
西坂上の徳川義恕(よしくみ)邸には、大正期から付近に住む洋画家たちが多く集まり、邸の建築やボタン園の「静観園」、あるいはバラ園などを写生していた。こちらでは、これまで吉田博をはじめ松下春雄、有岡一郎、吉田遠志などの作品をご紹介している。
また、徳川義恕の寛子夫人は吉田博に絵を習っていたという証言も、以前お訪ねした際に当代の徳川様よりうかがっている。いや、寛子夫人に限らず西坂の徳川家は、一家をあげて洋画を描くのが趣味だったのだ。そもそも、徳川義恕自身が画会「聊娯会」に所属しており、毎年暮れになると長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)にあった牧野虎雄アトリエで開かれる餅つき大会へ、大久保作次郎や満谷国四郎、森田亀之助、金井文彦、吉村由松らとともに夫人同伴で参加している。この餅つき大会は、1936年(昭和11)以降も牧野虎雄の転居先となる下落合604番地のアトリエでも継承されていたのだろう。
1928年(昭和3)12月24日に、牧野虎雄アトリエで開かれた餅つき大会のめずらしい記念写真が残されている。左端には背広姿の徳川義恕が、右端には着物姿の寛子夫人がとらえられており、徳川義恕の真上には下落合630番地の森田亀之助が、その右並びにはまるで餅運びの小使いさんのような、頬っかぷりをした下落合753番地の満谷国四郎が写っている。いつもこんな格好をしてるから、展覧会で今村繁三に小使いさんとまちがえられるのだろう。満谷国四郎の右には、下落合540番地の大久保作次郎と牧野虎雄が並んで写っている。つきたての餅を味わったあと、一行は近くの空き地でタコ揚げ大会に興じてるのだろう。
さて、西坂の徳川家では1941年(昭和16)に、家族の作品を収録した徳川義恭の編輯による画集『暢美』(私家版/非売品)を出版している。掲載されているのは、徳川義恕をはじめ寛子夫人、子息たちとその夫人の作品計31点だ。きょうは、その中から徳川義恕が下落合を描いた作品を中心にご紹介してみたい。同画集から、編輯者・徳川義恭がつづる「序」を少し引用してみよう。
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ふとしたことから作品集を作ることになりまして、一家の者の作品、約三十点を撰びました。/始(ママ)めての試みでありますから、二十数年も前の作品から極最近のもの迄含まれて居ります。/これは一家のすべてが趣味を同じくすることを記念して出来た図録と云ふべきものであります。/けれども、日常のすさびや旅情を豊かにするてだてとしてのこの道は、単なる一家の趣味といふに止らず、一家の気持を反映するものとしても亦一つの役割を演じて居ります。
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まず、『庭の雪』(6号)とタイトルされた画面(冒頭写真)は、一見してどこを描いたのかがわかる。大きな西洋館の母家(おそらく昭和期の新邸)を背に、降雪後の南側に広がる庭園の先端を描いたもので、バッケ(崖地)の淵には四阿(あずまや)がとらえられている。左手の三角に切りとられた空の下に見えているのは、上戸塚から戸山ヶ原、百人町方面の眺望だ。
西坂は、この切り立った崖地の下から右手(西)に向かい、北の丘上へと通ってきている。正確な制作年は不明だが、崖地に四阿が設置されているところをみると、画集の出版年からそれほど離れていない時期の作品ではないだろうか。空中写真を年代順に参照してみると、崖地の先端に建設されている四阿は1944年(昭和19)の空中写真、および1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前に偵察機F13が撮影した写真で確認できる。画家は、庭園中ほどの北側から南を向いて描いており、背後の左手には大正期と同様にバラ園が残っていただろうか。この時期、東京名所としてボタンで有名だった「静観園」は徳川新邸の東側、すなわち聖母坂に沿った東斜面に移されていた。
