陽明文庫に残された近衛篤麿邸の設計図。

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 落合村下落合丸山417番地へ、1901年(明治34)の暮れに竣工した近衛篤麿邸は、残された写真類から純粋な和館だと考えていた。ところが、陽明文庫に残された平面図や側面図を見ると、玄関を入って左手(南側)の応接棟のみ、西洋館だったことがわかる。また、近衛篤麿とその家族たちは、翌1902年(明治35)1月25日に転居してきていることも判明した。
 同文庫に保存されている屋敷の配置図や設計図から、現在も近衛町通りに残されている馬車廻し(車廻し)の一部は、大小ふたつあった馬車廻しのうち、東側にあった大規模な植えこみのほんの一部であったこともわかる。玄関の車寄せのすぐ前に位置していた小規模な馬車廻しは、東京土地住宅三宅勘一による近衛町の開発で消滅している。
 また、目白通りから現在の近衛町通りを南下すると、近衛篤麿邸の正門前にたどり着くのではなく、塀に阻まれて直進できなかった様子も判明した。突き当りの塀を左折(東折)したところに門衛のいる大きな東門(正門)があり、そこから邸内へ入ることができた。後世に近衛町へ建設される、島津良蔵アトリエ(のち三井高義アトリエ)あたりが、ちょうど東門があった位置であり、その先の東側は崖地になっていた。門を入ると、片側に家令住宅が並ぶアプローチは南西に向かい、玄関前の小規模な馬車廻しをグルリとまわると、正面玄関の車寄せにたどり着けた。ちなみに、現・近衛町通りを突きあたって、塀を右折(西折)すると小さな裏門が設置されていた。
 陽明文庫に残されている屋敷の配置図や平面図など(1902年2月現在の作図)は、すべて上下が逆さまで上が南になるように描かれており見づらいが、棟の構成や部屋の配置がおおよそわかって興味深い。かなり規模の大きな屋敷だが、地図などで塗りつぶされていた屋敷のかたちがすべて建築物だったわけではなく、広い中庭の存在していたことがわかる。中庭には、東西南北沿いに廊下(くれ縁=内縁だろうか)が張りめぐらされ、どの棟へ向かうにも中庭に面した廊下を通ることになる。主要な棟はおよそ4つに分かれており、4棟とも2階建てだった。
 独立した建物としては、母家の南側に拡がる庭園の、さらに南側のかなり離れた雑木林のなかには、2階建ての大きな蔵が2棟建てられていた。これは、母家で万が一の火災が起きた場合でも、蔵への延焼を防ぐためだと思われる。その蔵の北東側、見晴らしのいい南東側に向いた丘上には、おそらく数寄屋(茶室)とみられる建物がしつらえられている。以前の記事で、高田村高田稲荷938番地で操業していた薗部染工場の写真をご紹介していたが、山手線越しに写る近衛邸の四阿のような丘上の建物は、位置からしてこの数寄屋ではないだろう。建築当初の配置図には掲載されていない、のちに追加で建てられた四阿のような建物ではないか。
 そして、もうひとつの独立した建物は、訪問客が玄関を入ってすぐに通される、また母屋からも渡り廊下づたいに入れる応接棟の1階建て西洋館だ。(冒頭側面図) この小さな西洋館のみ、側面図と平面図の双方が残されており、屋根はスレート葺きで下見板張りの外壁だった仕様がうかがえる。建物の東側と北側にそれぞれドアがあり、玄関側と母屋側とでつながっていた。来客が応接棟へ通されると、家令がそれを居間にいる近衛家の誰かに報告しにいき、居間から直接北側のドアを通じて応接棟へわたれるような設計になっていた。
 庭園で目につくのは、南側の庭に設置された大燈籠だ。この大燈籠を、わたしはおそらく目にしたことがある。1903年(明治36)5月3日に撮影された、病気から恢復した近衛篤麿とその家族たちを撮影した記念写真だ。病気平癒の記念写真は、南の庭園に面した居間の縁側で撮影されたとみられ、当時、下落合に住んでいた近衛一家の全員が画面に収まっている。縁側の奥、家族たちの背後にはガラスをはめた障子が立てられており、そのガラスの一面に南側の庭園が反射で映りこんでいるのだ。その写真の左端、学習院初等科の制服を着た近衛文麿の背後には、巨大な燈籠が映りこんでいる。その並びには、棕櫚らしい大樹や雑木林が見えているが、芝庭のすぐ先は特に手を入れたようには見えず、武蔵野の植生らしい雑木林が拡がっていたようだ。
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 庭園自体も、一面に芝が植えられた和風とも洋風ともつかない曖昧な風情をしており、その様子は近衛篤麿の死去後、1911年(明治44)の春に撮影された家族写真で見ることができる。なお、この写真にとらえられた家族たちの背後に写る建物が、居間から寝室へと通じる母家の棟で、上記の病気平癒の記念写真と同じガラス障子がとらえられている。1903年(明治36)5月の家族写真から、わずか8ヶ月後の1904年(明治37)1月に近衛篤麿は死去している。
 もう1枚、1903年(明治36)5月3日に撮影された、近衛篤麿が写る病気平癒の記念写真が残されている。同じカメラマンが撮影したと思われるが、今度は玄関先での記念写真だろうか。近衛一家が前面に座り、背後や両端には、家令や乳母、女中頭とみられる人々がとらえられている。写っているのは、近衛家のおもだった家令や使用人の一部で、近衛家の家族と直接言葉を交わせる人々のみで、屋敷内に暮していた全員ではないだろう。ちなみに、大勢いた女中たちは「上女中」「中女中」「下女中」に分類され、「上女中」のみが家族の近くで世話をしていた。
 さて、陽明文庫に残された近衛篤麿邸の図面類や、下落合への詳細な転居時期などを調べていたら興味深いことに気づいた。それは、1924年(大正13)に近衛霞山会によって編集・出版された、『近衛霞山公』(非売品)という近衛篤麿の伝記と年譜を参照していたときだ。下落合の近衛篤麿邸の竣工が、1901年(明治34)の暮れ近くであり、近衛一家が麹町にあった旧邸から下落合の新邸へ転居してきたのが、翌1902年(明治35)1月25日と規定できたのは、同書の詳細な年譜からだ。この転居の日が、東京同文書院(のち目白中学校を併設)の開校式(1月19日)が行われた1週間後であることも判明した。以下、『近衛霞山公』年譜に記された1902年(明治35)1月項目より引用してみよう。
  
