理論物理学を専攻した田辺尚雄が語る霊体験。

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 目白通りの北側に張りだした下落合の一画、下落合(1丁目)546番地に東洋音楽の研究者だった田辺尚雄が住んでいた。こちらでは何度も記事でご紹介している、大久保作次郎アトリエの3軒西隣りの敷地だ。また、早稲田中学校では曾宮一念の恩師だった経緯も、その怪談好きとともにご紹介しており、目白文化協会の記事にもメンバーのひとりとしてその名前が登場している。それ以前に住んでいたのは、日本女子大学校近くの高田老松町だったが、1917年(大正6)に新居を建設して下落合に転居してきている。
 田辺尚雄は、四谷区西信濃町で生まれた四谷っ子なのだが、ちょっと変わった学歴の持ち主だ。母親の死去からしばらくして養子にだされ、大阪で府立第五中学校を卒業している。東京へもどると、梧蔭塾で剣道(剣術?)を習い、宮内省の楽師にヴァイオリンを習いながら、東京物理学校(現・東京理科大学)で物理学を勉強している。つづいて、第一高等学校の二部へ入学し、同時に東京音楽学校(現・東京藝大音楽部)の選科に入り、引きつづきヴァイオリンを習得している。そして、1904年(明治37)に一高を卒業すると、東京帝大理科大学理論物理学科に入学する。また、同時にノエル・ペリというフランス人の教師について和声学と作曲法などを学びながら、東京音楽学校で結成されたオーケストラで第二ヴァイオリンを担当している。
 東京帝大を卒業すると、同大大学院で音響学を専攻し、つづいて同大文学部心理学科に聴講生として入学、次に同大学医学部の生理学科の聴講生として通学している。このあと、田中正平の邦楽研究所へ入り、日本舞踊や長唄清元謡曲、花柳流舞踊、村山流舞踊などを修得している。こうして、ようやく俳優学校の教師として就職している。だが、わずか1年間で辞めてしまい、東洋音楽学校の音楽講師、つづいて早稲田中学校の物理および数学教師に就任している。曾宮一念が中学で、「田辺先生」から物理の授業を受けたのはこの時期のことだ。1909年(明治42)に八重子夫人と結婚すると、早稲田中学も辞めてしまい、今度は東京音楽学校の邦楽調査嘱託として勤務するが、わずか3ヶ月で退職している。
 その後、東京盲学校嘱託講師として勤務するが、勉強はこれで終わりではなかった。宮内省楽師の薗兼明に入門して笙や舞踊を学び、大原重朝(伯)・重明父子について歌披講や催馬楽、神楽歌、琵琶の演奏を学んでいる。その後も、職を転々としながら勉強をつづけた。
 まあ、なんともめまぐるしい学歴で、入学した学校や入門した習いごとを書くだけで履歴書のほとんどが埋まってしまいそうなほどだ。おそらく、学校の勉強や習いごとが大好きな少年・青年時代だったのだろう。しかも、剣道(剣術?)にヴァイオリン、理論物理学、音楽(邦楽・和声学・作曲法)、生理学、舞踊とあまり横のつながりがなさそうに見えるが、田辺尚雄の内面ではそれらが密接に絡みあい、ひとつの筋道として見えていたのかもしれない。わたしなら、勉強ばかりで遊ばない、オレはもうすぐ気が狂う……の精神状態に陥りそうな学習の密度だ。
 そんな彼が、初めて霊体験をしたのは、1914年(大正3)に養母が死去して通夜が行われた、東北帝国大学理学部に臨時嘱託講師として出向していた下落合時代だ。当時のいきさつを、1965年(昭和40)に青蛙房から出版された、田辺尚雄『明治音楽物語』から引用してみよう。
  
 幽霊や亡霊などというものが果して実在するか否か。有るとも言えないし、また無いとも断言出来ないし、大いに迷っている。私は物理学を専攻した人間であるから、「亡霊などというものは実在しない。それは心の迷いだ」と断言したいのであるが、実際迷っている。いま私の周囲に起った二、三の思い出話をして見よう。/前に申したように、私の母は大正三年夏に六十一歳を一期として、観音林の邸に於いて死んだ。葬儀まで約五日間ほど棺を宅に置いて一同で焼香を続けていた。初めの一日や二日は多くの人でお通夜していたが、一同も疲れたので、三日目の夜は私一人でお通夜することになった。(中略) 伯母はそのころ神戸に住んでいた。母の死に際し、初めの二日間ほどはお通夜をしていたが、何しろ年をとっていて疲れるからというので、三日目の朝神戸の自宅に帰って休息し、五日の葬儀の日には来るからと言って帰ってしまった。
  
