「バッケが原」は南関東に多く見られた一般名か。

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 落合地域の西寄り、下落合(現・中落合/中井含む)と上落合のバッケ(崖地)=急斜面に挟まれた、谷底を流れる妙正寺川には「バッケの水車」と呼ばれる水車小屋が設置されていた。また、バッケの水車の少し下流にあった灌漑用水用の川堰は、「バッケ堰」と呼ばれている。さらに徳川義恕が描く、あるいは上高田が地元の『ふる里上高田の昔語り』(1982年)に掲載された小規模なバッケ堰は稲葉の水車の上流、上高田と下落合との間にも築造されていた。
 これらバッケの水車またはバッケ堰の周囲は、水田や麦畑が多かったが、大正から昭和初期にかけて耕地整理が行われ、田畑は大量の土砂で埋め立てられ宅地が造成されていった。その過程で、住宅が建てられる前の耕地整理を終えた原っぱのことを、「バッケが原」または「バッケの原」と呼んでいた。落合地域でいえば、早い時期から耕地整理が行われていた上落合の西部が「バッケが原」と呼ばれていたようだが、大正後期から昭和期にかけては落合地域の西側、上高田の耕地整理が進んだエリアを、そう呼ぶようになったようだ。
 もちろん、バッケには東京西部の小金井国分寺ハケと同様に、各所で噴出する湧水が豊富な急斜面あるいは崖地の近くに見られる地形の呼称で、落合地域の周辺では戸塚町下戸塚(現・早稲田3丁目)に、1932年(昭和7)まで住所として使われた「(字)バッケ下」という字名が残されていた。また、同じ戸塚町の上戸塚(現・高田馬場4丁目)の崖下にも、小規模な「バッケが原」と呼ばれた原っぱが存在していたのを、同地域で育った濱田煕がイラストとともに記録している。
 湧水が豊富な崖地や急斜面のことをバッケと呼称するのは、おそらく江戸東京の市街地の随所でつかわれた方言だと思われ、各地の崖地や急斜面に残る「バッケ坂」「オバケ坂」「化坂」、ときに「八景坂」「幽霊坂」へと転化していったらしいことは、これまでに何度も記事に書いてきた。では、崖地や急斜面の下に拡がる原っぱのことを、「バッケが原」あるいは「バッケの原」と呼称していた地域は、落合地域とその周辺域以外にもあるだろうか? それを調べて、ちょっと深く掘り下げてみようというのが、きょうの夏休みの宿題的なテーマだ。
 かつて引用した『広辞苑』(岩波書店)には、関東地方でつかわれてきた「ハケ」とともに「バッケ」の意味は掲載されているが、「バッケが原」あるいは「バッケの原」までは掲載されていない。そこで、かなり古めな地名辞典や方言辞典ではどうだろうか? そこで、江戸東京地方の方言とともに地名なども数多く採取されている、1970年(昭和45)に校倉書房から出版された、山中襄太の『方言俗語語源辞典』を参照してみた。以下、「ばっけ」の項目を少し長いが引用してみよう。
  
 ばっけ
 崖。がけ。茨城県久慈郡、千葉県印旛郡。 [考<察>] 関東でガケの意。関東地方の地誌を調べているという竹田義氏によれば、川沿いの雑木林や、川や林にかこまれたくぼ地や野原に、バッケとか、バッケの原という地名があるという。西武新宿線中井駅と新井薬師前駅との中間北側にも、もとバッケの原<地元では「バッケが原」の呼称が多い>があって、そのころ消防の演習などをよくやったものである。八景坂という坂がある。東京都大田区大森貝塚のある木原山(20mほどの丘陵)の東の坂。八景とは当て字。この地方の方言でガケのことをハッケ、ハケという。すなわちがけ坂の意。ハケ、ハッケは、バッケ、バッカ、バッカイ、ハガ(芳賀)、ホケ、ボケ(歩危)と同義で、ガケ(崖)、カケ(欠、缼)という語とも同源で、音が変ったものであろう。hの音とkの音とが変わる例――ハじかむ~カじかむ(寒さで手が)、ヒらめく~キらめく、フたばる、へたばる~クたばる。フすぼる~クすぼる(燻)、フくむ~クくむ(含)、へずる~ケずる(削)……(以下略)  (< >内引用者註)
  
