下落合の家が焼け転々とする女性新聞記者。

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 戦時中、下落合に住んでいた女性の新聞記者がいた。住所は不明だが、秋田県の県立本荘高等女学校を卒業すると東京へやってきて、山根真治郎が設立し院長をつとめる日本新聞協会付属新聞学院へ入学している。同学院を卒業すると、有楽町駅前の毎日新聞社(現・ビックカメラ有楽町ビルの敷地)に就職した。名前を杉野糸子といい、結婚してからは古谷糸子の名前で評論家活動もしているので、ご存じの方も多いのではないか。
 下落合から目白駅で山手線に乗り、有楽町まで毎日出勤していたが、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で、下落合(現・中落合/中井含む)の自宅が全焼している。下落合では、アパートに住んでいたのか借家だったのか、あるいは下宿生活だったのかは不明だが、「下落合の家」と書いているので借家でのひとり住まいだったのかもしれない。また、おもに鉄道や幹線道路、河川沿いの工業地帯がねらわれた第1次山手空襲で罹災しているので、目白駅もほど近い下落合の東部に在住していたのだろう。
 4月13日夜半の空襲で罹災したあと、杉野糸子はおそらく九段近くに改めてアパートか下宿を借り直しているとみられるが、今度は1ヶ月後の5月25日夜半の第2次山手空襲で焼けだされ、ついに帰るところがなくなってしまった。彼女はそのまま、九段の焼け跡に掘られた防空壕で寝たり、本郷の東京帝大前にあった毎日新聞社寮へ布団を背負って歩いたりしている。その途中でも空襲に遭い、道端で布団をかぶってすごしたこともあったようだ。
 杉野糸子は、毎日新聞社で文化部に所属していたが、戦争の激化とともに文化部は廃止され、「特別報道部」という聞きなれないセクションに配属されている。特別報道部とは、大本営から発表される「戦果」とは別に、公表を許されない戦争の実情がレポートされた「秘密資料」を編集する部署で、社内の幹部にだけ“極秘”の印が押された文書を配布してまわっていた。杉野糸子によれば、資料には「さんざんな負けいくさの実情」が記載されており、それを編集して幹部たちに配布し、配った相手の氏名や日時を記録するのが彼女の仕事だった。
 これら「さんざんな負けいくさ」の悲惨な資料をベースに、「赫々(かくかく)たる皇軍の戦果」をひねりだし、いかに「鬼畜米英を撃滅」しつつあるかの報道をデッチあげ、ウソ八百の記事を捏造するのかが幹部たちに課せられた業務だったのだろう。なんのことはない、大本営の広報機関がもうひとつ、新聞社内にも特別報道部という名で存在していたようなものだ。杉野糸子は、それらの資料に目を通しながら、「私の憂鬱」は深まるばかりだったと書いている。
 1945年(昭和20)になると、新聞記者たちは次々と姿を消していった。徴用された者もいれば、焼けだされて故郷に疎開していった記者もいた。また、希望者は地方紙へ転勤(疎開)することもできたようだ。記者がどんどん減っていっても、半ペラ(新聞紙片面印刷)の編集にはまったく困らず、むしろ人手は余っているほどだったという。けれども、杉野糸子は東京にとどまりつづけた。当時の様子を、1973年(昭和48)に東京空襲を記録する会から出版された『東京大空襲・戦災誌』第4巻収録の、古谷糸子『有楽町駅爆撃―「ジャーナリスト」より―』から引用してみよう。
  
 私にも、もし希望があれば、統合された地方紙への出向もできるからといわれた。たくさんの先輩や後輩たちも、地方紙へ疎開していった。/しかし、私は、どんなに空襲がはげしくなってきても、東京を離れる気持はまったくなかった。東京を離れるというよりは、中央の新聞社を離れる気にはなれなかった。なんといっても、新聞社は戦争の成行きも、国内の情勢も、手に取るようにわかった。そしてそれが一番必要な時期に、新聞社を離れて、のんべんだらりと生きながらえる気もなかった。若かったせいであろう。死ぬことを心配するよりも、戦争の成行きを見きわめたいという気持のほうがつよかったのである。(中略) そんなふうで、私は仕事中に空襲警報が出て、みんなが地下の新聞紙用の置場に退避する時にも、なるべく編集局に居残った。/どうせ、爆撃を受けるものならば、一部始終の見える場所にいたいという考えからであった。
  
