
下落合(現・中落合/中井含む)東部の南隣り、戸塚町上戸塚(現・高田馬場3~4丁目)に住んでいた窪川稲子(佐多稲子)と藤川栄子は、ある日、道を歩いていてお互いに「どっかで会ったような……?」と感じたのが、のちに親友になるきっかけだった。
そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、『戸塚から落合へ』に記述されている。当時、窪川稲子(佐多稲子)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番地)に、藤川栄子は大正期から上戸塚866番地(のち戸塚3丁目866番地)に住んでいて、ふたりの住いは早稲田通りをはさみ斜向かいで250mほどしか離れていないところにあった。
ある日、夫の窪川鶴次郎が借りていた「勉強部屋」がある道筋を歩いていると、門の前で3歳ぐらいの女の子と遊ぶ女性がいた。瘦せていて背が高く、背中で十文字に紐のかかるスカートをはいたその女性に、「何だか見覚えがある」と感じた窪川稲子だが、このときは思いだせなかった。その人も、窪川稲子に面識があるのかジッと見つめ返してきた。
数日後、ハタと気がついた。「主婦の友」のグラビアに、窪川稲子と娘の写真が載ったとき、いっしょに藤川栄子と娘の写真も掲載されていたのだ。門の前を通るとき表札を見ると、やはり「藤川」と書かれていた。当時は、「まだ勇造氏がゐられた筈」とあるので、ふたりの最初の出会いは藤川勇造が1935年(昭和10)に死去する、少し前の時期だったことがわかる。
藤川勇造が死去してから、ふたりは急速に親しくなって窪川稲子は藤川栄子のアトリエへ、藤川は窪川稲子の自宅へ頻繁に往来するようになる。このあと、窪川稲子のもとを訪ねる上落合に住んでいた壺井栄も、同じ香川出身の藤川栄子と急速に親しくなっている。しかも、結婚前の藤川栄子の旧姓は坪井栄(えい)であり、「つぼいさかえ」とも読めるので、のちに壺井栄と坪井栄とが混線するおかしなエピソードまで発生している。
1940年(昭和15)ごろから、藤川栄子と窪川稲子に壺井栄が加わって、日ごろのストレスを発散させるためか早稲田通りを闊歩する、3人の「歩きませう散歩」がスタートしている。もちろん、この3人の背後には半分嫌がらせをかねた、特高の尾行がついていただろう。画家の藤川栄子が文学者たちと親しくなったのは、自身が奈良女子高等師範学校の文科を卒業したあと、早稲田大学文学部の聴講生を修了し、文学をめざしていた時期があったからだ。
このころの、「いやになつて、寝てばかり」(『戸塚から落合へ』)というふたりの思いは共通しており、日本が対米英との戦争に向けてまっしぐらに進むなか、自由な表現ができなくなり社会の隅々にまで日本型ファシズム、すなわち軍国主義がいきわたろうとしている状況を憂い、思わずため息まじりに嘆いた言葉だったのだろう。不用意に「戦争反対」などと発言しようものなら、すぐにも特高か憲兵隊に検挙され、殺されかねない時代をすでに迎えていた。
窪川稲子の自宅の裏には、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いか妙正寺川沿いに展開する、染物の工房に勤めていた染物職人の家があった。非常に仲睦まじい夫婦で、娘がふたりいる4人家族だった。いい年をした、そんな職人の家にも赤紙(召集令状)がとどくほど、中国での戦争は戦死者が急増して泥沼化し、出口がまったく見えない状況を迎えていた。1949年(昭和24)に新日本文学会(のち講談社/筑摩書房)から出版された、佐多稲子『私の東京地図』より引用してみよう。
そのときの様子が、1941年(昭和16)に万里閣から出版された窪川稲子『季節の随筆』に収録の、『戸塚から落合へ』に記述されている。当時、窪川稲子(佐多稲子)は全集の年譜によれば1932年(昭和7)から、上戸塚593番地(のち戸塚4丁目593番地)に、藤川栄子は大正期から上戸塚866番地(のち戸塚3丁目866番地)に住んでいて、ふたりの住いは早稲田通りをはさみ斜向かいで250mほどしか離れていないところにあった。
ある日、夫の窪川鶴次郎が借りていた「勉強部屋」がある道筋を歩いていると、門の前で3歳ぐらいの女の子と遊ぶ女性がいた。瘦せていて背が高く、背中で十文字に紐のかかるスカートをはいたその女性に、「何だか見覚えがある」と感じた窪川稲子だが、このときは思いだせなかった。その人も、窪川稲子に面識があるのかジッと見つめ返してきた。
