淀橋小学校「同級生」の小島善太郎と曾宮一念。

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 小島善太郎曾宮一念が隣りあわせに座る、めずらしい写真が残されている。1934年(昭和9)に美術発行所が刊行する「美術」6月号へ掲載された、独立美術協会独立展へ応募してきた画家たちの鑑査をするふたりの姿だ。(冒頭写真)
 当時、下落合623番地の曾宮一念は健康上の不安を抱えつつ、鈴木保徳や伊藤廉里見勝蔵らの強い勧誘で、あまり積極的ではなかったようだが、わずか2年間だけ独立美術協会へ参画していた。3年前の1931年(昭和6)には、小出楢重が死去したため二科会の正会員になったばかりだった。独立美術協会への参加とともに二科会を退会したが、1937年(昭和12)には同協会内の内紛に嫌気がさして脱退している。同年には、下落合3丁目1447番地の宮田重雄の誘いで国画会へ加入するが、カリエスが重症となり富士見高原療養所へ入院している。
 したがって、小島善太郎曾宮一念が同じ画会で会員同士だったのは、わずか2年余の間だけだった。だが、このふたり、実は同じ小学校に通っており、まったく同学年だったことはあまり知られていない事実だ。東京日日新聞の記者だった父親が死去したため、曾宮一念は1905年(明治38)に大久保百人町へ転居してきており、淀橋町柏木131~132番地の淀橋尋常高等小学校の高等科へ編入している。1903年(明治36)の台風による竜巻で、淀橋小学校の新校舎が全壊したため、当時は淀橋町町役場の物置が教室がわりに使われていた。
 1903年(明治36)9月23日、東京地方を襲った台風は渋谷地域で竜巻を発生させ、淀橋小学校を直撃して新校舎の倒壊により、児童6名が死亡し多くの負傷者をだす大惨事となった。竜巻はそのまま北へ進み、荒川手前の高島平あたりで消滅している。事故直後の9月27日、倒壊した新校舎の現地調査が行われたが、設計図と実際に建てられていた校舎の仕様とは異なっており、木組みの一部にはホゾ組や釘を使わず針金で縛っただけの箇所もあり、明らかに欠陥建築だったことが露見している。自然災害に加え、人災だった可能性が高いことが判明した。ちなみに、落合尋常高等小学校へもこの竜巻は襲来したが、急遽、授業をとりやめ生徒たちを早退させていたため、校舎が倒壊したにもかかわらず被害者はでなかった。
 小島善太郎は、この台風による竜巻を経験しており、たまたま旧校舎にいたため無傷で助かり、校舎の下敷きになって助けだされた妹の手を引きながら、暴風雨のなかを自宅へ逃げ帰っている。このあと、小島善太郎は父親を手伝うために徐々に小学校へはいかなくなり、1904年(明治37)の秋になると、彼は浅草の醬油屋へ丁稚奉公にだされたため、淀橋小学校には通えなくなった。曾宮一念が、なかなか復興しない校舎ではなく役場の物置教室へ編入してきたのは、小島善太郎が退学した1年後であり、本来なら同級生になるはずのふたりだった。
 曾宮一念は、わざわざ小島善太郎へ手紙を書き、淀橋小学校時代のことを確認している。1974年(昭和49)に出版された曾宮一念『みどりからかぜへ』(求龍堂)より、少し長いが引用してみよう。
  
 小島の『若き日の自画像』は最初の数ページを読むと、彼の家がわかって、おやと思った。/この文には、明治三十八、九年に彼の家の近くに私も住んでいたこと、同級生であったことを記そうと思う。(中略) 最後の小学校であったこの学校(淀橋尋常高等小学校)の気風は素朴で、楽しく半年を過し、中学(早稲田中学校)へ入った。二、三年前の旋風で校舎が倒れて、生徒に死者が出たことを当時私は知っていた。高等三、四年の教室は役場の物置を借りて二十人ほどがいた。床は波を打って歪み、ガラス窓も曲っていた。/私の家は大久保駅の近くで、家の前から浄水場へ通ずる線(引込線路)が分れていた。その上を歩いて浄水場に入る手前に、小島の家のあったこと、も少しさきを読むと豪雨の日に旋風が浄水場の水を巻き上げ、それを滝のように校舎に落して倒壊させた描写があったので、いよいよ小島とは同じ小学校にいたと気づいた。年から考えると同級の筈である。しかし、彼は前記の物置教室にはいなかった。浅草の醤油屋に奉公して荷車を曳きながらスケッチをしていたからであろう。/私はここまで読んで彼に手紙をかいた。すると返事によって彼の退校後に私が在学した不思議な同級の縁であることがわかった。(カッコ内引用者註)
  
