
学生時代の帰り道、真っ暗な薬王院の旧墓地手前のバッケ階段を一気に駆けあがり(当時は若かったのだ)、荒くなった息づかいを整えられるのが、旧墓地に面して建つ1軒の2階家だった。たいてい灯りが点いていて、街灯がひとつしかない墓地横の道でホッとする瞬間だった。
邸前の道は、ずっと長い間舗装されておらず、この道を少し西へ歩けばすぐに久七坂筋の道路に出られた。おそらく、佐伯祐三の散歩道と重なるコースだろう。久七坂筋の道を北上し、曾宮一念アトリエ跡の諏訪谷に面した駐車場から、里見勝蔵アトリエ跡の前を西進して聖母坂へと抜けると、わずかだが目白通りへの近道になった。当時は、空襲で焼けなかった久七坂筋の大正・昭和初期住宅がそのまま建っており、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』が住宅街の中であるにもかかわらず、既視感からすぐに特定できたゆえんだ。1980年(昭和55)前後のことだ。
その薬王院の旧墓地前の2階家が、会津白虎隊の隊士・飯沼貞吉の弟である飯沼関弥が、1921年(大正10)に小石川区の第六天町から転居してきた家だと知ったのは、つい先ごろのことだ。第六天町の、徳川慶喜邸の西隣りが松平容保・容大邸なので、おそらく明治期よりその近くに住むか、邸内の家令として勤務していたのだろう。飯沼関弥の息子が、のちに内務官僚から各県知事を歴任することになる飯沼一省だった。彼は、小日向の崖線下に建っていた黒田小学校を卒業している。同小学校については、以前に拙記事でもご紹介していた。
ちょっと横道にそれるけれど、飯沼関弥の証言によれば、明治以降の警察組織を牛耳っていたのは、官僚から巡査まで薩摩藩の出身者たちだったが、会津出身者も積極的に採用していたという。それは、薩摩閥と長州閥が近い将来対立して国内が内乱状態になる可能性があり、それを見越して長州に恨み骨髄の旧・会津藩士を優先的に採用していたらしい。
さて、飯沼家が第六天町から下落合へ転居してきた、1921年(大正10)ごろの様子から見てみよう。転居当時、飯沼一省は静岡県に勤務しており、同家には両親の飯沼関弥夫妻が住んでいたが、翌1922年(大正11)には出向を終えた飯沼一省がもどって、再び自宅に隣接して住むようになったようだ。1975年(昭和50)に報公会から出版された、飯沼一省『担江独語』から引用してみよう。
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わたくしが今の下落合に引越して来たのは、大正十一年十月十一日であった。当時はまだ東京府豊多摩郡落合村大字下落合というのであった。まだ未開地の状態で、つつじ畑と住宅とが入り交じっていた。水道もなければ、ガスもない。水は井戸を掘った。暖房用としては、石油ストーヴを使ったり、練炭ストーヴを使ったりした。炬燵は能率的でないといってつくらなかった。
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当時は、下落合811番地の邸周囲には住宅がまばらであり、また飯沼邸の東側一帯が薬王院の墓地(江戸期の墓石を含む旧墓地)なので、暖房器具にこだわっているのは、丘上で冷たい北風が容赦なく吹きつけたのだろう。飯沼一省は、その後さまざまな暖房器具を試しているが、危うく一酸化炭素中毒で気を失う事故が起きて以来、炬燵は忌避していたらしい。
墓地に隣接した飯沼邸だったが、大正の当時は夜は暗く静寂で多少気味が悪かったのかもしれないが、のちのち緑と静けさに囲まれた自邸が、たいへん気に入っていたようだ。確かに、クルマの騒音も近所の雑音も聞こえにくく、ましてや突然自宅の前に背の高いマンションやビルが建つ可能性など皆無なため、戦後は安心して暮らせていたのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