上高田1935頃.jpg
バッケ1933頃.jpg
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 一般的な『広辞苑』などではなく、ちょっと昔の方言辞典類を調べていれば、「バッケ」についてより詳しいことが判明していたかと思うと、少々時間をムダにした残念な思いもするけれど、著者は「八景」という言葉も「バッケ」ないしは「ハケ」の転化(転訛)だと考察している。
 拙記事では、これまで大森地域の八景坂や江戸期からつづく「大森八景」、あるいは同様に三浦半島も近い横浜の「金沢八景」についても記事にしていた。また、「〇〇八景」という眺めの良い場所にふられた風光明媚な観光地も、もともとはバッケあるいはハケ=崖地や急斜面にちなんだ呼称が語源ではないかとも書いていた。なお、文中に登場している地誌の専門家らしい竹田義という人物の著作は、残念ながらどこにも見つけることができなかった。
 『方言俗語語源辞典』によれば、バッケあるいはハッケ、ハケなどという地形を表現する地名は、茨城県や千葉県、東京都(江戸期からつづく市街地内外)などに見られる地形方言のようだが、先の金沢八景のように神奈川県にもバッケと呼ばれた地名は存在している。しかも、横浜市に残るのは上高田と同様に、「バッケが原」と呼ばれた崖地の下に拡がる原っぱだった。江戸期には、処刑場としても使用されていた原っぱで、以前から寺院も建立されている。1994年(平成6)に230クラブ新聞社から出版された、小寺篤『鶴見川・境川流域文化考』から少しだけ引用してみよう。
  
 横浜市神奈川区片倉町に長遠寺がある。元禄以前には風土記稿が小名としてあげている「本宮」の地が寺の在処であって浄遠寺と称した。住職海浄師によると、もとその場所には処刑場があり、「バッケが原」と呼ばれていたという。片倉村は「昔上杉北條等の分国ニシテ」と誌され、近世では天領の代官支配また旗本支配の時期もあったというから、いずれそのあたりの裁断処刑の地であったのであろう。しかしここにもロウバをつけた地名はなく、「バッケが原」である。
  