また、徳川義恕の寛子夫人は吉田博に絵を習っていたという証言も、以前お訪ねした際に当代の徳川様よりうかがっている。いや、寛子夫人に限らず西坂の徳川家は、一家をあげて洋画を描くのが趣味だったのだ。そもそも、徳川義恕自身が画会「聊娯会」に所属しており、毎年暮れになると長崎村荒井1721番地(現・目白4丁目)にあった牧野虎雄アトリエで開かれる餅つき大会へ、大久保作次郎や満谷国四郎、森田亀之助、金井文彦、吉村由松らとともに夫人同伴で参加している。この餅つき大会は、1936年(昭和11)以降も牧野虎雄の転居先となる下落合604番地のアトリエでも継承されていたのだろう。
1928年(昭和3)12月24日に、牧野虎雄アトリエで開かれた餅つき大会のめずらしい記念写真が残されている。左端には背広姿の徳川義恕が、右端には着物姿の寛子夫人がとらえられており、徳川義恕の真上には下落合630番地の森田亀之助が、その右並びにはまるで餅運びの小使いさんのような、頬っかぷりをした下落合753番地の満谷国四郎が写っている。いつもこんな格好をしてるから、展覧会で今村繁三に小使いさんとまちがえられるのだろう。満谷国四郎の右には、下落合540番地の大久保作次郎と牧野虎雄が並んで写っている。つきたての餅を味わったあと、一行は近くの空き地でタコ揚げ大会に興じてるのだろう。
さて、西坂の徳川家では1941年(昭和16)に、家族の作品を収録した徳川義恭の編輯による画集『暢美』(私家版/非売品)を出版している。掲載されているのは、徳川義恕をはじめ寛子夫人、子息たちとその夫人の作品計31点だ。きょうは、その中から徳川義恕が下落合を描いた作品を中心にご紹介してみたい。同画集から、編輯者・徳川義恭がつづる「序」を少し引用してみよう。
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ふとしたことから作品集を作ることになりまして、一家の者の作品、約三十点を撰びました。/始(ママ)めての試みでありますから、二十数年も前の作品から極最近のもの迄含まれて居ります。/これは一家のすべてが趣味を同じくすることを記念して出来た図録と云ふべきものであります。/けれども、日常のすさびや旅情を豊かにするてだてとしてのこの道は、単なる一家の趣味といふに止らず、一家の気持を反映するものとしても亦一つの役割を演じて居ります。
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まず、『庭の雪』(6号)とタイトルされた画面(冒頭写真)は、一見してどこを描いたのかがわかる。大きな西洋館の母家(おそらく昭和期の新邸)を背に、降雪後の南側に広がる庭園の先端を描いたもので、バッケ(崖地)の淵には四阿(あずまや)がとらえられている。左手の三角に切りとられた空の下に見えているのは、上戸塚から戸山ヶ原、百人町方面の眺望だ。
西坂は、この切り立った崖地の下から右手(西)に向かい、北の丘上へと通ってきている。正確な制作年は不明だが、崖地に四阿が設置されているところをみると、画集の出版年からそれほど離れていない時期の作品ではないだろうか。空中写真を年代順に参照してみると、崖地の先端に建設されている四阿は1944年(昭和19)の空中写真、および1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前に偵察機F13が撮影した写真で確認できる。画家は、庭園中ほどの北側から南を向いて描いており、背後の左手には大正期と同様にバラ園が残っていただろうか。この時期、東京名所としてボタンで有名だった「静観園」は徳川新邸の東側、すなわち聖母坂に沿った東斜面に移されていた。




つづいて、紹介所からモデルを雇い徳川邸内で描いたとみられる、『窓辺』(20号)の裸婦像がある。制作年が不明なので、厳密にいえば描かれている窓辺が新邸のものか旧邸のものかは不明だが、フランス風の出窓の下には造りつけのソファが見えている。窓外の景色は、背の低い植木が繫っているようなので、おそらく邸1階の窓辺なのだろう。これは推測だが、邸内の意匠が古めかしい造りであること、モデル女性の髪形が昭和期にしては垢ぬけていないことから、大正期の作品ではないだろうか。したがって、旧邸内の情景のように思える。
次は、徳川邸(別邸時代)から外へでて風景を描いた、『郊外』という30号キャンバスの画面だ。おそらく明治末か大正初期に、徳川義恕が付近を散策しながら発見した風景を描いているのだろう。一見して、妙正寺川に設置されたバッケ堰のひとつをモチーフに制作したものだ。『郊外』には、徳川義恕自身によるキャプションが添えられている。同画集より、全文を引用してみよう。
