
1922年(大正11)4月、近衛篤麿邸跡を開発していた東京土地住宅の常務・三宅勘一は、同敷地の分譲地を「近衛町」と名づけて販売をスタートしている。それにともない、近衛篤麿邸(近衛旧邸)は解体されるが、近衛一家が住むための新たな邸宅の建設が、目白中学校の南側敷地、下落合432~456番地で清水組(現・清水建設)によって進められていた。
きょうは、1929年(昭和4)11月に下落合436番地の近衛新邸が竣工すると、ほどなく解体されてしまい、わずか7年間ほどしか存在しなかった幻の近衛文麿邸について書いてみたい。この邸宅については、これまでわたしの知るかぎり、地図上に記載されていたのは戦後まで修正がつづけられていた、日本地形社の1/3,000地形図のみだ。そして、清水建設情報資料センターには、清水組が作図した邸宅の各種図面の多くが保存されている。
近衛篤麿邸(近衛旧邸)でも近衛新邸でもない、この約7年間だけ存在していた暫定的な下落合の近衛邸を、目白中学校の校庭南側にあたる敷地に建設されているので、とりあえず便宜的な呼称として「近衛目白中学邸」とする。だが、暫定的な邸と表現するには、かなり大きくて豪華な2階建ての西洋館であり、清水組による側面図や平面図、詳細な間取り図、調度図などが残されていた。まずは、近衛目白中学邸の建物配置図から見てみよう。
図面は、1922年(大正11)10月10日に製図されたものであり、翌1923年(大正12)11月11日に転写されたという日付が確認できる。このタイムスタンプだけでは、同邸がいつ竣工したのかが不明だが、少なくとも東京土地住宅が近衛町の販売を開始する1922年(大正11)4月の段階で、近衛篤麿邸(近衛旧邸)が解体を終えていたとすれば、すでに近衛目白中学邸は居住できるような状態まで建設が進捗していないと、近衛家は路頭に迷うことになってしまう。したがって、建物配置図は同邸の工事があるいてど進捗したあとに、改めて作図されている可能性が高い。
まず、邸への当初の広めなアプローチは近衛町通り側、すなわち東側に設けられていた。入口から西へ90mほど進むと正門があり、門を入ると正面にはやや高くなった車寄せのある、東を向いた玄関があった。玄関のある棟は、外壁がモルタルづくりだとみられるが、母家は棟によってはモルタルと下見板張りの外壁が混在するような設計になっていた。側面図を参照すると、北側の外壁はモルタルが多く、南側の外壁には下見板張りが多かったような印象だ。
1922年(大正11)の建設当初は、東側の近衛町通りから舟橋家による住宅開発地の北辺沿いに、西へ向かうアプローチ通路が拓かれ、玄関のあるエントランスへと入れる外構だった。だが、1926年(大正15)に目白中学校が上練馬村高松2305番地へ移転すると、近衛町通りを経由せず目白通りから左折(南折)して100mほどで、邸内に直接入れる北門が設置されている。この目白通りからのアプローチは、日本地形社の1/3,000地形図のみに採取されている外構だ。また、目白中学校の跡地に造られた北門へといたる道筋と平行して、東側には近衛篤麿の四男で有島生馬へ師事し、一時期は洋画家をめざしていた近衛忠麿、のち水谷川忠麿邸(下落合451番地)への目白通りからのアプローチが造られている。
近衛目白中学邸の建物配置は、母家を中心に北側には東から西へ大きな倉庫が1棟、車庫が1棟、東西に細長い物置(倉庫とは別で近衛旧邸の家財道具庫か?)が1棟、小規模な倉庫が1棟の順に建てられていた。もっとも、小規模な倉庫といっても、建物面積は150坪ほどはありそうなので、大規模な倉庫のほうはその倍以上の350坪近くはありそうだ。近衛篤麿邸(近衛旧邸)と同様に、母家の中心には中庭が設けられているが、その広さだけで145坪の面積があった。なお、先述の目白通りから直接邸へ入れるアプローチ通路が拓かれ、北門が設置されるのと同時に、東西に細長い物置の建築は移築されるか、解体されているのだろう。