 一月九日国民同盟会ハ時局ニ関スル痛切ナル意見書ヲ小村外務大臣ニ呈ス/一月十九日東京同文書院開校式ヲ行フ/一月二十五日府下下落合ノ新邸ニ移ル/一月国民同盟会ハ上海ノ米人協会及紐育ノ亜細亜協会ト提携シテ満洲問題ヲ解決センコトヲ約ス/清国改革事宜数篇ヲ其国当路ニ贈リテ参考ニ資ス/日英同盟ニ関シ清国大官ノ謝電ヲ領ス
  
 この非売品だった『近衛霞山公』は、1924年(大正13)6月に近衛霞山会から出版されたものだが、同書の奥付を見て思わず「えっ?」と目をみはってしまった。編輯兼発行者は近衛霞山会となっているが、その次に「代表者/神谷卓男」と印刷されている。
 下落合1328番地に住んだ神谷卓男のネームは、おそらく目白文化村の紹介記事でもっとも多く登場している人物のひとりだろう。河野伝が設計し、第一文化村に早くから建てられていた神谷邸に関しては、箱根土地が制作した絵葉書類にも必ず登場している、目白文化村を代表し象徴するような邸宅だった。その主人である神谷卓男が、生前の近衛篤麿と近しく交流しており、しかも近衛霞山会の代表だったとは、うかつにもこれまでまったく気づかなかったしだいだ。
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 神谷卓男は、1929年(昭和4)10月に死去しているので、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」には掲載されておらず、またその遺族についても掲載されていなかったため、いままでうっかり気づかなかったのだろう。改めて、当時の興信録や紳士録などを参照すると、神谷卓男は京都府宮津出身で同志社を卒業すると米国へ留学し、帰国後は日本新聞の記者となって、衆議院議員(国民党)にも当選していることがわかった。以下、1928年(昭和3)に万朝報から出版された『新日本史』の別篇より、その人物像を少し引用してみよう。
  
 天橋義塾京都中学校等に学び同中学校三年級の時同志社に入り明治二十五年之を卒業す 二十七年米国に遊び「スタンフオード」「コロンビヤ」両大学に修め三十三年帰朝して日本新聞記者となり専ら故羯南陸実の指導を受け又先輩神鞭謝海に知遇せらる 次いで近衛篤麿公の秘書となり又対露同志会の為めに尽瘁す 三十八年渡韓して宋秉畯等と一進会を設立し次いで韓廷に聘せられ特別任用に依つて朝鮮総督府官吏となり地方長官に歴任す 後ち之を辞して名古屋市高級助役となり大正四年衆議院議員に挙げられ国民党に属す 九年実業界に投じ東邦電力株式会社の取締役に挙げられる 後ち病を獲て之を退き今閑地に静養しつゝあり
  
