「男ってゴミみたいだから掃き出した」と三岸節子。

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 おそらく、1953年(昭和28)の秋ごろのエピソードだろう。扇谷正造と織田昭子は、銀座でつづけざま三岸節子と出会っている。扇谷正造は、足元がおぼつかない足取りで菅野圭介を連れて歩く彼女と銀座4丁目で、織田昭子は電通銀座ビルの交詢社通りをはさんだ斜向かい裏、銀座6丁目で開店していたバー「アリババ」のカウンターで飲んだくれていた彼女だ。
 当時、「別居結婚」をしていた菅野圭介に愛人(画家・須藤美玲子)ができ、その経緯を「週刊朝日」の扇谷正造から聞かされた三岸節子は仰天している。また、菅野圭介が気の強い三岸節子へ離婚話を直接切りだせないため、須藤との再婚を朝日新聞と「週刊朝日」へリークして既成事実化しようとしたのも、彼女のプライドを傷つけた。まさに、料理が気に入らないと膳をひっくり返し妻を殴る、没主体的で気の小さなDV男ならではの行動だろう。この一連の出来事で、三岸節子は人間不信となり、軽井沢へ一時引きこもることになったといわれる。
 扇谷は、新制作協会の展覧会で三岸節子の出品作『くちなし』を観た帰りに、銀座4丁目で彼女と出あっている。また、新制作展は織田昭子も観ており、『くちなし』が「すごくすてきだった」と気に入っていた。銀座のマダムとしては、開催されている主要な展覧会の観賞や、評判となっている小説などの書籍、ときには顧客筋の職業に関連する専門書などにも目をとおしておかないと、文字どおり“お話にならない”商売だったのだろう。いまでも、銀座の高級クラブのホステスさんたちは、自身の客筋にあわせて勉強を怠らないようだ。いや、親がらみの柳橋や知人に芸者さんはいたけれど、銀座の高級クラブなど一度ものぞいたことがないので“伝聞”なのだが。
 織田昭子と対談する扇谷正造の回想を、1973年(昭和48)に産業能率短期大学出版部から刊行された、『扇谷正造対談集/あしたはあしたの風が吹く』から引用してみよう。
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 その少し前に新製作派(ママ:新制作協会)の展覧会があってね。三岸さん『くちなし』という作品を出していた。すごくいい絵なんです。(中略)/その絵を見た帰り、銀座へ行った。四丁目で(都電を)おり、ふっと立っていたら、三岸さんがやってきた。フラリ、フラリ、風に吹かれているみたいな歩き方だ。もっとも、三岸さん、足が悪いせいもあるけど、それは足だけではない。どうも心の安定がとれてないみたい。みると、菅野圭介氏が、二、三歩離れて歩いて来る。「おや、どちらへ」「これから浅草へ行くんです」。/で、たまたま社(朝日新聞社)の車を待たせてあるので、それをどうぞ、といった。二人は乗ったが、どうも、様子がただ事ではない。(中略)/無残な飲み方は、その直後なんで、何かピーンときた。その夜、三岸さんを鷺宮のお家までお送りした。帰りしなに「じゃ、さようなら」って声が、ひどくわびしく、悲しそうだった。(カッコ内引用者註)
  
 文中、三岸節子の「無残な飲み方」というのは、秋雨が降る夜の11時ごろ、扇谷正造が飲み屋へ寄ると閑散とした店内で、三岸節子がひとりで飲んでいたという情景だ。その飲み方というのが尋常でなく、「なんというのかな“無残”って感じだった」と回想している。
 この直後、「ピーン」ときた扇谷は菅野圭介に取材しているのだろう。菅野がリークした、「ボクたち結婚します」という宣言と、須藤美玲子と子どもの3人で撮られた写真が「週刊朝日」に大きく報道され、三岸節子は大きな衝撃を受けたのだとみられる。須藤美玲子は、菅野圭介より17歳も年下の27歳であり、三岸節子との「別居結婚はいわばガクブチでしかなかったのではないか」などと、須藤へのインタビューでいわれ放題だったことにも、かなり傷ついたにちがいない。
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 一連の騒動の最中だったのだろう、三岸節子は顔見知りの織田昭子が経営する、銀座6丁目にあったバー「アリババ」を訪れている。そのときの様子を、今度は織田昭子の証言で聞いてみよう。
  
 三岸さんとは、こういうお付き合いだったんです。わたしが林芙美子さんのうちに一年半ばかりお世話になっていた。そのとき、林さんが女流アンデパンダンというのに、F氏賞というのを出していた。三岸さん、それでよく林先生の家へお見えになってたもんですから……。わたしがああいうところで商売始めたというんで、何回かお見えになったんです。扇谷さんがお見えになる前に「男なんてゴミみたいなもんだから、掃き出してやったわ」っておっしゃって、飲んでいらしたわけなんですよ。(中略) その前にね「男ってどう思う?」っておっしゃられた。ちょっと、ただごとではない感じなのでね「今、わたしは男の方って、お客様としてしか考えません」。(中略)/そのあと「男ってゴミみたいなもんよ……」なんです。その言葉が非常に鮮烈でね、わたしにもよくその感じがわかるんです。男と女がうまくいかなくなっちゃって、それこそ、そうとでもいうほかない女の気持ちが非常によく出てるんですよ。
  