きょうは、1929年(昭和4)11月に下落合436番地の近衛新邸が竣工すると、ほどなく解体されてしまい、わずか7年間ほどしか存在しなかった幻の近衛文麿邸について書いてみたい。この邸宅については、これまでわたしの知るかぎり、地図上に記載されていたのは戦後まで修正がつづけられていた、日本地形社の1/3,000地形図のみだ。そして、清水建設情報資料センターには、清水組が作図した邸宅の各種図面の多くが保存されている。
近衛篤麿邸(近衛旧邸)でも近衛新邸でもない、この約7年間だけ存在していた暫定的な下落合の近衛邸を、目白中学校の校庭南側にあたる敷地に建設されているので、とりあえず便宜的な呼称として「近衛目白中学邸」とする。だが、暫定的な邸と表現するには、かなり大きくて豪華な2階建ての西洋館であり、清水組による側面図や平面図、詳細な間取り図、調度図などが残されていた。まずは、近衛目白中学邸の建物配置図から見てみよう。
図面は、1922年(大正11)10月10日に製図されたものであり、翌1923年(大正12)11月11日に転写されたという日付が確認できる。このタイムスタンプだけでは、同邸がいつ竣工したのかが不明だが、少なくとも東京土地住宅が近衛町の販売を開始する1922年(大正11)4月の段階で、近衛篤麿邸(近衛旧邸)が解体を終えていたとすれば、すでに近衛目白中学邸は居住できるような状態まで建設が進捗していないと、近衛家は路頭に迷うことになってしまう。したがって、建物配置図は同邸の工事があるいてど進捗したあとに、改めて作図されている可能性が高い。
まず、邸への当初の広めなアプローチは近衛町通り側、すなわち東側に設けられていた。入口から西へ90mほど進むと正門があり、門を入ると正面にはやや高くなった車寄せのある、東を向いた玄関があった。玄関のある棟は、外壁がモルタルづくりだとみられるが、母家は棟によってはモルタルと下見板張りの外壁が混在するような設計になっていた。側面図を参照すると、北側の外壁はモルタルが多く、南側の外壁には下見板張りが多かったような印象だ。
1922年(大正11)の建設当初は、東側の近衛町通りから舟橋家による住宅開発地の北辺沿いに、西へ向かうアプローチ通路が拓かれ、玄関のあるエントランスへと入れる外構だった。だが、1926年(大正15)に目白中学校が上練馬村高松2305番地へ移転すると、近衛町通りを経由せず目白通りから左折(南折)して100mほどで、邸内に直接入れる北門が設置されている。この目白通りからのアプローチは、日本地形社の1/3,000地形図のみに採取されている外構だ。また、目白中学校の跡地に造られた北門へといたる道筋と平行して、東側には近衛篤麿の四男で有島生馬へ師事し、一時期は洋画家をめざしていた近衛忠麿、のち水谷川忠麿邸(下落合451番地)への目白通りからのアプローチが造られている。
近衛目白中学邸の建物配置は、母家を中心に北側には東から西へ大きな倉庫が1棟、車庫が1棟、東西に細長い物置(倉庫とは別で近衛旧邸の家財道具庫か?)が1棟、小規模な倉庫が1棟の順に建てられていた。もっとも、小規模な倉庫といっても、建物面積は150坪ほどはありそうなので、大規模な倉庫のほうはその倍以上の350坪近くはありそうだ。近衛篤麿邸(近衛旧邸)と同様に、母家の中心には中庭が設けられているが、その広さだけで145坪の面積があった。なお、先述の目白通りから直接邸へ入れるアプローチ通路が拓かれ、北門が設置されるのと同時に、東西に細長い物置の建築は移築されるか、解体されているのだろう。