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江戸名所図会には、氷川神社と薬王院というお寺が記載されている。その薬王院の墓地の西隣にわたくしの家が建っている。当初はあまりさびし過ぎるなどという意見もあったが、しかし墓地は静寂そのものであり、お寺の境内にはうっそうたる巨木の群生がある。東京では特に貴重な緑と静けさとが確保されている。細い道路のおかげで、用のない車は入ってこない。ために空気は常に清々しく、お寺の森には四時小鳥の囀りの断ゆることがない。
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邸前の道は、ずっと長い間舗装されておらず、この道を少し西へ歩けばすぐに久七坂筋の道路に出られた。おそらく、佐伯祐三の散歩道と重なるコースだろう。久七坂筋の道を北上し、曾宮一念アトリエ跡の諏訪谷に面した駐車場から、里見勝蔵アトリエ跡の前を西進して聖母坂へと抜けると、わずかだが目白通りへの近道になった。当時は、空襲で焼けなかった久七坂筋の大正・昭和初期住宅がそのまま建っており、佐伯の『セメントの坪(ヘイ)』が住宅街の中であるにもかかわらず、既視感からすぐに特定できたゆえんだ。1980年(昭和55)前後のことだ。
その薬王院の旧墓地前の2階家が、会津白虎隊の隊士・飯沼貞吉の弟である飯沼関弥が、1921年(大正10)に小石川区の第六天町から転居してきた家だと知ったのは、つい先ごろのことだ。第六天町の、徳川慶喜邸の西隣りが松平容保・容大邸なので、おそらく明治期よりその近くに住むか、邸内の家令として勤務していたのだろう。飯沼関弥の息子が、のちに内務官僚から各県知事を歴任することになる飯沼一省だった。彼は、小日向の崖線下に建っていた黒田小学校を卒業している。同小学校については、以前に拙記事でもご紹介していた。
ちょっと横道にそれるけれど、飯沼関弥の証言によれば、明治以降の警察組織を牛耳っていたのは、官僚から巡査まで薩摩藩の出身者たちだったが、会津出身者も積極的に採用していたという。それは、薩摩閥と長州閥が近い将来対立して国内が内乱状態になる可能性があり、それを見越して長州に恨み骨髄の旧・会津藩士を優先的に採用していたらしい。
さて、飯沼家が第六天町から下落合へ転居してきた、1921年(大正10)ごろの様子から見てみよう。転居当時、飯沼一省は静岡県に勤務しており、同家には両親の飯沼関弥夫妻が住んでいたが、翌1922年(大正11)には出向を終えた飯沼一省がもどって、再び自宅に隣接して住むようになったようだ。1975年(昭和50)に報公会から出版された、飯沼一省『担江独語』から引用してみよう。
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わたくしが今の下落合に引越して来たのは、大正十一年十月十一日であった。当時はまだ東京府豊多摩郡落合村大字下落合というのであった。まだ未開地の状態で、つつじ畑と住宅とが入り交じっていた。水道もなければ、ガスもない。水は井戸を掘った。暖房用としては、石油ストーヴを使ったり、練炭ストーヴを使ったりした。炬燵は能率的でないといってつくらなかった。
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当時は、下落合811番地の邸周囲には住宅がまばらであり、また飯沼邸の東側一帯が薬王院の墓地(江戸期の墓石を含む旧墓地)なので、暖房器具にこだわっているのは、丘上で冷たい北風が容赦なく吹きつけたのだろう。飯沼一省は、その後さまざまな暖房器具を試しているが、危うく一酸化炭素中毒で気を失う事故が起きて以来、炬燵は忌避していたらしい。
墓地に隣接した飯沼邸だったが、大正の当時は夜は暗く静寂で多少気味が悪かったのかもしれないが、のちのち緑と静けさに囲まれた自邸が、たいへん気に入っていたようだ。確かに、クルマの騒音も近所の雑音も聞こえにくく、ましてや突然自宅の前に背の高いマンションやビルが建つ可能性など皆無なため、戦後は安心して暮らせていたのだろう。同書より、つづけて引用してみよう。