数日後、ハタと気がついた。「主婦の友」のグラビアに、窪川稲子と娘の写真が載ったとき、いっしょに藤川栄子と娘の写真も掲載されていたのだ。門の前を通るとき表札を見ると、やはり「藤川」と書かれていた。当時は、「まだ勇造氏がゐられた筈」とあるので、ふたりの最初の出会いは藤川勇造が1935年(昭和10)に死去する、少し前の時期だったことがわかる。
藤川勇造が死去してから、ふたりは急速に親しくなって窪川稲子は藤川栄子のアトリエへ、藤川は窪川稲子の自宅へ頻繁に往来するようになる。このあと、窪川稲子のもとを訪ねる上落合に住んでいた壺井栄も、同じ香川出身の藤川栄子と急速に親しくなっている。しかも、結婚前の藤川栄子の旧姓は坪井栄(えい)であり、「つぼいさかえ」とも読めるので、のちに壺井栄と坪井栄とが混線するおかしなエピソードまで発生している。
1940年(昭和15)ごろから、藤川栄子と窪川稲子に壺井栄が加わって、日ごろのストレスを発散させるためか早稲田通りを闊歩する、3人の「歩きませう散歩」がスタートしている。もちろん、この3人の背後には半分嫌がらせをかねた、特高の尾行がついていただろう。画家の藤川栄子が文学者たちと親しくなったのは、自身が奈良女子高等師範学校の文科を卒業したあと、早稲田大学文学部の聴講生を修了し、文学をめざしていた時期があったからだ。
このころの、「いやになつて、寝てばかり」(『戸塚から落合へ』)というふたりの思いは共通しており、日本が対米英との戦争に向けてまっしぐらに進むなか、自由な表現ができなくなり社会の隅々にまで日本型ファシズム、すなわち軍国主義がいきわたろうとしている状況を憂い、思わずため息まじりに嘆いた言葉だったのだろう。不用意に「戦争反対」などと発言しようものなら、すぐにも特高か憲兵隊に検挙され、殺されかねない時代をすでに迎えていた。
窪川稲子の自宅の裏には、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いか妙正寺川沿いに展開する、染物の工房に勤めていた染物職人の家があった。非常に仲睦まじい夫婦で、娘がふたりいる4人家族だった。いい年をした、そんな職人の家にも赤紙(召集令状)がとどくほど、中国での戦争は戦死者が急増して泥沼化し、出口がまったく見えない状況を迎えていた。1949年(昭和24)に新日本文学会(のち講談社/筑摩書房)から出版された、佐多稲子『私の東京地図』より引用してみよう。




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私の家の出口の左手に、女の子二人と夫婦で睦まじく暮らしてゐた染物職人も、優形の身体で出征していつた。家内で睦ましいといふことが、排他的にさへなつてゐた夫婦だつたが、主人は似合はぬ洋服に襷をかけて出立するとき、どうぞ、あとをお頼み申します、と私の前でまで、しんからさう言つておじぎをした。夫の出征したあとは、細君は腕がよかつたので仕立ものを大きな呉服屋から引受けてそれで生計もちやんと立ててゐたが、ある朝まだ小暗いうちに、まるで気の狂つたやうに我が子を折かんするのが聞こえてきた。八歳ぐらゐだつた下の子がおびえておろおろと謝りながら、打たれて泣いてゐる。朝の空気がただならぬものになつて、近所からなだめに出た。
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ある日突然、仲睦まじかった家庭の幸福が一瞬のうちに壊され、鬱積してたまりにたまった母親の怒りやストレスが、ふたりの娘に向けられて爆発した瞬間だったのだろう。その怒りは、現代の視点から見れば、本来なら戦争をつづける政府に対して向けられるべきものだったのだろうが、この若い母親は皇国史観や軍国主義による教育で、そのような思考回路が曇らされてかたちをなさず、かわいがっていた娘たちへ激しい暴力をふるう自分自身の感情を理解も整理もできずに、もてあましてさえいたのかもしれない。このような光景は、当時は表面化しなかっただけで、夫が戦場にもっていかれた各地の家庭で見られた現象ではなかったろうか。