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 竜巻で校舎が倒壊した淀橋小学校だが、曾宮一念が編入してきた2年後の1905年(明治38)でも、いまだ校舎復興のめどはまったく立っていなかった。
 しかも、淀橋町は急激な人口増加に悩んでおり、役場の物置をはじめ各所に設けられた臨時の仮教室で二部制の授業を実施している。校舎再建にまで、予算がまわらないのが実情だった。翌1906年(明治39)10月になって、ようやく淀橋町は校舎再建の申請書を、東京府知事だった千家尊福へ提出している。だが、年代からも想定できるように、日本は日露戦争により財政へ壊滅的なダメージを受けており、淀橋町はもちろん東京府の財政も極度にひっ迫していた。この申請書により、淀橋町は学校基金として東京府から1万5,000円の融資を受け、ようやく再建事業をスタートさせるが、戦争で財政基盤が混乱していたため工事は遅れに遅れた。
 当初、再建した新校舎での授業スタートを1907年(明治40)4月15日としたが、資金も人手もまったく足りず、工事は途中で何度か挫折して、結局、工費は3万1,336円にまでふくらんだ。422坪の新校舎が竣工したのは、実に校舎倒壊から5年以上がすぎた、1908年(明治41)12月15日のことだった。曾宮一念は1906年(明治39)に同小学校を卒業しているので、もちろんこの新校舎のことは知らない。小島善太郎もまた、奉公先から逃げもどり大久保の陸軍大将・中村覚邸の書生になるまでは、母校の新校舎の様子は知らなかったのではないか。
 曾宮一念は、のちに小島善太郎『若き日の自画像』と、下落合622番地にアトリエをかまえた蕗谷虹児『花嫁人形』とを比較しながら論じている。蕗谷虹児は、曾宮アトリエの北西裏、海軍大将・谷口尚真邸の北隣りに住んでいたので、なんとなく親しみを感じていたのだろう。いずれも悲惨な青春群像なのだが、曾宮一念『みどりからかぜへ』からつづけて引用してみよう。
  
 著者<小島善太郎>は独立美術<協会>の会員で、私も同じ会に二年加わっていたので、展覧会や集会で何回か会っていた。この人が武蔵野の古い農家を改造してアトリエにしたことや、何十年ぶりかで実兄に巡り遇った話が、新聞紙上に紹介されたのは戦後間もない頃であった。どことなく武蔵野らしい雰囲気を感じたが、それ以外、この人の生い立ちは全く知らなかった。/実はこの本を読んだのは五年前で、当時前後して読んだ『花嫁人形』(蕗谷虹児著)の二冊とも大いに感激し、読後感を記したが、これは後に<戦災で>焼失した。/小島と蕗谷は二人とも画家であるが、全く別々の仕事をしている。しかし、私は二冊の内容がまるで読者の私を鞭うつなどという生やさしさではなく、残酷な悪夢にうなされ続けるような苦しさで読み了った。/小島は健康な画風の油絵画家だし、蕗谷は艶やかな美人画家だから、とても二人が幼児から弟妹とともに嘗めた残酷物語は想像できなかったのである。(< >内引用者註)
  