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江戸名所図会には、氷川神社と薬王院というお寺が記載されている。その薬王院の墓地の西隣にわたくしの家が建っている。当初はあまりさびし過ぎるなどという意見もあったが、しかし墓地は静寂そのものであり、お寺の境内にはうっそうたる巨木の群生がある。東京では特に貴重な緑と静けさとが確保されている。細い道路のおかげで、用のない車は入ってこない。ために空気は常に清々しく、お寺の森には四時小鳥の囀りの断ゆることがない。
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確かに、樹木が繁る寺社の境内や濃い緑を残した公園が近くにあると、それだけで酸素を盛んに吐きだす樹林のせいか空気の質や匂いがちがうし、夏などは気温も少なからず低くなるのは、わたしもさんざん経験ずみだ。小鳥たちが集まるのも、生活ではうれしい色どりだ。わたしは、飯沼邸の周辺ではよくオナガの群が飛ぶのを見ている。
飯沼一省の同書で、わたしがめずらしく感じたのは、下落合に住んだ漢学者たちがまとめて紹介されている箇所だ。わたしは、「漢学」などとはほとんど関わりなく生きてきた下世話な人間なので、高名な漢学者(漢史・漢文学・論語・儒教思想などの研究者)たちが、明治末ごろから下落合に集まりはじめていたことなど知らなかった。または、中国や朝鮮由来の封建主義そのままの「明治の精神」=儒教思想や修身などには、ことさら反感をおぼえるので近寄らなかったというのが正確な表現だろうか。いや、漢語に堪能で中国史や中国文学・思想にやたら詳しい、研究者も舌を巻く下落合にいた大泉黒石はよく知っているが、ここでいう漢学者とはいわゆる民間の研究者ではなく、ダシャレではないが官学の漢学に近い位置にいた学者たちのことだ。
『担江独語』より、下落合に住んでいた漢学者たちの住まいについて、少し引用してみよう。
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この下落合には、どういうものか著名な漢学者が、何人か住んでおられた。わたくしが第一高等学校時代に教えを受けた安井小太郎先生、島田鈞一先生のお宅は、南へ坂を下りて下落合駅に近いところにあった。おそらく安井先生が先きに家を建てられ、静かな郊外地だからといって島田先生にすすめられたものでもあろうか。明治末期のことである。山手線も当時はまだ電化されず、蒸気機関車が走っていた頃である。高田馬場から大塚か巣鴨へ出て、そこから人力車か円太郎馬車でも利用されて本郷の一高へ通われたものであろう。
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ちなみに、山手線は1909年(明治42)から品川-赤羽間の電化が完了しているので、ふたりの第一高等学校教授だった漢学者は、それ以前の早い時期から下落合に住んでいたのだろう。
飯沼一省の同書で、わたしがめずらしく感じたのは、下落合に住んだ漢学者たちがまとめて紹介されている箇所だ。わたしは、「漢学」などとはほとんど関わりなく生きてきた下世話な人間なので、高名な漢学者(漢史・漢文学・論語・儒教思想などの研究者)たちが、明治末ごろから下落合に集まりはじめていたことなど知らなかった。または、中国や朝鮮由来の封建主義そのままの「明治の精神」=儒教思想や修身などには、ことさら反感をおぼえるので近寄らなかったというのが正確な表現だろうか。いや、漢語に堪能で中国史や中国文学・思想にやたら詳しい、研究者も舌を巻く下落合にいた大泉黒石はよく知っているが、ここでいう漢学者とはいわゆる民間の研究者ではなく、ダシャレではないが官学の漢学に近い位置にいた学者たちのことだ。
『担江独語』より、下落合に住んでいた漢学者たちの住まいについて、少し引用してみよう。
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この下落合には、どういうものか著名な漢学者が、何人か住んでおられた。わたくしが第一高等学校時代に教えを受けた安井小太郎先生、島田鈞一先生のお宅は、南へ坂を下りて下落合駅に近いところにあった。おそらく安井先生が先きに家を建てられ、静かな郊外地だからといって島田先生にすすめられたものでもあろうか。明治末期のことである。山手線も当時はまだ電化されず、蒸気機関車が走っていた頃である。高田馬場から大塚か巣鴨へ出て、そこから人力車か円太郎馬車でも利用されて本郷の一高へ通われたものであろう。
