近衛町通り沿いで暮らした溝口健二。

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 以前、大泉黒石の記事に登場した監督・溝口健二『血と霊』(1923年)をご紹介したことがある。その一連の記事の中で、大泉黒石が娘を連れて近所を散歩をする際に、「彫刻家、画家、映画の監督さんの家」(大泉淵の記憶)に立ち寄ったという証言から、日活向島撮影所の脚本部時代からの知りあい、すなわち『血と霊』を共作した溝口健二も含まれているのではないかと書いた。事実、昭和初期に溝口健二は京都から下落合へ転居してきている。
 溝口健二が下落合へ引っ越してきたのは、1936年(昭和11)10月初旬あたりとみられる。同月発行の「キネマ週報(The movie weekly)」10月23日号(キネマ週報社)によれば、淀橋区下落合1丁目421番地(現・下落合3丁目)の新居に移ったと告知されている。この住所は、近衛町のすぐ北側にあたる区画で、少し前にご紹介した大正初期のミニ文化村「愛隣園」や、舟橋家による宅地開発地の近衛町通りをはさんだ東側にあたる。美術の領域にからめて書くと、日本画家で洋画家の夏目利政アトリエから、近衛町通りをはさみ2軒東隣りの敷地だ。
 溝口健二は、1898年(明治31)に本郷区の湯島新花町で生まれたが、幼少のころ父親が事業に失敗し転居先の浅草で育った時期が長かったせいか、友人知人たちには浅草っ子と称していたようだ。日活に入社し、本所の向島撮影所に勤務するが、25歳のときに関東大震災で向島の撮影所が閉鎖されると、京都の大将軍撮影所へ転勤になっている。京都では、第一映画社で仕事をつづけていたが、同社の解散でおよそ13年ぶりに東京へもどっている。
 溝口健二については、大泉黒石に関する記事のほか、拙サイトにはけっこう登場していたことに改めて気づく。雑司谷旭出43番地(現・目白4丁目)に住んでいた入江たか子に関連し、溝口監督の『瀧の白糸』(1933年)をご紹介していた。また、大阪朝日新聞社の依頼で飛行機に乗り、大阪各地を撮影した『朝日は輝く』(1929年)、散歩で訪れる近くの雑司ヶ谷鬼子母神(きしもじん)が舞台の『残菊物語』(1939年)、戦中戦後の郊外生活についての記事や大岡昇平原作の『武蔵野夫人』(1951年)などだ。さらに、1933年(昭和8)12月以降に上落合の公楽キネマで上映された(とみられる)、溝口作品(『瀧の白糸』)なども記載していた。
 さっそく、1938年(昭和13)に作成された「火保図」をひっくり返して、めざす下落合1丁目421番地を探したのだが、「火保図」自体が見あたらない。山手線のすぐ西側に接した、この下落合一帯の「火保図」は「豊島區No.76」となるはずだが見つからないのだ。念のため、「火保図」に詳しい友人に訊いてみたところ、そもそも「欠番かも」(爆!)ということだった。「火保図」は、たまに区と区の境界あたりの住宅地については出版していないことがあり、たとえ「豊島區No.76」が見つかったとしても、豊島区側にあたる旧・(字)金久保沢の住宅街は描かれていても、淀橋区側の下落合は記載されておらず、空白のままの可能性が高いとのことだった。戦前の住宅街を網羅していると考えていた「火保図」にも、印刷漏れがゴッソリとあったわけだ。
 具体的な住所でいうと、下落合1丁目418番地にあたる下落合三丁目駐在所(旧・丸山派出所/下落合一丁目駐在所)から、同450番地の住宅=「下落合事情明細図」でいうと山本邸(現・清水歯科ビル)まで、東へ三角形に張りだした下落合側の「火保図」が欠落していることになる。おそらく、火災保険特殊地図プロジェクトの調査員は、まちがいなく同エリアの住宅を採取して歩いていると思われるが、それを地図として作成・編集する過程で、なにかの手違いから漏れてしまったのではないか。したがって、1938年(昭和13)現在の住民名は調べようがなかった。
 ちなみに、「下落合事情明細図」では同所に「竹岡陽一」邸と記載されている。竹岡陽一は『落合町誌』(落合町誌刊行会)によれば、下落合の林泉園松永安左衛門邸をはじめ、社宅が広く展開していた東邦電力の常務取締役だ。1936年(昭和11)に撮影された空中写真をはじめ、戦前・戦中の米軍偵察機F13による偵察写真を含めて観察すると、敷地内には2棟の住宅が東西に並んで建っているように見える。竹岡家では東邦電力を退職後、生活の足しになるよう敷地内に貸家を建てていた可能性がある。その貸家を、1936年(昭和11)10月より溝口健二が借りて住んでいたものだろうか。
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溝口健二・夏川静江・藤原義江「ふるさと」1930.jpg
 下落合時代の当時、溝口健二の様子を伝えるインタビュー記録が残されている。1970年(昭和45)にダヴィッド社から出版された、岸松雄の『人物・日本映画史』第1巻から引用してみよう。
  