曾宮一念「銀杏(四谷トンネル)」1911.jpg
小島善太郎「四ツ谷見附」1916.jpg
曾宮一念「工部学校」1911.jpg
 わたしも、蕗谷虹児の『花嫁人形』は既読だが、どこかタイトルから想像するほのぼのとしたような物語とは無縁な、非常にシビアで無情・無惨な現実世界に引きずりこまれるような感覚をおぼえた。それは、奉公先で妹が男にだまされ殺害されてしまう、小島善太郎の『若き日の自画像』と同質の残酷な世界だ。また、曾宮一念が描いた風景画のモチーフが大久保や戸山ヶ原、淀橋、中野と同時代的に重なっていたことも、淀橋尋常高等小学校の「同級生」だったこととからめ、小島善太郎へ親しみをおぼえるようになった要因なのだろう。
 文中の、小島が「古い農家を改造してアトリエ」にしていた家とは、南多摩郡加住村(現・八王子市丹木町)にあったアトリエのことだろう。ちょうど『若き日の自画像』が出版された1969年(昭和44)、曾宮一念は小島の八王子アトリエを訪ねている。「見舞い」と書いているが、小島善太郎が神経痛で臥せっていたのを見舞ったようだ。そのとき、彼の署名が入った『若き日の自画像』をプレゼントされている。帰りは、「娘さんの車で駅に送られた」と書いているが、この「娘さん」とは、日野市百草776番地の「百草画荘」でお会いした小島敦子様のことだろうか。
 少し余談めくが、曾宮一念が二科会を退会して独立美術協会に参加することになったとき、1934年(昭和9)に刊行された「美術」5月号(美術発行所)には、二科会を退会して独立美術協会へ移る際の「うわさの正誤」という文章が掲載されている。画家が、属していた画会から別の画会へと移る際、美術界ではさまざまなウワサがささやかれていたようだ。曾宮一念の二科脱退は、藤田嗣治が二科会へ加入したからというようなウワサが流れていた。曾宮は、自分が二科に退会を伝えたのが先で、藤田嗣治の加入はあとでしょ……と時系列を正している。そして、身体の具合がよくないので、二科会にいても正会員としての勤めが果たせず、このままだと単なる出品者になってしまうので、重荷を下して息がつける気のおけない画会に鞍替えしたのだと書いている。
小島善太郎「晩秋(戸山ヶ原」)1915.jpg
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小島善太郎「若き日の自画像」1978雪華社.jpg 蕗谷虹児「花嫁人形」1967講談社.jpg
 同じく、春陽会から独立美術協会へ参加した小林和作は、春陽会に不平があったからだというウワサに対し、「全然嘘」と書いている。独立へは創立時から誘われており、数年間考えたすえマンネリ化した画風を打開するために、いまもっとも活動的な独立へ参画して自身の転機にしようとしたのだとしている。画会を移るたびに、画家たちはさまざまなウワサ話に悩まされていたようだ。

◆写真上:1934年(昭和9)6月に撮影された、座談会での小島善太郎(右)と曾宮一念。
◆写真中上は、1911年(明治44)作成の「豊多摩郡淀橋町市街図」にみる柏木131~132番地の淀橋尋常高等小学校。中上は、1909年(明治42)に撮影された5年がかりで竣工した淀橋尋常高等小学校の新校舎。中下は、1911年(明治44)に制作された小島善太郎『戸山ヶ原風景』。は、1934年(昭和9)6月に行われた独立美術協会の応募作鑑査の座談会で、右から林重義、岩佐新、小島、曾宮、清水登之伊藤廉のメンバーたち。
◆写真中下は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『銀杏(四谷トンネル)』。は、1916年(大正5)に中央線の曾宮の上掲作と同じトンネルを描いた小島善太郎『四ツ谷見附』。は、1911年(明治44)に制作された曾宮一念『工部学校』。
◆写真下は、1915年(大正4)制作の小島善太郎『晩秋(戸山ヶ原)』。は、1920年(大正9)ごろ制作された曾宮一念『下落合風景』は、1978年(昭和53)に出版された小島善太郎『若き日の自画像』(雪華社/)と、1967年(昭和42)に出版された蕗谷虹児『花嫁人形』(講談社/)。
おまけ1
 1931年(昭和6)制作の曾宮一念『荒園』(提供:江崎晴城様)には、左手につづく浅川秀次邸の塀の向こうに、諏訪谷に面した大六天裏の細い消防団倉庫が、当時も建っていたように描かれている。
曾宮一念「荒園」水彩1931.jpg
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おまけ2
 小島敦子様よりいただいた、小島善太郎『巴里の微笑』(小島出版記念会/1981年)に書かれた著者の署名。曾宮一念が贈呈された『若き日の自画像』も、同様のサイン入りだったのだろうか。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年05月16日 22:10
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    イルカやクジラがやってくる入江は、穏やかでいいですね。
    2026年05月16日 22:42

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