゃん像)を購入していたようだが、下落合623番地にアトリエを建てた曾宮一念や、東京美術学校で1年間だけ同級生だった佐伯祐三が、下落合661番地にアトリエを建てて転居してくると、彼らのもとにも頻繁に顔を見せている。特に同輩だった佐伯とは親しく、佐伯家の女中だった「アキや」をモデルに、米子夫人を意識する彼女を考慮してか、おそらく二瓶アトリエで裸像を描いている。
 1923年(大正12)の前半に描かれたとみられる、豊満な「アキや」をモデルにした人物画だが、上記の「欧遊告別洋画展覧会」目録を見ると、同年にはそれらしい作品の『女』と『裸女(一)』の2点が掲載されている。ただし、翌1924年(大正13)の第5回帝展に入選していた作品に『裸女(二)』(価格も600円と目録の中ではとび抜けて高い)があるので、前年の『裸女(一)』が同一モデルによるバリエーション作だとすれば、「アキや」をモデルに描いた人物像は、もう1作の『女』のほうではないかという気がする。1924年(大正13)には、すでに佐伯祐三は渡欧してフランスに滞在しており、「アキや」は暇をだされて下落合には不在だったろう。
 当時の北海道札幌市で開かれていた美術展覧会について、1981年(昭和56)に札幌市教育委員会が編纂した『札幌の絵画(さっぽろ文庫/17巻)』がある。同書より、少しだけ引用してみよう。
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 当時の個展を列挙してみると、「平澤大暲個展」(昭和二年、今井呉服店)、「二瓶等渡欧告別展」(同二年、今井呉服店)、「上野春香氏渡欧送別展」(同三年、札幌商工会議所)、「上野山清貢氏歓迎展覧会」(同四年、農業館)、「久保守氏渡欧告別展」(同四年、豊平館)、「二瓶等渡仏後の作品展」(同四年、札幌商工会議所)、「上野春香氏滞欧洋画作品展」(同五年、今井記念館)などがある。その後も、熊勢真美、山崎省三、三岸好太郎、澤枝重雄、山田正、高木黄史、菊池精二、田中忠雄、桜庭彦治、長谷川昇、小川マリ、小山昇らが次々と個展を開いている。
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 この記録でもわかるように、二瓶等は故郷の北海道で機会があれば頻繁に展覧会を開いていたのがわかる。なお、上記の画家たちのなかで、春陽会の山田正は近くの戸塚町(現・高田馬場)に住み『落合風景』(1926年)を描いているが、いまだ発見できていない作品のひとつだ。また、平澤大暲は「帝銀事件」のテンペラ画家・平沢貞通のことで、戦後すぐのころ下落合4丁目2015番地(現・中井2丁目)界隈に住んでいたとみられる、鎌田りよの自伝とともに拙サイトでもご紹介していた。
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 二瓶等の「欧遊告別洋画展覧会」目録を眺めていると、もうひとつ面白いことに気づく。佐伯祐三は、現存する作品を確認するかぎり、1926年(大正12)の8月以前から、「下落合風景」シリーズの制作に取り組んでいるのが判然としているが(1926年9月1日に撮影された東京朝日新聞の記者会見写真)、二瓶等もまた、1926年(大正15)の後半期から、下落合の風景画を制作しはじめている点だ。「欧遊告別洋画展覧会」目録には、1926年(大正15)の作品として8点のタイトルが挙げられているが、この作品目録が制作順だとすれば(二瓶等自身がリストをつくっていると思われ、タイトルの季節感からその可能性が高い)、同年の暮れから急に風景画を制作しはじめている。同年の末尾に挙げられている、『東京近郊の冬(一)(二)』の2点がそれだ。
 それまでの二瓶等は、おもに静物画か人物画が主体だったにもかかわらず、急に風景画に取り組みはじめたのは、第1次滞仏からもどった佐伯の影響が強かったのではないかと思えてならない。二瓶は佐伯アトリエを訪ね、さっそく滞仏作品や制作をスタートしていた「下落合風景」シリーズを観ているのではないか。上記の『東京近郊の冬』というタイトルから、自身のアトリエがある下落合を中心に、その周辺域をモチーフにして描いているとみられる。
 だが、この15年近く探しつづけているけれど、二瓶等が描いた連作「下落合風景」らしき作品は、その画面の痕跡すら見つけることができない。少なくとも、「欧遊告別洋画展覧会」では各作品に値がつけられ販売されているので、札幌かその周辺域で購入されれば保存されているのではないかと思われるのだが、ついにそれらしい情報は得られなかった。
 二瓶等は、中村彝に師事していたので、それまではルノワールやセザンヌなどの表現に近い画面を制作しているとみられるが、1926年(大正15)の暮れあたりから描きはじめた風景画を観察できれば、フランス帰りのフォーヴィズムの洗礼を受けた佐伯祐三からの影響も確認できると思われるのだ。同年から翌1927年(昭和2)にかけ、風景画とみられる作品はおよそ13点も数えることができ、にわかに風景画家になってしまったような感さえある。しかも、アトリエ近辺を描いていることはタイトルからもうかがえ、『早春の目白』や『近衛町(東京)』などが含まれている。
 作品のタイトルから想定すれば、二瓶等の風景画は自身のアトリエがある目白駅に近いエリア、すなわち下落合(現・中落合/中井含む)の中部や西部に比べ市街地化が相対的に早かった、下落合の東部を描いている可能性の高いことがわかる。そこには、華族の大邸宅をはじめ、大正中期から開発がスタートした愛隣園や、近衛町などに象徴的な西洋館群が建ち並んでいた。
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 また、中村彝アトリエの南側一帯、ことに東邦電力が開発した林泉園界隈には、洋風のオシャレなテラスハウスや大きめな洋風住宅が見られただろう。二瓶等が目にしていた近衛町などの洋風住宅は、そのいくつかを「惹かれる建物の邸内拝見」でもご紹介しているので、よく似た邸宅をモチーフにしている絵画にお気づきの方(特に北海道在住の方?)は、コメント欄へご連絡いただければと思う。清水多嘉示のケースと同様に、滞仏作品だと思われていた西洋館を含む風景作品が、実は下落合の風景だったという可能性も大いに考えられるからだ。
 佐伯祐三は、おもに下落合(現・中落合/中井含む)の中部から西部、大正末から昭和初期にかけ特に工事中や造成中だった、通常の画家なら選びそうもない「絵にならない風景」=“キタナイ”場所ばかりをモチーフに選んで制作している。だが、二瓶等は佐伯の「下落合風景」とあえて差別化するためだろうか、豪華で“キレイ”な住宅街として落ち着きを見せはじめていた、下落合の東部を中心に描いているように思われる。それは、彼が中国にわたってから描いた風景作品(特に建築物が描かれた画面)を観ても、およそ想定できる眼差しではないか。
 上掲の札幌市教育委員会が作成した資料のように、二瓶等が頻繁に札幌で展覧会を開いていたのは、彼が1914年(大正3)の北海中学校(現・北海高等学校)の美術部時代に、仲間と結成した美術クラブ「団栗会」(現・どんぐり会)の存在、および同会の展覧会が毎年札幌で開かれていたからだ。団栗会については、以前の記事で二瓶等(当時は二瓶等観)自身の文章をご紹介していたが、今回は1986年(昭和61)に北海百年史編集委員会から出版された、『北海百年史』から引用してみよう。
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 一九一五(大正四)年九月三日から五日にかけて、北一条西六丁目のローリー館で北中の美術部にあたる団栗会(のち、どんぐり会)の第一回校外展が開かれた。「団栗画会」と題する新聞報道によれば、「昨三日より本日午後五時迄開催の同会は出品数約百点以上にて盛況なるが尚岡、林、平澤、小寺、船木、故浅井、有島、竹久諸氏の特別出品もあり本日は日曜のことなれば定めし盛会なるべし<中略>」とある。文中、「岡」は岡精一<略>、「林」は林竹治郎<略>、「平澤」は平澤大暲<略>、「小寺」は小寺健吉<略>、「有島」は有島武郎<略>、「竹久」は竹久夢二<略>と思われる。一〇〇点を越える出品数の多さや当代一流の画家たちの特別出品があったことなどから推して、北中団栗会は周辺の絵画グループとのかなり広い交流とそれが可能なだけのレベルを維持していたといえるであろう。(< >内引用者註)
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 北海道は、もともと美術展が盛んに開かれていた地域で、昔から美術ファンが多かった土地がらのようだ。そのような家庭のどこかに、「これは曽祖父ちゃんが札幌で買った、二瓶等という画家が描いたフランス風景だよ」というような伝承とともに、西洋館の描かれたキレイな風景画が壁に架けられてやしないだろうか。それは、ひょっとすると昭和初期の「下落合風景」かもしれない。