▼
下落合の別荘より哲学堂附近へかけ、当時は一面の原にて特に秋には空が澄み渡り大変美しくありました。/今日はこのあたりに住宅や工場が列びこの時代の面影は全く失はれて居ります。
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画面がモノクロで暗く、描かれている微細な部分は不明だが、この妙正寺川に築かれたバッケ堰は、上落合にあった「バッケの水車」小屋の下流に築かれたバッケ堰ではない。堰自体の幅がかなり狭いこと、手前に溜池状に拡がる水面が広くないこと、妙正寺川の川幅が狭いことなどから、もうひとつ上流の上高田と下落合との間にあったバッケ堰ではないかと思われる。
したがって、遠景に見える左手前の森林は、東光寺や光徳院の建つ境内あたりの杜、中央の森林は四村橋(しむらばし)の西側に接した急斜面の丘であり、さらにその向こう側(右寄り奥)に見える緑の連なる森林地帯は、徳川義恕も触れている井上哲学堂のある丘陵(通称:和田山)だろう。左手は、いまだ耕地整理が行われる以前の水田地帯であり、通称“バッケが原”にはなっていない。
次は、徳川邸(別邸時代)から外へでて風景を描いた、『郊外』という30号キャンバスの画面だ。おそらく明治末か大正初期に、徳川義恕が付近を散策しながら発見した風景を描いているのだろう。一見して、妙正寺川に設置されたバッケ堰のひとつをモチーフに制作したものだ。『郊外』には、徳川義恕自身によるキャプションが添えられている。同画集より、全文を引用してみよう。
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下落合の別荘より哲学堂附近へかけ、当時は一面の原にて特に秋には空が澄み渡り大変美しくありました。/今日はこのあたりに住宅や工場が列びこの時代の面影は全く失はれて居ります。
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画面がモノクロで暗く、描かれている微細な部分は不明だが、この妙正寺川に築かれたバッケ堰は、上落合にあった「バッケの水車」小屋の下流に築かれたバッケ堰ではない。堰自体の幅がかなり狭いこと、手前に溜池状に拡がる水面が広くないこと、妙正寺川の川幅が狭いことなどから、もうひとつ上流の上高田と下落合との間にあったバッケ堰ではないかと思われる。
したがって、遠景に見える左手前の森林は、東光寺や光徳院の建つ境内あたりの杜、中央の森林は四村橋(しむらばし)の西側に接した急斜面の丘であり、さらにその向こう側(右寄り奥)に見える緑の連なる森林地帯は、徳川義恕も触れている井上哲学堂のある丘陵(通称:和田山)だろう。左手は、いまだ耕地整理が行われる以前の水田地帯であり、通称“バッケが原”にはなっていない。




徳川義恕は、別邸を出ると西坂を下り、鎌倉支道のひとつである中ノ道を、ハイキング気分で延々と西へ歩いていったのだろう。ひょっとすると、寛子夫人や幼い長男の義寛を連れて、持参の弁当をどこかの草原で食べているのかもしれない。道路の左手には、一面の水田地帯が拡がり、田圃のなかには東京電燈が設置した谷村線の木製高圧線塔がつづいている。稲葉の水車の小屋近くまでくると、東西を流れていた妙正寺川の川筋は、ほぼ直角に北へと折れ曲がる。御霊下の田圃から見あげた丘上には、中井御霊社の濃い杜が見えただろう。
目白崖線沿いの道も同様に北へと折れるが、そこには崖地に通うバッケ坂下の手前に、下流で見た堰よりも規模のかなり小さめなバッケ堰が目についた。夏であれば、子どもたちが堰の下の水溜まりで、遊泳を楽しんでいたかもしれない。現在の御霊橋が架かるあたりだ。徳川義恕は、バッケ堰の下流およそ65mほどの位置にイーゼルをすえると、北北西を向いてキャンバスに向かいはじめた。彼が立つ位置は、のちの住所でいえば下落合4丁目2161番地(当時は番外地/現・中井2丁目)、いまの御霊(ごりょう)坂の下あたりの斜面ということになる。
また、この位置はくしくも1926年(大正15)9月21日の、東京気象台によればどんよりとした曇り空の下、佐伯祐三が「下落合風景」シリーズの1作『洗濯物のある風景』を描いた位置に重なり、のちに建てられた農家とみられる洗濯物を干す住宅は、徳川義恕が立つ背後右手になる。また、徳川義恕のいる右側にそそり立つ崖地からは、1950年(昭和25)に旧石器時代の石器が次々と発見され、のちに丘上の複合遺跡も含め「落合遺跡」と名づけられた。