早稲田通りのあちこちで、高田馬場駅へ向けた出征兵士を見送る行列の光景が繰り返されるようになっていた。街中には、「♪徐州~徐州と人馬は進む~」という『麦と兵隊』(作詞:藤田まさと/1938年)が繰り返し流れていたということなので、1939年(昭和14)ごろの情景だろう。窪川稲子(佐多稲子)は、家の2階で徹夜の書きものをしながら、母親が狂ったように折檻し、娘たちが泣き叫ぶ声を聞いていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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私は胸を突かれたやうになつて、徹夜の机の前でじいつとしてゐた。残された妻の、ときに猛るのが分かるおもひがする。ねえ、お父ちゃん、と夫を呼ぶとき嬉しさうだつた声のその妻の苛ら立つた叱り方は、何か本能的な苦痛を現わしてゐた。数ケ月経つたある夜、外出しようとした私は通りへ出るとき郵便配達夫の赤い自転車とすれちがつた。私の家ではないかと振り返るとそれはひとつ手前の織物職人の家の前へ停まつた。それは主人の戦死の知らせであつた。
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私の家の出口の左手に、女の子二人と夫婦で睦まじく暮らしてゐた染物職人も、優形の身体で出征していつた。家内で睦ましいといふことが、排他的にさへなつてゐた夫婦だつたが、主人は似合はぬ洋服に襷をかけて出立するとき、どうぞ、あとをお頼み申します、と私の前でまで、しんからさう言つておじぎをした。夫の出征したあとは、細君は腕がよかつたので仕立ものを大きな呉服屋から引受けてそれで生計もちやんと立ててゐたが、ある朝まだ小暗いうちに、まるで気の狂つたやうに我が子を折かんするのが聞こえてきた。八歳ぐらゐだつた下の子がおびえておろおろと謝りながら、打たれて泣いてゐる。朝の空気がただならぬものになつて、近所からなだめに出た。
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ある日突然、仲睦まじかった家庭の幸福が一瞬のうちに壊され、鬱積してたまりにたまった母親の怒りやストレスが、ふたりの娘に向けられて爆発した瞬間だったのだろう。その怒りは、現代の視点から見れば、本来なら戦争をつづける政府に対して向けられるべきものだったのだろうが、この若い母親は皇国史観や軍国主義による教育で、そのような思考回路が曇らされてかたちをなさず、かわいがっていた娘たちへ激しい暴力をふるう自分自身の感情を理解も整理もできずに、もてあましてさえいたのかもしれない。このような光景は、当時は表面化しなかっただけで、夫が戦場にもっていかれた各地の家庭で見られた現象ではなかったろうか。
早稲田通りのあちこちで、高田馬場駅へ向けた出征兵士を見送る行列の光景が繰り返されるようになっていた。街中には、「♪徐州~徐州と人馬は進む~」という『麦と兵隊』(作詞:藤田まさと/1938年)が繰り返し流れていたということなので、1939年(昭和14)ごろの情景だろう。窪川稲子(佐多稲子)は、家の2階で徹夜の書きものをしながら、母親が狂ったように折檻し、娘たちが泣き叫ぶ声を聞いていた。同書より、つづけて引用してみよう。
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私は胸を突かれたやうになつて、徹夜の机の前でじいつとしてゐた。残された妻の、ときに猛るのが分かるおもひがする。ねえ、お父ちゃん、と夫を呼ぶとき嬉しさうだつた声のその妻の苛ら立つた叱り方は、何か本能的な苦痛を現わしてゐた。数ケ月経つたある夜、外出しようとした私は通りへ出るとき郵便配達夫の赤い自転車とすれちがつた。私の家ではないかと振り返るとそれはひとつ手前の織物職人の家の前へ停まつた。それは主人の戦死の知らせであつた。
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そのころ、娘をもつ藤川栄子もイラ立つ毎日を送っていた。それは、近しい者への怒りというかたちでは表れず、内へ内へとこもる怒りだったようだ。もちろん、自分の友人知人が戦死したり戦傷で入院したりしており、その感情が戦争をやめようとしない政府や社会に対してのものであることを、彼女は十分に理解していたのだろう。
その怒りを抑えるために、藤川栄子は「いやになつて、寝てばかり」いたのかもしれないし、また娘を連れて戸山ヶ原をあてもなく歩きまわったり、窪川稲子や壺井栄とともに早稲田通りから落合地域への、「歩きませう散歩」をつづけていたのかもしれない。藤川栄子は画家なので、この時期のことはほとんど文章に残してはいないが、作品の制作意欲も極端に落ちこんで、満足なタブローを仕上げられないでいたようだ。唯一、1938年(昭和13)の「文藝」11月号に収録された「葉書随筆」に日記という形式で、ある日の日常を報告している。同日記より、引用してみよう。