母家の部屋数は、近衛旧邸に比べておよそ4分の1以下だろう。近衛旧邸と大きく異なるのは、敷地内に家令たちの住居が存在しないことだ。近衛文麿は、父親から継承している大きな負債を抱えており、先祖から受け継いだ刀剣などの道具類を売り立て(オークション)に何度か出品したのも、大正初期に広大な敷地の西側を相馬家に売却したのも、また近衛旧邸を解体して近衛町開発のために「解放」したのも、莫大な借金を返済するためだった。したがって、近衛邸を維持するために要した人件費削減は喫緊の課題だったとみられ、近衛旧邸の解体とともに家令たちの多くは解雇、あるいは通いの勤務形態に移行しているのではないか。
もちろん、車庫は運転手の住宅も兼ねていたかもしれないが、近衛目白中学邸の邸内には女中部屋はいくつか設置されているものの、家令部屋と思われる部屋は存在していないようだ。書生は、何人か住みこませていたかもしれないが、中庭や南側に拡がる広い庭の手入れなどは、通いの庭師に任せていた可能性が高そうだ。
近衛篤麿邸の造園師だった方の、子孫の記録が残っている。祖父と父親が、近衛旧邸内に住みこみで庭師をしていたが、その子どもにあたる人物(D氏)が証言する記録だ。それによれば、東京土地住宅による近衛町の開発以降の証言が存在していない。つまり、近衛旧邸の解体以前に屋敷を出され、次の近衛目白中学邸には住みこんでいなかった様子がわかる。1994年(平成6)に新宿歴史博物館から刊行された、『新宿区の民俗(4) 落合地区篇』より引用してみよう。
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近衛邸の造園師であった祖父と父親の職業柄、D氏は明治三十七年<1904年>に生まれてから十五、六歳まで近衛邸の家で育った。邸内では主人を「殿様」、奥様を「奥方」、殿様の母親を「御後室様」、坊ちゃんを「若様」、お嬢様を「オヒイ(姫)様」と呼び、あいさつは「ごきげんよう」と頭を下げ、物をちょうだいするときには両手を重ねて「恐れ入ります」ということのほか、常にあそばせ言葉であった。節供<節句>と学校から通信簿をもらった時は、近衛宅のお局口から下女中、中女中、上女中の順に手渡されながら、オイマ(居間)に上がって、奥方様からお言葉をいただいた。そそうのないように子供心ながらに緊張したという。(< >内引用者註)
▲
やや余談めくが、近衛邸内で話されていた日常会話の言葉が京都方言ではなく、江戸東京方言の山手言葉だったのがうかがえて興味深い。(城)下町言葉をまじえた「おとついおいであそばせ~」とか、「手前生国(しょうごく)と発しまするは関東でござんす」など博徒たちもつかっていた、ざっかけない町言葉の「ざんす」など、近衛家ではまかりまちがってもつかわれなかっただろう。w
もちろん、車庫は運転手の住宅も兼ねていたかもしれないが、近衛目白中学邸の邸内には女中部屋はいくつか設置されているものの、家令部屋と思われる部屋は存在していないようだ。書生は、何人か住みこませていたかもしれないが、中庭や南側に拡がる広い庭の手入れなどは、通いの庭師に任せていた可能性が高そうだ。
近衛篤麿邸の造園師だった方の、子孫の記録が残っている。祖父と父親が、近衛旧邸内に住みこみで庭師をしていたが、その子どもにあたる人物(D氏)が証言する記録だ。それによれば、東京土地住宅による近衛町の開発以降の証言が存在していない。つまり、近衛旧邸の解体以前に屋敷を出され、次の近衛目白中学邸には住みこんでいなかった様子がわかる。1994年(平成6)に新宿歴史博物館から刊行された、『新宿区の民俗(4) 落合地区篇』より引用してみよう。
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近衛邸の造園師であった祖父と父親の職業柄、D氏は明治三十七年<1904年>に生まれてから十五、六歳まで近衛邸の家で育った。邸内では主人を「殿様」、奥様を「奥方」、殿様の母親を「御後室様」、坊ちゃんを「若様」、お嬢様を「オヒイ(姫)様」と呼び、あいさつは「ごきげんよう」と頭を下げ、物をちょうだいするときには両手を重ねて「恐れ入ります」ということのほか、常にあそばせ言葉であった。節供<節句>と学校から通信簿をもらった時は、近衛宅のお局口から下女中、中女中、上女中の順に手渡されながら、オイマ(居間)に上がって、奥方様からお言葉をいただいた。そそうのないように子供心ながらに緊張したという。(< >内引用者註)
