薬王院の北に建設予定だった落合第二小学校。

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 1924年(大正13)の夏に起工、翌1925年(大正14)1月に竣工した落合第二尋常小学校について、落合町の年度予算7万円が1924年(大正13)に計上されているので、当然、関東大震災による東京の市街地から転居してくる住民が激増したため、既存の落合(第一)尋常高等小学校では子どもたちを収容しきれなくなったためだと考えていた。
 ところが、同小学校の成立事情を詳しく調べていくと、創立計画は大震災のかなり以前からであり、建設場所ものちの妙正寺川沿いで、西武線の中井駅南側(上落合745番地)にあたる敷地ではなく、下落合東部に位置する薬王院旧墓地の北側にあたる境内で、近隣から“薬王院の森”(現・薬王院の新墓地)と呼ばれていた敷地を中心とする一帯だった。すなわち、大震災前には山手線に近い下落合東部の人口増加が顕著であると認識されており、新たな小学校は落合(第一)尋常高等小学校の東側に設置すべきだと判断されたためだろう。
 創立の答申が行われたのは、大震災前の1923年(大正12)6月23日であり、もっと以前から落合第二尋常小学校の創立および建設計画は、落合村(1924年より落合町)の議会や地元で進められていたとみられる。初めて答申書が、落合村長の川村辰三郎から豊多摩郡長の服部良太郎へ提出されたのが先のタイムスタンプであり、学校の設置場所も含め、かなり以前から村内では協議や地主へのネゴシエーションが行われていたとみられる。答申書には、校地の所在地や環境までが記載されており、かなり具体的な計画の進捗が感じられる内容だ。
 答申書の内容を、1979年(昭和54)に新宿区教育委員会から出版された、『新宿区教育百年史』に付属する『同史/資料編』から、短いのでおよそ本文のみを引用してみよう。
  
 大正十二年六月二十三日/落合村長 川村辰三郎/豊多摩郡長 服部良太郎殿
 豊多摩郡諮第八号ヲ以テ御諮問相成リ候 本村ニ設置スベキ尋常小学校数一ヲ増シ 其ノ位置ヲ左記ノ通リ御指定ノ件 本村会ノ決議ヲ経候 御異議無之 此ノ段及答申候也
 一 位置 豊多摩郡落合村大字下落合字本村
      二八九番 山林 四畝二十七歩/七九〇番ノ二 山林
      八〇二番 畑 六畝二十九歩/計  二反三畝十歩 (以下略)
  
 上記の文章を読むと、この答申書以前から落合村と豊多摩郡庁の間で、「設置スベキ尋常小学校」について書類のやり取りが行われていた様子がうかがえる。
 そして、同答申書に付帯して新小学校設置の申請書も、ほどなく提出されている。つづけて、服部豊島郡長から東京府知事の宇佐美勝夫あてに提出された、申請書の全文を引用しよう。
  
 豊教第六二三号/申請
 本郡落合村ハ近来隔世ノ発展ヲ来シ従ッテ学齢児童ノ激増又他ニ其ノ比ヲ見ル能ワザル状態ニ有之 去ル大正十年度中既ニ一校ニテハ到底其ノ収容ニ堪エズ 増築或ハ新設等ノ計画ヲ図リタルモ 当村財政上ノ関係等ニ依リ蹉跌シ止ムヲ得ズ 大正十年度ヨリ御認可ヲ得テ仮教室ヲ使用シ 一時ヲ弥縫シ来ルモ 本年度限リニテ使用モ制限ヲ受ケ居リ 旁々学齢児童ハ其ノ後益々増加ヲ来シ一校増設ノ急務ナルハ明カナル事実ニシテ 別紙図面ノ場所ニ一校増設致シ度ク候ニ付テハ 左記ノ通リ校数並ビニ位置指定致シ度ク同村ノ意見ヲ徴シ此ノ段申請候也
 大正十二年六月二十六日/豊多摩郡長 服部良太郎/東京府知事 宇佐美勝夫殿
 (以下、落合村からの予定校地データ「一 位置 豊多摩郡落合村大字下落合字本村……」後略)
  