 著者は、「ロウバ」という音の地名を探して横浜市内の河川沿いを探索しているのだが、その過程で鳥山川沿いに「バッケが原」と呼ばれる地名を発見している。
 長遠寺のある崖地の地域は、室町期の早くから開拓されていたようで、「上杉北條等」という証言が残ることから、室町期の関東管領だった山内上杉氏ないしは扇谷上杉氏、その後は駿河から伊豆の伊勢氏(後北條氏)の所領地だったことがわかる。つまり、鎌倉期のすぐあとから開拓されていた地域とみられ、古い地形方言もそのまま受け継がれてきたのだろう。現在、長遠寺の周辺は住宅街で埋まり、昔日の崖地や「バッケが原」を見ることはできないが、宅地造成で崖地や急斜面が修正されてもなお、北西側と東側へと落ちこむ地形は昔日の面影をとどめているようだ。
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戸塚バッケが原跡.JPG
方言俗語語源辞典1970校倉書房.jpg 鶴見川・境川流域文化考1994.jpg
 横浜の「バッケが原」は、近世になると処刑場があったとされているので、バッケの意味が通じにくくなった明治以降、「オバケ」や「幽霊」と容易に結びついていきそうなことも想像できる。片倉地域で、「オバケ坂」あるいは「幽霊坂」と呼ばれる坂道や、処刑場だったバッケが原にまつわる怪談話も、地元で色濃く伝承されていそうだ。別に処刑場など関係がない、都内の崖地や急斜面に通う坂道だったバッケ坂が、近代に入ると容易に「オバケ坂」や「幽霊坂」に転訛(転化)しているのを想定すると、樹木が繁茂して開墾や開発がされにくい地形に通う坂道は、昼なお暗く不気味で、いかにもオバケや幽霊が出現するのにふさわしい風情だったろう。
 さて、「バッケ」や「ハッケ」、「ハケ」などとともに、もうひとつ関東地方の方言で気になる地形表現がある。これは、ずいぶん以前に調べた憶えがあるけれど、川筋や海岸の平地から丘陵へと鋭く切れこむように形成されている谷間のことを、谷と書いて「ヤツ」と発音するケースだ。この呼称は、一般的な地形名称でいえば「谷戸(ヤト)」のことだが、特に関東地方の南部に多くみられ、神奈川県や千葉県、東京都の南部に数多く分布しているようだ。ときには、谷で「ヤツ」とは読みにくいせいか、谷津と「ツ」がふられた地名も見かける。
 先の関東管領だった上杉氏から引用すれば、鎌倉に赴任して館をかまえたのが扇ヶ谷だったため、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と呼称されている。神奈川県の鎌倉には、谷のことを「ヤツ」と発音する地名が多く、二階堂ヶ谷(にかいどうがやつ)や釈迦堂ヶ谷(しゃかどうがやつ)、犬懸ヶ谷(いぬかけがやつ)など数が知れない。ちなみに、犬懸ヶ谷に館をかまえた上杉氏は犬懸上杉氏と呼ばれていた。そして、このような呼称は千葉県にも多く見られる特徴だ。
 これはあくまでも私見だけれど、もともと古くから関東南部で使われていた谷(ヤツ)の呼称だが、鎌倉時代に武家政治の中心地である鎌倉へ館をかまえる、全国各地の守護(大名)や国人(地付きの有力武士)が多くなり、鎌倉での呼称が関東各地(あるいは全国)へと拡散していったのではないか。千葉県に多いのは、鎌倉幕府の有力御家人だった千葉氏の本拠地だったせいか、あるいはもう少し時代が下り本来は鎌倉公方だった足利氏が、関東管領の上杉氏との対立で鎌倉を追われ、下総国で古河公方を名乗るようになったころに拡散されていったものだろうか。
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戦旗192812.jpg 吉田とし「バッケの原の物語」1987小峰書店.jpg
 さて、なぜ「バッケ」あるいは「ハケ」がテーマの文章に「ヤツ」が登場しているのかといえば、これらの呼び名がふられた地方地域が重なるように感じるからだ。もちろん、バッケ・ハケ=崖地や急斜面には、湧水の浸食で形成されたヤツ=谷・谷津・谷戸が多いのはあたりまえだが、いろいろ調べていると、呼称としての音の共通分布が「バッケ」「ハケ」と「ヤツ」の地域は近しいのではないかという感触をおぼえた。原日本語(アイヌ語に継承)で考えると、「パケ(pake)」は頭や先端・淵などの意味であり、「ヤチ(yati)」はそのまま谷間や谷地の意味になる。古朝鮮語が混じらない、それほど古くからの日本語であるならば、東日本に多いのもうなずけるのだが……。

◆写真上:1933年(昭和8)に撮影された、学生たちの郊外散策をとらえた記念写真。カメラマンの位置が上高田のバッケが原で、写っている丘陵は下落合の西端。手前には妙正寺川が流れており、学生たちが並んでいる坂道の名は昔もいまも「バッケ坂」。
◆写真中上は、1936年(昭和11)に撮影された上高田のバッケが原。は、1933年(昭和8)ごろに撮影された下落合のバッケ下を歩く女性。左手が上高田のバッケが原で、右手には下落合西端の丘陵に地層がむき出しのバッケ(崖地)が見えている。は、同じくバッケが原から戦後すぐのころに撮影された下落合西端の丘陵で冒頭写真とほぼ同じ場所。
◆写真中下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にとらえられた上戸塚のバッケが原。は、上戸塚にあったバッケが原の現状で、現在は斜面に集合住宅群が建てられている。は、1970年(昭和45)に出版された山中襄太の『方言俗語語源辞典』(校倉書房/)と、1994年(平成6)に出版された小寺篤『鶴見川・境川流域文化考』(230クラブ新聞社/)。
◆写真下は、1966年(昭和41)の空中写真にとらえられた横浜市神奈川区片倉町の長音寺界隈。同寺の周囲は丘陵になっており、バッケ(崖地)があったのは北東側だろうか。は、長音寺のある丘の現状。下左は、上高田のバッケが原が登場する槇本楠郎『文化村を襲った子供』が収録された1928年(昭和3)の「戦旗」12月号。下右は、1987年(昭和63)に出版された吉田とし『バッケの原の物語』(小峰書店)だが、本来のバッケとは無関係なオバケのいる原っぱのこと。彼女は静岡の富士市出身だが、故郷の近くにバッケの原と呼ばれた原っぱがあったのかもしれない。

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