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 見あげた“記者魂”を備えた女性記者だが、伽藍や本尊、仏事や檀家の仏(墓)さえ守らず、コソコソと東京から故郷へ逃げ散っていった「敵前逃亡」坊主たちに、ツメの垢でも煎じて飲ませたい根性のあるプロ意識の持ち主だ。あるいは、親たちの反対を押しきって新聞記者になると宣言し東京へきていたかもしれない彼女は、故郷の秋田には帰りづらく常に「背水の陣」、または「大死一番」(仏教用語w)の覚悟で死と向きあっていたものだろうか。そんな彼女は、山手大空襲後は新聞社の医務室を寝室にしたり、焼け跡の防空壕で寝泊まりしてすごした。
 少し時間を巻きもどして、杉野糸子が住んでいた下落合の家が焼ける以前、彼女は編集局にいて銀座や京橋、有楽町界隈の爆撃を直接目撃している。この空襲は、1945年(昭和20)1月27日に東京の繁華街をねらった真っ昼間の爆撃だった。しかも、投下されたのは焼夷弾ではなく、250キロ爆弾が主体だったようだ。この空爆で、530人以上が死亡し多数の重軽傷者がでている。杉野糸子が編集室から見ていた目の前の有楽町駅では、電車に乗ろうとしていた87人の乗客が構内で即死し、爆風でちぎれた首が飛ぶような惨状だった。
 また、数寄屋橋の泰明小学校も攻撃をうけ、女性教師4名が即死している。校舎の一部が外濠へ崩落するほどの、激しい爆撃だった。その日の様子を、同書よりつづけて引用してみよう。
  
 突然、ものすごい音響とともに、編集局の電灯は消え、ガラス窓がバリバリッと音を立ててとび散った。あわてて机の下にもぐり込んだが、一瞬にして窓の外は黒煙に覆われた。/爆音の通り過ぎるのを待って、私は有楽町駅の見えるバルコニーにとんでいった。駅から銀座方面にかけて、黒い煙がほうぼうに燃え広がっていた。道路には、爆風で飛んだ腕や肉片がとび散っており、あわただしく救助班が走り回っていた。/ふだんなら、目をおおいたくなる惨状も、緊張していたせいか、それほどおそろしくも感じなかった。しかし、その晩、社会部の記者と、手分けして負傷者を各病院に見舞った時は、さすがにおそろしくおもった。
  
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 このあと、同年3月10日の東京大空襲や4月13日夜半の第1次山手大空襲から、有楽町駅前の毎日新聞社ビルは罹災をまぬがれていたが、5月25日夜半の第2次山手空襲で無数の焼夷弾攻撃をうけ、3階の編集局などを除いてビルは半焼した。だが、消火作業で水びたしとなり仕事ができないので、5階の大会議室に編集局を移設している。
 この空襲以降、彼女は帰る家がないので編集局(大会議室)に泊まりこむことが多くなったようだが、同じような境遇の記者たちも、職場で寝起きしていたらしい。夜になると、記者たちは流行の国民歌謡や軍歌を唄って気を奮い立たせようとしたが、「つけ焼刃の元気では、どうにもならない戦況の深刻さ」に、彼女を含め記者たちは暗く打ちひしがれていた。
 この5月25日夜半の空襲では、おもに焼け残った東京西部(山手線内外)の住宅地への絨毯爆撃はもちろん、都心部にあった焼け残りの街や施設も、爆撃の目標になっていたのがわかる。毎日新聞社のビルは、使える部屋が残っていただけまだマシなほうで、ビル内部が全焼してしまった社屋や商業施設もめずらしくなかった。同日の空襲で、目白駅周辺の焼け残っていた住宅街や、落合地域では特に上落合が壊滅的な被害をうけている。
 空襲から4日後の5月29日、こちらは真っ昼間の無差別爆撃だった横浜大空襲が起きている。わずか1時間ほどの爆撃で、死者・行方不明者8千人から1万人を数えた。杉野糸子を含む新聞記者たちは、取材のために2台のトラックに分乗して、横浜へと向かっている。
  
 横浜に近づくにつれて、はだしのままでゾロゾロ避難してくる被災者が、沿道を埋めていた。道の両側の住家や立木は、まださかんに燃えていた。道ばたには、真黒焦げになった死体がゴロゴロしていた。桜木町駅前は、車の乗り入れが危険なほど焼夷弾の殻でいっぱいであった。/黒煙と、真赤な火炎の中を、なに一つ持たず、着のみ着のままででこからともなく集まってくる被災者たちを見ながら、いよいよ本土も戦場に変わったという実感を深めた。
  