 上記の文章から、いろいろなことがわかる。まず、落合村で落合第二尋常小学校の新設が課題になっていたのは、1921年(大正10)以前からだ。そのころから、落合(第一)尋常高等小学校では収容しきれない子どもたちがおり、各地の施設や借家を「分校」にして授業していた様子がうかがえる。これは、落合尋常高等小学校に「第一」が付与される経緯、すなわち校舎の増築に次ぐ増築でも間にあわず、児童を周囲へ分散した経緯と一致している。また、川村村長の答申から服部豊島郡長の東京府への申請まで、わずか3日というのも喫緊の課題であったことを感じさせる。
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 1921年(大正10)といえば、近衛町目白文化村が造成される前の時代で、山手線の目白駅近くでは「愛隣園」浅川家によるミニ文化村をはじめそこそこの住宅街が、下落合の中部では落合府営住宅などが、また中央線の柏木駅(のち東中野駅)からのつながりで、上落合の街道(現・早稲田通り)沿いを中心に宅地開発がはじまったばかりのころだ。あたり一帯は耕地整理前の田畑や雑木林が多かった時期だが、大正期に入ると郊外住宅(田園都市)のブームに乗ったものか、東京市街地からの転居家庭が急増していたのだろう。当時の家庭では、子どもが4~5人はあたりまえの時代なので、「学齢児童ノ激増」となったと思われる。
 さて、落合第二尋常小学校の建設予定地にされたのは、住民の増加が特に顕著だった下落合の東部だった。下落合789~890番地および下落合802番地は、薬王院の森(現・新墓地)のほぼ全域と現在の本堂、道路をはさみ夏目利政がのちに設計を手がけることになる“アトリエ村”の東側全体ということになる。面積的に見れば、落合(第一)尋常高等小学校よりもやや広めな敷地だった。そして、道路が都合2ヶ所ひっかかるが変更する予定としている。
 落合村からの予定地データには、「附近ノ状況 東方ハ山林 西方宅地 東南ハ寺院 北方ハ村道 現在校地予定実施中ニ道路アルモ 追ッテ変更ス」とあり、薬王院の森と下落合802番地の間を南北に貫く道路を廃止するか、もう少し東へ移設する計画があったのだろう。なぜなら、建設予定地が変更になった1924年(大正13)以降の状況を観察すると、下落合801番地の旧・安達堅三邸から下落合804番地の旧・鶴田吾郎アトリエにかけて、大正末からいき止まりの袋小路が敷設されているからだ。予定地が変更されるのと同時に、小学校と住宅街の境界になるはずだった道路敷設も、途中で中止されている可能性が高い。そして、校地変更のあと一帯に住宅が建てられ、改めて下落合800番地界隈の番地変更が行われているとみられる。
 落合第二尋常小学校の収容児童予定数は、1923年(大正12)6月の時点で531人(男子261人・女子270人)とされていた。ところが、豊多摩郡長の申請から8日後の1923年(大正13)7月4日に、東京府の内務部長から「待った」がかかった。落合第二尋常小学校の予定地は、「一時ノ急ヲ救ウニ止ル」つまり予定地が落合(第一)尋常高等小学校よりやや広いぐらいでは、またすぐに子どもの増加で満杯になり、新学校をどこかへ建てねばならなくなるとして、「大字上落合・葛ヶ谷方面」に広大な敷地を確保して、落合第二尋常小学校を建てられないだろうかと回答した。こうして、薬王院北側の予定地から別の敷地を選定している最中、同年9月1日に関東大震災が東京を襲った。
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 東京市民の市街地から郊外への移動は、大震災前とは比較にならないほど激増し、落合村では予定敷地を妙正寺川沿いの寺斉橋を南へわたった、上落合745番地の広い敷地に決定している。そして、起工から竣工までわずか半年たらずという短いリードタイムで、大規模な落合第二尋常小学校が落成し、1925年(大正14)4月1日の開校へこぎつけている。つづいて、昭和期に入ると学齢児童の激増から、すぐに落合第三尋常小学校の設置計画も始動し、1928年(昭和3)には早くも設置予定地を決定、豊多摩郡庁を通じて申請を東京府へ提出している。
 1927年(昭和2)4月から西武線が運行し、中井駅のすぐ南側に位置する落合第二尋常小学校(戦後は現・落合第五小学校の敷地となる)だったが、当初、児童数706人(学級数12)でスタートしている。けれども、関東大震災の混乱のさなか猛スピードで誕生した同校だったが、どこか不運なめぐりあわせに遭遇している。以前にも拙記事でご紹介していたが、1944年(昭和19)5月23日の午後5時30分、給食室(当時の用語では炊爨室)から出火し、全校舎の3分の2を焼失している。上落合地域が、翌1945年(昭和20)4月13日夜半と5月25日夜半の二度にわたる空襲で壊滅する、ちょうど1年ほど前の出来事だった。
 高学年5・6年生の生徒たちは、下落合東部の落合第四尋常小学校(国民学校)で授業を受けることになり、4年生以下の生徒たちは焼け残った校舎を利用し、午前と午後の二部制で授業をつづけている。やがて、学童疎開により生徒たちは群馬県草津町へ集団疎開をするが、失火で焼け残っていた校舎も空襲で全焼してしまう。東京で業務をになう教員や事務員は、上落合東部の明星尋常高等小学校(国民学校)で仕事を継承するが、同校も5月25日夜半の空襲で全焼。落合第二小の関係者は、今度は落合第三尋常小学校(国民学校)で業務を継続している。
 そして、敗戦後の1945年(昭和20)10月にようやく東京へもどった生徒たちは、校舎が全焼して存在しないため、落合第三尋常小学校(国民学校)で授業を受けている。敗戦からの2年半の間、落合第三小学校(新制)へ通いつづけることになる落合第二小学校の生徒たちだが、1947年(昭和22)1月21日にようやく新校舎建設予定地が決定した。上落合1丁目472番地の大屋敷だった旧・野々村金五郎邸跡で、戦時中は憲兵隊の分隊が駐屯していた広い敷地(大政翼賛会収容地)だった。同時に、中井駅南側の旧・校地は落合第五小学校の建設予定地に指定されている。そして、ようやく1948年(昭和23)3月20日、現在の落合第二小学校の敷地に戦後の新校舎が落成している。
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 大震災前から始動していた落合第二尋常小学校の建設計画だが、その経緯を記録した関連書類を年代順に参照すると、大正期に入り東京市を取り巻く各郡部への人口流入が顕著だったこと、東京府が市街地からの住民移動を見越して、できるだけ大規模な小学校や施設の建設を郡部で推進しようとしていたこと、関東大震災により予想だにしなかった人口の東京市内から郊外への大移動が起き、東京府および各郡部の自治体が、その対応に追われまくっていた様子が透けて見えてくる。