男爵・徳川家の四男・徳川義恭が編輯した『暢美』だが、ほかにも徳川義恕の連れ合いである寛子夫人をはじめ、長男・徳川義寛や二男・義孝(津軽義孝)、三男・義忠、その連れ合いである禮子夫人などによる風景画や人物画、静物画、仏画などさまざまな作品が掲載されている。
目白崖線沿いの道も同様に北へと折れるが、そこには崖地に通うバッケ坂下の手前に、下流で見た堰よりも規模のかなり小さめなバッケ堰が目についた。夏であれば、子どもたちが堰の下の水溜まりで、遊泳を楽しんでいたかもしれない。現在の御霊橋が架かるあたりだ。徳川義恕は、バッケ堰の下流およそ65mほどの位置にイーゼルをすえると、北北西を向いてキャンバスに向かいはじめた。彼が立つ位置は、のちの住所でいえば下落合4丁目2161番地(当時は番外地/現・中井2丁目)、いまの御霊(ごりょう)坂の下あたりの斜面ということになる。
また、この位置はくしくも1926年(大正15)9月21日の、東京気象台によればどんよりとした曇り空の下、佐伯祐三が「下落合風景」シリーズの1作『洗濯物のある風景』を描いた位置に重なり、のちに建てられた農家とみられる洗濯物を干す住宅は、徳川義恕が立つ背後右手になる。また、徳川義恕のいる右側にそそり立つ崖地からは、1950年(昭和25)に旧石器時代の石器が次々と発見され、のちに丘上の複合遺跡も含め「落合遺跡」と名づけられた。
男爵・徳川家の四男・徳川義恭が編輯した『暢美』だが、ほかにも徳川義恕の連れ合いである寛子夫人をはじめ、長男・徳川義寛や二男・義孝(津軽義孝)、三男・義忠、その連れ合いである禮子夫人などによる風景画や人物画、静物画、仏画などさまざまな作品が掲載されている。




わたしは、特に徳川義忠が描く『大磯別荘』に惹かれた。そのキャプションから引用しよう。
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大磯の真夏の松林の家。のんびりとして居た日がなつかしい。それにあそこには、少年の頃の思ひ出が、一杯だ。波を枕に松風の音。
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昔の拙記事だが、大磯に展開した豪華な別荘街について、その所在地とともに書いたことがあったけれど、徳川義恕の別荘は大磯のどのあたりにあったのだろうか。上記のキャプションからすると、小田原へ転居した山県有朋の別荘跡地、徳川義禮別荘の南側海岸寄りあたりだろうか。
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大磯の真夏の松林の家。のんびりとして居た日がなつかしい。それにあそこには、少年の頃の思ひ出が、一杯だ。波を枕に松風の音。
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昔の拙記事だが、大磯に展開した豪華な別荘街について、その所在地とともに書いたことがあったけれど、徳川義恕の別荘は大磯のどのあたりにあったのだろうか。上記のキャプションからすると、小田原へ転居した山県有朋の別荘跡地、徳川義禮別荘の南側海岸寄りあたりだろうか。
◆写真上:おそらく1935年(昭和10)以降の、新邸時代に描かれたとみられる徳川義恕『庭の雪』。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)12月24日に牧野虎雄アトリエで行われた恒例餅つき大会記念写真。(写っている人物たちについては本文参照) 中上は、1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機F13によって撮影された西坂上の徳川義恕邸。中下は、1926年(大正15)に徳川邸の南庭から母家(旧邸)を描いた有岡一郎『初秋郊外』。下は、1926年(大正15)5月に徳川邸の南庭東寄りにあったバラ園を描いた松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。