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某月某日/早朝に起きる、学校にゆく子供と朝食をとるために。相変らず目ざめ際の気持の悪いこと、愉快なことは少しもない。(中略) 午後、子供と戸山の原を太陽を浴びて歩いた。散歩しながら殊にはつきりと生々と馬や木の生活を感じた。どの木もそれぞれの根を張つて自分の仕事をしてゐる。八月以来怠けきつてゐる自分の仕事について考へる。仕事をしないと病的な癇癪が始まつて仕方がない。夜おそく就寝、疲れて。
▲
世間に公表される原稿なので、「数えきれない犠牲者を生む戦争をつづけてるから、朝の寝ざめが悪いし気分もすぐれないのよ!」などと書けば、すぐにも特高が踏みこんできて検挙されるので、表現に細心の注意を払いながら婉曲な表現でしか書けないことも、彼女の激しくストレートな性格からすれば怒りやストレスを蓄積させる要因だったろう。
藤川栄子と窪川稲子がふだんから贔屓にしていた、高田馬場駅近くの早稲田通り沿いで開業する、椿堂文房具店の肥った後妻が死んでしばらくすると、窪川稲子はただならぬ大きなラジオの音声に起こされた。佐多稲子『私の東京地図』(1949年)より、再び引用してみよう。
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朝の早い豆腐やで、いつもラヂオは体操からはじまつた。それは私の寝てゐる二階へまつすぐ聞えた。私は、いつにないラヂオの改まつた放送にすぐ目を覚ました。それは十二月八日の朝であつた。私と吉之助は黙つて顔を見合せるふうにして、軍艦マーチに昂奮する外の気配に身をひそめた。その外の昂奮は奇妙なものだつた。中国の戦争やノモンハンの戦ひで疲れた神経が、はけ口を見つけたやうに、軍艦マーチに煽られてゐた。
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文中で「吉之助」と書かれているのは、もちろん当時の夫だった窪川鶴次郎のことだ。
その怒りを抑えるために、藤川栄子は「いやになつて、寝てばかり」いたのかもしれないし、また娘を連れて戸山ヶ原をあてもなく歩きまわったり、窪川稲子や壺井栄とともに早稲田通りから落合地域への、「歩きませう散歩」をつづけていたのかもしれない。藤川栄子は画家なので、この時期のことはほとんど文章に残してはいないが、作品の制作意欲も極端に落ちこんで、満足なタブローを仕上げられないでいたようだ。唯一、1938年(昭和13)の「文藝」11月号に収録された「葉書随筆」に日記という形式で、ある日の日常を報告している。同日記より、引用してみよう。
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某月某日/早朝に起きる、学校にゆく子供と朝食をとるために。相変らず目ざめ際の気持の悪いこと、愉快なことは少しもない。(中略) 午後、子供と戸山の原を太陽を浴びて歩いた。散歩しながら殊にはつきりと生々と馬や木の生活を感じた。どの木もそれぞれの根を張つて自分の仕事をしてゐる。八月以来怠けきつてゐる自分の仕事について考へる。仕事をしないと病的な癇癪が始まつて仕方がない。夜おそく就寝、疲れて。
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世間に公表される原稿なので、「数えきれない犠牲者を生む戦争をつづけてるから、朝の寝ざめが悪いし気分もすぐれないのよ!」などと書けば、すぐにも特高が踏みこんできて検挙されるので、表現に細心の注意を払いながら婉曲な表現でしか書けないことも、彼女の激しくストレートな性格からすれば怒りやストレスを蓄積させる要因だったろう。
藤川栄子と窪川稲子がふだんから贔屓にしていた、高田馬場駅近くの早稲田通り沿いで開業する、椿堂文房具店の肥った後妻が死んでしばらくすると、窪川稲子はただならぬ大きなラジオの音声に起こされた。佐多稲子『私の東京地図』(1949年)より、再び引用してみよう。
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朝の早い豆腐やで、いつもラヂオは体操からはじまつた。それは私の寝てゐる二階へまつすぐ聞えた。私は、いつにないラヂオの改まつた放送にすぐ目を覚ました。それは十二月八日の朝であつた。私と吉之助は黙つて顔を見合せるふうにして、軍艦マーチに昂奮する外の気配に身をひそめた。その外の昂奮は奇妙なものだつた。中国の戦争やノモンハンの戦ひで疲れた神経が、はけ口を見つけたやうに、軍艦マーチに煽られてゐた。
