JAZZ喫茶=「不良のたまり場」なのはいつまで?

目白高校正門.jpg
 以前、喫茶店が不良のたまり場だったなんて、わたしの世代では知らないという記事を書いたことがある。では、JAZZ喫茶が不良のたまり場と呼ばれなくなったのは、はたしていつごろからだろうか? わたしは、以前にもチラッと触れたが、本格的なモダンJAZZを伝えた、1961年(昭和36)のArt Blakey & the Jazz Messengersの来日以降ではないかと考えていた。
 ところが、ちょっと面白い文章を見つけたのでご紹介してみたい。それは、目白台にある日本女子大学のキャンパス内にあった目白高校(1960年に西生田にある日本女子大学付属高等学校へ統合)の、PTA会長だった佐久洋という人が書いた文章だ。目白高校とは、この界隈ではあまり聞きなれない学校名だが、1901年(明治34)に成瀬仁蔵が設立した、日本女子大学校付属高等女学校に由来する目白台の伝統のある女子高等学校が出発点だ。
 だが、1948年(昭和23)の学制改革により川崎市多摩区西生田へ、付属中学校とともに付属高等学校も移転した。ところが、西生田の校舎では教室数や施設が十分足りてないことと、都心部に住む生徒たちの通学の便宜を考えたものか、日本女子大学キャンパス内にも高等部が残されている。この高等学校を、西生田の日本女子大学付属高等学校と区別するために、「目白高校」と称していたようだ。目白台と西生田に並立する高校は、途中で目白校が閉校しかかったこともあったが復活し、目白台キャンパスに1960年(昭和35)まで開校していた。目白高校の名称は、10年ほどしか使われなかったので、地元で印象が薄いのも当然だった。
 当時の校長は、目白高校と日本女子大付属高等学校ともに、戦前に高良とみと親しく下落合に住んだ上代タノだった。陸軍にタテつき、敗戦まで勤労動員先の工場で、「敵性言語」とされた英語を教えつづけていた上代タノだが、戦後は日本女子大の学長にも就任していた。
 では、1960年(昭和35)に出版された『目白高校十年の歩み』(日本女子大学付属高等学校PTA)に収録の、元・PTA会長だった佐久洋『思いつくまゝ』より、少し引用してみよう。
  
 打ち眺めたところ何の目的で学校へ行って居るのか、学校時代に何を獲得しようとするのか、勉強らしいものは殆んどしないようだし、集って話すことは映画かジャズ喫茶は未だいいとして、ボーイフレンドか彼氏の話が多いようである。特に中学高校とも女子大の付属を出て女子大に進んだ人は男女共学の時代を経ないで思春期に入るためか男性への関心が特に強いのではないかと思う。こういう大学時代を過した人達は今後何年か何十年か経って集った時に一体何を共通の話題として持ち得るのだろうか。思えば気の毒なものと考えられる。
  
 なんとなく当時の女学生が読んでも、「大きなお世話よ」とでもいいそうな文面だが、わたしの学生時代にも「いまどきの学生は……」という声が周囲からよく聞こえたので、上の世代から見れば若い生徒や学生たちは、いつの時代でも心もとなく頼りなげに映るのだろう。ところで、著者は大学へ入学してからが「思春期」だと考えているようだが、いまも昔も中学生になるころから、女子も男子ももう立派な思春期だったのではないだろうか。
 ここで留意したいのは、女学生たちのことではなく、JAZZ喫茶が映画と同列に挙げられている点だ。1960年(昭和35)現在、映画館を「不良のたまり場」と考える大人は、おそらくごく少数派になっていただろう。同様に、JAZZ喫茶もようやく戦前のダンス音楽や、戦後すぐのころ男女が密着して踊るBGMとは、まったく別の音楽だと認識されはじめていたのではないか。
 1940年代からはじまるBe-Bop革命、すなわちBGMやダンス音楽とは一線を画し、音楽好きが鑑賞する曲として大きく進化したモダンJAZZが、ようやく日本に伝わりはじめた時期と一致しているのだろう。それは、JAZZ喫茶のレコード棚でも、また会話の少ない店内のリクエストでも顕著になりつつある時代であり、「不良」たちは名曲喫茶と同様、静かに曲へ耳を傾ける鑑賞音楽に用はないので、自然と足が遠のいていった……そんな情景を思い浮かべてしまうのだ。
校舎.jpg
授業196001.jpg
上代タノ.jpg 成瀬仁蔵.jpg
 そして、『目白高校十年の歩み』が出版された翌年、Jazz Messengersの来日公演で、蕎麦屋の出前持ちの兄(あん)ちゃんまでが、「Moanin’」のメロディラインを口ずさむ時代になると、JAZZ喫茶の意味あいや位置づけが根本的に変わってしまったのだとみられる。そんな狭間の時代に書かれたのが、目白高校のPTA会長だった方の「映画かジャズ喫茶は未だいいとして」という、暗に双方のスペースに通う女学生はまだマシだと許容する表現になったのだろう。
 この文章が書かれてから10年後、映画館に通う女子高生はあたりまえとなり、JAZZ喫茶に通う彼女たちは読書をしながら、なにやら難しいことを考えていそうな“哲学少女”あるいは“文学少女”のように見られていく。Cecil Taylorを聴きながら、高橋和巳とか安部公房、ときにボーヴォワールなどの本を読んでいる彼女たちに、街の「不良」など寄りつくはずもなく、「わたしは慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい」(高野悦子/1969年)などといわれたりすると、「あ、そうっすか」とそそくさ退散するお兄ちゃんたちも多かったのではないか。
 校長の上代タノは、『目白高校十年の歩み』の「刊行によせて」で、目白高校と日本女子大付属高等学校について、次のように記している。『目白高校十年の歩み』より、再び引用してみよう。
  