◆写真上:明治末に撮影されたとみられる、北海中学校の校舎と生徒たち。
◆写真中上:上は、1918年(大正7)の東京美術学校入学者名簿。入学時は佐伯祐三と同級だが、二瓶等(二瓶徳松)はほどなく退学し翌1919年(大正8)に再入学している。中左は、1927年(昭和2)10月開催の「欧遊告別洋画展覧会」目録。中右は、1915年(大正4)9月5日に撮影された二瓶徳松(二瓶等)。下は、下落合584番地の二瓶アトリエ跡。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)制作の第5回帝展に入選した二瓶等『裸女(二)』。中は、「欧遊告別洋画展覧会」目録の1923年(大正12)制作の展示作品。下は、同目録の1926年(大正15)から1927年(昭和2)の制作リストにみる下落合の風景画らしい作品群。
◆写真下:上は、昭和初期にフランスへ遊学した際に描かれたとみられる二瓶等『ポンヌフ橋』。中は、1901年(明治34)ごろに撮影された創立まもない北海中学校の新築校舎。下は、1943年(昭和18)に札幌の三越デパートで開催された第34回・団栗会展の会場風景。

この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年08月20日 21:59
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    先日、川沿いの道で「てんてん君」と同じリクガメを、散歩させている方に会いました。
    2026年08月21日 14:56

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