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文中で「吉之助」と書かれているのは、もちろん当時の夫だった窪川鶴次郎のことだ。




窪川稲子(佐多稲子)が住む家のごく近く、このラジオをかけていた豆腐屋は早稲田通りに面した店舗ではなく、通りを北に入る露地裏で営業していた店だろう。窪川稲子や藤川栄子、ときに目白町3丁目3570番地からやってくる中條百合子が気に入り好んで花を買っていた、戸塚4丁目591番地の増田屋花店(現存)の裏あたりで開業していた、住宅街の中のこじんまりした豆腐屋ではないか。
◆写真上:カメラマンを意識したのか、1962年(昭和37)撮影のテレ笑いをする佐多稲子。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)に自宅で撮影された窪川稲子(佐多稲子)と長男・健造。中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された藤川栄子。中下は、夫の死後の1935年(昭和10)以降に撮影された藤川栄子と娘の曜子。下は、昭和初期に撮影された窪川稲子。
◆写真中下:上左は、1941年(昭和16)出版の窪川稲子『季節の随筆』(万里閣)。上右は、1949年(昭和24)に出版された佐多稲子『私の東京地図』(筑摩書房版)。中上は、戦後に起ち上げた婦人民主クラブ準備会の記念写真。後列右からふたりめに藤川栄子が、前列右から3人めに佐多稲子、4人めに宮本百合子が写る。中下は、1946年(昭和21)撮影の壺井栄と佐多稲子。う~~ん、壺井栄はやはり大仏さんに見える。下は、1955年(昭和30)撮影の佐多稲子。
◆写真下:上は、1957年(昭和32)に新宿区柏木4丁目971番地(現・北新宿3丁目)の自宅で撮影された佐多稲子。手もとには、愛飲の缶PEACEが見えている。中上は、1961年(昭和36)4月に香川県の高松市立美術館で開かれた藤川勇造遺作展の会場で撮影された、高松と小豆島で同郷の藤川栄子と壺井栄。中下は、1954年(昭和29)9月に藤川アトリエで撮影された藤川栄子と画家をめざす娘の曜子。下は、1921年(大正10)創業の現存する老舗の増田屋花店(現・フラワーショップ マスダ)。
★おまけ
濱田煕が、1995年(平成7)に描いた『昔の町並み』から、藤川栄子と窪川稲子(佐多稲子)が住んでいた家の表通り(早稲田通り)に並ぶ商店街の様子で、1938年(昭和13)ごろを想定している。これらの商店街や藤川栄子のアトリエ、窪川稲子が住んだ家は空襲ですべて焼けている。
◆写真中上:上は、1930年(昭和5)に自宅で撮影された窪川稲子(佐多稲子)と長男・健造。中上は、1935年(昭和10)ごろに撮影された藤川栄子。中下は、夫の死後の1935年(昭和10)以降に撮影された藤川栄子と娘の曜子。下は、昭和初期に撮影された窪川稲子。
◆写真中下:上左は、1941年(昭和16)出版の窪川稲子『季節の随筆』(万里閣)。上右は、1949年(昭和24)に出版された佐多稲子『私の東京地図』(筑摩書房版)。中上は、戦後に起ち上げた婦人民主クラブ準備会の記念写真。後列右からふたりめに藤川栄子が、前列右から3人めに佐多稲子、4人めに宮本百合子が写る。中下は、1946年(昭和21)撮影の壺井栄と佐多稲子。う~~ん、壺井栄はやはり大仏さんに見える。下は、1955年(昭和30)撮影の佐多稲子。
◆写真下:上は、1957年(昭和32)に新宿区柏木4丁目971番地(現・北新宿3丁目)の自宅で撮影された佐多稲子。手もとには、愛飲の缶PEACEが見えている。中上は、1961年(昭和36)4月に香川県の高松市立美術館で開かれた藤川勇造遺作展の会場で撮影された、高松と小豆島で同郷の藤川栄子と壺井栄。中下は、1954年(昭和29)9月に藤川アトリエで撮影された藤川栄子と画家をめざす娘の曜子。下は、1921年(大正10)創業の現存する老舗の増田屋花店(現・フラワーショップ マスダ)。
★おまけ
濱田煕が、1995年(平成7)に描いた『昔の町並み』から、藤川栄子と窪川稲子(佐多稲子)が住んでいた家の表通り(早稲田通り)に並ぶ商店街の様子で、1938年(昭和13)ごろを想定している。これらの商店街や藤川栄子のアトリエ、窪川稲子が住んだ家は空襲ですべて焼けている。


この記事へのコメント
ふるたによしひさ
落合道人
てんてん
落合道人
毎朝の写真を拝見していますが、朝焼けが美しいですね。そろそろ秋色でしょうか。