 付属高等女学校が、新制度によって高等学校と中学校とに分れる当時、本学園の種々の事情によって、付属高等学校は目白と西生田に教室が分れましたが、本学園における一貫教育の一段階としては同じ場であり、目白校、西生田校と各々の特色を活かしながらも、教育・指導の内容においては、一つの付属高等学校であった訳です。/其の後、本学園が年をおうて整備され、西生田校舎に付属高等学校の全生徒を受入れる施設が整うて昭和三十五年度からはこゝに全生徒が集合することになりました。従って十年にわたって続いてきた目白校も、西生田校と合流し名実ともに、一つの付属高等学校として、その在るべき姿に成長して、今後永くその役割を果たすことになりました。学園のために慶賀すべきことゝ存じます。
  
 さて、10年間しか目白台の日本女子大キャンパス内に存在しなかった目白高校だが、大学と同一キャンパスのうえにいくつかの施設を供用していたため、西生田キャンパスとはまたちがった独特な雰囲気が形成されていたらしく、都心部から個性的な生徒たちが入学してきているようだ。
サークル活動美術部.jpg
仮装行列195610.jpg
目白高校キャンパス.jpg
目白高校十年の歩み表紙.jpg 目白高校十年の歩み奥付.jpg
 1948年(昭和25)4月に入学した、元・華族で帝展のち光風会の洋画家・大河内信敬の娘、大河内桃子もそのひとりだった。もちろん、下谷育ちで谷中っ子の女優・河内桃子のことだ。当時としては170cmと長身の彼女は、目白高校の生徒たちの間でもかなり目立つ存在だったようだ。彼女が在学中、目白高校のみ単独で行われていた演劇コンクールについて、当時の教師が印象に残るシーンを記録している。同書に収録の、山中ミツという人の書いた『思い出』から引用してみよう。
  
 目白校単独の催しであった演劇コンクール等も思い出深いものです。今は付属中学に勤務されている宮島直子さんの演ぜられた「寺子屋」の松王丸、伊吹山ますみさんの「修善寺物語」の夜叉王、立石美智子さんの「ベニスの商人」のシヤィロック(ママ)等、数え上げれば限りなくその名演技が思い出されてまいります。それに二回生の方達の「元禄花見踊」のきれいであったこと。鶴見幸恵さん、穂積寿美子さん、それに今テレビ、新劇に活躍されている河内(大河内)桃子さん達の舞姿のあでやかさ。何といっても眼に訴える劇や踊りの印象はいつまでたっても消えないものですね。そしてこの印象と共に、お一人お一人が、いつまでもなつかしく思い出されてくるのはたのしいものです。/外を通る自動車の警笛に悩まされた騒がしい建物、何の設備もないうす暗い教室、先生兼小使いさん兼給仕さんであった多忙な毎日、でも私共はとても楽しく過しました。
  
 大河内桃子は、1950年(昭和25)に目白高校を卒業すると、しばらくOL生活を送っていたが、1953年(昭和28)に東宝ニューフェイス6期生として東宝に入社した。ヒロインとして最初に抜擢されたのが、1954年(昭和29)公開の『ゴジラ』だったのには、同窓生たちもビックリしたのではないか。文中に「自動車の警笛に悩まされた」とあるが、目白高校の校舎は日本女子大キャンパスの北側、不忍通り(清戸坂/清土坂)に面していたので、クルマや工事の騒音が直接響いたのだろう。
講堂.jpg
目白高校卒業名簿1950.jpg
河内桃子+ゴジラ1954.jpg
 『元禄花見踊』は、明治期に入ってリニューアルされた新富座お披露目の舞台で演じられた舞踊だが、下谷区の上野山に集う多彩な花見客たちが長唄を背に踊る華やかな出し物だ。演劇コンクールでこの演目を提案したのは、東京芸大も近い谷中育ちだった大河内桃子ではなかったろうか。

◆写真上:中等部と高等部が西生田へ移転前に撮影された、日本女子大学の正門プレート。
◆写真中上は、目白高校の校舎と生徒たち。は、1960年(昭和35)1月の閉校3か月前に撮影された目白高校の授業風景。は、1960年(昭和35)当時に校長だった上代タノ()と、日本女子大学校付属高等女学校の創立者・成瀬仁蔵()。
◆写真中下は、目白高校の美術部の活動風景。中上は、1956年(昭和31)10月撮影の目白高校仮装行列。中下は、日本女子大キャンパス内にあった目白高校の校舎位置。は、1960年(昭和35)出版の『目白高校十年の歩み』の表紙()と奥付()。
◆写真下は、日本女子大学と目白高校が共用した成瀬記念講堂。は、1950年(昭和25)3月の卒業生名簿で大河内桃子のネームが見える。は、男女共学ではなかったため「男性への関心が特に強い」のだろうが、ボーイフレンドはもう少し選んだほうがいいかもしれない大河内桃子。
おまけ
 1964年(昭和39)に撮影された、自分が破壊したジオラマを竹ぼうきで掃除するゴジラ(3代目)。同年に公開の『モスラ対ゴジラ』で使用された、人気の高いいわゆる「モスゴジ」の着ぐるみ。
ゴジラの掃除1964.jpg

この記事へのコメント

  • てんてん

    いいな~ゴジラ!
    ゴジラ大好き♪
    2026年04月10日 21:57
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    わたしは、写真にもあるちょっとネコの目つきにも似た、「モスゴジ」が大好きなんです。w
    2026年04月10日 22:10

この記事へのトラックバック