近衛町や目白文化村に先立つミニ文化村「愛隣園」。

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 大正の初期、下落合ではミニ文化村づくりとでもいうべきブームがあったようだ。火付け役は、長年暮らした米国から帰国して、下落合906番地(のち909番地)でアポロ鉄工場を経営する片山廣斗と、片山の開発思想から影響を受けた下落合604番地の浅川清造だ。それぞれ、片山家は下落合の東部に「愛隣園」を、浅川家は諏訪谷近くでミニ文化村を経営している。
 最初、「愛隣園」という名称に気づいたとき、近衛篤麿邸(のち近衛町)の近くなのでキリスト教の関連施設か、近衛邸の北側にあった「萬鳥園」と同様に動物の品種繁殖研究所か、はたまた孤児院か非行少年少女の更生施設かなにかかと思ってしまった。w ところが、米国帰りで独自な郊外住宅の設計思想をもつ片山廣斗という人物が、1915~1916年(大正4~5)に開発した、下落合の小規模な住宅地=ミニ文化村(小田園都市)のネームだった。
 1916年(大正5)といえば、すでに熊岡美彦のアトリエは目白駅前の丘上にあったかもしれないが、中村彝がアトリエを建ててようやく転居してきたころだ。近衛篤麿が死去したあとも屋敷はそのまま建っており、同年暮れには竹久夢二が下落合370番地のアトリエから、高田村雑司ヶ谷大原(現・目白2丁目)へ転居している。御留山では、相馬家が新築の屋敷へ転居してきて2年めを迎えた時期だ。そんな時代に、現在の近衛町の北側に隣接した下落合922~930番地界隈では、1,660坪の敷地に小規模ながらモダンな文化住宅街が竣工していた。
 目白駅(地上駅)から、西へ「二三丁」(約200~300m)と山手線に近く、「近衛公爵家前」すなわち近衛篤麿邸の北側敷地に、十数軒の住宅を建設して分譲販売ではなく、賃貸住宅として入居者を募集していた。掘削した井戸から、地下水をポンプで汲みあげ圧力をかけて各戸に供給する、のちの目白文化村と同様の上水道施設を備えていた。しかも、汲みあげポンプはバックアップ用に2台すえられており、1台が故障しても断水しない仕組みとなっていた。同ポンプは圧力が自在に変更でき、万が一の火災のときには消火栓からの水圧をポンプ車並みに変更することができた。また、住宅の周囲には開渠だが、下水の側溝も設置されている。
 「愛隣園」という名称は、片山の開発思想に共鳴した男爵・阪谷芳郎が命名したもので、住宅に囲まれた中央スペースには緑を植えて遊園地(小公園)とし、四阿(あずまや)が建てられている。「愛隣園」園主の片山廣斗自身の証言を、1916年(大正5)に建築工芸協会から刊行された「建築工芸叢誌」第2期19号収録の、『中流人士の郊外住宅』から少し長いが引用してみよう。
  
 それに東京附近には、好適の場所が見当らない。然し所々を捜して見て、漸うと今の場所を選定したのである。両側は近衛公爵家の地所であるから、此処ならば、野心家の所有地とは異つて、他日に至り、彼是れと圧迫を受けるやうな処もあるまいと思つて、乃で此の土地を選んだのである。/さて、斯る地所を選定して、此の区域内に何軒かの住宅を造るとした処で、若し之れを居住者、或は其他の人が、各自思ひ思ひに勝手な建築をしたならば、必らず統一を欠くに違ひないから、それでは甚だ面白くない。第一自分の志に背く。乃で此処を統一ある住宅地とすべく、独力を以て経営する事とした。故に、上水及び下水の設備も、空気の流通や、日当り等の工合も、都合よくする事が出来て、或る程度までは、殆んど自分の意の如くに、居住者に必要なる設備をすることが出来たのである。/郊外生活の利益は、土地が閑静で、且つ空気も不潔でなくして、衛生的であると云ふ所にあるが、然るに動(どう)もすれば、飲料水の不良、或は欠乏、下水の不完全等の為めに、却て非衛生となると云ふ傾がある。乃で自分は、此の住宅を設計するに当つて、水道の設備及び下水の疏通に最も意を注いで、此の二つに最も重きを置いたのである。
  