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 3日目から、田辺尚雄がひとりで通夜をして線香を焚いていたのだが、徹夜つづきであまりに眠くなり、つい夜半すぎに隣りの部屋で寝入ってしまった。
 すると、翌朝に神戸へ帰ったはずの伯母が駆けこんできて、「お線香の煙が絶えているではないか。昨夜は誰もお通夜をしなかったのか」と、田辺尚雄を起こして責めたてた。なぜ、線香の煙が絶えたのを知ったのかと訊くと、伯母が熟睡していたら冷たい手で揺り起こす者がいる。ふと目をさますと、枕元には死んだはずの妹が座っていて、「誰もお線香を上げてくれる者がいなくて寂しいから、早く来て下さい」と、かすかな声で訴えられた。だから、夜明けを待たず神戸から飛んできたのだと答えた。確かに通夜をせずに寝てしまい、線香をあげなかったのは事実なので、田辺尚雄は伯母のいうことを事実として受けとめた。このとき、彼は31歳だった。
 伯母は、田辺尚雄ひとりでちゃんと通夜を行い、線香の煙を絶やさないようにできるだろうかと、不安を抱えながら神戸に帰ったせいで、その不安心理から死んだ妹が現れて、その懸念を訴える妙な幽霊の夢を見てしまったのだ……というような、心理学的な解釈が可能だと思うのだが、田辺尚雄は伯母にそのような反論をしなかった。また、そのように受けとめてもいない。なぜなら、彼自身が15歳のとき、実際に幽霊(あるいは妖怪)を目撃したことがあったからだ。
 田辺尚雄が、まだ養家である大阪島之内の南錦屋町に住んでいた15歳のころ、夜中の2時ごろに火事を知らせる半鐘が鳴り響いて目をさました。さすが、根は四谷っ子の彼には火事というと飛び出して見物にいくクセがあり、物干し台から街を見まわしたが火災は見えない。次に庭のキリの木に登り、母家の屋根のてっぺんに登って周囲を見わたしたが、すでに火事は鎮火したらしく火炎も煙も見えなかった。大阪の夏は酷暑であり、せっかく登った屋根の上が涼しく気持ちがいいので、少し涼をとってから降りようとしばらく腰かけていた。
 その深夜の情景を、田辺尚雄の『明治音楽物語』からつづけて引用してみよう。
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 私は科学者であるから、幽霊などは信じないと言いたいところであるが、実は私は幽霊と無心で話をしたことがある。(中略) その夜は晴天であったが月は出ていなかった。私の周囲は全く闇であった。ところが(屋根のてっぺんにいる)私の前三メートルばかり離れたところに、浴衣を着た一人の女が立っている。暗中にも拘わらず、着物の模様までハッキリと浮び上がって見えている。髪もキチンと結ってある。当時物理学に凝っていた(15歳の)私は、幽霊だの妖怪などというものは全く信じていなかった。それ故そのとき私は、下から宅の女中が火事を見に登って来たものと思って、/「火事はモウ消えたよ。早く下りて寝なさい」/と言ったら、その女は黙ってニコッと笑ったが、その顔には眼も鼻もなく、ただ口だけあって、その口を大きく開いて笑うと同時に、スーッと消えてしまって何もない。(カッコ内引用者註)
  
 田辺尚雄は、いま自分が見たものが信じられず、屋根から降りるとさっそく女中部屋にいって、熟睡している3人の女中を起こし、「今誰か二階の屋根に火事見に登ったか?」といちいちウラ取りをしている。だが、女中たちは寝ていたのであり、半鐘や火事のことも知らなかったようだ。その事実を確認すると彼はゾーッと総毛だち、怖くて2階の自分の部屋に帰ってひとりで寝ることができず、そのまま女中部屋の片隅で寝かせてもらっている。
 どうやら、田辺尚雄が見た幽霊(または妖怪)は、中野区教育委員会が『口承文芸調査報告書/中野の昔話・伝説・世間話』(1987年)で採取している妙正寺川の怪異譚や、脚本家で作家の長島槇子が『人間じゃない』というエピソード(2014年)のなかに出現する、上高田の光徳院にある墓地付近のオバケとそっくりなことに気づく。大きな口だけが目立ち、他の顔の部位が見えないのも同一だ。これを幽霊ととらえるか、または妖怪と規定するかは課題だが、田辺尚雄はその双方とも否定していない。そういう意味で、彼は真の科学者だったといえるのだろう。
 現代の科学で解明できている範囲のみを規範として、なんでもすべてが説明できてしまうと考える科学教(?)の信者ではなく、不明なことは不思議のままにしておき、いつか科学がより発展すれば解明できるかもと、安易な判断や規定・断定を留保するのは、自然・社会・人文各科学分野の研究者には欠かせないデフォルトの謙虚な姿勢であり、いわば学究の徒には不可欠な資質・性向だろう。現象を不思議に感じ問題意識や“仮説”をもたなければ、そもそも科学の進歩はありえない。
  