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やや余談めくが、近衛邸内で話されていた日常会話の言葉が京都方言ではなく、江戸東京方言の山手言葉だったのがうかがえて興味深い。(城)下町言葉をまじえた「おとついおいであそばせ~」とか、「手前生国(しょうごく)と発しまするは関東でござんす」など博徒たちもつかっていた、ざっかけない町言葉の「ざんす」など、近衛家ではまかりまちがってもつかわれなかっただろう。w



1904年(明治37)生まれのD氏は、15~16歳まで近衛旧邸内の家ですごしているので、少なくとも1920年(大正9)ごろまでは邸内に住まいがあったことになる。換言すれば、近衛文麿が東京土地住宅の三宅勘一と近衛町開発計画を立てはじめたころに、解雇されて邸内の住居から離れているか、あるいは通いの庭師に契約変更されたものだろう。
近衛目白中学邸の南庭は、近衛旧邸に比べればはるかに狭かったが、それでも東西は50m以上、南北は40m以上の面積があった。なお、大正末から昭和初期にかけ南庭の南東側、舟橋家の住宅開発地に接するように、母家とは別の大きめな家屋が建設されている。1/3,000地形図のみに採取されているが、これが北門の設置で移築された物置なのかもしれない。
建物の外観は2階建てで、2階部のある棟は大きくふたつに分かれていたが、2階は近衛旧邸とは異なり居住空間ではなかった。1923年(大正12)1月11日作成の平面図を見ると、2階は什器室や納戸、物置、予備室などが配置されており、近衛家の家族や使用人が生活する場は、すべて1階に限られている。邸の南側には、家族たちの居間や寝室、化粧室、浴室、便所、応接室、客室などが配置され、中庭を挟んだ邸の北側には、事務室をはじめ女中部屋、厨房、食堂、浴室、便所などが連なっていた。玄関前の広間から、南側の廊下を西へ進むと家族たちの居住空間へと通じていたが、いくつかの角を折れる廊下は東西約34mほどの長さがあった。
同邸には、地下室も設置されている。厨房から、6畳ほどの広さの地下室へ下りられる仕様になっており、大きな棚が設置されていたようなので食糧類の備蓄や、食器・調度類の保管などに使われていたとみられる。また、邸の北側には給湯専用室が設けられているので、全館内へ温水が供給されていたのだろう。同邸には暖炉用の煙突が見えないが、客間と居間の2ヶ所に暖炉が確認できる。ひょっとすると、暖炉の中はガスストーブを燃やす形式だったのかもしれない。給湯室の存在から、各部屋の暖房はセントラルヒーティングだった可能性が高そうだ。
南庭に面した、東西に連なる家族たちや客間の各部屋には、「ベランダ―」と名づけられたサンルームが4ヶ所配置され、各「ベランダ―」からは階段を下りて庭先へ出られた。南側の側面図を見ると、1階の軒下まである巨大な窓が各部屋に取りつけられており、陽光を最大限に室内まで取りこめる仕様をしていたのがわかる。特に、室内外の窓やドアの設計には凝っていたようで、清水組の図面記録には窓部やドア部のデザインだけ採取された側面図が残されている。
近衛目白中学邸の南庭は、近衛旧邸に比べればはるかに狭かったが、それでも東西は50m以上、南北は40m以上の面積があった。なお、大正末から昭和初期にかけ南庭の南東側、舟橋家の住宅開発地に接するように、母家とは別の大きめな家屋が建設されている。1/3,000地形図のみに採取されているが、これが北門の設置で移築された物置なのかもしれない。