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ちなみに、山手線は1909年(明治42)から品川-赤羽間の電化が完了しているので、ふたりの第一高等学校教授だった漢学者は、それ以前の早い時期から下落合に住んでいたのだろう。




上記、西坂の下に住んでいた下落合858番地の安井小太郎については、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり」の安井息軒とともに、以前の記事でご紹介していた。薬王院横の飯沼邸から、南西に直線距離でちょうど210mほどのところに安井邸が位置していた。安井邸は、1931年(昭和6)の聖母坂(のち補助45号線)の敷設で転居を余儀なくされていると思われる。現在は、聖母坂通りと十三間通り(新目白通り)がクロスする交差点の下になっている。
下落合835番地の島田鈞一邸は、久七坂を下って雑司ヶ谷道を東へ左折した2軒目にあり、飯沼邸から直線距離で125mほどのところにあった。現在の地勢でいうと、久七坂側から見て下落合弁天社手前の斜面にある敷地だった。ここの崖地から、1964年(昭和39)に下落合横穴古墳群が、早稲田大学考古学研究室の手で発掘されている。
また、飯沼邸の北側にも、高名な漢学者が住んでいた。曾宮一念アトリエの東側、浅川秀次邸の斜向かいにあたる下落合596番地には、飯沼家と同じ会津出身の漢学者・南摩綱紀(羽峰)が住んでいた。飯沼邸から、北へ直線距離で240mほどのところだ。南摩綱紀は、明治期には東京帝国大学や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京高等師範学校(のち東京教育大学/現・筑波大学)の教授を歴任している。彼は下落合の自宅を「環碧楼」と名づけ、周辺の風光明媚な様子を漢文に残している。『担江独語』より、下落合の南摩綱紀について引用してみよう。
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先生には「環碧楼遺稿」という詩文集があり、その中の環碧楼雑詩の序には、次のように述べられている。/「余、小楼を東京望嶽街に作り、読書の処と為す。地勢塏爽、林樹鬱茂、深山の趣あり。云々」 先生はこの緑樹の鬱蒼たる高台の上を、富士山と相対して俯仰し、逍遥せられたものであろう。事実、わたくしがここに茅屋を建てた頃は、二階の窓から富士はもとより、秩父連山から丹沢、箱根の山々まで、手にとるように見ることができた。西風の強い冬の日などは、南アルプスの悪沢岳かと思われる雪を冠った三角形の山の姿さえ見ることができたものである。今はスモッグと林立するコンクリートの高層建築物のために、それもかなわぬことになってしまった。
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下落合835番地の島田鈞一邸は、久七坂を下って雑司ヶ谷道を東へ左折した2軒目にあり、飯沼邸から直線距離で125mほどのところにあった。現在の地勢でいうと、久七坂側から見て下落合弁天社手前の斜面にある敷地だった。ここの崖地から、1964年(昭和39)に下落合横穴古墳群が、早稲田大学考古学研究室の手で発掘されている。
また、飯沼邸の北側にも、高名な漢学者が住んでいた。曾宮一念アトリエの東側、浅川秀次邸の斜向かいにあたる下落合596番地には、飯沼家と同じ会津出身の漢学者・南摩綱紀(羽峰)が住んでいた。飯沼邸から、北へ直線距離で240mほどのところだ。南摩綱紀は、明治期には東京帝国大学や女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京高等師範学校(のち東京教育大学/現・筑波大学)の教授を歴任している。彼は下落合の自宅を「環碧楼」と名づけ、周辺の風光明媚な様子を漢文に残している。『担江独語』より、下落合の南摩綱紀について引用してみよう。