 昭和十一年九月、第一映画社は「浪華悲歌」「祇園の姉妹」をおきみやげにして解散、永田雅一は新興キネマ京都撮影所長になり、溝口健二もそのあとにしたがい新興キネマの東京撮影所にはいった。と同時に、京都住まいをやめて東京下落合に移転した。溝口の東京生活がふたたびはじまる。(中略) 東京に久しぶりに帰って来た溝口健二が何を撮るかは相当に話題となった。明治物をやりたくないかと聞かれればいろいろおもしろい明治物の材料はあるが、前とは社会情勢が少し変わって来ているし、検閲も厄介だ。だいいち、考証にあまり努力するのは、それにとらわれて、かんじんの筋をおろそかにしてしまう、と溝口は過去の明治物の未熟さを反省していた。
  
 東京での映画製作には、かなり慎重になっていた様子がうかがえる。あるいは、ようやく東京にもどれたので、しばらくは充電(休養)のつもりでいたものだろうか。
 この時期、文中にもあるが京都の第一映画で製作した、『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』が1936年(昭和11)に公開されている。それ以前の数年間、第一映画では年に2本あるいは4本と、彼は旺盛な製作意欲を見せていた。たとえば、前年の1935年(昭和10)に公開された作品には『折鶴お千』『マリヤのお雪』『お嬢お吉』『虞美人草』の4本が、前々年の1934年(昭和9)には『愛憎峠』『神風連』の2本が公開されている。ところが、東京へもどった年に新興キネマで製作したのは、『愛怨峡』の1本のみだった。彼の言葉にもあるが、戦時体制になり「社会情勢」が変わって、「検閲も厄介」になりつつあるのが影響していたのかもしれない。
 さて、もうひとつ、下落合の溝口健二には厄介な課題がある。彼の一般的な年譜では、1936年(昭和11)に下落合1丁目421番地に転居してきて、翌1937年(昭和12)には目白通りのすぐ北側にあたる、長崎南町(番地は不明/のち椎名町)に転居となっている。
 ところが、「文芸年鑑」(作品社)の溝口健二の項目には、1936年(昭和11)から1940年(昭和15)まで、自宅は下落合のままになっている。1937年(昭和12)の長崎南町への「転居」は、大泉(練馬)にあった撮影所に通うのに便利だからと説明されている記述も見かけるが、長崎南町の家は家族が住む自宅とは別に、仕事部屋として借りていたのではないか。そして、下落合(あるいは長崎南町)に住んだあと、1940年(昭和15)には京橋区新富町2丁目21番地へ転居している。
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岡田時彦・梅村蓉子・夏川静江1929.jpg
溝口健二と田中絹代「浪花女」1940.jpg
溝口健二「残菊物語」デジタルリマスター版1939.jpg 溝口健二「武蔵野夫人」1951.jpg
 溝口健二の性格については、さまざまな証言が残されている。たとえば、1958年(昭和33)に津村秀夫が書いた『溝口健二というおのこ』(実業之日本社)をはじめ、1964年(昭和39)に出版された依田義賢の『溝口健二の人と芸術』(芸術社)、1976年(昭和51)に新藤兼人が撮影したドキュメンタリーを本にまとめた『ある映画監督』(岩波書店)などに詳しい。特に新藤兼人のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯』では、溝口映画にもっとも多く出演した田中絹代の証言など、生前の溝口健二を知る人々の肉声も含まれていてたいへん貴重だ。
 上記の証言類を踏まえ、1984年(昭和59)に文藝春秋から出版されたのが戸板康二『泣きどころ人物誌』だった。著者は、かつて黒澤明小津安二郎とは面識があったが、溝口健二にはついに会えずじまいだったと残念がっている。同書より、溝口の性格について少し引用してみよう。
  