建物の外観は2階建てで、2階部のある棟は大きくふたつに分かれていたが、2階は近衛旧邸とは異なり居住空間ではなかった。1923年(大正12)1月11日作成の平面図を見ると、2階は什器室や納戸、物置、予備室などが配置されており、近衛家の家族や使用人が生活する場は、すべて1階に限られている。邸の南側には、家族たちの居間や寝室、化粧室、浴室、便所、応接室、客室などが配置され、中庭を挟んだ邸の北側には、事務室をはじめ女中部屋、厨房、食堂、浴室、便所などが連なっていた。玄関前の広間から、南側の廊下を西へ進むと家族たちの居住空間へと通じていたが、いくつかの角を折れる廊下は東西約34mほどの長さがあった。
同邸には、地下室も設置されている。厨房から、6畳ほどの広さの地下室へ下りられる仕様になっており、大きな棚が設置されていたようなので食糧類の備蓄や、食器・調度類の保管などに使われていたとみられる。また、邸の北側には給湯専用室が設けられているので、全館内へ温水が供給されていたのだろう。同邸には暖炉用の煙突が見えないが、客間と居間の2ヶ所に暖炉が確認できる。ひょっとすると、暖炉の中はガスストーブを燃やす形式だったのかもしれない。給湯室の存在から、各部屋の暖房はセントラルヒーティングだった可能性が高そうだ。
南庭に面した、東西に連なる家族たちや客間の各部屋には、「ベランダ―」と名づけられたサンルームが4ヶ所配置され、各「ベランダ―」からは階段を下りて庭先へ出られた。南側の側面図を見ると、1階の軒下まである巨大な窓が各部屋に取りつけられており、陽光を最大限に室内まで取りこめる仕様をしていたのがわかる。特に、室内外の窓やドアの設計には凝っていたようで、清水組の図面記録には窓部やドア部のデザインだけ採取された側面図が残されている。

かなり手をかけて建設されたように見える近衛目白中学邸だが、わずか7年ほどで解体されている。近衛文麿は、1924年(大正13)に麹町区に建築した永田町邸へ転居しているので、近衛目白中学邸には約2年ほどしか住んでいないことになる。けれども、永田町邸は交通の便があまりによすぎたため訪問客や陳情客が引きも切らず、わずか数年で下落合にもどってくることになった。その際、親族が住んでいた近衛目白中学邸を解体し、1929年(昭和4)には下落合436~437番地へ改めて近衛新邸を建設している。そして8年後、1937年(昭和12)に首相へ就任するとともに、杉並区西田町1丁目42番地に建っていた「楓荻(ふうてき)荘」を買収し、「荻外荘」と名づけて本邸にしている。下落合の近衛新邸は、そのまま近衛別邸となり空襲で焼けるまで残されていた。
◆写真上:1923年(大正12)に描かれた近衛目白中学邸の側面図。上から玄関の東側面図、巨大な窓が目立つ南側面図、のち北門が設置される目白通り側の北側面図。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)現在の建物配置図。中は、日本地形社の1/3,000地形図に採取された近衛目白中学邸で、すでに目白通りからのアプローチと北門が設置されている。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸の位置と近衛新邸の位置。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)1月現在で作図された近衛目白中学邸の平面図。下部には2棟の2階部が、左上には厨房下に設置された地下室の平面図が描かれている。中は、同じく1923年(大正12)1月現在の同邸側面図。下は、同年作成の窓とドアの意匠図。
◆写真下:上は、1923年(大正12)現在で描かれた近衛目白中学邸の屋根平面図。中は、同邸が建っていたあたりの現状。下は、東側の玄関に向かうアプローチがあったと思われるあたり。