◆写真上:1979年(昭和54)に制作された大沼映夫『自由社会守る政治を』。落合第二尋常小学校(国民学校)を卒業した下落合4丁目2151番地(現・中井2丁目)の洋画家・大沼映夫は、1944年(昭和19)に11歳で校舎の焼失と、翌年には学童疎開の辛酸をなめている。
◆写真中上は、1925年(大正14)に作成された「落合町市街図」にみる落合第二尋常小学校の建設予定地。は、翌1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる予定地。すでに旧・下落合802番地界隈には住宅やアトリエが建てられ、番地変更が行われている様子がわかる。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる“薬王院の森”とその周辺。
◆写真中下は、校地変更後に上落合745番地で開校した落合第二尋常小学校。中上は、戦後に上落合1丁目472番地(現・上落合2丁目10番地)へ移転した落合第二小学校。中下は、1944年(昭和19)に炊爨(すいさん)室からの失火以降、高学年の生徒たちが通っていた落合第四尋常小学校。は、周囲の緑地が幸いしたのか空襲でも焼けなかった落合第四小学校の現状。
◆写真下は、落合第二尋常小学校(国民学校)に残る校舎が1945年(昭和20)4月の空襲で焼失したため、在京の教師や事務員たちが執務していた上落合1丁目136~141番地の明星尋常高等小学校(国民学校)。のちの5月の空襲で同校も焼失し、戦後に再建されることはなかった。は、疎開先からもどった落合第二小の生徒たちは、校舎がないため通った落合第三小学校()と同校の現状()。
おまけ1
 1944年(昭和19)5月23日の炊爨室(すいさんしつ=給食室)からの失火で校舎のほとんどを焼失した、落合第二尋常高等小学校の焼け跡に立つ巡査。菅野廉一が、おそらく巡査の夏服から同年の6月以降に撮影したもので、背景には中井駅付近の西武線が走り手前には妙正寺川が流れている。
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おまけ2
 今夏もこれが近所をブンブン飛びまわっている。わが家へは、めずらしく大きな♂がやってきた。わたしが学生時代(1970年代後半~80年代)の新宿では、およそ考えられなかった光景だ。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    カブトムシが飛んでくるって良いですね♪
    2026年08月05日 19:43
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    例年は♀が多いのですが、♂がやってくるのはめずらしいです。
    2026年08月05日 20:32

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