 文中に「両側は近衛公爵家の地所」とあるが、正確にいうなら「愛隣園」の南側全体が、近衛町開発前の近衛篤麿邸(当時は近衛文麿邸)で、北面の西側が東京同文書院目白中学校の校庭(近衛家敷地)だった。だが、「愛隣園」北面の東側は近衛家よりほぼ同時期に分譲購入していた、下落合435番地の舟橋了介・さわ子夫妻による住宅開発地だったはずだ。2年ほどのち、舟橋家の開発地である下落合436番地に、アトリエを建てて住んだのが日本画・洋画の双方をこなす夏目利政だった。
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 片山廣斗という人は、旧・神田上水の分水流沿いで大きなアポロ鉄工場を経営し、自宅も工場敷地内(下落合906番地)にあったとみられるので、経済的にはかなり余裕があったのだろう。したがって、「愛隣園」の賃貸住宅で特に儲けようとしていたようには見えず、自身の趣味や理想を反映した住宅地を郊外に建設してみたいという、海外への留学組にありがちな実証実験的な発想だったようだ。おそらく、「愛隣園」の住宅群が住民で埋まった時点で、投資に見あう採算点は何年後になるか?……というような計算は、度外視していたのではないか。
 住宅と住宅の間を、最低でも5間(約9.1m)ほど空けて建設し、小規模な住宅地に似あわず二間道路を計3本も敷設している。道路は土面の道ではなく、年に二度の春秋に多摩川の砂利を運んで簡易舗装を実施し、泥でぬかるんだ道になるのを防いでいる。住宅のデザインも、借り主の好みに応じて洋館と和館のいずれかが選べ、小型の5室住宅から大規模な9室住宅までさまざまだった。住宅の間は、屋敷林を植えてプライバシーを保護し、道路に接する側は生け垣か板塀で囲んでいる。建設の際は、個々の住宅が同じデザインにならないよう工夫したという。
 給水ポンプを冗長化して断水をなくした点も、当時としては画期的な仕組みだったろう。貯水用の水道タンクも2基設置され、片方が故障しても水道が止まることはなかった。また、家々の間には消火栓が設置され、火災が起きたときはそこから「四十磅」(40ポンド)の圧力で消火水が供給されるようになっていた。水道の利用時は、亜鉛引きの直径約6.1cm水道管に「二十五磅」(25ポンド)の水圧で各戸に配水し、約6cmの支管で台所や浴室へ給水している。
 また、電気は椎名町から近衛邸へ延びていた近衛線ではなく、目白変電所からの東京電燈谷村線で引かれている。これは、旧・神田上水沿いに建つアポロ鉄工場も同様だったとみられるので、おそらく氷川線あるいは七曲線の延長だったのだろう。電気のメーターは各戸に設置されたが、1燈につき1ヶ月2キロまでの電気利用は無料とし、それ以上使用した場合は1キロにつき9銭を徴収している。大家族でないかぎり、大量に使用することはありえないので、電気がとても廉価で利用できたとみられる。「愛隣園」が、ほとんど片山の趣味といわれるゆえんだろう。また、都市ガスが引かれてないため、電気レンジや電気コンロの利用に配慮したのかもしれない。
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 下水の処理にもかなり気をつかったようで、『中流人士の郊外住宅』から引用してみよう。
  
 西洋の文明国では、市中の道路にはアスハルトを敷いたり何かして綺麗でもあり、殊に馬車道は市から掃除を為し、泥を洗流して常に清潔にするし、歩道は其処の家々で掃除をする習慣になつて居る。それだからいつも清潔であるが、日本では東京市中でも日本橋通りや本郷の大学前等の如き、或る一部分を除くの外は依然たる昔風の道路で、場所に依つては、随分甚だしく不潔である。乃で此の区域内は、道路や下水を出来得る丈け清潔にしたいと考へて、頗る注意を払つて設計したつもりである。此処の下水は各戸から道路の両側にある溝に出るまでは、暗渠の土管を用ゐて居るが道路の溝は、深さ一尺幅一尺の石造で開渠としてある。而して常に汚水を停滞せしめないやうに注意して居るから下水ではあるが、誰が見ても不快な感じを起さないであらうと思ふ。
  