 1920年(大正9)に衆議院議員を辞職し実業界へ転じたのは、大正初期に(立憲)国民党の議員として党内で普通選挙の実施を主張したため、同党の党議方針に反するとして同僚の議員4名とともに除名されたからだ。第一文化村に、早くから邸宅を建てて住んだのは、東邦電力の取締役を辞任して間もない時期だったことがわかる。
 上記の履歴から、近衛篤麿と知己を得たのは日本新聞の記者時代で、おそらく近衛に勧誘され晩年を通じての秘書だったこともわかる。したがって、近衛篤麿に関する晩年の事蹟、特にタイムスタンプに関しては、秘書だった神谷卓男が編纂した資料類が正確なのだろう。
 さて、箱根土地の堤康次郎は目白文化村の造成で、なぜ近衛霞山会の代表をつとめる神谷卓男邸のことを引き立て、あるいは際立たせるような扱いをしたのだろうか。そこには、下落合の東部に展開していた近衛家の敷地の開発が、当然意識されていたにちがいない。神谷卓男を通じて、近衛家との太いパイプづくりを考えていたのではないか。旧・近衛篤麿邸の敷地は、近衛文麿の同窓だった東京土地住宅三宅勘一に先を越されたが、近衛家の土地はいまだ下落合の東部にはかなり残されていた。堤康次郎は、そこへ以前から目をつけていた可能性が高そうだ。また、近衛新町が販売されたとき、神谷卓男は東邦電力の松永安左衛門へ買収の橋わたしをしているのではないか。
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 近衛篤麿邸が解体され、1922年(大正11)4月より東京地住宅による近衛町の販売がはじまるが、家族を転居させるため、近衛文麿が目白中学校の南側、すなわち下落合432~456番地へ建設して、1929年(昭和4)までのわずか7年間しか存在しなかった、暫定的な幻の近衛文麿邸に関する敷地の建物配置や図面類も入手できた。史的資料類では、なにか大きな勘ちがいがからんでいるとみられる同邸は、昭和期の近衛新邸と同様に清水組が設計・施工しており、1922年(大正11)の秋には居住できるほど建設が進んでいたとみられる。その詳細は、また機会があれば、別の物語……。

◆写真上:近衛篤麿邸では唯一の西洋館で、玄関の南側に建てられていた応接棟側面図。
◆写真中上は、1902年(明治35)2月現在で作成された近衛篤麿邸および南側の建物等配置図で、南北が上下逆になっている(以下同)。中上は、同年の別バージョン配置図に玄関までの訪問経路を加えたもの。中中は、広い吹き抜けの中庭が目立つ同邸の1階平面図。中下は、同邸の2階平面図。は、西洋建築だった応接棟の側面図と平面図。
◆写真中下は、南側の丘上に建てられていた数寄屋(茶室)と思われる建物の平面図。中上は、大正初期に撮影された近衛邸の丘に写る四阿らしい建築だが、位置的にみて上記の数寄屋ではないと思われる。中中は、大燈籠のある南庭と記念写真が撮影された母家の縁側部の拡大図面。中下は、1903年(明治36)5月3日に撮影された病気から恢復した近衛篤麿と家族たちの記念写真。右から左へ、近衛忠麿(幼児/のち水谷川忠麿)と近衛貞子、近衛篤麿、近衛秀麿、近衛光子、近衛直麿、近衛武子、近衛文麿の順。は、近衛文麿が座る背後のガラスに映る大燈籠。
◆写真下は、1903年(明治36)5月3日に撮影された近衛一家とおもな使用人たちとの記念写真。中上は、近衛篤麿の死後1911年(明治44)の春に撮影された近衛一家。背後に写るガラス障子の縁側が、8年前に近衛篤麿の病気平癒の記念写真を撮影した位置。中下は、1918年(大正7)に作成された1/10,000地形図と、陰影が克明な1944年(昭和19)に米軍偵察機F13が撮影した空中写真の近衛町とを重ね合わせたもの。は、1924年(大正13)に出版された近衛霞山会『近衛霞山公』(非売品/)奥付と、近衛霞山会の代表だった第一文化村の神谷卓男邸(箱根土地絵はがき/)。
おまけ
 上の2図は、近衛篤麿邸の東門(正門)およびエントランスの小車廻しと玄関部(応接棟)の拡大図面。下の写真は、1916年(大正5)に撮影された暁星中学3年生の近衛直麿のスナップで玄関先か。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年05月04日 23:00
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    握り寿司がうまそうですね。家にいるネコは、魚介類にはまったく
    興味を示さない不思議なヤツです。
    2026年05月05日 10:13

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