 バー「アリババ」でも、三岸節子はふつうではない飲み方をしていたらしく、織田昭子になんとなくからみそうな、危惧をおぼえる酒の勢いだったようだ。扇谷正造は、このあと三岸節子が早くに亡くした亡夫・三岸好太郎の作品を、戦後次々と買いもどしているのに触れて、三岸アトリエに付属する6畳の和室に、前夫の作品ばかりを集めては眺めていた様子を紹介している。そして、「これじゃ菅野君はたまらないだろうな」と感じたという。
 また、織田昭子は夜に灯りがともる菅野圭介アトリエへ、三岸節子が“突入”した話もしている。アトリエのガラス窓を手足でたたき割り、血だらけになりながら菅野啓介の前に、突然現れたことがあったようだ。織田昭子は、『嵐が丘』のヒースクリフにたとえて、「三岸さんガラスが見えなくなっちゃったんですね、バリバリと、その中を突き破って入っていった」、その一途なところにとても惹かれると話している。その話を受けた扇谷正造は、いきなりUFOの話をしはじめたのだ。
  
 そういう激しさをもった女性は三岸さんと死んだ森田たまさんだったね。日本人でこの二人だけが“空飛ぶ円盤”を見ている。森田たま氏は箱根の山中を歩いていてだ。パーッと閃光がひらめいて顔をあげたら円盤が飛んで行く。三岸さんはニースで見たって手紙をくれた。だから空飛ぶ円盤の見える女性というのはね、何か、こう“つかれたもの”を持っている。こういう女性はガラスなんて何でもない。
  
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 三岸節子や森田たまが、UFOの目撃談義をどこかでしているのか、わたしは寡聞にしてそのような資料は一度も見たことがないし、UFOを目撃した女性が「日本人でこの二人だけ」だともとうてい思えないが、憑かれたものをもつ女性とUFOを目撃することとの関係性が、まったく意味不明でわからない。なにかに熱中しがちな性格の人間は、脳内がドーパミン過多となりふだん見えないものが見えるようになるということだろうか。この対談は、料亭かどこかの酒席だったと思われるので、対談後半ともなると扇谷正造は、かなり“できあがって”いたのではないか。
 さて、織田昭子がマダムをつとめた新宿の中村屋裏にあった「ととやホテル」のバーと、彼女が経営していた銀座のバー「アリババ」については、東京を散歩する文学関係者をはじめ、さまざまな人たちが記録を残している。そんな中から、1959年(昭和34)にみかも書房から出版された、スペイン語学者の佐久間正『東京味どころ』と、1988年(昭和63)に泰流社から出版された、朝日新聞記者で銀座が故郷の水原孝『私の銀座昭和史』の2冊から、少しだけご紹介してみよう。
  
 「ととや」だけが群をぬいて、上品なバーだった。というのは、ふつうのレベルということでもある。いま銀座の「アリババ」のマダムである、作家織田作之助氏の未亡人昭子さんがいたために、“虚名”をはせすぎたきらいがあるが、バーというより、応接間かなんかで飲んでいる感じの、きさくな店であった。これも、最近は、「馬上盃」となり…… (佐久間正)
 外濠通りの電通のビルの裏にバーのアリババがある。/アリババのママは、作家織田作之助の最後を看取った織田昭子である。小学校が私より二級下、オカッパ、色白で黒い大きな瞳の美少女だった。旧木挽町歌舞伎座裏の商人の娘だけに、気っぷがよく、頭の回転が早い。いつ会っても昔と変わらない人柄のいいマダムである。 (水原孝)
  
 織田昭子は、歌舞伎座のある木挽町(銀座)で生まれ育ったのなら、おそらく芝居はあびるほど観ているだろう。舞台演劇をめざしたのも、子どものころからなじんだ芝居の影響かもしれない。
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 新宿東口のハモニカ横丁にあり、当時は新宿中村屋の裏手にあった「ととやホテル」(のち中村屋ビルと一体化営業)のバーが、上記の文中にあるように「ととや」だったのかどうかは不明だ。ホテルのバーなので、お客たちはホテル名をつけてバー「ととや」と呼んでいたのかもしれない。

◆写真上:木村伊兵衛が1949年(昭和24)に撮影した、銀座で商売をする靴磨き(部分)。
◆写真中上は、1973年(昭和48)出版の『あしたはあしたの風が吹く』(産業能率短期大学出版部)内扉()と、著者の扇谷正造()。は、1956年(昭和31)出版の織田昭子『マダム』(三笠書房/)と、著者の織田昭子()。は、バー「アリババ」の織田昭子(AI着色)。
◆写真中下は、バー「アリババ」があった銀座6丁目の道筋。正面を横切る道路が交詢社通りで、向かい右手にある濃い灰色のビルが銀座7丁目の電通銀座ビル。は、振り向いた背後の道筋。は、上鷺宮の三岸アトリエにある螺旋階段で撮影された菅野圭介(AI着色)。
◆写真下は、1953年(昭和28)10月22日発行の朝日新聞記事(改編集版)。は、1950年(昭和25)撮影の闇市に接した「ととやホテル」。は、1956年(昭和31)撮影の新宿中村屋裏の同ホテル。
おまけ
 織田昭子が見ていた、1948年(昭和23)4月撮影の新宿通り。この撮影から半年後、織田昭子は新宿中村屋の右手に見えている三角屋根の「ととやホテル」のバーにマダムとして勤務している。
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この記事へのコメント

  • てんてん

    (。・ω・)ノ゙ Nice‼です♪
    2026年06月27日 22:43
  • 落合道人

    てんてんさん、コメントありがとうございます。
    今回の台風は風も強く吹かず、知らないうちに通過していきました。
    2026年06月28日 11:08

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