 当時の下水は、台所から庭先へ、あるいは接道へそのまま流してしまうケースが多かったため、地中に浸みこんで井戸水を汚染し、不潔な環境になりがちだった。このあたりの様子は、1925年(大正14)に自由学園の高等科女学生たちが実施した、『我が住む町』(自由学園/非売品)に収録された「衛星調査」に詳しい。ただし、大正初期に開発された「愛隣園」と大正末の当時とでは、このあたりの市街地化も進みかなり事情が異なっていたとみられるが。
 この文章のあと、著者は昔のほうが下水処理は合理的かつ効率的だった事例を挙げているが、確かに大江戸(おえど)の街中にあった屋敷などには、上水道水道管網はもちろん、地中に汚水が漏れない万年石樋などによる強固な下水管が整備されていた。そういえば、下落合駅の南にある東京都の水再生センターには、ビル工事などの際に発掘された江戸期の万年石樋による、下水道の遺構が展示されている。上水道の万年石樋と同様の構造だが、300年や400年では破断しない、金属管よりも強固な“都市開発”が行われていた様子を偲ぶことができる。
 「愛隣園」については、拙ブログでは考古学分野の論文でおなじみの、武蔵野文化協会による雑誌「武蔵野」でも取りあげられている。下落合の「愛隣園」は、それだけ当時の話題性が高かったのだろう。1918年(大正7)に刊行された「武蔵野」10月号収録の、近藤春夫による『東京郊外の小田園都市』によれば、電気料金が安いのは「会社から安く買つて供給」しているからで、片山のアポロ鉄工場が大口契約していた電力を、廉価で「愛隣園」に供給していた様子がうかがえる。
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 さて、片山廣斗から影響を受けた諏訪谷の北側に建つ下落合604番地の浅川家は、どこにミニ文化村を開発していたのだろう。浅川家は、こちらでは佐伯祐三「下落合風景」シリーズに登場しているタブロー「浅川ヘイ」(行方不明)の屋敷のことで、下落合623番地に建つ曾宮一念アトリエの、道路を隔てた東隣りの屋敷だった。浅川邸の東側には、空中写真や地図を見ると、整然と区画割りされた敷地に大きめな邸宅が並んでいるので、同邸の東側一帯なのかもしれない。

◆写真上:「愛隣園」に建つ西洋館の1棟で、右手に見えている電柱の向こうが現在の近衛町通り。当時、通りの東側には宅地造成を終えた空き地が拡がっていた。
◆写真中上は、1918年(大正7)作成の1/10,000地形図にみる「愛隣園」と周辺。は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる「愛隣園」界隈。は、片山廣斗が「愛隣園」開発で注力した下水側溝と簡易舗装の二間道路で突きあたりが現・近衛町通り。
◆写真中下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる下落合906番地のアポロ鉄工場。中上は、ミニ田園都市にしては道幅が二間と広い「愛隣園」。中下は、夕陽を受けた閑静なたたずまいの「愛隣園」。は、住宅街の真ん中に設置された遊園地(小公園)で、樹木にはマツ・シイ・ヒノキ・サクラ・カエデ・ツツジなどが植えられている。奥に見えているレンガ造りの建物が、汲みあげポンプ2台と気圧タンク2基が設置された水道棟。
◆写真下は、レンガ造りの水道棟。は、1916年(大正5)に刊行された「建築工芸叢誌」19号(建築工芸協会/)と、1918年(大正7)に刊行された「武蔵野」10月号(武蔵野文化協会/)。は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合604番地の浅川邸とその周辺。
おまけ
 浅川家が開発したと思われる、1936年(昭和11)の空中写真にみる旧・浅川邸の東側一帯。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年04月01日 22:31
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントをありがとうございます。
    最近、ホシガメを散歩させる人をふたりり見かけました。
    それが、2匹とも30cmほどの大きな個体でした。
    2026年04月02日 10:02

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