 もちろん、当時は見たままを記事に書けるはずもなく、「帝都市街を盲爆」「戦力蓄積支障なし」「我が損害極めて軽微」などと、虚妄の記事をタレ流していた。これは80年ほど前に滅亡した大日本帝国で見られた姿だが、いま戦争をしている国々ではどのようなウソにまみれた「大本営発表」がなされ、どのようにねじ曲げられた報道がなされているだろうか。また、いま戦争を起こしてない、あるいは戦争に巻きこまれていない国々では、どのような報道がなされているのだろうか。
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 杉野糸子は戦後、毎日新聞社に文化部が再設置されてもどると、下落合に住む作家の連載小説を担当している。毎日新聞に掲載された、林芙美子の『うず潮』(1947年)だった。また、のちに毎日新聞のコラム「余禄」を執筆することになる、同僚の古谷綱正と戦後まもなく結婚している。

◆写真上:東京駅の屋根付近から撮影された、1945年(昭和20)1月27日昼下がりの空襲。同日14時45分の着弾をとらえた、有楽町方面の街並みの様子。
◆写真中上は、1941年(昭和16)撮影の禁止されたパーマをかけてモンペをはかず華やかな装いで街を歩く女性を摘発・検束する巡査。中上は、1942年(昭和17)に撮影された防空訓練日に銀座を散歩する老人を恫喝する防護団の防空役員。1941年(昭和16)には、東京市が故郷でない60歳以上の老人は東京から退去すべしと軍から圧力がかかったが、撮影された銀座の老人は地付きの東京人なのだろう。島崎藤村は退去圧力で、大磯町東小磯88番地に転居している。中下は、1928年(昭和3)撮影の数寄屋橋界隈で有楽町駅前にあった毎日新聞社。は、1945年(昭和20)1月27日の14時45分すぎ次々と250キロ爆弾が着弾する銀座方面。
◆写真中下は、銀座の爆撃で逃げまどう数寄屋橋附近で撮影された母子たち。後方には、銀座4丁目の服部時計店が見える。中上は、1945年(昭和20)1月27日の空襲により直撃弾をうけた泰明小学校の校舎で女性教師4名が即死している。中下は、爆風に吹き飛ばされた大量の遺体がそのままの有楽町ガード下。は、爆弾で倒壊した有楽町駅付近の商店街。
◆写真下は、1945年(昭和20)4月13日夜半の空襲で防空壕に生き埋めになった遺体を掘り起こす高田馬場駅前。駅前が空き地なのは、山手沿線(其ノ五)防火帯33号線(建物疎開)で住宅が取り壊された跡。中上は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲で激しい爆撃をうける中野駅とその周辺。中下は、1973年(昭和48)出版の『東京大空襲・戦災誌』第4巻(東京空襲を記録する会/)と、1991年(平成3)に出版された古谷糸子『こんばんは古谷綱正です』(鎌倉書房/)。は、戦後すぐのころに撮影されたインタビューする杉野糸子(右)と当時は衆議院議員だった奥むめお(左)。
おまけ
 1941年(昭和16)2月11日に、チケットを求めて日劇を7周に囲む李香蘭のファンたち。親父からさんざん聞かされていたが、実際の写真はめずらしい。このあと、劇場側と行列のファンたちとの間でイザコザが起き、警察隊が出動して群衆は消火栓ポンプの放水で追い散らされた。
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コメント関連
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年04月13日 22:24
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    最近、昼は蕎麦が多くて胃腸の調子はよいのですが、小腹満たしのせいか
    すぐにお腹が減ってしまうのが難点なのです。
    2026年04月13日 22:39
  • もうもう

    いつも興味深く拝見してます。現ビックカメラ有楽町ビルの前身は読売会館じゃ無かったかしら。
    2026年04月14日 21:01
  • 落合道人

    もうもうさん、コメントをありがとうございます。
    読売会館は、毎日新聞社が移転したあとの、戦後しばらくたってからではないですか?
    ちなみに、1952年(昭和27)出版の『毎日新聞社七十年史』の奥付を、記事末に掲載して
    みました。いまだ、有楽町駅前から竹橋への移転前の所在地です。
    2026年04月14日 21:48

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