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先生には「環碧楼遺稿」という詩文集があり、その中の環碧楼雑詩の序には、次のように述べられている。/「余、小楼を東京望嶽街に作り、読書の処と為す。地勢塏爽、林樹鬱茂、深山の趣あり。云々」 先生はこの緑樹の鬱蒼たる高台の上を、富士山と相対して俯仰し、逍遥せられたものであろう。事実、わたくしがここに茅屋を建てた頃は、二階の窓から富士はもとより、秩父連山から丹沢、箱根の山々まで、手にとるように見ることができた。西風の強い冬の日などは、南アルプスの悪沢岳かと思われる雪を冠った三角形の山の姿さえ見ることができたものである。今はスモッグと林立するコンクリートの高層建築物のために、それもかなわぬことになってしまった。
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南摩綱紀の原文(漢文)では、このあと目白崖線の随所に見られる湧水池(小池)や、川筋に見られる豊富な魚影などにも触れているので、下落合を中心にあちこち散策して余生をすごしたのだろう。現在は空気もかなり澄み、富士山や秩父連山から大山・丹沢方面までが望める日はそうめずらしくないが、飯沼一省が『担江独語』を書いた1975年(昭和50)は、汚染がピークの時代だった。
◆写真上:1926年(大正15)9月22日(小雨)に佐伯祐三が薬王院墓地と下落合811番地界隈を描いた、『墓のある風景』(拡大)の飯沼邸とみられる屋根の庇。
◆写真中上:上は、佐伯祐三『墓のある風景』。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる飯沼一省邸。中下は、小石川の第六天町から下落合811番地へ転居してきた飯沼邸跡。下は、第六天町時代に通っていた小日向水道町86番地の黒田小学校。
◆写真中下:上は、1975年(昭和50)に報公会から出版された飯沼一省『担江独語』(左)と著者の飯沼一省(右)。中上は、飯沼家の精神的な拠りどころだったとみられる会津若松城(鶴ヶ城)の天守と飯沼一省。中下は、1989年(昭和64)の正月に撮影されたわたしにもおなじみの飯沼邸。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合858番地の安井小太郎邸。
◆写真下:上は、漢学者で教育者の安井小太郎(左)と島田鈞一(右)。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合835番地の島田鈞一邸。中下は、同じく下落合596番地の南摩綱紀邸。下は、南摩綱紀(左)と1912年(明治45)に書かれた『環碧楼雑記』(私家版)の序(右)。
◆写真中上:上は、佐伯祐三『墓のある風景』。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる飯沼一省邸。中下は、小石川の第六天町から下落合811番地へ転居してきた飯沼邸跡。下は、第六天町時代に通っていた小日向水道町86番地の黒田小学校。
◆写真中下:上は、1975年(昭和50)に報公会から出版された飯沼一省『担江独語』(左)と著者の飯沼一省(右)。中上は、飯沼家の精神的な拠りどころだったとみられる会津若松城(鶴ヶ城)の天守と飯沼一省。中下は、1989年(昭和64)の正月に撮影されたわたしにもおなじみの飯沼邸。下は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合858番地の安井小太郎邸。
◆写真下:上は、漢学者で教育者の安井小太郎(左)と島田鈞一(右)。中上は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合835番地の島田鈞一邸。中下は、同じく下落合596番地の南摩綱紀邸。下は、南摩綱紀(左)と1912年(明治45)に書かれた『環碧楼雑記』(私家版)の序(右)。
この記事へのコメント
てんてん
落合道人
きょうの昼はあまりにも暑いので、冷や麦を食べてしまいました。