◆写真中下:上左は、1941年(昭和16)に出版された徳川義恭・編『暢美』内扉(私家版)。上右は、杖(じょう)の代わりにハタキをもって達磨大師に扮する徳川義恕。中上は、室内制作の徳川義恕『窓辺』(制作年不詳)。中下は、1929年(昭和4)に撮影された徳川義恕。下は、明治末か大正初期に制作されたとみられる妙正寺川上流のバッケ堰を描いた徳川義恕『郊外』。
◆写真下:上は、上落合768~780番地の「バッケの水車」小屋のやや下流にあったバッケ堰を描いた手塚緑敏『バッケ堰』(昭和初期)。堰の下は溜池状になり、妙正寺川の川幅もかなり広かった。中上は、上高田と下落合の間の現・御霊橋あたりにあった規模の小さなバッケ堰(『ふる里上高田昔語り』1982年より)。中下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる『郊外』のバッケ堰界隈。下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図でみる徳川義恕の描画ポイント。
★おまけ1
徳川義忠が描く小品の『大磯別荘』(4号)で、クロマツの防砂林が海風に揺れている様子がよくとらえられている。手前の植物は、夏になるとよく見かけるオオマツヨイグサの黄色い花だろうか。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)12月24日に牧野虎雄アトリエで行われた恒例餅つき大会記念写真。(写っている人物たちについては本文参照) 中上は、1945年(昭和20)4月2日に米軍偵察機F13によって撮影された西坂上の徳川義恕邸。中下は、1926年(大正15)に徳川邸の南庭から母家(旧邸)を描いた有岡一郎『初秋郊外』。下は、1926年(大正15)5月に徳川邸の南庭東寄りにあったバラ園を描いた松下春雄『下落合徳川男爵別邸』。
◆写真中下:上左は、1941年(昭和16)に出版された徳川義恭・編『暢美』内扉(私家版)。上右は、杖(じょう)の代わりにハタキをもって達磨大師に扮する徳川義恕。中上は、室内制作の徳川義恕『窓辺』(制作年不詳)。中下は、1929年(昭和4)に撮影された徳川義恕。下は、明治末か大正初期に制作されたとみられる妙正寺川上流のバッケ堰を描いた徳川義恕『郊外』。
◆写真下:上は、上落合768~780番地の「バッケの水車」小屋のやや下流にあったバッケ堰を描いた手塚緑敏『バッケ堰』(昭和初期)。堰の下は溜池状になり、妙正寺川の川幅もかなり広かった。中上は、上高田と下落合の間の現・御霊橋あたりにあった規模の小さなバッケ堰(『ふる里上高田昔語り』1982年より)。中下は、1935年(昭和10)ごろに撮影された空中写真にみる『郊外』のバッケ堰界隈。下は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図でみる徳川義恕の描画ポイント。
★おまけ1
徳川義忠が描く小品の『大磯別荘』(4号)で、クロマツの防砂林が海風に揺れている様子がよくとらえられている。手前の植物は、夏になるとよく見かけるオオマツヨイグサの黄色い花だろうか。

★おまけ2
1928年(昭和3)12月24日に徳川義恕・寛子夫妻も参加して行われた、牧野虎雄アトリエの恒例餅つき大会。餅をついているのは、近くに住む左から右へ牧野虎雄、森田亀之助、吉村吉松、金井文彦で、奥に見える頬っかぶりをした餅運びの小使いジイやが満谷国四郎。下の写真は、つきたての餅を賞味したあと、近くにある長崎村の空き地でタコ揚げをする牧野虎雄とその一行。
1928年(昭和3)12月24日に徳川義恕・寛子夫妻も参加して行われた、牧野虎雄アトリエの恒例餅つき大会。餅をついているのは、近くに住む左から右へ牧野虎雄、森田亀之助、吉村吉松、金井文彦で、奥に見える頬っかぶりをした餅運びの小使いジイやが満谷国四郎。下の写真は、つきたての餅を賞味したあと、近くにある長崎村の空き地でタコ揚げをする牧野虎雄とその一行。


この記事へのコメント
てんてん
落合道人
宗教は宗派によって、儀式や習慣がさまざまですね。
かしわぎ
落合道人さんのブログでこの作家の名前を知り、ご近所に住んでいたことを教わったので勝手に親近感を抱いてしまいました。
落合道人
家の近所に住んで、同じ風景を見ていたことを知りますと、がぜんその画家に親近感がわいてきますね。
吉田博が制作した東京拾二題の版画のうち、『落合徳川ぼたん園』をずいぶん前から探しているのですが、20年ほど前に神保町の古書店で見かけたものの、残念ながらその後は見かけません。