 津村(秀夫)も依田(義賢)も新藤(兼人)も、溝口を深く敬愛していて、そのあたたかい心持があるために、場合によってかなりズケズケ辛辣に記述してあっても、読んでいてすこしも不快でない。/溝口は、この本以外の文献もふくめて、数えきれぬほどの伝説を持ち、「ちょっといい話」が、星の数のようにある。(中略) 溝口は完全主義者で、ひとつの作品を作ろうとする時になると、まるで常人ではなくなったらしい。無茶苦茶なことをいい出して、スタッフを泣かせた。/すぐれた芸術家にありがちの、天才と紙一重の狂気もあった。津村(秀夫)の本には、「悪口雑言のかずかず」「サディスト」という章が設けられている。/そういう人物にも、また純情があった。じつはそれが私にとっては救いともいいたいので、溝口には恋人という関係にははいらなかったが、死ぬまでひたすら思慕していた女性がいた。それが、田中絹代であった。(カッコ内引用者註)
  
 溝口健二+田中絹代のコンビは、1940年(昭和15)の『浪花女』にはじまり、戦後の『武蔵野夫人』(1951年)、『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『祇園囃子』(1953年)、『山椒太夫』(1954年)など円熟期の代表作へとつづいていく。
 田中絹代でちょっとだけ余談だが、「カマトト」という言葉は彼女の質問に由来するという伝説がある。彼女が「かまぼこって、おトト(魚)なの?」と誰かに訊いたため、誰でも知っていることを改めて訊きなおすのを「カマトト」といいはじめた……という語源譚だ。確かに、田中絹代ならなんとなく口にしそうな質問だ。「おトト」は魚(肴)の幼児語で、江戸期の安永年間ごろから盛んにつかわれていたようだが、古い東京方言で「おトト」というと魚とは別に酒の幼児語でもある。
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 戦後の代表作『西鶴一代女』(1952年)には、笹屋の番頭・文吉に大泉黒石の息子・大泉滉が出演している。同作品がヴェネツィア国際映画祭で「国際賞」を受賞したとき、映画スタッフたちは全員が狂喜したと思われるが、溝口健二にかかわった大泉黒石と大泉滉も親子で喜んだのだろう。

◆写真上:映画のセットでなにかを熟考する、「サディスト」で「完全主義者」の溝口健二。
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる竹岡陽一邸。中上は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる竹岡邸。敷地内には2軒の住宅が確認でき、いずれかを溝口家が借りていたとみられる。中下は、溝口健二邸跡の現状(左角マンション)。は、1930年(昭和5)製作の『ふるさと』(日活)で左から夏川静江、溝口健二、藤原義江
◆写真中下中上は、1929年(昭和4)に製作された泉鏡花が原作の『日本橋』(日活)。出演者は右から左へ岡田時彦、梅村蓉子、夏川静江。中下は、1940年(昭和15)に『浪花女』(特作プロ)を撮影中のスナップで溝口健二と田中絹代(右)。は、近年にデジタルリマスタリングがほどこされて画質が格段に向上しBDやDVDで発売された、1939年(昭和14)に製作された『残菊物語』(松竹/)と、戦後の1951年(昭和26)に製作された『武蔵野夫人』(東宝/)。
◆写真下は、小金井ハケを舞台にした『武蔵野夫人』(1951年)のシーンで右から左へ田中絹代、轟夕起子、山村聰森雅之中上は、1952年(昭和27)製作の『西鶴一代女』(新東宝)のシーンで中央が田中絹代。中下は、1953年(昭和28)に製作された『雨月物語』(大映)で森雅之と田中絹代。は、1954年(昭和29)に製作された『山椒大夫』(大映)で右からふたりめが田中絹代。
おまけ
 『西鶴一代女』(新東宝/1952年)のポスターと、同作に笹屋の番頭として出演していた大泉滉。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年05月28日 20:30
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    スマホに貼った保護フィルムがボロボロなので、わたしも指滑りさらさらの
    「割れないFILM アンチグレア」が欲しくなりました。
    2026年05月28日 21:10

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