◆写真中上:上は、1922年(大正11)現在の建物配置図。中は、日本地形社の1/3,000地形図に採取された近衛目白中学邸で、すでに目白通りからのアプローチと北門が設置されている。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる同邸の位置と近衛新邸の位置。
◆写真中下:上は、1923年(大正12)1月現在で作図された近衛目白中学邸の平面図。下部には2棟の2階部が、左上には厨房下に設置された地下室の平面図が描かれている。中は、同じく1923年(大正12)1月現在の同邸側面図。下は、同年作成の窓とドアの意匠図。
◆写真下:上は、1923年(大正12)現在で描かれた近衛目白中学邸の屋根平面図。中は、同邸が建っていたあたりの現状。下は、東側の玄関に向かうアプローチがあったと思われるあたり。
★追記
清水建設情報資料センターに保存されている、各時代の近衛邸の図面を参照していて不可解なことに気がついた。従来、多くの資料で麹町区の近衛永田町邸とされていた写真は、下落合に7年間だけ存在していた下落合432~456番地の近衛目白中学邸ではないだろうか。
なぜなら、もうお気づきかもしれないが建物配置図で描かれている敷地の形状が、西側の三間道路に接した永田町2丁目の敷地ではなく、明らかに東側すなわち近衛町通りからのアプローチを前提にした配置で、正門および玄関も東を向いているからだ。しかも、日本地形社が1/3,000地形図に採取した下落合の屋敷や敷地のかたちや、1936年(昭和11)に撮影された空中写真に写る敷地のかたちも、上掲の図面類の形状とほぼ一致している。
どこかで誰かが何かを取りちがえ、それがそのまま下落合の近衛目白中学邸→「永田町邸の写真」になってしまったのではないか。戦前の空中写真で、麹町永田町2丁目25番地(現・千代田区永田町2丁目17番地の5)にとらえられた近衛永田町邸の、西側を三間道路に接した敷地のかたちを見れば一目瞭然だろう。下掲の近衛邸外観は、近衛永田町邸ではなく下落合の近衛目白中学邸ではないか。ついでに、1936年(昭和11)に撮影された近衛永田町邸と、戦後の1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の空中写真も掲載してみた。西側の三間道路に向いた門やアプローチ、屋根の形状や中庭のない様子、焼け跡にみる屋敷のかたちや敷地の形状がまったく異なるのがおわかりだろうか。
なぜなら、もうお気づきかもしれないが建物配置図で描かれている敷地の形状が、西側の三間道路に接した永田町2丁目の敷地ではなく、明らかに東側すなわち近衛町通りからのアプローチを前提にした配置で、正門および玄関も東を向いているからだ。しかも、日本地形社が1/3,000地形図に採取した下落合の屋敷や敷地のかたちや、1936年(昭和11)に撮影された空中写真に写る敷地のかたちも、上掲の図面類の形状とほぼ一致している。
どこかで誰かが何かを取りちがえ、それがそのまま下落合の近衛目白中学邸→「永田町邸の写真」になってしまったのではないか。戦前の空中写真で、麹町永田町2丁目25番地(現・千代田区永田町2丁目17番地の5)にとらえられた近衛永田町邸の、西側を三間道路に接した敷地のかたちを見れば一目瞭然だろう。下掲の近衛邸外観は、近衛永田町邸ではなく下落合の近衛目白中学邸ではないか。ついでに、1936年(昭和11)に撮影された近衛永田町邸と、戦後の1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の空中写真も掲載してみた。西側の三間道路に向いた門やアプローチ、屋根の形状や中庭のない様子、焼け跡にみる屋敷のかたちや敷地の形状がまったく異なるのがおわかりだろうか。



この記事へのコメント
てんてん
落合道人
このところ蕎麦でも冷や麦でも冷やし中華でも、よく冷えた麺類が美味しいですね。