 私は科学愛好者であって、妖怪だの幽霊だのを全く信じていなかったので、大屋根の上で女のまぼろしを見たときも、全く虚心平気で、別にこわいとも思っていなかった。つまり「怖い怖い」と臆病の気持ちで錯覚を起こしたのではないから、一体確かにこの眼で見たまぼろし――それから七十年も経た今日でも、そのまぼろしはハッキリと記憶に映じている――は、そもそも何であったのであろうか。今だに不思議に堪えない。
  
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 田辺尚雄は、梧蔭塾で剣道(剣術?)を習っているとき、塾生たちと徹夜で百物語の会を開いている。その会では、幽霊画をうまく描けるからと、彼が会場のコーディネイトを任されていた。彼は数枚の幽霊画を描いて会場にぶら下げたが、百物語が進みはじめると、そのなかに描いたはずのないモノがひとつ混じっていた。それを確かめようと近づくのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:ちょっと危ない雰囲気が漂う田辺尚雄(右)邸の庭先で、このノリは下落合2080番地のアトリエにいた金山平三以来だ。ザルをかぶった虚無僧に、刃(やいば)を向ける武士=田辺尚雄は、当時流行りの怪談本『虚無僧の辻斬り』の読みすぎなのか?
◆写真中上は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる田辺尚雄邸で、一家は東側の近所にある小川写真館の常連でもあった。中上中下は、1936年(昭和11)と1947年(昭和22)の空中写真にみる同邸。この一画は、空襲による被害を受けていない。は、1907年(明治40)に撮影された東京帝大の学生時代()と、晩年の田辺尚雄()。
◆写真中下は、下落合と目白町の境界となる田辺邸前の通りで、手前の陰になっている側が田辺尚雄邸。中上は、同じ通りから田辺邸の門をとらえた写真。中下は、田辺邸(右手)の門前の道で撮影された家族写真で道路の奥が目白駅方面。は、1944年(昭和19)に撮影された田辺尚雄の書斎。さまざまな楽器や、海外の土産物がところ狭しと並んでいる。
◆写真下は、田辺邸の西陽が当たる庭で背後の屋敷は加美山邸とみられる。中上は、1922年(大正11)1月10日に田辺邸の庭にできた樹氷。中下は、1927年(昭和2)8月16日撮影の発明した「玲琴」を弾く田辺尚雄。は、下落合537番地の小川写真館で撮影された家族の肖像。
追記
 佐伯祐三をテーマに、「オトナの教養講座」で拙サイトの記事を取りあげてくれた山田五郎様が、この7月14日に亡くなった。一度だけ食事をご一緒したことがあるが、博学で面白く話がつきずにとても気さくで謙虚な方だった。心より、ご冥福をお祈りしたい。(Click!↓)
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おまけ
 おそらく低予算でロケ地をいろいろ選べず、ロケ隊も移動できないせいか下落合の半径180m以内で3話分を撮影してしまったDシネマ『戦慄ショートショート・コワバナ/黒い部屋』(2012年)。下落合の東部にお住まいの方なら、すぐにロケ場所が特定できるだろう。どうやら山手線沿い近くの下落合には、田辺先生もビックリないわくつきの「黒い部屋」がずいぶんあるようなのだ。w
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年07月24日 22:36
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    部門の1位、おめでとうございます。
    2026年07月25日 11:07
  • 蝦夷猫

    いつも素敵な記事ありがとうございます。
    実は山田五郎先生の動画を見て、こちらを知り、拝読させていただいております。
    氏には感謝しかありません。
    2026年07月27日 22:46
  • 落合道人

    蝦夷猫さん、ごていねいにコメントをありがとうございます。
    わたしも拙サイトをご紹介いただいて、山田様には感謝でいっぱいです。
    相変わらずの拙記事ですが、今度ともよろしくお願いいたします。
    2026年07月28日 10:12

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